『決定版 国民の歴史』の加筆された新稿から(二)

 出版後数年にもわたり歴史学者たちから反論や批判が相次いで、わざわざそのために誹謗本を書く人までが何人も現れたのには驚きましたが、それは『国民の歴史』にとって名誉なことであり、どうぞもっと激しくやってくださいという気持ちでした。私を当時落着かなくさせたのはむしろこの本の評価でした。心外に思ったことが二つほどあります。広告文面などに日本人の誇りを確立させるために書かれた本だ、というような文言が飛び交っていたことでした。

 日本人に誇りを与えるとか自虐史観に打ち克つとか、そんな言葉が当時流行っていて、一緒にされるのは迷惑だなと思いました。私でなくても誰であろうと、簡単な心理的動機で大きな本を書くことはできません。

 もうひとつ心外だったのは、戦後の歴史観に挑戦している本だというような言葉遣いです。これは広くこの本に与えられた通説でした。しかし違うのです。私の目的はもっと大きいのに、なぜ読み取れないのか、と不満に思いました。

 上巻付論「自画像を描けない日本人」に書いた通り、「日本から見た世界史のなかに置かれた日本史」が私の構想であり、私がそれを実現したと言っているつもりはなく、そのための試論、基礎的理念の提供の書であることが本書の狙いでした。

 戦後の歴史観の否定というのは大きな目的のうちの一部にほかなりません。自分にとって不本意な言葉が飛び交っていることに落着かない思いを抱くのはどの著者でも同じでしょう。

下巻付論「『国民の歴史』という本の歴史」より

 

 地球上のありとあらゆる民族の興亡の歴史を念頭に置いた場合、この列島の住人の歴史は比較相対的にみて、一言語・一民族・一国家の特性を示していると言ってもさほど間違いではないのではないかと私は考えます。七世紀半ばという日本の国家的自覚は、ヨーロッパの各国より七百年ほど古く、ヨーロッパの「契約国家」とは異なり、いわば「自然発生国家」でした。長い未完成な国家以前の国家の経過を前提としています。もちろん厳密なことをいえば網野善彦氏が言う通り「列島全域をおおった国家」ではなかったでしょうが、だから「日本」はまるきり存在しなかったと目鯨を立てるのは、比較相対的にみて、大雑把にいってそう言えるという物事を判断する際の「常識」に反します。

 加えて、網野氏は『「日本」とは何か』の第三章で、「日本」という国号は中国から見て東の方向を指す意味であり、中国という「大帝国を強く意識しつつ、自らを小帝国として対抗しようとしたヤマトの支配者の姿勢をよくうかがうことができる」といい、「唐帝国にとらわれた国号であり、真の意味で自らの足で立った自立とはいい難い」と述べ、この国号を大嫌いと言った江戸の国家神道家の例を挙げて、「日本」という国号に思う存分に罵言誹謗を浴びせた気になっています。

 しかし何というわからず屋の無知蒙昧のご仁でしょう。古代のわが国が大陸の大文明にとらわれた時代から国の歩みを始めたことは自明であって、それは不幸でも敗北でもありません。大文明から少しずつ独立に向かった歴史の歩みこそが貴重であり、創造的です。独立への心をやれ空威張りだとか、やれ対抗心にとらわれているとかいって嘲ける網野氏のような人間の存在こそが不幸であり、敗北なのです。

 そもそも「真の意味で自らの足で立った自立」を達成した国など何処にもありません。中国の各王朝も治乱興亡の歴史の波間にあり、近代西洋の各国もまた同様です。しかし本書の読者にはもうこれ以上申し上げる必要はないでしょう。「日本」にとらわれているのはむしろ網野氏や同類の日本史学者たちであって、『国民の歴史』はこのうえもなく広大な視野で、文明の興亡を展望し、わが国の歩みをその中に位置づけるべきとした新しい歴史記述のための試論を心掛けたのでした。日本史学者の視野の狭さにはほとほと手を焼きました。通説となっている極西(ヨーロッパ)と極東(日本)の相似性と同時勃興の歴史に関する基礎知識さえ彼らは持っていません。世界史のことは何も知らないのです。言語学や哲学や神話学など他の学問分野のことも何も知らないのが日本史の学者たちです。

下巻付論「『国民の歴史』という本の歴史」より

 さて、『国民の歴史』の方法論の一つが「比較」にあることは前に述べましたが、もう一つの特色として私が多少の自負をもっているのはどのテーマも可能な限り「根源」を目指していることです。縄文土器文明、日本語の起源、中国と日本の王権、中国の文書主義、古代専制国家、儒家と法家、世界史の概念、そして西欧の地球占有。最後のテーマは普通スペインとポルトガルを起源としますが、本書は十字軍、それも北の十字軍を示唆しています。北の十字軍からニュルンベルク裁判まで一直線につながるものがあると判断しています。

 縄文土器文明については、従来の考古学と異なり、地下層の花粉探査をはじめ数々の大規模科学調査に基づく安田喜憲氏の研究成果を知ったのは幸運でした。氏はその後も東アジア全域に調査を広げ、縄文文明の意味を確認しつづけています。

 日本語の起源問題は現代で最も信頼度の高い松本克己氏の論文に依拠しました。氏は世界言語を視野に収めた言語類型地理論の手法で、袋小路に陥った日本語系統論に、壮大で緻密な論考を展開して活路を見出してこられました。私が参考にしたのはまだ雑誌論文でしたが、平成十九年に氏の『世界言語のなかの日本語』(三省堂)が刊行され、新地平を拓きました。本書は安田喜憲氏の縄文と松本克己氏の日本語論が柱をなしたと言っても過言ではありません。

下巻付論「『国民の歴史』という本の歴史」より

 最後の一文は、私がなぜ神武東征から書き始めなかったかの根拠を示しています。しかし、神武東征を含む神話と歴史をめぐるテーマの理論分析が本書の上巻で徹底的に扱われたことは周知に属します。第6章の「神話と歴史」、第7章「魏志倭人伝は歴史資料に値しない」、第8章「王権の根拠―日本の天皇と中国の皇帝」の三つの章にわたる展開をご覧下さい。

 気になっていた第8章の文章の不分明や混迷を今度かなり修正し、整理しました。よみ易くなったはずです。

『決定版 国民の歴史』の加筆された新稿から(一)

 『決定版 国民の歴史』上巻には「まえがき 歴史とは何か」と付論「自画像を描けない日本人」、下巻には付論「『国民の歴史』という本の歴史」と「参考文献一覧」が新しい内容として追加加筆されました。全部で150枚を越える分量です。

 版元の許可を得たので、この中から面白そうな個所、大切な指摘と思われる個所を若干抜き出して二回に分けて掲示してみます。

 私たちは高い山を遠くに望みながら歩けば、角度により、近景のいかんにより、季節により、時刻により山が異なった印象を与えることを経験している。歴史はわれわれが歩くことによって異なって見える高い山の光景に似ている。

 日本史に起こった客観的な諸事実、その年代記的な諸事実は紛れもなく動かずに存在するものである。それが高い山であるとしたら、それが歴史なのではなく、歩くことで現在の私たちの目に新しい光景として映じている山の映像こそがまさに歴史である。

 本書には、葛飾北斎の富嶽三十六景の中から三枚の絵を掲示している。思い切った譬(たと)えを申し上げるなら、富士山は動かない存在、歴史上の客観的な事実である。しかしそれを知ることは誰にもできない。遠望できるだけである。北斎は現在の自分の置かれたポジションの条件を幾重にも組み替えることで、すなわち自分を相対化することで、富士の姿の絶対化を図ろうとした。それは数限りない冒険であり、知的実験であった。

 セザンヌも同様に何の変哲もない、ただの岩塊から成るサント・ヴィクトワール山を三十六枚も描いた。季節により、時刻により、山は絶え間なく変容して見えた。しかし山の形姿そのものが大きく動くわけではない。同一の山をくりかえし描くなどということは西洋美術の伝統になく、セザンヌは北斎からこの実験のヒントを得たに相違ないが、二人に共通するきわどい、執拗で大胆な試み、届き得ない不動の山に、自分をばらばらに解体させる視点の多様化で接近しようとした実験精神こそ、ほかでもない、歴史家が歴史に立ち向かう際のあるべき精神に相似した理想の比喩なのではないだろうか。

 歴史という定まった事実世界を把握することは誰にもできない。歴史に事実はない。事実に対する認識を認識することが歴史である。

 それは私たちが絶え間なく流動する現在の生をいったん遮断し、瞬間の決定を過去に投影する情熱の所産である。相対性の中での絶対の結晶化である。

 今私たちに必要なのは、日本文明を歴史の時間軸と世界の空間軸の上にのせ、全体を俯瞰し、多用な比較を介して新しく位置づけるための認識の決断である。

「まえがき 歴史とは何か」より  

 荻生徂徠という人物がいて、徹底した中国主義者でありますが、古文字に遡っていく徂徠と宣長の精神構造がよく似ているのです。宣長は徹底した日本主義者です。そして、徂徠が逆転して宣長になったとも言える。これは中国文化というものが入ってきたときの古代日本に起こった文字獲得の原初のドラマが江戸を舞台として再演されたことを意味するように思います。私が5「日本語確立への苦闘」の章で書いたあの古代史の戦い、古代日本人が中国語を学んで、さいごに中国語の文字だけを利用して日本語を確立したというドラマが江戸時代にもう一度繰り返されたのです。それがある意味で徂徠から宣長への逆転のドラマではなかったか。いわば言語文化ルネサンスです。

 私の『江戸のダイナミズム――古代と近代の架け橋』の中心モチーフがまさにこれでした。古代の言語の再獲得は、民族の神の再認識のドラマでもあります。江戸時代の儒学というのは、学問や教養としては入ってきたけれども、儒教そのものは日本人の生活の中に入ってこなかった。朝鮮は、徹底した儒教の国です。しかし日本には儒教が生活基盤にまで入ってこないで、国学誕生の言語文化ルネサンスを引き起こし、神の国復活に役立ったことが最良の貢献であったと私は思っています。

 儒教が本当に入ってきたら、必ず科挙が入ってくるはずです。科挙が入ってきて、中国や朝鮮のような文民官僚国家が成立しているはずです。武士階級というものは成立しなかったはずです。そういうことを考えますと、江戸時代の儒学ブームというのは、民族の精神の復活劇として吟味し直す必要があると私は思っています。合理主義としての思考訓練と道徳の教本としての儒学の役割はたしかにありました。合理主義はやがて西洋のそれに取って代わられ、儒教の道徳は現代社会に生きていません。われわれは今どんどん中国文明から離れています。江戸時代の儒学の習得が生活に根ざして本物なら、こんなにかんたんに消え去ることはないでしょう。結局儒学は日本人の信仰に寄与するというまったく別の役割を補佐したのだと思います。

 大陸に対する対応は、べったりするか、距離を取るかしか方法がありませんでした。外から入って来るもう一つの足場がなかったわけですから、日本に西洋が入ってきたときには、一転して中国に対して距離を持つことができるようになったのです。

 逆に言うと、この列島には何が訪れても自分の内部が壊れることはないという例の安心感があります。一見して原理のない、規範を持たない国ですが、すべてを包括し同化し、貯蔵する巨大なタンクのような文化は現代でもなお存続しています。それが結果として、独自文化としての自己主張を、もちろん言えば言えるものがあるのに、それをあえて言わないことをもって強さとする国になっていると言っていいかもしれません。そういう構造を生み出して今日に至っているのではないかという気がします。

上巻付論「自画像を描けない日本人」より

『決定版 国民の歴史』の刊行

 10月10日にようやく『決定版 国民の歴史』(上・下)が刊行されました。文春文庫の棚は全国のほとんどすべての書店にありますので、そこにご覧のような表紙絵の文庫本が二冊横積みに置いてあるはずです。もの凄い勢いで売れた今から10年前のフィーバーよもう一度甦れ、と期待していますが、さてどうなることやら分りません。

『決定版 国民の歴史』上
ketteikokumin1.jpg

『決定版 国民の歴史』下ketteikokumin2.jpg

 過去、当日録にこの本の紹介文章を記しました。もう一度みて下さい。

 ここには目次のみを再度掲示しておきます。新たに加筆した赤文字の個所にご注目下さい。何人かの友人がこの追加部分を早くも読んで、面白いと言ってくれました。

上巻目次

 まえがき 歴史とは何か
1・・・・一文明圏としての日本列島
2・・・・時代区分について
3・・・・世界最古の縄文土器文明
4・・・・稲作文化を担ったのは弥生人ではない
5・・・・日本語確立への苦闘
6・・・・神話と歴史
7・・・・魏志倭人伝は歴史資料に値しない
8・・・・王権の根拠―日本の天皇と中国の皇帝
9・・・・漢の時代におこっていた明治維新
10・・・奈良の都は長安に似ていなかった
11・・・平安京の落日と中世ヨーロッパ
12・・・中国から離れるタイミングのよさ―遣唐使の廃止
13・・・縄文火焔土器、運慶、葛飾北斎
14・・・「世界史」はモンゴル帝国から始まった

 上巻付論 自画像を描けない日本人
――「本来的自己」の回復のために――

下巻目次

15・・・西欧の野望・地球分割計画
16・・・秀吉はなぜ朝鮮に出兵したのか
17・・・GODを「神」と訳した間違い
18・・・鎖国は本当にあったのか
19・・・優越していた東アジアとアヘン戦争
20・・・トルデシリャス条約、万国公法、国際連盟、ニュルンベルク裁判
21・・・西洋の革命より革命的であった明治維新
22・・・教育立国の背景
23・・・朝鮮はなぜ眠りつづけたのか
24・・・アメリカが先に日本を仮想敵国にした(その一)
25・・・アメリカが先に日本を仮想敵国にした(その二)
26・・・日本の戦争の孤独さ
27・・・終戦の日
28・・・日本が敗れたのは「戦後の戦争」である
29・・・大正教養主義と戦後進歩主義
30・・・冷戦の推移におどらされた自民党政治
31・・・現代日本における学問の危機
32・・・私はいま日韓問題をどう考えているか
33・・・ホロコーストと戦争犯罪
34・・・人は自由に耐えられるか
原著あとがき
参考文献一覧
下巻付論 『国民の歴史』という本の歴史

 今回「決定版」と名づけたのには幾つかの理由があります。余りにも短い時間に1700枚もの大著を書き上げたので、文章に粗い所や乱れがあり、若干の誤値もありました。それらの修正はもとより、古代史その他に研究上補説の必要な個所も生じ、かなりの書き加えも起こりました。徹底的に見直して、後顧の憂いをなくしたいと思ったのは、私の死後何十年かたってもう一回改版される可能性があるものと信じているからです。テキストの完成はそのためにどうしても必要です。

 テキストを正確にするには私の地の文の精査に心を尽くすのは当然ですが、引用文にも書き間違いや写し間違いがあってはなりません。今度文芸春秋の校閲部は数百点にのぼる多種多様な引用書の原書の引用個所にすべて当って、過ちを正し、正確を期することになりました。これには私も驚きました。約400点はある引用書の原本の8割はわが家の書庫にあります。しかし、10年たっているのでどこかの図書館を利用したり人から借りたりして、いま手元にない本も少くありません。

 日本の出版文化はなお校閲部を有する大手出版社に関する限りじつに頼りになるものだと思いました。新潮社や中央公論社で本を出したときにもほゞ同じ経験をしました。文藝春秋の編集担当者は校閲部を手助けするために、普通に手に入らない本や文献――私の自宅にはいま存在しない――をさがして図書館や他の出版社を走り回ってくれました。引用文の正誤を正すためにたった一冊も見逃すまいとしてです。それは血のにじむ努力で、しかも誰も気がつかない目立たぬ努力です。

 文藝春秋と扶桑社とでは出版に対する心がけがまるで違います。扶桑社には校閲部がありません。だから誤植の多い本を平気で出します。その他でも、校閲部のない出版社はざらにあります。「決定版」はやはり文芸春秋レベルでないと出版できないことを確認しました。

 もとより私の『江戸のダイナミズム』のときの同社の校閲班の努力はこの比ではありませんでした。今思うと、不景気の時代によくあんな規模の本を出してもらえたものと思います。

 『国民の歴史』に引用した本の8割は私の書庫に所在しますが、10年経って、どこの位置にあるか書庫は広いし混乱しているのですでに分らなくなっていました。かりに本を見つけても、引用個所がどのページだったか忘れていて、これまた捜すのに一苦労です。一日、担当編集者と共同で作業し、本の必要個所をみつけてコピーし、コピーを校閲部に運んでもらう準備をしましたが、一日では足りませんでした。

 そんなわけで書庫をかき回す作業が何日もつづきました。次第に10年前の熱闘の記憶が甦りました。忘れかけていた内容、読みかけのテーマ、追求途中で放棄した課題――古代から現代に及ぶ日本史・中国史・西洋史のさまざまな問題が心の中に復活し、そうだ、もう一度しっかり勉強し直そうという気にもなってきました。

 『決定版 国民の歴史』の下巻に、「参考文献一覧」が小さい字で12ページにわたりびっしり、各章ごとに分けて提示されています。これはこの新版の新しい特徴です。私はこの文献一覧を作成するために大学ノートを用意し、混乱した書庫を整理してから各種各様の本を読んだり、閉じたり、思案したりしつつ、新しい分類表をつくりました。これは楽しい作業でした。また次への新しい仕事のプランが湧き出てくる心躍る充実した時間でもありました。

 いかに世界には私の思い及ばない知らないことが多いか。この歳までいかに学ぼうとして学び得ないできたか。文章を書くよりも、もっとたくさん読まなければいけない。書くことには時間を要し、つい学ぶことが疎かになる。いつもその反省が私を苦しめます。あまりたくさん書く仕事をしない学者は、私よりもよく勉強し、多くをよく知っている。その事実もたしかにあって、私を焦らせてきました。

 今年の6月と7月は書庫をかき回して必死でした。心に惑いが生じ、不安が芽生え、勇気も湧いてきました。「参考文献一覧」はとても思いの多い仕事となりました。読者の利便に供しただけでなく、読者の興味をも十分にそそる書名と著者名の開示になっているように思えます。ぜひ注目して読んでいたゞきたい。

 しかも普通の参考文献表と違って、ところどころに私の自由なコメントが入っていて、型破りであり、担当編集者をこの点でも面白がらせました。

 上下巻についている各付論とまえがきは併せて150枚はあり、当然語るべきことはたくさんありますが、これは読んで頂くしかありません。今日は普通には目立たない「参考文献一覧」について、あえて一言しました。

SAPIO9/30号より

sapio.jpg

以下はSAPIO9/30号からの抜粋です。

私の理想だった「深窓の令嬢」が目の前に現れた

東大の学生たちがみなボーッとしてしまった ミッチーブームとは?

「世紀の御成婚」から50年――民間出身の初の皇太子妃となった美智子妃への熱狂と現象は、いまも語り草となっている。そのミッチーブームを、同時代人はどう見ていたのか。舌鋒鋭い評論で知られる西尾幹二氏が、当時を語る。
              
 ※

 私が「正田美智子」という名前を知ったのは、実に半世紀ほど前、東京大学文学部独文科を卒業し、独文専攻の大学院修士1年に在籍していたころであった。

 昭和33年11月27日、皇太子明仁親王とのご婚約記者会見が行なわれた。以後、新聞はもちろんのこと、創刊ラッシュに沸いていた週刊誌や、グラフ誌、あるいはモノクロのテレビなどで、皇后陛下の「画像」が世に溢れかえることになる。

 それを見て、私は正直大変に驚いた。「本当にこんな人がいたんだ」と。

 それはまさに「深窓の令嬢」を絵に描いたようなお姿であった。ちなみに、私は昭和10年生まれで当時23歳。美智子妃は昭和9年、明仁親王は昭和8年のお生まれだから、まさに同世代の出来事であった。

 現代と違って男女の付き合いは簡単ではなかったし、文学青年というのは幻想肥大で、頭の中だけで「ノーブルな女性」に憧れる傾向がある。当時の東大でも多少は女子大との交流もあったものだが、出会った女性を仲間内で品定めをして騒ぐといった程度で、その意味では私もこの時代の平均的な若くて普通の男児であった。とはいえ、現実には、正真正銘の「深窓の令嬢」などなかなか存在せず、結婚相手として頭の中で想像するだけで、憧れは憧れに留まっていた。

 そんなとき、若かりし美智子妃を見たのである。私は東京出身であるが、まず聖心女子大学なるものが存在することを知らなかった。日本はまだ貧しく、戦後の混乱の只中にあり、食糧不足はつづいていた。何より、軽井沢の別荘や「テニス」など、自分の人生に関わることなどと想像したことすらなかった。

 この時代、大半の学生は貧しいのが当たり前であった。昼飯は生協で買ったコッペパンと牛乳があれば上等という「コッペパンの青春」なのだ。

 ゆえに皇太子殿下と美智子妃殿下のラブロマンスは、当時の若者たちにとって夢物語のようであり、美智子妃殿下が記者会見で語った「ご誠実でご立派な」という発言は流行語にもなった。

 この報道の後、私だけでなく、いつも一緒にいた生意気な文学青年たちも美智子妃のことを話題にしては、みながみな、ボーッとしていたことをよく覚えている。大学院には年上の同僚や結婚していた者もいたが、みな、同じような憧れの目で見ていた。

 私はといえば、美智子妃殿下とご結婚なされる明仁親王に「負けた」と思いつつ「皇室なら仕方ないな」と思ったものである。

 昭和33年末からご成婚のあった昭和34年は、60年安保を控え、左翼学生が幅を利かし、学内は殺伐とした空気に満ちていた。共産党は当時、「天皇制打倒」を謳っていたはずだが、考えてみれば、学内で「ご成婚」に反対する動きは不思議とまったくなかった。

 左翼学生も同じ気持ちだったのだろうか。

sapio2.jpg

ブームの背景にあった美智子妃の「覚悟」

 ともあれ、婚約記者会見から以後、世に言う「ミッチー・ブーム」が巻き起こった。次々と創刊された週刊誌により、やれファッションがどうだ、どこで何をしたといった情報が巷間に氾濫し、一般家庭ではご成婚パレードを見たさにテレビが売れに売れ、200万台を突破した。そのご成婚のパレード当日、皇居から渋谷までの8.18kmの沿道に53万人が集ったというのだが、私はさすがに見に行っていない。

 こうした熱狂は、天皇と国民の距離が最も近かった良き時代だったことも要因の一つであろう。昭和天皇に気さくな「天チャン」という愛称が奉られ、みんながなれなれしく天皇について語り、批判も含めた皇室への言論は今よりはるかに自由で、のびのびしていた。そうした空気が一変するのはご成婚の2年後(昭和36年)に起こった「*風流夢譚」事件以後のことである。

 だが、あれほど国民が熱狂したのは、メディアのいうところの「昭和のシンデレラ」的な甘い夢物語とは違う。ブームの最中、皇后陛下の楚々とした態度のなかにお見せになられる、大変な緊張というか、「覚悟」のようなものを、どこかで国民が感じていたからであろう。

 ちょうど60年代は、「革命」が現実味を帯びていた時代だった。私のような保守学生は、左翼学生から「お前をいつか人民裁判で死刑にしてやるぞ」などといわれていたものだ。革命が起きれば皇室がどうなるかは天皇陛下も十分ご理解していたはずである。婚約前の昭和33年7月、イラク国王ファイサル二世が軍部のクーデターと民衆蜂起により暗殺されたその日、学友の橋本明氏に「きっと、これが僕の運命だね」とこぼされたという。陛下自身、革命が起こりうるかもしれない時代の空気を察していたであろうし、その皇室に嫁ぐことがどういう意味を持つか、この時代を生きてきた皇后陛下も十分にご承知なされていたと思う。

 もちろん、それも一端であったとして、それだけが皇后陛下の「ご覚悟」のすべてであったということはあるまい。

 もっと別な理由があった。それを私が理解する契機になったのが、ご母堂の冨美(のちに富美子に改名)夫人の記者会見であった。

正田家と皇后が理解していた「カミ」という概念

 ミッチー・ブームの最中、「深窓の令嬢」としての皇后陛下の優雅さに惹かれる一方で、冨美夫人の皇后陛下とはまた別な明治の貴婦人のごとく凛とした美しさに感嘆した記憶がある。

 それにもまして興味深かったのは、冨美夫人が記者会見で「娘には天皇は神であるとは教えてこなかった」といった趣旨の発言をされたことだ。

 当時の私は、それを言葉通りに受け取った。戦前の時代背景を考えれば、随分としっかりした考えを持った家族なのだな、という程度の認識である。

 しかし、その後、正田家は、この発言とは正反対の行動を取り続けることになる。ご夫君正田英三郎氏は日清製粉の社長であったが、ご成婚後、会社の代表を退かれ、極力、表舞台には出ないようにしてきた。皇室の外戚に当る会社で何かあれば迷惑がかかるというのが理由であったという。また、よほどのことがなければ皇后陛下の里帰りさえ許さず、常に遠くから見守るだけであった。英三郎氏が逝去した時、皇后陛下は将来天皇になられる方であるという理由で、わが子浩宮殿下の弔問をお避けになったのは語り草である。正田家は、娘を皇室に嫁がせた瞬間、一切の私的な交流を絶ってきたのである。

 ここにあるのは、平等であるとか人権であるとか民主主義であるといった近代の理念がまったく立ち入ることのできない「界域」としての「皇室」である。天皇家に嫁することは、同時に俗世間との境を超越することを意味していることを皇后陛下はご理解なされていた。

 巨樹にしめ縄を張って、それをカミとして祈るように、日本人は、自然の中に我々とつながる命をみて、そこにカミが宿るという宗教観念を持っている。天皇が「カミ」であるとは、そんな日本人の信仰世界、神道の祭祀役という意味においてのことであり、西洋的な絶対神とは明らかに違うご存在としてである。それゆえ天皇は、あらゆる「俗世間」から切り離される。その境を越えて「カミ」になる覚悟、いや、畏怖の念といっていいお気持ちを皇后陛下は持たれていた。それを肌で感じたからこそ私を含めて国民が、「ご成婚」に熱狂したのだと、今では思う次第なのである。

 私は、昭和50年ごろ、中軽井沢の駅のホームで、当時は皇太子であった天皇ご一家のお振舞いをそば近くで目撃する幸運に恵まれたことがあった。

 まだ新幹線ができる前で、同じ車輌に偶然、乗り合わせたのだ。天皇皇后両陛下に、秋篠宮殿下、紀宮内親王の4人が歩いておられた(皇太子殿下は留学中だったのであろう)。ちょうど、そのところに私たち家族も車輌を降りて、一緒に駅のホームを歩くことになったのだ。格別の警備も警護も見当たらず、一家は自由に一般市民と立ち交じっておられた。私は天皇陛下の斜め横2mの位置で後ろをついて行った。

 階段の下には、地元の女子高生が数名、居合わせて黄色い声をあげて固まって座っていると、陛下は彼女たちの前で、身を屈めて、一人一人に握手をなさった。少し後ろにいらっしゃった皇后陛下は、やはり少し腰を屈め、優しい、そして静かな笑顔を彼女たちに投げかけられていた。

 実に自然なお姿と仕草で、私はきっと天皇ご一家は日ごろ、国民とこんな風に接しておられるのだな、と想像することができたし、事実、今現在でも全国いたるところで似たような光景が繰り返されていることであろう。

 だからこそ私は、こう思うのだ。

 ここに至るまで、皇后陛下が、どれだけのご苦労を、強い意志で乗り越えられてきたのかということを。戦後間もないあの時代に、ごく普通の女性が、皇室に入り「カミ」となるのだ。並大抵のご苦労ではなかったことであろう。皇后陛下は、一生をかけてその答えを出そうと、すべてを捧げてこられてきたに違いない、と。

 若かりし頃に憧れた「深窓の令嬢」の面影ではなく、また、ご母堂の冨美夫人のような貴婦人のような美しさでもなく、そこに私が見たのは、国民の中心として平成という時代を天皇陛下と共に支え「国家の魂」となられたご存在だった。

 それを昔の人は「神」と呼んだのである。

*「中央公論」1960年12月号に掲載された作家・深沢七郎氏の小説「風流無譚」の中で、天皇ご一家が革命家らに襲われる描写が不敬であるとして右翼が抗議。61年2月には右翼団体に所属する少年が中央公論社社長宅に押しかけ、社長夫人が重傷を負い、家政婦が射殺された。

シアター・テレビジョンの歴史講座

 以前から私が「日本のダイナミズム」というやゝ大袈裟な題でテレビの歴史講座を開いていることは、若干知られているだろうが、スカパーのシアター・テレビジョンの配信なので、容易に近づけない人もいたに違いない。

 9月末から(株)シアター・テレビジョンのご好意で、スカパーの手続きなしでインターネットにおいて無料公開されることになった(ただし、WEB会員登録をする必要有り)。この「西尾幹二のインターネット日録」(サイドバー)からも直接クリックして、自由に開いて見ることができる。(株)シアター・テレビジョンの寛大な措置に感謝したい。

 私の放送はすでに5回分(1回が各100分)、録画されている。第5回の10月分はまだこれから放送になるが、最初の4回は今日からでも見ることができる。

 1回が小さく20分づつ5題目に分かれているのも、テレビ放送のつごうによる。20分づつ同じ放送を何度も繰り返して流すのがCSテレビの通例だそうである。したがって、20分づつ題目の変わる小話が5つで一つのくゝりになり、それがすでに5くくり分できていることになる。

 ご覧になると20分で切れて、何度も私が開始の口上を述べるのは多分見ていてわずらわしいかもしれないが、テレビの性格上そういうことなので我慢していたゞきたい。どうかよろしく。

*************************

西尾幹二監修「日本のダイナミズム」(各20分)
ウェブ動画視聴方法

■配信サイト
シアター・テレビジョン ホームページ
http://www.theatertv.co.jp/movie/
※シアター・テレビジョンホームページのトップページ右端にございます
番組検索で「西尾幹二」と検索すると、西尾先生の全番組が出てきます。

●シリーズ:現代史を考える
#1 マルクス主義的歴史観の残骸
#2 すり替わった善玉・悪玉説
#3 半藤一利『昭和史』の単純構造
#4 アメリカはなぜ日本と戦ったのか
#5 日本は「侵略」していない

●シリーズ:現代史を考える/再び問う「アメリカはなぜ日本と戦争したのか」
#6 いい子ぶりっ子のアメリカの謎
#7 ヨーロッパの打算的合理性、アメリカの怪物的非合理性
#8 中国はそもそも国家ではなかった
#9 日本を徒に不幸にした「中国の保護者」アメリカ
#10 ソ連と未来の夢を共にできると信じたルーズベルト政権

●シリーズ:現代史を考える/日米戦争の宗教的背景
#11 アメリカの突然変異
#12 アメリカの「闇の宗教」
#13 西部開拓の正当化とソ連との共同謀議
#14 第一次大戦直後に第二次大戦の裁きのレールは敷かれていた
#15 歴史の肯定

●シリーズ:現代史を考える/二つの「神の国」の衝突
#16 神のもとにある国・アメリカ
#17 じつは日本も「神の国」
#18 政教分離の真相
#19 「国体」論の成立と展開
#20 世界史だった日本史

●シリーズ:現代史を考える/か弱き日本の神の怒り
#21 「日本国改正憲法」前文私案
#22 仏教と儒教にからめ取られる神道
#23 仏像となった天照大御神
#24 皇室への恐怖と原爆投下
#25 神聖化された「膨張するアメリカ」

シアター・テレビジョンのご案内

シアター・テレビジョンは「世界は舞台、人生すべてシアターです」をキーワードにニュース・政治から歴史・文化・教養・アートまで今のTVに飽き足らない人の欲求に応えるコンテンツを提供しております。
シアター・テレビジョンでしか観られない監修・出演陣によるメディアのタブーを破る直言が満載!

【番組例】
■中曽根康弘『定点観測』 毎週月曜21:00~ほか
中曽根康弘元総理が現在の日本を鋭く斬る!/聞き手:松本健一
■笹川陽平『地球を歩く~世界のコンフィデンシャル~』 毎週木曜7:00/15:00~ほか
行動範囲は地球!あなたの知らない現実を暴く!
■堤 堯『時代を創る』 毎週月曜7:00/15:00~ほか
日本再生の糸口を求めて全国行脚!
■『江戸千家~家元の所作に学ぶ~』 毎週月水金曜11:00/23:00~ほか
家元直伝!自宅にいながらにしてお茶のお稽古が学べます
■宮脇淳子『世界史はモンゴル帝国から始まった』 毎週土曜7:00~ほか
■このほか、オペラ(ロイヤル・オペラなど)・バレエ(パリオペラ座、ロイヤル・バレエほか)・ドキュメンタリー(新富座こども歌舞伎、ミュージカル「葉っぱのフレディ」)なども放送中!

【視聴方法】
【1】パソコンで見る
シアター・テレビジョン ホームページ(http://www.theatertv.co.jp/movie/)から【WEB会員】にご登録ください。動画は無料公開中です!
番組に関するお問合せ:03-3552-6665(シアター・テレビジョン/平日10時~18時)

【2】スカパー!で見る
シアター・テレビジョンはチャンネル「262」で放送しております。
スカパー!加入のお問合せ:0570-039-888(スカパー!カスタマーセンター/年中無休10時~20時)

■お問合せ
シアター・テレビジョン03-3552-6665
(平日10時~18時)

お知らせ

お知らせ

日本文化チャンネル桜出演

タイトル:「闘論!倒論!討論!2009 日本よ、今…」

テーマ:「路の会」スペシャル「この国の行方」(仮)
 自民党大敗、民主党政権発足といった大きな変革を迎えた日本のあり様と今後について、議論していただきます。

放送予定日:平成21年9月25日(金曜日)
        一部 20:00~21:28
        二部 23:00~23:30
        日本文化チャンネル桜(スカパー!217Ch)
        インターネット放送So‐TV
パネリスト:(50音順敬称略)
       北村良和 (愛知教育大名誉教授)
       新保祐司 (文芸評論家・都留文科大学教授)
       高山正之 (ジャーナリスト)       
       西尾幹二(評論家)
       藤岡信勝 (拓殖大学教授・「つくる会」会長)
       山口洋一 (元ミャンマー大使)
       
司 会:  水島 総(日本文化チャンネル桜 代表)

坦々塾(第十五回)報告(三)

ゲストエッセイ 
浅野 正美 
坦々塾会員

道元禅師『正法眼藏』と私        水島 総

「道元との出会いで人生を生きられた」。水島氏は今回の講義をこういって語り始めた。

 氏の多方面にわたる行動は、改めて紹介するまでもない。一日本人として、祖国の名誉回復を願い、歪んだ歴史観に果敢に挑み、心ある多くの国民を共に行動に駆り立てて来た。そんな、情念的な行動家ともいえる水島氏であればこそ、人間としての深い苦悩があったのであろう。学生時代はドイツ文学から学び、トーマス・マンに傾倒する。やがて日本に、そして道元禅師の正法眼藏にたどり着いたという。

 キリスト教、浄土真宗は空間的意識の宗教である。禅とは、鎌倉仏教とは何か。禅の本質は時間の宗教である。ここでいう時間の感覚はヨーロッパとは違う。キリスト教徒は、つねにより良い場所を求めてさまよう。ここではないどこかにいいところがあるという意識をつねに持ち、拡げようとする。その意識は宇宙にも向けられている。

 氏はカール・ブッセの有名な詩「山のあなた」がそれをよく表しているという。

山のあなたの空遠く
幸住むと人のいふ 
噫われ人ととめゆきて
涙さしぐみ、かへりきぬ
山のあなたになほ遠く 
幸い住むと人のいふ

 易姓革命もまた、空間の移動と拡大同様に、時間が断絶する。禅はまったく軸が違う。空間的な拡大や移動を求めない。氏は台湾の少数民族を訪ねて、そこに漂う感覚に禅に通じるものを見た。彼らは母系社会を形成し、山を隔ててそれぞれが違う文化を継承している。そこには、自然、時間、祖先を共有する生活があった。決して山を越えて領土を拡張しようという意志はない。あるいはより良い新天地を求めようとは考えない。

 般若心経における色即是空の色とは物質であり、空とは時間であり悟りである。自分が時間になりきることである。日本人が失った時間、日本の禅、空解釈を変えなくてはいけない。

 以下はテキストからの引用である。

「苦集滅道」 四諦(したい) これまでの仏教の教え。「苦」この世は苦しみ「集」欲望があるから「滅」それを滅すれば「道」悟りへの道が開く

禅の教え 「苦」頭で考えた思想・イデオロギー、理想・価値 「集」感覚でつかもうとするが、ものであり物質を基礎に考える(科学的見方・唯物論)価値の喪失 「滅」現実の物と心を双方認め、行為によってそれを示していく。(中道)正しい行いが人間生活の中心 座禅への道 この場所 現在の瞬間の行為 人間本来の姿に戻る 「道」宇宙全体の時空との関連・連動 悟りへの道が開く(時間軸に生きることへの移行)

「集」をヨーロッパでは唯物論や観念論からアプローチするも、未だに解決できない。

「滅」プラグマティズム(行為)、座禅につながる。

「道」行為に時間が入ってくる。物事すべてに時間を入れる。

となふれば 仏も我もなかりけり 南無阿弥陀仏の声ばかりして 一遍

 ここでは結句に「声ばかりして」とあるため、聞いている自分がそこにいて、「仏も我もなかり けり」が嘘になってしまう。未決。

 となふれば 仏も我もなかりけり 南無阿弥陀仏なむあみだぶつ

 これが悟り(空)である。

静かさや 岩にしみ入る 蝉の声  芭蕉

空間と時間を融合し、岩を擬人化している。ここに日本の非合理がある。

日本人の心に肉体化していた時間(もののあわれ)が減少していった。座禅はそれを再発見する道ではないか。

神道の禊ぎ、祓いも大乗の本覚に通じるものがある。本覚の悉有仏性(ことごとくに仏性はある)とは、あらゆる存在は仏性で、そのまま仏のいのちであり、仏のいのちでないものはない。道元の解釈では、過去、現在、未来という時間もまた同じである、というものである。

存在(物質)と時間は一緒である。存在が時間の上に乗っているのではない。これは近代合理主義では理解できない。

幕末における廃仏毀釈とは、近代合理主義に基づく、我が国が継承してきた時間制の喪失であった。

明治維新において我が国は空間を導入した。これは日本にとって、時間と空間による股割き状態であった。

明治の日本人は夕焼けを夜明けと勘違いした。やがてやってくる長い夜に気がつかなかった。日本人が失ったものは、自分と他者を差別しないという意識である。日本人が時間を取り戻すことができるか。できなければ、欧米キリスト教、中国の物質世界に圧倒されるであろう。

皇位の継承を水と皿(肉体)で捉える。皿は水を受け取った。この水こそ時間である。神武天皇から受け継いだ時間である。時間軸を失った国体論は、形としてとらえられた。

インディアンの特徴として、時間が自由であるということがあげられる。そこには死んだ人間も一緒にいる。日本でも、先祖霊がお盆に帰る、仏壇に仏様がいると考える。仏性は過去、現在、未来が一緒であり、いつも輝いて、瞬間瞬間を生きている。時間を取り戻すとは、大らかさを取り戻すことである。近代の流入によって失ったものがあるが、日本人には、DNA、基礎があることを思い出す必要がある。日本人がそれを世界に発信する必要がある。台湾のパイワン族も、インディアンもそういう時間を生きている。広がりを求めず、過剰を求めない。そこで自足している。一匹の猪をみんなで分け合い、次に食べる人のためにも、余分な狩りはしない。蕩尽は空間が産み出す。皇室が持っているのは時間。時間は自足している。

 ここから水島氏は、トーマス・マンを通して近代ヨーロッパについて語る。19世紀リアリズム小説である「ブッテンブローク家の人々」は、作者が鳥の目を持って俯瞰的に描いた小説である。ここでは、登場人物も物語も作者の掌中にある。その後第一次世界大戦が起き、兄のハインリッヒとの論争を行い、この戦争を文明と文化の戦いであると意識する。三島由紀夫の文化防衛論は、この論争に影響を受けているのではないかと指摘があった。

 「魔の山」「ヴェニスに死す」になると明らかに文体が変わる。登場人物と一緒に歩くようになるのだ。

 「ヴェニス」では、ヨーロッパ近代の終わりを感じた。ここに登場するギリシャの美少年とは、ギリシャ文明の象徴、外見は完璧な美を保ちながら、一点だけ歯に欠陥があった。内側は腐っている。そのことにより彼は、にせ者となる。内部に病を持つことが、近代ヨーロッパを象徴している。主人公の老作家は、少年に魅せられ、厚化粧をし、付きまとう。このさまよい歩く姿こそ、空間に呪縛されたキリスト教世界の比喩である。水島氏はこの様子を、みっともないヨーロッパの姿、と非情に辛辣に表現した。村上春樹が同じことをやっている。こっちが駄目ならあっちと、本質的にはまったく同じである。ただし、水島氏は村上春樹は民主主義者の中では現代最高の作家であるという。意識的なコスモポリタンではあるが、最高でありしかも限界でもあるという。

 冒頭触れたように水島氏は果敢な行為の人である。そんな氏を突き動かす座右の銘が最後に披露された。

典座教訓 生死事大 無常迅速 私がやらねばだれがやる。いまやらねばいつできる。

石はいつでも石。しかし、磨いて磨いてぶつけ合わせれば火花となり、遼火となって野を焼き尽くす。泥石では火花は出ない。自分を磨くことがすなわち行為である。

 講演後、西尾先生から「私も火花を散らす存在でありたい」、という感想があった。さらに、もう一度「時間」を取り戻そうとしたのが大東亜戦争ではなかったか、不合理そのものが日本の過去だった、ともいわれた。

 この言葉については、是非皆さんも一緒に考えていただければと思う。特に、散らした火花が遼火となって野を焼き尽くす、その炎を起こすために必要なことは、言葉(火花)を受けた私達が、それをどう受けとめるのかにかかっていると思うからだ。

 三人の先生方の講義は西尾先生の言葉通り「ずっしり重く坦々塾ならではの集中した時間」でした。私のつたない記録ではあの臨場感はとても伝え切れておりません。理解や表現に講師の真意と異なる点も多くあると思いますが、それらすべての責任は私にあります。特に宗教の問題に関しては基礎的な素養がなく、私にとっては困難な作業でしたが、このような機会を与えてくださった西尾先生に深く感謝申し上げます。

 なぜ御皇室は存続し続けたのか、日本にはなぜキリスト教が根付かなかったのか、ということが私の最近の関心事となっておりますが、今回の講義でその問いに対する一つの方向性を見出していただいたと思っております。本当にありがとうございました。

 今回の記録作成にあたって、過去の諸先輩方の文章を拝読し、その構成力、文章力、そして何よりも文章の土台となっている教養の深さに改めて圧倒された次第です。

文責:浅野 正美

坦々塾(第十五回)報告(二)

ゲストエッセイ 
浅野 正美 
坦々塾会員

 開会にあたり西尾先生から短いご挨拶があった。「自民党は滅びるだけ滅びよ。つぶれるだけつぶれよ」。

 世界金融資本の陰謀と日本の近現代史   福地 惇

 最初に新しい歴史教科書の採択率が前回の0.4%から今回は1.6%へと、四倍に大飛躍したことが報告された。

 現在世界の歴史で常識とされていることの多くは、作為を持って捏造されたものである。例えば、一般的な日本人の自国に対する歴史観をざっと書けばこうなる。明治日本は戦争好きで、総増上慢となり、朝鮮は36年間苦しめられた。東亜と中国を支配しようという野望に燃え、真珠湾をだまし討ちした卑怯な国家であった。そんな卑怯で極悪な日本人を懲罰するためにアメリカはやむなく戦った。原爆の投下は、双方で数百万人の命を結果的に救うこととなった。坦々塾の塾生は、自ら学び考えることができるので、こんなことは信じないが、大方の国民は、これがまさしく歴史の真実だと信じている。ただし、常識は真実に非ず。歴史は常に歪曲と偽装に満ちている。

 そもそも、現代の欧米の歴史認識が異常であり、それが日本にも反映している。公認の歴史、物語の本筋は国際金融資本が作成し、それにつながる御用学者が「正史」を書くという仕組みになっている。

 国際金融資本の陰謀、詐欺、策略は隠されており、都合の悪い資料は破棄され、決して表に出ることはない。

 第一級の資料は隠されるため、実証史観はできない。残されるのはきれい事ばかりで、そうして残された一次資料を都合よく使って、歴史が改竄される。コントロールセンターは国際金融資本の黒幕で、ロンドン、ニューヨークに本拠を置き、全世界の都市に拠点と支部を持つ。世界銀行、IMF、各国中央銀行、政府も支配下にある。組織はユダヤ人が中心となる。ユダヤ教の教えでは、非ユダヤ人は禽獣の類であり、ヒツジやラクダの方が、清い。全分野に支配力を発揮し、目的のためには手段を選ばない。そのために歴史を改竄する。日本も被害者である。

 第一次・第二次大戦は国際金融資本が作り出したはめられた戦争であった。国家を弱体化させる方法は、言語、儀礼、歴史の記憶を消すことである。文化的に破壊された跡には生きる屍としての肉体のみが残り、やがて国家は消滅する。地域、家族を形骸化することで、これらが常識を育てる場ではなくなり、学校、巨大メディアがそれに変わった。教育とメディアを掌握する者が真の権力者となる。こうして世間の常識と大衆社会の歴史認識を作っていく。

 力(パワー)は武器である。独裁権力(パワー)による政治的実験が共産党国家の建国であった。また、パワーの源泉はマネー、資源、金融である。日本人は、好意には好意で応えるが、ユダヤ人に恩返しの概念はない。ユダヤ人には、ユダヤ人を救った美談は通用しない。まさに人間にあるまじき民族である。ユダヤの秘典、聖典タルムードには、「非ユダヤ人の最良の部分を抹殺せよ」とある。また、目的のためには手段を選ばないため、異教徒は殺しても構わない。ヨーロッパの歴史は、ユダヤ対キリスト教徒の歴史であった。ユダヤは政権中枢や王家にまで寄生し、搾取を繰り返した。最初寛容であったものが、我慢の限界を超えてユダヤ人を迫害する。外国で文化や慣習になじもうとせず、中世のヨーロッパは、ユダヤへの抵抗記といってもよい。ユダヤ教の基本が、選ばれた民、世界を支配する民である。目的達成のためのスパンは、二世、三世、百世、と非情に長い。現在の日本はユダヤにとって、物を作る奴隷である。

 好況、不況といった経済の振幅は、コンドラチェフの波で説かれるように、経済の予定調和と思われがちだが、金融、財政をコントロールすることで作り出している。戦争、革命もまた然り。

 反歴史、反国家を他国、他民族においては画策するが、それらはユダヤの本意ではない。自分たちだけが最後の勝者として生き残るのが最終目的である。

 ユダヤ人は地球人口の一握りであり、コントロールしているのはわずかに数千人である。第一次大戦のベルサイユ条約で、ウイルソンのブレーンはユダヤ人であった。ドイツに天文学的な賠償金を課し、いじめの反動を読み込んでいた。支払い不能な賠償金にドイツは我慢できるはずもなく、第二次大戦のシナリオがここで書かれていたと考える方がわかりやすい。

 ロシア革命も、ロマノフ王朝の圧政があったとするのは嘘であり、事実は善政であった。首都の情報が入らない地方の農民を攪乱し、農奴解放、奴隷解放を説いて内乱状態を誘発した。

 安定した国家はつぶす、こうしてロシア、ドイツ、日本をつぶしてきた。政治の不安定化、弱体化が目的である。現在も、英米有名大学、財団に巨額の資金を提供して、まじめで愚鈍な英米人に対していいことをしていると見せかけて、捏造を繰り返している。

文責:浅野 正美

坦々塾(第十五回)報告(一)

ゲストエッセイ 
浅野 正美 
坦々塾会員
 
9月5日(土)に、第十五回坦々塾が行われました。

福地 惇さん  
西尾先生
水島 総さん 

  の順番で講義をいただきましたが、まず西尾先生のご講演から報告させていただきます。

 宗教戦争としての日米戦争        

 前回「複眼の必要 日本人の絶望を踏まえて」の中でアメリカの特殊性について学んだが、今回は宗教をキーワードとして、何故大東亜戦争が戦われなければならなかったのか、という講義を聴くことができた。

 講義の冒頭、先生が披露したエピソードが大変印象的であり、また今回の講義録をまとめるうえでも大変重要になると思うので紹介する。

 1981年、レーガン米大統領就任演説翻訳文を掲載した朝日新聞には、重要な一文が抜けていた。しかも故意に削除したのではなく、日本人の常識に照らして必要ないと判断されていたという。その文章とは次のようなものである。

 「私は、何万人もの祈りの会が本日開かれていると聞いている。そうして、そう聞いて私は深く感謝している。

 われわれは神の下の国であり(We are a nation under God)、私は神こそがわれわれを自由にしようと思っていると信じている。もしこれから何年間も大統領就任演説の日に、祈りの日であると宣言されれば、ふさわしいし、よいことだと私は思う」。

 この文章にレーガン大統領、万感の思いがこもっていることに我々は気がつかない。ここに日本人のアメリカを見つめる時の盲点がある。普段の生活で私たちは宗教を意識しない。政治にも持ち込まない。若人、弱者、悩める者の心の救済として、あるいは死後の存在としてのみ考え、アメリカにとって宗教こそ共同体のアイデンティティーの問題であるという認識がない。この大きな断絶を理解しないと、「宗教戦争としての日米戦争」という今回の講義の真意がつかめないのではないかと思う。

 アメリカに国教は存在しないが、まぎれもなく神権国家であり、宗教原理主義といってもよい。そこでは個人の上位に共同体があり、共同の理念がある。

 国教はないが、見えざる国教があり、それは聖書を教典とするキリスト教に近い宗教であり、それらの間にのみ信教の自由が認められる。信教の自由とは多種多様な教会を認めることであって、移民、アジア、黒人、インディアン、等に対する寛容ではない。あくまでも身内における自由であり寛容なのである。

 西尾先生から、先進六カ国の国民の宗教観に対するデータが配付されたが、天国、地獄、死後の世界、神、それぞれの存在を信じるアメリカ人は、すべての項目にわたって70%を超えている。特に神の存在に関しては94.4%の回答者がその存在を信じているという。ちなみに我が国は、どの設問においても一番低い数値をしめしている。日本人は国家意識の基礎に宗教がなく、その必要も感じていない。

 平安朝の遣唐使、吉備真備(きびのまきび)に関する逸話も紹介された。唐でつらい留学生活を送る吉備真備に対して、朝廷から難問が出され苦悩する。阿倍仲麻呂が鬼となって現れ助けてくれるが、さらなる難問が出される。そこで吉備真備は、日本に向かい日本の神に助力を乞うたところ、蜘蛛が現れ糸を引いて答えを教えてくれた。吉備真備は仏教を学びに唐に渡ったにも関わらず、「困ったときの神頼み」では、日本の神に祈った。ここに見えるパラドクスこそ古代日本の神認識の姿である。

 縄と紙垂(しで)に囲まれ限定された空間、あるいは氏神様、祖先神、といったように、我が国の神は古来限定された場所で、特定の人によって祀られていた。天照大神は天皇家の皇祖神ではあっても、全国民の神ではなく、国民は祈ることもできない時代があった。

 平安末期以降、我が国では仏教が優勢となる。まず御仏があり、神々はその生まれ変わりの姿であるという本地垂迹説が説かれた。仏と神は一体であり、この時代仏像を模した神像が造られていく。神が刀や鏡に象徴されていた時代から、現実の姿として表現された時代である。われわれが今神様のお姿として思い浮かべるのは、神話の挿絵に出てくる白い衣をまとった姿だが、これは明治になって初めて創作されたものである。

 さて、中世以降天皇家が力を失って行くとともにに、神は国民の信仰の対象へと変わっていく。東西統一権力が成り、鎌倉仏教は天皇家を無視、大本の仏が大事で天照大神はその代替信仰であるという位置付けであった。仏教の中に於ける神道という概念が定着し、幕府もそこに身を置いた。皇祖神の天照大神はこうした中、仏教の手を借りて全国に広まっていく。

 明治に入り、廃仏毀釈となったのはご存じの通り。神祇官が任命され、神社優位となり、国学者、神官は増長した。

 幕末の日本は、アングロアメリカ(英・米)とぶつかった。我が国は、欧米という言葉がしめすように、ヨーロッパとアメリカを同じ文化圏として認識していたが、実は両者は異質のものであった。

 アメリカという国の成り立ちを、南米、北米、北米における南部と北部という点で歴史を振り返る必要がある。

 19世紀初頭、アメリカ大陸の人口は、南米が1,700万、北米が500万であった。南のインディオ、北のインディアンは共に1.5~2万人。ヨーロッパが意識したアメリカは当初南米であった。南米はスペイン王朝が富を獲得をするために利用された。そこでは暴力を行使し、あるいは十字軍的な使命感で、原住民を改宗していった。

 人民は混血し、人種政策はゆるめられた。経済的にはスペインの本国経済と深く結びついていた。

 北米大陸には、南部と北部という問題がある。南部は豊かで土壌は肥沃、農地として適している点では、南米とにている。北部は農業に恵まれず、貿易、造船が大きな経済的基盤であった。独立前すでに造船量は大英帝国の三分の一に達しており、本国の干渉を避け、独立の気風が養われていく。広い国土の自由使用を認め、富を広く豊かに拡げるために平等相続制度を採った。この頃の欧州は長子相続であった。北の世界に対する意識にはキリスト教があった。これが、我が国に深く関係する問題である。

 マタイ伝によるイエスの予言によれば、西に新しい土地があり、そこはキリストが与えた、征服に相応しい土地である。アメリカ大陸侵略を正当化するために、これ以上ない予言であった。選民意識に基づく、約束の地アメリカを、出エジプトに置き換えた物語が生みだされた。ワシントンは、モーゼに擬せられた。こうしてインディアンに対する掃討戦は正当化され、1914年、フィリピン侵略も完成する。すでに日米開戦も間近である。アメリカの宗教戦争はこうして続き、このアメリカの信仰への熱狂は、むしろイスラムに似ているといえる。今のアメリカ人も神を信じている。通常文明の進展と共に国民は脱宗教化するといわれており、アメリカはすでにヨーロッパとは異質な国家となっている。同性愛、人工妊娠中絶が選挙の重要なテーマとなり、教会の政治に対する発言力は極めて強い。アメリカ人にとって信仰は誇りであり、大統領選挙では、当落を左右する問題である。

 翻って我が国は無宗教国家であろうか。決して無宗教ではない。無宗教で天皇を戴くことはできない。江戸時代まで、天皇の認知は謎であった。わずかに思想家のみが考えた。思想的に明治以前に用意されていた国学が、明治の自覚とともに、疑うことを不必要とした。

 国の学問の中心は仏教から儒学へと移り、1670年から書かれた大日本史は孔子の正統主義に基づき、南朝正統を認めた。神話を否定して、神武天皇から南朝最後の天皇である後小松天皇をもって南朝の滅亡とする史観を採用した。道徳的叙述により歴代天皇も批判し(論賛)、1740年にいったん編纂が止まった前編は朝廷に献呈されなかった。

 後期水戸学は神話を復活し、易姓革命史観を否定、論賛を削除した。我が国の歴史の継続性を主張し、日本は一つ、国名も一つ、日本は不要、題号は国史でよいと主張した。これが幕末の国体論につながる。これが前述した「思想的に明治以前に用意されていた国学が、明治の自覚とともに、疑うことを不必要とした」状況に繋がる。

 我が国は尊皇攘夷・尊皇開国(文明開化)の間を揺れ動きながらも、最終的にはアメリカの宗教戦争の仕上げに飲み込まれて行く。アメリカにとって日本は、インディアンやフィリピンと同様、簡単にねじ伏せることができる相手だと考えていたが、我が国の抵抗は想像以上に激しいものだった。戦争には勝ったが、戦後経済の分野で幾多の苦杯を舐める。特に国家を象徴する産業の一つである自動車産業において、アメリカは半世紀の長き敗北を喫した。アメリカは我が国の底力にようやく気がついた。果たして復讐はあるだろうか。

 「神の国」と「神の下の国」という二つの国家の戦いが、大東亜戦争であった。

文責:浅野 正美

今年の夏の「戦争」の扱い(二)

 「樺太1945年夏 氷雪の門」という上映されなかった貴重な映画が8月9日九段会館大ホールで公開された。樺太の真岡の電話交換手9人の女性の悲劇のドラマである。彼女たちのことは知られているし、靖国に祀られているとも伝え聞いている。しかし私は映画を見て、悲劇の実態をほとんど知らなかったことに気がついた。

 この映画が訴えているのは「戦争の悲惨さ」一般などでは決してない。ソ連軍の野蛮と卑劣と非道と極悪そのものである。8月15日に日本側が停戦していた状況を踏み破って、ソ連兵は白旗を掲げて即時停戦を訴える日本側の丸腰の使者たちにその場で銃弾を浴びせてこれを射殺した。そして、無防備の小さな町に砲火を浴びせ、蹂躙する。

 この映画は昭和49年(1974年)に完成し、丹波哲朗や南田洋子なども熱演している十分に商業価値のある作品だったが、大手配給会社による劇場公開が突然中止された。そしてほとんど日の目を見なかった「幻の名画」で終っている。それを今夏、特別に試写する企てが催された。

 ときは田中角栄内閣の時代である。モスクワ放送の「ソ連国民とソ連軍を中傷し、ソ連に対し非友好的」という非難に屈した結果である。

 「戦争の悲惨さ」一般を描いた映画なら公開がゆるされる。過去の日本が間違っていた、日本が悪かったのだ、の意図の伝わる映画なら公開可能だった。しかし、どこかの国(旧敵国)の非道をありの侭に描いた映画を上映することは、たとえ相手が冷戦下の仮想敵国のソ連であってもできなかった。恐らく日本側がこわがってひるんだのだろう。自己規制したのであろう。

 ここに、問題のすべてがある。今年夏の戦争を語ったNHKその他のテレビ番組が例外なく、旧日本軍が悪く、まるで敵国がいなかったかのごとく描く(戦争は相手あっての話なのに相手の悪が語られない片面性の不具!)内容に終始したのは、日本人自身のこの病理、自己規制の病理の帰結にほかならない。

 今年も特攻が取り扱われ、フィリピンから出撃した若者の映像が流れた。例によってアジアの各国に被害をもたらした日本の戦争というナレーションだ。アジアを支配していたのは英、米、仏、蘭の各国で、アジアの国々は独立していないのだから、日本軍は欧米支配者の掃蕩戦争をしたわけだが、NHKはこの前提を決して言葉にしない。

 「樺太1945年夏 氷雪の門」を見ていて、ふと思った。

 そういえば、真岡の9人の乙女の悲劇に匹敵するのは沖縄のひめゆり部隊である。こちらの映画は上映禁止のうき目に会っていないばかりか、有名にもなった。私の記憶では『ひめゆりの塔』は恐らく旧敵国アメリカの悪を告発していなかったように思う。「戦争の悲惨さ」一般をしか描いていなかったように思う。従って戦争の現実は半分しか描かれてなかったともいえる。

 雑誌『正論』が主催した九段会館の上映会には、当時『氷雪の門』に助監督として参加し、また同映画を破損から守って修復保存した新城卓氏がトーク出演をして、いくつもの証言を残した。氏によると、真岡の女性たちを凌辱し殺害したソ連兵は、生き残りの日本人男性たちをシベリアに強制連行したが、連行前に彼らにやらせた仕事は、穴を掘って、日本人女性の遺体を埋めさせる酷薄な労働であったという。それらのむごたらしいシーンは映画では映像化されていない。その点では抑制されていて、不徹底でもあって、それでなぜ上映禁止に追いこまれたのかよく分らない。

 恐らく当時の政治情勢その他によるところの、いかにも尤もらしい理由は探せば見出せるのであろう。しかし根本はやはり日本人の心の弱さが原因だろう。自己規制が原因だろう。これがすべての鍵だろう。64年たった今年の夏のテレビの映像とナレーションの歪みと屈折と自分隠しに直接つながる問題である。