「見直し進む対外歴史研究・江戸時代は本当に鎖国か?」「幕府は最初から鎖国を意図していたわけではない。そんな状態がたまたま200年程続いた。何となく鎖国だったのだ」東大教授 藤田覚氏。私もその通りだと思います。
大石慎三郎先生という江戸時代の大家の方は、「鎖国後のほうがその前より我が国の対外貿易額が増えている。密度の程度は様々だけれど、国家というのはどんな時代でも必ず対外管理体制というものをとるものなのだ。鎖国と称せられる現象は世界史のしがらみから日本が離れたということではなく、圧倒的な西洋の軍事力や文明力の落差のもとで日本が自分を主体的に守る政策であった。それが海禁政策で、つまり鎖国とは鎖国という方法手段による我が国の世界への開国であったとすべきであろう。従って寛永の鎖国こそが日本の世界への第一次開国であり、ゆっくりゆっくり世界の動向に日本が自分を合わせるために余計なところに行ってはいけない。どんどん入れたりするな。ただし貿易は政府がやるからみんな黙っていろ・・・。というのが江戸時代の考え方であってそれは第一次開国であったと。そして世に開国と言われている安政の開港は江戸という時代の訓練を経た我が国の第二次開国であると。明治の開国は第二次開国なのだと。すでに鎖国と呼ばれているものはある種の開国であった・・・」今まで私の書いた鎖国論もこの観点に立っています。朝日新聞のインターネットなどにもありましたか? 「江戸時代は本当に鎖国か? 見直しする対外歴史研究」江戸時代は鎖国といっても意図的、政策的なものは無かった、ということですね。
でもねぇ・・・。鎖国はあったんだよ。(笑)私は10世紀から鎖国だったと思っています。そういう観点を入れてみる必要があります。10世紀というと唐の崩壊です。そこで東アジアは国際社会ではなくなるのです。それまでは唐を中心とした渤海国とか高麗国などの国際秩序がありました。そして正月一回、宮廷を中心とした大式典がありました。シナで行われ、日本の朝廷でも行われ、そして使節を呼ぶのです。日本からは空海や最澄が行ったりしています。そして皇帝の前で平伏す。「元会儀礼」といいます。素晴らしい壮麗なる儀式をやる。それに負けてはいけないと日本の朝廷もまた元会をやる。そういう華やかな記録が全部残っています。歌舞音曲を伴い、たくさんの人を集めます。それは国際的な「礼」の競争、ある種の戦争であって、国際的な競い合いだったのです。「俺のところはこれだけ立派にやっているが、お前のところはどうだ? 日本もなかなかやるじゃないか」というように各国から使節を呼んで行っていた。
しかし唐が崩壊したら止めてしまったのです。いっぺんにではなく、だんだんやらなくなる。つまり張り合う必要が無くなってしまったのです。東アジアに国際社会が無くなってしまったのです。すると同時に日本は何をしたかというと、朝廷というものが二次的になってしまう。天皇が権力を失うのです。それから何が出てきたかというと、天皇の権力というものが宗教化してゆき、ご存知のとおり上皇が出てきて、院政が出てきて、武士階級が出てきて、というご存知のとおりの日本の歴史の展開となってゆきます。ということは、これは文字通り鎖国ではないでしょうか? つまり「朝廷を柱にして、それを前面に押し立てて世界に面と向かってゆく」という国威発揚の意識が要らなくなったのです。天皇はもう顔ではない。後ろのほうに隠しておいて祭主のようになってゆくわけです。これが何を意味するかというと、鎖国ではないでしょうか・・・。だってその後ずうっと戦争も外交も殆ど無いではないですか? なにも江戸時代になってからの話ではありません。ずうっと何も無いではないですか? 確かに17世紀には南蛮が入ってきます。しかしそれもそれほど危険でも怖かったわけでもありませんでした。ですから日本は10世紀からある意味で鎖国をしていたのです。私はそういう見方もあると言っているのです。加えて江戸時代における鎖国があったかどうかという問題について、これは16世紀~19世紀という、歴史の展開を見ないと言えないのです。今日はこれからそのお話しをします。
16、17世紀と18世紀はガラリと対外関係が変わります。まず16世紀から17世紀を以下年代記風にまとめてみます。
【16、17世紀】
1511年 ポルトガル、マラッカ海峡制圧
1521年 マゼラン、フィリピンに到着
1543年 種子島に鉄砲伝来
1577年から1580年 英人ドレイク、世界一周に成功
1580年 ポルトガル、スペインに併合される。この頃、オランダが登場し、イギリスをまじえてアジアの海は騒然としてくる。
1581年 ロシアのコサック兵団、西部シベリアに侵入。
1590年 秀吉の天下統一
1596年 オランダの商船隊、ジャワに到着。
1600年 イギリス東インド会社設立。オランダ船リーフデ号、大分の海岸に到着。英人ウイリアム・アダムス(三浦按針)が乗っている。
1602年 オランダ東インド会社設立
1603年 徳川幕海幕
1623年 アンボイナ事件(英人と日本人がオランダ人に虐殺される。)
1632年 台湾事件(末次平蔵、濱田彌兵衛の活躍)
1635年 幕府、日本人の海外渡航を禁じ、所謂「海禁」政策発足。翌年出島完成。
1640年 ロシア、ヤクーツクにバイカル湖以東の侵略策源地を定める。
1641年 オランダ、ジャワとその周辺諸島の決定的支配権を握る
1651年 ロシア、イルクーツク市を創設
1655年 鄭成功の西太平洋における海軍勢力(艦船1,000隻、兵力10万)最高潮になる。
1681年 鄭、海戦に敗れ、ヨーロッパが世界の海のほぼ全域を監視対象にすることとなる。
1689年 露清間にネルチンスク条約
1698年 ロシアによるカムチャッカ半島の初探検が行われる
1623年のアンボイナ事件というのは、オランダがイギリス人と日本人を虐殺した事件です。アンボイナというのはモルッカ諸島ですから、インドネシアの島ですね。そこでオランダがイギリス人を10人、日本人を20人殺しました。イギリスは断固抗議するのですが、一旦諦めて、インドネシア海域から離れてインドのほうへ移動します。イギリスはもうインドネシアで戦うのを止めて、インド経営に集中する。イギリスがオランダに敗退した事件です。その代わりイギリスは執念深い。現地オランダで戦争を始めるのです。そこで条約を結んで、インドネシアでやった怪しからん出来事に対して賠償金を取り上げるのです。
ところが幕府は日本人が殺されているというのに一言も抗議をしないのです。それが日本人だよ。今も昔も変わらないんだよ! メリハリが無かった、国家意識が無かった・・・、ということかもしれませんが、そんなことを言ったら、その当時はどこの国にも「国家意識」があったか、などということはよく分からなかった時代です。それから10年ほど経って「鎖国」です。つまりアンボイナ事件は日本人が東南アジアにたくさん出て行った時代です。それをやってはいけません、というのが鎖国で、日本人の海外渡航と帰国を禁じたのは1635年です。
その後17世紀は鄭成功という母親が日本人で父親がシナ人の男が出てきて、台湾を中心に暴れまわります。でもこの人が暴れまわるのは僅かの期間で、台湾をオランダから解放するのは日本ではなくて鄭成功です。しかしこれが敗れるのが17世紀の終わりで、そうしたら実はヨーロッパは世界の海をほぼ制圧することになったのです。この後ずうっと今に至るまで「世界はヨーロッパ」ということから動いていません。日本は今に至るまで鎖国です。教科書や歴史学者はやっと私の次に「鎖国は無かった」と言っています。私は「鎖国はあった」。10世紀からずっと鎖国ではないか? と言っているのです。
以上16,17世紀の年表にロシアの動きを入れましたが、両世紀はオランダが大きな役割を果たしているのがよくわかります。ロシアは少し動きだしていますが、まだ日本の近くには来ていません。
つづく