続・つくる会顛末記 (一)

    続・つくる会顛末記     
         
               (一)

 「この指とまれ」の声をかけて、あちこちから勝手に集って来た人が勝手に理事の席について始まったのが「新しい歴史教科書をつくる会」です。言い出しっぺはたしかに四人いました。藤岡信勝、高橋史朗、故・坂本多加雄の三氏と私です。

 平成8年(1996年)12月の赤坂プリンスホテルの記者会見が皮切りでした。その席には小林よしのり氏も、故山本夏彦氏もいました。ずっと参加していた人で、たしか会の名称を発案した岡崎久彦氏が、前日になって突然参加を取り消して来ました。

 「この指とまれ」が最初の信号でしたから、厭ならとまらなければよいだけで、彼を咎める人はいませんでした。そういう自由な集合だったことを言いたいのです。言いだしっぺの四人もそれまでに深い付き合いがあったわけではありません。すでに高橋氏とは私は勉強会の「路の会」の仲間で、その席に平成8年3月に藤岡氏に来ていただき、「自由主義史観とは何か」について話をしてもらいました。氏と機縁ができたのはそれが最初ですから、「つくる会」の創設は付き合いはじめてまだ8ヶ月めの頃です。

 坂本氏が藤岡氏を評して「最初会ったときは田舎の中学校の先生みたいな素朴な人の印象だったが、間もなく断然変わっちゃったからなァ」と言ったのを覚えています。どう変わったかというと、「藤岡さんは次々と人を追及し、弾劾して、あれでは最後には自分以外はひとりもいなくなってしまうよ。」と言っていました。今よりもっと凄かったのです。

 最初の4年半(私の会長時代)に比べれば、今の藤岡さんはずっと穏やかな、場を弁えた紳士です。昔見ていた狼のような猛々しさがむしろ懐かしい。

 善かれ悪しかれこの会は藤岡氏の個性、創意と熱情でもって来ました。ほかにも小林よしのり氏や濤川栄太氏のような個性豊かな巨獣がいて、私はサーカスの猛獣つかいでした。よくやれたものです。

 藤岡氏の存在なくしてこの会はなかった。私はそれをはっきり言っておきます。私自身は「教科書」に基本的に関心がないからです。にも拘らず、藤岡氏の存在がこの会をたえず危くもしてきました。

 ただし藤岡氏は今回なにも咎められるようなことをしていません。むしろ一番、首尾一貫していて、大きく変節したりしない立場を貫いてきました。それでも、辞任していった八木元会長以下いわゆる「四人組」の理事諸氏と宮崎元事務局長の藤岡氏への「憎悪」の情は並大抵のものではありませんでした。

 私も藤岡氏からは何度も煮え湯を呑まされています。その個性の特殊性については「怪メール事件(一)」で詳しく分析しておきました。私以外にも、氏に対し好き嫌いのレベルで複雑な思いを抱く人は少なくないでしょう。ですけれども、それはそのレベルです。好き嫌いは誰に対してでもあります。しかし辞任して行った5人の旧「生長の家」系の理事たちや事務局長の排撃意識は、嫌いとか、いやだとか、そういうレベルの感情ではありません。

 もっと根の深い、イデオローギッシュな、組織的な排除衝動でした。目の前から追い払ってしまうまで止まることのない、説明のできない、差別に発した除去本能です。

 一体何だろう、私には分りません。宮崎氏は最後の自分の辞任と引き換えに藤岡氏を辞めさせようとしたようです。宮崎氏と藤岡氏とでは、立場も違うし、格も違う。こんなことを考える宮崎氏はおかしい。藤岡氏がいなくては教科書の会は成立しないが、宮崎氏がいなくても(そう言っては悪いが)成立する。としたら「刺し違え」はあり得ない。にも拘らず宮崎氏は本気で、真剣に、自分の辞任と引き換えにしたいと思ったらしい。

 4月30日の理事会録によると、内田智理事は「藤岡理事の言動が会の最大の障害であるとして、藤岡理事を解任すれば種子島会長は辞任を思い留まるのかと質問しました」(FAX通信173号)とあります。これまたもの凄い執念ではありませんか。新田均氏の藤岡批判のあくどい言葉の数々は多くの人々の記憶にあるはずです。いったい彼らの心の奥に何があるのでしょう。

 ここまでくると私は藤岡氏が哀れでなりません。保守思想界に身を転じたのは周囲にも迷惑だっただけではなく、ご自身にも不幸だったのではないかと前に書きましたが、今もその所見は変わりません。

 平成8年の「つくる会」創設の少し前に、噂を聴いて、藤岡氏の上司であった天野郁夫東大教育学部長が――私は当時非常に親しくしていました――私に葉書を寄越した。「西尾さんが組むべき相手ではない。あなたはきっと後悔する。止めなさい」と書いてきました。

 止めておけば良かったのかもしれませんが、しかし私は必ずしも後悔はしておりません。藤岡氏の野性の激しさ、論理の明解さに私は共感もし、同調もしてきたからです。10年という歳月、私と氏は共闘して来ました。その歴史は元へ戻りません。

 昨年の夏から始まった「つくる会」内紛では、藤岡氏は八木氏とその仲間たちよりもはるかに筋が通っていました。だから私は彼を支持したのであり、今も変わっていません。たとえ陰険だとか冷酷だとかいわれても、彼にはもっと激しく、もっと真直に、信念を曲げず、初志貫徹を目指してやってもらいたいと思っています。

 一番いけないのは氏が神妙に妥協的になることです。柄にもない優雅を装い、礼節を演技し、口先の宥和を目指す場合の自分らしさの喪失です。どうか恰好をつけないでほしい。

 たとえ相手が産経でも、おどかされて妥協したらすべてを失いますよ。最近の藤岡氏は、自分が悪役だと思われたくないためにか、おどかされてビビったり、他人に責任を転嫁したり、考えをクルクル変えたりするようになり、私は心配しています。心理的に「躁」の状態と「鬱」の状態の落差が大きくなってきたからです。

 「つくる会」の安定は何といっても藤岡さんの心の安定が鍵です。まずこれは本稿の第一前提とします。

残された謎――種子島氏の変節

 昔からの「日録」の読者の中には、「つくる会」問題はもうそろそろやめてもらいたいと考える人も少なくないだろう。私にしてもやめたい気持はやまやまである。読者にはあともうほんの少し辛抱してほしい。私にはまだ若干の証言責任が残っている。

 宮崎問題は藤岡問題になり、次いで八木問題になり、そして今は最後にひとつだけ謎が残っている。私はもう電話もメールもしたくないし、向うも受けたくないであろう旧友種子島君の問題である。4月30日の彼の会長辞任の少し前まで私は彼と交流があって、以来、いっさいの関係を双方で断っている。

 宮崎氏が求められたのは雇用解雇ではなく局長更迭であった。彼は最初承認する姿勢をみせていたのに途中からがぜん強気一点張りの抵抗に変じた。そのため雇用も失った。なぜだろう。いうまでもなく途中から、彼の背中を押す支持勢力が会の内外に突如現れたためである。

 藤岡氏は2月27日の八木会長解任の前後まで意気盛んで、八木氏と四人組を追放することに自信満々の風があったが、3月初旬から急変して、弱腰になり、八木氏にすり寄りだした。なぜだろう。多分、「怪文書1」(党歴メール)の脅迫効果だろう。本人は証言していないが、私でなくても歴史の記録者は他に理由は考えられないと書くだろう。

 八木氏は上記両氏と違って、二度も理解できない行動軌跡を示した。三人の元副会長、遠藤、工藤、福田諸氏を含む執行部の意志決定者は八木氏であった。例えば宮崎氏の次長降格、減俸、出勤一時停止の処分(実行されなかったが)を地方支部に文書で公開告知すべきだと言ったのは八木氏である。私もそう言ったが、反対したのは藤岡氏だった。藤岡氏が一番穏健かつ慎重だった。(これは重要なポイントである。)事は人が考えるほど単純ではないのである。

 そういう強硬派の八木氏がある時期から突如宮崎処分に自分はもともと反対だったというデタラメを言い出した。そして副会長四人と私のいた執行部の立場から姿を消し、会合を逃げ、連絡も避け、電話もメールも不通になることがあり、「四人組」サイドににわかに立って、丁度その頃執行部の誰にも告げずに宮崎氏を伴って中国へ旅行した。この急激な態度の変更、一方から他方への立場の移動が八木氏における不可解の第一点である。

 八木氏の行動のもう一つの不思議さは、黙って穏和しくしていれば、7月2日の総会で会長に推戴される「含み」であることが分っていたのに、3月初旬から28日の理事会までに、やらんでもいい「怪メール」に手を出すなど不始末をしでかしたことだ。

 以上三氏の行動の突如の変更は理解しがたい。謎はまだ残っている。けれどもだんだん分りかけている。最終的には分らないが、それぞれの性格、人品、信条をさらけ出した点ではそれなりに分り易い。

 宮崎氏、藤岡氏の場合と同様に、八木氏の場合にもなにか外からの強い力が働いた結果に違いない。それに加えて彼の虚栄心、他人に対し平生の挨拶がまだきちんと出来ない幼さ、カッコ良がっているだけで真の意味の「言論力の不在」が関係している。

 しかし、以上三氏の行動の不可解さは何とか説明がつく。四番目の人物、種子島経元会長の突然の変節はどうしても分らない。実業畑を歩いてきた人なら知識人世界に遠慮は要らないはずだ。産経や扶桑社の社長がどんな顔をみせようが、いっさい黙視してよい立場ではないのか。

 2月27日に種子島氏を会長に選んだ勢力は、八木氏を解任して会長の座から投票によって降ろしたのとまったく同じ勢力である。だから種子島氏は藤岡、福地両氏を補佐に選んだのだった。だとしたら自分を支持したこの同じ勢力にある程度誠意を見せつづけるなど拘束されるのが常識だろう。ところが、3月に入ると――あの党歴メールが飛び交い、八木氏が産経渡辺記者に見せるなどして触れ回っていたあの時期に――種子島氏はあれよあれよという間に心変わりし、一方から他方へ、自分を支持していた勢力からその反対派へ誰にことわるでもなく変節してしまった。

 ここにどんな怪しげな力が外から働いているのか、本人に聞かなければ分らない。3月初旬の大阪、福岡での説明会で藤岡批判が高まり、八木コールがあったからだといわれているが、大阪に関する限り、違う証言をきいている。たしかに大阪でも藤岡氏の説明の独断調が集った会幹部ににがい思いを与えたそうだ。けれどもさしたる八木コールもなかった。また、別れしなに大阪支部では八木、藤岡両氏の副会長就任を種子島氏に約束させ、会を割らないようにと強く要請した。

 しかるに種子島氏は帰京するや八木副会長一点張りになった。びっくりさせる変身だった。会員の世論に合わせるためだと言った。そして、福地氏が複数副会長制を唱える声にも耳を貸さなかった。このときの八木一点張りの決定が会を分裂させた決定的要因である。

 いったい何が種子島氏をしてかかる一方的独断的行動に走らせたのであろう。

 過日「財政規律の問題」を書いた友人粕谷哲夫氏は、私と種子島氏との両方の友人だが、どうもこれはおかしい、と次のように傍観的観察者の立場から語っている。

西尾 兄

なんとなく世論がある方向に収斂しつつあるように思う。

しかしどうもこの会の基本的な常識についていけないことがある。
以下の文章が 新しいFAXメールの中にある。

藤岡・福地両理事による反論

 両理事は、「つくる会の混乱の原因と責任に関する見解」という本文6ページと
 付属資料からなる文書を用意し、概要次のように述べ会長・副会長の辞任理由
 に反論しました。

〈我々両名は、2月理事会の翌日28日から3月28日理事会までの1ヶ月間、種子島
会長を支える会長補佐として会の再建に微力を尽くしてきた。3月28日の理事会で
は、副会長複数制が妥当であるとの我々の進言を無視し、会長はその任命権を行
使するとして八木氏のみを副会長に任命した。
それでも理事会の宥和を重視し、
我々はその人事に同意し、二度と内紛を起こさないようにしようという精神で合
意した。このまま何事もなく推移すれば、7月に無事に八木会長が誕生したはずで
ある〉

きわめて重要な点で、種子島が八木に対して「次期会長は八木で了解」という点である。

小渕死去で森内閣総理大臣指名が密室で決められたことが世の批判を浴びたことと
比べて、種子島が八木会長を今の時点で公式に認めたことが批判されないことがなんともおかしい。後継者の決定に種子島は影響力や推薦力はあっても決定権限はないはずである。
後継者決定の手続は種子島の意向とは独立して行なわれねばならいことは自明である。
仮に正式選挙で八木会長が任命されることが周知のことであっても、それは公式には
種子島とは独立して行なわれるべき問題である。「会長八木」を約束した種子島の心根は理解を超える。

種子島は八木に対して「オレは八木を推す。しかしオレの推薦どおりに会が運ぶかどうかは
私の裁量権限を越える問題である。オマエが会長になりたければお前がそれナリの
努力をしなければならない。しかしオレ個人は誠心誠意オマエを押す」あたりが最大の
サポートではないか。
(以下略)

 3月28日の理事会で種子島会長は予定どうり八木副会長ひとりを選んだ。それも八木氏がはじめ副会長ならいやだ、いきなり会長になる、さもなければ一理事にとどまると偉そうに振舞って、後から電話で副会長でもいいと応諾するや種子島氏は渡りに舟とよろこんでこれにとびついた。他の理事のいかなる意見もきかず、「八木会長含み」を全理事に押しつけた。

 そしてそのころから「怪メール」の噂がボツボツと大きくなり始めた。八木氏に犯罪の匂いが立ちこめ始めた。3月初旬から不正なことが行われていたとあちこちで言われるようになった。

 4月7日に福地惇理事が「種子島会長殿への意見具申」を提出し、「八木聴聞会」を開くように求めた事実は、当「日録」の前回掲示に見る通りである。

 4月7日に福地氏は種子島氏に単身で会談した。会談終了後、記憶の失せぬうちに、急いで対話内容を再現したのが次の「問答要旨」である。Tは種子島氏、Fは福地氏である。

(参考資料2)

平成18年4月7日  「つくる会会長」種子島氏と理事福地の問答要旨

問題の所在を示した「意見具申」を福地が会長に示してから、問答は開始された。

 人事の要諦は、①得手・不得手、②ベターbetterな人、③無理筋は駄目であるというのが私の経営哲学だ。このことは西尾氏にもメールで伝えた。

 貴方の経営哲学は承知した。

 三月の理事会は、次期会長候補を含みとした副会長指名である。自分としては、人生設計、健康状態の問題もあり7月総会までが限度で、八木秀次氏に会長職を譲りたい。それが、betterと今でも思っている。既往は問わないというのが三月理事会の合意事項だ。

 既往は問わないという了解事項が成り立つ条件は、それを守り不信・疑惑の行動がその後に及んで全く無い場合に成り立つ。しかるに、八木派と思われる連中は、理事会の終了間際から姦策を労し始め、今や大いに疑惑まみれである。それゆえに副会長を任命した会長の責任で「八木聴聞会」を開催して欲しいと申し上げている。

 「聴聞会」はキツク響き過ぎる。私の一存で疑惑について八木副会長に本当のところを知っているならば教えて欲しいとお願いし、皆さんに疑惑を与えた点に関しては、「釈明」させる。

 それでは駄目だ。生ぬるすぎる。罪状は十分に推測できるのであり、「聴聞会」を開催して、場合に依っては会則第20条により「除名処分」に及ぶべきである。

 それは厳しすぎる。また、内紛かといわれてこの会は世間の信用を失い、そこで駄目になる。だから、出来ない。穏便に済ませたい。

世間の信用を得るためにも疑惑解明は欠かせない。犯罪紛いの行為をするものが我々の近傍に徘徊している。穏便に済ませられる状況ではないと判断するから、この進言をしているのだ。

 3月28日理事会の精神は二度と内紛を繰り返さないであり、穏便に済ませたい。ついては、私の責任で八木に釈明させる、それも29日の産経新聞記事に誰が情報を提供したかについてだけやりたい。理解して欲しい。

 全く理解できない。既往の悪事は問わないというのは理解を絶する。28日理事会の精神を見事に踏み躙ったのは「八木―宮崎」と会長はどうして思えないのか。

 私は法律学を学んだ者である。証拠の無い話しは、争いごとにするべきではない。

「証拠不明瞭なことで、聴聞会は開きたくない」。

 それはおかしい。限りなく証拠に近い尻尾が出てきているので「聴聞会」でその点を明らかにせよと言っているので、自白は証拠になる。

 お前の言うような直情径行的な強硬策は取りたくないのだ。聴聞会に何人かの理事が陪席するというが誰を予想しているのか。

 (ニ三名の理事名を挙げたが当然八木派と目されるものは除外した)種子島さんは、経営責任者として強硬に筋を通して来た人と思っていたが、この甘さは如何したことか、理解を超える姿勢だ。3月理事会の後に忌々しき事態が次々噴出しているのに、飽く迄も既定方針を貫きたいということか。

 もし、聴聞会を開くとしても、一方の理事だけでは不公平になる。

 馬鹿を言われては困る。疑惑を起しているのは先ほど挙げた理事達ではなく、あなたが公平云々というサイドの理事なのですよ。

 だから聴聞会はやりたくない。7月総会で八木秀次氏を次期会長に推薦することが飽く迄も私の現在の揺るがぬ方針である。他に人がいるか。

 会長人選は、「聴聞会」を済ませてからでも十分に間に合うし、適任者は何人か私の頭の中には在る。八木氏は全く不適任者だと断案したから、この意見具申に及んでいる訳だ。種子島会長が、この意見を呑んでくれれば、何人かの良質な理事は、貴方を支援するに吝かではないだろう。だが、それを拒否するならば、貴方は「悪人」の一味、仲間であると批判を受けるであろう。貴方の名誉を守るためにも私は言い難いこともここで申し上げている。お考えは変らないか。

 怪情報は取上げたくない。証拠が無い。産経新聞渡辺記者問題のみで八木副会長に知るところを聴き質し、また釈明すべきは釈明させて、ことを穏便に済ませて前に進みたい。

 交渉は決裂ですね。私は理事を退任します。種子島さんの名誉のためと思い進言したが拒否され、誠に残念至極です。それではお元気でさようなら。  以上

 種子島氏のあれよあれよという間に変わった理解のできない変節と、てこでも動かぬ頑迷振りの背後にはやはり何といっても、説明のできない謎が感じられる。彼は何かを隠している。

 なぜ彼は既往のことは問わずにこれからのことだけを考えようとしきりに言ったのか。何かがあるのではないか。私は多分謎の解明はできないが、現理事のまったく知らない諸状況をこのあと「続・つくる会顛末記」で最終的に証言する。

種子島・八木両氏の「捨て台詞」を追撃する    

 福地惇氏による「補論 松浦氏の「辞表」を斬る」を末尾に追加しました。(5月18日) 

 福地惇氏は高知大学名誉教授、元・文部省主任教科書調査官(歴史部門)で、現在は大正大学文学部教授、新しい歴史教科書をつくる会理事・副会長である。

 福地氏といえば誰しも思い浮べるよく知られた事件がある。平成10年(2002年)12月に江沢民が来日したとき、共同通信が時機をうかがい、用意していたかのごときタイミングで、一人の教科書調査官が許されない発言をしているのを発見した、と騒ぎ立てた。雑誌『黙』の同年8、9月号の座談会「どういう日本を創ろうとしたのか 西郷隆盛と勝海舟」における福地氏の発言を温存して、にわかにこのとき問題として取り上げたのである。

 その発言の内容は近隣諸国条項が教科書を悪くしているということ、学習指導要領の内容はいまひとつ不十分であること、といった程度で、まことに穏便、常識の範囲内の控えめな批評のことばであったが、教科書調査官がこのような発言を果して口にしてよいのか、という文句のつけ方で共同通信社が火種子を提供した。江沢民来日の直前で文部省は神経質になっていた。天下の愚者、文部大臣有馬朗人――私の知る歴代文相の中でもおよそ考えられる最悪の世論へのゴマすり男、理科系に意外に多い世俗的出世主義者――が福地発言にわけもわからず半狂乱となり、江沢民に媚態を示さんがため福地氏をスケープゴートにし立てあげ、氏を閑職に配置換えとした。

 福地氏は節を枉げない首尾一貫性をこのときも、そして「つくる会」理事になった今も示しつづけている。専攻は明治政治史で、とりわけ明治維新の成立から藩閥政権の確立過程の研究が主テーマである。「つくる会」理事には古代史に高森氏、西洋史に九里氏がいるが、福地氏は唯一の日本近現代史の専門家である。

 福地 惇 (大正大学教授・新しい歴史教科書をつくる会理事・副会長)
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種子島・八木両氏の「捨て台詞」を追撃する      平成18年5月5日       

                           福 地  惇

A 実に残念な最後の不信行為

 去る4月30日に開催された「新しい歴史教科書をつくる会」第89回理事会は、またまた執行部交代という異常な事態で終幕した。異常の上塗りに、責任者が留守中の事務局から「第172号・つくる会FAX通信」が全国に発信された。「会長・副会長辞任のお知らせ」(種子島経)、「退会の辞」(八木秀次)である。

 それは、種子島執行部および四理事の辞表が受理され、彼ら六人が会場を退席した直後に発信された。次なる議題、新執行部選出問題が協議されていた時であり、正に執行部空白の時間帯に発信されたのである。新執行部が、彼らの文書を理事会の決定事項を踏まえて流すのが筋である。彼らは手続きの筋を乱して「捨て台詞」を投げつけて退会した。

  「つくる会」の品格を貶めるこの実に残念な前会長・副会長の最後の仕打ちは、明らかな反社会的行為である。そればかりではなく、その文書の内容は、その不信行為に倍する卑劣な責任転嫁の自己弁護である。その余りも信義を蔑ろにした恥ずべき詭弁で人々を惑わそうとする歪んだ心根に対して、厳しい批判を試みざるを得ないのである。

B 種子島経「会長・副会長辞任のお知らせ」の論点

 FAX通信を勝手に利用して流された「お知らせ」の論点を摘記する。

① 2月理事会では、全理事が会長を支持する。副会長人選は会長に一任する、の二点が確認された。

② 3月理事会では、八木氏が副会長になり、「理事間の内紛は一切やめる」「今後は将来についての議論のみ行い、過去に遡っての糾弾など行わない」等が決議された。

③ 「ところが、この3月28日から10日も経たない内に、一部の理事が、会の活動とは関係ないことをことさら問題にして、八木氏を査問にかけ、会から追放すべき旨の提言を執拗に行なって参りました」。

④ 「これは私の選んだ副会長を信任せず、またぞろ内紛を起そう、というもので、以上のいきさつからしても到底承服できないところであり、私は峻拒いたしました」、「かようなルール違反、統制違反は、以前から『会』に見られ、昨年9月以来の混乱の一因をなしており、………これら理事を解任して私なりの統治を貫くことも考えました」。

⑤ しかし、体調等の理由から「私なりの責任がとれないのなら、と私は辞任を決意し、八木副会長に伝えました。彼は、在任中、とりわけ昨年9月以来、このような問題に悩まされ続けて来ただけに、『もう精神的に限界です。私も辞めます』と表明、揃って辞任となったわけであります」。

⑥ 「『つくる会』の理事諸侯(ママ)の一部に関してはマネージ不能であったことを遺憾とします。彼等は、ルールを守る、ボスの方針に従うなどの国際基準を全く無視しますので、マネージできないし、彼等との仕事は、賽の河原で石を積む子供たちのような空しさの繰り返しにしかならない」。

 以上が種子島経氏の辞任の弁の論点である。

C 八木秀次「退会の辞」の論点

① 「会長を解任された後、3月末に副会長に就任し、7月の総会で会長に復帰する予定でありましたが、その路線を快く思わない一部の理事が会の外部と連動し、私の与り知らない問題で、根拠もなく憶測を重ねて嫌疑を掛け、執拗に私の責任を追及した」。

② 反論・弁明しようとしたが、徒労に終わることを見越して諦めの境地に達した。

③ 「本会は発足以来定期的に内紛を繰り返して参りましたが、『相手代わって主代わらず』と言う諺があるように、今回は私などがたまたま『相手』とされたに過ぎません。『主』が代わらない限り本会の正常化は無理であり、また発展も未来もないものと判断し、やむなく退会を決断した」。

④ 「とき至り、再び私が必要とされるようになった暁には、日本の子供たちに輝く虹を見せるための活動の一端を担う所存です」。

 以上が八木秀次氏の退会の弁の論点である。

D 「つくる会騒動」の原因と経過の概要

 さて、今回の「つくる会騒動」は、昨年の採択戦終了後に幹部理事間に事務局長の交代問題が提起され、昨年9月17日に宮崎正治氏に対し辞任要求が出された時点を出発点にしている。騒動の原因は、思想や基本的運動方針に関わる問題ではなかったのである。

 宮崎氏に事務局長から降りてもらう問題で最初、八木会長(当時)は、西尾幹二名誉会長、藤岡信勝副会長、種子島理事(財務担当)、それに在京理事の多くと同意見だったのである。その事務局長処遇問題を「騒動」にしてしまった原因は、私見によれば五つある。

(1)宮崎氏が執行部の退任要請を最初は受け容れる姿勢を示したにも拘わらず、次第に残留への強硬な姿勢を取るようになった。(2)事務局長処遇問題と絡み合って「コンピューター問題」なるものが湧き上がって事態をより複雑にした。(3)態度を硬化させてゆく宮崎氏に対する執行部(会長、副会長五名で構成、会長の要請に応じた名誉会長が加わることもあった)の姿勢が乱れた。(4)何と言っても、会運営の最高責任者である会長八木秀次氏の無責任な態度変更が混乱を深めた。(5)八木氏は、今回の混乱に関して自分は悪くない、悪いのは自分を会長として自由に行動させない或る人々であると言うような意味での変節を遂げて突っ走った。

 これら五つの要因が複雑に絡み合って、事態を混迷させた、と言うのが私の見解である。そして、(4)(5)が最も重大な原因だが、この間に八木会長はどのように「つくる会」を運営したのだろうか。

 先ず、11月18日に臨時理事会が開かれ、宮崎事務局長処遇問題は紛糾し継続審議事項になった。12月1日に予定された理事会は理由説明なしに無期延期となった。そして、12月15日付の「(八木)会長声明」の「率直に言えば私の意志とは別にことが始まり」云々は、実に異様であった。八木会長自身は、宮崎問題、コンピューター問題に直接関係していないと表明したのである。かくして、宮崎問題は、解決の目途すら付かず愈々混迷を深めて、12月1日に予定されていた理事会すら開催できなかった。一般の理事に何故理事会が開けないのか事情説明も一切なかったのである。

 このような時期に「私は何も悪いことをしていなので事務局長を辞めない」という趣旨の所謂「宮崎弁明書」が全理事に郵送された。次いで「事務局長人事をめぐる執行部対応への抗議及び経緯説明等の善処を求める声明」(12月12日付、内田智、勝岡寛次、新田均、松浦光修4理連名)が出た。これは「弁明書」と平仄を合わせた宮崎擁護論だった。この四理事はこの後に一貫して宮崎擁護で強力な論陣を張り、ある種の運動を展開したので、「四人組」との渾名が付いた。八木、宮崎両氏が「四人組」と連携を深めるのは、次に述べる「支那漫遊事件」前後のように私には見えた。

 さて、理事の多くが、前途に大きな不安感を深めていた正にその時に、支那漫遊である。16日から19日までの4日間、八木会長は事務局員らを同道して支那漫遊と洒落込んだ。これは以前から計画されていたそうだが、会の混乱正常化に全力投球すべきその時期に事務職員とともに支那漫遊を試みるとは見上げた度胸である。しかも、漫遊者の中に渦中の人宮崎事務局長がいたのだから、これは大した蛮勇だと言う外はない。

 ところで、彼らは「反日施設見学」を目的にしたプライベートな外遊だと言っている。しかし、雑誌『正論』18年3、4月号に「つくる会会長、中国『反日の本丸』に乗り込む」と題して、中国社会科学院所長らと「つくる会の歴史教科書」を巡り議論したことが判明した。意見交換会があるとは執行部の誰にも知らされず、従って下相談もなく漫遊したと聞く。これは「飛んで火に入る夏の虫」に近い軽率で危険な外遊だったと非難されても致し方ない、と私は思う。

 漏れ聞くところによると、12月25日には西尾名誉会長も参加して執行部懇談会が開かれ、責任回避の「会長声明」とコンピューター問題に関する執行部見解等を巡って激しい意見の応酬があったようである。会終了後、福田逸副会長が外遊に出る前に宮崎同道のことを何故打ち明けてくれなかったのかと問うと、八木氏は、言い難くかったと答えたという。福田氏は、これは副会長に対する不信任を意味すると痛感したと述懐している。

 年が明けて二ヶ月ぶりに開催された1月16日理事会でも宮崎事務局長処遇問題はまたもや決着の目途すらつかず、激論の末に閉会になった。八木会長の無定見な会運営姿勢が、西尾幹二氏の名誉会長の称号返上表明(17日)の原因になったのだ。同日、遠藤浩一、福田逸、工藤美代子の三副会長は辞表を提出した。藤岡副会長は一旦辞意を固めたが、関係者の説得もあり、会務のこれ以上の混乱を恐れて、副会長に留まった。

 西尾氏の称号返上表明に対する慰留なしの八木氏の迅速で余りにも素気ない対応は、非人情・非常識と言うべき態度であった。その頃から「創業者の障害」なる発言が出ていた。同時に、三副会長に対する不誠実で無責任な対応も異様であった。副会長の辞表提出は誰が見ても八木会長不信任の意思表明である。だが、これを何事でもないかのように、正に三人の副会長を小馬鹿にしたような冷淡な八木氏の態度は並大抵のものではなかった。

 このような責任感の欠如と指導力不足に対する強い批判が理事会内部に沸き上がったのは当然の流れであった。西尾氏が藤岡氏に会長になって頑張れとの意味を含んだ激励のEメールを発したのは2月3日である。後で説明するが二ヵ月後の3月理事会後に「西尾・藤岡往復私信」が八木・藤岡宥和工作や西尾氏への脅迫文書として活用されるのである。

 2月27日理事会で、これまでの混乱の責任を取らされる形で、八木会長と藤岡副会長は同時に解任された。そして新会長に種子島経氏が選出されたのである。この時、宮崎事務局長も解任されたが、任期最後の日の置き土産として、28日夕刻、理事会決定事項を「つくる会FAX通信」として発信したのであった。種子島新会長への挑戦であったと見てよいだろう。だが、種子島氏は宮崎氏に普通の退職手続きを取らせて穏便に対処した。

 3月1日の産経新聞は、八木解任劇を報じて、「西尾院政か」「中国訪問を理由に解任」という何か為にする書き振りで、新会長種子島氏に対する陰湿な貶め記事を掲載した。この記事は、産経新聞「つくる会担当記者」渡辺浩氏の執筆であった。同記者は、「八木―宮崎」派と昵懇の仲であることは後に判明するのである。

E 種子島経会長の登場と言動の大変化

 種子島経氏は、八木氏の指導力不足や責任感欠如から生じた会運営の渋滞や混乱を憂慮した理事たちに推されて会長に就任した。不信行為を重ねて来た「八木―宮崎」派を懲らしめるために就任した。種子島氏は、「つくる会」と言う貴重な存在を解体させてはならない、これまでに蓄積されてしまった「負の要因」を除去して、再建しなくてはならない、との決意で会務に取り組まれた。これは、誰もが支持するところであった。

 だが、種子島氏の会務への基本的な取組姿勢には、同氏を支持した多くの理事たちを納得させないのみか、疑義を醸し出すものが多くなった。3月半ば頃からである。種子島氏の言動は、急速に八木氏擁護に傾き、八木氏は(イ)人気が高い、(ロ)「フジ産経グループ」の強い支持を得ている、との判断から、会建て直しの方向性を大きく変更しはじめたのである。私の見解では、(イ)も(ロ)も八木氏及び彼の支持者が誇大宣伝を重ねて作り出した幻想に過ぎない。会長はこの幻想に幻惑されたのだろうか、最初の施政方針と3月半ば以降の会務運営姿勢とには大きな懸隔が生じたように見えるのである。 

 3月1日に藤岡理事とともに「会長補佐」に任命された私は、3月28日理事会まで、会の建て直しへ向けて微力を尽くした積りである。例えば、重点地域の支持者に「会長・副会長解任」事情を説明して廻り、特に3月11、12両日、東京三田で開催された評議会・支部長会合同会議等でこの度の問題点を説明し、様々な提言を承る等がそれである。しかるに、会長を支えて会の態勢建て直し工作を展開中、八木・宮崎氏らと「四人組」が提携して会の主導権掌握を目指したと思われる陰険な謀略工作が続発したのである。

 これは私の推測だが、藤岡会長補佐の身辺に関わる疑惑情報散布(3月初旬)も、「あなたと健康社(3月9日付)」「株式会社フローラ(3月11日付)」の寄付金返還要求も、特定の地方支部から本部への「八木復帰コール」「二月理事会以前への原状復帰要望」等々のFAX攻勢も、彼らの策謀あるいは教唆によるものであろう。また、我々が、東京、大阪、福岡と地方有力支持者への事情説明に出向いている時期に、「石井公一郎氏が八木を支持して第二つくる会を立ち上げる決意をした」と言うガセネタ情報を流れた。また、伊藤隆理事が藤岡氏非難を書き込んだ「辞表」(3月9日付)を提出した。八木氏らが伊藤理事に懇請して辞表を書いてもらったのだという情報も流れた。真偽のほどは不明だが、辞表提出の時期が理事会ではなく、この時点であることから、まんざらの噂話ではなさそうだ。 

 要するに、これらは何れも、11、12両日の評議会・全国支部長合同会議を標的にした会の正常化を念願する諸理事(八木たちの反対派)に対する攪乱・分断工作である。2月理事会終了直後から始まったこれら陰湿な蠢動は、種子島会長の運営方針に反逆する行為であると理解するのが普通であろう。正常化を念願する諸理事は、種子島さんを支援した理事であることをお忘れになられては困るのである。

F 3月28日理事会とその直後の異変

 種子島氏が「辞任のお知らせ」で「マネージ不能」「国際基準を全く無視」する「一部理事」とは小生のことであろう。誠に心外の極みである。

 種子島氏辞任の弁の②「理事間の内紛は一切やめる」「今後は将来についての議論のみ行い、過去に遡っての糾弾など行わない」等は、異常事態が全く発生しないという前提条件の下で初めて成り立つ。だが、実状は先に述べたように、言ってしまえば水面下における打ち続く謀略工作によって理事会構成員全体が不気味に揺り動かさせられていたのだから、事態は最悪の方向に動いていた。しかもそれら状況悪化の運動は種子島氏が信頼して任命したと言う副会長ら連累によって起されていたのだから、何をか言わんやである。

 また、八木氏の「退会の辞」の①「7月の総会で会長に復帰する予定でありましたが、その路線を快く思わない一部の理事が会の外部と連動し、私の与り知らない問題で、根拠もなく憶測を重ねて嫌疑を掛け、執拗に私の責任を追及した」は、余りにも見え透いた詭弁であり、遁辞である。「一部の理事が会の外部と連動し」とか「根拠もなく憶測を重ね」とは、一体何を指すのか。不信行為を重ねていたのは自分たちではないか。その厚顔無恥な不誠実さには呆れて言葉も出ない。しかも、ここで又もや「私の与り知らない問題」が出て来た。ただ仰天するのみである。もう少し理解しやすいように話しを進めよう。

 3月初旬から始まった「警察公安情報」をチラつかせた藤岡氏への陰湿な人身攻撃がある。これは3月理事会を目前にした20日頃からさらに数箇所にばら撒かれた。これが理事会の議題にされれば、理事会分解の最悪事態も予想された。そこで、私は会長に進言して、噂の張本人である藤岡理事に直接ことの真相を糺した。そこで、これが理事会攪乱のための謀略文書であるとの感触を得たのである。3月25日、理事会の3日前であった。

 3月28日理事会で八木氏は反省と謝罪を述べた。藤岡氏も述べた。付言すれば、八木氏に「反省と謝罪の弁無く、本理事会成立は在り得ない、副会長復帰も有り得ない」と申し伝えたのは小生である。確かに、八木氏は「反省と謝罪の弁」を理事会冒頭に述べた。藤岡氏も述べた。それは、昨年9月から半年以上に亙り打ち続いた一連の理事会の混乱に終止符を打つための儀式でもあったが、本心から反省してもらいたかったのである。そして、正に種子島会長の運営方針「理事会一丸の取組」を確認し、担当理事制、隔週の執行部=担当理事合同会議を重ねながら会の正常化を目指そうと言う趣旨の具体案で合意した。

 ところが驚くなかれ、理事会終了直後に理事会に対する裏切り行為が飛び出したのである。「八木批判派」を攪乱し分断するためだと考える外にない偏向情報を理事会内の何者かが産経新聞渡辺記者に素早く提供したのである。この理事会決議事項を歪曲・脚色した産経新聞記者の背後に八木=宮崎が存在すると思われる。理事会で合意された「一丸の取組」精神は、一夜も経たずに踏み躙られた。3月29日の産経偏向記事=渡辺記者曲筆事件は、「つくる会FAX通信174号」を参照されたい。

 まだまだ疑惑話はあるが、以上に依って八木前副会長および連累が「つくる会」を混乱させる陰険な背信・不信行為をし続けていた事実の概略を示せたと思う。彼らの行為は、3月理事会で確認した「内紛を打ち止めにし」「理事会一丸の取り組み」という確認事項に真っ向から違背・背反する。これらの行為は、会則第20条の懲罰に該当するのである。

 なお、西尾幹二元会長は、自らが生み育てた「つくる会」の内紛を痛く憂慮し、事態の不明朗さを怒り、有名な「インターネット日録」で様々な形での真相究明の言論戦を展開された。それは、臭いものには蓋の事なかれ主義への警鐘乱打であり、不可解で不明朗な今回の騒動の内実を白日の下に曝け出す上に大きな威力を発揮したと高く評価したい。

G どちらの言い分が真面(マトモ)であるか                      

 さて、種子島氏は辞任の弁②で、「3月28日から10日も経たない内に、一部の理事が、会の活動とは関係ないことをことさら問題にして、八木氏を査問にかけ、会から追放すべき旨の提言を執拗に行なって参りました」。そして④では、「これは私の選んだ副会長を信任せず、またぞろ内紛を起そう、というもので、以上のいきさつからしても到底承服できないところであり、私は峻拒いたしました」、「かようなルール違反、統制違反は、以前から『会』に見られ、昨年9月以来の混乱の一因をなしており、………これら理事を解任して私なりの統治を貫くことも考えました」とイケ図々しくも自己弁護・責任転嫁の詭弁を弄した。何とも醜怪至極である。

 「10日も立たない内」どころか一晩も経たない内であった。「一部の理事が会の活動とは関係ない問題」ではなく、理事の一部の謀略工作で内紛は深刻化したのだ。不明朗な実態の真相を明らかにすることは会長の責務であると進言したのは私である。だが、「会から追放すべし」などは一言も発したことはない(参考資料)。何と頓珍漢な現状認識振りであることか。しかも、言うに事欠くと言おうか、「またぞろ内紛を起そう」した怪しからん輩は、「国際基準」とやらを無視する福地や藤岡であると言う。私たちが何時、どのようにして内紛を起そうとしたか、証拠を示して欲しい。3月半ば以降、種子島氏はその陰謀団の一味に加担したわけだから、当然の言い掛かりなのかとも思うが、悪意抜きに勘繰れば、これほど苦しい理不尽な責任転嫁の言い掛かりを我々にぶつけざるを得ない事情でも抱えているのだろうかと思いたくもなる。実に悪質な誹謗中傷だと言う外ないのである。

 ところで、縦令、百歩譲って種子島氏の理屈を聞くとしても、これは世間を納得させるものではあるまい。会社を一丸にして纏めようとするある会社の社長が、人気者で信頼できると思った部下を副社長に任命した。ところがその副社長は実は以前から自分を批判する勢力を撲滅せんとの謀略行為を重ねていて、副社長に任命されたその晩に一層不埒な反対派分断策謀を実行して、社長の全社一丸の願を踏み躙った。それを察知した新副社長批判派の重役が社長に社の命運に関わる重大事態だから真相を正せと進言した。それに対して、社長は、自分の人物鑑識眼のなさ、情勢認識の不明を棚上げにして、諫言した重役に対し、お前は俺の選んだ副社長を悪者に仕立てて、会社を潰そうとするのかと怒って解任しようとまで思い込んだ。広い世の中だから、臭いモノには蓋をして世間を欺く、そんな社長が結構あちこちにおり、そんな会社が一時は繁栄しているかも知れない。

 だが、是は是、非は非であり、子供の教育に関わる本会は単なる営利追求の企業体の論理と同じで良い筈はない。企業体でも、種子島マネージメント論が通用するか否かは、誰が考えても分明だ。臭いものには蓋の会社は早晩潰れる。またそうでなくてはなるまい。

 八木氏の言い分は、論点①「会長を解任された後、3月末に副会長に就任し、7月の総会で会長に復帰する予定でありましたが、その路線を快く思わない一部の理事が会の外部と連動し、私の与り知らない問題で、根拠もなく憶測を重ねて嫌疑を掛け、執拗に私の責任を追及した」と言っている。理由も無く何も悪い事をしていない自分を虐めようとする悪者がいた。自分は丸で一方的な被害者だと言わんばかりの台詞である。だが、八木氏が普通に真面目に会務に携わっていれば、7月に会長に復帰できた可能性は高かったのである。彼あるいはその一派が、理事会合意の精神を踏み躙る謀略的行動に出ていなかったならば、我々は彼らを非難し攻撃しようなどとはツユ思わなかっただろうし、従って「八木派排撃行動」には先ず出なかったであろうからである。

 ところが、全て尻が割れた話となった。西尾幹二氏の「日録」やFAX通信が挙証したように、一連の「怪情報」は八木およびその近縁から発せられた。これを産経新聞渡辺記者が証言した。西尾氏―藤岡氏を離間し、藤岡氏を八木に屈服させる手段として活用した「西尾―藤岡往復私信」を「脅迫文書」として匿名で発信したのは八木である。そのことは、理事会の席上で事務局の鈴木尚之氏が特に発言を求めて厳しく指弾した。本来ならば「つくる会会則第20条」の除名処分に相当するが深追いは止した。八木氏らは一言の弁明もできずにそそくさと六名揃って辞表を出して退席したのである。

 「つくる会」の運動目標は、世界の歴史を広く公平に理解し、以て日本歴史の一貫性とその豊かさ美しさを子供達に伝えることにある。この国を自然な形で肩肘張らずにこよなく敬愛できる国民に育ててゆく、という高貴な目標を持つ教育正常化運動である、と私は思っている。多くの国民もまたそのような思いで本会に大きな期待を懸けてくれている。 

 その会の会長、副会長や理事が、犯罪者紛いの粉飾経営、偽装経営をしていては、誠に世間に申訳が立たない。八木氏は、シャーシャーとして論点④に「とき至り、再び私が必要とされるようになった暁には、日本の子供たちに輝く虹を見せるための活動の一端を担う所存です」と明言している。陰謀工作や詭弁の数々、そして無定見と無責任等々、自分が犯した罪や不明な至らなさを未だに自覚できないのであろうか。恥を知れ、恥をと言いたい。教育界の指導者たるもの、先ず己の精神・姿勢を正さずして、どうして子供を正しい道に導くことができようか。猛省を促したい。

 私見であるが、子供たちに「輝く虹を見せる」とか「夢を与える」とか言う、通俗的な言い草は止めようではないか。「義を見てせざるは勇無きなり」である。子供たちに、国民として社会人として何処に立っても何時でも、信義を守って正しく美しく振舞うための勇気を与えようではないか。そのためには、祖国の歴史、先祖の遺業に誇りを持ち、何が義であり正であり信であり美であるかを学ばせることが大切である。それを土台にして勇気を持って社会に飛び出せる子供たちを育てることである。歴史や公民の教科書が重要な所以はそこにあると思うのである。

 こんなに醜い争い事は、本当に二度と再び繰り返したくないが、現実はそう簡単ではなさそうだ。皆々、戒心すべしである。                (了)  

 

「種子島・八木両氏の『捨て台詞』を追撃する」(続編)

補論 松浦氏の「辞表」を斬る     福 地  惇

A 世間を瞞着する「辞表」
 4月30日の「つくる会第89回理事会」で昨年9月以来続いていた騒動に一応のケリが付いた。種子島会長、八木副会長、以下四名の理事が一斉に辞職したからである。種子島・八木両氏は、「つくる会FAX通信」を私用して理事会開催中に全国に「辞表」を配信した。このこと自体が会の統制違反である。その上に、この文章は世人を瞞着しようとする悪質なものだった。

 ところで、私が思うには、連袂辞職した六人の理事は、これまで数ヶ月に亙り、ある種の謀略工作を重ねて、その証拠が段々と明らかになって来たので、怖くなって一斉に会を逃げ去ったのだ。そこで、必死になって責任転嫁の詭弁を弄して、世間を更に欺こう、瞞着しようともがいているのだ。「盗人にも三分の理あり」である。彼らの理屈は、今回「つくる会騒動」の本質をはぐらかしている。

B 八木氏に託された松浦氏の「辞表」(4月30日付)
 さて、「四人組」の一人である前理事松浦光修氏は、4月理事会を欠席したが、八木氏に「辞表」を託した。彼等は辞職する覚悟でこの理事会に臨んだ訳である。

 さて、その「辞表」は、彼らの独善性の体質、世人を瞞着することを恥じない体質を端無くも曝け出した文章である。

 世間に公表を憚られる程の恥知らずな文章なのだが、彼の同志の新田氏は「私たちが辞任しなければならなかった理由を極めて的確に表現した名文だと思う」と持ち上げて自分のブログに全文を掲載した。彼らが自信を持って、「これぞ我等が辞職理由」だと公表した訳であるから、私は今や何の憚るところもなく「松浦辞表文」の論点を掲げて、逐次厳しく批判したいと思う。

C 松浦氏の「辞表」の論点
D 松浦氏の事実認識の偏頗性と立論の独善性(交互に表示)

C 松浦氏の「辞表」の論点
① 「つくる会」の理念は正しいが、「理事会の実態は会の理念とは隔絶」している。その原因は「『創業者』が会を私物化し、合理的な根拠もないまま、私情にまかせ、無慈悲にも汚名を着せ、次々と事務局長を追放し、それに多数の理事が無批判に追随するという、全体主義的で陰湿、かつ冷酷な慣行を継続させてきた」ことだ。

D 松浦氏の事実認識の偏頗性と立論の独善性
 ①は、彼が地方から見たというよりも、彼の東京あるいは近傍の同志から執拗に聞かされたことを鵜呑みに理解しているかのようである。典型的な「事実認識の偏頗性」が認められる。
もし、宮崎事務局長問題に関しては、宮崎氏が執行部諸氏の信義に反する「のらくらした態度」に問題があったのであり、当時の名誉会長や八木会長以下4副会長がそれに振り回されたのが事実だ。「多数の理事が無批判に追随」したというのも偏向情報を頭から信じ込んで、自分の論理に都合よい部分だけを拝借して作文されたと読める。

 この論点①の結論は「つくる会」の現状は全体主義の「北朝鮮=金王朝」の紛いの無慈悲な「私情」が罷り通る「冷酷・陰湿」な体制である、と最大限の悪罵を吐いている。仰天せざるを得ない。少し考えても見よ。この会は言うまでもなく営利追求団体ではなく、支持者会員の浄財によって運営される文化団体である。ここに集う理事たちは、どなたも各界で活躍中の多忙な方々、しかも、皆一家言を持つ自由主義者である。それが、奉仕活動として多大の時間と労力を会務に提供し、つくる会の大義を世間に押し広めようと努力されている無私の境地の方々である。どのような独裁者がいて、この会を「私情」にまかせて「全体主義的」に運営していると言うのか。やろうとしても出来るはずもないことである。だから、松浦氏の罵倒は、理事諸氏に対する大変重大な侮辱である。馬鹿も休み休みに言え。

C 松浦氏の「辞表」の論点
② 「総じて理事会は地方の実状を何も知らず、余暇をもてあまし、誇大妄想、被害妄想気味のエキセントリックな一部老人たちによる精神的支配が続いているのが実態」「悲しいほど大義のない欺瞞に満ちたもの」。

D 松浦氏の事実認識の偏頗性と立論の独善性
 ②は、「大義のない欺瞞」といとも簡単に非難している。「辞表」だから簡潔に表現したと反論するだろうが、それでは改めてキチンと具体的事実を示すことができるのか。①と甲乙付け難い甚だしく無様な思い込みによる卑怯な文章だ。思い込みと独断による悪罵の吐き散らしは、この辞表文全体の特色である。新田氏は「名文」だと誉めそやすが、迚も褒めることはできない悪文である。

C 松浦氏の「辞表」の論点
③ 「同憂の理事たちと、本会を日本人らしい道義ある会に再生すべく、この半年………微力を尽くして参りました。幸い現副会長の八木秀次氏や現会長の種子島経氏は、日本人らしい善良さ、純粋さ、また社会常識をお持ちの方々であると感じられましたので、つい最近まで、まだ私は、その点に会の再生への一縷の希望をたくしていた」。

D 松浦氏の事実認識の偏頗性と立論の独善性
 ③は、種子島前会長は、八木会長時代には、宮崎処遇問題でも八木会長の会運営姿勢に関しても、批判的な理事諸氏の中でも最も強烈な批判を続けた理事だった。そして、八木氏の会運営能力の欠如を批判した理事達に推されて会長に就任した。その事実関係を松浦氏はご存知なのだろうか、甚だ疑問である。

 会長になって、支援する理事に押されて宮崎事務局長解任は達成した。しかし、その直後から、「人事は一任されている」「八木氏の人気とフジ産経グループの八木支持は堅い」を最大の理由として、彼を支持した理事達を尻目に八木氏復権に全力投入するに至った御仁である。種子島氏に復権の圧力や、そのための情報操作の謀略を駆使していたのは、八木氏や新田氏、あるいはそれに追随した松浦氏ではなかったのか。貴方達がどの面下げて、「日本人らしい善良さ、純粋さ、また社会常識をお持ちの方々」だと自画自賛しうるのか理解に苦しむ次第である。

C 松浦氏の「辞表」の論点
④ 「しかし、去る4月13日、たぶん西尾幹二氏に使嗾されてのことと思われますが、藤岡信勝氏と両氏に追随する福地惇氏が、せっかく会の再生に乗り出した八木秀次氏と種子島経氏を呼び出し、脅迫的な態度で辞任を迫ると言う、まるで背後から切り付けるかのような信じがたい行動に、またも出ました」。

D 松浦氏の事実認識の偏頗性と立論の独善性
 ④ 折角「再生に乗り出したのは」、3月11、12両日開催の評議員・支部長の合同会議の結果を受けて、さまざまな積極的提言を容れた3月27日理事会の決定事項である。松浦氏は「再生」の為の大事な何れの会合にも欠席していた筈だ。また、八木氏は合同会議に欠席している。

 八木氏は何時どの様にして「再生に乗り出した」のか具体的事例を示してほしい。ただ一人勝手に種子島氏が「人気者」の八木会長復帰に躍起になったのであり、八木氏はその裏で反対派切り崩しの「謀略工作」に勤しんでいたのである。

 3月28日理事会終了直後から、産経新聞の「偏向記事事件」が始まっていた。この事件に深く関与していたのは八木・新田・宮崎そして産経新聞記者の渡辺浩であることは、張本人の一人渡辺記者が関係者数人に自白したことで既に満天下に明らかになっている。 

 「再生」どころか、「会の混乱」を倍加させることにしか役立たない不埒な事件に直接関与していた人々を松浦氏は「日本人らしい善良な純粋な社会常識を持つ」人々だと言う。悪い冗談にもならないではないか。最初の思い込みを懐疑しようともせず、只管偏向した情報だけを信じて、自分は恰も正義の見方であるかのように勘違いしてこのような「辞表」を書く。「社会常識を持つ人」とはとても言えない。

 偏向し歪曲された情報を基にして憶測を重ねた末の誹謗中傷は、論点④に集約されている。私は、「西尾幹二氏に使嗾された」のでもなく、西尾氏と藤岡信勝氏との「両氏に追随」したのでもない。これこそが、何か目的をもって操作された偏向情報を鵜呑みに信じ込んでいる証拠である。

 「産経偏向記事事件」や例の「警察・公安情報 藤岡教授の日共遍歴」や「西尾=藤岡往復私信」の脅迫文というような数種類のオゾマシイ謀略文書を匿名で彼方此方に発信した者が理事会内部にいる。それも種子島会長の足元にいる可能性が高いと判断し、会長の責任で不祥事の真相を究明すべしと私は判断して会長に直談判したのである。それは、3月理事会の一週間後のことであった。種子島氏に提示した要求事項と問答録がある。それを参考資料として末尾に掲げよう。

 会の混乱をこれ以上深めることはしたくない、との理由で会長は、私の要求を「峻拒」した。「臭い物には蓋をしてその場を凌ごう」という姿勢がありありであった。一刻も早く会長職を八木氏に受け渡したいとの思いが会長の判断力を萎えさせてしまったのか。会長の態度がその様なものだったから、その後も「偏向報道」「怪文書」問題は一向に解明される気配を見せない。そして、4月12、13日に至った。12日は藤岡理事が主として該問題を八木氏、種子島氏に問い質した。そして、13日はその問題について、会長と副会長の最終回答を得るための会談であったので、事務局を代表して鈴木尚之氏、理事として私も同席した。会合に際して種子島・八木両氏は、劈頭より問答無用とばかりに、即刻に連袂辞職すると用意して持ってきた辞表を出し、「やってられない」との捨て台詞を残して話しらしい話しもずに早々に退散したのである。 

 斬りつけたと言いたいならば言うが良い。私は真正面から大上段に斬り付けたのであり、「背後から」云々と言われるような卑怯なやり方は断じてしていない。しかも、「辞表を迫った」のではなく、種子島・八木両氏は「辞表」を携えて会合に望み、問答無用で立ち去ったのである。事実誤認の大言壮語は断じて許すことが出来ない。 

C 松浦氏の「辞表」の論点
⑤ 「この半年に限っても、私が彼らのその種の所行を聞くのは、いったい何度目のことでしょう。これを聞いて私は、彼らに反省を促すことなど不可能であり、そうである以上、もはら彼らと戦いをともにすることはできない、と諦観した」。

D 松浦氏の事実認識の偏頗性と立論の独善性
 ⑤ 会運営に大きな疑義が生じた時、理事には執行部にその解決方を進言する責務と言おうか権限がある。宮崎事務局長処遇問題やコンピュータ問題が紛糾した時「四人組」は盛んにこの権限を行使して会務を必要以上に混乱させたのではないか。その「四人組」の一人が松浦氏である。

 ところが、「反社会的陰謀行為」が理事の一部によって展開されている。その問題に対して私が理事の権限を正々堂々と行使したことを、松浦氏は、不正確な歪曲情報のみを信用して、追随した福地が丸で信じられない悪事をなしたかの如く表現した。そして、単なる邪推で西尾・藤岡両氏に対してまで誹謗中傷を拡大して述べる有様である。そして悪人に「反省」を促しても詮方ないから自分は辞職するのだと、良い子ぶった理由を述べた。自らは「大義」を目指す正義の味方であるといわんばかりである。尋常ならざる独善性の自己欺瞞と言わざるを得ない。
 

 
E 真に「つくる会」を正常化するための必要条件
 この「辞表」の最大の難点は、産経新聞の歪曲記事問題も某氏に対する卑怯極まりない『公安情報』や「西尾=藤岡往復私信」を使っての情報操作や脅迫文配布の幾つかの重大事実も一向に気にしていない、というよりも無視している点である。

 以上要するに、「つくる会」を真に正常化しようと行動した者たちに対して、善悪を転倒して、こいつらが悪人だと詭弁を最大限に弄し、自らの卑劣な謀略行動には何の反省もないということは最大の問題点だ。心ある人々は断じてこのような欺瞞的な人々に対して「日本人らしい道義ある人」「日本人らしい善良さ、純粋さ、また社会常識の持ち主」とは言わないのである。俗な言い方を使えば「盗人猛々しい」と言うのである。種子島・八木両氏の「辞表」も同断であることは言うを俟たない。

 本会会則第20条の規律条項に曰く、「会員にこの会の活動を混乱させ、あるいは会員としての品位を欠く行為をなし、その他この会の会員としてふさわしくないと認められるものがある場合は、理事会の決議により、その会員を除名その他の処分に付することができる」と。前会長・前副会長および前理事新田・松浦両氏らは、一連の不祥事の原因を創り続け、なおも独善的自己弁明、責任転嫁に勤しむ。この者たちは会員としての品位を著し欠くものと私は思う。依って次の理事会において私はこれら諸氏の除名処分を提議するであろう。これほどの騒動を経て「つくる会」を正常化するためも大前提はこれだと考えるからである。                             以上

(参考資料1)
種子島経会長殿への意見具申    
      平成18年4月7日
1 種子島会長は、「八木―宮崎」一派の一連の不信行為・責任回避行為・攪乱行為を非難する理事たちに推されて会長に就任した。「八木―宮崎」の不信行為等は、昨年の半ばから今日に至る迄、実は連綿として継続しており、その犯行の程度は益々悪質化している。

2 種子島会長は、「つくる会」と言う貴重な存在を解体させてはならない、何としてもこれまで蓄積した「負の要因」を除去して、立て直さなくてはならないとの決意で会務に取り組まれた。これは、誰もが支持する処である。

3 だが、会務への基本的な取組姿勢には、貴方を支持した多くの理事達を納得させないのみか、大きな疑義を醸し出すものが多い。

4 その第一は、八木氏に対する高過ぎる評価である。(イ)八木は人気が高い、(ロ)八木は、「産経グループ」の強い支持を得ている、との判断から、そう評価したものと思うが、どうであろうか。我々の考えでは(イ)も(ロ)も八木及び彼の支持者が誇大宣伝で作り出した幻想に過ぎない、と思うが如何であろうか。 

 産経新聞社渡辺浩記者の理事会決議事項歪曲報道の背後に八木ー宮崎が存在すると思われるし、また、以下に列挙する背信・不信行為の数々は「つくる会」及びその多くの支持者に対する、背任・裏切りの一種の犯罪行為と言う可きものと思うが、会長としては如何なるお考えでありましょうか。

5 「八木―宮崎」派の一連の犯罪紛いの不正行為は、「1月16日理事会」以降に限って見ても、許し難く多いのが歴然たる事実である。以下時系列に従い、目ぼしい事例を列挙する。その前に、12月15日付の「(八木)会長声明」は、「率直に言えば私の意志とは別にことが始まり」云々は、実に異様であった。
(イ)西尾幹二氏の名誉会長辞意表明(理事会翌日の1月17日)への、余りにも迅速で冷淡で素気ない対応(1月20日)。
(ロ)三副会長辞任に対する不誠実で無責任な対応。
(ハ)2月27日理事会の夜の「FAX通信」差替え発信事件。会長は当初、宮崎および関係したと推測される事務局員数名に対しては厳罰を以て臨むとされ、「事務員ヒヤリング」までしたが、急速に態度を軟化された。
(ニ)理事会翌日の産経新聞の理事会ニュースに、「西尾院政か」「中国訪問を理由に解任」という歪曲と、新会長種子島氏に対する陰湿な貶め記事の掲載に繋がる。この記事は例の渡辺浩記者の執筆であった。同記者は、八木―宮崎と昵懇の仲であることは会長もご承知の通り。
(ホ)三月初旬から始まったと思われる「警察公安情報」による藤岡氏への陰湿な人身攻撃、これは三月理事会を目前にした20日頃から「警察公安」情報としてFAXで数箇所にばら撒かれた。
(ヘ)これは私の推測だが、「あなたと健康社(3月9日付)」「株式会社フローラ(3月11日付)」の寄付金返還の脅迫状も、略々間違いなく彼らの教唆によるものであろう。彼らの拠点地方支部から本部への「八木復帰コール」「二月理事会以前への現状復帰要望」等々のFAX攻勢もそうである。また、我々が、東京、大阪、福岡と地方有力支持者への事情説明に出向いている時期に、「石井公一郎氏が八木を支持して第二つくる会を立ち上げる決意をした」(ガセネタ)、と伊藤隆理事に懇請して藤岡氏非難を書き込んだ「辞表」(ヤラセ)を書かせた。これは3月9日付であり、何れも11、12両日開催予定の評議員・全国支部長会議を標的にした会を真の意味で正常に復したいと念願する諸理事(八木たちの反対派)攪乱と追い落とし工作である。正常化を念願する諸理事は、種子島さんを支援した理事であることをお忘れになられては困るのである。
(ト)3月28日理事会=八木は反省と謝罪を述べた。藤岡氏も述べた。付言すれば、会長もご存知の通り、八木に「謝罪の弁無く、本理事会成立は在り得ない」と申し伝えたのは小生である。
(チ)しかるに、理事会終了後、直ちに我々を(当然種子島会長も含まれる、というよりも会長に対する)裏切り行為に出た。歪曲情報を産経新聞渡辺記者に提供した(推測だが限りなく真実である)。
(リ)3月29日の産経偽装記事事件。⇒渡辺記者歪曲記事事件。 
(ヌ)所謂「警察公安情報」と言う個人に対する根拠薄弱なFAX讒謗情報の散布(噂として3月初頭から流されFAXは3月23日。
(ル)元名誉会長および高池理事、小生に対する謀略FAX情報散布(3月31日)。これは、西尾氏に対する脅迫状でもあるし、当日昼間に小生が直接電話で八木氏にその不信行為に対する厳重抗議をしたことに対する、明白な報復行為である。    以下省略        

6 以上の諸事例で、八木秀次副会長が会を混乱させる陰謀工作による背信・不信行為をし続けた事実は示せたと思う。それゆえに、八木氏は、その職務に不適格であることは判然したと思うが、種子島会長は、それでも彼を信頼して、七月総会までに、同氏を会長に復帰させるお膳立てを作り続けられるお考えで居られるか、否か。

7 私の結論としては、以上の背信・不信行為の数々は、三月理事会で確認した「内紛をこれで打ち止めにする」との基本方針に真っ向から違背・背反すると断言する。依って、会則第20条の懲罰に該当すると判断する。付いては、八木氏を副会長に任命した会長の任免責任において、今回の産経新聞歪曲記事事件を中心とする背信陰謀諸事件の真相究明の為に、「八木聴聞会」を開催することを強く要望するものである。

 ただし、会長お一人にそれをお任せするのは、或いは荷が重過ぎるのではと忖度し、適任の理事数名を同聴聞会に陪席させることも、ここに提言致す次第であります。 以上                        
(文責:理事・福地惇)

関係者に猛省を促す文

 つくる会関係のことで私はいまメールなど大量の資料を分類し、整理し、読み始めているが、まだもう少し時間はかかりそうである。そうこうしているうちに私の意に適ういいブログを拝読した。

 「Let’s Blow!毒吐き@てっく」という、いつも味のある卓見を思い切って乱暴に語るブログがあるが、5月13日付の長文は、今まで書かれるべくして書かれていない重要指摘に満ち溢れていると見た。

 今日はこれをご本人の了解を得て全文そっくり掲示する。

つくる会クーデター未遂の考察
                  
                                てっく

ちゃんと書いておかないと、気持ち悪いから、真面目に書いてみよう
事はつくる会だけの問題ではなく、敬愛するご皇室、そして我が日本にまで関わりかねないので
無視するのはヤメ
改心しない不心得者は、しつこいぐらい糾弾してやる

さて、今日だけは以下の文章に真面目に句読点を入れます

今日、「西尾幹二のインターネット日録」で布袋和尚さんというHNの方の素晴らしい投稿を読んだ。
リンクを貼ると、その下に知足という、性根サヨクの汚らわしいアクセス乞食がまたくだらないコメントをしてるんで、全文転載させていただきます。

 新田前理事の文章を一読し、「つくる会」の末端の、饒舌よりも行動を重んずる平凡な一会員として所感を申し上げます。

 人間は立場によってものを考え、ものを感じる存在であり、ましてや西尾先生から厳しく論難され、激しく指弾された八木元会長や新田前理事達のお立場からすれば、とてものこと承伏できず、反論し逆襲に出たい言い分や論拠も多々あり心情も山々でありましょう。畢竟、「因果の論理」の応酬において、それは尽きるところなく際限がないものと思われます。

 しかしながら、御両者を「品格の次元」と云う観点から見比べると、そこには雲泥の差があるものと感じます。御両者の対立の構図は、思想家としての立場から「つくる会」の理念と志操を守るべく「目的のためにも手段を選ぶべき」ことを標榜して譲らなかった「創立者」と、政治的な企図から「つくる会」において主導権を確保し、かつ、人脈(旧友)を擁護すべく「目的のためには権謀術数も駆使する」こと憚らなかった「後継者とその徒党」の間の葛藤であったものと思われます。

 そして、後者は自ら掘った墓穴故に、八木元会長は屈辱と挫折に苦悶されつつ、新田前理事達は激しい憤懣と怨念を胸に、退会を余儀なくされたものと思われます。また、西尾先生もその志操故に、再び「つくる会」に復帰されることはないものと承知致します。悲痛の極みと云わざるを得ません。

 向後、西尾先生には、保守思想界の重鎮として、大所高所から、敗戦後還暦を経てなお崩壊しながら漂流する吾が国が向かうべき方向を明示していただきたく、また、八木教授には、この挫折を天与の試練として受け止められ、人間として一回りも二回りも成長され、次代の保守思想家の雄として大成していただきたく、そして、新田教授におかれても、鉾を納めて自らの言動を深く内省せられ、その憂国の熱意と才気を更に錬磨され、保守思想界において所を得て応分の御活躍をいただきたく、切望申し上げるところです。

Posted by: 布袋和尚 at 2006年05月12日 12:40

そして、クライン孝子氏の「クライン孝子の日記」における、YUKI von MURATA という源氏名の方の考察

D-7.中国共産党説
極めて可能性が高い。日本共産党あるい共産党のコントロールを
無視した党員や左派とタグ(原文ママ、恐らくタッグの間違い)を組んでいる可能性がある。

1.西尾氏のプロファイリングを利用し、藤岡氏と対立させる。
2.発信は八木氏周辺のように見せ掛ける。
3.3者間の不信感を高める。
4.工作員の存在は見えない。
5.結果的に「つくる会」を分裂させる。
6.日本の右派勢力の弱体化
7.日本の歴史観を中共の解釈に導く

このお二人の文章を読んで中国共産党の陰謀説も一考の余地ありと思い直してみた。

ここで、皆さんに中国人の洗練された外交(experienced in diplomacy)の手法について説明します。

中国人の外交術には歴史の重みがある。
戦乱と飢餓と権謀術数に明け暮れた中から得たかれらの術は、まさに中国の文化である。
相手に向かい合う時、決して譲歩してはならない。
日本人のように、問題を前に自分が譲歩し誠意を示せば相手も応え、円満に収まるだろうと思ったなら、その時点で戦いは負けである。
まず相手陣営内の揉め事を見つける。
つぎに好ましい話し相手を探す。
目を狙(つ)けるのは、自分は交渉術に長け影響力もあるとうぬぼれている人物がよい。
その者との対話では応分以上に持ち上げていい思いをさせ、議題は自陣営に有利なものを選び、自然に相手陣営を不利な立場に追い込む。
もちろん不利になるのは相手陣営であり、交渉したその者個人を不利な立場に追い込んではならない。すでにその者は相手陣営の人員ではなく、わが陣営の味方になっているからだ。
ここまでくれば、後はもう押しまくればよい。
その過程では、自分に都合のいいことなら、鹿を指して馬と為してでもそれを正義と言い立てる。
相手陣営がその論法の矛盾を突いてくれば、ますます声を大にして鹿を馬と言い張ればよい。
大声を繰り返せば、それは譲歩できぬ原則と相手は思い込み、腰が引けてくる。
こうなれば交渉の先は見えてきたも同然である。相手陣営は内部の足並みをいよいよ乱し、全体としての交渉力を失う。
そのための駒になり活躍してくれた人物はまさしく交渉術に長け、影響力を行使してくれたことになる。(踊らされた本人には皮肉な結果となる)

さて、このように中共の手口を皆さんにご紹介した上で、八木氏がこう言い訳をする中国の学者とのやり取りを一緒に見てみよう。

雑誌「正論」4月号より

解説(八木秀次)
 以上、三月号・四月号の二号にわたって、『新しい歴史教科書』をめぐる中国社会科学院の日本研究所スタッフとの懇談の様子を紹介した。私たち日本側はプライベートな旅行ということもあって、討論をするつもりで社会科学院を訪れたわけではなかった。日本側の一人と中国側の数人が旧知の関係もあって、スタッフ数人との文字通り懇談とのイメージだった。しかし、結果は、日本側は学者は私一人、他は事務局スタッフと本誌編集部員というメンバーで中国の代表的日本研究者と論戦することになった。中国側は原稿を用意し、こちらは不十分なメンバーで即興の論戦ということで、その点、日本側の主張に物足りないものを感じる読者もいよう。
 中国側にはあらためて正式に歴史学のプロパーを入れて論戦したい旨を伝えたが、私がここでこの中国社会科学院との遣り取りを紹介したのは、中国側の主張に日本側がどう反論したのかを伝えたいからではない。中国の代表的な日本研究者が『新しい歴史教科書』をどう認識しているのかを資料として紹介したかったからである。これまで中国の政府関係者や関係メディアからの批判はあったが、研究者レベルでの詳細な意見は紹介されたことがない。紙幅の関係でできるだけ中国側の主張を紹介し、日本側の発言を一部省略したのもそのような理由に基づいている。読者にはその点をご理解いただき、中国側がどのような認識を持っているのかに重点を置いてお読みいただきたい。

「正論」の編集部員を連れて(に、連れられて?)の中国旅行が「プライベート」であり、「討論をするつもりで社会科学院を訪れたわけではなかった」との八木氏の言は、私には到底納得できるものではないがここではこれ以上触れない。

「結果は、日本側は学者は私一人、他は事務局スタッフと本誌編集部員というメンバーで中国の代表的日本研究者と論戦することになった。」
まさに、敵の術中にまんまと嵌っているではないか。私なら、こんなケンカはしない。
八木氏に言っておこう。
ケンカとは、強いものが勝つのではない、勝った者が「強い」と言われるのだ。
私なら、勝てるケンカしかしないし、勝つための準備を整えて、地の利、相手の力量を踏まえたうえでケンカする。
その後の八木氏の「中国側は原稿を用意し、こちらは不十分なメンバーで即興の論戦ということで、その点、日本側の主張に物足りないものを感じる読者もいよう。」などというのは、全き言い訳に過ぎない。
しかも、相手は「つくる会」の現役会長と、反中メディアと目される産経のグループの「正論」編集者である。
自らの立場を顧みない無責任にはあきれてしまう。その後に続く言い訳は、考慮に値しない。

では、著作権の問題云々を取り沙汰されるのも本意ではないゆえ、八木氏達と中国人学者達のやり取りの一部を以下に抜粋引用する。

  私の言った出発点というのはたいへん大事なんです。
出発点というのは何かというと、中国で戦争が起きたということです。だから中国は侵略されたというわけです。
 日本には日本の国民を守るために戦ってきた、自衛戦争だという認識がある。けれども日本の国土で戦争したわけではないですよね。なぜ中国において、中国と戦争をして日本を守ったといえるのか。もし今、中国が日本に行って中国の人を守る戦争をしたとして、それが日本にとっては侵略ではないと思えますか。出発点はどこで戦争が起こったかです。また、誰がその戦争を起こしたのかです。

 八木 われわれは中国の教科書に日本が自衛戦争を行ったと書いてほしいと要求しているのではありません。日本の教科書に日本の言い分も書こうということに過ぎません。
 中国から見れば、侵略であったと理解されるかもしれませんが、日本には日本の言い分がある。当時の事情もある。一つのことでも、ある人はこう認識しているけれども、立場の違う人は別の認識をしているということは、多くあります。
 われわれが教科書の是正、記述の是正をなぜやっているかといえば、これまでの日本の戦後の歴史教育というのは、日本が加害者であったという点ばかりを強調していて、日本の言い分が一つも書かれていない、だから日本の言い分についても書こうということなのです。日本の子供たちにバランスよく、複眼的な見方を教えたいということから、教科書の記述是正の運動に立ち上がったということであり、あくまでもわれわれの土俵は日本の教科書なのです。そこを誤解されては困ります。日本の子供たちが使う教科書に、日本の言い分も書きたいということですから、そこはお互い認め合わなければならない。中国の教科書においては中国側の認識を書いていただくのは大いに結構ですけども、日本の教科書に日本の言い分を書いてはいけないといわれてもそれは通らない話ですし、われわれとしては到底受け入れられないことです。

 日本側出席者C これは日本から持ってきたものですが、こちらが扶桑社の教科書、こちらが日本でいちばんシェアが多い東京書籍の教科書です。これをつくったのは日本のTBSというテレビ局で筑紫哲也という人の番組です。「つくる会」に非常に批判的な人が取り上げたということでご覧いただきたいと思います。戦争当時のページで、ピンクのところが日本に肯定的な記述、ブルーのところが否定的記述です。
(東京書籍はブルーばかり。扶桑社はピンクもブルーも)今、八木先生が言ったのはこういうことです。いちがいに比較はできないのですが、「つくる会」に批判的なテレビ局の取り上げ方でもこういう状況になっていることを補足しておきます。

 王屏(日本研究所政治研究室副室長) 日本の教科書だと言われていますけれども、人類として普遍的な価値観があります。たとえば侵略することは悪い。人を殺すことは悪い。
これは人類の普通的な価値観でしょ。それは認めなければおかしいでしょ。

 日本側出席者B それは認めたうえでのことです。

 中国側出席者 バランスの問題です。

 八木 そう、バランスです。

 八木 皆様方から『新しい歴史教科書』に対する見方を率直に聞くことができたことは、たいへん大きな収穫であったと思います。しかし、正確にご理解いただけていない点が残念です。
 歴史教育、日本の歴史教育は、日本人としてのアイデンティティを育てることに目標が置かれるべきだと思います。それに当たっては、子供たちが長い歴史を持った日本という国を将来自らが支えていくんだという気持ちになれるような歴史教育を行いたいと思います。歴史の事実は無数にあります。その事実の中から何を取り上げていくのか、限られたページ数の中で何を取り上げていくのかというところに、価値観が反映されると思います。われわれとしては日本の子供たちに日本の国に生まれてよかった、そして大きくなったら日本の国を支えていきたいと思うように育てたいという思いで、この教科書を作りました。
 もちろんこの教科書の記述が完壁なものだとは思っておりません。研究を重ね、多方面の建設的なご意見を参考にしながら、より良きものにしていきたいと考えております。本日はこのような貴重な機会を設けていただきましたことに、厚く御礼申し上げます。(拍手)

  Bさんのおっしゃったことに私は賛成します。つまり事実と立場という問題ですね。とても重要な問題です。同じ事実を違う立場から見ると違う結論が出されてしまう。
 しかし、Bさんのおっしゃった日本人の立場と中国人の立場、この言い方はあまり正確ではありません。問題があると思います。、                
 たとえば近代史上日本のやったあの戦争に対して、東条英機はいい戦争だと言いましたが、日本でもその時代の反戦論者はこの戦争はダメだと言ったのです。
 中国でもそうです。中国の多くの人民は侵略戦争だと言いましたが、江精衛(=江兆銘)は「ああ、いい戦争だ、いい戦争だ」と言いました。ですから日本人の立場と中国人の立場について、もう一歩考えなければなりません。つまり侵略者の立場、被侵略者の立場、抑圧者の立場、被抑圧者の立場という言い方が正確だと思います。
 また日本の台湾の植民統治について、水利工事などをしてその時代の台湾人の利益になったと言う日本人もいます。しかし全面的に見れば、その植民統治は台湾の人民に対しても、また中国にとっても、良くないことだったと言えます。
 もう一つ感じたのは、日本側の先生方はやはりもう一歩、中国の歴史について研究しなければならないということです。たとえば田中上奏文について先ほど話が出ました。実は今、中国では田中上奏文は存在しなかったという見方がだんだん主流になりつつあるのです。そうした中国の研究成果を日本側はほんとうに知っているのでしょうか。
 また、わが台湾について、Aさんが出した質問の答えは当たり前のことです。明の時代からの一々の歴史の記述があり、清の時代に入ればさらに沢山の記述があります。「わが台湾は」という言い方には問題はありません。たとえば一八七四年の台湾事件について、その時代の清政府の代表が日本側の質問に答え、「台湾の生蕃は化外に置く」と言いました。
この言葉は、中国の歴史をきちんと学ばなければ理解できません。台湾は中国の国土ではないということとは全く違います。つまりそのときの台湾の統治の民ですね。中国の大陸の民と発展の段階が、発展振り、段階がまったく違っていて、孔子の儒教の化外の民だという意味です。
 ですから私の理解では、日本側も中国の歴史を、中国側も日本の歴史をほんとうに深く勉強して、両側の見方がだんだん接近できるようにしなければならないと思います。

 今日は相互理解に大変チャンスになりました。皆さん、どうもありがとうございました。ご苦労様でした。

そして彼らの帰国後、産経新聞はこう記事にした。

「田中上奏文」 中国側「存在しない」偽文書認める(WEB上に記事がないため転載)

中国が日本の大陸侵略意図の証拠としてきた「田中上奏文」について、中国政府直属の学術研究機関である社会科学院の蒋立峰・日本研究所所長が「存在しなかったという見方が主流になりつつある」と述べ、偽文書であることを事実上認めていたことが1日、分かった。

昨年12月に中国を訪問した新しい歴史教科書をつくる会の八木秀次会長(当時)らのグループに語った。

田中上奏文は、昭和2年に当時の田中義一首相が昭和天皇に報告した文書の体裁をとり、日本や欧米では偽文書であることが証明されているが、中国では歴史教科書に記述されるなど事実として宣伝されてきた。

しかし、蒋所長は八木氏らに「実は今、中国では田中上奏文は存在しなかったという見方がだんだん主流になりつつある。そうした中国の研究成果を日本側は知っているのか」と、中国の研究成果としても偽文書が通説であることを明らかにした。

蒋所長は社会科学院の世界歴史研究所や日本研究所で日本近現代政治史や中日関係の研究を長年続けてきた中国の日本研究の責任者。

八木氏は「偽文書だと分かっているなら、中国政府は田中上奏文を根拠とした対日非難をやめ、教科書記述も改めるべきだ」と話している。八木氏らと中国側のやり取りは1日に発売された月刊「正論」4月号に掲載されている。

■田中上奏文

昭和2年に政府が中国関係の外交官や軍人を集めて開いた「東方会議」の内容を当時の田中義一首相が昭和天皇に報告した文書を装い、「世界を征服しようと欲せば、まず中国を征服しないわけにはいかない。これは明治天皇が遺した政策である」などと書かれている。4年に中国語の印刷物が現れ、英語版やロシア語版も登場した。あり得ない日付が記されるなど事実関係の誤りが多く、当初から偽文書と判明していたが、中国では本物として広まった。

まったく、何をかいわんやである。
元々、田中上奏文など偽書であることは周知の事実、しかも、町村外務大臣の時代にきちんと中共に主張している。
彼らが知らなかったとは言わせない。
そんなくだらないことを、手柄めかして記事にまでして言い訳に使う。
対談内容は、「正論」の私が抜粋した部分だけでも完全に「負け」である。
上記抜粋の対談内容の情けなさについて、ここの読者の方にいちいち解説する必要もあるまい。
しかし、八木氏はこう嘯く

 私が中国側と論戦してまずもって思ったのは、中国側の対日認識の貧しさである。日本研究所のスタッフはいずれも日本への留学経験があり、日本通ではある。しかし、例えば、日本人の宗教感覚という問題になると、これはもう理解不可能のようである。

単に、馬を鹿という強弁を通されているだけではないか。

中共や反日左翼にとって、これほど与しやすい敵の親玉もあるまい、何しろ、親玉自らがアキレス腱となってくれるのだから。

さて、中共、あるいは左翼の陰謀説をとった場合、踊らされたのは、内紛を自ら主導した八木氏ではないのだろうか。
私は、八木氏の謹慎と、日本会議の英断による宮崎氏の処断を強く求めるものである。
 
とにかく、前科のある人間は反省し、身を謹んで、ご皇室や我が日本のことにしばらくは関わらないでいただきたい。

反日教科書に対抗する、唯一の牙城であった「つくる会」の国民よりの信頼を失わしめ、あまつさえ未だに八木氏の関係の人間が悪あがきをするなどということは、国賊に値する罪だと認識して欲しい。
彼のとった稚拙な、しかし極めて悪質な権謀術数については、あえてここで触れない。

産経にも問いたい。
我々が日々の糧を得るのに呻吟しながら、決して少なくない時間を割いて、ただひたすらに国のことを思い、本当に皆が純粋な気持ちで、少しでも次代の子孫達によい国を遺したいと草の根で汗を流している、その「思い」を台無しにするおつもりか。

今まで非公開にしていた、ご皇室を守るために集まった人間よりの各界へのメッセージのうち私の筆による一部を以下に掲載する。

郵政民営化のときに、「普通の若者」が小泉さんにだまされて、自民党を圧勝させてしまったという苦い経験を元に・・・・・

「運動」でも、「組織」でもなく、偉い先生方の言論に啓発されたのでもない、「普通の人々」が自分の頭で考えて、自らの良心にしたがって、1つの目的を達成するまでの間だけ、集おう・・・事がすんだら、また普段の生活に戻ろうという・・・
そんな挑戦を始めます。

民主党が頼りない、思想的にダメ、だから、消去法で「小泉自民」を選んだんだ
仕方なかったんだ・・・だから、今の政治の状況がこんなでも、どうしようもない。
よく聞く言い訳です。
小泉シンパ側の言い訳にも使われます。

私は、そんなのは嫌です。
国会議員が国を守ろうとする気概がないなら、不勉強なら、我々普通の人間が突き上げればいい。
イギリスにカントリージェントルマンという言葉があるそうです。
普通の暮らしをしながら、中央の政治に目を光らせ、いざ鎌倉というときには中央へ出て、彼らの姿勢を正すといった人間のこと言うそうです。
ことがあると、サっと集まって、去り際も潔い・・・そこには金銭欲も名誉欲も・・・もっと低次元の「誰かに自分を認めてもらいたい、今の自分の現実が、自分の思いに比して不当に不遇である・・・そんな自分の居場所を運動に求める」などという子供じみた欲すらもありません。

そんな、ムーブメントをブログを通じで今回の「皇室典範問題」に関して起こそうと思ってます。

もうすでに種はまいています。
呼びかけも行いました。
WEB上にだけ存在する、架空の人格である「てっく」という存在(ただし、言う事は首尾一貫して自分なりの筋を通しているつもりですが・・・何者にも阿らず、世間のしがらみによって「転向」したりはしません、それがゆえのHNなのですから)
そんな、どこの馬の骨ともわからない人間の呼びかけに、たくさんの人が賛同してくださいました。

そんな人々のメールを一部転載しますので、よろしければご覧ください。
(アドレス)
閲覧用パスワードは、後ほど送らせていただきます。

偉い、学識のある、著名な先生方の呼びかけで集まったのでも、熱心な運動員が勧誘して集めたのでもない、ごく普通の人々が、自発的に集まって何ができるか
(運動家ではなく)本当に普通の人たちなので、現実に集まる暇もない・・・そのハンディを埋めるためにインターネットを使います。

ま、ことが終わったら、一度くらいはみんなで集まってみたいとも思いますが。
そして、みんなでお疲れ様といって、さよならします。

また、何かが起こったとき、集まれる人は1つの目的の下に集まることにして・・・

集う基準は、ご先祖様から受け継いだリレーのバトンをよりよい形で次の世代に渡す・・・それだけです。

失敗するかもしれません。
でも、いいんです。
失敗したって失うものはありませんし、失敗を恐れて手をこまねいているよりましだと思いますので。

こんな、バカな無謀な試みを・・・どうかそっと見守ってやってください。
そして、曲がった方向に行こうとするときは、教えてやってください。

不一

てっく拝

八木氏よ、産経よ、そして宮崎氏よ、日本人ならもう少し恥を知っていただきたい。
己の私利私欲のために、国を滅ぼさんとしてなんとする
 
 

 
当ブログにおける八木氏に関連するエントリ

皇太子殿下と雅子妃殿下を思う

朝ナマ 皇室典範議論

「樹の組曲」樅の木(シベリウス)

櫻花(おうか)にほふ

皇統の継承 直系傍系と下らん議論するなっての

八木さんも所さんも小泉さんも、みんないいかげんにしなよ
 

 
八木秀次 『本当に女帝を認めてもいいのか』より

平成版、壬申の乱の勃発をも助長しかねない不敬なる言説

さまざまな噂③―小和田家の意向
 噂はいろいろあるが、早い話が本当のところはどうもよく分からない。ただ宮内庁がずいぶん前から、皇位継承問題を研究していたのは事実である。しかし、その内容も果たして女帝を容認するものなのか、男系継承を続けて行くのか、正確なところは分からない。

 こういう生臭い説もある。現行の皇室典範の規定では、今上天皇の後は皇太子殿下が皇位に就かれるが、その際には秋篠宮殿下が皇太子になられる。皇太子殿下にも秋篠宮殿下にも男子がいらっしゃらないからである。さらに次の代 、ということになると、今度は秋篠宮家が主流となって秋篠宮家の直系が皇位を継承していくことになる。つまり将来、女性天皇を容認するにしても、その際には秋篠宮家の眞子様が皇位継承順位が第一位となって、愛子様は佳子様に続く第三位ということになってしまう。それを避けるために皇室典範を変えて愛子様に皇位継承を認め、その順位を秋篠宮殿下の上位に置こうとの考えがあるというのだ。

 またそこには背景事情があるということもささやかれている。皇太子殿下と雅子妃殿下とのご結婚は妃殿下のお父上である小和田恒氏の意向が働いたとの観測がある。外務省の高官の中にもそう証言する人がいる。将来、愛子様が皇位に就かれれば、小和田恒氏は天皇の外祖父になる。これが小和田氏の名誉欲を満たす。しかし、皇位が秋篠宮家に移るとすれば、小和田家としては、何のために雅子様を皇太子妃として嫁がせたのか、ということになる。そこで、小和田家の意向を受けて、秋篠宮家に皇統が移らないように皇位継承順位を変更すべく皇室典範の改正が取りざたされているというのである。

憶測も、世に出していいことと悪いことがある。
あなたがくだらない小和田陰謀説を流布してどうする。
あなたに足りないもの、それは学者として、いや、男として、日本人としての矜持と品格。
 
 

 Voice6月号(発売中)に平松茂雄氏と西尾幹二の対談「東シナ海進出は止まらない――『海への野心』で膨張する大国に日本は何ができるか」がのっています。 

上記を見て、東京支部掲示板に、[1703] 八木氏に対する疑惑 外野応援団   2006-05-13 17:07という注目すべき見方の投稿が出ています。

5/13 追記

「迷い」ということ

当日録がかねて指摘してきた産経渡辺記者の偏向報道の実態を「つくる会」公文書が詳しく分析し、明らかにしました。下欄に掲示してあります。

 日録コメント欄に「あきんど」の名でよく知られる方は池田修一郎さんといって、北海道在住者で、私は手紙を交す仲になったが、まだお目にかかってはいない。

 このところコメント欄に宗教と政治をめぐるテーマで「橘正史」さんと「誤認官」さんのお二人がたびたび発言している。池田さんは「橘正史」さんと個人的に知り合いだそうである。私にファクスで彼の信仰のテーマに対する反論を送ってきた。

 本日はこれを掲示する。

 「橘正史」さんの信仰をめぐる所論は、コメント欄の4月24日3:32、25日14:44、28日02:32、29日21:42、5月1日00:24、1日10:47、3日02:09、3日02:44、などで、それらを見ていただきたい。

 もうひとりの「誤認官」さんが書いているのは信仰のテーマでは必ずしもなく、宗教と政治運動の関係に集中している。(「誤認官」さんは日本会議の事務局の方ではないかと私は推理している。)「誤認官」さんにしろ「橘正史」さんにしろ、今度の事件の発端に関する真相を知らなさすぎる。近く時間を見て私は昨年夏に遡って、私だけが知る真実のいくつかを今のうちに語り伝えておきたいので、しばし待っていただきたい。お二人の疑問に全部答える必要も義務もないが、しかし私が真相を語れば、私の考え方の出発点が少しは分ってもらえるだけでなく、この問題の見方が大きく、新たに修正されるだろう。

 信仰には非合理な要素がからみ、政治と関わるときに危うい面がつねに出てくる。皇室問題は歴史知識のテーマではなく、「信仰」のテーマだと私は先に書いた(『諸君!』4月号)。それだけにきわどい面があるのが常だ。私はすべてのファナティシズムとは一線を画す。懐疑を伴わない信仰を、ファナティシズムという。

 なおこうした問題の設定は私の思想上の立場の表明であって、「つくる会」の姿勢とは関係がない。教科書の制作団体がファナティックであってよいわけはないが、しかしそれは私がどうこう言うことではなく、私が立ち去った今、残された会の理事諸氏が考えるべき事柄である。

 私が心配しているのは日本の保守政治のこれからの流れである。進歩的文化人や左翼リベラリズムへの敵愾心で自己を保ってきたこの潮流は、ひたすら左ばかり見ていて、知らぬ間に右のファナティシズムとの境界線を曖昧にしてきた嫌いはないだろうか。

 問答無用のファナティシズムは小泉純一郎にまっ先に現れた。昨夏の劇場型選挙を人はたいしたことではないと思っているかもしれないが、あのとき〈自由と民主主義〉は間違いなく危殆に瀕した。

 一度あゝいうことが起こると、人の心は次第に同じタイプの局面の変化に慣れてしまうのである。それがこわい。私はただ「つくる会」の話をしているのではないのである。


「迷い」ということ

                           池田修一郎

 岩田温氏の投稿(日録「怪メール事件」(四)4月24日付補説)は多くの識者にとって強い波となって響いた。正直私もその一人であります。

 今までつくる会に対する思いは、何の迷いもないまま信奉し、そこに集まる方々を全て仲間として受け入れ、日本社会における矛盾を取り払う目的を一つにし、心を通じ合わせる事によって輪を広げていく事に、何の躊躇いもなく参加していたのが実体と言って良いでしょう。その中心に位置する西尾先生が今度、自ら会の内部の新しい危機と病根を提示し、最初はひどく衝撃を受けたのも事実です。

 しかし、先生がそこまでして、つくる会の内部に矢を刺す何かがきっとあるのだろうと誰もが予測したに違いありません。

 それに反応するかのように、若い岩田氏によって一つの組織の影響力の問題点が提起され、つくる会が抱えている重大な危険性が、多くの方に知られる事になりました。

 当然それに対して様々な反応が起こり、新たな展開も生まれたわけですが、その反応の一つに、日本会議を仕切る中核の組織、日本青年協議会側からと思われる方面の非難は特に厳しいものとしてさまざまな意見が寄せられました。

 私はつくる会にも日本会議にも全く縁のない立場でありますが、つくる会を微力ながらも日録を通じて支える気持は持ち続けてきたわけです。そうした立場の私にとっても今回の内紛は驚愕に値するわけですが、それよりも注目すべきは日本の保守層に深く関係する組織の実態を知る事の意味合いが、私には重くのし掛かったのが事実です。

 組織側からの反応には様々なものがありますが、その中でたまたま私が知り合いでもある橘氏の投稿はよく知っている方であるだけに考えさせられ、注目に値すると思いました。

 彼は谷口雅春師(氏とは言わず師と語る事に目を留めるべきです)の思想を噛砕くように切々と語られております。

 その文中には「生長の家」の信仰を疑う事なく多くの若者達が日本の保守中道を支える為に、日頃から精神を鍛え励み、日本民族の真の在り方を問い、いかにしてこの国を守り抜くかを記しておられます。

 確かに人間は視点を定め、迷う事なくその方向に突き進む事に人生の美学を見出すケースはあると思います。つくる会の発足もそうした美学が無くして有り得ないと見る事は可能かもしれません。

 しかし私はある種の違和感をそこに感じないわけにはいきません。

 人生の美学の追求の前に、人間ならば誰しも起こり得る「迷い」の感情というものが有るのではないか。どうしてそれを許容できずに前進できるのか。私にはその点がどうしても疑問として生じないわけにはいきません。岩田氏が組織に関わった際に感じたものは、おそらく私のそれと近いものがあるのではないかと思うわけです。

 組織をまとめる際に自然発生する理念の洗脳は、突き進めば進むほど心地良さが増し、後ずさりする意識を自分自身が恐怖と捉え深みに嵌るというの実態かと思うわけです。そうした一種の危険性を回避する要素として人間は迷う余力を持ち合わせていると言えるかもしれません。それが人間の自然であり、生きる力の源なのかもしれません。

 おそらく組織側にとっては、その迷いこそは逃げと断じ、時には卑怯者扱いまでして、組織の正当性を保つことも有ることは容易に予測できます。

 本来志を強くするという事は、同時にそれと同等の迷いや疑念というものがあって初めて人間の感情は保たれるのではないでしょうか。橘氏は文中でハンナ・アレント女史に触れております。私は女史の著作に接したことはありませんが、西尾先生の著書に『地図のない時代』という本があり、それを読んでアレント女史の思想にわずかながら理解を示す事ができた事があります。

 その時の私自身の見解と橘氏のそれとを対比しますと、どこかはっきりと食い違う点があるように思えてなりません。

 橘氏はアレント女史の『革命について』を題材とされ語られていますが、私がとり上げる題材は『イェルサレムのアイヒマン』について述べられた西尾先生の見解によるものである点、多少の論点のズレはいたしかた無い事とお許しいただかなければなりませんが、しかしながら一人の思想家の本質を探る上では、題材の違いはそれほど支障を伴わないとも考えられますから、私なりの意見を上げさせていただくことに致します。

 アレント女史が『イェルサレムのアイヒマン』について語ろうとしたものの骨子として、人間の迷いというものを強調する部分があります。ユダヤ人であるアイヒマンが自らナチスの手先となって同族をうらぎる背景に、人間としての弱さや個人の生き様を訴える文章が登場しますが、西尾先生はアレント女史の作品に触れ、真の意味での言葉の自由というものを感じ取られています。

 実はこの話をする前に『地図のない時代』ではホーホフートという「個人の責任」を主張する作家と、アドルノという「組織による個人への主体性の剥奪」を当然と考える哲学者の論争を持ち出しております。

 両者の見解は答えの出ない闇の世界に入り込む在りがちな論争であると同時に、二つとも「迷い」のない思想の典型であるわけですが、西尾先生はそうした両者の見解が極と極の衝突によるところに問題の根本があり、どちらでもない「迷い」の中に立つ強さに鍵があることを説いておられます。そしてその闇を取り払う手段として、アレント女史の作品は大きな存在であるとも語られています。

 つまり「個人」と「組織」の主張の対立がいかに不毛で、無意味なものかをアレント女史の作品は追求してくれているとおっしゃっています。

 ある一定の方向から人間の感情を見定める事の怖さを、私は西尾先生の本から教えられました。そしてそこには「人間がいかに迷いというものを多用しながら生きているか」が示されているわけです。迷いというのは人間にとって自由がいかに大切かということではないでしょうか。

 しかしそうした見解に比べ、橘氏の論点は一種の形にこだわり、「人間とはこうあるべきだ、こうしなければならない」という拘束感を感じさせているように思うわけです。

 それは時に人間にとっては必要でもあり、又生きる上で都合のよい支柱となるでしょう。しかし橘氏が言うように、人間とはそれほどスムースに方向を定められるように作られているのでしょうか。

 氏は迷いというものを感じた事がないのでしょうか。いやおそらく絶対有るはずです。そして氏の場合、所属する組織においては出来有る限りその迷いを打ち消そうとしているのではないでしょうか。もしそうだとしたらば若い岩田氏をとうてい説得することはできないでしょう。岩田氏が一番申されたい点はそこなのではないでしょうか。

 ですから西尾先生にとっては、今回の「日録」を拝見していると、藤岡先生の迷いこそは人間の本質の部分であり、重要な要素であるとおっしゃりたいのではないでしょうか。そうした思いやりこと、人間の正しい教えとなり、いつの時代にも残しておくべきものなのではないでしょうか。

5/10 一部訂正
 

新 し い 歴 史 教 科 書 を つ く る 会

              つくる会FAX通信

  第174号    平成18年(2006年)5月11日(木)    送信枚数 3枚
  TEL 03-5800-8552  FAX 03-5804-8682  http://www.tsukurukai.com

        3月29日付け産経新聞報道記事の問題点

 FAX通信第173号(5月2日)で、3月28日の理事会の内容を伝えた3月29日付け
 産経新聞の記事が「不正確」「歪曲」などとされていることについて、会員か
 らどういうことなのか説明して欲しいとの問い合わせをいただいております。
 以下に、理事会終了後、会を代表して種子島会長と事務局の鈴木氏が産経新聞
 記者に電話で伝えた内容と、実際に新聞に掲載された記事とを対比し、問題点
 を解説します。

■つくる会側の発表

 3月28日の理事会は、午後8時40分に終了した。その後、理事間の和解の意味も
 含めて事務局で急遽会場を用意し、懇親の場が設定された。その席で、午後9時
 過ぎに、種子島会長と事務局の鈴木氏が産経新聞教科書問題取材班の記者に携
 帯で電話した。まず、鈴木氏が、八木氏が副会長に任命されたことを告げたあ
 と、会の新しい方針として、FAX通信第170号(3月29日)にも掲載された次
 の項目を読み上げる形で伝えた。

1.法務、財務、人事、教科書制度・採択制度研究について担当理事を任命し、
それぞれのプロジェクトとして早急に取り組む。さらにブロック担当理事を任命
し、支部の採択活動の支援に当たる。

2.会長、副会長に担当理事を加えた執行部会を隔週開催し総会に向けた方針の
具体化に取り組む。

3.執行部会で検討された内容は4月、5月、6月の理事会で逐次決定し、総会に向
けた方針とする。

4.次期総会は、7月2日(日)に東京で開催する。

5.総会に向けた人事案件などについては6月の理事会で決定し、総会に提案する
以前に評議会に諮ることとする。なお、評議会は欠員補充等の人事を早急にはか
り、体制を強化する。

6.前記方針を実現するために、種子島会長を中心に理事会が一丸となって取り
組む。

7.前記方針の決定をみたので、藤岡、福地両理事に緊急に要請した会長補佐の
任を本日をもって解く。両理事のご尽力に感謝する。

 次に、種子島会長が携帯電話を取り、「つくる会は、『創業者の時代』から
 『組織の時代』の第2ステージに変わらなければならない。そういう立場で新し
 い方針を決めた」という趣旨のコメントをした。

■3月29日付け産経新聞の報道記事 ※二重括弧を施した部分が、問題の箇所。

【見出し】

 ≪八木氏会長復帰へ≫/「つくる会」内紛収束

【本文】

 新しい歴史教科書をつくる会は28日の理事会で、会長を解任されていた八木秀
 次理事を副会長に選任した。≪7月の総会までに会長に復帰すると見られる。≫
 同会の内紛は≪事実上の原状回復で≫収束に向かうことになった。
 
 つくる会は先月27日、無許可で中国を訪問したことなどを理由に会長だった八
 木氏と事務局長だった宮崎正治氏を解任。種子島経氏を会長に選任していた。
 副会長だった藤岡信勝氏も執行部の責任を取って解任されたが、≪2日後に「会
 長補佐」に就任していた。≫

 しかし、地方支部や支援団体から疑問の声が相次いだことなどから再考を決め
 た。≪藤岡氏は会長補佐の職を解かれた。≫種子島会長は組織の再編などを進
 めた後、≪7月に予定されている総会までに八木氏に引き継ぐと見られる。≫≪
 宮崎氏の事務局復帰も検討されている。≫
 
 ≪理事会では西尾幹二元会長の影響力を排除することも確認された。≫種子島
 会長は≪「会員の意見を聴いたところ、八木待望論が圧倒的だ。≫内紛はピン
 チだったが、『創業者の時代』から第2ステージに飛躍するチャンスにしたい」
 と話している。

■産経報道記事の問題点
 
 上記報道記事は、会長と事務局の正式発表の内容と会の立場を無視した問題だ
 らけの内容である。以下、5つの論点にしぼって指摘する。

(1)≪八木氏会長復帰へ≫(見出し)、≪7月の総会までに会長に復帰すると見
られる≫理事会では八木氏の副会長任命を決定しただけで、それ以外の決定は行
っていない。
 
 なお、この点について付け加えておけば、種子島会長は理事会に対し「7月総会
 で八木会長とする」ことを提案したが、討議の結果、それは含みとしておき、
 会長は6月の理事会で決めること、「含み」の部分は対外的には一切公表しない
 ことを確認した。従って、「含み」についても、理事は新聞記者に話すなどの
 ことをしてはならないのは当然の義務である。しかし、理事の誰かがそれをリ
 ークしたのである。そうでなければ、記者がその立場をわきまえず、特定のグ
 ループと一体になっていたことの現れである。

(2)≪2日後に「会長補佐」に就任していた≫ 、≪藤岡氏は会長補佐の職を解
かれた≫

 八木氏が会長に復帰する見通しとなった反面、藤岡氏はあたかも失脚したかの
 ような書き方になっているが、そうした事実はない。もともと「会長補佐」は
 会則にもない会長の相談役に過ぎないもので、2月27日の理事会が会長のみを選
 出して散会したことから緊急措置として設置され、福地、藤岡の両名が任命さ
 れていた。3月の理事会が八木氏を副会長に選任し、執行部が成立したので、役
 目を終えて2人の補佐が退任したというのが事実である。これを、藤岡氏にだけ
 言及し、あたかも権力闘争の結末であるかのように報じるのは悪意のある意図
 的な書き方で、読者に誤解を与えるものだ。

(3)≪宮崎氏の事務局復帰も検討されている≫

 理事会ではこうした話は一切出ていない。理事会では、種子島会長が、2月28日
 に会長の指示したFAX通信の内容を宮崎氏が別のものと差し替え、理事会の
 投票者の実名まで公表する背信行為をおこなったことに触れ、「これは本来懲
 戒免職にすべきことだが、過去の宮崎氏の会への貢献と、今後更に会に対する
 攻撃をさせないという現実的判断から、宮崎氏から出されていた辞表を受理し、
 円満退職の形で処理したので了解していただきたい」という趣旨の発言があっ
 ただけである。本来、事務局の人事は記事にするほどのことではなく、しかも
 まだ決まっていないことまで書くのは、記者のニュースバリューの感覚を疑わ
 れる。
 
(4)≪理事会では西尾幹二元会長の影響力を排除することも確認された≫

 理事会としてこんな確認など全くしていない。そもそも、会として特定の人物
 の「影響力を排除する」ことを確認することなどあり得ないことは、常識的に
 判断すれば明らかである。西尾氏に関する話題は新田理事が理事会に持ち出し、
 影響力排除を決議しようとまで提案したものである。これについては、「西尾
 先生は正しいこともおっしゃる」、「西尾先生の発言をとめることは出来ない」
 など様々な発言があり、それだけで終わったものである。もし、記事の通りの
 ことを理事会として確認したとすれば、全理事がそれに拘束されることになり、
 そうしたことからも、あり得ないことが理解できるだろう。

(5)≪会員の意見を聴いたところ、八木待望論が圧倒的だ≫      

 種子島会長は、理事会直後の上記の電話取材では、このような話はしていない。

 最後に、この記事の問題点を、総括的に述べておく。

 第一に、3月28日の理事会決定は、会長人事ならいざ知らず、副会長人事を決め
 ただけであるから、普通の感覚では15行程度のベタ記事(1段組み記事)扱いが
 常識である。それを3段にまたがる大きな見出しを付け、大々的に報道したのは、
 「八木会長復帰」を既成事実化しようとする記者の意図に発したものである。
 新聞記者としては起こった事実を報道することに徹するべきである。報道を利
 用して事実をつくり出そうとするのは、新聞という社会の公器の私物化と言っ
 てよく、新聞記者のモラルとして絶対にやってはならないことである。

第二に、3月29日付けの新聞記事は、前夜の9時53分に「産経web」でネット
上に配信されていた。取材から配信までが極めて短時間であり、記者は予定原
稿を準備していたと考えられる。4月3日、記者は「藤岡党籍問題」のガセネタ
を信じ込まされていたこと、謀略をしていた一味の一員であったことなどを事
実上告白していたから、新聞記者の権限を利用した上記の党派的行動は最初か
ら計画的なものであった疑いが強い。なお、一般会員の間にも数日前から、
「八木会長復帰」の情報が流れていた事実がある。

 第三に、つくる会としては、新聞報道がなされた3月29日の午前中に、種子島会
 長、八木副会長の承認を得て、事務局から担当記者に対して正式に抗議した。
 FAX通信第170号(3月29日)でも、特に上記の(3)と(4)について「明
 らかに理事会の協議・決定内容ではありません」として会員に告知している。

なお、4月30日の理事会で種子島会長と八木副会長が辞任したことを、産経新聞
は全く報道していない。これは、教科書問題取材班が解散したことと関係して
いる。会の「内紛」には一切介入せず、「内紛」が収まるまでは会の報道を一
切行わないという産経新聞社の方針の反映であると考えられるが、「内紛」を
書き立ててきたのが朝日新聞ではなく産経の記者であったことを考えると、こ
れはむしろ歓迎すべき方針である。

 周知の通り、産経新聞は「新しい歴史教科書をつくる会」の発足当初から、一
 貫してこの会の試みを好意的に報道して下さった。今回、一部の記者の行動に
 よってこのような事態に立ち至ったのは誠に残念でならない。しかし、会員各
 位におかれては、産経新聞全体と一部の記者の行動を混同することなく、正確
 な認識をお持ちいただくようお願いしたい。

5/12 追加

哭泣の書

 以下に掲げるのは、平成15年(2003年)7月25日に私が当ブログに書いた「八木秀次氏のこと」という文章である。彼は私の息子の世代である。私はほかでも何度もそう書いたことがあったのを思い出す。 

 なぜ彼は私にあの「怪文書 2」を送る非情をなしえたのだろうか。70歳すぎた人間に「西尾先生の葬式に出るかどうかの話も出ました。」と書くのは、よほどの神経である。あるいはこの部分は宮崎氏の筆になるのであろうか。関係者のお葬式にとびまわっていた人だった。

 「八木はやはり安倍晋三からお墨付きをもらっています。小泉も承知です。岡崎久彦も噛んでいます。CIAも動いています。」の一行には、私自身がハッと思い当たることがある。八木氏が余りに態度をくるくる換えるので、遠藤、福田、藤岡の三氏と私で、クリスマスの晩に新宿の中華料理屋に彼をよんで問いただしたことがあった。その件は無事にすんだのだが、帰りしなに八木さんは、私の新著「<狂気の首相>で日本は大丈夫か」を非難がましくいい、「官邸は西尾先生に黙っていない、って言ってますよ。」と脅かすように言った。西村代議士の強制捜査をわざと連想させるシチュエーションにおいてである。

 「誰が言ったのですか。」と私はきいた。「知っている官邸担当の政治記者です。」「それはいつですか。」 聞けば私のこの本の出る前である。そういうと「先生はすでに雑誌に厳しい首相批判を書いていたでしょう。西村代議士がやられたのは<WILL>での暗殺容認の発言のせいらしい。」「私はそんな不用意な発言はしていないよ。」と受け答えたことを覚えている。
 
 八木さんは安倍官房長官に近いことがいつも自慢だった。紀子妃殿下のご懐妊報道の直前、日本は緊張していた。あのままいけば、間違いなく「狂気の首相」が満天下にだれに隠すところもなく露呈してしまうのは避けがたかった。国民は息を詰めていた。制止役としての安倍官房長官への期待が一気にたかまった。八木さんは安倍夫人に女系天皇の間違いを説得する役を有力な人から頼まれたらしい。まず奥様を説得する。搦め手からいく。「有力な人」の考えそうなことである。

 八木さんはこの抜擢がよほど得意らしく、すくなくとも二度私は聞いている。彼は権力筋に近いことをなにかと匂わせることの好きなタイプの知識人だった。私は政権と言論ははっきり切り離されているべきだという考えである。ことに安倍政権が有力視されるようになってから、私は言論人の政権接近ににわかに厳しい批判の目を注ぐようになった。小泉容認に急傾斜した伊藤哲夫さんと袂を分かつようになったのもこのせいである。八木さんは伊藤さんの強い影響下にあるのかもしれない。

 このへんの問題意識はわたしの本年の「謹賀新年」をみていただきたい。

 いずれにしても、鈴木尚之氏の証言だけではなく、文面的にみても、「怪文書 2」に八木さんが関わっていることは私にはほとんど疑う余地がない。つくる会ファックス通信173号では、産経渡辺記者が「謀略的怪文書を流しているのが<八木、宮崎、新田>であると言明した。」とはっきり書いている。会の公文書がここまで打ち出しているのである。軽く見逃すことはできない。

 嗚呼、それならなぜ? 八木さんはなぜそんなことを? 私は痛哭の思いである。そういうタイプの人だという説がある。論壇の寵児とにわかに持ち上げられて、慢心したという人もいる。私には解らない。保守論壇などというものは、日本人の精神活動のなかでは、一隅の小さな、小さな、頼りない、無力な世界である。私は酒の席でそういうことを言って、無視されてきた自身の人生の悲哀を彼に語ったことがある。八木さん、覚えているだろうか。貴方はそのとき「自分は日本の文化界の中央を歩んでいるつもりだ。」とためらいもなく言った。私はその自信に少し驚き、しかしこれからの若い人はこれでいのかもしれないと思って、それ以上なにも口にしなかった。

 以下は3年前の私の文章である。 

            哭  泣   の   書(原題 八木秀次氏のこと)
                                  
                                 平成15年7月25日     八木秀次氏のこと

 私が八木秀次さんに最初にお目にかかったのは、平成7年(1995年)の春先か、あるいはもう少し前の頃ではなかったかと思う。伊藤哲夫さんが主催している日本政策研究センターの談話会があり、私は講師をたのまれて、一座の談話を行った。テーマを覚えていないし、何を話したのかも勿論まったく覚えていない。伊藤さんに昔の記録を調べてもらえば、日時とテーマも正確に全部分かるだろうが、まあそれはどうでもいい。

 車座に囲んだ15人程度の会であったと覚えている。そのときの席にいたまだ若いひとりが八木さんだった。八木さんは鋭い質問をした。質問の内容をこれまたまったく覚えていない。日本国憲法の歪みが革命国家フランス模倣に由来することに関連する話題ではなかったかと思う。私はすでに5年前に「フランス革命観の訂正」(Voice1989年8月号)を書いていた。この論文は後に『国民の歴史』の「西洋の革命より革命的であった明治維新」の章の原型をなしている。

 けれども私は憲法学に関する知識を持たない。私が漠とした疑問を抱いている憲法学者樋口陽一に対する批判を八木さんが口にした。私は詳しく知りたかった。憲法は素人だが、何でも私は知りたがり屋なのだ。しかも私と考え方が近い人が持っている未知の知識に関する限り、私の知識欲は貪婪であり、見境がない。私は家に帰ってから八木さんに電話をした。基礎から教えて欲しい、と。

 私と八木さんとの交流が始まったのはこの日からである。彼は私の欲求を知って、樋口陽一の著書や論文のコピーを数多く送ってくれた。さらにまた会って憲法学会の狂った方向について説明してもらった。私と八木さんとは怒りを共にしていることが直覚された。彼のデータや情報の提供は誠意があり、献身的であった。私は深く感謝し、その無私に感動した。

 ちょうどその頃はオウム真理教の不安や関心が高まっていた時代だった。『諸君!』(平成7年10月号)に、「政教分離とはなにか」を私は書いた。この最後の小節は「憲法モデルをフランスに置く弊害」とあり、樋口陽一の『近代国民国家の憲法構造』への批判が展開されている。この小節での考え方の骨子とデータの提供者は八木さんである。

 つまり、私より30歳以上も若い彼だが、私は八木さんの師ではなく、八木さんが私の師なのである。

 彼は当時まだ無名だった。しかしその頃から論文が注目され始め、あっという間に世間に知られるようになった。この数年の彼の成長はめざましい。保守系の憲法学者はこれから特に貴重な存在である。自重し大成してもらいたい。彼の大成に日本の未来がかかっている、とあえて言ってよい。もし彼が挫折するようなことがあれば、日本の憲法つくり直しの道も挫折するのである。

 今から38年ほど前、私は福田恆存先生のお宅にお教えを乞いによく伺っていた。私がドイツに留学する報告をした日に、先生は「君が帰ってくるころに、仕事がし易くなるようにしておくよ」と謎めいたことを仰言った。日本文化会議の設立が考えられていたのだと思う。左翼一辺倒のマスコミをある程度きれいに清掃しておくよ、というくらいの先生一流のユーモアのこもった決意であったかと思う。

 私は八木さんに、「君のために仕事がし易くなるようにしておくよ」と断固として言ってあげたい。福田先生がそう言ってくださったが、私の人生において仕事は必ずしもし易くならなかった。左翼一辺倒のマスコミは相変わらずで、千年一日のごとくである。「幻想は切っても切ってもあとから湧いてくる」というのも福田先生のことばだった。私も今同じ心境である。人々はなぜ現実の悪にそのまま耐えられないのか。なぜ悪をむなしい善の見取り図にすり替えたがるほどに弱いのか。欲求不満を自由と錯覚し、不必要な希望を休みなく未来にいだきつづける人々の幻想を、「切っても切ってもあとから湧いてくる」状況の継続に私はほとんどもう疲れた。八木さんが仕事のし易くなる状況をいっぺんに作り出してあげられない私の無力を私は噛みしめ、彼にゴメンナサイと心の中で言っている。

 今私は彼とある新しいプログラムをスタートさせている。伊藤哲夫さんや中西輝政さんや西岡力さんや志方俊之さんや遠藤浩一さんもそこに加わっている。志は「押し返す保守」である。それくらいまだ不利な状況にある。みんなの力で愚かな「幻想」を根っこから打ち滅ぼしてしまいたい。彼のために仕事のし易い状況を作ってやれないで、私の人生もまた終わるのかもしれない・・・・・そのうち日本も沈没するかもしれない、そんな暗い予想さえ抱く。

財政規律の問題

 粕谷哲夫君は私の大学教養学部時代の同級生で、住友商事に永く勤め、同社の理事になった。海外経験も豊富で、「つくる会」には強い関心と共感をいだき、協力を惜しまなかった。「つくる会」賛同者の表に名を列ねてもいる。 

 粕谷哲夫 
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 財政規律の問題

 私は西尾幹二氏の旧友であり、種子島氏とも同じ同窓である。

 実は二年ぐらい前だったか、某団体の会長がその会の資金1千万円の不正使用があったのではないかという疑いが出たことがあった。私は西尾幹二氏に、当該団体のような問題が発生すると「つくる会」の運動に重大な事態を招きかねないので、老婆心ながらよく目配りするよう進言したことがあった。

 というのは 現在日本の抱える問題の重要な部分は、他人のカネを預かるものが、その善良なる管理者の義務を忘れて放漫に流れることによって生じたものであることを骨の髄まで認識していたからであった。

 目の前のカネがあり、それが自分のカネではなく他人のカネであれば、放漫な支出に流れるのは、おそらく人間の悲しい性である。巨額な財政累積赤字、銀行の不良債権問題、厚生労働省のナンセンスな施設群の建設とその処分などなど、すべて「他人のカネ」の放漫管理から発生した問題である。こういう危機管理の意識は私自身の職業的体験から醸成されたものである。

 この懸念について西尾幹二氏からは「自分も同じ認識を持っている。そういうことがないようにやかましく言っている」という趣旨の回答だった。 その後の会話から、氏が「つくる会」の資金管理について予想以上の厳しい認識を持っていることを知った。

 またこういうことがあった。前回の採択戦に備えて、「つくる会」は寄付を募った。彼からは1万円寄付の要請があり、こころよく同意した。彼自身は100万円の寄付をし、かつ理事たちにも相応の寄付を求めているという話であった。100万円が多いか少ないか、いろいろな判断はあろうが、小生はかなり大きいと感じたが、逆に氏のこの寄付行動は会の財政節度に対する厳しい認識を示す証として一安心したものである。

 と同時に理事たちは個人的な寄付をたとえ5万円でも10万円でも要請されれば、「西尾氏が会長であると寄付させられるからかなわない」という反発が生じるのではないか?と心配になった。しかし彼はその危惧をとっさに否定した。「理事はいろいろあっても、そういうことは分かっている」というニュアンスだったと記憶する。

 その募金活動は、結果的に目標を超える金額の募金を達成したと聞く。ところが西尾氏は、「募金金額の達成に理事たちは自己の集金力を過大評価している。浮かれてはならない。将来の会の財政見通しはけっして楽観できない。いっそうの財政節度が必要だ」とつけ加えるのを忘れなかった。

 また、「幸い『国民の歴史』の多額の印税が「つくる会」の財政に貢献したが、今後この種の臨時のヒット収入を見込むことは出来ないだろう」という悲観的な見通しを述べたと記憶する。

 コンピュータ問題はそのあとに出て来た問題である。私はコンピュータ・ソフトについても多少の心得はある。なぜ早く相談してくれなかったのかという気持ちは残るが、宮崎氏にこのコンピュータ問題で邪念はなかった、しかし理事一同無知であったというのが私の判断であり、その支出は「無知の代償」といえる。宮崎氏の事後の処理を伴う問題点は、遠藤氏の報告書に詳細にあるようだ。それを見れば分かるはずである。コンピュータ・ソフトの会社からの事後値引きもあったと聞く。

 しかし「無知の代償」を認識した西尾氏は、この件の責任は宮崎氏のみ負うのではなく、理事全員も応分の連帯責任を負うべきであると提議し、合計100万円の負担が合意されたと聞く。しかし宮崎更迭問題がこじれてこの話は沙汰止みなったそうである。

 宮崎氏はいい人ではあったが、教科書採択の状況は厳しさを増したこともあり、西尾氏の求める事務局長像がより厳しいものになってきたことも十分ありうると思う。この事務局長の戦略的機能の問題について、日録によれば宮崎氏更迭の考えは八木、藤岡、種子島の三氏の間に同意され共有されていた。この段階では一枚岩であったと私は理解した。

 企業であれば、そういうコンセンサスが幹部間にあれば合理的な意思決定がなされるであろう。

 その後コンセンサスは突然白紙に戻った。これを知ったときの西尾幹二氏の驚愕と当惑の電話は今でも耳に残っている。

 それ以降の展開はご存知のとおりである。

 誰がこの会を運営するにせよ、まず財務管理に対する根本的な意識の変革が会全体に浸透しない限り、会は資金的に行き詰るのではないかと危惧している。NHKは半強制的に視聴料を請求できるが、「つくる会」の運営資金は会員の寄進によるものである。「会員の爪に火点すなけなしの寄付」である。会員の心が離れれば、会は雲消霧散する。デフレを経て支出管理を徹底している昨今の企業の金銭感覚の厳しさをまねる必要があるのではないか。その感覚は西尾幹二氏が一番強かったのではないか? 

 昨夜来の情報によると、種子島氏、八木氏などの退任が決まったようである。

 新執行部におかれては、浄財の拠出者のことをつねに頭において、効率的な運営を図ってほしい。

 

 

新しい友人の到来(四)


伊藤悠可氏誌す

私はあまり心配していないのです。われわれが目撃している事実は「カタルシス」だということがだんだんわかってきたからです。「Katharsis」というのは内臓の中に溜まった悪いものを排泄させることを意味する言葉らしいのですが、易の火風鼎の卦がそれです。鼎は三本足の素焼きの祭祀具。中央下から火をくべて、上部の鍋の供物を煮るのだが、これを神聖なものとして供するには、一度逆さにして調理の残り物、残滓を除いてからでないといけない。
カタルシスだと悟れば、こびりついた煮物は除かれる。

「森鴎外か小説『渋江抽斎』に登場させた人物。『金風さん』と親しく呼んでいる人は長井金風のことだが、彼は『最新周易物語』でこんなことを書いている。

『――徳川の時、渡邊蒙庵とかいひし物があって、遠州のもので、真淵の末流を組んだものだが、日本書紀の注釈といふを書き、それが冷泉卿か、菊亭卿の手から上覧に入ったといふので、おおひに面目を施したつもりに思ってゐた。一年洛に上りその卿に謁することになった。本人の考へでは余程賞めに預かることと心得て行ったのだが、恭しく導かれて謁見を賜はつたまではよかりしも、卿は蒙庵を一目見て、その方賤しき匹夫の身を持って、国家の大典を注釈せんなど、神明に憚らざる不埒ものである、といつたのみで、御簾は既にきりきりっと捲き下された。蒙庵はぶるぶると振ひながら罷りくだつたといふ。』

金風はこの卿のわきまえのあるを讃え、もと国史というものは百姓を導くために書かれたものではなく、帝王の鑑として帝王のためにつきうられたのみである、と言っている。古事記の傳なり、初期の注なりと我れは顔に物して、小人匹夫が触れ得るものにあらず。あまりにおのれを知らざる天朝を憚らぬものどもで、田舎の神主あがりの国学者などというもののしたり顔して御事蹟を喋々するのが多い、と怒っている。

伊藤思う。いまどき、このようなことをいう知識人はいないし、またいたとしても巷間、誰もそれに服するものなどはあろうはずがないが、しかし、面白い話だと思って読んだ。天朝、国家の大典という言葉をかざして人を黙らせるのが痛快だという意味では勿論ない。身分の隔てがなくなった今、誰もが人倫国家を云々できるようになったが、本来、精神の貴族性をもたない人々が参加できるような運動ではないのであろう。百姓というのは精神性の「貴」と「清」とが無縁な人というふうに充当すれば、この長井金風の意とするところはちっともおかしくはない。

 つくる会FAX通信172、173号が発行されました。173号の前半に種子島、八木両氏の捨て台詞めいた弁明文の要約、後半に藤岡氏の公正めかした美しい演説文の要約がのっていますが、ここではそれらを取り払って、本日録に関係のある部分のみを掲示します。

(2)藤岡・福地両理事による反論

 両理事は、「つくる会の混乱の原因と責任に関する見解」という本文6ページと
 付属資料からなる文書を用意し、概要次のように述べ会長・副会長の辞任理由
 に反論しました。

〈我々両名は、2月理事会の翌日28日から3月28日理事会までの1ヶ月間、種子島
会長を支える会長補佐として会の再建に微力を尽くしてきた。3月28日の理事会で
は、副会長複数制が妥当であるとの我々の進言を無視し、会長はその任命権を行
使するとして八木氏のみを副会長に任命した。それでも理事会の宥和を重視し、
我々はその人事に同意し、二度と内紛を起こさないようにしようという精神で合
意した。このまま何事もなく推移すれば、7月に無事に八木会長が誕生したはずで
ある。

 ところが、この理事会直後から、会の宥和と団結の精神に反する不審な事態が
 続発した。
 
1.3月29日付け産経新聞は理事会の内容を歪曲し、理事会で議論すらしていない
ことまで報道された。理事の誰かが誤情報を流して書かせたのである。

2.3月末から4月初めにかけて、西尾元会長の自宅に一連の脅迫的な内容の怪文
書がファックスで次々と送られた。これについて西尾氏が自身のブログで発信す
る事態となった。

3.4月3日、渡辺記者は藤岡理事に面会を求め、藤岡理事に関する「平成13年 
日共離党」という情報を八木氏に見せられて信用してしまったが、ガセネタであ
ることがわかったと告白して謝罪した。6日には、謀略的怪文書を流しているのが
「八木、宮崎、新田」であると言明した。

 福地理事は、事態は深刻であり速やかに事の真相を糺す必要があると判断、4月
 7日に種子島会長に八木副会長から事情聴取する必要があると進言したが拒否さ
 れた。4月12日、西尾宅に送られた「西尾・藤岡往復私信」は八木氏の手にわた
 ったもの以外ではあり得ないことが判明した。同日、藤岡・福地の両理事は会
 長に対し、八木氏が3月理事会の精神に反する一連の謀略工作の中心にいる可
 能性が極めて高く、その証拠もあることを説明し八木氏の聴聞会の開催を改め
 て求めた。会長は、1.八木氏に確かめ、事実を認めれば解任し、自分も任命
 責任をとって会長を辞す、2.否認すれば八木聴聞会を開く、と表明した。翌
 日13日、種子島、八木、藤岡、福地、鈴木の5人の会合の場がもたれ、冒頭で会
 長は両名の辞任を表明した。従って、前日の1のケースであったことになる。
 こうして会を正常化しようとする我々の真摯な努力は水泡に帰した。

 この間、種子島会長は、「過去は問題にしない」と言い続けてきたが、一連の
 謀略による内紛の再燃は、宥和を確認した3月理事会の後に起こったことであり、
 現在の問題である、また、辞任の理由として、我々両理事が内紛を仕掛けたか
 のように語っているが、それは明らかな事実誤認に基づく責任転嫁である。〉

(3)討論の流れ

 田久保理事から、「藤岡理事は八木氏宅へのファックスにたった一言書き込ん
 だ言葉について八木氏の自宅に赴き、夫人に謝罪した。藤岡氏の党籍問題に関
 するデマ情報の流布は極めて重大な問題であり、八木氏はそれを他の理事など
 に公安調査庁の確かな情報であるとして吹聴したことについて藤岡氏に謝罪す
 べきである」との発言がありました。事実関係についても、参加者から具体的
 な補足情報の提供がありました。

 内田理事は、藤岡理事の言動が会の最大の障害であるとして、藤岡理事を解任
 すれば種子島会長は辞任を思い留まるのかと質問しました。それに対し、種子
 島会長は、それが筋だが健康に自信がない旨述べて会長を続けるつもりはない
 と発言しました。
 
(中略)
 
 議論は2時間半以上にわたって続きましたが、結局八木氏は謝罪せず、種子島・
 八木両氏は辞意を撤回するに至らず、辞任が確定しました。この両氏の辞任に
 続いて、新田・内田・勝岡・松浦の4理事も辞意を表明(松浦氏は欠席のため文
 書を提出)、会議場から退出しました。
                                (以上)

5/3 追記

新しい友人の到来(三)

伊藤悠可氏誌す

「なぜ、ここにいる」と先生を罵倒した男。先生は全共闘を彷彿されたという。全共闘世代。これは先の親世代が甘やかして育てた過剰肥料の産物だ。或いは、心が緩んでいた時に生んだ子供たちだ。戦争で緊張感があった。その時代に命をなげうった人には子供がいない。終戦で、死ぬかもしれないという危険がゼロになった。そこでどっと子供が生まれた。「ああ、死ななくてよかった」と弛緩したときに生まれた子供たちなのだ。だから二十歳になってイタズラをしたのだ。今まで彼らがやったことを児戯でなかったと思ったことは一度もない。そのオフセット版がいみじくも先生があぶり出した保守屋の中年。全共闘世代を評する限りサルトルは当たっている。「この世に放り出されただけ」の存在なのだ。私も全共闘世代に入るらしいが。

そう言えば、「保守」の人口が増えたなというのが、あるときからの印象である。今回のような事件をみると、水増ししたに違いない。こんなにいるはずがない。あの当時は全然いなかった。

こういうときは悪人のほうがわかりやすい。善人は語るべきときに語らず、語ってはならないときに語ったりする。不測の事態というときには、善人が当てにならないだけではなく、実際に悪い役割を果たす。

「愚直」というのはない。愚かなるものは必ず曲がる。「愚曲」はあり、「愚直」はなし。私が歩いた拙い人生からでもそれが言える。自分で愚直といってえばる人間はほとんど曲がっている。

「保守」という言葉も、全共闘が汚してしまった「総括」と同じように穢れてしまうのだろうか。紫の朱を奪うものたちの手によって。

「目的の為には手段を選ぶ」。これが日本人の澡雪の中心である。先生は昔から左翼であっても進歩主義者であっても、隔意なく人間として敬意をもっておつきあいなされた。それを最近の日録で知って我が意を得たりと思った。九段下会議で先生の身振り手振りをみているだけで、それはわかるはずだ。

「目的の為に手段を選ぶ」。その中には、禮も長幼の序も金銭の使途の性格も、さらに言えば団体に参加しているという動機までも、規範されるものであろう。つまり、卑怯をしないということだ。

わが古代から中世へかけて廃れていた思想に「恩を知る」ということと、「分を守る」という思想があって、それは平和的な感情でもあるが、運命的な思想に培われたものであると私は信じる。けれどもその運命を裏切らんとした人々が不必要な動乱を敢えてしたために、世の人々が難渋したことも幾度もあったので、これも日本だけのことではないであろうが、この二つの感情が自然と流れていた時代と人世にノスタルジーさえ感じる。
突き詰めて言えば、この二つさえ放擲しないで生きられるなら、人としてあまり大きな過ちはおかさないでいられると思うほどである。

保守知識層が結集してやっておられる運動の大半は、「大衆感化運動」だと思っている。大衆覚醒運動と呼んでもかまわない。しかし、この運動の核にほとんどの大衆が入ってきては困るのだ。

こちらが大衆浴場になってしまったら、誰に呼びかけるのであろうか。
(つづく)

 つくる会の種子島会長、八木副会長は4月30日の理事会で会長・副会長のみならず理事も辞任し、会そのものから離れると発表しました。

 さらに新田、内田、松浦、勝岡の四理事も辞任。

 ただし、会長、副会長の自己弁解を披瀝したつくる会FAX通信172号は、新執行部(高池会長代行)の成立直前に、これを出し抜いて出した種子島、八木両氏の犯した、不正かつ卑劣な文書で、ただちに無効となっている。

 私はただ、八木は知らず、種子島の何故かくも、陋劣なるかを、彼を知る旧友とともに哀れむのみ。

4/30 追記

新しい友人の到来(二)

 それからしばらくして、さらに次のような長文の感想文が届いた。今の私が今の私の置かれた環境をこれ以上語ることは困難だと思っていた矢先、外から私と私の環境を心をこめて語って下さる次のような文章を得て嬉しい。さっそくにも紹介したい。


伊藤悠可氏誌す

「つくる会」幹部の不可解。おそらく語るに落ちる行状がふくまれているにちがいない。尋常なら今のような収拾(注・4月3日の段階・八木氏副会長へ復帰)をするはずがない。易経の水地比の卦にある「人に匪ず。また傷ましからずや」といったものだろう。「人にあらざる人と交わりを強いられ」先生が心を傷められたという卦です。それらの大部分を胸内に秘めて語らずにおられるのは、保守の軒下にいるはずのない人間がいたという衝撃と、もう一つは理ありとも事に益なきは君子言わず、という思いがおありになるからだ。ここでいう「益」とは足を引っ張ってきた君たちが思っている「利益」「私益」ではない。「実りあるもの」に資するという意味なのだ。先生は大変な忍耐をしておられる。

事実無根の中傷と誹謗に対して、おのれ自身のために弁明するのは時として徳を損なうかもしれないが、人がいわれなき中傷誹謗にさらされているのを見たときは、断然その人のために弁明しなければならない。それが日本人ではなかったのか、保守ではなかったのか。理事の面々よ。

産経新聞の某記者まで繰り出して、狂騒乱舞しはじめた「つくる会」。やっぱり「ふるいにかけられた」連中は想像したとおりの愚をおかす。彼らは苦しくてしかたがないのだ。つまり、先生の眼前で、正体をあらわしてしまった悶えにすぎない。これからもっと百鬼夜行のような景色がみられると思う。楽しみにながめていたい。

八木氏は、蘇生する最後のチャンスを自分でつぶしてしまった。わざわざ先生が一日、会って下さったというのに。転んだ少年がまた馬上に乗っかってしまった。彼はいつか見たことのある「上祐さーん」というようなファンがいっぱいいる。先生が日録に書かれた御婦人たちもその類になる可能性が高い。目覚めてほしい。

「つくる会」が内部から腐ってしまったというのに、「つくる会」の看板だけ磨いて住みつづけようという人がいる。Bestではないが、Betterならよいと、声援をおくる人が私の近しい中にもいる。私はいずれもうまくいかないと思う。同志的結合でない利害集団はかならず内ゲバをおっぴろげる。小人の群はそれが専売特許だから。

泣いて馬謖を斬ろうとしたら、「ぼくは斬られるのがイヤだ」と馬謖が走り去ってしまった。そんなやつなら「魏」に逃げ込むのだろうと、思っていたら何と「蜀」に戻ってきていて、この国をよくしたいと言い出した。西尾先生の泣く機会を奪った八木さんの罪は重い。だから先生は泣かないで笑うしかないのだ。

つくる会のゆくすえを案じる方々、どうか不謹慎だとお怒りにならないでください。吾々がいま見ているのはまさしく「喜劇」なのだ。国は「喜劇」のなかにおいて亡びていく。「悲劇」のなかでは国は亡びない。
(つづく)

SAPIO最新号(5月10日号)に怪メール事件が報じられました。

4/29 追記