坦々塾会員の活躍(一)

 坦々塾の会員の活躍をご報告します。

 まず最初に、林千勝さんが日本維新の会・千葉七区より立候補しました。ぜひ応援してあげて下さい。

 今年会員の中から二人の著作が世に問われました。渡辺望さんの『国家論』(総和社)です。「石原慎太郎と江藤淳。『敗戦』がもたらしたもの」という長い副題がついています。もう一冊は河内隆彌さんの翻訳書、パトリック・ブキャナン『超大国の自殺――アメリカは2025年までに生き延びるか――』(幻冬舎)です。

 渡辺さんは評論世界へのデビュー作で、来年以後次々と本を出して活躍されることを祈っています。河内さんは私の小石川高校時代の同級生で、精力的に翻訳業に取り組み始めました。同じ著者ブキャナンの二作目が来年上梓される運びとか聞いています。

 ご両名の今後の飛躍を祈りたいと思います。以下にそれぞれの自己解説の文を掲示します。

国家論 国家論
(2012/09/08)
渡辺 望

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 今回、刊行の運びになった『「国家論」石原慎太郎と江藤淳。敗戦がもたらしたものー』(総和社)は、私のはじめての本格的単著です。「あとがき」にも書きましたように、この本は、西尾幹二先生のお力添えと、総和社の佐藤春生さんのご尽力によって世に出ることになりましたものです。

 本の副題にありますように、この本を書く動機は、石原慎太郎と江藤淳という、自分にとって幼少の時から非常に大きな存在であった二人の表現者の存在感を、二人あわせて比較分析してみたいという気持ちでした。それはずっと以前から、漠然とですが、ひたすら感じてきたものです。この二人の大きな存在感は、本物だろうか。本物だとしたら、どんな本物なのだろうか、というふうにです。

 よく知られているように、この二人は高校の同窓以来の莫逆の友であり、文壇や論壇でも常に共闘した間柄でした。お互いを論じている文章もかなりあります。しかし二人の共通点、あるいは共有される思想的土俵というものはほとんどないようにも見える。実際ないと思いこんでいたので、私にとってこの二人の存在は、比較分析したいというひたすらの気持ちにもかかわらず、「親友だった有名な二人」という形で併記されるものにすぎないままでした。

 しかし自分が或る程度の年齢になって、今一度、二人の著作、しかもあまり注目されていないような著作の幾つかを読み見直してみると、ある思想的土俵が二人の間に共有されていることに気づきました。たとえば、石原の場合、通俗的なものとしてあまり批評家からは相手にされなかった弟・裕次郎に関してのルポルタージュめいた本、江藤の場合は死の直前に書かれあまりに生々しい精神の記録が(ゆえにやはり批評家があまり取り上げない)妻への死に物狂いの看病記『妻と私』、こうしたあまり目立たない身辺の記録に、最も強烈に彼らの思想的本質があらわれている。再読して私はそう直観しました。

 その直観に従い、さらに今度は二人の著作全体を再読を拡大してみると、両者には、「国家と性」という風変わりな思想的主題がはっきりと共有されている、という確信にいたったのです。

 石原は国家というものを男性的・父権的に把握し、その上で国家的なるものに「青年」を見出す思想家です。石原自身は一見、非常に明快で曇りのない人物に見えるかもしれないけれども、弟・裕次郎との関係をはじめ、石原家の展開は実に入り組んでおり、その中で、石原本人は実に複雑な「父」として存在を余儀なくされる。その過程が彼の国家観をも形成した。これに対し江藤淳は全く正反対に、女性的・母権的に国家観を把握することにこだわったことが石原との比較探求でわかってくる。幼少時に死別した母や、江藤に男性的なるものを仕込んだ祖母への異様なほどの思い入れは、石原の「父」が異端であるのと同様、きわめて特異な「母性」へのこだわりです。

 やがて現実の石原についてはこんなふうにとらえるようになりました。たとえば石原は三島由紀夫との座談会で皇室について否定的発言をして三島を落胆させたのは有名です。最近では北京オリンピックで中国の青年たちの規律正しい歓迎ぶりに感動して保守派陣営を当惑させ、さらにはナショナリズム的には幾重にも疑問符がつく橋下徹と公然と連携したりする。こうした石原の「危うさ」はつまるところ、石原の国家観が、「父権」とそこから導き出される「青年」に根源をもっており、それを感じたときに、石原は共感と同化をするという特異な国家主義者であるということを意味している。

 江藤の本質については、こう考えるようになりました。たとえば江藤淳の文芸評論を少しでもよく読んだ人ならば、江藤が「母の胎内」とか「国家の父性・母性」という用語をほとんど悪文になるほどに多用することをご存知でしょう。江藤が思想家として最も力を注いだのは自分の血筋へのこだわりであり、そこに交錯する父性と母性の問題だったことが、彼の『一族再会』という代表作を読むと非常に明瞭です。江藤は母性への回帰へ軍配をあげる。この『一族再会』は終わりに「第一部・完」と書かれていますが、第二部はかかれませんでした。しかし実は江藤の最終作であった『妻と私』ということが、第二部であったのであり、江藤は母性なる日本への回帰ということを、自らの自殺によって完結したの
ではないでしょうか。悲劇的自殺による国家観の完成ということは、実は三島由紀夫との比較が可能な事象なのではないか。

 以上の視点から、石原と江藤の国家論の比較を次第に掘り起こしていくことを目指したのが本著執筆の第一歩なのですが、これは「書く」ということに常に付随することなのでしょうけれど、「主題の自己増殖」という事態に私は書き始めてからただちに直面してしまいました。 

 「父性」「男権」あるいは「母性」「女権」の比較ということだけではどうも現在の日本に有効な批評になりえない気がしてきたのです。たとえば目の前の民主党政権は、父性的でもないし母性的でもないではないか?論壇や文壇は、父性的な方へ向かっているのか、母性的な方へ向かっているのか?戦後の日本特に私が育ってきた1970年代以降の日本は、実は父性的でもないし母性的でもない。男性的でもないし女性的でもない何かに戦後日本は進んでしまっている。そこでさらに、「中性」というテーマを石原と江藤の間に挟んで論じなければならない。そう私は考えました。

 日本という国家を「中性化」しようとする営為をおこなった表現者として、山本七平や司馬遼太郎、丸谷才一らをあげることができます。左翼でも保守でもない、しかし左翼といえば左翼のときもあり、保守といえば保守らしきときもある、という彼らの今の日本での読まれた方、好かれた方というのは、石原・江藤より遥かに多数派的といえます。彼らは「ただ存在してゐるだけの国家」(丸谷才一)を目指そうとした。それはなぜなのでしょうか。私はその謎を、彼らが共通して経験した(させられた)、軍隊内での陰惨な私的制裁にあると推論しました。私は本書の中でこれら国家の「中性」化に勤しむ知識人のことを「中間派知識人」と命名しています。

 そしてこの軍隊内の私的制裁の問題こそが、戦後日本の知性の主流を次第に捻じ曲げてしまった原点ではないかと私は本書で断じています。「軍隊で殴られた知識人」=「中間派知識人」の復讐劇としての知的策謀なのです。そして「私的制裁」自体にも、意外に根深い普遍的問題が潜んでいるようです。この私的制裁の問題も、私なりに詳細に論じてみたつもりです。

 このことから、本書は、「石原慎太郎論(父性・男権的)→中間派知識人論(中性的)→
江藤淳論(母性・母権的)」の順序の構成をとりました。

 本書の刊行以後、何人かの識者の方に本の感想を送っていただきました。その中の一つ、文藝春秋の内田博人さんのお手紙を本人のご許可を得て引用掲載させていただきます。周知のように、内田さんは雑誌「諸君!」の編集長を長く勤められました編集者です。

 「 
  過日はご新著「国家論をお送りいただき、誠に有難うございました。ご研鑽がみごとに結実し、たいへん読みごたえのある一冊になっていると感じました。文章は読みやすく、国家というとらえどころのない存在の核心に、真っ向から迫ろうとする渡辺さんの気概を強く感じます。

 とりわけ「中間派知識人」というカテゴリーに新鮮な印象を受けました。左右対立という従来のカテゴリーでは見逃されがちな、昭和後半の知的世界のある一面を鋭く衝いて、西尾先生の言う「戦後思想に毒されていない」精神が躍如している部分と思いました。

 「南洲残影」から「妻と私」をへて自裁へといたる江藤氏の晩年には、死の予感が通奏低音のように響いていて、痛ましさを感じずにはいられません。「一族再会」を中心に据えた渡辺さんの論述によって、悲劇の思想的な意味あいが初めて見えてみたように、感じております。

 渡辺さんの評論活動のまさに出発点になる一冊かと存じます。ますますのご健筆をお祈り申し上げております。

 何卒ご自愛ください。略儀ながら書中にて御礼まで。

                                   文藝春秋     内田博人」
 

 さすがは経験豊富な編集者だけあって、内田さんは、私が「中間派知識人」の問題に精力を割いたのをよく見抜いていらっしゃいます。現在の日本の知的状況というのは、左翼が台頭しているのではない、かといって保守主義的主題を現実化しようとする意欲もない、そのどちらも敵視し消し去るような、「いつまでもだらだらできる日本」が現実化しつつある、ということにあります。

 まさに丸谷才一のいう「ただ存在してゐるだけの国家」の建国がほとんど完全な形で実現してしまっているといえましょう。石原・江藤の比較論というこの本の両輪の副産物ではありますが、しかし現実的問題としては実は本書のテーマの中で一番真摯に考えるべきかと思われるこの「中間派知識人」の問題も、本書を読まれる方に深く考えていただければ幸いと思います。

坦々塾夏の納涼会(平成24年)

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 7月28日ホテルグランドヒル市ヶ谷で行なわれた坦々塾夏の納涼会の私のスピーチについて、メンバーの渡辺望さなんが感想を書いて下さいました。この日私はメンバーの皆様から喜寿のお祝いをしていたゞきました。厚くお礼申し上げます。

 7月28日、ホテルグランドヒル市ヶ谷白樺の間で、西尾先生の喜寿のお祝い、そのお祝いに坦々塾の納涼祭を兼ねた会が開かれました。参加された方で、「暑い」という言葉を朝から一度も言わなかった人はもしかして一人もいなかったのではないか、と思えるほど猛暑の一日でした。

 しかし、白樺の間に入り、会席の始まりとしておこなわれた先生の講演を聞いて、どの人も、汗を拭く手を次第次第にやめていくのが私にはよくみてとれました。そのことは別に、建物の中の冷房だとか、部屋の中の冷たい飲み物だとかのせいではありません。
 
 小林秀雄の『考えるヒント』(文春文庫版)の解説文で江藤淳は、「・・・ところで、この本の読者は、どのページを開いてみても、読むほどに、いつの間にかかつてないようなかたちで、精神が躍動しはじめるのを感じておどろくにちがいない。それは、いわば、ダンスの名人といっしょに踊っているような、あるいは一流の指揮者に指揮されてオーケストラの演奏をしているような体験である。これが自分のステップだろうか、自分のヴァイオリンがこんなに鳴るのだろうか、といぶかりつつも、いつになく軽やかに動く脚に快い驚きおどろきを感じ、いつもより深い音色を響かせる学器に耳を澄ませはじめる」と記しました。当日の西尾先生の言葉の流れから、私はその比喩を連想しました。
 
 西尾先生の言葉に耳を傾ける人もまた、知らず知らずのうちに西尾先生の言葉によって、考えさせられはじめている。江藤は音楽を比喩に出しましたが、音楽でなくてもよい、水の流れでも空気の流れでもよい、それに触れる人を思考に知らず知らずに誘うもの、そういうものです。そういう力をもっているものは、涼やかで風通しのよいものに他なりません。
 
 考えが優れて進むことは古来より「冴える」「冴ゆる」と表現されてきました。「冴える」「冴ゆる」とは、頭の中が涼やかになり、そして澄んでいき、さえ(冴え)渡っていくことを意味する。白樺の間に響く西尾先生の言葉は、どんな冷風や冷たい飲み物よりも涼やかなもの、聞いている人間を考えさせていくものでした。冴えさせられることによって、汗を拭く手のことをいつのまにか忘れてしまう。そのことが私には見て取れたのです。

 さて、三十分余りと、それほど長いものでなかった先生の講演は、「戦後から戦後を批判するレベルにとどまってはならない」と題されたものでした。これは刊行が迫っているご自身の著作『GHQ焚書図書開封第七巻』の内容紹介を兼ねてのものでしたが、その内容紹介については今回の報告では割愛させていただきます。

 まず先生は、日本人の戦後におけるアメリカ観の急速な崩壊が進んでいること、しかし崩れ行くアメリカ観の中で、新しいアメリカ観をなかなか確立できない日本人の精神的停滞を指摘されました。西尾先生はこの停滞の根幹に、保守派の守護神的存在である小林秀雄、福田恆存、竹山道雄の諸氏の歴史観の間違いがある、とお話をはじめられました。

 これはどういうことなのでしょうか。従来、保守派と左派の間に一線をおいて、両者を切断する捉え方が絶対的といっていいほど多数派であり、その保守派が依存してきたのが、小林たちの言説でした。たとえば西尾先生が引用されたように、小林秀雄が戦後繰り返し、「自分は(戦争を)反省しない」と言い切り、戦争の反省を強いる革新派知識人を軽蔑したことはよく知られています。そういう言葉を吐く小林の心情は「悲劇は反省できるものではない」ということにありました。先生は福田恆存の親米主義も例にあげられましたが、そのような精神的地点は、『ビルマの竪琴』を書くことによって、「悲劇は反省しえない」ということを宗教的心情に逸脱させた竹山道雄も同じということがいえるのではないかと私は思います。
 
 だからこそ、小林達の戦後保守派の史観と、左派史観には重要な共通点がある、と先生は言われます。つまり大東亜戦争というものを「避けるべきもの」だったというふうに考えていたということです。だから「悲劇」という表現を小林秀雄は使う。小林秀雄は、大東亜戦争に歴史的必然の意味を与えようとした親友・林房雄を揶揄しているというようなこともしていることを、今回の先生のお話ではじめて知りました。
 
 もちろん、小林秀雄たちは、戦後平和主義やマルクス主義派知識人とは本質的にはまったく違う。しかし彼らの歴史観に「何か」が足りないのです。その「何か」の不足のせいで、我々は今や、保守革新を問わず不自由に陥っている。その「何か」を把握することが、崩壊するアメリカ観や世界観に直面する私達に必要なのではないか。西尾先生の戦後保守派知識人への批判はここに始まります。西尾先生の批判を敷衍すれば、悲劇を安易に感受することは、歴史における思考停止を招きかねない、ということになるでしょう。

 では、「大東亜戦争は避けるべき悲劇だった」という戦後保守派と左派に共通するパラダイムから脱するヒントはどこにあるのでしょうか?
 
 西尾先生はそれを、戦時下において政府に積極的な協力を見せた知識人の何人かの言説から探し出そうとします。それがここ数年の西尾先生の思想的営為でもある。彼ら知識人は軽々しいオポチュニズムで政府や軍部の片棒を担いだのではない。世界史の流れにおいて、運命、使命、あるいは必然ということと真剣に格闘することによって、戦争を積極的に受け入れ担おうとしたのです。

 仲小路彰、大川周明、保田與重郎など先生があげられるこの方面の知識人はしかし、戦時下に協力したということによって、表現の世界から追放に等しい評価をされ、戦後の保守派からも傍流の扱いを受けつづけることになり、その仕事の多くは依然として埋もれたままになっています。しかし彼らの知的精神がもっている「自由」の幅は計り知れないものがある。

 この「自由」こそが今必要とされているのではないか、ということです。彼らはたかだか二十世紀の一事件として大東亜戦争を把握するのではなく、時間的・空間的に巨視的にそれを把握し、その意味付けをしていた。ゆえに、戦後世界的なアメリカ把握、ヨーロッパ把握、アジア把握から全く自由であったのです。

 先生のお話を聞かれた人の中には、たとえば、戦時下における西谷啓治や高坂正顕たち京都学派の世界秩序構築論の理論的作業の例がすでにあるではないか、といわれる方もいるかもしれません。これら京都学派の諸氏も、戦後、追放処分の憂き目をみた人物たちです。

 しかし京都学派の理論的作業は、近代やヨーロッパ文明を超克するといいながら、ヘーゲル主義その他、ヨーロッパ文明下の思想教科書を前提にした枠組みの中、それらの範囲でしか考えていないという物足りなさがあるといわねばならないように私には思います。学者的学者の限界、と言ったら酷でしょうか。いずれにしてもやはり京都学派の思想家たちも、「何か」が足りないように思われます。

 仲小路彰に関しては西尾先生の本格的な発堀まで、忘れさられていた存在でした。著作『太平洋侵略史』などに表されているその歴史観は地球全体と、近代以前からの時間を視点においた壮大なものでした。それは学者的学者の史観ではありえない巨視的なものです。

 また西尾先生が言われるように、「東京裁判の狂人」というイメージが戦後日本で一般的である大川周明に『日本二千六百年史』という堂々たる全体的歴史書があることは今の日本人にほとんど知られていない。大川もまた、専門分野にまったく拘束をされない非学者的知識人でした。大川の歴史観には面白い躓きもあり、彼は鎌倉時代の扱い方に苦労して失敗していると先生は指摘されました。優れた思想家には、その知的正直さがゆえに、興味深い躓きをするという逆説があるのです。

 この鎌倉時代こそは、戦後の左翼史観が巧みに悪用してきた時代です。左翼史観にしてみれば、この時代こそが反皇室の萌芽だからですね。平泉澄なども鎌倉時代に焦点をあてた歴史論を考えており、西尾先生にしてみると、大川の躓きをはじめとする、戦前と戦後における鎌倉時代・中世の問題ということに非常な関心がある、ということでした。
 
 「戦後」ということから自由であり、また「専門」ということからも自由であるこれらの知識人の知的精神が、現代の日本人の組み立て直しに資するに違いない、それが当日の西尾先生の講演の結論でした。

 西尾先生のお話が終わったあと、坦々塾会員である足立誠之さんが乾杯の音頭をとってくださいましたが、乾杯の音頭に際しての足立さんのスピーチもまたたいへん歯切れのよい記憶に残るものでした。

 足立さんはかつて北米大陸に長く滞在されお仕事をされいた経歴をお持ちの方です。つまり、アメリカという国の本当のすさまじさというものを、実感として知られている。足立さんがいわれるには、戦時下の特攻隊員の中には、アメリカという国は決して蔑ろにするべき対象でもないし、もちろん甘い幻想を抱く対象でもない、日本という国を根絶やしにするおそろしい国なのだ、だから自分はそのアメリカと戦う、と言い残していった若者もいた。この足立さんの言葉は、実は戦前戦中の日本人の中には、仲小路や大川のように、巨視的な意味で日米戦争をとらえていた人物が知識人以外の層にもきちんといたのだ、ということを意味しています。

 私は、足立さんのお話から、ローマの歴史家タキトウスの「戦争は、悲惨なる平和よりよし」という言葉を思い出しました。あるいは哲学者カントは、自身の平和論の中で、「お墓が一番平和なのだ」と実に見事な皮肉をいいました。戦後日本人の多くは(よほどの共産党系知識人を除いて)ソビエトの衛星国になった東欧諸国の「悲惨な平和」をみて、日本の戦後を「幸福な平和」の国と考えていた。しかし、日本の戦後もまた、見えにくい形で「悲惨な平和」が進行しているのではないか。あるいは「お墓の平和」に近づいているのかもしれない。西尾先生は講演の中で、「ソフト・ファシズム」ということを言われましたが、「ソフト」というのは、見えにくく、見えにくいがゆえに、抵抗がむずかしい分、「ハード・ファシズム」よりも遥かにおそろしいのです。 
 
 アメリカの巧みな、しかも長い時間をかけた戦後の対日解体戦略の中で、先日の大津いじめ事件に見られるような日本人の骨抜きが進んでいると足立さんは当日のスピーチの中で嘆かれました。それで思い出したのですが、私は何年か以前に、足立さんが坦々塾で「ガラスの中の蟻」という題名でされたお話の内容が、たいへん強く印象に残っています。

 北米大陸でも子供の「いじめ」はたくさんある。しかし親はいじめられた自分の子供たちをすぐに手助けするのではなく、「戦いなさい」と返すのだ、と足立さんはそのときに語られました。日本人は、そうした日常レベルから、アメリカ人のそうした生き方にかなわないように腑抜けにされてしまっている。そのことがどれだけ深刻なことなのか日本人はわからない。それが足立さんのお話の主張だったと記憶しております。「戦い」の気持ちを抱く人間はもはや少なく、あるいは「戦い」を決意しても、共感や共闘をしてくれる人間がますます少ない、というのが日本の現状なのでしょう。日常の「いじめ」に対して戦えない人間が、国際政治で戦えるはずはないのです。

 「だからこそ」と足立さんは当日のスピーチで強調されました。「この厳しく、ある意味で情けない日本の現状で、本当のことをいい、真剣に思索と戦いを演じられる知識人は西尾先生以外にいない」ということ、そのためにも、「西尾先生にいつまでも頑張ってもらいたい、心身ともに健康でいていただきたい」足立さんはスピーチをそう締めくくられて、乾杯の音頭をとられました。

 和やかな会の進行の中で、西尾先生の喜寿のお祝いに、日本でただ一つだけの「清酒・西尾幹二」を先生に手渡され、先生もたいへんに喜ばれ寛がれていらっしゃいました。坦々塾にはじめて参加される方も何人かいましたが、二次会に至るまで、先生との会話を楽しまれ、「冴え」の気分と「戦い」の精神の坦々塾の雰囲気を存分に吸収されたように思われました。

文:渡辺 望

坦々塾報告(第二十一回)報告

 小川揚司
坦々塾会員 37年間防衛省勤務・定年退職
                           

 第21回 坦々塾は、当初4月2日に予定されていたが、大震災から間もない国内情勢を慮って延期され、今般6月4日(土)に開催された。お正月の新年会以来半年ぶりの坦々塾であり、出席者は47人、新年会と同様、熱気溢れる盛会となった。

冒頭、西尾先生から、新たにご参加のお三方、沼尻裕兵さん(「Will」編集部員)、松木國俊さん(つくる会東京三多摩支部副支部長、「調布史の会」主宰)、平井康弘さん(スイスの世界的種苗会社の日本法人「シンジュンタ・ジャパン」執行役員)、加えて、坦々塾ブログから応募されオブザーバーとして参加された小泉健一さん(元海運会社経営)のご紹介があった。平均的年齢層がやや高くなっていた当塾に新たに壮齢の人士が加わり、更に新鮮で幅広い論議が盛り上がることが期待され、何とも嬉しいことである。

大震災、福島第一原発事故からほぼ三ヶ月となる今回の勉強会での最初の講師は櫻林美佐さんで、「大震災と自衛隊」と題する講義であった。

櫻林さんは、「大震災に派遣された十万人に及ぶ自衛官達の過酷な状況下での渾身の奮迅と被災者達の感謝の想い」について、現地での取材に即してその実情を具に語りながら、しかし「自衛隊は本来、災害派遣のために存在する組織ではなく、国防を担う組織なのである。然るに、政権も広範な国民もそれを理解せず、防衛予算を減らし続け、自衛隊の装備や人員を削ぎ続けて、それでも黙々と無理に無理を重ねて献身する自衛隊とその隊員達(現場で尽力する自衛官、駐屯地や基地で後方支援に任ずる事務官、技官達)に一応の感謝はしても、その根本的誤謬には一向に気が付かない、そのような無能な政権と無知な国民が抱える根本的な問題」について、数々の具体的実例を列挙しながら、切々と語りかけられた。

坦々塾の会員諸氏は、国防の問題に関してもそれぞれに一見識の持ち主ではあるが、櫻林さんが明らかにする吾が国の防衛態勢と自衛隊をめぐる奇怪なほどに歪んだ現実を、そのひとつひとつの衝撃の事実を、それほどのものであったかと満場固唾をのんで聴講した。
そして、櫻林さんは、極めて深刻な問題として「今日只今、吾が国の防衛生産基盤が崩壊の流れに入ってしまっていること、即ち、ここ十数年来、大幅な軍拡を続ける中国とは正反対に、吾が国は防衛予算をとめどなく低減させ続けており、そのために防衛装備に発注が減少し続け、その生産基盤の裾野を構成する数多の中小企業(町工場)が続々と倒産や撤退に追い込まれ、プライムの大企業ですら防衛部門からの撤退や縮小が目立っている。生産ラインとともに不可欠な技術と技術者も次々と消滅しており、このままでは確実に防衛生産基盤は崩壊すること」を訴えられた。筆者も曾て防衛省・自衛隊において、防衛装備の調達行政にも携わったことがあり、往事からの諸問題が益々深刻化していることを痛感し、憂慮を更に深めたところである。

曾て忠勇無双を誇った帝国陸海軍も「兵站の貧弱」がアキレス腱であったが、それでもなお巨大な陸軍・海軍工廠を保持していた。しかし、現在の自衛隊にはそれすらなく、「お国のために」と自ら立ち上がってくれたM重工、K重工をはじめとする防衛産業のみが頼みの綱なのである。櫻林さんは「防衛産業は「国の宝」であり、多くの防衛産業の人達は「儲かるか、儲からないか」と云う次元ではなく、「国を守れるか、守れないか」と云う視点で、日々、研究開発に努めている、と云うのが取材を通じて得た私の印象である」と断言し、これを守るべく懸命の論陣を張って下さっている。数多の防衛問題の専門家の中でも、現下の自衛隊の窮迫した実情を冷静に具体的に掌握し、生身の自衛隊と隊員達に肌を寄せるように温かく、本質的で建設的な施策を提言する論者は希有であり、日本人としての真心と抜群のセンスを兼備した櫻林さんのような論客の存在を心底頼もしくも嬉しくも思うものである。

講義の後、櫻林さんに「誰も語らなかった防衛産業」(並木書店)、「終わらないラブレター」(PHP)などのご著作があることも西尾先生から紹介された。 
また、「正論」7月号にも「自衛隊の被災地支援作戦で見られた国民の“宿題”」と題する卓論を寄せておられるので、併せてご紹介申し上げる。

次に、当塾の会員であり、東京電力(柏崎・刈羽)に勤務される傍ら、新潟大学でも教鞭をとられる小池広行さんに「福島第一原発の今後の行方」と題して講義いただく予定であったが、ご勤務の関係上、現時点では状況が許さないと云うことで、代わりに小池さんから寄せられたご勤務の近況についてのメッセージが、西尾先生から披露された。メッセージの内容は盛り沢山でそれぞれ興味深いものであったが、中でも小池さんと同期でもある福島第一原発の吉田所長との掛け合いは実に剛毅であり出色であった。他方、小池さんには新潟県内に避難された被災者の方々に東京電力を代表して対応するお役目もあり、精神的に憔悴されることも度々であるとのこと、会員の浅野さんから贈られた東郷神社の御守を胸に、試練に耐え抜いていただくことを、遙かにお祈り申し上げるものである。

メッセージが披露された後、西尾先生が「Will」6月号に寄せられた「原子力安全・保安院の「未必の故意」」、同じく7月号の「脱原発こそ国家永続の道」を踏まえ、西尾先生からお話しがあった。
西尾先生は「この二論文の眼目は、吾が国の国家のあり方に関わる根本問題についての指摘にある。どうも佐藤首相のころから日本はおかしくなり始めてのではないか」と問題提起され、具体的には、次の二点、6月号の「つねに最悪を考える」の節にも記述された「アメリカは、日本が国家漂流の状態になることがあり得るという可能性を想定に入れているからこそ、大部隊を派遣したのである。 … しかし、日本では政府も民間人もそこまで考えているだろうか。福島原発がコントロールできなくなるような最悪の事態、国家の方向舵喪失のあげくの果ての、政治だけでなく市民生活全般における恐怖のカオスの状態を念頭に置いているだろうか。 … アメリカの政治家にあって日本の政治家にないのは、あらゆる条件のなかの最悪の条件を起点にして未来の計画図を立てているか否かである。つねに最悪を考えるのは、軍事的知能と結びついている」と云う問題、また、7月号の「戦争も「想定外」」の節の「考えてみると、日本の原子力発電にとっては津波の大きさだけではなく、すべての事故が「想定外」だったのである。事故は起こらないという大前提でことは進められていたに相違ない。そして、そのことは日本の根本問題につながっている。この平然たる呑気さは原発だけの話ではないからだ。原発にとって事故は「想定外」であったと同じように、そもそも自衛隊にとって戦争は「想定外」なのではないだろうか。 … 原発にとって、事故は「想定」してはならないものでさえあった。 … 同じように、自衛隊にとって戦争は ― 本当はそれが目的で存立している組織であるのに ― 「想定」してはならないものとして観念されているのではないだろうか」と云う問題に言及された。

西尾先生のご炯眼によるこのご指摘は問題の核心を直指するものであり、就中、自衛隊に関するご洞察は、紛れもない事実であると承知する。
筆者は、昭和46年に防衛庁に入庁し、昭和四十年代後半から昭和五十年代にかけての十数年間、内局の防衛局と陸上幕僚監部の防衛部を往復するなどしながら勤務したが、その間に正にそのように防衛政策が根本的にねじ曲げられコペルニクス的に大転換させられるのをまのあたりにした。
即ち、当時の自民党政府は、保革伯仲の政治情勢の中で公明党に迎合し、骨幹防衛力整備の途中でしかない「三次防」末の防衛力を「上限」とすることを政治決定し、その「政治的妥当性」の理論構成を防衛官僚に命じて作文させ、「平和時の防衛力(脱脅威論)→ 基盤的防衛力構想 → 防衛計画の大綱」と云うを蜃気楼を幻出させたのである。

古今東西 自国に対する「脅威」を想定し、その脅威に対処し得る「所要防衛力」を整備するのが「軍事的合理性」に基づく防衛政策の基本であり常識である。
しかし、吾が国においては「軍事的合理性」に基づく「脅威」は「想定」してはならないものとされ、敢えて「脅威」を想定せず「所要防衛力」の算定を度外視した「防衛計画の大綱」が現在も神聖不可侵の国是とされているために、中国が膨大な軍拡を続けていても、吾が国(歴代政権)は脳天気に平然と防衛力を削減し続けているのである。これは元は自民党政権が犯した大罪に由来するが、現政権(市民感覚・主婦感覚でしかものが見えない民主党政権)にその是正を望んでも、木に縁りて魚を求むるが如く絶望的であることは論を俟たない。(吾が国の致命傷ともなり得るこの問題については、あらためて別の機会に詳しく論じたい。)

最後の講師は小浜逸郎先生で、「人はひとりで生きていけるか ― 大衆個人主義の時代― 」と題する講義であった。
小浜先生は、レジュメの項目として Ⅰ「個人化」と「大衆個人主義」 Ⅱ「私」「自分」とは何か  Ⅲ.現代政治の危険性  Ⅳ.新しい哲学と倫理学の必要 と云う内容で、実に明晰に論理を展開された。就中、第3項においては、①民主党政治がうまくいかない理由、②風潮としての民主主義と国家体制としての民主主義、③亡国の制度改革 について解説され、中間共同体の崩壊が全体主義への道を開くものであることを指摘し、それを促すものとして民主党政治の制度改革等を厳しく批判された。そして、第4項において、吾が国の歴史・伝統に合った倫理学の出現への熱い期待を語られた。また「心的人格の構造関係」について、フロイトのように図式化しながらもその問題点を指摘しながら、無意識の基底にある底なしで時間もない「エス」についてのお話も興味深く、小浜先生の哲学的で、大層明晰な講義から新鮮な刺激を与えられた聴衆は、筆者の他にも多かったものと思われる。
講義の後、小浜先生には、本日のご講義のタイトルと同じ「人はひとりで生きていけるか ― 大衆個人主義の時代― 」(PHP)、その他 画期的な教育論をはじめとする多数のご著作があることが西尾先生から紹介された。

以上、今回の坦々塾の勉強会も大層密度の濃い充実したものであった。
その後、例によって高論百出の熱気溢れる懇親会が盛会裡に開催され、西尾先生を囲んでカラオケを熱唱する恒例の二次会も壮年会員を中心に、今回は「軍歌の神様」である松木さんも加わって勇躍と夜の更けまで行われ、今回も賑やかに結びとなった。
末筆ながら、西尾先生の益々のご健勝とともに、大石事務局長をはじめ事務局幹事の方々のいつもながらのご尽力とご高配に深謝申し上げ、筆を擱くこととしたい。

平成23年6月18日

坦々塾新年会(平成23年)の報告

  

平成23年1月8日(土)に行われた、坦々塾新年会の報告です。

 文章:浅野正美

 今回の坦々塾は従来と趣を変えて西尾先生のご講演と新年会の宴というプログラムで開催された。会場も定例の会議室を使用せず、最初から懇親会場の部屋に集合し、ここで西尾先生の講義を聴くスタイルとなった。

 当日は過去最高となる51人の出席者が集まり、宴会場の一部屋では収まりきらない人数であったが、何とか全員で膝を寄せ合い、かつての寺子屋を髣髴とさせる雰囲気での勉強会となった。

 西尾先生の講演は、田母神元空幕長解任における先生の強い怒りが、ある私的な感情に基づくことから語られた。西尾先生と当時の麻生内閣総理大臣とは古くから面識があった。マスコミが政権交代必至と扇情的に報じる時の世相において、先生は必ず読まれる手はずを整えて、麻生氏に手紙を書き送った。そこには、保守政治家を自負する麻生氏が、保守としてとるべき行動と心構えが具体的につづられていたが、麻生氏はその忠告に耳を傾けることなく、何者かにおもねるような政治姿勢を取り続けた挙句に、田母神氏解任という暴挙に出た。

 我が国は、戦後の見地からのみ戦争を批判するという宿痾に蝕まれ、勝敗とは別に、開戦前に立ち返っての大東亜戦争における必然性と正当性を深く思索するという営為を放棄してしまった。その結果、反戦、平和、民主主義といったものが、進歩主義として認識せられ、侵略戦争を否定するアメリカこそが侵略者であったという自明のことが忘れられた。 

 敗戦時、我が国で0時(国家の非在)を体験したのは、満州など外地からの引揚者、復員兵、昭和天皇だけであり、国民は「リンゴの歌」と「青い山脈」の能天気なメロディーに慰められて、それ以降の教育とマスコミによるばかばかしさの再生産は、今もやむことがない。ドイツの敗北後の惨状はこの比ではない。

 真に必要なことは、0時の時代の正確な認識を取り戻すことである。

講演終了後、20名に西尾先生署名入りの御著書が当たる抽選会が行われ、当選者には一番から順番に希望の書籍が贈呈された。この日のために広島から駆け付けた日録管理人の長谷川さんが一番くじを引き当て、長谷川さんによる乾杯の発声で新年懇親会が始まった。

 この日塾生一同は、新年の祝賀にも勝る慶事に沸いた。それは、西尾先生の個人全集が国書刊行会から出版されることが発表されたことである。全22巻、箱入り、二段組、年間4冊の予定で、完結は5年先になるという。この発表によって会場は大きな拍手に包まれた。懇親会は、お正月の華やかさに加え、この吉事により一層の歓びが重なった。

文:浅野正美

坦々塾報告(第十八回)報告(二)

 6月5日(土)第18回坦々塾において、すでにご案内の通り、私が「仲小路彰の世界」という題の下で、約一時間余の話をしました。「仲小路彰」は聞き慣れぬ名前と思う人が多いでしょう。

 国書刊行会から7月末に彼の『太平洋侵略史』全6巻 が復刻再刊されました。この本は仲小路が昭和16年5月から昭和18年9月までの間に集中的に書き上げた作品で、戦後GHQから没収発禁とされました。本年5月から7月初旬まで私はこの本の解説を書くため調査研究を進めていました。坦々塾での講演は中間報告といってよく、この後に仲小路について新たに分ったこともあり、以下の要約文は5月末の段階の私の認識を反映しています。

 浅野正美氏によってまとめられた要約文は以下の通りです。

太平洋侵略史〈1〉 太平洋侵略史〈1〉
(2010/08)
仲小路 彰

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西尾幹二先生 「仲小路 彰」

 仲小路彰(なかしょうじ あきら)とは一体何者か。伝記的事実がほとんどわかっていない謎の哲学者である。戦後も政府の要路の近くにいて、五校時代の同級生佐藤栄作とは生涯親交を結び、鋭い現実洞察に基づき折々に提言をしていた。生涯音楽を愛し、ピアノを弾き、三浦環や原智恵子、加藤登紀子らと交流し一千曲に及ぶ作曲と詞を書いた。

 今回復刻される仲小路の著作「欧米列強による太平洋侵略史 全六巻 国書刊行会」は西尾先生が解説を書かれる。そのパンフレットから先生の推薦の辞を一部引用する。

 『彼は決して偏狭な日本主義者ではなく、地球人類史の未来を見据えた総合人間学体系を目指し、戦後は、山中湖畔に隠棲しながら、終戦から佐藤内閣の頃まで、保守政権の政治外交に影響を与えた隠然たる存在であった。

 しかし表に立つことをせず、孤独を好み、その寓居に人が訪ねてくることを嫌う神秘的な哲学者で、限られた若者とのみ交流し、音楽を愛し、さながらスイスの山紫水明の地に仮寓したニーチェのようでさえあった。』

 仲小路は東条内閣では参与の地位にいた。生涯独身を通し膨大な著作と原稿を残した。今回復刻される「太平洋侵略史」は、17世紀からの太平洋侵略史の中の一部、幕末史である。幕末史とはいえ、安政の大獄の手前で終わり、維新から文明開化は出てこない。

 仲小路は歴史を語るとき単眼に陥ることなく、複数の断面図を用いたため視点が壮大であった。複眼を用いた。自分の言葉では話さず、当時のテキストを引用しそれに対する解釈や説明をしない。同時代の一次資料を原文で、しかも地理的に複数開示することで、歴史を立体的に展開し、テキストそのものに語らせることで、全体の判断は読者に任せるという姿勢を通した。現代の人間が現代人の主観(実はGHQ史観)で語ってしまう(実証主義の正体)愚を冒さない。これは歴史の当事者が、つまり歴史そのものが叫んでいるということである。

 講義の冒頭、仲小路が大東亜戦争敗戦の際に書いた文章、原文は口語体の難解なものを西尾先生が現代語文に直した文章が読み上げられたのでここに再録する。

「我らかく信ず」 仲小路 彰   昭和20年8月18日(執筆は15日か?) 

 大東亜戦争はいかにしても回避不可能な歴史の必然であり、諸民族の背後にあって相互に戦わせる何らかの計画があったこと、そしてそれはアメリカを中心とする金融と軍需主義のメカニズムで、日本はその世界侵略に対するアジアの防衛と自存自衛のためにやむなく干戈を交えたまでで、我が国に戦争責任もなければ侵略の意図もなかった。

ついて大東亜戦争の第一次的目的、大東亜宣言で述べられた目的は、戦局の勝敗とは関わりなくすでに達成され、日本の成功はいかにしても否定しがたい。なぜなら、真の勝敗は武力戦の範囲を超えていて、今次戦争の目的は大東亜の復興防衛、世界の全植民地の開放にあった以上、これはついに達成され、しかも敵方の大西洋憲章からポツダム会談にいたる目的も、つまるところ大東亜戦争の理念に帰するのであるから、勝敗とは関係なく日本の創造的なる行動は成功したといっていい。

欧州戦線も悲惨な運命を経過し、我が国には原子爆弾が投下され、(この時点で原爆投下を確言していることに注目)全地球は地獄さながらの修羅場と化した。人類と国家をこれ以上再滅させるのはそもそも大東亜戦争の目的に沿わない。何としても本土戦場化を回避しなければいけない。さもなければ敵の悪魔的方法で大和民族の純粋性は壊滅させられる。国体を護持し、皇室に累をおよぼすことは絶対に避けなければならない。そのために和平工作が必要となるが、利益や対面に囚われず思い切って不利な条件をも甘受すべきである。

日本軍の満州を含む大陸からの全面撤兵、太平洋諸島の領土放棄、兵力の常駐はこれからの世界ではもはや有利にならない。今日の軍需産業は有力なる武器をもはや生み出せないので、全面的改廃はむしろ進める。大艦隊や歩兵主力の陸、海軍はすでに旧弊となり、次の大戦には不適切でありむしろ不利である。大軍縮はおろか軍備撤廃さえ恐れるに及ばない。ここからかえって新しい創造が生まれて来るのである。

そもそも今度の戦争では作戦の指導者に欠陥があった。一見不利な和平条件と見えても、現在の日本の誤れる旧秩序、誤れる旧組織を全面交代させるのに和平の条件がどんなに過酷なものでも、それはむしろ最良の道になると考えるべきである。

中略

大東亜戦争の終結は世界史的に見る場合、絶対に敗戦にあらざることを徹底化し、むしろ真に勝敗は、今後の国民の積極的建設の有無によってのみ決せられる。(引用終わり)

 日本は幕末と、大東亜戦争と、そして現在と、三度続けてアメリカに敗れた。

 今回の講義は浩瀚な仲小路の著作から、西尾先生が重要と思われる部分を抜き出して朗読し解説を加える形で進められた。英露が日本を併合しようとした秘密文章では、英の冒険家トーマス・クックを使ってカムチャッカに上陸、露は船を出して英を助けるという作戦が練られていた。日本は非武装であるから占領は簡単である。この時露はシベリアにコサック兵1万4千人と多数の水兵を実際に移動していた。

 英ヒュートン号長崎侵入事件では、長崎奉行松平図書頭康平が責任をとって切腹したが、その後松平の霊は長崎諏訪神社に康平霊社として祀られたという。こうした現在の歴史書には語られていないことも書かれている。私も手元にある大佛次郎著「天皇の世紀」の第一巻を読んでみたが、康平の切腹の記述はあったもののその後については何も書いてなかった。

 このあと、ハリス、堀田正睦、水戸斉昭といった当時の表看板とでもいうべき人物が、幕末の日米交渉においてどのような発言をしていったかということが披露されたが、最終的に日本はアメリカに敗れる。我が国の第一の敗戦であった。我が国は一ヶ月近く返答を保留し、ハリスは堀田のことを信に置けない人と嘆かせた。彼の立場から見れば日本は不誠実であったが、日本人は正直で全部受け身で戦った。現在もそうであるように、これは我が国の宿命であろうか。条約の条文も米の素案が元となり、我が国は何一つ提出することができなかった。そこには宗教不可侵と治外法権も含まれていたが、特に後者の治外法権は我が国が日露戦争で勝利するまで解消することができなかった。

 この三者の中で異彩を放つのが水戸斉昭であった。徹底した攘夷論者である彼は、進退窮まった幕府に頼られて意見を求められた際の、いよいよ水戸藩に役割が回ったと得意満面、しかも嫌みたっぷりな文章が残されている。現実を見据えて開国になびく堀田に対して、斉昭は大いに反対し、100万両を出してくれれば、蒸気船を建造し、大砲を作り、自分が直接アメリカに乗り込んで交渉すると宣言する。西尾先生が孤軍奮闘する水戸老公を、現在のご自身の存在になぞらえたときには場内が爆笑に包まれた。

 ハリスは開国を促すにおいて、数々の甘言を弄した。日本がうるし工芸品を輸出すれば、暇に暮らす人が仕事に就くことができ、それによって幕府の収入も増える。中国と米の通商は74年にわたるが米人の居留はわずかに200人、何も怖いことはない。この件を聴いていて、現代もまったく変わっていないことに思いが至った。グローバリズムというのは、東西冷戦終結がもたらした結果だと思われているが、蒸気船の発明というテクノロジーがネットワークを短縮させることで地球を狭くし、すでに150年も前にグローバリズムを現出せしめていたのであった。現代がそうであるように、大国の横暴は弱小国の犠牲と悲哀の上に成り立ち、富はいつでも偏在した。世界史上ただ一人、我が国だけが欧米列強の野望の前に敢然と立ち塞がり独立の気概を示した。水戸斉昭の無念は、やがては国学の勃興となり我が国が戦争を戦う上での偉大な精神的バックボーンとなっていく。

 このあたりのことは坦々塾における西尾先生の一貫したテーマとして、毎回の講義の通奏低音として流れている。今回もまた例外ではなかったと思う。次回の「焚書図書開封」はこの国学がテーマになっているということで、出版される日が待ち遠しい。

 昭和42年は明治100年だった。当時小学2年生であった私にもこの時の記憶がかすかに残っている。同世代の知人何人かに尋ねると、懐かしそうに明治100年という言葉に記憶があると話してくれた。NHKが明治100年の特集番組を放映し、もちろん内容はすっかり忘れてしまったが、家族でその番組を見たことと、タイトルバックに映った明治100年という文字のことも記憶に残っている。まだ多くの明治人が存命で、子供心にも「偉大なる明治」というイメージは何一つ具体的な知識はなくとも備わっていた。多分この頃の日本人の共通認識ではなかったかと思う。あと15年で昭和100年を迎える。その時日本人はこの元号の時代を「偉大なる昭和」と呼ぶであろうか。

 今回の仲小路の復刻本を、多くの坦々塾塾生が注文した。歴史に埋もれる宿命にあった仲小路が、このような形で戦後65年を経て再び日の目を見ることができたことは大変喜ばしいことであると思う。

文:浅野正美

坦々塾報告(第十八回)報告(一)

 6月5日(土)に第18回坦々塾が開かれました。報告が遅れましたことをお詫びします。

 この日は次のようなプログラムでした。

 浅野正美氏 諏訪大社の古代信仰
 西尾幹二  仲小路彰の世界
 若狭和明氏(外部講師) 日本人が歴史から学ぶべきこと

 坦々塾のメンバーのお一人である浅野氏のご講話の内容は、浅野氏ご自身が要約文にまとめましたので、以下に報告していただきます。

 長野県諏訪地方は本州のほぼ中央、太平洋からも日本海からも一番遠い山間の狭小な盆地である。諏訪大社には上社と下社があり、さらに上社は本宮・前宮、下社は春宮・秋宮が鎮座する二社四座という独自な構成になっている。上下とあるが二社四座に社格における序列、上下関係はない。現在諏訪神社は全国に5,000社以上あるといわれているが、四社すべてがその5総本山ということができる。現在一般的には、上社が男神、下社がその妃神、女神と伝えられているが、これは後年の創作と思われる。下社では毎年2月1日と8月の1日に、御神霊の遷座祭を執り行う。2月から7月までは里宮である春宮で五穀の豊穣を見守り、8月から1月までは山宮である秋宮にお帰りになる。
春宮が立地する場所は、下社の信仰圏である諏訪湖北部の沖積台地、いわゆる扇状地の最上部にあたり、その平野を作り出している砥川(とがわ)のほとり、ちょうど山と平地の境目に位置する。さらにこの川は霧ヶ峰高原の西端に源流を発し、そこには下社の奥宮が祭られていることから、下社は水と農業を主体とした祭祀と考えて間違いないと思う。

 上社には前宮と本宮があるが、この二社の性格は下社とは違って、半年ごとの遷座祭は行われない。大まかにいってしまうと前宮が土着諏訪信仰の聖地、本宮が大和朝廷によって秩序付けられた諏訪信仰と考えられている。今日お話しする内容は、この上社前宮のことが中心となる。
 
 古代信仰を研究する人の間で「諏訪がわかれば日本がわかる」ということがいわれている。これは古代諏訪がある種のアジール(守護聖地)として、中央の統制に組み込まれない独自の祭祀を維持していたのではないかと考えられているためで、それが解明されることで古代日本の正史には残らなかったある一つの姿を解明できると考えられているからである。閉じられた空間の中で独自に進化することを一般的にガラパゴス現象ということがあるが、古代から中世の諏訪がまさにそうした状態にあったのではないかと考えられている。一例を挙げると、諏訪には長い間仏教が入った形跡がなく、確認されている最古の仏教寺院は西暦1293年と極めて新しい。文書、考古学的発掘によっても、これをさかのぼる年代に仏教が普及していたことを示すものはまだ見つかっていない。7世紀以降、我が国は朝廷が中心となって熱狂的ともいえる情熱をもって仏教を受け容れて来たが、そうした時代にも諏訪は頑なに仏教を拒み、古代信仰と共に生きていたと考えられている。

 もう一つ不思議なことは、712年の古事記編纂から程ない721年、元正天皇の時代に諏訪は信濃から独立して一国の地位を与えられている。強大な信仰圏と、それがもたらす潤沢な経済的基盤があったために一国として充分成り立つと中央が認めたのではないかと考察する学者もいるが、10年後の731年、聖武天皇の時代に信濃に戻されている。

 諏訪を巡る動きを時系列に追ってみると、西暦685年、天武天皇は諏訪の近くに行宮を作らせている。天武天皇は翌年崩御されたので、実際に天皇が行幸されることはなかったと思うが、勅使の派遣はあったのではないか。691年、持統天皇は都で諏訪の神を10数度祀らせている。702年、文武天皇のもと吉蘇路(後の中山道木曽路・現国道19号線)が着工され、713年に開通。この開通によって都と諏訪の旅程が短くなった。そしてつかの間の諏訪の独立と再併合となる。朝廷にも強く諏訪を意識せざるを得ない何らかの要因があったとみてよい。8世紀半ばの国家プロジェクトというと国分寺の建立があげられる。741年3月、聖武天皇によって号令されたが、そのことと信濃への再併合は何か関係があるのではないか、という指摘もなされている。例えば、一国である以上その国には国分寺を建立する必要があったが、諏訪はそれを拒んで信濃に再編入される道を選んだか、諏訪という小国では国分寺の建立費用をまかなえなかったのではないか、ということが考えられる。

 いずれにせよ諏訪では650年以上にわたる仏教の空白期間があったといってよい。13世紀以降は諏訪も仏教を盛んに取り入れ、本地垂迹、神仏習合も抵抗なく受け容れていった。

 諏訪の名が中央の歴史に登場するのは古事記における「出雲の国譲り」の場面である。オオクニヌシの息子であるタケミナカタは、アマテラスの使いであるタケミカズチ(鹿島神宮の御祭神)との戦に破れて諏訪まで逃げのびる。ここで国土の譲渡と今後諏訪から一切出ないことを条件に命を助けられる。

 1356年、室町初期に「諏訪大明神画詞」(以降画詞)が編纂された。諏訪の風土記のようなもので、小坂円忠という足利尊氏に右筆として仕えた武士が、古老からの聞き取りや言い伝え、古典に登場する諏訪信仰などを収集して、12巻の絵巻物としてまとめられた。原本は紛失しており、文章だけを写した写本が13種類残っている。各巻の外題には後光厳天皇から御宸筆をいただき、尊氏も奥書に署名をしたといわれる。原稿は円忠本人が書き、絵師は本願寺にも作品の残る大和絵の巨匠5人が描き、書も当代一流の能筆家が当たった。

 この画詞ではタケミナカタを迎え入れた諏訪の視点から、この時の様子を描写している。出雲族を迎え入れた諏訪には、洩矢の神という土着の豪族がいてミシャグチ様を信仰する強固な信仰圏を形成していた。洩矢の神とは神様ではなく、神様を祀る神官である。このミシャグチという言葉、いまではその意味も神を表す固有名詞なのか、信仰の形態を表す抽象概念なのかまったくわからなくなってしまった。ミシャグチを祀る神社は諏訪だけでなく、丹念に調査した人の資料によると、長野675、静岡233、愛知229、山梨160、三重140、岐阜16、に分布するという。ある郷土史家は、明治の神道統合の際にいわれのはっきりしない神様の多くが、淫祠、邪神として排除され、整理統合されていく中で、ミシャグチ様もその一つとして扱われたのではないかと推理している。多くの祠は別の神様をお祀りし直したり、取り壊されたり、あるいは統合される中で、いわれはわからないながら、何となく昔から共同体の中で大切にされてきた、というただそのことだけで、現在まで少なからぬミシャグチ様をお祀りした祠が残ったのではないかというのである。

 現在のミシャグチ様に対する共通理解は、地母神ではないかといわれている。動物、植物、さらには人間をも無限に生み出してくれる地の母の神。それがミシャグチではないか。縄文時代の土偶には、妊婦を連想させる姿のものが諏訪からも多く発掘されているが、こうした受胎崇拝のような感情が基層にあると考えられる。

 画詞によると出雲における国譲りの抗争が、諏訪の地においても立場を入れ替えて繰り返されている。洩矢の神にとって出雲族は侵略者になるため、進入を食い止めるために武力衝突があったが、ここでは諏訪が敗れる。「画詞」の描写では、洩矢の神を賊臣(ぞくしん)と書いているが、これはこの本の作者小坂円忠が将軍尊氏に直接仕えるほどの地位にあったため、大和朝廷の縁起書でもある「古事記」に、あるいは体制に敬意を表する必要から、敢えてこうした表現を用いたのではないかと私は考えている。諏訪はかつて鎌倉幕府に忠誠を誓っており、執権北条が足利、新田勢によって滅ぼされたときには運命を共にしている。このように鎌倉と深い関係にありながら諏訪出身の我が身を取り立ててくれた尊氏に対して、円忠は深い恩義を感じ、またその微妙な立場故のバランス感覚も必要とされていたのではないかと思う。

 戦いが終わった後、戦後の和平交渉が話し合われ、そこで今後諏訪の地をどのように統治していくかという話し合いが行われ、両者による妥協が成立する。タケミナカタは、自らが天孫族に助けられたように、諏訪の洩矢の神を滅ぼすことなく共存の道を選んだ。

 神権政治の時代にあっては、祭祀権を持つ者が同時に地勢権も握っていたが、タケミナカタはこれを譲り受けるかわりに、洩矢の神は祀られ崇められる存在である神(タケミナカタ)の末裔に神霊を付与する、いわゆるシャーマンとしての役割を手に入れる。このシャーマンのことを諏訪では神長官と呼ぶ。神長官と書くが、官は発音せず神長と発音する。

 そして洩矢の神の子孫である守矢家が代々その役割を受け継いできた。タケミナカタの末裔は代々諏訪神社の大祝(おおほおり)を継いで行くことになる。大祝というのは、一般的には神職(神主)の最高位を示すが、諏訪では神職ではなく現人神を意味し、極限的な王朝が確立していたといってよい。諏訪以外で大祝の制度があった神社には伊予の三島神社があり、ここでも江戸時代まで大祝は神として崇められていた。

 神職はどこまでも人間であるのに対して、大祝はある手続きを経ることによって神、あるいは神の依代になるということである。かつての諏訪にはもう一つの天皇制度(諏訪朝廷)が続いていたということもできる。天皇は皇位継承において大嘗祭を行なうことで践楚が完成するが、諏訪の大祝は神長官から神霊を付与されることによって始めて神格を得ることができ、祀られる存在、生き神となる。神降ろしの秘術は一子相伝による口伝、親から子への口伝えで伝えられたため、文字としては残されなかった。明治維新の廃仏毀釈と神道の統制によって、諏訪の神長官制度は廃絶しこうした神降ろしの秘術も維新と共に消滅した。前回の勉強会で西尾先生がお話しになったように、神話に基づいた絶対皇国史観によって新たに国を束ねていこうという明治政府にとって、わが国に正統ではない現人神が存在するということは絶対に許すことができなかったであろう。守矢家は今も存続し、かつて神長官屋敷のあった場所には今もミシャグチ様の総社が鎮座しています。

 宮中の大嘗祭に相当するミシャグチ降ろしの秘技は、大祝となる人物の22日間に渡る潔斎の後、前宮にある柊(ヒイラギ)に神霊が降臨し、その神霊が柊の根元にある巨石に滑り降りたところで、大祝となるべき人物がその石の上に立ち、神長官の祝詞によって神霊を乗り移されて正式に大祝が誕生するといった儀式を行っていたといわれている。

 ここで興味深いのは、タケミナカタは諏訪の神との戦いには勝ちますが、洩矢の神と妥協をすることによって、タケミナカタの子孫が正当なる大祝に即位するための神霊降ろしにおいて、古代諏訪信仰の神霊であるミシャグチ様を降ろされていた可能性があるということである。反対側の視点から見ると、洩矢の神は戦いには敗れたが、諏訪の信仰の正統性を維持することには成功したということがいえるのである。これは、戦には敗れても交渉には勝つという大変高度な外交交渉を展開したといえる。国土を失ったように見せかけながら、古くから崇めてきた諏訪の神であるミシャグチ様にはついては、ほとんど失うものがなかった。タケミナカタはオオクニヌシという我が国の名門中の名門の家系を継承し、諏訪の地においては大祝という祭祀王として代々君臨しますが、信仰の基層においては諏訪信仰のミシャグチ様をまとっている。このトリックのような構造を編み出して、諏訪の古代信仰はその後も継承されていくことになった。

 さて、古代諏訪信仰には重要な祭祀が二つあった。一つは御室神事(みむろしんじ)と呼ばれるもので、もう一つは大立座神事(おたてまししんじ)と呼ばれるものである。二つの祭祀は繋がった一つのお祭りと考えることもできる。御室神事は、旧暦12月22日、上社前宮境内に穴(この穴が御室)を掘り、そこに8歳の子供六人と大祝、神長官が籠もる。6人の意味は、3人がメインで残りの3人はサブであったという。

 この御室の中でどのような秘技が行われていたのか、一部は文章が残っているが、ほとんど何も解っていない。画詞には「神代童体故ある事なり」「其儀式恐れあるによりて是を委しくせず、冬は穴にすみける神代の昔は誠にかくこそありけめ」とあり、こうした言葉から、この子どもたちは最後には人柱となって神に献げられたのではないかと空想する人もいる。

 この御室にこもった6人の子供達は、神の依代として、大祝の分身として神長官から神霊降ろしを受けていた。何日にもわたる秘技を受けた後に神霊を降ろされた子どもたちは、ミシャグチ様の分身として地上に姿を現す。

 それが旧暦3月酉の日であった。上社前宮境内にある十間廊(じっけんろう)という吹きさらしの建物において大御座神事(おたてまししんじ)が執り行われた。御室に籠もった子供はこの時すでに神霊降ろしを受けて、大祝と同じ神霊を身にまとっている。現人神の分身といってよい。

 大御座神事は諏訪神社の数ある例祭でも(年間70を越えるお祭りがあった)最も大切な神事とされており、膨大な費用をかけて行われた。地元で調達できるものとしては、鹿の生肉、鹿肉のミンチと脳みその和え物、フナ、鹿の頭75頭、ウサギの串刺し。アワビなど海産物もたくさんあったが、塩付けにして何日もかけ運んだのであろう。

 画詞にはこのときの様子を「禽獣の高盛 魚類の調味美をつくす」と表現しているが、はっきりと狩猟文化の痕跡が伺える。

 仏教の影響で殺生が禁じられていた時代にも、諏訪神社が発行する鹿喰免(かじきめん)のお札をもっていれば肉食が許されていた。全国を回ってこのお札を売っており、このお札は諏訪神社の経済的基盤にもなっていたと思われる。
 
 生神となった8歳の子どもたちは、神使(おこう)と呼ばれました。神使は馬に乗ってそれぞれの分担する地区を回り、ミシャグチ様の神霊を大地に降り注ぎ、大地に活力を与え、五穀の豊穣を祈って回った。その時ならした鈴が「さなぎの鈴」で、この行事のことを「湛えの神事」とよんでいた。湛えにはさんずいの漢字が当てられているので、農地に豊富な水をもたらすための儀式であったのか、神の降臨を称えたのか、、あるいはその両方だったと思われる。

 神使の分担は、内県、小県(おあがた)、外県の三地区に分かれており、ここがかつての諏訪神社の勢力圏と一致するのではないかと思う。神使は、御室に籠もってから一年間、このたたえ神事をはじめとしていくつかの神事を務めなくてはならなかった。次の年の御室神事に新しい子供が任命されるとお役ご免となるが、この後この子供達は帰って来なかったともいわれている。これが人柱説の根拠となっている。

 大祝や神使のように、諏訪では人間に神霊を憑依(依り付かせる)させることで、信仰を成り立たせて来た。「我に別躰(てい)なし 祝を以て御躰(てい)となすべし。我を拝むと欲せば須く祝を見るべし。」これは諏訪明神が大祝の口を通して発したといわれている神勅だが、諏訪信仰の特質はまさにここにあるのではないかと思う。

 これは余談ながら、織田信長は既存宗教を弾圧したが、戦国時代の1582年武田勝頼を追って諏訪まで攻め込み、上社本宮の社殿も焼き討ちにしている。実際に火をつけたのは息子信忠だが、このときの様子を信長公記はこう記している。

 「3月3日中将信忠卿 上の諏訪に至って御馬を立てられ所々御放火 そもそも当社諏訪大明神は日本無双の霊験、殊勝七不思議の神秘の明神なり。神殿をはじめ奉り諸伽藍ことごとく一時の煙となされ 御威光是非なき題目なり。」

 信長が本能寺で亡くなるのは上社焼き討ちの三ヶ月後の6月2日であった。この時、明智光秀も諏訪に同行していた。

 諏訪信仰はタケミナカタの諏訪入りと戦国の混乱という二度の危機に見舞われたが、幸運なことにどちらにおいても信仰の基盤を失うことはなかった。そして、明治維新という我が国が近代国家として西欧と対峙せざるを得なくなったときに、この我が国でも特異な神長官と大祝によるミシャグチ信仰という形態は滅んだ。それは日本という国が、国際社会の荒波の中に否応なく叩き込まれ、小国といえどもこれに対して一歩も引かずに挑んで行くためにはやむを得ない面もあったのではないかと思われる。大東亜100年の戦いの中で、諏訪神社は、信濃の國一之官、官弊大社、日本第一軍神として崇められ、全国から大きな崇敬を受けた。これは古事記においてタケミナカタが最後まで天孫族に抵抗したレジスタンスとしての精神を高く評価されたためであると思う。

 現在では地元でもこうした故事を知る人も少なくなったが、御柱の熱狂を見てもわかるように、神社と氏子は変わらずに強い絆で結ばれている。諏訪の地は6市町村に人口20万人という小さな共同体であり、自らを自称するときに諏訪人というように、諏訪大社の氏子であることに大きな誇りを持っている。御柱における団結を見ると、諏訪という地域が強固な連帯意識で結ばれた祭祀共同体とでも言うべき文化圏を形成しているのではないかと思われるが、実は大変に地域エゴの強固な地域でもあり、先の平成の大合併においても諏訪の6市町村はどれ一つ合併することがなかった。「諏訪を一つに」というスローガンは数十年前から唱えられながら、現実可能性はまったくない。根底にはそれぞれの自治体の経済問題がある。八ヶ岳の裾野に広い農地をもつ町や村は住民も自治体も相対的に恵まれており、貧しい市との合併に難色を示している。これを湖周文化と山浦文化の軋轢と見る人もいる。ユーロ問題の地方版のようだが、ギリシャの悲劇やドイツの苦悩を見ると、理念や夢だけでは現実は運ばないということを強く感じている。

文:浅野正美

「『鎖国』の流れと『国体』論の出現」を拝聴して(六)

ゲストエッセイ 
伊藤悠可(いとうゆうか)
記者・編集者を経て編集制作プロダクトを営む。
NPO法人 日本易学研究指導協会理事長 坦々塾会員

 異なる言説を容れることができない。「排他」は権威主義のもう一つの表情である。福田和也が昨年夏だったか『文藝春秋』に書いたいやらしい文章が忘れられない。福田は、近頃けしからん輩がけしからんことを皇室について語っている、どうも(私の不行届で)申し訳ありませんと謝っているような媚態丸出しの“手紙”を書いた。いったい、雑誌誌面を借りて誰の不始末をどなたに謝っているつもりなのだろう。覚えめでたきを得るというのはこのことで、よくあんな汚い文章が書けたものだという気がした。誰のお鬚の塵を払おうとしているのかしらないが、福田のサークルにはこういう仲間が多い。

 中には、自分と皇太子殿下とは同世代だから、という愚にもつかない理由で“加勢”している連中もある。

 福田和也は日本会議ではないでしょうが、長谷川三千子さんはどうですか、また小堀桂一郎さんはどうでしょう。君側に立って、一般席は黙っていなさい、とやっているようなところはないだろうか。いや、一般席は黙っていなさいという人たちの心情に知らず呼応しておられるだけかもしれない。私が読んだ限りでは、最近、皇室問題に触れてすっきりと言葉が明るく、是非をきれいにして、まったく異臭の感じられない真っ直ぐな意見を言った人は、加地伸行さんと谷沢永一さん、あと一握りの人しかいなかった。

 先生は「皇室」対する日本人の思いは近代合理主義とは相容れない“信仰”だといわれた。このことは誰かについて賛同していくようなものではないし、群れて意見を統一するようなものではないのである。硬直した皇室崇拝者は思うに、いつか先生の文章で登場した大工さんのような清潔さが欠けているように思えてならない。

 長谷川三千子さんはある会合で、競馬の天皇賞レースに初めてご臨席された天皇の話をされ、「優勝した馬と騎手が中央のお席の真ん前で礼をして、陛下がそれに応えられた。競馬場はかつてないほどの歓声に包まれた。これこそ、陛下と国民と魂が溶け合った瞬間でした」と語り聴衆も感銘していたことがあるが、私はあまり感銘しなかった。天皇陛下は天皇賞レースにお出ましにならないほうがよろしい、と私は思う。馬券が空中を舞うような場所にご臨席なさるような時代になっているのだなと乾いた気持ちになるし、スポーツでも何でも「君が代」をポップシンガーが小節を回して歌謡曲のように歌って誰もおかしいとは感じない時代が来たということだ。自分は変だなと常々思っているほうですが、誰も変だとは思っていないのかもしれません。

 一見すると「山田孝雄」と「平泉澄」、「日本会議派」と「西尾幹二」のように映りますが、後者の対比は思想的には成立せず、硬直した皇室崇拝者は山田孝雄に似ていないし、平泉澄のような高い歴史の俯瞰力はない。これでは戦えないという緊張感はない。非常に平成的であります。愛国者かえって国を危うくする例だと思いました。

 気付いている人が少ないのですが、西尾先生は一貫して「帝王の道」を語っているのに対して、その他の人は「臣道」を語っているのであります。良心的に言うとそうなるのです。齟齬が生ずるのは当たり前といえば、当たり前です。このことはひそかに一番重要な相違だと私は思ってきたのですが。

 以上、先生のご講義の記録からあれこれ沸き上がってきたものを書かせていただきました。ありがとうございました。

文責:伊藤 悠可

「『鎖国』の流れと『国体』論の出現」を拝聴して(五)

ゲストエッセイ 
伊藤悠可(いとうゆうか)
記者・編集者を経て編集制作プロダクトを営む。
NPO法人 日本易学研究指導協会理事長。坦々塾会員

 国民上下はなべて維新後の忙殺の時間を生きていたとも思われ、狂人走れば不狂人も走るといった模様を想像します。国民国家の黎明とは言え、先生にいつか教わったように、明治前期はまだ日本人は「江戸時代」(の余韻)を生きていたのではないでしょうか。幕府のほかに皇室というものがあったんだ、というのが庶民の感覚ではないかと思います。そこへ、いきなり「神」が国から生活のレベルにまで降りてきた。

 副島伯が「愛国心を育むより自国を侮蔑に導く」といった深意はわかりませんが、その副作用というか逆作用はわかるような気がします。偉人伝を小学校から読ませよう、という運動も一概には否定しませんが、かの人が偉人かどうかはわからないではないか。坂本竜馬が偉いかどうか、誰が決めるのか。司馬遼太郎に感化されてどうだ偉いだろうと言うような大人が偉いわけがないではないか、とへそ曲がりの自分は言いたくなるのであります。

 よく引き合いに出される福沢諭吉にしてもそうである。それはお前の人物趣味だと言われれば仕方がないが、教えるということに対する過信がすぐれて保守の人にあるのではないか。私はこんなところに「硬直」の弊があると見ているのであります。偉いかどうかはジッと自分で見つめていくしかありません。今生きている人についてもそうであります。

 明治のはじめ頃は、混血でも何でもして西洋人を受容し、気に入られなければという「社会改良主義」という極端な思想が息づいたり、森有礼といったどこから見ても侮日派インテリ国際人が当路の位置に坐ったりしています。新旧混淆、清濁混淆、東西混淆のまさに狂人奔れば不狂人もまた奔るという呼吸の荒さを思います。

 大正の蠱惑的空気にも見舞われたあと、それの掃除もしなくてはならず、赤色と同時にダーウィニズムも静かに浸透しています。大衆思潮のレベルではもう十分、「神聖」一本槍というものは落剥していたので、白鳥庫吉、山田孝雄の出現というのは無理ならぬ成り行きだったように私には感じられます。平泉澄の本は読み込んだ時期がありました。中世に魂を置いてみなければ自らの姿が映せない、行動が取れない。古事記や日本書紀には「清明」はあるが、「忠魂」(君臣の足跡)は歴史のほうにあります。

 ギリシャ人は「血」の上では消滅し、祭祀は遠くに途絶えています。日本には人皇百二十五代天皇が現に居られ、祭祀は伊勢、宮中でかわりなく続いています。山田孝雄は民族の帰郷すべきところを求めた学者で、『国體の本義』は時の国家の要請に応じて書いた“道標”にすぎないと私は思っていました。あの人はたしか小学校しか出ていなかったと思います。こういう人は今は居りませんが、また次の山田孝雄は現われるのではないでしょうか。平泉澄が「それでは戦えない」と思ったとしたら、山田孝雄は「日本人が帰る故郷を示してやらなければ青年たちは死ねない」と考えたのではないでしょうか。これは自分の想像です。方向は違いますが、平泉澄と両輪のように思えます。

 民族と国家について心配しているなら自分が真剣に考えたところを率直に語らなくてはならない、といわれる西尾先生は「皇室のことは語ってはならない」という日本会議に連なる人々とご自身を対比されました。けれど、私は別の見方をしています。

 「硬直した皇室崇拝をいう保守」と「西尾先生」という対比は成り立たないように思いました。日本会議の人たちのいわゆる「天皇や皇室については語ってはならない」という態度はどこから出ているのか。意外と平俗な心のはたらきから来ているのではないかというのが私の推測です。硬直はしているが山田孝雄に似ていない。

 なぜか、この種の人たちは同じ態度になる。「皇室を語ることは憚られる」。かつて美濃部達吉が天皇機関説を唱えて学府を騒がしたとき沈黙を守った学者がたくさんいました。ほとんど黙して語らなかった上杉慎吉もその一人だと思われますが、「天皇は神聖にして侵すべからず」というあの一言を残しています。

 ただ上杉には自分はこれだという節度と自制が感じられる。黙して語らないのも一つの態度です。けれど、先生が指摘する日本会議派といわれる人たちのそれは、節度や爽やかさという感じがない。むしろ一種の臭気さえある。この臭気がどこから来るのかと考える。これではないかと思い当たるのは「君側の臣」の自尊心であります。

 「天皇」「皇室」については常に多弁でいる人たちである。そして統一見解のような空気を有している。けれど、いついかなるときも「君側」について物を言っているように聞こえる。「君側の臣」と「一般の日本人」とがある。一般の日本人には教えてやらねばならない。知らず知らずそのように振る舞っているのかもしれない。倨傲がわからないのかもしれない。

文責:伊藤 悠可

つづく

「『鎖国』の流れと『国体』論の出現」を拝聴して(四)

ゲストエッセイ 
伊藤悠可(いとうゆうか)
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 天武天皇以降、対外緊張感は薄れこの列島には何と明治維新まで「国際社会」はなかったというお話に目が覚める。この視点を携えること極めて重要だとしみじみ思う。

 西洋との距離もはかりながらの「沈黙とためらい」の長い時代のなかで、例外的宰相は豊臣秀吉でしょうか。先生も『国民の歴史』で一項をさいておられたが、秀吉だけは他の絶対権力者と類を同じくしない。突き抜けた力の信奉者。けれど、キリシタンには迷いなくシャットアウトしてまったく迷悟の尾を引いていない。

 「国際社会」という頭痛を伴う感覚はもっていないが、「世界」は標的として持っていた人物として断然面白い。秀吉没後、清の乾隆帝は「秀吉が若し存命であったなら支那も取られていたことであろう」と『通鑑項目明紀』に親しく述懐したとされています。湿気がなく単純で力に対して明朗な信じ方をしている秀吉のスケールは群を抜いている。あらためて秀吉という存在に興味を抱きます。

 明治政府は「古代神話」に求めた。平泉澄は「中世」に求めた。

 講義の最後のこのお話こそ、聴講した人たちが一番深く考えさせられ、かつ一番自分の言葉にして語るとすれば、どこか理路が漠然としてしまいそうな重要な問題であると感じました。前もって認識をただせば、「皇室を語ることは憚られる」という日本会議派は、山田孝雄の古代神話への信奉者に似ているが、実は非なるものであって西尾先生と対比することはまちがいという気がしてくる。私には平泉澄の冷静な時代認識と、山田孝雄の存在論的な帰郷意識とは両方に魅力が感じられます。順を追って書いてみます。

 明治天皇は自らを「人格」ではなく「神格」として振る舞われていたところがあります。ある事を片付ける必要があって、侍従が「このことは皇后陛下にご相談にならなくてもよろしいか?」と問うたところ、明治天皇は「皇后は神ではない」(別に訊ねる必要はない)と答えたエピソードがあります。明治帝には「再びの開闢」や「神武東征」ほどの意識があったのかもしれません。

 明治四年に官幣大社・国幣大社といった社格制度を用いて、律令下の延喜式を呼び戻しています。それに先立ち神仏分離、廃仏毀釈の号令がかかっていましたから、いわゆる過激でヒステリックな破壊活動と無茶苦茶な合祀が全国に広がります。(やがて南方熊楠・柳田国男たちが憂慮し抗議運動を起こしています)

 明治期にはこうした古代(神話)回帰が押し出されていましたが、頭を冷やせと風潮を戒める人も出てきました。副島種臣伯爵などもその一人です。

 明治のはじめには大教院というものを設置して、「古事記を以て国家の教典とする」という論が沸き上がりました。副島種臣はこれを許さず、この教育はオジャンになったことがあります。大教院の幹部は「国史の知識を普及することが愛国心を育む」という考えでしたが、副島種臣は「国史の知識を一般に広げるなどという魂胆は愛国心を起こさせるよりは自国を侮蔑に導く害のほうが大きい」と言っています。

 ちょうど、ギリシャ人がナポレオンに蹂躪されたヨーロッパの改造に、自国復興の義軍をつくろうとしたようなもので、「今の日本人に日本の古事記を読ませたなら、この世界改造の先頭に立ってどのような使命を有し、如何なる勤めをしなければならないかということに思い至るとでも考えているのだろうか。愚かなことだ」というようなことを言っています。このことは長井衍氏の回想で読みました。

 もっとも副島種臣は国史や古事記を軽んじていたわけではなく、「古事記や書紀を学校において修身的に利用して小さな愛国心でも起こそう」という浅はかさを批判したようです。徹底して記紀などの神典はただ帝室のためにあるもので、国民が座右にして感動させられるような書物として作られたものではないというわけです。

文責:伊藤 悠可

つづく

「『鎖国』の流れと『国体』論の出現」を拝聴して(三)

ゲストエッセイ 
伊藤悠可(いとうゆうか)
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NPO法人 日本易学研究指導協会理事長。坦々塾会員

 講義で感じたこと気付かされたこと
 
 歴史家・歴史学者の多くはいつも列島内で重箱をつつくような詮索主義である。先生が講義で触れられたが「俯瞰の眼識」が欠けている。狭く近視眼的で細かい事蹟や国内のせめぎ合いなどの足跡だけは調べあげるが、時代の意志が見えてこない。生きた人間が出てこない。先生の『半鎖国状態で深呼吸している』という表現で、初めて臍落ちするようなことが歴史にはもっとあるはずです。

 それにしても、平安宮の元旦「朝儀」の荘厳な絵巻物のような光景がすばらしい。しかし「礼」がまつりごとそのものであると教えられれば、儀式の見方は一変する。限りなく格式は高く、規模は盛大でかつ雅びで、式次第は一寸の狂いもない厳粛等をもって「王」の極大の権威を内外にとどろかせる。その頃(特に遡って天武帝の頃など)心地のよい緊張感はこの列島にあったのだろう。現代はその意味でもっとも不幸な時代に相当するという気さえする。日本人は息の詰まる平成を生かされている。当時はさぞ初日の晴れやかな空気が列島に満ち満ちていたという感じがしてきます。

 歴史というものは「他」に対する「我」が深く考えられるようになってはじめて湧いてくる。編纂しようという意識がめばえる。朝儀に最澄や空海までも参列していることを想い合わせると圧巻であります。そこで思い出しますが、帰朝した空海がなぜ二年間も筑紫の地で足止めさせられたのか、最澄はさっさと上京が許されたが、なぜ空海は警戒されたのだろうか、と考えたことがありました。

 推古朝あたりから、朝鮮との軍事的交渉がおもくるしいものになっている。この朝儀の頃(もう少し前の時代でしょうか)、唐が侵攻してくるという切迫感は相当なもので、九州、四国、近畿まで要塞が築かれていたことでわかります。最澄は官製的秀才だが空海は異端的鬼才で、唐から何を持ち込んでくるかわからない。

 得たいが知れないという評価があって信任されなかったのではないか。最澄は秀才だったが警戒される人ではなかった。空海は密教の奥義を授けられ帰朝したが、反面怪しい。国を根本から揺さぶる「宗教」の怖さは骨身に滲みている。その後の空海の超人的伝説的な活躍は知られている通りですが、いずれにしろ対外緊張度の高さという点からこの話を思い出します。

 “赤ちゃんの即位”のところでは自問自答させられます。無理やりにでも必死に、どんなことをしても皇統護持をなさしめる。このことを考えると、『保守の怒り』で主張された平田文昭さんの持論「統帥権をもつ国家元首」としての天皇。それは排除される。平田さんは明治大帝をイメージされているかもしれない。二百年、三百年後、さらに五百年後を思ったとき困難である。方今直下の危機はそんな間延びした話ではないと言われるだろう。が、先生の言われた「京都へのお帰り」が正しい道筋ではないだろうか、と思ったりする。

 王がなくなると民族はなくなる――日本国民の所業を見ていると、日本民族など真っ先に地上から消え失せてしまう。“赤ちゃんの即位”ほどのぎりぎりの切迫感をどれだけの今の日本人が感じられるだろう。

 「道鏡」「将門」「尊氏」「義満」など、いずれも皇位を脅かし皇位を奪ってしまうというところまでいった危機である。だが、現代のような「皇室そのもの」を無くしてしまえ、というような強制的水平化の空気はなかった。今なおかまびすしい“女帝”容認論議を押し進める保守の人たちがいる。風潮に乗じて道鏡的なものが生まれるスキはないのか、その油断はないのか、物言う人はもっとまじめに考えてもらいたいと思うことがある。

文責:伊藤 悠可

つづく