荻生徂徠と本居宣長(六)

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『創世記』と『古事記』の共通点
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長谷川 : また、話はちょっと先ほどの「神代」の話題に戻りますが、宣長の『古事記伝』には「さて凡そ迦徴とは」で始まる有名な「カミ」の定義がありますね。「其餘何にまれ、尋常ならずすぐれたる徳のありて、可畏き物を迦徴とは云なり」と。これは世界の森羅万象をただ当たり前と考えるのでなく、日常眺めているこの世界はいかに不可思議か、という驚きをもって眺め直す精神態度といってよいでしょう。世界に存在するありとあらゆるものが、不可思議で恐れ多い何かを携えて存在しているという思想、ともいえるかもしれません。

西尾  : 宣長は、ありとあらゆる世界の現象に神話を感じています。たとえば男女が交わり合うことで子供が生まれるのも、不思議といえば不思議ではないか。そんなことは説明がつくほうがおかしいと述べる。神話はつねに「人間はどこから来て、どこへ行くのか」という問いが存在することは先にも述べました。そのような根源的な問いを発しているのが、神話なのです。

長谷川 : キリスト教の世界でもアウグスティヌスなどは、世界を眺めまわすと、山や海、木などすべてのものが「私をつくったのは神です」と自分に語り掛けてくるという言い方をしています。このアウグスティヌスの見方と宣長の見方はある意味で共通していて、宣長は「可畏き物を迦徴とは云なり」といって、その一つひとつにカミの名を付け、一方アウグスティヌスは「全体をつくった誰か」を神と考えた――。その違いにすぎないともいえますね。

西尾  : その「全体をつくった誰か」を宣長はあえて「太陽」といっていますが、じつは固定して考えているのではないでしょう。人格神ではない。

長谷川 : キリスト教世界でも、汎神論と唯一絶対神という二つの考え方が、つねに相争っています。しかしわざわざ汎神論を否定しなければならなかったということは、逆に、ありのままに世界を見ると、「ここにも、あそこにも神がいる」と見えてくるのだということの証拠ともいえる。そう考えると、宣長の考えたカミの概念は、非常に普遍的なものかもしれない。唯一絶対神という概念は、普通に考えれば汎神論になるところを、かなり無理して作り上げているのだ、というべきかもしれませんね。

西尾  : 天地創造の物語もそうです。

長谷川 : じつは文献学で今日わかっているかぎりでも、『旧約聖書』の「創世記」第一章のいちばん最初に出てくる六日間の天地創造の物語は、P資料と呼ばれる、成立年代の遅いテキストに属しています。いちばん最初に出来たのは、神様が土から取った塵をこねて息を吹き込んだら、人間になったという話です。

西尾  : それは中国の盤古神話・女媧神話とも似ていますね。

長谷川 : そっくりです。世界中のありとあらゆるところに、同じような神話があります。

西尾  : 混沌から世界が生まれてくるというストーリーは『古事記』も同じです。

長谷川 : 混沌の場面は、「創世記」のいちばん古いテキスト、J資料によると、「地上にはまだ野の潅木が存在せず、野に草も生えていなかった。・・・・ただ、地下水が大地から湧き上がって地表全体を潤していた」という、ちょっと奇妙なイメージで表されています。そしてそこからいきなり人間形成の話になる。神が人をこねてつくって、猫かわいがりするという話になるのですが、それがあの有名な「エデンの園」の物語です。このあたりは『古事記』と比べても甲乙つけがたいぐらい、リアルな父と子の物語です。

西尾  : これは中国の神話でも同じです。中国の神話では、大きな大地を支えるのは巨大な亀の足を切った柱で、そこに神様が出てきて泥のなかに縄を入れて絞り、このときしたたり落ちた水滴から生まれたのが人間である。園人間は、早くできたものは出来がよく、あとからしたたったものは出来が悪いと描かれている。

長谷川 : 「創世記」J資料の場合は、「神話」というよりむしろ神(ヤハウエ)を主人公とする文学作品というべきものだ、というのが私の解釈なのですが(中公文庫『バベルの謎』参照)、いずれにしても、そうした生き生きとしたリアルなイメージに満ちた物語が、後代の編纂によって、P資料の唯一絶対的な理論のなかに埋められてしまっている。これが現在われわれの見る「創世記」のかたちだといってよいと思います。

西尾  : 中国の場合は、のちに神話部分を全部捨てて、「天」という概念だけを抽象化して仕上げたという構造です。これはキリスト教と似ているでしょう。神話の部分を捨象して、「天」の代わりに人格神が登場する。

 一方、日本の場合、西洋や中国などのような便宜的な手法はとられていない。絶対神や人格神的なものは生み出されない。

長谷川 : それは絶対神が欠けているというより、中国や西洋で行なわれた、ある種の改竄が非常に少ないということだ、ともいえるでしょう。

西尾  : 加えて、日本人は素直だったと思う。神話を「お話」としてそのまま知らしめ、伝えていく。それが摩訶不思議だからといって、あまり手直しをしたりしなかった。どちらが人間的で素朴かというと、あるがまま伝えた日本人のほうが、よほど素朴です。神話は神話として伝え、それでいいという考え方だった。

長谷川 : ユダヤ・キリスト教の場合でも、あのいちばん古いJ資料だけが残っていたとしたら、そこにはおそらく唯一絶対神への信仰ではなく、ギリシア神話や日本の神話に近い世界観が広がっていたでしょう。

つづく

荻生徂徠と本居宣長(五)

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江戸時代に起きた「言語文化ルネッサンス」
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長谷川  : 『江戸のダイナミズム』では、「国学」と「儒学」という、ある種、対照的な性格の思想を並べ置き、そこにもう一つ「仏教」という思想をもってきて、三本柱のかたちを取ろうという構想があったようですね。ただ残念ながら江戸時代には、徂徠や宣長に匹敵するような仏教家の人材がいない。ここに出てくる富永仲基では、ちょっと力不足ですよね。もし鎌倉時代まで遡ることができれば、道元がいます。少なくとも道元は、西尾さんがおっしゃる「偉大な思想家というのは実に単純なことを言っている」という条件にピタリと当てはまると思うのです。

西尾  : どんな単純なことをいっているのですか。

長谷川 : いちばん有名なのが『正法眼蔵』の第一巻「現成公按」の巻の「仏道をならふといふは、自己をならふ也」という言葉なのですが、これはどういうことなのかというと、仏道だ、仏法だと、世の人々はなにか遠い国の珍しく有り難い教えを学ぶのだという意識でいるけれども、それではダメだ、ということなのです。仏道の基本はとても単純なことなので、自己がいかにして自己でありうるか――自己の探求こそがその核心なのだ、と道元は考えます。自己ほど不思議な謎はない。お釈迦様が探求し、悟った真理も、この自己という奥深い問題以外ではない、という考えなのです。

 もちろん、ここにいう「自己」は、たんなる「自我」とか「意識主体」といったものではない。むしろ、森羅万象がそこに映し出される透明なスクリーンのようなもので、だからこそ彼はすぐに続けて「自己をならふといふは、自己をわするゝなり」というのですが、いずれにしても、ここで語られている「仏道」は、哲学的探求そのものといってもよい知的な営みです。先人の言葉をただ(それこそ)「お経」のように唱えて有り難がるというのとは対極にある知的冒険なのです。

 ですから、道元の仏道にとっては、文献学などというものは、まったく枝葉のこととなります。その昔、お釈迦様が悟りを開いたという事実があり、その体験の皮肉骨髄が師から弟子へと師資相承(ししそうしょう)してゆくということが大切なので、言葉というものも、それをつかみとる手掛かりとして、初めて意味をもつものだ、という考えです。道元ほど「偉大な思想家」の名にふさわしい日本人も少ないでしょう。

西尾  : 道元の「自己」は自我でも主体でもなく、自己を抜け出た超自我のようなものでしょうか。私にはよくわかりませんが、徂徠にも宣長にも神秘主義はあります。ただ長谷川さん、『江戸のダイナミズム』が対象としたのは「学問」なのです。「歴史」の学問なのです。いきなりストレートに「宗教」ではないのです。宗教的なところにまで届いた学者たちなのです。そういう限定を踏み外さないように論述しました。

 それから言語音韻学の面で江戸の学問から橋本進吉あたりへ強いインパクトを与えているのは、むしろ空海です。ですが道元を提出された貴女のモチーフはわかりますし、大切なポイントで、私にとっては次の課題です。たとえばこの本でいえば、ゲーテを例に挙げるとわかりやすいでしょう。ゲーテはホメロスがつくり話であろうと何だろうと、ともかく真っすぐホメロスの懐に入り、そこから生命が伝わり、それがゲーテの血肉になる。それで十分であり、テキストの混乱は考える必要がないという態度でした。道元もおそらく同じ態度を示したでしょう。

 宗教家にとってもテキストの真贋などどうでもよいのです。文献学など糞食らえです。ゲーテも同じでした。しかし面白いのは、文献学を吹き飛ばしてしまうような、そのような感覚を、徂徠も宣長も抱いており、江戸時代の日本で花開いた。私はこれを「言語文化ルネッサンス」と考えます。ただの平板な学問ではなく、一種の破壊的創造です。

 すでに述べたように、17世紀にヨーロッパでも中国でも言語に対する危機感が高まり、古代の文字体験に遡ろうとする運動が起きたのですが、同じことが日本にも起こった。日本では7世紀に中国から文字が入ってきました。日本語が存在しているところへ、中国文化を学ぶために無理して中国語を学んだという原体験がある。と同時に『万葉集』の編纂が行なわれ日本語が確立しています。この「中国語から日本語へ」というのと同じドラマが「儒学から国学へ」という流れで、徂徠と宣長のあいだになされたのではないかと思っています。

 最初に話題にしたように、とにかく徂徠は7世紀の日本人が初めて中国語に出合って驚いたときの体験を回復し、初心に戻りたいという激しい情熱を抱いた。したがって弟子たちにも返り点を打って漢文を読んではならないと、白文しか読ませなかった。

 日本語としてではなく、中国語として読む。それが7世紀の日本人に戻ってみるということで、その原体験が宣長につながっていくのです。私にいわせれば、これはただの言語の学問ではなく、形而上学的表現でした。「中国語から日本語へ」は日本人の信仰の原型だったのです。

長谷川 : それがはっきりと表れているのが、『古事記』の序についての宣長の解説ですね。この序は純粋な漢文で書かれていますが、だからといって捨て置いてはいけない。ここで語られている中身は、非常に大事であるという評価を宣長はしています。

西尾  : 『古事記』の編纂者である太安万侶は練達な漢文の書ける人ですから、「全文漢文で書いたほうが早い」というぐらいの認識だったと思います。ただ日本の大和言葉の音を尊重しているので、音をそのまま再現したかった。とはいえ漢字しかありませんから、漢字で記すしかない。そのため注釈をつけるなど、さまざまな工夫をしています。こういう読み方をしろとか、ああいう読み方をしろとか。

長谷川 : 小さな字で細かく指示していますよね。

西尾  : そういう努力をしているから、いま私たちが発音している音と同じような音で読める。実際、読んでみると不思議でしようがありません。たとえば「国稚くして浮ける脂のごとくして、くらげなすただよへる時に」という部分で、「稚くして」というのは訓読みですから、これは漢文です。しかし「くらげなすただよへる」は「久羅下那州多陀用弊流」と表記し、「音で読め」と注釈をつけている。

長谷川 : このような注釈の付いた文章を読んだときの宣長は、単に古代のものを発掘しているというのではなしに、太安万侶に自分の“同僚”を見るような意識が生じていたのではないでしょうか。当時すでに、音だけが言語であった日本の古代の言語世界は崩壊の危機に瀕していました。放っておけば失われてしまうもっとも大切なものを、いま自分は救い出そうとしている――そういう切羽詰まった意識が『古事記』の表記からも、その序からもうかがわれます。そこに宣長は、ピンと相通じるものを感じたのではないか・・・・・。

西尾  : おっしゃるとおりだと思います。ある種、盟友に接するような感じがあったでしょう。

長谷川 : それに支えられながら、『古事記』を読み解いていったような気がします。

つづく

荻生徂徠と本居宣長(四)

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神話を神話として理解する
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西尾  : 宣長とは異なり、これまで多くの人々は歴史をもって神話を解釈しようとしてきました。その一つが神話の歴史反映説で、たとえば出雲の有名な神様と畿内の神様が出会って戦い出雲が屈伏した物語から、出雲族と天孫族の対立の歴史を引き出し、日本の古代史の展開をそこに重ね読みする歴史解釈などが典型的ですね。

長谷川 : 古代に女の将軍と男の将軍がいて、両軍が相戦ったのが・・・・・

西尾  : イザナギ、イザナミの話だとか(笑)。

長谷川 : その類の話が、荒唐無稽なつじつま合わせだというのは確かです。ただ神話をわれわれがどのように理解するかを考えたとき、これもけっこう難しいものがあります。たとえば、われわれは開闢の神話を読んで、無意識のうちに、それをなにか遠い昔の話のように考えてしまう。でも、それはすでに、神話と科学(たとえばビッグバンの仮説のような)とを混同しているのです。「天地初発之時」はつねにわれわれ自身の時間において繰り返される――この認識をもたなければ、「神代を以て人事を知」るんだなどといってみても意味はない。神話を神話として理解するというのは、じつは大変な精神的冒険なのです。

西尾  : 人間はどんなに科学が進んでも、自分がどこから来てどこに向かうのか全然わかりません。神話は人生のその相に触れています。私は、神話のなかにさまざまな教訓を読み込むことが正しいとは思いません。また、ユングの心理学を使って解釈するのもどうでしょう。天照大神のもとで素戔鳴尊(すさのおのみこと)がめちゃくちゃに乱暴するのをアニマ(魂)とアニムス(アニマの男性型)と解釈して、これが人間性の原型みたいなものだという。心理学者の神話解釈では、そのような類の物言いがなされます。

長谷川 : そのような解釈では、神話とそれを語る人物とのあいだに、大きな距離があるのですね。一方、宣長が「神代を以て人事を知れり」というときは、そうではない。一口にいえば、宣長は神の間近に立っているのです。

西尾  : 長谷川さん、大東亜戦争を私たちはもうよく、立派に思い出すことができません。私の父母が健気に必死に生きたあの時代が、私には「神話」の世界のように思えてなりません。

 話は変わりますが、中国においては、聖人・孔子による「神話抹殺」が儒学の基本になっています。儒学から神話は徹底的に排除されたのです。孔子も「三本足の神様」というような記述があれば、「三人の人間」と書き換えたりしました。これにより儒教何千年の歴史が、合理主義に徹したというわけです。これは日本の儒学に強力な合理主義を形成する背景にもなっていました。

 しかしながら江戸から明治あたりまでまだ儒教の影響はありましたが、その後日本では、神話を排除して合理主義を貫く儒教は、あっという間にその影響力を失ってしまいました。たとえば儒教の基本的な経典、四書五経でも、四書(『論語』『孟子』『大学』『中庸』)はある程度読み継がれていますが、五経は今日、テキストを手に入れるのさえ困難な状況です。江戸時代から明治までかなりの影響力があったはずの文化が消えてしまった。影も形もないといってもいいくらいです。これは結局、儒教が心の奥底では日本人に受け入れられていなかったからだとしか思えません。

長谷川 : 漢詩をつくれる人も少なくなりました。

西尾  : そう考えたとき「脱儒教」となった責任は、日本文化ではなく、儒教の側にあるように思うのです。このことを徂徠は、見抜いていたのではないか。

長谷川 : 儒教というのは日本人にとって、ある種の科学的思考をするための道具だった。しかし明治に入ると、西洋から科学的な社会システムが導入され、それに完全に依拠したため、中国的な思考を必要としなくなったと考えられます。

西尾  : 表面的なテクニカルな部分だけで十分だったのです。そのことも徂徠は見抜いていた。また徂徠は政治のあり方として、「先王の道」を伝授するには、文学と学問と同時にスキンシップも大事で、そのためには狭い地域で君主が民衆と接する、封建制度のような制度でなければいけないと述べています。だから理想は周の時代で、科挙官僚制といえる郡県制度下にあった秦漢以降の在り方を否定しています。

つづく

荻生徂徠と本居宣長(三)

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文献学を破壊した宣長とニーチェ
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長谷川  : 一方、宣長の学問を「近代」の意識の営みとして眺めるとき、これを「破壊」と考えることはどうしても不可能です。ここでふっと浮かんできたのは、常識とはまるで違った「近代意識」の定義なのです。つまり「なにか決定的に重要なことがすでに終わってしまっている」という意識。

 ただし、「その決定的に重要なことは、ふたたび喚起することができるし、また喚起しなければならない」と考える意識――そういうものを「近代意識」と呼ぶとしたら、宣長の学問はまさにそれだったのではないか。またそれは、この本のなかで「偉大な思想家」の一人として挙げられているニーチェとも共通するものなのではないかと思います。

西尾  : 文献学は「認識」を目的とします。しかし宣長やニーチェのような人にとっては認識とは、何かのための手段にすぎません。二人の発言は徹底的に文献学的ですが、同時に文献学の破壊者でもあります。通例の安定した客観性をめざす学問ではありません。

 いま長谷川さんは宣長の学問には「破壊」の面はないとおっしゃいましたが、さてどうでしょうか。村岡典嗣の『本居宣長』(1911年)は、宣長に正統な文献学からみての逸脱があるとして、それを「変態」という表現で指弾しています。宣長は上古人の古伝説を背理、妄説のように信奉し、主張していると当惑感を隠せずにいます。ニーチェがワーグナーの音楽にギリシア悲劇の再来をみた乱暴さに似たような大胆さと独断ぶりは、上田秋成との有名な論争の仕方における宣長の論法の無理無体にも表れています。

 いまおっしゃった「あることが終わった」のは、良いことではないが認めざるをえない、というお言葉は重要です。伝統的な神が危機に陥っていることは認めざるをえないけれど、だからといって神のない世界、つまり平板でのっぺらぼうな現実をそのまま認める国学者・上田秋成や儒者・富永仲基のような合理主義者の発言は容認できない。認識として同じことは百も承知だけれど、あらためてそれにノーという情熱が、徂徠と宣長にはきちんとあったと思うのです。

 その情熱はときとして「破壊的」な性格さえ帯びます。徂徠は富永仲基から、宣長は上田秋成から、「お前たちのやっていることは私事だ(主観的だ)という言葉を投げつけられる。しかし、徂徠のような巨大な自我が信じること、宣長のような巨大な主観が展開することで、世界史が客観的に開かれていくのです。

 宣長は幽霊を記録することを学問と心得た国学者・平田篤胤のような人間と違い、あくまで『古事記』の文献学的な探求にこだわり、そこから一歩も出ません。そのうえで最後に『直毘霊』(『古事記伝』第一巻「総論」の中の一遍)を書き、「からごころ」に激しい反撃を加えたのです。彼の信じている巨大な自我が『古事記』の解明につながるのですが、それは古代人の心に立ち返っているからでもあるのです。

長谷川 : いまのお話は宣長のいう、「人は人の事(ひとのうえ)を以て神代を議(はか)るを 我は神代を以て人事を知れり」という言葉の指すところでもありますね。多くの人はこの言葉を、ただもう神代をガリガリに信じ込んで、それによって人の世の中を判断しようとする狂信者の言葉、と考えるのですが、彼はただ、『古事記』に書かれていることをまっすぐのみ込もうといっているだけなのです。ただし、「神話をもって歴史を理解する」ということは、口でいうほどたやすいことではありません。そのためには、まず自分が「神代」のレヴェルにおいて世界を眺める、ということができなければならないわけですから。

つづく

荻生徂徠と本居宣長(二)

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『論語』のドラマチックさ
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西尾  : 外国を他者として認識することで自国を自己としても認識できるようになる。宣長の思想について斬新な論を展開された長谷川先生の『からごころ』(中央公論社)では、外国文化を「普遍文化」と考えてしまう日本人の素直さが、むしろ「文明のバネ」として有効であったと述べられています。軽蔑の対象として学んだのでは何も得られるはずがないというお考えで、私も同じことを述べています。

 すなわち、外国文化をそのように尊重する日本人の性(さが)は自分に対する不安から来るのかと最初思っていましたが、むしろ自信から来るのではないか。日本人は、中国や西洋から入ってきた文化を尊敬する一方で、外から入ってきた文化はあくまで外ものと意識して、「内なる自分」を忘れない。

 つまり外国文化を普遍文化として受け入れるのは日本人に自分がないからでなく、「自分がありすぎる」からかもしれない。そういう言い方も詭弁なら、日本人のなかに宇宙がスポッと入っているから、何を借りてきても構わないという、どことなく「鷹揚とした世界宇宙の中に生きている」(『江戸のダイナミズム』239ページ)ことによって自己同一性を揺るがされずにすむ。そのような日本人のおおらかさを、私は本書で徂徠や宣長の言葉に託しました。

 そのような日本における「自分とは何者か」という問いを生涯かけて探求したのが、宣長ではなかったかと思うのです。

長谷川 : 徂徠にしても、「相手は外国だ」という意識を強烈にもつことで、かえってきちんとした対話が成り立った感じがします。彼の「だから孔子が言っていることや行っていることは、せいぜいが『論語』に出ている程度に止まってしまったのだ」というセリフなんて、良いですねェ。西尾さんがこのセリフにしびれているところ、よくわかります(笑)。「自分」のない人間では出てこないセリフですね。

西尾  : それまでの日本人あるいは儒者は、孔子を道徳的に神話化し、絶対視しています。

長谷川 : 「日本人はそうやってきたけれど、考えてみると大変おぞましいことではないか」というのが、宣長の美意識でもありました。

西尾  : だから徂徠と宣長、二人の思想は重なっているのです。徂徠も孔子に対して、聖人としては二次的な位置しか与えていません。また『論語』は表面的に訳すと、ついついありふれた教訓書のように見えかねませんが、徂徠の書いた注釈書『論語徴』を読むとじつにドラマチックです。

 たとえば『論語』の「第二為政篇」に「政を為すに徳を以てすれば、譬へば北辰の其の所に居て、衆星の之に共(むか)ふがごとし」という一節があります。普通は誰が読んでも「政治をするのに道徳心をもってすれば、北極星の周りにさまざまな星が整然と運行するようになるだろう」となります。

 これを徂徠は、「政を為す」とは政権を取ることであり、「徳を以てす」とは有徳の人材を用いるの意であるというのです。それもただ人材配置についていうのではなく、「有能な人材を登用すれば放っておいてもうまくいく」と、官僚制度における専門性や分業制をまで意識していたかに読める。「権力者は口を出すな」と暗にいっているようであり、徂徠の解釈を聞いた当時の儒者たちは、さぞびっくりしたことでしょう。

長谷川 : しかもそれは勝手な解釈ではなかった。『論語』を読む前にまず五経をしっかり読め、といっていますね。つまり、徂徠自身は、当時の思想のコンテクスト全体のなかで『論語』を読んでいるのだという自信があったのでしょう。そう考えると徂徠の解釈は「孔子像の破壊」というより、むしろ「自分こそ本当の孔子像を摑まえている」という意識によるものだったように思います。

西尾  : 孔子が偉大で神秘的な存在になったのは、『論語』のせいではなく、『五経』(『易経』『書経』『詩経』『春秋』)の編集者と見なされてきたからです。孔子は五経の創作自体には関与していない、というのが現代の学問的認識です。徂徠の天才は、三百年前にこの点をまで洞察していました。

 繰り返しますが、彼は孔子に聖人として二次的な役割しか認めません。孔子以前の時代、「先王の時代」に儒教の原点を求めます。孔子の権威の由来は朱子学のようですね。徂徠はそのことを明らかにし、さらに『論語』の裏を読み、「正しい読み方はこうだ」と述べて、孔子の神秘のベールを剥いだのです。

つづく

荻生徂徠と本居宣長(一)

現在西尾幹二先生自身の筆による「西尾幹二のインターネット日録」は休載中ですが、西尾先生の許可を得て、管理人(長谷川)が西尾先生関連のエントリーを挙げています。

 今回はVoice5月号より、『江戸のダイナミズム』を元にした長谷川三千子先生との対談「荻生徂徠と本居宣長」を掲載します。コメントはエントリーに関するものに限りますので宜しくお願いいたします。

江戸の二大思想家が語る日本文明のダイナミズム
Voice 5月号(2007)より

西尾幹二(評論家)
長谷川三千子(埼玉大学教授)

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漢文訓読みの異常さに気づいた徂徠
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長谷川 : 久しぶりのご大著『江戸のダイナミズム』(文藝春秋)、面白く拝見しました。この本は「近代とは何か」ということが隠れたテーマになっていると感じられました。ただし、いわゆる時代区分としての近代ではなくて、むしろある〈意識の在り方〉としての近代といったものが問題になっているように思われたのですが・・・・・。

西尾  : 好むと好まざるとにかかわらず、「近代的なるもの」に私たちはすでに襲来されていて、古代人のように生きることはもうできません。たとえば神話はいまや古代人のように信仰の対象とするのではなく、学問の対象です。『論語』も『聖書』もそのまま信じるのではなく、成立史それ自体に疑問を抱かざるをえない。

 日本では江戸中期に活躍した儒者・荻生徂徠が早い時期から、このような近代的な文献学の問題にぶつかりました。

長谷川 : つまり、偶像破壊としての近代意識というわけですね。ただ、本書ではそれだけに終わらず、さらに一歩踏み込んだ問題提起をなさっているように感じますが。

西尾  : 偶像破壊という意味だけでなく、聖なるものに対し、主体的自我を立てて対決するというのが、一般に考えられる近代意識ですが、それだけで終わりません。聖なるものを壊してしまって、そのあとは平板な世界でいいのかというと、そうはいきません。聖なるものをもう一度再興しなくてはならない。ただ、なぜそういう二重の手続きになるかを考えたとき、その背景には危機意識があったのです。自我の尊大がそうさせたのではなく、新しい神を求めざるをえない時代の必然性があった。

 このような危機意識は中国にもありました。「清朝考証学」が辿り着いた問題点は「音」です。あれだけ広い地域で長い時間が経過すれば、かつて使われていた「音」が把握できなくなることは自明です。そこで、「かつてと異なる音で理解するのは問題である。漢の時代まで戻ってもう一度確認したい」という意識が生まれてきたわけで、これも存在に対する危機意識のなせる業、言葉と実在の不一致の自覚のせいだったと思います。

長谷川 : 中国のように表意表音文字しか存在しないところで、「音が大事」と言い出してしまうと、漢字そのものの根本的な否定にもつながりかねない問題になりますね。

西尾  : そして同じ自覚が日本で、清朝考証学の学者より早い時代に徂徠に表れた。徂徠は『学則』のなかで、訓読みの巧みさについて述べています。もともと訓読みは、漢文が中国語であることを徹底的に無視することから生まれました。これこそ七世紀の日本人の大きなドラマをもたらし、日本が中国文明から自己を切り離し、独立する最大の力をもたらしたものです。ただ、そこから千数百年を経て、徂徠は「それはおかしい」と気づいた。

 外国語として読むべきものを日本語として読めるというのは、異常なことではないか。やはり外国語として捉え直さなければならないと、痛切に感じたのが徂徠なのです。そのために大変な努力を行ない、教育法を開発して、中国語の書物を「唐音」ですべて読み通すことをやってのけた。そうして初めて中国語を「外国語」として再認識した。奈良・平安時代から漢文で書かれた経書や仏典は日本語に読み替えて理解されてきたけれど、「じつは外国語だった」ということを卒然と悟った感動が、徂徠の一生を貫いていくし、彼の思想の基本を形作るのです。

長谷川 : じつはその発想が、国学者・本居宣長とぴったり一致しているのですね。中国語をそのままに受け入れよと主張する徂徠に対して、「きたなき漢文(からぶみ)ごころ」をしりぞけよ、と主張する宣長は、一見すると正反対のことをいっているかのごとくですが、そうではない。宣長が「からごころ」と呼んで憎むのは、むしろ中国語が外国語でなることに気付かない、日本人たちの鈍感さなのですよね。

つづく

ハンス・ホルバインとわたしの四十年(三)

 この絵にはデューラーやグリューネヴァルトの描いたイエス像にみられる憂悶の表情や精神の翳りもない。

 むろん後年の画家たちが好んで崇高化した神秘主義的なイエス美化の片鱗さえない。ここにあるのは「物」である。三日後にこれが復活するなどとは到底おもえない。

 後年ドストエフスキーはこの絵を見るためにわざわざバーゼルに立ち寄った。そしてこの絵の前に立ったとき、彼はあやうく持病の癇癪の発作を起こしそうになったと言われる。それほど凄まじい絵である。

 彼は『白痴』の中でムイシュキン公爵にこう言わせている。

 「あの絵を!いや、あの絵を見ているとなかには信仰をなくしてしまう人もいるかもしれない!」

 信仰の生きていた時代こそ、信仰の危機も生きていた時代である。近代人はイエス・キリストを「物体」として描くことさえも出来ないのだ。ドストエフスキーの言いたかったことはそのことにほかなるまい。

 言うまでもなく、「物体」という観念が勝手にひとり歩きしはじめ、物を蔽い、目を曇らすからである。

 現代は生の不安を蔽い隠すあらゆる遁辞に満ち、外的現象に救いを求める人に満ちあふれているではないか、彼はそうも言いたかったのかもしれない。

 それでいて、悲劇の規模は中世末期の混乱の時代の比ではない。悲劇の分量の大きさに比例して、それを糊塗する自己回避の言論の規模も大きくなるのが現代の特徴である。

 ひとびとはあらずもがなの無用の言論に取り巻かれて、自分を瞞すために思想をあみ出し、不安から目をそらすために理論をこねあげる。こうしてことごとく悲劇の因果関係が説明され、自分の視野に閉じこめることで悲劇を遠斥けたと信じたがるが、そのこと自体が悲劇にもっとも近い地点に自分を立たせているのだということには気がつかない。

つづく

ハンス・ホルバインとわたしの四十年(二)

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 近代というものは、物を見つめる前に、物に関する観念を教えこまれる時代である。まず人間である前に、人間に関するさまざまな解釈に取り巻かれる時代である。

 私は物が見える(傍点)ということに対して懐疑的にならざるにはいられない。不安をごまかす観念のはびこる時代に物は見えない。私はバーゼルで見た一枚のホルバインの強烈な印象が忘れられない。

 それは高さ30センチ、長さ2メートルの細長い棺のなかに、等身大のキリストの屍体を長々と仰向けに横たえている横断図である。ほかにはなにもない。

 キリストを取り巻く群像もいなければ、十字架もない。だが、そのためもあろうか、私はこの絵の懸けてある部屋に入ったときに竦然とした。等身大の屍体は絵の枠をとび出して、あたかも立体的に、私の目の前に実際に置かれてあると思われるほど凄絶にリアルである。

 なかば開かれた目の中で眼球がひっくりかえり、白眼が剥き出している。顔は一面に青黒く鬱血し、骨ばった右腕は胴のわきにそって台架の上に無造作に置かれ、手首から先は異様に腐襴している。痩せ細った足首も黒ずみ、釘あとももう血の固まった跡らしく、どす黒い。

 これはたんなる屍体、たんなる物体である。ここにはキリストの苦悶をたたえる神話もなければ、秘蹟もない。そう言えば、これに似たものとして思い出されるのは、ダハウの強制収用所跡でみた大型の写真の中の、痩せさらばえたナチスの犠牲者の無残な屍体なのである。

 私は現代に比ぶべくもなく信仰心の篤い時代を生きたホルバインが、かかる「物」としてのイエス・キリストを描くことに成功した、その逆説に魅かれたのである。

つづく

むかし書いた随筆(八)

***西洋名画三題噺――ルソー、クレー、フェルメール***

 フェルメールは日本人好みの画工である。鳴り物入りで特別展がハーグで開かれた。大学の同僚のなかで何人かが春休みにわざわざ出かけて行った。むかしセザンヌ展が上野で開かれると、長蛇の列ができた時代と比べて隔世の感があり、日本人の贅沢と余裕もきわまった感じがする。

 むかしは泰西名画というと印象派どまりだった。ヨーロッパ旅行が大衆観光旅行の範囲の中に入って四半世紀も経って以来、それまで日本人にほとんど知られていなかったフェルメールの名が浮かび上がった。

 繊細で、精妙で、日常市民的で、静かな微光の漂うような明るさのある親しみやすさ、衣裳と器物に注がれた細密画の伝統の目、ヨーロッパ絵画に例の少ない黄や青のコントラストの美しさ、自己主張を抑えた西欧世界らしからぬ慎ましさの詩的小世界――どれ一つとっても、日本人好みではないものはない。
v-9.jpg フェルメールはもちろん私も好きな画家の一人である。中庭の幾何学的構成美を示したホーホや、絹や繻子(しゅす)の緻密な再現で目をみはらせるテルボルフなどの同時代のオランダ人画家とともに、ヨーロッパの美術館を訪れるたびに、私の足を立ち停(どま)らせ、私に感嘆措(お)くあたわざる思いをさせつづけてきた作家だ。「一枚の繒」にとりあげるのなら、例にどれを挙げてもいい。アムステルダムの『牛乳を注ぐ召使い』でも、ロンドンの『ヴァージナルの前の女』でも、パリの『レースを編む娘』でも、どれでもいい。

 今から30年ほど前、ハーグのマウリツハイス美術館で、フェルメールの全作品を蒐めた展覧会が開かれた。私は偶然オランダ旅行中にこれに出合った。その頃、特別展を訪れる日本人の姿はほとんどなかった。フェルメールの名前と画像が心に刻みつけられたのはそれ以来である。というわけで、私も心と時間に余裕があれば、もう今後半世紀は行われないだろうといわれる今回のハーグの特別展に、同僚と行を共にしたかったという気がまったくないわけでもない。

 けれども、あながちその気になれなかったのは、心と時間にゆとりがなかったからばかりではない。フェルメールは西欧美術の代表の位置、西欧精神の中枢を象徴する位置を決して占めていない。フェルメールだけを切り離して、個別に鑑賞しても、われわれは西欧精神の精髄に触れたことにならないだけでなく、明治以来の日本人のとかく陥りやすい間違いを再演することになりかねないからだ。

 すなわち、日本人が自分の好みを西欧世界に投影し、自分の自我の反映像のなかに巨大怪異なる中世末以来のあの幾重にも歴史の層を成す西欧美術の全体を閉じこめ、片づけてしまうという誤解を再び演じることになりかねないのである。

 ジョットなどイタリア初期ルネサンスの祭壇画から始まる西欧近世・近代美術の、キリスト教神話世界に材を求めた壁画風巨大画像の数々に、ヨーロッパの美術館で、圧倒され、打ちのめされた経験を味わわなかった日本人は恐らくいないであろう。

 フェルメールにしてからがレンブラントの切り拓いたオランダ市民階級の肖像画の世界の一部に位置づけられるはずである。そして巨匠レンブラントの前にも後にも、数限りない巨匠が相並んでいる。わずか35点の小品を残したにすぎぬフェルメールの世界が、どんなに宝石箱のように美しくても、ティチアンも、ティントレットも、ファン・ダイクも、フランツ・ハルスも措いて、日本人がわかりやすい、なじみやすい、心地よい小風景にのみ心が傾斜し、吸いこまれるというのは、片寄っているというだけでなく、西欧と対峙する態度としてそもそも間違っているのではないかという気が、私はしている。

 私はこの稿に「ルソー、クレー、フェルメール」という小噺三題のような妙な題をつけた。ルソーは日曜画家のはしりといわれた税関勤務のあの純真無垢の魂アンリ・ルソーである。クレーはいうまでもなくパウル・クレー。スイスの画家、版画家で、児童画のように単純な表意的形象で一世を風靡した、『日記』でも知られるあの有名な、色彩と空間構成の巨匠のことである。

 この三人の名前を一線上に並べたのは世界の美術史上でも恐らく私が最初だろう。まことに奇妙なくくり方である。かつて例のない系譜のとりまとめ方だと言っていい。けれども、日本人であれば必ずピンとくるに違いない。日本人にだけはああそうかと分かる。“日本人好みの系譜”と言うべきものである。

rousseau_dream01.jpg ルソーは大正時代に白樺派が持ち上げ、クレーは戦後日本が特に熱狂的に愛好した。そしてフェルメールは今や高度産業社会の爛熟した現代日本の人気の的である。それぞれフランス印象派、ピカソなどの20世紀抽象絵画、そして西欧中世・近世絵画が日本人の幅広い層の鑑賞の対象となった時代の動きのなかで、“日本人好み”の代表として立ち現れた。あえて“日本的センチメンタリズム”の代表と呼んでいいかもしれない。

 この三者に共通点があることはどなたにでもお分かりであろう。前に「詩的小世界」という言葉を使ったが、「メルヘン的抒情世界」という言い方もできるかもしれない。こういう世界ばかりを好きになる日本人――私にもそういう一面がないわけではないが――を、私は本当は好きになれないのである。

(初出 原題「風景のあるエッセイ ルソー、クレー、フェルメール――日本型感傷の系譜」)「一枚の繪」1996年7月号

むかし書いた随筆(七)

***買いそびれた一枚***

 どうしてもこの一枚のレコードが欲しいという執着が、私には昔からない。だから、所蔵を密かに誇りにしている名盤も持っていない。若いとき、レコードを愛玩する審美的な熱狂家たちに取り囲まれていて、癇に障って、あれは孤独な病だ、などと嘯(うそぶ)いては、抵抗を試みていたスノビズムの結果かもしれない。

 昭和40年代の初め頃、松本道介君(現中央大学文学部長)がボーナスをはたいて、クナッパーツブッシュ指揮の『パルジファル』を買った。ワーグナーのレコードはまだ珍しく、フルトヴェングラーの『リング』も出ていなかった頃だ。当時松本君は、レコードを聴いていた、というよりレコードを生きていた、と言った方が良いかもしれない。感性的に鋭く、潔癖な彼は、同じ『パルジファル』全曲を二揃い買った、と私に告げた。一つは自分の常用であり、他の一つはレコード針による摩滅を恐れての自分のための永久保存用だ、というのである。私はこれを聞いて、負けた、と思った。孤独な熱狂も、ここまで来れば見事である。

 しかし、間もなくミュンヘンに留学した私は、実際に音楽を聴く、ことにオペラを聴くということが、レコードを頼りにすることとは格段に差違のあることを、あらためて知った。当時ミュンヘンのレパートリーは58あったが、私はそのうち52に接した。毎晩のように出掛けて行ったある冬の経験もあるのだが、毎晩の舞台がどれも満足を与えてくれたとは限らない。素人耳にも歌手の良し悪しは判定がつく。

 一作品に目星い役柄が四人いたとすると、四人揃って歌手が魅力的である、というケースは絶無に近かった。うまいなァ、と思わせる歌手は、通例は四人のうち一人くらいなのだ。そして聴き手はそれを知っていて、拍手の量で歌手を評価している。抜きん出た歌手がアリアを歌い出す寸前には、客席に期待の余りの緊張が走るのを、私は自分の身体で感じとっていた。

 私はこれが本物のオペラに接するということだと思った。凡百の歌手の中にあって初めて本物の歌手は生きてくる。あるいは、本物の歌手は凡百の、才能も乏しい層に支えられて初めて成り立っているのである。名歌手ばかりで配役を組んだ特殊な一枚のレコードは、「抽象的」でありすぎる。私はそんなことを、得々として松本君に書き送ったが、二年後に留学した同君が、やがてこの自明の事実を、何倍もの規模で体験したであろうことは、およそ想像に難くない。

 そんなわけで、音楽が時間の芸術である限り、音楽の保存はあり得ない、は原則的に今でも成り立つと信じているが、しかし、すでに消えてしまった美の記憶を甦らせる手段として、美を仮定的に保存しようとする願いが人間にあることもまた、紛れもない。ことに日本人は帰国してしまえば、本物のオペラを滅多に見られないのだ。

 私の場合、「ベルリン国立歌劇場(東ベルリン)」が1977年に来日したときの『ドン・ジョヴァンニ』がそんな体験である。スウィットナー指揮で、テオ・アーダムが主役だが、とりわけドン・オッターヴィオを唄ったペーター・シュライヤーの全身に沁み入るような明澄な声がいまだに記憶の底に残っている。

 同じ配役のレコードが出ているよ、と友人が教えてくれたのだが、つい買いそびれてしまったのも、愚かなことに例のスノビズムのせいかもしれない。

初出(原題「買い落とした一枚」)「文学界」1986年10月号