秋の嵐(一)(二)

 9月の末から10月6日までの私の身辺の出来事を「秋の嵐」と題して綴り始めたところ「北朝鮮核問題」が発生し、(一)を出した直後にすぐ中断せざるを得なかった。

 本日は(一)(二)の両方を一緒に掲示することで連載を再開したい。

 
 秋の嵐(一) 

 晩夏から秋に入っても、今年は雨が多かった。10月6日には関東は嵐に襲われ、ある会合に出ていた私はタクシーを拾えず、ずぶ濡れになって帰った。

 9月は月の半分を軽井沢で過したが、雨ばかりだった。一夕知人を迎えて草津の温泉宿に遊んだ。が、その日も強い雨だった。

 浅間山の稜線がくっきり美しく明晰に見えたのは滞在も終りに近い最後の二、三日だけだった。私は山荘で独居し、読書ばかりしていた。選んだのはゲーテだった。暫らくして当「日録」のゲストコーナーに伊藤悠可さんが登場して下さって、書かれた文章の主題をみたらゲーテだったので私は偶然に驚いた。

 このところ私が日々何を勉強し、誰と会い、どういう会合や対談に参加しているか、「日録」らしい記録を提示していなかったので、9月末から10月6日の嵐の日までに身辺に起こった毎日の出来事を少し丁寧に語って、報告を兼ねて、近事の感懐を述べておきたい。

 今年の6月イギリスを旅行したときにエミリー・ブロンテ『嵐が丘』の古跡を見る予定になっていたので、この長篇小説の新潮文庫訳を持参し、往路の機内とバスの車内で全巻を読み切った。むかし子供向きのあらすじを綴った簡略本でしかこの小説をまだ読んでいなかったからである。

 しかし感動は乏しかった。30歳で病死した若い女性の頭の中の妄想がこの小説の内容のすべてではないかとさえ思った。最後まで読ませるのは構成がよく出来ているせいである。登場人物がすべて異常人格で、語り手の老女だけが僅かに人間としてまともである。こんな世界はどうみても不自然である。

 昭和の初期に西洋の長篇小説に対抗できない日本の文壇は、「私小説」は小説でないといって自嘲ぎみに自信を失っていたが、誰かある作家がこう言ったものだ。「西洋の長篇小説は要するに偉大な通俗文学である。」

 『嵐が丘』は復讐ドラマとしてみても観念的で、一本調子で、この世にあり得ない話である。あれだけ長い作品の中に、人間や人生に関する深い観察のことばがまったくといっていいほど出てこない。全篇これ若い女の妄想の域を出ていない、と言ったのはそのような意味をこめて言った積りである。

 軽井沢で読んだゲーテはドイツ語の格言集や日本語翻訳の長編小説などいろいろあるが、『親和力』を望月市衛訳で久し振りに読み直した。私も年をとって発見したのだが、小説の上手下手、出来映えの良し悪しではなく、人間や人生に関する含蓄のある観察のことばが随所にあるか否かが、作の魅力のきめ手である。

 ゲーテは人間をよく観ているな、とたびたび思う。が、意地悪な眼でじろじろ見ているのではない。何処を引用してもいいが、こんな例はどうか。


 「それはたいへん結構なことです。」と助教は答えた。
 「婦人はぜひとも各人各様の服装をすべきでしょう。どんな婦人も自分にはほんとうはどんな服装が似合い、ぴったりするかを感じ得るようになるために、誰もがそれぞれの服装を選ぶべきでしょう。そしてもっとも重要な理由は、婦人が一生を通じてひとりで生活し、ひとりで行動するように定められているからです。」

 「それは反対のように考えられますわ。」とシャルロッテは言った。
 「わたしたちはひとりでいることは殆どありませんもの。」

 「確かに仰しゃるとおりです!」助教は答えた。
 「他の婦人たちとの関係においては、そのとおりです。しかし愛する者、花嫁、妻、主婦、母親としての婦人をお考えになって下さい。婦人はいつも孤立し、いつもひとりであるし、ひとりであろうとします。社交ずきな婦人もその点では同じです。どの婦人もその本性からして他の婦人とは両立できません。どの婦人からも女性のすべてが果さなくてはならない仕事の全部が要求されるからです。男性にあってはそうではありません。男性は他の男性を必要とします。自分がほかに男性が存在しなかったら、自らそれを創造するでしょう。婦人は千年生きつづけても婦人を創造しようとは考えないでしょう。」

 よく日本の小説について女が描けているかどうかが取沙汰される。例えば漱石の『明暗』は男を全然描けていないが、女は良く描けている、などと。しかしゲーテが何げない登場人物に語らせているこの対話は、女が描けているかどうかの話ではない。

 私は詳しく解説する積りはない。読者はオヤと何かを感じ、考えるだろう。ことに女性の読者は大概納得するだろう。否、男性の読者もわが母、わが妻、わが娘を見て、あるいは職場における同僚の女性の生活を見て、正鵠を射ているなときっと思うだろう。

 女性の強さも、悲しさも、けなげさも、そしてその確かさも全部言い当てていると恐らく思うだろう。女性を突き離しているのではなく、包みこむようにして見ているゲーテの大きさをも感じるだろう。

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 秋の嵐(二)

  『親和力』はゲーテの作品の中では珍しく小説らしい首尾の整っている一作である。ほかに、『若きヴェルテルの悩み』くらいしか小説として迫力のある作品はあまりないといっていい。

 物語としての出来映えを言い出したらゲーテの小説は大概落第である。舞台作品だって迫力の点でシラーにかなわない。『ファウスト』は舞台にかけるとあまり面白くない。ことに『ファウスト』第2部の上演はいつもそれ自体が問題である。

 ゲーテは作品に結晶度が現われる作家ではなく、彼の人生そのものが作品だといえばいちばん分り易いかもしれない。『嵐が丘』の作家とは丁度正反対である。ゲーテの作品の中では失敗作も十分に魅力ある構成要素をなすという意味でもある。

 なぜこんなことを今日しきりに言うのかというと、私が急にゲーテを読み出したことも関係があるが、ゲーテの生涯の中で失敗作が山ほどあって、しかも彼の文学全部を象徴するような位置を占めるある重要なテーマが、十分に扱われないで今まで放置されてきているからである。

 10年ほど前に私が関心をもって、「私の書きたいテーマ」というアンケート誌に答えていたのを『諸君!』編集長が覚えていて、「次の連載にあれをやってみませんか」と誘われた。そして私は今にわかにその気になり出している、そういうテーマがある。

 「ゲーテとフランス革命」がそれである。

 フランス革命はゲーテの後半生を蔽った大事件であった。彼は心を強く揺さぶられ、いつまでもこだわりつづけた。

 彼は革命を嫌悪し、否認した。ゲーテは恐らく近代史において最も高貴で、最も深慮に富んだ、言葉の最高の意味における保守主義者であって、エドマント・バークの比ではない。

 革命をめぐる数多くの散文や劇を書いたが、ことごとく失敗作である。時代とどうしても一致しない何かがあった。彼は18世紀を生きた人で、19世紀以後を拒絶した。しかし、自分の目の前で起こる秩序の破壊に深く傷つき、いくどもそのテーマに立ちもどって、文学上の失敗を繰り返した。

 彼はナポレオンに会って救われる思いがした。秩序を回復してくれたからである。彼は革命だけでなく、ナショナリズムも嫌いで、ドイツの解放にも同情的でなかった。むしろウィーン会議でヨーロッパの秩序を再び建て直したメッテルニヒに期待し、好意を抱いた。

 ゲーテにとって「秩序」とは何だったのだろう。単純に政治的な「反動」の意味にこれを解釈したならば、今までのゲーテ論の過誤を繰り返すことになる。

 ゲーテの往きつ戻りつした文学的失敗の反覆の中に、恐らく問題を解く秘密がある。

 フランス革命との格闘の歳月は、ドイツ文学史によってゲーテが道を踏み誤った一時期として切り捨てられ、顧みられなかった。日本のドイツ文学者に至っては問題それ自体に気がつかなかったほどだ。まさにそのように隠されてきた心の秘密を私は知りたい。

 研究書めいた書き方ではなく、自由評論めいた書き方で展開したいのだが、それでもいざ始めるとなるとこれは容易ではない。時間がかかる。

 私の準備は始まっている。(1)このテーマに関するゲーテの作品、箴言、書簡、当時のワイマル宮廷とドイツの状況の調査・文献を蒐める。(2)フランス革命の歴史研究書を蒐める。(3)ゲーテの全体像を深める。(4)フランス革命からロシア革命をへてソ連崩壊の今日までの歩みをみて革命とは何であったかを考える。

 以上のうち(1)(2)(4)は比較的簡単である。もう半ば揃え終ったともいえる。考えも重ねてきた。しかし(3)がむづかしい。

 (3)は私の文章の背後からにじみ出るもので、それだけに付け焼き刃はきかない。「秩序」という概念も、ゲーテにとっては政治的な意味ではあり得ない。

 一見政治的にみえても――政治的側面も持ってはいるが――そこには彼の自然観や宗教観が反映しているはずである。18世紀にあって19世紀以後になくなった秩序。うまく言葉ではいえないが、人間と自然、人間と人間との間にあった自足的で、調和的な、個人の節度と社会の位階序列と宇宙感情がほどよく釣り合った関係の全体である。

 ヨーロッパ文明はフランス革命以後、200年間この「関係」を破壊しつづけてきた。日本もその潮流に棹さしている。

 そして200年たった今、18世紀人ゲーテの、フランス革命拒絶の意味が感覚的にも、思想的にもずっとわれわれの身近になってきたように思えるのである。

 ゲーテ以外に他のドイツの同時代人は、ヘーゲルも、フィヒテも、ヘルダーリンも、みなフランス革命に熱狂し、興奮した。

 ゲーテの心も震えていたが、逆の方向へ向けてであった。彼の抵抗と冷静は半端なものではなかった。

 そこにわれわれが今共感し、心をひそめて向かっていくべき「高貴とは何か」の鍵がひそんでいるように思えてならないのである。

つづく

北朝鮮核問題(五)

足立誠之(あだちせいじ)
トロント在住、元東京銀行北京事務所長 元カナダ東京三菱銀行頭取

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< 米国と中国と北朝鮮の関係>

 「朝鮮戦争なかりせば、台湾解放は1950年に片付いていた」と言うのが多くの中国人の本音であろう。中国空軍のパイロットだったある人が冗談まじりに「台湾海峡の上を飛んでいると思っていたら、鴨緑江の上でした」と語ってくれたものである。日本の左翼は朝鮮戦争を米国の陰謀と唱えたが、中国で聞いた本音は、以上のようなもので、「金日成は迷惑なことをしてくれた」というものであった。然し、国境の向こうに同じ体制の国が存在することは、国の防衛上不可欠なのである。それが「中朝地の団結」である。

 中国はその後、改革開放政策もあり韓国と国交を結ぶ。一方、北朝鮮は、日本人を拉致し、ビルマでの韓国閣僚テロ、大韓航空機事件などテロを繰り返し、核開発に踏み切る。クリントン政権は米朝合意で核開発を放棄させたつもりであった。北朝鮮はそれに違反して今日に至っている。

 既に6ヶ国協議が始まった後の2004年6月の第二回議会宛報告書で、USCCは北朝鮮の核危機について、「経済など実質北朝鮮の生殺与奪を握っている中国に圧力をかけさせ、北朝鮮に核放棄をせしめる」ことを議会、政府に勧告した。

 問題はいかにして中国に北朝鮮への圧力をかけさせるかである。

 一方、日本では報道されていないが、NORINCO(北方工業総工司)など中国の国有企業はイランなど懸念国へ、大量破壊兵器及び運搬システム(WMD・DS)の輸出を行っており、ブッシュ政権は制裁を実施していた。だが、違反行為は一向に収まらない。そのため、同じ報告書で、USCCは制裁内容の強化を勧告した。

 この二つの勧告に沿う動きは、2005年に開始される。

 6月ブッシュ大統領はエクゼクテイブ・オーダー13382(Executive Order, 大統領執行命令13382)を施行する。これは、WMD・DSを輸出したものとそれを金融などで援助したものの在米資産を凍結する権限を財務長官に与えたものである。

 更に、9月、米国は愛国者法に基づき、マカオのバンコ・デルタ・アジアに、北朝鮮の不正取引にかかわる預金口座を凍結させた。北朝鮮はこれにより大打撃を蒙り、米国に直接対話を要求するが、上記勧告に沿い、米国は微動だにしていない。

 2006年になると、中国外交に変化が起き始める。

 先ず、5月国連安保理のスーダンに係わる決議に同意したのである。ちなみに、スーダンの中央政府はアラブ系が握るが、この政府軍とアラブ系民兵が南部のアフリカ系住民のジェノサイド(民族・人種浄化、殺戮)を繰り返し、犠牲者は50万人に及ぶと言われる。国連安保理はその阻止のために経済制裁の実施を行なおうとするが、スーダンの石油利権を押さえ、偽装した軍隊まで派遣しているとされる中国がスーダン政府を支援し、拒否権をちらつかせるため、解決は常に頓挫してきたのである。しかし、ようやく曙光が見え始めた。

 又、中国銀行は北朝鮮の不正取引にかかわる資金取引停止で米国に協力を約した。次いで7月の北朝鮮のミサイル実験に対する安保理非難決議に加わった。同じ月イランのウラン濃縮停止にかかわる安保理決議にも加わった。これは、北朝鮮、(特に)イランに対する従来の中国の方針を転換させるものとなる。

 そして今回の北朝鮮核実験に対する安保理制裁決議への参加である。

 中国の一連の動きには、米国の働きかけが。愈々効果を上げてきたのではないかと感じられる。
前記エクゼクテイブ・オーダー13382が発動され、中国国有企業、中国の銀行の在米資産が凍結されれば、中国経済は崩壊の危機に晒されるであろう。

 中国経済の実態は、元上海総領事(故)杉本信行氏著「大地の咆哮」(PHP研究所)に詳しい。一例を挙げれば、東京には20階以上の高層ビルが100棟立っているが、上海には実に4000棟もあるという。上海は揚子江の運んだ泥が堆積した土地であり高層ビルを建てるのには、地下に相当数の鉄パイプを打ち込まなければならないし、それでも不十分だそうである。ところがほとんどの高層ビルはそんなこともせずいきなり建てられている。中国のビルはエレベーターも少ない。いずれビルは傾き、殆んどのビルのエレベーターは動かなくなるであろう、と記されている。そうなると高層ビルは使えなくなり、融資した銀行は膨大な不良債権を抱えることになるというのである。これは同書の”ほんの一部”であり、しかも杉本氏の本が中国の問題点の総てを網羅しているわけではない。

 ただ、エリート外交官の書いた同書の持つ意味は重い。

 USCCの公聴会証言によれば、中国の健康保険制度、年金制度など社会のセーフティーネットは崩壊しつつあり、その結果、苦しむ人々を救うためにあちこちに、”草の根”NGOが誕生、活動しており、その団体数は今や30万から70万に及ぶと言われる。その多くは海外からの援助を受けているらしい。

 中国自体問題が山積しており、安定とは程遠い状態にある。

 日本では、政治家やメディアは靖国問題が中国問題であるかのように唱えるが、靖国問題は、これら中国の山積する深刻な問題から、日本人の関心を遮断するための方便の意味合いの方が強いことは明らかである。

 東ヨーロッパの共産主義体制の崩壊は、ハンガリーでの自由の拡大が端緒であった。それから、東ドイツ国民のハンガリー経由の大量脱出が始まった。そして、ベルリンの壁の崩壊、ドイツ統一、全東ヨーロッパの共産主義体制崩壊、ソ連崩壊につながったのである。

 今中国は、北朝鮮問題でジレンマに陥っている。

 本音は、何もなしにそっとしておいて欲しいであろう。然し米国の圧力、日本の要求で、北朝鮮問題の処理に向かわざるを得ない。

 これからは、全くの推定である。中国にとって、現状維持以外のベストシナリオは、(病気でも、何でも理由はよい)金正日を亡命などで政権からおろさせ、朝鮮半島非核化させ(註:本当は中国にとってどうでも良いのであるが)、そのかわり、北朝鮮を実質中国の保護国化することであろう。

 ちなみに前記2003年7月公聴会で証人の一人は、「いざとなれば中国解放軍は北朝鮮に進駐するであろう」と述べている。米国は、当然そういったいくつかのシュミレーションを描いている筈である。

 注目されるのは、7月のミサイル実験に対する安保理非難決議は、日本が主導しているように見えたが、今回の核実験への制裁については、完全に米国の主導で行われていることが明白なことである。それは米国が、何らかのシナリオにそってうごきはじめたのではないだろうか。

 あるいは、米中間で虚々実々の取引が続いているのかもしれない。

 中国にとり、なによりも、処理が波風立たずにスムースに行くことが肝要なのである。さもなければ、東ヨーロッパで起きたことが、アジアで再現しかねないからである。

 こうしてみれば、北朝鮮問題は中国問題でもあるのである。

 韓国外交通商相の国連事務総長選出なども、最近の韓国の”太陽政策の変更”その他で、米韓の間に何らかの了解があったことも想像される。

 これから数ヶ月、北朝鮮(むしろ金正日政権)にとっては正に存亡の秋である。中国も万一に備え、準備を整え、体制の引き締めを図るであろう。

 勿論日本にとって、これからの数ヶ月は、正に国家、民族の運命を決めるときとなる。

 銘記すべきは、日本を標的とする200発以上のノドンミサイル総てに核弾頭を装備することを絶対に阻止し、北朝鮮から核とミサイルを一掃させ、拉致された日本人全員を救出することである。機会はこれ一度しか残されていない。

北朝鮮核問題(四)

足立誠之(あだちせいじ)
トロント在住、元東京銀行北京事務所長 元カナダ東京三菱銀行頭取

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最初で最後の機会

 振り返れば、何と多くの貴重な時間、機会が失われてきたことだろうか。結局、その多くは、現実離れした座標軸に基づく甘い絵空事と、尤もらしい語り口で、迫り来る危機を覆い隠し、北朝鮮に時間稼ぎをさせただけであった。その結果、我々は今日の危機を背負い込むことになったのである。

 月刊誌「現代」の2000年2月号に掲載された、加藤紘一氏と田中秀征氏の対談の一部をご紹介しておきたい。

加藤:北朝鮮については拉致事件の解決が何としても必要です。しかし、事件解決が国交正常化の条件だとして会うことまで拒否していては、話は前に進まない。早期解決のためにも、まず交渉のテーブルに着くべきですね。「テポドン」が飛んできて日本中がパニックになったんですが、冷静に考えれば、核弾頭を積んでいるわけではないし、そもそも核兵器の開発などできているはずがない。

 他方、中国は「テポドン」の何十倍の射程距離を誇る大陸間弾道ミサイルを持ち、しかも高性能核弾頭まで開発している。それでも我々が平気でいられるのは、中国とコミュニケーションがあるからです。だからまず北朝鮮を早く国際常識の場に引っ張り出すことが重要だと思います。

田中:コソボの民族紛争は600年前の戦いに由来しているそうだけど、日本と朝鮮半島が同じ轍を踏んではいけない。後世のためにも、お互いに譲り合って関係を正常化すべきだと思う。野中さんが「最後の政党外交だ」と言っているのはその決意の表れだと思うし、是非とも実らせて欲しい。

加藤:あの超党派訪朝団は村山団長と野中さんの良好な関係があって、そこに野中さんの執念が加わって実現したんですね。(以下省略)

 同じ2000年、米国はどうであったか。
 
 同年10月、米国議会は、USCC(U.S.-China Economic &Security Review Commission,米―中国経済安全保障レビュー委員会)を設置した。クリントン政権下の米中蜜月時代、WTO加盟予定で、バラ色の中国ブーム到来の当時に、経済発展が伴う、中国の脅威の増大を予測し、議会は敢えてUSCCを発足させたのである。

 公表されたUSCCの議会宛報告書、公聴会議事録には、クリントン時代から中国の国有企業が、拡散防止協定に違反し、イランなど懸念国へ、大量破壊兵器及びその運搬手段(Weapons of Mass Destruction and Delivery Systems, 以下WMS・DSと略す)を輸出していた事実が記されている。

 2002年には、北朝鮮が、クリントン政権時代の米朝枠組み合意に違反し、核開発を進めていたことが判明した。次いで、北朝鮮は非拡散協定からも脱退したのである。

 これに伴い、米議会は北朝鮮問題をUSCCに委嘱する。

 2003年7月USCCは「中国企業のWMD・DS拡散行動と北朝鮮の核危機」に関する公聴会を開催、オルブライト前国務長官をはじめ多くの証人が出席した。この中に、注目すべき場面がある。

 証人の一人(外交官)が、「北朝鮮の核保有は、米国、韓国、中国国の直接的な脅威にはならない。直接脅威になるのは、北朝鮮のノドンミサイル100基(当時)の標的になっている日本である」と述べたのに対して、USCCのドレヤー委員が「この公聴会は日本のためにやっているのか」とたしなめ、議論を米国の国益に引き戻す一幕があった。ここに日米安保についての米国の受け止め方が窺えよう。

 従来の日本の安全保障論議は、「万一北朝鮮が日本を核攻撃すれば、米国の核による反撃で自国が徹底破壊されるから、北朝鮮は日本に核攻撃しない」という前提に基づいていた。しかし、北朝鮮が、日本が描くような シナリオ通りに動く国であるか。今は不明である。それに加えて、米国が、北朝鮮の対日核攻撃に直ちに核で反撃するかについても米国の国益が優先することを忘れてはなるまい。

 今回の北朝鮮核実験に対して、米国、中国、ロシアなどを含め安保理事国すべてが、ともかく日本の希望した対北朝鮮制裁実施で一致した。

 関係各国は自国の国益に沿って行動するものであり、各々の国の事情を考えれば、この問題で全会一致などということは、ほとんど奇跡に近いことであり、滅多にはおきないことを、噛み締める必要がある。

 繰り返すが、これは殆んど奇跡に近いのである。偶々各国の、国益がこの制裁決議で一致しただけであり、こんなことは二度とないであろう。

 米国や中国、ロシアそして韓国にとって、北朝鮮の核保有はそれほど脅威にはならないことは、既述の通りで、最も脅威を受けるのは日本なのである。

 前記公聴会で、証人の一人は、「米国への脅威は、北朝鮮の核保有自体よりも、北朝鮮がテロリストに核を売却することにあるから、北朝鮮から核を購入してやればよいのではないか」と発言している位であり、今の米国の態度が今後どう変るかは状況に依存する。

 中国やロシアは、これまで、北朝鮮の核保有阻止にそれほど熱心ではなかったし、今後態度がどう変わるかは神のみぞ知る類の話である。

 日本はこの機会を失えば、二度とチャンスはない。これを最後の機会と考え、北朝鮮の完全な核放棄と拉致されている日本人全員の解放という、最終目標を目指すことに徹する以外選択の余地はない。

 この過程では、北朝鮮からの核攻撃の恫喝もあろう。北朝鮮は既にミサイルの弾頭に装填可能な小型核を保有しているとも言われる。それが日本に向け発射される可能性も皆無とは言えない。

 北朝鮮の恫喝が強まれば、自称リベラリストの宥和論が蠢き始めるであろう。

 ”平和を愛する、純粋”な怪しげな平和運動家、団体も動き出すであろう。

 いずれも、目前の危機を先延ばしすればよいと言うものとなろう。

 だが、それこそ、北朝鮮に時間稼ぎさせ、やがては、日本に向けられているノドンミサイル200発以上総てに核が搭載されることになる。

 その時は、総てが終わるのである。国連安保理の一致も、制裁も”夢のまた夢”になっていることは間違いあるまい。安保理のまとまりも吹き飛んでいよう。北朝鮮はもう手の付けられない核保有国になっているのであるから。

 今回こそ、北朝鮮からの核の完全放棄、拉致された日本人全員の解放、の最初で最後のチャンスとなろう。宥和論は200発以上の核ミサイルが日本を狙う道を開くことを銘記すべきである。

 日本民族の興廃は、正にこの数ヶ月にかかっている。

つづく

北朝鮮核問題(三)

――安倍政権は重点主義を――

 今日掲げるのはVoice10月号(9月10日発売)の拙稿「まずは九条問題の解決から」の全文である。

 自民党総裁選より前に次期総理は決まっていたという前提で、Voice誌が特集「安倍総理の日本」を組んだ。それへの短文の寄稿である。私は憲法改正について何か書けといわれたので応じた文章である。

 最近、海上の「臨検」をめぐって日本側の法の不備が指摘されている。またその調整が急がれているが、憲法の制約が障害の根本原因であることはみな承知している。

 13日シェーファー駐日大使が「日本の憲法上の制約をわれわれはよく理解している。臨検など、日本ができる範囲のことでわれわれに伝えればいい」というような発言をして、日本側を慰撫している。

 いかにも「親心」に見えるが、こういう温情を示され、それが当り前になって、この侭でいいのだとなることは、日本にとって危うい。日本をいつまでも仮睡状態にしておきたいのがアメリカ人の本音である。

 以下の文は今の時点での緊急提言になると思われるので、ここに掲載する。

 安倍総理には男系が維持できる皇室典範の改訂と、ここにこれから掲示する一点のポイントの憲法改正を実行して下されば、正直、他は何もしなくても良いとさえ考えている。岸信介氏の政権も60年安保改訂だけを実行した短命内閣だった。

 慾張って多くをしようと思わないで欲しい。ひたすら重点主義で行ってもらいたい。

日米安保体制はフィクション

 北朝鮮の七連発のミサイル発射は深刻な挑発でないはずはないが、あのとき私は目の前に薄い膜がかかって、なぜか白昼夢を見ている趣であった。不安が習慣化しているからである。1920年代に『日米もし戦わば』というような本が流行した。いつしか言葉は現実を引き寄せた。同じように七連発のミサイルもまだ相手が遊んでいるような、夢のなかの出来事のように思えているのだが、こんなことを繰り返しているときっといつしか現実になる。

 スカッド、ノドン、テポドンの行列は、次回は南に下ろして日本列島に一段と近づけるように威嚇するだろう。失敗したテポドンがハワイを射程内に入れていると知って米国は初めて本気になった。ハワイでは核攻撃を想定した防空訓練さえした。ノドンはとうの昔に日本列島を核の射程内に入れているが、日本国民は運命論者である。

 米国は日本列島を「マジノ線」のような自国の防衛最前線と見ているので、最初の着弾があって日本の都市の一つや二つが吹っ飛んだあとでなければ自ら攻撃はすまい。否、そういう場面になっても、テポドンがハワイやアラスカや西海岸に核弾頭を撃ち込める可能性を実験で証明した暁には、日本を見殺しにする可能性が十分にある。少なくともその段階になれば、一発のノドンの威嚇発射がなくても、日本は北の政治的影響下に置かれる。平和勢力が金正日礼賛に走り、日本の「韓国化」が始まるだろう。

 七発発射の直後に、外務大臣と防衛庁長官はミサイル基地への先制攻撃の可能性を憲法の許す範囲で検討すべきだと重い口を開いた。あの不安な瞬間にみんなそうだと思った。地対地ミサイルや長距離戦略爆撃機を具える準備態勢を急がなくてはいけない。なにも日本がすぐ攻撃するという話じゃあない。用意するだけである。いざとなったら先手を打って攻撃できなければ、防衛なんかできっこない。MD(ミサイル・ディフェンス)なんていってみても、95パーセント防衛できても5パーセント漏らしたら、全国が焦土になるのである。核武装を急ぐ国が増えているのはMDへの不信の証明であり、大国の核の傘への信用度も落ちている証拠である。

 加えて北朝鮮は半島南部のほぼ中央に大型ミサイル基地の建設を始めた。米大陸に届くテポドン開発を明らかに急いでいる。日米安保体制がフィクションとなる――もうすでになっていると思うが――ことが誰の目にも明々白々となる日が近づいている。

 歴史を振り返れば、日清・日露の戦争から日韓併合まで、朝鮮半島の情勢に欧米諸国は無関心であった。バルカン半島や中東には目の色を変えるのに、朝鮮半島で何が起きても彼らは興味を示さない。結局、日本が自分自身で解決しなければならなかった。いまでもその情勢は変わっていない。日本が自らの安全保障の必要から何とかしなければならない地域だ。いまどういう政策があるかは別として、地政学上のわが国の宿命的課題といってよいのかもしれない。

 ミサイル基地への先制攻撃の可能性に初めて言及した二大臣のせっかくの発言も、例によって首相の制止でサッと引っ込められてしまい、国連外交の場に移され、周知のとおり安保理決議に終わった。それで問題が終わったわけではない。日本の不安の解消は先延ばしにされただけである。しかるに、マスコミの空気をみていると、ああこれで良かった、肩の荷が下りた、といういつもの安堵の空気、何事もなかった無風状態に戻っている。ところが、『夕刊フジ』8月6日号は突然「日朝戦争シナリオ、日本人一億人死亡、列島地獄」という悪夢の記事、防衛アナリストの戦慄シミュレーションを掲げた。国民の心の奥に不安が重く居座ってきる証拠といってよい。

全面的改正は困難

 いたずらに騒ぎ立てるのは良くないと人はいうかもしれないが、日本の政治的知性の低さ、能天気ぶりを見ていると、問題の先送りはいつか来る破局を大きくするだけである。平時に危機を忘れない、は防衛の要諦であり、わが国の場合、冷戦を戦争として戦ってこなかったせいもあって、すべての用意があまりに遅すぎる。むろん、憲法が障害要因となってきたことはあらためていうまでもない。

 吉田内閣時代に改正しておけばよかった九条問題が未解決のままここに来て、厄介な問題が新たに発生している。すべて遅すぎたせいである。かつて自民党は自主憲法制定を党綱領に掲げた。いま自民党は憲法改正を目前のプログラムとしはじめているかにみえるが、全面的改正には幾多の困難が予想される。

 改憲はいいが、新しい権利を盛り込め、たとえば環境権だの、知る権利だの、プライヴァシー権だの、フェミニズムの権利だのの新設がさながら改憲の目的であるかのごとく論じ立てる人が現にいる。改正案には地方自治の考え方が不徹底だとか、行政の介入範囲が広く経済活動の自由が明確でないとか、そうした声が改正にこと借りて唱えられ、百家争鳴の観を呈し、いたずらに時間を要し、肝心の九条問題が棚ざらしにされるであろう。

 九条問題自体もまた国際政治の変化で厄介極まりない。米軍再編計画に示されているアメリカ軍のスリム化は、自衛隊をアメリカ軍の下に編入する可能性を探っているようにみえるし、アメリカが対テロ戦争を戦ううえで日本から一定の軍事協力を得る目的が、近年の憲法改正問題と切り離せないようにみえるとの声も一段と高まるだろう。はたして自主憲法改正といえるのか、との批判にどう抵抗できるのか。

 しかし自衛隊が正規の軍となり、自分の判断で先制攻撃をも決定できる独立性を一日も早く確立しなくてはならないのも、また焦眉の急である。わが国は苦悩の多い判断を迫られている。そこでよくいわれる提案だが、戦争放棄条項はそのままにして、「陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない」と定めた第二項、日本を縛ってきたこの矛盾極まりない項目だけを削除する提案を、憲法改正案の差し当たり全提案とする。これを北朝鮮情勢に不安を抱く国民の前に差し出し、投票に掛けることは、国民の合理的判断に訴えやすく、短時日にして理解を得られる可能性に道を拓くのではないだろうか。

北朝鮮核問題(二)

 前回の足立誠之氏の所論からいえるのは、米中両国が一つの方向に向かって動きだし、安倍首相の訪中訪韓はそのシナリオに沿って行われたということである。私もそう考えていた。

 中国の経済はいま瀬戸ぎわぎりぎりの資金欠乏に悩み、米国は中国の経済破産を望まず、さりとて中国に核兵器輸送の自由な活動などを決して認めない。

 米国は中国を生かさず殺さず、中国経済を破産に追いこまない代りに、北朝鮮の処理を米国の望む方向で中国に解決させようとしている。核実験という北の暴走は、これを実現するうえでいわば絶好の好機であったのかもしれない。だから暴走ではなく、核実験を含めて米国のシナリオだったという説があるが、そういう奇説を私は採らない。

 中国を生かさず殺さずにするには今の中国には資金の輸血が必要であり、米国にその余裕も、意志もない。米国はむしろ資金引き揚げに少しづつ向かっているときである。

 日本にまたしても期待される役割が何であるかは明らかである。安倍首相が小泉氏とは違って、北京で異例の歓迎を受けた理由は明々白々である。

 安倍氏が首相になって「真正保守」の化の皮が剥がれる変身をとげたのは、それ自体は驚くに当らない。私は前稿「小さな意見の違いは決定的違いということ」(二)で、「権力は現実に触れると大きく変貌するのが常だ」と書いたが、その通りになっただけである。

 ただそれにしても、歴史問題で彼が次から次へ無抵抗に妥協したのは、日米中の三国で「靖国参拝を言外にする」以外のすべてを事前に取りきめていたのではないかと疑われるほどの無定見ぶりだが、恐らくそうではないだろう。妥協なのではなく、あの政治家の案外のホンネなのかもしれない。

 政治家は思想家と違って行動で自分を表現すると前に書いたが、いったん口外した政治家の言葉は政治家の行動であって、もう後へは戻れない。村山談話、河野談話、祖父の戦争責任等の容認発言は、「戦後っ子」の正体暴露であって、恐らくこういうことになるだろうと私が『正論』10月号でこれまた予言した通りの結果になった。

 しかし解せないのは、中国は日本の資金を必要としているかもしれないが、日本はいま緊急に中国を必要としていない。国家の精神を売り渡すようなリップサービスをするまでの苦しい事情は日本にはない。

 とすれば、足立氏も書いている通り、また私が「小さな意見の違いは決定的違いということ」(六)()で示した通り、「中国とうまくやれ」という米国のサインに過剰に応じたのであろう。遊就館展示問題から従軍慰安婦問題まで米議会が介入して来た要請にひたすら応じ、中国にではなく、米国に顔を向けて、言わずもがなの発言を繰り返したと解するべきだろう。

 米国に対するこの種の精神の弱さは次に何を引き起こすであろうか。

 近づく2007年に郵政法案は実施される。そうなれば340兆円を擁する郵政公社は民営化され、民間会社になる。前にも私がさんざん言って来た通り、資産と運用は区別されることになっている。運用を外資に委ねることは民間会社の自由である。

 郵貯の金を外資に自由にさせないために法的歯止めをかけようとした議員たちは、「小泉劇場選挙」でみな落選させられたか、無所属に追いやられてしまった。竹中平蔵氏は一見退いたかに見えて、経済閣僚はみな彼の流れに属している。政策執行の上の直接の官僚組織に彼の手兵がずらりと配置されている。

 安倍内閣は竹中氏のいわば監督下にある。竹中氏がアメリカのエージェントであることはつとに知られている。そして、米政府の内部も最近陣容が変わり、金融政策家たちはゴールドマンサックス系で占められるようになってきた。

 ここから先は半ば私の推理だが、安倍首相の北京での歓迎は次の方向を示している。民営化された郵便貯金銀行の運用権がゴールドマンサックスなどの手に委ねられ、日本の国民のあの虎の子の巨額が中国に投資される可能性がきわめて高いと考えられる。穴のあいたザルのようなあの国にわれわれの大切な預金が投資されるのである。

 投資は経済行為であって、援助でも供与でもない。委託を受けた外国企業が何処で何をしようと日本国民に対し気兼ねする必要はないし、日本政府の関与の外である。

 日本の資本家もこれに参加し、利を求めて群がるだろう。景気はさらに上昇するだろう。良かった良かったと手を叩いて喜ぶ人もいるだろう。しかしいつバブルがはじけてご破算にならないとも限らない。

 靖国参拝を止めさせようと昭和天皇のご発語という禁じ手を使ったのは他のどの新聞でもない、『日本経済新聞』であった。

 この国の資本家たちには愛国心も、国境意識もない。彼らの意を受けている自由民主党は、日本の伝統や歴史を尊重する、言葉の真の意味における保守政党ではもはやない。

 私は安倍内閣の発足時に「教育改革」と聞いて課題を逃げているとすぐに思った。「教育改革」はたゞの掛け声に終るのが常である。お巫山戯めいたメンバーの名を見るまでもなく、内閣の政治宣伝効果の狙いを満たすことさえも覚束ないことは最初から分っていた。

 いつの時代でも、政治家が「教育改革」を言い出したときには、本気で何かをしないための時間稼ぎであり、見映えの良い前向きの大見栄を切ってみせたいポーズであり、パフォーマンスの一種であると思ったほうがいい。

 中国経済のバブル崩壊は近いと噂されているこの時期に、日本国民の永年の勤勉の結晶が、米国投資家の手をぐるりと回って中国に投資される可能性を、私はまず第一に心配している。安倍内閣がやりそうなことだからである。われわれの汗と血の結晶はあの大陸の荒野に吸いこまれて空しくなるのである。

 第二の心配は、米国が日本にMD(ミサイル防衛網)を押しつけ、大金をまき上げ、しかるうえに軍事情報の中枢をいっそうしっかり握って、日本を押さえこみ、中国にその分だけ恩を着せるという構造が固定化されることである。

 朝鮮半島の非核化よりも日本の非核化のほうがはるかに彼らにとって重大な関心事のはずである。

 北の核実験の宣言以来、一番気になるのは米国がどう最終政策を立てているのか、本当の腹が読めないことである。その点では悲しいことに金正日とわれわれはある種の仲間である。

 軍事制裁はしないと端(はな)から言っている米国は、中国と組んで金正日排除をほんとうにやる気なのか、それとも北に核保有国の地位を与えるつもりなのか、目的地は見えない。

 金正日を排除した後に、中国の勢力圏としての北の位置づけ(韓国中心の半島統一はしないこと)を米国がどう保証するかが、中国にとり問題の中心なのではないか。唐家璇前外相の緊急の訪米訪露はそこまで話合っているかどうか気になるが、これまたまったくわれわれには見えない。

 いずれにせよわれわれは袋の鼠である。国内が無責任になり、無気力になり、投げ槍になるのは当然であるのかもしれない。

 安倍首相はひとつでもいい、米国の指令ではない独自の外交政策を打ち出し、東アジアのリーダーの実をみせて欲しい。

 そうすれば100個の教育再生会議をつくるより、はるかに効果的な、はるかに強く国民を鼓舞する「教育再生」の有効な役割を果すことが可能となるであろう。

つづく

北朝鮮核問題(一)

 「秋の嵐」という新しい連載を始めたばかりですが、時局が急を告げているので中断し、「北朝鮮核問題」(一)(二)を掲げます。(一)は足立誠之氏のゲストエッセイ(緊急投稿)です。

足立誠之(あだちせいじ)
トロント在住、元東京銀行北京事務所長 元カナダ東京三菱銀行頭取

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 秒読み迫る北朝鮮情勢

 北朝鮮の核実験と、今起きている事柄を並べてみたい。

 今年に入り、国連安保理で、5月のスーダン決議、北朝鮮のミサイル実験に係わる決議案、イランウラン濃縮に関する決議案に中国は賛成した。従来これらの問題で中国は常に、拒否権をちらつかせ、障害となってきた。

 中国銀行は北朝鮮不正取引に係わる資金移動阻止で米国に協力を約した。

 日本では、何故「アジア外交の再建」が執拗に叫ばれるのか。又、何故、昭和天皇のご発言に係わる、富田メモが絶妙のタイミングで公表されたのか。

 米国議会は何故、唐突に民主党議員が「日本の次期首相靖国訪問しない」旨の発言を要求し、従軍慰安婦非難決議を下院委員会が行った。それが、安倍首相の訪中訪韓が決定すると、下院は、従軍慰安婦非難決議を取り下げた。何故なのか。

 米国が、米国の意図に背く、「太陽政策」を採ってきた反米韓国の、外交通商相の国連事務総長就任を何故認めたのか。裏になにもなかったのか。

 安倍政権発足と、急遽の訪中訪韓の決定。何故、中国は態度を急変させ首脳会談を受け入れたのか。これらの事柄は命脈のない出来事ではない。

<中国・北朝鮮関係>

 1949年、中国人民解放軍は中国本土から国民政府軍を駆逐し、10月1日、中華人民共和国の成立が宣言された。さらに台湾解放を準備しつつあった。1950年6月、北朝鮮軍は38度線を突破南下、韓国のほぼ全土を掌握する。米軍を中心とする国連軍が反撃し、鴨緑江、中朝国境に迫った。中国は義勇軍を派遣し、戦争は一進一退し最終的に38度線付近が停戦ラインとなる。

 中国の介入の理由は、周辺への影響力の維持である。

 しかし、朝鮮戦争により、台湾解放は未だになっていない。中国の北朝鮮への恨みは強い。(中国外交部スタッフ複数から聴取。朝鮮戦争は北朝鮮が起こした不必要迷惑な戦争であったというのが彼等の認識である)両国が口にする「地の団結」など表向きのことで、本来存在しない。

 共産主義国家北朝鮮は国境を接する中国には必要であったが、金日成は迷惑な存在であった。金正日はそれに輪をかけた迷惑な存在であろう。中国の援助、忍耐に甘えながら、米国との二国間関係を模索し、中国の意向に沿わない勝手な行動をとる。

 日本の制裁で中国の負担は益々高まりつつある。中国の寛容にも限度がある。

<米中関係> 

 中国は大量破壊兵器・運搬手段を懸念国へ輸出、米国はそれに制裁を加えてきた。しかしその政策の効果が上がらない。05年6月ブッシュ大統領はExecutive Order 13382 を施行し、違反企業、それを金融などで支援した企業に対する在米資産凍結権限を財務長官に付与した。それまで中国は、中国領土内の空港、港湾、鉄道などの施設を自由に使わせており、北朝鮮から、ミサイルなどの輸出も放任されていた。それは不可能になった。

 中国企業の米国内での資本市場で、IPOなどでの資金調達がほとんどできなくなった。中国国内資本市場は殆ど機能していない。中国の金融機関の不良債権は、極めて危険な段階にある。

 中国の国内では、国有企業のリストラ、農村の崩壊で、健康保険、年金などのセーフティーネットが崩壊した。これをカバーする”草の根”NGOが中国全土で動き出し、その資金は海外(主に米国と思われる)から出ている。中国自体の存続すら危うい状態である。一方、中央の権力闘争も、上海市総書記の汚職がらみの解任などで、激しさを増している。胡錦濤政権は、危うい中で生き残りを図っている。ともあれ、米国の対中包囲網の威嚇は強まるであろう。

<米国の北朝鮮問題政策> 

 クリントン政権の”米朝枠組み合意”は失敗した。USCCは北朝鮮の核問題への対応政策を中国に行わせることとした。

 経済など北朝鮮の生殺与奪は中国が握っていることから、中国に圧力をかけて、問題を解決させることを基本政策として定めた。その圧力は如何にしてかけるのか、それが、鍵であろう。

 昨年9月の中国国籍Banco Central Asiaの北朝鮮資金凍結は、先ず、Banco Central Asiaの持つ米国内資産凍結から始まる。Banco Central Asiaは自ら保有する北朝鮮のマネーローンダリング口座を凍結しない限り、同銀行の在米思案が凍結されることになった。中国銀行が北朝鮮の不正取引に係わる資金取引阻止に協力しない限り、中国銀行の在米資産凍結の危険が常に存在することになる。中国銀行は、北朝鮮の不正資金の凍結協力せざるを得なくなった。協力しなければ、中国銀行の在米資産は凍結され、中国経済は万事休すとなる懸念すら孕む。

 米国の大義名分は北朝鮮の核武装、人権、日本人拉致と固まりつつある。

 米国のExecutive Order 13382 で、北朝鮮の中国経由のミサイル輸出は困難になり、愛国者法による北朝鮮の不正取引にかかわる金融制裁、日本の北朝鮮に対する経済制裁は、確実に北朝鮮を追い詰めつつある。

<秒読みに入る米国の対北朝鮮処理>

 北朝鮮の核実験は、米、中、韓いずれにとっても、金正日の追放の大義名分は整った。

 何よりもこれは、イラクで苦戦するブッシュ政権にとって起死回生となる。

 米国は、中国、日本、韓国を巻き込み、北朝鮮処理の最終段階に入りつつある。

 中国は、北朝鮮への自国の影響力が及ぶ、緩衝地帯が北朝鮮に存在すれば、金正日政権でなくともよい。満州吉林省には、朝鮮族自治区もある。傀儡政権も考えられる。韓国政権はレームダックとなった。日本に金正日政権の崩壊に反対する勢力は皆無である。米国が日本に靖国、従軍慰安婦の唐突な要求は、「急いで中韓とうまくやれ」のシグナルである。それがどうやら成功しつつある。

 米国が望むのは、最早6カ国会議の再開ではない。北朝鮮による、核実験の実施である。朝鮮半島問題、東アジア問題は大きく転換しつつある。

秋の嵐(一)

 晩夏から秋に入っても、今年は雨が多かった。10月6日には関東は嵐に襲われ、ある会合に出ていた私はタクシーを拾えず、ずぶ濡れになって帰った。

 9月は月の半分を軽井沢で過したが、雨ばかりだった。一夕知人を迎えて草津の温泉宿に遊んだ。が、その日も強い雨だった。

 浅間山の稜線がくっきり美しく明晰に見えたのは滞在も終りに近い最後の二、三日だけだった。私は山荘で独居し、読書ばかりしていた。選んだのはゲーテだった。暫らくして当「日録」のゲストコーナーに伊藤悠可さんが登場して下さって、書かれた文章の主題をみたらゲーテだったので私は偶然に驚いた。

 このところ私が日々何を勉強し、誰と会い、どういう会合や対談に参加しているか、「日録」らしい記録を提示していなかったので、9月末から10月6日の嵐の日までに身辺に起こった毎日の出来事を少し丁寧に語って、報告を兼ねて、近事の感懐を述べておきたい。

 今年の6月イギリスを旅行したときにエミリー・ブロンテ『嵐が丘』の古跡を見る予定になっていたので、この長篇小説の新潮文庫訳を持参し、往路の機内とバスの車内で全巻を読み切った。むかし子供向きのあらすじを綴った簡略本でしかこの小説をまだ読んでいなかったからである。

 しかし感動は乏しかった。30歳で病死した若い女性の頭の中の妄想がこの小説の内容のすべてではないかとさえ思った。最後まで読ませるのは構成がよく出来ているせいである。登場人物がすべて異常人格で、語り手の老女だけが僅かに人間としてまともである。こんな世界はどうみても不自然である。

 昭和の初期に西洋の長篇小説に対抗できない日本の文壇は、「私小説」は小説でないといって自嘲ぎみに自信を失っていたが、誰かある作家がこう言ったものだ。「西洋の長篇小説は要するに偉大な通俗文学である。」

 『嵐が丘』は復讐ドラマとしてみても観念的で、一本調子で、この世にあり得ない話である。あれだけ長い作品の中に、人間や人生に関する深い観察のことばがまったくといっていいほど出てこない。全篇これ若い女の妄想の域を出ていない、と言ったのはそのような意味をこめて言った積りである。

 軽井沢で読んだゲーテはドイツ語の格言集や日本語翻訳の長編小説などいろいろあるが、『親和力』を望月市衛訳で久し振りに読み直した。私も年をとって発見したのだが、小説の上手下手、出来映えの良し悪しではなく、人間や人生に関する含蓄のある観察のことばが随所にあるか否かが、作の魅力のきめ手である。

 ゲーテは人間をよく観ているな、とたびたび思う。が、意地悪な眼でじろじろ見ているのではない。何処を引用してもいいが、こんな例はどうか。


 「それはたいへん結構なことです。」と助教は答えた。
 「婦人はぜひとも各人各様の服装をすべきでしょう。どんな婦人も自分にはほんとうはどんな服装が似合い、ぴったりするかを感じ得るようになるために、誰もがそれぞれの服装を選ぶべきでしょう。そしてもっとも重要な理由は、婦人が一生を通じてひとりで生活し、ひとりで行動するように定められているからです。」

 「それは反対のように考えられますわ。」とシャルロッテは言った。
 「わたしたちはひとりでいることは殆どありませんもの。」

 「確かに仰しゃるとおりです!」助教は答えた。
 「他の婦人たちとの関係においては、そのとおりです。しかし愛する者、花嫁、妻、主婦、母親としての婦人をお考えになって下さい。婦人はいつも孤立し、いつもひとりであるし、ひとりであろうとします。社交ずきな婦人もその点では同じです。どの婦人もその本性からして他の婦人とは両立できません。どの婦人からも女性のすべてが果さなくてはならない仕事の全部が要求されるからです。男性にあってはそうではありません。男性は他の男性を必要とします。自分がほかに男性が存在しなかったら、自らそれを創造するでしょう。婦人は千年生きつづけても婦人を創造しようとは考えないでしょう。」

 よく日本の小説について女が描けているかどうかが取沙汰される。例えば漱石の『明暗』は男を全然描けていないが、女は良く描けている、などと。しかしゲーテが何げない登場人物に語らせているこの対話は、女が描けているかどうかの話ではない。

 私は詳しく解説する積りはない。読者はオヤと何かを感じ、考えるだろう。ことに女性の読者は大概納得するだろう。否、男性の読者もわが母、わが妻、わが娘を見て、あるいは職場における同僚の女性の生活を見て、正鵠を射ているなときっと思うだろう。

 女性の強さも、悲しさも、けなげさも、そしてその確かさも全部言い当てていると恐らく思うだろう。女性を突き離しているのではなく、包みこむようにして見ているゲーテの大きさをも感じるだろう。

ゲーテの神に立ち返って――(2)

伊藤悠可
記者・編集者を経て編集制作プロダクトを営む。
易経や左伝の塾を開講

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 小林秀雄の作品に美しく哀しい詩魂が宿った「モーツァルト」がある。冒頭にゲーテが魔神的なものの力に畏怖する描写が置かれている。私は大学時代に失恋し、このまま死んでしまうかもしれないと思っていたとき、「モーツァルト」に出会った。

 まるでフォークソングの『神田川』だと思われるかもしれないが、人間には絵に描いたようなことが起こるのだ。中野坂上の駅から西方に歩き、青梅街道の角を南に折れると狭い路地へと抜ける。下宿するアパートの手前に、のれんを降ろしかけた深夜の時刻でも「おばさん、ごめん!」と言えば入れてもらえる銭湯があった。私はその斜向かいのパン屋の赤電話で好きだった人の最後の声を聞いた。

 後方から湯を流す音や桶がぶつかる音が響いていた。ズボンのポケットには昼間用意した十円玉が沢山残っていた。二月の夜風が冷たかった。私は野良犬のようにその辺を歩き回って部屋に帰った。その夜から幾日、何をしていたのか覚えていないが、文庫本の「モーツァルト」を偶々、本屋で見つけて帰ってむさぼり読んだ。だから「モーツァルト」は私にとって傷心の本である。抱いて寝た本である。ゲーテは「恋愛」というものにはとくにダイモーンが襲うと書いている。もう襲われたくない。

 少し脱線した。ドイツ人は寝ても醒めてもゲーテ、ゲーテであるかのように錯覚する日本人が多いが、そうではないそうである。ドイツ人はゲーテをあまり読まないと聞いている。名前は誰でも知っているが、日本人が鴎(區へん)外や露伴をあまり読まないのと同じであろうか。

 一九四九年にゲーテ二百年祭が行われたが、ゲーテを封建的な観念論者としてこきおろす学者のほうが多かったという。大きな存在は必ず非難され、こきおろされる。ゲーテ自身、こうも言い残している。「私の仕事は理解されないがゆえに、ポピュラーにはならない」。

 古典などを紐解き、「伝統と文化」の大切さを宣揚する団体が日本には少なくない。そうした団体の一つ、国民文化研究会は学生時代に私がもっとも感化を受けたところであり、そこに長く深い友人ももっている。古典を読みながら、世間のあらゆる団体よりも、日本の神々について知ろうとし、語り合おうとする真摯な組織であるが、肝心の神々の話となると戸惑うことがあった。

 例えば、この会ではこういうふうに教えてきた。

 ―――日本人、とくに戦後日本人の誤謬は、神といえば西洋人のゴッドを思い浮かべ混同してしまうことです。ゴッドと日本の神々は違う。われわれの神は、遠い建国の事業を成し遂げてきた祖先であり英雄たちなのです。私たちが思慕すればそのまま辿ることのできる人間なのです。

 果たして、日本人にゴッドを感得するセンスがあるだろうか。多くの日本人が神という言葉を聞いて、西洋の唯一絶対神を思念するだろうか。そこが問題である。むしろ、国民文化研究会の先生方が時代の中で身につけた先生方自身の錯誤や悔悟がそう結論付けるのではないだろうか。これは私の想像だが、「日本には神はない、西洋に神はある」という空気を時代の中で一度吸ってきた人たちが、反省的に考えたのではないだろうか。

 先生方にはゴッドに対する感受性も、「われわれの神」に対するイメージも共に堅くて狭い。戦後、誤謬を引きずっているのはむしろ、こうした日本派の人たちのほうだという気がしてくるのである。

 私はそうした違和感がどうして生じるのだろうと、ずっと思ってきた。

 日本武尊の東西遠征について「一人二人の英雄によってできる業績ではないので、ながい間に累積された国民全体の歴史的努力の結果によって成就されたものとみるのが至当でせう。それを『古事記』のやうな叙事詩では、日本武尊と名づけられる一人の英雄の仕事としてまとめ上げて記述しているのです」(夜久正雄著『古事記のいのち』)と言う。

 学生時代におめにかかった著者・夜久先生の温かい師恩を忘れないが、違う。これでは日本武尊は銅像である。

 何人いるかわからない日本武尊、一応、日本武尊と呼ばれる英雄たちの象徴たりしものが、熱田の杜に鎮まっているわけではないと、神道家のような批判をしようとは思わない。が、私は、先生の文と想像力がいけないと思う。面白いものを、面白くないものにしてしまう平板がいけない。

 上記引用文では、「『古事記』のやうな叙事詩では」と緩衝材が入っているが、これでは日本武尊は時を隔てて存在した五百人くらいの豪族の象徴になってしまう。「古代人が信じたそのままを信じたい」と若者に説くのであれば、日本武尊は御一方、一柱でいい。風の音の遠い昔、すみのえの大神は漁夫と和歌を詠みかわしている。それはそうとしておくこと。それこそ「古代人が信じたそのままを信じる」という態度である。「何事のおはしますかは知らねども」と神にぬかづいた僧形の歌人の畏敬のほうが、ずっと日本人である。

 八百万の神とは人間のこと、とは宣長も篤胤も伴信友も大国隆正も言ったことはない。八百万の神々には人も属するが、地火風水の自然諸神も、穀物の諸神も、さらに宇宙諸神と呼ぶべき神もある。夜久先生は「伝説」以前の「神話」の神は思惟神だ、とサラリと言われながら、「冷静に分析して、古代人の心を知ろうと古事記を読んだのではない。むしろ古代人の心になろうとして読んだのだ」と書かれている。

 心になろうとすれば、心を知らなければなれない。昔から日本人は「象徴みたいもの」を尊んで神社に行ったのではないと私は思う。先生方の主張では「建国の脈拍と呼吸」というものが具備していて初めて敬神につながるということになるが、何とかたくなで不自由な教えだろう。私の知り合いに氏神様の境内で挨拶をよくかわす近所の老女がいる。仮にもし、「あなたの拝んでいる神様は思惟神ですよ」と言ったなら、彼女はきっと心を曇らせるであろう。先生が依拠するところは無神論でも有神論でも唯心論でもかまわない。ただ、市井の人々にいきなり大事なことを語るのはいけない、と自戒しながら帰幽された先生を思うのだ。

 再びゲーテに戻る。ゲーテがエーカーマンに哲学と宗教について語っているところがある。同時代の言語学者・哲学者であるシューバルトの仕事を通じて「学者の態度」というものを改めて糺してみせた部分で、示唆に富んでいると思われる。

 「シューバルトは勿論、すぐれているし、たいへん立派なことがたくさんある」と讃えながら、「彼には哲学以外に一つの立場があること、すなわち常識の立場があるということ、また芸術と科学は、哲学とは無関係に、自然な人間の力を自由に発揮することによって、いつでも見事に栄えてきた、ということに帰着する」(同訳)とゲーテは言い、「私自身もつねに哲学に縛られないでやってきた。常識の立場は私の立場でもあった」と心情を語っている。

 シューバルトの立派なところは、常識の立場を通してきた点にあるとしながらも、ゲーテは、「ただ一つ、どうしてもほめられない点は、彼がある種の事柄をよく知っているくせに言わないこと、つまり彼のやり方がかならずしも正直ではないことだ」と批判する。

 やや引用が長いが、多くの知識人が陥りがちな立場の遺失、境界の逸脱、材料の誤用の問題をもついていると思われるから書いておきたい。

 「シューバルト(同時代の言語学者・哲学者)はヘーゲルと同じように、彼もキリスト教を、それとはなんの関係もない哲学の中へひっぱりこんでいる。キリスト教はそれ自体で強力な存在だ。堕落し苦悩する人類が折にふれてこれにすがって、くりかえし立ち直ってきたのだ。キリスト教にそういう力があると認められている以上、キリスト教はいっさいの哲学の上にあるものであり、哲学から支えてもらう必要はない」

 唯物弁証法にかすめとられたヘーゲルの方法に本質的な瑕疵があり、ゲーテはそのことも含めて批判しているのだろうか。それはともかく、キリスト教から自分の哲学に有利な材料を持ってくること、その逆も戒めている。

 「人間は不滅の生命を信ずべきであり、そうする権利がある。それは人間の本性にかなっており、われわれ人間は宗教の約束することを信頼してよいのだ。ところが、哲学者ともあろうものが霊魂不滅の証明を宗教的伝説あたりから取ってこようとするなら、これは非常に薄弱で、あまり意味がない。私の場合、永生の信念は活動の概念から来ている。というのは、もし私が死に至るまで休みなく活動し、現在の生存形式が私の精神にとってもはや持ちこたえられなくなった時には、自然は私に別の生存形式を指示する義務があるからだ」

 大ゲーテの言葉を下町の井戸端で解釈するようなマネはいけないが、私は十五年前に亡くした従姉を思い出す。幼くして父を亡くし、市井の苦労を一身に引き受けたような人だが、苦労をして、むしろ高昇に至ったという人だった。よく働いて打ちのめされたが汚れなかった。清らかで明るく気品があった。そんな彼女は中高生の息子二人を残して四十八で逝った。通夜に白布をとって会ったとき、私はあらゆる意味でこんなに働いた人が「無」に帰するはずがない、という気持ちになり天井を見た。「無」になるならレジの精算が合わない、自然の壮大な無駄だと思ったのである。

 最後のゲーテの言葉は信仰とは関係のない宣言である。自然(神)は私に次(の活動の場、つまり生)を用意しておく義務がある、というのだ。これほど強い宣言はない。いま、デカダンの嵐のなかではゲーテの言葉も化石であろうか。

        (終)

ゲーテの神に立ち返って――(1)

伊藤悠可
記者・編集者を経て編集制作プロダクトを営む。
易経や左伝の塾を開講

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 田中卓氏は皇位継承問題にからんで、神宮祭祀の一般に知られざる伝統を持ち出して、男系でなくてもよいと説いた。私はめまいがした。氏は伊勢神宮の斎宮制の研究のほか、建国史のほうでは〈二大巨頭〉と仰がれる泰斗だそうである。

 私もこの人の古代史に関する本を何冊か持っている。『諸君!』(3月号)の「女帝天皇で問題ありません」という文章は二度読んだ。「私は誰よりも皇室を尊敬している。しかし天皇陛下も偉いが伊勢の神様のほうがずっと偉いので、その専門では最高峰の私の言うことを聞け!」と行間にはそう書いてあった。

 ややこしい人だ。この人は神や神の事蹟を調べるのが職掌である。半世紀も学問をしておられてどうしてこの過誤なのか。氏は神様を引っ張りだして皇室をいじったのである。

 また最近、生長の家の運動家といわれる人たちの信仰と政治的活動とが話題になった。その人たちの精鋭は政権中枢に近づいていろいろな改革や再生をめざしていると聞く。それはそれでいいではないかとも思う。

 信仰を捨てて政治的運動に参画しているのか、信仰のままに世界を動かそうとしているか、そんなことはわからない。慧可は自分の腕を切り落として達磨に入門を乞うた。信仰とはそれほど真剣なものだ、とは私に言えない。ただ、信仰に人が必要なのだろうか、政治が必要なのだろうか、と単純に思うだけだ。

 人の職業や信仰をとやかく言うことはない。私にはゲーテの神に対する考え方、態度のほうが、前述の日本人より身の丈にあっていて、そこへ帰りたくなる。ドイツ語が読めない私には、一知半解の勉強だが、ゲーテの神観はおおむね次のようにとらえられるのではないか。  

 ゲーテはキリストを神のひとつの表現として見るにとどめている。そこから越えなかった。キリストが唯一、神のすべてを体現した存在という意味ではなく、神が表現するためにキリストを必要としたという見方になると思われる。したがって神は同時にイスラム教の神であることもみとめた。神はキリスト教専用の神ではない。「専用されるものは神ではない」という立場を貫いた。

 ゲーテはまた、「自然」をほとんど「神」と同義語のように用いている。「自然のうちに神を、神のうちに自然を見る」(『年代記』1811年の項)という言い方をした。「神」がそのまま「自然」であり、「存在」がそのまま「神」と見るところから、そこからもゲーテは汎神論者と呼ばれる。六、七歳の頃に「自然の偉大な神」を愛慕したあまり、自分なりに工夫して部屋に祭壇をこしらえ祈ったことも知られている。

 神性は自然の「根本現象」の中に啓示されている、とゲーテは言う。この世界で起きる多様な現象は一つの神性の本質であり、啓示や象徴にほかならないというのである。『ファウスト』の「神秘の合唱団」は「すべて過ぎゆくもの(すなわち現象一般)は神の似姿にほかならぬ」と歌っている。

 キリストより前に生きていた偉大な人々、ペルシャにもインドにも中国にもギリシャにも生まれた偉人は、旧約聖書の中の数人の猶太人と同じように神の力が働いていたと、見るのがゲーテであった。それが彼の「原宗教」というものに基づく神の見方であった。

 岡潔さんががよく使う「造化」というのも、ゲーテの神に通じるところがある。そう勝手な解釈をしているが、それほど間違っていないという気がする。「造化」は地上の至るところに、色とりどりの花を咲かせるようにして或る人たちを降ろした、という譬喩を岡さんはよく用いた。

 エッカーマンにゲーテはこう告白している。

 「宗教上の事柄でも、科学や政治のことでも、私がいつわらないで、感じたままを口にする勇気を持っていたということが、いつも私をやっかいな目にあわせた」

 「私は神や自然を信じ、高貴なものが悪いものに打ち勝つことを信じていた。ところが、善男善女には、それが不満で、彼らは私に三が一であり、一が三であるといったことを信じなければいけないというのだった。しかし、そんなことは私のこころの真理に対する感情に反していた。そのうえ私は、そんなことでいくらかでも助かるだろうなどとはどうしても思えなかった」(秋山英夫訳)

 三が一であり、一が三であるというのは、キリスト教のいわゆる三位一体説のことである。創造主としての父なる神と、キリストとして世にあらわれた子なる神と、信仰体験として聖霊なる神とが、一つであるという教えで、これは広く日本人も学校でならったことだが、所詮は勝手にあつらえた教えにすぎないと、ゲーテは与しなかった。

 キリストに対しても恭順畏敬をささげることができるし、同様の意味で太陽を拝むこともできる、とゲーテはどこかで言っている。これは驚くべきことだ。なぜ、ゲーテが日本に生まれなかったのか、と不思議に思うことがある。

 ゲーテはまた、寡黙がちではあったが「デモーニッシュなるもの」に言及し、その存在を信じていた。古代ギリシャ人が考えていた人間にひそむ神的存在「ダイモーン」。神のようであって神ではないものである。人間に似ているが人間的なものでもない。悪魔に似ているが悪魔的なものでもない。天使に似ているが天使的なものでもない。

 ゲーテは「自然のうちに、ただ矛盾の姿であらわれ、どんな概念でも包括できないようなあるもの」があると告白しているのだが、「ファウスト」におけるメフィストフェレスは別のものらしい。メフィストフェレスは「もっとネガティブな存在」だと言い、ダイモーンは「徹底的にポジティブな実行力のうちにあらわれる」として、ダイモーンとメフィストフェレスとを区別している。

 デモーニッシュな人々の代表は、絵画ではラファエロ、音楽ではモーツァルト、あのナポレオンも断然、デモーニッシュな典型とゲーテはいう。「私にはそういう資質はないが」とゲーテは否定しているが、ゲーテ自身がデモーニッシュな人でないわけがないと思う。

 私がとくに面白いと思うのは、ワイマル公国のカール・アウグストを評した部分だ。「無限の実行力にみち、安閑としていられない性分だったから、自分の国も小さすぎるくらいだった」。こういう人はホラッ、私たちの意外なほど近くにもいるのではありませんか。

つづく

「小さな意見の違いは決定的違い」ということ(七)

 「遊就館から未熟な反米史観を廃せ」と産経コラム「正論」(8月24日)に書いた岡崎久彦氏の靖国干渉オピニオンに、蛇足のように、初版『新しい歴史教科書』(代表執筆者・西尾幹二)への攻撃のことばがあえて意図的に、次のように挿入されている。

 過去4年間使われた扶桑社の新しい教科書の初版は、日露戦争以来アメリカは一貫して東アジアにおける競争者・日本の破滅をたくらんでいたという思想が背後に流れている。そして文部省は、その検定に際して、中国、韓国に対する記述には、時として不必要なまでに神経質に書き直しを命じたが、反米の部分は不問に付した。

 私は初版の執筆には全く関与しなかったが、たまたま機会があって、現在使用されている第2版から、反米的な叙述は全部削除した。

 岡崎発言は今回が初めてではない。昨年のたしか春ごろの『中央公論』と『Voice』で、岡崎氏は同様に語り、自分の削除で第二版『新しい歴史教科書』(代表執筆者・藤岡信勝氏)は教科書として完璧の域に達した、というような自画自讃のことばを列ねていたのを覚えている。今手許にないので引用できないが、そこには事実に反する無礼なことばも言われていて、私は当然腹を立てた。

 しかし「名誉会長」には言論の自由がない。私が反論の文章を書くのではないかと「つくる会」の理事の面々は心配し、抑止した。これから採択戦が始まるという時期で、執筆者同士の内輪の争いを外にみせてはいけない、というのだ。遠藤浩一理事が丁寧な書簡を私に送ってきた。「先生、お怒りでしょうが、ここはしばらく辛抱して下さるようにお願いします」と書かれていた。

 そういうことも分らないで偉そうに好き勝手な自慢を吹聴して、人を傷つけて平気な岡崎氏は教科書採択がどういうことか分っていないのだが、しかしもともとデリカシーを欠く人物なのである。

 周知のとおり、採択戦は完敗に終った。「つくる会」には課題が押し寄せ、私は岡崎氏にわざわざ反論を書く状況ではもうなかった。それに『中央公論』にせよ『Voice』にせよ、抗議の文を書かせてもらうのなら直後でなければならない。私は機会を逸した。

 すると一年以上も経ってまたしつこく、新聞で17行の上記の文章があえて意図的に挿入されたのだ。

 「日露戦争以来」の「反米的叙述は全部削除した」という初版本と第二版本の比較の仔細を私はまだ十分に調べていない。扶桑社の編集者にかつて岡崎氏の修正メモをみせるように要求したが、見つからないといって断られた。

 そこで、日露戦争直後の両教科書の記述を例にあげ、三項目に分けて以下に比較対照する。

 初版本257-259ページ、第二版本188-189ページからである。

初版本:日米関係の推移

 日露戦争のとき、ロシアが満州を占領することをおそれたアメリカは日本に好意的であった。ところが、日本がロシアにかわって南満州に進出すると、アメリカは日本の強大化を意識するようになった。また、19世紀後半より、太平洋への進出を始めたアメリカにとって、対岸にあって、強力な海軍を備える日本は、その前に立ちはだかる存在でもあった。

 一方、アメリカ国内では、中国移民やアメリカの先住民への人種差別が続いていたが、日露戦争終結の翌年、アメリカのカリフォルニア州で日本人移民の子どもを公立小学校からしめ出すという法律が制定された。勤勉で優秀な日本人移民への反発や嫌悪が大きくなってきたのである。

 こうした中、アメリカは1907年、将来、日本と戦争になった場合の作戦計画(オレンジ計画)を立てた。また、日本も同年に策定した帝国国防方針の中で、アメリカ艦隊を日本近海で迎え撃つ防衛計画を立てた。このようにして日米間の緊張は高まっていった。

 国際連盟が提案された第一次大戦後のパリ講和会議で、日本は唯一の提案である人種差別撤廃案を会議にかけた。この案は日本人みずからが重視し、世界の有色人種からも注目を浴びていた。投票の結果、賛成が多数を占めたが、議長役のアメリカ代表ウィルソンが、重要案件は全会一致を要するとして、不採決を宣言した。このことも、多くの日本人の反発を生んだ。

 こののちも、アメリカでは日本人移民排斥の動きが続き、多くの日本人はこれを人種差別と受け取った。

 

第二版本:日米関係の推移
 
 日露戦争後、日本は東アジアにおけるおしもおされもしない大国となった。フィリピンを領有したアメリカの極東政策の競争相手は日本となった。

 他方、日米間では、、日露戦争直後から、人種差別問題がおこっていた。アメリカの西部諸州、特にカリフォルニアでは、勤勉で優秀な日本人移民が、白人労働者の仕事をうばうとして、日本人を排斥する運動がおこった。アメリカ政府の指導者は日本人移民の立場に理解を示したが、西部諸州の行動をおさえられなかった。

 第一次世界大戦後のパリ講和会議で、日本は国際連盟規約に人種差別撤廃を盛りこむ決議を提案した。その目的は移民の差別を撤廃することだったので、オーストラリアなど、有色人種の移民を制限していた国は強硬に反対した。米国は当初、日本に同情的だったが、西部諸州の反発をおそれて反対に加わり、決議は採択されなかった。* しかし、日本の提案は世界から多大の共感を得た。

 *日本の提案は世界の有色人種から注目をあび、投票の結果、11対5で賛成が多数をしめた。しかし、議長役のアメリカ代表ウィルソンが重要な議題は満場一致を要するとして否決を宣言した。

 ご覧の通り、第二版本では、二度にわたり、悪いのは「西部諸州」で、アメリカ政府ではないと述べ、「西部諸州」をおさえられなかったのはあたかもアメリカ政府ではないかのごとくである。なぜアメリカ政府を弁護するのか。

 日米関係を述べているくだりなのに、なぜオーストラリアを悪役として出してアメリカはそれほど悪くなかった、と言いたいのか。歴史記述なのだから、アメリカ政府のとった態度の結果だけを書けばよいのではないか。不自然なまでにアメリカの立場に立っている。

初版本:白船事件

 1908年3月、16隻の戦艦で構成されたアメリカの大西洋艦隊が、目的地のサンフランシスコ寄港をへて突如、世界一周を口実にして、太平洋を西に向かって進んできた。日本には7隻の戦艦しかない。パリの新聞は日米戦争必死と書き、日本の外債は暴落した。

 日本政府はあわてた。アメリカの砲艦外交風の威嚇の意図は明らかだった。船団は白いペンキで塗られていたので、半世紀前の黒船来航と区別し、白船来航とよばれる。日本政府は国を挙げて艦隊を歓迎する作戦に出た。新聞はアメリカを讃える歌をのせ、Welcome!と書いた英文の社告をのせた。横浜入港の日、日本人群衆は小旗を振って万歳を連呼し、アメリカ海軍将校たちは歓迎パーティーぜめに合った。彼らを乗せた列車が駅に着くと、1000名の小学生が「星条旗よ永遠なれ」を歌った。

 日本人のみせたこの応対は、心の底からアメリカをおそれていたことを物語っている。

第二版本:歴史の名場面  アメリカ艦隊の日本訪問

 1908(明治41年)3月、16隻の戦艦からなるアメリカの大西洋艦隊が、世界一周の途上、日本へ向かって進んできた。当時、日本が保有する戦艦は7隻だったから、これは大艦隊であった。セオドア・ルーズベルト大統領は、みずから建設した艦隊の威勢を世界に誇示しようとした。船団は白いペンキで塗られていたので、半世紀前の黒船来航と対比して、白船とよばれた。

 日本政府は、国をあげて艦隊を歓迎することとした。ルーズベルトはアメリカの印象をよくしようとして、「品行方正な水兵以外は船の外に出すな」と指示した。横浜入港の日、日本人群衆は小旗を振って万歳を連呼し、アメリカ海軍将校たちはパーティー攻めにあった。彼らを乗せた列車が駅に着くと、千人の小学生がアメリカ国歌「星条旗」を歌った。

 
 第二版本では「歴史の名場面」と銘打ったコラム扱いになっているが、この一文は無内容で、なぜ「歴史の名場面」とわざわざ呼んで特筆したのかこれでは分らない。載せる必要がない。

 アメリカ政府の公文書だけが歴史ではない。白船事件は太平洋における20世紀初頭の「海上権力論」が特記しているきわめて深い意味をもつ一エピソードであった。アメリカ艦隊が日本から離れて間もなく、日本海軍は小笠原沖で米艦隊の再来に備えて大演習を行なっている。

初版本:ワシントン会議

 1921年には、海軍軍縮問題を討議するためワシントン会議が開かれ、日本、イギリス、フランス、イタリア、中国、オランダ、ポルトガル、ベルギー、そしてアメリカの9カ国が集まった。この会議で、米英日の主力艦の保有率は、5・5・3と決められた。また、中国の領土保全、門戸開放が九か国条約として成文化された。青島の中国返還も決まり、同時に、20年間続いた日英同盟が廃棄された。

 主力艦の相互削減は、アメリカやイギリスのように、広大な支配地域をもたない日本にとっては、むしろ有利であったともいえる。しかし、日英同盟の廃棄はイギリスも望まず、アメリカの強い意思によるもので、日本の未来に暗い影を投げかけた。

第二版本:ワシントン会議と国際協調

 1921(大正10)年から翌年にかけて、海軍軍縮と中国問題を主要な議題とするワシントン会議がアメリカの提唱で開かれ、日本をふくむ9か国が集まった。会議の目的は、東アジアにおける各国の利害を調整し、この地域に安定した秩序をつくり出すことだった。

 この会議で、米英日の海軍主力艦の保有数は、5:5:3とすることが決められた。また、中国の領土保全、門戸開放が九か国条約として成文化された。同時に、20年間続いた日英同盟が、アメリカの強い意向によって解消された。

 主力艦の相互削減は、第一次大戦後の軍縮の流れにそうもので、本格的な軍備拡張競争では経済的に太刀打ちできない日本にとっては、むしろ有利な結論だったといえる。しかし、海軍の中にはこれに不満とする意見も生まれるようになった。政党政治が定着しつつあり、国際協調に努めた日本は、条約の取り決めをよく守った。*

*1922年、条約が成立すると、日本はただちに山東半島の権益を中国に返還し、軍事力よりも経済活動によって国力の発展をはかるように努めた。

 読者は以上の三例をよくご自分の目でたしかめ、削除や修正で内容がどう変わったかをとくと観察していたゞきたい。

 以上はほんの一例である。二つの教科書は他のあらゆるページを比べればすでに完全に内容を異とする別個の教科書である。初版本の精神を活かしてリライトするという話だったが、そんなことは到底いえない本になっている。

 「つくる会」の会員諸氏もページごとに丁寧に両者を比較しているわけではないであろう。リライトされ良い教科書になった、と何となく思いこまされているだけだろう。

 何のための教科書運動であるのか、今すでにしてもはや言えなくなっているのである。

つづく