非公開:4月号の『WiLL』と『諸君!』(一)

 月が替わってまた4月号の月刊誌の出る時期が来た。以下の通り『WiLL』では評論、『諸君!』では対論を発表した。

 いまこそ「昭和史」と戦おう   『WiLL』

 「田母神俊雄・真贋問題」を決着する   秦郁彦VS西尾幹二『諸君!』

 どちらも歴史がテーマである。第二次大戦をめぐる評価の問題である。いつ果てるともない日本の言論界のいわば永遠のテーマといっていい。

 しかしここへきて、明らかに変化が生じてきた。今まで「保守的」と思われ比較的まとまっていた陣営が戦争観に関して二つに分れだした。すなわちあの戦争を強いられた戦争とみるか、国内の悪の発動とみるか。侵略された側とみるか、侵略した側とみるか。いかんともし難い運命との戦いとみるか、回避しようと思えば回避できた愚かな選択とみるか。戦前・戦中の生死観には特有の幸福の意識があったと考えるか、今も昔も人間の生死観には違いがないと考えるか、等々。・・・・・・

 以前からこの二つの考え方の対立はあったのだが、マルクス主義的左翼と対決している間の思想界はこの二つの価値の相違をあまりはっきりさせないできた。保守の名において大同団結していたからであrう。

 いまアメリカの覇権が終わるのではないかという時代認識――勿論明日どうこうではなく10-20年の時間はかゝるであろうが――少くとも覇権の意味が、その質が変わる潮目の時代に入ってきている。それははっきり言えるであろう。

 このことによって歴史の「枠組み」(パラダイム)も変わるのである。日本人は日清から四つの戦争を武士道の精神で戦ったのではなかっただろうか。英米の金融資本主義とも、ソ連のコミンテルンの教条主義的行動とも、ドイツやイタリアやフランスを襲ったファシズムとも、日本はそのどれとも関係がなく、「心理的」影響を受けはしたが、せいぜい時代のモードとして受け入れただけで、基本は国家の危難に対し武士道の精神をもって起ち上ったのではなかっただろうか。

 今そのことが多くの国民に少しづつ実感されてきて、言論界の歴史観も二つに分れてきたのである。そこへ田母神さんの事件が起こった。丁度いい切っ掛けだったのである。

 『諸君!』3月号の拙論「米国の覇権と東京裁判史観が崩れ去るとき」はこの時代の転換について論説した。『WiLL』4月号の「いまこそ『昭和史』と戦おう」と『諸君!』4月号の秦郁彦氏との対論はこれを承け、さらに思想的に発展させている。

 同時に私たちがこれから相手として戦わなければならない今の時代の典型的な「進歩的文化人」は、半藤一利、保阪正康、北岡伸一、五百旗頭眞、秦郁彦の諸氏であることを、『WiLL』4月号で宣言しておいた。

 4月号のこの両誌の私の発言は、時代の転換に対する一つの里程標になるものと信じて疑わない。

立春以後(三)

 2月14日(土)に黄文雄氏の六時間講演(第二回)があった。テーマは日中戦争史観。――

 ブロックは三つに分れ、「歴史捏造」「日中戦争の背景と史観」「歴史貢献」の三つである。日本に流布している日中戦争史観の完全に正反対の歴史観が確立されている。

 午前10時から昼休みを挟んで午後5時まで講義があった。そのうち1時間は「南京学会東中野修道会長の最新研究講座」であった。臨時の飛び込み講座である。

 黄氏も、東中野氏も生涯を自分の歴史の検証に捧げて見事で、胸を打つ。同時代にこういう人が存在していたことを知るのはわれわれの希有にして貴重な体験である。われわれは見逃してはならないのだ。

 世の中にはもの凄い人間がいるということだ。われわれは歴史の逸話としてそういう人間についてたくさん読んできているが、いざ目の前にいる、同時代人となると、つい見逃してしまう。自分の生きている同じ町に、同じ空気を吸って、同じような物を食べている人間に、偉大な「例外者」がいるということを理解することはなかなか難しいことなのであろう。

 東中野氏は講演中にふと自分の生きているうちに曙光を見るとは思っていないと仰った。若い人の中に後継者がほしい。今日のお集りのようなお年寄りの皆さんではもうダメなのだ(と言って皆を笑わせた)。若い後継者に語り伝えていくための考え方の正確な筋道をいま準備している、と。

 国際法に違反するような南京虐殺はいっさいなかったことを証す昭和12年のあの日に、われわれが正確にもう一度もどること――それが「歴史」である。そのための考え方の筋道をきちんと用意しておきたい。若い人にそれを遺したい。東中野氏のそういうメッセージは痛いほどに私には分った。

 私はご講演の内容をいまかいつまんでここで述べることは控えたい。それは氏のご著書を読んで各自学習していたゞきたい。たゞこの日の氏のお話は諧謔を混じえて確信に満ち、聴講していた旧友のK君がむかし学生時代に聴いた人気教授の講義のようだった、と言った。そのことからも分るように、壇上一杯にチョークを振り翳して動き回る細身の東中野先生が今日はいかに説得的で、颯爽としていたかをお伝えするに留めよう。

 黄文雄氏が同じように「もの凄い人間」のお一人であることはこのブログの「大寒の日々(一)」でもつい先日お伝えしたので、くりかえすことはしない。

 黄氏は年に数冊の本を書きつづけてこられた。中国の古典から現代書まで読みこなしての日本への情報の大量伝達は、われわれの社会の中国研究家の誰ひとりなし得なかった偉業である。その影響は量り知れない。

 そんなにたくさんの本が出せるのは氏の本が売れるからである。そして氏は家が買えるくらいのお金を毎年台湾の独立運動のために献じているらしい。誰にでもできることではない。

 さらに独立運動のために世界中を飛び回っている。氏もまた自分を超えるものの存在を信じ、生涯を捧げている人である。

 来年からは自分のために生きることを少し考えているとふと洩らしていたが、氏も東中野氏と同じように年齢の限界を感じ始めているのであろう。

 この日5時間語ったご講義の内容は大変入り組んで、清朝中国史にも及び、とても簡単に要約することができない。私はノートを取り、録音もした。今日は録音を再聴している余裕がないので、私のノートの中から後先の順不同で、印象にのこった言葉のいくつかを書き記しておこう。(文章の選択は任意で、黄先生にはご迷惑であろう。文責は私にある。)

 

「日中戦争は中国の内戦に対する日本の人道的道義的介入であった。中国のブラックホールに日本は巻き込まれたのである。米英が逃げてしまった後に巻き込まれたのが実情である。」

「清朝の時代は中国史の黄金時代だったが、それでも内乱と疫病は止まなかった。ペストなど人類の疫病の発生源は中国である。」

「自然破壊が清王朝の崩壊の因である。森の消滅、巨大水害と干魃、いなごの害で数千万人単位の餓死者が出た。」

「戦争をしなくても匪賊(強盗団のこと)が跋扈する社会だった。戦争に敗けたら匪賊になり、勝ったら軍閥になる。それが中国である。」

「日本では8万の東軍と7万の西軍が対決した関ヶ原の戦いが史上最大の内戦であるが、人類史上最大の内乱を記録した太平天国の乱は、10-15年もつづき、清朝の当時の人口4億の約10-20%、5000万人-8000万人の死者を出した。そしてひきつづき回教徒を虐殺する乱が起こり、イスラム教徒約4000万人が殺戮された。」

「辛亥革命のあと中華民国になってから以後も内乱は止まず、国民党内部も激しく戦い合い、中国共産党もまた内部で殺し合いの嵐が吹き荒れた。文化大革命も中国史に特有の内乱のひとつにほかならない。日本はこうした内乱の歴史に『過去の一時期』(と日本政府はよく言うが)、たしかにほんの一時期巻き込まれたにすぎないのである。米英はその前にうまく逃げてしまったのだ。」

(この項つづく)

立春以後(二)

 2月12日午後2時少し前に私は旅行用キャリアーバッグ(手で曳いていく大型鞄)に本と書類をいっぱい詰めて、紀尾井町の文藝春秋に車で乗りつけた。

 出迎えてくれた『諸君!』内田編集長が「この後ご旅行の予定ですか。」「そうじゃあありません。今日の討論会用の材料ですよ。」「いやぁー、それはどうも」と、重いバッグを私の手から受け取って、運んでくれた。

 相手はまだ来ていなかった。私は広い卓上に本と書類を山と積み上げた。ほどなく相手は現われた。現代史家の秦郁彦氏である。「私は現代史に専門家が存在することを認めていません。」と『諸君!』3月号に私が書いた、あの専門家のお一人である。

 2時から討論を開始、終ったのは6時だった。私はとことん自前の論理で打ち負かすつもりだったが、相手もさるもの、一生かけてこつこつ「実証歴史学者」としてやって来た人だから、そうそう簡単には倒れない。

 私は本当は保阪正康、北岡伸一、半藤一利の諸氏のほうをはるかに疑問としている。秦さんは気持ちの通じる学者なのだ。以上四氏の中ではいちばん「善意の人」である。それもあって討論は穏やかに始まった。

 前日までに編集長からこんなテーマで討議してくれ、と記した一覧表が届いていた。〔1〕田母神俊雄氏の問題の①論文そのものについて②騒動の性格について③社会的影響について。〔2〕「現代史の専門家は存在し得ない」「フィクションの方が立派な歴史になっている」という西尾の実証的学問への批判について。〔3〕17世紀以来の世界史の流れの中で捉えなければ大東亜戦争の本質は分らないという西尾の主張と「昭和史」の関連について。〔4〕東條英機らA級戦犯に罪を被せ国民がとかく被害者の立場で語る言説への違和感について。・・・・・

 このうち〔1〕の①で私が前回の3月号論文で取り上げていた問題の諸事例、ニコルソン・ベーカー、真珠湾陰謀説、張作霖爆殺へのソ連の関与、ハリー・デクスター・ホワイト=ソ連スパイ説の四つの具体的事例について、私のより詳しい説明と、それに基づく論争を行うことを提示されていた。私が大量の本を机上に積み上げざるを得なかったのはそのせいである。

 〔2〕と〔3〕についてはすでに私が3月号論文で詳細に論じている処でもあり、秦さんの反論がなによりも期待された。〔4〕が内田編集長から特別に持ち出されたところの、二人がまだ扱っていない新しいテーマだった。

 時間の大部分が〔1〕に費やされた。〔2〕と〔3〕については、秦さんが全く理解していないし、理解しようともしないので、水掛け論に終始した。〔4〕については若干の了解が成立した。予想した処でもある。〔2〕と〔3〕については、私は話しているのが嫌になってしまって、もう打ち切りたいと思ったくらいだった。

 それは〔1〕のニコルソン・ベーカーからハリー・デクスター・ホワイトに関して私が大量の知見を披露しても、ご自身勉強もしていないのに謙虚に聞く耳をお持ちでない相手とは、何時間かけても「対話」にならないという事情に由るものと思われる。私の説得の仕方もまずかったのかなと反省もしている。

 ここでは卓上に積み上げた本を以下に列記するにとどめる。

Nicholson Baker:Human Smoke
―The Beginnigs of the World War Ⅱ,The End of Civilization―(2008)

A.Weinstein and A.Vassililev:The Haunted Wood
―Soviet Espionage in America―The Stalin Era―(2000)

H.Romerstein and E.Breindel:The Venona Secrets
―Exposing Spviet Espionage and America’s Traitors―(2000)

Nigel West:Venona
―The Greatest Secret of Cold War―(1999)

J.and.L.Schecter:Sacred Secrets
―How Soviets Intelligence
Operations changed American History―(2002)

Thomas E.Mahl:Desperate Deception
―British covert Operations in the United States,1939-44―(1988)

須藤眞志『真珠湾〈奇襲〉論争』講談社メチェ

須藤眞志『ハル・ノートを書いた男』文春新書

柏原竜一『世紀の大スパイ、陰謀好きの男たち』洋泉社

中西輝政『国家情報論』第4回『諸君!』

杉原誠四郎「ルーズベルトの昭和天皇宛親電はどうなったか」『正論』2009,2月号

秦郁彦『現代史の争点』文春文庫

西尾幹二『GHQ焚書図書開封 Ⅱ』徳間書店

 論争がどんな風に展開し、私が異なる思考をもつ人の「壁」の前に立っていかに苦労したかは、『諸君!』4月号でご検討たまわりたい。私も十分に読みこんで勉強し尽くしている諸文献ではないので、論の展開も説得的ではなかったかもしれない。

 論争というものはもともと相手を説得するためにあるものではないのであろう。説得を諦めるためにあるものであろう。であれば、『諸君!』3月号の私の論文ですべて終っていて、それ以上のこと、二人で会って討論するのは所詮、虚しいあだしごとというようなことであったかもしれない。

 帰りの車の中で私は眼を瞑ってじっと動かなかった。それでも頭が冴えて眠れなかった。徒労感を感じたというのでもない。秘かに小さな満足があった。私はまだまだ体力があるな、ということに対して――。

 討論の席には仙頭『諸君!』前編集長が傍聴していられたので、家に帰ってから電話で感想を聴いたら、次のように語っておられた。

 「コップに水が半分入っているのを見て、もう半分しかないという男とまだ半分あるよ、という男の対話だったですね。」と評された。私がどっちかは読者には自ずと分るであろう。

 「日本はイギリスのように静かに小国になっていけばいいのです。」が会談中の秦さんの台詞の一つだった。私はそれを聞いて「人間でも国家でもナンバーワンになろうと努力する心がなかったら、オンリーワンにもなれないのですよ。」と答えたことをお伝えしておく。勿論スマップの歌のことにかこつけて言っているのである。

「座右の銘」に添えて

 私は「座右の銘」とおぼしきものを日ごろ意識していない。
 好きな言葉はあるが、たいてい長文である。                   

 昨年末『諸君!』2月号が「座右の銘」と、それに添える1200字のエッセーを求めてきたが、銘の制限字数が60字なのではたと困った。

 60字に収まる名文句を先に選んで、それに合わせてエッセーを書くほかはないが、そうそう思いつくものではない。私はニーチェ研究家ということになっているので、ここで好みの短章がないとはいえないので、ツアラトゥストラをぱらぱらめくった。

  「私は人に道を尋ねるのが、いつも気が進まない。--それは私の趣味に反する! むしろ私は道そのものに尋ねかけて、道そのものを試すのだ。」

 最初これにしたかったが、制限字数を越えている。しかしこれはほとんど私のモットーである。

 「見捨てられていることと、孤独とは別のことだ。」

 これも好きな言葉である。字数も少なくていい。しかし、エッセーをどう書いてよいか考えていると迷いだして、結局、以下のような次第になった。

 新年に雑誌の2月号が届いたら、77人もの人がこの企画に参加していた。まもなく文春新書になるのだそうである。

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君が出会う最悪の敵は、
いつも君自身であるだろう。
洞穴においても、森においても、
君自身が君を待ち伏せしているのだ。

ニーチェ『ツァラトゥストラかく語りき』

 人間はいつでも自分で自分に嘘をつこうと身構えている存在です。自己弁解や自己正当化からほんとうに免れている人はいません。重症患者ばかりの病棟に入院したことがありますが、巨人=阪神戦のテレビが病室から聞こえてきて、その部屋の患者は三日後に亡くなりました。半狂乱になりそうな人間がスポーツ実況を楽しめるのです。自分で自分に仕掛けるこの嘘は、切なくも悲しい生の慰めであり、息途絶える直前まで人間は自分を紛らわして生きられるという生の強さの秘密でもあります。しかし人間は基本において弱く、このような場面で自分に嘘をつく自分をまで「最悪の敵」とせよ、とニーチェが言っているのかどうかは、今は問わないでおきます。余りに大きな、深刻な課題へと広がっていくからです。

 人間は誰でも真実を求めて生きていますし、真実を前提にして物事を判断しているものと信じられています。他方、嘘が公然の秘密になっている社会的場面をも了解しています。例えば政治家の選挙公約は嘘が当り前だと皆思っています。しかし百パーセントの嘘を演技して大衆を瞞せるとは思えません。政治家も自分の嘘を嘘とは思わず、ほどほどに真実と思って政治に携わっているはずです。同じように言葉の仕事をする思想家や言論人も百パーセントの真実を語れるものではありません。世には書けることと書けないことがあります。制約は社会生活の条件です。公論に携わる思想家や言論人も私的な心の暗部を抱えていて、それを全部ぶちまけてしまえば狂人と見なされるでしょう。それなら語られない暗部は真実の世界で、公的に語られた部分は嘘の世界なのでしょうか。そんなことはとても言えません。

 嘘の領分と真実の領分とは決して対立関係にはないのです。関係は微妙で、本音と建前の対立がよく取り上げられますが、意識的に操れるそんな見え透いた対立でもありません。

 思想家や言論人が出会う「最悪の敵」は、自分で気づかぬうちに自分に仕掛けてしまう自己弁解や自己正当化です。それが嘘となるのです。人間は弱い存在です。公論と称せられるもののいかに多くが自己欺瞞に満ちていることでしょう。

 近刊の拙著、『真贋の洞察』の「あとがき」の片言を、関連があるのであえてここに再録させて下さい。

 「言論の自由が保障されたこの国でも、本当のことが語られているとは限りません。

 本当のことが語られないのは政治的干渉や抑圧があるからではないのです。大抵は書き手の心の問題です。

 私はむかし若い学者に、学会や主任教授の方に顔を向けて論文を書いてはダメですよ、読者の常識に向かって書きなさい、とよく言ったものです。言論人に対しても今、世論や編集長の方を向いて書いている評論がいかにダメか、を申し上げておきたいと思います。

 言論家にはここにだけ存在する特有の世論があります。評論家の職業病の温床です。

 書き手にとって何が最大の制約であるかといえば、それは自分の心です。」

 ニーチェは、敵は自分であり、自分自身が自分を待ち伏せしているのだ、と言っているのではないですか。

『諸君!』2月号より

立春以後(一)

 当「日録」を文字どおり日々の記録めいた形式で綴ろうとすると、たしかに毎日のように何かがあり、とかく日常の表面を追いかけていくだけになるが、それなりに書くことはある。

 2月5日(木)には「一木会」に顔を出した。この会についてはまだここで報告したことはない。

 日下公人さんをチーフにした勉強会で、浜田麻記子、堤堯、久保紘之、宮脇淳子、大塚隆一(日本ラッド社長)、鈴木隆一(ワック社長)のほか数氏がいつも集まる常連で、毎回講師を呼んで私のひごろ聞けないようなお話を伺う。

 針灸をめぐる東西比較文明論、宇宙の話、リチウム電池と未来の自動車といった、自然科学や技術系のテーマがわりに多い。私には勉強になる。

 今回は座長の日下さんご自身のお話であった。「核武装への手順」というテーマである。1、国内の地馴らし、2、対国外行動の二つに分けて、さらに項目を立ててお話になった。内容は多分どこかの雑誌に出ると思うので、控えておこう。

 日下さんは現代の大久保彦左衛門である。飄々(ひょうひょう)とした語り口で、難しい問題を、人の意表を突くことば遣いでもって平明に切り崩すように話すのを得意としている。これは万人の認める処だろう。私はまったく真似ができない。

 今回は志方俊之さんも座に加わっていたので、軍事問題は賑やかな展開となった。ソマリア沖への海上自衛隊派遣の不備について、志方さんから批判があった。眼の前で外国船が海賊から襲撃されているのを黙って座視するしかない日本の軍艦は、そういう場面が生じたら、国際非難を免れないだろう、と仰った。まったくその通りであると思った。麻生さんはなぜ力強く動き出そうとしないのだろう。

 勉強会が終って、いつもの通り、近所の寿司屋の二階で酒を飲みながらの懇親会が開かれた。私の『諸君!』3月号論文について、堤堯さんと宮脇淳子さんのお二人が早速に読んで下さっていて、「大変良かった」とお褒めのことばがあった。けれども田母神論文の世間の扱い方については評価が割れ、久保紘之さんと大塚隆一さんから言論界が軍人の言説に振り回されるのはみっともない、との手厳しい批判のことばが出され、酒席の論争になった。久保、大塚両氏は私の『諸君!』論文はまだお読みではなく、それへの直接の論難ではない。

 2月7日(土)東商ホールで『WiLL』編集部主催の講演に出向いた。1時30分に編集部の松本道明さんが拙宅まで迎えに来て下さった。会場に着くと田母神さんの講演がほゞ終りかけていて、間もなく控え室で再会した。相変わらず毎日のように講演のプログラムに追われておられるようで、大変な人気である。

 そのあと坂本未明さんと田母神さんとのトークショーがあって、ひきつづき私の講演「歴史を見る尺度」の時間になった。この講演会は昨年末の会場に入り切れなくて、いったんお断りした入場希望者にのみ門戸が開かれたのだそうで、新しい客寄せはしていない。それでも500人以上の入場者だった。みんな田母神さんの人気のせいである。私は刺身のつまである。

 司会の花田紀凱さんが私の講演の前に、聴衆に向かって例の『諸君!』3月号論文が良かったとまたまたお褒めのことばを口にし、よその競争誌の掲載論文をもち上げてくれた。今回はどういうわけか褒められっぱなしであるが、敵陣営ではそれだけ強い抵抗感と警戒心を呼び起こしていることだろう。

 講演が終って、ワックの編集と営業の総スタッフを合わせて十数人と一緒に、夕食会を楽しんだ。お酒の席は人数が多い方が賑やかでよい。

 私の講演「歴史を見る尺度」は『WiLL』4月号にのる予定だそうである。表題は替えられている可能性がある。

 尚『諸君!』4月号で秦郁彦氏との対談が予定されている。12日に行われる。

 こうして毎日起こったことを綴ると、それなりの分量になるのである。しかしこういうことをダラダラ書いても仕方がない。ひとつの例として今回は書いてみたが、ひとがすぐ飽きるだろう。

 時間はどんどん経っていく。何が起こってももう動じない年齢である。しかし時間の速さだけは恐ろしい。

大寒の日々(三)

 2月1日(日)の夜、この日録で高校時代の友人のK君として紹介してきた河内隆彌君と二人だけのお酒を飲む会を持った。

 河内君は東京銀行に入行し、ベトナム、インド、ベルギーなどにも勤務し、ことにベルギーは長かった。ベトナムはあのテト攻勢の最中のサイゴンを経験している。なぜこれらの地が活動の場となったかといえば、大学で第二外国語としてフランス語を選んだからである。

 フランス語はわれわれの若い時代に、文学部か理学部数学科でない限りあまり選択されなかった。社会科学系の河内君にしては珍しいコースだったと思う。勿論彼は英語もよくできる。英仏両刀使いのビジネスマンだった。

 彼は私たちの高校時代(昭和26-29)、クラスの誰からも信頼される、男らしい男、きっぷのいいいわゆるナイスガイだった。アメリカ映画音楽の流行った時代で、彼の歌ったHighnoonやDomino や Kiss of Fire は今でも忘れがたい。

 彼はこの夜カルカッタの話を盛んにした。インドは多民族多言語国家で統一国家ではない、と言った。中国もそうだろう、と私が言うと、中国はそれでも秦が統一した時期を経ているのでインドとは違う。インドを統一したのは英国であった。しかも英国は海から入っていったので内部に入っていない。それでいて英語が唯一の共通語だ。中国は漢字で相互理解ができるが、インドは英語以外に手がない、等々。カルカッタの底抜けの貧しさも強烈な思い出になっているようだった。

 私もそういうインドと中国が、期待される「大国」として台頭している現代は理解しがたい、と言った。しかし20世紀の前半に日本が「大国」として台頭したことも、ヨーロッパ人ことにイギリス人は理解しがたかったことと思う。

 河内君はいま Colin Smith というイギリス人の書いた Singapore Burning という本を読んでいるというので、もっぱらその話になった。まさに日本の台頭に対するイギリス人の戸惑いと恐怖の物語なのだ。

 イギリス軍ははじめ噂にきく「零戦」の出現を信じていなかったようだ。しかし目の前で次々とイギリス軍機が撃墜された。とはいえこの本は必ずしも戦闘場面だけの本ではないそうだ。

 イギリス人、オーストラリア人、日本人、インド人などが総勢550人も出てくる人間群像の物語で、辻政信も源田実もチャンドラボースも登場人物として出てくるという。勇気と献身、ためらいと逃避の両面が描かれている、まさに人間の物語だそうで、個々の人間のエピソードが綴られ、具体的な描写に満ち満ちているというから私も読みたくなった。

 何よりもいいことはイギリス人の著者の「公平さ」だという。勝利した日本軍に対する敬意、あわてふためいたイギリス軍に対する自戒と反省も書きこまれているという。たしかにあのとき以来、イギリス海軍は太平洋で二度と起ち上がることはできなかった。プリンス・オブ・ウェールスとレパルスの撃沈は17世紀以来無敵だったイギリス海軍を事実上消滅させたほどに衝撃的な出来事だった。

 もし日本がアメリカと戦争をしなかったら、歴史は大きく変わっていたろう。そんな話を二人でしていて、今の日本の言論界の空気、田母神問題で揺れている敗北者心理のことを考えた。

 Singapore Burning のような日本側が大勝利を収めた事件、それを日本人ではなく向う側の人が「公平」に書いた本ほど今のわが国の愚かな歴史意識をいっぺんに吹きとばしてくれるものはないだろう。世界は日本を公平に見ているのに、日本人が自分を歪めて見ようとするのだからどうにも話にならない。

 2月3日に同じ東京銀行にいた足立誠之さんが私の論文「米国覇権と『東京裁判史観』が崩れ去るとき」(『諸君!』3月号)について、次のようなコメントを送ってきてくれた。

 足立さんは前にも言ったが、カナダで緑内障を悪化させ失明した。カナダ在住中に奥様を亡くされた衝撃が眼の病気に致命的に作用したと聞く。本当にお気の毒でならないのだが、力強く生きている。

 文字を音声化する機械があるそうである。私の『GHQ焚書図書開封』はそれでお読みになったそうだ。ありがたいし、申し訳ない。

 以下の文から足立さんの知性の高さ、生命力の強さがはっきり看取される。いかばかりかご不自由な生活であろう。しかし、彼の日本への愛と再生への期待はそれを乗り超えるのに余りあるほどに強烈である。

 私は私の文が評価されていることではなく、足立さんのいつも変わらぬ平静さと取り乱さない一貫した愛国心のしなやかさに心から敬意を捧げたいと思う。

西尾幹ニ先生

 「諸君」3月号掲載の先生の論文を拝読いたしました。(実は弟に読んでもらったのですが)
 
 文芸春秋、諸君、正論、Voice, WiLLの主な論文は弟が先ず見出しを読んでくれ、それの中かから興味あるものを読んでもらうわけです。目が見えていたときにも感じたのですが、この頃の論文は読む気がしません。どうも論文が自分の主張を主張するために何でもかんでも都合のよい情報をパッチワークし、論文にしたようなものが多い。
 
 そうした方法に私は嫌気がさしているようです。
 
 娘が理工系で、ある企業の研究機関で働いていますが、頭とコンピューターで仮説を立て、コンピューターを使いながら実験を重ねて仮説を検証していく、そして総ての疑問が実験と検証で満足がえられた末に理論が出来る。そこでは”多数決”は無縁です。
 
 ところが人文科学の世界ではそうではありません。ある学説が都合のよい材料をかき集めて出来上がり、それを”確立した学説”、”学会の通説”などと言う。これは科学でもなく、近代精神にも無縁な中世的現象とも言えるでしょう。

 「田母神論文」問題ではそれが村山談話に合致しているのかという観点ばかり、あるいはそれが正しい歴史認識であるのかという議論ばかりが今までの論壇誌の中心でしたが、先生はそうした議論の元となる方法論に言及され、アプローチが科学の名に値するのかという点に鋭く切り込まれています。

 これは雑誌のつまらなさの本質をつかれています。

 私は2002年以来アメリカの対中国政策のUSCCの報告書、公聴会議事録を読んできました。それを動機つけたものは、新たに見出した世界に「あやしふこそものぐるほしけれ」の喜こびが湧き上がるからでした。

 「GHQ焚書図書開封」はおなじような思いを抱かせて呉れました。歴史を考える時にはその時代に一度自分が浸らなければ話ははじまらないことは当然で、それをしない歴史家は「あやしふこそものぐるほしけれ」の心境には絶対になれず、したがって歴史とは無縁な存在になるわけです。
 
 保守を自認する人達の多くがこの点で科学とは無縁の存在でしょう。
 
 更に先生のご指摘通り、”昭和史家”なる言葉までうまれて、これは時間と空間にある一定の限界を設けることによる事実の隠蔽です。
 
 毎年夏になると、文芸春秋などには半藤一利、保阪正康、秦郁彦などの「昭和史家」による「なぜあの戦争に負けたのか」論のテーマで戦前の日本の歴史を断罪する特集が組まれます。多くの人はもうこんな雑誌には飽き飽きしています。
 
 今年こそ、こうした雑誌の安易な編集に変更がくわえられるべきでしょう。飽きられた「昭和史家」でない新しい企画の登場を雑誌の世界に希望します。生半可な感想で恐縮ですが、以上ご報告申し上げます。
                         足立誠之拝

 上記の分析と感想に心から感謝申し上げる。今日ご登場いただいた河内隆彌氏、足立誠之氏のご両名は河内氏が七歳上の同じ東京銀行入行者であると最近聞き知った。が、互いにまだ面識がない。

 お二人はともにビジネスマンであった人で、政治とも戦争とも関係がないのである。平和な時代の日本の繁栄の担い手だった。そして今、日本のことを憂えている。

 機会を得てお二人が出会い、海外任地での活躍の時代の思い出を語り合ってもらいたいと思う。

大寒の日々(二)

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 友人の粕谷哲夫君が30日にいち早く次のようなメールをくれた。私の手許にもまだ来ていない『諸君!』3月号の拙論に関する心安だてな感想である。後で聞けば予約購読者には少し早く届けられるのだそうである。

 友人だからざっくばらんに書いてきてくれる。「ページ数が足りない」というのは、40枚も書いているのだから足りないはずはない。足りなく感じられたということだろう。それは退屈しないでさっさと読めた、という意味にもなり、重ねてありがたい。

 我田引水で申し訳ないが、まずこれを掲示する。

西尾 兄

「諸君」3月号の 論文 今 読んだ。
たいへんよく出来ている。

西尾幹二論文の中でも 小生の見たてでは 率直のところ 上位の 論文です。

あえて言えば ページ数が足りない。これは貴兄の責任ではないが、大衆向きには若干舌足らず。
まだあると思ってページをめくったらそれで終わっていたのは残念、という感じがしないでもない。
その意味でも続編があっても いい。

小生は この論文の背景はなんども聞いているので 論理に飛躍はないが、初めての人には 若干理解が難しいかもしれない。

また アメリカが公文書公開を いまなお押さえている事実、NY Times など当時の新聞にあった ルーズベルト発言 など多くの 日本を打て の言説の存在の事実(ヘレン・ミアーズも多数引用しているが、まだまだたくさんあると思う)を見て いつか 日米開戦の歴史評価は 変る 可能性が大きい・・・・・ (それが歴史と言うもの)など 具体例がもう少しあればよかったかと いう感じもするが 欲張りすぎでしょう。

歴史哲学に スペースをとりすぎの感無きにしも非ずだが、これもやむをえないでしょう。
世間が無知だから。

何もかも書くと言うのであれば 大著にならざるを得ないので 雑誌論文としてはやむをえない。

「国民の歴史」のころと異なり アメリカの腰が砕け、中国は相当の重症(今まで稼いだ金はあるが、新たな収入は期待できず、民情は乱れ、・・・・)に陥り、客観情勢は一変した。それだけに この論旨をさらに肉付けした 大型企画を期待する次第。

そのほか 歴史の全体と部分 という問題ですが、小生は <歴史を鳥瞰する>視点と、  <歴史を虫瞰する>視点 ・・・・・・<鳥瞰> と<虫瞰> が 一つの切り口だとかねがね思っています。
両方含むと<大河小説>  虫瞰だけだと<私小説>。

保阪氏の言っていることは <虫瞰> 次元ではほとんど正しい。 何せ3000人ぐらいの人の話を聞いて書いているので、嘘は言っていない。しかし 3000の<虫瞰>だけでは 真実の 歴史の<鳥瞰>は 出てこない。

保阪氏は 小生知っていますが、 中西氏の言うような 外国の視点はないし、 トインビーやハンティントンの<鳥瞰する>視点もない。  森林よりも 花粉に 関心が傾斜することには間違いない。

・・・・歴史は一筋縄ではいきません。

あすは 拓大の 黄文雄6時間歴史講義を聴きに行きます。
3回で合計18時間、あの日本語を 聞くのはつらいけど、 自分は史実をしらなすぎる。歴史書では頭に入らない。

明後日には あの茂木さんが歴史の勉強会をやるというので、何をしゃべるのか聞きに行きます。あとは 東アジア近代史は小説でよむ。 おっしゃるとおり。歴史は小説がいい。

阿片戦争はイギリスが悪いのだが、あとあと 阿片は 軍の資金づくりのために必要欠くべからざる 重要物資で、蒋介石も毛沢東も これを使っているし、日本陸軍も イランから中国への阿片輸入介在による資金づくりを内密に里田甫に 懇請している。・・・・歴史とは一筋縄ではいきません。

以上雑感まで

粕谷

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 ちなみに粕谷君は商社員としてアメリカ経験が長く、親米派である。そして、そういう意味ではあえて言っておくが私も親米派である。少くとも反・反米派である。

 歴史は歴史、政治は政治である。誰かが言っていたが、政治に歴史をからめるのには「時効」があって当然である。(さもないと日本はもう一度戦争をしなければならなくなる。)

 オバマ政権にそういうおおらかさを期待してよいのではないか。白人でないことの影響は小さくないと思っている。イギリスの没落はその意味で大きい。ただし政権内にはユダヤ人が多い。

 31日に「黄文雄6時間歴史講座」を聴きに行った。前から行くつもりでいたのだが、日時を記録していなかった。粕谷君のメールで注意を喚起され、朝9時に家を出た。予約していないので心配だったが、席はあった。

 行って良かった。今しみじみそう思う。内容もさることながら、6時間語りつづける一人の人間の、しかも時間が進むにつれ次第にホットになっていく高まる情熱に打たれた。

 黄さんが情熱家であることは前から知っていたが、頭でそう知っていることと、壇上から流れ出すパトスの「気」を浴びることは別である。目の前に無私の情熱が服を着て、不動の立ち姿で音声を発しつづけている。黄さんの人生が会場に奔流している、そう思った。

 満70歳でこの知識量、この視野の広さ、この体力はそれだけで人を感動させる何かではある。黄さんがどういう切っ掛けで「6時間歴史講座」を計3回(このあと2月14日と3月28日の各土曜日に行われる)思い立ったのかは知らない。人生のある区切りを意識しての試みなのであろうが、それだけに聴講者にもある緊張を求めてくる大きな意志の力が感じられた。

 1月31日の今回は題して「日本植民地の真実」で、三部に分れ、第一部台湾、第二部朝鮮、第三部満州の順序でお話された。あまりにもたくさんの内容なので下手な要約や紹介はここではしたくない。

 一番最後の主題の整理で、「植民地主義」という概念には「社会主義」に優るとも劣らない一時代の夢と希望が托された人類解放の理念がこめられていたという説明にはあらためて目を開かされた。

 「植民地主義」といえば今では侵略や征服のイメージと結びつくが、19世紀から20世紀にかけてはユートピア思想だった。地上の人類の楽園の開拓、いいかえれば先進民族が後進民族を解放し、宗主国(主として白人の)が文明開化を地球に広めるのは義務であるという考えに立脚した解放思想であったということが今一度強く意識される必要がある、と私は話を聴きながらあらためて思った。

 今からみれば白人の植民地主義は「侵略」の別名だが、19世紀人類最大の夢、コスモポリタン的思想としての概念でもあった。だからこそ日本もまたそれに100年おくれて巻きこまれたのである。100年おくれたことに運命はあるが、夢と理想に近いことを実現したのは白人国家ではなく、日本の植民地主義の成果、台湾、朝鮮、満州であった――これが黄さんの日頃の主張でもあり、またたくさんの証拠を突きつけて語られた今回のご講演のテーマでもあった。

 私は再考三考せねばならぬ、日本の歴史を考えるうえでの貴重なヒントを数多くいたゞいたことに感謝した。

 これを読んだ人にぜひ次の2回の講演会場に足を運んで下さい、と私はお誘い申し上げる。私も聴講する。

2月14日(土)10:00~17:00「日中戦争史観」
3月28日(土)10:00~17:00「大東亜戦争の文明史的貢献」

会場は拓殖大学、2月14日がF館301号教室(80名収容)。
3月28日が同大学、C館301教室(200名収容)。
入場無料。
申し込み方法は黄文雄事務所、
FAX 03-3355-4186
E-Mail :humiozimu@hotmail.com

2月14日分はすでに予約が〆切られているので、試みてみるといい。3月28日分は3月18日が予約〆切。

拓殖大学は地下鉄丸の内線荷ヶ谷下車徒歩3分。

大寒の日々(一)

 大寒の日々だが、東京はそれほど寒くない。善福寺公園の池が例年のようには凍らない。早くも梅が咲いている。

 1月23日に「路の会」の新年会があった。集った方々は田久保忠衛、桶谷秀昭、高山正之、田中英道、黄文雄、富岡幸一郎、北村良和、桶泉克夫、石平、尾崎護、宮崎正弘、仙頭寿顕の諸氏。それに徳間書店側から力石さんと赤石さん。酒の席であり、話ははずんだ。中国論、アメリカ論、そして当然ながら金融破綻の今後の行方と日本の将来。―――

 面白い話を、いくつか拾って、別の機会に報告したいと思う。

 今日は先を急ぐ。

 1月26日にGHQ焚書図書の今月の録画を行った。15才で日本に留学した大学卒業の直前、昭和12年夏に、日本での学業を気にしながら帰国した中国人青年が徴兵され、抗日戦線に送られた。すさまじい戦争体験をして負傷し、逃亡して、体験記を日本の先生に送ってきた。翻訳出版を依頼してきたのである。昭和13年3月に日本で出版され、たちまち版を重ねた。夏までに2万5000部を売っている特異な本である。今月はこの本、『敗走千里』の紹介をした。題して「中国兵が語った中国戦線」。――

 1月28日日本文化チャンネル桜の討論会があった。今夜29日からの放送なので、まずその報告をする。

タイトル:「闘論!倒論!討論!2009 日本よ、今・・・」
テーマ :「オバマ新政権と世界の行方」
放送予定日:前半 平成21年1月29日(木曜日)19:30~20:30
      後半 平成21年1月30日(金曜日)19:30~20:30
      日本文化チャンネル桜(スカパー!216チャンネル)
      インターネット放送So-TV(http://www.so‐tv.jp/)
パネリスト:(50音順)
       潮 匡人(評論家)
       日下公人(評論家・社会貢献支援財団会長)
       石 平 (評論家)
       西尾幹二(評論家)
       宮崎正弘(作家・評論家)
       山崎明義(ジャーナリスト)

司会 :水島 総(日本文化チャンネル桜 代表)

 この録画取りの前に、日本文化チャンネル桜の放送を支えてくれている支援者へのサービスとして、関係者がこの一年で最も印象の強かった「一冊の本」を語るCD作成に協力した。私が取り上げた「一冊の本」は渡辺浩著『近世日本社会と宋学』東京大学出版会、1985年刊がそれである。「宋学」とは朱子学のこと。江戸前期の思想界は朱子学に蔽われ、朱子学と朱子学の批判はさながら戦後日本のマルクス主義のごとき大きな事件かと思っていたが、まったく逆の事情がこの本によって裏づけられている。著者の渡辺氏は丸山眞男の弟子筋のようだが、その思想研究は恩師の逆を行き、恩師を裏切っているのが面白い。

 「オバマ新政権と世界の行方」の討論会が終った後、悪い癖ですぐに帰らず一杯やろう、ということになり、宮崎正弘さんと石平さんとで焼肉と焼酎の店に行った。

 1月26日に『WiLL』3月号が出た。拙論「『文藝春秋』の迷走――皇室問題と日本の分水嶺――」について、当「日録」の管理をしてくれている長谷川真美さんがメールで早速次のような改まった感想を送ってくれた。

 私は12月に西尾先生の講演を聞いていたし、折に触れ先生の考えを電話でも聞いていた。それに『週刊朝日』の文章も読んでいたので、今回の論文に特別に新しいことが書いてあるという驚きがあったわけではない。ただ『文藝春秋』への批判が、保阪氏の論を使ってより具体的になっていたのが目だった点だと思う。

 そして、今回の論文は、この前の講演では話きれなかったと言われていた、いろいろな分野を組み合わせながら、最後に皇室を守る権力にまで言及していて、うまく繋がって、全部纏まっているな・・・と思った。こんな風にこの前の講演でもお話されたかったのだろう。

 私も、『文藝春秋』の「秋篠宮が天皇になる日」を題名に釣られて買って読んだ。題名は衝撃的だけれど、内容は大したことがなかった。『WiLL』が皇室問題を取りあげて、よく売れたからか、柳の下の二匹目のドジョウを狙ったことだけは確かだ。論の下敷きとして、西尾先生のこれまでの仕事がある。それがあるから衝撃的な見出しで、人を引き付けることができたのだ。でも、中味は女性週刊誌と大して変わらない。西尾先生の雅子妃殿下のお振舞いに対する疑問を遠巻きに利用しながらも、全体としては西尾先生に説得されている感じがした。つまり、『文藝春秋』も今の皇太子ご夫妻にはっきり不信を抱いているといっていい。

 それにしてもこの保阪氏の論は中途半端で、西尾先生が書かれている通り、内容は全くない。

 年末の天皇陛下の健康の悪化と、宮内庁長官の発言・・・東宮大夫の発言、など重要なことが立て続けにあったのに、これらのことにはほとんど触れないで、こういう大胆な題名をつけるのは詐欺のようなものだ。

 この論文の冒頭で、西尾先生は、これまでの文藝春秋批判をもっと強めて、田母神問題など別の例を出し、より具体的に批判されている。これに対して、文藝春秋側はうまく言い逃れできるのだろうか。

 どちらにしても、きちんとした論文を掲載し続けることが、雑誌の命であるのだし、それを判断するのは、一般の読者達で、私たちもそうそう騙されはしない。昨日会った友人も「秋篠宮が天皇になる日」を読んで、私と全く同じ感想を持ったと言っていた。

 西尾先生の的をずばりと突いた批判で、『文藝春秋』まで部数が急落しなければいいが、いや、急落すれば面白いとも思う。

 天皇陛下は宮内庁長官に託したご意思が、なんとか皇太子ご夫妻に伝わってくれ、もしそれがかなわぬなら、国民よ、なんとか考えてくれ・・・と切実な思いをこめておっしゃっているのではないだろうか。その意を最も噛み砕いて応援しているのが西尾先生一人のような気がする。

 日本の皇室の危機にあって、本当に心を砕いて警鐘を鳴らそうとしている西尾先生の、ほんのちょっとでもお手伝いが出来ていることが、私の生き甲斐でもある。

 以上の文章に対し、格別に私の感想はない。いつもこんな風に応援してくれていることに感謝している。

3月号の『WiLL』と『諸君!』

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 今月の月刊誌発表の二論考について簡単に報告しておきたい。

 『WiLL』3月号の拙論には妙な題がついている。「『文藝春秋』は腹がすわっていない」(但し表紙は「迷走」)という題である。いうまでもなく先月号の同誌「秋篠宮が天皇になる日」に向けて付けられた題だが、これは私の本意ではない。『文藝春秋』の同論文について述べた部分はわずか10枚にすぎない。論文全体の五分の一である。

 拙論は雑誌で18ページをも占める大型評論だが、皇室問題がすべてではない。「皇室問題と日本の分水嶺」という副題がついている。国家の存立に対する危機意識がずっと私の中でつづいている現われである。

 論文の一番最後の数行に私はその不安な思いをこめている。そこを読み落とさないでいたゞきたい。

 『諸君!』3月号は前回切迫した時間内で二回に分けて書いたと報告したあの論文である。「米国覇権と『東京裁判史観』が崩れ去るとき」という題である。これも私ではなく編集長が付けている。(言論誌の論文の題は編集長の裁量下にある。)

 そもそも現代史に歴史の専門家はあり得ない、否、あってはならない、それが私の今回のメッセージである。

 秦郁彦、保阪正康、北岡伸一の三氏の歴史に向かっていく姿勢を疑問とした。歴史に現在の人間のありふれた信条やドグマを当てはめている。半藤一利、五百旗頭眞、御厨貴の諸氏も同じ方向と見て名を挙げているが、こちらはまだ詳しく取り上げていない。

 現代史を扱う歴史家はなぜ歴史哲学上のイロハを知らないのだろう。歴史は見えない世界なのである。なぜなら歴史は過去の人間のそれぞれの未来像の集積だからである。今回は根源的なところから問いを立ててみた。

 それと関係しているのだが、論文の一番さいごの2ページに「江戸時代と大東亜戦争は連続している」という小見出しをつけた叙述がある。

 前回高校の友人のK君がベトナムやインドで経験した西洋文化の二重性、西洋はアジアに進歩と破壊だけでなく調和と文明をもたらした、というあのテーマに関わっている新たな問題提起である。

 私はたったいま「進歩と破壊だけでなく調和と文明をもたらした」と言ったのであって、「破壊だけでなく進歩をもたらした」と言ったのではない。「進歩」と「破壊」は私の文脈では同義語なのである。

 西洋も18世紀までは「進歩」とも「破壊」とも無関係だったのではないだろうか。もちろん日本も江戸時代まではそうだった。西洋は「調和と文明」と「進歩と破壊」の二面をもつ双面神だった。

 GHQ焚書のことをやっていてしみじみ感じたのは、欧米のアジア侵略は江戸時代にほゞ完了していることだ。戦争の歴史をとらえようとするとき、パラダイム(認識の枠組み)を思い切ってぐんと大きくとらなければいけないと思う。

 3月号の二誌の拙論はこれからの私の思考の起点になるかもしれない。

非公開:『GHQ焚書図書開封 2』をめぐって(二)

 1月11日高校の親しい友人の集まる新年会があったが、私は欠席した。

昨日は残念でしたね。19名(うち女性5名)、いつもながら、いつものように楽しく一夕過ごしました。

次回は、2010年1月17日(repeat 17)(日)16:00、同じく「吉祥日比谷店」なので、今から手帳にご記入ねがいます。
「焚書図書開封2」読みました。戦後、あの短時日でよくもまああれだけの、「的確な」本を選んでいたものと感心します。(第1巻のときもそう思ったのですが・・)第1巻に紹介があったと記憶していますが、「協力者」の知的レベルが別の意味で相当の水準だった、ということでしょうか?

 1月12日にこういう書き出しでメールを下さったのは友人のK君である。私は世話役のK君に釈明のメールを打っていた返事だった。

 10日には既報のとおり坦々塾があり、六本木でカラオケをして疲れたからといって本当は翌日酒の席を避けるほどのやわではまだない。じつは『WiLL』と『諸君!』と『撃論ムック』の〆切りが迫っていて、ギリギリ延ばして18日(日)夜がデッドラインであることが分っていた。合計100枚くらいにはなるだろう。

 私はにわかに焦っていた。坦々塾のための講演の準備で8日も9日も雑誌論文には手をつけていない。なぜこんなに急迫したかというと年賀状の処理に時間がかかることを計算していなかったのである。

 毎年のことなのに何という不始末なのだろう。パソコンで絵も文字も宛名もひとりでやるというのは初めてである。今年は100枚減らして900枚。私のパソコンの技術も上達したものだ、とひとり悦に入る。

 とはいえ講演と宴会とカラオケの疲れで11日はやはり論文の執筆は開始できず、それから10日間悪戦苦闘がつづいた。本日22日正午に最後の追い書きの校正ゲラの最終チェックを『諸君!』編集部にファクスで送って、すべてが終了した。あゝ、何という毎日だったろう。

 「追い書き」というのは次のようなやり方だ。今回は原稿用紙で約束の30枚までを20日正午に渡して、大きなテーマ展開になったのであと10枚を書いてもよいと許諾される。21日午後2時が10枚の制限時間であった。編集部からは30枚までの校正刷が午前中に届けられていたがそれを私は見ないで午後2時の時刻を守った。その後30枚までの校正刷を見て、編集部はその夕方にこれを印刷屋に送るのと同時に10枚の追い書きを合わせて印刷に回した。22日正午に私は戻ってきたその最終チェックをしてファクスで送り、終了した。ファクスと電話を用いたいわば時間の綱渡りである。

 編集部に迷惑をかけるこんな仕事の仕方はいつもやるわけではないが、緊急事態の許された処理法である。その間に調べを要する疑問が校正部から回されてくるから書きながら研究するようになる。後からふりかえると息も詰まるような時間であった。やはり三誌をいっぺんに書くのはもう無理なのかもしれない。

 三つの雑誌評論の内容については次回に少し語ろう。私の仕事の舞台裏を今日はちょっと紹介してみた。私が同窓会を欠席して自分の仕事時間を守ろうとしたいきさつを、K君をはじめ友人たちに分ってもらいたくてこんな報告をした。

 「20日正午」「21日午後2時」という時刻は絶対に揺るがせに出来ない時刻であった。いつも犬を連れて散歩に行く時間なので、ワン公は待ち切れず、書斎のドアを鼻で開けて這入ってきて、催促するようにピタリと足許にうずくまっていた。

 さて、K君の手紙だが、『GHQ焚書図書開封 2』について次のようにつづく。

インドシナのあたりの記述、大変興味深く拝読しました。
今から思うと、ベトナム戦争のあたりまでは、白人(フランスにアメリカが変わっただけ)の「侵略」の図式が続いていたように感じられます。同国の本当の?独立は、ベトナム戦勝利以後のことかも知れません。小生は、ベトナム、インドと勤務しましたが、それぞれのローカルの人たちは旧宗主国(それぞれフランス、英国)に対して、いうにいわれぬアンビヴァレントな感情を持っていました。少なくとも「文化的」にはしっかりと「刷り込み」をやったのですね。
以上新年会ご報告かたがた、簡単な読後感です。

 K君は東京銀行に勤務していて、丁度ベトナム戦争の最中の危険な時期にサイゴンにいた。当「日録」を読んでくれていて、たびたび登場する足立誠之さん(坦々塾の前回の報告文にも出てくる)は、自分より8年後に入行した東京銀行の同僚であると言っていた。東京銀行は三菱銀行と合併した。ただ面識はないらしい。

 上記の文の「アンビヴァレントな感情」が気にかゝり、私はどういうことかと質問のメールを送ったら、大変に面白い次のような返信が届けられた。

「アンビヴァレントな感情」について。
貴兄が第2巻で述べられた植民地支配の第3段階で、ベトナムはフランス式、インドはイギリス式の教育、法制その他もろもろを導入しました。(いまの若い人はどうなのかわからないが、まあ、あまり変ってはいないような気がする)小生が付き合った年頃の連中(ある程度のインテリ)は、たとえば学校教育で、むしろ宗主国の歴史の方を詳しく習っています。(ベトナムではその辺のおじさん、おばさんでも、たとえばジャンヌダルクのことなど、普通の日本人よりはるかに詳しい)宗主国の搾取?の歴史は勿論知っているが、文化的な帰属意識をかなり西欧においている。

たとえば、インドのカルカッタには、ヴィクトリア女王没後に、イギリスが「ヴィクトリア・メモリアル」という、壮大な建築物をつくったが、独立後もこれは中身もろともそのまま保存され、観光(カルカッタはよほどの物好きでないと、観光には行かないにせよ)の目玉になっています。

カルカッタは州政府がずっと共産党だったので、中央政府の援助があまりなかったり、中印紛争、バングラデシュ独立などで難民が入り込み、ご存知のようにマザー・テレサが「活躍」した、全市これスラム街のような都市であるにもかかわらず、地元市民は、このメモリアルに結構プライドを持っています。(なかの展示には、ヴィクトリア女王関係、またその時代の展示物のほか、悪代官?であった歴代の総督の肖像画なども飾ってあるのです。)

かれらは、アタマでは西欧の支配を否定していても、宗主国の文化には「胸キュン」となる場面があるような気がします。このあたりが小生のいう「いいしれぬ・・感情」というところです。

 ここで指摘されたことはかなり重大な内容である。西洋文化は調和と進歩、文明と破壊の二つをもつ双面神だったので、進歩と破壊だけが入ってきたのではない。背後にある調和と文明も同時に入ってきた。日本に対しても同様である。

 しかしそのことの区別の不明瞭が今われわれの歴史認識を惑乱させている問題の核心につながっているのである。「追い書き」で間に合わせた『諸君!』3月号の「米国覇権と東京裁判史観が崩れ去るとき」でも文明論上のこのテーマに少し触れたので、次回で考察をつづけることにしよう。