阿由葉秀峰が選んだ西尾幹二のアフォリズム「第三十回」

(8-43)教育界は真実を見まいとする病いにかかっている。

(8-44)何か一つを権威として祭り上げる者は、その何か一つを批判されると、自分自身の権威までが脅かされたように感じるのであろう。侵すべからざる自分の聖域に土足で踏み込まれたかのように感じた苦痛は、一時的に人を興奮させ、わけのわからぬ怒りに駆り立てる。

(8-45)九十九匹を救済した理想案は、理想的であればあるほど、それにさえも参加できない迷える一匹の小羊の不幸と苦悩を倍化させる。

(8-46)百人のうち九十九人を満足させようとする制度より、五、六十人を満足させる制度の方が、じつは百人全員の幸福につながる、

(8-47)日本には西欧的な意味での自由がない。封建社会の遺風がまだ残っているからだ、と。しかし、私はそうは考えない。そうではなく、自由を維持するにはそれなりの努力を要すること、ある自由を守るためには別の自由を犠牲にする必要があること、この認識が日本の社会には欠けているのである。

出展 全集第八巻 
「Ⅴ 教育と自由―中教審報告から大学改革へ」
(8-43) P534 下段「第二章 自由の修正と自由の回復」より
(8-44) P546 上段「第二章 自由の修正と自由の回復」より
(8-45) P554 上段「第二章 自由の修正と自由の回復」より
(8-46) P555 上段「第二章 自由の修正と自由の回復」より
(8-47) P563 上段「第二章 自由の修正と自由の回復」より

阿由葉秀峰が選んだ西尾幹二のアフォリズム「第二十九回」

(8-38)世界と人生において、われわれの出会う問題のすべては複雑だが、解決の手口がすべて複雑だとは限らない。否、単純な解決を目指して一直線に進む情熱がなければ、どんな問題も解決には至らない。そのためには問題の形態が単純にみえてこなくてはならない。

(8-39)いわゆる教育の世界では、人間性の暗い側面や、社会の発展に逆行する価値に権利を与えるという考えがそもそもない。死への心構えも近代の教育学のテーマにはならない。悪の魅力にも正面から目を向けることはしない。これでは人間性の半分に目をつむっているにも等しいのだ。教育という言葉に信頼が寄せられない所以である。

(8-40)教育学者や教育官庁や教育関係者に失望してもいいが、日本の子供たちに失望してしまうわけにはいかない。日本の学校教育に絶望してもいいが、子供の未来に絶望するわけにはいかない。日本の社会をみすみすそうと分っている病理の淵から救い出さないでおくわけにもいかない。
 ここにある意味でわれわれのディレンマがあり、問題の発端がある。

(8-41)文部省は、実際には、「明日にも」対応し解決しなくてはならない課題に取り巻かれているはずなのである。ただその課題を見ていないだけである。

(8-42)十八歳以下の子供たちも、できるだけ他人と同じ学歴を得ようとして受験競争をするのだとしたら、それはじつは競争心理ではない。他の存在と同じでありたいと思うのは、要するに競争回避心理だからである。

出展 全集第八巻
「Ⅴ 教育と自由―中教審報告から大学改革へ」
(8-38) P495 下段「第一章 中教審委員「懺悔録」」より
(8-39) P496 下段から497上段「第一章 中教審委員「懺悔録」」より
(8-40) P497 下段から498上段「第一章 中教審委員「懺悔録」」より
(8-41) P518 上段「第一章 中教審委員「懺悔録」」うpろ
(8-42) P534 上段「第二章 自由の修正と自由の回復」より

阿由葉秀峰が選んだ西尾幹二のアフォリズム「第二十八回」

(8-33)要するに知能指数の高い高度能力の所有者を、十八歳段階で、幾つかの特定の大学(最近では有力私大もこの中に入りますが)がほぼ完全に独占してしまう構造に、日本の教育組織の最大の難点があるのです。だからこそ予備校や塾は繁昌し、進学競争が幼稚園児からスタートするという日本の最悪の教育環境が国民を苦しめつづけているのです。

(8-34)競争を鎮めるために、学校の数を増やせば増やすほど、「格差」は逆に大きくなり、ヒエラルヒーの上下の差は広がり、上を不必要に押し上げ、下を無意味に押し下げるという力学が働くように思えます。

(8-35)日本の教育から自由競争はすでに完全に消え失せているのである。大学の固定した序列構造に群がる非生産的な競争はみられるが、真に公平で、健康な自由競争はすでに存在していない。

(8-36)例えば、私は否定でしか語らない。否定しなければ現実を明確に捉えることが出来ないからですが、同時に、ある事を否定することで私は何か別のことを肯定しています。私の肯定の仕方はいつもそういう性格のものです。従って最初からストレートに希望や期待を語ることを好みません。

(8-37)学問は認識の世界だが、教育は認識の対象で終わって良いのだろうか。教育は文献学や歴史学と違って、一歩行動に踏み込んで初めて分かってくる世界ではないだろうか。教育についていくら正しい認識を持ち得ても、現実を少しでもその正しい認識に近づけなければ意味がないともいえるのではないか。

出展 全集第八巻
「Ⅳ 第十四回中央教育審議会委員として」
(8-33) P424 下段から425上段「飯島宗一氏への公開状」より
(8-34) P447 下段「日本の教育の平等と効率」より

「Ⅴ 教育と自由―中教審報告から大学改革へ」
(8-35) P469 下段「中教審答申を終えて」より
(8-36) P478 下段「第一章 中教審委員「懺悔録」」より
(8-37) P491 上段「第一章 中教審委員「懺悔録」」より

阿由葉秀峰が選んだ西尾幹二のアフォリズム「第二十七回」

(8-27)先生に殴り掛かって来るような子は、じつは先生を頼りにしているとも言えるのであって、少なくともそこには指導の取掛かりがまだある筈なのである。問題のない子がかえって問題だとも言える。子供は問題行動を起こすものなのである。そういう基本的な考え方から出発する教師が少ないことに、校内暴力発生の主要原因の一つがあるのではないだろうか。

(8-28)災いだけを取り除いて、長所の部分だけを残すなどという器用なことが、人間に果たして出来るだろうか。社会人を含めた日本人全体の生き方が改まらなくて、教育だけを良くしようというのは虫がいいし、不可能なことだ。

(8-29)日本人がいい学歴を身につけたがるのは、個人の競争を避け、企業という集団内部に身を隠し安心したいがために外ならない。逆に言えば企業社会人の全体が赤裸々な個人競争を避けるために、人生の競争のすべてを高校三年生に押しつけているのではないだろうか。

(8-30)他人より抜きん出るためではなく、他人と同じような資格を得たいがために進学熱が高まっているのが一般的な実情だが、そもそも他人と同じような存在でありたいと思うのは競争心理では決してなく、むしろ競争回避心理である。

(8-31)けれども他人と同じ存在になろうとして競争し、その揚句、微妙な差別に悩まされるくらいなら、他人と違う存在になろうと最初から決意し、微妙な差別から逃れようとするのではなく、むしろそれを逆手に取って、差別される存在にむしろ進んでなるという決意でそれを乗り超えていく生き方だってあり得るのではないだろうか。また、子供たちに接する折の先生の態度もまたここに極まるのではないだろうか。

(8-32)視野が鎖されていたとき人間は強かった。情報の拡大が地球を透明にしていくこの時代に、情熱の高揚は難しい。

出展 全集第八巻
「Ⅲ 中曽根「臨時教育審議会」批判」

(8-26) P329 上段「「中曽根・教育改革」への提言」より
(8-27) P341 下段「校内暴力の背後にあるにがい事実」より
(8-28) P348 上段「「教育の自由化」路線を批判する」より
(8-29) P353 上段「「競争」概念の再考」より
(8-30) P367 下段からP368上段「教育改革は革命にあらず」より
(8-31) P376 下段から377頁上段「教育改革は革命にあらず」より
(8-32) P400 上段「「自由化」論敗退の政治的理由を推理する」より

阿由葉秀峰が選んだ西尾幹二のアフォリズム「第二十六回」

(8-21)教育は教育を受けること自体を自己目的とする行為であって、他の目的に奉仕する行為ではないのだ。

(8-22)教育とは他人に教えたり教えられたりする行為では必ずしもなく、自分で自分を発見する行為である。その妨げとなる障害や困難を取り除く諸対策は「教育問題」ではあっても、教育それ自体ではないのである。

(8-23)現代では、空想家ほど理想家のポーズをとりたがるものである。

(8-24)つまり、日本では目に見える範囲の同級生や仲間の間で差別されることには異常なまでに敏感なのである。しかし目に見えない処で、自分の知らない集団から差別されても気が付かないし、それどころか、自分も目に見えない集団に対しては残酷なまでに冷淡な扱いをして、さして恥じる処がない。抽象能力の弱い国民性に由来するのかもしれない。だから日本では学校単位の仕切りがごく自然な形態となったのであろう。学校間「格差」が発生して以来、重宝がられた所以である。

(8-25)しかし考えてみるまでもないが、一国の学問水準を高度に維持する大学院の数はそう多い必要はない。末端大学までが大学院を設置するのはナンセンスである。

(8-26)人間はみな同じという形式平等が進めば人間は多様さを失い、同類は頂点を目指して競い合うのが常であるから、横に拡がらず、垂直の単純な物理的な運動が始まる。下位は自分よりさらに下位のものをその存在の必要上欲求する。自分の優越感を正当化するために、つねに自分より下位のものを押し下げると共に、自分より上位のものを無意味に権威づける。

出展 全集第八巻
「Ⅲ 中曽根「臨時教育審議会」批判」より

(8-21) P294 下段「自己教育のいうこと」より
(8-22) P297 上段「自己教育のいうこと」より
(8-23) p299 上段「自己教育のいうこと」より
(8-24) P310 上段から下段「「中曽根・教育改革」への提言」より
(8-25) P317 下段「「中曽根・教育改革」への提言」より
(8-26) P329 上段「「中曽根・教育改革」への提言」より

阿由葉秀峰が選んだ西尾幹二のアフォリズム「第二十五回」

(8-16)学問の世界は「目的から自由な競争」が活潑に行われることによって、なんら弊害を惹(ひ)き起こさないほとんど唯一の世界である。例えば経済の競争は、独占資本を生み、不自由と不平等を惹起(じゃっき)しかねないが、学問の活動は、競争によって他を制限する可能性に乏しい。学問の世界では一人の指導者に対するいわば防衛手段として、つねに新たな学説や論理の擡頭を必要とする。いかなる才能も能力も懐疑によって、いいかえれば既成の概念に対する闘いによって展開されなければならない。もし学問以外の力に基くヒエラルヒーに制限され、言葉の最も健康な意味における競争心がおおらかに肯定されずに、阻止されるようなことがあれば、それは学問の自己破壊に道を通じるだろう。

(8-17)言うまでもなく、知識の伝達だけが教育のすべてではない。けれども人はどうやって理解とか愛とか人間性とかを他人(ひと)に直(じか)に教えることが出来ると考えているのだろう。現代の教育家はいつからそんな大それた自信を抱くようになったのだろうか。

(8-18)受験勉強などというものを大仰に考える必要もないが、自分の生活を禁欲的に律し、ある一時期に若さの激情を怺(こら)える「修行」としての意味も若干はあるだろう。今の時代に青年が緊張した一、二年を送る修行期間が他にはないのだから、受験が人間性を蝕むというジャーナリズム特有の感傷語がなんと言おうと、そうそう悪い面ばかりがあるわけでもない。

(8-19)成程、教育家は知識を超えたなにかを他人に伝えることに成功しなければ、教育家の名に値しないのかもしれない。しかし、彼が最も教えたいと思っているそれらの価値こそ、厳密に考えれば、他人に教えることの出来ない当のものに外ならない。
 教育家は教育というものの本来のこの限界を弁えていなくてはなるまい。

(8-20)人間は誰でも、結局のところ、自分自身を再体験するだけなのである。

出展 全集第八巻
「Ⅱ 日本の教育 ドイツの教育」
(8-16) P274 上段から下段「終章 精神のエリートを志す人のために」より
(8-17) P277 下段「終章 精神のエリートを志す人のために」より
(8-18) P281 上段「終章 精神のエリートを志す人のために」より

「Ⅲ 中曽根「臨時教育審議会」批判」より
(8-19) P293 下段から294頁上段「自己教育のいうこと」より
(8-20) P294 上段「自己教育のいうこと」より

阿由葉秀峰が選んだ西尾幹二のアフォリズム「第二十四回」

(8-11)願望が自分の手に届き得るようになったときに、願望は苦痛の泉となる。ところが繁栄社会はいろいろな願望を万人に撒(ま)き散らしているようなものだから、苦痛を撒き散らしていることにもほぼ等しいのである。

(8-12)どうにもならない不運は人を苦しめないが、うまくやれば回避できたかもしれないという不運ほど、人に大いなる苦しみを与えるものはないとは、ストア派の賢人エピクテトスの言葉だが、現代でもまったくこういう言葉は生きているのである。世襲的身分の違いは人を苦しめないが、自分も参加し、うまくやれば手に入ったかもしれない経験を取り逃した不運は、人を苦しめる。能力本位主義(メリトクラシー)が階層的身分を解体してから以後に起こったすべての事件は、この古人の一語のうちに言い尽くされている。

(8-13)日本人が個人を個人として評価せず、個人の背後につねに属性を見ている―この根本が変わらない限り、学歴問題に部分修正はあっても、閉塞した日本人のある感情の行詰まりに、新しい風穴を開けることは難しいだろう。

(8-14)もし日本に西欧型の個人主義が十分に根づいていたとしたら、産業の効率は今のように高まらなかったかもしれないが、その代わり、知識は人格の一手段にすぎないとの自覚も十分に深められ、学力とか専門知識といった能力の評価が直ちに人間の評価につながるような息苦しい社会的傾向に悩まされずにすんだであろう。

(8-15)変わっていなくても勿論いい。日本は日本である。われわれの「近代」がヨーロッパを追い越す段階に達した今になって、日本はやはり日本だったということがはっきりして来たまでのことである。われわれは江戸時代以来の社会心理、人間関係、エートスを保存したまま、外装だけ近代技術の鎧(よろい)で武装して生きているのだ。それはそれでなんら不思議はない。

出展 全集第八巻 
「Ⅱ 日本の教育 ドイツの教育」
(8-11) P216 上段「第六章 進学競争の病理」より
(8-12) P216 上段「第六章 進学競争の病理」より
(8-13) P223 上段「第七章 日本の「学歴社会」は曲り角にあるか」より
(8-14)) P242 下段「第八章 個人主義不在の風土と日本人の能力観」より
(8-15) P258 下段から259頁上段「第八章 個人主義不在の風土と日本人の能力観」より

阿由葉秀峰が選んだ西尾幹二のアフォリズム「第二十三回」

(8-5)理想というものはあくまで現実を是認した上で、現実との葛藤(かっとう)を潜(くぐ)り抜けていなければその名に値しないのだ、

(8-6)頭のいい子であればある程、先生が何を望んでいるかを先読みしている。大人にはどう言えば喜んでもらえるかを子供は本能的に知っている。

(8-7)道徳観の育成や社会的躾(しつけ)に関する教育は、本来は親の責任である。なにもかも学校に頼るという日本人の習慣がおかしいのである。その習慣が教師たちに、徒(いたずら)に悲愴感を掻(か)き立てた「教育家としてのプライド」を与えて来たのではないのだろうか。

(8-8)あくまで学校単位、集団単位で人間を評価し、その単位の内部では極力成員を保護し、傷つけないことをもって「教育的」とする。しかし自分の属する学校という一つの集団の外では、他の学校の生徒を学校間「格差」によって判断し、評価し、きわめて恥ずかしい思いを与えて平気でいるのである。この隠された取扱いは日本の社会では黙認され、当然と見做されている。

(8-9)差別を撤廃することがいっそう大きな差別を生む。これはじつに示唆に富んだ心理的逆説ではないだろうか。

(8-10)日本の学校では生徒たちに劣等感を持たせないようにとたえず気を配っている。みんな同じでなくては嫌だという、個人が共通の〝場〟から外されることをひたすら怖れる心理がつねに支配的だから、学校が毀れ物に触れるような態度に出るのは、ある程度やむを得ない処置かもしれない。けれども劣等感なしで生きている人間など世の中にいない。劣等感を持つということと、劣等感に苛(さいな)まれて自分を滅茶滅茶にしてしまうということとは、明らかに別個の事柄である。劣等感が生徒の自己幻想を脅かさない限り、人間性をまで破壊してしまう事態は起こらず、従って劣等感そのものはあくまで有害ではないのである。

出展 全集第八巻
「Ⅱ 日本の教育 ドイツの教育」
(8-5) P71 上段「第一章 ドイツの教育改革論議の渦中に立たされて」より
(8-6) P97 下段「第二章 教育は万能の女神か」より
(8-7) P103 下段「第二章 教育は万能の女神か」より
(8-8) P115 上段「第三章 フンボルト的「孤独と自由」の行方」より
(8-9) P155 下段「第四章 テュービンゲンで考えたこと」より
(8-10)P206 下段「第六章 進学競争の病理」より

阿由葉秀峰が選んだ西尾幹二のアフォリズム「第二十二回」

西尾幹二先生のアフォリズム 第8巻 教育文明論 より
坦々塾会員 阿由葉 秀峰

(8-1)なにかをするための自由ではなく、なにもしないですますための自由

(8-2)子供の躾や教育に関して、親と学校の間に分担領域の明確な区分がなく、親はなにからなにまで学校に期待しているくせに、学校のやることは信用がならんと疑わしい目で見つめ、子供の面前でさえそう公言して憚らない親もいるほどである。

(8-3)普段から、なんでも蟠(わだかま)りなく口にし、ある程度無遠慮に内心を打明けているような家族同士であれば、ことさらの「話合い」などまず必要がないのである。そういう雰囲気が家庭のなかに醸し出されているのかどうかは、親の責任、ことに父親の責任である。永年にわたる彼の生き方が、家庭内の空気を決めているのである。いい空気が得られるかどうかは、父親の社会的地位の上下とはなんの関係もない。

(8-4)大人が競争したくないために、子供の世界にそれを押しつけている。

出展 全集第八巻
「Ⅰ 『日本の教育ドイツの教育』を書く前に私が教育について考えたこと」
(8-1) P11 上段「今の教師はなぜ評点を恐れるのか」より
(8-2) P23 下段「わが父への感謝」より
(8-3) P29 上段「わが父への感謝」より
(8-4) P48 上段「競争回避の智慧と矛盾」より

阿由葉秀峰が選んだ西尾幹二のアフォリズム(第二十一回)

(2-42)昔の子供は、大人になるまでに気の遠くなるような数多くの困難を乗り越え、厄介な課題を解決しなければならないことを肌身に感じて知っていた。そして困難な諸条件をクリアすることによって初めて大人になったのですが、今は何もまだ出来ない子供が自分を一人前の大人だと思っています。

(2-43)人間は自由ということに長期間にわたって耐えられない存在なのだといえるでしょう。人間は束縛を欲する存在なのです。束縛からの甘い解放の歌を歌いたがっている人に限って、えてして奴隷になりたがるものなのです。

(2-44)人間は、悪を避けてしまえば善だけで生きられるというような単純なものではないでしょう。むしろその逆です。悪の存在しない理想郷の看板を掲げ、いかなる自己愛も許さない社会では、悪は消滅したのではなく、意識下にもぐり、偽善という悪の形態をもって民衆の道徳感を麻痺させ続けているのです。
 悪を是認しない思想はそれ自体「悪」である。不合理の存在しない社会は、もっとも不合理な社会なのである、

(2-45)非核三原則がいけないのは、汚いもの怖いもの臭いものは全部国の外にしめ出して、目を伏せ耳を塞いでいれば外からは何も起こらずわれらは幸せだ、自分の身を清らかに保ってさえいれば犯す者はいない、という幼稚なうずくまりの姿勢のほかには、いっさいをタブーとする迷信的信条の恐ろしさである。

(2-46)文学者が自己表現をするためには自己を超えた何かを持つことが必要である。神であれ歴史であれ、何かを信じていることが必要である。自己を解消する何かを欠いた自己表現は、空しい心理の断片か、観察の断片かに終わるのが常である。

出展 全集第2巻 「Ⅴ 三島由紀夫の死と私」
(2-42) P525 上段「三島由紀夫の死 再論(没後三十年)」より
(2-43) P538 上段から下段 「三島由紀夫の死 再論(没後三十年)」より
(2-44) P539 上段「三島由紀夫の死 再論(没後三十年)」より
(2-45) P559 上段「三島由紀夫の自決と日本の核武装(没後四十年)」より

「後記}
(2-46) P594