『西尾幹二のブログ論壇』(三)

ゲストエッセイ 
「秦郁彦vs西尾幹二論争」を決着するために

柏原竜一

 思い切って書評を、と思いましたが、結局秦批判になってしまいました。その点はご容赦ください。

 最近になって思い出したのは、数年前に、西尾先生と私と早稲田大学の学生諸君と勉強会を開いていたことです。西尾先生がインテリジェンスの世界を知りたいという好奇心から始められた勉強会でした。月に一度ほど集まって英文を読みつづけました。そこでわれわれが取り上げたのはリチャード・オルドリッチの『隠された手』という部厚い一冊でした。なぜこの本が取り上げられたかというと、冷戦初期の米英のインテリジェンスがどのようなものだったのかを検討するにあたって米英の大学院では標準的なテキストだったからでもありますが、なによりもまず、私がこの本に惚れ込んでいて、先生に推薦したからでもありました。オルドリッチは「序論 情報史家とその敵」の冒頭部分で次のように述べています。

 

現代の情報機関の物語が提示しているのは明白な警告である。政府は相当の秘密を隠すと同時に注意深く詰め込まれた過去を提示するのだ。第二次大戦後すぐに、情報機関に関するくどくどしい話が現れた。それらはしばしば英国の戦時破壊工作組織であった特殊作戦局(Special Operations Executives: SOE)に関するものだった。これは、もはや戦争が終わったのだから、秘密活動に関する物語も語ることができたということを暗示していた。SOEで働いた、もしくはアメリカの姉妹組織であった戦略事務局(Office of Strategic Services: OSS)で働いた多くの人物が落ち着いて手記を執筆したのである。これは誤解を招く可能性があった。なぜならドイツとの戦いの重要な局面の幾つかは隠されていたからである。終戦から30年が経た1970年代になって初めて、ウルトラとブレッチリー・パークの物語-ドイツのエニグマ暗号機を解読した努力-が世界を驚かせることとなったのだ。その後、第二次大戦の戦略史が大きく書き換えられた。その中でも最も重要だったのは、枢軸国の意図が丸見えだったということが30年もの間歴史文書から隠されていたということだったのである。

 SOEとかOSSは、一般には、いわゆる戦争映画の特殊部隊の活動のようなものとして考えていただいてまあ間違いはありません。こうしたどうでもいいような派手は話が第二次大戦の情報機関の物語として一般に流布するのです。それから何十年もたって「枢軸国の意図が丸見えだった」という事実が明らかになったのです。たとえ民主的な政府であっても、英国も米国も情報を長期間隠し続けるのです。

 ウィキリークスのようなことでもない限り、外交公電が人口に膾炙することはないのです。敢えて付け加えるならば、ここでエニグマの情報が開示されたのは、ケンブリッジ・ファイブ(キム・フィルビーなどのソビエトのエージェントが英国政府内に紛れ込んでいた事件)の暴露という当時の英国情報機関の失態による権威の失墜を埋め合わせるためのものでした。ですから、こうした失態がなければ、公開はもっと遅れていたことでしょう。「枢軸国の意図が丸見えだった」ということは、第二次大戦の戦略史は根底から見直さなければならなかったということです。
 
 これは、恐ろしいことではないでしょうか。昨日まで真実であると考えられていたことが、新たな資料公開によって解釈が根本的に変わってしまうのです。それまでの研究成果が、一瞬にして無になるということですから、まじめにこつこつと史料を集めて分析されて、一定の成果を上げた歴史家の方々にとって、これは致命的な痛手と感じられるのかもしれません。

 ですが、インテリジェンスという微妙な問題を扱うときには、常に見られる現象なのです。ですから、なおさらのこと、歴史を研究するという志を持つ限りは、このどんでん返しにつねに身構えていなければなりませんし、心の準備ができていなければならないのです。思考の柔軟性が必要なのです。また、歴史家は既存の史料の裏をかく必要も出てくるわけです。そのときに導きの糸となるのが、歴史的想像力なのです。ですから、その史料の背後に何があるのか、推理するという精神的な態度が歴史研究には常に要求されているのです。

 ここで、「西尾幹二のブログ論壇」に収められた「西尾VS秦」対談には、次のようにあります。

 こういうもの(田母神論文)は日米関係にも決してよい影響は与えません。一部の人々のあいだで、田母神氏が英雄扱いされているのは、論文自体ではなく、おそらく彼のお笑いタレント的な要素が受けたからでしょう。本人も「笑いをとる」のを心がけていると語っています。

西尾 日米関係に悪影響云々は政治家が言うべき言葉で、歴史家の言葉ではありません。田母神さんを侮辱するのはやめていただきたい。軍人には名誉が大事なのです。彼の論文には一種の文学的な説得力もある。細かいことはどうでもいいんでね。

 やはり、そうはいかんのですよ。田母神さんは私の著書からも引用しているが、趣旨を全く逆に取り違えている。一事が万事この調子です。西尾さんも著述家だから、誤引用される不愉快さはおわかりでしょう。プロのもの書きではないとはいえ、自衛隊空幕長は大きな社会的責任を負う立場です。なんでも言いたい放題というわけにはいかない。・・・

 「日米関係にも決してよい影響は与えません」というのは、もう語るに落ちた言葉だと思ったのは私だけでしょうか。現在の政治関係を、歴史に当てはめるから、日本の「昭和史」研究は、見るに堪えない惨状になっている、というのが一読者としての私の正直な感想です。歴史から何かを学ぼうとするのではなく、現在の日米関係がこれこれこうだから、この種の発言は控えましょう、というのであれば、それは単なる第二次大戦の戦勝国への太鼓持ちではないですか。中国への太鼓持ちが「日中共同歴史研究」の本質でした。日本の歴史研究は、太鼓持ちエセ学問でおわるのでしょうか。少なくとも秦氏の姿勢からは、政治で歴史を断罪することを了としているとしか思えないのです。
 
 まあ、西尾先生の「彼の論文には一種の文学的な説得力もある。細かいことはどうでもいいんでね」という発言も、聞く人が聞けば卒倒する内容なのでしょう。「細かいことはどうでもいいんでね」等といわれてしまうと、もうそれだけで、従来の歴史学の全面的な否定に見えてしまう人もいるようです。文学的な説得力というのがいやならば、文学的な想像力と言ってもよいのでしょうが、その想像力抜きでなにか歴史研究が可能なのでしょうか。
 
 想像されたものが、歴史ではないのは自明です。しかし、その想像力抜きに、歴史を研究することができるのでしょうか。というのも、想像力の有無は調査能力に直結しているからです。ここらへんのアーカイブにはこれこれの情報があるはず、とすると、あそこのアーカイブのこれと照合すれば、かくかくの結論が導けるかもしれない、と考えるのは、通常の歴史研究では当たり前のことです。あり得たかもしれない現実を、自分の頭の中で再構成し、現実の史料とつきあわせて、事実を探るというのが歴史学という学問の営為ではなかったでしょうか。
 
 ですから、秦氏が自分の学問を誇るのであれば、「やはり、そうはいかんのですよ。田母神さんは私の著書からも引用しているが、趣旨を全く逆に取り違えている。一事が万事この調子です」というのであれば、どの文のどこが誤りなのかを、具体的に明示するべきでしょう。出された主張に対して、ひたすらその主張の信頼性を否定するというのであれば、これはもはや学問とは言えないでしょう。史料に対しては史料で対抗しなければなりません。しかし、秦氏には徹頭徹尾そうした誠実な姿勢に欠けているのです。秦氏はひたすら逃げ回っているのです。日本の「昭和史」を研究されている皆様は、この秦氏の無様な逃げっぷりを哀れだとは思わないのでしょうか。「細かいことはどうでもいいんでね」といわれて、脊髄反射しているようでは、日本の「昭和史」研究の夜明けは遠いといわねばなりません。「細かいことはどうでもいいんでね」といっているのは、むしろ秦氏の方ではないのでしょうか。
 
 たとえば、次のようなやりとりを読むと、あきれるというのを通り越して、無気力になります。

西尾 ・・・ルーズベルト政権が、コミンテルンの謀略に影響されていたことは、日米戦争の発端における大きな不幸のひとつで、これを度外視してあの戦争の歴史は書けないと、私は考えますが、同じ前提に立つ田母神論文について、秦さんは、「“風が吹けば桶屋が儲かる”式の妄想を連ねた話」(『週刊新潮』2008年11月13日号)と一蹴しています。

 いまでもその考えは変わりません。工作員が、実際、どれだけ歴史の流れに影響を与えられるか、という問題もあります。

 これを読んでいて、つくづく思うのは、「じゃあ、秦さんは、ヴェノナについてどれほど知っているの?」という素朴な疑問です。秦さんの論文を読まれたことがある方ならご存じでしょうが、英米の文献はほとんど引用されていません。私も、秦さんの張作霖爆殺に関する論文を見せていただいたことがありますが、ほぼ日本の文献しか用いられていませんでした。これでは史料が日本側に偏りすぎており、信用できないのではと思ったほどです。近代の国際関係というのは、相手があってのことなのですから、相手国のアーカイブと比較検討して初めて、結論が出せるのです。

 「工作員が、実際、どれだけ歴史の流れに影響を与えられるか、という問題もあります」などと、牧歌的な発言を平気で宣う秦氏には、インテリジェンスは永遠に理解できないでしょう。相手国のアーカイブ(たとえば中国やロシアのアーカイブ)との比較対照という手続きを踏んで居られない秦氏が、なぜ、「“風が吹けば桶屋が儲かる”式の妄想を連ねた話」といったけなし文句を吐けるのでしょうか。これは昭和史研究家と称される方々につきものの、一種の腐臭です。秦氏はなぜ学問的な反論ができないのでしょうか。インテリジェンスにはまるで無知な人物の語る内容が、どうして碩学の判断として通用してしまうのでしょうか。
 
 秦氏の尻馬に乗って西尾先生を批判する人は、当時のインテリジェンスについて記された書物を2,3冊なりとも通読されたことがあるのでしょうか。戦間期において、日本と全く関わりのないところで、インテリジェンスがどれほどの規模で行われていたのか、それを知らずに「秦先生のおっしゃるとおりだわ」といったところで、それは知性の欠如、教条主義の虜以外の何ものでもありません。

 また、次のようなやりとりもあります。

西尾 ホワイトらに関して、ご覧のように大河のごとく文献が溢れているのに、今さら否定は出来ないでしょう。日本語が読めるとか読めないの話は関係ない。重要なのはハル・ノートの原案を巧妙に示し、ソ連側の意向を伝えていたことです。

 だが、ルーズベルト政権には日本勤務の経験もあり、日本語が読め、日本の各界に人脈を持つ国務省の外交官が何人もいる。バランタインもジョン・エマーソンもそうです。ホワイトという素人に対日問題を任せなければならぬ理由はないのです。・・・

 ほんとに脱力しますね。「ホワイトという素人に対日問題を任せなければならぬ理由」は、ちゃんとあるのです。それは当時の国務省が対独戦の準備に忙しかったため、財務省のモーゲンソーとホワイトにおはちが回ってきたということです。正直、これを読んだときは、秦氏は、当時のアメリカ政界の有様も知らずに議論していたのかと腰を抜かすほど驚きました。そのぐらい海外のことを知らない、そんな人が歴史を論じるのです。これはかなり恐ろしい話ではないですか。
 あとは、脱力シーンの連続です。

西尾 ホワイトの隠密行動は一貫してソ連の利益のためにあった。自身がどういう役割を果たしたかは謎ですけれども、これだけ書かれていますからね、何もなかったということはいえない。申し上げたいのは、無罪であったとは断定できないということですよ。

 いや、歴史学の専門家的見地からいえばですね、その程度の推測はほとんど価値がないんですよ。

 「ほとんど価値がない」という前に、秦氏は、おそらくは対談の時に目の前に置かれていた文献を読んでいなければならなかったのではないでしょうか。ジョン・アール・ヘインズとハーベイ・クレアの『ヴェノナ』についても、この著者らは当初はソビエトの情報活動には否定的だったのです。しかし、明らかな証拠が出てきたので、彼らは転向してこの本を書いたというのが本当のところです。秦氏とジョン・アール・ヘインズやハーベイ・クレアのどちらが歴史学者として誠実な姿勢なのでしょうか。「“風が吹けば桶屋が儲かる”式の妄想を連ねた話」といって、新たな見解をこき下ろす暇があれば、まず、それらの文献のどこが誤りなのか、はっきりと、海外も含む様々なアーカイブの様々な公文書から指摘するべきではないでしょうか。その手間を省いて、ひたすら下品な悪口を言い続けるというのは、その悪口がいずれ自分に返るということを、まるでご存じではないような雰囲気です。

 文献を批判するには、まずその文献を読まなければならない。そして、その上でその文献の持つ根拠の弱さを議論できるだけの実力がなければなりません。秦氏にそれだけの実力があるのですか。実際には、その実力がないのに、「“風が吹けば桶屋が儲かる”式の妄想を連ねた話」という表現に逃げ込んでいるだけではないのですか。
 
 まずきちんと入手できる限りのあらゆる史料を読み、そこから確実性の高い史実を構成する、そこから更に、他のアーカイブでもチェックし、史実を確定していく。そこには、政治的配慮は無縁でしょう。オルドリッチは先の章の終わりに、次のように述べています。

 

冷戦の終了以降、モスクワや北京で機密解除された歴史的宝物と、それらが冷戦に投げかけた新たな光に関して多くの話を耳にした。しかし最大の秘密は西側の公文書館の中に眠っている。そして冷戦初期の劇的な時代における米英の政策が実際どのようなものだったのかは、我々にはわからない。ここでまた膨大な量の公文書が我々を待ちかまえている。そして新たな発見は始まったばかりなのだ。この複雑なモザイクを完成させ、そして西側がいかにして冷戦を戦ったのかということを理解するにあたっての最良の希望は、攻撃的で探求心にあふれた歴史家なのであって、そうした歴史家は、本当の秘密などは存在せず、存在するのは怠惰な研究者だけだと信じているのだ。

 「冷戦初期の劇的な時代における米英の政策が実際どのようなものだったのかは、我々にはわからない」というオルドリッチの一言に、私は、冗談ではなく、胸を射貫かれてしまいました。秦氏の「いや、歴史学の専門家的見地からいえばですね、その程度の推測はほとんど価値がないんですよ」という発言と比較すれば、いうのもはばかられますが、オルドリッチが英国を代表する横綱級の情報史家といえるのに対し、秦氏は三下にもなれないありさまといえるでしょう。オルドリッチ氏は、知りすぎているからこそ、謙虚であり、秦氏は、知らなさすぎるからこそ、傲慢なのです。

 「この複雑なモザイクを完成させ、そして西側がいかにして冷戦を戦ったのかということを理解するにあたっての最良の希望は、攻撃的で探求心にあふれた歴史家なのであって、そうした歴史家は、本当の秘密などは存在せず、存在するのは怠惰な研究者だけだと信じているのだ。」と、ここまで言い切れるオルドリッチは凄いと思いませんか。これは、オルドリッチが自分に課している十字架です。これはそのまま、「この複雑なモザイクを完成させ、そして日本がいかにして第二次大戦を戦ったのかということを理解するにあたっての最良の希望は、攻撃的で探求心にあふれた歴史家なのであって、そうした歴史家は、本当の秘密などは存在せず、存在するのは怠惰な研究者だけだと信じているのだ。」とも言い換えられるでしょう。

 先の話に戻りますが、西尾先生は既に『隠された手』は、部分的にせよすでにご存じなのです。それが、実はこの対談にも淡いグラデーションのように反映しています。現在、WiLL誌上で西尾幹二先生、福地惇先生、それに福井雄三先生の末席に加えていたゞいて、一連の昭和史家の批判を行っている最中ですが、その昭和史批判に対して、いわゆる昭和史家の方々に反論してもらいたいと願うのですが、何も言ってきません。何も言えないのでしょうか。もし彼らが反論されるならば、せめてこのオルドリッチの『隠された手』(Richard J. Aldrich, The Hidden Hand Britain, America, and Cold War Secret Service, (NewYork: THE OVERLOOK PRESS, 2001))ぐらいは全部通読してからにして欲しいと、心から希望する次第です。そうすれば、現在の日本の「昭和史」の水準が、どれほど低いかがわかるでしょうから。

文 柏原竜一

『西尾幹二のブログ論壇』(二)

 近い人から感想が届いた。雑感というにふさわしいややとりとめない感想で、友人の私にはピンとくるが、良く分らない人もいるかもしれない。しかしともかくこの本の最初に送られてきた批評文だ。

 秦郁彦に小沢一郎を連想している発想の奇抜さが面白い。「違法性の不在」は合法であるという点が、二人に共通するという意味らしい。占領軍史観に合っていれば合法、そうでないものは全部違法とみなす秦氏の硬直した論法には、小沢一郎の強引さがたしかにある。

 この本を最初によむ人は、どういうわけか、第二章の秦郁彦批判に注目の眼を注いでいるようだ。もう一篇届いている批評もそれに類するので、次回にお知らせする。

ゲストエッセイ 

『ブログ論壇』雑感 粕谷哲夫

これは前回の 西尾日録を単行本にしたものより 大分 上出来です。渡辺 望さんの<コーヒー論壇>からの導入もよくできているのはもちろん、ダイアログをうまく入れて読者との<双方向性>という構成がたいへん新鮮です。編集デザインとしてもかなりの< 艶>を感じさせます。西尾幹二 批判も 適度にちりばめられ 討論の公平性がよく保たれており、好感持てます。

390ページの高品位の量感をソフトカバーで包むという 配合は 「ハレ」と「ケ」のバランスという点でも秀逸だと思います。

それで 質の高い 硬質の議論をうまく包んでいる感じで これは 西尾著作物の中で市場の受容度は かなり高いと判断します。後は宣伝ですね。マーケッティングからみてもそう思います。

秦郁彦にも(聞くべきものはいくつもありますが)、改めて読み直してみると全体では あたかも 小沢一郎を合法性ないしは違法性の不在ゆえに弁護する 小沢支持派 の 形式論理のような空虚さと同じものを感じさせずにはおきません。

秦郁彦は 法律でいえば 「訴訟法ないしは法手続き」「証拠主義」に関心がありすぎです。
それでは 歴史への想像力をむしばんでしまう。

(この点では保坂さんの方がいいです。彼は疑いは疑いとして結論を出さずに 疑問を読者に投げかけます)

ちなみに 「訴訟法ないしは法手続き」「証拠主義」で行くと、同時代に生きている 小沢一郎 という 男にたいする 判断も一筋縄ではいきません。

20%の人は小沢に肯定的です。しかし80%は小沢に否定的です。 いま生きている そこにナマの物証があるにもかかわらず 見解は分かれます。 決定的な定説などというものは ことほど左様に なかなかあり得ないものなのです。

山本五十六だって 激しい毀誉褒貶にさらされています。

秦郁彦は 歴史的 絶対証拠のない 日常的な考現学的な諸事象をどう判断するのでしょう?

我々は証拠によって生活しているわけではない。
観察や伝聞や風評を 総合して判断しているのです。
知力と感覚の総体で判断し生活しているのです。
そのトータルな集積が文化というものではないでしょうか?
イギリスはその流儀です。

もっとも学問であれば そんなアバウトなことでは すまないことは百も承知ですが、それを言うなら ヴェロナ文書の原点などに自らあたるべきです。彼にとっては <昭和史>はすでに一件落着で加えるべきものはなにもないと言わんばかりですね。

小生は 「自然法ないしはコトの是非そのもの」に傾斜するので 秦理論には相当の違和感があります。

経営学的に言えば 秦郁彦の考え方は<形式知>寄りで  西尾幹二的な考え方は<暗黙知>的です。

いまや 悪評高いマッカーシーの暴いた 共産主義の陰謀・謀略は徐々に マッカーシーは正しかったと 証明されつつあると聞いています。 秦郁彦も 否定や肯定をする前に 自分で徹底的に調べてみたらどうなんですかね。 その好奇心というか情熱がないこと自体 学者として問題だと思う。極度の知的怠慢ですよ。

もっとも徹底的に調べるには 英語とロシア語のスーパーな読解力が必要ですが・・・・。

宮脇女史など 調査の必要に応じて 外語を学習していったというようなことを言っていましたが、秦郁彦ぐらいならば 読解力のある専門家も同伴してアメリカやロシアに乗り込んでいろいろな 史料を 追求していく興味があってしかるべきです。

どうも歴史学者は 日本にある書物の範囲からテリトリーを広げることをしない。 

と同時に 仲小路のような 西欧列強による アジア侵略の入手可能な史料ですら踏み込もうともしない。・・・ ということは <GHQ 焚書> にたいする学者の良心を失っているということではないのか?

話は飛びますが ゾルゲ事件の 尾崎秀実を死刑にせずに 生かしておけばよかったと思います。彼らなら スターリニズムの<平和主義>の妄想がいかに誤りであったか 後刻気づいて 率直に認めたと思います。
彼を生かしておけば 後刻 釈放しても純粋な人なだけに自らに非を公式に認め、それが日本の左翼論理の蔓延を防ぐことに多少なりとも 貢献したのではないか?

『西尾幹二のブログ論壇』(一)

『西尾幹二のブログ論壇』の表紙を紹介します。

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  目 次

はじめに 二十一世紀のコーヒーハウス(渡辺 望)

【第一章】 『皇太子さまへの御忠言』の反響
祈りについて
不合理ゆえに美しい歴史
「朝敵」と論難されて
「朝まで生テレビ」皇室問題に出演する
『保守の怒り』の求めるもの
「弱いアメリカ」と「皇室の危機」

【第二章】 歴史は変化し動く世界である
「米国覇権と『東京裁判史観』が崩れ去るとき」『諸君!』二〇〇九年三月号論文
「田母神俊雄=真贋論争」秦郁彦 VS西尾幹二『諸君!』二〇〇九年四月号論戦 
『諸君!』四月号論戦への反応
『諸君!』四月号論戦余波
『諸君!』四月号論戦余波(続)

【第三章】 『GHQ焚書図書開封』1・2・3・4…  暗い海への私の73歳の船出
『GHQ焚書図書開封』発刊と新事実発見(石川水穂、力石幸一、中静敬一郎)
『GHQ焚書図書開封2』をめぐって(宮崎正弘)
『GHQ焚書図書開封』3・4と私のライフワーク(新保祐司)

【第四章】 大江健三郎の欺瞞、私の29歳の評論「私の受けた戦後教育」と72歳のそのテレビ朗読
新制中学での私の体験
直輸入教育の犠牲者として
民主教育の矛盾と欠陥
続・民主教育の矛盾と欠陥
教育におけるペシミズム
観念教育のお化け 大江健三郎「戦後世代と憲法」
教師は生徒の模範たれ           

【第五章】 『三島由紀夫の死と私』をめぐって 私の35歳の体験と72歳のその総括
死を迎える前に私も全部を語っておく
二〇〇八年憂国忌記念講演「限界を超えた『芸術と実行』の分離の理念」
書評「三島由紀夫の死と私」(松本徹、坂本忠雄、細井秀雄)

【第六章】 ニーチェ・江戸・小林秀雄
『真贋の洞察』について(富岡幸一郎、竹内洋)
座右の銘に添えて  ニーチェ『ツァラトゥストラ』より
読書の有害について ニーチェ『この人を見よ』より 
『江戸のダイナミズム』感想 (武田修志) 
小林秀雄に腰掛けて物言う人々(伊藤悠可)
小林秀雄『本居宣長』のこと

【第七章】 大寒の日々に
佐藤優さんからのメッセージ
加地伸行氏の直言
大寒の日々に
黄文雄氏と東中野修道氏の人生に感動
渡部昇一さんとの対談そのほか

「西尾幹二のインターネット日録」の歴史(長谷川 真美)
インターネットの良いこといやなこと・・あえて八年前の文章を「あとがき」に代えて

執筆者プロフィール(編集者からのお知らせ)

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管理人長谷川より、補記
 この『西尾幹二のブログ論壇』に登場する大勢の執筆者の方々には、それぞれ連絡を取り、掲載の許可を得ています。ただし、日録に掲載時に許可を頂いたのですが、その後連絡が取れない人が二三人おられます。今後本が正式に出版された後、自分のところに連絡がないと気付かれた場合、至急ご連絡をお願いします。

 この本には当日録に過去において掲載された文章が多く転用されています。そして、日録に掲載されていないものも多く掲載されています。私は今回、この本の原稿に目を通してみて、本を作るということは、料理と同じようなもので、同じ材料を使っていても、その調理方法、味付け、盛り付けなどで、全く違った料理となるのだと感じました。日録愛読者の皆さまにも、このたび日録の文章が装い新たに一冊の本となって皆様の手に届いた時、きっとその料理の出来映えに驚かれ、満足されることと思います。是非、楽しみにお待ちください。

苹@泥酔さんによる 読書前読書感想予想文?

目次を見て、思い出そうとすると記憶の不正確さに気付くのはいつものこった。あれか、これかと思い出したのが実は別の稿だったりする事も少なくない。それでもタイトル=ヒントから記憶を辿ろうとするのは必ずしも退屈ではないし、今も不図そう思った直後、そう云えば何年か前に西尾先生が退屈について述べていたな、あれが私には最も刺激的だったな、と振り返っては肝腎の内容を忘れている事に気付く。
 
 最初の日録本は売れ行き不調だったそうな。何年も経ってから読み返すと、その時の「内容が」ではなく「時間の流れが」違和感の一因になっていたりする。そりゃそうだ。読み返しているのは今の私で、過去の私じゃないんだもんね。だからかナ、これを「時間の自動編集機構」と呼びたくなるのは(ここで松岡正剛の云う「編集工学」を想起)。それを制御するのは書かれた中身の方だ。そのためか西尾先生は後々、時間に囚われない内容重視型の日録本を出す様になった。『「狂気の首相」で日本は大丈夫か』然り、『国家と謝罪』然り。…するってぇと、今度の日録本は差し詰め四冊目か五冊目あたりになるのかいな?
 
 どうやら既刊と大きく異なるのは、他の方々の文章の占める割合が激増している点にあるらしい。そこに「ブログ論壇」への視点が垣間見える。執筆者であると同時に編集者でもある形態が、更に本職の編集者の手を経て送り出される。恰も編集行為の重層性が、書物とブログの狭間で(=狭間にあるという手続き記憶が、書物という長期記憶に向かいつつ)他者を呑み込むかの様な。今や西尾先生は或る意味、編集者になろうとしているのではないか。それもただの編集者ではなく、コーディネーターと云うよりはエヴァンゲリスト。マタイとバッハを兼ねたかの様な編集的叙述者。焚書本を次々と世に送り出す西尾幹二のごとくありながらも、焚書本と違って「中の人」は存命中。
 
 だから本は、生きている。そして時間も生きている。もしかしたらこの一冊には、暗に「生きる事で時間を乗り超える」ための思想が提示されてあるのかも知れない。

緊急出版『尖閣戦争』(その四)

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尖閣戦争――米中はさみ撃ちにあった日本(祥伝社新書223) 尖閣戦争――米中はさみ撃ちにあった日本(祥伝社新書223)
(2010/10/30)
西尾幹二青木直人

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ゲストエッセイ 
坦々塾事務局長 大石 朋子

<『尖閣戦争』を読んで思ったこと>

     
 先月、イリハムさんの事務所でベトナム人のユンさんに『今日のミスチーフ、明日の尖閣』と書かれたメモを見せていただきました。

 私は、尖閣の文字を見てミスチーフについては、単に中国の占領ということしか知らなかったので、慌てて調べました。

 アキノ大統領時代「ヤンキー・ゴー・ホーム」といって米軍を1992年に撤退完了させ、その後中国が「領土法」を制定し、1995年フィリピンのミスチーフを中国が占領したという事実を知りました。ここに中国は軍事施設を建設したようです。

 西尾先生と青木さんの『尖閣戦争』を読んで、私なりに尖閣問題について考えたことを書かせていただきます。本の内容とは違うこともありますが、お許し下さい。

【友愛の海の意味?】

 中国が列島線全てを占領した場合、辺境思想の中国がそれで満足するとは思えず、領土(領海)拡大は今現在勢いのある中国がその勢いを止めることはない、と思います。

 シーレーンを喪失するということは、海上封鎖されるということで、石油はもちろん海上輸送に弊害がおこり物資の値上がりにも繋がると思います。
これが友愛の海だとは思えません。

【最低でも県外の意味】

 海兵隊を県外に出し、本土と沖縄の分断を図り琉球として独立させ、その後中国に編入する。

 現に「琉球復国運動基本綱領」には、琉球は日本の植民地であると理解することが出来るような文章があります。そこには、琉球臨時憲法、もちろん現段階では「案」であろうと思われますが、確かに規定されています。
ああ、このやり方は、嘗てのメキシコにやったアメリカのやり方だな。と、ふと思いました。

 尖閣五島のうち、四島は日本人の所有地で、年間2,450万円で賃貸契約を結んでいるということで、殿岡昭郎氏はK氏(日本人埼玉県在住)は国を売るような事をする人ではないと仰いますが、万が一ということを考えると、不安になります。
何故なら、今まで何人の日本人が中国の罠に掛かってきたことかと思うのです。

【下地島の事】

 下地島の空港は民間の離着陸の訓練場として使用されていて、2005年3月下地島伊良部町の町議会で「下地島空港への自衛隊誘致」の請願が賛成多数で可決されたが、一週間と少しで白紙撤回された。

 下地島に自衛隊を置けば、那覇、尖閣、与那国がカバー出来るだけでなく、インフラを新たに設けることも無いという好条件なのに、何故と思います。

 この問題は、民主党だけでなく、自民党政権からのことであるので、政権を交代する場合、何処に一票を入れれば良いのか迷います。

【中国がミスチーフを占拠したときのやり方】

 「海上避難施設が必要」と主張して上陸して実効支配に持っていく。
これが、尖閣にも行われないと、誰が言えるだろうかと思います。

 嘗て「流木にしがみついて流民として中国人が上陸してくる」という話を聞いたことがあるが、こうなると可能性はかなり高いと思います。

【国防動員法】

 これには習近平が大きな役割を果たしていると聞いています。
18歳から60歳までの中国国民は、国防のため総動員を発令できるというものだが、先の聖火リレーの時は未だ制定されていなかったのに、あれだけの数の中国人が集まったのです。
しかも、日本の警察は日本人を守ってくれませんでした。

 国防動員法が制定されたということは、私たちは便衣兵に常に囲まれて生活しているということです。何と恐ろしいことか。
その人たちに生活保護費を与え、さらに選挙権を与えるなど、とんでもないことだと思います。

 在日中国人の増加は、便衣兵の増加とイコールであると心するべきであると思います。

【ODAの迂回】

 アジア開発銀行のことですが、私たちの多額の税金がこのように使われていたことを国民は知りません。
こうして、日本のお金で中国は力をつけて日本に襲い掛かってくることに対し、私たちは指をくわえて見ているだけしか出来ないのでしょうか?

 テレビでも新聞でもスポンサーが強い力を持っているのですね。
日本のマスコミが日本の為の報道をしないことは悲しいことです。

 今回、尖閣問題が表に出て国民の意識が変わってきたことは良いことだと思います。

 国境防衛の領域警備法についてですが、海上保安庁の仕事ではなく、海上自衛隊にシフトするべきだと思います。
国を守る自衛なのですから、自衛隊の本来の仕事だと思います。

 これで、自衛隊は軍隊だからと反対する人は「奴隷の平和」に甘んずることを良しとする人でしょうが、私は戦うことを望みます。

『西尾幹二のブログ論壇』予約

12月18日発売予定の次の本をご紹介します。総和社という出版社からで、編集担当の佐藤春生さんが書いてくださった内容案内は次のとうりです。
 
 予約すると「おまけ」がつくことになっているそうですので、注意して読んでください。今の時代にふさわしい新しい出版の形式です。その形式に適った革新的で、チャレンジングな内容の本のつもりです。

 一口でいえば、今お読みくださっている「西尾幹二のインターネット日録」が本になったのです。当ブログの管理人長谷川真美さんの永年のご努力に感謝し、彼女とともに喜びたいと思います。

 テーマに応じて再構成し、新しい表現や未発表の論文を多数入れていますので、必ずしもブログと同じ内容ではありません。2008年の憂国忌における私の二時間半に及んだ講演の全部が収録されていますし、出版記念会パンフにおける小林秀雄をめぐる小さな論争もブログにのっていないものです。

 2009年『諸君!』4月号の、話題になった私と秦郁彦氏との論戦を、秦氏のお許しを得て全文掲載できましたことは幸運でもあり、またこの本の記録性に厚みをもたらしました。

 とまれ編集者の紹介文をおよみたまわりたく存じます。

 

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12月18日『西尾幹二のブログ論壇』発売!

11月20日より予約受付開始!!
著●西尾幹二
版型●四六判・並製
定価●1600円(税込)
頁数●400頁予定
発売日●12月18日

『西尾幹二のブログ論壇』内容紹介

■西尾幹二の本を初めて読む方へ

『西尾幹二のブログ論壇』を読むと・「ブログ論壇」の可能性が分かります
・「雑誌ジャーナリズム」の衰退の理由が分かります。
・「皇室」のことがよく分かります
・「昭和史」の偏向ぶりが解ります
・「三島由紀夫」と「江藤淳」の対立軸が理解できます
・「小林秀雄」と「西尾幹二」の違いが分かります
・「GHQ焚書」の実態が分かります
・「保守」の弱点が判ります
・「ニーチェ」の魅力が分かります
・そして「西尾幹二」の魅力が分かります!

 最新の“論争”をすべて収録!

「学界」「論壇」にとらわれず、「右」「左」というイデオロギーに左右されない、“素心の人”西尾幹二はこれまで幾度となく論争となる問題を抽出してきた。西尾幹二の問題提起に対し、『文藝春秋』や『正論』でさえ真っ向から取り組めなかった議題も、一方ネットでは賛否両論盛んに議論され、あたかも「ブログ論壇」の様相を呈している。

 単行本未収録の論文「読書の有害について ニーチェ『この人を見よ』の言葉より」「私の受けた戦後教育」「限界を超えた『芸術と実行』の分離の理念(2008年度三島由紀夫憂国忌記念講演)」を加え「皇室」「昭和史」「GHQ焚書」「保守」についてなど、最新の論争の記録をすべて収録!

 ■目次より

「朝まで生テレビ」皇室問題に出演する/「朝敵」と論難されて/『保守の怒り』の求めるもの
「弱いアメリカ」と「皇室の危機」/観念教育のお化け 大江健三郎「戦後世代と憲法」
「田母神俊雄=真贋論争」秦郁彦VS『諸君!』二〇〇九年四月号論戦/『諸君!』四月号論戦余波
死を迎える前に私も全部を語っておく/小林秀雄に腰掛けて物言う人々
佐藤優さんからのメッセージ/加地伸行氏の直言/渡部昇一さんとの対談そのほか

  編集者から一言

 秦郁彦、保坂正康、半藤一利などいわゆる「昭和史家」への批判論文から始まった第二章「歴史は変化し動く世界である」の大論争が『ブログ論壇』のメインとなります。本書は有名無名を問わず、西尾先生以外の方の文章も収録しておりますが、すべて先生が選ばれた文章で、名文も多いです。渡辺望さんが書いてくれた序文は本書の解説にあたる文章ですが、それに留まらず、西部邁氏へ根本的な批判などもあって、独立した論文として読み応えがあります。
これまでの西尾先生の作品とはちょっと違うものが出来上がりましたので、ご期待下さい。

『西尾幹二のブログ論壇』アマゾン先行予約キャンペーン開催!

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 発売日11月20日~12月20日 11月20日より、アマゾンでご購入いただいたお客様へは、西尾幹二、宮崎正弘、渡辺望の三氏による『西尾幹二のブログ論壇』出版記念特別放談の限定映像を、もれなくプレゼントいたします!
 11月20日~12月20日のキャンペーン期間中にご購入いただいたお客様は、限定プレゼント『西尾幹二のブログ論壇』スペシャル放談映像(約90分)」がございます。

【プレゼント応募方法】
応募期間:11月21日(水)~12月20日(日)
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プレゼント応募フォームメール-入口

< 著者について
西尾幹二(にしお・かんじ)
評論家
昭和10年東京生まれ。東京大学文学部独文科卒業、同大学大学院文学修士、文学博士。電気通信大学名誉教授。著書に『ヨーロッパの個人主義』『ニーチェ』『ニーチェとの対話』『江戸のダイナミズム』『決定版 国民の歴史』『GHQ焚書図書開封』1~4、他多数。訳書にニーチェ『悲劇の誕生』『この人を見よ』、ショーペンハウアー『意志と表象としての世界』など。
【西尾幹二のインターネット日録】

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チャンネル桜出演のお知らせ

 「路の会」メンバーの討論会が行われます。次の通りです。

番組名:「闘論!倒論!討論!2010 日本よ、今...」

テーマ  :「路の会」スペシャル・どうする!?日本の独立

放送予定日:平成22年11月20日(土曜日)
       20:00~23:00
       日本文化チャンネル桜(スカパー!217チャンネル)
       インターネット放送So-TV(http://www.so-tv.jp/)

パネリスト:(50音順敬称略)
      北村良和 (愛知教育大学名誉教授)
      新保祐司 (文芸評論家・都留文科大学教授)
      田中英道 (東北大学名誉教授・国際教養大学特任教授)
      西尾幹二 (電気通信大学名誉教授・評論家)
      桶泉克夫 (愛知県立大学教授)
      三橋貴明 (作家・経済評論家)
      山口洋一 (元駐ミャンマー大使・
            日本戦略研究フォーラム政策提言委員)
      

司 会 :水島 総(日本文化チャンネル桜 代表)

『GHQ焚書図書開封 4』の刊行(七)

 新保祐司氏は拙著について二つの論評を書いて下さった。ひとつは保田與重郎を論じるのが主であった、産経新聞コラム「正論」(2010・10・25)の記事で、前回すでに紹介した。

 次は月刊誌『正論』(12月号)の書評欄の書評対象としてである。以下に掲示させていたゞく。恐らくこちらを先にお書きになったのではないかと思う。

GHQ焚書図書開封4 「国体」論と現代 GHQ焚書図書開封4 「国体」論と現代
(2010/07/27)
西尾 幹二

商品詳細を見る

戦前を「上手に思い出す」ことの実践

 二年前の6月に刊行が始まったシリーズの四巻目である。今回は、「国体」論関係の著作がとりあげられている。『皇室と日本精神』(辻善之助)、『國體の本義』(山田孝雄)、『國體の本義』(文部省編)、国家主義者・田中智学の著作、『国體眞義』(白鳥庫吉)、『大義』(杉本五郎中佐)といった「焚書図書」が、「開封」されている。

 シリーズの第一作で、著者は「自分を取り戻すために、目の前から消されてしまった本を取り戻すことから始めなければならないのだと私は考えて、この仕事に起ち上がりました」とその決意を語っているが、このシリーズ四巻目の「国体」論の「開封」は、日本人が「自分を取り戻すために」最も必要なものであろう。

 というのは、この戦前の「国体」論は、戦後の、そして今日の「保守思想」の盲点となっているからである。

 著者は、「戦前に生まれ、戦後に通用してきた保守思想家の多く」の弱点を鋭く指摘している。彼らは、「とかくに戦後的生き方を批判し、否定してきた。しかし案外、戦後的価値観で戦後を批評する域を出ていない例が多い。戦前の日本に立ち還っていない」からである。

 ヨーロッパの保守思想を使っての「戦後民主主義」批判は、よく見られるものであるし、また、日本の思想家でも、福田恆存は援用されることが多いが、保田與重郎はあまり理解されていないといった現状にもそれはうかがわれるであろう。今年、生誕百年の保田のとりあげられ方の淋しさは、「戦前の日本」にしっかりと「立ち還」ろうとする日本人がいかに少ないかを象徴している。「戦後的価値観で戦後を批評する域を出ていない」保守の言論は、精神の垂直性を持っておらず、結局空虚なのである。

 しかし、本書の最もクリティカルな点は、とりあげた「国体」論のある種のものに、著者が実に手厳しい批判を浴びせているところである。例えば、田中智学の著作や文部省の方の『國體の本義』などに対してである。

 「戦前が正しくて戦後が間違っているというようなことでは決してない。その逆も同様である」といい、「戦前のものでも間違っているものは間違っている。戦後的なものでも良いものは良い。当然である」と力強く断言している。

 「戦前」にしろ、「戦後」にしろ、それらを原理主義者のようにとりあげる偏狭さから、著者はその鋭い「批評精神」によって、きわめて自由である。その自由な思考が、戦前の「国体」論の著作を読むにあたり、生き生きと発揮されていて、「戦前」のものを扱う人間の多くが陥りがちな硬直性が感じられないところに、著者の精神の高級さが自ずと発露している。

 戦前の思想のうち、「良い」ものを見抜くこと、これは著者もいう如く「そこが難しい」。しかし、この「難し」さを自覚しながら「国体」を探求するときにのみ、真の「国体」は顕現するであろう。

 

文芸批評家 新保祐司

緊急出版『尖閣戦争』(その三)

尖閣戦争――米中はさみ撃ちにあった日本(祥伝社新書223) 尖閣戦争――米中はさみ撃ちにあった日本(祥伝社新書223)
(2010/10/30)
西尾幹二青木直人

商品詳細を見る

 編集者が自ら作成した本を自らのことばで紹介する産経新聞の読書欄(産経書房11月13日)に、祥伝社の角田勉氏が次のように書いて下さった。氏から発売後10日で3刷3万部になったとのしらせを受けた。

【書評】『尖閣戦争 米中はさみ撃ちにあった日本』西尾幹二、青木直人著
2010.11.13 07:45

「尖閣戦争」 

「必ずやってくる」中国に備え

 実を言うと、この対談は、別のテーマで取材日が9月25日と設定されていた。ところがその前日の24日に、中国漁船の船長釈放というニュースが飛び込んできたため、急遽(きゅうきょ)テーマを変更し、対談から発売まで1カ月という異例のスピード進行で出来上がったのが本書である。

 それが可能だったのは、この両者の日頃(ひごろ)の言説に触れている人にはおわかりの通り、今回の事態は想定内のことであり、これまで散々に警告を発してきたことであるからである。

 西尾氏はかねてより、米中が経済面においては事実上の同盟関係にあり、利害を一にしている以上、いざというときには日米安保は全く当てにならないこと、そして、アメリカが日米の同盟関係を強調するときは、その裏に、日本の再軍備や核武装論を抑え、米軍の駐留費を引き上げる目的が秘められていることを指摘してきた。

 青木氏は、その精細な中国分析から、中国の海外進出が、歴史的にも国内事情からも周到に準備されてきていることを述べてきた。

 そしてこの両者の一致する見解は、今回の事件が日米中三国関係の構造の変化に伴う必然であり、一過性のものではないこと、中国は次も必ずやってくるということだ。そのために日本はいま何をしておくべきなのか。それは間に合うのか。日本に切れる外交カードはないのか。議論は尽きることなく続いた。

 騒ぎがいったん収まったと言って、安心している場合ではない。ともかく、ここは日本の正念場である。(祥伝社・798円)

 祥伝社新書編集部 角田勉

 さて、最近知ったが、沖縄をめぐる中国の言い分には相当にすさまじいものがある。アメリカが沖縄を日本に返還した1972年に、蒋介石はアメリカに対して激怒したそうだ。沖縄(琉球王国)はかつて中国の朝貢国だったから、アメリカは沖縄を中華民国に返還すべきだったという考えからである。そして、ときの北京政府も同じ立場で、キッシンジャー周恩来会談で、このことが取り上げられたという話である(毎日新聞 2010.10.21)。

 しかし琉球王朝はわが国の薩摩藩にも朝貢していて、いわば両属だった。1871年に日清修好条規が結ばれた。同年琉球の島民66人が漂流中に台湾に流れついて、54人が台湾人に殺害されるという怪異な事件が起こった。

 日本政府は琉球島民の権利を守るために台湾を管理する清国に責任を問うたが、清国政府は台湾人は「化外の民」(自分たちの領土の外に住む人)だからといって責任を回避したので、日本はただちに台湾に出兵し、台湾住人を処罰し、責任を明らかにした。

 この問題の解決に当り、清は琉球島民を日本国民と認めたので、日本は1879年に琉球を日本領として、沖縄県を設置した。これを「琉球処分」という。以上がわれわれの理解する略史である。

 今の中国がもしこれに反対して現状変更を求めようとするのなら、130年前の近代史上の国境確定をくつがえそうというとんでもない企てである。暴力(戦争)以外に方法はない、というのが中国サイドの究極の考え方だろう。

 もう少し歴史を振り返ってみたい。永い間中国はまともな主権国家ではなかった。第一次大戦中の「21か条要求」にしても、よく調べてみると日本はそんな無茶な要求はしていない。袁世凱政権が日本からこんなひどい要求を突きつけられたとウソの内容をでっち上げて内外に喧伝したので、それを聞いて怒った中国国民が反日運動に走ったというのが実情である。いまは詳説しないが、中国人特有の謀略にはめられた日本政府の甘さは、今も昔も変わらない。

 あのころの中国はイギリス、フランス、ドイツそしてアメリカなどに歯向かうことをむしろ避け、弱いものを標的にする排外運動、すなわち排日に走った。一方日本の中国に対する基本姿勢は中国を救済し、西欧列強から防衛するという一方的な善意の押しつけの面があった。優越した立場から「面倒を見る」というのが対中対応であった。巨額の援助金で支援した孫文に裏切られたのがいい例であるが、日本人の善意は大抵逆手にとられ、すべて悪意に仕立てられていった。そして、西欧列強はそういう日本に冷淡で、中国に利のあるときは群がり、危うくなればさっさと逃げ出したのである。

 最近の日本の置かれている立場は当時とまったく同じに見える。尖閣問題は世界のどの国からも同情されていない。関心もほとんど寄せられていない。ドイツの友人から知らされたが、ドイツのテレビには報道もされていないらしい。尖閣が中国に占領されても、たいした話題にもならないだろう。一昨日のG20の経済会議に際し、フランス大統領は目の色を変えて中国との巨額商談をまとめた。少し前にイギリスもドイツも中国詣でに夢中だった。

 たゞアメリカは人民元の安さに苦しめられている。9月末に人民元切り上げを迫る制裁法案が下院で可決された。20%-40%くらい人民元は安いと見て、アメリカをはじめ世界の雇用をおびやかしていると批判した。

 アメリカは制裁法案を実行して本格的に経済戦争をはじめるつもりだろうか、それとも中国の言い分を認め、異常な前近代のままの中国中心の世界経済秩序を認めるつもりだろうか、今、二つに一つの岐路にあるといえる。もし後者の道をアメリカが選べば、日本は完全に見捨てられることになる。

 130年前の「琉球処分」を白紙に戻そうという中国の野望は「近代」を知らない非文明の大国のエゴイズムに文明の側が屈服することにほかならない。しかしこれをはね返すには、なまなかな覚悟ではとうてい及ぶまい。

 例えば あるブログに次のような言葉があった。

フジタの社員が4人スパイ罪で捕まりましたが、スパイだから銃殺される可能性もあった。中国という国はそういう国家であり、フジタもそれを覚悟で中国に進出しているはずだ。だから社員が4人捕まっても自己責任で解決すべきだろう。日本企業は安易に中国に進出することは国益を害するのであり、進出した日本企業は中国の人質なのだ。

「株式日記と経済評論」より

 私はさきに「なまなかの覚悟ではとうてい及ぶまい」と書いたときの「覚悟」とはさしあたりこういうことである。しかも、これに類することが今後相次ぐだろう。例えば、進出企業が中国側に接収さsれるというようなことだって起こり得るかもしれない。

 変動相場は今の市場経済の前提なのに、人民元だけが固定相場である。世界がこれに悩まされながら許しているのが不思議である。非文明の大国のやりたい放題を我慢しているのが奇怪である。隣国の日本が災難を一手に引き受けざるを得ない不運な立場に世界の同情がないのも、大戦前と同じである。

 日本の今後の政策は非文明の大国を文明国家にするべく可能なあらゆる手を打つことである。アジアは経済の成長センターで中国はその希望の中心である、というようなものの言い方をやめるべきである。中国は北朝鮮を巨大にしたレベルの国家にすぎない。規模が大きいだけにソフトランディングの周辺国に及ぼす影響は破壊的である。

 尚最後に付記するが、沖縄の言語(琉球原語)は3世紀ごろに日本語から枝分かれした、世界でただひとつの日本語の親類語である。アイヌ語も朝鮮語も日本語とは系統を異にする。

『GHQ焚書図書開封 4』の刊行(六)

産経新聞【正論】欄2010.10.25 より

文芸批評家、都留文科大学教授・新保祐司

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 ■ 戦前の地下水を汲み保守再生を

 現今の政権がもたらしている亡国的危機の最中にあって、心ある日本人は「保守の再生」ということを考えているに違いない。

 だが、問題は「保守の再生」という言葉が何を意味しているか、である。「保守」とは何か、何を「守り保つ」のか、「再生」とは何か、といった点がどうも明確にされていないように感じられる。人により、使われる場所によって内容が違っているのであり、それがこの言葉を掛け声だけのスローガンのように響かせている。

 今日の日本人が本来の日本人に「再生」するために必要なものについて重要なヒントを与えてくれるのが、この7月に出版された西尾幹二氏の『GHQ焚書図書開封4-「国体」論と現代』だ。
 2年前の6月にスタートしたシリーズの4巻目で、敗戦後、占領軍によって「焚書」された七千数百点の著作の中から順次、選び出して「開封」し論じている。

 ≪≪≪戦後価値観での批判は限界≫≫≫

 『皇室と日本精神』(辻善之助)、『国体の本義』(山田孝雄)、『国体真義』(白鳥庫吉)、『大義』(杉本五郎中佐)などの著作をとりあげた4巻で、氏は、戦後の、そして今日の「保守」の盲点を鋭く衝いて、「戦前に生まれ、戦後に通用してきた保守思想家の多くは、とかくに戦後的な生き方を批判し、否定してきた。しかし案外、戦後的価値観で戦後を批評する域を出ていない例が多い。戦前に立ち還っていない」と書いている。

 これは、保守思想を考える際の頂門の一針ともいうべき指摘であり、「保守の再生」というものも、戦後の保守政治の「再生」ぐらいにとどまっていては仕方がないということである。

 「戦前に立ち還」ることが戦前の思想のすべてを無差別に正しいとすることではないという点は、氏も明言しているところだ。それは「復古」にすぎない。「再生」としての「戦前に立ち還」るということは、戦前と戦後を貫いて日本人の精神に流れているものを回想し自覚することである。

 日本人の精神の中で、戦前と戦後が余りにも激しく分断されすぎた。確かに氏もいうように「戦前のものでも間違っているものは間違っている」。小林秀雄的にいえば、戦前を「上手に思い出す」ことが必要で、それが真に「戦前に立ち還」ることに他ならない。

 「戦後的価値観で戦後を批評する域を出ていない」保守思想が唱える「保守の再生」では、本来の日本人の「再生」にはつながらないであろう。そして、日本人が本来の日本人にならなければ、日本は本来の日本にはならない。福沢諭吉が「一身独立して一国独立す」といった通りだ。国防論議が熱してくるであろう今後、この順序を心に銘記すべきである。

 ≪≪≪保田與重郎再評価を一歩に≫≫≫

 このように、今必要な「戦前に立ち還」ることのひとつとしてとりあげるべきは、保田與重郎の著作であろう。保田は、今年生誕百年であるが、余り問題とされていないようである。戦前、日本浪曼派の中心人物として活躍し、『日本の橋』『後鳥羽院』『万葉集の精神』などの名作を刊行したものの、戦後、一転してジャーナリズムから追放された。この稀有な文人の著作は、GHQによってというよりも日本人そのものによって「焚書」されたといっていい。

 その後、心ある日本人によって「再生」されたが、保田がどのようにとらえられてきたかは、生誕百年を記念して出版された『私の保田與重郎』という本によってうかがうことができる。

 これまで刊行された保田の全集の月報や文庫の解説に書かれた、172名の諸家の文章を集めたものであるが、これを読んで心に残った表現のひとつは、倫理学者の勝部真長氏の「地下水を汲み上げる人」というものであった。

 ≪≪≪まず、日本人たるべし≫≫≫
 
 勝部氏は保田のことを「歴史の地下水を汲み上げる人」と呼び、「地下水にまで届くパイプを、誰もが持ちあはせてゐるわけではない。保田與重郎といふ天才にして始めて、歴史の地下水を掘り当て、汲み上げ、こんこんと汲めども尽きぬ、清冽な真水を、次から次へと汲みだして、われわれの前に差し出されたのである」と評している。
 
 「保守の再生」への国民的精神運動に、保守思想家が貢献できるのは、戦前の「地下水」の中から「清冽な真水」を「掘り当て、汲み上げ」ることに他ならない。現在では、保田自身が「歴史の地下水」になっている。保田の著作から日本の歴史の高貴さを汲み出して、魂の飢渇に苦しむ今日の日本人に「一杯の水」として差し出すことは、大切な仕事であろう。
 
 保田は戦後の著作『述史新論』の中で「我々は人間である以前に日本人である」と書いた。「日本人である以前に人間である」という、戦後民主主義の通念の中で生きてきた日本人は、「人間である以前」の日本人という精神の堅固な岩盤を掘り当てなければならない。そこから「保守の再生」は始まるのである。(しんぽ ゆうじ)

『GHQ焚書図書開封 4』の刊行(五)

 私がまだ教科書の会の代表をしていて、採択運動で全国を飛び回っていた頃、いく人もの秀れた地方の教育指導者や社会科の先生たちに会い、現場の危機を熱心に訴えかけられました。長崎県で出会った山崎みゆきさんもそのようなお一人でした。中学校の社会科の先生で、まだ若く、大学をお出になったばかりの頃だったと思います。今も勿論お若く、しかも活発な女性の先生です。

 拙著について感想を寄せて下さいました。私が教科書の会を退いてからもずっと私の著作活動を見守りつづけて下さっている読者のお一人です。ありがとうございます。

 『国民の歴史』初版以来、私は西尾幹二先生の御著書を読み漁り、新刊が出れば即購入して拝読している。近年、私が特に楽しみにしているのは『GHQ焚書図書開封』である。西尾先生のナビゲーションの面白さもあいまって早く読んでしまいたい衝動にかられ、1、2日で読了する。その理由は、戦前・戦中の日本人がどのように世界情勢を見ていたのか、戦場ではどのような場面があり日本兵はどんな行動をとったのか、戦前・戦中の日本人の思考や感覚、心情にとても関心があり、真実に迫りたいからである。

 昨今のテレビドラマや映画での「戦争」では、市井の人々を描くと空襲の悲惨さや徴兵の無理矢理さを、軍隊や戦場を描くと上官が部下を殴りつける陰湿さや残虐性が強調される。そして戦後民主主義の感覚でものを言う登場人物ばかりで、浅はかである。「戦後〇年」というカウント年数が多くなるにつれ、その傾向は強まってきているのではないだろうか。私は、そんなドラマや映画を見ることで戦争の実態がわかったと勘違いする人々が多くなりはしないかと不安になる。そして、内容を鵜呑みにして、戦時下を懸命に生き祖国のために戦った先人を尊敬できない日本人が増加することを危惧している。

 『GHQ焚書図書開封』第3巻には、中国での日本兵の生と死、息子の戦死に対する両親の複雑な心境、中国逃亡兵の実態、大東亜戦争開戦直後に真珠湾を通り抜け無事帰国した商船・鳴門丸、兵隊の日常、菊池寛の『大衆明治史』など多岐に渡っている。私たちに戦時下の日本人の心のひだや逞しさを感じ取らせてくれる。特に生と死の隣り合わせの中で、日本兵の人間味あふれる言葉や行動は微笑ましくも切なく、時に感涙する。焚書された作品それぞれから、日本人が自分の意志とは関係無しに運命に巻き込まれながらも、その場面において自分にできることを考え、信念をもって行動してきたことが強く伝わってくる。

 第四章の鳴門丸の出来事は私にとっても新たな発見だった。船員・乗客が敵艦に見つからないように船体を灰色に塗り直したり、より安全な航路を選択する必死な様子から、必ず生きて日本にたどり着こうと念じる気持ちが伝わってきた。その一方で、船内には、万が一逃げ切れず敵艦に拿捕されたら船を自沈させるという覚悟もあった。

 戦時中のことを語るとき「生きて虜囚の辱めを受けず」という戦陣訓のために多くの民間人も犠牲になったとする風潮がある。しかし、もともと戦前・戦中における日本人には戦陣訓など関係無しに生き抜こうとする努力とともに、もし敵の手に落ちるなら死を覚悟する気概が備わっていたのではないだろうか。そのようなことを鳴門丸の記述から感じた。

 ちなみに同じ3巻には、どんな汚いことをしてでも生き延びようとする中国敗走兵の記述も収録されている。鳴門丸との対比となり、日本人の覚悟がより強調されている。

 GHQが7.000種数十万冊もの書籍を焚書した影響は甚大であると思う。焚書によって本の内容が人々の記憶から消し去られ、戦前・戦中の日本人の心や感覚を伝えられなくしている。歴史が寸断されているような感覚である。そして、とって代わった戦後民主主義によって戦前・戦中の歴史を断罪し、戦後の感覚で歴史を歪めさせ、日本人が自国を誇れない状態にしている。

 焚書の中身が明るみになるにつれ、日本人が真の歴史を取り戻すことを願う。

長崎県 中学教師  山﨑みゆき