現代世界史放談(五)

日本人の西洋大誤解

しかし、キリスト教はそうではなかった。巨大な哲学体系が後ろに控えていて、しかもそれを強制する政治制度や軍事力が控えていた。日本人はそれを受け入れる気にはならなかった。ただ、西洋の文化や芸術や学問は危険がないので受け入れた。大変に尊敬し、いまも愛好している。しかし根っこにある宗教を受け入れていないので、日本人の西洋理解は西洋大誤解かもしれない。

日本人は、がらんどうのような何もないのが好きだったのではないでしょうか。そうとしか思えないのです。政治文化を強制してこない。哲学的理念を強いてこない。ひたすらそういう世界に憧れた。西方浄土へのあこがれ、それは平安末期辺りから強くなりますが、日本人の心をずっと摑まえていて、いまでも何か事があると、遠い国で起こった出来事を日本人は尊敬するのです。素晴らしいものは外国にあると信じ、明治以来、長い間、西洋文化を鏡としたのは「西方浄土」に代わった。つまり、仏様はいつの間にか西ヨーロッパ文明に代わったのです。それが旧制高等学校のドイツ語、フランス語崇拝、教養主義礼賛になった。

他方、世界全体の現実を見ようとしなかったのではないか。だから当時、表舞台から消えたイスラムの世界も見ていなかったのです。現実は見ていなかったけれども、西方浄土をひたすら憧れるように、西洋文化をひたすら学んだ。そして夢を育てて、自分のところでそれを移植して自分なりの西洋文化を作ってここまできた。本当にそう思いますよ。

日本では必ずどこかで西洋絵画展をやっているでしょう。ついこの間まで、モネ展をやっていました。去年はスイスのホドラー展もやっていました。近くは何度目かのカラヴァジョ展が開かれます。こんなことをやる国は、アジアで他にありません。日本中のどこかで、必ずいろんな西洋絵画展をやっています。

コンサートも盛んです。最近、ドイツ人はモーツアルトやベートーヴェンをあまり聴かないといいます。そんなもの要るのか、という話らしいのです。オーケストラはほとんど外国人だそうで、十人中八人から九人は外国人。ドイツ人の音楽家がいなくなった。文学も教育も衰滅です。音楽も哲学もダメ。ドイツの限界というか、アイデンティティの喪失ということです。中国人と一緒になって浮かれて金儲けばかりです。

ドイツの三大問題

いまのドイツには、三つの大問題があります。いうまでもなく難民、これもアイデンティティの喪失から引き起こした。ドイツはナチスを抱えた無残な国、酷い国、悪の国と言われ続けてきたことが、ドイツ人の心を破壊し続けてきたと思います。

そこでメルケルは、ドイツは立派な国だ、国際社会の模範になる国だと言いたかった。それゆえに、難民はどうぞいらっしゃいと言い出した。隙を作った。

そもそも難民は存在するのではない、発生するのです。今度の欧州の事件で、そのことがやっと分かったでしょう。隙を作った先進国を目掛けて人の波が出現し、移動してくるんです。隙を作ったら負けなんです。ドイツはそれを自らやってしまった。立派な国であるということを見せたかった。自分を否定していた戦後のドイツのイメージを逆転させたかった。この国は今度の件で、人口の20%近くがイスラム系ということになる。ドイツ文化も失われてしまうでしょう。

自分の国をネガティブに見続けているということが、仇となる。自分の心を苦しめているわけですから、いつかそれが逆になって、素晴らしいドイツにしたいと思うから、メルケルがあのようなことを言っても国民は反対しない。メディアも批判ができなかった。いまようやく反論が激しく出てきていますが、遅すぎますね。そしてそれは、EU全体を壊す問題を起こしている。

日本も違った意味で、同じような危うい弱点があると思うのは憲法9条の愚かなる平和主義です。これが日本人の心を縛っています。とんでもない禍に転換する恐れがある。

みんな軽く考えていますが、北の核は脅威ですよ。4月号の『正論』に、私は「覚悟なき経済制裁の危険」という論文を出しました。経済制裁というのは宣戦布告ということと同じです。第二次世界大戦の直前に、アメリカに経済封鎖されたことは宣戦布告されたのと同じなんだと我々は言い続けてきたのではありませんか。同じことを、我々は北朝鮮に対してすでにやっているのではないですか。

しかもアメリカはそう言って遠くから見ていられますが、日本はすぐ目の前にある島国なんです。ミサイルが飛んで来ても文句が言えない。日本が先に手を出しているのですから。日本人は何を考えているのか。一瞬のうちに、東京のど真ん中に一千万人が焼尽する核が到着することも明日、起こらないとは言えない。

しかもそれは、アメリカや国連頼みで解決する問題ではないんです。日本人が自分で解決する以外にない問題です。国連なんて何も手伝ってくれません。

私は日本はおかしな国で、ドイツの例のように善意が全部逆になるということを申し上げているのです。自分を罪を犯さない善良の国にしたいと思うことは危険なことなんです。自分は適当に悪いこともしている国だと堂々と言えることが、バランスがとれている常識というものなんです。歴史の悪も肯定しなければいけない。これからも必要があれば危いこともしなければならない。それを全部否定してしまったがゆえに、自己を主張すべきところで主張する青磁政策まで否定してしまう。そうすればドイツの二の舞です。

つづく

月刊Hanada 2016年6月号より

現代世界史放談(四)

日本人の宗教心

 ところで、日本はなぜ神道と仏教なのでしょうか。神道と並べて仏教ですね。儒教ではない。儒教は祖先崇拝という点では関係ありますが、日本人の宗教心に入っていないと思います。儒教は道徳として日本に影響を与えましたが、皇帝制度と科挙のシステムに切り離せないほど繋がっています。韓国は儒教なのです。朱子学のイデオロギーであのようになってしまいます。

 日本は儒教を本格的には受け容れませんでした。天皇をずっといただいていますし、王様が二人居続けられた国なので世界に理解されなかったのですが、日本人が心のバランスをとるうえで良かったと思います。つまり、遠いところにある見えない神・仏様と、生き神様である天皇と、すなわち超越神、二神をいただくことで自在に生きることができたということです。

 仏教は本格的に日本人の心に入っていて、日本の宗教心理の根底を形作りました。神道は超越神を持ちませんが、仏教がそれを与えてくれて、二神をいただくことをもって日本人はバランスをとってきたのです。

 日本人はなぜ仏教には抵抗がなかったのか、ということもついでだから考えておきましょう。神道に抵抗がないのは分かりますが、日本人は仏教以外の外来宗教はほとんど受け入れていません。ユダヤ教もキリスト教もイスラム教もヒンズー教も韓国儒教も、いわゆる原理主義的な宗教を日本人は受け入れません。

 しかし仏教は受け入れました。しかも日本仏教は久しく発展し、独自の展開を遂げました。民族の心の深いところにフィットしたのです。なぜかというと、それぞれの宗教は皆、後ろに政治文化を抱えています。たとえば、儒教は皇帝制度と科挙のシステムを抱えている。ヒンズー教も同様で、インドの社会風俗や生活思想を抱えています。ユダヤ教やキリスト教はさらにそうです。西欧の政治や哲学の一大観念体系を突きつけてきます。

 そういうものと何の関係もない仏教。後ろに何もついていない仏教。無なのです。それが日本の神道と組み合わせしやすかった。日本人の心が無であるということと、深く関係があるのです。

 キリスト教と仏教は、ともに普遍宗教ですが、どちらもそれぞれが生まれ育った土地でどうであったかということが日本に関係ある。仏教はインドの地で徹底的な展開を遂げました。思想展開は小乗仏教、大乗仏教、密教に至るまで。そして形而上的な理論展開を終えてから、外国に出始めるのです。8世紀の密教に至るまでインドの地で発展を遂げますが、そこで忽然と消えてしまったのです。つまり、本当に消えてなくなってしまいます。

 あるイギリスの植民地主義者がインドに渡ってきて大きな立派なお堂があり、それはブディズムの伽藍だと聞いているが、僧侶一人いないし、仏像もないし、経典もない。忽然と消えたのです。それでは仏教が消えたのかといえばそうではありません。インドの地から消えただけです。

 チベット仏教・ネパール仏教・中国仏教・日本仏教、南にいけばタイなどの南伝仏教。そういうふうに外に展開したのです。キリスト教はどうかというと全く正反対で、イスラエルの地では一切いかなる理論展開もしないで、ローマとビザンチン、西ローマ帝国と東ローマ帝国で初めて展開しました。

 仏教と違って、他の地域に移っていって初めて形而上的・理論的・学問的展開を遂げました。それに比べると仏教は、後ろに何も政治文化がついていないので日本人に受け入れやすかった。遥か西方浄土にいる仏様は、抽象観念として存在し得たのです。

つづく

月刊Hanada 2016年6月号より

現代世界史放談(三)

宗教戦争

 もうひとつ、別のことをお話しします。イスラム教とキリスト教の宗教戦争が続いているという現実です。日本はどちらの宗教にも関係ないのですから口出しをしてはいけません。下手なことを言ってはならない。

 イスラムはオスマン帝国が18世紀の末まで大帝国を築いていて、19世紀の前半くらいまで、ヨーロッパはオスマン帝国に力においてだけでなく、文化においても頭が上がらなかったのです。

 多くの日本人がその歴史の流れを重視していなかったのは、日本での歴史教育が西洋の優位という一点において全て理解されていて、明治の多くの思想家というと、福沢諭吉も岡倉天心も中江兆民も頭のなかが欧米だった。明治維新以降、日本の歴史のなかにイスラムは入ってこなかった。現実は、明治維新の直前までイスラムが世界を支配していたにもかかわらずです。

 アフリカの西からインドネシアの端までイスラム社会が築かれており、それが逆転されたのが18世紀から19世紀へかけてです。代表のオスマン帝国が滅ぼされたのは第一次世界大戦後です。その恨み骨髄に徹しているのがいまのイスラム教徒で、絶対にキリスト教徒を許してはいません。キリスト教徒は敵なのです。いま起こっているのは、そのような流れの下にある宗教戦争です。

 日本の知識人は、イスラム諸国のイスラム教徒は決してテロリストではない、偏見をもたないようにとしきりに論説します。それはそのとおりでしょう。ですが、どこからお金が出ているのでしょうか。イスラム系の大商人から膨大なお金が流れているに決まっています。つまり積年の恨み、イギリス・フランス・ベルギー・ロシア――――皆、宿年の大敵なのです。

 だから私たち日本人は、黙って見ていたらいいのです。下手に口を出してもいいことは何もない。安倍総理は少し喋り過ぎではないでしょうか。私は西欧に味方するなど口先でも言わないほうがいいと思っています。わが国は神道と仏教の国、争いを知らない別の宗教の国なのです。

鎖国の真実

 イスラムと西欧の関係を、わが国を巡るアジアの展望図に投影してみるとどう見えるか。

 イスラムは長年、主役であったのが18世紀の終わりから20世紀はじめ頃までの百年間に逆転してしまって西洋に地位を奪われたのと同じように、シナは長年、覇者と信じていたのに19世紀になって日本に逆転されてしまいました。イスラムと西洋の二つの関係は、中国と日本の関係とパラレルです。この観点は誰も考えてこなかった。

 つまり、今日の中国人のあれほどの政治的な反日感情は昨日今日の話ではない。第二次世界大戦以後のことでもない。イスラムの西洋に対する敗北、劣等感と敵視、それと同じことがシナ大陸とわが国の間に起こっている。韓国もシナ大陸の属国です。こういう発想が日本の外務官僚には全くない。ずっとずっと分かりやすくなると思いますが、日本の歴史教育のなかにもそういう発想が全くない。

 キリスト教の歴史をみていると悪どいもので、たとえば「ジハード」という言葉があります。あれをイスラム教徒の聖戦に当てはめて、一方的な攻撃戦のように言いますが、剣を振りかざして虐殺したのはキリスト教徒で、それを全てイスラム教徒に擦り付けたのではないか。それがジハードです。

 ちょうど日本人虐殺の通州事件を南京虐殺と読み替えて、日本人がやったようにシナ人が擦り付けるのと同じように。世界中でそういうことがやられている。ところが日本人は、そういうことをされても「へへへっ」と笑っているだけで、糞!やられてたまるか、と国を挙げて反発反撃しようともしない。

 シナは自己中心の国で思い込みが激しく、閉ざされた地域です。もともとシナは鎖国文化圏なのですね。鎖国していたという点では、東アジアはどの国も同じです。海禁政策というのですが、江戸の日本だけではなくシナも朝鮮も同じだった。外と交わらず、自分が全ての中心だと思っている。ただ明、清のシナではキリスト教の布教は許されていました。

 明の時代に、マテオ・リッチというイエズス会宣教師が、地球は丸いことを示す大きな地図「坤與万国全図」を初めてシナにもたらしました(1602年)。それは日本にも伝わり、江戸の日本が地球は丸いということを知ったのは、リッチのこの一枚の大きな地図から始まる。
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 マテオ・リッチはシナの知識人に逆らわないようにするため、地図の真ん中にシナ大陸を置いて、ヨーロッパ中心ではない地図を見せました。すると、日本列島も真ん中に来るわけです。太平洋が右側、シナ大陸が左半分にある。

 それを見たシナの知識人の多くは、こんな地図は間違いだ、と言って聞き入れませんでした。地球の四分の三が自分たちの領土と思っていたからです。断固反対した。しかし、日本人は誰もそんなことを言う人はいませんでした。

 その意味で日本人は謙虚で、外から届けられる知識に対して非常に慎ましく対応して、自分を無にする心があると思います。日本人は鎖国していても、心は西洋に向けて開かれていた。鎖国は半ば以上、シナ大陸に対してなされていたのです。シナ人は江戸市中立ち入り禁止だったことはご存知ですか。

 日本人はキリスト教は禁じましたが、西洋の科学は「窮理の学」として早くから学ぶ気構えでした。自分に囚われず、遠い異文明に心を開くのが日本人の常です。これは他のアジア諸国、シナや韓半島とはまるきり違うところでしょう。

 とりわけ、韓国人はシナ人以上に自分が絶対です。滑稽なドラマがあるのはご承知のとおりです。自分のイデオロギーから抜け出ることができない民族なのですから。朴槿恵大統領は、日本の左翼よりももっと歪んだあのようなおかしな歴史観を本気で信じているのです。子供のときから習っている「正しい歴史観」に日本人を変えなければいけない、と本気で信じています。

 「正しい歴史観」とは、あくまで「韓国はえらい」という歴史観です。それに日本は全部従えと言っているだけですからきりがない話で、相手にしてもしょうがないのです。日本国民の多くはやっとそのことが少し解ってきたのですが、外務省だけがまだ分かっていない。何度でも騙される。繰り返し韓国に騙される日本の政治家と官僚群。

 驚くべきことに、最近の韓国国民は、朴槿恵大統領は外交で戦後一番成功を収めている政治家だと信じているそうです。呉善花さんから聞きました。

つづく

月刊Hanada 2016年6月号より

現代世界史放談(二)

中国の魔力

 アヘンを買い続けたシナは、次には支払うべき銀が足りなくなり、国外へ銀が流出して経済破綻します。いまの中国がまさにそれです。ドルがどんどん流出して、外貨準備高は急速に減り続けています。

 話を遡りますと、1990年代初頭、アメリカは日本の経済に敗れた頃、日米構造協議で日本の社長や経営者の財布の中身にまで干渉してきました。小売店を潰して全部大型店舗にしろなどと言われ、地方都市の商店街はシャッター街になってしまいました。勝手に日本型経営の仕方や経済構造、談合、株の持ち合い、終身雇用、年功序列にまで散々に手を突っ込んだのが日米構造協議でした。アメリカの資本主義を正統と見なし、日本のそれを異端とした。正統が異端を裁くのだという異端糾問裁判が、あの日米構造協議です。

 しかし日本側では、外務省も経済界も寂として声を挙げなかった。改革は日本の消費者のためにアメリカが善意でしてくれるのだと頻りに言い、アメリカに右に倣えとすることを国是とした。それは日本を潰せという方針であって、一斉にいろいろやられたわけですが、日本はアメリカの焦りに気がつかず、自分が間違っているように思い込んだ。

 アメリカはメキシコなど様々な国で工場展開をしましたが、うまくいきませんでした。そこで中国大陸の豊富な労働力と広い土地に目をつけると、鄧小平は待っていましたとばかりに税の優遇措置を提言し、積極的に外貨を導入しようとした。つまり、中国の政策の魔力にアメリカは囚われてしまったのです。

 他方、中国はまるで尻に火が点いたように走り出す。それから十年、十五年、その急激な変化は驚くべき速さです。しかし、これは昔のシナと非常によく似ているのです。

 19世紀のはじめ頃、イギリスも貿易赤字で苦しんでいて、清から絹・茶・陶磁器・木綿などを買っていましたが、それに見合うイギリスからの輸出品は毛織物や時計など玩具の類で、そんなものではとても清から物産を輸入できない。そこで、当時の国際通貨が銀だったのでそれを利用しようとしたが、ロンドンから銀を運んだのではなく、植民地インドから清へ銀が支払われました。

 しかしインドにもそんなに銀があるわけではないので、イギリスははじめインドに綿織物を運んでそれを売って得た銀を使って清からお茶を買い入れたが、それでも銀が足りない。

 イギリス人が次に考えたのは、インド人にアヘンを作らせてそれを清に運ぶことでした。清にアヘンがもたらされると、アヘンを吸飲する風習は瞬く間にシナ人の心を捕えて、イギリスは銀の決済をしなくてもアヘンを持って行けばお茶が買えるということで、悪名高い問題が起こるのはそれからあとです。

 ちょうどいまの中国が近代市民生活に憧れて「爆買い」するように、アヘンをどんどん買います。そのため、清にあった銀の保有量が減ってしまい、銀が急速に外に流れ出したのです。ちょうどその時期の中国といまの中国は似ている。

 現代ではアヘンではなくて人民元をどんどん刷っていたわけですけれど、最近、人民元の暴落が身近に迫ってきて、まだ値のあるうちに外貨にこれを替えるべく、国家は西側の有力企業を狙い撃ちして爆買いし、富裕層や中流層まで海外送金に目の色を変えている。

 アメリカや日本は、いま中国にアヘンを売っているわけではありません。しかし、閉鎖的で貧しかった中国13億の民に近代生活の富の味を教えた。かくて中国は毒を食らわば皿までと、金持ちになることに無我夢中になっていたけれど、ここへきていったん握ったカネを失いたくない、とドルや円やユーロにこれを替えようとして、急速に富が外に流出する事態になっているということです。

 歴史は不思議にも同じことを繰り返すものだ、と私はしみじみ思います。

つづく

月刊Hanada 2016年6月号より

現代世界史放談(一)

日米戦争の始まり

昔から欧米がアジアで注目するのはシナであって、日本ではありません。ペリーが来航した頃、蒸気船は存在せず、まだ帆船でした。ペリーは太平洋を横断してきたのではなく、その頃、アフリカ南端の喜望峰を廻って上海に行くのに、ロンドンからとニューヨークからとの二つの航路がありました。面白いことに、ニューヨークからの方が近かったのです。

 それゆえ、1810年代の早い時期に、アメリカの対支貿易はイギリスを凌駕していました。スエズ運河ができたのはやっと明治維新の頃、1869年でした。その頃、蒸気船もできて、イギリスがアメリカを引き離し、焦ったアメリカはパナマ運河の開発を考えるようになります。

 パナマを切り拓くためにはカリブ海を自らのものにしなければならず、そのためにはスペイン勢力を同海域から追い払わなければならない。そこでアメリカは、スペインと戦争を始めるのです。スペインは当時、西太平洋にもまだ力を残していました。アメリカがフィリピンを押さえ、同時にハワイを占領し、スペインを倒した米西戦争(1898年)において、太平洋はスペインの海からアメリカの海になります。実は、これが日米戦争の始まりなのです。

その話をすると切りがありませんが、少なくとも当時のアメリカでは、領土を拡大することを嫌がる勢力が国内にかなりおり、膨張主義者たちはそうした内向きの議会勢力を押さえて太平洋へ出ていくために、スペインのフィリピン領有を否定する理由が必要になっていました。フィリピン自体よりも、さらに西側により強大なアメリカの敵があることを議会で主張せざるを得なかった。その敵というのが日本なのです。当時は日清戦争が終結しており、台湾は日本領でした。

その頃から日本がアメリカの最大の敵だったのかと考えますと、そうは思えません。アメリカは一貫してイギリスと争っていたのです。イギリスをいかにして倒すか。英米は絶え間ない張り合い状態にあった。両国の貿易競争で相克するプロセスのなかに日本があった。英米対立の構図における日米戦争、あるいは大東亜戦争のそういう側面を、戦後すっかり忘れられている問題点として指摘しておきたい。

世界の妄想「シナ幻想」

その頃、シナの人口は6億人くらい、広大な土地と巨大な資源が眠るに違いないと思い込む世界中の妄念があり、いまでもそう思い込むふうがあるらしく、人々は「シナ幻想」に踊っています。

ペリーは何としても太平洋横断航路を作らなければいけない、と海軍省に手紙を出します。シナへの中継地として日本が必要であると考え、小笠原諸島を狙います。

しかし小笠原はすでにイギリスが手を付けていて、ここでも英米はぶつかります。このようにシナが本命で、日本は中継地として重要だったにすぎません。でもその力学がずっと働いていて、「シナ幻想」が世界を覆っているからこそ、いまでもシナに「大甘」なのです。

白人は、習近平のような男が居座っているのが異常だと思わないようです。スターリンやヒトラーであれほど苦しんだはずではないかと言いたい。習近平のシナは、明らかにあのスターリン型の独裁国家に急速に変貌しているにもかかわらず、暢気でぼんやりしているのが西側諸国であり、日本政府も共産社会の克服の問題については強いことは言わない。

1992年の「南巡講話」から始まったシナの改革開放路線が生産力を高めて国家的台頭を示したのには、けっして遠い、長い歴史があるわけではありません。この約十年かそこらではないか。実は5年くらいではないかとも思えてなりません。そしていま、急速に峠を越えつつあります。

現代は、アメリカが日本と一緒になってシナ大陸にアヘン戦争を仕掛けていると私は思っています。意外な観点と思われるかもしれません。

21世紀のアヘンは、中国人にとって近代生活の富ときらびやかな便利さなのです。想像もつかないスピードで、中国人は浮かれ出したではありませんか。アヘンに溺れたのとよく似ています。2000年はじめ頃、中国はまだ貧しい、穏和しい国でしたが突然、強気になり出した。日本とアメリカの投資で膨れ上がったからです。それを「自分の力」と錯覚してどんどん借財を作り、自転車操業を繰り返すことによって力を経済的に外にも高めることだけに意を注ぎ、架空の力でここまできているのではないでしょうか。

つづく

月刊Hanada 2016年6月号より

オバマ広島訪問と「人類」の概念(五)

従兄の死と従姉の手紙

 さて、こういう新しい局面で、大統領候補から日本の核武装と北朝鮮の各脅威があらためて打ち出されている折も折、オバマ大統領の広島訪問が人類の未来のための「歴史的決断」であるというのは、いったいどういうことを意味するのでしょう。新聞・テレビ等のオバマ歓迎の浮ついた風潮は、私たち日本人のあの一種の知覚の欠陥に由来する面があるのではないでしょうか。

 原爆碑に刻まれた「安らかに眠って下さい 過ちは繰返しませぬから」の例の問題性を、ここであらためて吟味する必要があります。

 「過ちは繰返しませぬ」の主語は誰なのか。主語を曖昧化した当時の日本人の本能は、単なる対米恐怖からきた自己回避なのか、何か日本の伝統のなかにある外の世界への依存心理と救済心理に、あの知覚の欠陥が混じり合って特殊に異様な何かが醸し出された結果なのか、検討してみる価値はありましょう。

 敗戦の年の日本の学校は、全国を通して夏休みがありませんでした。長崎医大の学生だった私の従兄はたまたま四国の実家に戻っていましたが、謹厳な性格の叔父が、学校があるなら長崎に帰れ、と言ったばかりに原爆にぶつかってしまいます。帰らなければ良かったのだと後日、叔母はかきくどきました。私の母の妹で、母をいつもお姉(あね)さんと呼んでいました。私は子供の頃、母の前で安心して叔母が全身を震わせ、思う存分に泣いている姿を何度も見ました。

 いまは遠い日の幻のようにしか思い出せない情景ですが、今回はその話を書くのではありません。従兄には妹がいて、私より四歳年上のこの従姉はまだ健在で、戦後を私たちは同じ思い出のなかに生きていました。死んだ従兄の素晴らしさも、叔母の無念も、共通の話題でした。叔母はなぜか洗礼を受けて、クリスチャンになりました。従姉と私は戦争の時の生活上の数々の話題を取り交わしていましたし、戦争について語り合うのはあの世代の者にはごく普通の当たり前のことでした。

 ある日、私は原爆投下のアメリカの意図、日本人を実験動物扱いした冷酷さについて従姉に語りました。「わたしの昭和史」(改題『少年記』)を雑誌に連載していた頃のことです。そして、戦時中の一枚の写真を見せました。若いアメリカ娘の前に前線からプレゼントされた日本兵の髑髏(しゃれこうべ)が置いてある、たしか、『LIFE』誌か何かに載ったショッキングな写真だった覚えがあります。

 間もなく、従姉から短い手紙が来ました。自分は平凡な主婦で、何も分からないし、何も考えていない、と。もうこれ以上、話題を持って来ないでほしいという意味だろう、と私は理解しました。

 この一家に従兄の死への深い悲しみがあったことは紛れもありませんが、どういうわけか死をもたらした相手国への敵意や憎しみはあまり強くなかったように思います。想像するだに恐ろしく、考えたくなかったのかもしれません。戦災を受けた日本の多くの家庭がそうであったように、原爆や空襲は自然災害のようなものとして受け止めるしか術がなかったのかもしれません。じっと怯えて時の過ぎるのを待つしかない。悪いのは、むしろ災いをもたらした日本の責任者です。心の奥で微妙な摩り替えが起こります。自然災害には怒りの向けようがなく、行政の不備にだけは文句が言えるのと同じです。

「真の世界」を探す日本人

 従姉の娘の一人は英語が良くでき、大学を卒業して、アメリカ大使館に勤務しました。戦前にキリスト教に縁のなかった叔母が、息子の原爆死以来、教会に通うようになり、洗礼を受けて熱心な信者になりました。これもなぜなのか、いまもって私には分かりません。

 原爆を落とした相手国への敵意や憎しみに心の焦点が結ばれないのは、すぐれて日本的な現象のように思えてなりません。

 話は変わりますが、日本人にはもともと国内にではなく、遠い目に見えない広い場所に「真の世界」を尋ね探したいという根源的な願望が大昔からあったように思えています。島国のせいでしょうか。原因は分かりません。自国中心にものを考えない習性に繋がっているようです。

 どこか遥か遠い処に、「日本の仏」を超える本物の仏が実在するに違いないという強い思いは、人々の心を西方浄土へと誘いました。平安末期から中世にかけては殊にそうでした。その際、自分の国は末法辺土の悪国であるとする否定的な自己認識が、一方で人々の内心に渦巻いていました。

 日本は釈迦の生まれたインドから遥かに離れた粟粒のごとき辺境の小島にすぎない、本物は日本には存在しないのだ、と。

 「真の世界」は日本人には辿り着けない遠い処にあるという意識は、時代が変わってもやはり変わらないで続いたようです。江戸時代になると儒学が主流となりますが、ここでも本物は中国にあり、わが国には聖人は生まれない、と。

 明治になると周知のとおり、それがヨーロッパに入れ替わりました。しかし、つねに理想を外にのみ求める単調さに疑問も生まれ、わが身、わが歴史に立ち還り、反動的に「真の世界」を自国にのみ求めて外に求めないという、本居宣長のような強い孤独者の思想も、一方ではつねに繰り返し登場しました。

 外の世界が美しい言葉で彩られ、日本人が理想とする方向に何となく沿うているとみられる場合には、この外の世界を拒絶して「真の世界」を自国に求めることは心的エネルギーを要し、一般の日本人にはまず無理です。

 真面目で、勤勉で、良識もあり、知能も高い日本人、つまり最良に属する普通の日本人が、自由とか平等とかヒューマニズムを表看板にして流通している外国のウラのある価値観にやすやすと瞞されるのを見るのは驚きですが、しかしそれが現実であり、平均上の日本人は、あえて言っておきますが、これら安っぽい正義を心底から信じているのです。彼らグローバリズムを良いことだと思っている。そして、ナショナリズムはできれば避けるべき悪だと思っている。

 グローバリズムは国際的で、先進的で、外の広い「真の世界」に繋がっている善の代名詞です。昔は、日本は遅れているから進んでいる世界に自分を合わせなさいと言われたものですが、いまは日本は閉ざされているから開かれた世界に合わせなさい、と言うようになっている。

 そして、それを20世紀に入って「グローバリズム」という表記に変えたのです。言葉は変わっても内容の空疎なること、単なる抽象語であることに変わりはありません。自国中心のものの見方を軽蔑する〝対日叱り言葉″であり続けている。外から叱られるのが何より日本人は怖いから、こういう美しい言葉に呪縛されたようになってしまうのです。私が繰り返し言ってきた、国の外を見るときの知覚の欠陥はこのときに生じます。高学歴の著名な学者知識人に、むしろ強く現れることもある疾病です。

 あの戦争は日本が仕掛けた、という思い込みが頭の奥深くに刷り込まれていて、欧米の太平洋侵略の三百年の歴史をいくら説明しても、そしてそれを知的にかなり正確に理解しても、あの戦争は欧米が仕掛けたとの断案を下すことだけはどうしてもできない人が圧倒的に多い。これはレーヴィットが取り上げた数学者・K氏とは時代が違うので逆の構図になりますが、しかし日本人に特有の「単純さ」という点ではまったく同じなのです。

原爆碑の根深い問題

 人は小さな侮辱には立腹し、反逆することはできますが、息の根を止められるような大きな侮辱に対してはものが言えなくなり、与えられた決定に対してひたすら従順になるものです。広島の原爆碑に書かれた「安らかに眠って下さい 過ちは繰返しませぬから」は案外に根の深い問題なのです。「繰返させませぬから」でなくてはならない、と時間が経つにつれ、次第に気がつく人が増えて、主語が誰なのかが大騒ぎになりました。

 広島市は昭和58年に、主語は人類であって「全人類が悲しみに堪え憎しみを乗り越えて」の意味であるとわざわざパネルを張って、数ヵ国で提示しました。いかにも苦しい弁解、言い遁れに見えますが、多分、半分は本音だったのでしょう。

 原爆碑の建てられた昭和27年には、「過ちは繰返しませぬから」の主語は日本でした。日本が戦争を引き起こした張本人でした。悪いのは日本であって、旧敵国を本能的に念頭から消していました。しかし時間が経つうちに、その不自然と無理に気がついて批判や論争も起こり、まずいなと思ったかどうか分かりませんが、パネルを掲示したのです。

 そのとき、本能的に「全人類」を主語に仕立てたのはなぜか。「全人類が過ちは繰返しませぬから」と切り替え、自分を一段高い所に置いて、遥か遠い外の世界で自分を救済するために人類を「真の世界」に設定するという日本人本来の伝統にしたがうスタイルで、自分を誤魔化す自己欺瞞に走ったのではないか。

 ここには、遠い外の世界に対する昔からの依存心理と救済心理が働いていました。外を見る知覚の欠陥が微妙に紛れ込んでくる瞬間です。

 オバマ大統領の広島での祈りに、再び「人類」が名乗りを上げています。「人類」の名において大統領が祈るのに合わせて、われわれ被害国も恩讐の彼方に自分を高めて生きよう、と新聞・テレビが一斉に叫ぶたびに、私は静かに首を横に振ります。叔母や従姉がそういった白々しい大義で70年を生きたとは、到底思えないからです。

Hanada-2016年7月号より

オバマ広島訪問と「人類」の概念(四)

トランプはオバマと同じ

 11月の大統領選共和党候補トランプが声を大にして言い立ててきた外交戦略は、オバマがやってきた戦線縮小と、つまるところまったく同じです。同盟国により多くの責任と負担を押し付け、アメリカ一国の守りを固めようとする。ただオバマはそうはっきり明言しなかっただけです。勢いの赴くところ、トランプは日本と韓国の核武装の容認まで言い出した点に違いがあり、施政方針はどちらも同じで、論理的にはっきりさせたトランプのほうがずっと筋が通っています。

 アメリカの軍事予算大幅削減はけっきょく、誰が大統領になっても避けられない必然の方向なのでありましょう。日本の自主防衛への覚悟は強まらざるを得ず、日本の軍事大国化を恐れるアメリカの「ビンの蓋論」は勢いを失うでしょう。中国の強大化を抑えるためにも、アメリカのご都合主義は自己保存のために日本の「大国化」」を必要とするでしょう。

 戦後70年の次のメドは戦後百年となります。いくら何でも、もう「戦後」は使えません。これから30年かけて、わが国はようやくアメリカの桎梏を離れるのです。トランプが大統領になるかならぬかは別にして、彼のあの声明は利用価値があります。

トランプが、アメリカに日本は防衛費を支払えと言うのなら、一兆ドルにも及ぶ米国債の利息を払ってもらいましょう。全国で133か所の米軍基地(施設・区域)を徐々に撤廃してもらいましょう。自衛隊の装備品の米以外からの購入の自由と武器の自主開発の拡大を可能にしてもらいましょう。日本製の大型旅客機も自由に造れるようにしましょう。いちいちアメリカの意向に日本の金融政策を合わせなくてもいいことにしましょう。貿易決済の円建てをどんどん実行していきましょう。

 トランプはあまりにも無知で、アメリカの対日防衛費の何十倍の利益を日本からアメリカが得てきたことを彼は知らないのです。

つづく

Hanada-2016年7月号より

オバマ広島訪問と「人類」の概念(三)

日本人の世界を見る盲目性

 外の世界を見る日本人の眼に、良くいえばある甘さ、悪くいえば黒幕のかかったような外光拒否の盲目性があるのではないか、と思わせることは他にも多々あり、敏感な外国人がときどき気がつき、指摘してくれます。

 昭和11年にユダヤ系の哲学者、カール・レーヴィットが日本に亡命し、東北大学で教鞭をとりました。有名な哲学者で、戦後よく読まれ、翻訳本も多く出ています。

 レーヴィットは日本に来る前に、ある日本人数学者と知り合いになっていました。仮にK氏と名づけておきます。K氏から、ドイツ語で書いた論文の文章を修正してもらえないかと頼まれました。外国語で論文を出すときには誰でも必ず現地の人に見てもらいますから、これはごく普通の依頼です。

 K氏は、ドイツで刊行される数学の専門書に参加するようドイツ人同僚から誘われていたのです。その専門書にはドイツ人、イタリア人、日本人の数学者がそれぞれ一篇ずつ論文を寄稿することになっていて、K氏は共著に誘われたことを非常に名誉と感じていました。

 そこで自分の論文に序言をつけ、「3人の数学者の協力は日独伊の間の政治的三角形を学問の側からも補強するようなものにしていきたい」との希望を表明していました。そして序で、アインシュタインに対する自分の最高の尊敬の意を申し添え、序言の結びに、文章の修正を助けてくれたレーヴィットへの謝辞も付け加えてありました。K氏は、レーヴィットがユダヤ人であることを知っていました。

 これを読んだレーヴィットは

「わたしの名前は消した方がよいこと、アインシュタインについてのあなたの文を印刷すれば、あなたのドイツ人の同僚にかなり厄介なことがもちあがるであろうこと、この2点をわかってもらおうと私がやってみたとき、悪意のないこの人の理解力は突然に停止してしまった」(カール・レーヴィット『ナチズムと私の生活』秋間実訳、法政大学出版局)

 K氏は、思ってもいなかったことを言われたときに人が呆然自失するあの心境のなかに突如、置かれたのでした。アインシュタインがユダヤ人で、もうドイツで教鞭をとっていないことはすでに知られていました。

 しかし数学のなかで暮らしていた彼には、アインシュタインの名前が当時のドイツで現実にどういう意味をもっているかを、一度もはっきり理解しようとしたことはありませんでした。それほどに自分の専門の外に出ようとしない人なのに、何ということでしょう!日本の目指す東アジアの新秩序に、深い理解を持つ国がドイツとイタリアであるということだけは新聞から読み取っていて、心から共感していました。

 当時の日本の知識人の世界理解はおおむねこの程度であった、とレーヴィットは言うのです。彼は「ある日本的な単純さ」と呼んでいます。

ドイツに利用された日本

 この逸話は、私にはとても示唆的に見えます。当時もいまも、日本人の世界を見る眼は多かれ少なかれ、数学者・K氏の「単純さ」を引き継いでいる処があるように思えてなりません。日本が盲目的に戦争に突入したのも、戦争が終わったら今度は亀の甲に首を引込めるように自閉的になってしまったのも、どちらもK氏の「単純さ」のようなものが日本の政治を動かしてきた結果ではないでしょうか。

 なにも数学者だからかくも非現実的なのではありません。日本が日独伊三国同盟を結んだとき、ドイツはすでに忍び寄る敗色を漂わせていました。往時の日本外交の拙劣さは、外の世界のさまざまな差異、対立、力点が見えなかったこと、無差別で見境いがなかったことに尽きるように思えます。米英両国は永い間、日本をヨーロッパ政局とは切り離し、別扱いにしていました。

 日本がドイツと盟約を結んで以来、態度を急変させ、もうその後、いかなる交渉を求めても、ハル・ノートまで一直線に進んだのです。そのドイツは日本を尊敬していたのではなく、太平洋で米国と戦わせ、ヨーロッパ戦線でのドイツの負担の軽減を狙っていたに過ぎません。日本は、追い詰められていたドイツに利用されただけの話です。

 ところが日本の政治は、この現代においてなおK氏のいわゆる「単純さ」をほとんど克服していないように思えてなりません。

 どういうわけか日本人は、「非政治的」であることを自己の美点の一つのように思いなす弊があります。人前で政治信条を表明することは野暮ったいことで、日常会話から外し、中立、不偏不党であることを知的優越のように思いなしがちです。会社で政治上の論争はほとんどしません。これは動乱の時代にかえって人を危うくし、国家の方針を狂わせます。

 アメリカのオバマ大統領が広島を初訪問することに決した、と報じられました。日本では早速、「歴史的決断」とこれを評価し、核兵器のない時代に一歩でも近づく世紀のセレモニーを唯一の被爆国の名誉にかけて成功させなければならない等といいます。新聞は、日米関係はこれをもって新段階に入ったとはしゃぎ気味です。

 オバマ大統領の八年間の評価は低く、現在の世界の不安定の相当程度に彼の無能に原因があります。何といっても同盟国を軽視し、仮想敵国に融和を図るその腰のぐらつきは困ったもので、日本、イスラエル、トルコ、サウジアラビア等をいたく不安がらせました。

 対米不信はさらに広がり、イギリス、ドイツ、韓国を習近平のシナ帝国に走らせ、オーストラリアもその意向を迎えて日本の潜水艦を買わぬこととし、南シナ海で短刀(ドス)で脅かされているに等しいフィリピンまでが、親中派新大統領を選びました。アメリカの嫌がる安倍総理のロシアへの接近も、親米一辺倒の昔の自民党なら考えられぬことです。

つづく

Hanada-2016年7月号より

オバマ広島訪問と「人類」の概念(二)

戦後を代表する評論家の嘘

 加藤周一といえばすでに他界されて久しく、死者に鞭打つつもりはありませんが、戦後を代表する最も知的な評論家として国語の教科書にも掲載され、高い評価を得ている人です。ベルリンの壁が落ち、ソ連が消滅した冷戦の終結時に、共産主義をなんとなく応援していた人はあれこれいろんなことを言ったものです。加藤氏も「資本主義が勝ち、社会主義が失敗したわけではないと弁明し、「解体しつつあるのは、スターリン型の社会主義である」と限定し、その後、とんでもない発言をしているのです。

 「政治的には政権交代の制度化において、あきらかに西欧や北米が先行し、ソ連・東欧・中国・日本がはるかに後れていた。ソ連や東欧は今その後れをとりもどそうとしているが、東北アジアの将来は、あきらかでない。1990年1月現在の日中両国には、一党支配が続いている」(連載「夕陽妄語」『朝日新聞』1990年1月22日)

 これも「体制の相違」ということがまったく分かっていないか、または分かっていないふりをして日本の政治を嘲弄しようとしているのです。私は反対意見として、次のひとことを呈しておきました。

 「日本と中国の『一党支配』が原理を異とする、別次元の性格のものであり、この点で氏のように、『ソ連・東欧・中国・日本』と並べるわけにいかないことは、加藤氏よ、13歳の中学生でも弁えている現実である。かつて知性派と目された評論家が、こういう子供っぽい出鱈目を書いてはいけない」(「ロシア革命、この大いなる無駄の罪と罰」『新潮45』1990年3月号)

 この時点で、加藤氏はもちろんご存命でした。

 加藤氏の間違いは、議会制民主主義の上に成り立つ西欧の民主社会主義と一党独裁と私有財産権否定のソ連・東欧・中国のマルクス=レーニン主義とは似て非なるものであり、」完全に原理を異とした別個の体制であって、両者の間に明確な一線を引かなくてはいけない、という最も初歩的な「体制の相違」という観点を曖昧に誤魔化していることです。

 そして、後者が完全に破産していること――すなわちロシア革命の失敗!――から目を逸らすために、西欧の民主社会主義にあくまで「本物の社会主義」を追い求めることで、マルクス=レーニン主義を救えるかのような、少なくともこれを奈落につき落とさないでも済むかのような幻想に取り縋っていたことです。

 いまの日本ではようやくそういう幻想は消えたかもしれませんが、習近平の中国が克服さるべき「スターリン型の社会主義」であることは、どこまで明敏に意識されているでしょうか。「日中両国の一党支配」を一つに見立てるというような、国民の99%が首を傾けるに違いない言葉が大新聞の文化欄に載ったのも、日本人に特有の知覚の欠陥に由来することでなくて何でありましょう。

つづく

Hanada-2016年7月号より

オバマ広島訪問と「人類」の概念(一)

(一)

わが目を疑った新聞記事

 日本人が外の世界を見る眼には、一種の知覚の欠陥に由来するような何かがあるのではないかと思うことが何度もあります。そういえば、日本人を褒めるのがやたら流行っている昨今の情勢では、何を?と目を剥いて叱られそうな雲行きです。

 で、はっきり証拠の出ている少し以前の話を致します。2002年9月の小泉首相の電撃訪朝により、同年10月15日に蓮池さん、地村さん、曽我さんが帰国され、彼らを北朝鮮にいったん戻すか否か、彼らの子供の帰国をどうするか等がしきりに論じられたときのことです。

 まずは、2002年10月末から11月にかけてのお馴染みの朝日新聞投書欄「声」からです。

「じっくり時間をかけ、両国を自由に往来できるようにして、子どもと将来について相談できる環境をつくるのが大切なのではないでしょうか。子どもたちに逆拉致のような苦しみとならぬよう最大限の配慮が約束されて、初めて心から帰国が喜べると思うのですが」(10月24日)

「彼らの日朝間の自由往来を要求してはどうか。来日したい時に来日することができれば、何回か日朝間を往復するうちにどちらを生活の本拠とするかを判断できるだろう」(同25日)

 そもそもこういうことが簡単にできない相手国だから苦労していたのではないでしょうか。日本政府が五人をもう北朝鮮には戻さないと決定した件については、次のようなオピニオンが載っていました。

 「24年の歳月で築かれた人間関係や友情を、考える間もなく突然捨てるのである。いくら故郷への帰国であれ大きな衝撃に違いない」(同26日)

「ご家族を思った時、乱暴な処置ではないでしょうか。また、北朝鮮に行かせてあげて、連日の報道疲れを休め、ご家族で話し合う時間を持っていただいてもよいと思います」(同27日)

 ことに次の一文を呼んだときに、現実からのあまりの外れ方にわが目を疑う思いでした。

「今回の政府の決定は、本人の意向を踏まえたものと言えず、明白な憲法違反だからである。・・・・憲法22条は『何人も、公共の福祉に反しない限り、居住、移転及び職業選択の自由を有する。何人も、外国に移住し、又は国籍を離脱する自由を侵されない』と明記している。・・・・拉致被害者にも、この居住の自由が保障されるべきことは言うまでもない。それを『政府方針』の名の下に、勝手に奪うことがどうして許されるのか」(同29日)

 常識あるいまの読者は、朝日新聞がなぜこんなわざとらしい投書を相次いで載せたのか不思議に思うでしょう。あの国に通用しない内容であることは、おそらく新聞社側も知っているはずです。承知でレベル以下の幼い空論、編集者の作文かと疑わせる文章を毎日のように載せ続けていました。

 そこに新聞社の下心があります。やがて被害者の親子離れが問題となり、世論が割れた頃合を見計らって、投書の内容は社説となり、北朝鮮政府を同情的に理解する社論が展開されるという手筈になるのでした。朝日新聞が再三やってきたことでした。

 何かというと日本の植民地統治時代の罪を持ちだし、拉致の犯罪性を薄めようとするのも同紙のほぼ常套のやり方でした。

 それにしても、いったいどうしてこれほどまでに人を食ったような言論が、わが国では堂々と罷り通っていたのでしょうか。「体制の相違」ということをはなから無視しています。五人の拉致被害者をいったん北朝鮮へ戻すのが正しい対応だという意見は、朝日の「声」だけでなく、マスコミの至る処に存在しました。

犯罪国の言い分を認める

 

「どこでどのようにして生きるかを選ぶのは本人であって、それを自由に選べ、また変更できる状況を作り出すことこそ大事なのでは」(『毎日新聞』12月1日)

 と書いたのは、作家の高樹のぶ子氏でした。彼女は

「被害者を二カ月に一度帰国させる約束をとりつけよ」

などと、相手をまるでフランスかイギリスのような国と思っている能天気は発言をぶちあげています。彼女は

「北朝鮮から『約束を破った』と言われる一連のやり方には納得がいかない」

と、拉致という犯罪国の言い分に理を認め、五人を戻さないことで

「外から見た日本はまことに情緒的で傲慢、信用ならない子供のように見えるに違いない」

とまでのおっしゃるようであります。

 この最後の一文に毎日新聞編集委員の岸井成格氏が感動し(『毎日新聞』12月3日)、一日朝のTBS系テレビで

「被害者五人をいったん北朝鮮に戻すべきです」

と持論を主張してきたと報告します。同じ発言は評論家の木元教子さん(『読売新聞』10月31日)にもあり、民主党の石井一副代表も

「日本政府のやり方は間違っている。私なら『一度帰り、一ヵ月後に家族全部を連れて帰って来い』と言う」(『産経新聞』11月21日)

と、まるであの国が何でも許してくれる自由の国であるかのような言い方をなさっている。

 一体、どうしてこんな言い方があちこちで罷り通っていたのでしょう。五人と子供たちを切り離したのは日本政府の決定だという誤解が、以上見てきた一定方向のマスコミを蔽っています。

 「体制の相違」という初歩的認識が、彼らには完全に欠けています。

 日本を知り、北朝鮮を外から見てしまった五人は、もはや元の北朝鮮公民ではありません。北へ戻れば、二度と日本へ帰れないでしょう。強制収容所へ入れられるかもしれません。過酷な運命が待っていましょう。そのことを知って一番恐怖しているのは、ほかならぬ彼ら五人だという明白な証拠があります。

 彼らは帰国後、北にすぐ戻る素振りをみせていました。政治的に用心深い安全な発言を繰り返していたのはそのためです。日本政府は自分たちを助けないかもしれない、とずっと考えていたふしがあります。北へ送還するかもしれない、との不安に怯えていたからなのです。

 日本政府が永住帰国を決定した前後から、五人は「もう北へ戻りたくない」「日本で家族に会いたい」と言い出すようになりました。安心したからです。政府決定でようやく不安が消えたからなのでした。これが、「全体主義国家」とわれわれの側にある普通の国との間の「埋められぬ断層」の心理現実です。

 五人の親だけを帰国させたのは、子供を外交カードに使う北の最初からの謀略でした。蓮池さんや地村さんに子供を日本に連れて行ってもいい、と向こうの当局が言ったという話がありますが、彼ら両夫妻がきっぱり断ったそうです。もし連れて行きたい、と喜んで申し出を受け入れれば、その瞬間に忠誠心を疑われ、申し出を受けた夫妻の日本行きは中止となる、と彼らはそのときに直観したというのです。それほど徹底して異質な社会なのです。

 あの国の政府が何かをしてよいと言っても表と裏があり、それを安直に信じるわけにはいきません。筋金入りの朝鮮労働党の信奉者を演じきることのできる心理洞察力の持ち主だったから、彼らに帰国のチャンスがあり得たのでした。

 日本では小説家や評論家のような立場の人に、国家犯罪とか全体主義体制の悪とかについての認識があまりに低く、ナイーヴであり過ぎるのが私にはまことに不可解であります。スパイ養成を国家目的としている国の心理のウラも読めないで、よく小説家や評論家の看板をはっていられるものと思います。

 「朝日」や「毎日」がおかしいというのはたしかですが、それだけではない、ここまでくると日本人そのものがおかしいのではないか、とつい思わざるを得ません。

 これらの言葉を当時、私はむろん否定的に読んでいましたが、読者としてまともに付き合っていたのであって、狂気扱いはしていません。現実の国際的常識から外れていて変だとは思いましたが――だから念のために記録しておいたのです。しかし、いまからみれば私だけではない、「朝日」の記者だって自分たちが作っていた言葉の世界が精神的に正気でなかったと考えざるを得ないでしょう。

 日本人は自国の外を見るとき、やはりどこか知覚に欠陥があるのではないでしょうか。

月刊Hanada―2016年7月号より

つづく