夏から秋へ

 今日はいま具体的にどんな活動をしているか、また今後どんな予定を立てているかをお知らせしておきます。

 勤務はないけれど、毎月必ず規則的にめぐってくるのは「路の会」の主宰と「GHQ焚書図書開封」の録画です。三ヶ月に一巻の全集の刊行も規則的にめぐってきます。

 「路の会」のことはほとんど書いたことがありませんが、この数回の外部講師は中野剛志さん、藤井聡さん、河添恵子さん、竹田恒泰さん、そして今月は孫崎享さんです。

 「GHQ焚書図書開封」の録画は第113回を数えました。本になっているのは約三分の二です。いま戦時中に書かれた近現代史の通史のようなものといえる大東亜調査会叢書シリーズを追っていて、今月は第112回「満洲事変とは何か」、第113回「国際連盟とは何だったのか」を放映します。

 このところ『WiLL』は少しお休みしていますが、書きたい新情報がないのです。今月は『別冊正論』(18号)と『正論』11月号とに書いています。どちらも中国問題で、前者は中国人に対する労働鎖国のすすめがテーマであり、後者は尖閣暴動に対する私の最初の所見です。

 チャンネル桜が『言志』というメルマガを始めたので、お付き合いですでに1~3号に書きました。4号もたのまれているので書く予定です。第1号は「戦後から戦後を批判するレベルに止まるな」、第2号は「取り返しのつかない自民党の罪過」、第3号は長い題に取り替えられたので思い出せません。尖閣がテーマです。第4号はメディア論を書けと言われています。いずれも8枚~10枚の短文です。

 西尾幹二全集第四巻『ニーチェ』は間もなく刊行されます。夏からずっとこの校正に苦しんできました。「後記」は第三巻ほど長くありませんが、それでも往時の諸事実を正確に思い出し、記録するのは大変でした。二部作を一巻にしましたし、長い付録もついていますので772ページの大著になります。

 それからこの後お伝えするのが夏から秋へかけずっと取り組んでいた新しい課題で、主要な部分は夏の前半にまとめ、この9、10月に整理した3冊の新刊です。

1.青木直人氏との対談本『第二次尖閣戦争』祥伝社新書(11月2日発売、7日には店頭)
   2010年に『尖閣戦争』として出したものの続編です。これは版を重ねました。

2.竹田恒泰氏との対談本『皇室問題と脱原発』飛鳥新社(12月2日刊)
   皇室問題では女系天皇説の黒幕田中卓元皇學館大學学長を二人で彼の学問の危うさを突いて、根底的に批判しています。

3.『中国人に対する「労働鎖国のすすめ」』飛鳥新社(1月15日刊)
   1989年刊「労働鎖国のすすめ」の復刻が後半。前半は中国人定住者増加の現実とその政治的危険を戦前の中国ウォッチャー長野朗の洞察を取り入れて、私が書き下ろしたものです。

 以上三冊はほゞ作業の大変を終わっています。1.はあと2日で、2.はあと10日で校了となります。3.は整理に少しかかります。

 来月号になりましたら青山学院大の福井義高さんと行った日米戦争をめぐる対談を『正論』で二回掲載します。私の『天皇と原爆』(新潮社)を福井さんに論評してもらいつつ、彼のユニークなアメリカ観に耳を傾けます。

 そして恐らく3月号から私の長編連載『戦争史観の転換』が『正論』でスタートします。

 尚、11月11日に「小林秀雄と福田恆存の『自己』の扱いについて」と題した講演を行います。現代文化会議主催で、会場はホテルグランドヒル市ヶ谷。午後1時30分~5時、お申し込み予約は電話で03-5261-2753でお願いします。入場料¥2000です。

「吉本隆明氏との接点」(三)

飢餓陣営38 2012年夏号より

 四度目の接点は、最近の原発事故をめぐってである。吉本氏の発言はいわゆる保守派を喜ばせた。さすが吉本さんだ、偉いの声もあった。これに反し、私の脱原発発言はいわゆる保守派の中で孤立し、今も孤立している。ここで保守派というのは石原慎太郎、櫻井よし子、渡部昇一、中西輝政、西部邁、小堀桂一郎、森本敏、田母神俊雄などまだまだたくさんいる国家主義的保守言論人のことで、名の無い、無言の保守的一般社会人のことではない。

 私は「現代リスク文明論」(『WiLL』2011年11月号に次のように書いている。

 過日、NHKのテレビ討論で原子力安全委員の奈良林直さんという方が「使用済核燃料の再処理の技術は、人類の2500年のエネルギー問題を一挙に解決する道である」と、胸を張って高らかに宣言するように語ったのを、私は呆気にとられて見守った。大きく出たものだと思った。プロジェクトが現に目の前で行き詰っているというのに、あまりに楽天的なもの言いに、他の発言者たちからただあちに反論がなされていたが、この言葉は私には、戦後ずっと原子力の平和利用にかかわってきた人々の、幻想的進歩信仰をさながら絵に描いたような空言空語に思われた。これこそまさに、中国の鉄道官僚にどこか通じる、足許を見ないで先を急ぐ前進イデオロギーの抽象夢にほかならないと私は思った。

 私が本稿で語った「現代リスク文明」は、工業社会の失敗なのではなく、その成功ないし勝利の帰結としての自己破産にほかならない。現代はいろいろな分野で「進歩の逆転」ということが起こっている。便利なものを追い求めた結果、便利が不便に、自由が不自由に転じるケースは無数にみられる。貧しい時代に「学校」は解放の理念だったが、いつしか抑圧の代名詞になった。「脱学校」という解放の理念からの解放が求められる逆転が起こっている。

 同じようなことが多数ある。原子力の平和利用も鉄腕アトムの時代には解放の理念だったが、自己逆転が生じた。発達が自己破壊をもたらした。

 1938年に『「反核」異論』を書いた吉本隆明氏は最近、「技術や頭脳は高度になることはあっても元に戻ったり、退歩することはあり得ない。原発はやめてしまえば新たな核技術も成果もなくなってしまう。事故を防ぐ技術を発達させるしかない」(毎日2011年5月27日)と語った。これは正論である。

 かつて、文学者が集団で反核運動を行い、アメリカのパーシングⅡ配備には反対しつつ、ソ連のSS-20には何も言わなかった中野孝次氏らの単眼性を戒めた吉本氏らしい言葉であり、私も「あらゆる科学技術の進歩に起こった禍(わざわい)はその技術のより一層の進歩でしか解決できない」と書いたことがあり、原則的に同じ意見ではある。鉄道や航空機等の事故はたしかにこの範疇(はんちゅう)に入り、失敗は進歩の母であり得るが、しかし原子力技術はそういう類の技術ではないのではないか。

 どんな技術も実験を要する。そして実験には必ず失敗がつきまとう。失敗のない実験はない。失敗から学んで次の進歩に繋ぐ。しかし、唯一回の失敗が国家の運命にかかわるような技術は技術ではないのではないか。吉本氏は、「進歩の逆転」が起こり得る現代の特性にまだ気がついていないのではないか。事故の確率がどんなに小さくても、確実にゼロでなければ――そんな確立はあり得ないが――リスクは無限大に等しい。それが原発事故なのである。

 私は宇宙開発にも、遺伝子工学にも、生体移植手術にも疑問を抱いている人間である。今詳しくは述べないが、人類は神の領域に立ち入ることを許されていなかったはずだ。制御できなくなった「火の玉」が自らの頭上に墜ちていうるのを、まだこの程度で食い止めていられるのは、偶然の幸運にすぎない。

           記
 
演 題: アメリカはなぜ日本と戦争をしたのか?(戦争史観の転換)
 
日 時: 9月17日(月・祝) 開場:午後2時 開演:午後2時15分
                  (途中20分の休憩をはさみ、午後5時に終演の予定です。)

会 場: グランドヒル市ヶ谷 3階 「瑠璃の間」 (交通のご案内 別添)

入場料: 1,000円 (事前予約は不要です。)

懇親会: 講演終了後、西尾先生を囲んでの有志懇親会がございます。どなたでもご参加
     いただけます。 (事前予約は不要です。)
     午後5時~午後7時 同 「珊瑚の間」 会費 4,000円

 
お問い合わせ 国書刊行会 (営業部)電話 03-5970-7421
         FAX 03-5970-7427
          E-mail: sales@kokusho.co.jp

吉本隆明氏との接点(二)

飢餓陣営38 2012年夏号より

 二度目の氏との接点は私からの依頼原稿であった。白水社版ニーチェ全集の『偶像の黄昏』『アンチクリスト』が全集から切り離してイデー選書という名でやはり白水社から1991年3月に刊行された際に、私は吉本氏に解説をお願いした。

 解説「テキストを読む――思想を初源と根底とから否定する」は約25枚の分量のしっかりした内容の評論であった。この機会に氏に直にお目にかかっておけばよかったのに、と思うが、編集者を介しての挨拶で終わり、私から接近しようとあえてしなかったのはいつもの私の悪い癖、いずれそのうち機会があるだろうと先送りする怠惰なためらいのせいだった。

 氏のこのニーチェ論に対する私の評文は残されていない。ただ今一読して、問題を孕んだ、深い内容の充実した一文であることを証言しておく。異見は紙幅がないのでここでは述べられない。

 吉本氏と私の三度目の接点は、オウム真理教事件をめぐってで、「『吉本隆明氏に聞く』への意見(上)」と題した短文(『産経新聞』1995年9月25日夕刊)である。新聞記事だから、麻原被告に対する「理解の表明は不要」「麻原の混乱に手貸すだけ」の見出しがついていた。全文を紹介する。

 詩人・評論家の吉本隆明氏が四回にわたって麻原被告の思想を産経新聞紙上で分析したことに対し、同紙から意見を求められた。

 吉本隆明氏は麻原彰晃について、その「存在を重く評価している」「マスコミが否定できるほどちゃちな人ではない」「現存する仏教系の修行者の中で世界有数の人ではないか」とさえ言っている。これに多くの新聞読者が愕然とし、いらだっているようだ。私は愕然とはしていないが、三点ほど氏に申し上げてみたい。

 麻原が氏の言う仏教の系譜上、「相当重要な地位を占める」「相当な思想家」であるなら、氏が新聞という公器を使ってあえて評価し、応援しなくても、麻原の思想はいつか必ず蘇るだろう。邪教でなく本物の宗教なら、十年後にでも二十年後にでも発掘する者が出て、再生するだろう。

 しかし麻原は今は、史上例のないテロリストの首謀者として裁かれようとしている。吉本氏も「彼の犯罪は根底的に否定する」と言っている。だとしたら、今はすべて法の裁きの必然に任せ、果たして彼が法的に否定された後でイエスのようの宗教的に蘇るか否か――誰の助けを借りずとも蘇るときはそうなる――黙って判断を未来に委ねれば良いのではないか。

 吉本氏のように、麻原に裁判の過程中に宗教的世界観を語って欲しいなど願望を述べる必要はないのではないか。語るべき世界観が麻原にあるなら、彼は確然と語るであろう。なければそれまでであろう。外野席で応援する必要はない。つまり外から理解を示してやる必要はないということだ。理解の表明は彼の犯罪行動の規模から見て、彼のこれからの覚悟の形成にも本物の宗教であるか否かの論証にも、有害でさえある。

 私自身は麻原の宗教上の教義に立ち入る関心を持っていない。大半の国民は私と同じだと思う。吉本氏が思想家として、教義内容に関心を持つのは自由だが、それを公表するか否かには、時宜と所を得なくてはならない。麻原には「本当はまだ不明なところはたくさんある」と氏自身が留保をつけている以上、関心と関心の表明とは別でなくてはならない。新聞紙上の氏の関心の示し方は、明らかに麻原の肯定であり、評価であり、礼賛でさえある。留保の程度をはるかに超えている。

 次いで、吉本氏は親鸞の造悪論を取り上げ、「善人より悪人のほうが浄土に行ける」という言葉を重視しているが、しかし親鸞は弟子たちに次々に殺人の実行を勧めたわけでも、自ら殺人計画の立案者になったわけでもないだろう。弟子達が悪を犯したほうが浄土に行けるのかとストレートな疑問を述べたとき、「良い薬があるからと言ったって、わざと病気になるやつはいないだろう」と親鸞がたしなめた、と吉本氏自身が過日述べている。つまり親鸞は、自らの内部に問いを立て、その問いの前に立ち尽くしている。一つの答を出してもそれは直ちに否定される。罪を犯したほうが救われるのではないか。これはどこまでも問いであって、安易な答などあろうはずがない。答えが新たな問いを誘発し、果てしなく繰り返される。それが真の信仰者の態度ではないだろうか。そして吉本氏自身がそのように親鸞を語っているのではないのか。

 一体どうして殺人は悪なのかと疑問に思い、そういう問いを問い続けていくことは哲学的にも大切だが、そのことと実際に殺人を犯すこととの間には無限の距離がある。ラスコーリニコフはついに実行してしまうが、実行後にも果てしない問いが彼の後を追いかけてくるのは周知の通りである。いとも簡単に他人の生命を次々ほいほい葬るよう命じたと伝えられる麻原の行動は、親鸞にも、ラスコーリニコフの誰にも似ていない。ここには宗教上の自覚的行為とは別の問題がある。

 最後に「開いた」社会、自由な文明にはつきものの、現代テロリズムの恐怖について一考しておきたい。

 現代はあまりにも自由で、ぶつかっても抵抗の起こらない無反応社会、声をあげても応答のない沈黙社会である。人はあえて、意図的に違反に違反を重ね、自ら「抑圧」を招き寄せようともする。そうでもしなければのれんに腕押しで、自分をしかと受け止めてくれるいかなる「仕切り」にもぶつかりそうにない。としたら、自ら平地に波乱を起こして、敵のない世界に敵を求め、「仕切り」に突き当たるまで暴れてみるしかない。オウム真理教の出現した背景はこれである。そのような社会で、吉本氏のように、テロリストに対してやさしい理解、心ある共感を示すことは、ひたすら彼らと当惑させるだけであろう。彼らは固い、強い「仕切り」をむしろ欲しているのだ。「地下鉄サリン」をやってさえも理解を示す知識人のいる甘い社会に彼らは実は耐えられない。その甘さがついに「地下鉄サリン」を誘発したのではなかったか。吉本氏の発言は、逆説的な言い方だが、麻原を理解しているのではなく、彼の混乱に手を貸しているだけである。

つづく

         西尾幹二全集刊行記念(第4回)講演会のご案内

 西尾幹二先生のご全集の第4回配本「第3巻 懐疑の精神」の刊行を記念して、下記の要領で講演会が開催されますので、是非ご聴講下さいますようご案内申し上げます。 なお、本講演会は、事前予約不要ではございますが、個々にご案内申し上げる皆様におかれましては、懇親会を含め、事前にご出席のご一報いただけますなら、準備の都合上、誠に幸甚に存じます。ご高配の程、どうぞよろしくお願い申し上げます。 
 
            記
 
演 題: アメリカはなぜ日本と戦争をしたのか?(戦争史観の転換)
 
日 時: 9月17日(月・祝) 開場:午後2時 開演:午後2時15分
                  (途中20分の休憩をはさみ、午後5時に終演の予定です。)

会 場: グランドヒル市ヶ谷 3階 「瑠璃の間」 (交通のご案内 別添)

入場料: 1,000円 (事前予約は不要です。)

懇親会: 講演終了後、西尾先生を囲んでの有志懇親会がございます。どなたでもご参加
     いただけます。 (事前予約は不要です。)
     午後5時~午後7時 同 「珊瑚の間」 会費 4,000円

 
お問い合わせ 国書刊行会 (営業部)電話 03-5970-7421
         FAX 03-5970-7427
          E-mail: sales@kokusho.co.jp

西村幸祐放送局

 「西村幸祐放送局」という、西村さんが主催する個人広報のYou Tube中心のブログが立ち上がり、すでに活動を開始しています。今度そこに「西尾幹二の世界」という新しい企画が始まり、第一回が放送されました。このような取り組みがなされたことに対し、謹んで西村さんに感謝します。

お知らせ

         西尾幹二全集刊行記念(第4回)講演会のご案内

 西尾幹二先生のご全集の第4回配本「第3巻 懐疑の精神」 の刊行を記念して、下記の

要領で講演会が開催されますので、是非ご聴講下さいますようご案内申し上げます。

 

                        記

 

演 題: アメリカはなぜ日本と戦争をしたのか?(戦争史観の転換)

日 時: 9月17日(月・祝) 開場:午後2時 開演:午後2時15分

                  (途中20分の休憩をはさみ、午後5時に終演の予定です。)

会 場: グランドヒル市ヶ谷 3階 「瑠璃の間」 (交通のご案内 別添)

入場料: 1,000円 (事前予約は不要です。)

懇親会: 講演終了後、西尾先生を囲んでの有志懇親会がございます。どなたでもご参加

     いただけます。 (事前予約は不要です。)

     午後5時~午後7時 同 「珊瑚の間」 会費 4,000円

 

お問い合わせ 国書刊行会 (営業部)電話 03-5970-7421

         FAX 03-5970-7427

          E-mail: sales@kokusho.co.jp

宗教とは何か(二)

 私は外国文学研究家として漱石の苦闘に共感するが、歴史研究にも似たような矛盾撞着があると考えている。歴史研究家にとって認識の対象となる「実在」は過去である。最初は過去を「自己」の外に置いて眺めざるを得ない。だがこの起点に留まる限り、なにも始まらない。あらゆる過去はすでに確定し、現在から見て宿命であって、もはや動かないが、歴史は動くのである。歴史と過去は別である。

 歴史は記述されて初めて歴史になる。歴史は徹頭徹尾、言葉の世界である。記述に先立って過去の事実の選択が行われる。選択には記述者の評価が伴う。評価は何らかの先入見に基づく。歴史という純粋な客観世界は存在しない。それなら歴史は歴史家の主観の反映像かといえばそうはいえない。

 歴史は「自己」がそこに属する世界であり、「自己」より大きな、それを超えた世界でもある。何らかの客観世界に近づこうと意識的に努めない限り、歴史はその扉を開いてくれないが、しかし何らかの客観世界は「自己」が動くことによって、そのつど違って見える存在である。

 歴史家のヤーコブ・ブルクハルトは例えばツキュディデス(古代ギリシャの歴史家)のなかには今から百年後にようやく気づくような第一級の事実が報告されていると言っている。過去の資料は現在の私たちが変化して、時代認識が変わると、それにつれて新しい発見が見出され、違った相貌を示すようになるという意味である。歴史は歩くにつれて遠ざかる山の姿、全体の山容が少しずつ違って見える光景に似ている。それは歴史が客観でも主観でもなく「自己」だということである。

 歴史が「自己」だという意味は、過去との果てしない対話の揚げ句にやっと立ち現れる瞬間の出来事で、大歴史家はそのつど決断をしつつ叙述を深める。私が現代日本の大半の職業歴史家に不満と不信を持つのは、彼らが歴史は動かないと思い定め、固定観念で過去を描いているからである。何年何月に何が起こったかを知ることは歴史ではない。しかし彼らは歴史はあくまで事実の探求と確定だと思っている。

 ブルクハルトが歴史の中に「不変なもの、恒常的なもの、類型的なもの」を認めると言ったとき、それはイデアという一語に近いが、哲学者のようにそうは簡単に言わなかったのは歴史は、動くものだといういま述べた前提に立っているからで、動くものの相における普遍の「価値」に向かう姿勢を示している。

 ブルクハルトの歴史探求も私には宗教体験に似ているように思える。

つづく

『悲劇人の姿勢』の刊行記念講演会は次の通りです。

  第三回西尾幹二先生刊行記念講演会

〈西尾幹二全集〉

 第2巻 『悲劇人の姿勢』刊行を記念して、講演会を下記の通り開催致します。

ぜひお誘いあわせの上、ご参加ください。

   ★西尾幹二先生講演会★

【演題】「真贋ということ
 ―小林秀雄・福田恆存・三島由紀夫をめぐって―」

【日時】  2012年5月26日(土曜日)

  開場: 18:00 開演 18:30
    
【場所】 星陵会館ホール(Tel 3581-5650)
     千代田区永田町201602
     地下鉄永田町駅・赤坂見附駅より徒歩約5分

【入場料】 1,000円

※予約なしでもご入場頂けます。
★今回は懇親会はなく、終了後名刺交換会を予定しています。

【場所】 一階 会議室

※ お問い合わせは下記までお願いします。

【主催】国書刊行会 営業部 

   TEL:03-5970-7421 FAX:03-5970-7427
   
   E-mail: sales@kokusho.co.jp
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・坦々塾事務局   

   FAX:03-3684-7243

   tanntannjyuku@mail.goo.ne.jp

星陵会館へのアクセス
〒100-0014 東京都千代田区永田町2-16-2
TEL 03(3581)5650 FAX 03(3581)1960

「GHQ」第八回南太平洋の陣取り合戦・お知らせ

『悲劇人の姿勢』の刊行記念講演会は次の通りです。

  第三回西尾幹二先生刊行記念講演会

〈西尾幹二全集〉

 第2巻 『悲劇人の姿勢』刊行を記念して、講演会を下記の通り開催致します。

ぜひお誘いあわせの上、ご参加ください。

   ★西尾幹二先生講演会★

【演題】「真贋ということ
 ―小林秀雄・福田恆存・三島由紀夫をめぐって―」

【日時】  2012年5月26日(土曜日)

  開場: 18:00 開演 18:30
    
【場所】 星陵会館ホール(Tel 3581-5650)
     千代田区永田町201602
     地下鉄永田町駅・赤坂見附駅より徒歩約5分

【入場料】 1,000円

※予約なしでもご入場頂けます。
★今回は懇親会はなく、終了後名刺交換会を予定しています。

【場所】 一階 会議室

※ お問い合わせは下記までお願いします。

【主催】国書刊行会 営業部 

   TEL:03-5970-7421 FAX:03-5970-7427
   
   E-mail: sales@kokusho.co.jp
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・坦々塾事務局   

   FAX:03-3684-7243

   tanntannjyuku@mail.goo.ne.jp

星陵会館へのアクセス
〒100-0014 東京都千代田区永田町2-16-2
TEL 03(3581)5650 FAX 03(3581)1960

『Voice』と『週刊新潮』 ・お知らせ

 5月初旬に出る私の二つの論考は次の通りです。

 「ありがとうアメリカ、さようならアメリカ」(「Voice」6月号)は親米保守と護憲左翼が手を結んで日本の防衛をあいまいにし、危うくしている今の安閑としたムードに一石を投じたつもりです。25枚論文です。

 「『正田家』と『小和田家』はいかに皇室と向き合ったか」(「週刊新潮」今週出る号)は4ページ論文で、皇室の過去と現在を追った私なりの本質論です。大変な分量の雑誌記事のコピーと6冊の単行本を資料として托されたので、月刊誌なら100枚論文になるところですが、わずか13枚の内に組み立てるので苦心しました。とり上げた事実はひとつひとつ校閲部が検証するので、週刊誌がいい加減なことを書いているとよくいわれるのはまったくのウソです。月刊誌のほうがずっと大雑把です。今度そのことを経験しました。

『悲劇人の姿勢』の刊行記念講演会は次の通りです。

  第三回西尾幹二先生刊行記念講演会

〈西尾幹二全集〉

 第2巻 『悲劇人の姿勢』刊行を記念して、講演会を下記の通り開催致します。

ぜひお誘いあわせの上、ご参加ください。

   ★西尾幹二先生講演会★

【演題】「真贋ということ
 ―小林秀雄・福田恆存・三島由紀夫をめぐって―」

【日時】  2012年5月26日(土曜日)

  開場: 18:00 開演 18:30
    
【場所】 星陵会館ホール(Tel 3581-5650)
     千代田区永田町201602
     地下鉄永田町駅・赤坂見附駅より徒歩約5分

【入場料】 1,000円

※予約なしでもご入場頂けます。
★今回は懇親会はなく、終了後名刺交換会を予定しています。

【場所】 一階 会議室

※ お問い合わせは下記までお願いします。

【主催】国書刊行会 営業部 

   TEL:03-5970-7421 FAX:03-5970-7427
   
   E-mail: sales@kokusho.co.jp
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・坦々塾事務局   

   FAX:03-3684-7243

   tanntannjyuku@mail.goo.ne.jp

星陵会館へのアクセス
〒100-0014 東京都千代田区永田町2-16-2
TEL 03(3581)5650 FAX 03(3581)1960

お知らせ

 『歴史通』(ワック出版)の5月号(4月9日発売)が「総力特集・天皇」を出す。私はここに「雅子妃問題の核心――ご病気の正体」というかなり長い論文を書いた。新しい材料が手に入ったので、今までになく実態が分り、皇族と一般民間人、例外者と普通人の間の「自由」の意識の違いをめぐるパラドックスに踏み込んだ。深層心理的に、かつ目に見えるように具体例をもって問題の核心を新たに提示し、明日の皇室と国家の未来への期待を綴った。

 2008年に出した『皇太子さまへの御忠言』のワック文庫本を先日出版したが、当論文の収録はこれには間に合わなかった。先立つ『WiLL』3月号と『週刊新潮』2月23日号の私の関連文章まではこの文庫本に収録されている。

 間もなく、4月末までに、西尾幹二全集第2巻(第3回配本)『悲劇人の姿勢』が世に問われることになる。これに伴い、5月26日(土)午後6時より、恒例の刊行記念講演会を行う。場所は前回と同じ星陵会館ホール(地下鉄永田町あるいは赤坂見附より徒歩約5分)。

 演題は「真贋ということ――小林秀雄・福田恆存・三島由紀夫をめぐって」である。

 入場¥1000、予約は要らない。一部のお知らせに間違えて予約の文字が記されたが、予約は必要ない。

 今回は懇親会は行わない。代りに終って名刺交換会とサイン会を行う。同会場の懇親会の宴会費が内容に比して高過ぎると判断されたからである。参加者に迷惑をかけたくなかった。次の機会には良い会場を探したいと思うが、今回は間に合わなかった。

『天皇と原爆』刊行(二) ・チャンネル桜出演のお知らせ2

宮崎正弘さんの書評

 

この馬鹿馬鹿しくて、だれた世の中に号砲一発、保守論壇も揺さぶる
  西尾式爆発力をともなった問題提議、史観の再確立を呼びかける問題作

  ♪
西尾幹二『天皇と原爆』(新潮社)
@@@@@@@@@@@@@@@

 いきなり近代史の総括的整理を西尾氏は次のように叙する。
 西安事件から廬講橋事件、そして「スペインの内戦から第二次上海事変(1937年8月)まで歴史を動かしていたのはコミンテルンとユダヤ金融資本です。突如として英ソが手を結んだ欧州情勢はヒットラーの憎々しさだけでは説明できません。当時アメリカ大統領がコミンテルンの思想に犯されていたことは判明しましたが、英仏の政治中枢も同様であったかもしれません。スペインの赤化政府を応援し人民戦線に簡単に味方した欧米の知識人、アンドレ・マルロォやヘミングウェイ等の動きはやはり簡単には理解できない謎です。あの時代を神秘的に蔽ったコミンテルンの影響史と、それを裏から手を握った金融財閥の影を決定的要因と見ない歴史叙述は、やはり現実を反映しないフィクションにすぎない」
 
 そうだ。スペイン内戦になぜマルロォは飛んでいって『希望』を書き、ヘミングウェイは『誰がために鐘は鳴る』を書いたのか、不思議でならなかった。名状しがたいムードに流されたか、あるいは日本でもマルクス主義が猛威を振るったように流行現象、知識人にもっとも伝染しやすい病気であったのか?
 本書は日本の空疎な論壇やアホな「政治ごっこ」に明け暮れるぼんくら政治家、それを許容している大半の日本人にしかけられた凄まじい破壊力をもつ爆弾である。

 しかし多作で多彩なテーマを追う西尾さんが、またまた瞠目すべき題名の本書を書かれたわけだけれど、いったい何時、このような新作を構想され、準備し、執筆されているのかと訝しんだ。傍らで全集を出されている時期にもあたり、執筆の時間がよくおありになったなぁ、と。
本書の「あとがき」から先に読んで納得、これは二年がかりでテレビのシリーズで論じられた草稿に手を加え、TPPも話題の中にでてくるほどに時宜を得た政治的哲学的な装飾を施した新刊なのである。
読み始めて評者(宮?)はなぜか脈絡なく歴史家ポール・ケネディの『大国の興亡』という仮説を類推し、ついでポールの息子と日本に滞在中になした会話を思い出した(息子は日本に一年ほど研修できていた)。
そのとき、評者は或るラジオ番組をもっていたので、かれに出演を促し、英国人としての意見を聞いたことがある。
ちょうどパパ・ブッシュの湾岸戦争が米国の大勝利に終わって、ブッシュ政権は「ニュー・ワールド・オーダー」(世界新秩序)なる新戦略を盛んに吹聴していた。後にもイラク戦争に大勝利したブッシュ・ジュニアのときにネオコンが「リバイアサンの復活」を獅子吼したような戦捷の雰囲気があった。
しかし中東と南アジアでの米軍の結末はどうだろう。米国の栄光はすぐにペシャンコになり、イラクはシーア派にもぎ取られる勢い、アフガニスタンは宿敵ビン・ラディンを殺害した途端に撤退を始める。連続する無惨なる敗北、あのベトナム戦争のときの精神的トラウマが米国の輿論を覆い尽くし、イランが核武装するのを拱手傍観、経済制裁でお茶を濁しつつ、ホンネではイスラエルの空爆奇襲を待望しながらも、表向きは「イスラエルの空襲には協力しない」などと綺麗事を言いつのる。
やけっぱちの米国は口舌の徒=オバマを選んだ。彼の外交は素人であり、敗北主義であり、猪突猛進の米国が内向期の循環をむかえたかのようだ。
そのことはともかくとして、湾岸戦争の勝利直後、ポール・ケネディの息子に「世界新秩序なんて聞いて、どう思うか?」と尋ねると、「いやな感じですね。なんだかヒトラーみたい(に米国は傲岸である)」。

 さて本書で西尾さんが力点をいれて論じるテーマのキー・ワードは「闇の宗教」(米国)と「神の国」(日本)である。
米国は「マニフェスト・ディスティニィ」などという呪術的な闇の信仰にとりつかれて奴隷解放の名の下の南北戦争以後、西へ西へとインディアンを撲滅しつつ西海岸から太平洋に進出し、その際に最大の障害だったスペインに戦争を仕掛けてプエルトリコを奪い、キューバにスペイン艦隊を追い込んで殲滅し、運河を建設するためにパナマを奪い、ハワイを巧妙に謀略で合併し、そしてサモアの半分を奪い、フィリピンを奪い、その果てしなき侵略性を剥き出しにしつつ日本との戦争を準備したのだ。
日米戦争は始めから終わりまで米国が仕掛け、日本にとってみれば理由の分からないまま、米国の横暴に挑戦した。やむにやまれぬ大和魂の発露でもあった。
米国は最終的にシナの権益を確保するために満州を奪おうとして、日露戦争では日本を便宜的に支援したものの、日本が満州を先取りするや、猛烈に日本に攻撃を仕掛け、つまり『太平洋戦争』なるものは、米国の謀略で日本を巻き込んだ結末にほかならない。
米国が「正義、フェア」などと表面的には綺麗事を並べるが、その基本にある潜在意識は闇の宗教、やってきたことは正反対、おぞましいばかりの殺戮と侵略と世界覇権だった。
 この文脈から推論すれば次なるシナリオとは、米国に楯突く中国といずれ米国は対決せざる得なくなり、その準備のために在日米軍の効率的再編を行い、日中離間をはかっていることになる。
 こうした歴史観からすれば、対米戦争は日本が悪かったとか、シナへは侵略戦争だったとか、正邪が逆転している、いまの日本を蔽う自虐史観がいかに視野狭窄で政治的謀略に基づく利敵行為であるかが理解できる。
 本書で西尾さんは「懇切丁寧」ともいえるほど平明で、しかし執拗に半藤一利らに代表される左翼似非(えせ)史観を糾弾しつつづける。
 評者にとっては半藤とか、丸山真男とかは「正真正銘のバカ」という一言で、詳しく論ずるのも馬鹿馬鹿しいと思っている。「正真正銘のバカ」というのは「たらちねの母」のように枕詞である。しかし西尾さんは、これらの似非歴史家への批判を通じて、わかりやすい、正しい歴史観を説明されるのである。加藤某女史への適切にして舌鋒鋭き批判の展開も、国学の復活と視座からパラレルに揶揄される。

 西尾さんはこうも言われる。
 「まだ国家が生まれていない十三、四世紀のヨーロッパ世界において、教会が『神の国』であったのと似た意味で、この列島で意識されていた『神の国』とは、一貫して天皇だった」、日本では「儒仏神という三つの宗教があって織りなす糸のように混じり合い絡み合い、とりわけ神仏が二つに切り離せないほどに一体化してしまったところに儒教が出てきて、仏教に支配されていた神道を救い出すというドラマもおこ」った。これが「江戸末期の水戸学、『国体論』の出現でした」

 ともかく一神教の「神の国」である米国は、「日本にサタンを見て、この国の宗教をたたきつぶそうと意識していたんですよ。ためらわずに原爆まで落とすくらいに。こっちは『菊と刀』みたいなことは全然考えてなくて、(当時の日本の論客らの総括では)アメリカは統計と映画の国と書いてあるだけ」で、「そんなことで勝てっこない」
 だから言い訳がましくも強弁を張る米国の政治家とて、原爆投下は後ろめたいのであり、日本は米国に執拗にそのことを糾弾すべきであると西尾さんは言う。
しかも米国は日本に復讐されると恐れるがゆえに日本の核武装を防ぐために核拡散防止条約を押しつけ、NPT体制の構築でひとまず安心、しかしインド、パキスタンに続いて北朝鮮の核武装で「核の傘」が破れ傘になるや、日本が米国の核の傘は信用できないと言えば、おどろき慌てて「核の傘は保障する」とだけを言いにライス国務長官が日本へ飛んできたこともある。
 西尾さんは本書の掉尾を藤田東湖の『正気の歌』を掲げて筆を擱いているが、本書を通読したあとだけに理由が深く頷ける。西尾さんは子供の頃、この正気の歌を暗誦していたというのも驚きだった。 
         ○△ ○△ □○

番組名  :「闘論!倒論!討論!2012}

テーマ  :「キャスター討論・漂流する戦後日本を撃つ!」

放送予定日:平成24年2月18日(土曜日)
       20:00~23:00
       日本文化チャンネル桜(スカパー!217チャンネル)
       インターネット放送So-TV(http://www.so-tv.jp/)
       「Youtube」「ニコニコチャンネル」オフィシャルサイト
     
パネリスト:(50音順敬称略)
      井尻千男 (桜プロジェクトコメンテーター)
      小山和伸 (桜プロジェクト・報道ワイド日本Weekendキャスター)     
      鈴木邦子 (報道ワイド日本Weekend」キャスター
     西尾幹二 (GHQ焚書図書開封)
      西村幸祐 (報道ワイド日本Weekend・桜プロジェクトキャスター)
      三橋貴明 (報道ワイド日本Weekend・桜プロジェクトキャスター)
      三輪和雄 (桜プロジェクトキャスター)
      
          
司 会 :水島 総(日本文化チャンネル桜 代表)

私の書くものは全て自己物語(二)

私小説的な自我のあり方

西尾 遠藤さんもご存知のように、私の書くものは研究でも評論でもなく、自己物語でした。ドイツ留学を皮切りに、ソ連文学官僚との思想対話や西ドイツの学校めぐり、中教審委員や新しい歴史教科書をつくる会の会長時代の体験記、戦争と疎開世代である私の幼少年物語、はては自分のガン体験まで、「私」が主題でないものはありません。私小説的な自我のあり方で生きてきたのかもしれません。

遠藤 先生がドイツに留学されたのは、一九六五年から一九六七年の間ですね。当時は、ヨーロッパ留学など簡単ではない時期だったのでは。

西尾 羽田空港から出発する際に、三十人もの教え子の学生たちが「西尾先生バンザーイ」とやってくれた、まだそんな時代ですから。ドイツの街のショーウィンドウに見る日本のカメラ、家電が誇らしく、見るもの聞くもの何でも日本と比較していました。

遠藤 え? 「比較」ですか。

西尾 ヨーロッパについて私が書いたことは当時、まだ書かれていなかったヨーロッパでした。日本に伝えられていないヨーロッパがあったのです。私は新鮮な驚きと感動をもって「比較」しました。日本の高校進学率が七割を越えていたあの時代に、逆にドイツは中学卒(義務教育)で終わる人が七割でした。それから、ドイツの大学には「卒業」がなかった。え、何だろう? とこの二つの事実に、私は強い疑問を持ちました。『日本の教育 ドイツの教育』にはじまる私の教育社会論は、ここから展開されたのでした。  ところが、日本の大学では比較文化や比較文学が大流行していました。出版界では『タテ社会の人間関係』や『縮み志向の日本人』、『甘えの構造』『日本人の意識構造』など、日本人論花盛りだった。私は違うと思った。私の出発をなした『ヨーロッパ像の転換』や『ヨーロッパの個人主義』も「比較」を用いていますが、動機が違う。私も日本を意識していますが、日本人を定義なんかしていない。日本文化を特殊視していない。

遠藤 なるほど、比較文化や比較文学に対して疑問を持たれていた。

西尾 比較とは本来、認識の手段や方法に過ぎず、それを体系化したり、自己目的化するものではありません。日本では比較文化や比較文学にしても、「比較学」として学問化してしまうのです。  ある著名な東大教授は比較の系譜を辿り、古代ギリシアの歴史家ヘロドトスが比較の先蹤であり、フランスの思想家ヴォルテールが二番手、日本の比較学のはしりは『魏志倭人伝』だと言った。そんなバカなことがあるかと思いました。この方面の学会では、その後も「ヘーゲルと空海」とか「漱石とカフカ」、「ハイデガーと道元」といった論文が様々な学者から発表されました。二つを選んで最初に似ていると決めてかかれば答えが先にあるので、それで終わってしまう。言わば、イデオロギーに過ぎません。

「比較」には驚きが大事

遠藤 日本人にとってそれは、物事のスタンダード(基準)は常に外にあり、外の基準で自己を評価しなければならないというイデオロギーになってしまう。アメリカやヨーロッパの政治を基準に、日本の政治が遅れているとかいわんばかりの議論がまだされていますが、こんなくだらない話はありません。日本人は往々にして、他者の視点で自己を評価するということをしがちですが、それは「比較」の自己目的化がもたらした弊害だと思います。  話は戻りますが、先生の比較学に対する批判はその後どのように?

西尾 批判的な発言を続けていたら、東大と東工大の比較文学研究科が私に発言させようと、私を招聘して二度のシンポジウムを開催しました。さすが公正です。東大は佐伯彰一先生、芳賀徹先生、東工大は江藤淳さんが中心で、錚々たるメンバー十数人を集めたのですが、私が半分ぐらい発言してしまった(笑)、その全記録も──これは本になっておらず──第三巻「懐疑の精神」に収録しています。

遠藤 そもそも、比較するとは、どういうことなのでしょうか?

西尾 比較とは、何よりも驚きが大事です。何かに出会って心に驚きがあり、その驚きを表現することが、すなわち生きることでもあるわけです。たとえば、私はドイツ人が釣銭を渡すのにも引き算ができず、足し算で計算することに驚きました。百マルク紙幣を出して四十五というお釣りを渡す際、五十五、六十五、七十五と返す。ドイツ人は名医を選ぶという考えがなく、医者はみな同じと思っている。これも驚きでした。  ところが、比較学として学問化されてしまうと、はたして驚きが生まれるのかどうか。驚き自体が目的化してしまうのではないかとの危惧から、比較文化や比較文学を学科にすること自体に反対したのです。

遠藤 全集の全てが先生の個人物語であり、これまで私小説的な自我で生きてこられたということでした。この私小説的自我の表現こそ、西尾幹二という表現者の本質なのではないかと思います。自我の発露であるがゆえに言葉が強靱で、人を惹き付ける力がある。運動的、政治的な言葉ではなく、思想的、文学的な言葉であるところに、先生の文章の魅力と強さがあると思う。その意味で、政治や運動といった多数派の形成を目的としたグレーな言葉とは異なります。  さてそこで、かつて新しい歴史教科書をつくる会の会長という、いわば賛同者の拡大を目的とした営みのなかで言葉を発せられてこられたことに対して、矛盾や限界を感じられたことはありませんか。

西尾 あったからこそ失敗したのです。いまでも皆さんに迷惑をかけたと思っています。長谷川三千子さんが私のことを「孤軍奮闘の人」と書いて下さったことがあり、「たとへ百万の助太刀が駆けつけても、そのかたはらでやはり孤軍奮闘する人」と。ありがたいお褒めの言葉ですが、組織のリーダーには不向きということです。『国民の歴史』(文春文庫)を書くことで勘弁していただきました。

根源的な大江健三郎批判

遠藤 『国民の歴史』は、先生が批判された大江健三郎氏などから、かなり叩かれましたね。

西尾 反対陣営からの誹謗本が、私の知るかぎりでも五冊出ていますね。大江さんも、若い頃から私の批判をさんざん受けてきたので、恨み骨髄で『国民の歴史』を目の敵にしました。

遠藤 西尾先生は、大江氏批判をかなり早い時期になさっていますね。

西尾 二十九歳のとき、同世代の彼の「『民主主義』という文部省教科書に熱い感情」とか「戦争放棄はぼくのモラル」とかに、ウソ言いなさんなと書いた。三十三歳のとき、『批評』という雑誌に「大江健三郎の幻想風な自我」という五十枚の文芸評論を書いた。自分で言うのも恥ずかしいのですが、これがなかなか素晴らしい論文なのです(笑)。ところがなぜか、単行本に入れないで終わった。謎です。今度、『週刊新潮』掲示板のおかげで四十年ぶりに再会した。

遠藤 大江氏の何が一番気に入りませんか。

西尾 文体論からはじめ、私小説的自我の幻想肥大があると大江文学の根源的なところを否定しています。そして、幻想風な自我は石原慎太郎氏も同じとまで書いていますから、是非お読みいただきたいですね。

遠藤 この全集を読むことで、西尾先生が若い頃に書かれた論考が全て現在にがっているという全体像を手にすることができるわけですが、若い頃に書かれた文章がまた瑞々しくて鋭く、情熱と冷静さがあって、ひょっとすると三十代で西尾幹二という評論家は完成されていたのかと思うほどです。

西尾 実は、自分でも三十代後半に書いた文章が落ち着いたいい文章だと感じています。当時は、爆発的といってもよいくらいの活動をしていました。第三巻「懐疑の精神」には、「言葉を消毒する風潮」「マスメディアが麻痺する瞬間」「テレビの幻覚」「現代において『笑い』は可能か」といったメディア論も収録されています。

つづく

『WiLL』2011年12月号より

「個人主義と日本人の価値観」講演会開催のお知らせ

   西尾幹二先生講演会

「個人主義と日本人の価値観」

〈西尾幹二全集〉第1巻『ヨーロッパの個人主義』(1月24日発売)刊行を記念して、講演会を下記の通り開催致します。

 ぜひお誘いあわせの上、ご参加ください。

★西尾幹二先生講演会

    「個人主義と日本人の価値観」

【日時】  2012年2月4日(土曜日)

  開場: 13:30 開演 14:00
    ※終演は、16:00を予定しております。

【場所】 星陵会館ホール

【入場料】 1,000円

※予約なしでもご入場頂けますが、会場整理の都合上、事前にお知らせ頂けますと幸いです。

★講演会終演後、<立食パーティ>がございます。

【場所】 星陵会館 シーボニア 

※ 16:30~(18:30終了予定)

【参加費】 6,000円

※<立食パーティー>は予約が必要となります。1月24日までにお申し込みください。
ご予約・お問い合わせは下記までお願いします。予約時には、氏名・ご連絡先をお知らせください。

・国書刊行会 営業部 

   TEL:03-5970-7421 FAX:03-5970-7427

   E-mail:sales@kokusho.co.jp

・坦々塾事務局   

   FAX:03-3684-7243

   tanntannjyuku@mail.goo.ne.jp
星陵会館(ホール・シーボニア)へのアクセス
〒100-0014 東京都千代田区永田町2-16-2
TEL 03(3581)5650 FAX 03(3581)1960

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※駐車場はございませんので、公共交通機関にてお越し下さい。)

主催:国書刊行会・坦々塾

後援:月刊WiLL