続・つくる会顛末記 (六)の4

続・つくる会顛末記

 

(六)の4

 驚くべきことに、「総額1728万円、月額17万円(保守料)」はあっという間に値引きされ、「1000万円、11万円」と決定されました。こういうことがますます謎を深めます。どういう仕掛けになっているのでしょう。簡単に700万も値引きするなんてことは、どうしても私には分らない。

 「遠藤報告書」の平成15年1月22日~(18)から平成17年4月7日~(28)までを読んでいたゞくのが一番手っ取り早い。

遠藤報告書1
遠藤報告書2

 ソフト開発購入代価と保守契約込みで1000万円になってみんなよかった、よかったと安心して、保守契約が「玉虫色」であったことは当時は誰も気づいていませんでした。ついに今に至るまで、きちんとした保守契約は具体的に決まらないままできました。常識的に業界では考えられない業者の不誠実を目の当たりにし、富樫氏は将来に及ぶ器械不調を考慮に入れて、第三者の専門家を交えてあらためて保守契約をすべきと考え、再度理事会へ提言文書を提出しました。が、また種子島、宮崎の両氏にはばまれて、彼女の提言は無視されました。

 宮崎氏は、理事会承認をいいことに、女史の進言を無視して業者からの請求書もまだ受け取っていないうちに、ただの口約束で、購入代金の一部525万円の支払いをすませました。いつも支払っている小口の支払い口座に投げこむという杜撰さで、この話を聞いて調査委員会のメンバーもあいた口がふさがりませんでした。

 事務的に一連の契約書関係書類、保守契約書等がなんとか出揃ったのは、理事会の承認からなんと5ヶ月も経った後になってやっとという始末でした。

 最初の頃はコンピュータに不具合が発生しても、業者は相談に乗ってくれていたようですが、だんだん応対が悪くなり、オペレーターは日常業務に支障をきたすようになりました。Mさんは毎日のように起こる器械の異常をノートし、約1年の記録データを残しています。それでも業者が面倒を見てくれる間は良かったのですが、だんだん手抜きになり、ついには、平成17年11月頃に、業者側から翌年3月で保守契約を解消すると通告してきたのです。契約は「玉虫色」で、会社側は保守する義務は必ずしもないと考えていたからでしょう。

 担当オペレーターのMさんは、業者の対応に苦慮し、宮崎事務局長に何度も相談するも、事務局のこの担当のT氏が会社と会を往ったり来たりするだけで、容易にらちがあきません。ついには、自分の担当する職務に自信がもてなくなり、会を退職するに至りました。

 今、コンピュータは正常に動いているといわれていますが、果してバグが改善されているのか、データーが正常に作動しているのかは、詳しく調査してみなければ分りません。いま別の人により保守が開始されたので、何とか動いているのが実情です。一定の保守がなされれば瞞し瞞し使いつづけることはできるでしょうが、「保守契約」のなかった曖昧な無契約状態のまま打ち捨てて来た罪は消えていません。

 それに、最初のこの玉虫色の曖昧さ、保守契約の点だけでなく金銭的にもはっきりしない宙ぶらの状態をかたくなに封印し、死守し、「公認会計士」の口出しを威嚇をもって退けた種子島氏と宮崎氏の姿勢に、何故? 何があるの? という不審の思いを抱くのは私ばかりではないでしょう。当時私が口出ししようとしても露骨に不快な顔で拒絶されました。

 種子島氏は会長になるや、コンピュータは動いている、問題はなにもない、と待っていましたとばかりに一早く宣言しました。そしてFAX通信にそのような意味の一行を入れておけ、と、事務局員に命じて、急遽一文が挿入されました。

 動いていれば問題がないということにはなりません。いつ動かなくなるかもしれない、それに対する用意ができていないまゝに放置されていた責任が問われているのです。

 じつは「遠藤報告書」には注目すべき記述があります。平成14年2月会社はサラリーマンK氏のソフトを継承しての作成は困難と判断し、独自システムの構築を提案しますが、宮崎氏は従来の機能を維持することをくりかえし主張しました。

平成14(2002) この頃種子島副会長は事務局長に対し、①旧システムをベースせず、全く新しいシステムを構築する、②ユーザー(つくる会)側の要望を一本化し同事務局長が折衡の窓口になることを事務局長に指示(宮崎事務局長は「記憶にない」)。

 種子島氏は海外に行く前に①②を言い置いて行ったのに事実はその通りになっていなかったと後で主張しています。二人のうちどちらかが嘘をついていることは明かです。

 「遠藤報告書」の第一稿がほゞ出来たとき、それを藤岡氏が種子島氏に伝え、種子島氏は「経緯はその通りだ」と応じ、ただし自分はこう言い置いて海外に行ったのに宮崎氏が守らなかった、と平成17年10-11月頃に証言し、この①②が報告書につけ加えられた、というのが真相です。

 平成14年3月に試みに第一次納品がなされましたが、二人の女性オペレーターがファイルメーカー使用の従来の機能が反映しておらず、不満を表明し、相談の結果ファイルメーカーを使用した折衷案で行くことになったそうです。会社はファイルメーカーを使用したことがないので分らない、と言っていたそうですが、オペレーター側の要望に妥協したようです。

つづく

続・つくる会顛末記 (六)の3

続・つくる会顛末記

 

(六)の3

 以下、富樫氏から最近私が聞き書きし、同時に重要な個所をご自分の筆でメモを書いてもらいましたので、両方を用いて叙述します。

 富樫氏は宮崎氏にいくら聞いても埒があきません。宮崎氏も「あなたがそんなに疑問があるなら、自分で業者に直接聞いてくれ」と言い、一緒に心配する風はない。つまり、宮崎氏はこの額にびっくりしていないのです。

 彼女は大変なことになったと考え、コンピュータ会社の業者に会う前にソフトに詳しい専門家の意見を聴取したいが、第三者に内情を知られるわけだから、田中英道会長(当時)に電話で知人のソフト専門家に調査を依頼してよいかと尋ねた処、「どうぞ、どんどんやって下さい」とのことで、はっきり覚悟ができて、小林図南(となみ)氏にたのみました。調査は1月21日に行われ、「システム環境報告書」と称され、1月27日の理事会に提出されています。どうかこれをクリックしてよく読んで下さい。1728万円を請求されたコンピュータソフトの能力に関する、第三者による査定、一人の専門家の判定です。

 平成15年1月17日、富樫氏は直接業者に会って質問をする場がセットされました。小林図南氏の報告書はこのとき間に合いませんでしたが、ともかく会社の担当者に面談したのです。なぜかその場に種子島氏が出て来ていました。

 以下富樫氏の文章です。

当日、種子島財務担当理事、宮崎事務局長も同席した。両名は、始終業者寄りの発言をし、ことごとく私の疑問を否定して、つくる会側の利益を代表するのではなく、まるで業者側の者であるかと錯覚するぐらい業者側の立場に立った発言であったので、私は、これまた驚愕の事態で、一体全体どうなっているのか一瞬わけがわからなくなった。

① 本来、契約条件は明確にして取引されるのが通常であるのにすべてが口約束ですすめられていることの異常性、
② この契約が相見積もりを取って選定し、決定したものでない随意契約で、しかも事務局の関係者に由来する契約であること、
③ つくる会にとっては相当な高額投資の案件であること、
④ 当初発注のSQLシステム仕様になっていないものが納入され、半素人が作成した従来のソフトに比して機能の向上が全くない同じものに1000万以上の投資額にのぼることをどのように解釈するべきか、
⑤ ①~⑤の疑問について宮崎事務局長、財務担当理事の種子島氏が全く私と見解を異にして、しかも私の疑問を種子島氏は、頭ごなしに業者の前で面罵したことにこの取引の不可解さが一層増した。

 それから面罵されたときどんな対話だったかを思い出して、富樫氏には以下の通り補足しています。よほど腹に据えかねたのだと思います。

 その時の応接室で業者と宮崎氏の前で種子島氏から言われたことは、以下のとおりです。

① 「あなたには会計のことは頼んでも、このようなことは頼んでいないので口出しするな。」
これに対して私は、このような投資に係わる契約は会の財産の変動を及ぼす事項であり、これは、まさしく会計領域に属しますと反論いたしました。

② 「ソフト開発というものは、当初予算よりオーバーするものであり、通常起こりうることだ。私がBMWの社長時代の10年程前に、当初3000万円の投資が5000万円になった契約をした経験がある。この金額が高いものではない。」と発言した。

③ 「財務担当の私に一番に相談すべきなのに、私の頭ごしに、田中会長、西尾名誉会長に相談するとはなにごとか。ビジネスの世界では、根回しというものがあることは、あなたは、知らないのか。女であってもそれくらいの常識は、知っているでしょう。」と言われてしまいました。

 今まで、種子島氏に相談しても、なにかと意見が違い私の進言を聞き入れてくれなかったので、直観的に、種子島財務担当理事をとうさず、田中会長、名誉会長に相談したことを不服として仰ったものと思います。

 日本の社会で「公認会計士」とは地位の高い、ビックな存在です。女性だからと思ってなめたのか、大変な侮辱です。彼女は企業その他で数多くの仕事をこなしていますが、「つくる会」ほどひどい扱いをした例はほかにないでしょう。

 1月27日に富樫氏は「新会員管理システム移行取引について」の文書を理事会に提出。小林図南氏の判定を添付しました。2月10日にも「同文書の理事会決定事項への提言」を出し、会計士としての道理ある正義の立場を貫こうとしました。

 しかし彼女は理事会には出席できません。代りに私がこの取引の異常性を訴えました。契約書もなにも揃っていなかった不始末、相見積りをとっていない努力不足、金額が高すぎること、契約は全面的に破棄すべきことを訴えました。私は二度の理事会で数字をあげ、書類をかざして叫んだのですが、そのつど会議室はシーンと静まり返って、なにも起こりません。

 種子島氏に全面委任、事務局長を今さら困らせることはできない、という沈黙で、静まりかえって誰もことばを発する人がいません。たゞ素頓狂な発言をとつぜんした人が一人いるのではっきり覚えています。

 高森氏が、「でも契約書も、請求書も、見積書もみんな後から追っかけて、富樫さんに作ってもらって、みんな間に合ったんでしょう。じゃあ、いいじゃないですか。」

 藤岡氏は財務の一件になるといつも完全に沈黙します。後で人から聞きましたが、「西尾氏がコンピュータのことで騒ぐのは、田中会長を困らせ、追い落とすための工作だ。」こんなことを言ったというのです。

 私が声を大にして叫んでもビクともしなかった会の空気、しめし合わせて私の質問を封じた壁のような抵抗――その背後に何があるのかいまだに私には分りません。

 読者の皆さんは、この「名誉会長」は我侭で、好きなように会を動かして来たといわれ、それを信じているようですが、コンピュータ問題に関する限り、てこでも動かぬもの、どうやっても開かない「開かずの扉」の前で私ははね返されました。誰が何を隠しているのか、私にはいまだになにも分りません。

 しかしこの謎がずーっとつづいていて、それがオペレーターのMさんを立往生させた平成16-17年のシステムの不具合の連発につながってくるのです。

つづく

続・つくる会顛末記 (六)の2

続・つくる会顛末記

 

(六)の2

 コンピュータ関係の専門の会社に依頼したのですが、それが平成13年10月でした。私が1000万円以上かかると聞いたのが平成14年11月頃、会が正式に「総額1728万円、月額(17万円)保守料」の仮契約書を提示されたのが平成15年1月で、つまり依頼が開始されてから金額提示までに1年以上かかっております。

 その間にオペレーターが今まで使っていたファイルメーカーを踏まえた上で、今以上に使い易くレベルアップしてほしいといい、あゝだ、こうだと新しい注文をつけ、時間がかかり、会社側の人件費がかさみ、えらい金額になったというのです。それにしてもおかしい。

 ファイルメーカーを止めさせて完全に新しくするか、ファイルメーカーをその侭使用しつづけるか――二つに一つが常識のはずです。そのことをきちんと教えない会社側も悪い。こちらは素人の集団で、事務局長は何にも分らないのですから、オペレーターの要求に合わせていけば人件費が最後いくらになるとかきちんと予め言うべきです。

 事務局長も問うべきだし、計算を口頭で言い合うのではなく、計算書を交すべきです。大体、複数の企業に依頼して、相見積もりをとって安い方にきめるのが常識ではないですか。クライアントの責任者である宮崎氏は余りにトンチンカンでした。大工を入れて自宅を改造するときだって口頭の約束で工事をすすめるなんてことはありません。これから述べますが、相見積もりをとるチャンス、契約を止めて別の会社に乗り換えるチャンスは他に幾度もあったはずです。

 私が伊藤哲夫氏に、12月1日のあの電話のときですが、「宮崎さんは実務社会で生きた経験がない。奥様の実家が財産家で、自分の印鑑を捺して不動産を買ったりローン契約を結んだりした経験もない。コンピュータ問題でもろに欠点が露呈した。」という意味のことを言ったとき、彼はこういう言い方に激昂したのです。尊重すべき昔の同志が侮辱されたと思ったのでしょう。ですが、日本政策研究センターが同じ目に遭ったら、彼はそれでも尊重しつづけるのでしょうか。

 先日ある人がDELLのデスクトップを使えば、会員管理システムなんか10万円でお釣りがくると言っていました。それはともかく、上等のソフトでも100-300万円程度を越えることはないというのが常識で、そのことを発注前にしらせ、この会社は止めた方がいい、安いのがいくらもあると警告していた人がいるのです。それが会の経理を見ていた公認会計士富樫女史でした。

 平成13年11月にファイルメーカーとまったく別の新しいシステム、高度の内容を盛り込んだSQLシステムを構築する約束で、会社側は自社の見積りを提示しました。最初それが750-900万円で、富樫氏は高額投資になるので他社との相見積りを取ること、執行部ならびに種子島財務担当理事の承認を得ることを進言しました。

 「つくる会」事務局再建委員会の「会員管理システム問題にかかわる調査報告」(平成17.11.12)、遠藤浩一氏が努力なさったので俗にいう「遠藤報告書」によると、種子島氏は口頭でこれを了承、相見積りの件は無視したようです。宮崎氏はともかく慎重にと思い、友人に見積りの妥当性を問うと、「会社との契約であれば安いし、妥当」との回答を得たので、踏み切ったと言います。

 ある人が「普通こういうのは100万までという答えが返ってくると思いますが、1000万の発注をするのに相見積りを取らないでいいのか、安く上げようとする努力が見受けられないではないか」(ブログ Let’s Blow! 毒吐き@てっく「作る会よ(元・現)いい加減にしろ!」参照)と言っていますが、宮崎氏が種子島氏に富樫氏の進言を伝えなかったとしても、実務家の種子島氏が相見積りを取るべきと自らここで立ち止まって考えべきではなかったですか。

 約1年半たって平成14年11月頃にソフトは完成し、納入されました。しかし約束していた高度なSQLシステム仕様ではなく、サラリーマンのK氏がサイドビジネスで作ったソフトとなんら機能的に変わらないものでした。富樫氏は経理の担当者として、契約書等の提示を求めましたが、一連の取引契約書類が一切なく、すべてが口頭で進められていたことを知り、唖然としました。そのときの代価提示類は、これまた口頭で1000万円程度と聞き、高額なので執行部の承認を求めるよう指示しました。

 私が富樫氏から「大変なことが起こっている」と伝え聞いたのは丁度この時期です。半素人のK氏がつくったのと機能的に大差ない代物がなにゆえにこんなに高額なのか、常識的に考えても納得がいかないので、彼女は早く契約書、見積書、請求書明細などを提出するように指示したのですが、とにかくなんにも揃っていません。

 年が明けて平成15年1月となり、仮契約書類が入手されましたが、「総額1728万円、月額17万円(保守料)」に富樫氏はびっくりし、「これはどうしたことか」と宮崎氏に問うたそうですが、彼は答えられない。

つづく

続・つくる会顛末記 (六)の1

続・つくる会顛末記

 

(六)の1

 コンピュータ問題(つくる会会員管理システムの保守契約不備をめぐる問題)は、坂本多加雄氏のご死去の当時に端を発します。ご死去は平成14年(2002年)10月29日で、そのころ私は会の財政に疑問を持ちだしていて、11月26日の理事会に「会の財政への疑問」(B4四枚)を単独提出しました。私は普段は議事に参加しませんが、危機信号を発するのが名誉会長の仕事だと思ったからです。

 採択運動の年でもないのに、その年と同じように気前よく予算が組まれ、私の目から見て明らかに浪費ぎみなので、私は思い切って富樫信子公認会計士に事前に質問をぶつけて、自分の目で調べました。専門会計士の計算書は素人目に複雑でスッと頭に入りません。私は大づかみな数字が必要だったのです。

 会費を主体とする会の通常収入はいくらで、家賃・人件費・通信費・支部交付金・「史」発行費などの通常経費はいくらなのか。前年の採択運動に大体いくらかかったのか。臨時収入はどれくらいあったのか。そして前年度の繰越金を含めていまいくらあるのか、等です。

 私は大雑把な分り易い数字説明を求めました。その結果、通常収入は通常経費とほゞトントンで、従って会費収入は会を維持するだけで、運動費はそこから出てこないことが判明しました。つまり、会費収入だけではただなにもしないでじっと坐っていることしかできないのです。

 このことは会員数の減った今はもっと深刻なはずです。「つくる会」に残った理事諸氏はしっかり頭に入れておいて下さい。

 しかし種子島財務担当理事が、預金残高を見て、「まだ大丈夫だ。お金を貯めるのが会の目的ではない。運動に使わなければ意味がない」といって、採択の年でもないのに、通常収入の約半分もの運動費を予算に計上するので、みんな安心しきってお金を使っていました。しかし今言ったように運動費はもう新たな出所がないのです。私はこんな有様ではやがて行き詰まり、次の採択の年に運動費ゼロということになってしまいますよ、と警告し、会は財政破綻で潰れるかもしれない、と言い添えました。

 余談ですが、この年の年末に永田町星陵会館で「坂本多加雄先生を偲ぶ会」が行われ、関係者で会食し、終って二次会の坂本夫人もおられる席で、藤岡氏が何か思い詰めたような顔で、飛びかからんばかりの勢いで「西尾さんは破壊主義者だ!この会を潰そうとしている」と大声で言い出しました。勿論、酒に酔った放談の席です。そのときは八木さんが「破壊主義者はないでしょう。会を大切に思うから心配しておられるのであって、話は反対でしょう。」といなしてくれました。

 藤岡さんには「ジャイアンツは永遠です」の長嶋茂雄と同じく、「つくる会は永遠です」のテーゼに一寸でも抵触する言葉は禁句で、いつもおかしいくらい過剰反応します。子供っぽいとも言えますし、ほゝ笑ましいとも言えますね。

 閑話休題。会の財政資料を個人的に解説して下さった富樫監事が同じころ「先生、こんな事より、はるかに重大な財政問題が会には他にあるんですよ。」と教えてくれたのが、会員管理のコンピュータソフトの取り替えです。ろくな契約も結ばず、1700万円も請求され、おかしいと言って富樫氏がしきりに抗議と警告を重ねているという重大新事件です。

 財政を私が心配しているとき、いきなり1700万円という巨額に驚きました。この小っぽけな会の当時の預金残高の約三分の一でした。たった今、やがて財布の底がつくと心配しているのに、ほかでもない、まさにそのときこんな大きな額が流れ出してしまうというのですから、私が愕然とし、富樫女史から逐一事情を聴取したのはいうまでもありません。「先生、必ず理事会に持ち出して下さいね。」

 コンピュータは私の最も苦手の、手に負えない分野です。文学部出身者の多い、実務に乏しい当会の理事諸氏にとっても完全に未知の世界でした。つまり、彼らも私もみな無知です。宮崎事務局長も同様で、知らぬ世界のことゆえどうして良いか分らなかったという同情すべき一面があります。

 会は発足当初からK君という若いサラリーマンに委託し、ファイルメーカーのソフトを使用して、会員管理システムを作成してもらい、保守管理も委ね、毎月28万円を支払っていました。これが高いのか安いのかは私だけでなく、当時会にいた誰にも分りません。

 先述の藤岡氏のエピソードといい、K君の一件といい、お恥かしいことに会の関係者はことほどさように金のことには疎いのです。種子島氏はだから救世主でした。みなが彼に依頼し切ったのは当然ともいえます。

 問題はK君の素人芸はもうやめて、きちんとした会社に委託してシステム開発と保守を担当してもらおうと考えるようになって以来のことです。私には話してもどうせ分らないと思われていたらしく、事情は全然聞かされていませんでした。そして突然1700万円という数字を打ち明けられて、不安になったのです。

つづく

続・つくる会顛末記 (五)の3

続・つくる会顛末記

 

(五)の3

 八木、藤岡両氏が椛島有三氏を訪問したのは12月14日です。私が得たのは藤岡氏からの間接情報です。氏の記述によると、椛島氏は「どうか『つくる会』の分裂だけは絶対避けてほしい」とくりかえし言っていたそうで、また同時に、「宮崎氏は人的ネットワークの中心なので断ち切らないでほしい」といい、つまり何とか雇っておいてくれの一点張りで、穏やかな言葉の背後に、強い意志が感じられたそうです。「『つくる会』を自分たちの支部みたいに思っている」という感想を藤岡氏は漏らしていました。

 じつは彼がそう思う根拠が訪問のわずか三日前、12月11日に起こっていました。これが椛島氏サイドからの圧力の結果なのか、伊藤氏のプッシュによるのかは分りませんが、八木氏が11日(日)夜、「処分はすべて凍結、宮崎氏を事務局長に戻し、来年3月までに鈴木氏に移行する。以上の線で収拾することで会長に一任してほしい」と各副会長への緊急通達を出し、執行部管理以来八木氏の命令で自宅待機させられていた宮崎氏を事務所に戻す突然の決定が打ち出されました。

 これに平仄を合わせるかのごとく、12月11日(月)に例の四理事抗議文が出され、一読して衝撃を受けました。しかしこの抗議文と伊藤氏、椛島氏との関係性などは、その時点では、いやそれからしばらくの間もまったく分らず、どこでどうつながっているかは迂闊にも後でだんだん気がつくようになったのでした。

 今思うと八木氏を突然動かしたのは、彼を若いときから育てて来た庇護役の伊藤哲夫氏ではなかったか。八木氏は繁く伊藤氏と電話を交していたからです。これは勿論、私の推理です。しかし他方、四人の抗議文は分りません。15日に宮崎氏は「俺の首を切れば全国の神社がつくる会支援から撤退する」と事務局員たちの前で豪語したと記録にあり、彼はとつぜん強気に転じているのです。

 このときも私がすぐに椛島氏と会談しておけば、事態は少し違ったかもしれません。しかし私はニュージーランド旅行中で、帰国は13日、私だけでなく他の人も年末で忙しく、心の余裕がありませんでした。椛島氏の方からも働きかけはなく、さしたる重大事と思っていなかったのでしょう。

 私はそれから一週間以内に、小堀桂一郎君に電話をして、事情説明をしています。彼は楽天的でした。「日本会議がつくる会を制約するなんてことはないよ。それは多分、若い頃の学生運動のよしみで、古い仲間を守ろうとしているだけだよ。」多分彼の言葉の言う通りでしょう。しかし古い仲間を守るということが道理を超えていて重大なのですから(公私混同になるので)、小堀君も引き入れて、椛島氏とあのとき三者会談を設定すべきでした。私は「名誉会長」としての義務を怠ったのですが、私もじつはさしたる重大事と思っていなかったからでした。

 四理事抗議文は内田智、新田均、勝岡寛次、松浦光修の四氏連名で出されて、すでに知られた〈コンピュータ問題の再調査は「東京裁判」のごとき茶番だ〉云々といった例の告発状めいた文章のことですが、私はいきなりこれを会議の席で見て、今まで例のないなにかが始まったと直観しました。

 会の中に会派が出来て、一つの要求が出されたのは初めてでした。西部公民グループは「つくる会」の外の勢力でした。『新しい公民教科書』は外の団体への委託でした。内部に一つの囲い込みの「意志」が成立すると、何でもかんでもその「意志」に振り回されてしまいます。これは厄介なことになったと正直このとき以来会の分裂を現実的なことと考えるようになりました。

 「会中の会」が生まれると、会はそれを力で排除しない限り、方向舵を失い、「会中の会」に支配されるか、さもなければ元の会が潰れるかもしくは自爆してしまわない限り、「会中の会」を振り払うことができないものです。イデオロギー集団とはそういうものだと本能的に分っていました。

 さて、今まで隣りにいた四人がにわかに異邦人に見えたときの感覚は、時間が経つうちにますますはっきりし、分裂にいたる事件の流れの果てに、最初の予感の正しかったことが裏づけられました。

 12月の後半から1月にかけて、何が背景にあるのかを事情通に調べてもらいました。私には二人の50歳代の、昭和40年代の保守系学生運動を知る人にご教示いたゞきました。小堀君の先の「学生運動のよしみ」という言葉がヒントになったのです。一人は福田恆存の、もう一人は三島由紀夫の比較的近い所にいた人から聞いたのです。

 そして旧「生長の家」系学生運動があの頃あって、転じて今、「日本青年協議会」や「日本政策研究センター」になっていること、四理事のうち三人と宮崎氏がその運動の参加者で、宮崎氏は三人の先輩格であることを知りました。昭和47-48年くらいのことで、彼らももう若い頃の運動を離れて久しく、元の古巣はなくなっているでしょう。

 政治運動は離合集散をくりかえしますので、小会派の名前や辿った歴史を概略人に教えられましたが、あまりに入り組んでいて、書けば必ず間違える仕組みですので、関心を持たないようにしています。

 「生長の家」という名も、谷口雅春という名も知っていましたが、私はあらゆる宗教の根は同じという万教帰一を説いた世界宗教というような妙な知識しかなく、政治運動もやっていたことは全然知りませんでした。60年安保騒動に反対する積極的役割を果したと後で聴きましたが、私の20代の思い出の中にこの名はありません。皇室尊崇を強く掲げた精神復古運動といわれているようです。

 そういえば、「つくる会」四人の「言い出しっぺ」の一人の高橋史朗氏が旧「生長の家」系でしたから、「つくる会」は最初から四分の一は谷口雅春の魂を抱えていたわけです。それはそれでいっこう構いません。様々な経歴と年齢の人々が集って一つになったのですから、会の内部でお互いに限界を守り、他を犯さずに生きる限り、外で他のどんな組織に属していようが、また過去に属していたとしても、なんら咎め立てするべき性格の問題ではありません。

 しかしながら、今度という今度は少し違うのではないか、と思いだしました。旧「生長の家」を母胎とする「日本青年協議会」、そしてそこを主軸とした神社本庁その他の数多くの宗教団体・政治団体を兼ねた「日本会議」という名の大きな、きわめて漠たる集合体があり、「つくる会」の地方組織の多くが人脈的にそこと重なっているように観察されます。入り混じってはっきり区別がつきません。それだけにかえって危いのです。

 どんな組織も、どんな団体も「独立」が大切なのです。精神の独立が大切で、これをいい加減にすると、精神活動は自由を失い、結局は衰弱していきます。

 協力関係にある限りは自由を失うことにはなりません。協力関係にあることと従属関係にあることとは微妙な一線で、はっきり区別がつかないケースが多く、あるとき甘い協力関係の中で、フト気がつくと自由を失っていることがままあります。人事権が失われていて他に介入されているケースはまさにそれに当るでしょう。しかも介入し侵犯する意識が大きい組織の側にないのが普通です。介入され侵犯された側だけが自由を失った痛みを感じるのです。

 今度のケースがそれでした。1月16日、私に対し「あなたはなぜここにいる」の新田発言の出る理事会のはるか前すなわち12月初旬に、八木氏は旧「生長の家」系の理事たちと事務局長の側にすり寄っていて、会は事実上あのときすでに分裂していました。八木氏の行動のトータルは彼を育てた伊藤哲夫氏の背後からの強いプッシュがあってのことではなかったかと今私は推理しています。

 以上の道筋からいって、会を割って出た八木一派はもし新しい教科書の会を設立するなら、その歴史思想は当然、皇国史観と天皇親政と明治憲法復活をめざすよりラディカルに右傾化した方向に道を見出す以外に理のないことになりましょう。保守系の二つの歴史教科書が生れることは採択の場を活性化させ、悪いことではありません。「つくる会」の教科書はより中道と見なされ、採択にかえって有利になるでしょう。

 「自由と民主主義」を脅した小泉選挙の帰結として、「つくる会」の分裂が起こったことは特筆すべき点です。「つくる会」は戦前の体制を理想化し始めた近年の右傾化の価値観からやや距離を保つべきです。どこまでも「自由と民主主義」を小泉型の排他的ファナティシズムから守りつつ、従来の左翼路線をも克服する両睨み、両観念史観批判の方向に教育理念を見出していくべきでしょう。

 分裂は政治史の文脈からみて必然であったというべきなのかもしれません。

つづく

続・つくる会顛末記 (五)の2

続・つくる会顛末記

 

(五)の2

 日本政策研究センターの協力者でもあった衛藤晟一氏や城内実氏にも「刺客」が送られたあの選挙で、伊藤哲夫氏は私と同様に怒って「許せない、小泉は許せない」と当初しきりに言っていました。私は「自由と民主主義」が本当に危ない、と思いました。9月11日の投票を経て、私が応援に行った四人のうち古川禎久、松原仁の両氏が当選、衛藤氏、城内氏が落選しました。

 当選した古川禎久氏――西郷隆盛のような立派な顔をした人物――について、伊藤さんが自民党に戻そうとしているのを聞いて、私は「平沼赳夫氏のように独立独行してほしい。さもないと今回、非自民の旗の下に古川氏に投票した有権者を裏切ることになるでしょう」と反対意見を述べ立てた覚えがあります。すると伊藤さんは「大政党に入っていないと何もできない。党人でないとお金も入らない」と現実論で反論しました。

 ここいらから私と伊藤氏の考え方に微妙な差が開き始めるようになります。私は今でも私の言った方が現実論だと思っています。なぜなら古川氏は、あるいはこのとき当選した自民党無所属は、ご承知のようにひとりも党に復帰することができなかったからです。断固別の新党をつくるなどすべきだったのではないですか。

 九段下会議は夏の選挙の間休んでいましたが、10月14日に再開、11月14日には世界のインテリジェンスの歴史、12月21日には人民日報の日本報道を実際に実物で読むという体験をしました。そしてこれが最後になりました。

 その席上、伊藤哲夫氏と私たちの間で小さな論争がありました。氏はいつの間にか小泉支持派に変わっていたのです。というより、安倍政権の実現に賭けてきた氏は(私もずっと安倍支持者でしたし、いまも別に反対者ではありませんが)、小泉=安倍一体化が進行するプロセスの中で、考えを一つにまとめることが難しくならざるを得ません。

 私は郵政民営化、竹中経済政策を支持する安倍氏では困りますが、防衛・憲法・教科書・靖国のラインでは安倍さんをよしとします。けれども現実の安倍氏は小泉首相と一体です。

 伊藤氏が「いろいろ小泉さんのことを人は言うけれども、ともかく靖国に行ってくれたじゃないですか」と仰言ったことばに、私は少し失望しました。私と伊藤氏とはそれまで、靖国に行く小泉の「動機」が問題だとずっと言っていたのではないですか。

 皇室問題が次第に緊迫していた当時、私は官房長官は首相に弓を引く場合もあるべし、との考えでしたが、伊藤氏は官房長官の難しい立場をしきりと弁解し擁護する姿勢をみせ、氏への私の失望は一段と深まりました。

 私は政権と言論は別だ、政権に対し是々非々で行くのが思想家のあるべき姿だ、と言ったことがあります。するとそのとき伊藤氏は「私は思想家ではない」と軽くいなしました。

 政治は現実に妥協します。それは仕方がない。言論はできるだけ具体的で、現実的であるべきですが、しかし、どうしても譲れない場合がある。むしろそういう場合のほうが多い。現実の政治に必ずしも添い兼ねる。

 さて、「つくる会」の展開ですが、秋も深まる頃から局面が変わります。コンピュータ問題が登場したのは、オペレーターのMさんが器械の不具合を10月21日に藤岡氏に訴えて以来です。コンピュータ問題は後で区別して書きます。また、浜田実氏の事務局次長への採用の一件がこれに絡み、執行部が10月28日に事務局再建委員会を創り、事務局を執行部管理とし、コンピュータ問題の調査を決定しました。しかしその後、各事務員から個別に別の建物で事情聴取をしたやり方が、共産党の「査問」と同じだとパッと悪口を外へ広げる者がいて、誤解を招くということがありました。

 私は傍で見ていて、八木、藤岡、遠藤、福田、工藤の諸氏にコンピュータのときだけ私が加わった執行部の努力は、限られた時間の中で、並大抵の労苦ではなかったと思います。けれども、世間は誤解したがるものです。

 例えば伊藤哲夫氏は11月の九段下会議で会ったとき、「つくる会」執行部は検察まがいの訊問をしている、というようなことを言って、批判的になっていました。

 10月一時的に事務局は執行部管理となりましたが、これは八木氏が中心になって取り決め、実行した措置です。八木氏はマッカーサーがコーンパイプをくわえて乗りこむようなこと、と、執行部を占領軍になぞらえるような浮かれた発言をしていました。私は11月初旬のコンピュータ問題調査委員会(八木、遠藤、藤岡、西尾、富樫)にだけは参加しましたが、事務局の運営の内容は間接的にしか聴いていません。

 3年前のコンピュータの契約の不完全――これについて当時理を尽くして警告したのは富樫公認会計士と私だけでしたが――がこのときあらためて表に出て、宮崎事務局長の立場が悪くなったのは事実です。彼は外に能動的に働きかけることに弱くても、内に事務的に勤勉であることにおいて強い、というのが執行部のそのときまでの判断でしたが、「内に事務的に」も問題があったのではないか、と、遠藤、福田、工藤氏たちの副会長もあらためて疑問を抱くようになりました。けれども事務局長更迭は、今までの記述で明らかなように、コンピュータ問題の前に審議され、裁定されていたのでした。

 ですが、やはり、どうしても世間はごちゃまぜにして理解する。世間だけでなく執行部の外にいる理事たちもよく理解していない、という状況が次第に事柄を紛糾させていきます。

 そうした誤解や事実の歪曲があり悪い噂となって外へ広がった後のことですから、不運なのですが、伊藤哲夫氏と椛島有三氏と再び宮崎問題に関して私が接点を得たのは12月に入ってからでした。伊藤氏とは私が直接電話で、椛島氏とは間接情報です。

 12月1日藤岡、福田両副会長が政策センターに伊藤氏を訪問し、2時間事務局長更迭の必要を詳しく説明したそうですが、氏は最初こわばった表情で、笑顔が見えたのは2時間経ってからだといいます。宮崎氏の期待外れをいうと、「事務局長はそういう程度でいいのではないですか。」となかなか分ってもらえず、「よく分りました」と最後に言ったのは外交辞令で、納得していない風であった、とは後日聞いた福田逸氏の弁です。

 記録によると私はこの同じ日の夜、伊藤氏に電話をしています。

 迂闊に軽いことばで話しだし、激しい反撃をくらいました。昼間の空気をあまり知らなかったせいです。今までの永い付き合いの、九段下会議の同志であるとの心安立ての思いで語った、その言葉の調子がなぜか逆鱗に触れたのかもしれません。

 本当に思ってもいない予想外の反発でした。ご自身も後で、あんなに怒ったことはないと言っているのですからますます分りません。私が雇用解雇ではないのだ、というと「給与が問題ではないでしょう。名誉が問題なのでしょう」といわれ、たゞ吃驚し、約70分もつづく言葉の応酬に、傍の家族がハラハラ心配そうにしていました。

 私たち「つくる会」の関係者が宮崎氏を見ている視線とは見ている位置が違うのだ、ということに早く気がつけばいいのですが、私もそのときは腹を立て、何と分らず屋だと思うだけで打っちゃっておきました。もしも小泉選挙がなく、自民党への姿勢において私と伊藤氏との間に考えの開きが大きくなく、度々電話をし合っていた夏までのような仲であったなら、恐らく最初からこんな衝突にはならなかったでしょう。双方に鬱積した感情の澱りがすでにありました。

つづく

続・つくる会顛末記 (五)の1

続・つくる会顛末記

 

(五)の1

 「つくる会」内紛劇はそれ自体小さな出来事ですが、平成17年(2005年)夏の郵政法案参議院否決による衆議院解散、小泉首相の劇場型選挙とその文化破壊的な帰結とは切り離せない関係にあるように私は考えています。

 いま『「狂気の首相」で日本は大丈夫か』で展開した政治論をここで再論するつもりはありません。8月8日の衆議院解散、9月11日の総選挙という日付を思い出して下さい。

 8月12日杉並区で「つくる会」教科書採択、27日種子島副会長が事務局長更迭を執行部会で初めて提案、31日八木、藤岡、遠藤、西尾が浜松町会談で「事務総長案」を考える。9月1日扶桑社総括会議と理事会、9月17日採択活動者会議、この日の二次会終了後、八木、藤岡、西尾の三人で初めて宮崎氏に辞職の意向を打診する。9月25日「つくる会」定期総会。

 選挙とそれにつづく日本の政変の目を剥くドラマが進行する最中に、今思うと、もっと辛い、厄介なドラマがわれわれのすぐそばで開始され、進行していたことになります。

 あの選挙で「つくる会」と九段下会議でお世話になっていた保守系議員が相次いで反小泉に回り、周知の通り苦戦し、落選者も多数出ました。夏の日、戦後初めて私は「自由と民主主義」が危いと思いました。20年前に「民主主義への疑問」と書いて左翼大衆動員を批判していた私が、今「民主主義を守れ」と言い出したくなっている矛盾に、時代の変化のアイロニーを感じます。

 8月15日の靖国講演会で日本会議事務総長椛島有三氏に8月の解散への怒りを述べ、守りたい意中の6人の候補者の名(平沼赳夫、古屋圭司、森岡正宏、古川禎久、城内実、衛藤晟一)を挙げると、まさに二人はぴったり同じ名を考えていたということで、私の地方候補者応援演説(大分、宮崎、静岡)を日本会議が支援してくれる約束になりました。

 8月28日大分市に着くとそこに椛島氏がいて、宮崎県の都城まで一緒に旅をしました。そこで氏は講演が終ると夜行で大分へ戻り、私は翌日名古屋へ飛びました。こうして衛藤、古川、城内の三候補の応援演説を辛うじて果したのでした。

 これは私が求めて行った無償の講演でしたが、旅費と滞在費は日本会議が配慮してくれました。私は椛島氏とたっぷり談を愉しみました。私と氏、もしくは私と日本会議とは仲間なのです。ずーっと私はそう思って来て、仲間だから共通の目的に向かって、協力関係が築けると考えていました。

 日本政策研究センターの伊藤哲夫さんとも永い付き合いで、同じような仲間意識でした。「つくる会」の協力団体である「改善協」の運営委員長を伊藤さんは永年やって下さって、教科書問題に関してもいわば同志でした。

 それどころか平成16年2月に「国家解体阻止宣言」を発表し、われわれは「九段下会議」を建ち上げました。外交・防衛とジェンダー・教育問題との二つのテーマに分け、講師を呼んでレベルの高い勉強会をくりかえした揚句、どうしても政治の世界に訴えたいという思いから、志ある議員を呼んで、情報研究会を創りました。日本政治にインテリジェンスの考えを根づかせるためです。そこの議員連盟会長が衛藤晟一氏、事務局長が城内実氏でした。

 ここまで読んで読者のみなさんはわれわれの間を引き裂く地殻変動を起こしたものが何であったかお気づきになるでしょう。小泉選挙です。衛藤氏も城内氏も落選し、情報研究会も動かなくなりました。

 私は夏の候補者応援の旅(8月28日~29日)を終えて、帰ってみると「つくる会」では「事務局長問題」が起こっていました。8月に入ると、今回も採択戦はほゞ敗北と分かり、諦めと焦りと持って行き場のない怒りが渦巻いていました。案外ケロッとしていたのは宮崎氏でした。そのことが藤岡氏をまた苛立たせたのです。

 8月31日に浜松町で八木、藤岡、遠藤、西尾の四人が会談し、積極的能動的な事務局長を探すこと、富士通にいた濱田実氏は運動家としての活躍ぶりを見ているので候補に値するということ、それからじつは藤岡氏が私に、「日本会議の椛島さんに相談してみてはどうか。いい人を知っているのではないか」という提案をしたので、4日前に都城市で別れたばかりの椛島氏の顔を思い浮かべ、話し易いな、と思っていました。じつは当時はこんな空気だったのです。

 すると偶然日本会議から9月4日(土)に松原仁氏の五反田での応援講演会に西岡力氏と一緒に出て欲しいという依頼があり、そこで椛島氏と再会しました。西岡氏が先に帰った後二人きりになりました。私はいいチャンスと思い、氏に「大切な話なのでお人払いを」とお願いして、「30分ほど時間を下さい」と申し上げ、「つくる会」の現状を伝えました。

 事務局長更迭の一件を聴いて椛島氏が吃驚した表情をなさったのが印象的でした。しかし、余り余計なことを口にしない方なので、私の事情説明を聴く一方でした。私はこう申し上げました。

 「企業や労組などで活動してきた人がいいという意見も出ているのですが、なにも方針を決めているわけではなく、能動的積極的な人がほしいのです。宮崎さんはデスク業務はきちんとしているのですが、自分から運動全体の総合的なデザインを描き、具体的なアイデアを出し、攻めていくタイプではない。椛島さんはいろいろな運動家をたくさんご存知でしょう。どなたかいい人がいたら教えてほしい。いま企業にいる人で適任らしい人がひとり提案されているのですが、その人が本当に適任かどうかもまったく分りませんので」

 椛島さんはたゞ聞く一方で、質問もなく「そうですか、フーン」と唸るだけでした。そして、大分たってから「分りました。考慮させていたゞきます。」と応じました。「まだ私たちは何もきめていないのです。たゞ人捜しは早く始めないと間に合いませんから。本人には黙っていて下さい。」「はい、承知しました。」といって互いに別れました。

 私はそのとき椛島氏と宮崎氏とが旧い学生政治運動の仲間同志だなどとつゆ知らず、この二人はお互いに知り合いらしい、という程度の認識でした。そして、日本会議と私は仲間同志であり、椛島氏も「つくる会」に協力して下さる仲間である、というきわめて素朴な、心安だてな、警戒心のない意識で対応したのが現実でした。

 椛島氏との会談の一件はこれで終り、氏からその後提案はなされませんでした。9月末か10月初めのころに宮崎氏から興奮して、「二人の会談の事実を聞きました。衝撃でした」と怒りの口調で電話がかかってきたのを覚えています。椛島さんは本人に喋ってしまったようです。宮崎氏は自分の更迭に半信半疑でしたが、椛島西尾会談の存在を知って、動揺したようでした。

つづく

続・つくる会顛末記 (四)の2

続・つくる会顛末記

 

(四)の2

 さて、平成13年の第一回採択戦が敗北に終って、平成17年の第二回採択戦の後とまったく同じように、事務局の改革が自己反省の第一に取り上げられた時期に、事務局長高森氏はあらためて仕事ぶりが問われることになります。

 第一回採択戦の敗北は第二回目よりも深刻ではなく、高森氏は「リベンジ」を宣言し、種子島氏も「自分は退くつもりだったが、この敗け方ではやめられなくなった」と言い、副会長の責任まで背負うことになりました。

 敗北の原因は(一)中韓の攻勢とそれに迎合する国内マスコミ、(二)地方教育委員会の事なかれ主義、この二つにあると要約されました。あのときは誰でもこの二つを口にしました。「拉致問題」が出現して情勢が変わるのはこの後です。再生の要は事務局であり、活動の原点は事務局長であるとはまだあまり明確に自覚されていませんでした。たゞ、事務局長は留守がちでは困るという声が圧倒的でした。

 けれども藤岡氏だけは事務局長のやる気、企画力、運動力が問題だと言い出していて、高森氏のやり方にいちいち疑問をぶつけるようになっていました。

 事務局の能率化を唱えている藤岡氏と高森氏の間は間もなく険悪になります。要するに藤岡氏は仕事をテキパキ合理的に推進することを事務局に求め、だらだら無方針で、非能率にやることが許せない性格なのです。他方、私は要するに放任派で、だらしなく、藤岡さんは責任感が強く、厳格だということです。宮崎氏に対したときとまったく同じ状況が生まれました。

 私は危いと見ました。高森氏は藤岡氏の攻勢を躱せないだろう。原因は大学の勤務その他と事務局の仕事とが両立しないことにあります。高森氏には時間の余裕がない。やはり両方は無理だ。事務局長は「専従」にしなければならない。多くの理事の提言でもありました。

 思い切って高森氏に話し掛け、当然不快の表情をなさりましたが、自分が専従になれないことも明らかで、あまり大きな抵抗も反対もなく、了承を得ました。彼は会全体のことを考える大人なのです。こうして、誰かいい人はいないか。毎日務めてくれる人はいないか、と見回していると、事務局にほとんど毎日アルバイトで来ている一人の真面目そうな人物の存在にあらためて気がついたのです。それが宮崎正治さんでした。

 「つくる会」には当時外国の教科書を研究する第二部会があって、じつに熱心な勉強会が展開していました。東中野修道さんもそこに名を列ねていました。私はアメリカとイタリアの教科書研究の発表の場に立合わせてもらったことがあります。その席上で宮崎さんとはかねて顔見知りでしたが、高橋史朗氏の友人だということ以外には何も聞いていませんでした。

 高橋史朗氏が宮崎正治氏の無職に心を煩わし、どうしたものかと悩んでいて、友情に篤い人だと感心し、高橋氏のために何とかしてあげたいという動機が当然私にもありました。一説では宮崎氏は本当に困っていて、高橋氏に肉体労働でもするしか他に手はない、と訴えていたとも聞いていて、深刻だと思いました。私が5年後の今日も彼の経済生活のことを気にかけ、種子島氏の乱暴な処断に反対していたのは、最初のこの一件があったからでした。

 こういうことは本当は書きたくないのですが、書かないと、あれだけ話題になった事務局長問題の真相を、そのバックグラウンドを含めて立体的にお知らせすることがどうしても出来ないので、止むを得ないのです。

 それに、毎日来てくれる人で、老人でなく、知識人でもある人、何よりも「つくる会」の運動を精神的に理解している人――ということになると、本当に人がいないのです。

 私は宮崎氏にお願いすることを自ら決断し、本人の了承を得て、新しい事務局長の任命を理事会に諮りました。

 以上の通り宮崎氏の選定に関しては、宮崎氏と会との両方の必要条件は合っていましたが、十分条件を満たしていたわけではありません。宮崎氏が運動家として有能であるかどうかは初めから考慮の外にありました。そんなことを考える余裕が会にも宮崎氏にも、双方にありませんでした。ある意味で行き当たりばったりで大急ぎで決めてしまったのです。そのことがどんな災いをもたらすか深く考えることがなかったのは、たとえ選択条件がいかに難しかろうと私のミスであり、私が組織運動などに無知な素人だったので、会員のみなさまには幾重にも謝罪しなければなりません。

 宮崎氏はたしかに読書人で、たゞの事務員ではありませんでした。性格が温順で、各理事に気配りがあり、私などは会の出張の一人旅で、バスの乗り継ぎひとつ迷わないように地元に連絡して下さるほど心憎いほど優しい人です。私の本もよく読んでいて、書名の相談にも乗ってくれました。もし私が会を「私物化」しているのであれば、名誉会長をつづけ、宮崎事務局長を守り、彼を私の「半・秘書」のようにする道がたしかに一つあったでしょう。私はそれほど彼から厚遇されていました。

 しかし私の精神は逆に動くのです。宮崎更迭の種子島提案があって以後、しばらく考え私は自分の選定のミスを総括的に反省しました。

 宮崎氏は近代社会の中で他人の釜のめしを食った経験がない人です。その半生を保守団体の知識人運動家として、今の言葉でいえばフリーターとして過して来ました。とかく目が伝統社会、神社の神主さんその他に向かい、企業や官庁が代表する近代社会に人脈もなければ、押さえ処も分らない人です。伝統社会も大切ですが、第二回採択戦はそこに力点を置きすぎて結局失敗したのではなかったのですか。

 それも大事だが、それのみではダメだ、と私も敗北後考えるようになっていて、種子島氏はこれを「事務局長のマンネリズム」という言葉で捉えていたわけです。

 けれども最初のうちは私もそんな風に明確な判断に立っていたわけではありません。じつは今日初めて公開しますが、9月4日という早い時期に、宮崎事務局長問題を真先に私が相談し、新しい人捜しを依頼した相手は、椛島有三日本会議事務総長、日本青年協議会元代表その人だったのです。

 次にこの重要な事実からお話しなくてはなりません。

続・つくる会顛末記 (四)の1

続・つくる会顛末記

 

(四)の1

 高森明勅氏は学者として、知識人として、教科書執筆者として立派に生きてこられた方で、私は個人的にも敬愛の念を抱いています。

 会では唯一の貴重な古代史学者で、彼がいなければ教科書はできなかったし、『国民の歴史』その他の私の仕事にも協力して下さった私の恩人の一人です。

 最近、女系天皇を容認した数少い古代史学者の一人として、保守思想界の一部から非難を浴びているのは気の毒です。皇位継承をどう考えるかは人の自由です。ある人が、かつて私に女系を唱える高森氏は「つくる会」理事にふさわしくない、と語ったことがありますが、皇室問題でこうした一定の枠で他人を囲い込み、仲間社会から排除するような人を危険なファナティストというのです。

 大月隆寛氏が病気で行き詰って代りに高森氏が事務局長に選ばれたときの会代表は私でしたが、選抜したという記憶は私にありません。他に人がいなくて、みんなでがやがややっていて、ならばお前やれ、誰がやれ、という声掛け合いの中から自然に高森さんが適任者として浮かび上がったのだと思います。大月さんが選ばれたときも、そういう手順だったでしょう。理事の間は平等で、上意下達の会ではまったくありません。任意団体で、今どきそんなことが通用する会が何処にあるでしょう。

 ただ辞めてもらうとき、あるいは交替を指示するときには、厭なことばを口にするのですから、会代表の強い一声が必要です。

 高森氏は事務局長のかたわら一年かけて坂本多加雄氏と二人で教科書執筆の基礎稿をつくりました。二人は仲が良く、呼吸が合っていました。「つくる会」の講演やシンポジウムも例の歯切れのいい大きな声で、雄弁家を誇っていました。

 ではありますが、事務局長としてはどうかというと、他方でこれだけ数多くの仕事をこなしているのですから、いかんせん事務局にいる時間が少ない。それが不評を買いました。また前に種子島氏あてのメール(本稿(二)9月2日2:29AM)に述べたように、経理上有利であり過ぎるという批判が多数の事務系職員から出たのも事実です。

 事務局長が事務所にいない日が多いのは、その頃から会の活動が広がりだして、事務量も多くなったので、困惑と障害をもらすようになりました。いつからか明確に分りませんが、種子島理事が高森氏の欠席日に、週二日ていど代役を果してくれる約束が成立しました。

 さて、実業家種子島氏はどうして私たちの会に参加してくるようになったのかを語っておかねばなりません。種子島氏は日本BMWの社長も、フォードの相談役も務めあげ、自由の身でした。彼が早くから自分の後継者として育てあげ、世に送り出した人の中に、話題のダイエー会社に抜擢された林文子さんがいます。ビジネスの世界では種子島氏は有名です。自信家でもあります。

 彼は大会社のエスカレータに乗った官僚型実業家ではなく、アメリカでモーターバイクを単身で売りまくった「モーレツ社員」、高度成長期を築き上げた戦士の一人でした。アメリカ、ドイツと渡り歩き、今でも目を患って半眼がよく見えない苦労を越えて、世界を飛び歩いています。話もうまく、自分の人生を語った講演は惚れぼれするほど聴かせます。

 会社から離れて、「つくる会」の周辺で有能な英語力を生かして、南京事件関連の文書の翻訳を手伝ったりしているうちに、会のメンバーと親しくなりました。「つくる会」の理事は大半が文学部出身者で、およそ経営のセンスがありません。私が乞うて理事になってもらいました。ビジネスマンのセンスが会には必要だと考えたからです。

 彼の目に「つくる会」の世界はどんな風に映ったでしょう。詳しくは聞いていませんが、恐らく驚いて、揚句どう言っていいか分らない不審の思い、戸惑いの果ての判断ミスもやむを得ぬ困難の日々であったでありましょう。

 種子島氏は東大教養学部(駒場)時代の私の同級生でした。このことは周知と思いますが、私たちの共通の師に小池辰雄先生というドイツ語の先生がいて、この方が内村鑑三の無教会派キリスト教の流れをくむ伝道者であり、武蔵野市で「曠野の愛社」という修道の場を拓いていたことはまだ語られていません。

 Himmel(大空、天空)というドイツ語名詞がありますが、その形容詞himmlisch(大空の)を先生は一年生のわれわれに「天的」とお訳しになり、宗教的意味をこめて熱情的に語られたのでさっそく「天的先生」という綽名がつきました。それからGeist(精神)というのももう一つの綽名です。なにしろ初級文法が終るとすぐにゲーテ『ファウスト』をテキストに使い、宗教的講話が授業の半分を占めるので、このGeist、ガイストという音の響きが先生にぴったりで、私たちには忘れられない恩師、亡くなるまでお慕いしました。

 なぜこんな話をするのかというと、「キリストの幕屋」の創設者である手島郁夫師も内村鑑三の流れに棹さす無教会派で、小池辰雄先生とは生前深い交わりがあり、手島師がお亡くなりになる前に後事を託された由にて、幕屋はその後ずっと小池先生の信仰上のご指導を仰いでいたと聞いています。

 「つくる会」で「キリストの幕屋」と最初の接触を持った人は藤岡氏でした。幕屋の方からの接近で、『教科書が教えない歴史』の先生としてだと思います。そのあと私が小池先生の弟子だと聞いて私にも親愛感を抱いて下さるようになり、同じ弟子の種子島氏が聖書の集会に出席するようになって、さらに信頼が深まりました。

 種子島氏は「つくる会」の理事になって以後幕屋を通じ信仰に近づきました。私の蔵書の三分の二は何らかの意味で宗教に関係があるのですが、私自身は近代日本の知識人の宿命か、すべての宗教は相対化され、文化的知識欲の対象となるばかりで、今後のことは分りませんが、信仰への敷居を越えることはできそうにありません。ですが、もし仮りにキリスト教徒になるなら、プロテスタントは嫌い、カソリックはぎりぎり我慢できますが、多分そういう場合には無教会派を選ぶだろう、などと勝手に空想しています。

 種子島氏は週に二、三日ほど「つくる会」事務所につめて高森氏不在の日の事務局長代行をして下さるようになりました。高森氏が辞めて宮崎事務局長になってからもしばらく事務所には財務担当理事として顔を出していました。それだけに他の理事よりも事務局の実態についてよく知り、事務局長の良し悪し、指導の仕方、統率力、職員の働きぶり、部屋のムードの明暗などに対し敏感で、あまり口うるさい批判はしない人でしたが、じっと見るべき処は見ていたはずでした。

つづく

つづく

続・つくる会顛末記 (三)の2

続・つくる会顛末記

 

(三)の2

 読者によく考えていたゞきたいのは、この会は財力もなく、「この指とまれ」が理事勧誘の原則でしたから、理事には名のある人でなってくれるなら誰でもよく、それでも手を上げてくれる人を捜すのが困難なほど世間から敬遠されていた団体であった事実です。最近コメント欄に、この度の内紛の原因は「『つくる会』が一部の人に保守論壇の登竜門になっているからだ」という指摘があって、私は隔世の感を抱きました。

 大月隆寛氏と私とはたしかにあまり折り合いが良くなかったことを告白します。彼は終始西部邁氏の方を向いていて、公民教科書の執筆を西部グループに一任するか否かの一件で、伊藤隆氏と組んで、私に一方的圧力をかけて来ました。旧版公民教科書の執筆者は西部氏のほか、佐伯啓思、杉村芳美、佐藤光、宮本光晴の諸氏(『発言者』グループ)に八木秀次氏が加わっていて、新版公民教科書にいま名を留めているのは八木氏ひとりです。

 西部氏は「つくる会」をバカにして理事会に出て来たことは一度もありません。私は公民教科書の責任者に田久保忠衛氏(当時まだ理事でない)か加藤寛氏かを想定していました。伊藤隆氏と大月事務局長が西部一辺倒で、それなら西部らが真面目に相談にのるかというと、全権委任するなら書いてやってもいい、という不逞な態度で、歴史執筆グループとの合同会議すら可能ではありませんでした。「西尾が頭下げて来たら書いてやろう」と頭目が言ったとか言わないとか、手下の一人から噂が流れ、私を怒らせました。

 今でも屈辱的シーンをありありと覚えています。伊藤、西部、大月の三氏が待ち構えている部屋に、私が単身で(この件で藤岡氏も坂本氏も知らん顔でした)、無条件で公民教科書を書いていたゞくことを承諾する書類にサインするために出向きました。サインしなければ自分は「つくる会」を辞めると伊藤隆氏が私を脅迫したからです。伊藤、西部という60年安保全学連くずれに何で私が頭を下げなければならないか。

 いうまでもなく教科書検定を将来に控えて、伊藤氏の辞任は打撃だからです。というのは文部省の教科書調査官の多くが伊藤氏の東大教授時代の弟子だからで、この方面で圧倒的影響力があるという「伝説」が広がっていました。大月事務局長は悪役三羽烏の一人として、私と彼らとの間を連絡する最も憎々しい役割を演じつづけました。

 あるとき大月氏が自分の読書歴を話してくれたことがあります。網野善彦以下、左翼の著作家ばかりで、私はびっくりして、「君がつくる会にいるのは理解できないなァ」と言ったのは確かで、彼はこの件をいつまでも根にもって、思想が悪いという理由で解任されたとあちこちに書いていますが、そうではないのです。大月氏は自律神経失調症で自宅療養となり(本人が公表)、数ヶ月事務局空位時代がつづきました。会の内外から不在は困るといわれ、ついに限界と見て、お辞めいただいたのが事実です。会はその間もきちんと給与を払いつづけましたが、理事会ではボランティア団体としては精一杯のことはやった、もう仕方がないのではないか、という声があがり、高森明勅理事に交替してもらうことになったのです。

 大月氏が解任の件を記述する際、病気で会に迷惑をかけたこと、病気が肉体の病ではないので事務局長の激職に療後の身が耐えられるか否かが判定できず、理事会でみんなが迷い、憂慮したことについていっさい言及しないのは片手落ちではないですか。

 伊藤隆氏は教科書の近現代史の監修と修正に参加し、夜遅くまで熱心にやって頂き、感謝しています。また、一年かけた故坂本氏の記述部分の不採用で、傷ついた坂本氏の心のケアに人一倍気を遣って、帰りの車に黙って誘い、言葉をかけて下さった様子を後姿から拝見していました。小林氏が漫画で坂本攻撃をやりそうな危ない場面で、私が三拝九拝して止めてもらったきわどい頃でしたが、伊藤氏の坂本氏への思いやりあるやさしいケアがあのときどんなに有難かったかは口では言い表せません。

 けれども公民教科書の西部選択は決して成功ではなかったと思います。それにいまあらためて思い出すのですが、いよいよ検定の日が来て、伊藤氏の睨みのきく弟子たちの一人である調査官に威圧を与えるお役目ありがとうとわれわれは期待ひとしおだったとき、伊藤氏は初日に顔を出しただけであと放置し、聞けば調査官の前で煙草をふかして注意を受け、弟子に威圧感はおろか尊敬の念もなく、結局扶桑社の社員ががんばって何とか切り抜けたと聞きました。

 「伊藤先生は期待外れでした」が私の受けた報告です。執筆者代表である私は調査官に顔を合わせる機会はありませんでした。伊藤氏が師の威厳で検定終了の最後まで見張ってきて下さる、その方が効果的である、という方針だったからですが、そうはならなくて、私はいったい何のために西部邁氏に対するあの屈辱の叩頭に耐えることに意味があったのでしょうか。

 勿論、伊藤氏の名前が奥付にあるだけで、広い大きな意味で文部省への信頼喚起の効果はあったといわれるので、「西部公民」の評判が良ければすべて帳消しですが、しかし、実際には複雑で、いろいろな思いが重って、そば屋の二階の忘年会で、伊藤氏も西部氏も出てこない席ですが、私が思わず滂沱と涙を流したことがあります。余りにも耐え難いことの多い一年だったのを思い出してでした。

 私が感情を怺え切れなくなったのは後にも先にもあの年の反省会の夜だけでした。

 さて、大月事務局長の解任のことですが、ご病気が原因であることはいま申した通りです。大月氏は「病み上がりにようやく立ち上がろうとしたところを後からいきなり斬りつけられた」と「つくる会」解任を語っていますが、彼はあれほど忠誠を尽くした西部氏から、突如として『発言者』連載の中止を告げられたのではなかったですか。「後からいきなり斬りつけられた」人をわざと間違えて、親分には言えない憂さ晴らしを私に向けているのではありませんか。

 こんな事件がありました。真冬の会合で西部氏が私の外套を間違えて着て帰ってしまいました。私は外套なしで帰り、レストランに置き去りにした西部氏の外套を大月氏は車でその日のうちに届けました。けれども、西部宅にあった私の外套を彼は私の家へ車で持って来てくれませんでした。私は二着外套を所持していたので、翌朝の氷点下以下の寒さを辛うじてしのげましたが、彼が誰に必死に扈従し、盲目になっていたかが分るエピソードです。私は自分の外套を彼の指定する場所に翌日取りに行ったのです。平成11年(1999年)の冬のことです。

 今度の紛争で「つくる会」に集った知識人の「非常識」が、まさかそんなこととみんなに首をひねらせましたが、私は何があってもあまり驚かなくなっていました。

つづく