韓国が国際社会に喧伝するウソ「20万人」「軍関与」 日本は「国際的恥辱」払拭する努力してきたか

 産経新聞 平成29年1月19日正論欄より

 私はつねに素朴な疑問から始まる。日本の外交は国民が最大に望む一点を見落としがちだ。何かを怖がるか、安心していい気になるかのいずれかの心理的落とし穴にはまることが多い。今回の対韓外交も例外ではない。

≪≪≪ウソを払拭しない政府の怠慢≫≫≫

 米オバマ政権は慰安婦問題の真相を理解していないので不当に日本に圧力を加えていた。心ならずも妥協を強いられたわが国は、釜山の日本総領事館前に慰安婦像が設置されたことを受けて、大使らを一時帰国させるという強い措置に出た。日本国民はさぞ清々しただろうといわんばかりだ。が、日本外交は米韓の顔を見ているが、世界全体の顔は見ていない。
 
 慰安婦問題で国民が切望してやまない本質的な一点は、韓国に“報復”することそれ自体にはない。20万人もの無垢(むく)な少女が旧日本軍に拉致連行され、性奴隷にされたと国際社会に喧伝(けんでん)されてきた虚報の打ち消しにある。「20万人」という数も「軍関与」という嘘も、私はふた昔前にドイツの宿で現地新聞で知り、ひとり密(ひそ)かに憤怒したものだが、あれ以来変わっていない。ますます世界中に広がり、諸国の教科書に載り、今やユネスコの凶悪国家犯罪の一つに登録されかけている。

 日本政府は一度でもこれと本気で戦ったことがあるのだろうか。外交官が生命を賭して戦うべきは、事実にあらざる国際的恥辱の汚名をすすぐことであって、外国に報復することではない。

 女の子の座像を街角に建てるなど韓国人のやっていることは子供っぽく低レベルで、論争しても仕方がない相手である。敵は韓国人のウソに乗せられる国際社会のほうであって、日本の公的機関はウソを払拭するどんな工夫と努力をしてきたというのか。

 ≪≪≪なぜミサイル撤去を迫らないか≫≫≫

 実は本腰を入れて何もしなかった、どころの話ではない。一昨年末の日韓合意の共同記者会見で、岸田文雄外相は「当時の軍の関与」をあっさり認める発言をし、慰安婦像の撤去については合意の文書すら残さず、曖昧なままにして帰国した。しかるに安倍晋三首相はこれで完全決着した、と断定した。
 まずいことになったと当時私は心配したものだが、案の定1年を待たずに合意は踏みにじられている。国際社会にわが身の潔白を示す努力を十分に展開していたなら、まだ救いはあるが、「軍の関与」を認めるなど言いっぱなしの無作為、カネを使わない国際広報の怠惰はここにきてボディーブローのように効いている。

 軍艦島をめぐるユネスコ文化遺産登録の「強制労働」を強引に認めさせられた一件の致命傷に続き、なぜ岸田外相の進退が問われないのか不思議でならない。

 私はもう一つ別の例を取り上げる。対ロシア外交において、プーチン大統領来訪の直前、択捉島にミサイルが設置された。

 日本政府はなぜ抗議しなかったのか。せめて平和条約を語り合う首脳会談の期間中には、ミサイルは撤去してもらいたいと、日本側から要請があったという情報を私はただの一度も目にし耳にすることはなかった。

 私は安倍政権のロシア接近政策に「合理性」を見ていて、対米、対韓外交に比べていいと思っている。北方領土は放っておけばこのままだし、対中牽制(けんせい)政策、シベリアへの日本産業の進出の可能性などを考えても評価に値するが、ミサイル黙認だけはいただけない。昔の日本人ならこんな腰抜け外交は決してしなかった。

 ≪≪≪感情的騒ぎを恐れてはならない≫≫≫

 もう一例挙げる。オスプレイが沖縄の海岸に不時着する事故があった。事故機は住宅地を避けようとしたという。駆けつけた米国高官は、日本から非難される理由はない、と憤然と語ったとされるが、私もそう思う。いわゆる沖縄をめぐる一切の政治情勢からとりあえず切り離して、搭乗員がとっさにとった“回避行動”に、日本側からなぜ感謝の言葉がないのか。県知事に期待できない以上、官房長官か防衛相が一言、言うべきだ。これは対米従属行為ではない。礼儀である。

 感謝の言葉を聞かなかったら、米兵は日本をどうして守る気になるだろう。日本は武士道と礼節の国である。何が本当の国防のためになるのかをよく考えるべきだ。
 プーチン大統領には来てもらうのが精一杯で、ミサイル撤去の件は一言も口に出せなかった。沖縄の件はオスプレイ反対運動の人々のあの剣幕(けんまく)をみて、何も言えない。岸田外相が「(当時の)軍の関与」を公言したのも、韓国の感情的騒ぎが怖かったのである。

 何かを怖がるのと、安心していい気になるのとは同じ事柄の二面である。今度、韓国に「経済断交」に近いカードを切ったのは、ことの流れを知っている私は当然だと思っているが、日本人がこれで溜飲(りゅういん)を下げていい気になってはならない。日本人も本当に怖い国際世論からは逃げているので、情緒的韓国人と似たようなものだと思われるのが落ちであろう。(評論家・西尾幹二 にしお・かんじ)

西欧の地球侵略と日本の鎖国(六)

六/六)
 その次に何がつながるかというと、フランスは力を失っていたのですが、イギリスとロシアにしてやられているのが悔しくて、1785年にフランス政府はジャン・フランソワ・ド・ラペルーズを派遣します。フランスは日本に重大な関心を示して、日本を調べてくるよう命じます。まず南太平洋に入ったラペルーズはハワイ諸島、北アメリカ大陸を巡った後、日本列島の日本海側を通っています。その前に台湾、琉球や済州島を測量して日本海側に入って能登半島を徹底的に測量します。東北地方はすでにクック隊が測量しています。

私が感心するのは、ヨーロッパは「国際社会」で、ベーリングやクックの測量の数値やデータが全部公表されていたことです。だからクックは日記の中でベーリングがやった海洋探検について「素晴らしい。だいたい正確だ」と褒めています。同じようにラペルーズは、クック隊の太平洋側と日本列島の測量も公表されているので、日本海側のデータを揃えて日本列島の「幅」を測量して数値の計算をしています。つまり争っている国同士、競争し合って、時には戦争もする国同士だったにもかかわらず、国際社会の約束やデータを尊重しあう。そういう事で協力し合う、という近代性が備わっていた。これは当時のアジア人には考えられないことでした。なんのかんの言ったって負けているのです。ヨーロッパはこれだけの規模のことをやっていたのです。日本に「鎖国が無かった」などと言えますか! これだけのことをやられていたということで、暗黒の鎖国の中にいたのではないでしょうか。

 1784年にはジェームズ・クックの航海記が刊行されます。クックの死後5年後です。航海記はオープンなので、これが大変に読まれます。ここでラッコの生息地のデータが公開されますが、ロシアは一人儲けをしていたので危機感を覚えます。フランスもクックの航海記を見てから、1785年にラペルーズが出てくるのです。しかしあと4年後に何が起こるか分かりますね。フランス革命です。ですからフランスは国内が混乱してしまい、もう北太平洋の争いに参加することが出来なくなります。フランスはここで退場しますが、イギリスと、そしてアメリカが登場します。そしてロシア。オランダは端からここに入っていません。前にも話しましたがそこが大事なのです。日本はオランダだけを頼りにしていたのですから、ほとんど片肺思考だったのです。

先ほどベーリングの話をしましたが、別働隊を二つ連れていっています。そのうちの一つは千島列島を下って日本列島に来ています。1741年にアメリカ大陸(アラスカ)を発見する2年前の1739年のことで「元文(げんぶん)の黒船」と呼ばれています。1回目は宮城県に来ています。日本の役人が船に乗り込んで、丁重な挨拶をしてロシア側は船上でご馳走やお酒で彼等をもてなして楽しい談話をしたあと、きれいに別れたというだけのことで、ロシア船もこれで満足して帰っていったそうです。2回目は千葉県で、陸上にあがってきて農家を訪ねて軒先で大根と水を貰って(笑)(壊血病があるから大根は必要ですよね)それからお茶を飲んで煙草を呑んで帰って行った。言葉は通じないけれど楽しい話をたくさんして帰って行った。そのとき律儀にも銅の貨幣を置いていきました。それは直ぐに長崎奉行に届けられて初めてロシアの貨幣と分かったのです。そのあとレザノフとかいろいろ出てきますが、日本にロシアが来たのはこれが最初でしょう。これはおそらくラッコの貿易で来たのだと思います。すでにラッコは乱獲されすぎたということで、教科書には捕鯨船がたくさん来たことは書いてあります。

ヨーロッパに物産を持って帰るのではありません。ラッコはシナの貴族に売ってそれが儲かるという話がワーッと広がって次々と船が来たという話です。いかにアジアが富んでいたかということです。有名な話に、イギリス人が清朝の皇帝に会ったら「清朝は何でもあるから貿易などする必要ない」と言って三跪九拝させられて帰ったという話もあります。それくらいアジアは豊かで、日本もまたそうでした。それにしても日本がその当時ラッコの毛皮を買って使ったか、ということになると寒さの度合いも違うしあまり聞いた話ではありません。だからといって日本からラッコの話が消えるのはおかしなことです。

ペリーは日本に捕鯨船で来たといいますが、これは当時の産業に微妙な変化が起こっていて、機械の潤滑油に鯨油が必要になったということが基本にあります。女性のコルセットに鯨髭を使うこともありました。そうなるとラッコはその多くがシナで大金を得るためが目的でしたが、クジラは全部ヨーロッパかアメリカで消費されました。

ここに貿易の質と内容に大きな転換があったと考えられますが、それは間違いなく産業革命です。それによってヨーロッパが力をつけてゆきます。それと、これまでお話してきた情報量です。世界を制覇せんとした勢いです。これはなんのかんの言っても、科学と冒険心と愛国心と、そして経済的な動機と・・・。こういう物が一体となった情熱はどの国にもあり、そして我々の今の時代にももちろんありましたけれど「限界点へ向けての限りなきパッション」これは優れてヨーロッパ的で、それは少し前の時代まではインド洋と南太平洋であったのが、地理的空間の大規模な移動への熱情が北太平洋に変わった、北極海経由の海路に取替わったということです。それは18世紀人からの夢でした。ロシアとイギリスがその夢を牽引したのです。アメリカはその後についてきたのです。

ロシアとイギリスこそがユーラシア大陸を二分したこの後の政治的、次の世紀の軍事的対立のドラマ。すなわち「グレート・ゲーム」とよばれる中央アジアを巡る争い。皆さん知ってのとおり、日本も明治になってそのドラマに参加しますね。関岡英之さんが『帝国陸軍 見果てぬ「防共回廊」機密公電が明かす、戦前日本のユーラシア戦略』という本を書きました。その「グレート・ゲーム」はこの北太平洋を巡る争いから始まっているのです。日本周辺の海域から始まっているのです。そしてそれは東アジアをも引き裂いて、開国して間もない我が国が英露の代理戦争である日露戦争に引きずりこまれた根本的な背景です。

つまりこれまでの地球を二つに引き裂くドラマは、アメリカが次の時代に登場するまでの世界史だったのです。そしてそれは我が国の目の前で起こっていたラッコから始まっていたということです。ラッコは笑い事ではありません。当時としてはすごいお金だったのです。しかし産業革命が起こって機械文明になってから規模が大きくなり額も跳ね上がりますね。それでいつの間にかみんなラッコのことを忘れてしまいます。帆船は蒸気船になってゆきます。蒸気船が出来るのはやっと明治維新の頃です。ペリーの来航は帆船で、アフリカを回って来ているのです。太平洋航路が無く太平洋を渡れなかったのだから当然です。こんな大きなドラマさえも「外から歴史を見る」ということをしないから分からないのです。

「外から歴史を見る」というのは、私の『国民の歴史』の精神であったことを皆さんご存知かと思います。「外から日本史を見る。そして日本史を中心に外の歴史を見直す。また外から日本史を見直してから、日本史を中心にもう一度外の歴史を見直す」この往復運動こそ歴史の正しい精神ではありませんか? 日本の歴史をやる人は日本の中をごちゃごちゃやるばかり。また世界の歴史、西洋史などをやる人は皆自分の専門をやるばかりで、全体を統合して見ようとしません。だからこんな重大なことが見落とされるのです。何が「鎖国は無かった」ですか?(笑)

1791年にはイギリスやアメリカの毛皮交易船が堂々と博多と小倉に来ます。ラッコの毛皮で一攫千金を狙う外国船はフランス、スペインと後相次ぎます。ジェームズ・クックの航海記が情報に火をつけたと考えられます。ロシア使節アダム・ラクスマンも1792年に日本に漂流者の大黒屋光太夫らを連れて軍艦で日本に来たのですが、本当は国を開いてラッコの貿易をしたいと言ってきたのです。清朝との貿易で認められていたのは内陸ばかりだったので、遠く広東での貿易に手を広げたいから毛皮を運ぶその中継地としても日本が必要でした。さらに毛皮の新しいマーケットとして、我が国の開国を求めたのです。

 私の作った年表に「1789年 ヌートカ湾事件」というのがあります。皆さんあまり聞いたことが無いでしょう。これはたいへん大きな地球的規模の危機だったのです。その前に、1494年のトルデシリャス条約はご存知でしょう。スペインとポルトガルがお饅頭を二つに割るようにしてローマ法王の勅許によって、大西洋の上に線を引いて地球を二つに分割するというもので、それに従ってコロンブスはどんどん西に渡って、これからどんどん西へ行ったところは全部スペインの領土だと言いました。同じようにポルトガルは、アフリカの海岸を南にどんどん下って東に進んでこれは全部ポルトガルの領土だと言いました。その真ん中はどこでぶつかるかというと、ご存知のようにモルッカ海峡よりももっと東で、だいたいオーストラリアの真ん中を貫き西日本の上を通るのです。それが半分なのですから勝手な話です。『国民の歴史』でもヨーロッパはなにを考えているのだろうと強調して、『新しい歴史教科書』にも入っているかと思います。考えることが凄いですね。怪しからんですね。この地理的情熱がどこから来るかといえば、ガリレオとデカルトの幾何学精神です。だから地球を全体として、子午線を引いたり赤道を引いたり、勝手にやったのです。なぜグリニッジ天文台が出来たのかといえば、あれはイギリスの政治戦略なのです。「なぜロンドンにあるのか?」とパリもベルリンも反対したのです。そしてグリニッジ天文台が中心になっちゃった。それと同じことで、これはスペインとポルトガルがやったことをイギリスが後追いしたのです。そして次の時代にはイギリスは勝ったということで、そのドラマの中にまだわれわれがいるということです。

ヌートカ湾事件というのは、オレゴンの海岸の北西部分にスペインの植民地がありました。そこを巡るイギリス、フランス、ロシア、アメリカ(アメリカはほぼ自分自身の土地でしたが)との争いです。スペインは1494年の古証文を持ち出して「ローマ法王が言った通り。北アメリカ大陸も南アメリカ大陸も全部スペインのもの」と言い出します。しかしアメリカは独立戦争の後、フランス革命の年にそういうことを言って抵抗したのです。それでイギリスを中心に衝突するのです。それはスペインの時代遅れの最後のあがきだったのかもしれませんが、実はそうではなかったのです。スペインは太平洋の西側を全部押さえていたのですから・・・。たとえば硫黄島は日本領で日本政府が日本領と宣言しますが、ダメだと言った国はスペインです。スペインはサイパンやテニアンを領土としていました。米西戦争でドイツに渡って、第一次世界大戦で日本領になるのですが、スペインは大変大きな影響力をアジアに持っていたのです。オランダではないのです。オランダの特徴は何かというとインドネシアに拘り過ぎたのです。他の国はどんどん動いたのですが、オランダはインドネシアにペッタリで足を取られて動けなかったのです。ヌートカ湾事件は、一つの地球上の大きな危機を表明して同時にそこで局面が動いたということがお分かりかと思います。

このヌートカ湾事件も全く歴史の教科書には書かれていません。でもやがて書かれるようになります。今日私がお話ししたことは「新しい歴史研究」ですから、やがて書かれるようになります。20年くらい遅れるでしょうけれど、日本はそういうものでしょう。だけど、このヌートカ湾事件もラッコの話も書かなければ歴史にならないからね。ラッコって可愛いのにねぇ。(笑)ということで終わりにします。

 文書化:阿由葉 秀峰

西欧の地球侵略と日本の鎖国(五)

(五/六)
 問題は16、17世紀から18世紀へと移ってゆくときの日本と世界との関係なのです。そこでクックの話をしたいのですが、その前にロシアがどんどんアジアに接近してくるという話があります。コサックがウラルを越えてシベリアに侵入してくるという動きは急を告げていたのですが、その動きに当時の日本は全く気がつきません。それがどういう動きになってくるかというと、ベーリング海やベーリング海峡という名前になって残っているので有名ですが、ヴィトゥス・ベーリングという人です。それまでにロシアは1707年にカムチャッカ半島を領有しています。

 最初の南太平洋のことをいっていた時代から、北太平洋を巡るドラマも始まっていました。そのドラマは何かというと、このベーリング海峡を突き抜けてヨーロッパへ行ったりロシアへ行ったり日本へ来たりする航路を自由に開発、発展出来るのではないかということ。1724年、病床に臥していた晩年のピョートル大帝は、そもそも「ベーリング海峡」が海峡なのかも分からなかったので「今こそロシアの叡智と輝きを以て国家的名誉のためにこの航路の発見を」と海軍大尉ベーリングに命を下しました。実際に出港したのは1728年。その時すでにピョートル大帝は夢を抱いて亡くなっています。

 アラスカ半島から細く伸びた火山帯があって、それがアリューシャン列島です。このアリューシャン列島とシベリアとアラスカに囲まれているのがベーリング海です。その先にベーリング海峡があります。これを探検するのは、遠くから海を渡ってくるよりも内海のようで簡単に見えますが、当時は帆船で、8月でも9月でも凍っている海ですから簡単ではなかったのです。「カムチャッカ半島まで行けば目と鼻の先だから」とピョートル大帝は言いました。「イギリスが考えているよりもずっと楽だろう。イギリスは北の海を突き抜けるのだから、我々ロシア人のほうが有利なはずだ」というのがピョートル大帝の考えでした。それからスタートまでに4年かかります。カムチャッカ半島で船を造るのです。そのために人と物資をシベリアを越えて運ばなければいけない。シベリア鉄道なんてなく、これを陸路運ぶのですから4年くらいかかっているのです。

 ベーリングは1728年の第一回目の航海でやっと海峡の存在、いわゆるベーリング海峡を確認します。そのとき対岸のアラスカ、つまりアメリカ大陸を望んだけれども霧が濃くて一旦戻ります。そして二回目の航海はベーリング海峡の存在は認めたのでもうそれ以上はやらずに、アリューシャン列島の南を通って、いきなりアラスカに入ってゆきます。それは政府の命令で、「アラスカへ行ってちゃんとやりなさい。アメリカ大陸の発見こそが大事な使命なのだから」ということで、1741年にアメリカ大陸に上陸するのですが、僅か6時間しか調査時間を与えることができませんでした。なぜなら季節的にも時間的にも帰路が危うかったからです。そしてそう想像していたとおりに北のある無人島の穴倉で隊員が次々と死んでしまい、ベーリングも死んでしまいます。それでも二度の探検による「アメリカ大陸発見」です。年表の「1741年 ベーリング、アメリカ大陸(アラスカ)を発見」。この北の海から発見した「アメリカ大陸」はコロンブスにも比すべきドラマです。

 ここで最大の通商問題が起こります。それまでロシアの輸出していた品物の大半はキタキツネやリス、ウサギといった森林動物の毛皮でした。ところが海洋動物ラッコがもの凄い繁殖力で、無限大の如く存在するのを発見して、ベーリングはラッコの存在を報告します。持ち帰ったラッコの毛皮が高く売れることが分かり、やがて探検隊が組まれてラッコ獲得作戦がロシアの次の政治目的になります。ロシアが獲得したラッコはロシア人が使うのではないのです。ヨーロッパに売るのでもないのです。何度も言ったようにヨーロッパもロシアも貧しいのです。売ったのは満洲の貴族です。満洲の貴族というのは清朝です。清朝の貴族にラッコの毛皮を売ることが18世紀ヨーロッパの最大の貿易だったのです。

 ラッコの話が世界史に出てこないのはおかしなことで、これから必ず出てきますよ。これは最大のドラマなのです。つまりあれほど騒いでいた香辛料から、いつの間にかラッコの毛皮を巡って次々とイギリス、フランス、アメリカも参入してくるのです。日本の北や南の海に次々とロシア船やアメリカ船が貿易をさせろと言って現れますね。目的は「ラッコの毛皮を買ってくれ」ということなのです。それまでラッコの毛皮は北京にしか行っていないから金がある広東に行って貿易したいので中継地として日本を開いてくれと・・・。アメリカまで参加してきて、これが各国の要望だったのです。ラッコは可愛い動物なのですが、これが何十年かで乱獲されてしまい、19世紀末にはだんだん貿易が成り立たなくなってしまします。

 次にジェームズ・クックの話をしなくてはいけません。クックはロシアのベーリングに続いて立ち上がったイギリスの世界周航で名前を馳せた有名な人で、キャプテン・クックとも言いますね。クックは三回探検しています。第一次が1768年、第二次が1772年、第3次が1776年です。第一次航海はイギリスから出向して南アメリカに沿ってマゼラン海峡を通過して、そしてニュージーランドとオーストラリアの辺りを盛んに動きます。

 タヒチ島にも立ち寄って、このときイギリス政府は金星の太陽からの距離の測定を課題として命じて、そのためにタヒチ島にイギリスの居館を造らせて観測隊が観測をします。そこがイギリスの腹黒いところで、そういう名目でイギリスは各国を騙してニュージーランドやオーストラリアを我が物にしてゆきます。今でもジェームズ・クックの名前はニュージーランドとオーストラリアにたくさん残っていますね。ニュージーランドの北と南の島を挟む海はクック海峡といいます。そこに素晴らしい山があって、私も途中まで登ったことがあるのですが、クック山というのですね。「クック」の名前がたくさん付いているのです。そしてクックはオーストラリアの東海岸を初めて探検します。最初ヨーロッパ人はオーストラリアの西海岸から探検するのですが、海が荒くほとんどが砂漠で魅力も無いものだから、オランダ人も来ていましたが皆諦めてしまいます。ところが東海岸は素晴らしい海岸で、現在有名な町が並ぶのはこの辺なのですが、そこを発見して英国領と宣言するのです。同様にニュージーランドにも三本のイギリスの旗が翻るのです。クックはそういうことをやるために海軍から金を貰って行ったのです。そうしてイギリスへ帰ると大変な評判になります。第二次航海はアフリカを通って逆回りをします。既にニュージーランドの海域はクックにとって「憩いの海域」となっていて、そこで休んで今度は南極探検を始めるのです。もう一息で南極大陸発見には至らず、寒さと勇猛果敢なマオイ族の襲撃でダメになって戻るのですが、南極大陸発見はこの後半世紀後でかなり先になります。それが日本は「1772年 田沼意次老中になる」時代で日本は何をしていたのだろう、と思うでしょう。

 そして1776年に第三次航海です。再びアフリカ周りでニュージーランドをぐるぐるした後、海軍の命令で北太平洋を初めて探検します。これはヨーロッパ人初めてのことです。アメリカ独立宣言の年でもあり、クックはハワイ諸島を発見します。海軍から命令された内容は、ロシア人がやってもまだ出来ていない、ベーリング海峡を越えてイギリスに帰ることで、懸賞が付いていました。当時の「宇宙開発」のようなものだったのでしょう。ずうっと北へ上がってアメリカ大陸オレゴンの辺りで一休みします。スペインと問題が起こりぶつかるのですが、ベーリング海峡を抜けて北極海に出ることには成功します。9月でしたが氷に阻まれて引き返して、ハワイに戻って越冬することにしました。ところがハワイでクックは殺されてしまうのです。最初立ち寄ったときにクックは神にされます。そして神として一度送り出したのに、何ヶ月か経って戻って来たことでトラブルが起こるのです。そのことについては大変複雑なドラマがあったようです。その時の江戸時代の日本人と比較したとき、宗教上の問題で一体どういうことがあり得るでしょうか。日本は鎖国していて西洋人は近づけませんでした。入れば首を切られてしまうのですから日本列島には入れなかったのです。それに対してハワイは入ることができたのですが、不思議な信仰の対象にされて戻った時に殺害されてしまった。そして遺体は返してもらえない。クックの隊員はお百度踏んで遺体を返してもらったのですが、肉が骨から削がれて焼かれていました。宗教上の儀式が行われて、これが何なのか。大変な伝説と宗教上の議論を呼んでいます。それからクック亡き後隊員たちは、ハワイ諸島からカムチャッカ半島に沿って北上して、その帰路で日本列島の東海岸を測量して帰国します。

つづく

御厨貴座長代理への疑問

 私は天皇御譲位をめぐる問題については発言しないことに決めていて、今までのところこれを実行している。

 以下に示すのはやはり同問題そのものへの発言ではない。
御厨貴氏は有識者会議の座長代理である。座長はたしか経済界の有力者で、従って「代理」が事実上の座長であることは他の同種の有識者会議の例にもみられる通りである。
御厨氏は果してこの重要なお役目の座に坐るにふさわしい思想の持主であろうか。

NHKスペシャル「シリーズJAPANデビュー 第二回 “天皇と憲法”」
2009年5月3日放送

東京大学・御厨貴教授:
「で、問題はだからやっぱり、僕は、天皇条項だと思っていて、この天皇条項が、やっぱり、その、如何に非政治的に書かれていても、やっぱり政治的な意味を持つ場合があるし、そういう点でいうと、あそこをですね、やっぱり戦前と同じように、神聖にして犯すべからず、あるいは、不磨の大典としておくのは、やっぱり危険であって、そこに一歩踏み込む勇気を持つことね。天皇っていうのは、だから、その主権在民の立場から、どう考えるかってことを、本格的にやってみること、これね、みんなね、大事だと思いながらね、絶対口を噤んで言わないんですよ、危ないと思うから、危ないし面倒臭いし、ね。だから、ここを考えないと、21世紀の日本の国家像とかいった時に、何で天皇の話が出て来ないってなるわけでしょ、そういう、やっぱり、やっぱり、天皇って、そういう意味では、国の臍ですから、この臍の問題を、つまり日本国憲法においても臍だと思うな、考えないと、もういけない時期に来ている、と僕は思います」

 以上はどう読んでも、皇室の存在は「主権在民の立場」にとっては障害になっている、ということを言っているのではないだろうか。「21世紀の日本の国家像」は共和制がふさわしいという意見の持主ではないだろうか。
こういう先入観をもっている方が今回の有識者会議の事実上の代表であることは果して許されることであろうか。

西欧の地球侵略と日本の鎖国(四)

 太平洋を中心とした世界地図を見てください。他の海と比べて太平洋は異様に大きいと思いませんか? 大西洋もインド洋も大きいけれど、太平洋の大きさは凄まじいですね。そして太平洋の南の国々、フィリピン、ジャワ海、インドネシア、セレベス海、パプア・ニューギニアそしてオーストラリア・・・。この辺り一帯の海域はなんと全体の南西に片寄っていると思いませんか? そして東側はなんと巨大でしょう。日本とアメリカの間には何も無いではないですか。ポツンとあるのはハワイです。太平洋の南はとても大きいのですが、これは島々が連なっています。メラネシアやポリネシアは群島で繋がっているので、南太平洋は島伝いに航海できるのです。しかし北太平洋の航海はどうしようもありません。今でも大変なことで、20年くらい前までは衛星を使ったGPSも無かったので星を計測して航行していたのです。北太平洋航路は現代の大型汽船の航行でも大変な緊張があったそうです。今はこのあたりはゴミの通路になっています。巨大ゴミが漂っているのです。東日本大震災の漂流物もここを渡ってカナダに行ったのですね。とにかく巨大だったのです。

 これを江戸時代の日本人に理解できなかったのは分かるでしょう。そしてヨーロッパ人にも全く分からなかったのです。太平洋は二つあるというのがヨーロッパの通説でした。それを覆したのがジェームズ・クックです。1770年から1780年の間に初めてクックが北太平洋に入ってハワイを発見して、この海域が南太平洋と続いているということが理解されるようになります。それまでは巨大な海が二つあると理解されていました。いかに江戸時代の日本人には手に負えない海であったかがお分かりいただけるかと思います。私はこの事実から「江戸時代の歴史」はすべて書き直されるべきだと思っております。今度また『新しい国民の歴史』で言わなければいけないと思っていますが、その理由をこれから証明します。
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 フェルディナンド・マゼランの航海した軌跡はどうであったか。世界一周を成し遂げますが一人で成し遂げることはできなかったのです。マゼランの航海はスペインが出発点です。そこから南アメリカ大陸南端の「マゼラン海峡」を通って太平洋の南、南太平洋に出てゆきます。それからずうっと行ってフィリピンに辿り着きますが、そこで不慮の死を遂げてしまいます。そして弟子たちが後を引き継いでスペインまで戻るのです。この大航海の間、マゼラン一行を苦しめたのは南太平洋が広かったということ。食べるものが無くなり、マストに付いていた牛革を食べたとか、黄色くなって腐った水を飲んだとか、船員は次々と壊血病に斃れて死んでいった。やっと辿り着いたフィリピンでは、島民の戦争に巻き込まれてマゼラン自身は弓矢に撃たれて死んでしまう。マゼランの弟子たちが1522年にスペインに戻って、初めて「世界一周」という名誉がマゼランの名につきました。

 フランシス・ドレイクはイギリスで海賊の親分のような人で、実際に世界一周を成し遂げました。ドレイクはエリザベス一世の申し子のような人で、スペインと勇猛な戦いをした人です。スペインを倒すための情熱に燃えた当時の代表的なイギリス魂を現した海賊です。後の1588年にスペインの無敵艦隊(インヴィンシブル)を打ち破ったアルマダの海戦によってドレイクは、敵の船団にどんどん火を点けて燃やしてしまうというそれまで考えつかない海賊ならではの戦術で、小国イギリスは大国スペインを打ち破り、エリザベス一世の名を上げた有名な海戦の覇主でした。そのため彼は海賊の身でありながら貴族に列せられました。そうは言っても元々イギリスは海軍で成り立っていたような国で、今でも海賊的な国です。ずっとそうだったので驚くようなことではありません。 

 ドレイクの世界一周の航路はイギリスから出港して、南アメリカ大陸の南端、マゼラン海峡の先、南アメリカ最南端のホーン岬をずうっと回って南太平洋に入り南アメリカ大陸を北上してゆきます。南アメリカはスペインの領土でその植民地を襲撃して財宝を略奪するためです。さらに北アメリカにも上ってゆき、オレゴンのあたりまで北上して植民地基地を次々と襲撃して、大量の財宝を奪い取って船に乗せて1580年に堂々とイギリスへ帰還したのです。そのときの財宝は当時のイギリスの国家予算の三倍でした。エリザベス女王をして狂喜至らしめたということで、海賊の女王ということですね。これがドレイクのドラマです。この時代の日本は戦国時代で、秀吉が1590年に天下統一。歴史的には驚くことではなく日本も似たようなものだったのです。
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北極点を真ん中あたりに置いて太平洋を上にした地図を見てください。右上にカムチャッカ半島があります。下にイギリスがあって、少し右上にノルウェー、スウェーデンのスカンジナビア半島があります。左上にグリーンランドがあって、その上にはカナダとアラスカがあります。右側に細長く見えるカムチャッカ半島のその右に日本列島があります。
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 また北アメリカ大陸を真上にして日本列島を右端に置いて、ユーラシア大陸を見渡せる地図を見てみると、カムチャッカ半島の上にベーリング海があります。北極海に入って左に行けばヨーロッパ。上に行けばアラスカ、カナダです。
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 さらに分り易い地図として、太平洋を真ん中として北を上にした絵解きの様な「マッカーサー地図(1979年)というものがあります。イギリスを出港すると北の海をくぐりぬけてカナダを通ってアラスカからベーリング海峡を抜けられる理屈です。同様にロシア、サンクトペテルブルクから陸路カムチャッカ半島に行って、そこから日本列島に行くこともできるし、ベーリング海峡に入って北の海からヨーロッパに戻ることも理屈上はできます。

 これが18世紀の夢だったのです。つまり17世紀までは西洋人の夢はインド洋と南太平洋で如何にして新しい領土を発見するかという話でしたが、スペインとポルトガルにしてやられたイギリスとロシアはどうしても自分たちの力で新しい海路を発見して、これをもって科学上の国家的栄誉を打ち立てなければならない。打倒スペイン、ポルトガル。そしてオランダはとうの昔に消えています。

 年表を見れば分かるように、18世紀になるとオランダは影も形も無くなっています。オランダは貿易上の争いからも退いてしますのです。ということは、日本はそのオランダ一国にぶら下がっていたのですからいかに半分しか分からなかったか、ということです。これからお話しする北太平洋を巡る激しい争奪戦から一国だけ脱落しているのはオランダなのです。スペインはまだ頑張っています。イギリス、ロシア、フランスそしてアメリカが順に登場します。そして初めて日本列島の周りが騒がしくなります。ですから、江戸時代は二つに分けて考えなければいけません。

つづく

年賀状の公開

今年出した年賀状は650枚、全部印刷文で、私の直筆は加えていない。本当は一行でも直筆を加えればよろこばれるが、この枚数ではとても対応できない。

私の同年か少し上の世代で、今年をもって賀状を止めます、と書いてきた人が3~4人いた。十分に理解できる。私もいつまでつづけられるか。

当ブログの管理人から、賀状に刷られた短文を公開してほしい、と連絡があった。公開に値する文章でもなく、賀状の個人性をますます失うことにもなるので望ましくないが、少し時間もたったので、要請に応じ以下に公開する。

賀正 私は年を経て複雑なものよりも平明なものを次第に好むようになりました。暗鬱なものより快活なものを見るのが好きになりました。複雑で暗い世界になにか深い精神性をしきりに求めたのは、若さにあふれていた青春時代の心の働きだったのかもしれません。

 私は同じことは二度書かない、同じ型の仕事は繰り返さないを、厳密には難しいのですが、ある程度モットーにしてきました。しかしやはり年を経て、自分で自分の過去を模倣していると思うことがあります。「精神は同じ階段を決して二度昇らないものだ」は古人の言葉ですが、とすると、平明で快活なものを好むようになったのは精神の衰えなのでしょうか。否、そうではなく、鳥も虫も羽根を休めるときがあり、海に吹く風にも凪の瞬間があるのが常です。そう考えることで安心したい自分も一方に存在しています。

平成29年 元旦 西尾幹二

DHCシアター(堤 堯氏司会)にたびたび出席しているが、1月5日(木)の「安倍外交で世界はこうなる!迫るチャイナリスク」をここに掲示する。出演者は、阿比留瑠比、福島香織、志方俊之、馬淵睦夫、関岡英之、日下公人、西尾幹二他である。

以下に掲示する。『やらまいか~真相はこうだ!~』

晴天続きの正月

 1月6日、韓国に対しスワップ協定の協議停止にまで踏み込む制裁がなされたのは良いことだった。「慰安婦像」のプサン設置には、日本政府もよほど腹にすえかねたのであろう。これで相手が目を覚ますはずもなく、予想されている通り日韓関係はこれからも永くこじれるだろう。しかしまずは仕方がない。

 2015年末の日韓合意がやがてこうなることは分っていたはずだ。それなのになぜあんな甘い合意、日本の「犯罪」を認めるような言葉も残す合意に走ったのだろう。あそこはゆっくり腰を据え、忍耐し、「朝日」の記事取り消しもあって局面が変わったことを踏まえて、じっくり応答すべきではなかったか。

 あのあわてた合意はオバマの要請に応じての措置であったのであろう。何でもアメリカの言いなりであることが一連の外交でまた再び明らかになった。

 安倍外交について世間の評価はいいようだが、私は反対だ。米上下院議会での硫黄島を出した安倍演説は良かった。良かったのはあの一件だけで、つづく70年談話、日韓合意、オバマ広島・安倍パールハーバー交換慰霊は私にはやらなくてもいいこと、先走り、あらためての日本の悪の自己承認、アメリカの理不尽な襲来への歴史的追及をいっさい伏せてしまった敗北の表現であったと思う。

 私は世間が言うのと違って、プーチンへの接近は良かったと思っている。対露接近はやらなければ永遠に誰も手をつけないテーマだ。会談中の北方領土からのミサイル撤去を求めなかった弱腰はいただけないが、ロシアと組もうとする姿勢は大胆かつ現実的で評価するべきだ。しかし対米・対韓外交は安倍政権の失敗つづきと私はみている。

 尚、月刊誌2月号に次の私関係の記事がある。
(1)世界の「韓国化」とトランプの逆襲(Hanada)
アメリカの「韓国化」にも触れられている。ドイツも射程に入れている。
中韓の対日攻撃の思想的根拠はドイツである。
(2)中西輝政氏とび対談・歴史問題はなぜ置き去りにされているのか(正論)
安倍外交への疑問において二人は大筋一致した。
長い間すれ違っていた中西・西尾の関係だったが、ここで肝胆相照らす仲となった。

 当ブログへのコメントは(1)(2)を読んでそこでの問題提起に対応して語っていただきたい。茶化すような短文や私の提言とは縁のない長文がよくあるが、ご遠慮いただきたい。

世界にうずまく「恨」の不気味さ 「アメリカの韓国化」どう克服 

産經新聞平成28年12月19日コラム【正論】より

≪≪≪ 韓国を揺るがしたルサンチマン ≫≫≫
 
 朴槿恵大統領の職務剥奪を求めた韓国の一大政変には目を見張らせるものがあり、一連の内部告発から分かったことはこの国が近代社会にまだなっていないことだった。5年で入れ替わる「皇帝」を10大派閥のオーナーとかいう「封建貴族」が支配し、一般民衆とは画然と差をつけている「前近代社会」に見える。一般社会人の身分保障、人格権、法の下での平等はどうやら認められていない。
 
 ただし李王朝と同じかというとそうではない。「近代社会」への入り口にさしかかり、日本や欧米を見てそうなりたいと身悶(もだ)えしている。騒然たるデモに荒れ狂った情念は韓国特有の「恨(ハン)」に国民の各人が虜(とりこ)になっている姿にも見える。「恨」とは「ルサンチマン」のことである。完全な封建社会では民衆は君主と自分とを比較したりしない。ルサンチマンが生まれる余地はない。
 
 近代社会になりかかって平等社会が目指され、平等の権利が認められながら実際には平等ではない。血縁、財、教育などで強い不平等が社会内に宿っている。こういうときルサンチマンが生じ、社会や政治を動かす。

 恨みのような内心の悪を克服するのが本来、道徳であるはずなのに、韓国人はなぜかそこを誤解し脱却しない。いつまでもルサンチマンの内部にとぐろを巻いて居座り続ける。反日といいながら日本なしでは生きていけない。日本を憎まなければ倒れてしまうのだとしたら、倒れない自分を発見し、確立するのが先だと本来の道徳は教えている。しかし、恨みが屈折して、国際社会に劣情を持ち出すことに恥がない。

≪≪≪ 吹き荒れる「ホワイト・ギルト」 ≫≫≫

 ところが、困った事態が世界史的に起こりだしたようだ。ある韓国人学者に教えられたのだが、恨に類する情念を土台にしたようなモラルが欧米にも台頭し、1980年代以後、韓国人留学生が欧米の大学で正当評価(ジャスティファイ)されるようになってきた。

 世界が韓国的ルサンチマンに一種の普遍性を与える局面が生じている、というのである。こういうことが明らかになってきたのも、今回の米大統領選挙絡みである。

 白人であることが罪である、という「ホワイト・ギルト」という概念がアメリカに吹き荒れている、と教えてくれたのは評論家の江崎道朗氏だった。インディアン虐殺や黒人差別の米国の長い歴史が白人に自己否定心理を生んできたのは分かるが、「ホワイト・ギルト」がオバマ政権を生み出した心理的大本(おおもと)にあるとの説明を受け、私は多少とも驚いた。

 この流れに抵抗すると差別主義者のレッテルを貼られ、社会の表舞台から引きずり下ろされる。米社会のルサンチマンの病もそこまで来ている。「ポリティカル・コレクトネス」が物差しとして使われる。一言でも正しさを裏切るようなことを言ってはならない。“天にましますわれらの父よ”とお祈りしてはいけない。なぜか。男性だと決めつけているから、というのだ。

 あっ、そうだったのか、これならルサンチマンまみれの一方的な韓国の感情論をアメリカ社会が受け入れる素地はあるのだと分かった。両国ともに病理学的である。

 20世紀前半まで、人種差別は公然の政治タームだった。白人キリスト教文明の世界に後ろめたさの感情が出てくるのはアウシュビッツ発覚以後である。それでも戦後、アジア人やアフリカ人への差別に気を配る風はなかった。80年代以後になって、ローマ法王が非キリスト教徒の虐待に謝罪したり、クリントン大統領がハワイ武力弾圧を謝ったり、イギリス政府がケニア人に謝罪したり、戦勝国の謝罪があちこちで見られるようになった。

≪≪≪ トランプ氏は歪みを正せるか ≫≫≫

 これが私には何とも薄気味悪い現象に見える。植民地支配や原爆投下は決して謝罪しないので、これ自体が欧米世界の新型の「共同謀議」のようにも見える。日本政府に、にわかに強いられ出した侵略謝罪や慰安婦謝罪もおおよそ世界的なこの新しい流れに沿ったものと思われるが、現代の、まだよく見えない政治現象である。

 各大陸の混血の歴史が示すように、白人は性の犯罪を犯してきた。旧日本軍の慰安婦制度は犯罪を避けるためのものであったが、白人文明は自分たちが占領地でやってきた犯罪を旧日本軍もしていないはずはないという固い思い込みに囚(とら)われている。

 韓国がこのルサンチマンに取り入り、反日運動に利用した。少女像が増えこそすれ、なくならないのは、「世界の韓国化」が前提になっているからである。それは人間の卑小化、他への責任転嫁、自己弁解、他者を恨み、自己を問責しない甘えのことである。

 トランプ氏の登場は、多少ともアメリカ国内のルサンチマンの精神的歪(ゆが)みを減らし、アメリカ人を正常化することに役立つだろう。オバマ大統領が許した「アメリカの韓国化」がどう克服されていくか、期待をこめて見守りたい。(評論家・西尾幹二 にしおかんじ)

西欧の地球侵略と日本の鎖国(三)

 年表について私はもっと詳しいものを作っていますが、「年表をどう作るか」が歴史なのです。年表を見ては駄目なのです。当来の年表を見て自分で選んで作るものなのです。私は彼方此方から取って年表を作っているのですが、こんな小さな年表でも誰も言っていなかったことがちゃんと入っているのです。つまり「東南アジアと日本の歴史と、ロシアとアメリカの動きを総合的に入れた歴史年表」というのが日本の歴史家の頭の中に無いからこの地上にも存在しないのです。これは不完全ですが、そういう年表は自分で作るしかないのです。

【18世紀から19世紀頭】
1707年 ロシア、カムチャッカ領有
1716年 吉宗、八代将軍に
1719年 フランス、東インド会社創設、デフォー『ロビンソン・クルーソー』刊行
1722年 清朝、雍正帝即位。ロシア人、千島を探検する
1728年 ピョートル大帝の意を体したベーリング第一次探検隊、いわゆるベーリング海峡を確認する。ロシア人、ラッコの毛皮交易の重要性に初めて着目
1734年 ロシア、中央アジア遠征隊、キルギス征服
1735年 清朝、乾隆帝即位
1739年 元文の黒船、ロシア人シュパンベルクとウォルトン(ベーリング別動隊)千島を南下し、ふと立ち寄る風に日本本土に来航する。
1740年 バタヴィアでオランダ、1万人規模のジャワ島民虐殺
1741年 ベーリング、アメリカ大陸(アラスカ)を発見
1746年 フランス、マドラス島からイギリスを駆逐する
1749年 ジャワのマタラム国王、オランダに屈服し主権を失う
1757年 プラッシーの戦い、英仏本土での交戦(「七年戦争」)インドに波及
1762年 イギリス、マニラ占領
1763年 イギリスがカナダ、ミシシッピ以東のルイジアナ、フロリダを獲得する(パリ条約)。フランスはカナダに続いてインドも失う
1765年 ワット蒸気機関を発明
1768年 ジェームズ・クック第一次世界周航出発
1770年 クック、ニュージーランドの3ケ所に英国旗を立て、オーストラリア東岸を英領と宣言。フランス東インド会社解散
1772年 田沼意次老中となる。クック第二次世界周航出発
1773年 英人ヘイスティングがインドを虐政により強制統治。イギリス東インド会社がインドでのアヘン専売権獲得。イエズス会解散
1774年 杉田玄白・前野良沢『解体新書』成る
1776年 クック第三次世界周航出発。ハワイに到達、アラスカ海岸を北上探索してベーリング海峡を抜ける試みに失敗してハワイに戻り、79年不慮の死をとげる。76年アメリカ独立宣言
1777年 オランダ、ジャワ全土征服完了
1783年 ロシア、コディアック島(アラスカ)を占拠、北太平洋活動拠点を固める
1784年 クック航海記刊行、世界中で読まれ、ラッ毛皮交易の拡大に火をつける
1785年 フランス、ラペルーズ探検隊、宗谷海峡を抜ける
1787年 松平定信寛政の改革
1789年 ヌートカ湾事件、フランス革命
1804年 ロシア使節レザノフ、長崎来航

 「1772年 田沼意次老中となる。」や「1787年 松平定信寛政の改革」をみれば日本がどれほど孤立して世界の動向から離れていたかお分かりになるかと思います。

 私がお話ししたいのは、この時代の世界の話です。日本人にとっての鎖国は自然に何もしないでいても安全だったという話をしましたが、もし日本列島がフィリピンの位置にあったらどうでしょう。もし日本列島がフィリピンの位置にあったら、海外勢力は東西南北あらゆる方向から自由に攻撃できたはずです。南の海、南太平洋は自由だったのです。だから私は「1762年 イギリス、マニラ占領」を入れたのです。しかし北の海、北太平洋というものは人類が全く近づくことが出来ない海域であったということは、日本が分からないだけではなく、マゼラン以降の海洋勢力、大航海時代の人達にとっても太平洋の北半分の部分は魔界、「未知の海」だったということです。私はその話に誰も気付かないのが不思議で仕方がないのですが、それが日本の鎖国の背景です。

 日本人は本当には海というものを知らなかった。越後にも海はあった。備前にも薩摩にも海はあった。至るところに海はあり、そして海辺で海を見ている平和な国民は確実に居たのですが、「海洋」という概念、すなわち「海は繋がっている「こっちの海も向こうの海もひと繋がり」という観念は江戸時代の中期まで何も無かったのです。つまり日本列島の地理的形態もはっきりとは認識されていなかった。勿論地理学を勉強している人もいなかった。いたとしても限られた知見を持った知識人でした。新井白石のような人はいろいろ勉強をしていましたが、それでも殆ど知りませんでした。調べようが無かったのです。すべての情報は西、すなわち唐天竺から来る。漢字、漢文で来る・・・。それが日本人の長い伝統でした。いちばん最初にやってきた地図がラテン語で書かれていたら、それは模様にしか見えず、屏風絵にしかなりませんでした。

 最初に「地球は丸い」ということを教えてくれたのは、シナのイエズス会宣教師マテオ・リッチの『坤與萬國全圖(こんよばんこくぜんず)』で、北京で1602年に出版されました。木版6刷で縦1.8メートル、横4メートルという大きな地図です。世界の姿を楕円形で表現していて、当時普通の地図の書き方です。我が国の事もけっこう書かれていて、諸国の国名と七道が挙げられていました。これが日本にも紹介されて、この地図に漢字、漢文で説明が書かれていたので、「亜細亜(アジア)」、「欧羅巴(ヨーロッパ)」或いは「赤道」、「南極」、「北極」などという地理的概念はこのマテオ・リッチの地図に描かれていた漢字解説を基として今日に至るまで使われているのです。

 新井白石が理解していた世界も殆どこの地図の中に閉じ込められていました。我が国も少しずつ世界の情勢に目覚めるのですが、海に関する観念、殊に太平洋についての距離感覚はまことに頼りないものでした。以下の文は長崎に住んでいて、海外図書の閲覧だけでなくオランダ人から直に情報を得て勉強していた西川如見という人の『日本水土考』における太平洋に関する観念です。

 「日本の東は冥海遠濶世界第一の処にして、地勢相絶す。故に図上には亜墨利加(アメリカ)洲を以て東に置くと雖も、地系還(めぐ)つて西方に接して、その水土陰悪偏気の国なり。地体渾円の理を按ずるときは、則ち当に亜墨利加を以て西極に属すべし。」
(訳:日本の東は世界一大きな海原が遥か遠くなみなみと水を湛え、人知の及ばぬ地勢である。だから地図の上ではアメリカはわが日本の東に位置するといえども、大地を西に廻って西の果ての地として理解するほうがよい。その地理風土は天災を奥に秘め、正常とはいえない国である。大地の形が理論上球体であるというのなら、アメリカは西の最果ての地と看做すべきである。)

 「太平洋は何か恐ろしく巨大で、アメリカの事はもうサッパリ分からない。お手上げだ」つまり、はなから降参しているのです。「日本人にとって文明は常に西方浄土からやってくる。それならば分り易い。西のほうにどんどん行こうではないか。訳の分からないアメリカの事は後回しにしよう。地球が丸いのなら西にどんどん行けばいい。いつかは出会うだろう。それまでアメリカの事は考えないようにしたい・・・」そう言っているわけです。

 これは1720年です。これがこの後100年くらい続くのです。勿論この間にいろいろ考えられ、発見もあり本もいろいろ出てきますが、限られた知識層がこうなのですから、日本人がどのような認識で世界を見ていたかはおよそ察せられます。ここで詳しくは話せませんが、新井白石もこの程度の認識が前提でした。白石は大変な儒学者で政治家でしたが、論文を書くのは人生の最後でした。儒学者でしたが、シナのことは書かずに日本の歴史の事だけ書いたのですね。活動期は1713年から25年です。その頃はまだアメリカの歴史は展開していません。ですからヨーロッパのことは詳しいのです。有名な『西洋紀聞』や『采覧異言(さいらんいげん)』などはヨーロッパの事を書いているのです。そうはいっても西から来る知識のほうが確かなので、漢語で入ってきた知識で書いているのです。東に位置しているアメリカについては、どうも訳が分かりません。アメリカについて書いてあることは中南米についてです。あの頃はカリブ海で砂糖を作って大騒ぎしていたので、西から情報が伝わっていったのでしょう。あとメキシコやブラジルについての記述があります。しかし北アメリカはまだ無かったので当然資料も無いのです。それが今日の話のメインテーマです。

つづく