現代世界史放談(三)

宗教戦争

 もうひとつ、別のことをお話しします。イスラム教とキリスト教の宗教戦争が続いているという現実です。日本はどちらの宗教にも関係ないのですから口出しをしてはいけません。下手なことを言ってはならない。

 イスラムはオスマン帝国が18世紀の末まで大帝国を築いていて、19世紀の前半くらいまで、ヨーロッパはオスマン帝国に力においてだけでなく、文化においても頭が上がらなかったのです。

 多くの日本人がその歴史の流れを重視していなかったのは、日本での歴史教育が西洋の優位という一点において全て理解されていて、明治の多くの思想家というと、福沢諭吉も岡倉天心も中江兆民も頭のなかが欧米だった。明治維新以降、日本の歴史のなかにイスラムは入ってこなかった。現実は、明治維新の直前までイスラムが世界を支配していたにもかかわらずです。

 アフリカの西からインドネシアの端までイスラム社会が築かれており、それが逆転されたのが18世紀から19世紀へかけてです。代表のオスマン帝国が滅ぼされたのは第一次世界大戦後です。その恨み骨髄に徹しているのがいまのイスラム教徒で、絶対にキリスト教徒を許してはいません。キリスト教徒は敵なのです。いま起こっているのは、そのような流れの下にある宗教戦争です。

 日本の知識人は、イスラム諸国のイスラム教徒は決してテロリストではない、偏見をもたないようにとしきりに論説します。それはそのとおりでしょう。ですが、どこからお金が出ているのでしょうか。イスラム系の大商人から膨大なお金が流れているに決まっています。つまり積年の恨み、イギリス・フランス・ベルギー・ロシア――――皆、宿年の大敵なのです。

 だから私たち日本人は、黙って見ていたらいいのです。下手に口を出してもいいことは何もない。安倍総理は少し喋り過ぎではないでしょうか。私は西欧に味方するなど口先でも言わないほうがいいと思っています。わが国は神道と仏教の国、争いを知らない別の宗教の国なのです。

鎖国の真実

 イスラムと西欧の関係を、わが国を巡るアジアの展望図に投影してみるとどう見えるか。

 イスラムは長年、主役であったのが18世紀の終わりから20世紀はじめ頃までの百年間に逆転してしまって西洋に地位を奪われたのと同じように、シナは長年、覇者と信じていたのに19世紀になって日本に逆転されてしまいました。イスラムと西洋の二つの関係は、中国と日本の関係とパラレルです。この観点は誰も考えてこなかった。

 つまり、今日の中国人のあれほどの政治的な反日感情は昨日今日の話ではない。第二次世界大戦以後のことでもない。イスラムの西洋に対する敗北、劣等感と敵視、それと同じことがシナ大陸とわが国の間に起こっている。韓国もシナ大陸の属国です。こういう発想が日本の外務官僚には全くない。ずっとずっと分かりやすくなると思いますが、日本の歴史教育のなかにもそういう発想が全くない。

 キリスト教の歴史をみていると悪どいもので、たとえば「ジハード」という言葉があります。あれをイスラム教徒の聖戦に当てはめて、一方的な攻撃戦のように言いますが、剣を振りかざして虐殺したのはキリスト教徒で、それを全てイスラム教徒に擦り付けたのではないか。それがジハードです。

 ちょうど日本人虐殺の通州事件を南京虐殺と読み替えて、日本人がやったようにシナ人が擦り付けるのと同じように。世界中でそういうことがやられている。ところが日本人は、そういうことをされても「へへへっ」と笑っているだけで、糞!やられてたまるか、と国を挙げて反発反撃しようともしない。

 シナは自己中心の国で思い込みが激しく、閉ざされた地域です。もともとシナは鎖国文化圏なのですね。鎖国していたという点では、東アジアはどの国も同じです。海禁政策というのですが、江戸の日本だけではなくシナも朝鮮も同じだった。外と交わらず、自分が全ての中心だと思っている。ただ明、清のシナではキリスト教の布教は許されていました。

 明の時代に、マテオ・リッチというイエズス会宣教師が、地球は丸いことを示す大きな地図「坤與万国全図」を初めてシナにもたらしました(1602年)。それは日本にも伝わり、江戸の日本が地球は丸いということを知ったのは、リッチのこの一枚の大きな地図から始まる。
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 マテオ・リッチはシナの知識人に逆らわないようにするため、地図の真ん中にシナ大陸を置いて、ヨーロッパ中心ではない地図を見せました。すると、日本列島も真ん中に来るわけです。太平洋が右側、シナ大陸が左半分にある。

 それを見たシナの知識人の多くは、こんな地図は間違いだ、と言って聞き入れませんでした。地球の四分の三が自分たちの領土と思っていたからです。断固反対した。しかし、日本人は誰もそんなことを言う人はいませんでした。

 その意味で日本人は謙虚で、外から届けられる知識に対して非常に慎ましく対応して、自分を無にする心があると思います。日本人は鎖国していても、心は西洋に向けて開かれていた。鎖国は半ば以上、シナ大陸に対してなされていたのです。シナ人は江戸市中立ち入り禁止だったことはご存知ですか。

 日本人はキリスト教は禁じましたが、西洋の科学は「窮理の学」として早くから学ぶ気構えでした。自分に囚われず、遠い異文明に心を開くのが日本人の常です。これは他のアジア諸国、シナや韓半島とはまるきり違うところでしょう。

 とりわけ、韓国人はシナ人以上に自分が絶対です。滑稽なドラマがあるのはご承知のとおりです。自分のイデオロギーから抜け出ることができない民族なのですから。朴槿恵大統領は、日本の左翼よりももっと歪んだあのようなおかしな歴史観を本気で信じているのです。子供のときから習っている「正しい歴史観」に日本人を変えなければいけない、と本気で信じています。

 「正しい歴史観」とは、あくまで「韓国はえらい」という歴史観です。それに日本は全部従えと言っているだけですからきりがない話で、相手にしてもしょうがないのです。日本国民の多くはやっとそのことが少し解ってきたのですが、外務省だけがまだ分かっていない。何度でも騙される。繰り返し韓国に騙される日本の政治家と官僚群。

 驚くべきことに、最近の韓国国民は、朴槿恵大統領は外交で戦後一番成功を収めている政治家だと信じているそうです。呉善花さんから聞きました。

つづく

月刊Hanada 2016年6月号より

現代世界史放談(二)

中国の魔力

 アヘンを買い続けたシナは、次には支払うべき銀が足りなくなり、国外へ銀が流出して経済破綻します。いまの中国がまさにそれです。ドルがどんどん流出して、外貨準備高は急速に減り続けています。

 話を遡りますと、1990年代初頭、アメリカは日本の経済に敗れた頃、日米構造協議で日本の社長や経営者の財布の中身にまで干渉してきました。小売店を潰して全部大型店舗にしろなどと言われ、地方都市の商店街はシャッター街になってしまいました。勝手に日本型経営の仕方や経済構造、談合、株の持ち合い、終身雇用、年功序列にまで散々に手を突っ込んだのが日米構造協議でした。アメリカの資本主義を正統と見なし、日本のそれを異端とした。正統が異端を裁くのだという異端糾問裁判が、あの日米構造協議です。

 しかし日本側では、外務省も経済界も寂として声を挙げなかった。改革は日本の消費者のためにアメリカが善意でしてくれるのだと頻りに言い、アメリカに右に倣えとすることを国是とした。それは日本を潰せという方針であって、一斉にいろいろやられたわけですが、日本はアメリカの焦りに気がつかず、自分が間違っているように思い込んだ。

 アメリカはメキシコなど様々な国で工場展開をしましたが、うまくいきませんでした。そこで中国大陸の豊富な労働力と広い土地に目をつけると、鄧小平は待っていましたとばかりに税の優遇措置を提言し、積極的に外貨を導入しようとした。つまり、中国の政策の魔力にアメリカは囚われてしまったのです。

 他方、中国はまるで尻に火が点いたように走り出す。それから十年、十五年、その急激な変化は驚くべき速さです。しかし、これは昔のシナと非常によく似ているのです。

 19世紀のはじめ頃、イギリスも貿易赤字で苦しんでいて、清から絹・茶・陶磁器・木綿などを買っていましたが、それに見合うイギリスからの輸出品は毛織物や時計など玩具の類で、そんなものではとても清から物産を輸入できない。そこで、当時の国際通貨が銀だったのでそれを利用しようとしたが、ロンドンから銀を運んだのではなく、植民地インドから清へ銀が支払われました。

 しかしインドにもそんなに銀があるわけではないので、イギリスははじめインドに綿織物を運んでそれを売って得た銀を使って清からお茶を買い入れたが、それでも銀が足りない。

 イギリス人が次に考えたのは、インド人にアヘンを作らせてそれを清に運ぶことでした。清にアヘンがもたらされると、アヘンを吸飲する風習は瞬く間にシナ人の心を捕えて、イギリスは銀の決済をしなくてもアヘンを持って行けばお茶が買えるということで、悪名高い問題が起こるのはそれからあとです。

 ちょうどいまの中国が近代市民生活に憧れて「爆買い」するように、アヘンをどんどん買います。そのため、清にあった銀の保有量が減ってしまい、銀が急速に外に流れ出したのです。ちょうどその時期の中国といまの中国は似ている。

 現代ではアヘンではなくて人民元をどんどん刷っていたわけですけれど、最近、人民元の暴落が身近に迫ってきて、まだ値のあるうちに外貨にこれを替えるべく、国家は西側の有力企業を狙い撃ちして爆買いし、富裕層や中流層まで海外送金に目の色を変えている。

 アメリカや日本は、いま中国にアヘンを売っているわけではありません。しかし、閉鎖的で貧しかった中国13億の民に近代生活の富の味を教えた。かくて中国は毒を食らわば皿までと、金持ちになることに無我夢中になっていたけれど、ここへきていったん握ったカネを失いたくない、とドルや円やユーロにこれを替えようとして、急速に富が外に流出する事態になっているということです。

 歴史は不思議にも同じことを繰り返すものだ、と私はしみじみ思います。

つづく

月刊Hanada 2016年6月号より

現代世界史放談(一)

日米戦争の始まり

昔から欧米がアジアで注目するのはシナであって、日本ではありません。ペリーが来航した頃、蒸気船は存在せず、まだ帆船でした。ペリーは太平洋を横断してきたのではなく、その頃、アフリカ南端の喜望峰を廻って上海に行くのに、ロンドンからとニューヨークからとの二つの航路がありました。面白いことに、ニューヨークからの方が近かったのです。

 それゆえ、1810年代の早い時期に、アメリカの対支貿易はイギリスを凌駕していました。スエズ運河ができたのはやっと明治維新の頃、1869年でした。その頃、蒸気船もできて、イギリスがアメリカを引き離し、焦ったアメリカはパナマ運河の開発を考えるようになります。

 パナマを切り拓くためにはカリブ海を自らのものにしなければならず、そのためにはスペイン勢力を同海域から追い払わなければならない。そこでアメリカは、スペインと戦争を始めるのです。スペインは当時、西太平洋にもまだ力を残していました。アメリカがフィリピンを押さえ、同時にハワイを占領し、スペインを倒した米西戦争(1898年)において、太平洋はスペインの海からアメリカの海になります。実は、これが日米戦争の始まりなのです。

その話をすると切りがありませんが、少なくとも当時のアメリカでは、領土を拡大することを嫌がる勢力が国内にかなりおり、膨張主義者たちはそうした内向きの議会勢力を押さえて太平洋へ出ていくために、スペインのフィリピン領有を否定する理由が必要になっていました。フィリピン自体よりも、さらに西側により強大なアメリカの敵があることを議会で主張せざるを得なかった。その敵というのが日本なのです。当時は日清戦争が終結しており、台湾は日本領でした。

その頃から日本がアメリカの最大の敵だったのかと考えますと、そうは思えません。アメリカは一貫してイギリスと争っていたのです。イギリスをいかにして倒すか。英米は絶え間ない張り合い状態にあった。両国の貿易競争で相克するプロセスのなかに日本があった。英米対立の構図における日米戦争、あるいは大東亜戦争のそういう側面を、戦後すっかり忘れられている問題点として指摘しておきたい。

世界の妄想「シナ幻想」

その頃、シナの人口は6億人くらい、広大な土地と巨大な資源が眠るに違いないと思い込む世界中の妄念があり、いまでもそう思い込むふうがあるらしく、人々は「シナ幻想」に踊っています。

ペリーは何としても太平洋横断航路を作らなければいけない、と海軍省に手紙を出します。シナへの中継地として日本が必要であると考え、小笠原諸島を狙います。

しかし小笠原はすでにイギリスが手を付けていて、ここでも英米はぶつかります。このようにシナが本命で、日本は中継地として重要だったにすぎません。でもその力学がずっと働いていて、「シナ幻想」が世界を覆っているからこそ、いまでもシナに「大甘」なのです。

白人は、習近平のような男が居座っているのが異常だと思わないようです。スターリンやヒトラーであれほど苦しんだはずではないかと言いたい。習近平のシナは、明らかにあのスターリン型の独裁国家に急速に変貌しているにもかかわらず、暢気でぼんやりしているのが西側諸国であり、日本政府も共産社会の克服の問題については強いことは言わない。

1992年の「南巡講話」から始まったシナの改革開放路線が生産力を高めて国家的台頭を示したのには、けっして遠い、長い歴史があるわけではありません。この約十年かそこらではないか。実は5年くらいではないかとも思えてなりません。そしていま、急速に峠を越えつつあります。

現代は、アメリカが日本と一緒になってシナ大陸にアヘン戦争を仕掛けていると私は思っています。意外な観点と思われるかもしれません。

21世紀のアヘンは、中国人にとって近代生活の富ときらびやかな便利さなのです。想像もつかないスピードで、中国人は浮かれ出したではありませんか。アヘンに溺れたのとよく似ています。2000年はじめ頃、中国はまだ貧しい、穏和しい国でしたが突然、強気になり出した。日本とアメリカの投資で膨れ上がったからです。それを「自分の力」と錯覚してどんどん借財を作り、自転車操業を繰り返すことによって力を経済的に外にも高めることだけに意を注ぎ、架空の力でここまできているのではないでしょうか。

つづく

月刊Hanada 2016年6月号より

70年安倍談話をめぐる私の事情

 8月14日における安倍総理の70年談話に対し保守系言論界が一般的に高い評価を与えているのに少し驚いています。評価には余りに政治的、意図的な匂いが感ぜられるからです。私は見解をまだ書いていません。

 8月12日にBSのフジTV系「プライムニュース」で例のないほど長い時間、戦争と平和と戦後処理について語るチャンスが与えられ、存分にしゃべったので、もうそれでいいと思っていました。

 しかし総理談話が具体的に出てみると、やはり自分の見解を言っておく必要があるとも考えています。私は談話の示した歴史観に不満があるからです。

 遅ればせながら何らかの形で一度は雑誌に論評を出したいと思いますが、少し待って下さい。文章を出す前に、日本文化チャンネル桜の私のGHQ焚書図書開封の時間帯で「真夏の夜の自由談話」第5回と第6回を用いて安倍談話の分析と批判を展開しました。9月9日と23日の放映でYou Tubeに出れば当ブログに転送されます。

 何人の方から西尾は黙っているがどう考えているか、とのご質問をいたゞくので、別にわざと黙っているわけではなく、プライムニュース(8月12日)で一時間半も話す時間を与えられたのでもういいと思っていただけです。

 あんなに伸び伸びと地上波テレビで語ることが出来た例はついぞありませんでした。これからも恐らくないでしょう。

 ただし当ブログに転送されたプライムニュースはダイジェスト版で、しかも2週間で消えました。坦々塾会員浅野正美さんのご努力でオリジナルが再生可能となりましたので、下記に掲示します。尚、8月13日の日録からも見られるようになっています。あの日のコメント欄に、録画してあるから転送してあげるよと言って下さった方々が多数あり、とても嬉しく存じました。ご協力まことにありがとうございました。

講演 ヨーロッパ「主権国家」体制は神話だった(決定稿)(五)

            (五)

 それでは、なぜアメリカがヨーロッパに取って代ろうとする力になったか? 多様な考え方があって、今の私の連載ではそれを追究していて、全部終わってからでないと確たることは言えませんが、ひとつだけ今日お話しできるのは、古代から中世を経て、ひとつの考え方があるんですよ。「アメリカとヨーロッパ中世は似ている」ということなんです。中世の無秩序と暴力社会ということは、先ほどお話ししましたね。今のアメリカはやっとここまで来たのであって、やっとここまで両大陸は来たのであって、また無秩序に戻りつつあるけど・・・。アメリカは最初、とにかく南アメリカも北アメリカも中世的な無秩序状態、自然状態だった。

 アメリカというのは、予想外に「ヨーロッパの過去」に根を持っているんですよ。幾つか原因がありますが、一つは「宗教過剰」ということです。Theopolis 「神の国」をアメリカ人は信じています。アメリカ人の信じ方、これは凄いですよ。ピューリタニズムに覆われたアメリカは、とりわけ「朽ち衰えるヨーロッパと、新しい、未来の輝かしいアメリカ合衆国。」「腐敗のヨーロッパと、純潔のアメリカ。」これがアメリカが最初から意識した、それこそ、ワシントン、ジェファーソン、アダムスらが言っていることですが、アメリカはこれによってヨーロッパを超えようとしたわけです。しかしそれは、ヨーロッパに始まっているんですよ。先ほどから何度も言っているルターやカルヴァンに始まっているんです。つまりそのことは宗教改革に始まっているのであって、そしてローマ教王は「アンチクリスト」であるというふうなことで、世界を蘇らせたあのエネルギーというものがまた始まるのです。

 いまひとつ申し上げたのは「宗教過剰」ですが、もうひとつは、「帝国の思想」というのがヨーロッパにあり、それがアメリカにのり移った、ということです。ジァファーソンも「帝国」ということを言っていますが、そういうアメリカの要人が言っていたことよりもっと広く、ヨーロッパ中世のバック・ボーンを成す「神話」があるんですよ。私もまだ詳しくはなく勉強中なのですが、「四つの帝国」という「神話」があるんです。皆さん、この話知っていますか? 旧約聖書の「ダニエル書」に出てきて、それは「ヨハネ黙示録」に並んで過激な・・・、というよりピューリタニズムの柱を成した思想です。ヨーロッパの歴史の中で、4つの帝国が移動してゆくんです。ネブカドネツァルは聞いたことあるでしょう? ネブカドネツァルというのは、イスラエルを滅ぼしてバビロンへ連れて行った・・・、「バビロンの捕囚」を行った王様ですね。彼が不思議な夢を見て(それに悩まされ)、予言者ダニエルが(内容を言い当て)解釈した。

その思想・・・。

『 王様、あなたは一つの像をご覧になりました。それは巨大で、異常に輝き、あなたの前に立ち、見るも恐ろしいものでした。それは頭が純金、胸と腕が銀、腹と腿(もも)が青銅、すねが鉄、足は一部が鉄、一部が陶土でできていました。見ておられると、一つの石が人手によらずに切り出され、その像の鉄と陶土の足を打ち砕きました。鉄も陶土も、青銅も銀も金も共に砕け、夏の打穀場のもみ殻のようになり、風に吹き払われ、跡形もなくなりました。その像を打った石は大きな山となり、全地に広がったのです。これが王様の御覧になった夢です。さて、その解釈をいたしましょう。』

・・・ということで、ひとつひとつの帝国がそこに準えられていて、第一の帝国(純金の頭)がシリア、第二の帝国(銀の腕)がペルシャ、第三の帝国(青銅の腹と腿)がギリシャ、第四の帝国(鉄と陶土の足)がローマ、というふうに、帝国が移り変わった。その次に今度は時代が中世ヨーロッパになって、この「夢」は新たに解釈し直されて、四つの帝国は、第一に古代ローマ帝国、第ニにビザンツ、東ローマ帝国、第三にカール大帝のフランク帝国、カロリング王朝ですね。最後にオットー大帝の神聖ローマ帝国です。これは何れも古代と中世のヨーロッパの帝国がこの夢であったと、帝国の移り変わりの思想です。この帝国の移り変わりは、優れてヨーロッパ中世的なヨーロッパが「自分たちを凄いぞ」、といって自讃するイデオロギーの中核にありました。

 この「帝国の移転」の思想は、ヨーロッパでは消えてゆきますが、ところがそれがアメリカへ移ったということなんです。第四から第五の帝国(自然に切り出された石がは像の全てを打ち砕き、山となって全土に広がった、五番目の帝国「永遠の国、神の国」)、「アメリカ」が出てきます。それがアメリカの神話的根拠。これを言いだしたのは、なんと哲学者バークリなんです。バークリを通じてこの思想がアメリカに伝わったのです。

 皆さんは、オサリヴァンの「マニュフェスト・ディステニー」のことは知ってますね。「明白なる運命」などと訳されます。19世紀にオサリヴァンという新聞記者が言った「マニュフェスト・ディステニー」というのは、西へ西へとアメリカは膨張し拡大して行き、それは神のお告げであり意思であり「神慮」であるということです。女神が空を飛んでいて、西へ向ってゆく、そしてインディアンなどを蹴散らしてゆく・・・、そういう絵もあります。その西へ行くエネルギーがカリフォルニアに到達しハワイに行き、やがて日米戦争を惹き起したというのが、全体として考えられる問題なんですが、このドラマ、「マニュフェスト・ディステニー」は最初に誰が言ったかというと、哲学者バークリだというのが驚くべき話であって、古田先生のこの本((二)の最後で紹介)は、バークリから始まっているんですよ。古田先生はドイツ哲学よりも、イギリス哲学のほうがより根源的だというお考えです。バークリという人は、実際に物が存在するということを、「実在は人間の視覚と感覚を通じて認識されるから存在するのであって、それ自体が存在するわけではない」ということを最初に言いだした人で、それに対してまた否定論がいろいろあって、カントに繋がってゆくわけですけれど・・・。

 バークリは大知識人であり、西洋史の一角を築いた人ですが、実は五番目、「第五の王国」としてアメリカを措定し、「新しいイスラエルを建国して世界の終末までこの世を支配するであろう(アメリカは・・・)」そういう詩を書いていて、それが1752年に公表されまして、その10年ほどの間に10回以上も印刷され多くの人々の間で回覧されます。それに対する研究もあります。

 皆さんはカリフォルニア州立大学バークレー(バークリ)校をご存知でしょう。あれはまさにそうなのです。第二代学長(カリフォルニア州立大学バークレー校の) D.C.ギルマンが1872年、つまりバークリより120年くらいあとの学長就任演説で、

『 大学の場所がバークリ、学者で神学者の名を冠しているのは宗教と学問の双方にとって善の兆しである。彼つまりバミューダ諸島にカレッジを創ろうとしたイギリスの聖職者をロードアイランドのニューポートへと運んだロマンチックな航海から、まだ一世紀半もたっていない。……彼の名声は、……大陸を横断した。そして、いま、地球のまさにこの果てで、ゴールデンゲート海峡の近くで、バークリの名はよく知られた言葉となるに違いない。彼の例をみならおう。……彼のよく知られたヴィジョンが真実になるように働き、かつ祈ろう。
 「帝国の進路は西にあり
最後の四幕は すでに閉じ (四幕というのは、古代と中世の四つの帝国です。)
その日とともに ドラマが終わるは 第五幕
もっとも高貴なる時代 そは 最後の第五幕」 』

 こういうバークリの言葉があり、そして「明白なる運命」というのは、単に終末論、終末論ではなくて、アメリカ的楽天主義、進歩の理念に結びつく。そしてそれが、教育と科学技術の展開になってゆく・・・。これがどんなに根強いものであるか、ということにわれわれは深く思いを致さなければならないんですね。

 古代ローマ帝国、東ローマ帝国、フランク王国(カロリング朝ですね)、神聖ローマ帝国、古代近世、中世にかけての帝国。これは最初、古代地中海世界に生まれた帝国が中世ヨーロッパで開花し近代アメリカに移転した・・・。アメリカ合衆国は近代のトップランナーであると同時に旧約的な帝国思想の継承者であり代弁者である。すくなくともその思想は、地下水脈として延々と19世紀と20世紀のアメリカ合衆国に流れつづけたということです。

 19世紀と20世紀の世界を支配したのは、近代国家システムだと信じられています。これは国家だけが暴力を支配することを許し、暴力の発動は警察か軍隊か、つまり国家は内側には警察、外側には軍隊、こういう主権国家の特権として、それを基にして今の世界は成り立ってはいるわけですけど、それが本当に守られているでしょうか? それが今、おおいに疑問として突き付けられていることなのですね。21世紀の世界では、主権国家よりも宗教や民族や何か別のものが結合体として動いているケースが強い。略奪や私的な虐殺などが横行する・・・。中世と同じような現象が顕れ始めているわけですね。

 加えてその帝国、アメリカは、例えばアメリカと中国の今の関係はというと? 私にはアメリカは中国に阿片戦争を仕掛けていると思っております。またまたやってるな・・・と。「阿片」というのは、中国人に阿片の代りに「甘美なる近代生活」を味あわせたわけです。便利で豊かなモダンな生活を中国人の一部の人にでも与えたわけですね。これは麻薬のごとく中国人を虜にし、そしてそれによって踊らされて、あっという間に中国はそういう製品に溢れた国になっていったわけです。でも買いきれなくなって、今度はいよいよドルを放出せざるを得なくなってくる。いまはもう行き詰まりにきています。これはさながら嘗て、お茶を売って銀がどんどん流入していたイギリスと支那の関係で、どんどんどんどん流入した銀がある段階から流出に転じて・・・、それで支那はご承知の通り滅茶苦茶になってしまうわけですね。いまそういう境目に来ているんじゃないですか? 支那大陸は・・・。

 つまり歴史というのは案外同じことが繰り返されるわけですが、これはアメリカが仕掛けているんですよ。これが「アメリカ帝国」なんですよ。やっぱり帝国の思想なんですよ。そして日本にはひたすら従順であることを要求しているわけです。しかし、ついこの間まで円高で日本を苦しめていたのは同じアメリカですからね。

 一方ヨーロッパはどうかというと、ルールを守ろうとして、「ヨーロッパの中だけは、うまくやろうじゃないか」と。そういう理念は啓蒙主義の時代に生まれているわけですから、それは分かるわけですね。それがEUというものを創ったわけですが、でもEUというのは積極概念ではなくて、あるものに対する恐れから始まったのであって、それはアメリカと日本に対する当時の恐れだったわけです。アメリカはご承知の通り1971年にドルの垂れ流しのような、金兌換性を否定するニクソン・ショックというドラマがありましたね。ドルは垂れ流しになるわけでしょう。つまり、ドルはいくらでも刷って良いというこの恐るべきシステムにヨーロッパは吃驚するわけです。約束が違うのだから・・・。そして地球の40%まで、日米経済同盟で支配されてしまう。あれがヨーロッパを狂ったようにさせたEUのスタートなんですよ。EUは恐怖から始まっているんですね。そしてそれが湾岸戦争で、ドルの支配とユーロと争ったけど、結果としてアメリカはヨーロッパを許さなかった。そして結果として、アメリカはEUには軍事力を認めなかった。NATOがあくまで頑張れよと。

 EUに独自の政治国家は許さないということですから、結局EUは何のために創ったのか分からないということになってしまいます。もともと昔争っていた国々が、なんとか「合理的」に和解していこうとしていたところですから、内部の対立が激しくなれば、直ぐに箍(タガ)がガタガタと狂うのは当たり前で、このままいけば、10年もたないうちにマルクやフランが独立することになるのではないでしょうか? もちろんギリシャが脱落するだけではなく、マルクもフランもリラも・・・。全部そろそろ別々にやろうという話になるんじゃないか、と私は何となく思っていますが、まぁ、どっちに行くかわかりかせんが・・・。輝かしいEUの未来というのは考えられないと私は最初から思っておりました。また怪しくなっているから・・・。まぁ、それで歴史は同じことを繰返しているんですよね。

 それは各国みな基本にあるのはエゴイズムなので、ちゃんとそれを見ていれば、そういうことはよく分かるのです。ヨーロッパがなんとか創った形の秩序、法秩序、国際秩序、国際法 International Law というものがその基本に有るわけですが、日本はそれを一所懸命守って「文明国」になって、それでもなお且つそれで、イギリスの裏切りとアメリカの無法で、痛い目にあわされて。そしていまだにイギリスとアメリカが大きな顔をして地球を「理念的」に支配している構造が続いているために、日本は仕方なくて頭を下げて我慢して生きているという・・・。こういう状態が続いていると私は理解しております。

 ですから、今度の「イスラム国」は、それに我慢できなかった人たちが居るわけで、これは恨み辛みがたくさんあって・・・。そのようになったと思えるのは、おもに「イスラム国」に参加している人々が移民の2世、3世ですよね。フランス、ドイツ辺りにいる移民の子供達ですね。だからそれは如何に閉塞感があって・・・。つまり、ここで「日本は移民をやってはいけない」んだよ、と・・・。移民をやると碌なことが起こらない。これは絶対やらない・・・。ということでいかなければいけないのに安倍総理は、移民問題だけはだらしないところがあるので非常に心配です。これは断固、皆で反対しなければいけないテーマですが・・・。しかし私も言うのに疲れてしまって、皆さんの力もお借りしなければいけないと思っておりますが・・・。もう、目の前でこれだけのドラマを見ていながら、まだ「移民だ」などと言っているのだから・・・。それにテレビがいちばんいけないのは、「移民は危ない」と以前よりは言うようになったけれど、それが「イスラム教徒」というんですよ。日本の移民で怖いのは「イスラム教徒」ではないですよ。「中国人」に決まっているではありませんか? ところがテレビは、「中国人が怖い」とは言わないんですよ。言ったら首が飛ぶのかな? よく判らないけど・・・。私は「中国人に対する「労働鎖国」のすすめ」という本も書いているんですよ。そんなこと、遠慮していてどうするのでしょうか? まぁ、そういうところでしょうか。では、このへんで終わりにしましょう。

記録:阿由葉 秀峰

講演 ヨーロッパ「主権国家」体制は神話だった(決定稿)(四)

         (四)

 いま現に展開している中東の情勢と、世界史を震撼させている新しい現象。突如として起こった奇怪な事態の数々・・・。しかしこの根は全部「歴史」にあるんです。大概の事は「歴史」にあるんですよね。

 それに対してわれわれが「許せない!」と言ったり、「無法だ!」と言ったり、安倍さんが「国際法というものがある!」ということを言ったりする。それをわれわれが常識として考えているのは、主権国家というものがしっかりと各国の体制を守り、警察と軍事力によって、内側には警察、外側には軍事力で、この単体としての国家体制というものを自存し、独立させているのが自明だと何となく思っているからなんです。そしてヨーロッパがの先鞭をつけて、そうした歴史の流れを作ったのが事実であって、日本はその必要があまり無かった国だった。そういう不思議な、幸運なポジションにあった国であった。そのように解り易く考えることが出来ると思います。

 ヨーロッパにおいては、激しい内部の争いが宗教戦争を招いてイスラム教徒とヨーロッパの関係だけではなく、十字軍も挙げられましょう。 

 じつはイスラム教徒は寛大だった・・・。異教徒に対して寛大だったんですよ。イスラムの地域において、信仰の自由を許していたし、異教徒がそこで生活することも許していたし、キリスト教も布教が許可されていたんです。ところが怒涛のごとくキリスト教の側が襲いかかった、というのが実態で、そのことについて今日はテーマとしませんが、これは信じられないドラマなのです。

 そしてヨーロッパにモンゴルが襲来した時、もちろんモンゴルにも苦しめられますが、実はモンゴルと和解してでもイスラムを討ったのですよ。モンゴルとは話合いをしてでもイスラム教徒のほうが憎かった。それはヨーロッパに延々と続いているドラマなんです。

 イスラムは地中海のアジアへの入り口を抑えていましたから、ヨーロッパ人はアジアの方へ出るのに東に進むことが出来ずに、ご承知のようにコロンブスは大西洋を西に、ヴァスコ・ダ・ガマはアフリカ大陸を南下するという海路をとらざるをえなかったのは、何れもイスラム教徒に妨害されていたからで、そしてそれを打ち破ったのが、1571年、スペインのフィリップ二世のレパント沖海戦でした。イスラム教徒をとにかく抑え込むということで、ヨーロッパが東への出口を徐々に見出すようになるわけです。

 それでも、オスマン帝国は怯むことは無かったので、オスマン帝国が存在する間はイスラム教徒は文明的にも優位でした。先ほど言ったフェニキア文明やローマ文明をがっちりと受けとめていたのはイスラムであって、アリストテレスやその他の哲学も素文源も含めて、イスラム教徒がアラビア半島経由によって西ヨーロッパが初めて知るようになりました。これは有名な話なので、ここでお話してもしょうがありませんが、じつはキリスト教中世を通じてプラトンだけは受け継がれていました。プラトニズムというものは、キリスト教の中核に繋がったからなのだと思います。ただしアリストテレスは「自然学」でしたから、始めは知らなかったのですね。

 それで、今度はプロテスタントとカトリックの争いが始まります。ヨーロッパ人も、相互の争いがあまりにも激しく、これでは堪らないということで、中世におけるそういったものの崩壊に伴って各国の個別性や領域支配を前提とした体制を考えなければやっていけない、ということになります。ローマ教王や神聖ローマ帝国皇帝ではなくて、各国の君主ないし共和国の「主権」というものを最高の存在として定めます。そして諸国家間の相互システムを築いて、出来るだけ無駄な争いはしないようにしようと。その間ものすごい時間がかかっているわけです。いわゆる英仏戦争。それからドイツを舞台に繰り広げられた三十年戦役・・・。こういう戦争ばかりしていた地域ですから、徐々に武器の発達というものも伴って、さらに悲劇、惨劇が拡がって・・・。ヨーロッパ中世は13世紀まではいいのですが、14、5世紀というのは、疫病と戦禍と農業生産性の低さからくる餓えによって、地球上で最も悲惨な地域になります。それがなぜ15世紀から16世紀になって、にわかに立ち上がるのか? 言うまでもなくこれは世界史の最大の謎のひとつであります。

 つまり、われわれはヨーロッパが創った主権国家体制という国家が登場した16世紀、始めて「国家」が登場して、神の世界から「約束ごと」としての人の世界というものが成立する。新しい秩序が生まれてからこの方、それを「文明」と見做して、その文明を明治日本は受容れたのであって、そういう世界の姿しか日本は知らないのですよね。だから日本はそれを一所懸命モデル、手本にしたのです。

 でも、米ソ対立も終わり、今の「イスラム国」というドラマは、ひょっとすると、そういうことも全て虚しくなっているということかも知れないのですよ。日本が明治以来受け継いできたヨーロッパが考えた秩序、国家間の秩序・・・。それも虚しくなっているのかもしれません。

 そこですこし翻って、どういう形で国家というものが登場したのか考えてみる必要があるのです。16世紀ですね・・・。今も言われている「法」というのは何なのか? 戦争は相変わらず続くわけです。しかし戦争の仕方が滅茶苦茶ではなくなってくるのです。戦争は「決闘」に似てくるのです。互いに平等で、互いに正しいことをお互いに認める。だから「正しい戦争」という、どこか一方が「正しい戦争」ということは言わないようにしよう・・・。その意味から初めて第三国の「中立」という概念も初めて生まれてくる。「認め合う約束事」があって初めて「中立」が出来るのです。

 と同時にわれわれが歴史で習うのは、国家というものがなんとなく人格を持った、例えばイギリスはこう言っている、とか。フランス政府はこう言っている、何か国家の意思みたいな、人格、主体が言っているみたいにわれわれはニュースを聴いたりする。習近平が言っていることは中国の・・・? 全然そうではないはずなのに、中国の意思みたいにわれわれは扱っている。そのようにして、国家は擬人化される。あるいは主権的な人格を持っているかの如くにわれわれはそれを理解する。これは全てヨーロッパの、この「歴史」を潜りぬけたことが世界に拡がっているからなのです。

 どういうことかというと、「国際法」の進歩ということですね。戦争はするけれども、戦争を人道化する、歯止めが利く戦争をする、戦争の遣り方をルール化する、戦争の制限、限定が行われる。殲滅戦争はしない。もう相手を徹底的に滅ぼすようなことはしない。これはヨーロッパキリスト教文明圏の名においてしない。あまりにも酷い戦争を潜り抜けた結果としてですよ。それは、英仏戦争も三十年戦争も酷かったから、もう疲れたわけです。疲れてしまったその結果、政治と宗教を分けるという観念、政教分離が生まれるのもそれなのです。あまりに酷かったから、もう疲れたわけです。「正しい戦争」ということは言わない。大人になろうと・・・。以上はヨーロッパの話ですよ。アメリカの話ではありませんよ。アメリカは全部これが逆になるのですけれど・・・。

 「正しい戦争」ということは言わない。「正しい戦争」というと、相手は「不正」となるわけですから・・・。これは戦争の姿を恐ろしいものにしてゆくわけですね。私も「国民の歴史」にそのことを書いたではないですか? 『人類の名において戦争を裁くと、次の戦争はもっと恐ろしいものになる』と。徐々に々、世界は再びそのもっと恐ろしい戦争に近付いているのかも知れないのですよ。まぁ、まだまだ100年くらい変らないのかもしれないけれど。分かりませんね、これだけは・・・。

 16世紀から18世紀にかけて、戦争の形式化、ルール化が行われるようになります。「戦争をやったとしても、どこまでもヨーロッパの土地の秩序とそのバランスの体系内に留まるものとする」という暗黙の了解が各国間に生まれます。つまり利己的な権力欲拡大の、無規則な無秩序、カオスにはしない、という約束で。ここに出てきたのはカントの「永久平和論」です。つまり啓蒙主義の成立ということです。ご承知のように、この延長線上にハーグ陸戦法規やジュネーヴ条約とかが出来て、戦争のルールをひきます。

 明治日本はその当時、「文明国」になろうとしたからそれを懸命に学んだわけです。日本が世界史の仲間入りをしたのは、このヨーロッパの主権国家体制が19世紀の末ごろに完成しますから、それを「文明」と見て、福沢諭吉も内村鑑三も、世界の歴史はこのまま進歩発展すると信じました。日本はそれを目指せ。日本が文明国になれば、もし他の国が非文明国になったときに日本はヨーロッパに学んだ文明国の名において、一等国として他の国を見下せる立場になれる。一等国になろう・・・。だから日清戦争のとき、日本は「文明国」であり、支那、朝鮮は別だと・・・。

 そうなるとですね、今の中国あるいは韓国をみて日本人は密かに軽蔑感と優越感を抱いておりますけれども、これはヨーロッパが創った文明の基準に合わせて日本は一等国で、彼等はまだまだ駄目なんだという認識が日本人の中にあるからで、その基準が根底から狂ったら、全然ナンセンスな話になるのです。亡くなった坂本多加雄さんが、「きっと福沢諭吉が日清戦争のときのように、文明の名において日本があらためて大陸の諸国を見下すときが来て、そのとき云々・・・」ということを書いてましたけど、実際その通りで、今日本はそういう心理に入っています。われわれは、文明国であると・・・。ノーベル賞も獲っているではないか、その他国際条約に従順ではないか・・・。

 でも、第一次世界大戦前だってそういうことがあって、第二次世界大戦前だって日本は国際法をよく守り従順で、それでも駄目だったんですよ。だから、なにが起こるか分からないんですよ。日本は国際法に対して本当に立派な遵法国家だったのですから。だから南京大虐殺なんて無かったというのは・・・、ハーグ陸戦法規に違反することはやっていないからですよね。1,000人ぐらいの便衣兵、スパイは射殺しているでしょう。これは、国際法に則っていたのです。でも、それを「虐殺」というわけです。今の彼等の歴史観でいけばそうなるわけです。なんでも自分たちに都合のいい歴史ですから。どこかに絶対正しい国際法が有るわけではないのですから、この問題は難しいのです。唯われわれは、あくまで西洋が作ったハーグ陸戦法規を盾にして主張してゆけばいいんです。いいんですけど、「そんなものは駄目だ!」と中国は言っている訳だから、中国はすでに西洋先進国が作ったルールを否定すると言っているのです。尖閣を攻めてきたのも其れですから・・・。そしてアメリカが危ういことに、其れに対してグラグラしているということです。

 話を元に戻しまして、あくまで16世紀から18世紀にかけて行われたヨーロッパ啓蒙主義ですが、海洋、海は、ところがその取決めの外にあったのです。いま、ヨーロッパが狭い中で取決めて、お互いに戦争しないようにしようと言ったのは、あくまで彼等の領土の内部、陸の話に過ぎない。海洋は別だったのですよ。これが大きな問題になるのですね。

 海賊国家イギリスの出現です。イギリスが如何に徹底した海賊であったかということは、私の連載の3回位前に書いていますね。酷い海賊だった。非国家的な自由な枠を作ってしまった。「海洋は全く自由だ。」と主張したわけです。そして、じつは1815年から1914年まで。1815年というのはウィーン会議です。もう少し前のトラファルガーの海戦からといってもいいのですが、そこから第一次世界大戦まで、Pax Britannica(パクス・ブリタニカ)イギリスの平和だったのです。イギリス帝国が治めた平和が19世紀ヨーロッパから戦乱を免れたわけです。フランス革命の後ですね。なぜパクス・ブリタニカが成功したかというと、イギリスは海を抑えたからです。じつはフランスは悔しいけれど駄目だった。オランダは、とっくの昔にイギリスに封じ込められてしまった。フランスも一所懸命にやるけれども抑え込まれて、イギリスに遅れをとります。

 イギリスの遣り方がが、どんなに凄いかも私はどこかに書いていますし、今度出ました本にもその話を書いています。「GHQ焚書図書開封第10巻 地球侵略の主役イギリス」、なかなか面白い話がとくに後ろの方に書いてあります。マダガスカルという島があって、植民地戦争で永い間イギリスとフランスが争っていましたが、あっさりとイギリスはマダガスカルをフランスに譲ってしまいます・・・。でも、それは驚くべきことでも何でもない事と日本の地政学者、京都大学の先生が分析して書いていて、それを紹介していますが。じつはイギリスはマダガスカルの周りの島々を全部抑えているのです。対岸のケニアもイギリス領になっていますね。そうすると、「フランスに任せておけばいいじゃないか。ちっとも何ともないよ。」マダガスカルのひとつぐらいは、という・・・。イギリスはそれをいたる所でやったのです。

 例えばハワイがアメリカに抑えられる前、カナダとオーストラリアがイギリスのものになります。イギリスは、オーストラリアとカナダの間に海底ケーブルを引こうとするのです。そのために太平洋の小さな島々、名もなき島々までも、ずうっと抑えています。すごいですね、その頃は明治日本ですよ。

 ところが、アメリカが言うことを聞かないでハワイを先に取ってしまいました。そして、その計画は実現できませんでした。ハワイを略取されることについて、日本政府は大隈重信以下、激しく抵抗したこの話を私は何度も本に書いています。だけど当時の外務大臣 大隈重信ら、あの時代の日本の政治家は、よもやハワイを無視してイギリスが勝手に長距離の地下ケーブルを引こうと思ていたことまでは知らなかったと思いますよ。つまり地球支配というのは、そういうことを着々とやっていた、ということですね。

 さて、パクス・ブリタニカというのは相手の廃止でも戦争の廃止でもなく、戦争の限定、法に満たされている状態をつくること、そして強大国の指導性を維持すること、これは大人の考え方で、占領というものは、征服ではない、負けた者の私有権も既得権も認める、例えば王様の廃位はあるけど、その人格を侵すことはしない、また、その側近を処罰することはあるかもしれないけれど、主権の変動は起こさない。軍事的占領は必ずしも敗戦国の政府の変動をひき起こさない、もちろん憲法の改変も・・・、そういう暗黙の取り決めでヨーロッパで成立したものです。1870年から80年代というのは、ヨーロッパは最大のオプティミズムの時代で、ヨーロッパの領土の権利を相互に認め合って、1885年ベルリン会議が行われます。これはビスマルクの力ですが、もうこれ以上領土の奪い合いをしないというヨーロッパの暗黙の約束が出来上がって、文明と進歩と自由貿易への希望に満ちた時代だといわれていたわけであります。イギリスが世界中を勝手に抑えることは我慢して認める。その代わりヨーロッパの中は平和で行く・・・。

 ところが間もなくしてそれが難しくなる事態が起こります。一つは、アメリカの介入が始まる。2つ目は、アフリカの土地を巡る争いが始まる。3番目は、ドイツがイギリスを許さない、と言い出すようになる。これが19世紀の終わり頃から起こるドラマですね。

 1890年から1914年のあいだ、ヨーロッパの国家内の相互の合理的約束、利害調整の秩序というものが出来上がって、それを「国際法」というわけですが、そしてそれを第一次世界大戦が始まる頃に、その国際法をヨーロッパの外の世界に適用しようと・・・。これが、我が国にだんだん禍をもたらすわけです。それはしかしヨーロッパ側からすると、自分たちの考え方が世界に拡大するわけで(日本もそれに同調するわけですわけですが・・・)それをヨーロッパの勝利、文明の勝利というふうに言っていたわけですね。

 ところが今言ったように、かならずしもそうはならなかった。文明の支配は不可能になってまいります。アメリカがそれを邪魔し始める。ドイツが台頭して言うことを聞かなくなる。パクス・ブリタニカは壊れるわけです。1919年のパリの講和会議はヨーロッパの国際法の会議ではなくて、世界の秩序はヨーロッパによって取り決められるのではなくて、ヨーロッパの秩序が世界によって取り決められる、という逆の事態が発生してしまいます。つまりアメリカの発言権の増大と西欧の没落、というこが起こってしまうわけであります。この事態を見て、いわゆる「国際法」というのは雲散霧消してしまうわけです。力を失うわけです。

 それでは何がそこで登場するかということを今日の話で少し解って頂こうと思うのですが、「中世」の次は「近世」或いは「近代」。その次には「現代」というふうに、何となくわれわれは考えておりますが、果たしてそんなことが正しいのでしょうか? 私は自分で今、歴史を書いていて古代や中世を絶えず行き来します。「近世」という概念は別としても、「中世」と「近代」の間には、深い溝があると皆考えています。そうでしょう? 皆さん。「中世」と「近代」との間には深い溝があると考えます。それはある程度あるんですよ。でも本当でしょうか? 「ポストモダン」というのは、「モダン」の概念を強く意識するから「ポストモダン」という概念です。だから「ポストモダン」というのは、「モダン」の側に入っているわけですが・・・。

 一方「中世」と「近代」との間の断絶というのは決定的ではないというのが、「イスラム国」が挑戦していることなんですよ。この大混乱はそこに起因しているんですね。そしてヨーロッパが決めたあの戦争のルールは、第一次大戦の前に虚しくなって、アメリカはそれをぶっ壊しますけれど・・・、またまた虚しくなっているわけですね。

つづく

講演 ヨーロッパ「主権国家」体制は神話だった(決定稿)(三)

            (三)

 「暴力」が基本にあった・・・。正論12月号にホッブスを例に、中世のもっぱら暴力について書いているので憶えておられると思います。

『西洋の歴史は戦争の歴史といったが、イコール掠奪の歴史でもあった。掠奪は経済活動ですらあった。』 『略奪し強奪しあうことこそ人間の生業であった。それは自然法に反すると考えられるどころか、戦利品が多ければ多いほど名誉も多いと考えられた。』

 その実例をここではたくさん書いています。どれか一つだけ例を挙げると分かり易いのですが・・・、一番最初に私が書いたトーマ・バザンの「シャルル七世の歴史」の一節からとった、分かり易い具体的な例です。読んだ人は知っているかと思います。

『この辺りでは畠仕事は都市の城壁の中、砦(とりで)や城の柵の中で行われる。それ程でない場合でも高い塔や望楼の上から目の届く範囲内でなければ、とうてい野良(のら)仕事などできなかった。物見の者が、遠くから一列になって駆けてくる盗賊の群を見付ける。鐘やラッパはおろかなこと、およそ音のする物はことごとく乱打されて、野良や葡萄畠で働いている者たちに、即刻手近かの防御拠点に身を寄せよと警報を伝える。このようなことは、ごくありふれたことだし、またいたる所で絶えず繰り返されたのである。警報を聞くと、牛も馬もただちに鋤から解放される。長い間の習慣でしつけられているから、追うたり曳いたりするまでもなく、狂わんばかりに駆けだして安全な場所へと走って行く。仔羊や豚でさえ、同じ習慣を身につけていた』

 要するにそれぐらい無法なんです。今の「イスラム国」を見てください。無法でしょう?これはイスラムでなくヨーロッパの話なのですが、近代国家が生まれる前の「中世がえり」。世界は中世に近付いているということで、皆さんに今この話をしているわけです。

 

『だから、大土地所有者は武装集団を抱えていたし、民衆も武器を常時携えていた。僧侶ですら武装していた。橋も砦になり、教会は城塞として造られ、僧院には濠、跳ね橋、防柵があり、地下牢や絞首台まで備えている所もあった。僧院や聖堂は掠奪の標的になり易かった。』

 暴力がいたるところに偏在しているで点は、平安末期の日本も恐らくそうでしょう。でも上に聳え立つ公権力が成立していれば、ことにそれが武家集団であれば、それほど無秩序にはならないんですね。ヨーロッパ中世には国家がないんですよ。国境がないんです。あったのは教会なんです。全体として、カトリック教会そのものが国家だった。これは精神的権威であっても政治的権威ではありませんから、ホッブスが「万人の万人に対する戦い」と言った姿が、ヨーロッパ中世の姿であった。

 戦争が日常であり、掠奪が合法であり、反逆とか復讐とかが当たり前なこととして横行していわけであります。Fehde(フェーデ)という言葉があるのですが、フェーデというのは、プライベートな戦争のことです。

 他人に対する想像力がひどく弱い時代で、相手の痛みの感じ方が無かったのではないか。例えば目玉をえぐり出すという刑罰がありました。しかもこれは「お情け」であった。「死刑にしないでやるから」と・・・。これは、最近の「イスラム国」の残虐処刑を思わせます。人類はあっという間に千年を飛び超えてしまったのではないかと・・・。

『今の中国大陸もある程度そうかもしれないが、すくなくとも蒋介石時代の支那大陸はそうだった。あるとき黄文雄氏が「戦いに負けた方は匪賊になり、勝ち進んだ方は軍閥になる」という面白い言い方をされた。』

 私は名言だと思い憶えていますが、国家というものが無かった時代の大陸の無法状態の中で、強盗集団が軍事力になり軍閥になる。地方権力になる。だから今中東で起こっていることがまさにそれであります。

『 面白いのは8世紀の西洋のある法典にも似たような規定があることだった。ウェセックス国の法典第十三条に、7人までは窃盗、7人から35人までは窃盗団、それを超えるものが軍隊である、という規定がある。盗賊と軍隊との違いは単数の相違でしかなかった。』

 まだ国家意識とかいったものもはっきりしなかった時代の話です。

 さて、そういう状況の中で最近の出来事を見ると、安倍総理は「法の必要」ということを頻りに言いますね。ここでいう「法」というのは「国際法」のことでしょうけど、「法」という言葉が通らない勢力に向かって「法」ということを言うわけですね。

 では、「国際法」とは何だったのか? あるいは安倍総理が言う「法」というのは、どういう形で出現したのか? 今を見ていると、確かに中世に戻ったようであり、そして、「法」はまさに「無法」なわけです。一方で私たちは、なにか何となく、主権国家というものがあって、それを当然の事とうけとめて、そして、「それに反している!」と怒っているわけです。しかし、もし「国家」だとしたら、爆撃または空爆することは「無法」ではないのでしょうか?

 ひと頃、「北朝鮮を核査察せよ」と言いましたね。それに対して、ひとつの国の主権国家の防衛権を、「なんとしても核を開発する」と言っている北朝鮮の主張のほうが、道理に合っていると言えないでしょうか? それは主権国家の自由ではないでしょうか? それは「日本の危険」ということとはまた別問題の問い、として言っていますが、「無法」といことを言うならば、どちらが「無法」かわかりません。いつの間にかヨーロッパやアメリカが決めている法秩序、国際法秩序つまり主権国家体制というものが自明のこととされています。そしてそれをヨーロッパ、アメリカの側が破ることはいくらでもあるのに、私たちはその主権国家体制というのを自明のことのように考えているのは、正しいのだろうか? おかしいのだろうか?

つづく

講演 ヨーロッパ「主権国家」体制は神話だった(決定稿)(二)

        (二)

 イスラム教徒とキリスト教の対立の背景は、皆さんも相当ご存知かと思いますが、最近の話ではなく、2000年前から始まっていました。

 19世紀から20世紀初頭にかけて活躍したベルギーの有名な大歴史家、アンリ・ピレンヌに、「マホメットとシャルルマーニュ」という1937年に出版された著書があります。フランス語のシャルルマーニュCharlemagneとはドイツ語でKarl der Große カール大帝のことです。この大著のさわりをご紹介しようと思います。まず、ゲルマン人がローマ帝国に侵入した時と、イスラム教徒がローマ帝国に侵入した時の違いをまず論じています。

 ゲルマン人がローマ帝国に侵出したときは、帝政の成立以前から直ちにローマに同化されつつ、ローマの文明を必死に守り、その社会の仲間入りを果たすべく、ゲルマン人は精神的には従順且つ従属的でした。ゲルマン民族の侵入は、ローマ帝国が誕生するより前から、徐々に北方から入っていたのです。

 これに反して、アラビア半島との間には、ローマ帝国は長い間交渉らしい交渉を持っていませんでした。ゲルマン人との間では長い間ローマ帝国は長い交渉があったのですが、アラビア人はマホメットの時代まではほとんど接触がなかったのです。

『 ヨーロッパとアジアの両方に対して同時に始まったアラビア人の征服は先例をみない激しいものであった。その勝利の速やかなこと、これに比肩し得るものとしては、アッティラが、また時代が降ってはジンギスカン、ティムールが、蒙古人帝国を建設した際の勝利の速さがあげられるのみである。しかし、この三つの帝国が全く一時的な存在であったのに対して、イスラムの征服は永続的なものであった。(中略)この宗教の伝播の電光石火のような速やかさは、キリスト教の緩慢な前進に比較するとき、全く奇跡とも言うべきであろう。
 このイスラムの侵入に比べるならば、何世紀もの努力を重ねてやっとローマ世界Romaniaの縁をかじりとることに成功したにすぎない、ゲルマン民族のゆるやかで激しいところのない侵入など問題ではなくなる。
 ところがアラビア人の侵入の前には、帝国の壁は完全に崩れ去ってしまったのである。』

 つまり、よく歴史の教科書にゲルマンの侵入がローマ帝国を崩壊させたと書かれていることについて、ピレンヌの学説は「違うんですよ。」といっているのです。ゲルマン人は武勇、智勇に優れているけれど、しかし文化面ではローマ人に包摂されて、侵入は速やかではなく徐々にでした。

 それに対して、ローマ人は

『ゲルマン民族よりも明らかに数の少なかったアラビア人たちが、高度の文明を持っていた占領地域の住民に、ゲルマン民族のように同化されてしまわななかったのは何故であろうか、』

ということを、ピレンヌは問題にしています。

 

『ゲルマン民族がローマ帝国のキリスト教に対抗すべき信仰を何ももっていなかったのに反して、アラビア人は新しい信仰にめざめていた。このことが、そしてこのことのみがアラビア人を同化することのできない存在にしたのである。』

 つまり、ゲルマン民族はなにも信仰をもっていなかったというのです。そこへローマ帝国との接触が始まったというのです。アラビア人はそうでなかった、とピレンヌは言うのですが、これには問題があります。いうまでもなくゲルマンにはゲルマンの信仰はありました。それは我が国の信仰にも似ているような一種のアニミズム、洞穴とか樹木の霊とかそういうもの。或いはまたゲルマン神話というのは、忠勇、武勇の神々、英雄たちの乱舞する皆さんもご存知の、後にワーグナーが楽劇にするような、そういう神話世界がありました。ゲルマン人に信仰がまったく無かった、などということは全く無ありません。そのことは、私が今日お渡しした雑誌(正論3月号)の中にきちんと書いていますので、読んでいただきたいと思います。

 ゲルマン人に信仰が無かった訳ではありませんが、しかしながら、「一神教」ではありませんでした。ローマはその頃すでにキリスト教化していたのですが、イスラム教はキリスト教と旧約聖書を同根に持つ一神教です。

『アラビア人は驚くばかりの速さで自分たちの征服した民族の文化を身につけていったのである。かれらは学問をギリシャ人に学び、芸術をギリシャ人とペルシャ人に学んだ。少なくとも初めのうちはアラビア人には狂信的なところさえなく、被征服者に改宗を要求することもなかった。しかし、唯一神アラーとその予言者であるマホメットに服従することをかれは被征服者に要求したし、マホメットがアラビア人であることからアラビアにも服従させようとした。アラビア人の普遍宗教は同時に民族宗教であり、そしてかれらは神の僕(しもべ)だったのである。』

 こういう点では、ユダヤ教も似ていると言ってもよいでしょう。それに対して、

『 ゲルマン民族はローマ世界Romaniaに入るとすぐにローマ化してしまった。それとは反対に、ローマ人はイスラムに征服されるとすぐにアラビア化してしまった。』

 アラビア人がいちばん凄いということですね。

『コーランに源泉をもっているその法がローマ法に代わって登場し、またその言語がギリシャ語、ラテン語にとって代った。』

 そしてアラビア語が支配することとなったために、西ヨーロッパの言語にとんでもないことが起こるのです。ローマ帝国の末期頃、公の言葉、国際語のギリシャ語が使われなくなり、代わりにイタリア、フランス、スペイン、ドイツ、という各地方の方言が使われるようになり、ラテン語も衰微していってしまうのです。

 その方言の使用が次の時代、だいぶ経ってからヨーロッパが生まれる理由ともなるのです。しかし、それにはさらに数百年から千年ぐらい時間がかかり、ダンテはイタリア語で神曲を書き、ルターが1500年代に聖書をドイツ語訳する。こういった民族の興隆には、およそ1000年くらいの時間がかかっているのです。

 イスラムがどれほど支配的であったかがこれでお判りかと思います。これまでの間にどのようなことが起こったか?これが根本問題で、皆が知っているヨーロッパは二つに分断されます。ローマを中心とする西ローマ帝国およびビザンチンと言われる東ローマ帝国。真ん中には地中海があり、そこには交通がありましたが、イスラムによって分断されてしまいます。

 『 リヨン湾の沿岸も、リヴィエラ地方からティベル河の河口にかけて海岸も、艦隊をもっていなかったキリスト教徒たちが戦争と海賊の荒らしまわるがままに任せたから、いまでは人煙稀な地方となってしまい、海賊の跳梁する舞台と化してしまった。港も都市も打ち棄てられてしまった。東方世界とのつながりも絶たれ、サラセン人(アラビア人)たちの住む海岸との交流もなかった。』

 地中海は押さえ込まれたということです。

 『ここには死の風が吹いていた。カロリング帝国は、ビザンツ帝国とは極めて著しい対照を示す存在であった。それは、海への出口を全くふさがれてしまったため、純然たる内陸国家であった。嘗てはガリアの中でも最も活況を呈し、全体の生活を支える要(かなめ)ともなっていた地中海の沿岸諸地方が、今では最も貧しい、最も荒涼とした、そして、安全を脅かされること最も多い地方となってしまった。ここに史上初めて、西欧文明の枢軸は北方へと押し上げられることになり、』

 つまりヨーロッパといわれるものは、いまはじめて我々が知っている西ヨーロッパのほうへ、つまりローマ地中海から北方へグーンと押し上げられてしまった。今でこそ、車で行けば行ける距離、あるいは飛行機で行けばひとっ飛びの距離でありますが、当時は封じ込められてしまったのです。

 『その後幾世紀間かは、セーヌ、ライン両河の中間に位置することになった。』

 つまり、その辺りにゲルマン人とローマ人が混血し、文化程度が著しく堕ちたカロリング王朝が位置することになったのです。

 『そして、それまでは単に破壊者という否定的な役割を演じていたにすぎないゲルマン諸民族が、今やヨーロッパ文明再建の舞台に肯定的な役割を演ずる運命を担って登場したのである。
古代の伝統は砕け散った。それは、イスラムが、古代の地中海的統一を破壊し去ったためである。』

 つまり、古代の伝統、つまりギリシャ、ローマの伝統が、ずっと続いていましたが、それが今言ったイスラムの侵出により・・・。これが言語問題にものすごく影響してしまい(今日お渡しした正論3月号の最後の方に書いてありますが・・・)、ギリシャ語の聖書も消えてしまい、ギリシャ語を話す者さえも居なくなってしまったのです。

 カール大帝は文盲で(皆ひとに遣らせていた)、教養の程度も著しく低く、西ヨーロッパは文字を読むのは一部の聖職者に限られ、伝統からも情報も絶たれた、文化的にも著しく遅れた野蛮な地域でした。それゆえに迷信も蔓延り、キリスト教がその迷信を加速させました。キリスト教はもちろん一神教ですが、その他の信仰、マニ教、グノーシス主義、ゾロアスター教、そしてアニミズムがゲルマン民族を捉えつつも、カトリックはそれらとある程度の共存をしたのです。それらを認めはしないけれど、直ちに弾圧、攻め滅ぼすことはなく、いわば許していたのです。

 現代のカトリックは少し違いますが、基本的にカトリックは「自然」というものを尊重するところがあり、一神教以外の神の概念をまったく認めない、ということはありません。

 一番象徴的な例は、戦後、靖国神社がマッカーサーの命令により焼却される危険に曝されたとき、反対したのはカトリック教会でした。それは「自然法」というものを尊重している。自然法というのは、法律以前に自然の定めで決められていること、解り易くいえば、結婚は男と女がするものである、とか、敗者といえども自分の民族を守った者は祀られてしかるべきであるのも自然法のひとつですから、靖国神社を焼き滅ぼすなどとんでもないというカトリックの考えで、そのカトリック教会に靖国神社は守られたのです。そういった意味でカトリックが諸宗教に寛大であることがお解りかと思います。

 ところがプロテスタントはそれが許せないのです。その話が正論3月号の最後の方に出てきますが、簡単に言うとプロテスタントは神をもう一度、再確認したのですから、キリスト教の復興、カトリックと大いなる戦争をしたのですから、カトリック側にも当然新しい選択を迫られた。自覚的な信仰の再宣託が行われたので、両方の宗教にとって近代化ということになるわけですが、ニーチェは面白いことを言っています。

『ところがルターは教会を再興したのであった、つまり彼は教会を攻撃したからだ。・・・・・・』(「アンチクリスト」第61節)

 「プロテスタントは、キリスト教を攻撃したために蘇らせてしまった・・・、本来亡くなって然るべきキリスト教が、ルターの、あるいはカルヴァンの攻撃によって自覚が蘇り、カトリックまで復活してしまった。」とニーチェは残念がって言っていた。そのようなパラドクスがあるわけですが、大きな流れで言うとそのようなことが言えるわけです。

 先を急ぎます。フランスのカルカソンヌ城をご存知ですか? フランスに行くと必ず観るのですが、そんなに(ご覧になった方は)居ないのですか?南フランスに旅行すると必ず観るのですが、意外と知らないのですね。素晴らしい古城で、夜はライトが照らされていて本当に素晴らしい・・・。トゥールーズのあたりです。

 この古城は異教徒の城で、それを法王が攻め滅ぼしてしまうのです。それはまさに中世のいろいろな十字軍がありますが、十字軍というのは外に出ていくもの、と皆さん思っているかもしれませんがヨーロッパの中をも攻撃する十字軍も当然あるのです。つまり、キリスト教に一元化するために「異教徒が一人でもいたら怪しからん」ということで、凄まじい戦争をしてトゥールーズの城カルカソンヌは何万という人を殺して潰されてしまう、という歴史があるんですよ。

 それは、今日お渡しした雑誌(正論3月号)の連載の前半の終結部分にだんだん近付いていて、日本が始まるのは未だもう少し先なのですが、ぜひ読んでおいていただくと有り難いのですが、言わなくても読んでいる人はきっと読むから・・・。だけど知っているんですよね。言っても読まない人はきっと読まないんですよね。学生に教えていたころから知っているんですよ。こう言っては皆さんに無礼かもしれないけれど。小川さんは「先生、プレゼントをしなくても、皆さん買って読みますよ!」と言っていましたが、それは「3分の1くらい」の方はそうでしょうから差し上げた訳でして・・・。ただ、単独で読んで頂いても纏まっていて、読切りの短編になっていますから、前とのつながりが無くてもわかります。

 その意味で、プロテスタントはキリスト教最高の運動になると同時に、プロテスタント自体がキリスト教の内部に対する「十字軍」だった、と言えないこともありません。(つまり、外に対しては「十字軍」。内部では「プロテスタント」)それぐらいルターとカルヴァンの思想、行動は峻厳だったんですね。ですから、いろいろな雑駁な異教徒の流れを汲む様々な理念や思想は潰されていったということがひとつ言えます。

 さて、今までの話でイスラム教徒とヨーロッパ文明との対決が、いかに根が深いかお判りになったと思います。もちろん同時にキリスト教の側は、その遅れた教養も低い鎖された地域の彼らは、信仰心だけは固めつつ、異文明に対してチャレンジしてく・・・、有名なのは、「十字軍」ですね。

 ご承知のように、十字軍は11世紀にはじまります。具体的な説明はしませんが、イスラエルがひとつ、それから北の方のラトビアとかポーランドへ向けての十字軍、イベリア半島スペイン・・・。つまり地中海は全て抑えられますから、地中海の異教徒を追払うということ。それから、最後には2つのアメリカ大陸に進出すると・・・。じつは、これら全て十字軍なんですよ。つまり信仰の旗を掲げて、そして、異教徒を改宗させるか、殺戮するか。「改宗か? 然らずんば死か?」そして、それを実行するために、内部の綱紀が緩むために粛清する。これが数多くの粛清劇、魔女狩りとか・・・、先ほどのカルカソンヌ城の異教徒退治もそのひとつですね。

 つまり、内部を徹底的に時々厳しくやり、そして外対して、異教徒に対しては妥協したり拡げたりする。いろいろな形で柔軟にやるのです。さながらその姿は、「私たち異教徒」から見ると、ソヴィエト共産党と中国共産党みたいなものに見えますね。つまり、外部に対しては外交的に狡猾で、そして、内部に対しては一寸した異端も許さない粛清劇をする。非常によく似たところがあるんですよ。ですから、「棄教」といって、教えを棄てる聖職者がいると、それを許さないだけでなくそれに対する尋問をしたり、それが後々までどんな影響を持つかということを徹底的に論争するという、激しいものがあります。そういう点も、共産党を辞めてしまうことに対する手厳しい攻撃によく似ていますよね。それが中世ヨーロッパのエネルギーであると同時に、それがまた世界史に拡がっていくパワーだと私は思っています。

 善かれ悪しかれキリスト教のヨーロッパ中世からはおそらく3つのもの、ひとつは「暴力」、ひとつは「信仰」、そしてもうひとつは、16世紀に産まれる「科学」がありますね。今日はその話は出来ませんが、自然科学は、何と言ってもポジティヴで、そして自然科学はキリスト教そのものから産まれたのであって、それは他の宗教に類例を見ない出来事、ドラマなのです。自然科学は一般的で普遍的であると思われるかもしれませんが、根っこはキリスト教にあったということは、また一つ大きな問題であります。そのテーマは、今日お見えになっているかどうか・・・?古田(博司)先生、いらしてますか?(小川揚司さん:4時ごろお見えになります。)古田先生の「ヨーロッパ思想を読み解く―なにが近代科学を生んだか」(ちくま新書)という本がありまして、これはひじょうに難しい本ですが、いろいろなことを考えさせられます。

つづく

張作霖爆殺事件対談(五)

東京裁判史観を守り継ぐ「タコツボ史観」史家

西尾 秦郁彦氏と私は、『諸君!』二〇〇九年一月号で、「『田母神俊雄=真贋論争』を決着する」と題して誌上対談を行いました。

加藤 過激な対談でした。

西尾 秦氏は田母神氏の論文について、「全体的な趣旨や提言については、私もさしたる違和感はありません」としながらも、日本軍と国民党軍を戦わせて両者を疲弊させ、最終的に中国共産党に中国大陸を支配させようと考えたコミンテルンの戦略で日支事変が起きたこと、またルーズベルト米大統領と、その政権に入り込んだコミンテルンのスパイの罠に日本がはまって真珠湾攻撃を決行してしまったと述べていることについては、陰謀史観だとにべもない。「坂本龍馬はフリーメイソンだった」「平清盛はペルシア人だった」というテレビの歴史推理番組と同じ類だと憎々しげに愚弄する言い方でした。張作霖爆殺事件に関して田母神氏の論文が「少なくとも日本軍がやったとは断的できなくなった…コミンテルンの仕業という説が極めて有力になってきている」と控え目に言及していることついても、秦氏は「上杉謙信が実は女だったというのと同じぐらいの珍説」(週刊朝日、二〇〇八年十一月二十八日号)と小馬鹿にしていて、私は「そういう珍説と一緒にするのはやめてください」「こんな断定の仕方は酷い。可能性としては、爆破計画が別々にあって、河本大作大佐らが先に実行した、あるいはソ連と秘かに組んで実行したというケースもありえる」と怒りました。

 さらに「河本大佐が何者であったか、いまでもわからない」と言ったら秦氏は、「隅々までわかってますよ」と言うんですね。

加藤 まだ重要史料の不足で分からないことが色々あります。今回、前述のお孫さんの女性への取材で、河本が早くから諜報機関に憧れ、ロシアに入り込んでそうした活動をしたいと本気で考えていたこと、ロシア人の友人がいたことが分かりました。この「友人」が工作員だった可能性も捨て切れません。
 
半藤一利氏もベストセラー『昭和史』で秦氏と同じように従来の説をなぞって、講釈師のように「六月四日のことでした。まさに張作霖の列車が奉天付近に辿り着いた時に、線路に仕掛けられた爆薬が爆発してあっという間に列車が燃え上がり、張作霖は爆殺されてしまいます」と書いています。
 
西尾 半藤氏はより悪質だと思います。『昭和史』の本章は、昭和三年の張作霖爆殺事件から始まり、昭和という時代の戦争へと至る止まらない流れがこの年に始まったように書く。なぜか。この一九二八年という年に締結された「ケロッグ=ブリアン」条約、いわゆる不戦条約が、東京裁判で日本を犯罪国家、侵略国家に仕立て上げるための唯一の論拠だったからです。それに合わせているのです。
 
加藤 「昭和三年一月一日以降の『侵略戦争遂行の共同謀議』」などとあげつらった東京裁判の起訴状そのものです。張作霖爆殺事件もそこにうまくあてはめられた。
 
西尾 すべてがつくり話なんです。つくり話に戦後の歴史家たちが乗っかっているんです。

 秦氏は、歴史の陰に陰謀や謀略があったとの見方を、根拠のあやふやな「陰謀史観」だと切って捨てます。しかし、世界史は陰謀にまみれています。特に中国大陸は一九二〇年代から今日に至るまで、陰謀抜きでは語れません。歴史を書くこととは、驚くべき陰謀がどのように歴史を動かしてきたかを、少しずつ解明して証拠を添えていくという作業です。歴史は疑問に対する推理や想像から始まります。そして証言や証拠をもってそれを検証していくという作業です。きょう、最初に河本首謀説のどこに疑問を持たれたのかと質問したのも、そのためです。

加藤 想像力がなければ謀略は見抜けません。どんな科学、化学の成果でも、最初の一歩は想像力ではないでしょうか。

西尾 謀略を見抜けなければ、外国に指定された歴史観に盲従するしかない。戦後の日本がそうです。
 
加藤 秦氏は、コミンテルンの事件への関与というと「陰謀史観だ」といって顧みようともしませんが、河本首謀説しか考えないのは逆に「タコツボ史観」だと言えます。国内の事情や史料しか見ない。しかも、占領軍、東京裁判によって押しつけられた歴史とはつじつまの合わない史料は敢えて黙殺する。今回の検証作業で、このタコツボ史観の問題点を明確にすることができたと考えています。コミンテルンや張学良の他に別の背景があるのかどうかについては今後の研究を待たなければなりませんが、少なくとも河本首謀説の誤りは明確になったと考えています。

西尾 既存の歴史認識、あるいは歴史学会、現代史の学者たちに重い挑戦状を突きつけた、何人も無視できない業績だと思います。
 
加藤 今年夏、中学校の歴史教科書の採択が行われます。各社の新しい教科書をみると、依然として張作霖事件は旧来の河本首謀説に即した記述です。自由社版などでは、そう記述しないと検定に合格できかったそうです。せめて事件の記述が教科書から外れるようにするためには、文部科学省の教科書検定官たちの歴史認識を変えるような史料がもっとたくさん出回る必要があると思います。次代を担う子供たちがこれ以上、不当に日本が貶められた歴史を学ぶことは看過できません。


『正論』2011年7月号より

張作霖爆殺事件対談(四)

張作霖爆殺事件対談(二)に図が掲示されました。

共産主義の悪を直視しない歴史家たち

西尾 一九二〇年代、アメリカでもイギリスでも、そして日本でも、共産主義が蔓延します。長野朗という当時の思想家『日本と支那の諸問題』(昭和四、支那問題研究所)の著作によりますと、第一次世界大戦終了後、五四運動で火のついた中国の排日を最初に主導したのはアメリカとイギリスのキリスト教会でした。ところが一九二三~二四年頃を境に、アメリカ人とイギリス人は中国ではむしろ批判されて、ロシアの組織が取って代わったということです。スターリンは当時、毛沢東よりもむしろ蒋介石に利用価値を認めて期待していました。

加藤 蒋介石への期待とは、言い換えれば国民党への加入戦術だと思います。共産分子を加入させると同時に、国民党内の学生、労働者、不満・不良分子を糾合して、スターリンのいうことを聞く勢力を国民党内につくり始めた。張学良の国民党入党も、実はコミンテルンの大きな仕掛けの一環だったとも考えられます。
 
西尾 張学良が中国共産党に入党した可能性があるとされるのはずっと後で、一九三五年ですね。
 
加藤 正式入党の記録は見つかっていないと思いますが、一九三五年十二月以降には、上海で共産党員と接触をしていたという記録が残っています。

西尾 その一九三五年の七月にはコミンテルンの第七回大会がありました。スターリンは、中国での抗日民族統一戦線の形成を指示します。翌年の「第二次国共合作」の布石とも言えます。

加藤 毛沢東、周恩来に対して、当面は蒋介石との争いは矛を納め、日本を共通の敵として戦い、その間に共産勢力を広げ、最後に蒋介石を倒せと指示した。二段階革命と同じ発想です。張学良はこの統一戦線に身を投じた可能性がある。

西尾 西安事件の登場人物―張学良、蒋介石、コミンテルンなどが、張作霖爆殺事件と重なるということになりますね。西安事件というのは、一九三六年十二月、西安に張長良を訪ねた蒋介石が、張学良によって監禁された事件で、中国共産党は蒋介石を殺害しようとしますが、スターリンの指令によって蒋介石は解放されました。これも翌年の第二次国共合作の布石となったと言われている事件です。

 張作霖爆殺後に蒋介石の軍門に下っていた張学良は、西安事件で蒋介石を裏切ろうとしました。あっちについたり、こっちについたり目まぐるしい。何か一つの信条で動き続けるのではなくて、いつでも違う逆の方向にも心をオープンにして相互に裏切りを重ねているというのは支那人の常ですね。

加藤 生き残る知恵なんじゃないでしょうか。軍人、あるいは政治家として彼らの、そういった生き方そのものは否定しきれない。日本人にはなかなかそれが見抜けません。

西尾 こうした混沌が、あの大地にはうごめいていた。残念ながら、我が国政府はそれを見抜く力がなかった。

加藤 インテリジェンスの弱さでしょうね。

西尾 西安事件後に蒋介石が南京に戻ってきた後の国民党の党大会で、何応欽が大演説をぶって、蒋介石が監禁されながらも断固反共を貫いたことを同志の前で喜びの声をあげて叫んだのです。ところが、同時にそのとき周恩来がやって来て、日本と戦うために愛国でいこう、共産党は国民党と対立しないと宣言した。妙な握手をしたんです。
 
そして蘆溝橋事件、第二次上海事変を中国が引き起こし、日本を日支事変へと引きずり込むという流れにつながっていきます。日本の歴史家の記述、特に昭和史と呼ばれるもののどこが間違っているかというと、共産主義の悪、謀略的な動きを直視して歴史を動かした一モメントとして叙述するということをしない。だから、日本はその身が潔白なのに唯一の悪玉国家だったなどと悪し様に言われるという訳のわからないことになるんです。
 
それにしても、河本首謀説ですべて説明できると思い込んでいる日本の歴史家たちの間抜けで怠惰な精神には、あきれ果ててものも言えません。日本は外国と戦争したのですから、外国の文献を調べなければ日本史の研究なんかできません。国内の文献を調べてそれで万事足りるとする歴史家、特に戦後日本の現代史家たちの愚劣ぶり、無能ぶりに私は腹に据えかねていました。
 
先ほど加藤さんは、発見したイギリス公文書館の史料を紹介されましたが、今回、この他にもさまざまな海外の文献に当たられたのは、彼らの虚を突いた業績だったと思います。
 
爆殺事件の首謀者がソ連だったとする『GRU百科事典』も日本で初めての紹介ですね。
 
加藤 モスクワで発見できたのですが、新しい証拠となりました。そのさわりの部分をもってきました。
 
西尾 読み上げますと、「サルヌインの諜報機関における最も困難でリスクの高い作戦は、北京の事実上の支配者張作霖将軍を一九二八年に殺害したことである。将軍の処分は、日本軍に疑いがかかるように行われたことが決定された。そのためにサルヌインのもとにテロ作戦の偉大な専門家であるナウム・エイチンゴンが派遣された。彼はまさに十二年後にレフ・トロツキーの暗殺を指揮することになる。特殊任務は成功裏に終わった」。大枠は二〇〇〇年出版の『GRU帝国』とほぼ同じ内容ですが、二〇〇八年に出版された新しい文書ですね。サルヌインは、未遂に終わった張作霖の第一次暗殺計画にも参加していた。

加藤 その後一時中国を離れてほとぼりをさまし、再び中国に戻ってコミンテルンの意を受けて動く「グリーシカ」という非合法組織を率いていました。このグリーシカが爆殺事件で陰に陽に動いたとみられます。

 西尾 『謎解き張作霖』では、爆殺に関わった可能性があるソ連工作員としてヴィナロフという人物も紹介されています。

加藤 ヴィナロフはサルヌインの部下でグリーシカの工作員です。今回、ヴィナロフの『静かな戦線の戦士たち』という自伝的著作を、ブルガリアの首都ソフィアで入手しました。一九八八年刊行のソフトカバー版にはありませんが、一九六九年刊行のハードカバー初版本には事件に関する記述があります。日本が起こした事件だとはしていますが、「いくつかの運命のいたずらによって」張作霖の列車とは逆方向の京奉線の上り北京行き列車に乗っていて、現場に居合わせ、自分のカメラで写真を撮ったという思わせ振りな記述もあります。

西尾 これだけの重大事件の直後に、反対方向の列車が動いているなどあり得ないでしょう。

加藤 私もこの記述はヴィナロフの嘘だと思います。撮影したという現場写真も初版本に掲載されていますが、海外の通信社が配信した写真のコピーの可能性があります。しかし、「運命のいたずら」などという稚気に満ちた嘘を交ぜながら、事件への何らかの関与を手柄として明らかにしている可能性は否定できないと考えています。

つづく
『正論』2011年7月号より