「『昭和の戦争』について」(六)

「『昭和の戦争』について」

福地 惇

第二章 満洲事変への道

第八節 蒋介石の反共クーデタ(一九二七=昭和二年四月二一日)と「北伐内戦」

 一九二五=大正十四年三月、孫文が病没した。国民党左右両派の対立は激化した。一九二六=昭和一年三月に蒋介石は広東国民政府部内の共産分子の粛清に着手、ここに第一次国共合作は終焉した。

 蒋介石は、同年七月、国民革命軍を率いて支那統一を目指す「北伐」に立ち上がり、二七=昭和二年一月三―五日には漢口英国租界、六日には九江英国租界を実力奪還する漢口・九口事件を起した。さらに三月二十四日には北伐軍は南京を占領して列国領事館を襲撃や市内で虐殺・略奪・暴行を働き我が在留邦人も惨害を蒙った(第一次南京事件)。日本領事(森岡正平)の「無抵抗主義」が惨害を大きくした。英米日軍艦の報復砲撃。襲撃終息。荒木亀男大尉の自決。国内に幣原外交は軟弱過ぎると憤る声が高まった。 

 丁度この頃、ボロディンらは国民党右派を切り離そうと同年二月、国民党左派と共産党党員らに武漢政治を作らせた。「北伐」途上で危機感を強めた蒋介石は、上海で反共クーデタ(四・十二クーデタ)を敢行、武漢政府と絶縁、広東から共産党員及びシンパを撃退した。このクーデタの背後には米国の支援工作が潜み、蒋は米国から大量資金援助を得ている。当時の日本政府が、以上のように複雑怪奇な支那大陸の内乱にソ連や米国が絡まる政治状況を如何捉え、如何対処しようとしたか。問題はこれである。

第九節 幣原外交の空回り

 正にこのように困難な時期に、幣原外交と言われる「親英米外交」「対支宥和外交」が、第一期=一九二四=大正十三年六月から一九二七=昭和二年四月まで、第二期=一九二九=昭和四年七月から一九三一=昭和六年四月まで都合六年間に亙り展開された事は、大正・昭和史の大失態であったと私は思うのである。

 幣原喜重郎の外交理念を彼の演説で確認しよう。一九二二=大正十一年、ワシントン会議全権幣原が最終会議でした演説は、「日本は条理・公正・名誉に抵触せざる限り出来得る丈けの譲歩を支那に与えた。日本はそれを残念だとは思わない。日本はその提供した犠牲が国際的友好と善意の大義に照らして、無益になるまいと言う考えの下に喜んでいるのである」「日本は国際関係の将来に対し、全幅の信頼を抱いてワシントンに来た。日本はこの会議が善い結果をもたらしたと喜んでいる」と底抜けの楽観論を述べている。(幣原平和財団『幣原喜重郎』二五四頁)。

 善意と条理に従い支那に譲歩すること、日本が犠牲を厭わないことで日支友好関係の構築が可能だと幣原が楽観しているのが良く判る。幣原は米国の思惑も、支那民族の異様な個性と我が国への嫉妬心も左右対立の混迷も、そして支那諸勢力の背後に在って共産革命に導こうと蠢く空恐ろしいソ連の謀略工作も視えていない様子だ。支那大陸の現実は、とても楽観できる状況ではなかったのである。大正デモクラシーの楽観的思想状況と幣原外交との関係、実に興味深い問題ですが、ここでは割愛する。

第十節 田中外交の挫折

 一九二六年=大正十五年七月(大正天皇崩御による昭和改元は十二月二五日)、蒋介石の「北伐」が本格的に動き出した。支那南北の大内戦で、共産党の内戦煽動謀略も絡んでいる。我国としては、満洲権益の保全と在留邦人の安全確保に兵力を増強せざるを得ない。満洲は「生命線」だと認識する関東軍将校や満蒙に関心の深い政治家・活動家が、混乱が満洲に波及するのを恐れたのは当然だった。

 若槻内閣に代わって登場した田中義一首相は、一九二七=昭和二年六月中旬から九月まで華北の在留邦人保護のために山東半島に派兵した。この第一次山東出兵は、蒋介石軍の北上を抑えたが、この機に乗じて北方軍閥は南下の気勢を上げたので、南北両軍が接近して山東情勢は更に緊迫化した。支那の共産勢力はこれを好機会と捉えて、南北内戦の激化を工作し、また同時に民衆に対して「排日・侮日」気運を煽り立て、その混乱は支那各地に広く波及したのである。

 そこで、六月下旬、田中首相兼外相は、東方会議として知られる「満支鮮出先官憲連絡会議」を開催、支那対策を協議した。協議の主題は「蒋介石の《北伐》に如何に対処するか」、及び「満蒙における日本の特殊地位とその治安対策」であった。協議の結果は、七月七日に田中外相訓令=「対支政策綱領」として公表された。

 内容は、①支那の内乱・政争に際し、その政情の安定と秩序回復は「支那国民自ら之に当ること最善の方法」、我邦としては「一党一派に偏せず、専ら民意を尊重し、苟も各派間の離合集散」には干渉しない、②「満蒙、殊に東三省方面に対しては、国防上並国民的生存の関係上、重大なる利害関係を有するを以て、………同地方の平和維持・経済発展に依り、内外人安住の地たらしむることは接壌の隣邦として特に責務を感ぜざるを得ず。然り而して、満蒙南北を通じて均しく門戸開放・機会均等等の主義に依り内外人の経済的活動を促すことは、同地方の平和的開発を速やかならしむる所以にして、我既得権益の擁護乃至懸案の解決に関しても、亦右の方針に則り之を処理すべし」、③「万一、動乱満蒙に波及し治安乱れて同地方に於ける我特殊の地位・権益に対する侵害起こる虞あるに於ては、其の何れの方面より来るを問わず之を防護し、且内外人安住発展の地として保持せらるる様、機を逸せず、適当の措置に出づるの覚悟」だとの決意を表明したのである。

 かくして、我が方は山東半島派遣軍を撤収した。ところが、蒋介石は翌二八=昭和三年四月に再度の大規模な「北伐」を実施、山東方面の状況が再び険悪化した。そこで我が政府は第二次山東出兵を断行、遂に五月三日、日支両軍は済南で軍事衝突したのである(済南事件=さいなんじけん)。蒋介石政府は、日本の山東出兵と済南軍事衝突事件は国権侵害の侵略行為であると、国際連盟に提訴した(五月十日)。その一方で「北伐」を継続、北京に迫り、張作霖を急迫した。日本政府としては蒋介石の「北伐軍」が満洲に進軍することを真剣になって警戒せざるを得なくなった。

 五月十八日 政府は、支那南北両政府に対し、戦乱が満洲に波及する場合は、治安維持のために適当且有効なる措置を執るとの通告を発し、張作霖に東三省(満洲)帰還を勧告した。これは南北両政府の態度を硬化させ双方ともが我が政府の勧告に激しく反発・抗議した。また、米国務長官は、日本は支那に内政干渉するなとの声明を発した。済南軍事衝突を境に、支那の排外運動は、主なる攻撃目標を英国から日本に一転した。(産経新聞180419号)

 田中内閣の山東出兵は北支(華北)の治安の混乱を憂いて満洲(東三省)の特殊地位・権益の擁護と居留民保護のための出兵だった。だが、支那の複雑な内戦状況の中で、南北両軍の軍事行動は勢いを増す一方で、何とか華北に平穏をと願う我邦の行動は、却って南北双方の反日機運を高めることになり、実に不利な立場に追い込まれた。なお、田中内閣が山東出兵に踏み切った直後に、コミンテルンは日本共産党に天皇制打倒の「革命指令(二七年テーゼ)」を発していることの意味は大きい。

 なお、「田中上奏文」なる偽文書の問題がある。この田中義一の対支外交は幣原対支外交に比べれば強硬だが、その内容はこのように穏当なものであった。ところが、「田中上奏文」なる偽文書がこの時機にどこからもなく登場した。コミンテルンが作成して世界にばら撒いたとの説が有力だ。その内容が、一例としては既に他界している山県有朋が出てくる点など事実関係から大きく乖離している点、また文書の形式、言葉遣いから、当時から既に偽文書であることは知る人ぞ知る常識であった。だが、欧米世界では夙に有名になり注目され、米国にメディアは大々的に扱った。日本が大正末年ころから世界征服を構想していた証拠として何と東京裁判の証拠資料とされたのである。東方会議の内容を直視すれば、全く為にする偽装文書であることは明白だ。だが、日本の左翼は戦後これを日本侵略戦争の証拠資料として扱い、また共産支那政府はつい最近までこれが日本の大陸侵略の証拠資料だと言い張っていた。ソ連=コミンテルンの日本帝国攪乱工作は内外からヒタヒタと進展していたことを重視すべきである。

つづく

「『昭和の戦争』について」(五)

「『昭和の戦争』について」

福地 惇

第二章 満洲事変への道

第四節 ロシア共産革命の東アジアへの波及――最大の脅威の出現

 一九一七=大正六年十一月、共産ロシア政権が成立した。その二年後の丁度欧州大戦が終結した一九一九=大正八年三月にモスクワに国際共産主義インターナショナル(第三インターナショナル、通称コミンテルン)が設置された。世界各地の共産主義者を集めた世界共産革命指令本部であるが、その本質はソ連政府(クレムリン)の別働隊である。

 この年七月、ソ連政府は「支那に対する宣言(カラハン宣言)」を発して、民族自決の原理に基づき、帝政ロシアが支那から掠奪した領土・利権、不平等条約等々を放棄・撤廃すると宣言した(カラハンはソ連に外務人民副委員長)。翌年に同様の趣旨の第二次宣言が発表され、支那の上下は歓喜に沸き立ち、一九二四=大正十三年五月の蘇支国交樹立に結びついた。ソ連は、帝政ロシア時代の特殊権益や義和団事変賠償金を放棄した。だが、北満洲の権益、中東(東清)鉄道権益は以前のままだった。孰れにせよ、共産ロシアの派手な対支融和外交は、正にこの時期、我国と支那の間には「日華条約問題」「山東権益継承問題」が紛糾していたから、支那を大いに元気付けて、日本帝国主義及び帝国主義列強への激しい反抗運動を活気付かせた。

 なお、米国政府が「排日移民法」を制定したのは、二十四年五月である。また、支那問題をめぐり日米が利害対立の様相を深める情勢は、共産ロシアに好都合だったことを確認しておこう。共産ロシア政権が成立した直後にレーニンが構想した、『敵と敵を戦わせる』『帝国主義列強同士を噛み合わせる戦略』=「社会主義の勝利に至るまでの基本原則は、資本主義国家間の矛盾対立を利用して、これら諸国を互いに噛み合わすことである」(注・一九二〇年十一月、モスクワ共産党細胞書記長会議)、及び『アジア迂回戦略』「最初にアジアの西洋帝国主義を破壊することによって、最終的にヨーロッパの資本主義を打倒する」、がその基本戦略である。(注・カワカミ三二頁)。カラハン宣言は、その第一弾だったと言える。

第五節 ソ連=コミンテルンの東アジア攻勢と米国の東アジア介入

 一九二一=大正一〇年七月に支那共産党、翌年七月に日本共産党が結成された。何れも「コミンテルン(支那・日本)支部」である。何故かといえば、ソ連政府=コミンテルンの究極目標は、全世界の共産主義革命を完成することだ(三田村一九頁)。マルクスの共産主義思想に国境はない。万国の労働者は団結せよであり、国家と言う存在は資本主義時代までのもので、世界共産革命が達成される暁には地球上から国家は消滅すると御託宣している。だから、共産主義者は、共産革命の祖国=ソ同盟の有り難い指導の下に自分の生まれ育った祖国を解体・撲滅する運動に嬉々として邁進するのである。一九二〇年代早々から、ソ連・コミンテルンの支那共産革命謀略で大陸の内戦は拡大し混迷を深めたのである。

 他方、米国は本格的に東アジア(支那大陸)への介入(進出)を強化し、今や支那大陸では、ある勢力は公然・隠然とソ連=コミンテルンに指導され、またある勢力は米国の支援を得て、勢力を増大しようとの動き出した。こうして、支那大陸は米ソの介入で益々「不気味な伏魔殿」の様相を色濃くして行った。一九二〇年代は、正に満洲事変への道の出発点である。共産ロシアや米国の介入による東アジア情勢の深刻化が、我が国の大陸政策を困難にさせて行った最も重大な原因だったのである。(注・戦後の歴史学界は、この重大な事実を隠してきた)

第六節 孫文の左傾化と第一次国共合作(一九二三年十一月から一九二五年三月)

 さて、袁世凱に敗北した孫文は、一九一四=大正三年七月、日本に亡命、東京で「中華革命党」を結成した。だが、運動は失敗続きだった。ところが、一九一九=大正八年七月にカラハン宣言が支那人の気持ちを捉えた頃から孫文は、急速に左傾化する。勿論、ソ連=コミンテルンの誘いに乗ったのだ。一九二三=大正十二年一月に孫文・ヨッフェ(ソ連外交代表)共同宣言が発せられた。宣言は「支那には現在ソビエト制度を成功させる条件は存在しない。支那当面の最大の課題は、統一を完成し、完全な国家の独立を完成することであり、ソ連はこれを支援する」と謳っていた。共産ロシアは、民衆に高い人気の孫文を利用して支那共産革命を促進する腹だったのである。ソ連は、同年一〇月に孫文の政治顧問としてボロディンを送り込んだ。同月、「中華革命党」を改組して「支那国民党」とした。コミンテルンの強い影響下に国民党が成立したことは注目しなければならない。

 孫文は広東に政府を組織、一九二四=大正十三年正月の第一回国民党全国大会で「連ソ・容共・扶助工農」を基本政策に掲げて、国共合作(第一次)して支那民族統一運動を推進すると宣言した。(レーニン没→スターリンが権力継承、カワカミ『シナ大陸の真相』三三頁)。孫文はコミンテルン=共産勢力に取り込まれた形である。支那共産党員は革命顧問ボロディンらの指揮に従い、巧みに国民党の要職に侵入して行く。この年六月広東郊外に黄埔軍官学校が開校、総裁孫文、校長蒋介石、政治部主任周恩来、顧問ロシア人(コミンテルン派遣員)ガレン(ブリュッヘル将軍)と言う陣容で出発した。この学校は、国民党、共産党両方に多数の高級軍人を輩出した。

 なお、ソ連=コミンテルンの指導で、一九二六=大正十五〔昭和元〕年十一月、支那南部で反英闘争の猛威が荒れ狂った。その最中にブハーリンはモスクワで《コミンテルンは、支那共産革命の創設に努力を集中すべきである。支那革命はヨーロッパ、取り分け英国の資本主義に決定的な打撃を与えるための必要条件として不可欠である》との声明を発した(注)カワカミ三三頁。また、「一九二四=大正十三年の蘇支国交樹立後、早速ソ連北京大使館付陸軍武官の事務所にソ連軍事センターが組織された。その任務は支那の様々な政治・軍事団体に資金と武器の配分を監督することであった」(カワカミ三五頁)。

第七節 ソ連の満蒙工作

 それより先、一九二一=大正十年には、ソ連軍は白系ロシア人追撃を名目に外蒙古を侵略して「蒙古人民革命政府」を樹立、大正十三年には「蒙古人民共和国」という純然たる衛星国とした。孫文はこれを容認していた。ソ連はさらに、共産党満州支部に武装暴動蜂起を指令して、一九二四=大正十三年四月には、「全満暴動委員会」を組織させ、共産パルチザン(極左暴力革命集団)活動を推進し、その拠点を満州一帯に広げ、満州に作られた共産軍遊撃区が彼らの活動拠点である。反日活動を展開するパルチザン部隊は数十名を単位として絶えず移動して放火、略奪、暴行事件を頻発していった。

 張作霖の北京政府は、共産分子の跳梁跋扈に脅威を感じ一九二七=昭和二年四月、北京ソ連大使館を一斉捜索して秘密文書を押収した。それには支那共産革命推進の様々な工作、就中孫文に樹立された広東国民党政府を後援する旨が記されていた。なお、ソ連は、北京政府(張作霖)を攪乱する目的で、惑星的軍閥馮玉祥にも武器弾薬や軍資金を供与し「騎兵隊学校」を設立させた。黄埔軍官学校も同様だが、カミによればこの学校も、「ただ単に軍事的な目的のために学生を訓練することではなく、革命的・共産主義的思想を彼らの心に植えつけることであった」(三七頁)のである。

つづく

「『昭和の戦争』について」(四)

「『昭和の戦争』について」

福地 惇

第二章 満洲事変への道

第一節 対華二十一箇条要求問題

 さて、欧州大戦の初期一九一五=大正四年一月十八日、日本政府(大隈重信内閣)は「対華二十一か条の要求」を民国政府(袁世凱)に提示した。戦後の歴史家らは日露戦勝以後、増上慢になった我国の政治・外交が強圧的要求を支那に突きつけて反日感情に火をつけ日支関係に取り返しのつかない汚点を残したと酷評する事件である。

 だが、歴史の事実は如何であったか。対華要求の目的は、第一に山東半島旧ドイツ権益の日本移管を問題、第二に日露講和条約でロシアから継承した旅順・大連の租借期限、南満洲鉄道経営権が八年後の一九二三(大正十二)年に期限切れなので、その延長交渉問題である、当然の外交対策だった。しかも、山東出兵は、英国の熱心な懇望、ドイツを追い出したらそこを日本に呉れようと言う甘言に応じたものであった。

 山東半島旧ドイツ権益継承問題における交渉過程で大きな問題が生じた。支那政府当局者は、主要項目を承諾した上で、支那民衆を納得させる為だから、是非とも「強い要求」や「最後通牒」を出してくれと我が方に要望した(外相加藤高明、駐支公使日置益)。英国の後押しも有った事だし、それまでドイツが問題なく山東半島を支配していたのだから、疑問も持たずに日本政府は、態々「強い要求」を付加し、五月七日「最後通牒」を発し、支那政府は九日「受諾」した。五月二五日、山東省に関する条約、南満洲および東部内蒙古に関する条約など二十一か条要求に基づく「日華条約並びに交換公文」が締結された。

 ところが、条約に調印しておきながら、そこは支那の領土だから返還せよと迫って来たのである。日本が「最後通牒」まで発して強要したと、民衆を煽り立てて反日機運を醸成し、また同時に欧米列国の同情を支那に向けさる工作にとりかかったのである。これを見抜けなかった政府・外務省の失態である。(注・東郷茂徳の回顧=『時代の一面』五頁。戦後の歴史を見る目のない歴史家たちは、わざわざ「日本の最後通牒に屈して」調印したとしている。例えば岩波日本史年表の表記)。日露戦後次第に対日姿勢を硬化させて来ていた米国は、「日華条約が支那の領土保全と門戸開放に違反すれば不承認の旨を日支両国に通知してきた。つまり、好機到来とばかりに日本非難、支那支援に出てきたのだった。

 こうして、支那政府は、日本は横暴だと民衆を煽って「反日侮日」「日貨排斥」運動を起し、欧米列強にも「反日宣伝工作」を展開、パリ講和会議でも支那代表は、旧ドイツ権益を大人しく返還せよと要求し大きな国際問題にした。そこにソ連のカラハン宣言(後述)が出たから堪らない。国際世論は支那に同情的で、日本は不当に過酷な要求を「日華条約」で支那に力で押し付けた印象を与えてしまう。支那は、有利な国際環境を作り出し、民衆の反日侮日感情を大いに煽った。そこで、我国は早めに譲歩して、山東権益を漸進的に還付する方針で臨んだのである。米国も日本の立場に一応の理解を示した。一九一七=大正六年十一月には、「支那に関する日米両国間交換公文(石井・ランシング協定)」が取り交わされた。領土的に近接する支那大陸においては日本が《特殊の利益》を有すると米国は認め、日米両国は支那の独立・門戸開放・機会均等を尊重すると約束したのである。

第二節 支那の「反日」攻勢と日本の忍耐

 「日華条約廃棄」「パリ講和条約調印拒否」の過激な叫び声は支那全土に拡大した。一九一九=大正八年五月四日、北京で発生した有名な五・四運動は、忽ち全国主要都市に波及し、『中華思想』から東夷と蔑んでいた新興日本への激しい嫉妬と憎悪、それに民族独立確立への願望は強烈であった。民族独立確立への熱望、それは我が方も良く理解する所であるが、我が国と支那の方法論には大きな懸隔があった。「以夷制夷」は支那民族の遺伝子(文明・文化)の中に強く深く埋め込まれている。我が国は国際関係においてもお人好しである、話せば分かる、「善隣友好」はわが遺伝子の中に組み込まれている。

 支那人の悲哀も憤慨も分らない訳ではないが、我が国は西洋列強の強欲な侵略の威圧に対抗する際、敵の論理の中に入っていって、敵の理解と支援を取り付ける自助努力を重ねて、この第一次世界大戦の時代までには有色人種の民族として始めて白人西洋列強と対等の付き合いが出来るまでに漕ぎ着けたのである。ペリー艦隊の襲来から凡そ七十年であった。他方、支那は一八四〇=天保十一年の阿片戦争以降、ここに至るまでの凡そ八十年間、唯我独尊的な『中華思想』を改めず、殆ど効果の上がる自助努力もせず、国内統一も達成できず、況や、共和制国家と称してはいても、近代的国民国家には程遠い状態に有りながら、先進列強に平等・対等の権利を与えよと要求しても、理不尽と言うものである。支那の行動は自分の頑固な無分別を棚に挙げて、真面な国々に対して対等平等の権利を認めよと言う、言わば駄々っ子の言い草にも等しいと言う可きであろう。

 国際政治は支那の我侭をそのまま許すほど甘くはない。果たせるかな、一九一九=大正八年六月調印のヴェルサイユ講和条約は、我邦の主張を認めた(第一五六条から第一五八条)。だが、支那人は横暴な自己主張を諦めないから、この問題は尾を引き、二年後に開催されるワシントン会議で再び重要な議題になる。一九二二=大正十一年十二月、結局、我国は、山東権益を略々全面支那に返還し、青島駐屯軍も完全撤退したのである。

第三節 ワシントン会議の歴史的意義

 一九二一=大正十年十一月から翌二二年二月まで開催されたワシントン会議は、簡単に言ってしまえば、東アジアで上昇気流に乗る小強国日本を抑えたいと焦る米国の為の国際会議だった。主要な条約は三つある。先ず、海軍軍縮条約(主力艦、米英日の五・五・三比率、十年間主力艦の建造停止)である。太平洋の対岸にある日本が海軍力を増強して米国の脅威にならないようにとの思惑がある。次に、太平洋問題に関する四カ国条約では太平洋の勢力範囲の現状維持であり軍縮条約を担保するもので、日英同盟は必要なくなったとの理屈で廃棄された。これも米国の思惑通りだった。第三は、支那に関する九カ国条約で、「支那の主権・独立・領土的ならびに行政的保全を尊重すること」「支那における門戸開放、機会均等の主義を一層有効に適用すること」が主旨であった。米国が日清戦争直後から主張し続けて来た『支那に関する門戸開放・機会均等の原則』を列国が承認したものとなり、米国の要望で五年前の石井=ランシング協定は存続理由が希薄になったとして廃棄された。要するに我が国は米国に理想主義的アジア政策に大幅に譲歩したのである。それは、後で見る全権大使幣原喜重郎のふやけた理想主義による譲歩であった。第一次大戦で米国が新しい覇権パワーになって来たという現実を、ワシントン会議は見せ付けた。

 要するに、米国は我侭な支那を哀れみ、理想主義的国際関係論を以て保護する姿勢を列国に有る程度認めさせることに成功したのである。米国は自分の御膝下の中南米、カリブ海諸島、ハワイ諸島、フィリピン諸島に対しては如何であったか、ここでは言うまい。いずれにせよ、米国にお節介的理想主義から出てきた九カ国条約で我が国は、山東半島における旧ドイツ権益を大部分放棄した。こうして、米国の主導で、我国は日英同盟を失い、支那問題に関しては、実に窮屈で頭の痛い問題を抱え込んだことになったのであった。(注)外交官石井菊次郎の評価。

つづく

「『昭和の戦争』について」 (三)

「『昭和の戦争』について」

福地 惇

第一章 「昭和の戦争」前史

第五節 複雑な国際情勢の出現――一九一〇から三〇年まで

 さて、日露戦争後、我が国と諸外国との関係に注目すべき変化があった。その第一は、米国の対日姿勢の変化である。講和条約締結に斡旋の労を取った見返りとして、米国は満洲市場への参入を要求してきた。我が国はそれをヤンワリと拒否した。満洲問題はロシアと清国との関係も複雑で、米国の参入が満洲問題を更に困難にするのを懼れたためである。米国はこれに気分を害した。日本を仮想敵とした米国海軍の有名な「オレンジ計画」は一九〇六=明治三九年に策定開始された。

 一九〇八=明治四一年一〇月には、戦艦六隻の世界一周米国親善大艦隊《ホワイト・フリート》の横浜寄港がある。親善訪問とは謳われたが、明らかにガン・ボート・ポリシー=《砲艦外交》の発動であった。比較的好意的だった米国が、新興日本帝国の予想外の擡頭に対して今度は急速に警戒感を深め始めたのは皮肉な運命であった。ちなみに言えば、日本は基本的には「親米」的姿勢を変えていなかった。

 注目すべき第二は、日露協商の締結による日露協調関係の出現である。ロシア帝国は、満洲北部に退却して、日本との協調を望むようになる。ここに、東アジアでの勢力均衡を求める日露協商体制が登場した。だが、日露協調時代は、一九一七=大正六年にロシア革命でロマノフ王朝が滅亡するまでの、およそ十年間の寿命だった。

 注目すべき第三は、清王朝(北京政府)の対日強硬姿勢の出現である。清帝国がこの段階に至って南満洲の領有権と利権回収を要求し始めたのである。確かに、満洲は清国皇帝=愛新覚羅氏発祥の地で特別の地域だ。だが、清帝国は、満洲防衛の努力を長らく放置して、ロシアの満洲占領を容認していた。もし、我が国が国運と国力を賭けてロシアを北方に退けなければ、或いは日本が敗北していたならば、当時の国際情勢の流れから考えて、清国はロシアに丸ごと占領=植民地支配されるに至った可能性は高かった。だから、清国の主張は、自らの立場も責務も弁えず、我が国の必死の苦労を無神経に無視するに等しい遺憾な主張だった。ロシア帝国の南下の圧力が弱まった途端に、日本の奮闘努力を眼中に置かない支那の独善的な横暴が露見して来たのである。

 支那政府は、国際社会に「日本の貪欲な侵略」などと訴えて、同情を引き出そうと宣伝工作に取り掛かる。虚偽によるプロパガンダ攻勢に支那民族は長けているようである。満洲への進出を欲する米国が支那に同情する。日露戦争前とは一転して、東アジアに新たに日露提携・対・米支接近と言う構図が出現したのである。

 

第六節 更に深まる支那大陸の混迷状況

 
 さて、一九一一=明治四四年十月に辛亥革命が起こり、翌年一月、共和制を唱える中華民国が成立、清王朝は滅亡した。長らく日本有志の支援を受けて支那民族独立運動を続けていた孫文が臨時大総統に撰ばれたが、謀略家袁世凱(清王朝重臣、北洋軍閥首領李鴻章の後継者)に権力を奪取された。袁世凱は三月十日、臨時大総統就任後に首府を北京に移し、巧みに政局を操った。しかし、五年後の一九一六=大正五年、力量を過信して皇帝即位事件で躓き、失意の内に頓死した(六月六日)。支那全土は、忽ち軍閥割拠の混沌状況に陥り、内戦は一九二八=昭和三年十二月に蒋介石国民党が支那統一に略々成功するまで約一二年間続いた。

 この大混乱は、満洲にも波及し奉天軍閥張作霖が台頭、張は初め北京政府に服従したが、袁亡き後、北洋軍閥は安徽・直隷・奉天の三派に分裂、北京政権争奪戦を約十年間繰り返す。結局は一九二二年と二四年の奉直戦争で張作霖が勝利、一九二六=昭和一年に北京政権を掌握した。だが、この間の覇権争奪戦中、張の故郷満洲経営は杜撰を極め、匪賊・盗賊が満州の荒野を徘徊する情況になった。日露戦争後、ポーツマス条約に基づき日本が管轄した南満州鉄道及び付属地一帯は我が関東庁と関東軍司令部の尽力で秩序を保ち、多くの難民が流入したのである。

第七節 欧州大戦及びロシア革命の甚大な影響

 欧州大戦が、一九一四=大正三年七月から、五年間継続(一九一八=大正七年一〇月)した。凄惨な近代戦争でヨーロッパ諸国は勝者も敗者も甚大な打撃を蒙った。また大戦の最中、一九一七=大正六年三月、ロシア共産革命が起こりロマノフ王朝は滅亡した。シベリア出兵もこの大戦中にあり、米国の日本への不信感を深める要因の一つになる。

 ところで、戦場が遠方だった日本と米国は参戦したが経済成長をものにした。歴史教科書的説明では、大戦で日本は経済的に潤い、成金が時代の雰囲気を代表し、都市化・産業化が進み新思潮大正デモクラシーの高まり社会主義運動の成長などと国内動向の変化のみを強調する。確かに、ヨーロッパの変動が思想・経済・社会情勢に大きな影響を与えた。

 ロマノフ王朝の滅亡で日露協商関係は自動消滅した。そして、真に括目するべき事態は、国家の内と外から並び押し寄せてくる世界共産革命運動の不気味な波である。共産ロシア=クレムリンが発動するあの手この手の共産革命謀略工作こそは、これまでとは全く異質な日本帝国を滅亡へと誘う不気味な魔の手だったのである。我が国戦後の歴史研究者たちは、余りにもこの問題を軽視しすぎてきたと私は思うのである。

つづく

「『昭和の戦争』について」 (二)

「『昭和の戦争』について」

福地 惇

第一章 「昭和の戦争」前史

第二節 明治政府の国家戦略

 元寇以来未曾有の国難到来、それは十九世紀当初から高まった西欧列国の脅威だった。それは寛政年間(一八世紀末葉)から始まっていたが、大きな山は一八五三=嘉永六年(凡そ百五十年前)、米国ペリー艦隊の来襲だ。米国政府は徳川幕府に『開国要求』を突きつけた。その目的は欧米列強の世界支配の論理を日本に飲み込ませることであり、それが拒絶されれば、軍事力に物を言わせて植民地支配への道を切り開くことであった。「開国要求」の方法が所謂『砲艦外交(ガンボート・ポリシー)』であったのは、そのことを如実に物語る。同じ年に、プチャーチン座上のロシア艦隊が長崎に襲来して『開国』を要求した。この時点から日本の近代史は本格的に始まる。わが国は欧米列強の侵略の脅威に直面したのであって、それにどのように対応していくかが幕末政治史の核心的課題になったのである。

 徳川幕府は、欧米列強の支配圏に参入することで、侵略の脅威を避ける道を選択した。一八五八=安政五年、日米通商条約締結である。この時点で我が国は不平等条約と言う重い足枷を嵌められて西洋列強の国際関係の枠組みの中に引きずり込まれたのである。この巨大な衝撃に耐え切れず徳川幕府は崩壊して一八六八=慶応四年に明治政府が登場する。欧米列強の東アジア侵略攻勢がなければ、近代日本の擡頭はありえなかった。つまり、内発的な動機から日本が近代世界に参入したのではない。徳川三百年の「泰平」は、我々が思っている以上に安定していて、対外政策は「鎖国」だったからである。
 
 さて、欧米列強の東アジア侵略への防衛的対応という課題を背負って誕生した明治政府の国家戦略を端的に言えば、二点ある。

 第一は、当然のことながら、日本民族の独立と安全の確保=「国権の確立」であった。「国権の確立」とは、先進西欧列強と対等並立できる強国に成ることで、「万国対峙」「万国並立」と表現された。当面の最大の懸案は「西欧的国民国家」の建設と「富国強兵」政策の推進と不平等条約改正事業だった。西洋列強が我が国を独立主権国家に相応しいと認知してくれない限り、「国権確立」は達成困難だったからである。そこで、「開国進取」の理念を基に近代西洋的国家・市民社会・産業社会の建設に全力を投入したのである。

 第二は、「東洋世界の平和と安定の確立」(「東亜〔支那〕の保全・東亜〔支那〕の覚醒」)であった。昭和時代には「東亜(アジア)の解放」と言われたが、要するに西洋列強=白人覇権勢力の圧迫から植民地支配の悲哀に陥り恐怖に慄く被抑圧諸民族=有色諸民族を解放することである。幕末に幕臣勝海舟は、その目的を目指す手段として「日支鮮三国同盟論」なる東アジア連合を提案していた。この構想は、明治政府の要人たちにも受け継がれ、日本外交の一潮流としなっていく。だが、外交は、我が国の意向や思惑だけでは動いてくれない。二十世紀前半の我が国を取り巻く国際関係は、正にその典型だったと言えよう。

 なお、明治政府は、凡そ二十有余年間、「西欧的国民国家」建設と「富国強兵」政策推進に涙ぐましい努力を重ねて、一八八九=明治二十二年には「大日本帝国憲法」を発布して、翌年からの帝国議会開設へと漕ぎ着けた。同時に産業社会の仕組・国民教育の機構・国民軍隊=陸海両軍もこの頃までにはその基礎構築を進展させていたのである。

第三節 日清戦争の歴史的意義

 日清戦争の歴史的意義は何か。欧米列強の東亜侵略に対抗するための国際環境の整備という側面が重要だ。当時清帝国は、ロシア帝国の南下行動に有効な対抗策を打ち出せないでいた。他方で、朝鮮半島に対しては旧来の中華体制的宗属関係を維持していた。清国は朝鮮国の宗主国である。朝鮮半島は支那のいわば植民地的存在だった。宗主国支那がロシア帝国に侵略されれば、属国朝鮮も一網打尽の餌食となろう。そうなっては、我が日本の安全保障は重大な危機に直面する。「中華思想」「中華体制」で東アジアから西欧列強の侵略を撃退するのは不可能である。余りにも独善的で全体を冷静・客観的に見る能力を欠いている。朝鮮王朝を清帝国の支配から離脱させて独立主権国家に育成し、日鮮提携して極東の安全保障を強化する、これが我が国の朝鮮政策であった。日清戦争は、朝鮮半島から清帝国を追い払って朝鮮王国を独立させると言う文脈の中で起きたのである。(注・大韓帝国、皇帝、独立門)。

 一八九五=明治二八年四月に下関講和条約で清国から遼東半島を割譲した。しかるに、露独仏の三国が、「東洋平和の為に」なら無いから清国に返還せよと強要して来た(三国干渉)。力関係を熟慮して我が国政府は、干渉を受け容れた(同年五月「遼東還付・臥薪嘗胆」)。ところが、お説教したロシアは、舌の根も乾かぬ内に清国から遼東半島(三一年六月、旅順・大連)を租借して強固な要塞を建設、また南満洲鉄道の敷設権を獲得して、満洲・蒙古と朝鮮半島への侵略政策に力を入れるに至った。シベリア鉄道の建設は間もなく完工を向かえる段階だった。朝鮮王朝の近代化改革を支援しようと日本が動いたその時、三国干渉で情勢急変、李朝は忽ち強いのは日本よりもロシア帝国だと擦り寄ったのである(朝鮮の「事大主義」)。日清戦争の成果は失われ、急転直下、朝鮮半島は更に危うい情勢に陥った。日露戦争の種は、こうしてロシアと朝鮮によって撒かれたといってよい。

第四節 日露戦争の世界史的意義

 日清戦争後、清国に対する西洋列強の侵略運動が加速した。そこで義和団の過激な攘夷運動が燃え盛り、義和団事変となる。清国皇帝は義和団の攘夷運動を公認した。義和団は北京の列国外交団や居留民殲滅戦を展開し、清王朝は日本を含む欧米列強に宣戦布告した。日本軍を主力とした連合国軍はこれを撃退し、「北京議定書」が成立した。この情勢の中でロシア帝国は満洲を略完全に占領して南下政策強行の姿勢を示した。ロシアの朝鮮・満洲・支那・蒙古への侵略の阻止こそが我が国が対露戦争に立ち上がった動機である。兵員大量輸送のためのシベリア鉄道も略完成していた。

 国力、軍事力の比で見れば日本の勝利はとても無理だと列国の軍事専門家筋は予想したが、わが陸海軍の勇猛果敢な奮闘で、一応の勝利となった。ポーツマス講和条約締結の際の苦労は日本の「善戦の末の辛勝」を如実に示している。英国と米国の支援を得た結果であった。いずれにせよ我が国は日露戦勝でロシアを満洲北部へ押し戻し、朝鮮を我が国の勢力圏に編入せしめた。明治政府の国家戦略の大きな前進だったのである。(注・日露兵力比)

 さて、日露戦勝の歴史的意義は、第一に、新興小強国として西欧列強の認知を獲得できたこと、第二に、ロシア帝国の露骨な支那・朝鮮・蒙古への南下を阻止したこと、第三に他の列強の形振り構わぬ支那分割に歯止めをかけたこと、第四に、白人覇権勢力に頭を抑えられ呻吟している有色諸民族に『民族解放』『国家独立』への大きな希望を与え、大いに激励することになったこと等であった。

 なお、不平等条約改正問題は「国権確立」問題の象徴だが、実に困難な外交課題だった。治外法権の解消は日清戦争直前の明治二十六年七月、関税自主権完全回復は、何と明治四十四年二月であった。欧米列強との対等・平等への道が如何に長く困難だったかを如実に物語っている。尚、明治三五年一月に日英同盟が成立し、英国が有色人種の国家と対等な同盟条約を結んだ最初である。

 一九一〇=明治四三年の「日韓併合」は、既に指摘しておいたように、外交交渉による日本への併合であって、侵略戦争で奪い取った植民地ではない。我が国が力関係で上だったから交渉を主導したのは当然であった。今でも、国際関係は力関係で大きく左右されているので不思議とするには当たらない。竹島を不法占領して恬として恥じない姿勢と比べれば、日韓併合条約締結過程は遥かに紳士的だったと言ってよい。歴史を直視しない現在の韓国政府は、勝手に決め込んだ歪曲史観から発する理不尽な怒りと不満で、「日帝三十六年の植民地支配」の清算などと国際法を眼中におかない妄言を吐いているが、当時の半島人の多くは日韓併合を大歓迎したのだ。李氏朝鮮王朝は、極端な独裁政治で民生の安定も図れず、況や自助努力で「独立主権国家」を形成する意欲も能力もなかった。朝鮮半島が「力の空白地帯」になることを日本は容認できなかった。ロシア帝国の朝鮮侵略意欲が目に見えていたからだ。

 なお、日韓併合以後は、日本は国家財政を朝鮮半島経営に割いた。また、近代化の基礎構築、教育水準の向上、社会基盤や環境の改善等に融資と助力を惜しまなかった。朝鮮半島から搾取するものは殆ど無く、逆に本土からの資金の持ち出しであり、朝鮮人の社会環境や生活向上に多大の成果を挙げたというのが歴史の事実であった。大東亜戦争敗北後の我が国の経済復興、高度成長の原因は、財政上の重荷だった朝鮮や台湾を切り離されたお蔭である。戦前、我が国は朝鮮・台湾・満洲に対し一視同仁、「内外(鮮)一体」の気持から外地の発展に大きな資金を回していた、その分が無くなったためである。「東亜=アジアの解放」の努力として日本と朝鮮・台湾・満洲問題は見るべきものなのである。

 若しこれをどうしても植民地支配と言いたいのであれば、実に立派な植民地支配である。英国のインド、アラブ地域支配、仏国のアルジェリア、モロッコ支配、スペインの中南米やオランダのインドネシア植民地支配、何れも実に虐殺も厭わす残虐で無慈悲な搾取と差別の支配であったが、それとは似て非なるものであった。然るに、韓国や北朝鮮は、『苛酷な植民地支配』だったと執拗に反省と謝罪を求める。また我が国のボケナスの保守政治家や左翼諸君は悪辣な植民地支配をしたと、謝罪と反省に余念が無い。その者たちは、先祖の偉業を侮蔑することに快感を覚える愚か者だ。また、朝鮮=韓国の人々は、日本をただ感情的に非難・攻撃する前に、右の事実や自分たちの先達の不見識と不甲斐なさに思いを致して反省すべきであろう。日本政府は事実を直視して毅然と対応すべきだ。

つづく

「『昭和の戦争』について」 (一)

 福地 惇 (大正大学教授・新しい歴史教科書をつくる会理事・副会長)
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「『昭和の戦争』について」

福地 惇

注記 : この文章は、平成18年4月17日に防衛庁・統合幕僚学校・高級幹部課程における講義題目「歴史観・国家観」の講義案である。講義時間の関係上、掲げたい史料や叙述を割愛した部分も多い。近日中に、完成稿を雑誌等へ発表する予定であることをお断りしておきます。

 

はじめに 歪曲された歴史観・国家観

 本講義の目的は、第一に「昭和の戦争」は「東京裁判」の起訴状と判決に言うような侵略戦争では全くはなく、「自存自衛」のための止む終えない受身の戦争だったこと、第二にそれが了解出来れば、現憲法体制は論理的に廃絶しなくてはならない虚偽の体制であると断言できることを論ずることであります。「昭和の戦争」の本質を語ることで、現在の国家の指導者は勿論、国民大多数が持つ「歴史観・国家観」が、その国家・国民の命運を大きく左右する程に重要であることを主張したいと思います。

 凡そ六十年前、米国占領軍政府(連合国軍最高司令部=GHQ)は、「平和憲法」の異名をとる「日本国憲法」と「日本は侵略戦争の罪を犯した戦争犯罪国家」だと断案した歴史観を日本国民に押し付けた。GHQが起草した憲法なので、「GHQ占領憲法」と呼び、極東国際軍事裁判(通称「東京裁判」)が断案した歴史観だから「東京裁判史観」と呼ぶことにします。 

 さて、GHQが占領憲法を押し付けた理由は尤もらしい装いを凝らしていた。先ず、「昭和の戦争」を日本軍国主義の侵略戦争だと定義づけ、一握りの軍国主義者が世界制服・アジア支配の戦略を「共同謀議」して支那大陸で凶暴・残虐な侵略戦争を展開し、支那だけでなくアジア諸民族に対して甚大な人的・物的損害を与えた。また、日本国民一般も軍国主義者が推進した無謀な戦争の犠牲者であった。それゆえに、平和と自由と民主主義を愛する「正義の味方」アメリカ合衆国は、日本軍国主義者の被害者を救済するため立ち上がり、それを懲らしめて、日本国民を解放したのだと言い包めた。

 この「東京裁判史観」を前提に、新日本は前非を悔いて二度と再びこのような侵略戦争の過ちを犯さないよう、自由と民主主義を基軸とする平和国家へ生まれ変わるのであるとの理屈を組み立てた。

 「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して」(憲法前文)、「国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては永久にこれを放棄する」(憲法第九条)との証文までおしつけて、皇室制度と政治を切り離して元首の存在を曖昧にし、陸海両軍は廃絶されたのだった。

 絶大な権力を有した占領軍政府は、間接統治を有効な隠れ蓑にし、言論や教育の統制を強行し、敗北主義の心理に陥った日本人迎合者を巧妙に使嗾して、彼らの国益に適う国家へと我が国を改造したのである。それを推進するための日本人洗脳の武器が「東京裁判史観」であり、その歴史観に支えられる国家体制が「GHQ占領憲法体制」なのである。

 だが、この仕打ちは、明らかに「ハーグ陸戦法規」違反である。この国際法は、戦勝国と雖も敗戦国の国家体制・法体系を恣意的に「改造」するのは許されない、としている(注・一九〇七年「陸戦の法規慣例に関する条約」第四三条《〔占領地ノ法律ノ尊重〕国ノ権力カ事実上占領者ノ手ニ移リタル上ハ、占領者ハ、絶対的ノ支障ナキ限、占領地ノ現行法律ヲ尊重シテ、成ルヘク公共ノ秩序及生活ヲ回復確保スル為施シ得ヘキ一切ノ手段ヲ尽スヘシ》)。同時に、我が国が受諾した降伏条件=「ポツダム宣言」にも違背している。(例えば、条件付き降伏なのにGHQは〔無条件降伏である〕と言い募った)。

 従って、米国占領軍の行為は、厳しく非難さるべき所業であったが、敗戦後の歴代政府は批判すらせず、大人しくその占領政策を承認し、場合に依っては尊重して講和条約に至ったのみならず、その路線で今日に至っているのである。国民の多くは「平和憲法」は世界に誇るべき憲法だと思い込まされ、「東京裁判史観」でご先祖達が悪戦苦闘したあの「昭和の戦争」は悪辣な戦争だったのだよと子供の頃から教えられて、祖国への愛着を薄めて半世紀以上をのうのうと過ごして来たのである。

 だが、冷徹に往時を回顧すれば、「東京裁判史観」は歴史の事実を歪曲し偽装した虚偽の歴史像なのである。そこで本論に入る前に、「昭和の戦争」を正しく見るための視点を提示しよう。次の四つの次元の相互関係に鋭く目配りしなくては、「昭和に戦争」の真実は見えて来ないのである。

 ①我らの祖国日本は、生真面目に国際法を遵守しようと努力したが、我が国を取り巻く国際政治は以下の事情の為に一向にそれを評価しなかった。

 ②支那大陸の混迷する大内戦状況が、ソ連や米国の介入を容易にさせたため、大陸の軍事・政治状況は極端に混乱し、我が国の大陸政策展開を困難にして翻弄した。

 ③ソ連=コミンテルンのアジア攪乱戦略=日本帝国主義攪乱戦略の目的は、日本と支那の軍事衝突を長引かせるところに有った。それ故に支那の内戦状況の激化に伴い、否応なしに日本軍は大陸の泥沼に引きずり込まれていった。
 
 ④米国の支那尊重・日本排撃方針は、支那情勢への間違った理解、あるいは共産革命幻想に発しており、日米関係を殊更に悪化させた。そのことは、ソ連=コミンテルンの「資本主義同士を噛み合わせる戦略」を効果的ならしめる大きな要因になった。

第一章 「昭和の戦争」前史

第一節 「十五年戦争」という歴史用語の陥穽(落し穴)

 周知のように、満洲事変から支那事変、大東亜戦争へと、「昭和の戦争」は日本の国策として首尾一貫したアジア・太平洋方面への侵略戦争だったとする知識が日本のみならず世界の常識になっている。第二次世界大戦は平和と民主主義を愛する正義の諸国=『連合国』と世界征服を目指す邪悪な全体主義『枢軸国』との激突であった、と『連合国』側はあの戦争の性格を概念規定した。

 だが、これは連合国側、特に米国とソ連とが、歴史の事実を歪曲して独善的に自己に有利な物語に仕立て上げた、いわば偽装された戦争物語に過ぎない。取り敢えず分りやすい反証を三つ挙げよう。

 第一に白人欧米列国は三、四百年もかけて本国を遠く離れた地球の裏側まで、侵略戦争を果敢に展開する植民地支配連合を形成していた。

 第二に、大日本帝国は、侵略戦争で獲得した植民地を持っていなかった。台湾は日清戦争の勝利によって獲得した領土であり、朝鮮半島は朝鮮王朝との外交交渉による条約で我国の領土に併合したのであり、満洲国は「五族協和」の理想を掲げて建国された独立国家だったのである。英国から独立した米国が英国の傀儡国家だと騒いでいる者を私は知らない。米墨戦争(一八四六―四八)でアメリカ合衆国がメキシコから割譲したテキサス州・カリフォルニア州・ニューメキシコ州を植民地支配だと騒いでいる者がいるのを知らない。台湾はカリフォルニア州となんら変ることのない戦争による領有関係の変更であった。

 日韓併合は、米国のハワイ併合より穏やかな併合だった。チェコとスロバキアが合併してチェコスロバキア(既に解体した国家となったが)に、西ドイツと東ドイツが合併してドイツとなったのと何の変哲も無い。満洲国は日本が支援して建国された独立主権国家である。ソ連は満洲建国より八年も以前に、完全な傀儡国家であるモンゴル人民共和国を作っていた。米国のフィリピン独立支援よりも穏当な形の独立支援だった。また、現在の隣国共産支那は、チベットや新疆ウイグル、満洲や内蒙古を軍事力で国土に編入しているし、尖閣列島をじわじわと自国領土に取り込もうとしているし、台湾を武力で領有しようと身構えている。共産支那は明らかに現役パリパリの侵略国家である。だが、戦前の大日本帝国が侵略国家だったと未だに騒ぎ立てる手合いは多いが、共産支那は侵略国家で怪しからんと騒ぐものは徐々に増えてはいるが未だに少数派であるのが現実である。

 第三に、日本帝国は、ナチス・ドイツやファシズム・イタリアと同一の全体主義の独裁体制の国ではなく、明白な立憲君主議会制国家だった。確かに、日独伊三国同盟を締結していた。大東亜戦争期に日本人の一部に「ファショ的雰囲気」は存在したたし、大戦争に遭遇したのだから当然「戦時体制」は敷かれた。しかし、明治憲法は大東亜戦争の敗北まで健在だったのである。軍国主義者の代表とされた東條英機は憲法に従って内閣首班・陸軍大臣を勤めて戦争を指導した。他方、『連合国』側には、超独裁主義者スターリンのソ連、典型的軍閥独裁者=蒋介石の中華民国が名を列ねている。ソ連には憲法は有ったがそれは空文に等しかった。蒋介石の中華民国はマトモナ憲法を持たず、公職に関する選挙制度も無かった。それ故、『連合国』の盟主米国に対して、お前の仲間は典型的独裁者だったのだから、お前も野蛮な「独裁体制の国」だったのだぞ、と言ってみよう。そう言われたアメリカ人が、顔色を変えて激怒するのは火を見るよりも明らかであろう。

 何れにせよ、問題の核心は、「昭和の戦争」が、東京裁判が断案した通りの「侵略戦争」ではなかった点が証明出来ればよいのである。では、「昭和の戦争」の真相は何だったのか。それを述べる前に、あの大戦争の性格をより良く理解する為に、先ずそこに至る前段階=前史を概観することから始めよう。

つづく

続・つくる会顛末記 (七)の2

続・つくる会顛末記

 

(七)の2

 集団思考は右にも左にもあり、運動の形態をとり、ひょっとすると徐々に重なり合い、合体する可能性もあります。つまり、今、保守的右翼的勢力と考えられているひとびとが、いつの間にかはっきり自己確認をしない侭に、中共の謀略にあって、知らぬうちに中国との他者意識を失い、中国の国家利益に奉仕することを知らずにせっせとやりつづけるというような可能性です。アメリカの出方いかんで日本人は頭に血がのぼりすぐそうなります。

 右と左は別だと皆さんは思っていますが、戦後永い間左が強く、左への反発と反感をバネにして、いまの雑誌や新聞がつくられ、ワンパターンで推移していますので、左右のどちらの側にもある同じ質の集団思考、同じ型の固定観念の形成に気がつかないのです。

 右も左も、自分が自由に考えなくなる点で、思考の形態が同じタイプということです。なぜ毎月、オピニオン誌は反中国、反韓国、靖国、愛国を飽きもせずにくりかえすのでしょうか。いくら叫んでも、現実が動かないからです。疲れて倒れるまで言いつづけるしかないのでしょう。

 それではダメだ、基本を正さなければ現実は変わらない、たしかそういう思いから教科書運動が始まりました。ところが、その教科書運動が採択の壁にぶつかって無力をさらしました。今回の紛争は無力感と絶望感と無関係ではありません。

 ですが、分裂ができるということは路線闘争があるということであり、力とエネルギーがまだあるということなのです。左の勢力は結集する力すらありません。ですから、左を叩くことはもうほとんど意味を失っているのです。

 いつまでもオピニオン誌が左と右の対立思考にこだわっている不毛を克服すべきです。それは冷戦の後遺症にすぎません。思想闘争における本物と贋物との対立思考に取り替えられるべきです。

 愚かな左はまだ確かに残っている。しかし、それを標的にしている限り、自分も愚かになるだけです。オピニオン誌の編集者に申し上げたい。愚かな左を相手にせず、右の中の真贋闘争に集中することが、大衆の意識を向上させることにも役立つはずです。

 愚かな左を叩いている文章にはもう飽きた、という人は多いと思います。ほとんど同じ論調のくりかえしで、敵がまだいるからこの方が売れるというかもしれませんが、いつか必ず売れなくなります。その時期は近い。

 教科書問題はいま新しい路線闘争を求められているという意味です。採択の壁は左との戦いではなく、右の中の真贋闘争によって乗り越えられることでしょう。採択の目に見える成果が上らぬうちに、そういう新しい時代が近づいて来たのでした。

 他の政治思想のあらゆる部門において同じことが言えるように思います。黙して逆らわずでは駄目です。自分を危うくすることのない言論人は世界を動かすこともできません。世界を動かすことはまず世界を危うくすることから始まるのですから。

                       

「了」

続・つくる会顛末記 (七)の1

続・つくる会顛末記

 

(七)の1

 「つくる会」の出来事を振り返って全体を判断するにはまだ時間が少なすぎるかもしれませんが、なにか外からの力が働いたという印象は私だけでなく多くの人が抱いているでしょう。一つには旧「生長の家」系の圧力の介入があった、という推論を先に述べたわけですが、それは今までの仲間との癒着の油断であって、分り易いので目立っただけで、本質的な変化を引き起こしている原因ではないかもしれません。

 フジサンケイグループの影響力ということを言う人もいますが、これは影響を与えているというより、外から大きな影響をたえず受けている点で、「つくる会」と同じ位置にあるのであって、現代の世界の政治的謀略の対象としてつねに狙われている側にあります。

 「怪メール事件」の「怪文書2」は内容からみて間違いなく八木氏の手になるもの、もしくは宮崎氏・新田氏・渡辺氏との合作であって、それ以外には考えられませんが、「怪文書1」(党歴メール)は出所不明です。誰かが言っていましたが、公安なら「日本共産党」と正式に書くはずで、「日共」という単純化して書かれた点が中国人の手になるものらしい、という推論もあながち否定できません。勿論「怪文書1」も直接八木筋の手になるものとの可能性も否定できない侭です。

 要するに現代は何処からどんな力が働きかけてくるか予想がつかず、自民党総裁選を前にして靖国に並ぶ教科書問題のタームが政治的に小さいはずはないのです。「つくる会」は間違いなく、何の力かはまだ分りませんが、外からの幾つかの力の大きな作用をもろに浴びたのでした。こんなときに自分達が個人として、人間としてよほどしっかりしていなければ、本当にこなごなに打ち砕かれてしまいます。

 不用意に中国に出掛けて行って、若い事務員に会代表の立場で南京事件について現地の用意十分の学者と対話させた八木氏一行の軽率は、「つくる会」とは無関係であることを理事会で決し、「特別報告」が出されましたが、総会の名においてこれを世界に向けて宣言すべきです。ことに中国社会科学院に対話内容は会とは無関係である旨公文書で通報すべきです。何年か後に、どんなことで(内容では必ずしもなくその折の挨拶の表現のひとつで)中国側から利用されないとも限りません。

 今一番恐ろしいのは、政治家の力量不足を目の前にして、日本の内外で予想もつかない激変が起こることです。軍事紛争か金融問題か、それは分りませんが、あっという間に集団思考が先行し、ものを考えない大衆が主導権を握り、指導者なき羊の群が国際社会という狼虎の世界へほうり出され、国家的に二度と回復できない致命傷を負うことです。

 昨夏の小泉選挙を見て下さい。あの興奮のまゝで、もし日本が地域紛争にまきこまれたらどういうことになったでしょう。小泉は愚かな独裁者でした。任期が来て辞めるからみなホッとしていますが、紀子妃殿下ご懐妊がなければ、確実に「狂気の首相」は異常事態を出現させたはずです。

 そして、この国はいつでも、同じように違った条件で、同じような恐ろしい悲劇を惹き起こす可能性を常態として抱え、明日本当にとんでもないことが起こる不安を一日一日先延ばして誤魔化し、払い戻すべき借証文を質屋に入れて、高金利を払いつづけて生きているのです。

 これは70歳を過ぎた私が見ていて、死ぬに死ねない状況です。「新しい歴史教科書をつくる会」は理想を掲げて走りましたが、間に合わなかったのかもしれません。人間が育っていないのです。しかも、会の内部がそれをさらけ出しました。嗤うに嗤えない状況です。

つづく

続・つくる会顛末記 (六)の5

続・つくる会顛末記

 

(六)の5

 じつは今のシステムも本当は壊れているのかもしれません。あと何年かは保守すれば何とか使えるということでしょう。システムはどんなシステムでも予想できないトラブルが考えられることは常識です。一番の問題はトラブル発生時の即応体制にあります。そのため平時からの情報監視体制が不可欠です。「つくる会」は「保守体制」がまったくコンピュートロニクス社に丸投げの状況で考慮がなかった。つまり宮崎氏があまりにも安易に考えてきたことが問題です。

 新田氏がブログで「トラブルがないではないか・・・・」と書いているそうですが、こういう指摘は本質ではないのです。いまだにファイルメーカーを基本にしているのですが、ファイルメーカーは専門ソフトであり、その技術者が市場にたくさんいていつでも対応可という状況なら心配もありませんが、すでにマイナーなソフトになってきているのが問題なのです。技術者も減る一方です。それだけに、保守契約は大事な問題でしたが、何度も言いますが、実際には本来の保守契約ではなかった・・・・・これこそが最大の問題です。

 エクセルやアクセスなどの、マイクロソフトの汎用製品でつくればそういう心配はなかったでしょう。ある人が言っていましたが、某団体(30万人)会員管理ソフトは、汎用ソフトを使用して、開発に100万もかかっていませんし、保守費用も年20万程度だということです。「つくる会」のケースは知る人が知ったなら常識外なのです。新田氏の指摘「いま問題がないのだから・・・・」は問題の「表層」であり、およそ学者が口にすることばではありません。

 コンピュータ問題の真相を糾すには、Mさんより前に退職した二人の女性オペレーターに本当に新しいソフトに従来の要望、無理な使い方を積み重ねて、長大な時間を要したのか、事情をお訊ねすべきでしょう。それが人件費の加算を生んだ原因だといわれているからです。

 しかしコンピュータ会社の担当役員は「つくる会」の会員で、しかも「つくる会」の仕事を負った損害が原因で重役の職を解かれていると聞きました。コンピュータ調査委員会では、これ以上の追求は慎むべきであろう、争って得られるものはなく、当会のなおざりな対応にも責任がある、と判断されました。そして相手が責任をとっている以上、「つくる会」側がこの件で責任を問われぬまゝはおかしい、という議論になりました。これはしごく当然ではないですか。

 責任をとって理事が辞任するのは簡単ですが、辞任すれば会がなくなってしまうので、八木、藤岡、遠藤、福田、工藤、西尾の六人で100万円を罰金として会に支払い、謝罪の意志を表明することとし、宮崎事務局長は次長降格、給与10%3か月分カット、調査中なので当分の間出勤停止という裁定を会は自らに下したのでした。公明さを示すためにこの裁定を「つくる会」支部にも公表すべき、と言ったのは、八木氏と西尾であり、それに反対し、むしろ内々で辞職勧告とするよう慎重な道を選べ、と言ったのは藤岡氏でした。

 しかるに、新田氏らいわゆる四人組は、お前たちは宮崎に責任を押しつける手前、金を払ってごまかすという汚い手を使った、と居丈高に理事会で発言しました。私はこういうコンテクストの中で、こういう理窟を言い立てる人々とはとても席を同じくすることは出来ないと思って、それが辞任に至った直接の原因でした。

つづく

続・つくる会顛末記 (六)の4

続・つくる会顛末記

 

(六)の4

 驚くべきことに、「総額1728万円、月額17万円(保守料)」はあっという間に値引きされ、「1000万円、11万円」と決定されました。こういうことがますます謎を深めます。どういう仕掛けになっているのでしょう。簡単に700万も値引きするなんてことは、どうしても私には分らない。

 「遠藤報告書」の平成15年1月22日~(18)から平成17年4月7日~(28)までを読んでいたゞくのが一番手っ取り早い。

遠藤報告書1
遠藤報告書2

 ソフト開発購入代価と保守契約込みで1000万円になってみんなよかった、よかったと安心して、保守契約が「玉虫色」であったことは当時は誰も気づいていませんでした。ついに今に至るまで、きちんとした保守契約は具体的に決まらないままできました。常識的に業界では考えられない業者の不誠実を目の当たりにし、富樫氏は将来に及ぶ器械不調を考慮に入れて、第三者の専門家を交えてあらためて保守契約をすべきと考え、再度理事会へ提言文書を提出しました。が、また種子島、宮崎の両氏にはばまれて、彼女の提言は無視されました。

 宮崎氏は、理事会承認をいいことに、女史の進言を無視して業者からの請求書もまだ受け取っていないうちに、ただの口約束で、購入代金の一部525万円の支払いをすませました。いつも支払っている小口の支払い口座に投げこむという杜撰さで、この話を聞いて調査委員会のメンバーもあいた口がふさがりませんでした。

 事務的に一連の契約書関係書類、保守契約書等がなんとか出揃ったのは、理事会の承認からなんと5ヶ月も経った後になってやっとという始末でした。

 最初の頃はコンピュータに不具合が発生しても、業者は相談に乗ってくれていたようですが、だんだん応対が悪くなり、オペレーターは日常業務に支障をきたすようになりました。Mさんは毎日のように起こる器械の異常をノートし、約1年の記録データを残しています。それでも業者が面倒を見てくれる間は良かったのですが、だんだん手抜きになり、ついには、平成17年11月頃に、業者側から翌年3月で保守契約を解消すると通告してきたのです。契約は「玉虫色」で、会社側は保守する義務は必ずしもないと考えていたからでしょう。

 担当オペレーターのMさんは、業者の対応に苦慮し、宮崎事務局長に何度も相談するも、事務局のこの担当のT氏が会社と会を往ったり来たりするだけで、容易にらちがあきません。ついには、自分の担当する職務に自信がもてなくなり、会を退職するに至りました。

 今、コンピュータは正常に動いているといわれていますが、果してバグが改善されているのか、データーが正常に作動しているのかは、詳しく調査してみなければ分りません。いま別の人により保守が開始されたので、何とか動いているのが実情です。一定の保守がなされれば瞞し瞞し使いつづけることはできるでしょうが、「保守契約」のなかった曖昧な無契約状態のまま打ち捨てて来た罪は消えていません。

 それに、最初のこの玉虫色の曖昧さ、保守契約の点だけでなく金銭的にもはっきりしない宙ぶらの状態をかたくなに封印し、死守し、「公認会計士」の口出しを威嚇をもって退けた種子島氏と宮崎氏の姿勢に、何故? 何があるの? という不審の思いを抱くのは私ばかりではないでしょう。当時私が口出ししようとしても露骨に不快な顔で拒絶されました。

 種子島氏は会長になるや、コンピュータは動いている、問題はなにもない、と待っていましたとばかりに一早く宣言しました。そしてFAX通信にそのような意味の一行を入れておけ、と、事務局員に命じて、急遽一文が挿入されました。

 動いていれば問題がないということにはなりません。いつ動かなくなるかもしれない、それに対する用意ができていないまゝに放置されていた責任が問われているのです。

 じつは「遠藤報告書」には注目すべき記述があります。平成14年2月会社はサラリーマンK氏のソフトを継承しての作成は困難と判断し、独自システムの構築を提案しますが、宮崎氏は従来の機能を維持することをくりかえし主張しました。

平成14(2002) この頃種子島副会長は事務局長に対し、①旧システムをベースせず、全く新しいシステムを構築する、②ユーザー(つくる会)側の要望を一本化し同事務局長が折衡の窓口になることを事務局長に指示(宮崎事務局長は「記憶にない」)。

 種子島氏は海外に行く前に①②を言い置いて行ったのに事実はその通りになっていなかったと後で主張しています。二人のうちどちらかが嘘をついていることは明かです。

 「遠藤報告書」の第一稿がほゞ出来たとき、それを藤岡氏が種子島氏に伝え、種子島氏は「経緯はその通りだ」と応じ、ただし自分はこう言い置いて海外に行ったのに宮崎氏が守らなかった、と平成17年10-11月頃に証言し、この①②が報告書につけ加えられた、というのが真相です。

 平成14年3月に試みに第一次納品がなされましたが、二人の女性オペレーターがファイルメーカー使用の従来の機能が反映しておらず、不満を表明し、相談の結果ファイルメーカーを使用した折衷案で行くことになったそうです。会社はファイルメーカーを使用したことがないので分らない、と言っていたそうですが、オペレーター側の要望に妥協したようです。

つづく