阿由葉秀峰が選んだ西尾幹二のアフォリズム「四十一」

(6-29) 偉大な思想というのはそれ自体が一つの宇宙である。外の現実を内包しつつ、現実とはまたもう一つの別種の現実を形成する。それゆえに現実を追認する思想にとどまらず、現実を見通し、さらに動かす力をも秘める。
 そういう場合に現実と夢との間にいかなる境界線があり得るだろうか。

(6-30)戦争の反省とか、福祉の実現とか、それはそれなりにいかに重要であったにしても、考えてみればそれ自体が決して価値にはなり得ないこうした問題を、これまでさも「思想」であるかのようにかつぎ回って、時間稼ぎをしてきたメッキがついに剝げ落ち、今や目標を欠いたのっぺりした平板さはどうにもごまかしようのないわれわれの現実である。

(6-31)ここまでは言葉で言えるが、ここから先は言えないという断念、あるいは言えば勝手な空想になるからそれはしないという自己限定が世の多くの批評文にどれほど欠けていることだろう。なにか非常に気の利いた思いつきを批評対象にかぶせるようにして、文明論の構図の中に巧みにこれを按配(あんばい)し、いかにも巧妙にわかったような物の言い方がなされる。が、その対象についてはそうも言えるが、またその反対のことも言えるのではないかという自己疑問が総じて乏しい。

(6-32)今のこの変化の激しい社会のなかで、なにびとが保身なしで生きられよう。だが、それが保身にすぎぬことを知っている人は意外に一貫した姿勢をとりつづけているものである。自分の僅かな保身にも鋭敏であり、自分の僅かな虚偽にも自覚的だからである。だが、その僅かな虚偽もまた、虚偽とは言えず、結局は「自己」なのだということにも敏感でなければならない。

(6-33)現代では物を有り難いと思う気持ちがなくなっているのに、それでいてどういうわけか、ちょっとした物品の不足に、敏感に、神経質に反応する習慣が身についてしまっている。

(6-34)実際にはなにものをも所有せずにいて、しかもすべてを所有しているのと同じ落ち着きをもって生きることは、われわれ凡人には容易になしがたい理想であるとはいえ、ひょっとしたらこれが幸福の観念のきわまるところであるのかもしれない。

(6-35)いくら昔より今の方が豊かになったと言われてみても、人間は昔の苦痛などをたちまち忘れ、今の不足をかこつばかりである。これは人間性の常である。人はただ目の前の自分の富と他人の富とを比較することしか知らない。

(6-36)人間は自分とほぼ同じような人間が自分よりも恵まれているということこそが、もっとも許し難いことに思われる

(6-37)より良き生活以外に生活の目標がないということは、人間がなにかのために生きるのではなしに、生きるために生きることのうちにしか生の目標が存在しないということに外ならない。このような現実に人は息長く耐えることが出来るのであろうか。

(6-37’)芸術や学問の仕事のうちに本当に人生の目標があるといえるのかどうか、そういう疑問にぶつかっていないような人の芸術や学問などは、およそ信用に価しないであろう。どんな仕事にも目標などはないのだ。むしろそう悟った方がいい。この人生に目標がないように。とすれば、この文明が目標もなくただ果てしなく前進しているのと同じように、つきつめて考えれば、すべての仕事に目標はなく、だからといってなにか有意義な課題を外部に求めて、教養とやらを身につければそれでなにかの目標に達したと考えるような甘やいだ教養主義も、単なる自己満足でしかなく、暇つぶしの一つだくらいにきっぱり考えた方がいい。
 そう悟ったときに人は解決を外に求めず、自分自身に立ち還るより他に道がないことに気がつくであろう。そこから先は各自の課題である。自分を導いてくれるいかなる処方箋も、いかなる指導書も存在しないのだ。このことをはっきり知ること以外に、生活への強い信頼は生まれてはこないはずである。

(6-38)外的条件の窮乏が人に強制する精神的緊張は、窮乏が解除されればたちまち消えてなくなるのであるから、もともとがけっしてまっとうな緊張とはいえないのである。外的条件が現在のように弛緩(しかん)し、生活環境がぬるま湯のような状態であるときに、人がなお緊張と向上と自己の豊富さを実現することこそ、人間としての本来のあり方だといってよいであろう。

(6-39)すべて賢いことは古典のなかで言われつくされている。人間はいつの時代にも同じ愚かさを繰り返しているので、昔の本は幸いにもいつまでも新しさを失わないでいられるようだ。

(6-40) 他人を笑うことはたやすく、自分を笑うことは難しい。
 他人の目からみれば取るに足らないことが、当人にとっては真剣このうえないことになるのは、考えてみれば、これが人生の当たり前のことであって、その限りで人生にはつねになにほどかの喜劇性が秘められている。

(6-41)近代小説は人間をありのままに知ろうとする情熱、すなわち人間性への謎の認識欲によって進歩してきた。しかしそこにはそれなりの欠陥がある。近代小説には何のために人間をありのままに知ろうとするのか?という目的がそもそも欠けている。

(6-42)ニーチェを読むことは、読者の側の一つの変身であり、運動であり、闘いである。

(6-43)われわれはとかくその場にいない友人の悪口を言う。悪口という快楽から逃れられる人間は少ない。しかし一つだけ、言ってはならない悪口がある、と私は思う。誰々さんが君のことをこんな風に悪く言っていた、という告げ口である。その場合相手は誰々さんよりも、告げ口した人間にやがて深い怨みを抱くようになるだろう。なぜなら悪口を言われた当人は、その場に居合わせていない友の、知らなかった一面をはじめて覗き見た思いがして、背筋の寒くなる思いがするとともに、あんな話は聞かない方が良かったのだとやがて後悔するに違いないからである。

(6-44)一般に、道徳上の告白は、他人に知らせたくない秘事を公開するのであるから、真実の表現に違いないとみなされがちである。けれども告白者がある部分の真実を告白することで、代わりに、別の部分の真実を見まいとして、告白の動機そのものに蔽いを掛けてしまう場合も決して少なくない。

(6-45)友人が真実を告白し、自分は卑怯であったとか、罪を犯したとか語る言葉の背後にひそむ彼自身のもう一つの心の闇に、私たちはじっと目をこらす必要があるだろう。たいがいの場合、告白した人間をやがて私たちがうとましく思うようになるのは、彼の過去の罪を責め始めたからではなく、告白によって罪を軽くしようとしている彼のもう一つの動機に、私たちがなにか釈然としない、胡散臭い性格をかぎ当てているからである。

(6-46)競争が悪いのではなく、競争が人間性を破壊する関係ないし状況がいけないのである。そもそも人間社会から競争がなくなってしまったら、人間は成長しなくなる。競争はいわば発展の母である。

(6-47)私たちは決して友人が欠けているのではない。人の友たる資格が私たち自身にあるのかどうか、自分に対するその問いが、なによりも吟味されなくてはならないのである。

(6-48) 青年の純粋さなどは当てにならないのである。
 青年は世間との不調和をたやすく自己の高貴さととり違える。だがなにか世間的な事柄に成功して、不調和がとり除かれると、そういう孤独な青年に限って、意外にいや味な出世主義者に変貌することがままあるからである。不調和にいじめられ、心がねじくれたあげくに、人間の弱さというものがたどる運命は見えすいている。
 若い時代に、いかにも世間がわかったような老成したものの言い方をする青年も私は好かないが、しかしその反対に、自分の若さに盲目的に溺れている青年も私にはうとましいのである。そういう人は意外に早く年をとるものである。

(6-49)孤独に価値があるのではない。また自分を孤独にする世間が本当の敵なのではない。敵は自分の心の中にある。自分を否定する力をもたない者には、肯定すべき自分の唯一の価値が何であるかもわからないのである。

(6-50)思想は出来上がった、動かない完成品でもなければ、思いつきや、気のきいた機智の類でも決してない。
 思想とは私たちひとりびとりの生き方にほかならないのである。

(6-51)ある行為が言葉になったとする。しかし言葉になった瞬間から、秘められていた行為の内奥は、すでになにほどか形骸化しているのである。しかしそれでも、残された言葉がわれわれに語りかける力をもっているのは、言葉の奥にあるもの、言葉では十分に捉え切れていないなにものかが、表面の言葉を支えているからだ。

(6-52)第一どうして人はそんなに本を読む必要があるのか。場合によっては本など読まなくても、人間は立派な生活人として一生をまっとうすることが出来るのである。そして、この観点を欠いたら、いくら多くの読書を重ねてもたいした稔りは得られないだろう。

(6-53)もし優れた本を本当に理解したならば、場合によってはその本が読み手の人生を毒することがあるというくらいのことを、彼は承知していなくてはなるまい。一冊の書を読んで、自分に有益であったなどと気楽な感想を語れる読者は、その書物をまるで理解していないのか、あるいは理解するに値しないほどつまらない書物であったのか、そのいずれかであろう。

(6-54)かつては無教育の人間が他人に支配され易いと信じられていたのに、今では教育をさずけられた人間が、かえって情動に動かされ易く、他人の思想に操られ易い存在と化しつつある。そして能率と繁栄を目標とする以外に歴史を動かす思想はなく、休息と安全性が大衆の唯一の志向となりつつある。
 創造者にはもっともふさわしくない時代が到来しているのである。
 教育や学問は今やそれ自体のためにあるのではなく、右の目的を満たすための手段にすぎなくなっている。

(6-55)人々はなにごとにつけてほどほどで、怜悧になり、あたりさわりのない生き方で、その日その日をやり過ごすことに疑問を覚えない。誰も論争せず、集団で事を構えることはするが、個人の責任で争おうとする者はいない。他人に対する無関心は、表向き冷ややかな社交辞令とほどよい釣り合いをみせている。ときになにか人生や社会の大きな疑問に突き当たってそれを表明する人が現れたなら、たちどころに嘲笑されるのが落ちである。
 こうした状況を「成熟」とか称して現状肯定する思想家がもてはやされ、その分だけ時代の文化は老衰し、活力を失っていく。だが、少量の毒ある刺戟をふり撒いた、いくらかどすをきかせた身振りやポーズが現れると、人々はこれを喝采するが、本気で毒を身に浴びる者はどこにもいない。毒ある刺戟も機智の一種であり、演技であり、芝居であるとみなされている。利口者がなによりも尊重され、あるいは歴史書に慰めを求め、あるいは永生きするための健康書にうつつを抜かす。そして、にぎやかな鳴物入りの漫画のような思想が現れるとぱっととびつき、明日にはそれを屑籠に入れて、人々はともかく一時の快い夢をみることが出来たといって喜ぶのである。

(6-56)現代の指導者は民衆の喜ぶようなことしか言わず、一方民衆は、忍耐して困難を解決していこうとする気持ちを最初から持っていない。どっちにしても「煩わしすぎる」のである。今よりいっそう安楽で、いっそう快適な生活条件を目指すということ以外に、個人も国家も生の目標を見出せなくなっている。今や「地球は小さく」なり、「怜悧な」人間たちは「地上に起こったいっさいについて知識をもっている。」

(6-57)日本人が学校へ行くのは、生活保障のパスポートを手に入れるためである。あるいは階層意識上昇に役立つお墨附きを獲得するためである。その前提は容易にくつがえりそうもない。ありていにいえば損得勘定の問題にすぎない。そしてそれが公平かどうかが疑わしくなると、世を上げて大騒ぎになるのである。

(6-58)わが国では、大学問題が言葉のもっとも本来的な意味での大学問題であったためしがあるだろうか。大学が今世間の関心を集めているようだが、大学における学問研究の内容の適否についてはだれも論じないし、寡聞にして学問の理念が問われたという話も聞かない。受験生の平等・不平等の問題、すなわち青年が社会へ出てからの生存競争に、異常なまでの興味がもたれているのである。

(6-59)大学の文学部においても、外国語の授業以外には言語教育はなされていない。教養課程の学生は、まだまだ国語の「読み・書き」の基本を継続して教えられるべき年齢だと私は思う。しかし実際に文章の緻密な読解という本来の言語教育を行っているのは、ドイツ語やフランス語や英語の授業であって、日本の大学では外国語教育がいわば国語教育の肩代わりを演じているといっても言い過ぎではないのである。文学を自由に多読すべき年齢の、若い柔軟な心に、専門的なおぞましい研究家意識をたきつけ、感受性をずたずたにしてしまうのも、日本の文学部における教育の仕方である。ああ何たることよ、と私は思う。

出典全集第六巻
「Ⅳ ドイツの言語文化」より
(6-29)(250頁下段「北方的ロマン性」)
(6-30)(293頁下段から294頁上段「ドイツの言語文化」)
「Ⅴ 古典のなかの現代」より
(6-31)(330頁下段「知的節度ということ」)
(6-32)(337頁下段「人は己の保身をどこまで自覚できるか」)
(6-33)(341頁下段「富と幸福をめぐる一考察」)
(6-34)(343頁上段「富と幸福をめぐる一考察」)
(6-35)(346頁上段から下段「富と幸福をめぐる一考察」)
(6-36)(347頁上段「富と幸福をめぐる一考察」)
(6-37)(349頁下段から350頁上段「富と幸福をめぐる一考察」)
(6-37’)(353頁上段から下段「富と幸福をめぐる一考察」)
(6-38)(356頁下段「富と幸福をめぐる一考察」)
(6-39)(365頁下段「古典のなかの現代」)
(6-40)(369頁下段から370頁上段「古典のなかの現代」)
(6-41)(373頁下段から374頁上段「古典のなかの現代」)
「Ⅵ ニーチェとの対話―ツァラトゥストラ私評」より
(6-42)(381頁下段「まえがき」)
(6-43)(388頁上段「友情について」)
(6-44)(389頁上段「友情について」)
(6-45)(389頁下段「友情について」)
(6-46)(395頁上段「友情について」)
(6-47)(400頁上段「友情について」)
(6-48)(402頁「孤独について」)
(6-49)(412頁下段「孤独について」)
(6-50)(418頁上段「現代について」)
(6-51)(418頁下段「現代について」)
(6-52)(421頁下段から422頁上段「現代について」)
(6-53)(422頁上段「現代について」)
(6-54)(423頁上段「現代について」)
(6-55)(424頁上段から下段「現代について」)
(6-56)(428頁上段「現代について」)
(6-57)(431頁下段「教育について」)
(6-58)(431頁下段「教育について」)
(6-59)(434頁下段「教育について」)

阿由葉秀峰が選んだ西尾幹二のアフォリズム「四十回」

西尾幹二先生のアフォリズム 第6巻 坦々塾会員 阿由葉 秀峰

(6-1)過去の思想はすでに歴史に固定され、動かないものとしてわれわれの前にあるのではない。今なお新しく評価され、批判され、われわれの内部に運動を引き起こす流動体として存在しているのである。いな過去の思想はそのものとして存在しているのではけっしてない。われわれがそれによって体験をかち得たその結果として、はじめて過去の思想は存在するにいたる。

(6-2)宗教に対するある理解の仕方が正解であったか、誤解であったかは合理的に決められることではない。誤解によっても人は信仰を得ることができるし、認識を拡大することができる。そしてそれが結果として正解に触れ、それを包みこんで増殖していくことがありうる。

(6-3)人は「正解」を知っただけではなんにもならない。それは単なる知識である。知識で人は生きることはできない。「客観的な事実」とは近代人のもっとも陥りやすい錯覚の一種である。

(6-4)誰でも他人の不幸を見て心愉しむところがあるが、それはまだ悪人とはいえない。他人の不幸によって自分が安堵するというなにほどかの利益があるからである。しかし本来の悪人は、自分にはなんの利益もないのに、他人の不幸や苦悩を見て限りない愉悦を覚える存在であるとされる。この種の悪人にとっては他人の不幸や苦悩をみることそれ自体が目的になる。

(6-5)近世哲学が確立されて、人は石が下方に向かうという本質をもつものであるとは考えず、石がいかなる条件のもとにいかなる仕方で下方に向かうかだけを研究するようになった。つまり自然現象の根底にある不変の本質を求めるのではなく、自然現象の法則を求めることに、自らの探究の範囲を限定したのである。これによって自然科学は確立した。と同時に近世の哲学は、それ以降自然科学のこの確実性と矛盾しない道を歩まざるを得なくなった。

(6-6)すべてを説明し、なにも選択しないのは、現代知識人のもっとも好むところであろう。

(6-7)近代の批判的精神は、瞞されまいとする意識を人に与え、人はそのこと自体に結果として瞞されている。「正解」とはそうであって欲しいという学者の単なる願望にすぎないのではあるまいか。

(6-8)中国で爛熟してから日本に渡来した大乗仏教を基に、千数百年信仰を支えてきた自分自身の生活経験を度外視して、近代の仏教学が成り立つということは、なんとしても私の常識には反するのである。ヨーロッパの学者が指し示した阿含経典と、日本に渡来した密教化した大乗経典の間には千年くらいの落差があるはずであり、自分自身のこの重い経験をあっさり抹殺するに足るほど「原点」という二文字への恐怖心が強かったのだろうか。

(6-9)何千何万という経典をことごとく仏説とする東洋人の不合理は、キリストの直接の言葉を唯一の規範(カノン)にする彼らにとっては納得出来ないことであったに違いない。しかしそれはあくまで彼らのお家の事情である。少し冷静になってみれば、西洋人が小乗仏典を根本経典と定めたのは、宗教の合理化と無神論の進行した十九世紀西欧の精神状況となんらかの形で関係があったくらいのことは、考えることが出来たはずであろう。

(6-10)つまり仏教とはいかなる規定をも拒む、外延の広い概念で、それゆえに数万の経典はすべて仏身と言い得て懐疑の生じなかった所以でもある。
 にも拘わらずこれに接した西洋人は、つねに規範(カノン)を大切にし、一定の視点からしかものを見ようとはしない。

(6-11)キリスト教の根柢にユダヤ教があり、ユダヤ教がより根源的であるからといって、べつだん西欧カトリックの正統派の信仰はそのこと自体で揺らぐようなことはない。ヴェーダやウパニシャッドと、中国渡来の大乗仏教に培われた日本人の信仰との間にも、当然、この関係が成り立ってしかるべき筈なのである。

(6-12)近代意識の先駆とみられる江戸時代の富永仲基は、『出定後語』においてなるほど西欧人より百年も早く聖典を歴史の産物とし、小乗経典に着目し、近代の実証研究の成果に匹敵する見解を述べてはいるが、しかしまた同時に、彼は実証の不可能ということ、最古の仏説を文献から抽出することは不可能であり、無意味であることにも気がついていたのである。仲基は「(シャカの直説に近いものを見出しうる)其の小乗の諸経でさへ、多くは後人の手に成りて真説は甚だまれなるべし」と述べ、認識の限界への強い知的懐疑を表明している。これをみると、批判の進んだ現代の仏教学者より、江戸時代の人間の方がいかに思索の力が勁かったかが分るだろう。

(6-13)正解とは何か。それは一片の知識にすぎないのではないか。(中略)信仰を失ったことの最もあからさまなしるしとして、文献学を信仰している、という以上のことではあり得まい。

(6-14)過去がたとえ誤解であり、擬似であったにいせよ、われわれは自分の過去を払い捨ててしまうことは出来ない。しかし過去を大切にする姿勢までが、少しでも古い根源に遡及したいとする知的欲念となって、近代の原理に支配され勝ちであることをわれわれは忘れないでおきたい。過去を愛することと、過去を通じて自分を主張することとは、元来、別個のことである。

(6-15)歴史を相対化するということは、一種の破壊行動であるけれども、さりとていったん認識が開かれれば、破壊を避けることはできないという矛盾がある。それは当然のことであり、すべての学問が背負う宿命でもあります。

(6-16)私は概して社会に変化を望まない。なにかが良くなるように期待する前に、これ以上悪くならないようにと祈るだけである。
 それは私が理想を信じないからでは決してない。社会のなかで実現が期待できる程度の理想を、ことごとく軽蔑してやまないからにほかならない。
 私はなにかが可能だと語る人にたいして、これまでつねに、はたしてほんとうに可能だろうかという疑問だけを突きつけてきた。私には現実の堅い壁が気になる。なぜ人は壁の一部を少しでも改修することから仕事を始めようとしないのだろう。なぜ壁をいっぺんに取り毀し、自分は壁の向こう側に立っているという見取図で物事を語り始めるのであろう。そういう人々の理想は、私には少しも理想には見えない。それは空想にすぎない。

(6-17)未来は必ずこうなる、だからわれわれはこうすべきだという類のあらゆる確言、あらゆる断定を語る者は、私の目にはすべてアジテータに見える。

(6-18)人間も生物である以上、未知の事柄にたいしては、たとえ望ましいと思う事柄にでも、慎重に、おずおずと手探りしながら向かって行くしか生き方を知らないものなのだ。真の理想家は現実の堅牢さ、リアリティの不動の重さを知っている。現実を良くするように期待する前に、これ以上悪くならないようにと祈願する、(中略)
 真の理想家は現実の改善改良など頭から軽蔑しているからである。そんなことよりも自分の内心の理想がはるかに巨大だからである。また、そのような理想家でなければ、現実はほんとうには見えてこないのではないだろうか。

(6-19)ひとつひとつの具体的事例でエゴイズム、すなわち人間の愚劣で惨めな側面がわれわれの制度や社会の仕組みの基本を決めているのであって、そのような最低基準に理想を求めるべきではなく、愚劣な現実にはあくまで現実の道を行かしめよ、現実を変えることが理想だと思って安心するほどに小さな理想家であってはいけないということが、肚の底から分かっているひとはむしろ少ないといえるだろう。もしそうでなかったら、現実を少しばかし小手先で変えることを理想だと思って、理想と名づくものがたいがい安っぽい社会的解決をめざして、〝戦争のない世界〟であるとか、〝差別のない社会〟であるとかいった名称で飾られることはないだろう。

(6-20) 社会だの制度だの、それに関わる人間の心などに徒らに理想を求めるのではなく、ショーペンハウアーがいうように、どうせ人間の社会的心性に改善の余地はないものと大悟徹底して、環境を良くしようと考えるよりも、悪くしないようにだけ気を付けよう、と覚悟のほどを固めておけば、われわれはお互いによほど住みよい環境を作ることができるのではないかと思うのである。
 ところが、世の中にはこれが分かっていない人が、とりわけ知識階級に跡を絶たず、おかげで世間をよほど住みづらくしている。

(6-21)われわれがショーペンハウアーのように人間に期待せず、人間を虚栄と利己心に満ちた愚かで哀れな存在として正視し、その限界点ですべての問題を眺めているなら、どこかの外国に理想をすぐ求めたり、その空想的な基準で日本人を責めたりはしないであろう。また、美化された理想を日本社会に押しつけた場合に、ばかばかしい混乱と無意味な葛藤が生じるだけだという、起こり得ることのいっさいの想像図を、リアルに思い描くこともできるであろう。

(6-22)現代の知識人はあまりに理想が小さすぎる。それゆえ現実を冷たく突き離して見ることができないだけでなく、そもそも現実そのものが見えない。

(6-23)現代の知性は不合理なるものをすでに信じていないというが、だからといって真の合理性を具えているとは、必ずしもいい難いのである。

(6-24)もし、歴史学者が個人的色彩を消すのに成功したならば、それによってより高い客観性が獲得されるということはけっして起こらないだろう。逆にあらゆる歴史的判断の基準を失い、とめどない相対性の泥沼の中に落ち込むだけであろう。例えば私は私の個人的な感覚、思考、判断力、さらには発想の癖というものまで排除してしまえば、私は私を理解できないばかりでなく、他人を理解することもできなくなるはずである。なぜなら他人は私を通じてしか理解し得ないものだからである。豊かな芸術的経験と感受力とをもたない者はいかなる芸術史をも記述できない。たとえ「私」を消し去ることが意図であったとする客観的な歴史記述がある成果を収め得たとしても、成果のうちには意図からはみ出たものが生きているはずである。

(6-25)歴史はわれわれがどんな風に未来を生きようとしているかという問題によって限定されてはじめてわれわれの前に現われるものであろう。その意味で、歴史はけっして過去からくるものではなく、未来からくるものである。ヨーロッパの歴史意識が、「終末」へ向かうキリスト教的な時間の観念と不可分であるといわれるのも、「終末」がはじめてわれわれの存在に意味と統一とを与えてくれるからであり、そのような目標というものをそなえている未来への緊張を欠いてしまっては、そもそも歴史意識は成り立たぬからであろう。人間が過去を決定するのは、人間が未来に決定されているからである。

(6-26)人間がみずからの主(あるじ)たるためには、人間の上に主たる存在を設定しなければならない―これは人間性の本質にかかわるパラドックスであろう。みずからがみずからをよく統御しうるためには、人はすすんで被統御者の位置につかなければならないのだ。個人は全体の中で自己の位置を知り、部分としての自己の限界内に徹することで、はじめて個人としての自覚を得る。だが、この現代において、人為的・人造的な全体者以外に、いかなる主が可能であろうか。が、考えてみれば、このように近代人が全体者を見失ったのは、近代人みずからが全体者たろうとしたからではなかったのか。部分としての人間がひとりひとり世界の主人公であることを主張しはじめたためなのだ。

(6-27)近代人は、人間の上にいかなる主をも認めようとはしなくなった。この人間への信頼、過信こそ、歴史主義の基礎でもあろう。

(6-28)過去は現代のわれわれとはかかわりなしに、客観的に動かず実在していると考えるのは、もちろん迷妄である。歴史は自然とは異なって、客観的な実在ではなく、歴史という言葉に支えられた世界であろう。だから過去の認識はわれわれの現在の立場に制約されている。現在に生きるわれわれの未来へ向う意識とも切り離せない。そこに、過去に対するわれわれの対処の仕方の困難がある。

(6-29)過去とのつながりを切られたときに、人間は歴史的基盤を失う。そういうとき、人間は単なる現在のうちに立ちつくし、未来への方途をも見失う。

出典 全集第六巻
ショーペンハウアーとドイツ思想 より
「Ⅰ ショーペンハウアーの思想と人間像」より
(6- 1)(26頁下段から27頁上段「ショーペンハウアーの虚像をめぐって」)
(6- 2)(70頁上段「西欧におけるインド把握の原型」)
(6- 3)(70頁上段から下段「西欧におけるインド把握の原型」)
(6- 4)(74頁下段「西欧におけるインド把握の原型」)
(6- 5)(99頁「神秘主義に憧れた非神秘家」)
(6- 6)(101頁「神秘主義に憧れた非神秘家」)
「Ⅱ ショーペンハウアーの諸相」より
(6- 7)(121頁「インド像の衝突」)
(6- 8)(123頁下段「インド像の衝突」)
(6- 9)(124頁上段「インド像の衝突」)
(6-10)(125頁上段から下段「インド像の衝突」)
(6-11)(129頁下段「インド像の衝突」)
(6-12)(136頁上段「インド像の衝突」)
(6-13)(136頁下段「インド像の衝突」)
(6-14)(137頁上段「インド像の衝突」)
(6-15)(150頁下段「富永仲基の仏典批判とショーペンハウアー」)
(6-16)(152頁下段から153頁上段「侮蔑者の智恵」)
(6-17)(154頁上段「侮蔑者の智恵」)
(6-18)(155頁上段「侮蔑者の智恵」)
(6-19)(160頁下段から161頁上段「侮蔑者の智恵」)
(6-20)(161頁上段「侮蔑者の智恵」)
(6-21)(163頁下段「侮蔑者の智恵」)
(6-22)(163頁下段から164頁上段「侮蔑者の智恵」)
(6-23)(164頁上段「侮蔑者の智恵」)
「Ⅲ 歴史と永遠」より
(6-24)(188頁下段から189頁上段「ヨーロッパにおける歴史主義と反歴史主義」)
(6-25)(195頁上段から下段「ヨーロッパにおける歴史主義と反歴史主義」)
(6-26)(202頁上段から下段「ヨーロッパにおける歴史主義と反歴史主義」)
(6-27)(202頁下段「ヨーロッパにおける歴史主義と反歴史主義」)
(6-28)(207頁下段「カール・レーヴィット『ブルクハルト―歴史の中に立つ人間』」)
(6-29)(210頁下段「カール・レーヴィット『ブルクハルト―歴史の中に立つ人間』」)

九月「保守の真贋」の出版(二)

あとがき  
私は、自分は保守主義者であると言ったこともなければ、保守派の一人であると名乗ったこともありません。保守という概念は私のなかで漠然としていて、自分の問題として理論武装したことがありません。ただ今回は少し違います。表題と副題に示したとおり、「保守」を積極的に使用しました。われながら大胆であるとびっくりしています。

 日本の今の政治に対し物申す抗議の思いにおいて、本書は切なるものがあり、私の見解や主張を誰にでも分かるように効果的に打ち出すうえで、「保守」は便利な記号でした。

 ある人、ある人々が賢者であることを自己宣伝している場合に、賢者であることはいかに困難で希有な例外であるかを示しさえすれば、彼らが愚者であることを論証しなくても、賢者でないことは自ずと明らかになるでしょう。ある人、ある人々が勇者であることを売り物にしている場合には、真の勇気とは何であるかを説明しないでも、彼らのたった一つの臆病の事実を指摘することに成功しさえすれば、勇気を誇示した彼らの物語は、総崩れしてしまうでしょう。

 同様に今の日本で「保守」の名の上に胡座をかいている自由民主党とその指導者たち──たいがいは二世三世議員で、努力しないで栄冠をかち得ているリーダーたち──は、本物の保守の正しい条件を示されれば、いかに「保守」の名に値しない人々であるかを思い知らされるでしょう。そして、リベラル左派となんら変わりのない言動の事実を一つでも指摘することができれば、保守政治家をめぐるすべての名誉ある物語は崩壊し、雲散霧消してしまうでしょう。

「保守」は元来、人気のない、嫌われ言葉でした。「保守停滞」「保守頑迷」「保守反動」……等々の使われ方が示すように、良いイメージは少なく、政党名に用いられることは日本では不可能でした(本書・の二、参照)。私が大切にしているのは保守的な生き方であって、政党政治上の保守ではありません(本書・の一、参照)。ところがどういうわけか近頃、人気のないこの悪者イメージに少し変化が生じてきたのです。

 理由は分かりません。「保守的」であることを若者が好むようになってきました。この付け焼き刃的な、風向きしだいでどうにでも変わる、あまり根のないムード的な保守感情は、なにごとであれ事を荒立てることを好まない今の日本社会の体質とも合致していて、「保守」は安全で穏健なイメージをかち得ていて、プラスの価値づけがなされているのです。安倍晋三氏を「右翼」呼ばわりしながらも最大多数で公認している日本社会の空気の流れは、この中途半端さにぼんやり漂うように生きることを好む今日の日本人の生ぬるい性向をこのうえなく象徴しています。学校名にも商品名にも使いたがらない「保守」という字句、選挙用ポスターにも用いたくない「保守」というネガティブな概念がやっと日の目を浴び、恰好のいい風格ある言葉として浮かび上がってきているのが昨今です。そして安倍氏が退陣しても、自民党はなおしばらく日本社会の保守体制(エスタブリッシュメント)として君臨し続けるでしょう。

 しかし、われわれはいつまでそれを許していてよいのでしょうか。この政党と政治家たちは日本と日本国民の首をゆるやかに絞め続け、やがては窒息死に向かわせてしまうのではないでしょうか。本当の「保守」とは、こんなものであってよいわけがありません。本書・の一の後半において、真の保守の五つの表徴を掲げておきました。これに引き比べ安倍政権のやってきたこと、あるいは何もしなかったことは徹底的に批判されるべきです。

 彼らよりさらに保守的な、安倍氏の及びもつかない思想が日本にはあります。日本民族の存続が問われる思想の要点が今述べた五つの表徴ですが、日本のマスメディアがこれを逃げ、「極右」とか「ポピュリズム」とか一括して乱暴に葬り去るのを安倍氏と自民党はうまく利用していて、自分たちを最右翼の安全な現実主義者であるかのように演出しています。保守言論知識人も自民党の応援団の域を出ないので、同じ間違いを犯しています。  極東の空と海が一触即発の危機に迫られている現下において、国民の不安と恐怖をよそに、自民党の内部と周辺に、民族の生存を懸けた真実の発語はなく、シーンと静まりかえっています。岸田文雄氏も麻生太郎氏も小泉進次郎氏も石破茂氏も、もはや期待できません(彼らはすでにお蔵入りです)。自民党の奥の方から首相の寝首を掻く兵(つわもの)はなぜ出てこないのでしょうか。

 安倍晋三氏は、アメリカから「修正主義者」と呼ばれました。国内では「右翼」呼ばわりされています。じつはこれは「贋の保守」だということなのですが、そのことが「真の保守」の登場を阻んでいるのです。真の賢者や真の勇者にあらざる者に「贋の賢者」や「臆病者」のカードがきわめて有効であるように、安倍晋三氏と停滞する自民党にカードを突きつける場合に、「保守」はこのうえなく便利な符丁です。

 本書『保守の真贋』は、「真の保守」の存在する可能性を示し、党内党外を問わず、政治の流動化を止めている局面の淀みを打開するよう訴えているのです。

 自民党の現状よりもずっとましな保守グループがなぜ出てこないのでしょうか。「日本ファーストの会」という名の団体が出てきたようですが、民進党の落ちこぼれ組と手を組もうとしているところを見ると、とうてい本物の「保守」の任に耐えられるものではなさそうです。

 今までの「保守」が「保守」を邪魔しているのです。選挙のたびに自民党に入れたくない浮動票が「受け皿」を探している時代です。本書を読めば、「真の保守」の何たるかが分かるでしょう。正々堂々と今までの自民党を保守の立場から批判する個性、ないし団体の登場が今ほど待たれているときはありません。外圧であれ、小内乱であれ、今までの贋の秩序を根底から組み替える力がどこからか働かないかぎり、わが国の未来は救われないでしょう。

 私自身は保守といい、革新といい、いかなる政治概念(イデオロギー)も信じていません。何度も言っていますが、「保守」は切り札となる便利な記号なのです。大切なのは、わが国の未来を変えたいというひたむきな情熱です。観念ではなく、行為です。本書は一人の非政治的人間の私心なき訴状にほかなりません。

 本書の具体的な成立次第は、第一部・と・の■一において詳(つまび)らかにしてあるので、ここでは控えます。

 第二部は、独立した別個のエッセー群です。そのなかの・は、ある雑誌に連載途中だった「現代世界史放談」です。本当はこれで一冊作りたかったのですが、そうなると出版が大分先になるので、ここに収録しました。・の一の題「広角レンズを通せば歴史は万華鏡」は、私の今の心からの実感で、これにより今後また歴史に関する新しい活動ができるのではと自分に期待している切り口の一つです。

 ノンフィクション作家の加藤康男氏に緊急対談をお願いしました。本書のきっかけとなった「産経新聞」コラム【正論】「思考停止の『改憲姿勢』を危ぶむ」を書く上で、氏が影の協力者として貢献してくださったからです。詳しい事情や老齢になって目ざましい活動を始められた氏のお仕事などについては、・の冒頭部分をご覧ください。

 本書は徳間書店学芸編集部で私の担当である橋上祐一氏の慫慂により、思い立ち、私自身も一冊の組み立てに参加し、成立しました。本はまたたく間にできあがりました。心からありがとう、と申しあげたい。

 二〇一七年八月十五日
                                  西尾幹二 

若い人への言葉

 DHCテレビで、堤堯さんの司会で行われていた「やらまいか」という座談討論番組が本年3月末に終了した。最終回で各レギュラーに「若い人への言葉」が求められた。私は欠席だったので乞われて言葉のみ送った。司会者が朗読して下さった由である。

 若い人に期待するのは日本の歴史を取り戻すことです。今、日本の歴史は正当に語られることがなく、ほとんど消えかかっています。しかしだからといって徒らに日本の良さを主張すればよいということではありません。日本を外から眺めることがまず大事です。若いうちに外国で暮して下さい。進んで留学して下さい。

 外から日本を眺めると、他の外国でどこでも普通にやっていることが日本にだけない、というようなことが数多くあることにきっと気がつくでしょう。だから、そこだけ外国に学び、真似すればそれでよい、ということではありません。むしろ逆です。外国からは学ぶことのできないもの、どうしても真似することができないものが確実に存在します。それは何か、日本の歴史の中にさぐり、発見し、そこを基盤にもう一度日本を外から見直して下さい。そうすれば日本の欠陥も、長所や特徴もより明確に分るようになるでしょう。

 外からと内からのこうした往復運動を繰り返して下さい。貴方はきっと歴史を知ることが自分を知ることと同じだということに気がつくようになるでしょう。
 

石原萠記さんへの感謝

 石原萠記さんが亡くなった。5月20日に東海大学校友会館でお別れの会が開かれた。その際「皆さまからいただいた思い出の一言」と題した200人余の文章を蒐めた小冊子が配られた。私もその中に参加していた一人だった。私の「思い出の一言」は次の文章である。

 29才のときに書いた「私の『戦後』観」が自由新人賞に選ばれたとき私は翌年夏にドイツに留学することが決まっていた。選者は竹山道雄、福田恆存、林健太郎、平林たい子、関嘉彦、武藤光朗の諸先生であったが、石原萠記編集長も正式に選者の一人だった。

 私はドイツから編集長の指示にしたがい3本のドイツ観察記を送った。右翼政党NPDの初登場をめぐる喜劇的スケッチもその中にある。(単行本未収録、全集で拾い上げた。)

 私は自分の留学を文明論的考察の対象にしようと意気込んでいた。思えば幼い気負いである。鴎外や荷風のヨーロッパ体験がたえず念頭にあった。まだそういう自尊のポーズが失われないですむような時代だった。帰国したらすぐに連載を始めたい。それを可能にしてくれたのは『自由』であり、わけても石原編集長だった。

 こうして出来上がったのが『ヨーロッパ像の転換』である。石原氏は帰国した私にやさしかった。1960年代は周知の通り左翼全盛の時代だった。しかし今と違って、左翼にも相手の存在を尊重する言葉への信頼がまだあった。石原氏はその嵐の中をもまれて戦った戦士だった。

 60年代は『世界』と『自由』が知的言論界を二分した。その安定した対決のバランスを壊したのは70年安保であり、三島事件だった。にわかに言葉より行動が求められる気流の変化が生じ、それはいたずらにささくれ立ち、次に無気力、無関心、無感動のムードに取って替わるようになっていった。

ishihara