「言志」紹介

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日本を主語とした電子言論マガジン「言志」の御案内

「言志-Genshi-」は、チャンネル桜が発行する「日本を主語とした」新たな情報発信・電子言論マガジンです。

今、日本の最前線で活躍する論客の皆さんによる、日本の未来を考えるオリジナルコンテンツが満載!

チャンネル桜の番組等とも連動し、文章・映像等を駆使した新しいタイプの電子マガジンで、パソコン、iPad等のタブレット型PC、スマートフォン等で閲覧いただきます。

西尾先生には創刊号からご執筆いただいております。

「言志」のご購読方法には、以下の方法があります。

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ご興味のある方は、「言志」公式サイトをご覧ください。

「言志」公式サイト
http://www.genshi-net.com/

三つの講演のお知らせ

AとCはできるだけ内容が重ならないように致します。

A 3月9日(土)15:00~17:00
 講演:「アメリカは日本をどのように『侵略』したか、また、今どのように『侵略』しているか」
 場所:豊島区医師会館 TEL:3986-2321
    (池袋西口、芸術劇場前人通り反対側、ローソンの横道を入って突き当たり)

 主催:日本の伝統と文化を語る集い
 TEL :080‐6722‐5670 ¥1000
 運営:「新しい歴史教科書をつくる会」東京支部
    担当 島崎氏 TEL:080-6722-5670

尚、講演の終了後15分ほど時間をいただき、「新しい歴史教科書をつくる会」の本年正月以来の事態について、私の認識と判断を語ります。

B 3月20日(春分の日)14:00~16:30
講演:青木直人さんの定例講演会 「安倍政権と新帝国主義の時代」
場所:文京シビックホール3階会議室

青木直人BLOG参考のこと。
二人の対談です。 ¥3000

C 3月23日(土)13:30~16:00(開場13:10)
講演:「20世紀前半に日本はどのように『侵略』されたか――尖閣騒ぎからまざまざと連想されること――」
場所:文京区民センター2F(2A会議室)
TEL : 3814-6731
主催:士気の集い百回目記念講演 ¥1500←訂正しました。
   代表 千田昌寛氏 
TEL: 090-3450-1951
   事前申し込み必要 FAX 5682-0018

四万温泉にお伴して

伊藤悠可

 御全集刊行の記念講演会(第五回)を1月19日に了えられてから、西尾幹二先生はことさら誰かにお膳立てを指示されたというわけでもなく、「熱い温泉にでも浸かりたい」と洩らされたそうだ。それを聞いていたのが、このところ坦々塾の会合、講演会等の世話役を買って出てくださっている中村敏幸さんである。

 中村さんは群馬県の渋川在住。山と温泉はいくら選んでも品切れにならないほどまわりにある。思い立ったら吉日で、先生は「今すぐ行きたい」と仰言る。無計画に近い旅の計画をすばやく立ててエスコートするのもまた、中村さんは得意である。道連れは何人にするかなどと悩むのはやめて、旅は一泊、「今すぐ」に応じられる人を募って締め切ろう、ということになりプランは固まった。

 先生も旅人である。草津の湯は軽井沢に行き来するとき幾度も体験された、伊香保は今さほど魅力を感じない、赤城・水上はさらに物足りない。こうして候補を削ぎ落して最後に残ったのが四万温泉だった。四万温泉郷は県西北端に位置する湯治場。元禄時代、近隣の大名から農閑期に疲れを癒したお百姓まで、湯煙の途絶えぬ里のにぎわいが絵図に描かれている。伝承としては蝦夷征伐の坂上田村麻呂が登場する場所だから、古さという点ではもう説明は要らない。無論、お湯は上質である。

「なら、四万にしましょうか」と中村さんが電話で推奨すると、先生は「一度行きたかったところなんだ」と感慨深げに話されたそうだ。われわれはその理由を旅先で初めて聞いたのだが、なるほど西尾先生が必ず訪ねなくてはならない場所だったのである。後述する。

 ちなみに、最近のバス旅行の便利さには驚かされる。八重洲でも丸の内でも豊富に遠距離バスの停留所があって、四方八方の観光地に向けて直行便が出ている。四万温泉へは東京駅八重洲中央口近くから『四万温泉号』に乗れば旅館の前まで連れていってくれるのだ。

 2月15日朝、先生のお伴をすることになったのは小川正光さん、松山久幸さん、小川揚司さん、そして私であった。中村さんはバス到着時刻に合わせて車をとばし旅館の玄関で迎えてくれるという段取りだった。参加予定者に都合がつかず断念された方もあり、結局6人と小グループで出発した。

 この日、あいにく関東一円には雨雲が下りてきていた。青空と四万川の清流をながめるはずだったのに残念だと思った。「小川揚司さんは酒さえあれば景色などあってもなくても同じだろうが、私はそうじゃない」と無言でつぶやいていると、前の座席で威勢よく缶ビールの栓を開ける音がした。先生の隣の小川さんだった。

 天気に落胆することはなかった。低気圧が別の趣向をこらしてくれたのである。関越自動車道・渋川ICを降りて四万街道(国道353号線)に入ると、雨が霙となり霙がやがて雪になった。役場のある中之条町の中心を抜ける頃は、降りつもる細かな雪で山間の景色が白と黒とに分けられていた。真綿をかぶせたようにみえるが、遠い山裾の家は形からして古い茅葺なのだろう。渓谷の川面だけが深い暗がりを保ちコントラストが美しい。「まるで雪舟だね」と前の席から先生の声が聞こえた。

 われわれの宿は四万温泉口を入ったばかりの大きなY旅館である。女将もテレビで有名だそうでロビー売店のポスターの顔には見覚えがあった。名を知られて却ってサービスが荒れるところもあるが、ここは何かと行き届いて親切だった。最上階の7階二部屋に陣取ると、夜中であろうと朝であろうと、四つほどある露天・屋内風呂のすべてを制覇しようと話し合った。窓の向こうには急勾配の白い山肌が迫っていて、見下ろすと青く澄んだ清流が音を立てていた。この辺り、中村さんによると熊や猪の姿は茶飯事だという。小さな滝が櫛のように氷柱をぶらさげていた。

 全員で川縁の露天風呂に繰り出した。雪を見て、せせらぎを聴いて、ゆったりと体を湯に浸すだけだ。とりとめもなく天下国家の話から大小公私の浮世話をしていると、「おおっ西尾先生、お元気で少しも変わりませんね」と湯船で親しく声をかけてくる年輩があった。先生の知己ではない。向こうが一方的に知己なのである。が、考えてみると、先生なら何処へ行ってもこういう方に出くわすことがあるだろう。ご年輩は自己紹介をはじめると、先生も親しく応じて、のぼせるのではないかと思うほど話に花を咲かせていた。

 夕げは旨かった。ビールも酒も肴もみんな旨かった。他のテーブルの客はさっさと部屋に帰り、先生を囲んだわれわれのテーブルだけが延長戦をやっていた。部屋に戻ると、今度は宴の第二ラウンドをはじめた。卓袱台につまみが並べられ、またビールからはじめて焼酎や日本酒も飲んだ、と思う。思うというのは半分の記憶だからである。この夜、よく笑ったがよく叱られたような気もする。

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 翌日、『積善館(せきぜんかん)』を訪ねた。旅館から徒歩十分ほど上流のほとりに立っている四万最古の旅籠である。易経に「積善の家に余慶あり」とある。当主の祖先はもと源氏に仕えた武士。下関から関東に移り、何代かを経てこの四万の地に分家したのが初代「関善兵衛」で、関が原の戦と時代は重なる。以来、子孫の当主は代々この名を襲名し、明治になって15代関善兵衛が自分の名と〈積善〉をかけて宿を『積善館』にしたという。

 本館玄関部分は元禄4年に建てられたもので県重要文化財。江戸の典型的な二階建て湯治宿の面影を残している。大正ロマネスク様式の大浴場「元禄の湯」(昭和5年建築)などは道後温泉と同様、記念に入浴したいと思わせる風情がある。後藤新平、中村不折、佐藤紅緑、徳富蘇峰、柳原白蓮、榎本健一、岸信介…とここを訪れた文人墨客を数えればきりがなくなる。近いところでは人気アニメ、宮崎駿の「千と千尋の神隠し」の湯屋の舞台が積善館である。

 けれど、先生がぜひ積善館を訪ねたいと仰言ったのは、伝統があって著名人が喜んだ歴史的名所だからというような話ではない。先生の父君と母君が初めて出逢った場所がこの積善館だったのである。ご両親から聞いていた先生の記憶によると、昭和初年頃、銀行員でいらした父君は慰安旅行で遠路遥々、四万を訪れたそうだ。一方、母君はその頃、結核を患っておられ湯治客として滞在していた。

 団体客の一人であるお父さまがどうして治癒目的のお母さまと遭遇したのかというと、これは意外なめぐり合いによる。積善館は裏手の山を上るように宿泊施設が建っている。今はエレベーターで手軽に昇降できるが、昔は長い外階段を巡らせていただけかもしれない。どのような状況にあったのか想像するしかないが、とにかくお母さまが階段で転ばれた。そのとき通り掛かったお父さまが咄嗟にお母さまを受けとめ助けたというのだ。

 玄関受付すぐ横の板張の梯子段を昇ると、二階廊下の外は急勾配な崖の下にあたる。そしてその崖には斜め上に石段を刻んでいる。昭和初年と今とでは施設形式の異同はわからない。「転んだのはこの階段ということにしておこう」。先生は懐かしそうに廊下の窓から写真を撮っておられた。慰安旅行がなければ、また病気をしておられなかったなら、西尾幹二はこの世に生まれなかったのである。

 昼、蕎麦を食べながら先生はこんな話をなさった。「二人(父母)は四万を訪ねたいと言ってたんだ。きっといつか、と待ってたのかもしれない。結局連れてきてあげられなかった。それを思うと悲しいというより、かわいそうという気持ちになりますね」。この旅の三日前まで、私は郷里に帰り父母のいなくなった家で一人、着物やら日用品やらを片付けていた。私の母にも「連れてってほしい」という場所があった。私は「また今度」と先送りして、とうとうそのままにしてしまった。先生の話に思わず胸が詰まった。

 帰りのバスの時間になった。一泊とは思えない長い旅だった感覚で帰途についた。先生、皆さん、お世話になりました。

文章:伊藤悠可

(了)

全集記念講演会「第四巻 ニーチェ」感想文

 渡辺望氏による感想文

  1月19日、市ヶ谷グランドヒルにておこなわれました西尾先生の全集記念講演会「第四巻 ニーチェ」を拝聴しました者の一人として、講演会の感想を記させていただきたいと思います。

 西尾先生はニーチェに関して、実にたくさんの評論、翻訳の仕事を残してこられましたことは周知の通りで、西尾幹二とニーチェの両者のイメージは、戦後日本では水魚のように分かち難く結びついています。だからこそなのでしょうけれど、西尾先生がニーチェを演題にして語られると聞くと、西尾先生とニーチェのかかわりの個人的歴史の整理というものではないか、という先入観を私などはもってしまいがちです。もしかしたら新しい論点はそれほどないのではないか、という下手な先入観です。

 しかしその先入観は(幸運にも)まったくの間違いでした。西尾先生が従来展開してこられたニーチェ解釈に、新しいニーチェ解釈が加わり、さらにそれら解釈の現代的意義が加わり、この三者が有機的に連関することで、豊饒かつ新奇な発見に満ちた内容が構成された講演でした。ただ惜しむらくは、三者の結びつきのスピーディーさが、壮大な文明論の入り口に入りかけていたところで講演時間が終えてしまったことでしょう。今回の講演は、完成体ではなく、「入り口」とでもいうべき新しいニーチェ論だったと思います。

 たとえば、キリスト教の融通のなさ、対話性のなさということと、現代アメリカの宗教国家性を結びつけていることなどは、実は日本で指摘された方は他にはいないのではないかと感じられるお話でした。ニーチェが生涯格闘したヨーロッパ形而上学が、現代アメリカに再生している可能性を先生は指摘されました。ニーチェを読む精神と「アメリカという国の読み解き」の精神は21世紀に一致するものになってくるかもしれない。ニーチェで理論武装した「アメリカという国の読み解き」というようなものがこれからありうるのかもしれないという「入り口」です。

 あるいは、秦郁彦や加藤陽子たち歴史学者が依拠している近代主義的歴史観=「歴史的事実は固有的であり、歴史観は普遍的である」というイデオロギーへの反論は、すでにニーチェにおいて完全になされており、秦や加藤が19世紀の歴史観に閉塞しているという先生の指摘も興味深いものでありました。先生が講演の中途で紹介されたように、ニーチェは仏教をはじめとする東洋的価値観をキリスト教世界に優位するものだと強調していました。

 にもかかわらず、キリスト教世界を模範とした近代日本において、ニーチェが一番怒りの対象にしそうな近代主義的歴史学が依然として優位にたっているのは、実に皮肉な現象に他なりません。西尾先生は左翼史観だけでなく、皇国史観も近代主義の一派生と講演内で断じられましたが、ニーチェが現代日本にいても、おそらく同じふうに裁断したことでしょう。ここには、「ニーチェを表層からしか取り入れなかった近代日本」という、これまた大きな文明論の「入り口」がありそうです。

 このようにいろいろな「入り口」の発見に出会うことのできた講演会だったわけですが、その発見のいろいろの中で、自分にとって特に新鮮に感じられた話の内容の一つ、提供していただいた「入り口」の一つに「ニーチェとユーモア」ということがありました。ニーチェにおけるユーモアという問題について、今までの私はほとんど無自覚でしたが、西尾先生の講演のおかげで、このことについて少なからず考えることができました。

 今回の講演で、西尾先生はたくさんのニーチェの言葉の引用をされましたけれど、たとえばそんな先生の引用の一つに、カントを揶揄する目的でいった、「神はついに物自体になったのだ!」という言葉があり、私は思わず声を出して笑ってしまいました(先生も笑っていました)カントの批判哲学が本当は神とか永遠を否定しうる力をもっていたのに、カントはそれをあえてせずにキリスト教世界に反転して引き返し、そこに引きこもった、そういうある種の哲学喜劇をニーチェは言おうとしている。でも単に論理的に言うのではなくて、ユーモアをこめて書いているのです。ニーチェ自身もこのくだりを書きながら、おそらく笑っていたに違いない。

 そこで感じたのですが、自分は哲学書を読んで「笑った」という経験はほとんどない人間です。ところが、ニーチェの哲学書を読んでいると、笑ってしまうことが多々ある。しかもいろんな笑いがある。哄笑、苦笑、微笑、ブラックユーモアなどなど、笑いの種類も豊かです。実はニーチェほど笑い・ユーモアに親しい哲学者は他にいないのではないか。ニーチェ自身も、そのことにきわめて自覚的で、笑い・ユーモアの意義を認めた文章もたいへんに多いのです。

 「笑いと智恵とが結ばれるだろう。そしておそらくそのときは<悦ばしい知識>だけが存在することになるだろう」「ツァラトゥストラは予言する。ツァラトゥストラは笑って予言する。我慢できない者ではない。絶対者ではない。縦に横に飛ぶことが大好きな者なのだ」こうしたニーチェの言葉からすると、ニーチェの言うところの超人には、どうも笑いが不可欠なことがわかってくる。笑いやユーモアを定義した哲学者はベルクソンなどはじめたくさんいました。しかし自身の哲学の不可欠の要素として、笑いやユーモアを取り入れた哲学者は、ほとんど稀なのではないでしょうか。

 西尾先生も、ニーチェ論『光と断崖』で、『この人を見よ』について、「・・・・この作品で私自身を特別な存在のように語る彼の尊大さが、自己諷刺やアイロニーとうまく手を取り合っていて、読者を爽快な深刻さに心地よく誘う効果を発揮している。ときにはそこに笑いの要素さえないではない」(『西尾幹二全集』第五巻所収)と、ニーチェ哲学のユーモアの存在について指摘しています。晩年の狂気やナチスの思想的利用などによってとかく暗いイメージの漂うニーチェですが、実は少しも暗いものではなく、ユーモアを好みそれを武器にし、好んだだけではなくて、それを生かすことのできるユーモアの天才でもあったのではないか、と思われます。

 「ユーモアの天才」という視点で読む楽しみを与えてくれる哲学者がニーチェならば、「ユーモアの凡才」の典型ともいうべき哲学者は、まさにニーチェにユーモラスに批判されたカントでしょう。講演会で西尾先生は、「カントは結局、常識人なのだ」といわれましたが、この場合の「常識人」という言葉の意味は「常識に引きこもる人」という意味だと思われます。普遍的慣習その他の肯定的意味としての「常識」ではなく、世間的現実の妥協ラインとしての「常識」に従う人、ということです。ヴォルテールは「常識は、実はそれほど常識ではないのである」といい両者の常識を区別しましたが、カントの文章世界にはたしかに、時折露骨なほどの、世間的現実、すなわち当時のヨーロッパ世界との妥協をは
かろうとする彼の意図があると私には感じられる。

 たとえばニーチェには次のようなカント評があります。「カントは物自体を搾取したその罰として、定言命法に忍び込まれ、それを胸に抱きしめてまたもや神、霊魂、自由、さらには不死のもとへと、まるで自分の檻の中へと迷い帰る狐のように、迷い帰っていった。しかも、この檻を破ひらいたのが、ほかならぬ彼の力であり英知であったというのに!」ニーチェはカントによって、ヨーロッパ哲学におけるラディカルな懐疑論が始まっていることを卒直に認めている。にもかかわらず、カントは、再び、キリスト教世界の迷妄な「常識」の数々に、舞い戻ってしまったのです。

 狐は狡猾な動物です。カントは自身の哲学の力をもって否定しえたはずの神や霊魂や不死といった概念のもとに、カントという狐は狡猾に舞い戻ってしまった。もしかしたら「迷い帰る」ことさえも、狐の演技かもしれません。このカント評は「神は物自体になったのだ!」という先生の講演会で紹介されたニーチェのカント評と同じ意味であり、同じくユーモアなのでしょう。

 カントというと、数々のエピソードから、品行方正な人物をイメージするかもしれませんが、そういうイメージは必ずしも正しいものではありません。カントは哲学論以外に、膨大な数の社会批評めいた文章を残しており、それらを読むと相当に意地悪な人で、世間的常識を纏いながら実は、ニーチェにも増して人間観察と悪口の大好きな人だったことがわかります。しかしその表現はどれも直接的過ぎる。ユーモアや笑いという以前に、何か「余裕」というようなものがない。キリスト教社会の世間的常識からの視線を過剰に意識していたカントは、「悪口」とはいつでも反論可能なふうに論理的なものでなければならない、というような思い込みがあったのではないでしょうか。

 たとえば女性について、(かなりの女性嫌いだったらしい)カントの悪口がこんなふうに炸裂します。「女性の場合には欲望は無限であり、ふしだらは増しても何物によっても抑制されない」「学問をしたがる女性は口髭をつけた方がいい」これが同じ女性への悪口でも、(やはりかなり女性嫌いだったらしい)ニーチェになるとこうです。「完全な女というものは、自分が愛するときは相手を八つ裂きにするものなのだ。私はそういう狂乱巫女たちを知っている。ああなんという危険な、忍び足で歩く、地下に住む猛獣!それでいて何とまあ好ましい」(『この人をみよ!』)この最後の「何とまあ好ましい!」はカントには決して書けないユーモアでしょう。両者の文章を比較してみて、哲学科でカントを専攻
する学生はいてもドイツ文学科でカントを専攻する学生がほとんどいないのはむべなるかな、と私には感じられます。

 カントがニーチェより劣っていたとか、文学的表現が哲学に必要だとかということでは全くありません。ただ私が考えるのは、本当に自由な観念を持たないと、ユーモアというものは生まれない、そして自己が属している文明なり宗教への批判的精神というものは生まれない、ことです。たとえば先生は講演会で、カントにはインドでのキリスト教宣教師の傲慢を紹介した文章があるといわれました。カントの博学は驚くべきもので、彼の平和論には江戸日本の鎖国政策や日本の宗教について触れているものさえあります。しかし彼の膨大な博学は、決して斬新な文明論を形成するには至らなかった。なぜかといえば彼は狡猾な狐のように、キリスト教社会の檻で再び生きることの代償として「自由でないこと」を
選んだから、です。

 自分のキリスト教文明を否定するような所為には、彼はあえて踏み出すことはできなかったのです。だからカントには笑いがない。ユダヤの格言だったと思いますが、「自分を笑うことのできるものは、他人から笑われない」という言葉を私は思い出します。ここにいたると、笑い・ユーモアというのは、自身や自身の文明を批判する自由ということと同義になるともいえましょう。

 カントが狡猾に選択した不自由に比べ、ニーチェはヨーロッパ文明そのものを敵にまわすことで、実は完全といっていいほどの自由を手に入れた。彼の完全な自由は、一見するとおそろしい孤独を彼に与えてしまったようにも見えるけれども、しかし、彼の哲学書のいたるところにみられるユーモアをも可能にしたということができるのではないか、と思います。哲学論はともかくとして、文明論という面におけるカントとニーチェのスケールの差は、ユーモアの差、つまり自由の差なのではないでしょうか。

 今回の先生の講演会を拝聴しまして、ニーチェという哲学者が、あらためてスケールの大きなテーマに生涯を賭けていたことを再認識しました。それは彼の人生を瓦解させたかもしれないし、21世紀に思想的根拠を与えるものだったかもしれません。しかしその巨大さの証しとして、彼の著作のいたるところにあふれているユーモア、笑いというものに注目してほしい、と私は思いました。先生はニーチェの講演会となりますと、幾度も幾度もニーチェの引用でお笑いになりますが、やはりニーチェのユーモアということの真髄を理解されているのではないかな、と私は想像しております。

文:渡辺望

武田修志さんのご文章

 今日ご紹介する文章の書き手 武田修士さんは、前にもここで取り上げたことがあります。私と同じドイツ文学の専攻で、鳥取大学の先生です。

 いつもお書き下さるのは名文で、書かれた私はうれしくて、全集の編集担当者についお見せしました。彼も深い感銘を受けたようです。

 ご自身の体験に即して書かれていて、しかもどこか無私なところに味わいがあるのです。私は自分のことを書かれているから言うのではなく、武田さんはいつも素直に自分を出していて、しかも必要以上には自分を出さないのです。

 彼の手紙はファイルして秘匿しておきたいと思います。それでいて矛盾していて、いろんな人に読ませたいとも思うのです。

 また前回の「コメント5」の佐藤生さんのように、「宣伝」といわれるかもしれませんが、いわれてもいいから、お見せしましょう。

 新年もすでに今日は六日ですが、西尾先生におかれましては、ご家族ともども、良きお正月をお迎えになったことと、拝察申し上げます。今年もお元気でご健筆をふるわれますよう、心よりお祈り申し上げます。

 年末年始に「西尾幹二全集 第二巻」に収められた三島由紀夫関連の御論考を再読いたしました。単行本『三島由紀夫の死と私』は、この本が出版されました平成20年12月に一読していましたが、今回全集が出るに及んで、「文学の宿命」「死から見た三島美学」「不自由への情熱―三島文学の孤独」等の評論と合わせ読むことができ、三島事件について理解を深めることができました。『三島由紀夫の死と私』は、先生の「三島体験」の詳しい報告、という控え目な体裁をとっていますが、三島事件と三島文学を理解する上で、最良の導きの書になっていると思います。これから三島文学を論じたり、三島事件に言及する者は、必ずこの書と先生の三島論考を読まなければならないことになるのであろうと思います。

 三島事件が起きた昭和45年(1970年)に、先生はすでに35歳の気鋭の新進批評家であり、私は20歳になったばかりの大学二年生にすぎませんでしたので、体験の質が違い、比較はできませんが、しかしそれにもかかわらず、三島事件から受けられた先生の「衝撃」は、私があの事件から受けた衝撃と非常に似かよったものではなかったかと、正直感じました。

 私はちょうどその年、それまで一度も読んだことのなかった三島由紀夫の作品を少しまとめて読んでみようと、「金閣寺」「潮騒」「永すぎた春」「春の雪」と続けて読んでいるところでした。「潮騒」には少し心動かされたような記憶がありますが、先生もお書きになっているように、「三島さんの作品に、感動するものがあまりなかった」――そういう感想を持ちました。マスコミの伝える「楯の会」のパレードといったものにも、さしたる関心を持っていませんでした。

 ところが、11月25日のあの事件に遭遇して、私は心から震撼させられたのです。第一報は、午後の第一時間目のドイツ語の先生からでした。「三島由紀夫が割腹自殺したみたいだ」、そういう短い言葉でした。その授業が終わって、独文研究室に立ち寄ってみると、何人か人がいて、三島事件について話をしていました。よく覚えているのは、そのとき、30歳に近い独文助手の左翼の女性が「三島由紀夫は何という馬鹿なことをしたのか」というような批判的なことを言ったとき、私の中に激しい怒りが湧いて、「こいつは何も分かっていない!」と私が腹の中で叫んだことです。そのとき三島事件について私は詳しいことは何も知らなかったはずなのですが、確かに、その女性の発言に憤激したのです。たぶん「文化防衛論」をすでに読んでいて、三島由紀夫が何を主張してその事件を起こしたのか、分かったような気がしたのではないかと思います。

 そのまま大学からバスに乗って、市内のバスターミナルへ向かいました。わが家へ帰るためです。そのバスターミナルではすでに「号外」が張り出されていて読むことができました。また、待合室のテレビでは事件の報道を流していました。この事件が何のために引き起こされたのか、そのことについて、自分の予測は的中していました。自宅に帰りついてからも、家族と黙ってテレビを見ました。私は何か大きなショックを受けて、しばらく物も言えなかったように記憶しています。衝撃を受けたのは、三島の主張に私が同感したからでもありますが、何と言っても、自分の信じる政治的主張のために、本当に命を掛ける人間がいるのだ――そのことを目の前で見せつけられたからです。

 三島氏がバルコニーで自衛官たちへ呼びかけたときに下品なヤジを飛ばしていた者たちがいましたが、彼らに対して「なんという卑劣」と猛烈に腹が立ちましたが、しかし、もし自分があのバルコニーの下にいてあの演説を聞いていたとしたら、「お前は立ち上がって、三島氏の元へ駆けつけることができたか」と自問すれば、百パーセント「否」でした。そういう決断も勇気も自分にはないということはごまかしようもありませんでした。まだ本当の大人ではありませんでしたから、先生のように「三島さんに存在を問われていると感じ」たということではありませんが、自分の日ごろの生き方が全く口先だけのものだというようなことは感じたのです。

 先生は三島氏があの事件を決行するに至った経験や動機を、様々な面から解明しようとしておられて、私にはどれも参考になりましたが、私が第一に説得されたのは、やはり、全集48ページからの「思想と実生活」の考えです。「思想が実生活を動かすのであって、実生活が思想を決定づけるのではない」ということです。三島氏は多面体の天才でしたから、彼があのような行動に出たことについていろんな理屈をつけることができるでしょうが、私には、三島氏の「日本の運命への思い、憂国の情」が決定的な動機であったことは、一点の疑いもないように思われます。

 そして、その「日本の運命への思い、憂国の情」は三島氏やそれを取り巻く少数の右よりの人々だけが共感するようなものではなく、実のところは、もっと多くの日本国民の心に眠っていた思いであり、憂国の情であったと考えられます。ここで思い出すのは、野坂昭如という作家が、しばらくのち何かの雑誌に発表したエッセイのことです。そのエッセイの中で、このどちらかと言えば左よりかと思われる人が、「あの事件の日は、日本中があるしんとした思いに心を一つにした」というような意味のことを書いていたのです。昭和24年生まれの私には経験がありませんが、これは先生が書いておられる終戦の日の「沈黙」と同じものではなかったでしょうか。三島由紀夫の決起の呼び掛けは功を奏しませんでしたが、何もかもが無意味だったわけではありません。我々は一瞬にせよ、彼が求めたところへ心を致したのであり、その瞬間の思いを今も忘れてはいないのです。

 今回、先生の三島論を拝読して、この作家について教えられることがたいへん多かったのですが、特に印象の残っていることを一つ上げてみますと、三島氏が、縄目の恥辱を受けた総監は、自決する恐れがあると考えて、自首した学生に総監を護衛するように命じたというエピソードです。先生のご指摘通り、「いかに自衛官でもそんなことが決して起こりえないことは、われわれ今日の日本人の一般の生活常識」です。しかし、三島氏がそんなふうに考える人だったということを知って、私には何か感動させられるものがあります。こういうふうに考えることのできる人だったからこそ、自分の「思想」というものを持つことができたのだと、納得のいくものがあるのです。

 御論考「不自由への情熱」の中にこういうご指摘があります、「だが、多くのひとびとがこれまで試みてきた美学的解釈も、政治的解釈も、偏愛か反感か、いずれかに左右され過ぎている。この作家の少年期からの孤独な心、外界と調和できず自他を傷づけずにはすまぬ閉ざされた心、そういうものが見落され勝ちである。外見とは相違する裏側には驚くほど正直な、幼児にも似たつらい率直な心が秘められていた。私はそう観察している。」この評言を、三島由紀夫に関してあまりに少ない知識しか持ち合わせていない私は正確に判定できませんが、しかしそれにもかかわらず、直感的にはまさにこの通りであろうと私には思われました。作家三島由紀夫の生の秘密を最もよく見抜いた人こそ西尾先生であると、今回、関連の御論考をまとめて拝読して再認識したことでした。

 いつものようにまとまりのない感想になりましたが、今回はこれにて失礼いたします。
 
 お元気で御活躍ください。

  平成25年1月6日

                       武田修志

西尾幹二先生

中村敏幸さんの当選作(三)

東京裁判とGHQの日本弱体化工作 

 開戦前に日米交渉に当った野村、来栖両全権大使は、ただアメリカの時間稼ぎに翻弄されていただけのように思われているが、来栖大使が開戦一年後に行った講演「日米交渉の経緯」には、日本がアメリカの悪意を正確に読み取っていたことが記されており、感慨深いものがある。(10)

 また、硫黄島守備に当った市丸海軍少将が栗林陸軍中将と共に最後の総攻撃に臨む直前に記した「ルーズヴェルトニ與フル書」(11)にも東洋征覇を目指した、アングロサクソンの非道と我が国が開戦のやむなきに至った経緯が切々と述べられているが、何よりも、我が国が開戦を決意した経緯については「開戦の詔書」とそれに続く「帝國政府聲明」に言い尽くされている。我が国は世界の情勢を把握することなく、やみくもに無謀な戦争に突入した訳ではない。対日包囲網の中にあって、ハル・ノートを突き付けられた時点で、我が国に残されていた道は、ハル・ノートを受入れ、戦わずして屈従の道をたどるか、それとも、勝敗を超えて敢然と必戦の決意を固めるかの二つに一つしか残されていなかったのであり(12)、当時多くの国民は、12月8日を、先行きに対する言い知れぬ不安感と共に、息の詰まるような圧迫感からの解放と「ついに来るべきものが来た」との覚悟を固めて迎えたのである。

 そして、終戦直後の国民の多くは江藤淳氏がその著「閉ざされた言語空間」でいうように、あのような戦争と敗戦の悲惨な結末は自らの「愚かさ」や「不正」がもたらしたものとは少しも考えていなかったのであり、この多くの日本人の静かなる不服従に脅威を抱いたGHQは、占領後直ちに、予てから準備していた「ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム(戦争についての罪悪感を日本人の心に植え付けるための宣伝計画)」と「東京裁判」を実行に移し、彼等の攻撃の手は、我が国民の心の中に目標を定めたのである。

 先ず、「降伏文書調印」の直後から報道、出版はもとより私信に至るまでの検閲よって言論を封じた上で、公職追放によって、各界に於いて、祖国の存亡をかけて奮戦した20万人余りの人々を一掃した後、その空いたポストを敵国に媚び諂った戦後利得者である左翼売国勢力に占拠させた。更に、7千冊以上に及ぶ書籍の焚書によって我が国の大義と歴史の真相を闇に葬り、洗脳番組の報道と神道指令や教育改革、占領憲法などの押しつけによって我が国の精神的な基盤を破壊した。

 東京裁判の不正に就いては語り尽くされているためにここでは触れないが、これらの洗脳工作によって、国民の多くが、先の大戦は邪悪な侵略国家であった日本によって引き起こされたとの贖罪意識を植え付けられた。そのために、散華された200万余柱の英霊は残虐非道な侵略戦争のために戦ったとの烙印を押され、英霊に対する慰霊の心を失わせ、今日なお、各地の戦跡に眠る、約半数、100万余柱もの英霊の遺骨を収拾することなく、恬として恥じない国情を生み出してしまったのである。

日米戦争は姿と形を変えて現在も続いている 

 アメリカはペリー来航以来今日に至るまで、日本に対して真に友好的であったことは一度も無い。サンフランシスコ講和条約発効後も、我が国を自己決定権の持てないアメリカ覇権の手足となる隷属国家に仕立ててきた。

 1960年代の「日米貿易摩擦」に始まり、「プラザ合意」、「日米構造協議」、「日米経済包括協議」、「年次改革要望書」と手を変え品を変えながら、アメリカは日本の金融と経済のしくみや日本型経営の基盤を破壊し続ける一方で、米国債購入やアメリカ起因による円高への為替介入によって生じた為替差損などによって日本から富を奪い続けた。そもそも、「日米構造協議」とは協議ではなく、「日本の構造は間違っており、アメリカ主導により、アメリカ流の(正しい)構造に改革させる」という意図をもって行われたものである。

 我が国は、GHQの日本弱体化工作によって二度とアメリカの脅威とならないように精神的な基盤を破壊されたが、それに続いて日本社会の構造基盤をも破壊されたのであり、日本の強さの基盤を失った。これは筆者が日米戦争は姿と形を変えて現在も継続しているという所以であり、連戦連敗の状態が続いているのである。

日本再生への道標

 最後に我が国がこれから再生へ向けて進むべき道標について示したい。

1.先ず第一に先の大戦で散華された英霊の慰霊と残された遺骨の収拾である。
   先の大戦に於いて、我が国は、仕掛けられた戦争に対し、やむなく決然と立ち上がり、我が将兵は祖国の存亡をかけ東亜の解放を願って勇猛果敢に立派に戦ったのである。この史実を国民の多くが認識し、東京裁判史観とGHQ工作の呪縛を解き、200万余柱の英霊に対し感謝の誠を捧げて御霊を安んじ奉り、我が国再生への御加護を祈念しなければならない。そして、今なお各地の戦跡に眠る百100万余柱の英霊の遺骨収拾を国家として全力で行い、首相閣僚はもとより、天皇陛下の靖国神社御親拝を実現した時が、真に我が民族が誇りと自信を取り戻した時と言えるであろう。

2.正しい歴史教科書づくりとその普及
   自国が残虐非道を尽くした侵略国家であったと教えられて育った子供たちに、健全な精神が育成されるはずはない。歴史教科書から虚偽の自虐史観を一掃し、子供たちが自国に対して誇りと自信を持てるようになる教科書づくりとその普及が急務である。

3.家族家庭の再生
   現在、我が国は深刻な少子化問題を抱えているが、子供は国や社会が育てるのではなく、親が育てるのが第一義である。戦後の混乱期に於いて、我が父祖は、日々の食糧に事欠く中にあっても懸命に子供を育てた。少子化対策として子供手当や婚外子支援、はたまた外国人労働者の導入を唱える徒輩がいるが、本末転倒も甚だしい。先ずは、我が国の家庭の雰囲気が温和に保持され、家族の絆と祖先を敬い家系を守る気概を養うことが最重要課題であり、ジェンダ・フリー、過激な性教育、夫婦別姓、男女共同参画などによって家族破壊を押し進めてきたことが少子化の元凶である。

4.グローバリズムとの対決
  ゲェテは「親和力」に於いて、「種に於いて完成されたものが、初めて種を超えて普遍性を持つ」と述べているが(13)、世界中を席巻するグローバリズムの波は「種」としての「民族国家の個性」を喪失せしめ、世界をボーダレスで無性格な弱肉強食の草刈り場と化そうとするものである。むしろ、今、我が国がなすべきは、世界情勢の動向を諦視しつつ、グローバリズムの波を巧みにかわしながら、グローバリズムによって破壊された我が国本来の社会構造基盤の再生に努めるべきである。
  
 今や国力が衰退傾向に陥り、半ば手負いの獅子となりつつあるアメリカは、昨今のTPP問題にとどまらず、今後一層凶暴になり、自らの国益追求のために更に過激な攻撃を仕掛けてくるように思えてならない。

5.自主憲法制定
  自主憲法制定については多くを触れないが、立案に先立ち、「万古不易、我が国を我が国たらしめてきた根源は何か」、「我が祖先が建国以来築き守ってきた国柄(国体)や伝統とは何か」を見つめ直し、次に「自主防衛体制」の確立を目指すことが最重要課題と考える。そもそも自国の防衛を駐留費を払って他国に依存する国は真の独立国家とは言えない。我が国がこの二つの課題の回復に努めるようになれば、現在我が国が抱えている多くのの難問は解決の方向に向かうに違いない。

6.孤独を恐れず、我が国の正しさを正面に掲げて米中韓との激論を戦わす
   アメリカは我が国と近隣諸国との友好を望まない。東京裁判によって突然表に出された「南京大虐殺」(25)、アメリカの後ろ盾によって大統領となった李承晩による「竹島不法占拠」、ヤルタ秘密協定によって生じた「ソ連の北方領土不法占拠」等、アメリカは戦後、我が国と近隣諸国との間に対立の火種を意図的に残した。今日でも、2007年の米下院に於ける「従軍慰安婦問題の対日謝罪要求決議」に代表されるような楔を打ち込み、「六カ国協議」という茶番劇を繰り返しながら北朝鮮の核開発もなし崩し的に容認し、中国の軍拡も、自国の軍事プレゼンスの正当化のために必要としているのではないかとさえ疑われる。

 中韓との軋轢は謝罪し補償することでは永久に解決されない。我が国は孤独を恐れず、支那事変は支那側からの突然の攻撃によって勃発したこと、そして、「南京大虐殺」も「従軍慰安婦問題」も全くの虚偽捏造であることを主張して「村山談話」と「河野談話」を破棄無効とし、韓国が今日有るのは、日本の統治と戦後の経済や技術支援の寄与大なることを堂々と正面に掲げた中韓との真っ向勝負の激論を戦わさなければこの問題を解決することは出来ない。あわせて大東亜戦争もアメリカが仕掛けた戦争であることを主張して「東京裁判」を否定しなければならない。その時、米国、中国、韓国は彼らの主張する正義が崩壊するためにそれを最も恐れているのであり、他のアジア諸国からは必ずや支持と歓迎を受けるであろう。それを乗り越えて初めて「大東亜戦争の世界史的意義」が明らかになり、我が国は世界の平和と繁栄に貢献する国として世界史の新たなステージに立ち、「日米百五十年戦争」にも終止符を打つ道が開けるものと確信する。

 我が国は今日なお、GHQによる日本弱体化工作の毒が全身に回っており、内閣が代わるたびに「村山談話」を踏絵にし、今日では虚偽捏造であることが明らかになった「南京大虐殺」についても、それを記載しなければ教科書検定に合格しない自己検閲状態が続き、病膏肓に入っている感がある。

 しかし、潮流は表層が東から西へ向かっているようでも、下層では逆に西から東へ向かっていることがあるように、また、「陰窮まって陽を生ず」とも言い、昨今の「河村市長発言」や「石原都知事の尖閣購入発言」を支援する国民的なうねりが見られ、日本を貶め続けてきた「従軍慰安婦問題」はもとより「バターン死の行進」も憂国の史家の努力によって、全くの虚偽捏造であることが明らかになって来た。また、1951年5月の米国上院軍事外交合同委員会に於ける「連合国側の経済封鎖によって追い詰められた日本が、主に自衛(安全保障)上の理由から戦争に走った」とのマッカーサ―発言が、都立高校の、平成24年度版地理歴史教材に新たに記載されることになり、底流では、我が国再生への流れが勢いを増して来ているように思われる。

 平成25年は20年毎に斎行されてきた伊勢神宮の式年遷宮の年に当る。神宮の御社が東の敷地から西の敷地へお移りになる時は、国威発揚の時期であると言われており(14)、これからの20年が、日本が本来の日本を取り戻し、世界に向かって羽ばたくために、孤独を恐れず、宿命としての孤独に耐え、眦を決して戦う秋である。

 註3                                                
(10)来栖三郎著「大東亜戦争の発火点・日米交渉の経緯」〔GHQ焚書図書〕。
(11)この書簡は、米軍の手に渡り(ルーズヴェルトは4月12日に急死)、原本はアナポリス海軍兵学校に保管されているが、その写しが靖国神社遊就館に展示されている。欧米列強の東洋侵略に対し下記のように抗議している下りがある。
     *卿等は既に充分なる繁栄にも満足することなく、数百年来の卿等の搾取より免れんとする是等憐れむべき人類の希望の芽を何が故に嫰葉(ワカバ)において摘み取らんとするや。ただ東洋のものを東洋に帰すに過ぎざるや。卿等何すれぞ斯くの如く貪欲にしてかつ狭量なる。
(12)東京裁判に於ける、東條・キーナン対決に於いて、東條元首相は「乙案のどの一項目でも、あなたのお国が受諾したら、真に太平洋の平和を欲し、互譲の精神をもって臨んでくれれば、戦争は起こらなかった(要約)」と述べている。
(13)「親和力」第2部9章の「オッティーリエの日記から」に次のように書かれている。「ある調べで鳴いているかぎりは、ナイチンゲール(夜啼き鶯)もまだ鳥である。しかしその調べを超えると、ナイチンゲールという鳥の種類の枠を超えてしまい、およそ鳥が歌を歌うとはどのようなことであるかを鳥一般に知らしめているように思われる。種に於いて完成されたものは種を超えていくに違いない。それは何か別のもの、比類を絶したものになっていくに違いない」。
(14)多少の周期のずれや、時代に応じた転調はあるが、明治開国以降の約150年を振り返ると下記のようになる。
     *第55回(明治2年、東の敷地へ)維新後の国づくり期。第56回(明治22年、西の敷地へ)日清日露の戦役を経て世界へ飛躍。第57回(明治42年、東の敷地へ)大正時代を中心とする低迷期。第58回(昭和4年、西の敷地へ)満州事変から大東亜戦争へ。第59回(昭和28年、東の敷地へ)戦後の復興期。第60回(昭和48年、西の敷地へ)日本経済の安定成長期。ジャパン・アズ・ナンバーワン。第61回(平成5年、東の敷地へ)バブル崩壊と失われた20年。第62回(平成25年、西の敷地へ)真の日本再生期。

文:中村敏幸

中村敏幸さんの当選作(二)

日米百五十年戦争と日本再生への道標    
        坦々塾会員 中村敏幸

コミンテルン工作と日支間を全面戦争に導け

 ソ連と支那国民党は1919~20年の第1次、第2次カラハン宣言によって急速に接近し、ワシントン条約(九カ国条約)の枠組みから外れたソ連は外蒙を勢力下に置き、コミンテルンは直ちに工作員マーリンを支那に派遣して支那共産党(コミンテルン支那支部)を設立すると共に国共合作に向けた事前工作を始めた。

 続いて1923年(大正12)の「孫文・ヨッフェ共同宣言」により、孫文は「連ソ容共」を唱えて直ちに蒋介石をソ連に派遣し、ソ連資金によって陸軍士官学校たる黄埔軍官学校を広州に、支那人革命家の養成所たる中山大学をモスクワに設立するに至った。コミンテルンから派遣された工作員ボロヂンとガーレンはそれぞれ孫文の政治顧問と軍事顧問になり、国民党を牛耳って第1次国共合作を実現させた。孫文は支那の覚醒と自主独立を切に願って支援を惜しまなかった頭山満、宮崎滔天、犬養毅、梅屋庄吉等の誠意を足蹴にし、完全にソ連の軍門に下ったのである。しかし、孫文没後の共産勢力台頭を恐れた蒋介石による、1927年4月の「上海反共クーデター」によってソ連からの顧問団は追放され国民党内での影響力を失った。ただし、コミンテルンはその直後の5月に開催された中央執行委員会に於いて、予てから国民党に潜入させていた共産党員の残留を指令している。

 1935年になると、コミンテルンは第7回大会に於いて「人民戦線戦術の樹立」と、米英仏と提携して日独伊と戦う方針を打ち立て、支那に対しては「抗日民族統一戦線」によって「日支間を全面戦争に導け」との指令を下した。それに応えて、支那共産党の「八一宣言(抗日救国のために全同胞に告ぐる書)」が出されたが、これは支那共産党による事実上の対日宣戦布告であり、翌年12月の西安事件によって第2次国共合作が成立すると、支那は全面的に抗日戦争へと突入するに至ったのである。今日では、1937年7月の盧溝橋事件とそれに続く第2次上海事変は国民党軍に潜入していた共産勢力の陰謀が発端となって起こったことが明らかになっている。また、同年8月21日に締結された「ソ支不可侵条約」の附則にはソ連による国民党軍への武器並びに資金の供与と「国民党はソ連の同意なくして日本との和平又は講和条約を締結せざること」が明記されている。(6)
 

米英仏ソの急速な接近連携と対支那支援 

 ソ連は1930年(昭和5)にリトヴィノフが外相に就任すると、米英仏等の資本主義諸国との共存に方針を転換した。また、アメリカは1933年にフランクリン・ルーズヴェルトが大統領に就任すると直ちにソ連を国家として承認し、米英仏ソは急速に接近して「民主主義対ファシズムの戦い」との構図が宣揚され、ソ連は国際連盟加盟を果たした。しかし、領土拡大や植民地支配による搾取と人種差別の激しかった米英仏の民主主義は白人民主主義であり、権力闘争と粛清を繰り返した恐怖政治国家ソ連が民主主義国家の一員であるというのは噴飯ものである。これに異論を唱えない史家には基本的な思想批判力が欠如しており、近現代史を語る資格は無い。また、日本がファシズム国家であるとの説は作意をもった言い掛かりであり、それでもなお当時の日本はファシズム国家であったと強弁する論者に対しては「ファシズムの定義を述べ、当時の我が国の政情と比較せよ」と述べれば反論はそれで足りるであろう。むしろ蒋介石国民党こそがファシズムであった。

 1937年に支那事変が起こると、米英仏ソは蒋介石国民党及び支那共産党に対し莫大な資金と軍需物資の支援を行った。日支間には互いに正式な宣戦布告がなされていなかった為に事変と呼ばれて戦争は拡大していったが、互いに宣戦布告がなされていれば、戦時国際法上、交戦相手国への支援は敵対行動であり、日本は事実上背後に有る米英仏ソと戦ったのである。

 蒋介石は東洋の敵たる米英仏ソと戦うことなく、逆に手を握って日本と戦った。詩人高村光太郎は東洋の侵略者と結託する蒋介石の否を詩集「大いなる日に」所収の「沈思せよ蒋先生」という一編によって詠っている。(7)

対日包囲網とアメリカの対英仏ソ支支援

 1929年(昭和4)のウォール街に於ける株価暴落に端を発して世界は大恐慌に陥ったが、アメリカは翌年「スムート・フォーリー法」によって、また、イギリスは1932年に「オタワ会議」によってブロック経済化を図った。更にドルとポンドの切下げを行い、フランスが「フランブロック」によって、また、オランダが「緊急輸入制限法」によって追随することにより日本は次第に世界貿易の枠組みから締め出されていった。  

 1937年になると、ルーズヴェルトによる「日独隔離演説」と翌年の「対日武器禁輸」、翌々年のハル国務長官による「日米航海通商条約の一方的な破棄通告」によって、アメリカは我が国の息の根を止めるべく正面から襲い掛かってきたのである。

 1941年3月、アメリカは「レンド・リース法」を制定し、ルーズヴェルトは「アメリカは民主主義国家の兵器廠である」と述べて総額500億ドル(現在価値にして約7000億ドル)に及ぶ英仏ソ支への軍需物資支援を開始する一方で、日本に対しては在米日本資産の凍結や対日石油全面禁輸を行った。反日史家の多くは日本の仏印進駐が経済封鎖を招いたと主張するが、それは、アメリカ主導によって行われた既定の長期戦略であり、かつ事実上の対日宣戦布告であった。(8)

 1939年にソ連はポーランドに続いてフィンランドに侵攻して国際連盟を追放されたにも拘わらず、翌年8月にはバルト三国を併合し、更に、英ソは1941年8月、「レンド・リース」法に基づく支援物資の輸送ルート(ペルシャ回廊)を確保するため、イランを挟み撃ちにして占領しているのである。英ソのイラン占領に対し、イラン皇帝レザー・シャー(後に退位させられ亡命)はルーズヴェルトに対し「領土不拡大を唱えた大西洋憲章に違反する」と提訴したが、ルーズヴェルトは取り合わず、側近には「大西洋憲章は白人国家のものである」とうそぶいて憚らなかった。

 これに先立ち、イギリスは1940年5月に中立国アイスランドに侵攻し、7月にはアメリカ自身がイギリスの肩代わりをしてアイスランドを占領しており、当時のアメリカ外交が二枚舌であったことは明々白々である。我が国の仏印進駐はフランスとの協定(松岡―アンリ協定)に基づいて行われた、援蒋ルート封鎖を目的とした行動であり、同時期に行われた米英ソの他国侵攻に大義はなく、日本の仏印進駐を非難する資格はない。

共産主義勢力のアメリカ潜入

 近年ヴェノナ文書の解読と公開により、ルーズヴェルト政権内部に多くのコミンテルン工作員が潜入していたことや、ニューディーラーの大半が共産主義者であったことが明らかになっているが、知識人の共産主義化によって体制内部からの革命を目指したフランクフルト学派の工作も見逃せない。(9)

 同派はドイツのフランクフルト大学の「社会研究所」を起点としたが、ナチスの政権獲得により、一斉にアメリカに亡命して拠点をコロンビア大学に移し、開戦後間もない1942年6月に設立されたOSS(戦略情報局、CIAの前身)に大挙して入り込んだ。そこで彼等は、日本占領計画である「日本計画」を策定し、やがてこの計画はGHQの民生局に踏襲されていった。

 このように、ルーズヴェルト政権はルーズヴェルト自身が社会主義者であったと言われているが、各方面から共産主義勢力に侵食されていたのであり、この点を直視しなければ、ルーズヴェルトのなりふり構わぬソ連支援は理解出来ない。

アメリカは何故日本を標的にしたのか

 欧米列強にとって、日本の存在と日支の協調接近は、彼等の東洋植民地支配を根底から脅かすものであった。特に、アメリカの太平洋での覇権構築にとって、彼等と異なる価値観と民族文化を有し、キリスト教化を受け付けない独立主権国家日本の存在は最大の障害であった。
 
 日米の衝突は、通説では、支那大陸の権益をめぐって起こったと考えられているが、私見によれは、それはアメリカが日本に対する攻撃の口実を得るための手段に過ぎなかったのであり、標的は初めから日本であったと考える。さもなければ、大戦が終結した途端に、手の平を返すようにアメリカが蒋介石に対しあれ程冷淡になり、何故あのようにやすやすと支那大陸を、そして、朝鮮半島北部までをも共産勢力に明け渡してしまったのか理解に苦しむものであり、かかる考えに傾かざるを得ないのである。しかし、この問題については、この視点による専門史家の今後の研究解明に期待したい。

註2
(6)第7回大会にはゾルゲも出席した。また、盧溝橋事件直後に支那共産党に対し「あくまで局地戦を避け日支を全面的戦争に導け」、「右の目的を貫徹するために、あらゆる手段を利用すべく、局地解決や日本への譲歩に依って、支那の解放運動を裏切ろうとする要人を抹殺してもよい」他の指令を出した。              
コミンテルンの支那工作については興亜院政務部資料「コミンテルン並びに蘇連邦の対支政策に関する基本資料・昭和14年10月(国立国会図書館蔵)」に詳しく書かれている。
(7)次の下りがある。「先生は抗日一本槍に民心を導いた。/抗日思想のある限り、東亜に平和は来ない。/先生は東  亜の平和と共栄を好まないか。/今でも彼等異人種の手足となってゐる気か。/わたくしは先生の真意が知りたい」。
(8)東京裁判のローガン弁護人は最終弁論に於いて、「パリ不戦条約」の草案者の一人ケロッグ国務長官による1928年12月の上院外交委員会に於ける発言、「経済封鎖は断然戦争行為である」を引いて反論しており、当時の米国の共通認識によれば「経済封鎖=宣戦布告」であった。
(9)西欧に於いて労働者階級煽動による共産主義革命が行き詰まりを見せる中で、1923年、ルカーチを中心とする共産主義者が起こした学派であり、知識人の共産主義化により体制内部に入り、体制否定の理論(宗教、家族制度、父権、権威、性的節度、伝統、国家、愛国心、畏敬心等、人間の徳目と価値の破壊)による体制の内部崩壊を目指した。1960年~70年代の新左翼全共闘学生は同学派の一人マルクーゼを理論的柱としたが、その後、彼らの多くは政・官・学・財の体制内部に入り込んで行った。最近のジェンダ・フリーと過激な性教育、夫婦別姓、外国人参政権付与、人権侵害救済案等は彼らの残党と公職追放後各界に送り込まれた左翼売国勢力の影響下に育った者の工作である。
つづく
文:中村敏幸