「『天皇』と『人類』の対決――大東亜戦争の文明論的動因(前稿)」を読んで

ゲストエッセイ 
池田幸二 プログラマ兼中小企業診断士 40代

『正論』2月号感想

 西尾先生のご論稿の主題のひとつは、日本は過去に「歴史の罠」にはまったのである、その罠はみかけほど単純なものではない、わかりきった事だとたかをくくっていると再び足をすくわれるような巧妙な罠である、再び同じ罠にひっかかるな、日本は隙を与えるなということでした。特に日本に悪意を抱いた勢力に対して警戒を怠るなという意味もありますが、善意だろうが悪意だろうが非情な原理で人間を飲み込み翻弄するような歴史の狡知を警戒すべきという意味にも受け取れます。これは恐ろしい真実を突いています。

 内容を一部引用させていただきますと

「現に中国が、のさばってきたのはこのわずか5年ぐらいであって、よく考えると、最貧国が突然経済大国を僭称(せんしょう)するようになってきたのも、単なる力の表われであります。アメリカが対中外交で及び腰なのは、中国から金を借りているからであり、中国という国は国民に金を回さなくても、外交に金を使える国、めちゃくちゃな独裁国家です。アメリカがそれを許してきた。ある意味でそれを誘発してきた、アメリカの自業自得とも言える。自分の失敗のツケが回ってきているとも言える」

(引用者注:米国国債の保有額は中国が日本を追い越した。日本はまず売却しないと見られているが、中国の動きは不明で米国に無言の圧力をかけている)

「わからず屋の中国人や韓国人と、半ば逃げ腰の欧米人、稼ぐだけ稼いでさっさと立ち去る用意をしているアメリカ人やヨーロッパ人。そうして政治のリスクは、常にわが国にだけ及ぶ。百年以上前からそうだったんじゃないでしょうか」

(引用者注:中国は政治的不安定におちいるたびに日本への敵愾心を煽って人民の団結をはかってきた。たとえば1989年の天安門事件で世界の非難にさらされた後に江沢民などは徹底した反日政策、すなわちメディアや教育を塗り替え、反日ドラマ、反日モニュメントなど反日一色の政策を促進した。当時の日本は不運にも朝日新聞などの全盛時代であったため朝日等が中国共産党に加勢して中国の反日をさらに煽った。それら日本国内での反日勢力の言動は、中国の反日に一種の正当性を与えてしまい、世界では「中国が怒るのも無理はない」と考えるメディアも続出した。ちなみに江沢民などらは、今年スペイン裁判所により、中国でのチベット族虐殺に関与した容疑で逮捕状を出されている。日本の反日左翼は、現代中国の少数民族虐殺や国内の深刻な人権弾圧、それに数百個の核弾頭で他国を脅迫する大国覇権主義などを棚上げして、日本の歴史を中国や韓国と協同で攻撃してきたのです)

 これらの箇所では、歴史の罠がしのびつつある不気味さを感じました。中国での猛烈な反日暴動など、どこ吹く風であるかのように、欧米の新聞社は、日本を酒の肴にして日本のナショナリズムがどうのこうのと揶揄して、日本を見下すステレオタイプの説教をしながら高みの見物を決めこんでいます。この馬鹿げた風潮も戦前とおそらく同じなのでしょう。また北朝鮮や韓国が錯乱的外交と悪あがきを趣味とする場末の国家であることも当時と同じ状況かもしれません。

 国家間または民族間の歴史観の争いは、最高裁判決のない永久的裁判を闘っているようなもので、過去の歴史に現在の歴史が積み重なって、たえず見直しと変動が繰り返されていきます。中国や韓国のような先進国の仲間入りを狙って、G8サミット(主要国首脳会議)にアジアから唯一参加している日本を羨望し追い落としをはかってきた国が、たえず日本の歴史観を攻撃し、それを日本国内の反日左翼(戦後日本の経済的成功や政治的成功を常に恨み、非常識な日本非武装中立化を推進するなど、たえず日本がまともな国際的地位をしめないように邪魔をしてきた怨念グループ)が側面支援するという構造になっています。

 戦後日本人の歴史観に大きな影響を与えた左翼の歴史観は共産主義イデオロギーや東京裁判に沿ったものであったわけですが、それらの洗脳を受けなかった多くのすぐれた知性をもった日本人が様々な証言を残しています。戦争にいたるまでの複雑性については、たとえば当時を生きた竹山道雄によって、すでに昭和30年代(「新潮」S38.4)に悔恨をこめて下記のように整理されています。

(引用開始)

対米・対世界開戦も、すでに昭和16年秋となっては、だれがやってもああなるより外はなかった、と思われる。むしろ、それまでの10年間の乱脈と無能と近視と思い上がりのつみ重ね、それに不公正な世界分割とある程度まではやむをえぬ歴史の動き・・・が加わって、あの結果を生んだ。国内にはデスペレートな開戦気運がはげしく、国外ではアメリカが日本をこらしめようと決意して、最後になっての日本の譲歩をも相手にしなかった。東条首相は他の何人がやっても打開できなかった局面を負わされて、国民の怨を一身に受けて刑死した。

あの時期は世界中の危機で、後進の日本は痛い打撃をうけたが、それをのりきるべくただ過大な軍備をもっているだけで、ほかの体制はできていなかった。世界共産主義の脅威は大きかったが、まだその正体が国民にははっきり分からないままに広い大陸に防共駐兵をした。それが無責任な軍国主義とごっちゃまぜになっていたので、アメリカは小言をいったが、いまはそのアメリカが世界のいたるところに防共駐兵をしている。そして、また、植民地の独立は現代の大勢で、いまはそれがほぼ完了したが、あのころには植民地的権益をもっている国の中では中国がもっとも強かったから、その紛糾がここでもっともはやく始まったといえるのではないかと思う。フランスは富強でアルジェリアは弱かったから、植民地独立の一連の紛糾がここでいちばん遅くおこったのだろう。

内外のさまざまの難問題を背景にしながら、日本はそのむかしから自然の国民的結合の中心となっていた土俗的性格のミカドを、近代的君主にしよう、そして第一次欧州大戦前の自由主義的体制の国になろうとして努めていたのだったが、それもつかのまで、間に合わないうちに危機に呑み込まれてしまった。

(引用終了)

 この後、日本人はこのような枠組みにそって、天皇の統帥権とか、軍部の下克上とか、さんざんとこの辺の内部的な混乱要因を後知恵で掘り下げてきたわけです。けれども、この傾向が日本人の歴史分析をかなり内向きにしたと思います。竹山道雄がすぐれているのは上記のように、あの時期の様相と混乱のメカニズムを深く分析しながら、時代を俯瞰できるすぐれた俯瞰力をもっていたことです。その俯瞰力と日本人としての自覚により、それ以降の叙述が世界の悪意の罠に陥っていった日本の悲劇性をより洞察した表現に深化していったように思います。俯瞰力とは、縦の時間軸つまり長期の時代に沿って歴史を見る俯瞰力と、横の空間軸つまりアジア全体や世界など広域にわたって俯瞰する俯瞰力の二つがあると思います。多くの日本人が西尾先生など歴史的主体性をもった英知に啓発されてすぐれた俯瞰力を今後身に着けていけば、古い時代に培養されて現代日本人が空気のように吸っている洗脳史観を日本人が脱することができるのではないかと希望をもっております。

 わき道にそれますが、日本人が歴史の俯瞰力をもつべきであると痛感した例が、1990年代の従軍慰安婦騒動です。これは日本の反日左翼と海外の反日勢力の合作ですが、当時の日本の政治家が歴史の俯瞰力をもっていなかったために、これら反日勢力に喜劇的といえるほど翻弄された例です。慰安婦騒動は朝鮮人女性の人権を旧日本軍すなわち過去の日本が著しく蹂躙したという発想で糾弾され、現代の日本人が責任を負うべきものとして日本人のプライドは完膚なきほど国際社会で攻撃されました。

 けれども当時の政治家が歴史の俯瞰力をもって朝鮮半島歴史をさかのぼっていれば、日本こそが過去に朝鮮人女性の人権を向上させたのだということを反論できたはずです。(日韓併合は朝鮮人にとってはあまり思い出したくない過去かもしれませんんが、あそこまで一方的に日本を貶めようとする勢力がいたならば、日本の政治家はそこまで反論する勇気をもつべきだったのです)。また横の俯瞰力をもっていれば過去の世界戦場の慰安婦人権状況がどんなものだったかにも気づき、客観的研究者により調査や研究なりする必要性が思い浮かんだはずです。そうすれば、朝鮮戦争やその後については韓国大統領が慰安婦奴隷化の責任者であったことが判明したはずです。

 従軍慰安婦騒動というのは1991年ころに朝日新聞の捏造で勃発しましたが、驚くほど当時の日本の病理が集約されている現象です。「従軍慰安婦というイデオロギー」といってよいほどの現象でした。「従軍慰安婦というイデオロギー」というのは大袈裟ですが、分析すればするほどこの現象の驚くべき異常性と象徴性がわかります。まさに「イデオロギー」だったのです。まだまだこの異常性は十分に分析されつくしていないと考えます。吉田清治の捏造は有名ですが、この吉田清治のデタラメな捏造話がでたときに、左翼に占拠された歴史学界はだれもこれが捏造であることを指摘しなかったのです。ふだん史料批判や一次史料の重要性の説教をたれていた連中が誰も批判しなかったのです。一次史料とつきあわせれば簡単に捏造と発覚したのに、すぐに神話レベルまで昇格させてしまったのです。政治的意図があったからです。左翼知識人のトリックはまだまだいくらでもあります。日本が朝鮮女性の人権を向上させたと主張しても左翼学者は絶対に認めません。著しく人権蹂躙されていたのだといろいろ例をもちだすでしょう。これもトリックであり、人権基準の比較対象を現在においているからです。現在からみれば過去の人権考慮が不足しているのは当たり前です。人権状況を比較するならば、日本が朝鮮に関与する前と後を科学的、体系的に比較しなければなりません。このような左翼言論人のトリックは「徴用」という言葉を作為的に「強制連行」に置き換えて印象操作するなど数多くあります。左翼言論人が左翼マスコミと連携して徹底的に印象操作を繰り返してきました。

 またこの騒動では、いわゆる一見「保守」と見えるが、実際は保守でもなんでもないデタラメなエセ保守があぶりだされました。日韓関係や日米関係に波風を立てないように適当なところで日本の非を認めて蒸し返すなと彼らは主張したのです。過去をふりかえると、戦争の責任はすべてA級戦犯に負わせるということで日中合意をしたのだからA級戦犯をナチスと同等みたいなものにしておけと主張した連中と同類です。これら刹那的でデタラメな対応がますます反日勢力に便乗する機会を与えて、その後の日本を窮地におとしいれました。

 他にも、なぜこの時期に起こったか点に関して、つまりソ連の共産主義崩壊との因果関係なども分析されるべきです。海外に巣食う反日勢力と日本の反日左翼の反日共同体が完成しつつあったこと、国連をも動かす勢力であったことなども要注意です。

 もっとも震撼すべきことは、この騒動におけるジャーナリズムの位置づけです。日本ではよく日本社会は「空気」が支配するなどともっともらしく解説をする人間がいますが、その議論はまったく建設的ではありません。日本社会が非理性的であることを広めたいという無意識的な悪意があるのでしょう。たとえば米国でも、イラク戦争開始で米国社会のあの時点の空気が重大な作用を及ぼしたといえるように、空気はどこの国でも支配的ではありますが、もたらした結果がよければ、あれは合理的判断だったと振り返り、結果が悪ければ空気が支配したと後知恵でふりかえっているだけです。

 問題はその「空気」の質です。日本では過去長期に渡って、その空気をつくりだしてきたのはまぎれもなくジャーナリズムだったのです。あまりに低劣な品質のジャーナリズムが舌先三寸で時代の空気をつくりだしていました。空気はその時代のジャーナリズムがどちらにころぶかで決定づけられます。逆に「空気がジャーナリズムをつくったのだ」という反論もあるでしょうが、当時朝日新聞などメディアが広くいろいろな意見を求めて反論などを慎重に取り上げていれば、一方的な空気はつくられなかったはずです。空気がジャーナリズムをつくったのではなく、世論を支配できたジャーナリズムが反論を一方的に封じて当時の空気をつくったのです。

 記録が十分に残っている慰安婦騒動では、記事統計をとれば、まず慰安婦記事が朝日新聞で爆発的に広がってから、韓国や中国にその記事が広がり、欧米の記事にも広がっていったことが統計的にも突き止められると思います。これらをコンピューターなどで解析して裏付けていくべきです。日本人に限らず、韓国人や中国人、それに欧米人も空気に支配されないためには、直接的な真摯な議論を行い、それぞれが自国のジャーナリズムに躍らせられないことが重要であると確信しています。

 先日誰も予期しないタイミングで安倍首相が靖国参拝した後に、米国が非難声明を発表しました。上記の「米国が中国に取り込まれつつある」というご指摘の妥当性を暗示するものであり、少々震撼を覚えました。ふと思い出したのですが、近年しきりにメディアに登場するエズラ・ヴォーゲルという米国学者が日中、日韓の関係を改善するには首相が靖国参拝をしないことが大切だと幾度も釘をさしていました。日本の経済力脅威を話題にした「ジャパンアズナンバーワン」で米国ベストセラーになり、鄧小平以来の経済開放を分析するなど、現代の日本と中国に通じていると見られている著名学者であるので、米国指導者や高官は確実にこの言論人の主張を参考にするだろうと思われましたが、案の定、米国民主党や大使館関係などは影響を受けているのかもしれません。

 ちなみに今日のニュースも靖国問題をやっていたので、今回の安倍首相の靖国参拝をふりかえると西尾先生が7月の安倍首相の会見をご覧になって、靖国参拝をやるという総理の意志を感じたという分析は今から振り返ると正しかったですね。私は終戦記念日の中国抗議が総理の意志を決定的にしたと思います。総理が今年の終戦記念日に靖国参拝しなくても中国は終戦記念日むけの総理の談話などに中国への謝罪がなかったと抗議をしてきたのです。靖国参拝すれば猛抗議する、参拝しなければ談話が気に入らないと抗議する。このとき安倍首相は中国の意図を理解したに違いない。過去に靖国参拝しなかった首相に対して談話内容が気に入らないと中国が強い抗議をしてきたことがあったでしょうか。安倍首相を非難して日本での安倍氏の支持率を低下させ少しでも失脚を早めるための嫌がらせであったのです。また1回謝罪をしたら、それをもって2回目の謝罪を要求する、10回目の謝罪を要求するのは11回目の謝罪を保証するためです。1歩下がれば2歩も3歩も浸入してくる。少しでも抗議の機会や抗議のネタを拡大していくのが狙いです。この状態で中国の言いなりになるのは、よほど特殊な政治家であり、日本の指導者にはふさわしくありません。戦没者の慰霊に対して注文つけるのは内政干渉であるとはねのけるのが正常な態度です。しかし朝日新聞等の反日メディアのやらかしてきたことには慰安婦騒動にしろ、戦慄を感じるのみです。

 元来、靖国参拝非難など中国のカムフラージュであり、嵐のような現代の反日暴動も江沢民の時代の偏執的反日教育の成果が何十年も経って表われているに過ぎないのです、もし靖国参拝がなければ尖閣問題やら何かで同しレベルの反日暴動をやったに違いありません。戦後共産主義者を源流とする日本の反日左翼は驚異的なほど日本の教育やメディアを牛耳り、日本を苦しめて中国や韓国の反日を煽りました。従軍慰安婦捏造が朝日新聞のしわざであることなどネット人間なら誰でも知っているでしょうが、尖閣問題も1971年に中国がいきなり領土宣言をした翌年1972年にさっそく共産主義者で京都大学名誉教授でもある井上清がそれを応援する論文を発表する(これが当時の日本メディアを代表する学者でした)、そして中国共産党は目ざとくそれを見つけてさっそく利用する、詭弁をぬりかためる。江沢民時代の中国共産党の反日教育に多大な素材を与えたのも日本の反日左翼です。戦後日本は何度も何度もこういうことの繰り返しです。

 また日韓の竹島問題も、米国が日本を非武装にしたため発生したという認識が米国人にあるでしょうか。今後、竹島問題により、日韓は100年くらい互いにいがみあう関係におかれるかもしれませんが、これももとはといえば米国が強い復讐心のため日本を武装廃止させ丸裸にしたため起こったことではないでしょうか。米国はアジアに関する認識を間違えていました。「菊と刀」など空想的人間の文学作品を読んで日本を理解していたと思い込んでいたのでしょう。日本の自衛隊は李承晩が竹島を占領した翌年に編成されました。もし日本の軍隊が完全無力化されないで領土や領海を防衛していたなら、李承晩は竹島占領の野心を持たなかったと思われます。現在の韓国は、奇形的な歴史資料や強引な理屈でしか、竹島占拠の正当性を示せないのだから、それを補完するため、韓国はありとあらゆる機会やテーマをとらえて日本の落ち度や歴史認識を必死で突いてくるのが慣例になりました。米国の日本非武装化が現代の絶望的な日韓関係をもたらした大きな要因のひとつです。また日本の反日左翼の扇動も悪質で、いまだ靖国や慰安婦の問題が日韓関係の本質的障害だと見せかけようとする日本のメディアは正気の沙汰ではありません。当然韓国の指導者層の病的な反日趣味など知っていて、あのように装っているのだから、あきらかに確信犯です。

 その他ご論稿では、膨大な歴史的事実のなかで、現代日本人のあまり知らないような象徴的な歴史的事実(当時の国際連盟の実態や英国の戦略事情、当時の国際法の特殊性、中国の反日化の背景、毒ガス兵器の政治的側面など)を丹念に指摘して現代日本人の陳腐化した固定通念を打破しようとするものでした。

 個々の歴史的事実は、いつどこで誰が何をしたかという5W1Hで表されますが、その位置づけが、当然ながら重要です。たとえば、いきなりですが、戦前に中国大陸の通州で起こった通州事件というのがあります。これは当時の事件の内容が克明に記録されていますが、内容的には中国人部隊による日本人住民への凄惨な残虐行為です。これを日本人が持ち出すと、日本の左翼は必ずといっていいほど「あの中国人部隊は日本軍の飼い犬だったのだから、飼い犬に噛まれただけだ、自業自得だ」と批判してきます。けれども日本人が通州事件を持ち出すのは、当時の一部の中国人部隊の民度がどれほどのものであったかを象徴する事件だから出すのです。中国保安隊が日本軍の仲間であったかどうかなど、この際どうでもよいのです。200名以上の日本人女性(朝鮮人慰安婦もいたとのこと)が猟奇的な方法で大量に強姦され一気に殺害されたのだから、数名だけによる犯罪ではない、集団発作的に大勢でやってのけたことから、当時の中国大陸でうごめく暴徒の民度をはかることができる象徴的事件なのです。また当時の中国の民度に翻弄された日本人の悲劇を示す一例です。(もちろん、だからといって中国人全体または国民気質がこの事件に象徴されていると考えるのは明らかに行き過ぎた思考です)。

 重要な歴史的事実を知っていても、それを有効に位置づけなければ「宝」のもちぐされです。通州事件も、そのイメージは南京大虐殺の捏造イメージにそのまま受け継がれていることなどを日本人が見抜く必要あると思います。「南京大虐殺物語」に関しては、中国は外交カードとして、日本の左翼は反日カードして、強欲に「宝」として利用しつくし、日本人としての道徳的尊厳を地獄の底まで突き落とすプロパガンダとして徹底的に利用されてきました。日本を国際社会の舞台から突き落とすつもりだったのでしょう。それこそ年中行事のように悪用してきました。(日本列島を徹底洗脳して一色に染め上げたのは朝日新聞の狂信的な報道力です)

 西尾先生は、ニーチェ流と言ってよいのか、孤独なガンマンのようにご自分の言説をつくっては叩き壊す、矛盾をあまり恐れないということを繰り返してされてきたと私は思われるので、現在のお考えは変動されているかもしれませんが、以前からの西洋中心史観から距離を置くという基本的認識が、現在の「米国中心史観」から距離を置くという考え方につながっているように感じます。西尾先生の根幹には日本人としての自己主張というのがあると思っています。それが非常にわかりやすくまとめられた記述を、10年以上前にされた文部省のヒアリングでの先生ご発言から抜粋します。

(引用開始)

いまの日本人がいちばん誤解している史観というのはヨーロッパ中心史観というものであり、ヨーロッパ文明がギリシャ・ローマ文明の子孫だというふうにみんななんとなく思っておりますけれども、直系の子孫なんかではございません。途中で民族大移動があるし、イスラムの制圧もありまして、中世の暗闘を通じて、その後、ギリシャ・ローマの復活のルネッサンスはありますけれども、あれもアラビア語を媒介としながら、勉強して得たもので、要するにヨーロッパは長いあいだ野蛮な状態で、世界史に登場してこなかった。
つまりギリシャ・ローマの直系だというのは、西洋中心史観のたんなるイデオロギーにすぎません。彼らの自己主張にすぎません。日本は自分が古いシナ文明と古い西欧文明の谷間で、圧迫されてきた中途半端な国だ、みたいに思っているかもしれませんけれども、じつはまったくそうではなく、そういうふうにとらわれるのは意味がないということをここで我々は正しく認識する必要があるのではないかと思うのであります。

 すなわち、ドイツ、フランス、イギリスもそういう観点からすれば全然独自ではありません。他から学んだり、借りたりしながら、やがて独自の文明を築いたのです。日本もその点では同様です。日本は古代のシナ文明に学んだんですが、政治的な独立心は聖徳太子のころからあり、文化的には独自の日本文化とシナ文化からの影響との二重構造をなして、それは長いあいだ続きましたが、しかしながら経済的にはかなり早い時期に、江戸より前の、つまりコロンブスの時代、15-16世紀にシナ文明から独立しているのであります。
こういうふうに考えないと、明治からのわずかな期間での日本の発展の説明はできません。古代ギリシャ文明がどんなに立派でも、いまのギリシャが駄目なように、古代シナがどんなに立派でも、いまの中国は自慢できる状態にはありません。日本は古代シナから学んだのであって、いまの中国人の文化から学んだのではないのであります。そこを誤解してはいけない。他方、ヨーロッパ人は16世紀に二つの大きな先進文明、つまり、シナ文明を追い越し、イスラムの圧力から離脱し、「地理上の発見」に向かっていくわけですが、それと同じ時期に、つまりそれは日本でいえば徳川時代ですけれども、日本も自己確立を果たしているということです。

 鎖国は積極的な概念であって、消極的な概念ではないという理論は、いま近世史研究家のなかから、学界の中心的主流として滔々(とうとう)と流れ出している。だから家光が鎖国令を出したなんていうのは完全な間違いでありまして、あれは寛永16年まで蛮族打ち払いの令を出したにすぎないのであります。日本はポルトガルと断交したにすぎない。
 そういうふうに考えますと、江戸時代の歴史を暗黒に塗り上げてしまったいままでの歴史観を見直そうではないかということになる。ヨーロッパと同じ時期に、地球の東と西は暗闇が続いていた中世から脱して、ともに16世紀から18世紀にかけて、同時勃興をする時期があったんだというふうに考えなくてはならない。・・

(引用終了)

 ちなみに、この西洋中心史観というものも、将来は、イスラム圏の自己主張やアジア諸国の問題提起により世界的に衰退していく時期がくるのではないかという気配は感じています。わき道にそれますが、イスラム諸国に属する学者の主張を読むと、日本人のイスラムに対する歴史観(政治史や経済史、宗教史、科学史など)は、欧米学者のイスラム歴史への偏った先入観をそのまま日本人は受け継いでいると主張しています。日本人は主体的に自画像を描きつつ、それを世界史のなかで客観的に位置づけるために、欧米以外の歴史観や史料をも積極的に取り入れて欧米中心史観を相対化していくべき必要があると思われます。また幻想かもしれませんが、ガラパゴスであるかのように宗教と社会制度が一致した特殊な異空間と日本人が見ているであろうイスラムでもイスラム金融などは世界の金融を劇的に変える潜在力があるかもしれないと私などは空想することがあります。戦前に存在した世界的思考をもった有能な日本人のイスラムへの洞察は現代から見ても瞠目すべきものがあるというので、これらなども発掘され再評価されるべきではないかと考えます。西尾先生の「GHQ焚書図書開封」はいずれその方面へ意識覚醒につながる潜在性があるというのは大袈裟でしょうか。

 先生が上記の通り、西洋中心史観から離脱を表明されたあとに取り組まれた対象が江戸時代でした。分量が大量だったので私はつまみ食い的読み方しかできませんでしたが、江戸のダイナズムは現代に生きる人間が固定観念を排して全知と想像力を傾けて歴史を振り返って自画像を描くという見事なお手本と思いました。あくまで自画像を描くというスタンスです。私の気のせいかもしれませんが、近代史に関する著作とくらべて、より快活でのびやかな筆致と感じましたが、現代政治の呪縛からのがれていること、豊富な文学的史料が中核となるためでしょうか。ともかくこの著作はいずれじっくり読み直したい本のひとつです。自画像とはこのように描く模範であると思います。

 近代から大東亜戦争に至った日本をどう俯瞰するかに関して、基本的に西尾先生は、西洋への挑戦に対する日本の反撃ととらえられているように思います。これに啓発されて、私も新鮮な思いで歴史を振り返ってみましたが、近代における西洋の世界への拡張というのは次の5つの側面があると思われます。
1)近代文明(人権など近代法に基づく考え方)の威光
2)経済圏の拡張(産業革命による経済近代化と世界進出)
3)「2)」の強大な力、特に軍事力をもとに白人支配(有色人種の奴隷化)
4)キリスト教の拡張(西洋人から見ると「異教徒」の駆逐)
5)西洋の鬼子思想としての共産主義浸透

 日本は上記の課題に対して、どのように対応したかというと、「1)」および「2)」については、その普遍性を率直に認めて、日本なりに移植しようとして苦心惨憺、表面上は成功しました。そして、それらの成功をもって「3)」の白人支配脅威に反撃しました。日本は、台湾や朝鮮、満州に対して「1)」および「2)」を移植しました。現代から見れば不十分や矛盾もあるでしょうが、教育への情熱など、有色人種への過酷な白人支配に一石を投じる成果でした。ただし朝鮮民族などにとっては民族自決を損なうものでした。「4)」については特に敵対することはしませんでした。宗教戦争は日本の国民性にそぐわないものであり、廃仏毀釈など起こりましたが、神道と仏教を平和共存させて、国の安寧を祈る天皇を中心とした調和的な信仰をもっていた日本人はキリスト教も平和的に取り入れて土着化させました。西洋のキリスト教をモデルにしたと思われる国家神道は人工的なものであったと現時点では思っています。(そのため無理やり輸出しようとしたり国内で反発が起きた)。ただし、日本人は敵と思ってなくとも、西洋キリスト教は(勿論すべてではなく、その一部ですが)日本人の信仰を敵視して、攻撃の機会を狙っていました。自国の黒人が奴隷化されていることは棚にあげて、日本人が中国人を奴隷化しようとしていると日本を敵視した二重人格的な正義をもつ米国のキリスト教徒たちなどです。最後の「5)」の共産主義は世界を混乱におとしていれました。日本は長年翻弄され、的確に対処できませんでした。共産主義こそ有色人種の奴隷化と白人支配を終わらせるものだと狂喜した世界の知識人は、その後その恐るべき本性を知らさせることになりました。共産主義思想は社会科学の形をとっており、自然科学が権威をもつのに乗じて人々を幻惑した社会科学はあまりにデタラメ(厳格な実験を省いた自然科学みたいなものであり、独善的な理論ばかり横行)インテリの思考を混乱させました。

 もはや「3)」が表面的には無くなったことには日本人の貢献も大きいと考えます。それ以外の課題は現代も続いています。誰も正確に把握できないであろうグローバリズムは、上記が複雑に混在しています。キリスト教とイスラム教の対立や勢力争いは、今後千年は続くのではないでしょうか。

 また東アジアで共通の歴史観をもつことは難しいでしょう。中国や韓国は日本人の悪行だけ協調して功績は認めないでしょう。日本の歴史思想は相変わらず左翼の勢力が強いと思いますが、田母神氏の論文をめぐる西尾先生と秦郁彦氏の対立(というか論争)は色々と考えさせられました。秦郁彦氏はおそらく日本人の白人支配終焉などへの功績を全面否定されているわけではないですが、日本の過去の指導層(政治家および軍人の一部)に対しては、あくまで結果責任を問い、外国の悪意のせいでは済ませられないという姿勢のようです。その基底には、ドイツのナチスと日本の指導者はまったく違いますが、日本人を指導層と一般国民に分けて前者の非を問うという意味で、ドイツ人が一般国民を免責するのと同じような発想をされているのではないかと感じました。

「路の会」の新年会

 「報道2001」の私のテレビ発言について、50個に近いコメントが寄せられた。近頃にないことで心から御礼申し上げる。ひとつだけこの件で言っておきたいのは、今回は局側が私の発言をそれほど強く制限しなかったので、私はある程度、自説を述べられたのであって、とくにあの日体調が良かったからとか、自分好みの論題だったからとかいうことではない。この点は誤解しないで頂きたい。

 もし私に30分の自由時間をテレビが与えてくれたら、国民に心に残るメッセージを与えることは可能だろう。しかし地上波テレビは私にそういうチャンスを与えない。日本文化チャンネル桜のYou Tubeを見ていたゞきたい。これを見れば、私の訴えはすべてお分かりになるだろうと思う。

 「報道2001」は今回は私に例外的な対応をした。従って、このあと当分の間は出演を言ってこないだろう。左翼から圧力がかかっているだろう。視聴者のみなさんは、私に限らずいい人のいい話を聞けるか否かも局側の匙加減ひとつであって、出演者の自由でも責任でも努力課題でもない、ということを分っていただきたい。日頃のテレビを悪くしているのはすべてテレビ局にあるのだということをよく弁え、局にがんがん投稿することが必要である。左翼が圧力をかけつづけているのであるから・・・・。

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 さて皆さん、正月10日に「路の会」で新年会を開催した。「路の会」は毎月順調に例会を開いてきたが、当ブログではあまり報告されていない。

 新年会は故遠藤浩一さんに対する黙祷から始まった。何とも言いようもない衝撃で幕を開けた今年の正月だった。私は1月3日に彼から葉書をもらっていて、日付をみると12月31日に書かれていて、1日に投函されている。ひょっとしたら絶筆かもしれない。みなさんにお見せした。この一枚の葉書をどう扱ったらよいか分らない。葬儀が行われないというので、気持が鎮まりようがない。私は「正論」に追悼文を約束しているので、そこに祈りをこめることとする。

 新年会には21人が集まった。順不同で、加藤康男、尾崎護、大島陽一、木下博生、入江隆則、三浦小太郎、渡辺望(今回初参加)、伊藤悠可、堤堯、福井義高、大塚海夫、高山正之、宮脇淳子、河添恵子、藤井厳喜、北村良和、宮崎正弘、そして徳間編集部の力石幸一、赤石の諸氏に私である。

 長老の尾崎さんの「献杯」で会は始まり、中華料理をいたゞきながらの自由討論会となった。昨年アメリカに渡って、慰安婦像設置反対のための講演の旅をした藤井厳喜さんの話をぜひ聞きたいと堤堯さんから提案が出され、まずその話が披露された。

 サンフランシスコ郊外にクパチーノという町がある。アップルの本社があるシリコンバレーの中心の一つで、しかも反日運動の拠点だといわれる世界抗日連合会本部が置かれている都市である。かつて拉致された慰安婦は20万人とのばかばかしい数字がひとり歩きしていたが、世界抗日連合会は50万人にかさ上げした。半分は韓国人、半分は中国人だそうである。中国が運動に介入してきたからで、そうなると「白髪三千丈」のたぐいの大ウソが平気でどんどん広まる。

 藤井さんはクパチーノ市の市長と会ってきた。市議会議員は5人しかいないが、うち4人は慰安婦像の設置に反対している。外国人の間のトラブルを自分たちのコミュニティーに持込んでもらっては困る、という常識的判断が働いている。議会筋の話も入れて総合すると、この市の像設置はおそらくないだろう。だがと藤井さんは言った。

 今後はアメリカ全土の見通しは楽観できない。中国が介入し、ロビー活動が動き出しているからである。慰安婦も、南京も、いよいよ攻撃が強まるだろう。在米日本人はがんばっているが、日本政府がしっかりしていない。歯がゆいばかりである、と。

 日本も組織的反中反韓運動を組み立て、政府がそこに資金を投じ、情報キャンペーンに本腰を入れるべきである。現代の戦争は歴史の解釈の戦争であり、言葉の戦争である。まず日本国内で「日中友好」再燃ムード阻止、「韓国冬季オリンピック」協力ムードの阻止を確立すべきであると思う。

 海上自衛隊の大塚海夫さんが久し振りに姿をみせた。以前は例会を欠かしたことのない人だったが、国家の周辺の急変事態でこのところずっとお休みだった。「海将補」という新しい名刺をもらったが、昔の位でいえば海軍少将だそうである。

 靖国参拝についてのアメリカの例の「失望した」発言でこのところぎくしゃくしている日米関係が防衛にどう波及するかが話題になった。大塚さんは在日米軍と海上自衛隊との関係はゆるぎないものであると仰有った。もともと在日米軍の主力は海軍なのだが、家族を含めて日本に在留しているので、日本の良さがよく分っていて、それが米軍そのものとの良好な関係にもつながっているとのお話であった。さもありなんと想像できた。その他微妙な情報もいろいろあったが、ここで公開するわけにはいかない。

 ブルートレイン廃止の是か非かで、1月3日の産經に大きな顔写真と共に石破自民党幹事長との対討記事がのっていた福井義高さんがお話になった。福井さんは元国鉄勤務で、その方面の本もある。ブルートレインは廃止論者で、存続論の石破氏と立場を異にしていた。しかし新年会で話題になさったのは鉄道のことではない。アメリカ大統領選挙のことだった。

 オバマの次は誰になるか、が日本の政治にも関係してくる。前回の選挙で立候補した共和党のロン・ポールは80歳で、最近引退し、息子のラント・ポール上院議員(50歳)が父の思想的立場を承けて立候補するらしい。ロン・ポールは名うての孤立主義者で、今のアメリカの向かっている潮流に棹さしていた。ラント・ポールは同じ傾向とはいえ父親より穏健なので、より巾広い層の支持を得られる可能性がある、との福井さんの観測であった。

 孤立主義はオバマがすでにそうである。オバマは評判が悪い。日本に対してはそもそも関心がない。しかし福井さんにいわせれば日本が「離米」するチャンスでもある。孤立主義の外交政策は日本は日本の侭で行かせよ、という考え方である。米海軍はラインを東南へ引き下げる。陸軍のコミットメントを止める。アメリカの国境はいよいよ露骨に日本列島そのものになる。むかしのアチソンラインに似ている。日本列島がアメリカの軍事的最前線になり、しかも米軍は主力を引き上げる。長距離核だけで対峙するということになろうか。いよいよ日本はぼんやりしてはいられない。庇護者アメリカは完全に消えてなくなるだけでなく、日本を砲弾の楯にしようとしているのである。

 在日米軍は家族ぐるみで日本社会と接しているので、大塚さんの仰有る通りたしかに他国よりも日本に親和性を保っているのかもしれない。しかし軍は政治の支配下にある。時期大統領選挙は日本の運命は大きく影響するので、今から研究を重ねていく必要があろう。

『新報道2001』出演のお知らせ

1月12日(日)放送『新報道2001』

ゲスト
*磯崎陽輔氏(内閣総理大臣補佐官)
*斉藤鉄夫氏(公明党幹事長代行)
西尾幹二氏(評論家)
*宮家邦彦氏(キャノングローバル戦略研究所主幹)
*冨坂 聰氏(ジャーナリスト)
*朴  一氏(大阪市立大学大学院教授)

靖国参拝の波紋と日米関係への影響

外交防衛課題で見る2014年安倍政権の行方は?

張作霖爆殺事件対談(五)

東京裁判史観を守り継ぐ「タコツボ史観」史家

西尾 秦郁彦氏と私は、『諸君!』二〇〇九年一月号で、「『田母神俊雄=真贋論争』を決着する」と題して誌上対談を行いました。

加藤 過激な対談でした。

西尾 秦氏は田母神氏の論文について、「全体的な趣旨や提言については、私もさしたる違和感はありません」としながらも、日本軍と国民党軍を戦わせて両者を疲弊させ、最終的に中国共産党に中国大陸を支配させようと考えたコミンテルンの戦略で日支事変が起きたこと、またルーズベルト米大統領と、その政権に入り込んだコミンテルンのスパイの罠に日本がはまって真珠湾攻撃を決行してしまったと述べていることについては、陰謀史観だとにべもない。「坂本龍馬はフリーメイソンだった」「平清盛はペルシア人だった」というテレビの歴史推理番組と同じ類だと憎々しげに愚弄する言い方でした。張作霖爆殺事件に関して田母神氏の論文が「少なくとも日本軍がやったとは断的できなくなった…コミンテルンの仕業という説が極めて有力になってきている」と控え目に言及していることついても、秦氏は「上杉謙信が実は女だったというのと同じぐらいの珍説」(週刊朝日、二〇〇八年十一月二十八日号)と小馬鹿にしていて、私は「そういう珍説と一緒にするのはやめてください」「こんな断定の仕方は酷い。可能性としては、爆破計画が別々にあって、河本大作大佐らが先に実行した、あるいはソ連と秘かに組んで実行したというケースもありえる」と怒りました。

 さらに「河本大佐が何者であったか、いまでもわからない」と言ったら秦氏は、「隅々までわかってますよ」と言うんですね。

加藤 まだ重要史料の不足で分からないことが色々あります。今回、前述のお孫さんの女性への取材で、河本が早くから諜報機関に憧れ、ロシアに入り込んでそうした活動をしたいと本気で考えていたこと、ロシア人の友人がいたことが分かりました。この「友人」が工作員だった可能性も捨て切れません。
 
半藤一利氏もベストセラー『昭和史』で秦氏と同じように従来の説をなぞって、講釈師のように「六月四日のことでした。まさに張作霖の列車が奉天付近に辿り着いた時に、線路に仕掛けられた爆薬が爆発してあっという間に列車が燃え上がり、張作霖は爆殺されてしまいます」と書いています。
 
西尾 半藤氏はより悪質だと思います。『昭和史』の本章は、昭和三年の張作霖爆殺事件から始まり、昭和という時代の戦争へと至る止まらない流れがこの年に始まったように書く。なぜか。この一九二八年という年に締結された「ケロッグ=ブリアン」条約、いわゆる不戦条約が、東京裁判で日本を犯罪国家、侵略国家に仕立て上げるための唯一の論拠だったからです。それに合わせているのです。
 
加藤 「昭和三年一月一日以降の『侵略戦争遂行の共同謀議』」などとあげつらった東京裁判の起訴状そのものです。張作霖爆殺事件もそこにうまくあてはめられた。
 
西尾 すべてがつくり話なんです。つくり話に戦後の歴史家たちが乗っかっているんです。

 秦氏は、歴史の陰に陰謀や謀略があったとの見方を、根拠のあやふやな「陰謀史観」だと切って捨てます。しかし、世界史は陰謀にまみれています。特に中国大陸は一九二〇年代から今日に至るまで、陰謀抜きでは語れません。歴史を書くこととは、驚くべき陰謀がどのように歴史を動かしてきたかを、少しずつ解明して証拠を添えていくという作業です。歴史は疑問に対する推理や想像から始まります。そして証言や証拠をもってそれを検証していくという作業です。きょう、最初に河本首謀説のどこに疑問を持たれたのかと質問したのも、そのためです。

加藤 想像力がなければ謀略は見抜けません。どんな科学、化学の成果でも、最初の一歩は想像力ではないでしょうか。

西尾 謀略を見抜けなければ、外国に指定された歴史観に盲従するしかない。戦後の日本がそうです。
 
加藤 秦氏は、コミンテルンの事件への関与というと「陰謀史観だ」といって顧みようともしませんが、河本首謀説しか考えないのは逆に「タコツボ史観」だと言えます。国内の事情や史料しか見ない。しかも、占領軍、東京裁判によって押しつけられた歴史とはつじつまの合わない史料は敢えて黙殺する。今回の検証作業で、このタコツボ史観の問題点を明確にすることができたと考えています。コミンテルンや張学良の他に別の背景があるのかどうかについては今後の研究を待たなければなりませんが、少なくとも河本首謀説の誤りは明確になったと考えています。

西尾 既存の歴史認識、あるいは歴史学会、現代史の学者たちに重い挑戦状を突きつけた、何人も無視できない業績だと思います。
 
加藤 今年夏、中学校の歴史教科書の採択が行われます。各社の新しい教科書をみると、依然として張作霖事件は旧来の河本首謀説に即した記述です。自由社版などでは、そう記述しないと検定に合格できかったそうです。せめて事件の記述が教科書から外れるようにするためには、文部科学省の教科書検定官たちの歴史認識を変えるような史料がもっとたくさん出回る必要があると思います。次代を担う子供たちがこれ以上、不当に日本が貶められた歴史を学ぶことは看過できません。


『正論』2011年7月号より

張作霖爆殺事件対談(四)

張作霖爆殺事件対談(二)に図が掲示されました。

共産主義の悪を直視しない歴史家たち

西尾 一九二〇年代、アメリカでもイギリスでも、そして日本でも、共産主義が蔓延します。長野朗という当時の思想家『日本と支那の諸問題』(昭和四、支那問題研究所)の著作によりますと、第一次世界大戦終了後、五四運動で火のついた中国の排日を最初に主導したのはアメリカとイギリスのキリスト教会でした。ところが一九二三~二四年頃を境に、アメリカ人とイギリス人は中国ではむしろ批判されて、ロシアの組織が取って代わったということです。スターリンは当時、毛沢東よりもむしろ蒋介石に利用価値を認めて期待していました。

加藤 蒋介石への期待とは、言い換えれば国民党への加入戦術だと思います。共産分子を加入させると同時に、国民党内の学生、労働者、不満・不良分子を糾合して、スターリンのいうことを聞く勢力を国民党内につくり始めた。張学良の国民党入党も、実はコミンテルンの大きな仕掛けの一環だったとも考えられます。
 
西尾 張学良が中国共産党に入党した可能性があるとされるのはずっと後で、一九三五年ですね。
 
加藤 正式入党の記録は見つかっていないと思いますが、一九三五年十二月以降には、上海で共産党員と接触をしていたという記録が残っています。

西尾 その一九三五年の七月にはコミンテルンの第七回大会がありました。スターリンは、中国での抗日民族統一戦線の形成を指示します。翌年の「第二次国共合作」の布石とも言えます。

加藤 毛沢東、周恩来に対して、当面は蒋介石との争いは矛を納め、日本を共通の敵として戦い、その間に共産勢力を広げ、最後に蒋介石を倒せと指示した。二段階革命と同じ発想です。張学良はこの統一戦線に身を投じた可能性がある。

西尾 西安事件の登場人物―張学良、蒋介石、コミンテルンなどが、張作霖爆殺事件と重なるということになりますね。西安事件というのは、一九三六年十二月、西安に張長良を訪ねた蒋介石が、張学良によって監禁された事件で、中国共産党は蒋介石を殺害しようとしますが、スターリンの指令によって蒋介石は解放されました。これも翌年の第二次国共合作の布石となったと言われている事件です。

 張作霖爆殺後に蒋介石の軍門に下っていた張学良は、西安事件で蒋介石を裏切ろうとしました。あっちについたり、こっちについたり目まぐるしい。何か一つの信条で動き続けるのではなくて、いつでも違う逆の方向にも心をオープンにして相互に裏切りを重ねているというのは支那人の常ですね。

加藤 生き残る知恵なんじゃないでしょうか。軍人、あるいは政治家として彼らの、そういった生き方そのものは否定しきれない。日本人にはなかなかそれが見抜けません。

西尾 こうした混沌が、あの大地にはうごめいていた。残念ながら、我が国政府はそれを見抜く力がなかった。

加藤 インテリジェンスの弱さでしょうね。

西尾 西安事件後に蒋介石が南京に戻ってきた後の国民党の党大会で、何応欽が大演説をぶって、蒋介石が監禁されながらも断固反共を貫いたことを同志の前で喜びの声をあげて叫んだのです。ところが、同時にそのとき周恩来がやって来て、日本と戦うために愛国でいこう、共産党は国民党と対立しないと宣言した。妙な握手をしたんです。
 
そして蘆溝橋事件、第二次上海事変を中国が引き起こし、日本を日支事変へと引きずり込むという流れにつながっていきます。日本の歴史家の記述、特に昭和史と呼ばれるもののどこが間違っているかというと、共産主義の悪、謀略的な動きを直視して歴史を動かした一モメントとして叙述するということをしない。だから、日本はその身が潔白なのに唯一の悪玉国家だったなどと悪し様に言われるという訳のわからないことになるんです。
 
それにしても、河本首謀説ですべて説明できると思い込んでいる日本の歴史家たちの間抜けで怠惰な精神には、あきれ果ててものも言えません。日本は外国と戦争したのですから、外国の文献を調べなければ日本史の研究なんかできません。国内の文献を調べてそれで万事足りるとする歴史家、特に戦後日本の現代史家たちの愚劣ぶり、無能ぶりに私は腹に据えかねていました。
 
先ほど加藤さんは、発見したイギリス公文書館の史料を紹介されましたが、今回、この他にもさまざまな海外の文献に当たられたのは、彼らの虚を突いた業績だったと思います。
 
爆殺事件の首謀者がソ連だったとする『GRU百科事典』も日本で初めての紹介ですね。
 
加藤 モスクワで発見できたのですが、新しい証拠となりました。そのさわりの部分をもってきました。
 
西尾 読み上げますと、「サルヌインの諜報機関における最も困難でリスクの高い作戦は、北京の事実上の支配者張作霖将軍を一九二八年に殺害したことである。将軍の処分は、日本軍に疑いがかかるように行われたことが決定された。そのためにサルヌインのもとにテロ作戦の偉大な専門家であるナウム・エイチンゴンが派遣された。彼はまさに十二年後にレフ・トロツキーの暗殺を指揮することになる。特殊任務は成功裏に終わった」。大枠は二〇〇〇年出版の『GRU帝国』とほぼ同じ内容ですが、二〇〇八年に出版された新しい文書ですね。サルヌインは、未遂に終わった張作霖の第一次暗殺計画にも参加していた。

加藤 その後一時中国を離れてほとぼりをさまし、再び中国に戻ってコミンテルンの意を受けて動く「グリーシカ」という非合法組織を率いていました。このグリーシカが爆殺事件で陰に陽に動いたとみられます。

 西尾 『謎解き張作霖』では、爆殺に関わった可能性があるソ連工作員としてヴィナロフという人物も紹介されています。

加藤 ヴィナロフはサルヌインの部下でグリーシカの工作員です。今回、ヴィナロフの『静かな戦線の戦士たち』という自伝的著作を、ブルガリアの首都ソフィアで入手しました。一九八八年刊行のソフトカバー版にはありませんが、一九六九年刊行のハードカバー初版本には事件に関する記述があります。日本が起こした事件だとはしていますが、「いくつかの運命のいたずらによって」張作霖の列車とは逆方向の京奉線の上り北京行き列車に乗っていて、現場に居合わせ、自分のカメラで写真を撮ったという思わせ振りな記述もあります。

西尾 これだけの重大事件の直後に、反対方向の列車が動いているなどあり得ないでしょう。

加藤 私もこの記述はヴィナロフの嘘だと思います。撮影したという現場写真も初版本に掲載されていますが、海外の通信社が配信した写真のコピーの可能性があります。しかし、「運命のいたずら」などという稚気に満ちた嘘を交ぜながら、事件への何らかの関与を手柄として明らかにしている可能性は否定できないと考えています。

つづく
『正論』2011年7月号より

張作霖爆殺事件対談(三)

驚愕!「父親殺し」だった可能性も

西尾 主として現場の記録の検証から、張作霖は河本の仕掛けた爆発で死んだのではなく、本当の首謀者は別にいて致命的な爆発物は列車内にあらかじめ仕掛けられていたに相違ないことを説明していただきました。加藤さんの推定はここから当時の中国の状況を加味して、本当の首謀者探しに向かいます。『謎解き張作霖』で引用された数多くの歴史的事象や証言は、我が国の中国理解や近現代史にとっても重大な意味を持つ話だと思います。

加藤 事件が起きた一九二八年六月当時の中国大陸では、北伐を進めていた蒋介石軍、いわゆる南方軍に大変な勢いがあり、満州・奉天から北京に進出し、北方軍閥の連合軍である安国軍を率いていた張作霖も敗勢でした。張作霖が完全敗北することで、満州にまで国民政府の影響力が及び、またソ連が南下するのを恐れた日本軍の再三の勧告もあって、張作霖は奉天に一旦引き返すことを決断。爆殺事件はこの途中に起こりました。
 
西尾 この時、張作霖に対して殺意を抱いていた、あるいは排除しようと思っていた勢力なり集団は四つあって、①河本たち日本軍、②蒋介石軍のほかに、③ソ連、そして④謀反を考えていた張作霖配下のグループを挙げていますね。

加藤 ソ連については、『正論』二〇〇六年四月号に掲載された『GRU帝国』の著書、プロホロフのインタビューでも詳しく紹介されています。張作霖とソ連は一九二四年以降、中国東北鉄道(中東鉄道)を共同運営していましたが、張作霖軍側の代金未払いなどをめぐって衝突します。さらに張作霖の反共姿勢もあって、ソ連は一九二六年に張作霖の暗殺を計画、奉天の張作霖の宮殿に地雷を施設して爆殺しようとしましたが、事前に発覚して未遂に終わりました。

 張作霖はこの事件で反共姿勢を強め、翌二七年に北京のソ連総領事館を捜索し、工作員リストや大量の武器、破壊工作や中国共産党に対する指示文書などを押収します。大量の中共党員を逮捕し、党創設メンバーも銃殺しました。さらに一九二八年に入って反ソ反共の満州共和国創設を日本と協議したことから、スターリンが再び暗殺を決めた|これが、プロホロフのいうソ連の張作霖排除の動機です。

 実際、当時の田中義一首相は共産主義革命後のソ連の脅威を感じ始めていて、防共の砦として張作霖を使い、当面はそれで満州は安泰になると考えていたはずです。

西尾 しかし、河本や二葉会の幕僚たちには張作霖排除の意識があった。張作霖は日本軍の統率に従わなかったのがその理由とされていますが、満州の民衆に苛斂誅求の税を課し、通貨を乱発して経済も攪乱していた。私が読んだ長与善郎という作家の『少年満州読本』(昭和十三、新潮社)にも、当時の満州人も日本人も張作霖を相当憎々しく思っていたことがよく描かれています。

 最後に④の張作霖に対して謀反、背信を考えていた配下のグループですが、加藤さんが名前を挙げたのが、驚くことに長男の張学良です。
 
加藤 産経新聞(二〇〇六年)が報じましたが、張学良は事件の前年の一九二七年七月、国民党に極秘入党していました。これは重要な要因だと思います。

西尾 当時は蒋介石軍の北伐が行われていて、国民党は張作霖軍と戦っている最中です。父親に対する重大な謀反行為です。

加藤 ただ、国民党入党で蒋介石と通じていたと単純に見るわけにはいきません。国民党内の共産党分子と通じていたとも考えられます。爆殺された張作霖の跡を継いだ学良は、籏をそれまで使用していた北洋政府の五色旗から、国民党政府の青天白日満地紅旗に代え、国民党に降伏します。「易幟(えきし)」です。この時、奉天城内外に青天白日満地紅旗とともに大量の赤旗が翻っていたことが確認されています。

西尾  そして、先ほどのような張作霖排除の動機をもったソ連が張学良を暗殺計画に巻き込んだということですね。そこに、張作霖の懐刀であった楊宇霆(よううてい)と、常蔭槐(じょういんかい)という二人の人物が登場します。

蒋介石軍の日本人参謀の影

加藤 実は楊宇霆も張作霖を裏切り、国民党に近づいていました。この事実を知っていたのが、参謀本部から派遣され、蒋介石軍の参謀を務めていた佐々木到一中佐で、手記にこう書き残しています。「新しがり屋の張学良や、奉天派の新人をもって目された楊宇霆らの国民党との接合ぶりを見聞している予として、(中略)奉天王国を一度国民革命の怒濤の下に流し込み、しかる後において、我が国内としてとるべき策があるべきものと判断した」(『ある軍人の自伝』)。張学良と楊宇霆の謀反の動きに乗じて張作霖を排除し、国民党に奉天を支配させたうえで手打ちをする計画だと読めます。
 
西尾 そして、事実そのように動いたというのが、加藤さんの描いた筋書きですね。

加藤 そうです。ちなみに常蔭槐は交通委員会副委員長で、京奉線をグリップしている鉄道のプロでした。彼が楊宇霆から指示され、機関士上がりの工兵、工作員を使い、機関区で張作霖のお召し列車の天井に爆薬を仕込んだと思われます。
 
爆破された時、張作霖の列車はかなり速度を落としていました。関東軍の斎藤所見によれば、通常の列車はこの現場を時速約三〇キロで走行するのに、残された車両の状況で判明した張作霖列車の速度は一〇キロ程度。斎藤所見は「(列車)内部に策応者ありて、その速度を緩ならしめかつ非常制動を行いし者ありしに非ずや」「緩速度たらしめし目的は、要するに所望地点にて列車を爆破せむと欲せるものに非ずや」と指摘しています。この「策応者」つまり機関士に、現場通過時に速度を落とせと指示したのも常蔭槐でしょう。
 
西尾 張学良は、事件翌年の一九二九年一月に楊宇霆と常蔭槐を酒席名目で自宅に招き、射殺します。「父親殺し」の真相を知っている二人の口封じだったとみるわけですね。

加藤 張学良は、二人を殺害した理由を「謀反を企てていた」と称していましたが、謀反などありませんでした。

西尾 さらに話を複雑にするのが、蒋介石です。加藤さんが引用した『日本外交年表並主要文書1840―1945』によると、蒋介石は事件前年の一九二七(昭和二)年に日本で田中義一首相と会い、「支那で排日行動が起きるのは、日本が張作霖を助けていると国民が思うからです。(中略)日本は(国民党による)革命を早く完成させるよう我々を助けてくれれば国民の誤解は一掃されます。ロシアだって支那に干渉を加えています。なんで日本が我々に干渉や援助を与えてはいけないのですか」と言い含めた。

加藤 本当はコミンテルンが反日感情を煽り、テロ事件も起こしていたんですが、「張作霖がいるから中国で反日感情が高まって困っている。なんとかしてほしい」と持ちかけたとも考えられます。
 
西尾 張作霖は日本側についているというのが当時の通説だった。だから、そういう言葉もあり得ますね。

加藤 私は、この蒋介石の言葉を国民党幹部が佐々木に伝えた可能性もあると思います。佐々木は、コミンテルン分子が張学良らを使って張作霖爆殺計画を進めていることもかぎつけていた。そこで、張作霖を「絶対にやる」と言っていた河本を教唆し、張学良チームと河本チームをコラボさせた暗殺計画を立てた可能性があると思います。河本は、佐々木から伝えられた蒋介石の「日本への依頼」も含めてすべてを飲み込んだつもりとなり、関東軍の犯行だと示唆する証拠を故意に残したのかもしれません。そして「日本軍の犯行に見せかける」というコミンテルンの狙いにはまってしまった。

つづく
『正論』2011年7月号より

張作霖爆殺事件対談(二)

爆破の瞬間写真をなぜ残した

西尾 爆発の瞬間を撮影した現場写真に話を戻しますが、不思議な写真です。爆殺が行われるのをあらかじめ知っていた何者かがスタンバイしていなければ撮れません。
 bakuha.jpg

加藤 この写真は、爆発の前からその瞬間、以降の現場検証や張作霖の葬儀の様子までを撮影した六十一枚の組写真の一枚です。山形新聞資料室に残されていて、昭和六十年には地元テレビ放送局の特集番組で紹介されて日の目を見ました。河本グループの一員が所有していた写真を陸軍特務機関員が入手していたようです。

西尾 撮影者は河本グループの誰かである。しかし、この写真は、撮影者の事件への関与を示す証拠になります。河本グループは、苦力の死体を置いてとりあえずは国民党軍の犯行にみせかける偽装工作をして実行に及んでいますが、敢えて自分たちの関与が発覚する危険性を承知で撮影したのはなぜでしょうか。

加藤 敢えて自分たちの関与を示す証拠として残したかったのだと考えられます。

西尾 写真を撮ってまで自分たちの行動を後世に伝えようとした。実行犯グループは自分たちの行動を非常に誇りに思っていた。そうした心理が読み取れるわけですね。

加藤 河本のお孫さんの女性にも昨年会って話を聞きました。彼女は河本の妻や娘、つまり祖母や叔母から「陸軍の上層部も祖父(河本)自身も日本にとって張作霖が極めて不都合な存在だったと考えていたので、祖父がお国のために実行したのだ」と教えられたと語ってくれました。事件に対する河本の誇りは、家族にも受け継がれているように思えました。

西尾 読者の皆さんに注意を喚起したいのですが、河本自身は事件の約一カ月半前、満蒙問題解決のため「張作霖の一人や二人ぐらい、野タレ死しても差支えないじゃないか。今度という今度は是非やるよ。止めても、ドーシテモ、やってみる」という手紙を参謀本部の友人に送っています。手柄として誇示したいとすら思っていたのであって、本来なら隠すべきところを、隠すような犯罪では決してないと考えていたわけです。これが前提です。

加藤 軍中央の河本の同志たち、エリート幕僚集団の「二葉会」のメンバーも喝采を送っていました。河本は張作霖爆殺事件で予備役とされますが、その後は満鉄や中国の炭鉱会社の役員になったりします。彼を支援、支持する軍内部の声が後々まで続いたということです。

西尾 ほかにも、河本首謀説の「決め手」とされた証拠が幾つか現場に残されていますね。
 
加藤 河本たちは国民党軍の便衣兵の犯行にみせかける偽装工作として二人のアヘン中毒の苦力(クーリー)を殺害し、死体を現場に残しています。そのポケットには犯行声明文のようなものを入れましたが、いい加減で、中国人が書いたとはとても思えない。日本軍がやったとすぐにバレる代物でした。
 また発火装置の導電線を約一八〇メートル離れた日本の監視小屋にまで引き込み、そこで爆破スイッチを押したと言われていますが、事件後の現場からは導電線が半分ぐらい残されているのが発見されています。こうしたカモフラージュのずさんさは、普通では考えられません。河本や東宮はエリート軍人であって、らしからぬ偽装と言わざるを得ません。

西尾 つまり、偽装だとすぐにばれるような工作だった。

加藤 故意に関東軍の犯行だと示唆する証拠を残したんでしょうね。その証拠を拾ってきて、「河本が首謀したことに間違いない」と…。

西尾 言っているのが秦郁彦氏たち。

加藤 それは歴史とは言えません。

西尾 裏も読めていないし。時代の背景も人間の真実も分かっていないんですよ。

加藤 『マオ』がコミンテルン犯行説の根拠とした『GRU帝国』の関連の記述を紹介します。「GRU」はソ連軍参謀本部情報総局という巨大な諜報機関で、筆者はロシアの歴史家、プロホロフです。それによると、「張作霖は長年にわたって権力の座におり、満州日本、ソ連、孫文政府の利害対立をうまく利用していたが、彼自身は一九二六年から二七年のボロディン(中国で活動したコミンテルン工作員)の活動の結果に対しひどく不満を抱いていた。東支鉄道(中東鉄道)の通常の機能は、ソ連側で働く者と張作霖側との絶え間ない戦闘によって著しく脅かされていた。それゆえモスクワでは張作霖を処分すること、その際に日本軍に疑いが向けられるようにすることが決定された」。この最後の「日本軍に疑いが向けられるようにする」というモスクワの意向と、「ずさんな証拠残し」とが符合することを指摘しておきたいと思います。

イギリスにあった日本外務省の報告書

西尾 加藤さんは海外でも多くの史料を発見されました。例えば、イギリス公文書館で公開されていた史料です。その中に、事件直後の現場の見取り図(二四五頁の図1~2)があります。

(図をクリックすると拡大します)
Zhang Zuolin Assassination Incident sketch 1
図1

Zhang Zuolin Assassination Incident sketch 2
図2

加藤 日本語で書かれた見取り図で、奉天領事の内田が作成した報告書をイギリス諜報機関が入手したもではないかと思われます。しかし、「満州某重大事件」などと呼んで一般には内容が秘密にされた事件です。調査報告書の類は日本政府内でも限られた人員しか閲覧できなかったはず。そんな史料がなぜロンドンにあるのかと驚きました。イギリスが入手した経緯は当然ながら書かれていませんが、内田の結論である列車内部爆発説が斎藤参謀長所見と同様、まったく本国日本で取り上げられなかったことから、真相解明を後世に託すために、敢えてイギリス側に渡した可能性もあると思っています。

西尾 九十年後の今日、その内田の密かな願いが加藤さんの手で実現したのだとすれば、運命的な発見です。図2を見れば明らかですが、高架の満鉄線の欄干が破壊されて、下に垂れ下がっています。一方、図1では、地面に穴が空いたり線路が破壊されたりしたことを示す書き込みはありません。やはり河本たちの爆発は効果がなく、実際に彼を殺害に至らしめたのは、列車内の天井に仕掛けられた爆弾の爆発であったこと、それが極めて強力で車両だけでなく、上部の満鉄の橋梁まで吹っ飛ばしていたことがよく分かります。
 これだけすさまじい爆発の威力は、実は橋脚付近にも仕掛けられていた爆薬が、車両天井部の爆発によって誘爆したことで生じたという見方を加藤さんは『謎解き張作霖』で披露されています。

加藤 ええ。河本が第二の実行犯の存在に気付いていたかどうかにも関わる重要な問題です。

西尾 複雑な話なので、残念ですがその内容は本書『謎解き張作霖』に譲りましょう。イギリスでは、同国の諜報機関が作成した文書にも当たられたんですね。

加藤 イギリスは当時、陸軍情報部極東課(MI2c)と情報局秘密情報部(MI6)の二つの諜報機関が事件の真相を探っていました。
 このうちMI6諜報員だったヒル大佐という駐日大使館付武官のメモは、爆薬の設置場所について、爆薬は客車の上方にあったとしたうえで、①陸橋に詰め込まれていた②車両の天井に置かれていた|という二通りの可能性を検討しています。①なら陸橋上は日本兵が警戒していたので日本軍の関与を示す決定的証拠となるものの、「この見解はイギリス総領事に嘲笑された」として否定的です。これまでみてきたように、②の可能性が「十分ありえるのだ」としている点は重要なポイントです。
 また「張作霖の死に関するメモ」と題したイギリス外交部あての文書(一九二八年十二月十五日付)も、「爆弾は張作霖の車両の上部または中に仕掛けられていたという結論に至った」と書かれています。

西尾 これは大きな発見だったと思います。
 
加藤 張作霖事件に関する同国諜報機関の文書をめぐっては、興味深い論争があります。京都大学教授の中西輝政氏は、MI2cの文書(一九二八年十月十九日付)を引用する形で、MI2cは「(張作霖事件に)関東軍もかんだかもしれないが、ソ連(コミンテルンないしソ連軍諜報部)が主役だったという結論を出している」としています(『WiLL』二〇〇九年一月号)。
 これに対し、秦郁彦氏は「張作霖からハル・ノートまで」(『日本法学』第七十六巻)という論文で、当時のイギリス諜報機関の活動を紹介するイギリス人の著述に「一九二九年に入り東京の英大使館は(事件の主役がソ連だったという可能性とは)別の推定に達した。すなわち暗殺は関東軍の一部によって遂行されたということである」と書かれているとして中西氏の主張を否定しています。このイギリス人の著述は、駐日大使からチェンバレン外相にあてた一九二九年三月二十三日付文書などに基づいているとのことです。
 しかし先ほど紹介した、河本グループ以外の実行犯の存在を示唆するヒル大佐のメモも同じ一九二九年三月二十三日付で、チェンバレン外相に送られています。秦氏が引用したイギリス人の著述を見ておらず詳細は分かりませんが、同じ日付の新史料が今回発見されたことで、秦氏の論拠が中西説を覆したことには必ずしもならないように思われます。

つづく
『正論』(2011年7月号)より

謹賀新年 平成26年2014年元旦 張作霖爆殺事件対談(一)

 昭和3年(1928年)の張作霖爆殺事件は加藤康男氏の研究によって、関東軍主犯説はくつがえされた。昭和6年(1931年)の柳条湖事件の日本軍犯行説も、まだ証拠十分ではないが、くつがえされる日はそう遠くないと信じている。

 張作霖爆殺事件の真相をめぐって、加藤康男氏と私とは『正論』(2011年7月号)で読者に分り易く解説するための対談をしたことがある。今日から何回かに分けて、同対談をここに掲示することにしたい。

 両事件の日本軍主犯説がくつがえると、戦後歴史学会が組み立てた昭和史の全体像が崩壊することになるであろう。

東京裁判史観を撃つ
張作霖爆殺の黒幕はコミンテルンだ

イギリス機密文書やコミンテルン工作員の自伝…。数々の新資料が物語る事件の黒幕。そして「父親殺し」の可能性。「日本単独犯」に異を唱えた田母神論文を一笑した歴史家たちを糾す!

編集者・近現代史研究家●かとう・やすお 加藤康男
(略歴)
 加藤康男氏
 昭和16(1941)年、東京生まれ。早稲田大学政治経済学部中退。集英社に入社し、『週刊プレイボーイ』創刊から編集に携わる。集英社文庫編集長、文芸誌『すばる』編集長、恒文社専務取締役などを歴任。主に近現代史をテーマに執筆活動を行っている。『昭和の写真家』(晶文社)、『戦争写真家ロバート・キャパ』(ちくま新書)など写真評論の著作(筆名・加藤哲郎)がある。

評論家●にしお・かんじ 西尾幹二
(略歴)
 西尾幹二氏
 昭和10(1935)年、東京生まれ。東京大学文学部独文学科卒業。文学博士。ニーチェ、ショーペンハウアーを研究。第10回正論大賞受賞。著書に『歴史を裁く愚かさ』(PHP研究所)、『国民の歴史』(扶桑社)、『日本をここまで壊したのは誰か』(草思社)、『GHQ焚書図書開封1~4』(徳間書店)など多数。近著に『西尾幹二のブログ論壇』(総和社)。

爆殺現場に残された河本首謀説の矛盾

 西尾 加藤さんが五月に出された『謎解き「張作霖爆殺事件」』(PHP新書、以下『謎解き張作霖』)は、昭和史をひっくり返すだけのインパクトをもった、極めて重要な本だと思います。
 事件は、東京裁判以降、河本大作大佐を首謀者とする関東軍関係者の犯行だと考えられてきました。ところが、戦後六十年の平成十七(二〇〇五)年に出版された『マオ 誰も知らなかった毛沢東』(ユン・チアン、ジョン・ハリデイ著、講談社)で、「コミンテルン(第三インターナショナル・国際共産党=戦前の国際共産主義運動指導組織)/ソ連軍諜報機関」の犯行だったという説が提示され、注目を集めました。そして元空将の田母神俊雄氏が、空幕長を更迭される原因となった懸賞論文「日本は侵略国家であったのか」で、「最近ではコミンテルンの仕業という説が極めて有力になってきている」と記したところ、現代史家の秦郁彦氏たちから罵倒・中傷としか言いようのない批判をされたという経緯があります。
『謎解き張作霖』は、一言でいえば、河本首謀説を明確に否定し、コミンテルン説を補強する内容です。河本首謀説以外はまったく受け入れようとしない秦氏たちに眼を開いてもらうために、また一般の昭和史論者に歴史とはどのように調べるべきなのか、そしてどのようにして新しく変わっていくものかということをも示す、一つの大きな転機となるご本だろうと思います。
「まえがき」で加藤さんは、事件の背景の外交や軍事などをできるだけ省き、爆殺事件そのもの、とりわけ現場に焦点を絞って実行犯を特定したいと書いておられます。河本首謀説の何に最初に疑問を持たれたのでしょうか。

 加藤 河本首謀説を簡単に説明すると、関東軍高級参謀だった河本大佐が関東軍の将校並びに工兵たちを使って一九二八(昭和三)年六月四日の払暁、奉天郊外の皇姑屯(こうことん)で、張作霖が乗った列車が通りかかったタイミングで仕掛けておいた爆薬を爆発させ、張を殺害したというものです。秦氏だけではなく、昭和史の売れ筋の著作を書いている作家の半藤一利氏やノンフィクション作家の保阪正康氏もそのように紹介しています。
 河本首謀説を否定する『マオ』のコミンテルン説を検証したいと思いましたが、モスクワでは、旧ソ連崩壊時に公開され始めた当時の秘密工作に関する史料がプーチン体制となってからはほとんど公開されず、新たなハードファクトが出てくるという状況にはありません。そこで、入手可能な史料を丹念に見直す作業から始めました。そして事件直後の現場写真と、事実関係を照らし合わせると、大きな矛盾があることに気付きました。河本たちが爆薬を仕掛けたと語っている場所で爆発が起きたとしても、写真に記録されているような現場の状況にはならない。どうしてもつじつまがあわないのです。

 西尾 確認です。『マオ』でコミンテルン説が注目されると、河本グループの役割が問われました。「まったく関与していない」「河本らがコミンテルンに完全に操られていたのではないか」と侃々諤々でした。加藤さんの検証では、河本が事件に関わり、配下の東宮鉄男(かねお)大尉たちを使って爆薬爆破を実行した事実は動かないわけですね。

 加藤 はい。河本自身の中国共産党に対する供述調書をはじめ、爆破にかかわったグループメンバーの証言などからも、その点は揺るがないと思います。
 
西尾 しかし、張作霖を実際に死に至らしめたのは、河本たちの仕掛けた爆発物ではないのではないかという疑問を、加藤さんはどの点で抱いたのですか。

 加藤 現場は、張作霖の列車が走っていた京奉線を、満鉄線の高架がクロスする形でまたいでいます。『謎解き張作霖』で検証しましたが、河本の部下が爆薬を仕掛けたのは、このクロスポイントから、列車の進行方向である東側に数メートルの地点だと考えられます。仕掛けられた爆薬は二〇〇~二五〇キロ、線路脇に積まれた土嚢に入れられていたという証言もあります。
 これだけの爆薬が爆発すれば、普通なら地面に大きな穴が空くはずですが、爆発の瞬間を撮影した二四一ページの写真をみると、まったく穴は空いていません。レールも無傷です。その他の現場写真をみてもそうです。列車も少なくとも一両は転覆しないとおかしいのに、それもない。車体は確かに側面が崩れていますが、爆発に伴う火災で崩れ落ちたものだと考えられます。

 西尾 そこで、車両の内部に爆発物が仕掛けられていて、これが張作霖を死に至らしめたのではないかという推論に加藤さんは導かれた。

 加藤 ええ。河本グループが実際に爆破したのは、恐らく数十キロ程度の少量の爆薬に過ぎず、列車と張作霖に致命傷を与えた第二の実行犯がいたということです。
 列車内に爆発物が仕掛けられていた可能性は、実は当時のさまざまな現場調査で指摘されていて、あろうことか関東軍の記録にまで書かれていました。当時、関東軍参謀長だった斎藤恒が、参謀本部に提出した『張作霖列車爆破事件に関する所見』という文書には、次のように書かれています。この中で出てくる「橋脚」とは、満鉄線の高架(鉄橋)の橋脚です。爆薬が仕掛けられた位置についてはいろいろな意見があると前置きしつつ、「破壊せし車輌及び鉄橋被害の痕跡に照らし橋脚上部附近か、又は列車自体に装置せられしものなること、略推測に難しとせず」としています。
 同じ事が、内田五郎という日本外務省の奉天領事が作成した調査報告書にも書かれています。内田は支那側との共同チームで調べた結果を、一九二八年六月二十一日付で爆薬の装置場所について概略次のようにまとめています。①爆薬は(高架)橋の上、橋の下、または地面に装置したものとは思われない②側面や橋上から投げつけたものでもない③張作霖が爆発時にいた展望車後方部か後続の食堂車前部付近の車内上部、または高架橋脚の鉄桁と石崖との間の隙間に装置したと認められる|。そのうえで、「電気仕掛にて爆発せしめたるもの」としています。

 西尾 河本首謀説を覆し、別の実行犯の存在を示す調査報告書が、関東軍から参謀本部に提出されていた。河本らが爆破を実行していたことは、事件からほどなくして日本政府内で知られ始めて陸軍は対応に困っていたと思いますが、犯人は別だというこの報告書を当局は喜ばなかったのでしょうか。

 加藤 恐らく、表に出したくなかったので握り潰されたのだろうと思います。河本が爆破をやったことは間違いないわけですから、第三国による別の爆破があって、その謀略に関東軍が加担した、あるいは乗せられたことを認めることになります。陸軍の主権、さらには統帥権の問題にも発展しかねません。国家としては認められないわけです。

『正論』2011年7月号より

つづく

年末のお知らせ――講演の始末、その他

 12月8日の私の講演「大東亜戦争の文明論的意義を考える――父祖の視座から」について、ご所見をお寄せ下さる人が多数にのぼり深謝にたえません。その後あの講演を文字化し、プリントして、自ら再検証した処、話はあちこちに飛び、論旨に不明なところもあり、赤面の至りでした。聴き手の皆さまにご迷惑をお掛けしたと痛感しています。あんな不完全なスピーチからよく本意を汲み取ろうとして下さったと、申し訳なく思っております。

 そこでご報告します。あの講演は400字詰で120枚ありました。三分割し30枚論文を三篇作成し、『正論』2月号(12月25日発売)から「『天皇』と『人類』の対決――大東亜戦争の文明論的動因」(上)(中)(下)と題して掲載します。余計な処を削除し、新しい表現も加え、筋を明確に辿れるものに新装いたしますので、あらためて読んで下さい。

 加えて、日本文化チャンネル桜の私の「GHQ焚書図書開封」の時間帯に、同講演をやはり三回に分けて放映いたします。放映日は1月8日、22日、2月5日で、いずれも翌日にはYou Tubeにあがります。

 これらに伴い、私の『正論』連載「戦争史観の転換」と日本文化チャンネル桜の「GHQ焚書図書開封」通常番組は、その間休止させていただきます。いずれもしっかり連載の準備の勉強をしたいという思いからであり、急がず慌てず、前へ着実に進めるための一助になろうかと考えています。

 「GHQ焚書図書」⑧『日米百年戦争』はご好評をいただいていますが、今後の計画は、来年中に⑨『対日石油禁輸と経済封鎖の真相』、ならびに⑩『水戸学物語』です。

 『WiLL』1月号の六人座談会の「柳条湖事件の日本軍犯行説を疑う」後篇が当然2月号に期待されたはずですが、出ていません。私にもまだ不掲載の編集部からの理由説明は届いていません。残念ながら「遺憾」としか申し上げられないのが現段階です。

ご講演を拝聴して

感想文 坦々塾会員 阿由葉秀峰

最初から些細な私事で恐縮ですが、当日グランドヒル市ヶ谷に行く前に、開戦記念日ということもあり、靖国神社に参拝申し上げました。参道脇の賑やかな骨董市を横目に拝殿へと向かったのですが、若者の参拝者が多いことに驚きました。参拝の後に中門鳥居の前で、「GHQ焚書図書開封第8巻」と境内を一緒に写真に収めようとしている方を見て、あのひとも同じく講演会に行かれるのだろうか・・・、と思いつつ声はかけませんでした。

ご講演の導入として先生は、「歴史には過去に何かが仕掛けられている。」として、今日の日本は100年前とさほど変っていない、と仰いました。

欧米諸国は領土問題で好意を示す一方、政府が国内の右傾化を煽り、紛争を意図的に惹き起こす意図があるなどと疑っています。明らかに被害を被り続けているというのに、とんでもない無理解ぶりです。

中国の分からず屋ぶりと、利益を掠めつつ逃げ腰な欧米と、不利で孤独な日本、という関係は100年前の繰り返しです。

中国はここ5年ほどでアメリカまでも脅かすほどの猛烈な力を付けましたが、日本の力は不在のままです。韓国は日本から経済や技術の支援を散々受けておきながら、国民が衰頽しているのに日本を貶める外交に力を入れて、まさに中国が裏で操って朝鮮半島という刃物を日本列島の脇腹に突き付けているような状況です。

第一次世界大戦後のパリ講和会議で人種差別撤廃提案を強引に否決とした時のように、近い将来再び日本は正当なことを要求しても不合理な仕打ちを受けないとも限りません。当時日本は異民族ながら国際社会で尽力したけれど、欧米は「反共」ではなく「反日」を選んだのです。

ただし、当時の日本は孤独な立場であっても、毅然としていて、恐怖と不安に押しつぶされず果敢に困難に立向いました。

日本をさんざんに利用しておきながら、追い詰めて虐める。国際連盟からの脱退は、国際社会からの孤立ではなく、単なるアングロサクソンの利権のための同好会に見切りをつけた寧ろ毅然とした行為でした。

ところが今の日本人は終戦までの日本の孤独と悔しさを理解しません。歴史学会は言うに及ばず、保守系とされる知識人でさえも片目は日本、もう片目はGHQの視点です。日本の歴史を語るのにアメリカの視点、立場など交える必要などありません。

東京裁判で、日本がアメリカの多くの行為はハーグ陸戦条約違反であることを訴えたら、アメリカは17世紀オランダの法学者、フーゴー・グローティウスを引合いに出し、「人類」への非道に対して日本の戦争責任への裁き、という「自然法」的な概念を持ち出しました。そんなものが出鱈目である証拠に、アメリカで当時公然と行われていた白人が黒人に対しての苛烈なリンチ刑、今日であれば、チベットやウイグルなどへの中国の残虐行為など、国際的に裁かれるべき非道はいくらでもありますが、あれらはどうなのでしょうか。欧米が胡散臭い「人類」などと言い出す時は必ず利己心や、国益のため、と見てよいのでしょう。昔も今も変わらず利己心のためのレトリックには臆面もありません。

いっぽうの終戦までの日本ですが、130万部のベストセラー、軍神杉本五郎中佐の「大義」は、たいへんな共感を持たれて国民に読まれていたとことと思います。

義公水戸光圀からおよそ300年間にわたり国体思想の研究が行なわれ、民族滅亡の危機が身近に迫った「終戦間近」にこそ、それまでよりもより多くの国民の精神に「国体」「大義名分論」が沁みて、昇華していたのではないかと思います。

杉本中佐の「大義」は、後期水戸学に繋がっています。「大義名分」は日本発祥、後期水戸学の思想だからです。

水戸藩二代目藩主、光圀公に始まる水戸学は藩の四分の一もの予算を投じて17世紀後半、彰考館において「紀伝、志表、十志、五表、論賛」の編纂をはじめました。「大日本史」の完成は明治39年と、249年も費やしているのだから驚きです。

光圀公の没後、およそ80年もの空白の後、18世紀後半の古着屋の商人から生まれた早熟の天才、藤田幽谷の後期水戸学に到って、国風の思想「国体」として熟したようで、「大義名分」は幽谷18歳の著作「正名論」からの出自だそうです。先生は漢心の影響の強い初期水戸学で判断せず、後期水戸学にこそ目を向けるべきと説かれました。

先生は、神童で夭折のモーツァルトと幽谷は同時代と補足されましたが、GHQによる断絶が無ければ水戸学の研究は継続され、誰もが知る重要な日本の古典、クラシックに位置づけられていたのかも知れません。

さらに早熟の天才といえば、先生が「江戸のダイナミズム」で紹介された、18世紀前半に文献学的な考え方をヨーロッパとほぼ同時期寧ろ早くに展開した、大坂のやはり商人の生れで夭折の冨永仲基が思い出されます。

戦後、GHQの指示により学校の教科書も墨塗りされて、先生の「GHQ焚書図書開封」シリーズで紹介されているとおり、欧米の侵略や、国体にかかる内容の書籍など、およそ七千種もの書籍が焚書処分となり、「萬世一系の皇統を肇国にいただく国体の為に英霊たちが散華した真意」もすっかり理解できなくなってしまった。挙句には、彼らは軍の強要した国体思想に洗脳され徒死したと、貶し嘲弄される始末です。

私たちの父祖の戦時中の心意が理解できない、という今の日本はまったく酷いというほかありません。

思えば最初の共産主義国家、ソヴィエト連邦などは膨大な犠牲を払いつつ結局100年も持ちませんでした。残っているのは、迷惑で危険な全体主義国家だけです。

西尾先生は、平成に入ってからでしょうか、全体主義国家の非情、犯罪性をさかんに訴え続けられました。その糾弾が一体誰に向けていたのかといえば、もはや主人の居ないコミンテルンの亡霊に魂を踊らされている、多くの日本人及び全共闘世代に対してではなかったかと思います。

しかし、彼らは主人を中国共産党や朝鮮半島2国に師匠替えして、ついには一時ではありましたが政権を担うまでになってしまった。

いったい主義や思想で、国家など創れるものなのでしょうか。共産主義思想など、歴史は浅いのですが、しかし麻薬のような力はあり熱狂し易いようで、一旦体内に摂り入れると、暫く後に拒絶反応を示し自らを滅ぼし始め、遂には崩壊します。

そんな亡国の思想を日本の財政、歴史及び教育界などなどの中枢が未だに後生大事にしています。

ご講演の冒頭に戻りますが、「歴史に仕掛けられたもの」というのは、じつは日本人の深層心理下に備っている「国体の本義」なのではないかと思いました。

だからこそ、ひとたび国難が襲えば、幕末期や終戦迄、戦後の経済復興も若しかしたらそうかもしれませんが、国民は烈しい変革に曝されても正気を失わず、欧米中心の秩序を変えてしまう程の劇的な行動がとれるのです。そしてその鍵はまさに水戸学、特に後期水戸学にあると思いました。

冒頭のお話で、天皇陛下、皇后陛下のお姿がどこか哀しくみえるとも仰いましたが、それは今の国民が大義を見失っているからなのかもしれません。

失ったものは取り戻さなければいけませんが、そのための苦難は長く続いています。感想文の最後として、単行本「教育と自由」を拝読したときから私の頭を離れない、全集第8巻からの箴言を引用させていただきます。

「真実の認識、絶望的なその困難に面と向かわないでいる限り、半歩の前進もじつは望めまい。壁の厚さを知る者だけが、たとえ小さな穴でもよい。実際に穴のあく鑿(のみ)の振るい方を心得ている。」582頁上段

水戸学も80年もの空白期間(終戦から今日より長い)があり、寧ろ藤田幽谷の後期から劇的に昇華したとのことで、12月8日のまさに開戦記念日の先生のご講演が終戦後の空白からの萌芽であったとも思います。

素晴らしいご講演を拝聴させて頂き、心より感謝申し上げます。