謹賀新年(五)

 年末から年始にかけては独特な忙しさがある。それがいやで、正月は嫌いだという人も少なくない。そういう忙しい時期を津波のように襲ってくるのが年賀状である。

 準備が容易ではない。私は印刷と宛名書きまでは他人の手に委ねている。そこから先は自分の仕事である。ひとりひとりに寸言を記す。今年は約1000枚なので、全部にはとうていできない。

 しかしそれよりも時間を要するのは、元旦の配達から発送リストに合わせて、到来したか否かをチェックする仕事である。住所の変更も確かめる。7日ぐらいまでこれがつづく。そんなことをしなければ良いと思うかもしれないが、ある著名な作家から82歳になったので年賀状を止めるので来年から出さないでくれと書いてきたし、ある物故した私の先生の奥様のご家族から、母は養老院に入ったので、永い歳月のお付き合いを感謝しますと認めてあり、暗に来年から賀状は寄越さないでほしいという意味を認めてある。

 これらは今年のうちにリストから消しておかないと、来年も機械的に発送され、迷惑をかけることになる。一年間で住所を変更した人が少なくない。これらも今年のうちにリストの住所を修正しておかないと、来年は宛先不明で戻ってくる年賀状の山が築かれることになる。郵便局が旧住所でも届けてくれるのは一年間に限られるからである。

 それやこれやで、正月は賀状の山と格闘する時間がバカにならない。津波のように襲ってくるこの波に耐え、何とか泳ぎきると、もう休み明けの日常が始まっている。毎年こんな調子である。

 他の人はどうしているのだろう。やはり年賀状に苦労しているのだろうか。それでも昔と違って、年始回りをしないし、年始客も来ない。年賀状くらいは最後のつとめとも思う。

 昔は元旦に、近所の奥様が正装してお互いの家に挨拶回りしていた。母が応対していた。午後になると必ず羽子板の音が聞こえた。獅子舞いもあって、門付けといって若干のお金を包んで渡した。若い女性は大晦日のうちに髪結いに行って丸髷げに結ってもらって、初詣は必ず和服だった。

 大晦日は美容院も床屋も明け方までやっていた。初詣の神社の境内は、私の記憶では1975年くらいまで、女性の華やかな和服姿で一杯だった。私は正月二日か三日に何軒かの先生や先輩の家に年始のご挨拶に伺い、馳走に与った。

 あんな時代もあったなァ、と思う。会社や団体のお偉いさんの家ではやはり今でも、元旦から千客万来なのだろうか。私は世間のこの面には疎くなって、他家の様子がもう分らない。

 さて、年賀状に戻るが、今年来た中で、印刷されていた文言にハッとなって、私の目を射た一文があった。ご本人の承諾を得て掲載する。元『文藝春秋』編集長の堤堯氏からの賀状である。

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謹賀新年

台湾の命運が気になります。いまやアメリカは独立へ向けての住民投票にすら反対します。かつて米中国交回復のおり、二十年来の忠実な同盟国を冷酷に切り捨てました。日米安保も不変ではあり得ません。ここ数年が、日本の岐路と思われます。

今年も変らぬご健勝を念じております。
2005年元旦

堤  堯

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 住民投票の「住民」に傍点が付ってあった。アメリカは自国の流儀を他国に強制して恥じない。自国の法律を他国に当て嵌めることにも躊躇しない。北朝鮮人権法がそれである。しかし法を施行するかどうかはいつも自国の事情次第である。

 北朝鮮にはせっかくつくった法を発動せず、台湾には法がなくても住民投票にまで無遠慮に干渉する。そういうことになるかもしれない。すべて自国のご都合主義だからである。

 9・11ニューヨーク同時多発テロまで、アメリカは中国を仮想敵国とみなし、包囲網をつくりつつあった。最大の敵はテロだということになって以来、対中国政策を緩和した。中国はその好機をつかんで、巧妙に立ち回り、経済維持につとめている。

 この両国の良好な関係がいつまで、どこまでつづくか分らない。

 堤氏の言う通り、日本は最悪のことを考えておかなくてはいけないのかもしれない。それでもアメリカが100パーセントの鍵を握っているのではなく、台湾防衛に日本がどういう意志をもちどれだけのことをするかひとつで、情勢は少からず左右されるはずである。

 「ここ数年が、日本の岐路と思われます」は、他の何人かから来た賀状にも認められてあった。戦後60年はやはり戦後50年とは少し違うようである。戦後50年は国会謝罪決議などというばかげた猿芝居に現(うつつ)を抜かしたが、さすがにもうそういう空気ではない。

 最後に、年賀状ではないが、「宮崎正弘の国際ニュース・早読み」の「読者の声」に私と私の講演に関する記事があったので、転載させて頂く。宮崎氏を介して、筆者のご了解を得てある。

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(読者の声2)『いま日本は、いわゆる生ぬるい保守と「共産主義と一体化していた左翼進歩平和主義」とが対立しているものではもはやない。後者は例の゛週刊金曜日゛に屯するていどの矮小グループに転落した。代わりに保守が二つに割れて、日本改造の構想力をもつ行動的保守と、リベラル左翼にほぼ重なっている生ぬるい現状維持の保守、外交的にいえば中国不信派と中国眉態派、威嚇や恫喝に屈しない派と威嚇されれば無限に謝罪する派とに分裂し始めているといってもいいであろう。』以上は《愛国者の死》と題した西尾幹二氏の、坂本多加雄氏追悼文の一節です。年頭この論に接して自分らは”日本改造の構想力をもつ行動的保守”に連なりたいと誓い、また”中国不信派”・ ”威嚇や恫喝に屈しない派”でありたいと念じます。
西尾氏は昨年11月の福田恒存氏に関わる講演会で <文化や学問で人は果たして死ねるか>というマックス・ウェーバーの言葉を引用しています。この鋭い刃を持った言葉を日本の知識人に突きつけたのが福田恒存氏であると。命を懸けてというと誤解を招き反論を浴びるもの云いですが、旧制高校、旧制大学に蔓延った『知的あり方』とそこを拠所とした”知識人”が批判の的です。
微温的で、閉ざされた狭い世界で限られた仲間と薄っぺらな知識と軽薄な自尊心で民を啓蒙しているとうぬぼれている日本の”知識人”への痛罵です。知識や論を弄ぶ輩は所詮いのちを差し出してまで事を行なう覚悟はあるまいという卓見です。その意味で三島由紀夫は日本文化を守ろうと命を懸けた例外的な稀有の存在です。
『日本人が国境を越えた外のものに公平で、憧れをもって遠望し、近づいてくれば無邪気にこれを歓迎するのは、太古からの本能みたいなものではなかろうか。縄文以来といえばべつに証拠はないので大げさといわれるかもしれない。』(諸君掲載の西尾氏論文より)。
そんな無邪気な日本人はいつになったら福田氏の悟達に至れるのでしょう。
文化面だけではありません。80年代あれほどうまくいっていた日本的経営を守れず、90年代にグローバル・スタンダードというアングロ・サクソン基準で見事なまでに欧米に食い潰されボロボロにされた日本経済。それに手を貸したMBA帰りの同胞諸兄。日本の安全、国民生活の安寧を守ることが言葉や言論を以ってどこまで可能なのか。自らを助けることが出来る国に果たしてなれるのか。
それは何時になるのか。そんな自問自答を正月、半酔半醒の中でしています(笑)。
          (しなの六文銭)

 
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 私の昨今の意向をよくつかみ取って下さった一文にあらためて感謝する。この手の文が宮崎正弘氏のメルマガに掲げられ、私の日録の感想掲示板には出てこないのは遺憾である。

謹賀新年(四)

 空白の歴史のうちに足踏みしていると、退行するというか、途方もない方向へ逸れてしまうというか、思いもかけない不安が露呈するのは憲法の場合にも当て嵌まる。

 自民党案といい、民主党案といい、財界の案といい、最近出ている憲法改正案には、在日外国人の人権を認める条項とか、環境権とか、男女参画社会の基本権とか、妙なものが次々と並んで、今のままの憲法のほうがまだましだという思いすらしてくる。

 私は3年ほど前、改正憲法からは「化け猫」が出てくるという論文を書いたが、不幸にも私の予言通りになってきた。

 私は今、憲法改正反対論者である。たゞ一点、9条の2項を削除する改正案だけを国民投票にかけて、それ以外は当分凍結するにしくはない。今の国会議員には新憲法を作成する力はない。

 そこで教科書のことを考える。「新しい歴史教科書」が普及し、それで育った世代が政治家の主流を占める時代になって初めて、憲法改正に取り組む資格が生じ、その時まで待つほうが安全だろう。今の政治家に任せていては危くて仕方がない。

 長い歴史の「空白」に漂っているうちに、次第に退行し、自ら正しい道を発見する本能を失い、当初は考えてもいなかった思いもかけない方向へ曲ってしまうことが起こり得る。日本の未来は恐ろしい。

 すでに確定した真実をも忘れた振りをして、前の嘘をよびもどして、平気な顔で嘘をくりかえすかと思うと、いつまでも昔のパターンにもどって、昔の習慣的思考にしがみつく――今の日本の光景である。

 中国の問題、東アジア共同体という妄想も今年は正念場を迎える。男女共同参画の理念委員会が次の五ヵ年計画を7月までに作定するという。そんなものを許していいのであろうか。

 平成17年(2005年)は本当に扉を開けて、国家意志を回復できるか、そうならずに一段と後退するか、雌雄を決する一年になりそうである。

謹賀新年(三)

 年末に皇位継承を考えるための懇話会が新設されたニュースがあった。メンバーには専門知識をもつ人が一人いるかいないかで、心もとない。女性天皇を認めるという簡単な答えで決着をつけようという官僚サイドの戦略が最初から見え見えである。

 万世一系の天皇の系譜を維持するには男系でなくてはならない。11宮家を復活して、将来に備える必要はたしかにある。そう正論を唱える人を私は支持するつもりだが、しかしすべては遅すぎるのではないか。

 11宮家を廃したのはたしかGHQだが、今上陛下が民間人と結婚なされたとき、旧宮家・旧華族は憤慨した。そして、皇太子殿下が東大出・ハーバード大出の学歴エリートと結婚なされたときには、旧宮家・旧華族は沈黙するのみで、もう反発の声さえなかった。11宮家を廃絶したのはGHQでは必ずしもない。天皇家自身が万世一系の天皇制度を無力にする行為を繰返してきたのである。

 そしてそれを諌める者は今まで誰もいなかった。なにしろ園遊会で日の丸・君が代の普及への努力を進言する者に、ネガティブなご発言をなさる陛下である。何かを恐れておられる。しかしそれが陛下のご意志だとなればどうにもならない。われわれの手に負えるものではない時間の空白が横たわっている。

 これもまた戦後60年を迎えた今年あらためて胸に迫ってくる空白の歴史の一つの帰結であるというほかないだろう。

 藩屏なき皇室はあり得ない、と私は言ってきたし、書きもした。しかしこういう言葉も、取り返しのつかない時間が経過した今、ないものねだりの強弁だったかもしれないとの思いも一方では募ってくる。

謹賀新年(二)

 この国はよく持ちこたえているとむしろ不思議に思える。アメリカと台湾の通報で日本は中国原潜の侵入を知ったらしい。侵入船が海域を離れてからやっと海上警備行動を発令するというおっかなびっくりの政府の措置を国民は笑ったが、この件を調べていて、私は石垣島、宮古島、与那国島が台湾のすぐ東側にあり、台湾防衛の拠点であることにあらためて強い印象を持った。

 中台戦争が始まれば、日本のこの三島を中国はただちに予防占領するだろう。アメリカの空母を近づけないようにするための、原潜による海域調査こそが中国の狙いである。

 それよりも、この件を調査中に私が知って愕然とした新しい事実がある。日本と台湾との空域を分けるラインが日本の領土である与那国島の上空を通っている。自衛隊機は与那国島に近づけない。近づけば台湾空軍がただちにスクランブルをかけるからである。自分の国の上空を平和時にすでに外国空軍に制せられている。

 関係者と話をしていて、異口同音に聞くことばは、日本の自衛隊はイラクやアフガニスタンに、また各地のPKOに、出て行く余裕はないということである。三島を含む西南諸島は丸裸である。自衛隊の事務連絡所が宮古島にあるだけで、隊員はひとりも駐留していない。

 焦点の西南諸島に自衛隊員を割く余裕がなく――こう公言されている――なんでイラクやアフガニスタンに行く余裕があるのか。と言っているうちに、財務省が隊員と艦船を削減した。かの担当の女性財務官は災害出動は自衛隊の仕事ではないと言ったそうだ。これは正論である。わずかに抵抗するかのごとく、自衛隊は札幌の雪祭りへの協力の小さな部分を辞退したとの報に接する。どうせなら雪祭りからの全面撤退をすればいいのに、そして国民に危機を知らせればいいのに。しかし「愛される自衛隊」などという欺瞞に溺れているのは自衛隊自身なのである。災害出動なども止めてしまえばいいのだ。

 以上述べたことはいずれみな戦後60年の惰性を克服できず、「昔の名前で出ています」という調子のマンネリでやっていて、恥じる処がない現われである。

 いよいよ新しい扉を開けようとすると、手がすくんでドアの把手に手がかからない。いよいよ新しい歌を歌おうとすると、口は自ずと昔のリズムを口ずさんでいる。それが今の日本である。

謹賀新年(一)

明けましておめでとうございます。

 今年はいままで問題となってきたさまざまな分野で、左右が激突し、雌雄を決する年、というよりまだ生き残って悪だくみをつづけているマルクス主義の残党の息の根を止め、天地晴朗の日を迎えることができるか否かの年となりそうである。

 私は教科書採択の成否を言っているだけではない。それもその中の一つ、紛れもなく最も重要な、象徴的な一つであるが、他のさまざまな分野で扉を開けようとして、どうしても開けきれないで立ち尽くしている今の日本の歪んだ精神状況のことを言っているのである。

 拉致問題で日本の民衆はようやく目をさまし、国家の重要性に気がつきだしているといわれている。それはある程度そうであろう。けれども、どこまでも「ある程度」であって、いまだに何も変わっていないどころか、後退している光景さえみられる。

 李登輝が突如やって来た。けれども雪の京都を散策し、日本文化について語る彼を見たいと思っても、テレビは空港入国のほんの数景をちらっと出しただけで、なにかに遠慮している。中国の新華社の記者がぴったり張りついていて、しかもそれを日本の警察が、多分外務省の意向に添うてであろうが、むしろ守っているというのである。中国の秘密警察つきの年末のあわただしい日本再訪であった。

 昨年末に細田官房長官は政府官邸に「従軍慰安婦」と称する二人の外国人女性の正式訪問を受け、戦時中の日本軍部の犯した過ちに謝罪し、反省の弁を述べた。心あるひとは「あれ、おかしいんじゃないの」と思ったことであろう。

 「娼妓」は存在したが「従軍慰安婦」は存在せず、国家関与の強制行為、強制連行はなかったことは石原元官房副長官の証言によってはっきりと立証されたはずだった。間違いの元をなした謝罪談話の主の河野元官房長官でさえ、自分の談話が証拠に裏付けられていなかったこと、曖昧な憶測であったことを認めたはずだった。あれほど大騒ぎして、国家的恥辱をやっとの思いで言論界あげて克服したのは5年ほど前の出来事であった。

 わが政府首脳はあっさりこれを覆した。あまり深い考えもなく、まるで誰かにひっかけられたかのように、官邸に「従軍慰安婦」と称する女性を招き入れて謝罪した。これは彼の場合、国家行為となるのである。

 なにか何処かがおかしい。いよいよ新しい扉を開こうとすると、この国民はすくんだように後じさりする。そして歌い古した昔の歌をまた歌おうとする。

 中山文部科学大臣がある会合で教科書から「従軍慰安婦」の記述が減少したことを評価した。韓国がただちに妄言だと騒ぎ立てた。なんとわが政府首脳は韓国サイドに立ったのである。文科大臣は政治的願望を述べたのではなく、論証された歴史事実に忠実な評価を語ったにすぎない。

 なぜ前へ進めず、いよいよになると後ずさりするのだろうか。北朝鮮を再訪した小泉首相の行動に私は不審なものを予感した。金正日との間に「空白の十分間」の密談があったという予測を立てる人がいて、私はその可能性はあると考え、このサイトで論陣を張った。

 周知の通り、北朝鮮の遺骨返還はばかばかしい猿芝居に終わり、度重なる愚弄に、日本の国内ではもう話し合いの余地はないとの当然な声が高まった。経済制裁は野党を含む万人の声になった。しかるにひとり首相のみ抵抗する奇妙な図。川口元外相をアメリカに急派し、経済制裁はしないでくれ、と単独行動に出て、ブッシュ大統領をまであきれさせた。

 「空白の十分間」にやはり何かあったと考える方が妥当ではないか。この首相にして、あの官房長官あり。政府に統一意志はなく、北朝鮮は経済制裁に備えて闇金融ルートをすでに開いているらしく、いよいよ制裁となってももうきき目はないという話だ。

編集長からの手紙

 この手紙をもらって私は大変うれしかった。私信公表なのでご本人の許可をいただいて――お立場上、若干ご本人もためらわれたが――ここにのせさせてもらう。

 私がうれしかったのは勿論私の論文を評価して下さったからだが、論の骨格を正確に読み取っていただけたこともある。

 年末の仕事の中心が福田恆存に関する講演と論文だった。『諸君!』が掲載してくれる約束だったのだが、量が多いので、削減を求められるのを私は恐れた。削られるくらいなら二ヶ月にわたる分載でいいから、全文のせてもらいたいと思った。そう希望しておいた。

 すると、講演を聴いていなかった編集長が手書きの私の草稿を読ませてほしいと言ってこられた。その結果、雑誌の立場としては分載するくらいなら全文一括で掲載させてもらいたいという。

 でも、確実に100枚は越える。さらに加筆するから最終的には何枚になるか分らない、と言ったら、それでもいいという。余り例のない話である。

 おかげで『諸君!』2月号に36ページもの一挙掲載となった。編集長には12月20日に一緒に酒を飲む約束をした。それからしばらくして、次の手紙が来た。まだ見本刷は出来ていない段階であった。

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 西尾幹二先生

 今月は福田恆存論をありがとうございました。年末のお忙しい時に、大作に挑んでいただき、感謝いたしております。お電話で構想をうかがった時はよくわからなかったのですが、60年代から70年代にかけての福田さんの言論、行動の重さを、全身で受けとめて、その精神を継承しなければならないというお考えが、強く伝わってきました。

 『常識に還れ』『私の國語教室』『批評家の手帖』の三方向からの「非文学」がいかに本来の意味での「文学」であり、行動であるかが、すごくよくわかりました。そして70年以後の、そこからの撤退。私自身が福田恆存の文章を熱心に読んだのは、70年から72、3年にかけて、新潮社から出ていた七巻本の評論集でしたから、その後半が今回、先生が主として論じられたところでしたが、時代の中で非常に孤立というか孤高な印象があり、その精神がレトリックと笑いによって、むしろ積極的に現実に働きかけてくるような凄味がありました。

 たしかに今度の論を読んでいて「アメリカを孤立させるな」や「日本共産党礼讃」がもっていたほがらかな破壊力と、それが破壊たりえた日本という国や社会の岩盤の固さが、70年代以後の日本から徐々に、かつ急速に失われていったことを思いました。変えようとした現実がどんどん不定形で軟体動物のようなものに変容していった中で、三島さんは死に、福田さんは論壇文壇から距離をとり、その空虚に耐えながら、先生の言論活動があるという歴史の構図がみごとに見えてきました。

 私的な回想のエピソードも美しく、没後十年にふさわしい文章をいただけて感謝しております。お疲れさまでした。また頂戴いたしました『日本人は何に躓いていたのか』を福田恆存論を脇に置いて読み直しますと、現実への働きかけへの情熱がまたちがって、ひときわ大きく見えてきました。

 どうもありがとうございました。それでは、20日の夜にお目にかかるのをたのしみにいたしております。

12月16日

                               「諸君」細井秀雄
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 私の言論活動が三島由紀夫、福田恆存の衣鉢を継いでいるというお話は勿論私に自覚のあることだが、一方ではこれは自己過大視と人には見えるかもしれないが、他方では大変に心を冷え冷えとさせる話でもある。この一本の流れは原則的に孤立者の系譜だからである。保守の中に仲間がいるようでいて、じつはいない。

 私は自分を時代に合わせ随分変えてきたつもりであるが、それでも孤立の宿命は避けられなかったし、これからも避けられないだろう。しかも時代と共に日本の条件はひどくなっていく一方である。保守は増えたが、精神は解体している。

 私は残りの人生において、恐らく健康が維持できてあと5年をどう過ごすか、仕事の内容と幅をどうきめていくか、年末年始に当りしっかり考えなければならないと思った。福田先生が脳梗塞で倒れられたのは今の私の年齢、69歳である。

 遅咲きの私はまだ語り残していることが数知れない。これからが生命を燃やす最後の段階であると思っている。

 教科書問題は安心できる後継者を得たので、今まで以上に私はここから離れることになろう。やり残している数多くの関心のあるテーマ、昭和の思想、古代と文字、ゲーテとフランス革命、萩原朔太郎、ショーペンハウアーの母、ニーチェ(続編)、荻生徂徠、空海、韓非子等々、まだほかにもあるが、やりたいテーマは山積している。ドイツ神秘主義にもずっと前から関心をもっていて、文献は大量にあつまっている。よほどよく選んで考えないと、不満な結果に終るだろう。

 福田先生が「もうこれ以上自我の芯で戦うのは間違っているのではないか」と私に自戒の言葉をお示しになったことは論文中に記したが、現代の目の前の愚劣な問題と「自我の芯」で切り結ぶことは私も間違っていると思いつつ、ジェンダーフリーにまで手を伸ばし、来年は憲法、中国問題、皇位継承問題など目が放せない問題が並んでいる。たゞどこまで付き合うか、現代との距離のとり方がこれから限られた貴重な時間内で、さらにむつかしくなってきたと痛切に自覚している。

 年末に編集長からの例外的な手紙を紹介する機に、所見を披露した。連載中の「正しい現代史の見方」は勿論まだつづく。

2005~2006年の私の仕事の計画表

2005(平成17)年

1月  新・国民の油断(PHP研究所)八木秀次氏との共著

2月  新・地球日本史(扶桑社)第一巻 編著

3月  人生の深淵について(洋泉社)旧作復刻・完本作成
     付・小浜逸郎氏解説

4月  江戸のダイナミズム(文藝春秋)
     1000枚を越える大著

5月  新・地球日本史(扶桑社)第二巻 編著

5月  あなたは自由か(ちくま新書)

6月  民族への責任(徳間書店)
     教科書問題再説

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これ以後順不同

1. 「ギリシア人の悲劇時代の哲学ほか」ニーチェ 中公クラシックス
2. 新版 労働鎖国のすすめ(再刊補説)PHP研究所  
3. 題未定(日録稿を基礎にしたもの)徳間書店

以上の大半はすでに終った仕事の整理か、他人の仕事の編著である。だから本の数が多いわりに、仕事量は少いと見る。それでも、これは過重労働ではあるだろう。もっと減らさないと2006年にひびく。

2006(平成18年)1月31日刊行予約
国民の現代史 (1800枚予定)扶桑社

2005年は仕事をセーブしてこのための準備勉強に入る。
範囲は21世紀史

12/25追記

高橋史朗氏埼玉県教育委員への私の「朝日」コメントについて

 埼玉県議会は12月20日午後、高橋史朗氏を同県教育委員に任命する人事案件を可決した。

 18日に朝日新聞さいたま総局から私に電話があり、20日の選出はほゞ確定した見通しなので、高橋氏の人となりを含め、教育委員高橋氏の将来をどう考えるか、コメントが欲しいと言ってきた。私は、文言をファクスで確認し、私が了承した文言どおりにのせるのなら応諾すると答え、電話口で感想を語った。

 翌19日午前8時27分に作成された文言がファクスで送られてきた。私は小さな修正をこれに加えて了承した。先方もこれを合意し、20日午前中には文言が確定した。

 21日13版第2社会面に、「つくる会名誉会長の西尾幹二・電気通信大名誉教授の話」として次のように掲示された。「周囲、感化を」とタイトルがついていた。

 「周囲を徐々に感化していくことで、事なかれ主義に陥りがちな教育委員会を変えてくれるだろう。我々の考える教育の健全な在り方を広めるきっかけにもなると期待している。」

 同上は12版と13版にのり、14版には全然のらなかったと報告された。ただし、私が担当者とファクスを交換し、合意した内容は次の通りである。

  「温厚で無口な性格だが、体からにじみ出るような説得力を持つ人。周囲を徐々に感化していくことで、事なかれ主義に陥りがちな教育委員会を変えてくれるだろう。我々の考える健全な教育の在り方を広めるきっかけにもなると期待している。」

 最初の一文が削られている。「行数の関係で短くさせていただいた」という釈明のファクスが入っていた。

 しかし、高橋氏の人となりを含めて感想がほしいと言ってきたのは先方である。「周囲を徐々に感化」する原因は高橋氏の人格だと私は書いているのに、勝手に原因を削ってしまったので、文意が変わっている。もし私に削ってほしいといわれたら、私なら最後の一文を削ったであろう。

講演「正しい現代史の見方」帯広市・平成16年10月23日(七)

 戦争が終って、敗北を知った直後、呆然としている日本人は、謝るというようなことを考えた人はほとんどいません。まして、世界に対して罪を犯したなんて、冗談じゃない、そんなことを考えた人は一人もいません。厭戦感情はありましたよ。疲れた、もう厭だ、これ以上はたまらない、これは別ですよ。でも、正義とか道理とかは、わが方にあるということを疑うものはいなかった。

 敗北を知ってホッとした感情があったのも事実ですよ。でも、これで助かったと思ってホッとしたんじゃなくて、余りにも苦しくて、疲れ切って、病人が早く死にたいと思ったりするような気持ちにも似て、ホッとしたんですよ。それをみんな誤解して、終ってホッとして生き生きと甦ったというような意味に解釈して、いつしか「解放感」と誤解するようになったんですね。

  「解放感」はむしろ開戦のときにあったんです。なぜ、武者小路実篤や太宰治のような作家までが、開戦の日にまるで甦ったように思ったのか。あるいは竹山道雄がこれでやっと決まったとホッとしたのか。明治以来の日本人の胸のうちに がしっーとかぶさってくるものがあったからでしょう。説明のできない圧力を受けてきたからでしょう。その圧力が中国戦線で晴らせるものじゃなかった。いつまでも中国に深入りしてたって、きりがない。本当の敵は何処にあるんだと、いう疑問は日本人を苦しめていました。後ろで援蒋ルートといって、盛んに蒋介石に物資を援助している政府がいるじゃないか。そのことを誰一人知らない者がいなかった。

 しかもいろんなことが戦後になって、最近になってわかってきていますよね。フライングタイガーという作戦ね、これひどいものですね。12月8日に、真珠湾攻撃で戦争が始まってたんじゃないんです。アメリカはそれより先に中国に空軍部隊を、つまり兵力を投入していたんです。ただし全部いったん退役にしまして、その上でアメリカの飛行機を投入してですね、いかにも義勇兵が勝手に参加しているかのごとき形式をとりまして、アメリカ自身が参戦していたんです。蒋介石軍が弱いんで、見てられなかったからでしょう。フライングタイガーという軍隊、事実上の軍隊ですが、しかもそれに正式にルーズベルト大統領が署名をして、退役にしたのは形式であって、やがて複役させということを約束している。そういう大統領の署名のある書類も発見されている。今となればですね。はるかにはるかに日本より早くですね、アメリカが「開戦」に踏み切っているんですよ。

 じつはそのとき、東京大空襲が計画されておりました。パールハーバーよりはるか数ヶ月前に東京は敵襲をいきなり受ける可能性が高かった。ところが、その時米軍がそろえていた飛行機がドイツ戦線に必要になったために、急遽東京空襲の計画は取りやめになったということですから、なんで日本が先に手を出したなんてことが簡単に言えますか?開戦の気分は双方同じだった。発火点に達していたが、切っ掛けだけがなかった。そういうことが大戦直前の状況だったんです。

 強い強い圧力、胸の中に鬱積してくるようにたまってくるものが日本人の中にあって、その原因となるものの正体が歴史の背後から少しづつ浮かび上ってきています。今だんだん証拠書類が公開されておりまして、第二次世界大戦に対するアメリカの公文書館の書類はいまやっと少しづつ出ているわけですね。それから、ソビエトの崩壊した1990年から何年間か、大体1998年ぐらいまでの間に、隠されていたソビエトの秘密文書がオープンになりまして、その多くは少しづつ翻訳されておりますけれど、歴史は塗りかわりつつあるわけです。

 プーチンになってからまた書類が出てこなくなりましたけれど、とにかくソ連(ロシア)もかなりひどいことをしていたことが全部わかってきつつあります。あの当時我々が知らなかった世界史の闇の部分が分るということになるわけです。虚々実々の現実がこれから明らかになるだろうと思います。日本が中国大陸に引きずりこまれたのはどこの国の意志であったのか。それは果して英米なのか。イギリスはソ連に警戒的でしたが、アメリカは慨してソ連に寛大で、政府の中枢にコミンテルンのスパイがいました。アメリカを介してソ連の巧みなコントロールがアジア情勢をどう動かしていたか。ま、私はまだぼつぼつ勉強している途中で、よくわかっていないところばかりで、これから大変なんですが、いずれにせよ、20世紀の歴史というものを我々はもう一度、よぉく振り返って、精査してみる必要があるのではないか、と思うわけであります。

 そうしたらば謝る気になんか、とてもなれないですよ。日本人が謝る必要なんか全くないということに、すぐ気が付くと思います。我々が悪をなして、アメリカが善をなしたとか、ソビエトが善をなしたとか中国が善良そのものだったとか、そんなこと考えられますか。自分が悪をなしたと思っているからおかしなことがおこるんです。そんな事は常識だって考えられないと思うんですね。今のアメリカやロシアや中国のやり方を見ていても、地球上で起っているどの出来事を見ていても、各国の強引さ、そして掛け引きのものすごさを思い浮かべてください。

「日録」の更新もままなりません

 12月の仕事は例によって過密スケジュールで進行し、「日録」の更新もままなりません。いづれ詳報しますが、やった仕事はやがて表に出て来ます。本日は完了した仕事の報告をいたします。

 八木秀次氏との対談本『新・国民の油断』は360ページのどっしりした本、グラビア、図版多彩の充実した反撃本です。「ジェンダーフリー・過激な性教育は日本を亡ぼす」の副題あり。すでに校了です。1月11日店頭発売、PHP研究所刊、¥1500。一冊仕上げるまでには大変な作業量でした。

 「福田恆存の哲学」という11月20日の講演は、大幅に加筆し、『諸君!』の2月号に36ページ約130枚、一挙掲載となります。題して「行動家・福田恆存の精神を今に生かす」で、私は12月7日から13日までこれに没頭、14日の明け方校了となりました。

 もうひとつは平松茂雄氏との対談「Voice2月号」――特集「日中友好は終わった」の中の「領海侵犯は偶然ではない――陸上自衛隊は米軍とともに東シナ海の警戒を強めよ――」。軍事防衛問題には私は関心が尽きない。そして産経の「新・地球日本史」12月20日から25日まで、三浦朱門氏と、連載をめぐって年末対談を行います。これも完了しました。

 これだけやっていると「日録」の更新はおろか、インターネットを開く時間もないのです。