福井雄三『板垣征四郎と石原莞爾』の序(一)

 昨年知り合った友人・福井雄三さんの新刊の本の草稿を読んでいる。『板垣征四郎と石原莞爾』という題で、4月下旬にPHPから刊行される。

 この本に序文を書いて欲しい、と著者ご本人と版元から頼まれ、序文を書くには丁寧に二度読むくらいの念の入れ方が必要なので、この二ヶ月他の事をしながらのかなり大変な仕事量だった。序文は13枚になり、3月29日に書き上げることができた。

 とてもいい本である。苦労し甲斐はあった。以下に二回に分けて序文を紹介する。

 著者の福井さんは大阪青山短期大学准教授、55歳。『「坂の上の雲」に隠された歴史の真実』『司馬遼太郎と東京裁判』の二冊の司馬批判の本はすでにかなり知られている。カール・カワカミ『シナ大陸の真相』の訳者でもある。

 言葉の最も正当な意味における歴史の書

 板垣征四郎と石原莞爾という共に満州国建国に関わった二人の軍人をその生い立ちから説き起こし、二人の出会いと、交差する活動歴を描いた本書は、一見個人的な友情物語のように思われるかもしれません。私も最初しばらくはそう思って読みつづけました。しかし間もなくそうではないことに気づきます。

 この本の主人公は歴史なのです。あの最も困難だったわが国の昭和前半の歴史が著者の関心の中心です。著者は激動の歴史を世の通説をはねのけるような新鮮な筆致で、ときにエピソードを混じえ、ときに大胆な新しい史観をもち出して語っています。

 著者には軍事史の知識があり、外交史の観点もあります。昭和史を狭い国内の政治史にしていません。政治家の過失と軍人官僚の愚かな判断ミスの歴史として描くにしては、あまりにも日本人の尚武の気質は美しく、挑戦した文明上の課題が大きかったことを、著者は知っているからです。

 そう思いつつ読み進めていくうちに、私はふと気がつきました。成程、この本の叙述の多くは国家の歴史に当てられ、個人史の記述は少ないと今申しました。しかしながら板垣征四郎と石原莞爾の生い立ちも活動歴も、相互の信頼や友情も、家族のエピソードも、満州国建国をめぐる日本の歴史と切っても切り離せない関係にあります。あの時代は個人を個人として語っても叙述になりません。日本人の歴史、とくに軍人の歴史は国家の歴史といわば一体でした。本書の題名に秘せられた著者の深謀遠慮はこの辺りにあるのだと思いました。

 本書の主人公は個人ではなく、右のような意味において歴史だとくりかえし言いますが、それなら著者の描き出した激動の昭和史はどういう内容のものでしょうか。どなたもお読みになればすぐ分かることについて、へたな解説は避けたいのですが、今までに例のない新しい日本史であることは明らかです。石原莞爾のことはこれまでも何度か論じられ、研究されてきましたが、板垣征四郎を正面きって尊敬と愛情をこめて肯定的に描くのですから新しくないはずはありません。

 処刑されたA級戦犯板垣は悠揚せまらぬ大人物として、偉大な実行家として、軍事思想のいわば天才であった石原を抱擁するように歴史に登場し、満州国建国の壮大なドラマを演出します。本書はそのいきさつを今の時代に得られる学問的知見を駆使して叙述するのですが、前にも述べた通り、二人は中心をなす点として扱われ、それを取り巻く歴史の全体像が面として展開されます。

 戦後出た日本史専門家によるほとんどすべての昭和史は、時間的にも、空間的にも、わが国のあの時代の歴史を小さく狭く区切って限定的に論述する例が大半だといってよいでしょう。時間的には昭和3(1928)年から昭和20(1945)年までと限定したがります。それは日本を占領した連合軍(GHQ)の都合によります。日本の軍事行動を1928年の不戦条約に違反した「侵略」であったとする、東京裁判の一方的で無理な規定を押しつけてくる政治的な動機があるからです。

 とかくの日本史叙述を思い出して下さい。張作霖爆殺事件(1928年)から日本史は迷走の時代に入った、とか、あるいは満州事変(1931年)から中国を侵略する15年戦争が始まり、日本は暗黒時代に突入した、などといった歴史家の紋切り型のもの言いは、恐らくどなたの記憶にもあるでしょう。今でも日本人の歴史学者がGHQの呪縛の下にある証拠です。

 また空間的にも、歴史学者はわが国のこの時代を狭く限定的に眺め、世界史の中に置いて描こうとしません。天皇と西園寺の言動、内閣が小刻みに替わる政治指導力のなさ、軍人の無分別と横暴ぶり、愚かな中国侵略の無方針な拡大、そしてついにアメリカの逆鱗に触れた揚句の大戦突入――日本の指導層の言動はことごとくウスラ馬鹿のトチ狂いと言わんばかりの描き方のなされる歴史叙述が受けていて、よく読まれています(例えば、半藤一利『昭和史』)。叙述の舞台を国内に狭く閉ざし、たとえ外国の動きを描くとしても、国内から見た外国の姿にとどまります。

 しかしあの時代には中国大陸をめぐって、イギリス、ソ連、アメリカはもとよりドイツまでもが日本軍の動きに介入し、謀略の限りを尽くして中国人の抗日活動を煽り立てていました。また日露戦争以来、日本はイギリスの金融資本の支配の網につかまっています。コミンテルンの策謀が史上最も効果的に世界中の知識人の頭脳を蠱惑(こわく)していた時代でもあります。

 アメリカ人宣教師が中国各地でいかに狡猾な排日煽動を重ねていたか。第一次大戦に敗れたドイツが軍備温存のために革命後のソ連に接近して、さらに中国に軍事顧問団を派遣し、蒋介石軍を手とり足とりして指導したことがいかに日本を苦しめたか。日本はあの時期、世界中の災厄を一身に浴びる運の悪さでしたが、その原因の中心には「黄禍」があったと思います。
 
 本書ではこのテーマを扱っていませんが、人種問題は20世紀政治の根底にあり、アジアで一番早く台頭した日本が白人国家の最大のターゲットになった所以は、戦後アジア・アフリカ諸国が一斉に続々と独立を果した歴史の経過からも明らかです。日本がアジア解放の旗手だったと敢えて言わなくても、20世紀前半には、ナチスの反ユダヤ主義も含めて、人種をめぐる瘴気(しょうき)が地上に瀰漫していたことは紛れもない歴史事実です。

 本書は従来の歴史書と違って、時間的にも空間的にも、著者の視野が長く、広い範囲を見渡しつつ叙述されているのが特徴です。満州事変、そして満州の建国を、本書は大陸における戦乱の時代の始まりと捉えるのではなく、清朝末期から果てしなくつづいていた混乱の終止符と見ています。満州事変から始まる15年戦争などという歴史の見方はまったくの間違いであって、大陸のいかんともし難い閉塞状況と混迷に終止符を打ち、最終的安定をもたらすためにとられた政治的軍事的解決――それが満州建国であったという考え方です。「1931年に起きた満州事変と、1937年に起きたシナ事変は、まったく別個の事件であり何の関係もない」と著者は書いています。

 清朝末期から大陸は内乱と疫病、森の消滅と巨大水害、いなごの害などで数千万人単位の餓死者を出しつづけた不幸な国土でした。匪賊(ひぞく)すなわち強盗団が跋扈(ばっこ)する無法社会で、中華民国になってからも内乱はますますひどくなり、政府がいくつも出来て、外交交渉さえままなりません。中国はそもそも国家ではなかったのです。

 そこに満州という世界希有な国家、一つの「合衆国」をつくることで全面的解決を図ろうとした石原や板垣たちの理想は、なし遂げた達成のレベルを見ても決して嗤うべき夢想ではありませんでした。ただ大陸は近隣であったがゆえに日本独自の地政学的対応をする必要があったのにそれがうまく出来なかったうらみがあります。それはドイツの戦争に時期的に重なった不運と、江戸時代の海禁政策が長く、日本人が中国文明を観念的に考え過ぎて実際の中国人を知らなさすぎていたせいでしょう。

 盧溝橋の一発ですべての理想は空しくなりました。しかし本書が示している通り、満州という「五族協和」の理想は、あの時代の日本人が自国の国防だけを考えていたのではなく、大陸の混乱を救おうとした道義的介入の結果にほかなりません。

渡部昇一さんとの対談そのほか

 同じ月刊誌にいく月もつづけて出るということは例外的で、そうあることではない。5月号の『WiLL』では渡部昇一さんと対談をした。それがじつはなかなか面白く盛り上った。渡部さんは南京陥落のときの歌までうたって聞かせてくれた。

 渡部さんとの私の対談は何度もあるが、最後の雑誌対談は3、4年ほど前の『諸君!』における歴史教科諸問題だった。最初の対談は30年くらい前のNHK教育テレビでの、マンガ・ブームの是非をめぐるテーマだった。

 テレビでの対談はほかに何度もあるが、渡部さんは相手に話をさせるのがうまい。自分のほうから話題を押しつけてこない。『WiLL』5月号の今度の対話もそういうたぐいで、あっという間にどんどん話が弾んで、20ページに及ぶ大型対談になった。題して「緊急対談 『諸君!』休刊 敗北史観に陥った言論界」である。

 中華料理屋でやったのだが、渡部さんは話も終盤になるまでアルコールに手をつけようとしない。「酒を飲むと穏やかになり、平和的な人間になるから飲まない」と言って座にいるみんなを笑わせた。そこで私はビールから紹興酒へとどんどん手を出して、「私は酒を飲むと攻撃的になるから飲みますよ。」と応じてまた笑わせた。

 話の内容は1969年の『諸君!』創刊号の頃のさまざまな出来事、70年安保に向けて知識人の離合集散から保守系の集合へのいきさつ、朝日新聞VS文藝春秋の構図をつくった一時代の大元が『諸君!』にあったこと、『諸君!』が休刊になったのは敵を見失ったからだが、日本の自立をめざすという最終目標がまだあって、敵はいぜんとして存在すること、等々から始まり、私と渡部さんの5歳の差が戦争時代の歴史を見る姿勢に微妙な差になっているというテーマなどは大変面白い展開を示した。

 子供時代の二人の思い出はあるところで重なりあるところで食い違い、相違を示したが、ここは読者の思い出をも刺戟して、大方の興味を引く箇所ではないかと思われる。後半では日米問題から防衛問題にいたる現代におけるいろいろなテーマが語られた。アメリカの歴史には封建時代がないので騎士道がなく、それが人類を脅かす「裁きの思想」を生んでいるという点で二人の意見は一致した。

 アメリカや中国を目先の政治現象で捉えるのではなく、歴史を知ることで深所からとらえ直すということがこれからはますます必要だと思われる。面白かったのでまたときどき対談をやりましょう、ということばを交し合い別れた。

 この対談掲載の『WiLL』5月号は26日以後に店頭に出ている。

 26日には読売テレビの、高視聴率だそうだが東京では見ることのできない番組「たかじんのそこまで言って委員会」に出演するために大阪に出向く。テーマは 皇 位 継 承 。放送日は4月5日(日)午後1:30~15:00である。

 第31回GHQ焚書図書開封(日本文化チャンネル桜)は、「忘れられている日本軍内部の『人情』」という題で、3月28日インターネット放送SO-TV配信である。

坦々塾(第十三回)報告(一)

ゲストエッセイ 
長谷川 真美/坦々塾会員
   

 久し振りに、本当に久し振りに坦々塾に出席した。いつも東京にいる人たちはいいなぁと言っていたが、今でもそう思う。なにしろ新幹線に四時間も乗らなくてすむのだから。

 今回の坦々塾の話は西尾先生、元ウクライナ大使馬渕睦夫氏、国際ジャーナリスト山際澄夫氏の三先生で、それらの講義が終って、立食懇談会の会場で、西尾先生から今日の報告文を書いてくれないかと言われた。

 えぇ~っ・・・・と私。

 最初はメモをとりながら聞いていたが、だんだんと録らなくなっていたし、そういう気持ちで聞いていたわけじゃないので困った。「いや、貴女の言葉で、貴女の頭に残っている印象をあなた流に書いてくれればそれでいい」と言われたので、こうなったら自分のブログで書くような気軽さで書くしかないと思い、承知した。

 丁度出席していた別の方が上手にまとめてくださっているので、まずそれをご本人の承諾を得て転載する。

1.西尾先生のご講演は、日本、中国をめぐるテーマで、次のような内容だった。
 なぜアメリカは日本と戦争をしたのか? この理由いまだにわからない。
 イギリスやソ連のような、利害と支配の論理なら理解できても、アメリカは一貫性がないし、何をしでかすか読めない。
 植民地支配の放棄をいいだすようになった頃を境に理解不能になった。アメリカはいい子ちゃんに変身する。『大西洋憲章』みたいなきれいごとを言い出す。きれいごとを盾にして日本を占領した。イギリスは版図が広がりすぎて日本の助けが必要となり、日英同盟を結ぶ。GIVE&TAKEの関係が成立した。それなりにわかる。日本はアメリカがヨーロッパの亜流だと思っていたが、見誤った。
 現代の日米構造協議もそうだ。日本の消費者のためだなどときれいごとに騙され、日本の政治家も知識人も旗もちした。
 さて「昭和史」ブームだ。半藤、保坂、秦らは外の世界を見ていないし、歴史を短くしか見ていない。欧州には秩序があったが、支那、アメリカにはない。
 焚書のなかから日本に留学していた中国青年が昭和12年に帰国し、徴兵され、最前線に送られ、残虐な中国兵、逃亡ばかりを狙って、逃げると味方に撃たれるすさまじい中国軍隊の体験記を紹介する。
 『日中戦争』・・清朝以来支那は内乱続き、文化大革命然り。支那には近づかないほうが賢明だった。イギリスは止まったがアメリカは支那に関与してしまった。モンロー主義を捨て、門戸開放、領土保全、を主張した。だれも反対できないきれいごとだ。しかし支那が国家の体をなしていないことにアメリカ世論が気付かない。リットン調査団はヨーロッパだから事態を現実的にみられた。よくないのはアメリカのしかも宣教師だ。中国を助けるアメリカのイメージを振りまいた。NHKも『昭和史』も戦争は日本の主戦派が招いたというが、戦争は相手があってのもの。よく状況を調べよ。
 アメリカにとって支那は膨張するアメリカ資本主義のマーケットであった。ニューディールという社会主義的政策をとったアメリカだが、ソビエトに対する警戒心は欧州や日本とは違い、皆無だった。ルーズベルト政権は容易にソビエトと提携できた。ホワイトなどは、スパイという罪悪感もなく、共産主義とアメリカは手を組めると思いこんでいた。
 日本だって、あの林健太郎氏が、雑誌『諸君』のアンケートで、「日米開戦の知らせを聞いたときどう思ったか」と問われ、「日米という二つの帝国主義が大戦争を起こしてしめたとそのときは思ったものだ」と昔左翼の感想を正直に告白した。
 

2.馬渕睦夫さんの講演。
馬渕さんはわれわれの元々の仲間です。九段下会議からこの会に参加して下さった方には旧知の仲で、味わいのあるユニークなお話で知られる方です。あの直後ウクライナ大使になられて日本を離れました。  この度ご帰国になり、外務省を辞めて、現在防衛大学校教授をなさっています。坦々塾でのご講話は「ウクライナから見た世界」で、このたびのグルジア紛争やウクライナへのガス輸送妨害の事件などにも触れた、リアルな内容のお話をいただけました。

要点は、 ウクライナは欧州最大の国家であること。 不安定な政治体制。しかし経済は比較的安定している。政治家はみな愛国心があり、タフにロシアと渡り合っている。きわめて親日的であり、日本文化を吸収し日本に学ぶ気持ちが強い。小学生で芭蕉を、高校生で川端康成を学習している。 日本外交再生のためには、「自由と繁栄の弧」構想をさらに進め、ロシアとタフにわたりあうことだ、これまでも日本の政治家は能天気で、旧社会党委員長など人間ドックのためにソ連にやってきたり、モスクワ五輪ボイコットの最中に友好訪問などしているようでは、なめられきっている。安倍内閣の時はウクライナ政策は良かったが頓挫してしまった。

3.産経新聞社出身のジャーナリストの山際澄夫さん。 「メディアはなぜ嘘をつくのか」が演題。マスメディアの内側に関するかなりきわどいお話もうかがえると聞いています。最近の山際さんがお書きになったものでは、宮崎アニメのイデオロギー批判や防衛省内局批判などの目立つ発言がじつに印象的です。(西尾先生の前宣伝口上から)

話があっち飛びしてつかみにくかったのが率直な印象。のっけからハイテンションだ。
政治家はいい加減だが、最も悪いのはマスメディアだ。 テレビコメンテーターは事前打ち合わせを済ませ、テレビに阿っている。 マスメディアは強きに阿り、弱きに居丈高になる。志が低い!! 小沢一郎政治資金規正法違反容疑でも、メディアはだめだ。じつは政治改革の旗手として、小選挙区制導入の小沢を持ち上げてきた。メディアの幹部連がこぞって選挙制度審議会メンバーになり、翼賛体制を作ってきたから、批判できないのだ。

長くなりましたので、この辺で擱きます。 空花 より

 今回、坦々塾にはテレビカメラが入った。二年後には、インターネットとテレビが相互乗り入れをする時代となり、大手のテレビ局が電波を独占している現在の状況が変わるのだそうだ。現在のアメリカのように、視聴者が多くのチャンネルの中から選べる時代になるのだという。お笑いとクイズ番組の日本の大衆迎合路線だけがテレビ、という時代ではなくなるのは大歓迎。スカパーのシアターテレビで、西尾先生には「日本のダイナミズム」というタイトルで時間が与えられるのだそうだ。試験的かどうかは分らないが、その番組の関係者が来て撮影していた。

 2時から6時40分まで二回の休憩を挟み、学生時代の授業のように三者三様の、内容の濃厚な勉強会だった。

※西尾先生のテーマは中国とアメリカについて。

 アメリカは1942年の大西洋憲章で「植民地主義の解放」を主張した。そういった道徳的なきれいごとを言うあの態度はいったいどこから来ているのだろうか、それならアメリカはどうして戦争をしたのだろうか、という西尾先生ご自身の疑問に、いろいろと推理をされる。どうにも中途半端なアメリカ。それに対して、ヨーロッパの基準は日本には理解できるものだったとおっしゃる。

 時間が押し迫り、最後の推論をお話になる時間が足りなくて、懇親会の席で、分りやすく結論の部分をお話くださった。

 それは、おそらく、ヨーロッパは奴隷的なピラミッドの最下層の部分を補充しようとして、外に植民地を求めたが、アメリカには既に国内に黒人がいて、外にそれを求めることをしないで済んだからではないかということだった。それが、植民地侵略において一人正義漢ぶれる所以であったのではないかと。聞いていた私も、周りの人たちも大きく頷いた。

 アメリカが黒人差別を形式的にでもなくしたのは、戦争が終って大分たってからだった。

 一方中国は?

 『日中戦争』(北村稔・林思雲)というの本を紹介されながら、戦争の起こった原因を日本にだけ求めることがまずおかしい。そして、中国というまとまった国、秩序だった国が本当にあったのか?日本は中国という国家と戦争をしたのか?むしろ、中国という地域の想像を絶する内乱に巻き込まれ、足抜けが出来ないうちに、ずるずると戦争になってしまったのではないか?と話された。

 日本は、中世という封建主義を経験していない、個人主義の中国やアメリカと、価値観・原理を異にしていた。そして現代でも、価値観の異なるこの二つの国を相手にしなくてはならない。

※次にウクライナの元大使、馬渕さんのお話。

 どっさりと資料を用意され、お話を聞き逃してもちゃんと後で補強できる状態だったのは、とても今、ありがたい。

 ウクライナという国について、日本人は余り関心を持っていないようだが、実はとても大きなポジションにある国なので、もっと関心を持ってほしいと言われた。ウクライナもその中に含まれる「自由と繁栄の孤」はロシアや中国に対する対抗戦略で、外務省が作成し、麻生氏が外務大臣であったときに発表された外交戦略である。普段余りよく言われていない外務省の仕事としてはとても素晴らしいものであると話された。その証拠に通常軽くあしらわれるロシアから、急に手厚い扱いを受けるようになったことがあったそうだ。

 ウクライナは大変な親日国家だそうだ。独立後の教育で、他国を勉強することが決められており、アジアでは日本について勉強することが指導要領で決まっているという。なんと小学五年生で松尾芭蕉、中学生で川端康成を学習している。日本の美しい伝統と文化を学ぶことが、自国の伝統文化の尊重に繋がるという視点なのだそうだ。馬渕大使は学校の参観にも行かれ、生徒が書いた大変感動的な作文を発表された。

マリーナさんの感想文
「私は『千羽鶴』に感激しました。真の日本の神秘的な姿、秘密でほぼ人跡未踏の部分が目の前に現われたのです。この授業で日本の美しさに触れ、私たちヨーロッパ人かが何を見習うべきかを理解できました。私は夢の国日本が、人間をもっと人間的にし、全世界を幸福と平和に導く階段、地と天をつなぐ階段を、遅くても一歩一歩上がる可能性を与えてくれる昔からの習慣と伝統を、依然として守っていると期待しています。」
   
 外務省はいろいろ言われているが、やはり外交はとても大切なことであるから、しっかりタフに頑張って欲しい。馬渕氏のように素晴らしい外務官僚がまだまだたくさんいるはずだ。ただ、冷戦が終わり、緊張が解け、昔ほど日米安保が磐石ではない現在、日本は毅然とした外交が出来にくくなっていると話されていた。

※最後に山際澄夫氏

 産経新聞の元記者で、現在は国際ジャーナリストとして活躍されている。新聞記者であった間、その会社を背負った肩書きが大変物を言っていたということに気が付かれたのだそうだ。つまり、どんな若い新聞記者でも、「○○新聞」です・・・と言えば、かなり大物の政治家でも取材に応じてくれるという。マスコミの力は大きい。マスコミが情報を歪曲したり、無視したり、煽ったりすることのウラをよく知っておられるから、強烈にマスコミ批判をしておられる。

 今回、田母神事件があった折に、「『歴史の解釈権を取り戻そう』ということでしょ、どうしてそういう人を護らないんだ・・・・」と大きな声で言われたのが印象的だった。なぜ産経新聞一社でも、全面的に護れなかったのかと思うと、悔しくて仕方ない・・・と話された。自衛隊とはかなり良好な関係を築いている産経新聞なのに残念だった。西尾先生が田母神応援のコラム「正論」を書こうと連絡したが、あの話は「打ち切り」ですと言われ、書かせてもらえなかったという話は後で西尾先生から紹介された。産経新聞、最近ちょっと変だが、やはりなくなっては困る新聞。

 産経新聞の社会的な大きな功績が三つある、と言われた。
一、「正論」路線を作り、保守派の論客にスペースを与えたこと
二、土光キャンペーンを張ったこと
三、教科書論争に参入したこと
だそうだ。

 それなのに最後までしっかり守ろうとしないのは残念だといわれた。社内ではつくる会内紛については沈黙だった。あれは社長マターだと言って、皆が口をつぐんでいた。一方的な情報が流布し、新聞社として問題を明らかにしようとしなかったのは残念だ、とも仰った。

 アメリカのマスコミ界は不偏不党ではなく、政治色を明確にしている。その点日本の新聞やテレビは中立を装っている。不偏不党のはずが、テレビは民主党を応援しているし、明らかに片寄っている。今の日本のマスコミは「強きを挫き、弱きを助ける」の反対「強いものに阿り、弱いものをいじめる」ようになっているので、その罪は深い・・・と言われていた。インターネットでマスコミとは違った切り口の情報が流れるようになった今、新聞、テレビが斜陽になっていくのは仕方がないことかもしれないと私も思う。

文:長谷川真美

非公開:『諸君!』4月号論戦余波(三)

 今日は対論をめぐる三つの観点をとりあげてみたい。私の所論への批判の最も典型的と思われるものが次に挙げる第一番目の例である。これはほんとうに典型的である。

筆不精者の雑彙

『諸君!』秦郁彦・西尾幹二「『田母神俊夫=真贋論争』を決着する」より一部引用

 小生はこれらの切り口とは少し異なった点から、主として西尾氏の言論を批判してみたいと思います。といいますのも、小生のこの対談を一読した際の感想は、議論が全く噛み合ってない、ということでした。西尾氏が「これが正しいのだ!」と叫ぶのを、秦氏は「あー、うざいなあ」という感じでいなしている、そんな印象です。

曲がりなりにも日本近代史の勉強をしてきた身として、秦氏の発言は至極当たり前に感じられました。それに噛みついている西尾氏の言動は、歴史を論ずるということ自体を根本から分かっていない、と書くのが傲岸であるとするならば、歴史でない何かを論じようとしている、そのようにしか読み取れませんでした。であれば議論が噛み合わないのも当然です。雑誌の煽り文句で、広告にも掲載された秦氏の言葉が「西尾さん、自分の領分に帰りなさい」というのも、歴史でない話をしたいなら歴史でないところでやれ、という謂ということだろうと思います。

 しかし、ネットで見つけた上掲のいくつかのブログを読むと、歴史でないものを「真の」歴史と思い込んでいるブログが少なくないことに気がつきます。小生は、これこそがこの対談の最大の問題であろうと思います。つまり、歴史の「何を」論じているかではなくて、歴史を「いかに」論じているか、そちらが肝心なところだと。

文:bokukoui(筆不精者の雑彙)

 私に対して「歴史を論ずるということ自体を分っていない」といい、「歴史でないなにかを論じようとしている」という言い方からしてすでに秦氏流の歴史がすべてだと思い込んでいる人の典型的きめつけといえる。この人は彼の考える「歴史」というものを信仰している。

 しかし『諸君!』3月号拙論のほうで私が「パラダイム」の変換ということを言ったのを覚えておられる人もいよう。歴史は動く、とも言ったし、歴史は時間とともに違ってみえる光景だとも私は言った。秦氏自身がこのことをまったく理解していなかった。

 二番目にあげる例文が一番目の人の迷妄を完膚なきまでに料理している。一番目の人の「歴史」はたくさんの歴史の中の一つの歴史にすぎない。パラダイムが安定している枠内ではじめて可能になる歴史である。

セレブな奥様は今日もつらつら考えるのコメント欄より

遅ればせながら、数日前にようやく「諸君!」の西尾・秦論争を読んでみました。お二人はすごく対立しているように読めるし、実際、そうなんですが、しかし両者とも対話に必要な相互承認というものがあって、とても有益な批判の応酬になっているんですね。西尾先生はインターネット日録で秦さんのことを、保阪正康さんや半藤一利さんたちよりずっと認めている、といわれていましたが、本当にそうだと感じました。

 ただ、そういうことを中立的に私が言っているだけでは、読者としてやはり欺瞞的なことで、はっきりいいますと、私はやはり秦さんの立場は採用できないですね。

 お二人が一番鮮明にその対立点を明確にしているのは、西尾先生が、「史実を確認することはまだ歴史じゃない」「厳密には史実の認定なんてできない」といい、歴史の本質というものは物語であり神話である、と言われたことに対して、秦さんが猛然と反撃して、「私達専門家の領域を侵犯しないでください」というところ、やはりここになったなあ、と思いました。

  「認識される対象の意味が固定的でない」こと、つまり事実というものの意味が絶えず変化する、ということは、(とりわけ近代以降の)哲学理論や社会思想史ではある意味普遍的な前提で、ニーチェはもちろんのこと、メルロ・ポンティのような社会的には左翼的立場を採用した哲学者も繰り返しいっているし、読み手と文字の間の間に絶えず「意味のズレ」が生じていくことが「意味」である、といってポストモダニズム思潮の旗手だったデリダも、こういう思考を前提としています。こうした事実認識は歴史的問題にもまったく同じだ、というのが西尾先生の立場だと思われます。

 たとえば、コロンブスの北米大陸到着も、ジンギスカンの大陸制覇も、当時そのものの状況に近づけば近づくほど、個人や民族のエゴイズムに無限に近づいていきます。コロンブスなんてただの山師だったと思います。しかし今では、両者の行為は東西文明の出会いという「別な意味」を与えられている。こういうふうに「史実は絶えず変化する」のです。同じことは日本と中国やアメリカの戦争についてもあてはまるはずなのです。しかし秦さんはそれをまったく認めようとしない。秦さんは徹底徹尾、「事実」の意味を単一なものの方向性へと固定し、その「事実」そのもの集積の先に見出せる大きなものがある、というある意味で非常に古典的な(といっても「近代古典的」な)観方に固定するという職業意識から故意に離れないんですね。

 だから、西尾先生のいろんな「事実の読みかえ」の可能性の指摘、つまりコロンブスやジンギスカンの例のようなことの指摘が、「正しい意味」をもっていると信じている秦さんからすると全部、陰謀史観にみえてしまうのです。そして、暗に、西尾先生に対して、「それはヨーロッパ哲学の専門家の西尾先生の意見でしょう」といいたげです。昭和史の歴史的事実の解釈については、お二人の応酬にあるように、それぞれいろんな捉え方ができるでしょうし、秦さんの事実認定のすべてがおかしいわけではないし、西尾先生の事実認定に対しても反論の余地がありうると思います。しかし、そんなことは本当はどうでもいいのではないでしょうか。もっとも大切なことは「歴史に対しての態度」ということで、その根源に触れあったとき、秦さんは「専門家」という「籠城戦」に後退し、西尾先生の攻勢の継続で対談は終わっている、といえます。

  しかし、この「歴史に対しての態度」という根源の触れあいに至っただけでも、他の悪口の言い合いだけの凡庸な対談とまったく違う、強い有意義があったと考えるべきでしょう。それは西尾先生と秦さんが、お互いに和して同ぜずの相互承認で認めあっているからこそ可能だったもの、と思います。

 西尾先生も言われていますけど、こういう秦さんのスタイルだからこそ可能だった秦さんの業績や存在感というものもあるということは公平にみなければならないと思います。最近も秦さんの旧制高校についての著作を読みましたが、秦さんらしく、本当によく調べて書かれた貴重な研究書でした。しかしそういう秦さんらしさが発揮されるのは、この旧制高校の書にあるように、資料と著者の関係が「安定」している場合に限られれるわけですね。

文:N.W(うさねこ)

 二番目の方は渡辺望さんといい、私の若い知友の一人である。知友だからといって格別に私に贔屓して言っているのではない。私と秦さんの両方を公平に見ている。

 渡辺さんはよく勉強し、しかも洞察力のある人である。私が先に言った「歴史は光景だ」は実際メルロ・ポンティから採っていたのである。

 秦さんと彼に基く一番目の人の歴史は19世紀型の歴史である。外枠(パラダイム)が安定していた時代の歴史主義の歴史で、実証らしいことができるのはそういうときの歴史に限られる。

 しかも秦さんの歴史意識は日本の軍部は悪者だとつねに決め付けている敗戦国文化に色どられている。だから実証的にしているつもりでも、実証にならない。立場の違う人には逆の意味に読まれてしまうからである。

 この点で次にとり上げる三番目の人は、歴史と政治の関係をしっかり踏まえて、秦さんの実証が成り立ったケースと成り立たないケースとの両方があることを見て、これを区別して論じている。以下を読めば、歴史と政治の関係をみないならば、彼のことばでいえば木を見るだけで森を見ないならば、どんなに緻密な実証も見当外れに終ることがはっきり分るであろう。

えんだんじの歴史街道ろ時事海外評論より

西尾幹二氏 対 秦郁彦氏

雑誌「諸君」4月号で両氏が田母神論文で激突対談を行っています。私はこの両者の対談を興味深く読ませていただきました。西尾幹二氏と私の大東亜戦争史観はほとんど同じです。ところ秦氏の戦争史観が、私にはいま一つわからないとことがありました。特に秦氏が田母神論文批判の先鋒になったからです。

秦氏は、いまはやりの歴史捏造、歪曲の朝日新聞や左翼知識人とは異なり、現在の日本国家に貢献する非常に良い仕事もしておられます。秦氏最大の貢献は、「従軍慰安婦」事件の調査です。「従軍慰安婦」事件の始まりは、元山口県労務報国会下関支部動因部長を自称する吉田清治が、1982年に「私の戦争犯罪――朝鮮人強制連行」という本を出版した時からです。

吉田は何回も韓国へ行き、謝罪したり、土下座したり、慰安婦の碑をたてたりしています。テレビにも日韓両国で出演、朝日新聞は吉田を英雄のように扱い、何度も新聞紙上に大きくとりあげて報道しました。この本の翻訳文が日本人弁護士によって国連人権委員会に証拠として提出されました。また教科書裁判で名を馳せた故家永三郎などが、自分の著作にこの本を参考文献として利用しています。

この本の内容に疑問をもった秦氏は、1992年済州島にわたり裏付け調査をし、吉田の本の内容がでたらめであることがわかりそれを公表しました。吉田はそれを認める発言をしたため、あれほど新聞紙上に何回も登場させていた朝日新聞は、それ以来ぴたりと吉田を登場させず、吉田を語らなくなりました。吉田は、メディアにも登場しなくなりました。秦氏は日本国家の名誉を救ったのです。

秦氏は、沖縄の集団自決問題でも、集団自決の原典ともいうべき沖縄タイムス社の「鉄の暴風」を批判、その「鉄の暴風」を基に書かれた大江健三郎の「沖縄ノート」を批判、秦氏自身も集団自決を否定しています。

その他、秦氏は教科書裁判で名前をうった故家永三郎がまだ生存中現役で活躍していたころの家永を批判していますし、また朝日新聞を反日新聞と批判しています。その秦氏が田母神論文を一刀両断のもとに斬り捨てているのです。だからこそ私は、秦氏が西尾氏にどのような主張をするのか非常に興味があった。

雑誌「諸君」に語られている秦氏の主張をいくつか挙げてみます。
1.東京裁判は、マイナスの面があったが、プラスの面もあった。比較的寛大であった。
その証拠に日本国民の反発がなかった。
2.コミンテルンの陰謀はなかった。
3.ルーズベルトが日本を戦争に追い込んだという陰謀説は成り立たない。
4.ルーズベルト政権の中国援助は、国際政治の駆け引きにすぎない。
5.日本はナチスという「悪魔」の片割れだった。

こういう彼の主張を読んでいると、私はただ驚くばかりです。なぜなら秦氏は、昭和の歴史を細部までよく知っているからです。彼の著書に菊池寛賞を受賞した「昭和史の謎を追う」上下巻(文芸春秋社)があります。上下巻とはいえ、一頁を上段下段に分け細かい字でびっしり書かれています。実質的には一巻から四巻に匹敵する大作です。なにを書いているかと言えば、昭和で話題になった37件の事件を詳細に調べあげて書いています。秦氏の作品は、綿密に調べあげて書くので定評があります。

要するに私が主張したいのは、秦氏のように歴史の細部を知っているからといって、必ずしも歴史観が正しいとは言えないということです。俗にいわれる「木を見て森を見ず」なのです。なぜこういう現象が起きるのかその理由を西尾氏の意見と重複するところもありますが三つあげます。

1.大東亜戦争を昭和史の中で理解しようするからです。そのため自ずと日本国内の動きだけを追いかけ日本批判に陥ってしまうのです。大東亜戦争は幕末の時代から追っていかないと本質をつかめません。

2.私は、60年以上前に起きた大東亜戦争を現在の価値観で裁くなといつも主張しています。西尾幹二氏も本誌で「現在の目で過去を見る専門家の視野では、正しい歴史は見えない」、また「歴史とは過去の事実を知ることではなく、過去の事実について過去の人がどう考えていたかを知るのが歴史だ」とも書いています。全く同感です。

皆さんは特攻隊員の遺書を読んだことがあるでしょう。彼らの遺書を読むと、特攻隊員に共通の認識が理解できます。彼らの共通の認識とは何か。それは大東亜戦争を自衛の戦争と考えていたことです。だからこそ特攻隊に志願したりするのです。自分の死に大義名分があるのです。彼らは、自分の家族や恋人に遺書をのこしましたが、自分の死に対する不満やぐちを書いていたものがありましたか。

もし大東亜戦争が、侵略戦争であるというのが彼らの共通の認識でしたら、特攻隊に志願するでしょうか、家族や恋人への遺書には、自分の死に対する不満や愚痴だらけになっていたのではないでしょうか。

3.大東亜戦争は、日本史上国内で戦われた合戦とは大違いです。異民族、すなわち白人との戦いです。その白人は、コロンブスがアメリカ大陸発見以来500年間、すなわち20世紀まで有色人種の国家を侵略し続け植民地にしてきた。そのため大東亜戦勃発時、有色人種の国で独立を保っていたのは、日本以外の独立国はタイやエチオピアなどほんのわずかです。従って大東亜戦争は、世界史というわくの中で理解しなければなりません。また敵国民族は白人ですから、白人の文化とか白人の精神構造とかいわゆる白人の民族性まで考慮して大東亜戦争というものを捉えていかないと大東亜戦争を理解できないのです。

秦氏の歴史観の欠陥は、大東亜戦争を世界史の中で全く捉えようとしないことです。だから戦争前からアメリカが日本にいだいていた悪意を全く理解できないのだ。また秦氏は、精神的にナイーブな面もあるのでしょう。裁判所は悪人を裁く所という解釈だけしか理解できないのではないか。勝利国が自己を正当化するために裁判を利用するなどという考えは、秦氏には想像できないのではないか。

秦氏は、西尾氏の面前で田母神氏についてこう語っています。「一部の人々のあいだで、田母神氏が英雄扱いされているのは、論文自体ではなく、恐らく彼のお笑いタレント的な要素が受けたからでしょう。本人も『笑いをとる』の心がけている」と語っています。すかさず西尾氏から「田母神さんを侮辱するのはやめていただきたい」と注意されています。

秦氏は、なぜ田母神氏が多くの人に熱狂的に支持されているかその背景がまったく理解できていません。田母神氏を侮辱することは、彼を支持する私たちを侮辱するのと同じです。私は怒りを感じます。「秦さん、あなたは私の著書、『大東亜戦争は、アメリカが悪い』を読んで勉強しなおしてください。

本誌でも西尾氏が指摘していますが、中西輝政氏が三冊の名著をあげています。その一冊にJ・トーランド「真珠湾攻撃」があります。この翻訳本(文芸春秋社)の246頁にマーシャル参謀総長は、「アメリカ軍人は、日米開戦前、すでにフライング・タイガース社の社員に偽装して中国に行き、戦闘行動に従軍していた」と公言しています。ところが秦氏は、本誌で「この時期フライング・タイガースはまだビルマで訓練していて、真珠湾攻撃の二週間後に日本空軍と初めて空戦したんです」と語っています。

マーシャル参謀総長の発言、「戦闘行動に従軍していた」という意味は、なにも秦氏が主張する日米空軍機どうしの実際の空中戦にかぎらず、シナ事変中米軍機が輸送活動に従事していたら日米開戦前に米軍は参戦していたことになりませんか。

最後に西尾氏と秦氏の人物像をとりあげてみます。1960年代、日米安保騒動華やかなりし頃、日本の多くの知識人は、ほとんど我も我もと言った感じで、反米親ソ派と自虐史観派になりました。そのころでさえ西尾氏(20代)の歴史観は、現在となにも変わっておりません。皆さんは知識人の定義とはなにかと問われれば、なんと答えますか。私の答えは、知識人とは時勢、時流、権威、権力に媚びないことです。日本には時勢、時流、権威、権力に媚びる人知識人が多すぎます。従って日本には真の知識人と呼ばれる知識人が非常に少ない。西尾幹二氏は、その少ない真の知識人の一人です。

秦郁彦氏が、日米安保騒動時代どういう態度をとったのか私は知りません。彼の経歴を見ると、国際認識というか国際感覚というものに鈍感どころか鋭敏であってもおかしくありません。それにしても大東亜戦争を世界史の中で捉えるということが全然理解できていません。全くの自虐史観です。しかし彼は歴史の細部、「従軍慰安婦」事件や沖縄の集団自決などでは反マスコミです。ここでもし秦氏が、自虐史観を改めたら、マスコミに相手にされなくなってしまいます。

マスコミは、自分たちの日頃の歴史捏造や歪曲に批判する秦氏が自虐史観を主張するので余計彼を利用する価値があるのではないでしょうか。従って歴史観に関することには、積極的に秦氏を利用しているように見受けします。秦氏は、ひょっとしてマスコミ受けをねらった器用な生き方をしているのではないでしょうか。

文:えんだんじの歴史街道と時事海外評論より

 この文章を書いた人は鈴木敏明さんといい、幾冊も著作のある私の知友である。知友だから私を応援している、という文章ではない。人間はそんな風には決して生きていないのである。ご自身の価値観に関わる問題だから一生懸命書くのである。

 とくにインターネットに書く場合には、頼まれて書くのではないのだから、無私である。私もこれを書いたのは誰かはじめのうちは分らなかった。

 一番目の人が私に対し「歴史を論ずるということ自体を根本から分っていない」とか「歴史でないなにかを論じようとしている」と決めつけていたときの「歴史」が非常に狭い、固定した一つの小さなドグマ、特定の観念にすぎないことがお分りいただけたであろう。

非公開:『諸君!』4月号論戦余波(二)

 もうネットサーフィンはしないと書いたが、『諸君!』4月号論争についてこういう掲示があったと教えてくれる人がいたので、ご紹介する。

 最初の松永太郎氏は、私がもち出した英文の本などに詳しい方のようで、いまさらもう何年もたつ古い本を持ち出すとは何ごとだ、「情けなくなる」と私は叱られたが、まあそう言われても仕方がない。ただ詳しい方面の関係者には余りに自明なこれらの本さえ秦さんはひとつも目を通していなかった。そして、そんな文献は全部無価値で、歴史家にとっては検討に値しない本だと乱暴なものの言い方をしたのである。松永さんはこのことも分ってくれたようでありがたい。

西尾vs 秦 論争 呆れた「諸君」4月号、秦郁彦氏の発言  by 松永太郎  @甦れ美しい日本  
2009年3月6日 NO.277号

月刊誌「諸君」4月号に「 田母神俊雄=真贋論争」を決着する、捨て身の問題提起か、ただの目立ちたがりか、などと題して、歴史家の秦郁彦氏と西尾幹二氏の対談が掲載されている。

ちなみに、この対談で、西尾幹二氏が紹介されている、ニコルソン・ベイカーの「ヒューマン・スモーク」、ジェラルド・シェクターの「聖なる秘密」や「ヴェノナ」関係の本は、すべて、筆者が、すでにこのメールマガジンで、ご紹介ずみの本ばかりである。

 ヴェノナ文書といわれるものが、公開され、それを基にした歴史書が何冊も英米で発表されるようになって、もう何年もたつ。それなのに、今さらのように、それをもとにして「論争」が行われ、「陰謀論だ」「いや、そうでない」などという話が言論誌で展開されるのを見ると、今の日本の現状を鏡に映しているような気がして、興味深い、と同時に情けなくなる。

 それにしても、この「諸君」の対談のタイトルは、節度がない。この対談でも、次のような問答がある。

 秦 こういうものは日米関係にもけっしてよい影響は与えません。一部の人々の間で、田母神氏が英雄扱いされているのは、おそらく彼のお笑いタレント的要素が受けたからでしょう。本人も「笑いを取る」のを心がけていると語っています。

 これに対して、西尾氏は、

  日米関係に悪影響云々は政治家が言うべき言葉で歴史家の言葉ではありません。田母神さんを侮辱するのは、やめていただきたい。軍人には名誉が大事なのです。

 と答えているのは、当然のことながら、さすがである。軍人を侮蔑したり、軽蔑したりする「インテリ」の悪い癖は、そろそろやめたほうがよい。

それにしても、秦氏が「日米関係に悪影響云々」を言うのは、本音が表れた、というべきであろう。もって東京裁判史観を叩き込んだ占領軍の洗脳工作の怖さが伺える。アメリカの歴史家の間では、ほとんど常識と化している「ルーズヴェルトは日本を戦争に追い込んだ」という説を言うことさえ、日本の現代史家は、恐ろしくて、いえないのである(「日米関係に悪影響があるから」)。

 それにしても、この対談における秦氏の無知にはあきれかえる。彼は、最初にあげたような本はぜんぜん読んでいない(自分で言っている)。いないまま、ホワイトがソヴィエトの工作員であった(コードネームさえ付いている)、という事実を、平清盛がペルシア人だったという説と同じような荒唐無稽な説としているのである。これでは話にならない。これらの本は、すでに少なくともアメリカでは歴史家の評価も確立しているのである。それともまだ翻訳されていないし、誰も読んでいないから、何を言っても大丈夫だと思っているのだろうか。

 権威主義的な学者や評論家は、都合が悪くなると、相手を陰謀論と決め付ける。しかしルーズヴェルト政権が、日本を締め上げて戦争に追い込んだ、というのは、陰謀論ではない。では、ルーズヴェルト政権は日本との平和を望み、最後まで、和平交渉に全力であたっていたのであろうか。そんなことはないことは、「ハル・ノート」を見れば、すぐにわかる。そして、その原案を書いたのはハリー・デクスター・ホワイトであり、彼は、ソ連の工作員だったのである。

 まだ言いたいことはたくさんあるが、とりあえずの感想を書いておきたい。
  文:松永太郎

次は佐藤守氏のブログである。佐藤さんには『諸君!』3月号の拙論もあったことをお知らせしておきたい。

西尾vs 秦 論争 似非保守派学者に「諸君」は食いつぶされた  「子供達を戦場に連れて行く?」   @軍事評論家=佐藤守のブログ日記  から
2009-03-04 

同時に言論界にも面白い現象がおきている。

 保守派総合雑誌の「諸君」が休刊になったのである。文芸春秋社の目玉の一つで、「紳士淑女」欄は私の愛読していたもので残念だが、昨年末、それも田母神“事件”以降、「諸君」に登場する「保守派物書き」が、田母神氏を批判する度に「一般書店での売れ残り」が目立っていたから、私はこのことを感じていた。

 つまり、「諸君」が重用していた保守派物書きや歴史学者などの「正体」がばれ、読者が何と無く「胡散臭いもの」を感じたからであろう。同誌の「休刊」は残念だったから、昨日一冊購入したが、これには「西尾幹二氏と秦郁彦氏」の撃論が出ていて、二人を良く知る私としては興味津々である。

 明らかに西尾氏の“勝ち”だが、こんな似非保守派学者に「諸君」は食いつぶされたのだと感じる。勿論、それを見抜けなかった編集者の目も問題だが。

文:佐藤守

テレビ討論会「路の会」特集

 3月11日に日本文化チャンネル桜に「路の会」の6人のメンバーが参加して、「日本と中国―その過去・現在・未来」と題した討論を行った。私はテレビで「路の会」特集をやるから出ないかといわれて、2月28日の会合の席に諮って、出席可能なメンバーをきめた。

 黄文雄、北村良和、高山正之、杉原志啓、桶泉克夫、西村幸祐、石 平、西尾幹二、そして司会は水島総というメンバーである。このうち黄、北村、桶泉、石の四氏は中国論者であり、徹底的に中国を分析・解明・論究してきた人々である。しかも仲間うちで気心が知れていて、遠慮がない。だからじつに面白い討論になった。

 例えば、中国が経済的に破綻したならばかえって政権は国内を統治し易くなるといったのは、黄氏であり、これに真向から反対し、政権は国内を統治できなくなって、外に向かって攻撃的になりむしろ危険だと言ったのは石氏である。

 黄氏は今までの歴史からみて、全土に飢えと破滅が広がれば中国人は共食いし、穏和しく静かになって、外国からは扱い易くなる、と言った。しかしそれは昔の鎖国可能な時代の中国のことだろう。国が開かれ、海外に人が溢れ出し、ネットや携帯を知った今の中国人はそうは行くまい。国内の破局はいったん外に向かうと爆発となって危険だと石氏は言った。

 しかしここからがユニークな展開である。黄氏が共食いと言ったのは比喩的な意味ではなく、「食人」(人肉を食うこと)の意味である。氏はこのことを証すため中国語で著した『中国食人史』という自著を席上に持ってこられた。日本語の翻訳はまだないそうだ。

 石氏が外に向かう爆発といったのも比喩的な意味ではなく、日本に向かって憎悪の限りを叩きつけようと軍事的に襲いかかってくる、という意味である。標的は日本以外にない。日本だけが彼らの感情の始末をつける唯一の相手である。そのように教育されているし、他の可能性は考えられない、という恐ろしい話である。

 そのほかにも、数限りないほど耳をそば立たせるテーマが論じられた。「路の会」の会合で歯に衣を着せずいつもやり合っているメンバーの本音が語られている。ことに録画が始まってから30分ほど経って、第二段階になったあたりから、熱気を帯びてきたと記憶している。どこからだとは今はっきりは言えない。

お見逃しないようお勧めする。
時間帯は以下のとおり。

日本文化チャンネル桜(スカパー!216チャンネル・インターネット放送So-TV http://www.so-tv.jp/)

3月12日 19:30~20:30
3月13日 19:00~20:30

非公開:『諸君!』4月号論戦余波(一)

 昔は論壇時評というのが各新聞にあった。否、今もあるのかもしれないが誰も読まなくなった。昔も一般読者はあまり読まず、論壇時評を読むのはその月に論文を書いた執筆者とそれを担当した編集者だけだと言われたものだった。

 しかし今ではその人たちも読まなくなった。新聞ごとの政治偏向が著しく、信頼性を失っているからである。あるいは、毒にも薬にもならない中性的な論文ばかりが取り上げられる傾向が強く、論壇時評つまり評論の評判記は、すっかり影が薄くなった。

 オピニオンの多様性といえば聞こえがいいが、本当のことを発信しなくなった今の大手のマスコミ、新聞やテレビが大半の意味を失っていることにも比例している現象で、オピニオンが相互に噛み合わない情勢、人間同士の相互の深い無関心の現実を反映しているといえるだろう。

 その代わり評判記は匿名のインターネットに移ったようだ。実名を出しているものもある。訳のわからぬ見当外れの論もあるが、本当のこと、自分にとって大切なことを言おうとする真剣さは少くともある。『諸君!』4月号の秦郁彦氏との論争に関しては、私への批判も含め、賛否両論の渦をなしている。

 ネットサーフィンというのだそうだが、そのうちから拾ってみる。最初は私への批判の含みがある例だ。

 『諸君』の今月号「『田母神俊雄=真贋論争』を決着する」がすこぶるおもしろい。現代史家の秦郁彦氏と評論家の西尾幹二氏が田母神論文をめぐって丁々発止。久しぶりに、対談の面白さを堪能できる読み物だ。西尾氏は「自虐史観」派、秦氏は「日本軍部による侵略戦争」派で、考えは正反対といってもいいだろう。

 田母神論文は都合のいいところをつぎはぎしたものだとする秦氏に、そんなことはないと反論する西尾氏。読む限りは、秦氏に「西尾さん、自分の領分に帰りなさい」と諭される西尾氏に分が悪い。こうした考えに、『諸君』という雑誌で、面と向かって反論した秦氏の気迫を感じた。最後の二人の言葉に、この国の進む道に対する考え方の違いがよく出ている。

「秦 (中略)しかし、これからの日本は世界の覇権争いに首を突っ込むのではなく、石橋湛山流の小日本主義の道を行くという手もあると思いますけどね。博打は打たないで、大英帝国のように、能う限り衰亡を遅らせていくというのは立派な国家戦略だと思います。

西尾 私はちがうと思う。アメリカなき世界における国家間のサバイバルゲームは過酷なものになるでしょう。ナンバーワンを目指す確固たる意思を持たないかぎり、オンリーワンにもなれないんです。国家の生存すら維持できない。世界は覇権主義が角逐する修羅場です。その激しさに翻弄されず、日本が生き延びていくための第一歩が東京裁判史観や自虐国家観からの脱却であると私は信じます。」

 もちろん私は、秦氏に共感を覚える

元木昌彦のマスコミ業界回遊日誌3月3日(火)より一部引用)

 執筆者の元木昌彦氏は元『週刊現代』の編集長で、『現代』にもいた。もう定年退社している。年末に私は新宿のバーでお目にかかっている。

 偶然隣り合わせに坐り、知り合いの講談社の知友の噂ばなしなどをした。私が昨年『諸君!』12月号に書いた「雑誌ジャーナリズムよ、衰退の根源を直視せよ」を大変に面白いと言っていた。

 人間はみな心の中にどんな「鬼」を抱えて生きているのか分らない。老齢になるとことにそうである。また、若いときに一度刷り込まれた物の考え方は、どんなことがあっても消えることはないようである。

 次は匿名で、ブログの名は書道家の日々つれずれ

西尾幹二氏、秦郁彦氏の偽善「歴史家」の素性を看破する
雑誌「諸君」4月号に「田母神俊雄=真贋論争」を決着する / 秦 郁彦 西尾幹 」と言う特集があった。
このページはなんと4ページ分まで「諸君」4月号のHPに掲載されている。

ここで、秦氏は田母神氏の論文の「ルーズベルト陰謀説」について一笑に付している。

それに対して、西尾氏は状況証拠を突きつけて行くのだが、秦氏は「開戦をあと1か月延期すれば、フリーハンドの日本はどんな選択もできたし、当分は日米不戦ですんだかもしれません。」という。
この歴史上のifに対して西尾氏は異議を唱えて、「最後にやらなくてもいい原爆投下まで敢行したことを思えば、アメリカの、破壊への衝動というのは猛烈、かつ比類のないものであることがわかります。」と反論する。
この点、秦氏と言うのは歴史から何も学ばないというか、国というものの普遍的な性格というものを何も学んでいないようだ。
なぜなら、その後の米国の政治としての戦争の歴史、そして今批判しているイラク戦争を見てみれば、秦氏のノーテンキさが良く分かると言うものである。
その無神経なノーテンキさが何に由来しているのかと言うことは、西尾氏の追求で次第に明らかになるが、単純に言えば「日本は攻撃的人種」、米国は「平和主義者の聖人」というもの。
正に、洗脳教育の賜が根幹をなしている。
だから、秦氏は「もし日本側、枢軸国が勝っていたら、東京裁判と似たような戦争裁判をやっていたでしょう。あるいは、日本人による恣意的な、人民裁判に近いような形になったかも知れない。」という。
続けて、「東京裁判の最中、これといった日本国民の反発は見られませんでした。」と言ってしまう。
西尾氏は、「日本人の方が不公正なことをすると決めつけるのはどうしてですか。」と反論するも反論記載はない。
秦氏と言うのは、歴史上の事実であっても自分の都合の悪いことは黙殺するという傾向があるようである。
なぜなら、東京裁判中の世論の反発がなかったというのは厳重な「言論統制」によるもので、特に東京裁判と憲法問題に関しては厳重に行われたことは教科書にも載っていたことである。
そして、それに反すれば学者と言えども更迭され、それが恐ろしくて憲法擁護の日本国憲法論や歴史学が構成され、戦後60年も経っても継承されてきたのは明らかだ。
そんなことを歴史家である秦氏が知らないはずはない。無視するのは都合が悪いからである。
同じように都合が悪いのは、日英同盟が結ばれた経緯だろう。
なぜなら、北京の55日で有名な義和団事件で各国軍隊、海兵隊が北京に進軍するが、進軍する時の略奪が酷い。
特に酷かったのがロシア軍で、軍隊が間に合わなかった。
その中で、略奪一つなく速やかに進軍して当然一番早く北京に到着したのが日本軍であった。その規律正しい日本軍の態度が日英同盟の基本にあった。

次に、西尾氏は、「ヴエノナ文書」による米国政府の内部に浸透した「コミンテルン」に言及するが、秦氏は「「ヴエノナ文書‥‥決定的な証拠は何もないのです。」と又言い切ってしまう。
そして、状況証拠を突きつけられると「歴史学の専門的見地からいえば‥‥‥ほとんど価値がない‥‥」と逃げる。
西尾氏は、「その歴史学的見地というものを私は信用していない」と反論する。
そして、「張作霖爆殺事件」について言及して関東軍特務機関河本大作大佐が真犯人だとはわかっていないという。
ところが、秦氏は「河本大作大佐が何者であるか、隅々までわかっていますよ。」と又断定する。
ここまで来ると、秦氏と言うのは歴史分析というものにダブルスタンダードを使っていることがわかる。
なぜなら、河本大作大佐が「張作霖爆殺事件」の犯人であるとは、本人が言っている訳でもなく、そうではないかという憶測だからだ。
この「張作霖爆殺事件」と言うものは、「満洲某重大事件」とか「張霖某事件」とか実際は呼ばれて、昭和40年代前半に何回もNHKで検証ドラマが行われた。
そして、初めはNHKでも張霖某重大事件の首謀者は不明とナレーションがあり、その後には関東軍特務機関の仕業と噂されているになり、最近では河本大作大佐の仕業と言い切っている。
簡単に言えば、東京オリンピック以降とはいえ「張作霖爆殺事件」当時の状況をよく知っている人達が生きているときは従来からの見解を踏襲しているのである。
又、「関東軍特務機関河本大作大佐真犯人説」は東京裁判から後の話である。そして、今現在に至っても真犯人は不明な事件であるはずだ。
それを「河本大作大佐が真犯人」と言い切ってしまうというのは、語るに落ちたとは秦氏のことだろうと言うことがわかる。
そして、この秦氏と言うのは、以下のようなきれい事を言って自己を正当化する偽善者であることが分かる。
「プロの歴史研究者は、史実として認定できないものは全て切り捨てて、取り得えず棚上げにしておきます。」
ここからは、西尾氏も腹を立てたようで‥‥
歴史に「善悪の判断」をしているとか、歴史の悪いところばかりを取り上げて、良い部分を無視するとか、‥‥ととどめを刺す。
後は、秦氏が全面逃げを打って、聞く耳持たずのいわゆる「戦後歴史観」の言いっぱなし。

結局、秦氏の馬脚が全部ばれてしまった顛末。
全くお粗末な秦氏でした。
書道家の日々つれずれ より)

 匿名なのでどういう方か分らないが、トータルとしての理解の仕方をありがたく思いつつ読んだ。ここはもう一寸強調して欲しいとか、別の面にも触れてほしいとか、いろいろあったが、それを言い出せばバチが当る。「鬼」の多い世界で「仏」に出会えてあらためて感謝申し上げる。

 ただ、秦郁彦さんのためにあえてひと言弁明してあげておきたい。彼は張作霖爆殺事件については緻密な研究論文を書いている。私は抜刷りを一冊もらった。彼らしいしつこい実証論文である。

 だが、その実証論文には外国の文献への言及がない。外国の研究を視野に入れていない。もうそれだけで「実証」にはならないのである。私はそういうことが言いたかったのである。

 なにしろ爆殺事件は外国で起こった出来事である。日本は外国と戦争したのである。外国が何をしていたかを考えないで日本の国内だけ詳しく掘り起こしても「実証」にはならない。

 日本の近代史について確定的なことはまだ何も言えず、国民的に納得のいく20世紀日本の全体像が生まれるのは50-100年かゝるだろう。

お知らせ

日本文化チャンネル桜出演(スカパー!216チャンネル・インターネット放送So-TV(http://www.so-tv.jp/)

タイトル  :「闘論!倒論!討論!2008 日本よ、今...」
テーマ   :路の会スペシャル「日本と中国―その過去・現在・未来」
放送予定日 :前半 平成21年3月12日(木曜日)19:30~20:30
       後半 平成21年3月13日(金曜日)19:00~20:30
       
パネリスト:(50音順敬称略)
      北村良和(愛知教育大学名誉教授・中国哲学)
      黄文雄(作家・評論家)
      石 平(評論家)
      杉原志啓(音楽評論家・学習院女子大学講師)
西尾幹二(評論家)
      西村幸祐(ジャーナリスト)
      樋泉克夫(愛知県立大学教授)

司会:水島総(日本文化チャンネル桜 代表)

非公開:4月号の『WiLL』と『諸君!』(三)

 今日は個人的感情を隠していない「応援歌」のような二人の友人のメールをご紹介する。こういうのを頂くのも有難いし、うれしい。

 その前に冒頭に出てくる『諸君!』の廃刊については、ただただ驚いているだけだということをお伝えし、後で感想を述べる。最初のメールレターの主は元『逓信協会雑誌』編集長の池田俊二さん、私の『人生の深淵について』の生みの親であり、洋泉社親書の『自由と宿命・西尾幹二との対話』の相手をして下さった方だ。旧友の一人といっていい。

 『諸君!』(近く廢刊になるさうですね)での對論についての、尾方美明さんと足立誠之さんの感想、實にいい點を突いてゐますね。
秦といふ人については、尾方さんのおつしやる「愛情が決定的に不足」が全てでせう。何故さうなるのか、私からすれば、單なるバカだからとしか言ひやうがありません。

足立さんの「秦氏は木っ端微塵に碎けた」にも、完全に同感です。まともな眼で見れば、それ以外に評しやうがないでせう。しかし、本人も、多くのジャーナリズムも「碎けた」とは感じないのではないでせうか。そして、今後もイケシャーシャーと、「西尾さん、本來の持ち場にお歸りなさい」などと言ひ續けるのではないでせうか。

先生が「相手として戰はなければならない今の時代の典型的な『進歩的文化人』」5人の一人として、秦氏を擧げられる所以でもありませう。

「今の時代」にあつては、連中と「戰ふ」ことが、先生の責務とされるのでせう。それは否定出來ません。しかし、私としてはまことに悲しい。最高の知性が、あのやうなゴミを相手にせざるを得ないとは! ゴミは我々大衆が處分すべきです。そして、先生は『江戸のダイナミズム』のやうな、ゴミとはかかはらないお仕事に專念されることを願つてきましたが、大衆がかくも怠惰・魯鈍では、さうは問屋が卸しませんね。

「後世に遺る」といふことが、私の念頭にありますが、一方、少しでも時代の要請に應へる――時の風潮を匡す――ことも大切ですから。「朝まで生テレビ」にお出にならざるを得ないのと同じことですね。

まあ、この世も、人生も思ひどほりにはゆかないものですね。折角御健鬪を祈り上げるのみです。

 ありがたい「応援歌」でもあるが、大切なことを要請されてもいるのである。『ツァラトゥストラ』に「市場の蠅」という一節がある。

 市場においてだけ人は「賛成」とか「反対」とかの問いに襲われるのだ。市場と名声とを離れたところで、すべての偉大なものは生(お)い立つ。

 およそ深い泉の体験は、徐々に成熟する。何が己れの深い底に落ちてきたかがわかるまでには、深い泉は長い間待たねばならぬ。

 逃れよ、私の友よ、君の孤独の中へ。私は君が毒する蠅どもの群れに刺されているのを見る。逃れよ、強壮な風の吹くところへ。

 君は小っぽけな者たち、惨めな者たちの、余りに近くに生きていた。目に見えぬ彼らからの復讐から逃れよ。君に対して彼らは復讐心以外の何者でもないのだ。

 彼らに向かって、もはや腕をあげるな。彼らの数は限りがない。蠅たたきになることは君の運命ではない。

 池田さんは私に「蠅たたきになるな」と言って下さっているのである。肝に銘じたい。

 『諸君!』編集長の内田さんは私の『江戸のダイナミズム』を総力を挙げて編纂し、出版してくださった担当編集者である。二年前『諸君!』のチーフになったとき、私たちは私の仕事について相談し、私はなんらかの形での十八世紀論を連載することを彼に提案し、了承されていた。しかししばらくは現代との格闘をして欲しい、とも彼は言って、その間に準備を進めることになっていた。

 私の準備は遅れがちであるが、今でもこの計画を変えていない。『江戸のダイナミズム』は言語論、宗教論だったので、今度は十八世紀の中国と西欧に対する江戸の政治論、外交論を書きたいのである。私の「鎖国論」でもある。

 西欧にではなく中国に対する「鎖国」が問題の中心であったことを今までの人は見ていない。また、大東亜戦争につながるイギリス、フランス、オランダ、ロシアのアジア侵略は江戸時代に完了していた。江戸の研究家は江戸文化にばかり目が向いて、中国と西欧に対する当時の日本の静かな対応、拒絶と憧憬のもつ意味を見ない。

 私はデッサンだけしか書けないかもしれない。書きたいのは、十八世紀の西欧の成熟した文化は江戸の文化と呼応していて、日本人は中国文化とは江戸を通じてどんどん距離が出来ていたということなのだ。清朝時代の中国は秩序というものを知らない。

 それが明治以後に複雑に波動している。大東亜戦争の由来も、そしてその積極的意義も、ここから考えなければいけない。

 しかし、残念ながら『諸君!』の廃刊は私のこの仕事の連載を不可能にした。私にとっては打撃である。内田さんも恐らく残念に思っているだろう。三日前に私にかけてきた報告の電話の声は興奮していた。

 私の上記の企てを引き受けてくれる雑誌は当分の間見つかりそうもない。昔は文芸誌『新潮』が対応してくれたものである。今の文芸雑誌はさま変わりしている。

 大型の充実した連載が可能な雑誌は見当たらない。それが簡単に見つからない情勢だから、雑誌の廃刊が相次ぐのである。今の時代の文化が重い荷物を担うことができなくなったためである。左傾とか右傾とかいう話ではない。文化のパワーの衰弱の結果に外ならない。

 さて、もう一人の「応援歌」はパリのFさんが寄せてきた次のメールレターである。当「日録」がコメント欄を開いていた当時、たくさん書き込んで下さった方である。『諸君!』3月号論文に向けて書かれている。

西尾幹二先生

ご無沙汰いたしております。

お元気でいらっしゃいますか。

先生の日録は精力的で、毎日クリックする楽しみがあります。
お忙しい中、次から次書いておられる勢いに、なんかこう、若さを先生から感じます。諸君の3月号『米国覇権と「東京裁判史観」が崩れ去るとき』を拝読いたしました。

先生はとても大事な難しい事柄を、主婦の私にも何とか理解できる文章で表現されることに、真贋の真を感じます。次を待ちたい気持ちになります。

市販本「新しい歴史教科書」が発売されてすぐに買ったつもりが、2001年6月10日の第1刷発行より10日遅い2刷発行でした。

6~7ページの『「歴史を学ぶとは」・・・・過去の事実について、過去の人がどう考えていたかを学ぶことなのである。・・・歴史によって、それぞれ異なって当然かもしれない。国の数だけ歴史があっても、少しも不思議ではないのかもしれない。個人によっても、時代によっても、歴史は動き、一定ではない。しかしそうなると、気持ちが落ち着かず、不安になるだろう。だが、だからこそ歴史を学ぶのだともいえる。』を読み、歴史というものを年代暗記ではなく、物語として捉える楽しみがあるのだと。

私もこんな教科書で学びたかったと思いました。

昔この教科書に出会っていたならもっと歴史を勉強したかもしれないと、ないものねだりの自分がありました。

この「歴史を学ぶとは」が現行の教科書では、中学生に難しいということで削られたということですが、大人は子供を見くびっていますね。この言葉がこの教科書のダイヤモンドなのに・・・。 一番いいものを子供に触れさせない大人は、精神の怠け者です。

そしてふっと、山本夏彦氏の言葉も蘇ってきました。故人とも旧知の仲になれると読書の醍醐味を語っていました。小説の作家やその本の中に出てくる人々とも友に似たものになれると。

先生が論文で挙げておられる歴史家の先生方は、歴史の勉強は沢山したのでしょうが、その時代に生活していた人々を忘れた勉強の仕方だったのではないかしらと。

また、「人生の価値について」の中で、先生が大学生の時の教授のことを書いておられましたが、デパートのような内容の教授には人間的な魅力が感じられなかったということも、なぜか思い出しました。

先生が今なさっておられる「GHQ焚書図書開封」の仕事こそ、歴史家がよだれを出しそうな仕事だと思うのですが、果たして自称昭和史家の彼らはこの仕事に取り組んでいるのでしょうか?

昭和16年12月8日の開戦の報を聞いた、何人かの著名人の言葉を数年前に読んだのですが、先生が書いておられるように「・・・必ずしも不安や恐怖ではなくある説明のつかない安堵感であったといわれています」と同じような内容でした。いまになって、その本をきちんととって置けばよかったと悔やんでいます。

先月法事で日本へ帰国していた友人が、フランスに帰ってきて私への第一声は、「日本のテレビは朝から晩まで、社会面のニュースばかり、それも同じことを取り上げていて、どうして今問題になっているガザのニュースをしないのか?」でした。その頃のフランスの夜8時のテレビのトップニュースは、ガザでした。

また先日フランスで大規模のデモがあり、そのことについて、サルコジ大統領が各局のニュースキャスターや新聞記者の質問に答えるテレビ番組がありました。チャンネルを変えても変えても同じ画面。6チャンネルあるうちの3つのチャンネルが同じ放送をしていました。

フランス人は、大統領の所信演説などの放送はよく見ます。

他人のフィルターを通した解説より、自分の耳で聞きそして自分なりの判断をする。3つのチャンネルがサルコジ大統領の番組を放映したことについて、後日友人にフランス人は政治に関心があるね、日本では考えられないことだと言いますと、サルコジ大統領はテレビ局を手中に収めたから、これも注意していないとね、という鋭い答えが返ってきました。

今年の1月5日から(夜の8時~朝の6時まで)2チャンネルと3チャンネルから宣伝がなくなりました。

テレビの見方の日仏の違いを考えてしまいました。良くも悪くもフランス人にとっては、「レゾンデートル」が一番の関心事なのだろうが、私なりの結論です。

それだけに利己主義、国粋主義の多いこと、うんざりしてしまいますが、私は反面羨ましくも思います。まず自分が大事、自国が大事、フランスが一番、がフランス人の思考です。
これを堂々と言葉に出すフランス人。「レゾンデートル」を思う人間にとっては普通のことだと思うのですが、日本人の私はやはり羨ましい。

フランスの子供はませています。起こった事柄に現実的に判断をするということです。自分のことの責任は自分にあるということを小さい時から躾けられています。フランス人は自分の国は自分たちで護る。国連に自分の国を護ってもらおうとは考えません。ちょっと賢い高校生は、国連は自国の利益になるように使うものだということを大人を見て知っています。ここら辺が、フランスという国のすごいところです。
これも私はとても羨ましい。

つい先日、息子の友人のアメリカ人が遊びに来た時、我が家にある戦争映画(DVD)の話題になり、私は「これらは日本人を悪者に描いてあるから見たくない」というと、彼は解説の制作年、1943年、44年を指差し「よく見て制作年を、まだ終戦前だよ。政府がハリウッドに作らせたプロパガンダ映画なんだよ」と。

それにしても日本人は、沢山の映画をうっかり見てきたのだなぁ、とその時思い知らされました。

先生のお姿を、チャンネル桜の討論会やGHQ焚書図書開封で楽しみにして拝見しています。先生のお仕事で私達日本人に真贋を見分ける眼を与えてください。

どうぞお体大切になさってお元気で過ごしください。
取り留めなく書いてしまいました。お読みいただきありがとうございました。

 パリのご家庭の様子が目に浮かぶようである。帰国された折、東京で一度お目にかかっている。

 今の日本には激変が近づいている。政治の枠組みがガラッと一変するかもしれない。それを見ないようにしているのが新聞・テレビ・出版社の大手マスコミである。パリではそんなことはないと仰っているわけだが、そのことに日本で気がつき、言うべきことを言って警鐘を鳴らすのはだからとても大切な仕事である。けれどもその役を引き受けることは、端的に言って、「市場の蠅たたき」になることに外ならない。

 「彼らに向かって、もはや腕をあげるな。彼らの数は限りがない。蠅たたきになることは君の運命ではない。」という声も、地鳴りのように私の耳には響いているのである。

非公開:4月号の『WiLL』と『諸君!』(二)

 さっそく二人の友人からの反応があった。

 尾形美明さんは論争相手の考え方の抜き書きを作って並べて下さった。

「諸君!」誌上の秦郁彦氏との対談を拝読致しました。

 全面的に西尾先生のご主張に賛同致します。
秦氏には幾ら言ってもダメですね。日本国と日本民族に対する愛情が決定的に欠けています。

・「東京裁判はほどほどのものだった。戦時下の日本は裁判もしなかった」
・「東京裁判にはプラスの面もあった。その証拠に日本国民の反発は無かった」
・「コミンテルンの策謀は無かった」
・「ハリー・ホワイトがソ連の利益のために働いたというのは憶測に過ぎない」
・「ルーズベルトが日本を戦争に追い込んだ、と云うのはおかしい。アメリカにとって日本は片手間の相手だった。開戦を後1ヶ月延期すれば、日本はどんな選択もできた」
・「ルーズベルト政権の中国援助は、国際政治上の駆け引きに過ぎない」
・「世界には、第一次大戦の後に侵略はやめようという国際的合意が出来ていた」
・「日本はナチスと云う”悪魔の片割れ”だった」
・「アジア諸国の日本への感謝は”政治的な含み”に過ぎない」

などなどですが、殆んど信じられないような考えです。どうしたら、このような思考が可能なのでしょうか。共産主義者なら、”革命のため”ということでそれなりに理解できますが。
ご苦労様でした。

尾形拝

 以上を読むと、あらためて論争相手の論の立て方の安易さが分る。当事者である私は気がつかなかった。こう並べてもらって成程と合点のいくところがある。

 次いでお目を悪くしている足立誠之さんが以下のように直に反応して下さった。本当にありがたい。当方も鼓舞される。

西尾幹ニ先生

 本日弟にきてもらい二誌の内容を拝読いたしました。
 いつもながら、新たなお話に目から鱗が落ちる気持ちでおります。

 『WiLL』論文については、極東軍事裁判のそもそもの淵源が第一次世界大戦にまでさかのぼること。アメリカは既に第二次世界大戦に参戦する以前から勝利の暁には人類の名において戦争犯罪裁判の実施準備していたことなど、戦後に行なわれた施策が戦前と一つのセットになっていたことがよく理解されました。これは今日でもアメリカには残っている遣り方であり、今後もそうした流れはつづくのでしょう。こうした全体を理解しない外交や国際 政治、歴史解釈はあり得ない筈です。
 
 『諸君』の秦郁彦氏との対談では、秦氏のレベルの低さに驚きました。もう少しマシな人であると思っていましたが、レベルの低さ、それに嘘まで口にすることに嫌悪感を感じました。 旗色が悪くなると「歴史家である私に任せろ」と論争を回避する。思想も何も無く、 俯瞰図もない秦氏は歴史家ではありません。

 氏は「事実、事実」といいますが、それが事実であるのか否かの判断の基準は歴史の流れの中である視点、思想で検証、評価されるもので、そうした視点、思想を持たない人間は「事実」を「事実」として検証することは出来ないはずです。
 
 これは一般の犯罪裁判でも証拠を結びつけるには論理が必要なことと似ているのではないでしょうか。動機はどうなのか、心理状態はどうなのかなどはある基準があってできるものでしょう。秦氏が思想を否定するならば、歴史の作業など出来ないはずであり、私は秦氏は歴史家ではないと思います。
 
 日本が1941年12月1日に開戦をやめていたら国際政治でフリーハンドを握っていたであろうと言うのは驚くべき発言です。彼は大東亜戦争について何もわかっていないのです。
 
 日本軍が捕虜に対して法務官の判断を下して日本の軍法会議で決めていたら、あとで戦争犯罪で死刑になる日本の軍人はいなかったというのも嘘です。映画にもなりましたが、第13方面軍司令官岡田資中将はこうした軍法会議で米軍捕虜を無差別爆撃という戦争犯罪を犯したとして処刑しましたが、そのために米軍の報復裁判で絞首刑にされています。

 正直な感想ですが、秦氏は木っ端微塵に砕けました。
 
 歴史を「昭和史」とい時間内に限定することが、何を意味するのか、それをご指摘された先生のご慧眼に改めてご敬服もうしあげます。この「昭和史観」は司馬遼太郎氏を始め殆どの日本人が陥っていたアメリカの陥穽であり、渡部昇一氏ですらその影響をうけていたほどですから。
 
 ありがとうございました。
 足立誠之拝

 ここにも述べられている通り、論争相手はあの戦争のすさまじさ、というより戦争そのもののすさまじさを分っていない処がある。考え方が甘いのである。

 細かなことをたくさん知っている方だが、肝心なことが分っていない。学問的にみえるが、学問的ではないのである。実証的といっているが、じつは実証的ではないのである。