日記風の「日録」 ( 平成16年9月 )(二)

9月5日(日)
 午後2:00より故林健太郎先生のご霊前に参ずる。先生の訃報に接した日私は東京不在で、昨日電話をかけてご都合を伺い、今日ご焼香させていただいた。

 帰宅して心に思う所あり、一息で一文を認め、「林健太郎先生のご逝去」と題して「日録」に掲げた。
 
 以下は後日談だが、一月の訪問記と合わせて改筆し、『諸君!』に20枚程の林先生を偲ぶ文を書いてはと編集部に勧められ、私はその気になった。ご臨終の前後のデータに間違いがあってはいけないと思い、A4で2枚の「日録」のコピーを郵便で奥さまに送って訂正すべき個所を教えてほしいと書き添えておいた。奥さまから電話で思いがけないご返事があった。

 奥さまがご体験になったご臨終の前夜のあのシーンは、秘そかな思い出のまゝにしたいので『諸君!』に書かないでほしい、と。葬儀委員長の人選に私が「憤慨」したという一件も気になさっていたようなので、お立場上デリケートな一線に私が敢えて触れてしまったせいかもしれない。「『諸君!』の件はどうかわたしに預からせてください」と仰有った。私は諒承した。

 編集部にその侭伝えて、諦めてもらった。せっかく幾つかの先生の論考や資料を揃えてもらっていたし、私も先生の旧著を書棚から取り出して、心の用意をしていたので、少し残念だった。翌月の『正論』の読者の欄に、林先生を軽んじる文章がのっていたので、このまゝ先生に汚名を着せられて終るのはいやだとも思ったが、今さらどうにもならない。

 林先生の追悼文を言論誌に見ない。長生きするとこういうことになるのだろうか。葬儀委員長にあのような人物を据えた勢力の人々が、先生を本当に理解する追悼文を書くとも思えない。先生は立派な、マルクス主義の根本的誤謬を説いた言論人だった。小泉信三に匹敵する人だった。私でなくていいから、やはり『諸君!』か『正論』に追悼文があってしかるべきであろう。

 しかし、ふと思った。「林健太郎先生のご逝去」という私の一文はインターネットに公表ずみである。あとで自著に収録することに私はためらいをもたない。

 満面に笑いを浮かべて死期の到来に気づいたことを知らせた先生のあの従容たる挙措は、歴史に語り継がれてしかるべきだろうと思う。先生の最後のお姿は先生を敬愛した読者の財産でもある。

9月6日(月)
 今日は3:00から定期検診の病院に予約が入っているし、夜は6:00から「つくる会」理事会である。しかし、八木秀次氏との対談本『新・国民の油断』の第一回対談が9日であるのに、準備が進んでいない。病院も理事会も急遽キャンセルした。仕方がない。こういうことは往々にして起こる。

 ジェンダーフリー批判という今度の対談のテーマについて、八木さんは専門家はだしだから格別の準備も要らないらしい。しかし私には私に特有のアプローチの仕方があり、私でなければ語れない立論を打ち出していきたいが、同時に八木さんと話が噛み合わなくてはいけないから、共通の土俵も準備しておかなくてはならない。その後者の予備知識が私には不十分なのである。

 それで、今日はたくさんの本や文献資料を前に呆然としながら時間を過ごした。ご承知の通り、この世界をいろいろ読み調べることは、あまり楽しい体験ではない。

9月7日(火)
 私が最初から気にしていたのは、八木秀次さんや山谷えり子さんらが唱えている伝統的性道徳、健全な家庭の子育ての基準を今の社会に上から振り翳して、果してジェンダーフリー派の撒き散らしている「今の子供の性の現実」に太刀打ちできるのだろうかという疑問だった。

 彼らの早期性教育論は、今の子供たちを性感染症、強姦や売春や暴力団の介入、望まない妊娠からいかにして守るかという、それなりに筋の通った一貫した主張に裏づけられている。子供たちに性行為の過度の知識――過激に見える――を早くから与えるのは、彼らに性を勧めているのではなく、もうどうにも止まらない所まできた今の子の性生活を少しでも破壊から守るためだという現場教師の声に根拠を求めている。

 それに対し伝統派は、過激な性教育をするから子供の心に抑制がなくなり、安易に「性の自己決定権」などといって責任のとれない年齢の者を無理な行動に走らせてしまうのだと反論する。他方、早期性教育論者は、これとは逆のことを言う。性の正しい知識を早くから与えてやらないから、自分の身体をみすみす破壊に追いやってしまう、と。ニワトリが先かタマゴが先かという、議論の堂々めぐりで、どっちが正しいか、本当のところは私にも分らない。恐らくその両方に理があるのだろう。

 援助交際をする女の子たちはお金が目当てではなく、「半分以上の子供たちが最初に口にするのは『とても大事にされるから』という驚くべき理由でした」と語る水谷修氏(夜間高校教師)のレポート(『SEXUALITY』NO.13所収)には、私はかなり説得された。

 「中学生は妊娠しないと言われて、避妊をしない性交を本当に行っていた子どもたちもたくさんいます。」「女性の薬物中毒は助からないといわれています。・・・・・・薬物のためなら何でもやる。そこに売買春が入りこんできてしまうために、女性は生きていけてしまう。悲しい話ですがよくいわれます。」「我々が行うべき性教育とはどういうものかを考えた時、僕は、愛とは何かを教えることではないと思います。・・・・・・何回不特定多数と性交渉すると確実に性感染症になるか」というようなことを統計数値を見ながら研究し、教えていくことだという。

 水谷さんは12年間で4000人を数える子どもたちと直接的に交流をもった。この世界では1対3対3対3という有名な比率がある。関わる子どもの1割は自殺し、3割は刑務所か少年院の檻の中にいて、3割は先生のことばを信じて薬物なしの生活に努力し、残りの3割は行方不明になってしまうという。

 事実は恐らくこの通りだと思う。人間の弱さというものが問題の基本にあることは絶対に見落としてはならない。性教育を議論するうえでの重要な条件の一つである。けれども、子供たちの現実の一部がここまで弱さをさらけ出し、その現実に即した救いが求められているからといって、学校の公教育の場で、同じレベルの治療法的即効性教育をあらゆる子供に与えるべきだという話にはなるまい。

 八木秀次さんと対談するとき、ここいらが難しいなァ、どういう風に話をしようかと私は思案した。

 それにジェンダーフリー(性差は存在しない)の思想と性教育がどこでどう結びつくのかが分らない。こじつけがあるかもしれない。この方面の本を読んでいると、障害者、社会的弱者(先の薬物に溺れる子供なども含む)への差別の問題とジェンダーフリーが混同してもち出されてくる。どうもそこが奇妙である。

 障害者、社会的弱者の救済はなされねばならない。しかしジェンダーフリーの主張とこれとは本来別のはずである。両者ははっきり区別されねばならない。そこが混ぜこぜで提出されるのがおかしいと思った。なにか詐術がありそうだ。

9月9日(水)
 13:00~19:00 PHP研究所の一室で『新・国民の油断』の第一回の対談を実行した。

 第一回は現象面の情報をできるだけ数多く紹介するページに役立つ話題を主に展開した。二人が用意した材料は夥しい。大人の性玩具のような見るも恥かしい露骨な「物体」の数々。それから、ジェンダーフリー派による言葉狩り(スチュアデスは客室乗務員とする、の類)、TVコマーシャルへの映像干渉、自治体の指定する男女役割分担禁止という名の私生活への介入。私は「これはファシズムですよ」と思わず叫んだ。

 落合恵子(作家)さんというジェンダーフリー派のスターがいる。この人の講演筆録(『SEXUALITY』NO.13)を読んで、なかなか話がうまいなと思った。ホロリとさせる処がある。大抵の人はいかれてしまうだろう。私は八木さんとの対談の中でもこの話を一寸出した。

 落合さんは私生児であると告白する。つまり、お母さんが未婚の母である。本人もお母さんも悩んだ。社会との約束ごとに背いた女だとの自責で母は苦しんだ、と落合さんは言う。

 「(母は)私に対する後めたさと自分の親に『肩身の狭い思い』をさせてしまったという反省を張りつめた糸のように紡ぎながら生きてきたのだと思います。」やがて脅迫神経症になる。洗手恐怖症といって、指紋が消えてしまうほど一日中手を洗いつづける病気になったのだそうだ。

 落合さんは10代のころ、「お母さん、どうして私を生んだの」と聞いたことがある。そのとき「お母さんはあなたのことがとてもほしかった。」「あなたのお父さんに当たる人を大好きだった。だからあなたは『大好き』から生れたこどもなのよ。」「お母さんがこんなにあなたを待っている、だからだからあなたはこんなにも待たれ、期待されて生れてきた子どもなのよ。」

 10代の落合さんは母親のこの言葉に納得し、それが心の支えになって生きてきた。ここまでは私もよく分る。私は同情をもって読み進んだ。すると一転して、次のような議論が始まるのである。

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 子どもは当然、自らの出生について何の責任もありません。

 私たちを取り巻く社会において、自分自身であることをずっと求め続けることは時には大きなストレスになることかもしれません。しかし、やはり私たちは個であることから始まり、個であることを続けていかなければなりません。このことは、セクシュアリティを含めて、あらゆる人権について考える時の基本であると思います。

 私たちの社会の中には「普通」という感覚がとても色濃く残っています。そして私は「普通」という言葉をなかなか使えません。というのも「普通」の価値観が根強い社会は必ずワンセットで「普通じゃない」という価値観を作りだすからです。「みんなと同じ」という言葉もそうです。みんなと同じという価値観が色濃い社会においては、みんなと違うという状況にある多くの人々が、みんなと違うという理由で選別をされ、切り捨てられてしまいます。人権というものを考える時、ここにもまた私たちが問いかけなければいけない大きなテーマがあるのではないかと思っています。

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 落合さんは「個」という観念をいきなりここでもち出す。両親そろっている「普通」の家庭へのルサンチマンもにじませた論が展開される。けれども落合さん自身はここでいう意味の純粋な「個」なのだろうか。この「個」の概念は間違っていないか。

 落合さんはほかでもない、お母さんの子供である。お母さんの愛に支えられて生きた子供だ。けっして「個」ではない。

 もっと不幸な子供がいる。両親を知らない子供がいる。両親はいてもまったく愛されない子供もいる。落合さんのお母さんは彼女を強く愛した。彼女は恵まれている。その意味ではもっと不幸な子供たちに対して優越者である。落合さんはそのことに気がついていない。

 もっと不幸な子供たちからみれば彼女は「普通」の価値観の中に安住することが許されている側にいる。彼女は見方によれば特権者の側にいる。「普通」とか「普通でない」とかはすべて相対的概念だ。基準も機軸もない。

 彼女は決して「個」ではない。母の子である。母の愛の依存の中にいる。そして、なにかに依存し、包まれていなければ真の「個」は成立しない。そういう意味でなら彼女もまた「個」である。しかしそういう「個」、言葉の本当の意味における「個」は決して彼女のいうような意味での「解放」の概念ではない。

 私は対談で以上のような議論を時間不足で十分ではなかったが、とりあえず展開した。『新・国民の油断』が出版されるのは12月だが、考えの浅い、愚かなジェンダーフリー派をたゞ頭ごなしに非難し、弾劾する本にはしないつもりである。

 深く考える人に、敵の陥し穴がよく見えるような案内をしたいと考えている。

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   報  告

(1) Voice11月号(10月10日発売)

 拙論「ブッシュに見捨てられる日本」25枚

  尚同誌に横山洋吉(東京都教育長)、櫻井よしこ両氏の対談「扶桑社の教科書を 採択した理由」があり、注目すべき内容です。

(2)

 11月20日(土)午後2:30~に科学技術館サイエンスホール(地下鉄東西線竹橋から6分、北の丸公園内)で福田恆存没後十年記念として、「福田恆存の哲学」と題する講演を行います。他に山田太一氏も講師として出席なさいます。
(入場料2000円、申し込み先・現代文化会議 電話03-5261-2753
メール bunkakaigi@u01.gate01.com )

 10~11月私は雑誌論文をやめてもっぱら福田先生の旧著を読み直すことになりそうです。

日記風の「日録」 ( 平成16年9月 )(一)

8月29日(日) 
 夜、評論家の小浜逸郎氏と洋泉社の小川哲生氏が来訪、いつもの吾作で盃をあげる。小浜氏とは肝胆相照らす仲だが、なかなかゆっくり会う機会がない。三人で温泉に行こうよという話もあったが、そう言っていては埒があかないので今日の会合となった。酒を飲みながら友と語り合うのが今の私は一番楽しい。政治の話も、哲学の話も出なかった。

8月30日(月) 
 かねて約束していた通り、参議院議員会館に山谷えり子氏を訪ね、ジェンダーフリーと性教育に対する氏の戦跡を語ってもらった。選挙前からの約束で、当選してくれて本当に良かった。4センチもの厚さの資料集を私のために秘書の方が精選して用意しておいてくれた。たくさんの驚くべき、信じられないエピソードを議員本人から聞く。その中のひとつ。五人の女子高校生が制服のままで産婦人科の待合室でケラケラと談笑していて、五人で一人の男と関係し、男が病気を持っていたらしいと分ったのでお揃いで検診に来た、と屈託もない。

 ピルは副作用があり、多用すれば生涯子供の産めない身体になる可能性があるのに、文部科学省編の性教育の教材に、コンドームよりピルは安全と勧め、ピルは月経の痛みを柔らげるためにも使えるからそう言って買えばよいといわんばかりの、薬局に行き易い配慮さえ示している。小学一年生が覚えるべきことばの中に、ペニス、ヴァギナがあることは周知の通りだが、これから大人になる六年生のための用語集の中に援助交際が入っている。「学校がまるでフリーセックスを勧めている形です。せめて学校の場だけでもこういう言葉は禁句にして、道徳教育の場にしなくてはいけない。事実そうすることでアメリカのある州では妊娠中絶数が急下降した実績があるのです。」

 約二時間にわたって山谷氏の熱弁はつづく。PHP研究所から私と八木秀次氏との対談集『新・国民の油断』を出すことになり、テーマはジェンダーフリー批判で、私は今その準備中なのである。計画は夏前にスタートし、私の許に30冊ほどの関連書と500ページを越える関係資料がまたたく間に集まった。すでに準備会合が二度開かれ、対談は9月中に実行される。

 山谷さんは白に黒を組み合わせたカットもしゃれた瀟洒な装いで、いつものように女性としてじつに魅力的である。性差は存在しないなどと言って、「男らしさ」「女らしさ」は社会や権力がつくった後天的なものだと唱えているジェンダーフリー派の女性学者に美人はいるのであろうか。恨みと復讐心からの無理仕立ての学説のように思える。

8月31日(火)
 日録が混乱していて、収拾がつかない。私だけが無権利状態に置かれている不当な感情をもつ。匿名者による罵倒の浴びせられっ放しで、私は防衛のしようがない。「ネットの憂鬱(二)」を書いて、日録に掲げる。

9月1日(水)
「緊急公告」(一)~(四)はプリントアウトして、B4のペーパー19枚になった。これで小泉再訪朝の「空白の十分間」の出所が日刊ゲンダイと分ったが、人に言われるまでもなく、出所の格の低さがたしかに残念である。しかしこの事実が分って、私よりも中西輝政氏の方が少し辛いのではないだろうか。私は氏にとっても、良かれと思ってやったのだが、申し訳ないことをしたのかもしれない。中西氏の言っていることがウソではなかった証拠を出したかった。それには成功したが、日刊ゲンダイひとつではたしかに物足りない。もうひとつ『週刊ポスト』(6月18日号)にも記事が発見されたけれども。

 このまゝ放って置くわけにもいかないので、ともあれ結果は出たのだから私は次の行動に移った。「緊急公告」(一)~(四)の19枚のプリントを12通作成し、ホッチキスで止めて、中西輝政氏、産経新聞社主要関係ポストの責任者四氏、人を介して連絡をとったうえで関東公安調査局第二部、それから私が信頼している衆議院の大物代議士五人にそれぞれ異なる手紙を添えて送った。

 9月末の段階で中西氏より返事も連絡もない。公安調査局からは電話があり、「しかと承った。調査は開始するが、結果は職責上西尾さんにはお伝えできない」との言。これは当然である。産経は紙面を見る限り、その後何の動きもない。大物政治家のひとりから葉書の来信があった。

 後から考えたことがひとつだけある。当っているかどうかは分らないが、東京の細田官房長官とピョンヤンの薮中アジア大洋州局長との間の電話のやりとり内容がかなり詳しかった。あれは、ひょっとするとアメリカの通信傍受の結果ではないか。アメリカがあの会談の可能な限りの盗み聴きをしていないと考える方がむしろ難しい。となると、中西さんの「外国人情報筋の言」はやはり事実ではないだろうか。(アメリカは世界中の重要な会談の情報蒐めに対し知力を尽くしているはずである。)

9月2日(木)
日本がアメリカから見捨てられる日』が出たばかりで、評判を気にしている段階だが、掲示板が混乱しているので、感想を期待できる状態ではない。評論集は正式の書評の対象にもあまりならない。雑誌に一生懸命書いた文を集めて文集を編みたいのが自然の欲求だが、そういう幸運に恵まれている評論家は今は数えるほどしかいない。私は幸運な方である。小説家の場合でも短編集が出版できない時代である。

日本がアメリカから見捨てられる日』の約半分のページには日録の文章が利用されている。日録の読者はお気づきと思うが、もう一冊出せるだけの分量のエッセーが日録の過去録には貯まっている。今回は時事的テーマに限定して、雑誌発表論文と組み合わせて、書き下ろし新稿も加え、一冊にした。

 当然のことだが、時事的でないテーマの過去録からもう一冊作ることが予定されていて、来年の春ごろまでには同じ徳間書店から出されるであろう。私の読者には出版ラッシュでご迷惑をおかけする。少量多品目生産の出版事情でこうなっているが、私はいっさい手抜きはしていない。

 ほとんど毎日本づくりに精を出している歳月をいま丁度迎えている。多産の年齢である。今年3冊目は『日本人の証明』と予告していたが、版元(青春出版社)との相談の結果『日本人は何に躓いていたのか』に変更、確定した。これは評論集ではなく、書き下ろし稿である。入稿は終了し、間もなく初稿ゲラが出る。

 外交、防衛、歴史、教育、社会、政治、経済の七つの項目に分けて、日本の総合像を希望の相において捉え直した一書である。10月29日刊と正式決定した。

9月3日(金)
 わが家の犬を病院につれて行く。11歳の柴犬で、いとしい。たえず家の中の今どこにいるかを私は気にしている。5歳くらいの人間の子がいる感じである。言葉も通じる。もう老犬のはずだが、元気はいい。ちょっとした出来ものが生じたので診てもらったが、何でもない。

 午後インターネットの日録応援掲示板のあり方をめぐって、「年上の長谷川」さんから派遣された東京在住の「MOMO」さんと西荻窪の駅前の喫茶店で緊急会談をした。掲示板の管理をしばらく私が預かり、落着くまで私の監督で不要なものの削除を随時実行させてもらうことにして、収拾をはかることにした。

9月4日(土)
 『新・国民の油断』のために一日、ジェンダーフリーの関係本を読んだ。果てしない読書だ。性的変態者のうわごとのオンパレードである。

 藤岡信勝さんとの共著『国民の油断』は1996年10月刊で、丁度8年前になる。あのときのほうが批判意識をかり立てられた。敵の正体がはっきりしていた。今度はものの奥に隠れていて、敵はもっと悪質で、見えないだけに手敵い。

二宮清純さんのこと

 スポーツジャーナリストとしてよく知られる二宮清純さんのスピーチを聴いた。話の内容もいいが、話し方も簡潔にして、清爽である。

 教科書の会の「前進の集い」と名づけられた記念パーティーの席で屋山太郎氏、櫻井よしこ氏につづいて登壇した。どなたも話がうまいが、二宮さんのうまさはすべてを具体的な場面に結びつけたエピソードの描写の的確さにある。主張だけが抽象的に流れない。

 オリンピックの水泳のシンクロナイズドで日本チームは銀メダルに終った。何度やってもロシアチームに敵わない。しかし、本当に敵わないのだろうか、と二宮さんは疑問に思う。阿波踊りを模した日本チームの水中の演技はとても良かったと自分は思う、美の採点はもともと難しいのだ、と熱い調子で仰る。

 しかし本当に言いたかったのはその先である。日本の審判は、ロシアチームに10点をつけた。普通ライヴァル国に10点はつけない。9.9でいい。オリンピックのほかの競技でもそうだが、ライヴァル国の審判というものは不公平を前提にしている。両方が不公平を犯す。それで公平になる。日本の審判は公正のつもりかもしれないが、バカみたいにみえた。日本チームのコーチの一人が背後から味方に弾丸を撃たれた思いだと言って怒っていた。unfairだからfairになるということが日本の審判団には判っていない。ロシアが日本に9.9をつけるなら、こちらはロシアに9.8でいいのだ、と言ったところで会場はどっと笑い声を上げた。

 これは言いにくい議論である。一歩間違えば鼻白む贔屓の引き倒しになるからである。が、二宮さんが語ると厭味がない。情熱がこもっているからである。世界に対面する日本人につきものの公正気取り、それが人間的弱さに由来することを的確に見抜いているからである。そして、そうした弱さへの怒りが偶発ではなく、蓄積されてきていることがはっきり分るからでもある。

 オリンピックで日本は金メダルを16個取ったが、野球、サッカー、バレーといった期待された団体では失敗し、組織の闘いに弱いことを示した。国家への思いが弱いから団体で勝てないのだ、とも氏は語った。しかしこの話よりも、もう何年も前、野茂選手と一緒にアメリカの球場を彼が回ったときの思い出が印象的だった。

 日本人が戦時中収容所に入れられた土地で、野茂は大リーガーをバッタバッタと三振に切って取った。老いた日系米人はその昔、球拾いをさせられるだけで、野球の仲間に入れてもらえなかった苦い思い出を語ったそうだ。彼らは日系ではあるが、米国人である。不当に収容所に入れられたのである。目の前で野茂の快投を目撃して、彼らは涙を流していたという。

 イチローや松井の活躍で大リーグはぐんと身近になったが、そういえばこの道のパイオニアは紛れもなく野茂選手だったと私もあらためて思い出していた。

 二宮さんの話には怒りがあり、愛があり、国への熱い思いがそれと重なっている。

 教科書の会は八木秀次さんという息子の世代の会長を得たおかげで、二宮さんのような、今まで出会えなかった新しいタイプの客人を迎えることが可能になった。わが家の食卓に若い客を迎えたときのような喜びがある。

 私は懇親パーティーになってから、ソフトボールとノルディックスキーで日本が勝ちすぎたために、日本に不利にルールを改正されたと聞くが、あの話は本当か、と二宮さんに直接尋ねた。彼は、ルール改正の討議の会議に日本のスポーツ連盟の誰も出席していなかったのですよ、と日本人の外の世界への対応のまずさ、人間的弱さに対するあの熱い怒りの表情を再びまたにじませて語った。

 しかし私はこうも思った。日本人の弱さに気づいて行動するこういう人がいることが日本人の強さなのだ、と。会場はこの日大変な賑わいで、明日を期待する明るい雰囲気に包まれていた。

誤解の解消

 8月17日~26日の「緊急公告」の際にある種のトラブルがComments欄とTrack Backと私の間で起こり、「日録」の表面に出ないところで論争があった。この件の誤解を解消するためにある親切な人の仲介を介して、双方のメッセージを相互交換し和解することにした。

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gori氏のメッセージ

 本エントリーは西尾氏の「空白の10分の扱い方」を問う事を目的としておりますが、その目的や議論には不要で根拠に乏しい感情的な文言が含まれております。それにより争点が有耶無耶になり双方にとって無益な混乱を続ける事態を避けるため、その点に付き西尾氏が気分を害されたならお詫びし該当箇所に訂正線を施します。

○「従軍慰安婦問題」とか
○いやー、サヨクっぽいね。やってる事が木村愛二と全く同じ。
○まぁ西尾氏自身、木村愛二のデタラメ裁判(しかも裁判所からはっきり否定されたこと)をblogでさも信憑性があるかの如く取り上げてまで小泉批判を展開した人だから、きっと根っこは同じなんだろうけどさ。
○おいおい、西尾くんよ、アンタが
○この妄想電波野郎め!
○さすが保守論壇のウチゲバに勝ち抜いて重鎮の座を得ただけのことはあって、西尾幹二くんの策謀は手が込んでて素晴らしいね。

 なお、西尾氏の「空白の10分の扱い方」については一連のエントリーで提示した此方の検証を覆すような反論を西尾氏から戴いておりませんので、Irregular Expressionとしての主張に変わりはございません。
 色々ご意見のある読者の方も多いと思いますが、このような騒動に付込んで保守同士の分断工作を狙う腐れサヨク連中が湧き出て跋扈しております。これは当事者含め多くの方が望むところではありませんので事態の早急な解決を図ることにしました。ご了承の上、今後は是々非々で意見の相違は建設的に議論して戴ければと思います。

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西尾のメッセージ
 gori氏の新しい書き込みを見た。この問題に冷静に対処しようという気持ちが読み取れる。私も間違った情報を元に、gori氏とIrregular Expressionについて誤った情報を流してしまった事をお詫びして、以下の内容を削除する。

○小泉純一郎擁護サイトとして知られる
○官僚以外の知り得ない情報がときどき入っているので官邸筋の関与があると推定されているサイトである
○イラクの日本人人質事件で「ヤラセ」だとの噂をいち早く流したのも、また首相再訪朝後の救う会決起大会で救う会は首相に感謝せず文句ばかり言うのは礼を欠く、といった非難の風聞を流す火元になったのも、このサイトなのだそうだ。
○人間は自分のやったこと、又はやりがちなことで人を非難するものである。私をデマの張本人として非難する上記引用文中のもの言いは、いつも自分がやっていること、意図していること、好んで企てることを他人にも当てはめて見ているいい例である。

 このたびの出来事で私もネット上の情報の取り扱いの難しさと煩わしさを改めて知った。この件で少なくない読者の気をもませたことは遺憾である。

日本人の自尊心の試練の物語 (六)

 ――戦後世代が陥った「第2の敗戦」――

 戦争が終わって不思議なことが起こった。各地で相当数の日本人が自決したが、内乱はなかったし、大量の集団自決も起こらなかった。米軍進駐が始まっても国民生活は平静で、波乱がない。

 「愛国心」の象徴だった国民服が姿を消す。「夷狄(いてき)」の言葉であった英語が氾濫(はんらん)する。「国体」と相いれないはずのデモクラシーが一世を風靡(ふうび)する。あっという間だった。北海道から鹿児島までの主要都市には民間人殺戮(さつりく)を目的とした執拗(しつよう)な絨毯(じゅうたん)爆撃があったし、二個の原爆投下がありながら、アメリカへの復〈心は燃え上がらなかった。

 これを奇蹟(きせき)としたのは英米など連合軍の側であった。血で血を洗う国内の殺戮混乱なくして日本の降伏は治められまいと、恐怖と緊張をもって上陸した占領軍は、あっ気にとられた。天皇の詔勅の一声で、たちまち林のごとく静かに、湖のごとく冷たく、定められた運命に黙然と服する日本国民の姿を見た。

 占領軍はこの静かなる沈黙にむしろ日本人の内心の不服従を予感した。敗戦の現実に対する日本人の認識の甘さが原因だと読んだ。戦争の動機に対する自己反省の不足が、内的平静さの理由だとも考えた。日本人は白旗を掲げたが、敗北したと思っていないようだ。日本人に「罪の意識」を植えつけなくてはならぬ。現に『タイムズ』はそう論じた。南京とフィリピンにおける日本軍の蛮行という占領政策プロパガンダが、新聞やラジオを使って一斉に始まるのは、終戦から三カ月程経ってからであった。

 日本国民の内心の「不服従」はある程度当たっているかもしれない。大抵の日本人はアメリカ、イギリス、フランス、オランダ、ソ連という主たる交戦相手国に「罪の意識」を抱かなかったし今も抱いていない。日本の戦争が一つには自存自衛、二つにはアジア解放であったことを戦後のマスコミの表にこそ出ないが、あの時代を生きた日本人の大半はよほどのバカでない限り知っていた。

 たとえ歴史の教科書に、平和の使徒アメリカが侵略国家の日本を懲らしめるために起ち上がったのがあの戦争だという「伝説」が語られていても、米ソ冷戦下で、アメリカの庇護に頼っている日本人は、まあ仕方がない、好きなように暫(しばら)く言わせておけよ、という二重意識で生きていて、本気にはしていなかった。

 戦後の経済復興をなし遂げたモーレツ社員、産業戦士はみなその意気込みだった。まさか自分の子供の世代が、日教組の影響もあって、この大切な二重意識を失ってしまうとは思わなかった。子供たちが教科書にある通りに歴史を信じ、日本を犯罪国家扱いする旧戦勝国の戦略的な“罠(わな)”にまんまと嵌(はま)って、抜け出られなくなるなどということはゆめにも考えていなかった。

 1985年頃から日本の社会には右に見た新しい世代が呪縛(じゅばく)された「第二の敗戦」というべき現象が発生し、今日に至っている。

 けれども、問題は戦争が終わってすぐの日本人の「林のごとく静かな」あの無言の不服従の不明瞭な態度にこそ「第二の敗戦」の主原因があるのではないかと、私は最近、やはり「第一の敗戦」の敗北の受けとめ方への日本人の言語の不在をあらためて問題にしなくてはならぬと考えている。

 なぜ日本人は戦後もなお自己の戦争の正しさを主張しつづけなかったのか。不服従は沈黙によってではなく、言語によって明瞭化されるべきではなかったのか。アメリカへの異議申し立ては、60年安保のような暴徒の騒乱によってではなく、日露戦争以後のアメリカの対アジア政策の間違い、たとえ軍事的に敗北しても日本が道義的に勝利していた首尾一貫性の主張によって理論的になされねばならなかった。民主主義はアメリカが日本に与えたアメリカの独占概念ではなく、古代日本に流れる「和」の理念の中により優位の概念が存在することの主張を伴って教導されなくてはならなかった。

 これこそが今後わが民族が蘇生するか否かの試金石である。

日本人の自尊心の試練の物語 (五)

 日本人の自尊心の試練の物語(新・地球日本史より)の続きを掲載します。
(一)~(四)まではすでに掲載しています。それらをお読みになっていない方はこちらを先にお読みになり続きをご覧ください。

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 ――一度指した駒は元に戻らない――
 
 昭和16年12月8日、あの開戦の日、高村光太郎や佐藤春夫の国民を鼓舞する高調した詩が新聞を飾ったことはよく知られているが、そういう感情とは何の関係もないように生きていた二人の作家の、次のことばを、われわれはどう考えたらよいだろう。

 「12月8日はたいした日だつた。僕の家は郊外にあつたので十一時ごろまで何も知らなかつた。東京から客がみえて初めて知つた。『たうたうやつたのか。』僕は思はずさう云つた。それからラジオを聞くことにした。すると、あの宣戦の大詔がラジオを通して聞こへてきた。僕は決心がきまつた。内から力が満ちあふれて来た。『いまなら喜んで死ねる』と、ふと思つた。それ程僕の内に意力が強く生まれて来た」(武者小路実篤)。

 もうひとり、開戦のラジオ報道を耳にして、「しめきつた雨戸のすきまからまつくらな私の部屋に光のさし込むやうに、強くあざやかに聞こへた。二度朗々と繰り返した。それを、ぢつと聞いてゐるうちに、私の人間は変はつてしまつた。強い光線を受けて、体が透明になるやうな感じ。あるひは、聖霊の息吹を受けて、冷たい花びらをいちまい、胸の中に宿したやうな気持ち。日本も、けさから、ちがふ日本になつたのだ」(太宰治)。

 二人とも戦争協力などとは何の関係もない、きわめて非政治的な文学者である。二人の反応は国民の普通の受け止め方であったと考えてよい。国民は開戦を容易ならざることと感じたが、これをマイナスの記号で受け止めた者はほとんどいなかった。そう言い出す人が出てくるのは戦後になってからである。

 当時一高教授であった竹山道雄が、「われわれがもっともはげしい不安を感じたのは戦争前でした。戦争になって、これできまった、とほっとした気持ちになった人もすくなくありませんでした」と書いているのは、武者小路、太宰のことばに照応する。

 開戦の日、私は満6歳5カ月。あの日のことは記憶にはあるが、考えて何かを判断する年齢ではまだない。ならば8、9歳まで私は日本と世界の関係についてまったく何も考えないでいたのかといえばそうではない。昭和十九年十月以来、神風特別攻撃隊の出撃が報じられだした。三年生の二学期が始まって間もなくである。私は将来特攻隊に志願するつもりだと親にも、先生にも伝えた。それは当時の子供の多くが口にした当然のことばだった。

 今の知性は、戦時体制が幼い子供たちまでをも欺き、犠牲にしようとしたとわけ知りに言いたがるだろう。純情無垢(むく)な心ほど色を染めるのが簡単だ、と。けれども幼い無垢な心といえども、道理に合わない事柄をそうやすやすとは受けつけないものなのだ。子供でも理性を納得させない事柄には進んで参加しようとはすまい。幼い心は幼いなりに、自分と国家、国家と世界の関係について、漫然と何が正義であり、何が不正であるかを、教えられてきた事柄の中から選び、掴(つか)み出して、案外正確に黙って判定の根拠にしているのである。

 間違えないでいただきたい。棋士が将棋を指すときに「待った」は許されない。一度指した駒は元に戻らない。つまり行為の選択は、そのつどの決断である。そして決断は不可逆である。日本はその通過点をすでに通り越している。そのことは九歳の理性にも判然としている。いったん開戦した戦時下の日本には戦う以外のいかなる選択の道もなかった。その必然の中にしか自由はなかった。

 昭和19年には6月にB29による本土空襲が始まった。7月に東条内閣が総辞職した。南の島々の日本守備隊が相次いで玉砕した。間もなく一億玉砕、本土決戦が口の端にのぼるようになった。特攻隊員は「お先に行きます」の気持ちだった。無差別の行動ではない。イラクの自爆テロとはわけが違う。元に戻らない時計の針を自分の意志で少しだけ前へ進める。それは自由への跳躍だった。

 子供心にもそのことは分かっていた。

林健太郎先生のご逝去 (二)

 ご遺骨の前で、私は奥様と1時間ほど先生の思い出ばなしを交した。林先生はすべてにわたって淡々として、怒った顔もみせないし、悲しそうな顔もあまりしないし、愚痴ったり、ぼやいたり、弱音を吐いたり――そういうことがまったくない方だったという点で考えが一致した。

 「世の中にはとかく礼儀を欠いた人がいるでしょう。」と奥様は仰言った。「夫と一緒にいて、言葉づかいなどでずい分失敬なものの言いようをする人に出会って、私は女だから『あの方ずい分失礼ね』なんて言うでしょう。すると林は『そうかねぇ』とひとこと言うだけで、全然気にも留めないみたいでした。」

 ここに林先生の生き方の一つの姿が表現されているようにさえ思えた。

 「先生は君子なのです。小人ではないのです。君子ということばがピッタリだなァ。前からずっとそう思っていました。」

 「でも、林には一対一でお附き合いするお友達がいませんでした。会合には行きますが、飲み友達というようなものがなく、学者ってこういうものかなァ、と思っていました。」

 奥様が結婚されたとき先生は65歳だった。もう少し前には酒場をはしごする生活もあったはずである。私より上の世代、例えば村松剛氏あたりとはそういう附き合いもあったのではなかろうか。

 けれども西洋史学会の関係者が林先生を敬遠したことは間違いない。九里さんも言っていたが、西洋史も8割はマルクス主義史学者である。先生は若いころ東大の中枢に入っていたから、比較的被害は少なかった。「差別」はされない代わりに「敬遠」された。

 先生はだから雑誌『自由』の福田恆存、竹山道雄、平林たい子、武藤光朗、関嘉彦、木村健康といった諸先生と交流を深め、『文藝春秋』『中央公論』のもの書き仲間と人間関係を深められたのであろう。私もそのグループの一番若い末席にいたのだった。林先生は若い私の書いたものもよく読んで下さっていた。

 あるとき葉書が来た。イスタンブールの街に屯する浮浪者の群れを形容するのに私が「いぎたない」と書いたのを見とがめて、「いぎたない」は寝姿にしか使えないとわざわざ注意して下さったことがある。先生が思ったことをパッと実行して下さった親切な指摘である。

 「『国民の歴史』を林はとても熱心に読んでいましたのよ。あの部厚い本を何日も何日も前にしていました。」と奥様は仰言った。ありがたい話だった。生前、読後感を聞いておくべきだったが、先生は多分ことば少なにしか感想を仰有らなかったであろう。そういう方なのである。素気ないのである。それが先生の持味である。拙著に強い関心を寄せて下さったという奥様の言葉だけでもう私には十分で、もし当時お目にかかっていたら、「あゝ、あれは面白かったです。」というくらいの感想しか返ってこないことが目に浮かぶのである。

 先生はテレビ出演が嫌いだった。講演もあまり得意ではない。文章を書くことがすべてだった。飾りのない、論理的で、冷静な文章、つまり「素気ない」文章だった。「絶筆は何ですか」とうかがったが、これから調査しなければ分らない由。もうだいぶ執筆から遠ざかって久しい。先生のお宅にはインターネットはもとより、ファクスもコピー器もない。原稿用紙に手書きし、取りにきた編集者に直接渡すという、昔からの懐かしい伝統的方法で生涯の活動を貫かれた。

 雑誌『自由』の新人賞――林先生は審査員のお一人――で論壇にデビューした私は、あの当時の知的に潔癖な反マルクス主義の知識人の偉大な先輩たちの跡を必死に追いかけて歩んできて、今最後に残ったその偉大なひとりを失い、言いようもない喪失感、自分の青春時代の大きな部分を失ったような思いに襲われている。

 一日も早く『わたしの昭和史』を再開して、筆を伸ばしあの時代にまで書き及ばなくてはいけない、と思った。資料は揃っているのである。

 13日の増上寺の本葬に私は行かない。葬儀委員長の名を聞いて憤慨した。南京虐殺の犠牲者は中国が100万人と言っているから100万人が正しいと論文に書いた人物である。なぜ林健太郎の葬儀委員長をかゝる人物が担当するのか。もうそれを知っただけで、行く気になれない。

 先生は社会的位階が高くなるにつれて、かえって孤独になった。そのしるしのように思われる。先生は独立独行の思想家で、愛弟子に取り囲まれるということはなかったのである。

 けれども先生は葬儀委員長が誰であろうと、「あゝ、そうかねぇ」と言うだけで、多分全然気になさらないであろう。

誤字修正(9/8)

林健太郎先生のご逝去 (一)

 林健太郎先生が8月10日にご逝去された。このことは知っていたが、私は東京に不在で、今日やっとご霊前に赴き、1月に訪れたあの同じ家でご焼香をすませた。奥様が喪服でお迎え下さった。犬が飛び出してきた。1月にお別れしたときも犬が迎えてくれ、送ってくれたものだった。何もかも同じだった。ただ、先生だけがいない。

 東京大学が主催する正式のご葬儀は9月13日である。奥の座敷に、ご遺骨が置かれ、「瑞光院浄譽祥学健徳居士」と記された仮のご位牌の前で香が煙を上げていた。少し高く掲げられた遺影は、横向きで、やや笑っておられる。いいお顔である。

 「お幾つのときでしょうか」
 「72歳のころ、参議院議員のころです。」

 西洋史の弟子の九里幾久雄さんと私が連れ立って1月25日に先生をお見舞いしたのはムシが知らせたのだろうか。享年91歳、いつこうなってもおかしくはなかった。私たちが訪れた日先生は和服を着替えて、待ちかねるようにして私たちを迎えて下さった。「あの日は朝からいつ来るのか、いつ来るのか、と待ち遠しそうでした。あんな楽しそうな様子は最近なかったのですのよ。」と、奥様は思い出すように仰言った。

 何日か後に私は「九段下会議」の宣言文の載っている『Voice』3月号を届けたが、先生にはそのときはお目にかかっていない。ご関心を寄せてくださったようだが、それがどの程度のものかは分らない。

 ご夫妻はあれから二度ほど歌舞伎座に芝居を見に行っているそうである。肺炎で二、三度の入退院を繰り返しもした。近所のお医者さんが点滴に毎日ご自宅に来て下さることになり、入院生活は止めた。永年住み慣れた趣味のいい和風の家で療養する決心をした。あと1、2年は大丈夫ですよ、とお医者さんは言っていたそうである。

 7月の末に先生は異様に「生きたい」と何度か仰言った。今思えば死期が近づいた予覚に違いない。庭先の木立ちに梵字が見えるとも言った。死の一週間ほど前に、突然、福田恆存先生の名前を一日に何度も口にしたという。良きライヴァルであったお二方のことである。何を思い出されたのか分らないが、自然なことである。

 昨日は遠山一行氏が、明日には村松英子氏がご焼香にお出でになるとか、そして、数日前に福田先生のご子息の逸さんが見えたとき、うわ言のように名を呼んだ一件を奥さんが伝えた。「そうですか、帰ったら母に報告します。」と逸さんは言って帰ったそうだ。

 8月10日の午前2時ごろ先生は奥様の手を握り、満面に今まで見せたこともないような笑顔をみせ、それから寝たままの姿勢で両手を堂々と行進するときに人がする大きく振る振り方をしてみせ、黙って指で上を指さした。「あら、鼠でも天井にいるかしら」と奥様はごまかすように言った。

 そして先生は静かに夜の眠りに入った。翌10日の午前10時ごろ少し具合が悪くなった。お医者さんを呼ぼうとしたが、10時は診療所の診察時間ですぐにはこられない。お昼過ぎにかけつけてきてくれた。点滴を脚にしていたので、その作業に入ると、奥様には先生の首の血管の鼓動が止まっているようにみえて、あわてて叫んだ。医師は脈をとり、居ずまいをただして「ご臨終です」と言った。

 深夜のあの仕草が「自分は天に行くときが来た」という奥様への合図であったことは今にして明らかだといえる。

『日本がアメリカから見捨てられる日』の刊行(三)

 「まえがき」に代えて9ページにわたって大、小あわせて24個のアフォリズムを巻頭に掲げたのが、本書の新しい試みの一つである。その中から5つほどここに紹介しておこう。

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 悪い環境下ではときに強い人間が育つ。しかしあまりに悪い環境下では、どんな人間も育たない。他方、あまりに恵まれた環境下では、弱い人間ばかりになってしまう。けれども、あまりに恵まれた環境下であっても、それに負けない人間は必ずいるはずである。そしてそれが一番の本物なのだ。

* * *

私が一生かけて戦ってきたのは、左翼でもマルクス主義でもなく、人の心を思い通りに扱おうとする、つまり人間を自由にできると信じている便利で、軽薄な政治主義なのである。

* * *

インターネットによる交流という「言葉だけの人間関係」の自由のよろこびは、確かに新発見だと思うが、――しかしいつか気がつくと思う――そこにおいても人間は孤独であり、不自由であり、危険と隣合わせに生きているという事実を片ときも見落としてはなるまい。

* * *

保守という派閥は存在しない。保守主義というものも存在しない。私は真の保守を唱えるつもりもない。存在するのは「真贋」の区別だけである。
私は「保守運動」などというもののために生きているのではまったくない。これだけははっきりさせておく。

* * *

歴史に再生はない。未来に復活もない。過去は不可逆であり、未来は予知不能であり、存在するのは現在だけである。歴史は現在という点のつながりであり、過去においてもその時の現在という点があっただけである。そういう限界に直面している人にだけ、現在という点の中に過去が映し出され、未来がおぼろげながら予想されるのである。それ以上のことは人間の身には起こらないのだと思う。

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巻頭に掲げたこうしたアフォリズムは、この本の付録みたいなものだが、必ずや立ち停って考え、考えては立ち停るひと時を持っていただけるであろう。とりわけ三番目の短章は、「緊急公告」の騒ぎの後ではひとしお「日録」の読者の心に訴えるものがあることを信じたい。

誤字修正(9/5 19:31)

『日本がアメリカから見捨てられる日』の刊行(二)

第四章 他者としての朝鮮半島

朝鮮は日本とはまったく異なる宗教社会である  172
外が見えない可哀そうな民族

『日韓大討論』余聞  195
金完燮氏の折目正しい礼儀、しかしここまで「日本愛国」でいいのか

シンポジウムで見せた金完燮氏の予期せぬ素顔  205
びっくりした北朝鮮支持ぶり  

石原慎太郎氏の発言に寄せて  218
自国史の弱みは韓国人の罪ではないが弱みを見ようとしないのは罪である

竹島・尖閣――領土問題の新局面  227
国際環境が激変したときにのみ動くもの、それが領土問題、その日は近づいている  

第五章 教科書問題はいよいよまた始まる

あなたは公立図書館の焚書事件を知っていますか  236
犯罪であると認めて法的に裁けない現代裁判官  

受験生が裁判所に訴え出た大学入試センター試験  257
文部官僚と自民党政治家がにらみ合った「世界史」の一問  

改訂版歴史教科書トーンダウンへの私の必死の抵抗物語  274
醜いアヒルの子のままであれば白鳥になる  

あとがき  299

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