WiLL論文について

ブログ歴史と日本人―明日へのとびら―(耕氏 筆)より

おかしな竹田恒泰氏の論文  

 竹田恒泰氏が『will7月号』で西尾幹二氏の論文を批判しているが、はっきりと言うならばおかしな批判ばかりだ。竹田氏は西尾氏を「保守派を装った反日派」扱いしているが、それはむしろ竹田氏のほうではないか。
 
 竹田氏は西尾氏の「この私も(中略)天皇制度の廃棄に賛成するかもしれない」という片言節句を取り出して、それを抜き出した上で「天皇制度を「廃棄」するのは、およそ保守派の言論人から出る言葉ではあるまい」と言っている。ところがこれは竹田氏の詐術である。なぜなら西尾氏の原文は、「(それまで皇室が近代原理に犯されつつあることを批判した上で)皇室がそうなった暁には、この私も中核から崩れ始めた国家の危険を取り除くために天皇制度の廃棄に賛成するかもしれない」という内容である。この文章自体「保守派」に危機感を促す修辞だと思うが、それでなくとも文章の本意を読み取らず、言葉の一部分を抜き出す竹田氏はどこかおかしいのではあるまいか。さらに竹田氏はこう言っている。「廃棄とは廃棄物を処理することを意味し、この言葉を天皇に使った人物は後にも先にも西尾氏だけであろう」。竹田氏は日本語にも難があるらしい。「廃棄」を説明するのに「廃棄物」を使ったら同語反復で説明になっていない。「廃棄」とは「不要のものを捨てること」であり、「廃棄物」という言葉を選んだのは西尾氏の主張を気色悪く見せようという手だろう。
 
 皇室が「不要」とは何事かと言い出されかねないが、この「廃棄」に賛成している部分は西尾氏が想定する最悪の状況になった場合、という話である。その文意を全部無視して「皇室の存在を良しとしない」などと決め付けられてはたまったものではない。
 
 西尾論文の主意は皇室に学歴主義、平等主義という近代原理が入り込み始めており、「人権」という最大の近代原理が入りこむのは時間の問題である。左派はすでにそのことを言い始めている。伝統を無視し、「人権」を尊重するようになってしまえばもはや日本社会は融解する。そのような皇室になってしまったら廃棄もやむを得ない(原文を読めばわかるが、「そうならないようにしよう」、という語感が言外に含まれている)。西尾氏は皇室とは日本人の「信仰」であると理解しており、したがって皇族は神としての存在を求められる。「人権」などという原理を認めればそうした日本人の原信仰は破壊しつくされてしまう、ということだ。竹田氏曰く「英国のゴシップ紙と何ら変わることはない」そうだが、これのどこが「英国のゴシップ紙」なのだろうか。
 
 西尾氏は皇室に近代原理が入り込んでいく過程を明らかに雅子妃に見ている。雅子妃には「キャリアウーマン」としての前歴などではなく、伝統的皇室として行動していただきたい旨を主張している。日本皇室の西洋王室化を懸念しているのであり、いっそ西洋王室のようになっていくか、それともそれが日本社会に深刻な悪影響を及ぼす前に「廃棄」してしまうか。この命題は保守派にとって突きつけられた課題のはずだ。仮に皇室が伝統的皇室を裏切ってもひたすら維持するのか、そうではないのか。尊皇家であればこそ考えなくてはならない課題である。ところが竹田氏にはそのあたりの視野は全くないようである。西尾氏ばかり擁護していると思われるのも何なので余談ながら触れるが、この命題にたいしては当の西尾氏すら揺らぎを見せているように思える。
 
 竹田氏は皇室が批判されれば印象が悪くなると考えている節がある。だが事はそんなに単純ではない。まさに西尾氏が「内部から崩壊しようとしている」と述べているように、近代社会(国民)と伝統社会(皇室)が乖離し、齟齬をきたし始めているという深刻な問題がある。雅子妃の問題はその一つの表れに過ぎない。皇室の根本である祭祀に皇后が個人的理由から参加されない、ということになれば皇室が公的存在であることすら薄れかねない。
 
 竹田氏はこうも言っている。「これまで皇室は幾度となく危機を乗り越えてきた。将来生じる危機も必ずや乗り越えていくことを私は信じている」と。竹田氏が信じたくらいで乗り越えられるのなら苦労はないと皮肉ってやりたいくらいだが、そうは思わないらしい。天皇が「神に接近し、皇祖神の神意に相通じれば、今上さまと同様、必ず立派な天皇におなりあそばす」であろうことは私も同意する。だが「神に接近する」こと自体を皇室自身が拒み始めていることに警鐘を鳴らしたのが西尾論文ではなかったか。雅子妃だけではなく高円宮承子さまの話など、皇室の西洋王室化乃至は大衆化が幾たびか報道されるようになった。「開かれた皇室」という妄想の元に皇室の世俗化、大衆化が進行しつつある。それは皇室が「祭り神」でもなく「国民の慈母」ですらなくただの名家の一つに下がってしまいかねないほどの危機が迫っているということだ。これは「世継ぎ問題」だけに修練されるものではなく、永い皇室の歴史の中でも未曾有の事態と言わなければならない。
 
 竹田氏は最後にこんな言い方をしている。「私のような三十二歳の青二才が、人生の先輩にこのようなことを言うのは申し訳ないが、もし私のこの注告(ママ)を読んで少しでも思いを致すところがないとしたら、そろそろ世代交代の時期が迫っているのかもしれない」。これこそ「卑怯」で「品格に欠ける」態度と言わなければならない。最初の西尾発言の作為といい、言論人として、(「旧」がつくとは言え)皇族の一員として醜態をさらしているのは竹田氏のほうではないかと思うのだが、どうだろう。

*なお一応読者の一人としてではあるが論文を評させていただいたので、この記事は西尾氏と竹田氏のブログにトラックバックさせていただくことにした。

文:耕

 WiLL5月号の末尾のしめくゝりの文章を参考までに掲示します。尚「第一の提案」は主治医の複数化の要請です。

 しかし先の医師によると、殿下がそういうお言葉をお漏らしになるとそれが報道されて、妃殿下の病気が重くなる、だから何も言えない、そういう網にからめとられたような状況だ、というのだが、果たして本当だろうか。それほどの事態であるのなら、このまま時間が推移していくのはさらに恐ろしいことで、やがて日本の皇室がものの言えない沈黙の網にからめとられていくのをわれわれ国民は黙って看過してよいのか、という別の問題が発生する。

 じつは私などが一番心配しているのはこのことで、妃殿下のご病状が不透明なままに第126代の天皇陛下が誕生し、皇后陛下のご病気の名において皇室は何をしてもいいし何をしなくてもいい、という身勝手な、薄明に閉ざされた異様な事態が現出することを私はひたすら恐怖している。

 そしてそこに、外務省を中心とした反日の政治勢力がうろうろとうごめく。中国の陰謀も介在してくるかもしれない。天皇家は好ましからざる反伝統主義者に乗っ取られるのである。そして、皇族に人権を与えよ、という朝日とNHKの声は高まり、騒然とする。国民はどうなっているのか読めないし、どうしてよいのかも分らない。ただ呆然と見ているだけである。

 皇室がそうなった暁には、この私も中核から崩れ始めた国家の危険を取り除くために天皇制度の廃棄に賛成するかもしれない。

 そうならないためのさし当たりの私の第二の提案は、宮内庁と東宮につとめる外務官僚の辞任を実施することである。外務省も今のうちなら、ない腹をさぐられるよりその方がよいときっと思うだろう。

文:西尾幹二
WiLL-2008年5月号

お知らせ(日本文化チャンネル桜出演)スカイパーフレクTV241Ch

6/7 (土)23:00~24:00
第23回:GHQ「焚書」図書開封の刊行と新事実の発見

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日本よ、今…「闘論!倒論!討論!2008」

  放送時間
パート1 木 20:00-21:30
パート2 金 21:00-22:00

今後の放送予定

6/5
(木) ◆どうなる!?東アジア軍事情勢

パネリスト:
 潮匡人(評論家)
 太田述正(元防衛庁審議官)
 川村純彦(川村研究所代表・岡崎研究所副理事長・元海将補)
 田代秀敏(大和総研主任研究員)
 西尾幹二(評論家) 
 西部邁(評論家)
 松村劭(軍事学研究家・元陸将補)
司会:水島総・鈴木邦子

6/6
(金) ◆どうなる!?東アジア軍事情勢

パネリスト:
 潮匡人(評論家)
 太田述正(元防衛庁審議官)
 川村純彦(川村研究所代表・岡崎研究所副理事長・元海将補)
 田代秀敏(大和総研主任研究員)
 西尾幹二(評論家)
 西部邁(評論家)
 松村劭(軍事学研究家・元陸将補)
司会:水島総・鈴木邦子

「いじめ」考

 

 現在西尾幹二先生自身の筆による「西尾幹二のインターネット日録」は休載中ですが、許可を得て、管理人が西尾先生関連のエントリーを挙げています。
 
 今回は、警察の雑記「BAN」(2007年9月号)に載った、西尾先生の文章です

 子供の「いじめ」が深刻視されています。政府の教育再生会議でも取り上げられ、新聞が会議のうろたえぶり、いじめた子の「登校停止」を提案したり、またすぐに八方おもんばかってその提案を引っ込めたりする右往左往ぶりを伝えていました。いかにも政府の審議会らしい腰の座らなさです。

 「登校停止」で解決できるケースなんて、むしろ少数でしょう。いじめる者といじめられる者との差があまりはっきりしない事例が多く、いじめられる者が、明日にはいじめる側に回るなどの可能性の微妙さがやっかいなのです。

 ある学校で、校長先生が教室に来て、いじめ問題を生徒に真剣に語りかけている最中にいじめが起こっていた事例があります。後で全員に文章を書かせて分かったのでした。だから大変な話なのです。

 現代で最悪のケースは、いじめが密室化し、被害者が自殺する場合です。いじめは私の子供時代からありましたが、いじめで自殺する子供はいませんでした。昔の子供は心が強かったからでしょうか。そうではなく、社会の基本には暴力があり、暴力を抑えるには暴力しかなく、暴力を道徳で抑えることは不可能だ、という当たり前の常識が普及していたからです。

 子供の群れる学校は野生の猿の世界です。私は農村も都会も知っていますが、私の子供時代、クラスのボス猿は大抵、親か兄かが非合法社会とつながっていました。ところがそのことが、彼の暴力を抑止したのです。彼は刃物を懐に入れていましたが、人を傷つけることはないし、人を殴っても手心を加えていました。今の時代のすぐキレる、優等生顔をしたヒステリー少年よりもずっと大人でした。なぜなら、非合法社会にいる親や兄が、自分の子供の暴力を許さなかったからです。

 昔は野生の暴力が、社会の中に実在していた有効性を考えておきたいのです。それは非合法勢力のことだけを言っているのではありません。村には必ず青年団があって、子供の暴力を力で牽制(けんせい)していましたし、上級生は生意気な下級生を袋叩きにしました。学校の先生の体罰も有効に働きました。街角でいじめを見て、普通の市民が介入し、叱りつけました。それがいつの頃からか「刺されるからやめておこう」に変った。

 今の世はおしなべて無責任な平和主義で、他人に干渉しません。その結果、いじめは学校の中で密室化し、陰惨になり、外から見えにくくなりました。いじめられる子供はいたぶられ、小づかれても、助けてくれる有効な上位の暴力がなく、行き場を失って絶望し、自殺に追い込まれるのだと思います。社会の中の野生の暴力が消えてしまったことに、自殺多発の最大の原因があるのだと言ってほぼ間違いないでしょう。

 政府の審議会は、暴力を抑えるのは暴力だというところまで本気で問い詰めているでしょうか。教育委員会や校長会は、きれいごとを言って逃げていないでしょうか。間違っているのは平和主義なのです。そこで、私はいじめられている子に「死ぬ覚悟があるのなら相手を倒してから死ね」と学校の先生が日頃、子供たちにあえて教えておくことがぜひとも必要だと申し上げたい。無抵抗主義を教えるのは、弱い子供に対しては自殺への誘いです。正当防衛としての闘争心を教えること、先生が日々これを噛(か)んで含めるようにして言い聞かせておき、少しでも闘争心が芽生えたら、その子はもう決して自殺しません。

 防衛の心はそもそも生命力の表れなのです。

文・西尾幹二

自由社の『自由』について

 日本人自身が、自国が自由主義陣営の国家であることをなかなか自覚できなかった時代、戦争が終ってまだ10年たつかたたぬ時代から一貫して自由主義の立場を唱えてきた雑誌『自由』の編集長であり、自由社の社主・石原萠記氏の大著『戦後日本知識人の発言軌跡』(909~911ページ)から、次の言葉を引用し、掲示します。

石原萠記『戦後日本知識人の発言軌跡』より

『日本文化フォーラム』の発足とその活動

 敗戦という戦後日本の特殊事情のなかで、知識人の戦争責任が問われたとき、戦前・戦中の非転向という事実を倫理的希少価値として主張する左翼知識人の発言は、それだけの重みをもち、論壇での主導権をもったことは確かである。しかし、これらの人々の発言は、戦前の非合法下に生きた前衛党の思考様式そのままの「敵と味方」を峻別するセクト主義で、思想界に対立を深め不幸な分裂をもたらしただけだった。このような戦後思想界混迷のなかで、『日本文化フォーラム』は発足したのである。

 発足以来の主な事業については、ここで詳述する必要はないが、内外知識人の親睦交流行事は数えきれず、懇談会、研究会は四百数十回をこえる。そしてその多彩なゲストは世界各国の一流文化人、政治家たちであった。

 高柳賢三、林健太郎、河上丈太郎、湯川秀樹、モクタール・ルビス、アムラン・ダッタ、福田恆存、エドワード・シルズ、河北倫明、E・サイデンステッカー、ダヴィト・ダーリン、J・ジェレンスキー、駒井卓、クラウス・メーネルト、高坂正顕、三上次男、スチヴン・スペンダー、アーサー・ケストラー、アルベルト・モラヴィア、シドニー・フック、エドウィン・ライシャワー、ダニエル・ベル、糸川英夫、K・ウィットフォーゲル、安倍能成、湯浅八部、平林たい子、円地文子、木村健康、フロッデ・ヤコブセン、関嘉彦、森戸辰男、伊藤整、清水幾太郎、G・ハドソン、中谷宇吉郎、チボー・メライ、桧山義夫、福井文雄、池田純久、大来佐武郎、中屋健一、吉野俊彦、滝川幸辰、大原総一郎、高橋正雄、ポール・ランガー、竹山道雄、横山政道、武藤光朗、長谷部忠、森恭三、野々村一雄、田駿、武者小路実篤、C・A・クロスランド、シブ・ナラヤン・ライ、王育徳、三宅艶子、岡本太郎、朝海浩一郎、ニコラス・ナボコフ、林房雄、村松剛、稲葉秀三、板垣与一、マクジョージ・バンディ、J・スミトロ、大島康正、ラドハビノット・パール、渡辺武、田中耕太郎、R・ガード、鈴木俊一、J・オッペンハイマー、中村菊男、ベンジャミン・シュバルツ、シニョル・ホセ、H・レーベンシュタイン、福沢一郎、馬場義続、森本哲郎、蠟山道雄、渡辺朗、C・ジョンソン、佐伯喜一、萩原徹、飯坂良明、藤原弘達、福田信之、江藤淳、ヨセフ・ロゲンドルフ、近藤日出造、楠本憲吉、阿川弘之、小山いと子、平岩弓枝、下田武三、神谷不二、会田雄次、内田忠夫、萩原葉子、三浦朱門、力石定一、俵萠子、川添登と内外一流の知識人を招いている。

 国内セミナーも、「日本文化の伝統と変遷」をはじめ「平和共存」、「労働者の経営参加」、「日本資本主義発達史」、「現代の思想」、「戦後教育の検討」、「中国問題と日本の選択」、「地方自治体の在り方」をはじめ、多くの問題を取りあげ実施したが、特に「日本文化の伝統と変遷」は、竹山道雄、高坂正顕らを中心に四年間にわたり毎年夏期に行った。このテーマは戦後、初めて日本の歴史を新しい視点から文化史的に検討したもので、その討議は高く評価された。記録は新潮社から単行本となるとともに、サイデンステッカー氏により英訳され、国際的にも紹介された。
(中略)

 
自由主義擁護の国際雑誌『自由』発行の経緯

 1959(昭34)11月から、『日本文化フォーラム』の運動に共鳴する人々や自由主義擁護のために闘う人々の雑誌『自由』が発刊された。

 この『自由』発行について、世間では『日本文化フォーラム』の機関誌と評していたが、確かに『日本文化フォーラム』の目的を、少しでも多くの人々に理解してもらうために出されたものである。しかし、当初から経理も編集も別であった。

 1957、8年頃、C・C・Fから私のところに世界各国で出している雑誌、「エンカウンター」(英)、「デア・モナト」(独)、「ブルーブ」(仏)、「フォールム」(墺)、「クェスト」(印)、「チャイナ・クォータリ」(英)、「サーヴェイ」(英)と提携出来る雑誌を、日本で発行出来るかどうかを問合せてきた。

 私としては『日本文化フォーラム』で発行するのが一番良いと思ったが、一般から機関誌視されるおそれもあり、また執筆陣の幅も狭くなるとの意見もあったので、別組織をつくり編集代表を竹下道雄氏にお願いすべく交渉した。幾たびかの交渉のなかで、「編集委員会」制をとるならという提案が出されたので、竹山氏を中心に委員として木村健康、林健太郎、関嘉彦、平林たい子、別宮貞雄、河北倫明(のちに福田恆存、西尾幹二)の各氏に承諾願って発足した。誌名『自由』は他に『フォーラム』をはじめ、幾つかの提案があったが、最終的には、笠信太郎氏の意見もあり『自由』に決った。そして、四号目から発行所として「自由社」を設立したのである。

 この誌名の決定については、いくつかの秘話がある。当初、1951年1月に廃刊になった『改造』の商標権を買ってはという話があった。そこで三輪寿壮先生の関係で、私を援助してくれていた小島利雄弁護士が、商標権を預っているといわれた栗田書店の栗田確也社長と懇意であったので、打診してもらったが、何とも大きな金額で話にならず、ご破算になった。そして漸く『自由』に決ったので登記しようとしたら、この商標はS社がもっているという。そこで、弁護士をたてて交渉、譲渡料を支払って決着がついた。

 その後の『自由』の活動評価については、立場によって相違するが、『朝日新聞』(62・3・19)紙上で、横山泰三氏が政治漫画を描き、右に『自由』、左に『世界』そして、「両誌には相互排除的なところがある」と、わが国の思想界の対立状況を解説しており、更に都留重人氏(一橋大教授)も『朝日ジャーナル』(63・12・29)誌上で、

 「著者のなかに雑誌に対する選択性があるんだね。『自由』に書く人は『世界』に書かない。この両誌には相互排除的なところがある。『文春』も多少選択しますね」

 と語っていることを紹介すれば、60年安保後数年の『自由』が、それなりの役割を果たしたことを知って戴けると思う。なお、『自由』の創刊の辞は、竹山道雄氏の筆になる。

 「・・・・・・立場として守りたいのは、正しい事実の認識の上にたつ、正しい論理の追求である。真理の基準は、教義への適合ではなくて、事実と合致していることなのだから、事実と論理への誠意さえあれば、たとえどんなに立場がちがっていても、すべての人が話し合うことができるはずである。・・・・・もし他日になってふたたび社会の状勢が変って、万一にも、この立場を棄てて、ある特定の教義を強いられるようなことがあっても、それには従わない。時流によって性格を変えて左し右しはしない・・・・」

 というもので、これが雑誌『自由』の基本的立場である。

 『自由』を主導したメンバーが日本文化会議を創立し、その機関誌を文藝春秋から出す計画がありました。最終的には、機関誌ではなく、普通の雑誌スタイルにしたいとの社側の意向があって、月刊誌『諸君!』が発刊されました。

 『自由』を主導したメンバーは自由主義の立場を唱えるより自由な発言の場をさらに求め、産経新聞のコラム「正論」が立ち上げられました。新聞のコラムを月刊誌に再録したいという要望があって、雑誌『正論』が誕生しました。『正論』はむかし永い間コラム「正論」の記事を収録していたのを覚えている人は少なくないでしょう。

 自由社の『自由』は『諸君!』『正論』の母胎なのです。

(文・西尾)

管理人による出版記念会報告(二)

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 音楽評論家浅岡弘和さんのブログ巨匠亭から,許可を得て転載させていただいた画像です。西尾先生の所在を知らせるためのアドバルーン(銀色の風船)が上っています。
guestbunner2.gif長谷川真美

       

 4月4日の出版記念会に出席して下さった中の主だった人々

(A) 黒井千次、高井有一、岡田英弘、宮脇淳子、加瀬英明、桶谷秀昭、高山正之、日垣隆、藤井厳喜、平川祐弘、入江隆則、富岡幸一郎、猪瀬直樹、工藤美代子、百地 章、佐藤雅美、井尻千男、黄 文雄、田久保忠衛、渡部昇一、関岡英之、高階秀爾、吉田敦彦(神話学者)、遠藤浩一、石 平、三浦朱門、福井文雅(宗教学者)、萩野貞樹(国語学者)、呉 善花、平間洋一(近代日本史家)、饗庭孝男(文芸評論家)、ヴルピッタ・ロマノ(日本文学者)、カレル・フィアラ(日本文学者)、秦 恒平、石井竜生、潮 匡人、岸田 秀、西村幸祐、山崎行太郎、新野哲也、岸本裕紀子、大島信三、浜田麻記子、合田周平、花岡信昭、福田 逸、福地 惇、山際澄夫、高橋昌男、藤岡信勝、田中英道、大蔵雄之助、平田文昭、堤 堯、花田紀凱、宮崎正弘、

(B) 林田英樹(前東宮大夫・国立新美術館長)、伊藤哲朗(警視総監)、朱文清(台北代表処)、上野 徹(文藝春秋社長)、齋藤 禎(日本経済新聞出版社会長)、松下武義(徳間書店社長)、加瀬昌男(草思社会長)、木谷東男(草思社社長)、千野境子(産経新聞論説委員長)、鈴木隆一(ワック社長)、松山文彦(東京大神宮宮司)、山本卓眞(富士通名誉会長)、加藤惇平(元ベルギー大使・外務省元審議官)、黒河内久美(元フィンランド大使・軍縮会議日本政府代表部元大使)、尾崎 護(元大蔵事務次官・国民生活金融公庫総裁)、早川義郎(元東京高等裁判所判事)、奥島孝康(前早稲田大学総長)、岡本和也(元東京三菱銀行副頭取)、大島陽一(元東京銀行専務)、羽佐間重彰(元フジサンケイグループ代表)、田中健五(元文藝春秋社長)、川島廣守(元プロ野球コミッショナー)、藤井宏昭(国際交流基金理事長)、関 肇(元防衛医大副校長)、松島悠佐(元陸上自衛隊中部方面総監)、重松英夫(元陸上自衛隊関西地区補給処長)

(C) 山谷えり子(参議院議員・首相補佐官)、泉信也(参議院議員)、古屋圭司(衆議院議員)、高鳥修一(衆議院議員)、西村眞悟(衆議院議員)、戸井田とおる(衆議院議員)、古賀俊昭(都議会議員)、森喜朗(代)、中川昭一(代)、

祝金  森喜朗(元首相) 
     柏原保久
     念法眞教
     岩崎英二郎(元独文学会理事長)
     川渕 桂
     加藤 寛
     野井 晋
     杉山和子
     伊藤玲子

花輪 文藝春秋
    徳間書店 
    ワック
    PHP研究所
    産経新聞(住田良能、清原武彦 羽佐間重彰)
    台北代表処(許世階)
    植田剛彦
    長谷川三千子
    坦々塾

祝電 高市早苗(衆議院議員・内閣府特命担当大臣)
    下村博文(衆議院議員・首相補佐官)
    平岡英信(学校法人清風学園理事長)
    楠 峰光(西日本短期大学教授)
    高松敏男(大阪府立中之島図書館員)
    武田修志(鳥取大学助教授)

漢詩 寄上梓記念賀莚 孤劍楼(加地伸行)

 出席総数382名

 出版記念会事務局より以上の報告がありました。西尾先生から各方面へ心より御礼申し上げたい旨、伝言がなされていますことをご報告いたします。

 

 今こうして主だった人たちの名前を目にして、有名な方々が大勢来られていただろうということは感じていたが、予想以上の顔ぶれにびっくりした。会場では政治家をマイクで紹介したり、祝電の紹介もなかったので、森元首相からお祝いがあったことも意外だった。

 私が話しかけた方では、エスカレーターで山崎行太郎さん。動くエスカレーターの上でついこちらはインターネットで写真を見ているものだから、知り合いのように声をかけてしまった。

 井尻千男さんは、私が隣の山口県の水西倶楽部の会合でお会いしたことを告げると、嬉しそうに握手してくださった。

 西村幸祐さんには、以前西尾先生がよその人気サイトとトラブルがあった折に、仲をとって事を収めていただいたことがあり、その時の御礼をいった。

 山谷えり子さんは、広島においでいただいて講演会を開いたことがあったので、すぐに挨拶に行った。今は政府の中枢におられ、選挙もあり忙しいはずなのに、わざわざ出席してかなり長い間会場におられたようだ。

  名前はわからないのだけれど、壁際に並べてある椅子のところで、上品な年輩の男性がぽつんと座っておられた。私はお節介かなと思いながら、お寿司を運んでいった。普段は下にもおかない扱いをされるような、きっと社会的に地位の高い方だろうなと思う。

 もう一人、受付で男性が読みにくい字で記帳していて、何と読むのだろうと思っていたら、名刺を渡された・・・・・見るとオフィス松永の松永さんだった。電話で一度お話したことがあるので、声と顔と一致しませんね、というと、それはいい意味ですか?と聞かれてしまった。二次会でかなりゆっくりとお話することができた方である。
 
 西尾先生という一人の人間との関わりのために、あんなに大勢の人々が、あの春の冷たい嵐の中に集まっていたのだなと思うと本当に感心した。

 

つづく

管理人による出版記念会報告(一)

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 4月4日、市ヶ谷グランドヒルホテルの三階瑠璃の間で夕方6時半から、西尾先生のための「江戸のダイナミズム出版記念会」が開催された。

 東京は桜が満開とはいえ、予報では真冬並みの寒気団が下りて来ると聞いていたので、広島の家を出るときに私はスプリングコートにするか、冬用のコートにするかぎりぎりまで迷っていた。結局冬用のコートで出かけたが、その選択は東京にいる間、何度となく間違っていなかったと感じるほど、4日の東京は寒かった。

 当日私と娘はスタッフとしてお手伝いすることになっていた。ホテルを出る頃には、雲行きがあやしくなり、雷もなりはじめ、タクシーを待つ間、冷たい雨が容赦なく斜めにふきつけ、雨はだんだんにみぞれになっていった。あれだけの天候だったから、出席をあきらめた人も大勢おられたのではないだろうか。

 5時前にホテルに到着し、エスカレーターで階上に上っていると、下りのエスカレーターに乗っておられた西尾先生と奥様にすれちがった。スタッフと同じように、もう到着しておられたのだ。

 私と娘は出版記念会が終った翌日は、おのぼりさんのように「はとバス」で東京見物をしたので、昨晩遅く新幹線で帰宅した。感想はゆっくり書けばいいと思っていたのに、山崎行太郎ブログオフィス松永のブログ(現役雑誌記者によるブログ日記)に、もう出版記念会の様子が書いてあったので、ぼやぼやしていてはいけないと今キーボードをたたいている。

 現役記者「その他」さんも書いておられるとおり、その日の出席者は400名弱(380くらい?)で会場はぎっしり満員、どこに誰がいるのか近くの人しか解らないような混雑であった。受付や、雑用をして出たり入ったりしていたので、祝辞の内容も今詳しく書くことはできないが、そのあたりは全部の情報が集まってからひとつずつ報告していきたい。

 とりあえずは、私個人の目と耳が接した範囲での感想にとどめることにする。

 受付では、国会議員でも、どんな偉い人でも記帳をしていただき、会費を徴収し用意した小冊子を配布した。受付が一段落して私が会場に入った時は、中は薄暗く、ひな壇に向かって右手に大きなスクリーンが下ろされ、何かが写され(左手にいたので良く見ることができなかった)、遠藤浩一さんが「江戸のダイナミズム」の一節を朗読しておられた。  遠藤さんのめりはりの利いた声は、まるでお芝居の長い台詞のようであり、西尾先生の文章はどこを切り取ってもそのまま「台詞」として通用する、リズムのあるものだからなのだと感心もした。

 詳しくは続きで書いて行くが、全体の印象として保守的な政治集会でもないし、かといってジャーナリストばかりの会でもなく、いろいろなジャンルの学者の方々が西尾先生のコネクションで集まった重厚な顔ぶれの集まりであったように思った。

つづく