西尾幹二先生
『飢餓陣営』の論文:「三島由紀夫の死と私」を拝読しました。
正直な感想として、三島由紀夫氏の心の襞まで入り込むような、実に精緻にして、三島氏の気持ちになりきって論じられた言葉に思わず唸りました。今まで私が読んだ三島由紀夫氏の死を論じる論文中、先生のご文章が最高に光っており、私の気持ちともピッタリでした。宮崎正弘さんもそれを見抜いております。
文学の深奥とはこのようなものかと直感した次第です。この文章は三島氏の御霊に対する最高の鎮魂になると確信いたします。三島氏が自決したとき、あのなんとも言いようのない空気を今でもはっきり覚えております。そのとき、またそのあと、しばしの間言葉を失ったことを思い起こしました。先生も指摘されておりますが、三島氏の死は、いっさいの言葉を受け付けない重さがありましたが、しばらくしてのち、知識人たちが心ない三島評を論壇で展開
したときのイラダチを感じたこともはっきり覚えております。数年くらい前でしたか、『諸君』か『正論』で、知識人数十人が、三島さんの
自決について様々な論評をしていましたが、この先生までもがなぜ?・・・・と思うように、死者に鞭打つような批評も目立ち、私なりに人物の真贋を見定めたものです。西尾先生の論文を読んで、「選択」の重みが人生でこれほどまでに重いものかを、あらためて認識しました。
『WILL5月号』における、皇太子殿下に向けられた御忠言といい、社会
の隅々に渦巻く重苦しくも微妙な国民の想いを、先生が代表して発言してくださったものと受け止めております。私が子供のとき、昭和天皇陛下が地方御巡幸の帰路、羽田から第二京浜
国道を陛下の御車を真ん中に、30台ほど黒塗りの車が列をなして我が家
の前を通過しましたが、子供ながらに、御車が近づくにつれて、なんとも荘厳といいますか、畏怖の念をさえ感じさせる雰囲気が大きな大きな塊りとなって
迫り来る神秘的感動を何度も味わい、体験しました。そのときの印象は、今でも頭の中 に残像となってはっきり記憶しております。それはなんとも名状し難い、言葉で表現できないものであり、覚者の悟りもかくの如きものかとも思いました。その体験を久々に味わったのが、昭和天皇崩御における、西八王子での葬列を見送った時の感動体験でした。子供のときに体験した荘厳な雰囲気が蘇りました。それ以来、私の意識としては、天皇陛下は「人である、と同時にカミである」「カミである、と同時に人である」という、一即多多即一の存在そのものであります。体験のない人には決して解らない世界でもあります。
その「カミ」について、一般人もカミそのもの(実相覚で)ですが、そのカミにも区別があることを知らねばならないと思います。上野千鶴子流に言えば、区別も差別として一蹴されますが、彼女にはその入口すら解らないでしょう。かように人間世界は玉石混交そのものの世界ですから、その中で言論活動を展開することは大変なことですね。
本来それほどに高貴で神聖な御皇室が、皇太子殿下の御成婚以来、神秘性を喪失しつつあることが残念でなりません。原因は先生ご指摘のとおりと思います。同様に、三島さんの自決も、楯の会を単なる「ゴッコ遊び」とみる人には、先生が教えるところの深い意味を理解することはできません。
ここに学問の有無、深浅だけが、この社会の秘儀(意義)を理解し得るものでないことが解ります。事実、先生の御懇友にさえ、そういう方がおられるのですから。この論文を拝読しまして、西尾先生がただならぬ実相覚を持った思想家であり、文学者であり、あるいはその範疇で括られる学者でないことをあらためて深く感じました。
以上、先生の論文を拝読しての表層的な感想でした。
浜田 實
投稿者: toshiueh
非公開:『三島由紀夫の死と私』をめぐって(三)
西尾氏の三島由起夫論
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「飢餓陣営」33号所収の西尾幹二氏の『三島由紀夫の死と私』(二)を手にとり、一気に通読しました。西尾氏の真摯さ誠実さと三島氏への熱い思いが窺える内容です。
一昨年12月のチャンネル桜での三島由紀夫氏をめぐる座談会で西尾氏は、『三島由紀夫の死と私』で言及している昭和45年2月号の「新潮」をスタジオに持ち込みカメラにかざして、三島氏が同年5月号臨時増刊の「国文学」での三好行雄氏との対談で、西尾氏の同論を高く評価していたことを初めて明かしました。
当時、西尾氏の心中で沸き上がった感情が『三島由紀夫の死と私』に流れ込み、結実し、西尾氏ご自身の中でカタを付けたのだと感じました。
西尾氏は140枚の同論の中に、昭和45年2月号「新潮」に書いた『悲劇人の姿勢』(A)、三島氏の死の直後に書いた昭和46年1月臨時増刊「新潮」の『「死」から見た三島美学』(B)、それに同年2月号「新潮」に掲載された三島論『不自由への情熱』を引用しています。
(A)の中の「ラディカルな行動に行き詰れば、氏にはいつでも文学にもどればよいという逃げ場があるという意味でもない。そういう風に安直に考えることができないほど、氏が実行の領域ですでにカタルシスを得て仕舞った部分があることの方にむしろ問題があるように思えるのである」の件に思わず唸って仕舞いました。この件は同論の中に繰り替えし引用され現れます。
西尾氏は「氏が敢えて公認されない極論に自分を追い込んでいく衝動を喝采する読者が一部に発生し」、「氏にそういう読者をも否定しなければならないであろう。ために氏は益々自分をラディカルな限界点に置かなければならなくなる」と予言したことに忸怩とした思いを持っていたことを告白しています。
西尾氏が引用している「国文学」での三好氏との対談で三島氏が以下のように語っていて心が動かされました。
「悲劇というものは、必然性と不可避性をもって破滅へ進んでゆく以外、何もない。人間が自分の負ったもの、自分に負わされたもの、そういうものを全部しょって、不可避性と必然性に向かって進んでゆく。ところが現実生活は、必然性と不可避性をほとんど避けた形で進行している。偶然性と可避性といいますか、そうして今の柔構造の社会では、とくにそういうような、ハプニングと、それから、可避性といいますか、こうしなくてもいいんだということ、そういうことで全部、実生活が規制されてしまう。・・・ぼくの小説があまりに演劇的だ、と批評する人もありますけれども、必然性の意図と不可避性の意図が、ぎりぎりにしぼられていなければ、文学世界というもの、ぼくは築く気がしない。・・・そういうもの(必然性と不可避性)がぼくにとっては、ロマンティックな構想の原動力になるので、私の場合「小説」というものはみんな、演劇的なのです。わき目もふらず破滅に向かって突進するのですよね。 そういう人間だけが美しくて、わき見をするやつはみんな、愚物か、醜悪なんです」「文学と関係のあることばかりやる人間は、堕落する。絶対、堕落すると思います。だから文学から、いつも逃げていなければいけない。アルチュール・ランボオが砂漠に逃げたように。それでも追っかけてくるのが、ほんとうの文学で、そのときにあとについてこないのは、にせものの文学ですね。・・・ぼくの場合は、できるだけ文学から逃げている。するとはだしで追っかけてきてくれる女がいる。それば、ぼくの文学です。その女に、やさしくしますよ。そのときに、小説を書くわけですね。 二十四時間、文学に囲まれていたら、堕落の一路があるだけです。」
西尾氏はまことに正直かつ率直に当時と今の心境を次のように綴っています。
「私は三島さんの自決を当時まったく予想していませんでした。けれども不安は抱いていたに違いありません。それでいて私はいくらか面白がっているのでした。何という心ないことをしたのだろう、と、今は後悔しています。若い新人評論家の片言隻句になにほどの意味もなかったことはたしかでしょう。ただしある特殊な心理的条件下にあった作家が、たとえ若輩批評家の言であろうと、その表現に説得されていた場合には事情は異なり、深刻さを意味します。作家三島由紀夫の自決数か月前に、悲劇を予感させる作家と若い批評家の言葉は交叉し、どこか響きを同じくし合って、不気味に反響し合っていたのでした。」西尾氏は、同論ではじめて三島氏の自決の同時刻にどこでどうこの事件に接していたかを38年経った今明かしています。
「昭和45年11月25日を迎えたとき、当時私は静岡大学の専任講師でしたが、任地ではなく、東京の親の家にいました。あのニュースはテレビで見たのです。テレビは茶の間にあり、私は玄関口の電話器にとりかかっていました。そこから画面が見え、バルコニーに立つ三島さんの姿が目に入りました。私は立っていた膝ががくがくと震えました。なぜ震えたのか、なぜあれほどの衝撃を受けたのか、今になってもよく分かりません。」
「分かりません」と述べながら、西尾氏は自身の心理を怜悧に仮借なく分析します。
「三島さんの自殺に直面したとき、私が身体に震えがくるほど衝撃を受けたのは、三島さんと時代への怒りを共にしていると秘かに自惚れていたことと関係があります。私は、自分が問われている、と直感したからです。三島由紀夫は知識人たちに向い、お前たちに出来るか、お前たちはこれまで言ってきたことをなぜ実行しないのか、と言っているようにまっすぐに聞こえたのです。だから彼の個人的な芸術上の問題や、生理的、心理的な人間性の問題、といったことはすぐに思い浮かばず、政治的に私は私自身が問責されたと理解した次第でした。三島さんの自決は私に矢のように突き刺さり、お前の怒りなんか偽物だよ、と叱られたような気がしたのでした。恐ろしさを感じたいちばん大きな原因がそれであったと思います。」
単行本未収録の(B)は三島氏の自決後わずか一週間で書かれました。西尾氏はその中で次のように述べています。
「二十世紀に入って以来、実はもう政治思想というようなものは存在していないのではないか。政治が必要とするものは、つねに一片の政策論でしかないのではないか。現実効果をもたらさないような思想は、現代の政治にあってはもはや無にひとしく、従って現実を動かすことが可能になれば、思想などはあってもなくてもよいのだ。ある思想が歴史を動かせば、現実の内容が変質しようがしまいが、動かされた歴史の方に実体がある。そして、歴史がこの盲点の意志に動かされたときにしか、実は個人が政治に触れるということもないであろう。考えてみれば、これは恐るべき事柄である。ひとびとは政治と文学の関係をくりかえし論じているが、個人は今日、完全に受け身である。われわれはいかなる『体制』も信じないが、『体制』に規定され、拘束されている部分の自分が存在することを信じないわけにはいかない。いかにしてこの部分を主体的に突破し、生命感を自分に取りもどすか、『文学』が『政治』に出会うのはその瞬間である。」これは西尾氏自身が三島氏の自決2年前の昭和43年9月号の「文学界」の記述を(B)で引用したものです。
西尾氏は三島氏の自決に接して、この自著の件を思い出して、「とうとう三島氏はこれを実行してしまったのか、という切実な、言いようもない思いに襲われ」たのです。
西尾氏はこれを思い返して、憶測と言いながら次のようにきりきりと分析しています。「ついに歴史が盲点の意志に動かされることなく、平穏無事な時代が到来すれば、私が書いているような懐疑はむしろ逆転して、三島氏自身に向けられることになるほかないのである。もとより私の文章が氏に影響を与えたことなどあり得ないが、ただ論理的にきわめて鋭敏な氏はこうした論理を自分で自分に差し向けなければならなかっただろう。そういう憶測を言いたいために以上を引用してみた。そこで演じられた内面のドラマは多分凄絶で、否定がさらに否定を呼び、ついに自己否定は不可能の方向へじりじりと近づいていったものに違いない」
西尾氏の“憶測”と謙遜したこの件の中に、三島氏ののたうつ情念が深淵のマグマのように暗い地底で赤い舌をベロっと出しているのを覘かされたようでゾッとします。
西尾氏は(C)で『豊饒の海』の破綻を次のように説いています。
「なにもかもがわからなくなり、自分というものがどこへ連れていかれるのかわからなくなり、明日のことさえわからない日本の危機を予期していた三島氏は、未来へのその不明のただ中で第四巻を書き進めたいと思っていた。いいかえれば、歴史の直中で、氏は盲目的になる瞬間を待った。それこそが氏が久しく待望していた、行為と文学の事実上の自然の出会い、氏の長編小説に久しく欠けている不透明ななにか、生の無目的性、盲目性に流されつつ、偶然のつみ重ねによって成り立つ人生の形、そういうものこそ氏が自分の文章にもっとも不足し、もっとも必要と感じていたものだ。だからもし、氏の希望通り、政治上の危機が氏の文学に幸いしていたなら、あの月修寺の何もかもがわからなくなる最終のシーンは、恐らく真に切実さを帯びた、真の感動をもたらす場面となったであろう。・・・最終稿を氏は八月に書いている。そのとき氏は自分自身がかわらなくなくなったのではなく、わからなくなる状況がついに来ず、日本の平穏無事な状況がもはや自分の文学を支えるなにものにもなりそうもないとわかって、言いかえれば、すべてわかって仕舞ったために絶望し、作品のなかにただ予定して置いた結末を筋書き通りに書きこんだにすぎぬのではないだろうか。あの結末が再読に耐えるほどの切実さがなく、『天人五衰』全体がただひたすら暗く、沈んで、活性を失っているのはそのせいだろう。氏は文学を決然と捨てるというあの自由をついに選択したのである」
西尾氏がいう「あの自由」とは三島氏の『小説とは何か』で述べている「自由」で、(C)で次のように説いています。
「三島氏自身『暁の寺』の失敗を知っているかのような苦々しさをこめて、この作が終った直後、「私は実に不快だった」と正直に告白している。文学という現実と社会という現実、この「二種の現実の対立・緊張にのみ創作衝動の泉を見出す」ことが自分の作家的原理であって、書くということは「私が二種の現実のいずれかを、いついかなる時点においても、決然と選択しうるという自由である。」「選択とは、簡単に言えば、文学を捨てるか、現実を捨てるか、ということであり、その際どい選択の留保においてのみ私は書き続けているのであ」る。それが「一瞬一瞬自分の自由の根拠を確認する行為に他ならない。」(小説とは何か・十一同)」(C)で西尾氏は次のように断言しています。
「ラディカリストはたった一人を除いて、近い他のすべての人を最も激しく否定するものなのです。森田必勝を除いて、三島さんはすべての理解者、すべての共感者、すべての友人を葬り去って死んだのです。勿論、「文学の宿命」で理解者のように振舞った私をも否定していました。理解者は生への意志のつづく限りの同伴者にすぎません。ほんとうの同伴者は森田必勝しかいなかったのです。無名の音楽家ペーター・ガスト以外にたった一人の同伴者もいなくなった最晩年のニーチェを考えれば、ラディカリストの心理メカニズムははっきりしています。」西尾氏は(B)と(C)を次のように位置づけます。
「私の(B)と(C)の二つの三島論は早くもそのような文明論の新しい潮流(当時の世界史の地殻変動の中での思想状況の昏迷)の方向に言及していました。文学論でも政治論でも、そのどちらでも解けない、三島さんによって身をもって提出された現代の人間の生き方の革新性についてです。当然ながら二つの論文に文壇の反響はありませんでした。私の周りにいた保守系の文化人や教養人は誰も拙論を論評しませんでした。」
しかし共感者がいたのです。
「日本会議の大磯シンポジウムの帰りに、名だたる保守系文化人が誰いうとなく「三島論はたくさん出たけれど誰が一番見抜いていたかなァ」というと、芳賀徹さんが「そりゃ西尾さんだなァ」と仰有りました。これは好意的なお言葉でした。もうひとり渋澤龍彦氏も西尾氏の論に熱い賛意を表していました。
「ずい分な人が三島論を書きましたが、このことをはっきり問題の焦点として見据えた人は、ぼくの知っている限りでは、西尾幹二さんだけだったようです。この人は三島文学の愛好者でもないし、まことに穏健な思想の持主らしいんですけれども、ふしぎなこともあればあるもので、すくなくとも問題の核心をつかんでいましたね。ぼくは敬服したおぼえがあります。」(日本読書新聞昭和46年12月20日)当時近しくはなかった桶谷秀昭氏とは、『三田文学』で「戦後三十年と三島由紀夫」のテーマで対談して心を通わせ親しくなったと、その経緯が掉尾に記されています。
西尾氏の内奥の中で堅く封印されていた「三島事件」、その封印が40年近い時を経て突然解かれたのは、地底の暗闇で赫々としている三島氏のマグマのような超熱の情念が西尾氏に感知され、それが西尾氏を揺り動かしたからでしょうか。まことに興味深い「飢餓陣営」に掲載された『三島由紀夫の死と私』(二)です。
西法太郎
非公開:『三島由紀夫の死と私』をめぐって(二)
『三島由紀夫の死と私』は題名を見ても分る通り、10年前までの私には出せない企画である。相当に思い切った企画なのに、あっさりとやる気になったのは、珍しい雑誌からの誘いだったせいだけでなく、やはり終焉に近い当方の自己認識のせいである。
もうここまで来たら全部語って置こう、そう思った。本来は秘話に属することを筋道立てて明らかにしようと考えて取り掛かったのは、どうせ自分も死を迎えるのだから今のうちに全部言っておこうと簡単に決心した。恥も見栄もてらいもないのである。
普通の商業雑誌はこういう仕事を絶対にさせない。誘ってもこない。だいたい企画を思いつかない。佐藤幹夫さんのような稀有な演出家がいなかったら実現しなかっただろう。佐藤さんには思い切ったことをさせていたゞけたことに感謝している。
出版に漕ぎつけるにはあと50枚加筆する必要があり、2-3ヶ月はかゝるだろう。
どこからも当分の間反響はないと思っていたら、三人の若い知友から論評をいただいた。到着順に掲げる。渡辺望さんと浜田實さんからは私信であり、西法太郎さんは他のメルマガへの投稿である。
拝啓
先生の三島由紀夫論の第二部を拝読いたしました。何度も何度も読みかえして、いろんな感想が湧きました。
文章内での先生の表現をお借りすれば、私こそ、膝が激しくがくがくしてくるのを感じました。先生と三島さんの間の精神・言葉の緊張したやり取りに対して、です。ラディカリズムとニヒリズム、自由と不自由、芸術と生活についての三島さんの世界と先生の分析のやりとりが、あまりにも本質的であって、三島さんの在り方から自己をまもる、という先生のお言葉は、三島さんと先生とのギリギリのやり取りから自分をどうやってまもるのか、という問題でもあるように思われたからです。
三好さんと三島さんの対談は寡聞にして知りませんでした。実に重要な資料だと思います。死の直前に古林尚さんと三島さんが対談しているのは読んだおぼえがありますが、三島さんのような作家は、三好さんや古林さんのように、聞き役に徹する学者の前での方がむしろ、本音をたくさん話されるのではないでしょうか。
江藤さんへの西尾先生の批判は強烈です。しかし、実に正しいです。江藤さんという人は、先生が言われるように時代認識として三島さんと共有するものがあると同時に、「成熟と喪失」そして「一族再会」最後は「妻と私」へと、一貫して生々しい、丸裸の自分を提示し続け、作家・物書きとして何が単純に大切かということを知っていた人ですね。それが三島さんを揶揄したのは、先生が言われるような理由でしか説明できないですね。
江藤さんは文壇ジャーナリスト・論壇ジャーナリスト、そして文壇政治家・論壇政治家という仮面を、強烈に有していたのでしょう。三島さんが文学を捨てるという自由を選択したのなら、江藤さんは、その仮面を最後に脱ぎ捨てて、自殺にいたった、というような表現があてはまるのかもしれません。
村松さんのことに触れて、三島さんが森田必勝以外のすべての周囲の人間を葬り去ったのだ、という先生の言葉のすさまじい正確さへの感銘は、私にとって愕然とするくらいのものでした。作家の精神の孤独というものを信じないのか、いう小林秀雄のあの一見すると傍観者ふうの言葉が、その感銘とともに、意外な存在感をもって私には感じられました。葬り去られた私達がどう生きればよいのか、小林秀雄の態度にもしかしたらせめてもの解答があるのかもしれないなあ、と思ったからです。
文章の終わりからすると、西尾先生はこの三島さんについての文章群を、本にされないようなニュアンスですが、私としては、是非、本にしていただきたいと思います。これほどの激しい精神のやり取りが静かに閉じられてしまうのは、もったいないということももちろんですけれど、何かとても怖い気がしてきます。
本当にすばらしい論考をありがとうございました。感謝の言葉も見あたらないくらい、嬉しさでいっぱいでございます。ここ数日は寒くて私などやや風邪気味ですが、先生におかれましてはくれぐれもご自愛くださり、執筆に励んでくださいませ。
渡辺望
非公開:私のうけた戦後教育(四)
続・民主教育の矛盾と欠陥
知育偏重とよく言われるが、けっしてそういう事実はないのである。これは大学だけではない。中学や高校の教科内容においても大学と同様、知識の過剰が教育を歪めているのではなく、制度や組織、あるいは方法や動機の方に問題があるのである。
六三三制の採用は12才から18才までを二分し、二度の受験によって生活から落ち着きや持続性を奪うという弊害があり、そしてこれは事実なのだが、受験のための詰め込み勉強そのことが悪いのではない。試験の内容や方法がいかにも悪い。私自身の経験からも言えることだが、○×式・穴うめ式試験方法は、大量の受験生をさばくために公平を期すという機能面にとらわれすぎて、大事なことが見失われているように思える。
自分の言葉で自分の思考を発展させて行く前に、他人の言葉で自分の思考が規定されてしまうのである。しまいには他人の言葉がなければ思考できず、他人の言葉を符牒のように受けとって一定の条件反射を繰返す型の知能を生み出す。競争が激化すればするほど試験の《形式》に自己を適応させて行くのが受験生の習性である。
今日行なわれている試験は、思考能力を問うているというより、その適応能力を問うているといった方が正しい。問題を正直に考え過ぎる人間はかえって損をする。果たしてどの程度のことが問われているのか、などと予め出題の動機まで見抜いてかからなければ答えられないような問題さえなかにはある。
こうした出題がなされているかぎり試験競争はたしかに有害であるし、これはぜひとも至急改めてもらわなければならない。最大の教育問題の一つなのである。しかし、競争そのことが有害なのではけっしてない。これはいくら激化しても憂うる心配はなに一つない。一部の民主教育理論家が言うように、試験によって人間の能力を判定している社会の価値観は人格に差をつけようとする思想の反映である、などという理屈は成立たない。
逆に民主主義がすすみ、既成の価値観が壊滅し、人間が平均化すればするほど、エリート養成法として最も安易で人工的な「試験」への要求度は高まるだろう。どんな社会にもエリートは存在するし、また必要とされる。問題は、教育の機会均等という美名の下に戦後20年正しいエリート教育の在り方が一度も真剣に討議されなかったことの方にある。エリート教育とは、精神の貴族主義を養成することであって、権力への階段を約束することではない。
知識習得への情熱は、本来無償の情熱である。それは真理への情熱だと言ってもいい。権力への情熱でもないし、世に言う教養のためでもない。が、今日ほどこういう言葉が迂遠に響く時代もないだろう。今日夥しい数の受験生を支えている衝動は一体何か。知識欲だとはお世辞にも言えまい。快適な生活、安全な身分保証、適度の権力欲――要するに自己逃避へ欲求以外の何物でもない。しかもこの逃避に負けず自己と戦う受験という試練に耐え抜かねばならないのである。これは明かに矛盾である。
一年乃至数年の熾烈な禁欲に耐える予備校の浪人達こそ、教育とは自己教育であるという教育精神の真諦をいわば体得した人達であり、現代日本で教育を受ける苦しみとそして喜びとを知り得た数少ない例外者達だが、奇怪なことに、彼らの教育へ真の情熱は、将来の生活保証という、まことに見窄らしい思想によってしか支えられていないのである。かつて維新の開国期に「緒方塾」に参集した福沢諭吉ら青年壮士を支えたような情熱はむろんどこにもない。逃避のあるところにしか教育がない――これが戦後教育の反語的現実である。
好むと好まざるとにかかわらず、これは私達の現実である。そうはっきり認めたうえで、私はすべてを善しとするつもりはない。これが事実であることをどこまでも誤魔化さずに見抜いておくことが現代の教育論議の前提だというのである。私はそう悟った上ですべてを悪とみる。受験生に理想がないからではない。今日の日本に、あるいは近代文明そのもののなかに、どんな理想も存在しないし、存在したところで、それは結局作り物の合言葉で終るしかないように思えるからである。
1965 年(昭和40年)『自由』7月号
つづく
非公開:『三島由紀夫の死と私』をめぐって(一)
私はもう何年前になるか覚えていないが、小浜逸郎さんを介して『飢餓陣営』という個人雑誌を出している佐藤幹夫さんとお識り合いになった。洋泉社の小川哲生さんと三人で何度かご一緒し、酒盃を交したこともある。
佐藤さんが児童精神病の問題に関心があり、自閉症の少年事犯について立派な著作を出されていることをそのときは知らなかった。彼の関心は持続的で、岩波書店から『裁かれた罪 裁けなかった「こころ」』をもお出しになって、17歳の自閉症裁判のかかえる問題、責任能力、罪と罰、刑罰か治療かといった深層心理にも入る難問に取り組んでおられるらしいことも、最近少しづつ知るようになった。
『飢餓陣営』は少し前まで『樹が陣営』という名だった。教育や哲学の雑誌で、小浜逸郎さん、長谷川三千子さん、佐伯啓思さん、竹田青嗣さん、刈谷剛彦さんなどがよく寄稿されていることは知っていた。
今お名前を挙げた方々は、皆さんが私の主宰する勉強会「路の会」に来てお話をして下さった方々であることもお伝えしておく。また、佐藤幹夫さんは『村上春樹の隣には三島由紀夫がいつもいる』(PHP新書)というユニークな一書をもお出しになっている。このことも逸せられない。
私が『飢餓陣営』に二度にわたって長文の三島論を書くに至った佐藤さん側の勧誘の動機は、「編集後記」に次のような表現で記されている。
前号の三島・吉本特集の執筆依頼者を考えるさい、いま三島由紀夫をきっちり論じることのできる文芸評論家は誰がいるのだろうか、と熟慮を重ねた結果、たどり着いたのが西尾氏でした。企画者自身、まさかこれほどのドラマが隠されていたとは思ってもみませんでしたし、政治イデオロギーで(あるいは政治的予断をもって)なされる、文学作品や文学者に対するレッテル貼りが、いかに文学を理解しない愚かなことか、改めて感じました。西尾氏には深く感謝です。(本論はさらに一章が追加され、PHP新書として刊行予定です。)
連載の第2回目の載った『飢餓陣営』第33号が3月末ごろに刊行された。宮崎正弘さんがさっそくにメルマガに取り上げて下さった。私が自分で説明するよりも上手にまとめておられるので、感謝をこめてここに掲示させていたゞく。
(宮崎正弘氏のコメント)
ところで西尾幹二氏が事件から38年を経て、はじめて本格的に三島由紀夫を論じています。連載は昨年から『飢餓陣営』という雑誌で開始され、発売されたばかりの2008年3月号(『飢餓陣営』、33号)が二回目です。
連載といっても一回分が長い。なんと今月号の第二回は140枚です。
論旨は生前の三島さんと西尾氏は一度だけだが、会ったことがあり、三島邸へ招かれて談義のあと、いきなり六本木へ飲みに連れて行かれたときの感動と哀切と友情をこめて書かれた内容で、これが第一回目でした。
それを受けた第二回は生前の三島さんが、西尾氏の論じた三島論を本質的なものと注目していたことが、ようやく38年にして明かされます。死の直前の三好行雄氏との対談でも三島さんは、それを活字にしていた。
三島さんはこう言っているのです。
「西尾幹二のこんどの評論は、ぼくの、芸術と行動の間のギャップみたいなものを統一的に説明した良い評論だと思う。だれもいままでやっていなかった」(三好氏との対談、『國文学』昭和45年五月号)。
芸術や思想と人生の実生活とは異なり、ショーペンハウエルは厭世主義を唱えたが、楽天家だった。葉隠を書いた山本常長は畳の上で死んだ。それなのに日本の私小説作家には、堕落した日常生活を作品にした太宰治のように、この二元論がない。三島は、日常生活をサラリーマンのように時間を管理して生きたが、作品のなかでは勇躍無尽だった。
三島の口癖は「ヴェルテルは自殺したが、ゲーテは死ななかった。トーマス・マンは銀行員のような私生活を送っていたが、デカダンな小説を書いた」
事件後、わかって良いはずの保守陣営がさっぱり三島の本質をわからず、論評せず、江藤淳に至っては、あれは「ごっこ」だったと言い張って、論壇自体が大いにしらけていた。
そうした知的情況の中で、西尾さんはおおいに傷つけられ、ニーチェの翻訳に没頭していく空白期が赤裸裸に描かれています。
完結後の単行本が早くも、待たれます。また既報のように今年の憂国忌は、この本をテーマに西尾幹二氏の記念講演です。(11月25日、九段会館)。(なおこの雑誌『飢餓陣営』33号は池袋リブロ、神田東京堂、高田馬場芳琳堂、八重洲ブックセンター、大阪りょうざんばく、京都三月書房、久留米リブロ、池袋ジュンク堂などでしか扱っていません。直接の申し込みは
273-0105 鎌ヶ谷市鎌ヶ谷8-2-14-102 佐藤幹夫
メール miki-kiga@kif.biglobe.ne.jp
郵送注文は送料とも1200円。郵便振替 00160-4-184978 飢餓陣営発行所(名義)です。
憂国忌のことはまだ悩んでいるが、宮崎さんは掲載雑誌の販売ルートまで書いて下さっているのは大変ありがたい。どこの書店にも置いてある雑誌ではないので、文末の指示に特段のご注意を払っていただきたい。
では、私の今度のこの仕事は、どのような目的と狙いから書かれたか。第2回目の掲載文の冒頭で、私自身が次のように説明しているので、以下にこれも紹介しておきたい。
本稿で私は三島文学を論究するのでも、三島さんの死をめぐる諸解釈を再吟味するのでもありません。三島さんの文学もその死をめぐる諸説も、本稿の目的とする範囲を超えていることをあらためて申し述べておきます。私は最初にも言った通り、死の前後に偶然この作家に精神的に関わった執筆者として、直前と直後に書いた自分の文章をとりあげ、前と後とで共通する主題を再提出するだけでなく、微妙な内容の変化と世間の反応の移動を思い出すままに報告したいのです。これが第一点です。
次いで私が三島さんの死の前に書いた文章に三島さん自身が生前反応していたという興味深い事実があります。このことを私は今まで人前で話すことはありませんでした。私自身がそういう事実のあることを人から教えられたのは彼の死後です。私があえてそれを取り上げなかった理由は、今思い返すと複雑です。「三島事件」となったあの死以後、各方面の人々が、「私は三島さんからかくかくの次第で接近がなされ、今思えば謎の死の秘密を解く鍵だった」と言い立てるケースが数多くみられたからです。同じ仲間と思われるのがいやだというよりも、私のケースも同類なのかもしれないという思いは正直あります。
三島さんが寄せた私への関心を本気にしなかったのではなく(私は当時も今も本気にしています)、話題を遠斥けたもう一つの理由は、前にも申し述べた「恐怖」にあります。私は単純に怖かったのです。「三島と西尾は思考のパターンが似ている」と秘かに保守系知識人の仲間――当時の日本文化会議のメンバー、等――に噂された事実があり、私は威かされているような、からかわれているような不安な心情に襲われました。
あの時点では「お前もテロリストか」といわれているのと同じですから愉快なはずはありません。
三島さんの私への言及を私が逃げたもう一つの理由は、後で詳しい分析を語りますが、ひょっとすると生前の三島さんを私が私の論理で死へ向けて追いこんだのではないかという内心の危惧の念があったからでした。今はそんな心配はしていません。しかし当時は不安でした。そう思った理由はそれなりにあるので、この件はだんだんにお話します。
以上のような次第で、本稿は三島文学論でも、その死の総括論でもなく、死の直前と直後に彼に言及した一執筆者の体験の報告に目的を限定します。
非公開:私のうけた戦後教育(三)
民主教育の矛盾と欠陥
知識教育がその後全国的にいっせいに再開されたということは、戦後の民主教育の根本的な矛盾と欠陥が克服されたことを意味しはしない。じつはそこに問題があるように思える。教育に民主主義という抽象理念をもちこんで、その純粋培養をはかろうとすることの愚さがひろく認識されたことの結果ではけっしてない。受験という否応のない現実に強いられ、仕方なく理念を修正し、頭の中の抽象的夢想を一時保留しておかなければならないと、やむなく教育者が妥協した結果でしかないように思える。私が受けた教育経験だからそう言うのではない。最近ある進歩的教育集会に出席してみて、しみじみそう感じた。
受験競争は社会の現実が生み出した一つの「必要」であって、善し悪しは別としても、そこには実体がある。が、教育者はそういう事実を認めることをつねに避けようとする。現実に耐えることから出発しようとする姿勢がまったくない。ただただ現実を「悪」として否定し、自分の仲間うちだけ通じる符牒のような言葉で、あるべき教育の姿を論じて夢想にふけっている。そして二言目には受験が教育を歪めているという。裏返せば、受験という強制の枠を外されれば、明日にでも民主主義という名の「道徳教育」の実践に乗り出し、子供を意識的・人為的・目的的な教育観の道具に化そうというのであろう。彼らがそういう目論見を意識しているというのではない。無意識ではあるが、というより無意識であることこそ、結果がこわいのである。
多少皮肉な言い方をすれば、受験競争、出世競争があるからこそ教育は今日辛うじて教育らしい格好を保っているのではないか。教育の情熱が生きているのは、予備校だけではないか。それ以外のところでは、できれば子供を少しでも甘やかして育てたいという善意の倒錯があるだけだ。教育などはじつはどこにもありはしない。必要十分な知識を学ぼうとする激しい情熱、悪意や怨みをかってでもそれを教え込もうとする厳しい熱情――そういうものの生きていないところでは、教育そのものが成り立たないのだ。
もし道徳教育というものが行なわれるとすれば、それは知識や技術を伝達していくその形式、態度、方法によって表現され、その厳しい習得過程のうちに自ずと形づくられるものなのである。けっして特定の「徳目」によってではない。かつて人文主義的な教育理想が追求されていたドイツのギムナジウムで、ギリシャ語やラテン語の詩句の暗記などがいかに厳格に行なわれ、そういう味けない作業を通じて西欧の伝統的な詩型と韻律への感受性、古代への愛情とその理想主義への畏敬の心が、いかに効果的に培われたかを考えれば、知識を軽視し、抽象理念を振り廻すといったようなことが、教育の自己破壊であることは自明の理であろう。
にもかかわらず、毎年三月が来るたびに中学・高校の予備校化が新聞の話題になり、教育を歪める知育偏重の声が叫ばれる。知育偏重そのものはけっして悪いことだとは私には思えない。それどころか今日の教育の現状から考えれば、知識と技術の伝達はまだまだ足りないのだ。私自身甘やかされた教育課程を歩まされてきたお陰で、自分の中にたえず基礎的な知識や技術上の訓練の不足を感じている。私は勿論過去の教育内容に責任を転嫁しようなどと思ってはいない。
が、ときにはなぜもっと漢文などを自由に読める下地を与えておいてくれなかったか、なぜ大学の教養課程でラテン語やギリシア語の少くとも一方を必須科目にしておいてくれなかったか、などという弱音を吐くときもないではない。そういう不満は私ばかりではない。
戦後教育をうけてきた者が戦前の人達にもし劣っている点があるとすれば、この基礎的な訓練であって、例えば漢語造形能力、古文に親しむ習慣。ドイツ語ひとつを例にとっても、旧制高校では一週13時間あったものが、今日では4時間しかない。そしてなんら統一のない雑多な諸科学の詰め合わせセットを教養と称し、「幅広い教養人の養成」というまたしても抽象的・目的的な見取図によって、一番大事な時期に多大の時間を分散させ、二年きざみの学制によって自己集中の機会を逸している。
1965 年(昭和40年)『自由』7月号
つづく
非公開:私のうけた戦後教育(二)
直輸入教育の犠牲者として
私達がうけた正規の授業は、大部分グループ教育、サークル教育の形式をとった。あるとき一学期全部を「アメリカ研究」というテーマに費やしたことがある。これは「総合教育」の成果として市の進駐軍から称賛されたばかりでなく、担任の先生はPTAの席上父兄を前に得意の一弁説をふるったという。私は県の教育関係者や県内各地の小中学の先生たちがさかんに私達のところへ視察と参観に来たことを覚えている。
その経過を振返ってみたい。私達はまずアメリカ研究の方法について、相談役である先生の意見を参考にしつつクラス討論を行なった。実際はともかく、一応形は生徒の自主性で事を進めるという建前がとられていたのだ。それから各班がアメリカの工業、アメリカの地理、アメリカの家庭生活、アメリカの歴史といった研究グループにそれぞれ分れた。まるでクラブ活動みたいなものだ。時間割がないのだから、毎日がこの「社会科」である。国語などは、一ヶ月に一回ぐらいしかない。日本の地理や歴史は全然習わなかった。
私が属したのは「アメリカの地理」というグループである。そこで何をやったか。私はことさらに誇張して言っているのではない。正規の授業時間中に私は何度も粘土や絵具を買いに町に出かけ(時間の利用は生徒の自由に任されている)、社会科教室約半分の大きさに北米大陸の模型を作り、粘土のロッキー山脈に色を塗り、紙で作ったニュー・ヨークや各都市の間に電気機関車を走らせる。要するに遊びである。遊びたい盛りの年頃にはこれほど楽しい学校はないわけだ。
が、先生に言わせれば、地理を学びながら同時に図工を学ぶという総合教育の成果を上げ得たことになるらしい。また一つの研究目的に力を合わせることで民主的な共同精神が養われるという。それは知識教育では得られない貴重な生きた教育だという。三ヵ月後に各班が作ったグラフや模型を材料にして、研究成果(?)を発表し合ったが、参考書の丸写しにすぎない内容を読み上げることが、自分の意見を堂々と発表できる自主的な子供を育てるためだと説明された。
まったくお笑いである。
しかし、いまだから笑ってすまされるが、私達はていのいいモルモットであっただけでなく、じつは深刻な犠牲者でもあったのだ。学力の低下は著しく、私はこの二年間に手ひどい被害をこうむった。見るに見かねた両親が中学三年の始めにこの学校から私を退学させ、東京の普通中学に移したとき、二年間の空白は深刻な形で私を襲った。
当時すでに東京では受験競争が始まっていたのである。私は温室のなかの民主主義から現実にほうり出されたほどの衝撃をうけた。アメリカ式新教育の途方もない誤解形式は、東京ではすでにある程度は是正されていたのかもしれない。受験準備の慌しい知識教育が今ほどではないが、可也り熱心にすすめられていた。
1965 年(昭和40年)『自由』7月号
つづく
非公開:私の29歳の評論と72歳のその朗読
「花田紀凱ザ・インタビュー」というテレビ番組の再放送が本日23日(日)の午後7:00から8:00の時間帯にあり、私が出演します。
TOKYO MXテレビ14の放送で、普通テレビ受像機では9チャンネルです。東京以外に電波がうまく届くのかどうか私は知らないのです。
新聞をみると、少し羞しいのですが、「ザ・インタビュー(再)『これから成すべきこと』72歳論壇の雄・西尾幹二が明かす今後の計画」と書かれています。
私が一般地上波テレビに出演することは滅多にないので、私の残りの人生の抱負を語る番組としてあえておしらせしておきます。この中で私は29歳のときに書いた大江健三郎批判の評論の一部を朗読しています。
1965年(昭和40年)の『自由』7月号の「私のうけた戦後教育」からの朗読です。この評論は単行本に未収録で、今まで世にまったく知られていません。
私の新人賞論文がのったのは同誌の2月号で、「私のうけた戦後教育」は二作目でした。大江健三郎は昭和33年に芥川賞を受賞し、小説の他に『厳粛なる綱渡り』というエッセー集を出していて、それを私が批判しました。今なら大江健三郎への批判は珍しくありませんが、当時はだれもまだ思いつきません。彼はほめちぎられていました。
以下に全文を掲示します。大江への言及は終結部分に出てきます。
私のうけた戦後教育(一)
「民主教育」という愚かしく、腹立たしい体験から私は何を得たか。あるべき教育を訴える
新制中学での体験
私は戦前の教育を知らない。
私のうけた教育は大半が戦後教育である。大半と言ったのは初等教育の最初の三年半が戦時中であったからで、私は「国民学校」に入学し、「尋常小学校」を卒業した年代に属するからである。中学は、「新制中学」であった。まだ戦禍の跡も生々しく残る昭和23年、私は疎開していた水戸市の茨城師範附属中学に入学し、二年後東京に戻ったが、その二年間に私が附属の教育をうけたということは、いまいろいろな意味で回顧に値することのように思える。
戦争直後、アメリカ式コア・カリキュラムや民主教育の呼び声が怒濤のように流れ込んできたとき、鋭敏に反応し、まっ先にそれを受け入れたのが附属の教育である。学校全体がいわば新教育の実験場であった。附属というようなところには必らずといっていいほど熱心すぎる先生、教育理念にとり憑かれたような先生がいるものだが、私の担任もそんな一人だった。
当時は社会風俗もひどく混乱していた時代だ。新教育のいき過ぎは社会の安定に伴いその後かなり是正されていったであろうから、以下の報告はいまではほとんど信じてもらえそうもない昔物語かもしれない。しかし、戦後の民主教育がたどった諸傾向のある意味における原初形態が、このとき私が体験したもののうちにあったことだけは認めてもよいだろう。
教室における机の配置。通例の形式をとらず、三人づつ向い合う六人一組のグループ(男女各三)を八組ぐらい編成し、教室内に適当な間隔をあけて配置する。黒板に背中を向ける生徒もいるわけだ。教壇は取り払われ、先生の机は窓ぎわに移された。私達の学校は陸軍歩兵隊の兵舎跡を使っていたので部屋数にはかなりゆとりがあり、廊下をはさんだ向い側に、私達のクラスはもう一つの空き部屋「社会科教室」を与えられていた。
特定の学科をのぞいて一切の時間割が廃止された。いま正確には記憶していないのだが、数学、理科、音楽の三科目をのぞく残りのすべての学科を総称して「社会科」とよんでいたように思う。たんに歴史や地理だけではない。国語も英語も体育も図工も社会科のうちの一部門にすぎなかったのだ。各科目を有機的に連関して教えてこそ生きた教育ができる、ということだったらしい。が、時間割というものがないのだから、クラス討論会のようなもので午後一杯をつぶすこともあれば、全然英語の授業のない週が二、三週間つづいたりする。
要するに新教育の理念の名においていろいろ奇怪なことが行なわれていたのである。
生徒の自主性を育てること、単なる知能教育を排して総合教育を行なうこと――これは当時さかんに言われていた「理念」であった。
平等ということも新しい教育標識の一つであった。まず生徒同志の平等、次いで先生と生徒の人格的対等という関係。優等制度は廃止され、学年末には皆勤賞と努力賞だけが与えられた。先生が任命する級長はなくなり、生徒の互選する委員長が生まれた。先生は教えるのではなく生徒と共に考えるのである。先生はつねに生徒と友達のように話し合おうとする。生徒の犯した罪は叱るのではなく、生徒の立場に立って理解するのである。
どうもそういうことだったらしい。終始先生は私達の考え方に耳を傾けようとする姿勢を示して、アンケートのようなものをさかんに行なったが、子供の確乎とした考えがあるわけではなく、私達は教師の暗示につられて、結局は教師のしゃべっている「思想」を反復しただけではなかったろうか。どうもそんな気がする。
私は子供心にも終始はぐらかされているような不快感をかんじていたことだけを、いまはっきり記憶しているからである。先生は私達子供を一人前の大人のように扱うことによって、師弟の対等な人格関係という民主教育の理想を体現しているという自己錯覚に陥っていたのではないか。先生の理想のために、子供の私達は利用されていたにすぎない。私達はけっして一人前の人格として扱われていたのではない。子供を一人前の人格として扱うべきだという民主教育の実験材料にされていただけなのである。しかも材料として操られていたのは子供達だけではない。先生もまた民主教育という観念に操られていた犠牲者の一人なのである。
一般に大人が意図するところを子供に気づかせずに、意図した結果だけを子供に信じさせようとしてもそれは無理な話である。子供はそんなに単純ではない。いや、ある意味では子供ほど敏感なものはない。大人の意図をことごとく見破ることはたしかに子供には不可能なことかもしれない。しかし、大人が大人らしくなく振舞えば、それが何を意図するのかは分らないでも、なにかが意図されているということだけは子供は誰よりも早く敏感に感じとるものである。
そこには不自然さがある。というより、嘘がある。新教育に熱心な先生に私がたえず感じていた子供心の反撥心は、そこになにか嘘があるという説明のできない不信感であった。先生が先生らしくなく振舞えば、子供はそこに作為しか感じない。先生と生徒との間には、厳とした立場の相違、役割の相違がある。そういう暗黙の約束があることを誰よりもよく知っているのは子供である。先生が役割にふさわしく振舞ってさえくれれば、子供は先生を信頼し、先生に人格を感じる。子供の人格を尊重すると称して、いたずらに理解のある態度を見せ、まるで友達同志のように話し合おうとする先生には、子供は人格を感じないばかりか、結果として子供の人格も無視されることになるのである。そこには非人間的な関係、抽象的な人間関係しかないのだ。
あるとき私は、先生をしている友人に右のような話をしたところ、そういう弊害が起るのは日本の民主主義がまだ完成していないからだ、と言われたことがある。何という観念的な考え方だろう。民主主義が完成しようがしまいが、大人の心、子供の心に変りがあり得ようはずがない。
1965 年(昭和40年)『自由』7月号
つづく
春の雨
春の雨が降っている。久し振りの雨である。桜はまだ開いていないが、早咲きの樹にはすでに花があり、梅かと思って近づくと、やはり桜である。
公園の池の畔に並ぶ樹々がいっせいに開花するのはあと一週間もないであろう。すでに梢の枝がうっすらと色づき出している。
「日録」を復活すると約束していながら、私の活動について相変わらず丁寧な報告を怠っているのは心苦しい。
年末から「路の会」は3回開かれている。佐伯啓思氏をお呼びした11月例会は「日録」でも報告したが、12月は桶泉克夫氏が「華僑、華人について」を話して下さった。1月は新年会で盛会だった。2月は古田博司氏が「別亜論とは何か――支那と中国を埋めるもの」と題して熱弁をふるってくれた。3月はこれからで、27日に長谷川三千子氏が「三島由紀夫論――『英霊の声』とイサク奉献」と題する新しいご著作のための試論を展開して下さる予定である。
どの話も私にはすこぶる有益で、参考になる。テープを聴き直して「日録」に要約をのせたいといつも思う。自分の勉強にもなる。本を読むより人の話を聴くほうが身につくこともあるのは最近の私の傾向である。
だがどうしてもその暇がとれず、次の例会が来てしまう。雑誌原稿と本づくりの準備作業に追われているためで、若いときと同じようにあたふたしているのである。
「三島由紀夫の死と私」(第2回)は引用の多い仕事で、若い日の記憶の整理のために書いた。一月の大半を使った。100枚を越える分量である。佐藤幹夫さんの誘いがなければ決して表には出なかった秘話の展開であった。佐藤さんの『樹が陣営』という個人雑誌にのる。特定の書店でしか入手できないが、来週には店頭に出る予定である。
年末に出た「日本は米中共同の敵になる」(WiLL2月号)はとても受けのいい論文だった。いろいろな感想を頂いた。手ごたえの如何は勘で分るのである。
政治家を叱った「金融カオスへの無知無関心」(Voice4月号)の評判はまだ分らない。『Voice』の論文はたいていいつも反応が遅い。
私はドイツ文学者だと知られているので、金融問題を書いてもいまひとつ信用されないのかもしれない。しかしエコノミストの書く金融論には政治が書かれていない。国際政治の葛藤がない。私はその不満を自分の努力でカヴァーしようとしているのである。
次の月の号には皇室問題を取り上げている。大上段振りかぶって天皇制度の本質をまず述べて、そこから現象を論じている。33枚のそれなりの力作のつもりである。表題は編集長がつけて「皇太子さまに敢えて御忠言申し上げます」(WiLL5月号)となっている。あと一週間で店頭に並ぶ。
誰もが知る現下のデリケートな問題を、オピニオン誌で一人の論客が責任をもって自説をまとめて展開するのは初めてだからと言われて、それもそうかと思い、決断した。ずっとこのところ、場合によっては私が書こうかと漠然と思って迷っていた矢先だったので、依頼を引き受けた。
私が『GHQ焚書図書開封』というシリーズの刊行の第一巻を計画していることは既報のとおりである。内容の95パーセントはできあがっている。あとは写真やグラビアを考える段階まできているが、研究中に重大な発見があって、さらに探求が必要となり、発行日を5月に延ばすことになった。
「焚書」とは何か?という根本の命題に関わるところで、さらに詳しく調べなければならなくなったのだ。GHQの命令に応じて協力した日本人学者がいるに違いない。日本側にも司令塔があったに違いない。占領軍に日本を売って、この国を今のような惨めな国にした精神的裏切り者がいたに違いない。私はずっとそう予感していた。
国立国会図書館からの昭和21年の文献探索中に東大文学部助教授――後に有名な学者知識人となる――の2人の名前が浮かび上がったのである。今はそこまでしか言えないが、文化的大事件に発展するスクープかもしれない。さらに詳しく探求が必要となってきたのである。
私にはまったく時間のゆとりがない。次から次へと各種の問題が押し寄せてくる。しかし私の人生を苦しめつづけてきた「戦後犯罪人」の名前とからくりのすべてが今度明らかになるのかもしれない。
いま人権擁護法や、外国人参政権や、チベット問題への政府の沈黙や、沖縄集団自決問題や、台湾独立への日本政府の非協力や、・・・・・・そもそも何から何までのテーマの大元となり、日本人を無力化した精神的痴呆化の元凶と歴史抹殺のそのメカニズムが明らかになるかもしれない。
ともあれそんな期待で寧日なく、しかし元気に生きている。「日録」は今日のようにホッと空白ができた日に、またこんな風に綴ることにしたい。
どうやら雨は小止みになった。犬の散歩に出ようかと思う。
イージス艦事故
2月29日の産経「正論」欄の拙文を掲げます。ニュースとして遅くなりましたが、問題は今も変わっていません。
自衛隊の威信は置き去りに
国防軽視のマスコミに大きな責任
《《《軍艦の航行の自由は》》》
海上自衛隊のイージス艦が衝突して漁船を大破沈没せしめた海難事故は、被害者がいまだに行方不明で、二度とあってはならない不幸な事件である。しかし事柄の不幸の深刻さと、それに対するマスコミの取り扱いがはたして妥当か否かはまた別の問題である。
イージス艦は国防に欠かせない軍艦であり、一旦緩急があるとき国土の防衛に敢然と出動してもらわなければ困る船だ。機密保持のままの出動もあるだろう。民間の船が多数海上にあるとき、軍艦の航行の自由をどう守るかの観点がマスコミの論調に皆無である。
航行の自由を得るための努力への義務は軍民双方にある。大きな軍艦が小さな漁船を壊した人命事故はたしかに遺憾だが、多数走り回る小さな漁船や商船の群れから大きな軍艦をどう守るかという観点もマスコミの論議の中になければ、公正を欠くことにならないか。
今回の事故は目下海上保安庁にいっさい捜査が委ねられていて、28日段階では、防衛省側にも捜査の情報は伝えられていないと聞く。イージス艦は港内にあって缶詰めのままである。捜査が終了するのに2、3カ月を要し、それまでは艦側にミスがあったのか、ひょっとして漁船側に責任があったのか、厳密には分らない。捜査の結果いかんで関係者は検察に送検され、刑事責任が問われる。その段階で海上保安庁が事故内容の状況説明を公開するはずだ。しかもその後、海難審判が1、2年はつづいて、事故原因究明がおこなわれるのを常とする。
《《《非難の矛先は組織に》》》
気が遠くなるような綿密な手続きである。だからマスコミは大騒ぎせず、冷静に見守るべきだ。軍艦側の横暴だときめつけ、非難のことばを浴びせかけるのは、悪いのは何ごともすべて軍だという戦後マスコミの体質がまたまた露呈しただけのことで、沖縄集団自決問題とそっくり同じパターンである。
単なる海上の交通事故をマスコミはねじ曲げて自衛隊の隠蔽(いんぺい)体質だと言い立て、矛先を組織論にしきりに向けて、それを野党政治家が政争の具にしているが、情けないレベルである。今のところ自衛隊の側の黒白もはっきりしていないのである。防衛省側はまだ最終判断材料を与えられていない。組織の隠蔽かどうかも分らないのだ。
ということは、この問題にも憲法9条の壁があることを示している。自衛隊には「軍法」がなく、「軍事裁判所」もない。だから軍艦が一般の船舶と同じに扱われている。単なる交通事故扱いで、軍らしい扱いを受けていないのに責任だけ軍並みだというのはどこか異様である。
日本以外の世界各国において、民間の船舶は軍艦に対し、外国の軍艦に対しても、進路を譲るなど表敬の態度を示す。日本だけは民間の船が平生さして気を使わない。誇らしい自国の軍隊ではなくどうせガードマンだという自衛隊軽視の戦後特有の感情が今も災いしているからである。防衛大臣と海上幕僚長が謝罪に訪れた際、漁業組合長がとった高飛車な態度に、ひごろ日本国民がいかに自衛隊に敬意を払っていないかが表れていた。それは国防軽視のマスコミの体質の反映でもある。
《《《安保の本質論抜け落ち》》》
そうなるには理由もある。自衛隊が日本人の愛国心の中核になり得ず、米軍の一翼を担う補完部隊にすぎないことを国民は見抜き、根本的な不安を抱いているからである。イージス艦といえばつい先日、弾道ミサイルを空中で迎撃破壊する実験をいった。飛来するミサイルに水も漏らさぬ防衛網を敷くにはほど遠く、単なる気休めで、核防衛にはわが国の核武装のほか有効な手のないことはつとに知られている。
米軍需産業に奉仕するだけの受け身のミサイル防衛でいいのかなど、マスコミは日本の安全保障をめぐる本質論を展開してほしい。当然専守防衛からの転換が必要だ。それを逃げて、今のように軍を乱暴な悪者と見る情緒的反応に終始するのは余りに「鎖国」的である。
沖縄で過日14歳の少女が夜、米兵の誘いに乗って家まで連れていかれた、という事件があった。これにもマスコミは情緒的な反応をした。沖縄県知事は怒りの声明を繰り返した。再発防止のために米軍に隊員教育の格別の施策を求めるのは当然である。ただ県知事は他にもやるべきことがあった。女子中学生が夜、未知の男の誘いに乗らないように沖縄の教育界と父母会に忠告し、指導すべきであった。
衝突事故も少女連れ去りも、再発防止への努力は軍民双方に平等に義務がある。