猪口邦子批判(旧稿)(三)

当節言論人の「自己」不在――猪口邦子氏と大沼保昭氏と

 私が60年代の中頃にミュンヘン大学に留学したとき、同じゼミに若いインド人学生がいた。10代の前半から西ドイツに暮らし、ドイツ的教育を受け、当然だが、話す・書く能力はドイツ人に遜色(そんしょく)がなかった。

 私はドイツ語を読むのはともかく、文法書から外国語を学び始めた日本の外国学者の典型というべきか、話す・書く能力において終始自信がない。ところが、間もなく、不思議なことに気がついた。私の拙(つたな)い言語の駆使力で伝える感想、つまり教授の授業内容への批評や教授の出した新刊書への寸感や助手の誰彼の評価、等々が、大体においてドイツ人の同僚学生を納得させ、共感をよぶのに比べて、件(くだん)のインド人学生の発言は何となく軽んぜられ、無視されるのである。彼が立派なドイツ語で、それなりに立派な内容を語っているのにどうしてか、と思った。

 彼は学問的能力において劣っていたわけではない。もし劣っていたら、ドクター志願者ばかりのこのゼミに入ることは出来なかった。間もなく気がついたのだが、そのインド人学生は、ドイツの学問と大学と学者を尊敬する余り、平均型もしくは優等生型ドイツ人学生の意見内容をほぼ口移しにおお鸚鵡返(おうむがえ)ししている趣きがあり、面白味もなんともない。

 雑多な個性を持つ学生たちの目から見ると、ドイツに忠実でドイツをいわば信仰(傍点)しているこのインド人学生は、個性を欠いた無思想の人間のように見えたのではないかと思う。そして彼ほどドイツ滞在を経験していない私の、従って日本での人間批評をそのままドイツ人教授に当て嵌(は)めた程度の悪口や皮肉が、ドイツ人学生たちからは、「そうだ」「その通りだ」「君の言う通りだ」といった共感と賛意を惹(ひ)き起したのではないかと思う。勿論私の意見に賛成しただけでなく、刺戟を受けて、反論した者も少なくなかった。

見失われた「自分というもの」

 精神形成にとり重要な十代を異国で過ごし、人間としての貴重な何かを見失うことの危険という教訓を、ここから引き出すことも出来ないわけではないだろう。しかし私が今言いたいのはそういう教育上の問題ではない。

 そもそも自分というものがなくては、他者に出会うということも起らないのだ。他者もまたこちらを理解してはくれない。ある人を理解するということは、その人と同じような考えを持ち、同じような意見を展開することではない。理解できないものを相手の中に見出し、理解してもらえないものを自分の中に信じる、そのような断念、もしくは危険を、自明のことのように引き受けていないような自己理解は、結局は他者に出会えず、他者を見失うだけであろう。それは個人と個人との関係においてだけでなく、国家と国家、民族と民族との関係においても共通して言えることではないかと私は思う。

 最近は長期の外国経験をする人も珍しくはなくなった。どういうわけだか、自分が慣れ親しんだ外国を基準に、日本の不足をあれこれ言う人、自分の知っている外国とそっくり同じような国に日本を仕立てようとして、嵩(かさ)にかかって日本人を叱る人、等、枚挙に遑(いとま)がない。加えて、日本の国内では、自民族中心主義を何か頭から悪いことのように言う声が圧倒している。

 外国人嫌悪や人種差別は、今日では道徳上の最高の欠陥と考えられている。なぜならそこから、迫害や圧制や戦争が生じたし、現に生じてもいるので、そういう傾向を自分から遠ざけ、自分の体内に宿っていないかのごとくに装うことが、道徳家たらんとする現代人のいわば遵守(じゅんしゅ)規定の第一項である。

 世界は多様で、その民族の文化も等価値であり、どんな小国をも偏見なしに評価するのが、人間としての最も正しい態度だとされる。価値のこの相対主義が、より善きものへの探求という動機を殺し、かつて日本に根強かった優れた外国文化への憧憬と情熱を消滅されつつあるというもう一つの弊害は、いつしか忘れられている。

 成程、自民族中心主義を相対化する知性は、ギリシアの昔から尊重されてきたことをわれわれは知っている。自分自身の善を善一般と同一視することを進んで疑う懐疑主義は、ギリシア的知性の最も美しいあり方であった。しかしギリシア人は、強く信じる自分を持っていたが故に、強く疑うことも出来たのである。

 歴史家ヘロドトスは、自民族の外にあるあらゆる文化の豊かな多様性を知っていた点で、確かに現代の日本人と同様だが、しかし多様であることに彼は冒険の魅力ある動機を見ていたわけだし、各民族文化の価値を吟味し、ギリシア的価値を一段と磨くことにこれを役立てたのである。それに反し、現代の日本人が各民族文化の多様性を口にするとき、最初から全体を概念化して考えているのであって、われわれは地球上のすべての文化を平等に尊重しなくてはならない、という一つの信条を表明しているにすぎないのである。

 世界の多様な文化との「協調」とか、その「理解」とか、あるいはそれに基づく「国際化」などは、耳に胼胝(たこ)が出来るほどさんざん聞かされてきたスローガンだが、現代の日本人が知っていることといえば、たかだか地球上には多くの文化が存在するという事実、われわれは皆仲良くしなければならないといった程度の甘ったるい道徳にすぎない。こうした意味で語られる「理解」とか「協調」とか「国際化」とかは、結局のところ、他者はもう要らない、という思想を披瀝(ひれき)しているにすぎないともいえよう。

猪口邦子批判(旧稿)(二)

 昨日、「猪口邦子批判(旧稿)(一)を掲げたところ、二人の友人からメイルが入った。ご覧の通りの訂正と昔の思い出である。

西尾幹二先生

日録のほうに出ていた猪口孝氏の件、正確には酒場ではなくて東大の研究室です。
当時、ちょっと注目されていたので、どんな人だろうと思って会いに行ったところ、
突然「こんな目次でどうでしょう」と単行本の目次メモ(構成案)を出されて、
曖昧な返事をしていたら、
「そういえば、おたくの会社は西尾の本を出したところじゃないか!
人の女房をさんざん悪口書きやがって!」と怒り始めたのでした。
しかし私としては、あまり売れそうもない本の目次の話を打ち切る、
ちょうど良いタイミングだったので、かえって幸いだったのですが(笑)。

西尾先生の『日本の不安』が出たのは1990年ですから、もう15年も前になるでしょうか。
今なら猪口氏に会いに行くはずもないのですが、当時は彼の情報があまりなく、
よく知らないままに会いに行ったときの出来事で、もちろんそれ以降、会うことはありませんが。
(ましてや酒場での同席など、ごめんこうむりたい最たるものです 笑)。

猪口孝氏は私が『日本の不安』の担当編集者だと知らないでいきなり怒りだしたのですから、会社の同僚が彼に会って同じ目にあっていなかったかと心配したものです。

夫婦揃ってよほど腸が煮えくりかえる思いをしたのでしょうね。

PHPソフトウェア  丸山 孝

 尚、丸山氏は間もなく刊行される私の小泉政権の非軍事的ファシズム体制への批判の書も担当した方である。

 つづいてバーゼルからも反応があった。

西尾先生、

今、私の手元に古い論壇誌のコピーがあります。先生のお書きになった「当節言論人の自己不在」です。もうすっかり紙も傷み、日焼けした紙はすっかり黄色くなり、過ぎ去った年月の重さを感じます。
先生が今日日録にこれからこの論文を掲載されるとおっしゃって早速書棚のファイルに保存してあった当時のコピーを抜き取り、かばんに入れて、会社に来る途中のトラムの電車の中で読んできました。

当時この論文を読んで高校生だった私が大きな衝撃を受けたのを覚えています。自己を偽ることなく、自分自身を徹底的に見つめ、自分の弱さ、臆病、傲慢、虚栄、心に宿る自分の嘘に対して意識をもち、謙虚であり、強い確かな自己をもってはじめて、他者や社会に潜む悪も見え、社会との対峙が始まると問いかけられた強烈な論文でした。

そして論文に挙げられた人達が、その心胆を練る訓練、経験、努力をしていないことから、他者や社会の本質を見抜く力に欠けていることを闇を裂くように断じられたことに大きく共鳴したのは、私が毎日青春を燃やした空手の稽古によって得た感性と互いに大きく共鳴しあったからだと思っています。
ニーチェの末人の描写や、先生の考察に影響をされたことも思い出しています。

この論文は自分の生き方を問われる大きな力を持ったものでした。
古くて新しい、外国人労働者受け入れ問題が15年以上も前に既に論じられ、先生の意見が大きく世の中を動かされたことを知らない人も多いかと思います。今また同じような論調で昔の愚問を繰り返す人も多いかと思いますので、大沼保昭氏の個所も是非ご掲載されてはいかがかと存じます。

昨日、3人のフランス人に囲まれて昼食をしましたが、今回のフランスの暴動事件にふれ、その後一人が日本はフランスから何人の移民を受け入れてくれるのか、と真顔で冗談を言われました。我々はそのかわりに日本製品を買うよ、と言っていましたが、この対話の前提には、移民政策によって問題を背負い込み、今後は門戸を広げるつもりはまったくないという意思の表れで、ヒューマニズムでもなんでもなく、国益の観点から論じる姿に健全性を見ました。私はもちろん一人もいらないよ、と真顔で応酬しました。隣にもう一人、ドイツ人がいて、彼は静かにしていましたが、その後ドイツのトルコ人の問題に話題が飛び火し、フランス人の冗談が続きましたが、ドイツ人はそこを突かれるのが嫌で黙っていたのか、と一人で想像していました。

バーゼルより先生の名論文を再読するのを楽しみにしております。
お身体どうかお大切になさってください。
不一
平井康弘拝

 上記の示唆に基き、「当節言論人の自己不在――猪口邦子氏と大沼保昭氏と」(『中央公論』1989年3月号)は、大沼保昭氏の分も省略せず、少し長い引例になるが、全文を掲載することとしたい。

途中で別の稿を必要挿入する場合もあることをお断りしておく。

猪口邦子批判(旧稿)(一)

 本当はもう相手にしたくないのである。子供相手になにか言っても仕方がないという気持でいる。だから、ことさら新しくは書かない。

 『中央公論』(1989年3月号)に「当節言論人の自己不在――猪口邦子氏と大沼保昭氏と」というさんざんからかった文章を書いた。今から約15年前で、まだこんな人たちについてむきになって論を立てていたのだから私も若かった。

 しかしこの批判文は当時好評を博した。八方から賛意の声をいたゞいた。大沼氏は反論にもならぬ変な反論を寄せてきたが、猪口氏はなにも言ってこなかった。

 仄聞する処によると、ご本人の内心のショックは大きかったらしい。批判をされるということがなくて育った方なのだろう。同論文がPHP刊の私の単行本に収められたとき、ご夫君の猪口孝氏が酒場でPHPの編集者に腹を立てからんだという話を聞いている。ご夫婦仲は良いのに違いない。

 しかし女房が大臣になったとき、カメラの前にのこのこ出てくる男というのも絵にはならないよ。こういうことすべてが私の流儀に合わないのである。

 以下に大沼保昭氏に関する論述部分を外して、掲載する。私は後日再読して、攻撃文(ポレミック)として悪くもないと判断して、著作集『西尾幹二の思想と行動』③に収録した。

 いささか大上段に振りかぶりすぎた書き方で、ここまで大仕掛けに書く必要はなかったかもしれないが、その部分もそれなりに再読に値すると思われるので、一考を煩わしたいと思う。

伊藤哲夫さんと「鬼」

 男の中にはたいてい「鬼」が住んでいる。女の中にも住んでいるかどうかは分らない。住んでいるとしても違うタイプの鬼だろう。

 男の抱える「鬼」は天に向かうのと地に這うのと両方である。前者は天と張り合う、つまり果てしないものと戦うのであるから現実には無私の姿にみえる。後者は仲間と張り合う、つまり他に抜きんでて高くなりたいという邪心を抱えていて、あまり強く出すぎるとみっともいいものではない。

 どちらか片一方という男はいない。男は両方を抱えている。二つの「鬼」を同時に体内に宿している。男の心の中で二つの「鬼」が相争うのである。しかし、どちらかが一方的に圧勝するということもない。両方がつねに併存している。

 人間はみんなしょせん競争心と劣等感の塊りで、天に向かう「鬼」なんて持っているやつはいないよ、とわけ知り顔で言う俗流心理学を私は信じない。

 ただ、天に向かう「鬼」を心の中に抱えているとわかる人とわからない人との違いがあることは事実である。この「鬼」は気紛れで、それを持っているとわかる人は地を這う「鬼」も強い人である。従って自信家である。しかし、どんなに自信に溢れていても傲慢からはほど遠い。事に当って自ずと謙虚な振舞いをする。

 無私な行動家は少ない。卑屈と謙虚は外見がよく似ていて、間違えることがある。本当に謙虚な人はときに驚くほどの我の突っ張り、強い意志を示すことがある。「鬼」がそうさせるのである。

 なぜ今回にわかにこんなことを書きだしたかというと、昨年5月に日本政策研究センターの20周年記念の会で挨拶をしたときの私のことばが活字になって、印刷された紙片を数日前に初めて手渡された。さっと一読して、私はふと「鬼」という文字が思い浮かんだ。なぜか分らない。穏やかな伊藤さんは鬼面ではない。その日の自分のスピーチをもう一度蘇えらせてみよう。

===================

 私が伊藤さんの会を始めて知りましたのは『明日への選択』という雑誌を通してでございます。大変に驚いて、初めて伊藤さんにお目にかかる機会があったとき、なぜ市販しないのか、本屋で売ったらものすごく売れるよと言いました。実は『諸君!』や『正論』、その他の雑誌をも凌ぐ密度の濃い情報が短い頁の中にぎっしりと詰められています。大変に感銘を受け、これは貴重な資料だと思いました。

 私がその次に非常に強く惹かれたのは伊藤哲夫という人格でございます。うまく言葉では言えないのですが、本当にソフトなんです。そして優しいんです。「柔の中に硬あり」というような一歩も引かないものが常にあるのですが、しかし何か包んでくれるような優しさがある。恐らくこれが全国のさまざまな運動家の方々を惹きつけている原因ではないかと私は思っております。加えて、皇室への非常に強い崇敬の感情というものが伊藤さんにはあります。私にはとても及ばないものがございますけれども、こうした強い気持ちがありながら、彼の書いたものや『明日への選択』は徹底的なリアリズムで貫かれていて、いわゆる感傷右翼的な要因は一切ない。これが伊藤さんとこの会の特徴です。日本のバックボーン、アイデンティティ、愛国心というものがありながら、出してくる材料、情報はリアリズムだということです。

 もう一つ私が感銘を受けていますのは、包括するテーマは内外非常に豊富で、外交においても領土問題その他、また内政においてもジェンダーフリー、夫婦別姓その他。それから韓国問題、中国問題など多岐に渡っているのは皆さんご承知の通りですが、しっかりした史実に裏づけられた材料や情報の提供ということがなされていて、私どもは非常に参考になる。何かあったときに本当に助けになるものが、普通の雑誌以上に短いながらピシッと書き込まれている。つまり、大きな意味での輪郭と指導性をもった内容でありながら中身が極めて具体的なのです。これは背反する方向ですが、その正反対の方向のものをきっちり持っている。それがこの雑誌の魅力であると同時にこの会の魅力であると思っております。

 私はセンターの日常活動をよく知らないのでございますが、この雑誌と伊藤さんの人柄を知れば、ほとんど申すまでもない、信頼は非常に強いものがあるわけです。

(平成16年5月1日、日本政策研究センター創立20周年記念パーティーにおける祝辞より)

===================

 なぜこの自分の挨拶のことばを再読して「鬼」という文字が私の頭にひらめいたのかはいまだに分らない。ただ今、私はそのとき心をよぎった思いの幾つかを書き留めておこうと不図思って筆を執った。

 伊藤さんは自分を超えた何かを信じている人である。中国では「鬼神」ということばで呼ぶカミの概念であり、日本語で「鬼」というと怪異的で怪物的なイメージに限られるのとはだいぶ違うようであるが、それでもやはり、「鬼神」は甘い、優しい概念ではなく、パワフルな霊威の底深い力を感じさせることばである。

 伊藤さんの行動をみていると、自分を捨てて、何かを信じてひた向きに生きる人の説明のできない無私の情熱が漂っていることに気がつく。

 この人は何だろう、ずっと私は謎を抱きつつ、黙って説得されてきた。行動が議論を封じる、その力が彼にはある。

 人生は寂しい。老いて新しく人を知ることは難しい。私は伊藤さんという人を知った、という気に少しなっている。

 

追記:日本政策研究センターのホームページは「日録」とリンクしています。

二宮清純さんのこと

 スポーツジャーナリストとしてよく知られる二宮清純さんのスピーチを聴いた。話の内容もいいが、話し方も簡潔にして、清爽である。

 教科書の会の「前進の集い」と名づけられた記念パーティーの席で屋山太郎氏、櫻井よしこ氏につづいて登壇した。どなたも話がうまいが、二宮さんのうまさはすべてを具体的な場面に結びつけたエピソードの描写の的確さにある。主張だけが抽象的に流れない。

 オリンピックの水泳のシンクロナイズドで日本チームは銀メダルに終った。何度やってもロシアチームに敵わない。しかし、本当に敵わないのだろうか、と二宮さんは疑問に思う。阿波踊りを模した日本チームの水中の演技はとても良かったと自分は思う、美の採点はもともと難しいのだ、と熱い調子で仰る。

 しかし本当に言いたかったのはその先である。日本の審判は、ロシアチームに10点をつけた。普通ライヴァル国に10点はつけない。9.9でいい。オリンピックのほかの競技でもそうだが、ライヴァル国の審判というものは不公平を前提にしている。両方が不公平を犯す。それで公平になる。日本の審判は公正のつもりかもしれないが、バカみたいにみえた。日本チームのコーチの一人が背後から味方に弾丸を撃たれた思いだと言って怒っていた。unfairだからfairになるということが日本の審判団には判っていない。ロシアが日本に9.9をつけるなら、こちらはロシアに9.8でいいのだ、と言ったところで会場はどっと笑い声を上げた。

 これは言いにくい議論である。一歩間違えば鼻白む贔屓の引き倒しになるからである。が、二宮さんが語ると厭味がない。情熱がこもっているからである。世界に対面する日本人につきものの公正気取り、それが人間的弱さに由来することを的確に見抜いているからである。そして、そうした弱さへの怒りが偶発ではなく、蓄積されてきていることがはっきり分るからでもある。

 オリンピックで日本は金メダルを16個取ったが、野球、サッカー、バレーといった期待された団体では失敗し、組織の闘いに弱いことを示した。国家への思いが弱いから団体で勝てないのだ、とも氏は語った。しかしこの話よりも、もう何年も前、野茂選手と一緒にアメリカの球場を彼が回ったときの思い出が印象的だった。

 日本人が戦時中収容所に入れられた土地で、野茂は大リーガーをバッタバッタと三振に切って取った。老いた日系米人はその昔、球拾いをさせられるだけで、野球の仲間に入れてもらえなかった苦い思い出を語ったそうだ。彼らは日系ではあるが、米国人である。不当に収容所に入れられたのである。目の前で野茂の快投を目撃して、彼らは涙を流していたという。

 イチローや松井の活躍で大リーグはぐんと身近になったが、そういえばこの道のパイオニアは紛れもなく野茂選手だったと私もあらためて思い出していた。

 二宮さんの話には怒りがあり、愛があり、国への熱い思いがそれと重なっている。

 教科書の会は八木秀次さんという息子の世代の会長を得たおかげで、二宮さんのような、今まで出会えなかった新しいタイプの客人を迎えることが可能になった。わが家の食卓に若い客を迎えたときのような喜びがある。

 私は懇親パーティーになってから、ソフトボールとノルディックスキーで日本が勝ちすぎたために、日本に不利にルールを改正されたと聞くが、あの話は本当か、と二宮さんに直接尋ねた。彼は、ルール改正の討議の会議に日本のスポーツ連盟の誰も出席していなかったのですよ、と日本人の外の世界への対応のまずさ、人間的弱さに対するあの熱い怒りの表情を再びまたにじませて語った。

 しかし私はこうも思った。日本人の弱さに気づいて行動するこういう人がいることが日本人の強さなのだ、と。会場はこの日大変な賑わいで、明日を期待する明るい雰囲気に包まれていた。

林健太郎先生のご逝去 (二)

 ご遺骨の前で、私は奥様と1時間ほど先生の思い出ばなしを交した。林先生はすべてにわたって淡々として、怒った顔もみせないし、悲しそうな顔もあまりしないし、愚痴ったり、ぼやいたり、弱音を吐いたり――そういうことがまったくない方だったという点で考えが一致した。

 「世の中にはとかく礼儀を欠いた人がいるでしょう。」と奥様は仰言った。「夫と一緒にいて、言葉づかいなどでずい分失敬なものの言いようをする人に出会って、私は女だから『あの方ずい分失礼ね』なんて言うでしょう。すると林は『そうかねぇ』とひとこと言うだけで、全然気にも留めないみたいでした。」

 ここに林先生の生き方の一つの姿が表現されているようにさえ思えた。

 「先生は君子なのです。小人ではないのです。君子ということばがピッタリだなァ。前からずっとそう思っていました。」

 「でも、林には一対一でお附き合いするお友達がいませんでした。会合には行きますが、飲み友達というようなものがなく、学者ってこういうものかなァ、と思っていました。」

 奥様が結婚されたとき先生は65歳だった。もう少し前には酒場をはしごする生活もあったはずである。私より上の世代、例えば村松剛氏あたりとはそういう附き合いもあったのではなかろうか。

 けれども西洋史学会の関係者が林先生を敬遠したことは間違いない。九里さんも言っていたが、西洋史も8割はマルクス主義史学者である。先生は若いころ東大の中枢に入っていたから、比較的被害は少なかった。「差別」はされない代わりに「敬遠」された。

 先生はだから雑誌『自由』の福田恆存、竹山道雄、平林たい子、武藤光朗、関嘉彦、木村健康といった諸先生と交流を深め、『文藝春秋』『中央公論』のもの書き仲間と人間関係を深められたのであろう。私もそのグループの一番若い末席にいたのだった。林先生は若い私の書いたものもよく読んで下さっていた。

 あるとき葉書が来た。イスタンブールの街に屯する浮浪者の群れを形容するのに私が「いぎたない」と書いたのを見とがめて、「いぎたない」は寝姿にしか使えないとわざわざ注意して下さったことがある。先生が思ったことをパッと実行して下さった親切な指摘である。

 「『国民の歴史』を林はとても熱心に読んでいましたのよ。あの部厚い本を何日も何日も前にしていました。」と奥様は仰言った。ありがたい話だった。生前、読後感を聞いておくべきだったが、先生は多分ことば少なにしか感想を仰有らなかったであろう。そういう方なのである。素気ないのである。それが先生の持味である。拙著に強い関心を寄せて下さったという奥様の言葉だけでもう私には十分で、もし当時お目にかかっていたら、「あゝ、あれは面白かったです。」というくらいの感想しか返ってこないことが目に浮かぶのである。

 先生はテレビ出演が嫌いだった。講演もあまり得意ではない。文章を書くことがすべてだった。飾りのない、論理的で、冷静な文章、つまり「素気ない」文章だった。「絶筆は何ですか」とうかがったが、これから調査しなければ分らない由。もうだいぶ執筆から遠ざかって久しい。先生のお宅にはインターネットはもとより、ファクスもコピー器もない。原稿用紙に手書きし、取りにきた編集者に直接渡すという、昔からの懐かしい伝統的方法で生涯の活動を貫かれた。

 雑誌『自由』の新人賞――林先生は審査員のお一人――で論壇にデビューした私は、あの当時の知的に潔癖な反マルクス主義の知識人の偉大な先輩たちの跡を必死に追いかけて歩んできて、今最後に残ったその偉大なひとりを失い、言いようもない喪失感、自分の青春時代の大きな部分を失ったような思いに襲われている。

 一日も早く『わたしの昭和史』を再開して、筆を伸ばしあの時代にまで書き及ばなくてはいけない、と思った。資料は揃っているのである。

 13日の増上寺の本葬に私は行かない。葬儀委員長の名を聞いて憤慨した。南京虐殺の犠牲者は中国が100万人と言っているから100万人が正しいと論文に書いた人物である。なぜ林健太郎の葬儀委員長をかゝる人物が担当するのか。もうそれを知っただけで、行く気になれない。

 先生は社会的位階が高くなるにつれて、かえって孤独になった。そのしるしのように思われる。先生は独立独行の思想家で、愛弟子に取り囲まれるということはなかったのである。

 けれども先生は葬儀委員長が誰であろうと、「あゝ、そうかねぇ」と言うだけで、多分全然気になさらないであろう。

誤字修正(9/8)

林健太郎先生のご逝去 (一)

 林健太郎先生が8月10日にご逝去された。このことは知っていたが、私は東京に不在で、今日やっとご霊前に赴き、1月に訪れたあの同じ家でご焼香をすませた。奥様が喪服でお迎え下さった。犬が飛び出してきた。1月にお別れしたときも犬が迎えてくれ、送ってくれたものだった。何もかも同じだった。ただ、先生だけがいない。

 東京大学が主催する正式のご葬儀は9月13日である。奥の座敷に、ご遺骨が置かれ、「瑞光院浄譽祥学健徳居士」と記された仮のご位牌の前で香が煙を上げていた。少し高く掲げられた遺影は、横向きで、やや笑っておられる。いいお顔である。

 「お幾つのときでしょうか」
 「72歳のころ、参議院議員のころです。」

 西洋史の弟子の九里幾久雄さんと私が連れ立って1月25日に先生をお見舞いしたのはムシが知らせたのだろうか。享年91歳、いつこうなってもおかしくはなかった。私たちが訪れた日先生は和服を着替えて、待ちかねるようにして私たちを迎えて下さった。「あの日は朝からいつ来るのか、いつ来るのか、と待ち遠しそうでした。あんな楽しそうな様子は最近なかったのですのよ。」と、奥様は思い出すように仰言った。

 何日か後に私は「九段下会議」の宣言文の載っている『Voice』3月号を届けたが、先生にはそのときはお目にかかっていない。ご関心を寄せてくださったようだが、それがどの程度のものかは分らない。

 ご夫妻はあれから二度ほど歌舞伎座に芝居を見に行っているそうである。肺炎で二、三度の入退院を繰り返しもした。近所のお医者さんが点滴に毎日ご自宅に来て下さることになり、入院生活は止めた。永年住み慣れた趣味のいい和風の家で療養する決心をした。あと1、2年は大丈夫ですよ、とお医者さんは言っていたそうである。

 7月の末に先生は異様に「生きたい」と何度か仰言った。今思えば死期が近づいた予覚に違いない。庭先の木立ちに梵字が見えるとも言った。死の一週間ほど前に、突然、福田恆存先生の名前を一日に何度も口にしたという。良きライヴァルであったお二方のことである。何を思い出されたのか分らないが、自然なことである。

 昨日は遠山一行氏が、明日には村松英子氏がご焼香にお出でになるとか、そして、数日前に福田先生のご子息の逸さんが見えたとき、うわ言のように名を呼んだ一件を奥さんが伝えた。「そうですか、帰ったら母に報告します。」と逸さんは言って帰ったそうだ。

 8月10日の午前2時ごろ先生は奥様の手を握り、満面に今まで見せたこともないような笑顔をみせ、それから寝たままの姿勢で両手を堂々と行進するときに人がする大きく振る振り方をしてみせ、黙って指で上を指さした。「あら、鼠でも天井にいるかしら」と奥様はごまかすように言った。

 そして先生は静かに夜の眠りに入った。翌10日の午前10時ごろ少し具合が悪くなった。お医者さんを呼ぼうとしたが、10時は診療所の診察時間ですぐにはこられない。お昼過ぎにかけつけてきてくれた。点滴を脚にしていたので、その作業に入ると、奥様には先生の首の血管の鼓動が止まっているようにみえて、あわてて叫んだ。医師は脈をとり、居ずまいをただして「ご臨終です」と言った。

 深夜のあの仕草が「自分は天に行くときが来た」という奥様への合図であったことは今にして明らかだといえる。