「『昭和の戦争』について」
福地 惇
第一章 「昭和の戦争」前史 第五節 複雑な国際情勢の出現――一九一〇から三〇年まで さて、日露戦争後、我が国と諸外国との関係に注目すべき変化があった。その第一は、米国の対日姿勢の変化である。講和条約締結に斡旋の労を取った見返りとして、米国は満洲市場への参入を要求してきた。我が国はそれをヤンワリと拒否した。満洲問題はロシアと清国との関係も複雑で、米国の参入が満洲問題を更に困難にするのを懼れたためである。米国はこれに気分を害した。日本を仮想敵とした米国海軍の有名な「オレンジ計画」は一九〇六=明治三九年に策定開始された。
一九〇八=明治四一年一〇月には、戦艦六隻の世界一周米国親善大艦隊《ホワイト・フリート》の横浜寄港がある。親善訪問とは謳われたが、明らかにガン・ボート・ポリシー=《砲艦外交》の発動であった。比較的好意的だった米国が、新興日本帝国の予想外の擡頭に対して今度は急速に警戒感を深め始めたのは皮肉な運命であった。ちなみに言えば、日本は基本的には「親米」的姿勢を変えていなかった。
注目すべき第二は、日露協商の締結による日露協調関係の出現である。ロシア帝国は、満洲北部に退却して、日本との協調を望むようになる。ここに、東アジアでの勢力均衡を求める日露協商体制が登場した。だが、日露協調時代は、一九一七=大正六年にロシア革命でロマノフ王朝が滅亡するまでの、およそ十年間の寿命だった。
注目すべき第三は、清王朝(北京政府)の対日強硬姿勢の出現である。清帝国がこの段階に至って南満洲の領有権と利権回収を要求し始めたのである。確かに、満洲は清国皇帝=愛新覚羅氏発祥の地で特別の地域だ。だが、清帝国は、満洲防衛の努力を長らく放置して、ロシアの満洲占領を容認していた。もし、我が国が国運と国力を賭けてロシアを北方に退けなければ、或いは日本が敗北していたならば、当時の国際情勢の流れから考えて、清国はロシアに丸ごと占領=植民地支配されるに至った可能性は高かった。だから、清国の主張は、自らの立場も責務も弁えず、我が国の必死の苦労を無神経に無視するに等しい遺憾な主張だった。ロシア帝国の南下の圧力が弱まった途端に、日本の奮闘努力を眼中に置かない支那の独善的な横暴が露見して来たのである。
支那政府は、国際社会に「日本の貪欲な侵略」などと訴えて、同情を引き出そうと宣伝工作に取り掛かる。虚偽によるプロパガンダ攻勢に支那民族は長けているようである。満洲への進出を欲する米国が支那に同情する。日露戦争前とは一転して、東アジアに新たに日露提携・対・米支接近と言う構図が出現したのである。
第六節 更に深まる支那大陸の混迷状況
さて、一九一一=明治四四年十月に辛亥革命が起こり、翌年一月、共和制を唱える中華民国が成立、清王朝は滅亡した。長らく日本有志の支援を受けて支那民族独立運動を続けていた孫文が臨時大総統に撰ばれたが、謀略家袁世凱(清王朝重臣、北洋軍閥首領李鴻章の後継者)に権力を奪取された。袁世凱は三月十日、臨時大総統就任後に首府を北京に移し、巧みに政局を操った。しかし、五年後の一九一六=大正五年、力量を過信して皇帝即位事件で躓き、失意の内に頓死した(六月六日)。支那全土は、忽ち軍閥割拠の混沌状況に陥り、内戦は一九二八=昭和三年十二月に蒋介石国民党が支那統一に略々成功するまで約一二年間続いた。この大混乱は、満洲にも波及し奉天軍閥張作霖が台頭、張は初め北京政府に服従したが、袁亡き後、北洋軍閥は安徽・直隷・奉天の三派に分裂、北京政権争奪戦を約十年間繰り返す。結局は一九二二年と二四年の奉直戦争で張作霖が勝利、一九二六=昭和一年に北京政権を掌握した。だが、この間の覇権争奪戦中、張の故郷満洲経営は杜撰を極め、匪賊・盗賊が満州の荒野を徘徊する情況になった。日露戦争後、ポーツマス条約に基づき日本が管轄した南満州鉄道及び付属地一帯は我が関東庁と関東軍司令部の尽力で秩序を保ち、多くの難民が流入したのである。
第七節 欧州大戦及びロシア革命の甚大な影響 欧州大戦が、一九一四=大正三年七月から、五年間継続(一九一八=大正七年一〇月)した。凄惨な近代戦争でヨーロッパ諸国は勝者も敗者も甚大な打撃を蒙った。また大戦の最中、一九一七=大正六年三月、ロシア共産革命が起こりロマノフ王朝は滅亡した。シベリア出兵もこの大戦中にあり、米国の日本への不信感を深める要因の一つになる。
ところで、戦場が遠方だった日本と米国は参戦したが経済成長をものにした。歴史教科書的説明では、大戦で日本は経済的に潤い、成金が時代の雰囲気を代表し、都市化・産業化が進み新思潮大正デモクラシーの高まり社会主義運動の成長などと国内動向の変化のみを強調する。確かに、ヨーロッパの変動が思想・経済・社会情勢に大きな影響を与えた。
ロマノフ王朝の滅亡で日露協商関係は自動消滅した。そして、真に括目するべき事態は、国家の内と外から並び押し寄せてくる世界共産革命運動の不気味な波である。共産ロシア=クレムリンが発動するあの手この手の共産革命謀略工作こそは、これまでとは全く異質な日本帝国を滅亡へと誘う不気味な魔の手だったのである。我が国戦後の歴史研究者たちは、余りにもこの問題を軽視しすぎてきたと私は思うのである。
つづく
「『昭和の戦争』について」 (二)
「『昭和の戦争』について」
福地 惇
第一章 「昭和の戦争」前史 第二節 明治政府の国家戦略 元寇以来未曾有の国難到来、それは十九世紀当初から高まった西欧列国の脅威だった。それは寛政年間(一八世紀末葉)から始まっていたが、大きな山は一八五三=嘉永六年(凡そ百五十年前)、米国ペリー艦隊の来襲だ。米国政府は徳川幕府に『開国要求』を突きつけた。その目的は欧米列強の世界支配の論理を日本に飲み込ませることであり、それが拒絶されれば、軍事力に物を言わせて植民地支配への道を切り開くことであった。「開国要求」の方法が所謂『砲艦外交(ガンボート・ポリシー)』であったのは、そのことを如実に物語る。同じ年に、プチャーチン座上のロシア艦隊が長崎に襲来して『開国』を要求した。この時点から日本の近代史は本格的に始まる。わが国は欧米列強の侵略の脅威に直面したのであって、それにどのように対応していくかが幕末政治史の核心的課題になったのである。
徳川幕府は、欧米列強の支配圏に参入することで、侵略の脅威を避ける道を選択した。一八五八=安政五年、日米通商条約締結である。この時点で我が国は不平等条約と言う重い足枷を嵌められて西洋列強の国際関係の枠組みの中に引きずり込まれたのである。この巨大な衝撃に耐え切れず徳川幕府は崩壊して一八六八=慶応四年に明治政府が登場する。欧米列強の東アジア侵略攻勢がなければ、近代日本の擡頭はありえなかった。つまり、内発的な動機から日本が近代世界に参入したのではない。徳川三百年の「泰平」は、我々が思っている以上に安定していて、対外政策は「鎖国」だったからである。
さて、欧米列強の東アジア侵略への防衛的対応という課題を背負って誕生した明治政府の国家戦略を端的に言えば、二点ある。第一は、当然のことながら、日本民族の独立と安全の確保=「国権の確立」であった。「国権の確立」とは、先進西欧列強と対等並立できる強国に成ることで、「万国対峙」「万国並立」と表現された。当面の最大の懸案は「西欧的国民国家」の建設と「富国強兵」政策の推進と不平等条約改正事業だった。西洋列強が我が国を独立主権国家に相応しいと認知してくれない限り、「国権確立」は達成困難だったからである。そこで、「開国進取」の理念を基に近代西洋的国家・市民社会・産業社会の建設に全力を投入したのである。
第二は、「東洋世界の平和と安定の確立」(「東亜〔支那〕の保全・東亜〔支那〕の覚醒」)であった。昭和時代には「東亜(アジア)の解放」と言われたが、要するに西洋列強=白人覇権勢力の圧迫から植民地支配の悲哀に陥り恐怖に慄く被抑圧諸民族=有色諸民族を解放することである。幕末に幕臣勝海舟は、その目的を目指す手段として「日支鮮三国同盟論」なる東アジア連合を提案していた。この構想は、明治政府の要人たちにも受け継がれ、日本外交の一潮流としなっていく。だが、外交は、我が国の意向や思惑だけでは動いてくれない。二十世紀前半の我が国を取り巻く国際関係は、正にその典型だったと言えよう。
なお、明治政府は、凡そ二十有余年間、「西欧的国民国家」建設と「富国強兵」政策推進に涙ぐましい努力を重ねて、一八八九=明治二十二年には「大日本帝国憲法」を発布して、翌年からの帝国議会開設へと漕ぎ着けた。同時に産業社会の仕組・国民教育の機構・国民軍隊=陸海両軍もこの頃までにはその基礎構築を進展させていたのである。
第三節 日清戦争の歴史的意義 日清戦争の歴史的意義は何か。欧米列強の東亜侵略に対抗するための国際環境の整備という側面が重要だ。当時清帝国は、ロシア帝国の南下行動に有効な対抗策を打ち出せないでいた。他方で、朝鮮半島に対しては旧来の中華体制的宗属関係を維持していた。清国は朝鮮国の宗主国である。朝鮮半島は支那のいわば植民地的存在だった。宗主国支那がロシア帝国に侵略されれば、属国朝鮮も一網打尽の餌食となろう。そうなっては、我が日本の安全保障は重大な危機に直面する。「中華思想」「中華体制」で東アジアから西欧列強の侵略を撃退するのは不可能である。余りにも独善的で全体を冷静・客観的に見る能力を欠いている。朝鮮王朝を清帝国の支配から離脱させて独立主権国家に育成し、日鮮提携して極東の安全保障を強化する、これが我が国の朝鮮政策であった。日清戦争は、朝鮮半島から清帝国を追い払って朝鮮王国を独立させると言う文脈の中で起きたのである。(注・大韓帝国、皇帝、独立門)。
一八九五=明治二八年四月に下関講和条約で清国から遼東半島を割譲した。しかるに、露独仏の三国が、「東洋平和の為に」なら無いから清国に返還せよと強要して来た(三国干渉)。力関係を熟慮して我が国政府は、干渉を受け容れた(同年五月「遼東還付・臥薪嘗胆」)。ところが、お説教したロシアは、舌の根も乾かぬ内に清国から遼東半島(三一年六月、旅順・大連)を租借して強固な要塞を建設、また南満洲鉄道の敷設権を獲得して、満洲・蒙古と朝鮮半島への侵略政策に力を入れるに至った。シベリア鉄道の建設は間もなく完工を向かえる段階だった。朝鮮王朝の近代化改革を支援しようと日本が動いたその時、三国干渉で情勢急変、李朝は忽ち強いのは日本よりもロシア帝国だと擦り寄ったのである(朝鮮の「事大主義」)。日清戦争の成果は失われ、急転直下、朝鮮半島は更に危うい情勢に陥った。日露戦争の種は、こうしてロシアと朝鮮によって撒かれたといってよい。
第四節 日露戦争の世界史的意義 日清戦争後、清国に対する西洋列強の侵略運動が加速した。そこで義和団の過激な攘夷運動が燃え盛り、義和団事変となる。清国皇帝は義和団の攘夷運動を公認した。義和団は北京の列国外交団や居留民殲滅戦を展開し、清王朝は日本を含む欧米列強に宣戦布告した。日本軍を主力とした連合国軍はこれを撃退し、「北京議定書」が成立した。この情勢の中でロシア帝国は満洲を略完全に占領して南下政策強行の姿勢を示した。ロシアの朝鮮・満洲・支那・蒙古への侵略の阻止こそが我が国が対露戦争に立ち上がった動機である。兵員大量輸送のためのシベリア鉄道も略完成していた。
国力、軍事力の比で見れば日本の勝利はとても無理だと列国の軍事専門家筋は予想したが、わが陸海軍の勇猛果敢な奮闘で、一応の勝利となった。ポーツマス講和条約締結の際の苦労は日本の「善戦の末の辛勝」を如実に示している。英国と米国の支援を得た結果であった。いずれにせよ我が国は日露戦勝でロシアを満洲北部へ押し戻し、朝鮮を我が国の勢力圏に編入せしめた。明治政府の国家戦略の大きな前進だったのである。(注・日露兵力比)
さて、日露戦勝の歴史的意義は、第一に、新興小強国として西欧列強の認知を獲得できたこと、第二に、ロシア帝国の露骨な支那・朝鮮・蒙古への南下を阻止したこと、第三に他の列強の形振り構わぬ支那分割に歯止めをかけたこと、第四に、白人覇権勢力に頭を抑えられ呻吟している有色諸民族に『民族解放』『国家独立』への大きな希望を与え、大いに激励することになったこと等であった。
なお、不平等条約改正問題は「国権確立」問題の象徴だが、実に困難な外交課題だった。治外法権の解消は日清戦争直前の明治二十六年七月、関税自主権完全回復は、何と明治四十四年二月であった。欧米列強との対等・平等への道が如何に長く困難だったかを如実に物語っている。尚、明治三五年一月に日英同盟が成立し、英国が有色人種の国家と対等な同盟条約を結んだ最初である。
一九一〇=明治四三年の「日韓併合」は、既に指摘しておいたように、外交交渉による日本への併合であって、侵略戦争で奪い取った植民地ではない。我が国が力関係で上だったから交渉を主導したのは当然であった。今でも、国際関係は力関係で大きく左右されているので不思議とするには当たらない。竹島を不法占領して恬として恥じない姿勢と比べれば、日韓併合条約締結過程は遥かに紳士的だったと言ってよい。歴史を直視しない現在の韓国政府は、勝手に決め込んだ歪曲史観から発する理不尽な怒りと不満で、「日帝三十六年の植民地支配」の清算などと国際法を眼中におかない妄言を吐いているが、当時の半島人の多くは日韓併合を大歓迎したのだ。李氏朝鮮王朝は、極端な独裁政治で民生の安定も図れず、況や自助努力で「独立主権国家」を形成する意欲も能力もなかった。朝鮮半島が「力の空白地帯」になることを日本は容認できなかった。ロシア帝国の朝鮮侵略意欲が目に見えていたからだ。
なお、日韓併合以後は、日本は国家財政を朝鮮半島経営に割いた。また、近代化の基礎構築、教育水準の向上、社会基盤や環境の改善等に融資と助力を惜しまなかった。朝鮮半島から搾取するものは殆ど無く、逆に本土からの資金の持ち出しであり、朝鮮人の社会環境や生活向上に多大の成果を挙げたというのが歴史の事実であった。大東亜戦争敗北後の我が国の経済復興、高度成長の原因は、財政上の重荷だった朝鮮や台湾を切り離されたお蔭である。戦前、我が国は朝鮮・台湾・満洲に対し一視同仁、「内外(鮮)一体」の気持から外地の発展に大きな資金を回していた、その分が無くなったためである。「東亜=アジアの解放」の努力として日本と朝鮮・台湾・満洲問題は見るべきものなのである。
若しこれをどうしても植民地支配と言いたいのであれば、実に立派な植民地支配である。英国のインド、アラブ地域支配、仏国のアルジェリア、モロッコ支配、スペインの中南米やオランダのインドネシア植民地支配、何れも実に虐殺も厭わす残虐で無慈悲な搾取と差別の支配であったが、それとは似て非なるものであった。然るに、韓国や北朝鮮は、『苛酷な植民地支配』だったと執拗に反省と謝罪を求める。また我が国のボケナスの保守政治家や左翼諸君は悪辣な植民地支配をしたと、謝罪と反省に余念が無い。その者たちは、先祖の偉業を侮蔑することに快感を覚える愚か者だ。また、朝鮮=韓国の人々は、日本をただ感情的に非難・攻撃する前に、右の事実や自分たちの先達の不見識と不甲斐なさに思いを致して反省すべきであろう。日本政府は事実を直視して毅然と対応すべきだ。
つづく
「『昭和の戦争』について」 (一)
福地 惇 (大正大学教授・新しい歴史教科書をつくる会理事・副会長)
「『昭和の戦争』について」
福地 惇注記 : この文章は、平成18年4月17日に防衛庁・統合幕僚学校・高級幹部課程における講義題目「歴史観・国家観」の講義案である。講義時間の関係上、掲げたい史料や叙述を割愛した部分も多い。近日中に、完成稿を雑誌等へ発表する予定であることをお断りしておきます。
はじめに 歪曲された歴史観・国家観
本講義の目的は、第一に「昭和の戦争」は「東京裁判」の起訴状と判決に言うような侵略戦争では全くはなく、「自存自衛」のための止む終えない受身の戦争だったこと、第二にそれが了解出来れば、現憲法体制は論理的に廃絶しなくてはならない虚偽の体制であると断言できることを論ずることであります。「昭和の戦争」の本質を語ることで、現在の国家の指導者は勿論、国民大多数が持つ「歴史観・国家観」が、その国家・国民の命運を大きく左右する程に重要であることを主張したいと思います。
凡そ六十年前、米国占領軍政府(連合国軍最高司令部=GHQ)は、「平和憲法」の異名をとる「日本国憲法」と「日本は侵略戦争の罪を犯した戦争犯罪国家」だと断案した歴史観を日本国民に押し付けた。GHQが起草した憲法なので、「GHQ占領憲法」と呼び、極東国際軍事裁判(通称「東京裁判」)が断案した歴史観だから「東京裁判史観」と呼ぶことにします。
さて、GHQが占領憲法を押し付けた理由は尤もらしい装いを凝らしていた。先ず、「昭和の戦争」を日本軍国主義の侵略戦争だと定義づけ、一握りの軍国主義者が世界制服・アジア支配の戦略を「共同謀議」して支那大陸で凶暴・残虐な侵略戦争を展開し、支那だけでなくアジア諸民族に対して甚大な人的・物的損害を与えた。また、日本国民一般も軍国主義者が推進した無謀な戦争の犠牲者であった。それゆえに、平和と自由と民主主義を愛する「正義の味方」アメリカ合衆国は、日本軍国主義者の被害者を救済するため立ち上がり、それを懲らしめて、日本国民を解放したのだと言い包めた。
この「東京裁判史観」を前提に、新日本は前非を悔いて二度と再びこのような侵略戦争の過ちを犯さないよう、自由と民主主義を基軸とする平和国家へ生まれ変わるのであるとの理屈を組み立てた。
「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して」(憲法前文)、「国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては永久にこれを放棄する」(憲法第九条)との証文までおしつけて、皇室制度と政治を切り離して元首の存在を曖昧にし、陸海両軍は廃絶されたのだった。
絶大な権力を有した占領軍政府は、間接統治を有効な隠れ蓑にし、言論や教育の統制を強行し、敗北主義の心理に陥った日本人迎合者を巧妙に使嗾して、彼らの国益に適う国家へと我が国を改造したのである。それを推進するための日本人洗脳の武器が「東京裁判史観」であり、その歴史観に支えられる国家体制が「GHQ占領憲法体制」なのである。
だが、この仕打ちは、明らかに「ハーグ陸戦法規」違反である。この国際法は、戦勝国と雖も敗戦国の国家体制・法体系を恣意的に「改造」するのは許されない、としている(注・一九〇七年「陸戦の法規慣例に関する条約」第四三条《〔占領地ノ法律ノ尊重〕国ノ権力カ事実上占領者ノ手ニ移リタル上ハ、占領者ハ、絶対的ノ支障ナキ限、占領地ノ現行法律ヲ尊重シテ、成ルヘク公共ノ秩序及生活ヲ回復確保スル為施シ得ヘキ一切ノ手段ヲ尽スヘシ》)。同時に、我が国が受諾した降伏条件=「ポツダム宣言」にも違背している。(例えば、条件付き降伏なのにGHQは〔無条件降伏である〕と言い募った)。
従って、米国占領軍の行為は、厳しく非難さるべき所業であったが、敗戦後の歴代政府は批判すらせず、大人しくその占領政策を承認し、場合に依っては尊重して講和条約に至ったのみならず、その路線で今日に至っているのである。国民の多くは「平和憲法」は世界に誇るべき憲法だと思い込まされ、「東京裁判史観」でご先祖達が悪戦苦闘したあの「昭和の戦争」は悪辣な戦争だったのだよと子供の頃から教えられて、祖国への愛着を薄めて半世紀以上をのうのうと過ごして来たのである。
だが、冷徹に往時を回顧すれば、「東京裁判史観」は歴史の事実を歪曲し偽装した虚偽の歴史像なのである。そこで本論に入る前に、「昭和の戦争」を正しく見るための視点を提示しよう。次の四つの次元の相互関係に鋭く目配りしなくては、「昭和に戦争」の真実は見えて来ないのである。
①我らの祖国日本は、生真面目に国際法を遵守しようと努力したが、我が国を取り巻く国際政治は以下の事情の為に一向にそれを評価しなかった。
②支那大陸の混迷する大内戦状況が、ソ連や米国の介入を容易にさせたため、大陸の軍事・政治状況は極端に混乱し、我が国の大陸政策展開を困難にして翻弄した。
③ソ連=コミンテルンのアジア攪乱戦略=日本帝国主義攪乱戦略の目的は、日本と支那の軍事衝突を長引かせるところに有った。それ故に支那の内戦状況の激化に伴い、否応なしに日本軍は大陸の泥沼に引きずり込まれていった。
④米国の支那尊重・日本排撃方針は、支那情勢への間違った理解、あるいは共産革命幻想に発しており、日米関係を殊更に悪化させた。そのことは、ソ連=コミンテルンの「資本主義同士を噛み合わせる戦略」を効果的ならしめる大きな要因になった。
第一章 「昭和の戦争」前史
第一節 「十五年戦争」という歴史用語の陥穽(落し穴) 周知のように、満洲事変から支那事変、大東亜戦争へと、「昭和の戦争」は日本の国策として首尾一貫したアジア・太平洋方面への侵略戦争だったとする知識が日本のみならず世界の常識になっている。第二次世界大戦は平和と民主主義を愛する正義の諸国=『連合国』と世界征服を目指す邪悪な全体主義『枢軸国』との激突であった、と『連合国』側はあの戦争の性格を概念規定した。
だが、これは連合国側、特に米国とソ連とが、歴史の事実を歪曲して独善的に自己に有利な物語に仕立て上げた、いわば偽装された戦争物語に過ぎない。取り敢えず分りやすい反証を三つ挙げよう。
第一に白人欧米列国は三、四百年もかけて本国を遠く離れた地球の裏側まで、侵略戦争を果敢に展開する植民地支配連合を形成していた。
第二に、大日本帝国は、侵略戦争で獲得した植民地を持っていなかった。台湾は日清戦争の勝利によって獲得した領土であり、朝鮮半島は朝鮮王朝との外交交渉による条約で我国の領土に併合したのであり、満洲国は「五族協和」の理想を掲げて建国された独立国家だったのである。英国から独立した米国が英国の傀儡国家だと騒いでいる者を私は知らない。米墨戦争(一八四六―四八)でアメリカ合衆国がメキシコから割譲したテキサス州・カリフォルニア州・ニューメキシコ州を植民地支配だと騒いでいる者がいるのを知らない。台湾はカリフォルニア州となんら変ることのない戦争による領有関係の変更であった。
日韓併合は、米国のハワイ併合より穏やかな併合だった。チェコとスロバキアが合併してチェコスロバキア(既に解体した国家となったが)に、西ドイツと東ドイツが合併してドイツとなったのと何の変哲も無い。満洲国は日本が支援して建国された独立主権国家である。ソ連は満洲建国より八年も以前に、完全な傀儡国家であるモンゴル人民共和国を作っていた。米国のフィリピン独立支援よりも穏当な形の独立支援だった。また、現在の隣国共産支那は、チベットや新疆ウイグル、満洲や内蒙古を軍事力で国土に編入しているし、尖閣列島をじわじわと自国領土に取り込もうとしているし、台湾を武力で領有しようと身構えている。共産支那は明らかに現役パリパリの侵略国家である。だが、戦前の大日本帝国が侵略国家だったと未だに騒ぎ立てる手合いは多いが、共産支那は侵略国家で怪しからんと騒ぐものは徐々に増えてはいるが未だに少数派であるのが現実である。
第三に、日本帝国は、ナチス・ドイツやファシズム・イタリアと同一の全体主義の独裁体制の国ではなく、明白な立憲君主議会制国家だった。確かに、日独伊三国同盟を締結していた。大東亜戦争期に日本人の一部に「ファショ的雰囲気」は存在したたし、大戦争に遭遇したのだから当然「戦時体制」は敷かれた。しかし、明治憲法は大東亜戦争の敗北まで健在だったのである。軍国主義者の代表とされた東條英機は憲法に従って内閣首班・陸軍大臣を勤めて戦争を指導した。他方、『連合国』側には、超独裁主義者スターリンのソ連、典型的軍閥独裁者=蒋介石の中華民国が名を列ねている。ソ連には憲法は有ったがそれは空文に等しかった。蒋介石の中華民国はマトモナ憲法を持たず、公職に関する選挙制度も無かった。それ故、『連合国』の盟主米国に対して、お前の仲間は典型的独裁者だったのだから、お前も野蛮な「独裁体制の国」だったのだぞ、と言ってみよう。そう言われたアメリカ人が、顔色を変えて激怒するのは火を見るよりも明らかであろう。
何れにせよ、問題の核心は、「昭和の戦争」が、東京裁判が断案した通りの「侵略戦争」ではなかった点が証明出来ればよいのである。では、「昭和の戦争」の真相は何だったのか。それを述べる前に、あの大戦争の性格をより良く理解する為に、先ずそこに至る前段階=前史を概観することから始めよう。
つづく
続・つくる会顛末記 (七)の2
集団思考は右にも左にもあり、運動の形態をとり、ひょっとすると徐々に重なり合い、合体する可能性もあります。つまり、今、保守的右翼的勢力と考えられているひとびとが、いつの間にかはっきり自己確認をしない侭に、中共の謀略にあって、知らぬうちに中国との他者意識を失い、中国の国家利益に奉仕することを知らずにせっせとやりつづけるというような可能性です。アメリカの出方いかんで日本人は頭に血がのぼりすぐそうなります。
右と左は別だと皆さんは思っていますが、戦後永い間左が強く、左への反発と反感をバネにして、いまの雑誌や新聞がつくられ、ワンパターンで推移していますので、左右のどちらの側にもある同じ質の集団思考、同じ型の固定観念の形成に気がつかないのです。
右も左も、自分が自由に考えなくなる点で、思考の形態が同じタイプということです。なぜ毎月、オピニオン誌は反中国、反韓国、靖国、愛国を飽きもせずにくりかえすのでしょうか。いくら叫んでも、現実が動かないからです。疲れて倒れるまで言いつづけるしかないのでしょう。
それではダメだ、基本を正さなければ現実は変わらない、たしかそういう思いから教科書運動が始まりました。ところが、その教科書運動が採択の壁にぶつかって無力をさらしました。今回の紛争は無力感と絶望感と無関係ではありません。
ですが、分裂ができるということは路線闘争があるということであり、力とエネルギーがまだあるということなのです。左の勢力は結集する力すらありません。ですから、左を叩くことはもうほとんど意味を失っているのです。
いつまでもオピニオン誌が左と右の対立思考にこだわっている不毛を克服すべきです。それは冷戦の後遺症にすぎません。思想闘争における本物と贋物との対立思考に取り替えられるべきです。
愚かな左はまだ確かに残っている。しかし、それを標的にしている限り、自分も愚かになるだけです。オピニオン誌の編集者に申し上げたい。愚かな左を相手にせず、右の中の真贋闘争に集中することが、大衆の意識を向上させることにも役立つはずです。
愚かな左を叩いている文章にはもう飽きた、という人は多いと思います。ほとんど同じ論調のくりかえしで、敵がまだいるからこの方が売れるというかもしれませんが、いつか必ず売れなくなります。その時期は近い。
教科書問題はいま新しい路線闘争を求められているという意味です。採択の壁は左との戦いではなく、右の中の真贋闘争によって乗り越えられることでしょう。採択の目に見える成果が上らぬうちに、そういう新しい時代が近づいて来たのでした。
他の政治思想のあらゆる部門において同じことが言えるように思います。黙して逆らわずでは駄目です。自分を危うくすることのない言論人は世界を動かすこともできません。世界を動かすことはまず世界を危うくすることから始まるのですから。
続・つくる会顛末記 (七)の1
「つくる会」の出来事を振り返って全体を判断するにはまだ時間が少なすぎるかもしれませんが、なにか外からの力が働いたという印象は私だけでなく多くの人が抱いているでしょう。一つには旧「生長の家」系の圧力の介入があった、という推論を先に述べたわけですが、それは今までの仲間との癒着の油断であって、分り易いので目立っただけで、本質的な変化を引き起こしている原因ではないかもしれません。
フジサンケイグループの影響力ということを言う人もいますが、これは影響を与えているというより、外から大きな影響をたえず受けている点で、「つくる会」と同じ位置にあるのであって、現代の世界の政治的謀略の対象としてつねに狙われている側にあります。
「怪メール事件」の「怪文書2」は内容からみて間違いなく八木氏の手になるもの、もしくは宮崎氏・新田氏・渡辺氏との合作であって、それ以外には考えられませんが、「怪文書1」(党歴メール)は出所不明です。誰かが言っていましたが、公安なら「日本共産党」と正式に書くはずで、「日共」という単純化して書かれた点が中国人の手になるものらしい、という推論もあながち否定できません。勿論「怪文書1」も直接八木筋の手になるものとの可能性も否定できない侭です。
要するに現代は何処からどんな力が働きかけてくるか予想がつかず、自民党総裁選を前にして靖国に並ぶ教科書問題のタームが政治的に小さいはずはないのです。「つくる会」は間違いなく、何の力かはまだ分りませんが、外からの幾つかの力の大きな作用をもろに浴びたのでした。こんなときに自分達が個人として、人間としてよほどしっかりしていなければ、本当にこなごなに打ち砕かれてしまいます。
不用意に中国に出掛けて行って、若い事務員に会代表の立場で南京事件について現地の用意十分の学者と対話させた八木氏一行の軽率は、「つくる会」とは無関係であることを理事会で決し、「特別報告」が出されましたが、総会の名においてこれを世界に向けて宣言すべきです。ことに中国社会科学院に対話内容は会とは無関係である旨公文書で通報すべきです。何年か後に、どんなことで(内容では必ずしもなくその折の挨拶の表現のひとつで)中国側から利用されないとも限りません。
今一番恐ろしいのは、政治家の力量不足を目の前にして、日本の内外で予想もつかない激変が起こることです。軍事紛争か金融問題か、それは分りませんが、あっという間に集団思考が先行し、ものを考えない大衆が主導権を握り、指導者なき羊の群が国際社会という狼虎の世界へほうり出され、国家的に二度と回復できない致命傷を負うことです。
昨夏の小泉選挙を見て下さい。あの興奮のまゝで、もし日本が地域紛争にまきこまれたらどういうことになったでしょう。小泉は愚かな独裁者でした。任期が来て辞めるからみなホッとしていますが、紀子妃殿下ご懐妊がなければ、確実に「狂気の首相」は異常事態を出現させたはずです。
そして、この国はいつでも、同じように違った条件で、同じような恐ろしい悲劇を惹き起こす可能性を常態として抱え、明日本当にとんでもないことが起こる不安を一日一日先延ばして誤魔化し、払い戻すべき借証文を質屋に入れて、高金利を払いつづけて生きているのです。
これは70歳を過ぎた私が見ていて、死ぬに死ねない状況です。「新しい歴史教科書をつくる会」は理想を掲げて走りましたが、間に合わなかったのかもしれません。人間が育っていないのです。しかも、会の内部がそれをさらけ出しました。嗤うに嗤えない状況です。
続・つくる会顛末記 (六)の5
じつは今のシステムも本当は壊れているのかもしれません。あと何年かは保守すれば何とか使えるということでしょう。システムはどんなシステムでも予想できないトラブルが考えられることは常識です。一番の問題はトラブル発生時の即応体制にあります。そのため平時からの情報監視体制が不可欠です。「つくる会」は「保守体制」がまったくコンピュートロニクス社に丸投げの状況で考慮がなかった。つまり宮崎氏があまりにも安易に考えてきたことが問題です。
新田氏がブログで「トラブルがないではないか・・・・」と書いているそうですが、こういう指摘は本質ではないのです。いまだにファイルメーカーを基本にしているのですが、ファイルメーカーは専門ソフトであり、その技術者が市場にたくさんいていつでも対応可という状況なら心配もありませんが、すでにマイナーなソフトになってきているのが問題なのです。技術者も減る一方です。それだけに、保守契約は大事な問題でしたが、何度も言いますが、実際には本来の保守契約ではなかった・・・・・これこそが最大の問題です。
エクセルやアクセスなどの、マイクロソフトの汎用製品でつくればそういう心配はなかったでしょう。ある人が言っていましたが、某団体(30万人)会員管理ソフトは、汎用ソフトを使用して、開発に100万もかかっていませんし、保守費用も年20万程度だということです。「つくる会」のケースは知る人が知ったなら常識外なのです。新田氏の指摘「いま問題がないのだから・・・・」は問題の「表層」であり、およそ学者が口にすることばではありません。
コンピュータ問題の真相を糾すには、Mさんより前に退職した二人の女性オペレーターに本当に新しいソフトに従来の要望、無理な使い方を積み重ねて、長大な時間を要したのか、事情をお訊ねすべきでしょう。それが人件費の加算を生んだ原因だといわれているからです。
しかしコンピュータ会社の担当役員は「つくる会」の会員で、しかも「つくる会」の仕事を負った損害が原因で重役の職を解かれていると聞きました。コンピュータ調査委員会では、これ以上の追求は慎むべきであろう、争って得られるものはなく、当会のなおざりな対応にも責任がある、と判断されました。そして相手が責任をとっている以上、「つくる会」側がこの件で責任を問われぬまゝはおかしい、という議論になりました。これはしごく当然ではないですか。
責任をとって理事が辞任するのは簡単ですが、辞任すれば会がなくなってしまうので、八木、藤岡、遠藤、福田、工藤、西尾の六人で100万円を罰金として会に支払い、謝罪の意志を表明することとし、宮崎事務局長は次長降格、給与10%3か月分カット、調査中なので当分の間出勤停止という裁定を会は自らに下したのでした。公明さを示すためにこの裁定を「つくる会」支部にも公表すべき、と言ったのは、八木氏と西尾であり、それに反対し、むしろ内々で辞職勧告とするよう慎重な道を選べ、と言ったのは藤岡氏でした。
しかるに、新田氏らいわゆる四人組は、お前たちは宮崎に責任を押しつける手前、金を払ってごまかすという汚い手を使った、と居丈高に理事会で発言しました。私はこういうコンテクストの中で、こういう理窟を言い立てる人々とはとても席を同じくすることは出来ないと思って、それが辞任に至った直接の原因でした。
続・つくる会顛末記 (六)の4
驚くべきことに、「総額1728万円、月額17万円(保守料)」はあっという間に値引きされ、「1000万円、11万円」と決定されました。こういうことがますます謎を深めます。どういう仕掛けになっているのでしょう。簡単に700万も値引きするなんてことは、どうしても私には分らない。
「遠藤報告書」の平成15年1月22日~(18)から平成17年4月7日~(28)までを読んでいたゞくのが一番手っ取り早い。
ソフト開発購入代価と保守契約込みで1000万円になってみんなよかった、よかったと安心して、保守契約が「玉虫色」であったことは当時は誰も気づいていませんでした。ついに今に至るまで、きちんとした保守契約は具体的に決まらないままできました。常識的に業界では考えられない業者の不誠実を目の当たりにし、富樫氏は将来に及ぶ器械不調を考慮に入れて、第三者の専門家を交えてあらためて保守契約をすべきと考え、再度理事会へ提言文書を提出しました。が、また種子島、宮崎の両氏にはばまれて、彼女の提言は無視されました。
宮崎氏は、理事会承認をいいことに、女史の進言を無視して業者からの請求書もまだ受け取っていないうちに、ただの口約束で、購入代金の一部525万円の支払いをすませました。いつも支払っている小口の支払い口座に投げこむという杜撰さで、この話を聞いて調査委員会のメンバーもあいた口がふさがりませんでした。
事務的に一連の契約書関係書類、保守契約書等がなんとか出揃ったのは、理事会の承認からなんと5ヶ月も経った後になってやっとという始末でした。
最初の頃はコンピュータに不具合が発生しても、業者は相談に乗ってくれていたようですが、だんだん応対が悪くなり、オペレーターは日常業務に支障をきたすようになりました。Mさんは毎日のように起こる器械の異常をノートし、約1年の記録データを残しています。それでも業者が面倒を見てくれる間は良かったのですが、だんだん手抜きになり、ついには、平成17年11月頃に、業者側から翌年3月で保守契約を解消すると通告してきたのです。契約は「玉虫色」で、会社側は保守する義務は必ずしもないと考えていたからでしょう。
担当オペレーターのMさんは、業者の対応に苦慮し、宮崎事務局長に何度も相談するも、事務局のこの担当のT氏が会社と会を往ったり来たりするだけで、容易にらちがあきません。ついには、自分の担当する職務に自信がもてなくなり、会を退職するに至りました。
今、コンピュータは正常に動いているといわれていますが、果してバグが改善されているのか、データーが正常に作動しているのかは、詳しく調査してみなければ分りません。いま別の人により保守が開始されたので、何とか動いているのが実情です。一定の保守がなされれば瞞し瞞し使いつづけることはできるでしょうが、「保守契約」のなかった曖昧な無契約状態のまま打ち捨てて来た罪は消えていません。
それに、最初のこの玉虫色の曖昧さ、保守契約の点だけでなく金銭的にもはっきりしない宙ぶらの状態をかたくなに封印し、死守し、「公認会計士」の口出しを威嚇をもって退けた種子島氏と宮崎氏の姿勢に、何故? 何があるの? という不審の思いを抱くのは私ばかりではないでしょう。当時私が口出ししようとしても露骨に不快な顔で拒絶されました。
種子島氏は会長になるや、コンピュータは動いている、問題はなにもない、と待っていましたとばかりに一早く宣言しました。そしてFAX通信にそのような意味の一行を入れておけ、と、事務局員に命じて、急遽一文が挿入されました。
動いていれば問題がないということにはなりません。いつ動かなくなるかもしれない、それに対する用意ができていないまゝに放置されていた責任が問われているのです。
じつは「遠藤報告書」には注目すべき記述があります。平成14年2月会社はサラリーマンK氏のソフトを継承しての作成は困難と判断し、独自システムの構築を提案しますが、宮崎氏は従来の機能を維持することをくりかえし主張しました。
平成14(2002) この頃種子島副会長は事務局長に対し、①旧システムをベースせず、全く新しいシステムを構築する、②ユーザー(つくる会)側の要望を一本化し同事務局長が折衡の窓口になることを事務局長に指示(宮崎事務局長は「記憶にない」)。
種子島氏は海外に行く前に①②を言い置いて行ったのに事実はその通りになっていなかったと後で主張しています。二人のうちどちらかが嘘をついていることは明かです。
「遠藤報告書」の第一稿がほゞ出来たとき、それを藤岡氏が種子島氏に伝え、種子島氏は「経緯はその通りだ」と応じ、ただし自分はこう言い置いて海外に行ったのに宮崎氏が守らなかった、と平成17年10-11月頃に証言し、この①②が報告書につけ加えられた、というのが真相です。
平成14年3月に試みに第一次納品がなされましたが、二人の女性オペレーターがファイルメーカー使用の従来の機能が反映しておらず、不満を表明し、相談の結果ファイルメーカーを使用した折衷案で行くことになったそうです。会社はファイルメーカーを使用したことがないので分らない、と言っていたそうですが、オペレーター側の要望に妥協したようです。
続・つくる会顛末記 (六)の3
以下、富樫氏から最近私が聞き書きし、同時に重要な個所をご自分の筆でメモを書いてもらいましたので、両方を用いて叙述します。
富樫氏は宮崎氏にいくら聞いても埒があきません。宮崎氏も「あなたがそんなに疑問があるなら、自分で業者に直接聞いてくれ」と言い、一緒に心配する風はない。つまり、宮崎氏はこの額にびっくりしていないのです。
彼女は大変なことになったと考え、コンピュータ会社の業者に会う前にソフトに詳しい専門家の意見を聴取したいが、第三者に内情を知られるわけだから、田中英道会長(当時)に電話で知人のソフト専門家に調査を依頼してよいかと尋ねた処、「どうぞ、どんどんやって下さい」とのことで、はっきり覚悟ができて、小林図南(となみ)氏にたのみました。調査は1月21日に行われ、「システム環境報告書」と称され、1月27日の理事会に提出されています。どうかこれをクリックしてよく読んで下さい。1728万円を請求されたコンピュータソフトの能力に関する、第三者による査定、一人の専門家の判定です。
平成15年1月17日、富樫氏は直接業者に会って質問をする場がセットされました。小林図南氏の報告書はこのとき間に合いませんでしたが、ともかく会社の担当者に面談したのです。なぜかその場に種子島氏が出て来ていました。
以下富樫氏の文章です。
当日、種子島財務担当理事、宮崎事務局長も同席した。両名は、始終業者寄りの発言をし、ことごとく私の疑問を否定して、つくる会側の利益を代表するのではなく、まるで業者側の者であるかと錯覚するぐらい業者側の立場に立った発言であったので、私は、これまた驚愕の事態で、一体全体どうなっているのか一瞬わけがわからなくなった。
① 本来、契約条件は明確にして取引されるのが通常であるのにすべてが口約束ですすめられていることの異常性、
② この契約が相見積もりを取って選定し、決定したものでない随意契約で、しかも事務局の関係者に由来する契約であること、
③ つくる会にとっては相当な高額投資の案件であること、
④ 当初発注のSQLシステム仕様になっていないものが納入され、半素人が作成した従来のソフトに比して機能の向上が全くない同じものに1000万以上の投資額にのぼることをどのように解釈するべきか、
⑤ ①~⑤の疑問について宮崎事務局長、財務担当理事の種子島氏が全く私と見解を異にして、しかも私の疑問を種子島氏は、頭ごなしに業者の前で面罵したことにこの取引の不可解さが一層増した。
それから面罵されたときどんな対話だったかを思い出して、富樫氏には以下の通り補足しています。よほど腹に据えかねたのだと思います。
その時の応接室で業者と宮崎氏の前で種子島氏から言われたことは、以下のとおりです。
① 「あなたには会計のことは頼んでも、このようなことは頼んでいないので口出しするな。」
これに対して私は、このような投資に係わる契約は会の財産の変動を及ぼす事項であり、これは、まさしく会計領域に属しますと反論いたしました。② 「ソフト開発というものは、当初予算よりオーバーするものであり、通常起こりうることだ。私がBMWの社長時代の10年程前に、当初3000万円の投資が5000万円になった契約をした経験がある。この金額が高いものではない。」と発言した。
③ 「財務担当の私に一番に相談すべきなのに、私の頭ごしに、田中会長、西尾名誉会長に相談するとはなにごとか。ビジネスの世界では、根回しというものがあることは、あなたは、知らないのか。女であってもそれくらいの常識は、知っているでしょう。」と言われてしまいました。
今まで、種子島氏に相談しても、なにかと意見が違い私の進言を聞き入れてくれなかったので、直観的に、種子島財務担当理事をとうさず、田中会長、名誉会長に相談したことを不服として仰ったものと思います。
日本の社会で「公認会計士」とは地位の高い、ビックな存在です。女性だからと思ってなめたのか、大変な侮辱です。彼女は企業その他で数多くの仕事をこなしていますが、「つくる会」ほどひどい扱いをした例はほかにないでしょう。
1月27日に富樫氏は「新会員管理システム移行取引について」の文書を理事会に提出。小林図南氏の判定を添付しました。2月10日にも「同文書の理事会決定事項への提言」を出し、会計士としての道理ある正義の立場を貫こうとしました。
しかし彼女は理事会には出席できません。代りに私がこの取引の異常性を訴えました。契約書もなにも揃っていなかった不始末、相見積りをとっていない努力不足、金額が高すぎること、契約は全面的に破棄すべきことを訴えました。私は二度の理事会で数字をあげ、書類をかざして叫んだのですが、そのつど会議室はシーンと静まり返って、なにも起こりません。
種子島氏に全面委任、事務局長を今さら困らせることはできない、という沈黙で、静まりかえって誰もことばを発する人がいません。たゞ素頓狂な発言をとつぜんした人が一人いるのではっきり覚えています。
高森氏が、「でも契約書も、請求書も、見積書もみんな後から追っかけて、富樫さんに作ってもらって、みんな間に合ったんでしょう。じゃあ、いいじゃないですか。」
藤岡氏は財務の一件になるといつも完全に沈黙します。後で人から聞きましたが、「西尾氏がコンピュータのことで騒ぐのは、田中会長を困らせ、追い落とすための工作だ。」こんなことを言ったというのです。
私が声を大にして叫んでもビクともしなかった会の空気、しめし合わせて私の質問を封じた壁のような抵抗――その背後に何があるのかいまだに私には分りません。
読者の皆さんは、この「名誉会長」は我侭で、好きなように会を動かして来たといわれ、それを信じているようですが、コンピュータ問題に関する限り、てこでも動かぬもの、どうやっても開かない「開かずの扉」の前で私ははね返されました。誰が何を隠しているのか、私にはいまだになにも分りません。
しかしこの謎がずーっとつづいていて、それがオペレーターのMさんを立往生させた平成16-17年のシステムの不具合の連発につながってくるのです。
続・つくる会顛末記 (六)の2
コンピュータ関係の専門の会社に依頼したのですが、それが平成13年10月でした。私が1000万円以上かかると聞いたのが平成14年11月頃、会が正式に「総額1728万円、月額(17万円)保守料」の仮契約書を提示されたのが平成15年1月で、つまり依頼が開始されてから金額提示までに1年以上かかっております。
その間にオペレーターが今まで使っていたファイルメーカーを踏まえた上で、今以上に使い易くレベルアップしてほしいといい、あゝだ、こうだと新しい注文をつけ、時間がかかり、会社側の人件費がかさみ、えらい金額になったというのです。それにしてもおかしい。
ファイルメーカーを止めさせて完全に新しくするか、ファイルメーカーをその侭使用しつづけるか――二つに一つが常識のはずです。そのことをきちんと教えない会社側も悪い。こちらは素人の集団で、事務局長は何にも分らないのですから、オペレーターの要求に合わせていけば人件費が最後いくらになるとかきちんと予め言うべきです。
事務局長も問うべきだし、計算を口頭で言い合うのではなく、計算書を交すべきです。大体、複数の企業に依頼して、相見積もりをとって安い方にきめるのが常識ではないですか。クライアントの責任者である宮崎氏は余りにトンチンカンでした。大工を入れて自宅を改造するときだって口頭の約束で工事をすすめるなんてことはありません。これから述べますが、相見積もりをとるチャンス、契約を止めて別の会社に乗り換えるチャンスは他に幾度もあったはずです。
私が伊藤哲夫氏に、12月1日のあの電話のときですが、「宮崎さんは実務社会で生きた経験がない。奥様の実家が財産家で、自分の印鑑を捺して不動産を買ったりローン契約を結んだりした経験もない。コンピュータ問題でもろに欠点が露呈した。」という意味のことを言ったとき、彼はこういう言い方に激昂したのです。尊重すべき昔の同志が侮辱されたと思ったのでしょう。ですが、日本政策研究センターが同じ目に遭ったら、彼はそれでも尊重しつづけるのでしょうか。
先日ある人がDELLのデスクトップを使えば、会員管理システムなんか10万円でお釣りがくると言っていました。それはともかく、上等のソフトでも100-300万円程度を越えることはないというのが常識で、そのことを発注前にしらせ、この会社は止めた方がいい、安いのがいくらもあると警告していた人がいるのです。それが会の経理を見ていた公認会計士富樫女史でした。
平成13年11月にファイルメーカーとまったく別の新しいシステム、高度の内容を盛り込んだSQLシステムを構築する約束で、会社側は自社の見積りを提示しました。最初それが750-900万円で、富樫氏は高額投資になるので他社との相見積りを取ること、執行部ならびに種子島財務担当理事の承認を得ることを進言しました。
「つくる会」事務局再建委員会の「会員管理システム問題にかかわる調査報告」(平成17.11.12)、遠藤浩一氏が努力なさったので俗にいう「遠藤報告書」によると、種子島氏は口頭でこれを了承、相見積りの件は無視したようです。宮崎氏はともかく慎重にと思い、友人に見積りの妥当性を問うと、「会社との契約であれば安いし、妥当」との回答を得たので、踏み切ったと言います。
ある人が「普通こういうのは100万までという答えが返ってくると思いますが、1000万の発注をするのに相見積りを取らないでいいのか、安く上げようとする努力が見受けられないではないか」(ブログ Let’s Blow! 毒吐き@てっく「作る会よ(元・現)いい加減にしろ!」参照)と言っていますが、宮崎氏が種子島氏に富樫氏の進言を伝えなかったとしても、実務家の種子島氏が相見積りを取るべきと自らここで立ち止まって考えべきではなかったですか。
約1年半たって平成14年11月頃にソフトは完成し、納入されました。しかし約束していた高度なSQLシステム仕様ではなく、サラリーマンのK氏がサイドビジネスで作ったソフトとなんら機能的に変わらないものでした。富樫氏は経理の担当者として、契約書等の提示を求めましたが、一連の取引契約書類が一切なく、すべてが口頭で進められていたことを知り、唖然としました。そのときの代価提示類は、これまた口頭で1000万円程度と聞き、高額なので執行部の承認を求めるよう指示しました。
私が富樫氏から「大変なことが起こっている」と伝え聞いたのは丁度この時期です。半素人のK氏がつくったのと機能的に大差ない代物がなにゆえにこんなに高額なのか、常識的に考えても納得がいかないので、彼女は早く契約書、見積書、請求書明細などを提出するように指示したのですが、とにかくなんにも揃っていません。
年が明けて平成15年1月となり、仮契約書類が入手されましたが、「総額1728万円、月額17万円(保守料)」に富樫氏はびっくりし、「これはどうしたことか」と宮崎氏に問うたそうですが、彼は答えられない。
続・つくる会顛末記 (六)の1
コンピュータ問題(つくる会会員管理システムの保守契約不備をめぐる問題)は、坂本多加雄氏のご死去の当時に端を発します。ご死去は平成14年(2002年)10月29日で、そのころ私は会の財政に疑問を持ちだしていて、11月26日の理事会に「会の財政への疑問」(B4四枚)を単独提出しました。私は普段は議事に参加しませんが、危機信号を発するのが名誉会長の仕事だと思ったからです。
採択運動の年でもないのに、その年と同じように気前よく予算が組まれ、私の目から見て明らかに浪費ぎみなので、私は思い切って富樫信子公認会計士に事前に質問をぶつけて、自分の目で調べました。専門会計士の計算書は素人目に複雑でスッと頭に入りません。私は大づかみな数字が必要だったのです。
会費を主体とする会の通常収入はいくらで、家賃・人件費・通信費・支部交付金・「史」発行費などの通常経費はいくらなのか。前年の採択運動に大体いくらかかったのか。臨時収入はどれくらいあったのか。そして前年度の繰越金を含めていまいくらあるのか、等です。
私は大雑把な分り易い数字説明を求めました。その結果、通常収入は通常経費とほゞトントンで、従って会費収入は会を維持するだけで、運動費はそこから出てこないことが判明しました。つまり、会費収入だけではただなにもしないでじっと坐っていることしかできないのです。
このことは会員数の減った今はもっと深刻なはずです。「つくる会」に残った理事諸氏はしっかり頭に入れておいて下さい。
しかし種子島財務担当理事が、預金残高を見て、「まだ大丈夫だ。お金を貯めるのが会の目的ではない。運動に使わなければ意味がない」といって、採択の年でもないのに、通常収入の約半分もの運動費を予算に計上するので、みんな安心しきってお金を使っていました。しかし今言ったように運動費はもう新たな出所がないのです。私はこんな有様ではやがて行き詰まり、次の採択の年に運動費ゼロということになってしまいますよ、と警告し、会は財政破綻で潰れるかもしれない、と言い添えました。
余談ですが、この年の年末に永田町星陵会館で「坂本多加雄先生を偲ぶ会」が行われ、関係者で会食し、終って二次会の坂本夫人もおられる席で、藤岡氏が何か思い詰めたような顔で、飛びかからんばかりの勢いで「西尾さんは破壊主義者だ!この会を潰そうとしている」と大声で言い出しました。勿論、酒に酔った放談の席です。そのときは八木さんが「破壊主義者はないでしょう。会を大切に思うから心配しておられるのであって、話は反対でしょう。」といなしてくれました。
藤岡さんには「ジャイアンツは永遠です」の長嶋茂雄と同じく、「つくる会は永遠です」のテーゼに一寸でも抵触する言葉は禁句で、いつもおかしいくらい過剰反応します。子供っぽいとも言えますし、ほゝ笑ましいとも言えますね。
閑話休題。会の財政資料を個人的に解説して下さった富樫監事が同じころ「先生、こんな事より、はるかに重大な財政問題が会には他にあるんですよ。」と教えてくれたのが、会員管理のコンピュータソフトの取り替えです。ろくな契約も結ばず、1700万円も請求され、おかしいと言って富樫氏がしきりに抗議と警告を重ねているという重大新事件です。
財政を私が心配しているとき、いきなり1700万円という巨額に驚きました。この小っぽけな会の当時の預金残高の約三分の一でした。たった今、やがて財布の底がつくと心配しているのに、ほかでもない、まさにそのときこんな大きな額が流れ出してしまうというのですから、私が愕然とし、富樫女史から逐一事情を聴取したのはいうまでもありません。「先生、必ず理事会に持ち出して下さいね。」
コンピュータは私の最も苦手の、手に負えない分野です。文学部出身者の多い、実務に乏しい当会の理事諸氏にとっても完全に未知の世界でした。つまり、彼らも私もみな無知です。宮崎事務局長も同様で、知らぬ世界のことゆえどうして良いか分らなかったという同情すべき一面があります。
会は発足当初からK君という若いサラリーマンに委託し、ファイルメーカーのソフトを使用して、会員管理システムを作成してもらい、保守管理も委ね、毎月28万円を支払っていました。これが高いのか安いのかは私だけでなく、当時会にいた誰にも分りません。
先述の藤岡氏のエピソードといい、K君の一件といい、お恥かしいことに会の関係者はことほどさように金のことには疎いのです。種子島氏はだから救世主でした。みなが彼に依頼し切ったのは当然ともいえます。
問題はK君の素人芸はもうやめて、きちんとした会社に委託してシステム開発と保守を担当してもらおうと考えるようになって以来のことです。私には話してもどうせ分らないと思われていたらしく、事情は全然聞かされていませんでした。そして突然1700万円という数字を打ち明けられて、不安になったのです。