福地惇氏による現下の状況分析を下欄に追加します。 つくる会が決意を求められる重大局面です。(5月26日)
続・つくる会顛末記
(二)
宮崎事務局長の解任勧告が今回の紛争の発端であったことはよく知られています。そしてそれを発議し、最も熱心に推進したのは私だということになっているようですが、まったくの間違いです。
ことは平成17年(2005年)8月に始まっています。私は小泉首相の劇場型選挙にもっぱら関心を向けていて、申し訳ないが「つくる会」のことは玉川学園を訪問した以外にはさしたる採択運動もしていませんし、執行部会にも何ヶ月にわたって(たぶん二年以上)ずっと出ていません。9月25日の年次総会で福地、吉永、勝岡、松浦の4人の新理事が紹介されましたが、その日まで新理事が誰かも知らされていませんでした。4人のうち2人は初めて総会でお目にかゝり、うち1人は失礼ながらお名前もそのとき初めて知った次第でした。
「名誉会長」は完全な閑職だったのです。私は総会が終れば辞めるつもりでした――本当に9月で辞任してしまえばよかった――が、辞めるなどトンデモナイという漠然とした「風圧」に押されてぐずぐずしていたにすぎません。
心が会から離れていました。紛争が起きるまで、関心を失っていました。しかし何か事が起こると「名誉会長」は必ず引っ張り出される宿命にあります。みんなはそのとき私の存在を思い出すのです。
「事務局長更迭問題の経緯(宮崎メモ)」という文書が私の手許にあります。8月の項をみると、宮崎氏は杉並対策会議で藤岡氏とかなりひんぱんに衝突し始めています。
8月7日 本部事務所で杉並対策会議。翌日からの行動計画を決定。事務局も全面協力の体制を確立。
※後日、藤岡副会長は事務局長更迭の理由の一つとして、この際の宮崎の対応を戦う姿勢の欠如と批判、藤岡氏の邪魔をしたと断定。
(中略)
下旬 西尾名誉会長より、携帯電話で「君を守る」との連絡あり。この前後か、藤岡副会長から西尾先生に対し宮崎批判の声があるとの連絡あり。
27日 執行部会。種子島副会長、自らの退任を申し出。事務局長も6年続いたからそろそろ新しい人にと、事務局刷新案を打診するもその場での同調者なし。
事務局長問題は8月に始まったと前に書きましたが、正式に問題としたのは藤岡氏でもなく、私では勿論なく、種子島副会長(当時)であったことが分ります。
27日の執行部会に私は出ていませんが、日ごろの種子島氏の宮崎評はきいていました。氏は宮崎氏を理事に祭り上げて、事務局長にはもっと能動的な若い人物を入れるべきこと、宮崎氏は性格が陰気で、事務局全体があれでは沼にひきこまれるように沈んでしまうこと、若い職員を効果的に働かせることもできないでいること、などを以前からしきりに言っていました。そしてそのころ杉並の採択日(8月12日)の前後に、宮崎氏への不満を爆発させた藤岡氏の訴えが電話で伝えられて来ました。
局長更迭の最初の正式の提案者は種子島氏であることは明らかですが、私は責任を氏に、あるいは藤岡氏に転嫁するつもりはありません。宮崎氏を事務局長に選んだのは私であり、ミスキャストではないかとずっと悩んでいましたから、事務局内部の現場の空気を知っていた種子島氏の言葉にも、杉並の情勢を伝えて来た藤岡氏の言葉にもそれぞれ納得し、同調していました。
「君を守る」という私の電話は、そういう意味では無責任です。これは彼の雇用を守るという意味で、地位を守るという意味ではなかったかと思いますが、そこまで明確であったかどうかも分らず、私もどうしたらよいか当時まだはっきりしていなかった時期だと思います。
他方、八木氏がその頃よく口にしていたのは「宮崎さんは仕事を若い人に任せない。細かいことまで何でも自分が手を出してしまう。若い人が育たない。アポイントメントを取るなどのさして重要でない電話は女性職員にすべて任せればいいのに。人を使えない上司の下ではみんなの仕事はテンデンバラバラになるしかない。」とこぼしていました。
8月31日から2日にかけて私と種子島氏との間に往復メールが交わされました。一部を紹介します。
「『つくる会』人事について」と題して種子島氏から私へ、
西尾幹二様
「つくる会」出直しの好機、所信の一端を述べます。
1.若返り、最強の布陣
支部でも高齢化が一段と進んでおり、これでは4年間保たない。
会員若返りのためには本部若返りが不可欠です。
幸い、八木会長の新体制は、採択専門家藤岡副会長もうまいこと飲み込ん
で、非常にうまく機能しています。この体制を伸ばすこと、副会長は若手
で固めること、が必要でしょう。
会員数のガタ減りは確実で、若い世代獲得のための手をいろいろと打って
行くことが必要です。
2.事務局長、事務局刷新
事務局長は、内にあって事務局運営に当たると同時に、支部を含めた外部
に対しては会の顔で、その人選は重要です。
宮崎さんは頑張っているし、経験も積んでいる。だが、任期が長引くこと
から必然的に生ずるマンネリズムがあるし、内外の若い世代を惹き付ける
には暗すぎる。若くて会長が使いやすい人で代えるべきでしょう。
もし適任者が得られず、彼の続投で行くのなら、理事に就任させるべきで
しょう。年功からいっても、その方が納得性がある。
(3、4略) 種子島経
8月31日 10:38 AM
このメールを受けた8月31日の直後から、浜松町貿易センタービルで行われた「路の会」夏の懇親会の前の時間を利用し、同ビル内の喫茶店に八木、藤岡、遠藤の三氏と私の四人で、種子島提案をとり上げ、事務局長問題をめぐって幾つもの重要なポイントを確認し合いました。「理事」案に次いで、「事務総長」案が出されました。次の事務局長に浜田実さんはどうか、という案が出たのもこのときであり、八木氏も間違いなく聞いているはずです。浜松町の会談は他にも重要な提案が出された、今思うととても大きな意味のある会議でした。
私はその夜の遅い時刻に種子島氏にメールで返信しました。
1,3,4点には異論はありません。宮崎事務局長の件では今日藤岡、八木、遠藤諸氏とそうだんしました。理事にすることはできません。理事には給与を払わないのが内規だからです。かれを事務総長にして、新事務局長をかんがえるというのが、4人の相談の結論でした。かれから給与を奪うのは酷です。
西 尾
9月1日 1:58 AM
「事務総長」とは「こんな小さな会には大袈裟すぎる」と私は思いました。後に宮崎氏本人にこの考えを伝えたら、「それなら代りに専務理事の名称はどうですか」と逆に提案されました。あくまでも雇用は守られるという相互了解がありました。
種子島氏からその日のうちに返信メールが来ました。
宮崎さんの件
「理事は無給だから理事にできない」というのは?
高森理事、事務局長は有給でしたよね?
「理事無給」の定めがあるなら変えれば済むことだし。
決して宮崎理事にこだわっているのではなく、給与の有無で決することへの
疑問です。以上
9月1日 5:52 AM
他人の財布の内側に入るような話は書きたくないのですが、ここを書かないと真実は何だったかが分らなくなるので、高森氏にお許しいただきます。
私は同じ日の夜中に返信しました。
高森氏は大学、神社講演、執筆があり、事務局には半分勤務、週の半分出勤で、理事でもあり、理事講演費もとり、事務局長給与30-35万円もあり、しかも事務局長としての勤務は不徹底でした。
そのため八方から不満が寄せられ、私が事務局長は専従にし、40万円をしはらうべき、との、内規をつくりました。
内規をかえることはできますが、一貫性がなくてはこまります。理事で、勤務せず、会から給与をもらうというのでは示しがつきません。
理事は自己収入のある、独立した仕事をもった人でないと、こまります。宮崎さんは自分の経済生活をもってないひとです。生活の半分はたぶん奥さんの実家に依存、他は会からの給与です。
理事になれば彼は無給無職の最初の理事になるか、会から給与をもらう外で仕事をしない理事という奇妙な形になります。そういう理事をつくるのはまずいのではないか、とかんがえるのです。
給与がなくなれば彼は明日から生活できなくなるでしょう。
9月2日2:29 AM
私が何をしきりに問題にしていたかはお分りになるでしょう。宮崎氏の経済生活と、給与をもらう人もらわない人の区別です。そして、宮崎氏への配慮に関しては八木・藤岡両氏の名誉のためにも言っておきますが、両氏ともに私と同じ考え、同じ心配をしていました。しかし、ここが大切ですが、種子島氏は一貫して私どもの憂慮に理解を示しませんでした。
次は八木会長にあてた種子島氏のメールで、私に移送されてきたものの一部です。八木氏に厳しさを説いています。
ただ、宮崎氏の処遇に関しては、次のように考えます。
1.死刑で一番残酷なのは、昔の中国の稜遅処死(りょうちしょし、字は間
違っているかも)の如きSLow Deatghです。処分はバッサリやるほうが
やられる方にとっても人道的なのです。
2.余分なポストを設けて宮崎氏を据え置くのは、新事務局長の業務を阻害
するだけでなく、宮崎氏にも残酷で、その晩節を汚すのみ。
3.宮崎氏の経済面に配慮するなら、精々特別退職金支払いまでで済ますべ
きであり、そのために給与を払い続け、ポストを設ける如きは、事務局
の組織上害を及ぼすだけでなく、宮崎氏にも残酷となる。
そもそも給与、退職金などは人事上の手段に過ぎず、それを先に考え、
ぞのための組織を考えるなど本末転倒。
9月18日 16:53 PM
私たちはバサッと彼からその甘さを叱られてしまったのです。経営者としての種子島氏のこの考えは正論であり、立派です。それならこの厳しさをその後も一貫して取って下さればよかったのです。
ところがこの同じ種子島氏が2月27日に会長になるや、たちまち豹変し、投票数まで書いたつくる会ファクス通信165号の宮崎氏による退任直前の不法差し換え事件に、しっかり厳罰でのぞむということもできませんでした。それどころか、宮崎復帰をも射程の中に入れる八木会長復活案を言い出しました。3月28日の理事会でこれを決し、7月に八木会長を実現し、宮崎氏も復帰させるとの含みで走り出したのですから、あれよあれよという間に変貌した種子島氏の姿には妖怪変化を見るがごとき不可解な思いでした。
いったいどうなっているのでしょう。まことに不思議でなりません。
どなたかが「日録」のコメント欄で、事務組織は給料をもらう以上、規律が要で、理事とは勿論のこと、会員とも同等ではないと書いていましたが、その通りと思います。
種子島氏が言うように、交替した時点で、前事務局長が事務局にがんばっていたら、新しく入って来た事務局長はやりにくくて仕事にならないでしょう。ですから宮崎氏にはスパッと辞めていたゞくのが一番いいのですが、現実にはそうはなりません。八木、藤岡、遠藤諸氏が考えた案は、外部に働きかける積極的能動的事務局長を新たに見つけ出し、内側のデスクワークを宮崎さんにひきつづきやってもらったらどうかという妥協案でした。
宮崎更迭問題は種子島氏が先導し、それは雇用解雇案であり、八木、藤岡、遠藤、福田、西尾などが修正し、それは雇用継続の部署変更案でした。企業でも何処でも普通、これだけの幹部が決定すれば、ことは決まりです。しかも「つくる会」は企業ではなく、資金の乏しい、人材だけが頼りのボランティア団体です。有能な人材にのみ乏しい資金を投入する以外に生きる道はないのです。
コンピューター問題は10月半ば頃まで意識されていません。更迭が本人に打診されたのが9月17日でした。
何度も言うのですが、この段階では彼は会でひきつづき別の仕事をしていたゞくということでした。宮崎氏は何かを予想していたらしく、例の「宮崎メモ」の9月17日の項に、次のように書いています。
17日 今回の採択結果を受けて、事務局長としての責任を痛感し、辞職すべきかどうか悩み、信頼出来る先輩にその旨相談した。その先輩は、その必要はない、と即答されたので、継続して任務遂行することで責任を果していく決意を固めていた。
そして18日の項に
18日 宮崎、西尾名誉会長に電話して事務局長退任の意志無しを告げる。また先輩に電話し、事の顛末を報告。同氏より、西尾、八木両氏に抗議の電話
この先輩とは日本政策研究センター理事長の伊藤哲夫氏であったと思います。あるいは八木氏には別の人から電話があり、私にはその人からなかったのかも知れません。
普通の一般社会、企業や学校その他とはまったく違うルールが別個に存在するという局面が突如姿を現したのでした。宮崎氏は「つくる会」とは別の秩序に組み入れられた、別の組織の人物だったのです。
宮崎氏は自分を有能な人材だと自惚れていて、種子島氏以下われわれがまったく彼を運動家として評価していない事実に気がついていませんでした。知識人の団体であるがゆえに、一般社会とは異った自分たちだけに特有のルールがあるものと思いこみ、しかもそのルールを宮崎氏は自分たちの手でつくったもので、自分の自由になると信じているのでした。
たしかに氏から私に興奮した電話が何度も掛かって来たのを覚えています。私たち会の幹部の総意で「退任」を伝えられた事務局長が、自分の意志で「退任の意志無しを告げる」とはそもそもなにごとでしょう。何という思い上がりでしょう。
私と遠藤氏と福田氏とがいる席で、八木氏が「ここだけの話ですが、宮崎さんは藤岡さんを監視するために神社が派遣した特使だから、簡単に替えられそうもないですよ。」という意味のことを言い出したのは、何月の何日かは思い出せませんが、それからほどなくのことだったのです。
八木氏は私とは別のルートから耳打ちされたに相違ありません。
5月24日朝
西尾幹二 様
福地 惇
前略 先生も既にご覧になったものと推察しますが、昨晩の21時38分発で東京支部掲示板(キャッシュ表示)に興味深い見解が出た。「でじゃ・ぶ」なる御仁の「タブーを排して膿を出せ」である。
私が日録に載せて頂いた、分ってはいたが先生の「産経新聞への私の対応」等に譲ったため、特には書かなかった重大な箇所を実に鋭く指摘されている。
第一 「産経新聞の変節」にその手駒である八木は下手に踊らされたこと。
第二 3月6日東京ブロック会議の説明会で種子島、藤岡両氏の発言は明らかに異様であったこと。
東京説明会は確かにそうだった。私は続く8日の大阪は都合で欠席したが、9日の福岡説明会でも同様であったことは私がこの目で見ている。「でじゃ・ぶ」氏の記事を読んで、この大事な2点は拙文では間違いなく弱かったことを反省させらされた。「八木の支那詣で」は、明らかに重大なポイントであるが、「でじゃ・ぶ」氏が指摘する通り、その深刻さへの厳しい対応ができなかった理由は、フジ産経グループの本会への対応への恐怖心であったと思う。
それゆえに、2月当初から3月中旬まで、確かに藤岡氏は「八木との提携」を模索していたのであろう。だが、2月27日理事会では大きな流れから八木会長解任、種子島会長の登板となる。そして、3月当初に始まる怪情報への怒りから「転向の分岐点」に立たされていたのである。
八木復帰論を私が種子島会長、藤岡会長補佐の両氏から突如聞かされたのは、3月9日、福岡のホテルでの打ち合せ会であった。八木の会長解任から僅かに十日ほどであり、その異様さに私は抗議したが、八木の人気・産経・扶桑社の支持を失う可能性高しとの両氏の論拠を崩せる情報を持たなかったが故に沈黙したことを鮮明に覚えている。今になって思えば、藤岡氏の「八木さんは国の宝です」はこの時期において彼の立場が如何に微妙であったかを露呈していた。
「藤岡共産党離党=警察公安」情報から始まる藤岡氏への人身攻撃は、八木の軍門に藤岡氏を屈服させようとする子供じみた戦略ではなかったか。八木―「四人組」の藤岡憎悪は尋常ではない。当然のことながら、彼らの子供じみた犯罪的悪戯は、藤岡氏を「西尾」へ向かわせる作用を果たした。あの怪情報に屈して産経新聞=八木の軍門に下るか、それともそれに抵抗するかの「運命の分岐点」に、藤岡氏は正に3月初旬に立たされていたことを物語ように私には思われる。他方、種子島氏は違う道を選んで4月理事会での八木―「四人組」との連袂辞任に至ったのである。
今回の『つくる騒動』は、八木―宮崎を飽く迄も押し立てようとした「四人組」の執拗で形振り構わぬ異常行動に攪乱され続けた。だが、その背後に介在した重大要因は、八木擁立に執心した産経新聞(社内のどの部分か)の演出である。これが大きな禍となった。
2、3月両理事会に対する偏向報道は十分明らかにされたが、更に重大なポイントは「支那詣で」(昨年12月)そして「日中歴史教科書対話」(5月)の逐次進行である。今、表面に出て泳いでいるのは新田均であるが、相変わらず背後に八木がいる可能性は高い。勿論、その司令塔として産経新聞(経営陣はいざ知らず、内部の八木同盟者)が控えている筈である。
自民党総裁選挙の背後に支那共産党の「謀略工作」が有る事は誰の目にも自明である。それと連動して「つくる会」分断工作が事実かくのごとくあったと考えるのがマトモである。ピエロの八木や新田の終末は近付いているし、社内の八木支持派をそのままにしている産経新聞も危ない局面に入りつつあるように私には感じられる。以上「でじゃ・ぶ」氏の記事を読んで若干の感想まで。
草々頓首 福地惇
SAPIO6月14日号(5月25日発売)に「独占手記 西尾幹二(「つくる会」初代会長)
私が「新しい歴史教科書をつくる会」を去った理由」が掲載されています。