フロンティアの消滅(一)

 平成26年(2014年)6月26日に行われた坦々塾主催の講演会の記録を掲示します。ちょうど3年前ですが、内容に格別の修正の必要はありません。そのまま出します。

フロンティアの消滅(一)

 最近私はスペインとかポルトガルとかオランダとかイギリスとか、あの辺りのことを勉強しており、これは知らなかったのですが、コロンブスがスペインから大西洋に出て行く頃か、あるいはその前に、イギリスからアジアの方へ出てくる船がありました。これにはびっくりしました。イギリスから西北の方向に進んでアラスカの北を通って、ベーリング海峡を抜けて日本の方へ出てくる西北航路。そしてもう一つは、イギリスから東北に向かってシベリアに抜けてベーリング海峡に入る。半分陸路を使ったのか、これはどのような道か良く分かりませんが、そういう道を切り開いていました。これを行ったのは海賊です。イギリスは海賊の国でしたが、ある本でそういう記述を読みました。

 それから、初めて知ったのですが、現在では考えられない位イギリスのしたたかな海洋覇権展開の歴史を調べると、興味深いことが沢山あります。インド支配に当り、プラッシーの戦いとか色々知られている訳ですが、インドを獲得した後、イギリスはどのようにしてこれらを守り、自分の物にしたか。すべて海からの支配でした。
 
 スエズ運河の先にアデンという所があります。そこからインドのコロンボ、その次にシンガポール、この三角地点を結ぶライン、当時シンガポールはマレー半島の先端にある何もない小島だったのですが、有名なラッフルズという人物がそこに着眼して、シンガポールを押さえればマラッカ海峡を押さえることが出来て、オランダを制圧することも出来る。また同時に三角地点を結んでインド洋を内海化して、一帯を我が物にできると考えました。

 それから、インドの西南の方、アフリカの東岸にマダガスカルという大きな島がありますが、ここはフランス領でした。この島をイギリスは、明治29年に安々とフランスに譲り渡して驚かなかったという理由を書いた本を読みました。その本によると、イギリスはマダガスカルから東北の方に1000キロでセイシェル島、東の方に800キロでモーリシャス島、北の方に300キロのところにあるアルダブラ島という3つの島をしっかり握っていて、それからマダガスカルの対岸のケニアを握っていたために、マダガスカルはフランスに譲っても一向にかまわないという、イギリスの海上を押さえる智慧、地政学的な判断力、これは海賊の才幹かもしれませんが、凄いものだと思いました。

 もっと驚いたのは、全く歴史の本には出て来なくてビックリしたのですが、いうまでもなくイギリスは18世紀にオーストラリアを我が物とし、その後ニュージーランドを、続いてカナダも我が物にします。更にその中間地点の小さい島を全部握ってしまいます。例えば1853年にノーフォーク、’74年にフィジー、’88年にファンニング、’89年にフェニックス、’92年にエリスという洋上の小さな島々をイギリスは全部掌握し、それからそこに通信基地を設け、海底ケーブルを張り巡らします。しかし、アメリカがハワイを取ったために途中でその流れが切られてしまいました。これは英米が海上覇権を巡って激しく対立していたことを示しています。

 イギリスの歴史を振り返って見ると、大体が英仏100年戦争といわれるように英仏は戦争を繰り返していました。しかし、ナポレオン戦争が終わってウィーン会議の頃フランスを押さえてしまいます。ナポレオン戦争でフランスが大陸に封じ込められると、イギリスは悠然と海洋に出て行き、自分たちは何も手を出さないけれど、あらゆる国々、ヨーロッパ内部は勝手に戦争させて、自分たちは海洋を押さえました。ですから、各国が貿易を考えた時には、イギリスに抵抗しようと思っても、他の国は何も出来ない。しかしイギリスは特別に侵略をしたりするわけではありませんでしたが、海洋の覇権を握っていましたから、ヨーロッパ全体を押さえることが出来ました。インドやマダガスカルを封鎖したのと同じことをヨーロッパ全土に対してしたのです。

 それからあとの19世紀のヨーロッパは平和な世紀で、普仏戦争や普墺戦争やイタリアの統一戦争のような小さな戦争はありましたが、ウィーン会議から第一次世界大戦までの間はパックスブリタニカにより、ヨーロッパは平和な時代でした。

つづく

若い人への言葉

 DHCテレビで、堤堯さんの司会で行われていた「やらまいか」という座談討論番組が本年3月末に終了した。最終回で各レギュラーに「若い人への言葉」が求められた。私は欠席だったので乞われて言葉のみ送った。司会者が朗読して下さった由である。

 若い人に期待するのは日本の歴史を取り戻すことです。今、日本の歴史は正当に語られることがなく、ほとんど消えかかっています。しかしだからといって徒らに日本の良さを主張すればよいということではありません。日本を外から眺めることがまず大事です。若いうちに外国で暮して下さい。進んで留学して下さい。

 外から日本を眺めると、他の外国でどこでも普通にやっていることが日本にだけない、というようなことが数多くあることにきっと気がつくでしょう。だから、そこだけ外国に学び、真似すればそれでよい、ということではありません。むしろ逆です。外国からは学ぶことのできないもの、どうしても真似することができないものが確実に存在します。それは何か、日本の歴史の中にさぐり、発見し、そこを基盤にもう一度日本を外から見直して下さい。そうすれば日本の欠陥も、長所や特徴もより明確に分るようになるでしょう。

 外からと内からのこうした往復運動を繰り返して下さい。貴方はきっと歴史を知ることが自分を知ることと同じだということに気がつくようになるでしょう。
 

石原萠記さんへの感謝

 石原萠記さんが亡くなった。5月20日に東海大学校友会館でお別れの会が開かれた。その際「皆さまからいただいた思い出の一言」と題した200人余の文章を蒐めた小冊子が配られた。私もその中に参加していた一人だった。私の「思い出の一言」は次の文章である。

 29才のときに書いた「私の『戦後』観」が自由新人賞に選ばれたとき私は翌年夏にドイツに留学することが決まっていた。選者は竹山道雄、福田恆存、林健太郎、平林たい子、関嘉彦、武藤光朗の諸先生であったが、石原萠記編集長も正式に選者の一人だった。

 私はドイツから編集長の指示にしたがい3本のドイツ観察記を送った。右翼政党NPDの初登場をめぐる喜劇的スケッチもその中にある。(単行本未収録、全集で拾い上げた。)

 私は自分の留学を文明論的考察の対象にしようと意気込んでいた。思えば幼い気負いである。鴎外や荷風のヨーロッパ体験がたえず念頭にあった。まだそういう自尊のポーズが失われないですむような時代だった。帰国したらすぐに連載を始めたい。それを可能にしてくれたのは『自由』であり、わけても石原編集長だった。

 こうして出来上がったのが『ヨーロッパ像の転換』である。石原氏は帰国した私にやさしかった。1960年代は周知の通り左翼全盛の時代だった。しかし今と違って、左翼にも相手の存在を尊重する言葉への信頼がまだあった。石原氏はその嵐の中をもまれて戦った戦士だった。

 60年代は『世界』と『自由』が知的言論界を二分した。その安定した対決のバランスを壊したのは70年安保であり、三島事件だった。にわかに言葉より行動が求められる気流の変化が生じ、それはいたずらにささくれ立ち、次に無気力、無関心、無感動のムードに取って替わるようになっていった。

ishihara

もうひとつのポピュリズム

 大学教養部時代の友人のY君(西洋史学科へ進んでテレビ会社に勤務した旧友)から6月9日に学士会夕食会の講演会でEUに関する講演を聞いたといい、そのときのペーパーと講師の論文を送ってきた。講師は北大の遠藤乾さんという国際政治学者で、最近中公新書で『欧州複合危機』という本を出しているらしい。私はその本を読んでいないが、Y君には次のような感想を送った。一枚の葉書の表裏にびっしり書くとこれくらいは入るのである。

 拝復 欧州新観察のペーパー及論考一篇ありがとうございます。フランスの選挙結果は、私には遠藤氏と違って、健全のしるしではなく、フランスのドイツへの屈服、ドイツと中国(暗黒大陸)との野心に満ちた握手、反米反日の強化、等々でフランスには幸運をもたらさないように思えてなりません。

 フランスは衰弱が加速している国です。それなのに自由、平等、博愛のフランス革命の理念に夢を追いつづける以外に「ナショナルアイデンティ」を見ることのできない今のフランス国民は、ルペン支持派とは別の、もう一つのポピュリズムに陥っているのではないでしょうか。マクロンもまたポピュリズムの産物だと私は言いたいのですが、いかがでしょうか。

 フランスは三つに分裂している国です。(A)ドイツに支配されてもいい上流特権階層(B)反独・国境死守のルペン派(C)共産党系労働者階層の三つで、この三分裂は欧州各国共通です。一番現実的なのは(B)で、(A)(C)はフランス革命前からずっとつづく流れです。

 (A)が勝ったので、イスラム系移民が増大し、フランス経済は悪化し、マクロンは早晩窮地に立たされるのではないでしょうか。

                           以上 勝手ご免

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8年前の拙論

 以下の産經コラム「正論」の拙論「敵基地調査が必要ではないか」は、平成21年(2009年)5月26日である。私の原題は、「これ以上の覚悟なき経済制裁は危険」であった。表題は、このときには私に無断で替えられた。

 あれから8年間、我が国政府首脳はつねにただ「経済制裁の強化」を口にするだけだった。私は日本人である前に、人間であり、そして人間である前に、生物である。

 政府も、メディアも、私同様に内心に恐怖を蔵していないはずはない。それなのに、今日も静かに、平和な一日が過ぎて行く。

 皆さん!黙っていていいのだろうか。国内が全土を挙げてヒステリーになる時が近づいている。もう一度言う。私がこれを書いてから8年も経っているのだ。もうここに書いたようなレベルでは間に合わなくなっていることを勿論私は知っている。これからもすべてがどんどん間に合わなくなる。

産經新聞平成21年5月26日付 コラム【正論】欄より

評論家・西尾幹二 敵基地調査が必要ではないか

 ≪≪≪戦争と背中合わせの制裁≫≫≫

 東京裁判でアメリカ人のウィリアム・ローガン弁護人は、日本に対する経済的圧力が先の戦争の原因で、戦争を引き起こしたのは日本ではなく連合国であるとの論証を行うに際し、パリ不戦条約の起案者の一人であるケロッグ米国務長官が経済制裁、経済封鎖を戦争行為として認識していた事実を紹介した。日米開戦をめぐる重要な論点の一つであるが、今日私は大戦を回顧したいのではない。

 経済制裁、経済封鎖が戦争行為であるとしたら、日本は北朝鮮に対してすでに「宣戦布告」をしているに等しいのではないか。北朝鮮がいきなりノドンを撃ち込んできても、かつての日本のように、自分たちは「自衛戦争」をしているのだと言い得る根拠をすでに与えてしまっているのではないか。

 勿論(もちろん)、拉致などの犯罪を向こうが先にやっているから経済制裁は当然だ、という言い分がわが国にはある。しかし、経済制裁に手を出した以上、わが国は戦争行為に踏み切っているのであって、経済制裁は平和的手段だなどと言っても通らないのではないか。
 
≪≪≪北の標的なのに他人事?≫≫≫

 相手がノドンで報復してきても、何も文句を言えない立場ではないか。たしかに先に拉致をしたのが悪いに決まっている。が、悪いに決まっていると思うのは日本人の論理であって、ロシアや中国など他の国の人々がそう思うかどうか分からない。武器さえ使わなければ戦争行為ではない、ときめてかかっているのは、自分たちは戦争から遠い処にいるとつねひごろ安心している今の日本人の迂闊(うかつ)さ、ぼんやりのせいである。北朝鮮が猛々(たけだけ)しい声でアメリカだけでなく国連安保理まで罵(ののし)っているのをアメリカや他の国は笑ってすませられるが、日本はそうはいかないのではないだろうか。

 アメリカは日米両国のやっている経済制裁を戦争行為の一つと思っているに相違ない。北朝鮮も当然そう思っている。そう思わないのは日本だけである。この誤算がばかげた悲劇につながる可能性がある。「ばかげた」と言ったのは世界のどの国もが同情しない惨事だからである。核の再被爆国になっても、何で早く手を打たなかったのかと、他の国の人々は日本の怠惰を哀れむだけだからである。

 拉致被害者は経済制裁の手段では取り戻せない、と分かったとき、経済制裁から武力制裁に切り替えるのが他のあらゆる国が普通に考えることである。武力制裁に切り替えないで、経済制裁をただ漫然とつづけることは、途轍(とてつ)もなく危ういことなのである。

 『Voice』6月号で科学作家の竹内薫氏が迎撃ミサイルでの防衛不可能を説き、「打ち上げ『前』の核ミサイルを破壊する以外に、技術的に確実な方法は存在しない」と語っている。「独裁国家が強力な破壊力をもつ軍事技術を有した場合、それを使わなかった歴史的な事例を見つけることはできない」と。

 よく人は、北朝鮮の核開発は対米交渉を有利にするための瀬戸際外交だと言うが、それはアメリカや他の国が言うならいいとしても、標的にされている国が他人事(ひとごと)のように呑気(のんき)に空とぼけていいのか。北の幹部の誤作動や気紛れやヒステリーで100万単位で核爆死するかもしれない日本人が、そういうことを言って本当の問題から逃げることは許されない。
 
≪≪≪2回目の核実験を強行≫≫≫

 最近は核に対しては核をと口走る人が多い。しかし日本の核武装は別問題で、北を相手に核で対抗を考える前にもっとなすべき緊急で、的を射た方法があるはずである。イスラエルがやってきたことである。前述の「打ち上げ『前』の核ミサイルを破壊する」用意周到な方法への準備、その意志確立、軍事技術の再確認である。私が専門筋から知り得た限りでは、わが自衛隊には空対地ミサイルの用意はないが、戦闘爆撃機による敵基地攻撃能力は十分そなわっている。トマホークなどの艦対地ミサイルはアメリカから供給されれば、勿論使用可能だが、約半年の準備を要するのに対し、即戦力の戦闘爆撃機で十分に対応できるそうである。

 問題は、北朝鮮の基地情報、重要ポイントの位置、強度、埋蔵物件等の調査を要する点である。ここでアメリカの協力は不可欠だが、アメリカに任せるのではなく、敵基地調査は必要だと日本が言い出し、動き出すことが肝腎(かんじん)である。調査をやり出すだけで国内のマスコミが大さわぎするかもしれないばからしさを克服し、民族の生命を守る正念場に対面する時である。小型核のノドン搭載は時間の問題である。例のPAC3を100台配置しても間に合わない時が必ず来る。しかも案外、早く来る。25日には2回目の核実験が行われた。

 アメリカや他の国は日本の出方を見守っているのであって、日本の本気だけがアメリカや中国を動かし、外交を変える。六カ国協議は日本を守らない。何の覚悟もなく経済制裁をだらだらつづける危険はこのうえなく大きい。(にしお かんじ)
平成21年 (2009) 5月26日[火] 先勝

目ざとい「朝日」の反応

  私は産經新聞6月1日付(前掲)記事において、次のような文章を最後に加えておいた。勿論これは削除されたが、文章の分量が完全にはみ出ていたので、この件の削除に私は異論はない。たゞそこで示唆していた内容がメディアのその後の小さな動きに関連していたので、再録しておく。

 安倍氏は第一次内閣のとき、左翼へ「翼(ウィング)」を広げると称して野党やメディアに阿り、かえってそこを攻撃の対象とされ、他方、味方である核心の保守層からは愛想を尽かされた。今またまったく同じことが始まっている。

 読者は次のようなことを思い出して下さるだろうか。第一次安倍内閣のころ安倍氏は、目立たぬ時期にあらかじめ靖国に行っておいて、「靖国に行ったとも行かなかったとも自分は言わない」と煙幕を張り、間もなく村山談話、河野談話を自分は認めると発言し、祖父の戦争犯罪をまで認知してしまった。いったい安倍さんはどうなっちゃったんだろう、と保守の核心層はひどくびっくりもし、がっかりもしたことを皆さまは覚えておられるだろうか。

 これが「ブレーン」と称する5-6人の取り巻き言論人のアイデアに基づく戦略的発言であったことは後日だんだん分ってきた。こんな姑息なことはしなければ良いのに、と第一次安倍内閣を歓迎していた私などは落胆したものだった。5-6人の取り巻きの名前なども新聞その他に公表されるようになった。天下周知の事柄になった。

 そこで、私の今回の産經発言だが、これにただちに反応したのは朝日新聞(6月4日付二面)で、私からの引用の後に、期せずして次のような内容が記されているの知った。私は新たな発見に目を見張った。

 一方、首相を支えてきた保守論壇にとっては、9条2項削除を含む抜本改正が主流で、今回の提案は「禁じ手」(荻生田光一官房副長官)だった。論客の一人、西尾幹二氏は6月1日付の産経新聞で、首相の9条改正案を「何もできない自衛隊を永遠化するという、空恐ろしい断念宣言」「腰の引けた姿勢」と批判した。だが、首相には、戦後70年談話、慰安婦問題での日韓合意に続き、反発は自身が抑えられるという読みがある。事実、首相提案の環境整備ともいうべき動きが進んでいた。

 「憲法改正には2年ほどしか時間がない。公明にも配慮することにもなるが、現憲法に欠けた言葉を挿入するだけで、目的をある程度達成することができる」

 参院選後の昨年7月末、首相のブレーンと言われ、日本会議の政策委員でもある伊藤哲夫氏が講演で語った言葉が、関連団体のフェイスブックのページに残る。

 この時、一緒に講師を務めた西岡力・麗澤大客員教授は翌月、新聞紙上で9条1、2項を残し、3項に自衛隊の存在を書き込む案を例示した。

 伊藤氏は9月、自身が代表を務めるシンクタンクの機関紙に「『三分の二』獲得後の改憲戦略」とする論考を発表。「改憲はまず加憲」からと前置きしたうえで、9条に、3項として自衛隊の根拠規定を加える案を提言。「公明党との協議は簡単ではないにしても進みやすくなるであろうし、護憲派から現実派を誘い出すきっかけとなる可能性もある」と説いた。

 伊藤氏とかつて全共闘に対抗する学生運動を共にした仲間で、首相側近の衛藤晟一首相補佐官はこのころ、太田氏にささやいた。「9条は(自衛隊の)追加ということでお願いします」

 憲法9条1項、2項を残して3項を新設するという5月3日の安倍発言にはまたしても、ブレーンと称する人々の入れ智恵があったのである。安倍さんは自分で考えたのではない。他人にアイデアを与えられている。「今まったく同じことが始まっている」と私が産經論文の結びに書いた一文は証拠をもって裏付けられた形である。

 森友学園も加計学園もそれ自体はたいした事件ではないと私は思う。けれども思い出していたゞきたい。第一次安倍内閣でも閣僚の事務所経理問題が次々とあばかれ、さいごに「バンソウ膏大臣」が登場してひんしゅくを買い、幕切れとなったことを覚えておられるだろう。野党とメディアは今度も同じ戦略を用い、前回より大規模に仕掛けている。

 同じ罠につづけて二度嵌められるというのは総理ともあろうものが余りに愚かではないだろうか。しかも同じ例のブレーンの戦略に乗せられてのことである。

 憲法改正3項新設もこの同じ罠の中にある。

 安倍さんは人を見る目がない。近づいてくる人の忠誠心にウラがあることが読めない。「脇が甘い」ことは今度の件で広く知れ渡り、今は黙っている自民党の面々も多分ウンザリしているに相違ない。

 保守の核心層もそろそろ愛想をつかし始めているのではないだろうか。櫻井よしこ氏や日本会議は保守の核心層ではない。

北朝鮮の脅威が増す中、9条2項に手をつけない安倍晋三首相の改憲論は矛盾だ

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平成29年6月1日 産経新聞 正論欄より
 評論家・西尾幹二

 北朝鮮情勢は緊迫の度合いを高めている。にらみ合いの歯車が一寸でも狂えば周辺諸国に大惨事を招きかねない。悲劇を避けるには外交的解決しかないと、近頃、米国は次第に消極的になっている。日本の安全保障よりも、自国に届かないミサイルの開発を凍結させれば北と妥協する可能性が、日々濃くなっているといえまいか。

 今も昔も日本政府は米国頼み以外の知恵を出したことはない。政府にも分からない問題は考えないことにしてしまうのが、わが国民の常である。が、政府は思考停止でよいのか。軍事的恐怖の実相を明らかにし、万一に備えた有効な具体策や日本独自の政治的対策を示す義務があるのではないか。

≪≪≪防衛を固定化する断念宣言だ≫≫≫

 そんな中、声高らかに宣言されたのが安倍晋三首相の憲法9条改正発言である。しかしこれは極東の今の現実からほど遠い不思議な内容なのだ。周知のとおり、憲法第9条1項と2項を維持した上で自衛隊の根拠規定を追加するという案が首相から出された。「陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない」が2項の内容である。

 この2項があるために、自衛隊は手足を縛られ、武器使用もままならず、海外で襲われた日本人が見殺しにされてきたのではないだろうか。2項さえ削除されれば1項はそのままで憲法改正は半ば目的を達成したという人は多く、私もかねてそう言ってきた。

 安倍首相は肝心のこの2項に手を触れないという。その上で自衛隊を3項で再定義し、憲法違反の軍隊といわれないようにするという。これは矛盾ではないだろうか。陸海空の「戦力」と「交戦権」も認めずして無力化した自衛隊を再承認するというのだが、こんな3項の承認規定は、自ら動けない日本の防衛の固定化であり、今までと同じ何もできない自衛隊を永遠化するという、空恐ろしい断念宣言である。

 首相は何か目に見えないものに怯(おび)え、遠慮し、憲法改正を話題にするたびに繰り返される腰の引けた姿勢が今回も表れたのである。

≪≪≪政治的配慮の度が過ぎないか≫≫≫

 「高等教育の無償化」が打ち出されたのも、維新の会への阿(おもね)りであるといわれるとおり、政治的配慮の度が過ぎている。分数ができない大学生がいるといわれる。高等教育の無償化はこの手の大学の経営者を喜ばせるだけである。

 教育には「平等」もたしかに大切な理念だが、他方に「競争」の理念が守られていなければバランスがとれない。国際的にみて日本は学問に十分な投資をしていない国だ。とはいえ大学生の一律な授業料免除は憲法に記されるべき目標では決してない。苦しい生活費の中から親が工面して授業料を出してくれる、そういう親の背中を見て子は育つものではないか。何でも「平等」で「自由」であるべきだとする軽薄な政治的風潮からは、真の「高等教育」など育ちようがないのである。

もう一つの改憲項目に「大災害発生時などの緊急時に、国会議員の任期延長や内閣の権限強化を認める」がある。趣旨は大賛成だが、真っ先に自然災害が例に掲げられ、外国による侵略を緊急事態の第一に掲げていない甘さ、腰の引け方が私には気に入らない。

 明日にも起こるかもしれないのは国土の一部への侵略である。憲法に記載されるべきはこの事態への「反攻」の用意である。

 ちなみにドイツの「非常事態法」は外国からの侵略と自然災害の2つに限って合同委員会を作り、一定期間統率権を付与するということを謳(うた)っている。ヒトラーを生んだ国がいち早く“委任独裁”ともいうべき考え方を決定している。

≪≪≪2項削除こそが真の現実的対応≫≫≫

 今の国会の混乱は政府が憲法改正の声を自ら上げながら、急迫する北朝鮮情勢を国民に知らせ、一定の覚悟や具体的用意を説くことさえもしようとしないため、何か後ろめたさがあるとみられて、野党やメディアに襲いかかられているのである。中途半端な姿勢で追従すれば、かえって勢いづくのがリベラル左派の常である。
 
 現実主義を標榜(ひょうぼう)する保守論壇の一人は『週刊新潮』(5月25日号)の連載コラムで「現実」という言葉を何度も用いて、こう述べている。衆参両院で3分の2を形成できなければ、口先でただ立派なことを言っているだけに終わる。最重要事項の2項の削除を封印してでも、世論の反発を回避して幅広く改憲勢力を結集しようとしている首相の判断は「現実的」で、評価されるべきだ-と。
 だが果たしてそうだろうか。明日にも「侵攻」の起こりかねない極東情勢こそが「現実」である。声を出して与野党や一部メディアを正し、2項削除を実行することが、安倍政権にとって真の「現実的」対応ではあるまいか。憲法はそもそも現実にあまりにも即していないから改正されるのである。

 日本の保守は、これでは自らが国家の切迫した危機を見過ごす「不作為加憲」にはまっているということにならないか。(評論家・西尾幹二 にしおかんじ)

施線部分は、私の書いた原文では、
 「櫻井よしこ氏は五月二十五日付『週刊新潮』で、『現実』という言葉を何度も用い、こう述べている」と書かれていました。櫻井氏の名前は出さないで欲しい、という新聞社の要望に従い前記のように改めました。要望は、同じ正論執筆メンバー同志の仲間割れのようなイメージは望ましくないからだ、という理由によるものでした。周知の通り私は批判する相手の名を隠さない方針なので、少し不本意でした。名を伏せるとかえって陰険なイメージをかき立てるのではないかと憂慮するからです。

阿由葉秀峰が選んだ西尾幹二のアフォリズム「第三十九回」

 (5-1)本を読むことは、何事かを体験するための手段であり、ある意味では最も効率の低い媒体であって、それ以上でも以下でもない筈なのに、どういうわけか端的にわれわれの自己目的とさえなってしまう。それほどにもわれわれを取り巻いている言葉の世界は層が厚く、われわれは現実から無言の裡に距てられているためだともいえよう。

(5-2)教養主義こそが今日の教養の衰弱の原因である。

(5-3)私たち末流の時代の知識人は、ともあれ他人の言葉を手掛かりにしてしか物事を考えることができない(従って物事を書くことも出来ない)ことに慣れ切ってしまっている。私たちは研究とか、学問とか、評論とか称して、何か創造的に物事を考えた積りになっているが、所詮は古書と古書の間隙を逍遥しているだけである。今日に遺されているのは所詮古人の言葉にすぎまい。しかし言葉は何かの脱け殻であって、実体ではないのだ。しかもこの頼りない、表皮でしかない言葉をあれこれ吟味するのは、言葉の分析それ自体が目的ではなく、言葉の届かない、その先にある何かに接近することが本来の目的だということに、いったい今日の学者、批評家、知識人はどれだけ気がついているだろうか。

(5-4)歴史は客観的事実そのものの中にはない。歴史家の選択と判断によって、事実が語られてはじめて、事実は歴史の中に姿を現わす。その限りで、歴史はあくまで言葉の世界である。けれども、歴史家の主観で彩られた世界が直ちに歴史だというのではない。そもそも主観的歴史などは存在しない。歴史家は客観的事実に対してはつねに能う限り謙虚でなくてはならないという制約を背負っている。客観的事実と歴史家本人とはどちらが優位というのでもない。両者の間には不断の対話が必要な所以である。

(5-5)私たちはヨーロッパ近代を自分の前方に見据えながら、同時に自分の背後に克服していかなくてはならないという二重の芸当を演じて来たし、今なお演じつつある。

(5-6)ヨーロッパ的な味附けだけをしただけの日本の古典論とか、自分が近代的教育を受けて来たにも拘わらず、近代ヨーロッパからの「異世界」への問い掛けにあまり敏感でない自閉的な日本文化論などが、いささか無反省に流布しているのが、当代の知性の特徴であるように私には思える。

(5-7)ニーチェの本は何処から読み始めてもよいし、何処で読み終わってもよいのではないか。丁度音楽は何処から聴き出してもわれわれを引き摺り込んでしまうように、ニーチェの著作はあらゆる処に入口があり、出口があるのだ。論述的な著作の場合でも、文の構造が基本においてアフォリズムだということを物語っていよう。

(5-8)現在を否定し、批判する行為が、とりもなおさずそのまま理想への道だということが凡庸の徒にはどうしても分からない。代案は何か。具体的な方策を示せ。万人が歩める道を教えよ。彼らは必ず目的でなく手段を聞きたがる。(中略)自分で道を試すのではなく、人に道を教えてもらわなくては安心しない。

(5-9)現代はいわば価値の定点がどこにもない。すべての要素が同時に存在し多様化し、開放され、前進型のあらゆる試みがたちどころに古くなるような時代です。なにかの観念や、特定の視点というものは大抵相対化して、普遍的なものとしては成り立ちにくい。が、その反対に、いかなる視点も不可能になったという、いわば近代史を通じてくりかえされてきた自己解体の主題でさえが、ルーチンとなり、妙に安定した意匠となって、再検討を要求されている時代だともいえます。あらゆる問が並立しているのが、まさしくこの現代の姿なのです。

(5-10)虚偽なしで人は生きられない。その限りで虚偽は真理である。しかし真理はまた束の間に過ぎ去り、次の瞬間には虚偽に転ずる。

(5-11)真理は体系化できない。真理は容易に伝達し得ないし、認識し得ないなにかである。真理は認識するものではなく、わずかに接触することが出来るにすぎない。真理はときに言葉になり得ないものから、沈黙から、瞬間的に発現する。平生人は真理にあらざるもので表象し、行動する。真理とは生きるために人が時に応じて必要とするイルージョンである。

(5-12)歴史的教養で頭を一杯にして、自分が何をしたいのか、そして何を言いたいのかさえ分らなくなっている現代知識人の懐疑趣味、もしくは自己韜晦癖

(5-13)近世に確立した人間の主体的自我は、やがては自然を、世界を自己の外に客体化し、ねじふせ、加工し、利用する近代科学の自己絶対化をもたらすに及んだ。十九世紀は無反省なまでにその危険が増大した時代である。世界に存在するいっさいのものが主体的学問の対象となり、対象化できない心の暗部や信仰や芸術までをも解剖し、分析した。

(5-14)ギリシア人はつねに超時間的なもの、永遠なもののみを考えた。現在の瞬間に生きることが、同時に永遠につながる。自然は同一のものの周期する世界であり、悠久無辺である。時間には発端もなければ、終末もない。キリスト教世界のように、終末の目的が歴史に意味を与えるのではない。ギリシアにも歴史家はいたが、有限な時間が一つの目的へと向かう多くの人間的出来事の連続として、歴史が意識されたことはなかった。

(5-15)思想は今や趣味の問題でしかなく、人間は生きるために生きる以外にどんな生の課題ももち得ず、またもち得ないことに疑問すら抱かなくなっている。それでいて世間は少量の毒ある刺激をたえず求めるが、しかし本気で毒を身に浴びる者はどこにもなく、なにごとにつけほどほどで、人々は怜悧(れいり)になり、あるいは歴史書に慰めを求め、あるいは永生きするための健康書にうつつを抜かす。
 こうした状況を「成熟」とか称して現状肯定する思想家がもてはやされ、その分だけ時代の文化は老衰し、活力を失っていく。だが、にぎやかな鳴り物入りの漫画のような思想は、時代の無目標をごまかすために、人々に一時の快い夢をみさせてくれる。

(5-16)なにもかもが煩わしいからわれわれは差別を恐れ、福祉を唱え、健康を重んじているのであろう。

(5-17)日本にはキリスト教がないからニーチェの言う「神の死」はわれわれの問題ではないという日本人がよくいる。しかし明治以来、近代化の洗礼を受けて、日本人をつつんでいた江戸文化の有機的統一体が失われ、今や国家にも個人にも目的がなく、「彼岸の世界」への信仰ももち得なくなっているのは、まさに現下のわれわれの問題ではないだろうか。「神の死」とはなにも西洋だけの問題ではない。われわれ近代文化全体をつつみこんでいる宿命である。

(5-18)いっさいの現象の仮面を剝いで、裏側の真実を見ようとすること自体が、ひとつの嘘になり、自己欺瞞を招きやすい。

(5-19)本当の不安のうちに生きるとは、ときに仮面を剝いでその裏を覗き見、ときに仮面をそのまま素朴に愛するということを交互にくりかえす以外にはない。いいかえれば、ときにあらゆる真理を疑い、いかなる信念をも使い捨てて、懐疑の唯中に立つかと思えば、ときに嘘と承知でなにかを信じ、いわば手段としての信念を気儘に用いる立場へと転ずる。立場は次から次へと瞬時に変わっていく。どこにも定点はないのかもしれない。

(5-20)一切の価値意識を排除して、純粋に科学的な、厳密に客観的な認識は不可能であるばかりでなく、真の学問にとって有害でさえある。認識には価値観が必要である。と同時に、行動を伴わない単なる認識はけっしてなにかを認識したことにはならない。行動や価値は過去の研究を通じてもなお現在に作用していなければならない。

(5-21)そんなことを言っても、もとより音楽の理解にはなんの助けにもならないが、音楽が一種の文学性(あるいは近代的な感傷性)をもつことによって、かえって音楽自身のために演奏されるようになり、他の従属物でなくなっていったということは、まことに不思議な逆説といえるかもしれない。

(5-22)実人生に敗れた弱い人間、社会の落伍者、失敗者に限って、自分の敗北にも意味があることを別の論理で拡大解釈しようとして、救済を自分以外の世界に求め、自分の弱さから目をそらし、弱点の正当化を試みようとしたがる。これは生命力の衰退のしるしであるが、しかしまた、この自己欺瞞は群をなして、集団力に危険な力として伝播して行く傾向がある。いわば「伝染的な作用をする」のである。

(5-23)デカダンスとは自分で自分を瞞して、眠らせる、麻薬のような世界である。当然、大変に心地良い世界だと言える。そして近代人ほど、幸福の原理でなく快適の原理を求めて倦み疲れている存在もないと言ってよいだろう。

(5-24)真理と名のつくものはことごとくフィクションではないだろうか?物という「概念」が発生したのは、到達できるたしかな「物」が存在しているからではなく、むしろ「物」が存在していないからではないだろうか?同じように、真理という「言葉」が発生したのは、「真理」が認識可能であるためではなく、むしろ逆に、「一つの」真理が必要から捏造(ねつぞう)されたせいではないだろうか?

(5-25)言葉の及ばぬ部分に、言葉を用いることで、なにかの真理が得られたためしはなく、多くの場合には、むしろ逆に、真理(16頁上段から下段「光と断崖」)

にあらざるものに真理という「言葉」を与えただけに終わってしまう(中略)それくらいならむしろ、嘘を嘘としてはっきり自覚した方がよい。言葉の及ぶ部分がどこまでであるかをよくわきまえていることが必要であろう。

(5-26)理解とは理解し得ない自分にまず直面することから始まる、という問い

(5-27)狂気の淵のそば近くまで歩み寄ることによって、正気はかえって明晰になり、洞察の目はますます深く、ますます鋭く物事の核心を捉える

出典 全集第五巻
光と断崖― 最晩年のニーチェ より
「Ⅰ 最晩年のニーチェ」より
(5-1)(9頁下段から10頁上段「光と断崖」)
(5-2)(11頁上段「光と断崖」)
(5-3) (16頁上段から下段「光と断崖」)
(5-4) (24頁下段から25頁上段「光と断崖」)
(5-5) (60頁下段「光と断崖」)
(5-6) (62頁上段「光と断崖」)
(5-7) (97頁上段から下段「幻としての『権力への遺志』」)
「Ⅱ ドイツにおける同時代人のニーチェ像」より
(5-8) (319頁上段)
「Ⅳ 掌篇」より
(5-9) (396頁下段「人間ニーチェをつかまえる」)
(5-10)(429頁上段「私にとって一冊の本」)
(5-11)(429頁上段「私にとって一冊の本」)
(5-12)(453頁下段「「教養」批判の背景」)
(5-13)(472頁上段「「教養」批判の背景」)
(5-14)(474頁下段「「教養」批判の背景」)
(5-15)(478頁下段「ニーチェと現代」)
(5-16)(479頁下段「ニーチェと現代」)
(5-17)(481頁下段「ニーチェと現代」)
(5-18)(486頁上段「実験と仮面」)
(5-19)(487頁上段「実験と仮面」)
(5-20)(493頁上段「批評の悲劇」)
(5-21)(496頁下段「ニーチェのベートーヴェン像」)
(5-22)(501頁下段から502頁上段「自己欺瞞としてのデカダンス」)
(5-23)(504頁上段「自己欺瞞としてのデカダンス」)
(5-24)(516頁下段「言葉と存在との出会い」)
(5-25)(522頁下段「言葉と存在との出会い」)
(5-26)(532頁上段「和辻哲郎とニーチェ」)
「後記」より
(5-27)(559頁)

阿由葉秀峰が選んだ西尾幹二のアフォリズム「第三十八回」

(4-26)現代では他人の信念は好んで疑うが、事実と名づけられてあればなんでも簡単に信じる人がふえているように、私には思える。語っているのは事物それ自体で、人間は介在していないという主張は俗耳(ぞくじ)に入り易いが、しかしそのようにして主張された事実もまた一個の観念であり、厳密に考えれば主張者の表象であることを免れることはできないのである。事実ほど曖昧で、無限の解釈を許すものもないからである。

(4-27)過去は現在に制約され、未来への意識とも切り離せない。

(4-28)過去を見る立脚点が、一般に十九世紀ほど安定していた時代はなかった。歴史とは何か、過去とは何かに関し共通の了解があり、人はその前提を疑うことを知らなかった。従って歴史に対する素朴な客観主義への信仰が十九世紀全体を蔽っていた。

(4-29)「先入見」を除いて人は過去を認識しうるというが、正確な客観性というような観念も、すでに一つの「先入見」ではないか。

(4-30)いかなる過去も、ついに正確に把握されることはなく、いかなる事実も、ついに完全に再現されることはない

(4-31)過去とは固定的に定まっているのではなく、生き、かつ動いているのである。文献学者の客観性への信仰は、過去を既に固定して考えているが、過去の事実とはニーチェが言う通り、「際限のないものであり、完全に再生産することのできないもの」である。と同時に、過去を認識する人間もまた、たえず動いている動態であり、なんらかのフィルターなしではなに一つものを見ることはできない。

(4-32)過去とはわれわれの目に見える光景なのであり、われわれがそれに問を発する限りにおいて存在するものである。しかしだからといってその問いは、単なる主観の反映として歴史を静的に捉えるのではない。そのような安定した構図は最初からわれわれには拒まれている。歴史に関する認識は所詮相対性から脱却することはできないが、われわれは自ら動かずして、同じような動かない過去を認識するのではない。認識するとは、生きながら、行動しながら認識することにほかならず、われわれの情熱は一定地点に立ち止まることを決して許さないだろう。

(4-33)言葉で表現し得ないなにかにぶつかって、初めて言葉は真の言葉となる。言葉では伝達しえないなにかが表面の言葉を支えている、

(4-34)結局過去の認識は現在に制約されているといえる。われわれの熟知しているごく近い過去の出来事ひとつの解釈にしても、じつに数かぎりない解釈が存在することはわれわれの通常の経験である。それはおおむね歴史家ひとりびとりの個人の主観の反映である場合が多い。あるいは時代の固定観念、すなわち通念の反映像という場合もありうるだろう。つまり過去像はそのときどきの現在の必要に相応して描き出されているのである。

(4-35)われわれが現在の価値観によって制約され、過去を認識しているにすぎないのなら、自分が未来に何を欲し、どう生き、いかなる価値を形成しようと望んでいるかを離れて、われわれの歴史認識は覚束(おぼつか)ない。過去の探求は、一寸先まで闇である未来へ向けて、われわれが一歩ずつ自分を賭けていく価値形成の行為によって切り開かれる。過去を知ってそれを頼りに未来を歩むのではなく、未来を意欲しつつ同時に過去を生きるという二重の力学に耐えることが、人間の認識の宿命だろう。

(4-36)行動とは、たとえいかように些細な行動であろうとも、およそ事前には予想もしなかった一線を飛び越えることに外ならない。事前にすませていた反省や思索は、いったん行動に踏み切ったときには役に立たなくなる。というより、人は反省したり思索したりする暇もないほど、あっという間に行動に見舞われるものだ。

(4-37)人はなんらかの行動を起すためには、そのつど仮面を必要とする。仮面と承知で素面(すめん)を演じるのではなく、素面であると信じ切ることなくしては、それが後で仮面であったと判明する事態も起こらないだろう。そのかぎりで人は騙されること、幻惑されることを自ら欲する瞬間もある。

(4-38)歴史の研究とは、過去を厳密に扱うだけでなく、自ら哲学的に過去の中へ思索するのでなければならない。しかしその思索は観照ではなく、観照する安定した立脚点は現代に生きる人間には与えられていないのであるから、たえず自分の立つ足場を取り外して歩んで行くようなことでなければならない。いいかえれば極度の不確定性の中に立ちつくすことである。

(4-39)ヨーロッパでは、天地創造から最後の審判に至るまでの有限な時間の内部の、くりかえしのきかない(後戻りできない)事象の連鎖であると考えられる限り、歴史は反自然的である。なぜなら自然は永遠にくりかえす世界、悠久無辺、永劫回帰の世界である。歴史の基本は、自然と対立した、人間の一回的な行為の連鎖にある。一回的であるがゆえに、その都度の行為が等価値で、記録に値する。

(4-40)ギリシア人はつねに長時間的なもの、永遠なもののみを考えた。現在の瞬間に生きることが、同時に永遠につながる。自然は同一のものの周期する世界であり、悠久無辺である。時間には発端もなければ、終末もない。キリスト教世界のように、終末の目的が歴史に意味を与えるのではない。ギリシアにも歴史家はいたが、有限な時間が一つの目的へと向かう多くの人間的出来事の連続として、歴史が認識されたことはなかった。

(4-41)日本の近頃かまびすしい教育論争に一番欠けているのは、この理想の観点である。すなわち教育は無償の情熱に支えられるべきで、生活向上のためにあるのではないこと、定まった訓練や修行を経てはじめて真の自由が得られるのであり、青年に無形式の自由を最初から与え、自主性を育てるという考えはなんら自由でも自主性でもない(中略)ニーチェの言葉は現代日本の教育の弱点を的確に指摘している

(4-42)ニーチェが言葉化していることだけが彼の思想ではない。彼がある局面でなにも語っていないこと、つまり彼の沈黙の部分も彼の主張の一つである。

(4-43)人間の体験というのは、言葉になる以前のものを孕んでいるのが常で、後からそれを言葉で再現するのはどだい矛盾をはらんだ作業です。

(4-44)言葉の天才であればあるほど、言葉には及びがたいものがあるということを予感している

(4-45)学問研究は「物語」でなくてはいけない、

出典 全集第四巻
「第三章 本源からの問い」より
(4-26)(459頁上段)
(4-27)(461頁上段「第一節 歴史認識のアポリア」)
(4-28)(461頁上段「第一節 歴史認識のアポリア」)
(4-29)(468頁下段「第一節 歴史認識のアポリア」)
(4-30)
(4-31)(469頁上段「第一節 歴史認識のアポリア」)
(4-32)(470頁上段「第一節 歴史認識のアポリア」)
(4-33)(489頁下段「第二節 ワーグナーとの共闘」)
(4-34)(495頁上段から495頁下段「第二節 ワーグナーとの共闘」)
(4-35)(495頁下段「第二節 ワーグナーとの共闘」)
(4-36)(517頁下段「第三節 フランス戦線の夢と行動」)
(4-37)(518頁上段「第三節 フランス戦線の夢と行動」)
(4-38)(519頁下段「第三節 フランス戦線の夢と行動」)
「第四章 理想への疾走」より
(4-39)(609頁下段「第三節 歴史世界から自然の本源へ」)
(4-40)(609頁下段から610頁上段「第三節 歴史世界から自然の本源へ」)
(4-41)(616頁上段「第四節 十九世紀歴史主義を超えて」)
(4-42)(678頁下段「あとがき」)
(4-43)(733頁上段「渡邊二郎・西尾幹二対談「ニーチェと学問」」)
(4-44)(737頁上段「渡邊二郎・西尾幹二対談「ニーチェと学問」」)
(4-45)(778頁「後記」)

 

阿由葉秀峰が選んだ西尾幹二のアフォリズム「第三十七回」

 

(4-1)ニーチェは多く読み、深く調べることで必ずしも「正解」に達するとは限らない思想家である。時代に応じ、個人に応じ、それぞれ異なった顔をみせてきた多面体である。

(4-2)われわれはとかく樗牛の時代の無理解や誤解を嗤うが、はたして当時よりもニーチェを多く知っていると言えるのだろうか。彼を概念で知るのみで、体験で知ることを忘れていはしないか。おかげでわれわれは樗牛の時代の人のように、ニーチェの言葉に対し素直に驚くことがなくなっているのではないだろうか。

(4-3)中世におけるように、もし超越せる神が実在するのなら、じつは道徳という人間的尺度は問題にならないはずなのだ。神が全能であるなら、人間の世界はすべて悪であり、道徳とか倫理とかに意味はなにもないことになるからである。

(4-4)歴史は言葉に支えられた世界であって、言葉を離れて事実そのものを捉えることが必ずしも歴史ではない。いったい歴史上の客観的事実なるものは存在するのか。

(4-5)ニーチェはさまざまな理想や道徳の背後に、自己錯覚の動機を発見して、それを根底的に追跡し、かつ情熱的に排撃した。彼は自己欺瞞をなによりも憎んだ。なぜなら自分を守るために自分でそれとは気づかずに嘘をついている自己錯覚を、理想や道徳として祀り上げるのは、自覚的に嘘をつくよりも、もっと許せないからである。ニーチェは無自覚の嘘、ないし無意識に犯す嘘を憎んだのであった。

(4-6)近代は日本人にとってときに追認の目標、そうでない場合でもせいぜい、自己の内部に侵入してくる厄介な異物、という意識であって、日本人が自己の内部にひそむ近代そのものの弱点と批判的に対決するという姿勢ではあり得なかった。

(4-7)ニーチェを全体として解釈するようなテーゼは存在しない。

(4-8)貧しい精神は自分の生立ちの経験をただ貧しくするだけで終わるのである。

(4-9)人は誰しも結果を予想して生きてはいない。ひとつの生涯は繰り返しのきかないその日その日の、生命の燃焼の連鎖から成り立っている。

(4-10)やり直しのきかない時間を、そうと知りつつ生きる以外に、人間の生き方というものは存在しない

(4-11)一人の思想家にとって、思いもかけぬ別のかたちで、後年の素顔をいち早く覗かせている少年時代とは一体なんなのであろうか。

(4-12)歴史と文学、史実と神話の接点において、歴史は文学の中に、史実は神話の中に姿を消して行き、その境界は定かではない。

(4-13)意識の表面に浮かぶ思想や観念は、肉体にどんなにあっさり裏切られるものであるか。いまの自分の肉体は、次の瞬間に変化している。意識は、ほとんど変化について行けないほど頼りない。言葉は、たしかにその変化の一点をとらえるのだが、次の瞬間には、なぜかもう嘘のように思える。

(4-14)外からくるどのような経験も、自分のなかにあるものの反映であって、自分の中にあるものと外からくるものとの戦いの中で、それははじめて経験となる。

(4-15)外国語で考えるのは、自分の内発的な感受性や思考力を一番大切なところでこわすことでもある。各国語を自在に操れる語学的天才といったタイプの人間は、その点に関し疑いを持っていないのが普通である。

(4-16)自分を他人の目にわかりやすくしようとする衝動は誰にでもあるだろう。自分を主張したり、説明したりする動機は、大抵そうした伝達衝動に発している。しかし他人の目に自分をわかりやすくする前提は、また、自分で自分をわかりやすくしてしまう欲望に通じてはいまいか。あるいは、自分で自分がわかってしまったとする傲慢に通じてはいまいか。人はなにか行動しようとするときには、自他に対するわかりやすさをともあれいったんは放棄してしまうほかない。

(4-17)なにかと手を切りたければ、まずそれをとことん相手にすることだ。やがて時間がくる。それより早くは駄目なのだ。手を切る時間をあらかじめ計算などしている者には、なにひとつ結果をもたらさない。

(4-18)感動はただ相手が与えてくれるものではない。自分の側の、瞬間から瞬間へと移り変わっていく意識、もしくは無意識の変化と不可分である。これは受け手側の、一種の化学変化であろう。

(4-19)無知は必ずしも偉大さを意味しないが、偉大さは無知、もしくは単純さを伴っているのが常である。

(4-20)研究論文を書くつもりで、安直な感想文や、センチメンタルな対象への主情の吐露に終わるのが、文学や思想を論じたがる青年の常である。文学部の卒論のたぐいを読めばすぐわかるのだが、ある対象に感激することと、ある対象を自分の言葉で客観化することとは全然別だということが、青年にはどうしてもわからない。

(4-21)多量の知識は人間をときに愚かにする。人生のもっとも肝心な知恵は、知識とは別だし、多く知っていることは、決断をにぶらせる。反省が増大することは、生産的でない。

(4-22)全体を知らずして、部分は存在しない。勿論、人間は全体を容易に知ることはできず、人間の認識は結局は部分にしか及び得ないのかもしれない。部分の中にわずかに全体が象徴的に予感できるだけかもしれない(ランゲを愛読した彼は全体知が容易に得られるとは考えていない)。しかし全体を知ろうとする意欲、もしくは全体への緊張をもし最初から欠いているならば、部分は単なる断片に終わり、知識は瓦礫となんら変わるところはないであろう。

(4-23)背景に闇があってこそ、光点はじめて輝くのである。われわれは過去の人間、とくにヨーロッパのそれを研究する場合に、背景の闇から掘り起こす基礎作業を、あまりにも怠っているのではないか。そして表面に現われた光り輝く結論だけに、あまりにも安易に飛びつきすぎるのではないか。

(4-24)その時代の中で生きている者には後世の人間にはわからない空気がある

(4-25)ただ、いずれにしても、資料はすべてを語り得ず、細かな事実の探求は一人の人間の統一性を解体させ、謎を残すばかりである。人間は複義的に生きている。

出典 全集第四巻 ニーチェ 
第一部
「序論 日本と西欧におけるニーチェ像の変遷史」より
(4-1) (28頁上段「Ⅰ 一八九〇年」)
(4-2) (45頁下段から46頁上段「Ⅱ 一九〇〇年―一九二〇年」)
(4-3) (55頁下段「Ⅱ 一九〇〇年―一九二〇年」)
(4-4) (66頁下段「Ⅲ 第一次世界大戦―一九三〇年」)
(4-5) (73頁上段から下段「Ⅲ 第一次世界大戦―一九三〇年」)
(4-6) (85頁上段「Ⅳ 一九三〇年―第二次世界大戦」)
(4-7) (95頁上段「Ⅳ 一九三〇年―第二次世界大戦」)
「第一章 最初の創造的表現」より
(4-8) (124頁上段から下段「第一節 早熟の孤独」)
(4-9) (135頁上段「第二節 思春期の喪神」)
(4-10)(136頁下段「第二節 思春期の喪神」)
(4-11)(186頁上段「第三節 ヘルダーリンとエルマナリヒ王伝説」)
(4-12)(195頁上段から下段「第四節 音楽と文献学のはざま」)
(4-13)(207頁上段「第四節 音楽と文献学のはざま」)
(4-14)(210頁上段「第四節 音楽と文献学のはざま」)
(4-15)(216頁下段「第五節 書物の世界から自由な生へ」)
「第二章 多様な現実との接触」
(4-16)(254頁上段「フランコ―ニアの夢幻劇」)
(4-17)(263頁上段「フランコ―ニアの夢幻劇」)
(4-18)(288頁下段「ショーペンハウアーとの邂逅」)
(4-19)(296頁下段「第三節 文献学者ニーチェの誕生」)
(4-20)(314頁上段「第三節 文献学者ニーチェの誕生」)
第二部
「第一章 自己抑制と自己修練」より
(4-21)(356頁上段「第二節 ラエルティオスとアリストテレス」)
(4-22)(356頁下段から357頁上段「第二節 ラエルティオスとアリストテレス」)
(4-23)(367頁下段から368頁上段「第二節 ラエルティオスとアリストテレス」)
(4-24)(384頁上段「第三節 恋とビスマルク」)
(4-25)(403頁下段「ライプツィヒの友人たち」)