新刊『中国人に対する「労働鎖国」のすすめ』

中国人に対する「労働鎖国」のすすめ 中国人に対する「労働鎖国」のすすめ
(2013/04/02)
西尾幹二

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 目 次
第一部 中国人に対する労働鎖国」のすすめ(2013年)

第一章 日本文化が壊れる
第二章 中国人とはどういう民族か
第三章 東京が「中国の首都」にならないために!

第二部 「労働鎖国」のすすめ(1989年)

第一章 労働者受け入れはヒューマニズムにならない
第二章 世界は「鎖国」に向かっている
第三章 知識人の「国際化コンプレックス」の愚かさ
第四章 日本は25億のアジアに呑み込まれる恐れがある
第五章 「労働鎖国」で日本を守れ!

あとがき

飛鳥新社¥1500+税
4月2日に店頭に出ます。

 もう二十年以上前になりますが、ベトナム人が中国人を粧って船で大挙渡来したことがあり、あの頃私は『労働鎖国のすゝめ』という本を書きました。外国人単純労働力を受け入れるか否かが論じられていた時節で、この本は歯止めに多少とも役立ったと考えています。

 時代が替わり、近頃は中国人が怒涛のごとく押し寄せて来て、定住者は在日韓国朝鮮人を上回る数です。二十年前の本は復刻の必要があるといわれ、ご覧のように「中国人に対する『労働鎖国』のすすめ」という新しい稿を加えて一冊にまとめてみました。

 あのときもそうですが恐らく今度も人種差別とかレイシズムとか非難されるでしょう。「中国人に対する」と限定した前半の文はことに論難の対象とされるかもしれません。しかしこれは今や高度の政治危機の問題で、そんな呑気なことは言っていられないのではないでしょうか、と私はいま判断しています。皆様のご賢察をお願いしたい次第です。

 尚本文中に約十ページにわたり、私がすでに関与していない「新しい歴史教科書をつくる会」が中国人スパイ事件によってこうむった混乱の歴史とその最近の動きに対する若干の私見を付記したことを、末筆乍らお知らせしておきます。

 『正論』5月号にさっそく書評がのっています。最近ご活躍めざましい坂東忠信氏の書評です。

『WiLL』現代史討論ついに本になる(三)

 26日発売の『WiLL』3月号巻頭に、私の「安倍政権の世界史的使命」という論文が発表されますので、ご報告しておきます。

 『自ら歴史を貶める日本人』(徳間書店)をめぐって、討論者のおひとりの福地惇さんとテレビ討論を交しました。これは私のGHQ焚書図書開封の時間帯を利用して、チャンネル桜より1月16日と30日に放映されます。第一回目はすでにYou Tube にもなっています。本日はまず1月16日分のテレビ放映像をご紹介いたします。

『WiLL』現代史討論ついに本になる(二)

宮崎正弘の国際ニュース・早読みから(平成24年12月26日号より)

西尾幹二ほか『自ら歴史を貶める日本人』(徳間書店)
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 本書は月刊誌『WILL』に連載された四人の座談会をまとめたもので、西尾幹二、福井淳、柏原竜一、福井雄三という四人の論客が近・現代史を縦横に語り尽くしながらも偽歴史家、偽学者等の出鱈目な所論を俎上に載せて、ふたたび立ち上がれないほどに批判している。

 ノモンハンは日本が勝利していたのに、ソ連の謀略宣伝と敵のプロパガンダに内通した日本側の利敵行為などにより、ソ連が勝ったと長く信じられてきた。

 すでに南京大虐殺も、三光作戦もでっち上げであることは120%証明されたが、まだ左翼のプロパガンダを鵜呑みにして、意図的に中国に都合の悪い事実を伏せる売国的学者、それも東京大学あたりに蟠踞しているから始末が悪い。
 
 本書では主に加藤陽子、北岡伸一、それから「長屋の歴史講釈師」として、まだ命脈をもっている半藤一利の三人を批判するが、ほかにも大勢の左翼作家(司馬遼太郎とか)や学者が批判の対象となって登場している。

 小誌の読者にとって、おそらく内容の紹介は多言を要せずだろう。

 そこで本書のなかでふたつ気になった個所をのべてみると、第一は文明の衝突、あるいは宗教の衝突だったとする日米戦争という解釈において(その論旨には賛成であるが)、蒋介石は宋美齢にいわれて敬虔なキリスト教徒になったため米国の支援を受けたという流れ。 

 この指摘はまことにその通りだが、評者(宮崎)は一貫して蒋介石は偽キリスト教徒だったと考えている。

 蒋介石の生まれ故郷は浙江省寧波郊外にある。かつて寧波のホテルからクルマを雇って二時間ほどで着いた。生家は観光客用に解放されているが、この家には礼拝室がない。

 他方、南京、廬山、杭州などにある宋美齢の別荘を見学したが、かならず立派な礼拝室があり、大きなマリア像が客間に飾られ、いかにも意味深であり、そして不思議なことに夫婦のベッドルームは別々、風呂も別々だった。

 蒋介石は積極的に聖書から引用しての演説をしていない。つまり礼拝室を意図的につくるなど、米国向けの演技の舞台装置である。

 張作霖爆殺人も河本大作犯人説は覆った。
 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BC%B5%E4%BD%9C%E9%9C%96%E7%88%86%E6%AE%BA%E4%BA%8B%E4%BB%B6%E3%82%BD%E9%80%A3%E7%89%B9%E5%8B%99%E6%A9%9F%E9%96%A2%E7%8A%AF%E8%A1%8C%E8%AA%AC

 真犯人は張作霖の子、張学良か、あるいはロシアの謀略機関、もしくは両者の共同謀議であり、これも伊藤博文暗殺の真犯人が安重根でなかったことと同様に謀略の仕掛けは、ソ連式であることに留意しておきたい。

 これらはともかくとして本書は中味がぎっしり詰まって左翼史観への反撃集となったが、装丁も親しみやすく、価格も廉価に抑えられていて、願わくは大ベストセラーとなって世の迷妄を晴らしてほしい。

『WiLL』現代史討論ついに本になる(一)

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 『WiLL』誌上で私が三人の現代史研究家、福地惇、福井雄三、柏原竜一の三氏とくりひろげた「昭和史」論者への批判的討議がまとめられ、本になりました。年末に刊行され、いまやっと店頭に出ました。『自ら歴史を貶める日本人』という題で、徳間書店刊、¥952です。

 「はじめに」と目次をご紹介します。文字通り「徹底批判」ですが、かたわら笑いあり冗談ありで、堂々と楽しみつつ論難しています。手に取ってご覧になって下さい。きっとこれは買わなきゃ損だと思う一冊です。しかも安い値段です。

 1月の私のGHQ焚書図書開封の時間を利用して、この本について私と福地惇氏のフリーなトークが2週にわたって行われます。これも1月中に放映され、You Tubeにも出す予定です。お楽しみ下さい。

はじめに

 どういうわけか「昭和史」というのがはやっています。半藤一利氏の同名ベストセラーを筆頭に、秦郁彦氏や保阪正康氏や北岡伸一氏らは早くからこの分野をプロパーな舞台に活躍していましたし、そこに加藤陽子氏が新たに加わって、それぞれの特色を出して、読書界の表面を賑やかにしています。

 私たち四人はかねてから彼らの仕事ぶりに何となく腑に落ちないものを感じていました。日本は外国と戦争したわけですから、外国の歴史を考えないで自国史を語れません。彼らは、戦争は相手があっての話なんだということが全然わかっていない。

 彼らの思考は日本史だけの狭い座標軸で、小さなコップの中で水が波騒ぐように旋回して空回りしているように見えます。

 スペインやポルトガルの地球規模の拡大はひとまず措くとしても、オランダ、フランス、イギリスの西力東漸(せいりょくとうぜん)、ロシアとイギリスによるユーラシアの南北分割の勢い、アメリカの太平洋への闇雲の伸長は、「昭和史」叙述のいわば前提条件です。歴史を見るのに空間的視野の広がりを持つ必要がある所以ですが、時間的視野の広がりを持つことも必要です。歴史を短く区切ることはできません。何年から何年までが暗黒時代だったと区切るとすれば、そこには政治的意図があります。昭和3(1928)年あたりから歴史が変わったように言うのは東京裁判の要請からくるもので、占領軍がかねて日本史にそれを求めてくるのは、16世紀からの西欧のアジア侵略を視野に入れさせないためであることをしっかり留意しておくべきです。

 私たちがこの本を通じて読者の皆様にぜひとも認識を改めてもらいたいと願っているのは近代日本の戦争の評価ということです。それは公認の歴史教科書に書かれていることとは逆であります。先の大戦争は日本が主導して起こした戦争ではなく、日本は無理やりと言ってもいいような状態で戦争に巻き込まれたことが現実の姿です。

 それから中国大陸のことを考えるなら、非常に早い時期から混乱の極みにあった地帯で、そこへ日本が入りこんでいったがゆえの混迷と政策のまずさは区別されねばなりません。内乱は中国史の常態であるのに、今取り上げたかたがたの「昭和史」は中国をまともな国家のように描いています。いくつもの政府があった大陸を、一つの主権国家のように扱っています。たしかにそのような乱れた中国を日本人がバカにしたのは事実ですけれども、だからといって「侵略」ということにはなりません。日本は中国を何とか普通の国にしようと努力して、扱いかねて、手こずって、火傷をしたのです。戦争をしたがってのは中国人のほうでした。とくに都市部の中国人がそうでした。

 われわれは英米とソ連が手を組むという理屈に合わぬ敵を相手にして戦ってしまったわけですが、ナチスドイツの台頭を阻もうとして二つの異質の勢力が手を結んだあの戦争は、キリスト教ヨーロッパ文明の内部の宗教的な動機を宿した「内戦」だったのではないでしょうか。日本は国家以前のような中国に介入するべきではなかったけれども、西洋の宗教戦争とも本来は無関係でした。

 しかしあの時代には孤立を守っていることなどできなかった。世界に背中を向けていれば、間違いなく日本民族とその列島は列強の餌食になったことでしょう。われわれの先人たちは必死に生きたのです。近代日本人はまさに大変な危機に遭遇させられて、防御対応に並々ならぬ努力を重ねたのでした。

 アメリカ占領軍(GHQ)史観、勝者の裁きの歴史観をわが国の近現代史に当て嵌めて全く恥じることを知らない当代の「昭和史」論者たちは、これら先人の歩みを裁くことに急で、その辛苦に涙することを知りません。私たち四人は彼らの歴史の書き方に疑問と懐疑をずっと抱いていました。平成20年ごろに「現代史研究会」を起ち上げて、言論誌『WiLL』で討議を重ね、平成20(2009)年9月号から平成23(2011)年12月号までに、つごう11回に及ぶ討議を公開して参りました。

 この期間、私たちを支え励ましてくださった『WiLL』の花田紀凱編集長とスタッフの皆様に厚くお礼申し上げます。

 以下ここにその全討議の内容をあらためてまとめて一括し、ご紹介する次第です。

平成24年12月3日

自ら歴史を貶める日本人観 ◎ 目次

第1章 捻じ曲げられた近現代史
第2章 日米戦争は宗教戦争だった
第3章 加藤陽子『それでも、日本人は「戦争」を選んだ』は青少年有害図書
第4章 半藤一利『昭和史』は紙芝居だ
第5章 北岡伸一『日中歴史共同研究』は国辱ハレンチの報告書
第6章 日中歴史共同研究における中国人学者の嘘とデタラメ

『女系天皇問題と脱原発』書評

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宮崎正弘の国際ニュース早読み(メルマガ)より

西尾幹二&竹田恒泰『女系天皇問題と脱原発』(飛鳥新社)
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 これは論壇への爆弾、コントロバーシャルな問題提議の書である。
 いきなり竹田氏がこう切り出した。
 「(女系天皇をすすめている左翼系や反体制文化人が多いが)もしかすると彼らは最終的に皇室の廃絶まで考えているのではないかと思うんです。と言いますのは、彼らの言う、いわゆる女系なる天皇が成立したら、それはもはや天皇ではないと言えるわけですから。女系天皇の誕生で、万世一系の皇統はこれで終焉を迎えたのであって、もはや国民と同じ血筋だ、という話になって、皇室をなくすための先鞭をつける」。 
 対して西尾さんは、『正論』や『WILL』での議論を踏まえて、
「天皇家に基本的人権を持ち込むのは、戦後民主主義的な一連の破壊主義の思想と切り離せないものがある」とずばり本質を抉る。
 ふたりの議論は白熱し、永田町と官界と皇室関係者のあいだで、如何なる「暗闘」があったかを紹介しているが、その凄まじき陰謀的な動きを知ると、ここまで日本の中枢が腐っているかが具体的に人名もでてくるので、手に取るようにわかり愕然となる。
 この二人は或る問題では論敵だったが、こと女系天皇と原発では奇妙に意見の一致を見る。
「不安と希望の間を行ったり来たりしながら深まる考察」と銘打たれた本書は、いずれにしても論壇に仕掛けられた紙の爆弾である。

新論文と新刊本のお知らせ

 間もなく12月の声を聞きますが、12月に入ると私の次の仕事が公開されます。

 『正論』新年号に、「救国政権の条件と保守の宿命」(35枚)と、前回につづく青山学院大学の福井義高さんとの対談「アメリカはなぜ日本と戦争をしたのか」(第二回)が出ます。前者は石原、安倍、橋下の三勢力への応援歌ですが、三氏にはそれぞれ注文もつけました。後者は重要な新鮮情報が満載です。

 次に新刊書は竹田恒泰氏との対談本『女系天皇問題と脱原発』です。内容は以下の通りです。

目次
はじめに                                

PART Ⅰ
天皇後継をめぐる政治的策謀

基準は歴史である

女系容認は雑系につながる/皇室改革という名の謀略/彬子女王の明確な発言/旧皇族末裔たちの覚悟/六〇〇年離れても血は強めてる/薄れてきた藩屏を担う意識/皇太子妃だった美智子様へのいじめ/皇太子殿下の「守る」という言葉の意味/鳥肌が立つような迫真の祈り/「祭り」をどうやって引き継ぐか

PART Ⅱ
女系天皇容認論の黒幕

天皇の原理とは何か?

文献史学の誤ちと皇室信仰/三輪山信仰が明かす「男系継承」/「万葉一統」という言葉遊びの結論/古代史は考古学とは違う!/「天皇制」という言葉の策謀/尊皇思想を浮上させた光格天皇/いまだ続く占領軍史観/神話は史実を反映しているか?/皇室を言祝ぎながら貶めるレトリック/真に皇室を守護するのは誰か?

PART Ⅱ
雅子妃問題の核心

雅子妃をめぐる諸情勢

「火葬」と「埋葬」の簡素化問題/昭和神官の創建を!/身の毛もよだつ皇太子殿下の”祈り“/皇族における自由と不自由/宮内庁はきちんとした病気の説明を/「開かれた皇室」の犠牲者か/皇太子殿下に求められる責務/天皇になって初めて見える景色/いまの宮内庁は「宮外庁」/それでも殿下は苦しい中で耐えている/天皇信仰の最大の敵は“世間の無関心”/公民教科書は「天皇について」たった三行/天皇を「自分流平和主義」に利用する人

PART Ⅳ
皇室を戴く国の「原発問題」

現実に学ぶということ

路上生活者に教えられた原発の矛盾/新規建設には三〇年かかる/被曝がノルマとされる作業員/判定が難しい放射線被害/テロの危険をなぜ放置しておくのか?/IAEAとNTPは日本、ドイツ封じ込め政策/GTCCで全原発をカバーできる/安全神話と平和主義の陥穽/親子三代で責任のとれないものに手をつけてはいけない/科学技術の“ありがたさ”の限界/TPPは“手負い獅子”アメリカの策謀/フードマイレージという新しい発想/親日国を足蹴にし、反日国家に頭を下げてきた日本

おわりに

西尾幹二・青木直人『第二次尖閣戦争』の刊行(一)

 青木直人さんと私の対談本『第二次尖閣戦争』は今、店頭に出ています。青木さんは中国と日本の政財界の不透明な関係を永年取材して来た方で、正義心と愛国心が確かな方です。北朝鮮にも詳しく、この本は東アジア全域の彼の今後の予測も語られています。

 「まえがき」は私、「あとがき」は青木さんが書きました。「まえがき」をここに紹介します。

 2010年9月の中国船による尖閣襲撃事件を私たちは「尖閣戦争」という名で呼んで、同名の本新書を刊行しました。好評をいただき、おかげさまで版を重ねました。

 2012年9月に中国全土において反日暴動デモが起こり、そのあと中国公船の尖閣海域への侵入、威嚇、しつこい回遊、ならびに台湾船団の襲来と水の掛け合い等は、中国政府の激語を並べた挑発行為も含めて、「第二次尖閣戦争」と呼ぶにふさわしいと考えます。本書の標題はそのような意味で名づけられています。

 さりとて本書は、海上で起こった挑発と防衛のシーンを報告したものでも、メディアの一部にすでに出ている両国海軍の実力比較や実践のシミュレーションを描いたものでもありません。事件の背景、世界の政治、経済、外交のさまざまな現実の問題から尖閣のテーマに光を当て、考察を重ねた一書です。それはつまるところ中国論であり、アメリカ論に尽きるといっても過言ではないでしょう。目次をご覧の通り、現代において尖閣問題が、頂上をきわめた中国の没落への秒読みと、黄昏の帝国アメリカの踏ん張りと逃げ腰の姿勢のどちらにリアリティがあるかという問題にほぼきわまるといっても、決して言い過ぎではありません。

 冷戦が終わった二三年前から、日本の運命は中国とアメリカの谷間に置かれたことが分かっていました。いよいよ正念場を迎えているのです。われわれは両国の正体、その本音と詭弁、真実と偽装をしかと見つめて、道を踏み誤らぬようにしなければなりません。

 詳しくは本書全体をお読みいただけばよいのですが、一つだけ本書を仕上げた後で感じたことで、私個人が強調して訴えておきたいことがございます。第四章の末尾に私は次のように書きました。

 「第二次大戦のときもそうでしたが、中国の災いが日本にのみ『政治リスク』となって降りかかり、アメリカやヨーロッパ諸国は大陸で稼ぐだけ稼いで機を見てさっと逃げ出せばよく、日本だけが耐え忍ばねばならないのは、二十世紀前半とまったく同じ不運と悲劇であり得ることをよくわれわれは心し、今から万全の警戒措置をとっておかねばなりません」

 今回の大規模デモ暴動に見る、わからず屋の中国人と、半ば逃げ腰のアメリカ人の姿から、私が本書の読者に訴えたいのは、「先の大戦がなぜ起こったか体験的にわかったでしょう、現代を通じて歴史がわかったでしょう」ということです。「100年以上前から日本民族が東アジアでいかに誠実で孤独であったか、日本人の戦いが不利で切ない状況下での健気な苦闘であったかが今度わかったでしょう」ということです。

 そしてもうひとつ訴えたいのは、わが国は少しでも独立した軍事意志を確立することがまさに急務ですが、それには時間が、もうそんなにないということです。

 われわれ二人は数多くの切実な問題点を本書で訴えました。私は前書にひきつづき良きパートナーを得て、今この大切なチャンスに、時を移さずに貴重な提言を重ね、読者の皆さまに注意を喚起することが可能になったことを、喜びといたしております。

目 次

1章 正念場を迎えた日本の対中政策
2章 東アジアをめぐるアメリカの本音と思惑
3章 東アジアをじわじわと浸潤する中国
4章 やがて襲いくる中国社会の断末魔
5章 アメリカを頼らない自立の道とは

西尾幹二全集 第四巻『ニーチェ』(第5回配本)刊行

 本書『ニーチェ』は昭和52年(1977年)に中央公論社より二部作として二巻本で刊行された。私の著作としては最初の大作であり、学問的論著でもある。平成5年までに四刷を重ねた。

 平成13年(2001年)にちくま学芸文庫として粧を改めてやはり二巻本で改版された。そのとき原著にはない人名索引が付せられ、さらに読者へのサービスとして、新聞雑誌等で原著に寄せられた大小十七篇の論評の中から、重要な七篇をあえて再録し、参考に供した。私の本の中では最も多く評価の言葉をいただいた作品であったからである。

 このたび本全集の第四巻として刊行されるに当り、論評集をも引き継いだが、原著に寄せられたもうひとつの大型の論評をも、古雑誌の中から引き出して新たに収録した。故渡邊二郎氏との対談「ニーチェと学問――『悲劇の誕生』」の周辺がそれである。これは雑誌「理想」1557号、1979年10月号の特別企画であった。ニーチェやハイデッガーの研究家で哲学畑の渡邊氏の批評の掲載には他にない意義が認められる。

 しかしこの本は決して読みにくい難しい本ではない。本全集には四人の校正者がついているが、その中の一人が「冒険小説を読むようにあっという間に読んだ」と言っていた。それには骨がある。序論をとばして、第一章「最初の創造的表題」から読み始めてほしい。一人の天才の青春物語である。

 その証拠に刊行時に、この本に推薦のことばを書いてくださった故齋藤忍随氏(古代ギリシア哲学)が次のように言っている。

「評伝文学の魅力」― 齋藤忍随氏
三つの逸話があれば、その人間の思想を描きうるという意味の言葉がニーチェにあるが、そのニーチェがギリシア古典の研究者としてスタートを切った事実は、いわば逸事としてこれまで完全に黙殺されて来た。若いニーチェの生活と思想に迫る西尾氏の文章は、初めてこの事実の解明を試みた綿密な研究であるとともに、評伝文学の魅力に溢れており、陶酔朦朧体の饒舌とも、乾燥無味調の講釈とも類を異にした傑作である。(東大教授・古代哲学)

 最後のことばに注目してほしい。学問とは物語だという私の主張がよく理解されている。

 本巻の帯には「あとがき」から次のことばが選ばれている。

ニーチェをその背後から、すなわち十九世紀の生活と思想の具体的な「場」に彼を据えて、そこから見るという視点は成立たぬものか。彼が否定した世界を矮小化せずに、むしろその動かぬ必然性の内部に彼を置いてみる。ニヒリズムを具体的に生きた一人の人間の形姿を、私はニヒリズムという言葉を使わずに描いてみたかったにすぎない。(あとがきより)

 本巻は二部作を一冊にまとめたので792ページ(ほかにグラビア10ページ)にもなり、定価も高くなっているのはお許しいたゞきたい。以下に目次を掲げる。

目 次

第一部

序論
日本と西欧におけるニーチェ像の変遷史
……………15
Ⅰ 一八九〇年 …………………………………………………17
最初の反響と興奮(18)一八九〇年代のドイツ(22)高山樗牛の誤解と正解(24)

Ⅱ 一九〇〇年 ― 一九二〇年………………………………32
弁護と解読のはじまり(32)アロイス・リールの文化的解釈(36)ファイヒンガーの『「かのように」の哲学』(37)ラウール・リヒターの生物学的進化論(39)ヨーエルのロマン主義者ニーチェ像(40)日本人の仕事の再検討(42)現代人にとってのニーチェの意味(44)和辻哲郎の独創と限界(47)ジンメルと阿部次郎(50)永劫回帰説をめぐって(52)マックス・シェーラーのルサンチマン論(55)

Ⅲ 第一次世界大戦 ― 一九三〇年…………………………61
ゲオルゲ派の神話的ニーチェ像(61)ベルトラムと小林秀雄(66)クラーゲスの心理主義(71)

Ⅳ 一九三〇年 ― 第二次世界大戦…………………………79
ドイツにおけるニーチェ観の多様化と深化(79)大戦前夜と日本の近代||シェストフ論争(82)解釈者自
身が問われるニーチェ解釈||ヤスパースとハイデッガー(88)『アンチクリスト』におけるルター批判の一
例(95)日本人としての課題(101)

第一章
最初の創造的表現
……………………………………………107

第一節
早熟の孤独
…………………………………………………109
六人の婦人と一人の男児(109)十三歳の自叙伝(114)フリッツ、ピンダー、クルーク(117)母からの解放と呪縛(120)
M・エーラー『ニーチェの祖先の系図』(124)父方の祖父母(127)幻想としての父親像(129)

第二節
思春期の喪神
…………………………………………………135
年少の覚悟(135)プフォルタ学院への誘い(136)プフォルタ学院生活とホームシック(141)得られなかった新しい友情(144)本書叙述の方法(148)母からの離反と信仰問題(150)青春の哲学的著作から(154)

第三節
ヘルダーリンとエルマナリヒ王伝説――青春の危機
……………161
「ゲルマニア」同人の活動(161)オラトリオの作曲(163)ワーグナー音楽との最初の出会い(166)ヘルダーリン発見の先駆け(169)多産な青春の危機(175)エルマナリヒ王伝説との格闘(182)

第四節
音楽と文献学のはざま
…………………………………………188
史実と神話の境い目(188)エルマナリヒ研究の重要性(196)雷雨とピアノ(199)自称初恋とエロの混乱(201)知識の拡散と「気分について」(206)職業の選択への迷い(210)

第五節
書物の世界から自由な生へ
……………………………………214
生徒ニーチェの語学力(214)ニーチェの生涯におけるプフォルタの意義(218)『悲劇の誕生』の萌芽(221)プフォルタ学院との別れ(225)ラインの旅とボン到着(229)学生組合フランコーニアへの加盟(233)

第二章
多様な現実との接触
…………………………………………241

第一節
フランコーニアの夢幻劇
……………………………………243
クライストとシェイクスピアの場合(243)ボン大学生の夢と行動(246)集団へのアンビヴァレントな関係(252)ニーチェの決闘事件(256)学生組合フランコーニアからの脱退(262)反時代的浪漫主義の挫折(269)

第二節
ショーペンハウアーとの邂逅
…………………………………274
ケルンの娼家と『ファウストゥス博士』(274)ボンからライプツィヒへ(280)『意志と表象としての世界』と
の邂逅(282)影響とは何か(286)

第三節
文献学者ニーチェの誕生
………………………………………291
リチュル教授と古典文献学界(291)文献学者としてのデビュー作(303)憂愁の悲劇詩人テオグニス(308)学者としての自己限定(312)青年の成熟と自己批評(314)
〔追記〕
ニーチェの父の死因  133
「 リチュル╱ヤーン争い」の経緯  296
プフォルタ高等学校の卒業論文「メガラのテオグニスについて」   315

第二部

第一章
自己抑制と自己修練
………………………………………325

第一節
哲学と文献学の相剋
……………………………………………327
生の慰めとしての哲学(327)リチュル教授一家との親交(332)ランゲの形而上学否定に感銘を受ける(338)

第二節
ラエルティオスとアリストテレス
……………………………344
テオグニス、スイダス、ディオゲネス・ラエルティオス(344)ディオゲネス・ラエルティオスの典拠批判(349)学問への疑惑のはじまり(354)アリストテレスの著作目録(358) アリストテレス研究史の流れの中で(360)抑えられていた世界観的欲求(368)

第三節
恋とビスマルク
……………………………………………375
女優ヘートヴィヒ・ラーベ(375)普墺戦争下のザクセンの状況(379)ニーチェのビスマルク観(384)

第四節
ライプツィヒの友人たち
………………………………………390
パウル・ドイセンの場合(390)さまざまな友人群像(396)エルヴィン・ローデの場合(400)

第二章
新しい飛躍への胎動
……………………………………………411

第一節
バーゼル大学への招聘
………………………………………413
本書叙述の方法(413)兵役義務に対する態度(417)軍隊と文献学へのイロニー(419)解釈学の新しい問題(423)
ワーグナーとの初会見(428)バーゼル大学への異例の招聘(431)

第二節
赴任前の日々
…………………………………………440
論文免除で学位を得る(440)スイス国籍に変わる(442)ローデの不遇にみせる姿勢(444)ドイセンへの絶交状(450)幸福と健康の底にある翳り(453)

第三章
本源からの問い
……………………………………………457

第一節
歴史認識のアポリア
……………………………………………460
古典文献学の伝承史的方法(460)就任講演「ホメロスの人格について」(463)十九世紀文献学の理想と使命(466)ニーチェの学問批判の根柢性(468)

第二節
ワーグナーとの共闘
…………………………………………472
バーゼル人気質とニーチェの孤立(472)トリプシェン初訪問(475)急迫する感激の高まり(478)蜜月時代(481)新しいギリシア像への転換と予言(486)自由人の行為の秘密(491)「 新しい大学アカデミー」を求める運動(497)

第三節
フランス戦線の夢と行動
……………………………………504
普仏戦争開戦(504)マデラーネル渓谷での決心(506)『悲劇の誕生』と『ベートーヴェン』(508)芸術家の陶酔と覚醒(513)ディオニュソス的人間はハムレットに似ている(516)認識者の実験(520)

第四章
理想への疾走
………………………………………………527

第一節
バーゼルの日常生活
…………………………529
バウマンの洞窟(529)オーヴァベックとの交渉(530)部屋、服装、散歩、社交界(533)高校教師としてのニーチェ(536)

第二節
『悲劇の誕生』の成立次第
………………………………………544
哲学教授への転籍をはかる(544)厖大広汎な書物の構想(549)『悲劇の誕生』の成立(554)ヤーコプ・ベルナイスによるアリストテレスのカタルシスをめぐる新解釈とニーチェの悲劇観(561)ブルクハルトとの交渉の発端(571)

第三節
歴史世界から自然の本源へ ―― 初期ニーチェの中心問題
…………578
近世形而上学の帰結としてのショーペンハウアー(578)主観的認識論を超えギリシア的存在把握へ(584)ヘラクレイトスと自然の原世界(591)HistorieとPhilologieの相反(595)ゲーテ以後の古典研究の状況(601)西欧的時間観念からの離脱(607)

第四節
十九世紀歴史主義を超えて
……………………………………614
教育問題への発言とブルクハルトの反応(614)『悲劇の誕生』をめぐるリチュル、リベック、オーヴァベック、ローデ(618)トリプシェン最後の訪問とバイロイト起工式(625)ヴィラモーヴィッツ=メレンドルフの攻撃文書とニーチェの立場(627)ワーグナーとローデの応酬(636)理想への疾走(642)

〔追記〕
リチュル教授の生涯と学問 336
学生時代のニーチェの文献学業績総覧 370
パウル・ドイセンの学問上の業績 395
デモクリトス研究における解釈学の問題 426
『悲劇の誕生』の予備作品 524
ニーチェのバーゼル大学講義題目(一八六九夏 – 一八七二夏) 552
『悲劇の誕生』出版後の読者の反響 647

〔附録〕
ニーチェの祖先の系図 マックス・エーラー編 651
参考文献目録 675
あとがき 676
ひとこと 681
書評 浅井真男(683)茅野良男(686)植田康夫(691)吉沢伝三郎(695)平木幸二郎(701)桶谷秀昭(705)谷口茂(707)
追補 渡邊二郎・西尾幹二対談「ニーチェと学問」…………………711
後記……………………………………761
人名索引 790

『GHQ焚書図書開封 7』の刊行(二)

宮崎正弘さんの書評より

 現代日本はなにを甘っちょろいシナ観察をして敵性国家を誤断しているのか
  戦前の長野朗は、国益の視点、鋭敏な問題意識と稀な慧眼でシナを裁断していた
  ♪

西尾幹二『GHQ焚書図書開封7
 戦前の日本人が見抜いた中国の本質』(徳間書店)
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 戦前の陸軍には「シナ通」が沢山いたが、大方は軍のプリズムがあるため観察眼がねじれ歪んでいた。「シナ通」は現代日本のマスコミ用語でいえば「中国学者」か。

 これという快心の中国分析は戦争中も少なかった。満鉄調査部のそれはデータに優れ、しかし大局的戦略性におとり、誤断の元にも成りかねなかった。そもそも草柳大蔵の『満鉄調査部』を読めば分かるが、かのシンクタンクには社会主義者が多数混入していた。
 
 当時、あれほどの日本人がシナの各地にありながら、中国を冷静かつ冷酷に客観的にみていたのは長野朗、大川周明、内田良平ら少数の学者、インテリ、ジャーナリストだけであった。
 
 芥川龍之介の江南旅行記(『上海遊記』『江南遊記』(講談社学術文庫))もじつに面白いが、上海から南京までを駆けめぐった、地域限定であり、滞在も短く、しょせんは現象的観察という側面が否めない。しかし芥川の観察眼は作家の目であり、鋭い描写力があった。

 さて本シリーズは七冊目。

 いよいよこうなると全体で何冊になるのか、想像もつくようになるが、本巻はほぼ全巻が戦前の中国観察の第一人者、長野朗のシナ分析につきる。付け足しに内田良平があるが、本巻ではほぼ付録的である。

 長野の著作は膨大で合計二十作品もあって、ほぼ全てが焚書図書となり、戦後古本屋からも消えた。好事家か、個人蔵書しかなく、それも戦後67年も経てば長野朗の名前を知っている人は中国特派員のなかにさえ稀である。

 評者は、ところで長野の著作を一冊保有しており、それも某大学図書館にあったもののコピィである。もっと言えば、それがあまりにも面白いので、某出版社に復刻を推奨したら、編集者の手元へ移り、そのまま五年か六年が経ってしまった。それが『シナの真相』、しかもこの本だけは焚書にならなかった。だから某大学図書館にあったのである。

 というわけで、このシリーズで西尾さんがほかの参冊をさっと読まれて重要部分を抜粋された。
まずは『シナの真相』のなかに長野朗が曰く。

 「かの利害打算に明らかなシナ人も、ときに非常に熱してくる性質も持っている。シナ人の民衆運動で野外の演説等をやっているのを見ると、演説して居る間にすっかり興奮し、自分の言っていることに自分が熟してくる。その状態はとても日本人等には見られない所である。彼らは興奮してくると、血書をしたり、果ては河に飛び込んだりするのがある。交渉をやっていても、話が順調に進んだかと思っている時に、なにか一寸した言葉で興奮して、折角纏まりかけたのがダメになることがある。シナ人の熱情は高まり易いが又冷めやすいから、シナ人は之を『五分間の熱情』と呼び、排日運動等のときには、五分間熱情ではいけない。この熱情を持続せよといったようなことを盛んに激励したものである」。

 ▼「シナ人の五分間の熱情」と「気死」

 この文言をうけとめて西尾氏は、

 「思い当たる節があります。日本にきている中国人のものの言い方を見ていると、口から泡を吹いているようですね」と指摘されている。

 つい先日の尖閣問題でも、「五分間の熱情」でデモ行進をやり、「日本人を皆殺しにせよ」(殺光)と横断幕に掲げ、シナ人の所有する「日本車」を打ち壊し、シナ人が経営する「日本料理店」を破壊し、シナ人が経営するラーメンやのガラスを割った。

 そして、「五分間の熱情」は、かの尖閣へ上陸した香港の活動家らの凶暴な風貌、掴まっても演説をつづける興奮気味のパフォーマンスに象徴される。以前の尖閣上陸のおりは、海に飛び込んで死んだ反日活動家もいた。

 この自己制御できない熱情を長野朗は「気死」と定義し、次のように言った。

 「日本人は憤って夢中になるくらいのことはあるが死にはしない。シナ人の興奮性から見れば、或いはその極心臓麻痺くらい起こして死んだかもしれない」

 西尾氏は、これを『愛国無罪』とひっかけて興奮する中国製デモの興奮的熱情に見いだし、「日本レストランを襲撃したり、日本大使館に投石したり、やることが非常にヒステリックです。尖閣諸島の騒ぎの時も同じでした。国中が湧きたって、それこそ『気死』していましそうになる。じつに厄介な隣人たちです」
と指摘される。

 また長野朗は『支那の真相』のなかで、こうも言う。

 「しかしシナの混乱した状態を治めるには、最も残忍を帯びた人が出なければダメだと言われている。或るシナの将軍は、いまのシナには非常な有徳者か、それとも現在の軍閥に数十倍する残酷性を帯びた者が出なければ治まらぬと言ったが、シナが治まるまでには、莫大な人間が殺されて居る」

 そう、そうして残酷性を数十倍おびた毛沢東が出現して軍閥のハチャメチャな群雄割拠の凄惨な国を乗っ取った。

 ほかにメンツの問題、衛生の問題、歴史観、人生と金銭感覚などに触れ、シナ人を裁断してゆくのである。

 この長野朗こそ、現代日本人はすべからく呼んで拳々服膺すべし。しかし長野の著作はまだ復刻されていないから、本書からエッセンスをくみ取るべし。

文:宮崎正弘

         西尾幹二全集刊行記念(第4回)講演会のご案内

 西尾幹二先生のご全集の第4回配本「第3巻 懐疑の精神」の刊行を記念して、下記の要領で講演会が開催されますので、是非ご聴講下さいますようご案内申し上げます。 なお、本講演会は、事前予約不要ではございますが、個々にご案内申し上げる皆様におかれましては、懇親会を含め、事前にご出席のご一報いただけますなら、準備の都合上、誠に幸甚に存じます。ご高配の程、どうぞよろしくお願い申し上げます。 
 
            記
 
演 題: アメリカはなぜ日本と戦争をしたのか?(戦争史観の転換)
 
日 時: 9月17日(月・祝) 開場:午後2時 開演:午後2時15分
                  (途中20分の休憩をはさみ、午後5時に終演の予定です。)

会 場: グランドヒル市ヶ谷 3階 「瑠璃の間」 (交通のご案内 別添)

入場料: 1,000円 (事前予約は不要です。)

懇親会: 講演終了後、西尾先生を囲んでの有志懇親会がございます。どなたでもご参加
     いただけます。 (事前予約は不要です。)
     午後5時~午後7時 同 「珊瑚の間」 会費 4,000円

 
お問い合わせ 国書刊行会 (営業部)電話 03-5970-7421
         FAX 03-5970-7427
          E-mail: sales@kokusho.co.jp

『GHQ焚書図書開封 7』の刊行(一)

戦前の日本人が見抜いた中国の本質

目次

第一章 シナの国民性あれこれ(1)
第二章 シナの国民性あれこれ(2)
第三章 シナ軍閥の徴税・徴兵・略奪
第四章 シナ政治の裏を描くほんとうの歴史
第五章 大正年間のシナ――民衆の生活様々
第六章 今日の反日の原点を見る――蒋介石時代の排日
第七章 歴史を動かしたのは「民族」ではないか
第八章 移住と同化 シナ人の侵略の仕方
第九章 満州事変前の漢民族の満洲侵略
第十章 いかに満人は消去され、蒙古人は放逐され、朝鮮人は搾取されたか
第十一章  支那事変――漢民族が仕掛けてきた民族戦争
付論 戦後ある翻訳書に加筆された「南京」創作の一証拠
あとがき
文献一覧

あとがき

 本書は長野朗(1888-1975)のいわば特集号である。といっても、『支那の眞相』(昭和5年/1930年)、『民族戦』(昭和16年/1941年)、『支那三十年』(昭和17年/1942年)のわずか三冊に光を当てたにとどまる。事実の衝撃性と分析の鮮烈性ゆえにもっぱら後の二書に焦点を絞って、本書ではできるだけ多くの彼の文章を提示したいと考えた。

 どのページも目を奪う驚くような事実指摘に溢れているが、わけても本書の第九章「満州事変前の漢民族の満洲侵略」は現代の東アジアの情勢を予言していて、本書制作の途中で私は深く考え込まされてしまった。

 満州事変はいまなお続いているし、これからも起こり得ると読めるのである。満州事変といえば日本があの地域の混乱を力づくで解決しようとした出来事と解されているが、長野朗はそういう見方をしていない。満洲の地にしたたかなパワーをもって侵入したのは漢民族(シナ人)であった。このことを彼は最重要視している。しかも清王朝の時代に大勢は決していたという。蒙古人、朝鮮人、ロシア人、日本人が入ってくる前に、彼らは白アリが建物の土台を食い尽くすように満洲の大地に入り込み、住みつき、事実上そこを支配していた。彼らは生存するためには何でもする生命力を持っていて、利己的で、愛国心などひとかけらもないが、不思議な集合意思を持っていた。

 ロシアが鉄道でカネを落とせばそれで肥り、日本が産業近代化を進めれば利益の大半は自分たちに落ち、やがてできあがった成果は横取りできると最初から踏んでいる。満洲人、蒙古人、朝鮮人はいじめ抜き迫害し搾取する対象でしかない。漢民族(シナ人)と他の民族とでは頭数が桁外れに違いすぎる。マンパワーは恐ろしい。満州事変はこの彼らの民族主義と日本の民族主義とが衝突した事件と長野朗は考えている。支那という国家の意思が発動されて衝突したのではなく、白アリ軍団の集合意思が外にはみ出し、摩擦を重ね、やがて日本と衝突したのである。

 漢民族にとって満洲は東方である。今なお日本も彼らから見れば東方にある。同じである。膨張し拡大する白アリ軍団の進出には理窟も何もない。いわば盲目の意思があるのみである。満州事変はまだ終わっていない。まだまだ続くし、これから違った形で勃発する可能性があるというのが長野の予言に違いない、と私は読みながらしきりに考え、恐怖を覚えた。

 当時の日本人は支那は独力では近代統一国家にはなれないと見ていた。日本の協力なしでは治安もままならないし、貨幣経済ひとつ思うに任せない。日本人は「上からの目線」で大陸を見ていた。しかし1911年から三十年間この土地を自分の足で歩き、つぶさに現実に接していた長野朗は、一貫して「下からの目線」で日本と支那の関係を見ていた。日本の軍人や指導階級とは異なる見方が自ずと確立されていた。長野は愛国者だが、祖国に幻想を持たない。はっきりは言っていないが、日本の大陸政策には知恵がなく、白アリ軍団を統御できずに、バカを見る結果になるだろうと考えていた節がある。昭和16年~17年の時点でこのような内容の本の刊行が許されていたわが国出版界の懐の深さ、あるいはわが国軍事体制のある種のしまりのない暢気(のんき)さが偲ばれる一件である。

 『GHQ焚書図書開封5』の第八章、第九章は長野朗『日本と支那の諸問題』(昭和四年/1929年)を、また第十一章は「世界知識」という当時の雑誌の増刊号(昭和7年)に収められた長野の一論文「満蒙今後の新政権」をとり上げていることに、あらためて注意を促したい。したがって本書は二度目の扱いであり、内容的にはある程度重なっている。ただ、本書との兼ね合いで読者に新しい観点を与えるのは論文「満蒙今後の新政権」のほうである。これはたった今述べた、軍人や指導階級とは異なる満洲への長野の思い入れ、日本の政策への不安がさながら彼の溜息のように聞こえる、人間長野の心の奥深さを垣間見せてくれる論考である。ぜひこれも併読していただきたい。

 長野朗は陸軍士官学校の出身で、石原莞爾と同期であった。陸軍大尉で中国の地に派遣され、いわゆる国民革命軍の動向、民衆の抗日行動を現地で観察した。中国問題の研究に専念するために1921年に軍を辞め、共同通信や国民新聞の嘱託になったり、『中央公論』や『改造』に寄稿したりした。大川周明らと交わり、猶存社、行地社に加盟した。しかし路線の相違に気づき、ここを離れ、農村運動に打ち込むようになった。1938年(昭和13年)に大陸の戦場を視察し、シナ人避難民の悲惨さを見て心を痛めたと伝えられる。彼の思想上の立脚点は農本主義で、国家主義とは異なる道を歩んだ。のちに農本連盟、自治農民協議会を組織した。彼は戦後もずっと活動をつづけ、昭和28年に全国郷村会議委員長になった。1975年(昭和50年)に87歳で没した。

 伝記的事実については以上の略史を伝え得るのみで、私は多く知る者ではない。

(後略)