帝國海軍に於ける軍令承行權について

ゲストエッセイ

田中卓郎氏は坦々塾の会員、哲学者。

 自衛隊を国軍にしない限り日本の軍事力は機能しない、ということについて「軍令承行権」という概念の重要さを私に教えて下さった田中卓郎氏に、この概念の哲学的説明をお願いした。以下の通りである。

帝國海軍に於ける軍令承行權について

― 無制約的な國家主權の直截な發動としての軍事作戰遂行といふ觀點よりの考察 ―

                              田中 卓郎
 帝國海軍に於ける軍令承行權の問題と言へば、通常は歴史的事實の問題としての「一系問題」、即ち海軍が戰鬪を行ふ際の指揮權の繼承序列を定めた軍令承行令『軍令承行ニ關スル件』(内令廿二號、明治卅二年三月廿四日發令)「軍令ハ將校、官階ノ上下任官ノ先後ニ依リ順次之ヲ承行ス」の「將校」に、海軍兵學校出身の兵科將校の他に、海軍機關學校出身の機關科士官をも加へて兩者を區別せず、一括して(一系化して)兵科將校(「將校」と「士官」とは一般語法では同義であるが、海軍では區別があつた。その定義や變遷を詳しく辿るのは煩瑣な作業になる。大雜把に言へば、軍令承行權を有つ兵科將校のみが「將校」であり、その他の兵種は「將校相當官」としての「士官」であると理解すれば宜しいかと思ふ)と爲し、兩者が共に戰鬪の指揮權を有つやうに改め、海軍内に於ける兩者の深刻な對立をやつと終戰の前年の昭和十九年八月に解消した、といふ歴史的事實を意味するが、この論稿はかかる歴史的事實に關するde factoな歴史學的考察では全くない。

 本稿の目的は、軍政と區別される軍令(作戰、用兵に關する統帥權)を遂行することは、無制約的な始源的權能としての國家主權の現實に於ける最も直截な現れなのであり、これの繼承遂行序列たる軍令承行令が海軍に於ける最重要事項であり續けたといふことを、de factoの問題としてではなく、帝國海軍が近代主權國家の國軍である限りさうあらざるを得なかつたのである、といふde jureの問題として考察することである。この論理の必然が存在し續けてゐたことそのことを考察の對象とするのであつて、現實にこの「一系問題」が海軍に於いて如何に弊害を齎したかを歴史的事實として檢證することが本稿のテーマなのではない。

 帝國海軍に於ける現實の「一系問題」とは、殆ど專ら兵科將校と機關科士官との權限爭ひであり、その原因は兵科將校が所屬戰鬪部隊に居る限り、機關科士官は如何に階級が上で更に實戰經驗等が豐かで軍人として如何に有能あつても、機關科士官である限りは部隊を指揮して戰鬪する權限たる軍令承行權が認められない、といふ軍令承行令の規定にあつた。この状態が實に昭和十九年八月の軍令承行令の改訂まで續いたである。これに對する機關科士官の怒りと不滿は尋常ではなく、その結果兩者の對立は海軍の戰力にも否定的な影響を及ぼしたといふことが「一系問題」の内實であり、當時の海軍將校、士官達の認識も、書き遺されたものの幾つかを讀む限り、殆どそのやうな程度に留つてゐたと思はれる。この問題が帝國海軍に於いて、この論稿で明らかにされるやうな意味に於いてどの程度認識されてゐたのかは、管見の限りでは判らず、從つてこれを探求することは大變意義深く魅力的な歴史學的テーマではあるが、それは本稿のテーマではない。

 本稿のテーマは、地上の政治權力の最終根據である無制約的な國家主權の直截な現象形態である國軍(無制約的武力)がその本質を顯現するのは國家主權の行使たる戰爭であるが、かかる戰爭に於いて部隊を指揮する權限(軍令承行權)を如何なる身分の軍人が所持するのかといふことが、海軍の組織に於ける最重要事項の一つであり、これを承行する兵科將校が海軍最高のエリートであると位置附けられてゐたことが、近代主權國家の國軍の在り方として、現實にはその運用方法(規定)の重大な誤りゆゑに多大の弊害を齎し、殆ど弊害としてのみ認識されてゐたにも拘らず、原理的には正しいことであつたといふことを論證することである。

 
 大日本帝國憲法に於いて、國家主權の體現者たる天皇が國家主權の最終的支柱たる國軍を指揮する最高の權限である統帥權を有つと規定されたことは、國家主權の性格と國家元首としての天皇の地位とを考へ合せれば論理的に當然のことであり、このことに依り、國家主權の無制約的始源性は正しく國軍に於いて保持されてゐる。この天皇大權としての統帥權の獨立は、昭和期に入り、軍縮條約を繞つて軍部により惡用されて「統帥權干犯」問題を引き起した元兇と一般に解釋されて惡名高いものであるが、かかる歴史的事實を捨象して純粹に論理的に考へるならば、國家主權の直截な現象形態であり、且つその最終的な支柱でもある國軍は、國家にとつて、行政機關としての政府、立法機關としての議會、司法機關としての裁判所といふ三權分立機關よりも國家主權に近いといふ意味に於いてそれらに先立ち、それらより始源的で無制約的な、謂はゞ生の力であり、ゆゑにそれらとは區別され、それらから制約され得ない獨立してゐる組織であると位置附けられることは、論理的には正當なことであると言はなければならない。

 (本稿のテーマからは外れるので詳述は出來ないが、國軍のかかる特別な性格ゆゑに軍人は一般の司法權によつては裁かれ得ず、一般の裁判所とは區別される軍法會議が必要となる理由が理解されよう。戰場に於いて軍人が敵兵を殺傷しても殺人罪や傷害罪に問はれず、違法性が阻却される根據は、軍隊が一般の法律の根據たる國家主權の直截な現れであり、軍の行動そのものが即時的に法的な根據となるので、軍の行動を制約し、これを法的規制や處罰の對象とする根據が原理的に存在し得ないからである。正當防衞、緊急避難といふ一般刑法上の規定によつてしか自衞官の敵兵殺傷の違法性を阻却出來ない自衞隊は、かかる點からも國軍ではあり得ないことが明瞭に看取されよう。)
 

 
 勿論、以上は現實を捨象した國家主權發現の純粹に論理的な經路に過ぎず、これをその儘國制と爲して國家を經營することが無理なのは當然である。天皇が現實に國軍を統帥すると云つても、天皇は高度な專門的軍事知識を有つ軍人ではあり得ないのは當然であるし、又軍隊を統帥すると云つても、戰爭を遂行する戰鬪部隊のみでは軍隊は成立し得ず、これを構成する兵員や豫算の確保等、戰鬪部隊以外の樣々な構成要件を滿たして初めて軍隊は構成維持されることも改めて指摘するまでもない自明なことである。かかる自明の理によつて統帥權は實際の戰鬪遂行の爲の戰略戰術の策定や作戰の立案とその指揮命令を擔當する軍令部門と人事や兵站、豫算等を擔當する軍政部門とに分岐するのは當然の趨勢であらう。 陸軍に於いては前者を參謀本部が、後者を陸軍省がそれぞれ擔當し、海軍に於いては前者を軍令部が、後者を海軍省がそれそれ擔當したのは周知の通りである。

 かかる概括的な統帥權の二分法に於いて、國家主權の始源的無制約性の發現たる戰爭を遂行する權限である統帥權は軍令部門に集約限定されたと考へてよいだらう。地上の權力の始源たる國家主權の無制約性は、かかる經路によつて正しく帝國陸海軍の統帥部、即ち陸軍參謀本部と海軍軍令部とにその儘の純粹な姿で發現するのである。この經路が帝國海軍に於いては軍令承行令といふ法令によつて明確に法制度化されてゐることが、帝國海軍が大日本帝國といふ國家主權を有つ近代法治國家の正規の國軍であることの原理的な、de jureな證明なのである。

 既に申し述べた如く、この事は、軍令承行令の存在が現實には「一系問題」と化し、軍令承行權を獨占的に掌握する兵科將校が、これを有能な機關科士官が作戰を指揮命令することを妨げ、彼らを差別して權勢を揮ふ口實として用ゐ、兩者の深刻な對立抗爭を引き起した、といふ歴史的事實とは原理的に別の事である。國家主權の發現として國軍を指揮命令する權限の經路が軍の法令上明確に規定されて、軍の武力行使が國家主權の發現として嚴格に位置附けられなければ、その武力行使は適法ではなく、單なる暴力行爲となり、敵兵の殺傷は單なる刑法犯罪としての殺人に過ぎなくなり、それを爲す「軍」は正規の國軍ではあり得ず、單なる私兵集團と見做される他はない。國軍の武力行使が正當性を獲得する唯一の方途は、それが正しく國家主權の發現であるといふことが法制上明確に規定され、國家主權から國軍への始源的無制約性とそれに由來する權能の讓渡の經路が明確に示されることである。これを囘避する國軍建設の如何なる方途も原理的に存在し得ない。(因みに、支那では人民解放軍といふ軍隊は中華人民共和國の軍ではなく、支那共産黨に所屬する軍隊といふ位置附けになつてゐるさうである。その理由を私は知らないが、本稿の結論より考察するならば、この事實は、人民解放軍は正規の國軍ではなく、支那共産黨といふ軍閥の單なる私兵集團に過ぎず、かかる徒黨とその私兵集團によつて支配されてゐる中華人民共和國は近代的主權國家、法治國家ではないといふことの端的な證據となるであらう。)

  平成廿六年 四月廿五日 金曜日

                                  識
  

阿由葉秀峰の選んだ西尾幹二のアフォリズム(第一回)

 先ごろ私の旧著から村山秀太郎さんがアフォリズムを拾い出して下さいましたが、どういう選び出し方をなさるかを私は実例文を当ブログで目にする前には知りませんでした。管理人さんに全部お任せでした。

長谷川さんはご自身のブログで次のように書いています。

西尾先生の本から、
短文を選んだアフォリズムの特集?をやった。

これが意外にやっかいで、
私としては出所場所をきちんとしたいし、
一字一句正確にしたかったので、
文字を照らし合わせる日々が続いた。

今回のアフォリズムを選んだ村山さんは
結構自分流に解釈されたりしているようで、
大幅な略があったり、
主語が添えてあったりして、
これを直すのが大変だった。

そりゃあ、そのまま載せれば楽ちんなんだけれど、
西尾先生の文章は「て、に、を、は」まで、
考え抜いて書かれているので、
ちょっとでも変えるのは嫌だったので、
こだわった。

別に仕事でもなく、
義務でもないのに、
でもこれが私の役割だと思って・・・・・・

 阿由葉秀峰さんも同様に昔からの愛読者のお一人で、坦々塾会員です。これから同じようにアフォリズムを拾い出して下さいます。同じように私はお任せで、見ていません。長谷川さんに直送されましたので、これから少しづつ掲示されるのを拝読するのは楽しみです。人により、私がそれぞれ違って顔を見せるのを私自身があらためて眺めるのは面白いというより、不思議な体験になるでしょう。

阿由葉秀峰の選んだ西尾幹二のアフォリズム

坦々塾会員 阿由葉 秀峰

 気宇壮大な西尾幹二全集は、大きな論考から、批評や紀行文、数十行の小さな随筆風にいたるまで、全てが文学の香気を醸し、さらにその有機体が纏まって、一巻一巻がそれぞれひとつの芸術としてふたたび昇華している現在進行中の作品群です。読み進む過程で光る一節にあたるたび、はたと立ち止まること屡々です。また、先生ご自身が編集する全集ゆえ、稀有な輝きを放つのでしょう。

 全集第2巻「悲劇人の姿勢」冒頭の「アフォリズムの美学」という昭和44年の論文に、「私はアフォリズムを読むのは好きだが、書いた経験はまだ持っていない。ただアフォリズムを十分に読みとることの厄介さ、読解することの難しさといったことを考えると、これを書くことのある種の危険もわかるような気がする。」(全集第2巻10頁上段)とあります。以降、アフォリズムを多産されてゆくというのに、それを読んだとき、私は何とも言いようの無い不思議な感覚に捉われました。

 エラスムスの云う「文章の短さ、鋭さ、機智、洗練、新奇、含蓄、簡潔さ」の強調(全集第2巻17頁上段)は、現代も有効なアフォリズムの要素でしょう。しかし、私が戴くこの機会は、そういった要素にそれほど捉われず、文章が短くはなくとも、寧ろ流麗さや韻律が感じられる文章、前後の文脈を知らなくても、それのみで独り立ちする文章を選んでみました。「何十年の体験の集積を、わずか数時間でわかってしまおうとするには、われわれは善良すぎる。」(全集2巻11頁下段)という、34歳の西尾先生の警句(アフォリズム)を肝に銘じつつ。

1)私たちは、私たちがこうして批判し、否定している対象そのものの一部であるという視点を見喪ってはならないのである。

2)内心は反対しながら、表面はにこやかに応対するといった交際術を都会風だとか、大人の付き合い方だとか言いたがる日本人は、じつははじめから言葉や論理にそれほど重きを置いていないというに過ぎまい。つまり言葉や論理で自分をどこまでも追い込んで、相手に自分をぶつけて行かない限り、自分が相手から抹殺されてしまうというような不安が日本人の社会にはもともとないのであろう。

3)日本人に取り入れられているのは西洋人の平常服です。日本女性は西洋の正装というものを知らない。で、正装が必要なときは和服をきてごまかすわけだけれど、そのうち和服の平常の装いを忘れてしまって、したがって平常着の上に成り立つ正装ということ、逆に言えば、正装という規範がなければ、平常着そのものにも自信がもてないはずだという当然の道理に対し無感覚になってしまった。いいかえれば、儀式によって規制されている日常という、いわば風俗の様式そのものを見うしなったのではないですか。

4)過去の規範がなければ、どうして新しい姿というものも生れて来ましょう。

5)伝統とは、その中にとっぷりひたっている者には、本来それとは意識できないなにものかを指す言葉なのである。

出展 全集第一巻 ヨーロッパ像の転換
1) P19下段より
2) P26下段より
3) P61上段より
4) P61下段より
5) P91下段92上段より

百鬼夜行の世界

 このところ東アジア太平洋地域には信じられない出来事が相次いでいる。マレーシア航空の行方不明事件も、韓国のセウル号沈没事件も、機長や船長に不明な点があった。謎はたぶん解明されないだろう。台湾の議会占拠事件はアジアの一大変動の兆しとみえなくはないが、日本のメディアが積極的に報道しないことが謎だ。

 が、何といっても最大級の謎は、北朝鮮の帳成沢粛清劇だった。その後直系親族が孫に至るまで処刑され、すでに200人以上、関係者全員含めると500人以上が処刑されたと聞く。拘束した大量の政治犯を送り込むために、閉鎖されていた収容所の一つが急遽再開されたそうだ。

 一族に刑死が及ぶこんな話は、わが国の歴史では秀吉の怒りを買って三条河原で遺児、側室、侍女ら39人の首がはねられた秀次事件を思い出させる以外に他に例がないほど、遠い遠い出来事である。

 私たちはまったく正体の見えない恐ろしい不明のもやに包まれて、地上の現実について何も真実を知らされずに暮らしている気がする。

 横田滋・早紀江さん夫妻がモンゴル・ウランバートルで孫娘と初めて会ったニュースが3月にあったが、ひょっとしたらご夫妻はあのときめぐみさんに引き合わされたのではないかとの噂を聞く。もちろん噂である。韓国が中国にすり寄り、北朝鮮が日米に接近する力学はたしかに存在する。

 北朝鮮はミャンマーに次いで、地上に残された最後の未開の市場、豊富な鉱物資源と安い労働力の魅惑の地だ、とアメリカ人にも中国人にも思われているであろう、と話す人がいた。何かが起こるかもしれない。恐ろしいことにつながらなければ良いが、とのみ願う。

 ウクライナをめぐる新しい米露対立は、私は無能なオバマ政権の躓きの現れと「正論」5月号に書いたが、アメリカの仕掛けた罠にロシアがはまったのだと言う人もいる。フーン、と私は唸った。

 アメリカは戦争の種子をさがしている。自分はまきこまれず、他国に戦争をさせる紛争地をつねに必要とする。オバマはなにものかの手先に使われているのに違いない。ウクライナは恰好の舞台だ、というのだ。そんなこともあるまいと思っていたら、ウクライナの金塊がアメリカにいち早く持ち出されている、という。カラパチア山脈周辺に新たな金鉱脈が発見されてもいて、金塊と金鉱脈をロシアの手に渡るのを抑えるのがウクライナ紛争の真相であった、というのだ。ならばプーチンはクリミアだけで満足せずに、ウクライナの西部へ進出する機会をいつまでもうかがいつづけるであろう。

 アメリカがいま一番警戒しているのはロシアと中国が手を結ぶことである。ロシアと中国はアメリカのドル支配からの脱却を願っている点で利害が一致している。ロシアと中国の連繋を断つのに最も有効な位置にあるのは、アメリカではなくわが日本であろう。ロシアはメイド・イン・ロシアの産品が売れるような産業国家に何としてもなりたい。それがプーチンの夢だ。プーチンの日本接近には理由があるのである。

 安倍オバマ会談でそんな話は出たのだろうか。中露接近を防ぎたいオバマに、安倍さんが「任せて下さい。北方領土と引き換えに日本はあの国を西側と同じ産業国家にすることで、ロシアに恩を売り、中露分断を図る計略がありますよ」とか何とか、言ったであろうか。

 けれどもオバマは一方では、中国との「新型大国関係」におもねるようなことを言っている。この「新型大国関係」と「日米同盟」はそもそも両立しないのだ。この簡単な真実を、オバマはどこまで知っているのであろうか。

 なにか煮え切らないアメリカの態度に、われわれのいらいらは募り、不安が高まってくるのを今後とも避けることはできそうもない。

 私たち国民は正確な国際情報を与えられていない。首相は国民の百倍もの情報をつかんだ上で舵取りをしている。私たち国民は半ば盲人である。

 最近の私はもやに包まれて見えない世界の現実に、推理を重ねるのも正直いってやや疲れがちである。

村山秀太郎の選んだ西尾幹二のアフォリズム(第十四回)

71)日本人は自分がよくなるためには、社会や国家がよくならなければ駄目だと考えている最後の民族だという。

72)現代は知力はあっても、知性がない時代だ。現代の知性には節度と倫理性と想像力が欠けているのである。

73)なぜ明治以来、日本ではキリスト教は知識階級の愛玩物以上のものになりえないのか。(中略)キリスト教的な因襲や風俗の生きてないところに信仰は可能かだろうか。人間はさほどに純粋なものだろうか。さほどに抽象的に強いものだろうか

74)(ヨーロッパ)過去の文化遺産へのしつこさには・・・・・しだいに鬱陶しくもなってくる。

75)人間の弱さ、みじめさを知っているキリスト教が、したがってその弱さ、みじめさのために、かえってあのような過剰装飾、生きている人間の権勢欲念の表現に赴くのはなんという逆説であろうか。

出展 全集第一巻 ヨーロッパの個人主義
71) P362下段より
72) P369下段より
73) P432下段より 掌篇留学生活から
74) P488下段より 掌篇ヨーロッパ放浪
75) P499下段より 掌篇ヨーロッパ放浪

村山秀太郎の選んだ西尾幹二のアフォリズム(第十三回)

66)自由とは役割を知ること。自己をつつむ共同体の力学全体への最大の想像力を働かせつつ、その枠のなかで自己の役割に徹し、自己の利害と全体の利益との調和のなかに自由を見出していこうとする忍耐強い意志。

67)人間は自己を統御するなにものかを持たないかぎり、自らの力だけでは、自己自身をよりよく統御することさえもできない。

68)人間への信仰、・・・・・進歩への希望、「解放」という概念はことばの厳密な意味においてエゴイズムのはてしない拡大とアナーキーにしか通じていない。精神的なアナーキーと全体主義は一つの事柄の二面である。

69)ヨーロッパには、進んでいることは価値ではない。むしろ場合によっては悪である、という思想がある。

70)疑ってばかりいてはなに一つ行動ができないのは、疑っているのではなく、はじめから信じる力をもたないから、なんでも信じ、なんでもゆるせるふりができるのだ。

出展 全集第一巻 ヨーロッパの個人主義
66) P339上下段より
67) P338下段より
68) P338上下段より
69) P348下段より
70) P349下段より

『GHQ焚書図書開封 9』の刊行(四)

GHQ焚書図書開封9: アメリカからの「宣戦布告」 (一般書) GHQ焚書図書開封9: アメリカからの「宣戦布告」 (一般書)
(2014/03/19)
西尾 幹二

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宮崎正弘氏の書評

西尾幹二『GHQ焚書図書開封9 アメリカからの宣戦布告』(徳間書店)
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 このシリーズ、はやくも第九巻である。初巻から愛読してきた評者としては一種の感慨がある。今回、焦点が当てられるのは、GHQがまっさきに没収した『大東亜戦争調査会』叢書である。

 これが日本国民に広く読まれるとまずい、アメリカにとって不都合なことが山のようにかかれていて、戦争犯罪がどちらか、正義がどちらにあるかが判然となるので焚書扱いしたのだ。

 ところが、GHQ史観にたって戦後、アメリカの御用学者のような、歴史をねじ曲げた解釈が横行し、いまもその先頭に立って占領軍史観を代弁しているのが半藤一利、北岡伸一、加藤陽子らである、と西尾氏は言う。かれらの主張は『語るに値しない』と断言されている。

 当時のシナは「内乱」状態であり、さらにいえば「いまの中国だって、内乱状態にあるといっても言い過ぎではありません。

1960-70年代の毛沢東の文化大革命だって内乱のうちに入ります。ところが戦後に書かれた日本の歴史書は中国をまともな国家として扱っています。

中国を主権をもったひとつの国家であるがごとく扱っています。しかしシナとはそんなところではなかった。日本はなんとかしてシナを普通の国にしようと努力した」というのが歴史の真相に近いのである。

 アメリカは端から日本に戦争をしかける気で石油禁輸、在米資産凍結、パナマ運河通行禁止などと戦争とは変わらない措置を講じた。ルーズベルト大統領が狂っていたからだ。だから「悪魔的であった」と『大東亜戦争調査会』の叢書は書いた。

 同書には次の記述がある。
 「通商条約は破棄され、日米関係は無条約状態に入ったとはいえ、外交交渉は引き続き継続されていたのである。その最中において、かくも悪辣きわまる圧迫手段を実行した米国の非礼と残虐性とは、天人ともに許されざるところである」
と。

 けっきょく、アメリカの悪逆なる政治宣伝と強引な禁輸政策によって日本は立ち上がらざるを得ないところまで追い込まれた。日本は自衛のために、そしてアジア解放のために立った。

 だからアジア解放史観を絶対に認めないアメリカは、その「宿痾」に陥った。しかし「アメリカがこれを認める日がこない限り、真の意味での、すなわち両国対等の『日米同盟』は成立しない」のである。

 いま、世界中で反日プロパガンダを展開しているのは中国と韓国だが、『正しい歴史』をもってアメリカ人を説得するために、国家を挙げて日本はお金を使えと西尾氏は提言される。

 つまり「国家を挙げて外交戦略とプロパガンダを繰り広げること。いいかえれば、外務省が『戦う外務省』となること、それが必要です。これを措いては、中韓の反日宣伝に対抗する方法はない」

 事態はそこまできた。日本の主張を声高に正々堂々と世界に発信する必要があり、外務省はそのために粉骨砕身努力せよ!
         

村山秀太郎の選んだ西尾幹二のアフォリズム(第十二回)

61)ドイツとイタリアは、・・・・極端に細分化された地方分権意識をもっていた。(中略)民族統一が、排外的ナショナリズムの理念を必要とせざるをえなかった。

62)意識的に全体感情が強調されるということは、すでに「全体」が失われた証拠。

63)善かれ悪しかれ、日本は素朴な平和民族であり、自己完結の小世界である。お人好し集団が冷たい風に当たれば、たちまちカッと逆上するし、敗北すれば萎縮してもう手も足も出ない。

64)われわれ(日本人)は外国を「敵」として意識するよりも、「師」として意識することのほうが多く、(中略)文化的に劣った野蛮民族との闘争や戦乱からははじめから免れていていたのである。これも「海」の果たした役割である。

65)処罰する力のない弱い体制は、成員を保護する力においても弱い。成員にしっかりした保護を与える体制ほど、異端者や反逆者への加虐性も遠慮なく強まることになる。

出展 全集第一巻ヨーロッパの個人主義
61) P327上下段より
62) P328下段より
63) P330上段より
64) P332上段より
65) P337上下段より

『GHQ焚書図書開封 9』の刊行(三)

GHQ焚書図書開封9: アメリカからの「宣戦布告」 (一般書) GHQ焚書図書開封9: アメリカからの「宣戦布告」 (一般書)
(2014/03/19)
西尾 幹二

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アマゾンレビューより

By 真実真理

 本書は、日本を苦しめることになる1922年の9カ国条約の成立、ワシントン体制以後の史実を、第1部において、米英の東亜攪乱(毎日新聞社、昭和18年9月)、満州の過去と将来(長野朗 昭和6年10月)を参照し、第2部において、米英挑戦の真相(毎日新聞社、昭和18年6月)、米国の世界侵略(同、5月)を引用して、著者が解説した本である。

 日本は、日清戦争後のロシアの満州への領土拡張に自国防衛の危機を感じ、満州及び朝鮮からロシアを排斥する日露戦争を戦い勝利した。日本は、1905年のポーツマス講和条約により、南満州(関東州)、南満州鉄道及びその付属地に対する権益を得た。

 元来、満州は、清王朝を建国した満州民族の土地であり、清朝時代には行政権は及ばず、漢民族は万里の長城を超えて満州に入ることが禁止されていた(封禁の地)。1911年の辛亥革命により清朝が崩壊し、支那本土及び満州、内モンゴルは、各地で匪賊、軍属が支配し政府のない混沌とした状態であった。

 資源や生産物がなく、人口過剰の日本は、生命線を求めて、この満州に投資を拡大させた。1930年における投資比率は、日本70%、ソ連26%、米国1%、英国1%であった。また、1928~30年に掛けて、世界恐慌による米国の日本からの輸入品排斥のための高関税(ホーリースムート法)の実施、英国領への輸入禁止(ブロック経済)により、ブロックを持たない日本は、生きて行くため満州への投資を拡大させざるを得なかった。

 この間、1917年に、米国は満州及び内モンゴルにおける日本の特殊権益を認めるという石井-ランシング協定が米国との間で成立した。しかし、国際連盟に加入しなかった米国は、1921~22年に、日本を抑圧し、自らの海軍力を増強し要塞の整備のために、ワシントン会議を主催した。

 この会議において、米国は、満州における権益獲得のため、石井-ランシング協定を破棄し日英同盟を破棄させ、支那における機会均等、門戸開放、主権尊重を提唱する9カ国条約を成立させた(ワシントン体制)。

 しかし、このワシントン体制は、満州における権益の獲得を目指す米国が支那に加担し、これが支那を増長させ支那を条約無視(革命外交)に走らせた。これにより、ワシントン体制は1927年頃には崩壊して行くことになる。

満州は、日本人による満州鉄道及び付属地の発展、工業化により豊かになると、混乱の極みにある支那本土から豊かで平和な生活を求めて多くの漢民族が流入してきた。それにより漢民族が繁栄すると、漢民族は、満州人、蒙古人、朝鮮人、日本人を排斥し、多くの反日運動、匪賊による暴動が、支那及び満州において頻発した(この時の支那の事情は、満州事変と重光駐華公使報告書に詳しい)。

 このような混乱の中、1931年9月18日に、満州の安寧を目的として満州事変が起こるべくして起こった。その後、満州に、政治行政を至らしめるため、1932年に、5民族の共和による満州国が建国された(この時の日本人の情熱を持った公正な国造りは、見果てぬ夢 満州国外史 星野直樹 ダイヤモンド社に詳しい。)。

 この日本の行為に対して国際連盟は、リットン調査団(米国は連盟加盟国でないにもかかわらず団員が任命されている)を派遣して、満州事情を調査させた。

 報告書によると、満州は特殊な土地であり、単に日本が侵略占領したという単純な問題ではない、満州の事情に精通した者のみが適正な判断をする資格を有するとしているが、満州を国際連盟による管理とすることを結論とした。

 これに対して、日本の松岡全権は、「匪賊や不逞漢の跳梁するこの国を連盟管理で治安が維持できるとすることは、事情を熟知している日本から見ると荒唐無稽であり、有り得ないことである。人類は2000年前にナザレのイエスを十字架に懸けたが、今ではそれを後悔し世界はイエスを理解している。諸君は日本の行為を誤解し、日本をイエスと同じく十字架に懸けようとしているが、いずれ後悔し日本の行為は理解される日が来るであろう。」という各国代表に強い感銘を与えた有名な十字架演説を連盟総会で行っている。

 1937年7月7日に、支那側の挑発により支那事変が勃発したが、連盟を主導する英国は、非同盟国の米国を引きづり込むため、9カ国条約会議を開催し、日本を9ケ国条約違反として断罪するつもりであった。

 しかし、日本は、支那事変は支那側の挑発に対する自衛行動であるので、9ケ国条約の範囲外である、解決の要諦は支那が自粛自省し、日本との提携政策に転向することである、支那の事情を知らない東亜に関係の薄い諸国が会議において解決を図るのは却って有害であると、会議への参加を拒絶した。英国は米国ばかりでなくソ連も利用して日本を抑圧しようとしたが、英国と支那の連盟工作は実質上失敗に終わった、とある。

 また、本書第2部においては、米国の対日経済圧迫、対日石油圧迫、経済封鎖、資産封鎖、国際連盟の名を借りた英米の世界制覇、世界の1/3を占めた覇権国家・英米への日本の正当なる反逆について記述されている。

米国は、1939年7月26日、30年間、友好親善の礎となってきた日米通商条約の破棄を、突然、一方的に日本に通告した。これは、日本への輸出を自由に禁止できるようにするためであった。

 以後、米国は、1941年8月1日に石油の全面輸出禁止に至るまで、航空機燃料、機械、屑鉄、非鉄金属などほぼ全ての材料、商品につき、漸次、日本への輸出を禁止した。この間、米国は、自国からの輸出だけでなく、フィリピン、南米から日本への輸出を禁止させ、英国、オランダに対して東南アジアから日本へのゴム、錫などの資源の輸出を禁止させ、米の輸出を妨害した。また、米国は、日本とオランダとの石油輸入交渉を妨害し、オランダ領インドネシアからの石油の輸出を禁止させ、日本船のパナマ運河の通行を禁止した。また、支那及び米国本土において、日本製品を排斥し、第2次上海事変(1937年8月)でのプロパガンダ写真を流布するなど、反日世論の形成に手段を選ばなかった。航空機及びその部品の日本への輸出禁止は、通商条約破棄前に既に行われていた。

 遂に、米国は、1941年7月25日に在米日本資産を完全に凍結し日本の商業活動を完全に停止させ、8月1日には全面対日石油輸出禁止に踏み切きる一方、中立法を改正し武器貸与法を成立させ、資金、武器、軍人などの蒋介石への援助を増大させ、南京から日本本土への空爆を立案している(予備役、退役米軍人フライングタイガーの南京への派兵、ルーズベルトは出撃同意書に署名している)。

 このとき、米国は、日本を窒息させる政策を行えば、日本を容易に屈伏させることができると考えていた。これにより、日本は、戦力と経済力が日々低下する中、否応なしに屈伏か、決起かの決断を強要されたとある。

 最後に、経済封鎖について、次のように記述している。
 平時封鎖は、戦闘が行われていないにも係わらず、強国がその専横を欲しいままにするため牽強付会の理屈を付けて弱国を虐げる用具としたもので、本質上敵性を有していることは議論の余地がない。したがって、被封鎖国は、当然に、これを何時でも戦争原因と見做し得るのである。
 逆に、弱小国が強国の港湾を単に封鎖しただけでも、強国は、直ちに、戦争を開始するのは必定である。
 このような我が儘な慣行は、建設されるべき世界秩序において容認できない。現実に即して考えれば、かくのごとき圧迫手段のために苦痛を蒙るものは、持たざる国とその国民のみである。
 豊富な資源と強力な海軍力を有するアングロサクソンは、この種の圧迫に対して何ら痛痒をも感じることはない。

 経済封鎖は、米英が自己保持のため、帝国主義的進出のために、仮借なき経済戦争を極力普及させて、世界制覇の夢を実現する手段とするものである。
 係る利己的制度は、国際連盟そのものと共に、新秩序下においてはこれを解消せしむべきこと勿論である。と記載している。

米国が連盟加盟国と結託して、日本を完全に経済封鎖し、外国から資源、材料が日本に完全に輸入されなくなったことが戦争の原因であるとする。

 本書に記載された米英の日本への軍事、経済圧迫は、東條英機の宣誓供述書の内容と完全に一致する。

 本書は、歴史の真実を追究し、日本の自虐史観を改めるに必須の書籍である。戦後、日本は一方的に侵略戦争を仕掛けて、アジアに迷惑を掛けてきたと教育され、それを疑わないできた日本人、特に、政治家、評論家、ジャーナリスト、学者などは、本シリーズ第5巻~8巻を合わせて、必読すべきである。
 多くの日本人が是非とも読まれることを薦める。

村山秀太郎が選んだ西尾幹二のアフォリズム(第十一回)

56)日本に「市民意識」が育たないのは、日本人にはそういう外枠への想像力や構想力が弱く、ために、自分が属している小集団の価値観を絶対化し、それを外の世界へ主観的に押しひろげていこうとするわがままや無理強いが幅をきかすことになるためだろう。

57)日本人・・・・・・は行動というものをつねに一種のスポーツと考え、当意即妙に、現実に適応する爽快な遊戯精神はそこからは出てこない。(中略)欧米人の・・・・・仮面の裏に、いつでも人をも私をも傷つける強靭な合理主義の刃が顔をのぞかせているのは行動の規範が他人への見栄にではなく、自己への誠実さそのものにもとめられているからにほかならない。

58)ヨーロッパ社会では・・・・人間同士の横のつながりに、もう一つの重直の軸が置かれている。

59)われわれは、これまで、つねに、個人であり過ぎるか、日本人であり過ぎるか、そのいずれかでしかなく、両者の契約的な、仮説的な、とらわれのない、自由な関わり方をどうしても身につけることじゃできなかった。

60)部分が全体を目的とせず、全体が部分を圧殺しないこの自由な関わり方は、(中略)ヨーロッパ・キリスト教世界全体をささえるあり方であるともいえるだろう。

出展 全集第一巻ヨーロッパの個人主義
56) P307上段より
57) P310上段より
58) P313下段より
59) P324下段より
60) P325下段より

『GHQ焚書図書開封 9』の刊行(二)

GHQ焚書図書開封9: アメリカからの「宣戦布告」 (一般書) GHQ焚書図書開封9: アメリカからの「宣戦布告」 (一般書)
(2014/03/19)
西尾 幹二

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アマゾンのレビューより

アメリカは、どのように「対日宣戦布告」をしたのか?, 2014/3/25

By閑居人

GHQ焚書図書開封9: アメリカからの「宣戦布告」 (一般書) (単行本)

「GHQ焚書図書開封」も九巻目を迎えた。日本人が二度と「白人」と「キリスト教文明」に立ち向かわないために、GHQが秘密裏に行った「日本人からの歴史の簒奪」は、本シリーズでの開示によって、隠されていた真実が静かに読者に浸透していきつつある。

本巻では、前巻に引き続き、「日米百年戦争」の一環として「ワシントン会議から始まる英米主導の第一次大戦後の国際関係の中で起きた様々な出来事」が主題とされる。「ワシントン体制と満州事変、満州国成立と国際連盟脱退、支那事変とその拡大、そして日米開戦に至るプロセス」が語られていく。
著者は、全体を二つに分け、前半では歴史的事件の概略を紹介する。後半では、昭和十八年に毎日新聞から公刊された「大東亜戦争調査會篇」叢書をもとに、アメリカが計画的に日本を追い詰め、「経済戦争」に踏み切ることによって、日本が軍事的に「先制攻撃」を仕掛けざるをえないところに、《いかに巧妙に、そしていかに執拗に》追い込んでいったかを語ろうとする。
「戦後われわれの視野から隠されてきた(或いは日本人が忘れようとして眼を塞いできた)、我が国が開戦せざるを得なかったあのときの国際情勢、気が狂ったようなアメリカの暴戻と戦争挑発、ぎりぎりまで忍耐しながらも国家の尊厳をそこまで踏みにじられては起つ以外になかった我が国の血を吐く思い」(本書まえがき)が、この「大東亜戦争調査會篇『米英挑戦の真相』」に、具体的に、冷静な筆致で描かれている。
解説を交えて、このことを語ろうとする著者の口調も冷静そのものである。それは、恐らく、著者が、「大東亜戦争の真実」について、公正で、深い洞察に充ち満ちた分析と考察を残した「大東亜戦争調査會」への敬意を禁じ得ないからだろうと思われる。

本シリーズの「第一巻」で、著者は、GHQが秘密裏に没収した「連合国軍総司令指令『没収指定図書総目録』」の存在とGHQの動機を解明している。
GHQが行っていた「検閲」については、江藤淳の一連の著作によって知られていたが、没収された図書については、つい最近まで着目されなかった。著者は、十数年前にこの事実に気づき、また、既に千数百点収集していた水島聡氏に勧められて本シリーズの刊行を決意した。
(参考までに言えば、隔月刊行雑誌「歴史通」2013,5は、七千冊以上の没収本のうち六千冊を、鎌倉の自宅の書庫に集めた澤瀧氏をグラビアと関連記事で紹介している。)
著者が書くように、この「没収図書の選定」に、法学界の長老牧野英一(刑法)、若き東大助教授尾高邦雄(社会学)、金子武蔵(哲学・倫理学) が関与していた事実は衝撃的なことだった。なぜなら、本シリーズを読めば理解できる通り、没収された書物は、いずれも当時の日本人の観察力の高さと知性と洞察力を証明するものであるからである。いわば「日本人の誇りと存在証明」というべきものを抹殺することが何を意味するか、「分からなかった」とは口が裂けても言えないことであるからである。
著者も触れているが、最近、渡辺惣樹氏が丁寧な解題をつけて翻訳した「アメリカはいかにして日本を追い詰めたか」(米国陸軍戦略研究所、ジェフリー・レコード)は、戦前のアメリカ政治の正当性を擁護する「歴史正統派の論理」で、「経済戦争を仕掛けたアメリカは真珠湾以前に実質的に宣戦布告をしたも同然だ」という「歴史修正派」と同じ結論を述べている。「修正派」はアメリカでは少数派であるが、戦前の日本の主張とほぼ同様の考察を示している。こういったことは注目すべきことだ。

本書は、「GHQに没収された図書」を通して「日本を取り戻そうとする試み」の一環である、と捉えることもできるだろう。