阿由葉秀峰が選んだ西尾幹二のアフォリズム(第十四回)

(2-11)誰しも他人を理解しようと思っているばかりでなく、自分を理解させようと思い、あるいは理解させることが出来ると思っている。つまり、自分で自分を理解しているように、他人に自分を理解してもらおうという欲望をもたないものはない。論争において、味方の理解を期待するのはそのような欲望と無関係ではあるまい。しかし、ここでよく考えてみる必要がある。それは、実は、他人が自己を理解しやすいように自己を仕立て上げる欲望でしかないのではないか。その弊害は、自分で自分が理解できるように思いこむことにある。

(2-12)認識への直線的な道を示す「科学的方法」は、それを硬化させるあらゆる信仰を打ちくだくが、信仰にとじこもって、認識への道をさまたげているものは、じつは科学そのものではないのか。

(2-13)神を信じなくとも神の影を信じている。かくして逆転された真理の座に、神の代わりに科学がとって代っているからといって、もはや何の
不思議もあるまい。人間には、つねに、なにかの真理が必要だからである。真理の得られないときには幻覚さえも欲するからである。

(2-14)一冊の小説を三人が読めば、そこにあるのはすでに三冊の小説である。作品のなかにめいめいが別のものを読みとっている、というだけのことではない。読者は作品のなかに、作者の意図とさえかかわりのない自己自身の映像をみる。読者は作品を読むのではない。己れを読むのである。

(2-15)「平和」とか「階級」とか「ヒューマニズム」とか「学問の自律」とか・・・・・・こうした言葉が理窟らしい理窟でこね上げられ、意味ありげな内容に仕立てられると、書いた本人とはかかわりなしに、言葉だけが独りでに動き出す。言葉は個人から離れ、個人とはかかわりのない所で、別個の個物としての存在を主張しはじめる。言葉が人間を支配し、人間は言葉に操られる。

出展 全集第2巻 「Ⅰ 悲劇人の姿勢」
(2-11) P113 上段「福田恆存(一)」より
(2-12) P125 上段 「ニーチェ」より
(2-13) P135 下段 「ニーチェ」より
(2-14) P152 上段から下段 「ニーチェ」より
(2-15) P152 下段からP153 上段 「ニーチェ」より

阿由葉秀峰が選んだ西尾幹二のアフォリズム(第十三回)

2-6)本当に懐疑する心とは、とどまるところを知らぬ執拗な、忍耐強い自己批判力である。

(2-7)選択の自由の可能性があり余っているために、ついに行動の自由を奪われた近代人の懐疑癖は、疑っているのではなく、はじめから信ずる力を持っていない、というに過ぎまい。

(2-8)人間に過去は知り得ないが、歴史体験とは、知り得ないという事実を確然と知る、その瞬間、瞬間の知を信じるということである。

(2-9)なんらかの安全な立場からなされる他者批判ほど容易なものはない。それは自分を善とし、他を悪となすことで終わるからである。事実、現代はそういう批判力ばかりが旺盛になっている自己正当化の氾濫する時代である

(2-10)一人の人間の自由は他の人間の不自由の上にしか成り立たない。自由の理念は原理的に平等の理念と一致はしないのである。そのことが自明の前提とされていた時代には、人間の価値はその人を超えている普遍的ななにものかによって保証されていたのであって、自分の価値を自分で定立し、主張するような力技を個々人が強いられることは起こらなかった。自由と平等がともに主張される近代に入ってから矛盾とデカダンスがはじまった。

出展 全集第2巻 「Ⅰ 悲劇人の姿勢」
(2-6) P69 上段 「小林秀雄」より
(2-7) P71 下段 「小林秀雄」より
(2-8) P84 上段 「小林秀雄」)より
(2-9) P97 下段からP98上段 「福田恆存(一)」より
(2-10) P102 下段 「福田恆存(一)」より

阿由葉秀峰が選んだ西尾幹二のアフォリズム(第十二回)

阿由葉秀峰 坦々塾会員

(2-1)確かなものはなに一つないという懐疑のただ中でこそ、人は確固とした信念に、瞬間の生命を賭けうるのである。認識と行動との間にはつねに紙一重の差しかない。人は自分を疑いつつ、自分を信ずるしかない。そして、その瞬間を信じた行為だけが言葉となる。

(2-2)言葉は、事実を事実どおりに指し示すのに少しも便利なようには作られていない

(2-3)歴史は認識するものでも裁断するものでもなく、可能なのはただ歴史と接触することだけであり、そこに止まって「成熟」するより他に手はない。

(2-4)専門の研究家はたいてい視点ということを重視するが、視点の卓抜などというものは、時代が変われば、すぐ滅びる。

(2-5)批評とはまず対象を壊すことだが、対象は消えた、しかし自分は何かの立場に立って対象を壊しているのではないか、と気がついたときに、今度は自分のその立場をも壊さずにはいられないのが強い批評精神の必然的に赴かざるを得ぬ方向だろう。はげしい否定の精神は一切を消す。自分の拠り所をも消す。そのとき批評ははじめてクリティック(危険)なものとなる。まず、なによりも、自分にとって危険なものとなる。

出展 全集第2巻「Ⅰ 悲劇人の姿勢」
(2-1) P20 下段 「アフォリズムの美学」より
(2-2) P25 上段 「アフォリズムの美学」より
(2-3) P36 下段 「小林秀雄」より
(2-4) P46 上段 「小林秀雄」より
(2-5) P47 下段 「小林秀雄」より

村山秀太郎の選んだ西尾幹二のアフォリズム(第二十回)

(8-26)日本では落第が恥しいのは、日本の社会がドイツより階層差も少なく平等だからである。能力の判定が人格の判断にまで関わってくる。

(8-27)革命を経験しなかったドイツは、近代史において立遅れ、未熟と後進性に悩みつづけた。しかし歴史を多少振返ってみると皮肉な進行に気がつく。教育や学問は奇妙なことに、かえって国家による近代的な支配と制縛から解放された自由を享受しつづけることが可能になった。……中略……19世紀のドイツでは、大学こそ自由で、無拘束で、「真理のための真理」を追究し得る貴族主義的な精神の王国であった。

(8-28)彼ら(ドイツ人、村山注)
はいい意味で教育の限界を知っている。教育に対するペシミズムを持っている。教育によってなにもかもを善くしようとするような思い込みがない。適当にずぼらで、大雑把である。

(8-29)しかし個としての、実存としての私は、平均的な処理全体に抵抗せずにはいられない。高い学問を求める人間がすべて権力志向、功利主義的志向であるとは限らないからだ。

(8-30)世の中が豊かになって、例外的人間は殖えている。

出展 全集第8巻 教育文明論
(8-26) p114 下段より 日本の教育 ドイツの教育
(8-27) P116 上段より
(8-28) P122 下段より
(8-29) P124 上段より
(8-30) P124 下段より

村山秀太郎の選んだ西尾幹二のアフォリズム(第十九回)

(8-21)予定通りうまく行くと思った合理的プランが裏切られる例は、人類の歴史に無数にある。マルクスは経済的不平等さえ取り除けば、人間は平等になると考えたが、経済的不平等がなくなると、人間はかえって新しい別の「人間分類」の欲求を抱き始めるものらしい。

(8-22)人間は自分で自分を教育する以外にない、・・・教えが誤っていようが正しかろうが、どのみちたいして影響はなく、他人の授ける教育とは関係のないところで、人間は教育され、成人として行くという意味でもある。

(8-23)知識や技術を超えたもの、すなわち教育家が最も教えたがっている人生の主要問題が、どこそこの学校の何々先生の教えといったきわめて偶然に与えられるものによって左右されるのだとしたら、これはかえって困ったことだと言えはしまいか。

(8-24)教育はつまるところ自己教育である。学校はそのための手援(だす)けをする以上のことはなし得ないし、またすべきでもない。

(8-25)落第してもこの国では人生の決定的ダメージにはならない……(中略)ドイツの社会は多様性に富む。学者の国であると同時に職人の国でもある。能力を発揮する可能性はいろいろあるのである。

出展 全集第8巻 教育文明論 
(8-21) P50 下段より 「日本の教育 ドイツの教育」を書く前に私が教育について考えていたこと
(8-22) p94 上段より 日本の教育ドイツの教育
(8-23) p94 下段より
(8-24) p94 下段より
(8-25) P114 上段より

村山秀太郎の選んだ西尾幹二のアフォリズム(第十八回)

(8-16)自由と平等の理念を謳ったフランス革命の国が、このように「身分社会」を温存させ、しかも近年格差をいっそう際立たせているという新しい事態の出現は、じつに奇異と言わねばなるまい。これはひょっとしたら改革を必要とするフランスの恥部かもしれない。

(8-17)西ドイツは「職人」の国である。完備された職業教育には定評がある。一番低い学歴の持ち主の者にも、未来は袋小路に閉ざされていない。

(8-18)たかが入試などという、子供世界の行事の中に選抜の儀式を封じ込めて、実社会では露骨な淘汰を表立てて行わないという現行のシステムは、日本人の体質に合っているのだという考え方も成り立つのである。 だいたい不明朗で、曖昧であることが美徳にみえる奇妙な国民である。

(8-19)学校の外での露骨な淘汰を避けるために、18歳での一発勝負を、ある程度止むを得ない必要悪として承認している・・。(中略)・・・たまたまそのとき失敗し、選に漏れてしまった人間が、あと一生怨念を抱えて生きていくのは不健全きわまりない。

(8-20)評価する方も、される方も、正面切って、自分自身の責任で、相手を評価する、あるいは相手から評価される、という用意が欠けている。(のが日本の場合:村山注)

出展 全集第8巻 教育文明論
(8-16) P37 下段より 「日本の教育 ドイツの教育」を書く前に私が教育について考えていたこと
(8-17) P39 下段より
(8-18) P43 下段より
(8-19) P45p46段より
(8-20) P47 上段より

村山秀太郎の選んだ西尾幹二のアフォリズム(第十七回)

(8-11)人間は貴重な閑雅や無為を愉しみつつ、ゆっくり成熟の時刻(とき)を待たなけれならない。

(8-12)ニーチェが『善悪の彼岸』の中で、「勤勉は宗教的な本能を破壊する」と書いたとき、ブルクハルトはこれに共感を表明した。

(8-13)私は教育をなにかのための手段とは見ない、能率や効果から解放された、理想的な状態のもとに認めたいという欲求を一方では持っている。けれども、そんなことをすれば、日本のような後進国はたぶん近代化から取り残されたであろう、とも他方では考える。

(8-14)けれども、日本は教育によって社会主義革命にも近いような階級の分解作業をなし遂げて来た国でもある、と私は考えている。

(8-15)しかしイギリスでは労働者階級の子弟は高い教育を受けることを必ずしも望まないし、親も決してそれを好まないのだ。高い教育を受けた結果、彼らの思考方法や生活の理想が中流階級的になって、家庭の内部で親兄弟との違和感を惹き起こすなど、同族集団の中に断絶と変化が起こるのを恐れるからである。

出展 全集第8巻 教育文明論
(8-11) P32 上段より  「日本の教育 ドイツの教育」を書く前に私が教育について考えていたこと
(8-12) P32 下段より
(8-13) P33 下段より
(8-14) P34 上段より
(8-15) P36 下段より

村山秀太郎の選んだ西尾幹二のアフォリズム(第十六回)

(8-6)教育熱心の父親にかぎって、利己的な態度をとりがちで、自分の子供を偏愛する・・・(中略)・・・敵をも公平に客観化する目は、男性の方がいくらかましだと思い、これは価値の上下ではなく、社会的機能の相違から来ると考えているが、最近の家庭では、この点に狂いが生じているのではないだろうか。

(8-7)ヨーロッパでは日本と違い、(中略)少なくとも学校と家庭との役割の違いだけは、はっきりけじめがついている。国家の成員を育てるための公教育は学校が引き受けている。しかし、道徳や宗教に関する指導は親の責任である。

(8-8)大学における教育内容の適否が論じられることはほとんどないし、寡聞にして私は、学問の理念が問われたという話も聞かない。

(8-9)つまり教育には本来、人間が怠惰であることが許されたり、時間をかけてゆっくり成熟することが許されたりする閑雅な側面があるはずである。

(8-10)教育は教育を受けること自体に目的を持つのであって、社会発展の手段ではない。

出展 全集第8巻 教育文明論
(8-6) P24 下段より 「日本の教育 ドイツの教育」を書く前に私が教育について考えていたこと
(8-7) P25 上段より
(8-8) P31 上段より
(8-9) P31 下段より
(8-10) P32上段より

村山秀太郎の選んだ西尾幹二のアフォリズム(第十五回)

村山秀太郎:昭和38(1963)年生。早大大学院修士、社会思想史専攻。大学受験「世界史」の予備校名物講師として知られる。

 16歳で単身ヨーロッパを回遊した。その後世界各国を100か国以上、紛争地帯を含めて踏破し、その知見に基くユニークな講義で名を高からしめた。著書は『わかりやすい世界史の授業』『よくわかる中東の世界史』『朗読少女とあらすじで読む世界史』(以上角川書店)、『世界史トータルナビ』(学研)

(8-1)平等と無差別とを取り違えてきた日本人のものの考え方が、しだいに教育の現場にまで歪んだ影響を及ぼしている証拠であろう。

(8-2)つまり一方に平等への無理強いの力が働く分だけ、他方に現実の必要からくる人間の能力の選り分けが、十八-十九歳というある一時期に集中的に、仮借ない形式でおこなわれざるを得なくなるのである。それが学校に対する明治以来の日本人の特殊な感情―抑圧とルサンチマン(復讐心理)に基く階級上昇の感情―に由来することはあらためて言うまでもなく、遠因は日本の近代化の構造にあるのだが、しかしそのことによって教育を本当に教育のために考え、学問が好きで高い知識を得ようとする少数の人間がどんなに迷惑をしているかということを言っておかなくてはならないのである。

(8-3)なにも学校だけが人生のすべてではないとどうして教えないのだろうか。手に技術をもち幸せに自信をもって生きてゆけるのだという国民教育を一方でおこなうことが必要であると同時に、他方では、高度の能力をもつ優秀な頭脳にとって張り合いのある競争体系を、教育組織のなかに作っていくべきではないだろうか。

(8-4)人間が人間を選別し、評価する行為は、当然冒険であり、賭けである。それがこわいのでできるだけ避けようとする逃げの姿勢が、日本の社会には明らかにある。その結果が学歴依存である。(中略)「学歴社会」は明らかに責任主体を欠いた日本社会の、このような逃げの姿勢が生み出した病いの一つである。

(8-5)男の子をしっかり自分の手の中に握っていることが出来ない最近の父親の弱さが、こうした事件(中学生殺人事件:村山注)の遠因をなしていることを反省する言葉はどこからも聞こえて来なかった。

出展 全集第8巻 教育文明論
(8-1) P10 上段より 「日本の教育 ドイツの教育」を書く前に私が教育について考えていたこと
(8-2) p14 上下段
(8-3) p16 下段p21,下
(8-4) P17 上段より
(8-5) P24 上段より