書評・天皇と原爆・西尾幹二・新潮社
2013-10-05 13:53:40 | Weblog
今まで読んだ西尾氏の本とかなり重複している。同じ傾向の本を選択して読んでいるのだからそうなっても仕方ないだろう。ただ、要約されて総花的になっているような気がするので、頭を整理するにはいいのかも知れない。できるだけ重複しないものをピックアップしてみようと思う。
サモアの分割、という話がある(P47)。19世紀後半にアメリカとイギリスが、南太平洋のサモアの領土保全を協定する。ところがドイツがサモア王にドイツの主権を認めさせたので、米英独が争った後にベルリンで話し合いサモアの独立を宣言する。ところが内乱が起こると、米英独が対立競争をするのだが、競争から英国が逃げると、米独で分割統治する。この事件は米西戦争、ハワイ併合のわずか二年後である。西尾氏は、これを太平洋における領土拡張の始まりの象徴である。と書く。米西戦争は一気に太平洋を越えてフィリピンまで行ったが、ハワイ、サモアと着々と太平洋の領土を拡大しているのだ。ドイツ領は第一次大戦に負けたため、信託統治領を経て、第二次大戦後独立をしているが、東サモアはいまだにアメリカ領である。この頃のアメリカは英国と同じく典型的な力による帝国主義の膨張国家である。
豊臣秀吉や江戸幕府のキリシタン弾圧は今では非難を込めて語られる。長崎には日本二十六聖人殉教の地というのがある。しかし西尾氏が書くように西欧のキリスト教宣教師は海外の侵略の手先であったのが事実である。例えば中国では日中の離間を謀るために、宣教師は反日スパイの役割を演じていた(P54)。経費からすれば「アメリカがキリスト教伝道に使った額は全体投資額の四分の一というほどの巨額です。」と言うのだからすさまじい。
ついでに最近のアフガニスタンへの介入やイラク戦争も、アメリカの西進の一環であると断定する(P55)。多くの保守論客が日米同盟のゆえにこれらの介入を支持し、反対するのは左翼である。しかし西尾氏のこのような観点は、一方で常に考えおかなければならない。知っていて同盟するのはいいが、盲従するのは政治家のすることではない。また、政治家なら日米同盟と言う現実的妥協の理由はあるが、思想家だけの立場なら別である。アメリカの「闇の宗教」(P74)という項はこの本の重要なテーマである。本書では繰り返し、日本と米国はともに神の国であり、それゆえ衝突したのは必然であるということを論じているからである。
アメリカには、ヨーロッパ以上に強固な宗教的土壌が根強く存在します。ヨーロッパで弾圧された清教徒の一団がメイフラワー号に乗って新天地をめざしたという建国のいきさつからみても、それはあきらかです。・・・非常に宗教的な土壌から、「きれいごと」が生まれてくるのではないというのではないかというのが、私の仮説なのです。アメリカの唱える人権思想や「正義派」ぶりっこは、非理性的である。(P75)
アメリカ人のやることは非常に乱暴であるが、言葉は実に綺麗事に満ちている、というのは多くの体験で分かるはずである。日本国憲法からして、よく読めば論理的には日本は禁治産者だから軍備を持ってはいけない、ということを言っているのだが「諸国民の正義」とか綺麗な言葉が並べられている。それはアメリカ国内でも同様である。西尾氏は言う。占領政策で日本に持ち込まれた、グレース・ケリー主演の「上流社会」という映画は金持ちのアメリカ人の優雅な生活を紹介して、復興しかけの日本人を圧倒した。しかし、同時にインディアンへの無法や黒人へのリンチは公然と行われていた、ということは戦前には日本ではよく知られていたのである(P80)。
ヨーロッパの魔女裁判は有名であるが、アメリカでも1692年にマサチューセッツ州でも行われている。これは硬直した宗教思想が欧米人にあり、異なった宗教や意見を許さないのである。アメリカの信教の自由と言っても、それは聖書に基づく宗教の範囲に限定されている。これに比べ日本は思想にも宗教にも一般的には寛容である。キリシタン弾圧は、キリスト教宣教師が侵略の尖兵であったためであり、防衛問題であるから宗教弾圧ではない。幕府の教学は朱子学であったが、それに反対意見を述べた荻生徂徠は罪に問われることもなかった。本居宣長は朱子学も幕府が保護していた仏教も排撃したが問題にされなかった。十八世紀のヨーロッパでは、キリスト教の神の絶対性にカントやフィヒテがほんの少し疑義を提出し、人間の立場を主張しただけで、大学の先生を辞めさせられたりするなどされた。(P81)日本には思想の自由がなく、欧米とは違う、というのも戦後吹き込まれた幻想である。
アメリカが宗教に立脚した国であるということは、大統領が就任の宣誓をするときに、聖書に手を置くことでも分かる。そればかりではない。レーガン大統領は就任演説で「われわれは神のもとなる国家である。これから後も、大統領就任式の日が、祈りの日となることは、適切で良きことであろう」という一句があった。ところが演説を細大漏らさず翻訳した朝日新聞の記事には、この一句だけがすっぽり抜けていた。(P118)西尾氏は意図的だろうと考えながらも、宗教の事は個人的なものであり、枝葉だから省略したとして好意的に解釈している。森首相が『日本は神の国』と発言して問題にされたのは、この演説のよほど後だから、関連はないのだが、朝日新聞は、戦前、神国日本などと言っていたと批判しているのだから、アメリカ大統領が、公然と米国は神の国だと言っているのは都合が悪いから意図的に削除したのである。
戦時に神国日本を強調した急先鋒は朝日新聞である。朝日新聞のコラムは戦前から「天声人語」である。ところが、昭和17年の1月から、昭和20年の9月まで、何と「神風賦」となっている。戦争が始まった翌月から「神風」と煽り、戦争に負けた翌月、すまして元に戻しているのである。変わり身の早さは見事である。
森首相を批判したのは、神国という軍国主義を思い出させる、という理由の他に政教分離、という憲法の原則を持ち出している。ところが西尾氏によれば、国により政教分離の意味は欧米でも国によりかなり異なる。(P138)ヨーロッパでは、教会による政治に対する圧力が強過ぎた経験から、宗教権力から国家を守る、法王庁から近代市民社会の自由を守る、という意味である。信仰は個人の内面にとどめ、信仰が異なる人々の間でも政治の話が出来るようにする、という意味である。アメリカでは、建国の経過から聖書に依拠した宗教ならばどの教会派も平等である、という意味である。ところが、唯一日本のように厳格な政教分離を行っているのはフランスであるのだという。それは革命国家だからであり、学校にキリストの絵を飾ってもいけないし、教室で聖書を朗読することも禁止されている。
西尾氏は日本がフランスのように厳格に政教分離を行っているのが問題である、とするのだが小生に言わせれば、実は日本でも厳格に政教分離が行われている訳ではない。日本でも比叡山など、宗教が政治力を持って騒乱を招いた時代があるから、むしろ宗教が国家に干渉することを防ぐ歴史的必要性はある。ところが、公明党が支持母体の創価学会という宗教団体に操られていることは問題にされてはいない。問題にされているのは、玉串料を自治体が払ったなどということである。つまり政教分離を口実に神道だけが排撃されているのである。家を建てるとき地鎮祭をするように、神道は深層で日本人の生活に密着しているから、神道の行事に自治体が費用を負担するということが起きるのである。日本の左翼は可哀そうに、GHQに国家神道が軍国主義の支柱であり侵略戦争を起こした、などと吹き込まれて、忠犬のように従っているのである。彼等は日本人としての心の根幹を破壊されたのである。
大統領の宣誓に見られるように、アメリカが政治に及ぼす宗教の影響が大きいのは、アメリカ社会が、ヨーロッパの十九世紀や江戸時代の日本のように、脱宗教の洗礼を受けていないからだ(P140)と言われると納得する。同じイギリス出身でもヨーロッパ人とアメリカ人がかなり異質な理由はこれで納得できる。アメリカの移民が始まってから、ヨーロッパとは歴史的に分離されたのである。アングロサクソン中心で純粋培養されたアメリカ。一方で多数の国民国家が競い合い、それにローマ法王庁が絡み合う、という複雑な歴史が妥協的な社会を作っていったのである。それはアメリカ建国後のことだから、アメリカは取り残されている。それでも、西洋人は一般的に日本人より原理主義的な傾向があることは否めない。
同様に日本の政教分離は、歴史的には日本は独自の観念を持っているのだという。心や魂の問題は仏教に頼り、国家をどう考えるかという公的な面は天皇の問題になる、というのである。日本は江戸時代から迷信が乏しい国で、西欧の魔女裁判は元禄時代までも行われており、その時代に日本では現世を謳歌していた(P141)。日本人は現実的なのであり、だからこそ、万能の神があらゆるものを創ったなどという夢物語を信じられないのである。
皇室への恐怖と原爆投下(P187)という項は、本のタイトルのゆえんであろう。アメリカにとって日本は「神の国」に反抗した悪魔だから原爆投下をやってのけた。天皇の名の下に頑強に抵抗した日本に畏怖を感じたのである。その後、意識が変化して原爆投下に対して罪の意識を感じるようになってきた。日本の統治に利用するために、天皇を残したというのは間違いで、天皇を倒すことはできないことがアメリカ人にはわかってきたのである。それで長期的に皇室を弱体化し失くす方法を講じてきた。ひとつの方法は皇室の財産を全部なくし、皇族を減らして皇室を孤立させた。もうひとつは教育である。今上天皇陛下の皇太子当時にクエーカー教徒の家庭教師をつけ、今の皇太子殿下にはイギリスに留学させた。(P191)頭脳を西洋人に改造しよう、というのである。
さらに、皇太子妃殿下はカトリック系の学校出身で、現地体験から欧米趣味をもっておられ、洋風ではない皇室の生活がストレスになっている、というのだが、妃殿下との結婚までアメリカの陰謀だというのは出来過ぎた話のように思われる。ただ、西尾氏は雅子妃殿下について厳しい論調で批判している論文を世に出している。大日本史や、新井白石、福田恆存、会田雄次、三島由紀夫などの例をひいているが、元々民とて皇室は批判すべきことはきちんと批判すべきという考え方の持ち主(P231)なのである。
いずれにしてもイギリスが建国の英雄の娘であるアウンサン・スー・チーを長く英国で暮らさせて英国人と結婚させ、ソフトの力でミャンマーを支配しようとしているのと同類の高等戦術を使っている。(P190)西尾氏はそれでも日本は必要に迫られれば「神の国」が激しくよみがえる可能性がある(P192)と希望をつないでいる。
和辻哲郎は高名な倫理学者であるが、昭和18年に「アメリカの国民性」という貴重な論文を書いている。(P211)その書でバーナード・ショウの英国人の国民性についての風刺を引用している。「イギリス人は生まれつき世界の主人たるべき不思議な力を持っている・・・彼の欲しいものを征服することが彼の道徳的宗教的義務であるといふ燃えるような確信が・・・彼の心に生じてくる・・・貴族のやうに好き勝手に振る舞ひ、欲しいものは何でも掴む・・・」のだという。これがアメリカに渡った英国人の基本的性格なのである。ショウは皮肉めかしているが内容は事実である。
和辻によるイギリス人のやり方はこうである。土人の村に酒を持ち込んで、さんざん酔っぱらわせ、土人の酋長たちに契約書に署名させる。酔っぱらった酋長は彼らに森で狩りをする権利を与えたのだと勝手に解釈するのだが、契約書にはイギリス人が土人の森の地主だと書いてある。酔いが覚めた土人は怒りイギリス人を殺すと、契約を守らなかったと復讐し、土地を手に入れる。こうして世界中で平和条約や和親条約を使って領土を拡大する。(P217)和辻はこの説明をするのにベンジャミン・フランクリンを引用している。
そしてインディアンの文明は秩序だっており、イギリスからやってきた文明人と称する人たちのやりかたのほうか、むしろ奴隷的で卑しいものだと、インディアンたちは考えていたであろうと、フランクリンは気付いていた、というのである。これは西郷隆盛が西洋人は野蛮である、と断定したのと共通するものであろう。ところがフランクリンは、そう考えながらも、気の毒ながらインディアンには滅びてもらわなければならない、(P219)と考えたというから西洋人というのは怖しい。和辻に言わせると、フランクリンは良識的なのだそうだ。
和辻氏は別のエピソードも紹介する。あるスウェーデンの牧師が、聖書についてアダムとイブの話からキリスト受難の聖書の話を土人の酋長たちにした。非常に貴重なあなた方の言い伝えを聞かせてくれた、お礼にと言って酋長が、トウモロコシとインゲン豆の起源についての神話を話すと牧師は怒りだす。「私の話したのは神聖なる神の業なんだ。しかし君のは作り話に過ぎない。」というのだ。土人も怒って、我々は礼儀を心得ているから、あなたの話を本当だと思って聞いたのに、あなた方は礼儀作法を教わらなかったようだから、我々の話を本当だと思って聞けないのだ、というのである。これは西洋人の独善をついた貴重なエピソードである。この性格の基本は今でも変わらないことをわれわれは心するべきである。
そして和親条約を締結してからが、アングロサクソンの侵略の始まりである、ということは日本にも適用されていると和辻氏はいうのだ(P252)。ペリーは大砲で威嚇しながら和親条約の締結を迫ったが、拒めば平和の提議に応じなかったとして武力で侵略するつもりであった。対支二十一箇条の条約は、武力の威嚇の下になされたとして、欧米に批難された。不戦条約を作り一方で自衛か否かは自国が決める、と言っておきながら、満洲事変以後の日本を不戦条約違反であるとした。
しかもこの身勝手な欧米人の行為を正当化したのがトーマス・ホッブスの人権平等説であるというのだ。ホッブスの人権平等説とは、あらゆる人間は自然、つまり戦いの状態に置いて平等に作られているというのである。簡単に言えば強い者は弱い者を叩いてもいい、という平等なのである。もちろん、インディアンや原住民にした行為が「正義」や「平和」のもとに行われることの矛盾は、欧米人も承知している。だが、原住民からあらゆるものを奪い取ることの欲求を抑えることが出来ないから、こんな理屈をこねるのである。
荻生徂徠が「・・・『古文辞学』と言って、前漢より以前の古文書にのみ真実を求め、後漢以後の本は読まないと豪語し、ずっとくだった南宋の時代の朱子学の硬直を叩きました。」(P233)というのであるが、小生はこの言葉を西尾氏とは別の意味に受け取った。本来の漢民族は、漢王朝が崩壊すると同時に滅亡した。古代ローマ人が現代イタリア人とは民族も文明も断絶しているのと同じ意味で、秦漢王朝の漢民族と現代中国の自称漢民族は文明的にも民族のDNAも断絶している。儒学などの支那の古典は漢王朝までに完成したものである。それを異民族が勝手にひねくり回した南宋の朱子学などというものは偽物だと思うのである。徂徠は内容から、後漢以後のものはだめだと判断したのだろうが、小生は歴史的に判断したのである。