今回で「入学試験問題と私」と題したシリーズは最終回とする。とりあえずは先に問題を見ていただきたい。
群馬県立女子大 平成18年度
美学美術史学科推薦入学試験
小論文(120分)次の文を読んで設問に答えなさい。
カミュの『シーシュフォスの神話』のボウトウ(1)部分は印象的である。シーシュフォスは岩を山の頂まで運び上げると、岩はそれ自体の重さでいつも転がり落ちてしまう。彼はこの無益で、希望のない労働を永遠にくりかえさなくてはならない。神々がシーシュフォスに与えた刑罰であった。この比喩に刑罰を見る問題意識を、おそらくカミュはドストエフスキー『死の家の記録』のあのよく知られたエピソードから取っているのだと思う。ドストエフスキーはシベリアの徒刑地で、懲役の労働が囚人たちに過酷なのは、仕事の内容のつらさではないという。仕事の内容のつらさという点では農民のほうがよほど苛酷なはずだ。けれども、農民には自分のために働いているという目的がある。だが懲役の労働には目的も意味もない。それが刑罰の刑罰たるゆえんである。そこまでは『シーシュフォスの神話』の認識と同じである。
ドストエフスキーの炯眼①はさらにその先を見ている。彼は囚人たちが他のなにかの労働ではない、例えば家を建てる仕事を与えられていると、にわかに夢中になり、生き生きしてくるさまを伝えている。強制労働で立派な家を建てても、賞金がもらえるわけではないし、刑期が短くなるわけでもない。それでも囚人たちは少しでも具合よく、良い家を仕上げようと一生懸命になるという彼の深い観察のうちに、人間の生きる目的ということの秘密が宿っているのではないだろうか。
ひるがえってわれわれの市民生活、労働するわれわれの日常生活は、すぐ転がり落ちる岩をふたたび繰り返し山頂にまで持ち上げるあのシーシュフォスの営々たる空しい努力にも似ているといわねばならぬであろう。だからといって、われわれは必ずしも毎日の生活を「刑罰」とは感じていない。否、パスカルのような鋭敏な人なら――彼は生きるとは行く手にあるダンガイ(2)に向かって夢中で走っているようなものだと言っている――、毎日の月並みな生活をも「刑罰」と感じているのかもしれない。しかし世の中の大半のひとびと、われわれボンヨウ(3)の徒は、単調な仕事のなかに、あるいは仕事で得たホウシュウ(4)のなかに、なにがしかの目的を見出している。自分のそれなりに意味のあることなのだと信じている。が、信じきれないときもあるだろう。われわれはそのときふと幻想のヴェールAの裂け目を覗き見て、いいようのない空しさの思いにとらわれたりもするのである。
しかしドストエフスキーが示唆②するように、人間は物を作るという行為のうちに、それがよしんば小さな物であっても、他人の利益にしかならぬ物であっても、理屈ぬきでなにがしかの満足を感受する存在なのであろうか。もし、それが確かなら、人生の「目的」はどうやら大規模な、大袈裟③な種類のものである必要はない。人間はまったく絶望的な状況のなかでも――シベリアの監獄が絶望的でないはずがなかろう!――自己統一を壊さないで済むだけの生の自足感情を、物を作るというささやかな仕事のなかに見出すことに成功するというこの事実は、人間というもののヒアイ(5)を感じさせるというより、むしろ、人間の強さ、生きんとする意志の強さを感じさせる。
しかし、これは逆にいえば、人間は時間の完全な空虚――無意味な行為の単調な繰り返し――には耐えられないきわめて弱い存在だというふうにも見ることができるのである。シーシュフォスに課せられた無益で希望のない労働と同一のことを、ドストエフスキーは次のように言う。「もしも囚人に、一つの手桶の水を他の手桶にあけ、それをまた逆に始めの手桶にあけたり、砂を搗いたり、あるいはまた、土の山を一つの場所から他の場所へ移し、それをまた元へ戻すというようなことをさせたら‥…囚人はきっと四、五日も経ったら首を吊るか、でなければむしろ死んでそんな侮辱や苦痛から逃れようと思ってどんな罪でも犯すだろうと思う。」
この彼の言葉は、完全な「退屈」が人間にとっては最大の刑罰であることを暗示しているだけではなく、じつは、われわれ市民的な日常生活の背後に、いつもこの「時間の空虚」が伏せられていてB、われわれは日々それから目を逸らし④、毎日毎日を小さな目の前の目的(用事)や、関心事や、刺戟や、くだらぬ楽しみことで紛らわし、「空虚」を無意識に埋めているだけではないかという問いをも示唆しているのである。実際われわれの暮らしや仕事もまた、つきつめて考えると「一つの手桶の水を他の手桶にあける」作業の繰り返しのようなものだと自嘲⑤せずにいられぬ一面をも具えている。
しかしそれを刑罰とも感じないし、苦痛とも感じないのは、われわれが鈍感だからということもあるが、毎日の活動のなかに、なにか物を作る行為に似た行為によって自分で自分を生かす目的なり意味なりをいつの間にか黙って自ずと見出して、その日その日の自分を無言のうちに支えているからだともいえるであろう。否、そうまで自己説明する必要さえない。かりにお前のしていることには目的や意味はないといわれても、われわれはいっこうに動じない。われわれは生きている。その不思議さのほうがはるかに圧倒的に大きいといわねばならないのかもしれない。
私の言いたいのは、つきつめて考えると、この人生に生きる価値があるのかどうかを問うことをわれわれはある意味では封じられているということである。Cそういう問いが心中に湧き起こるのは自然なことであり、いかにも避けられない。われわれの生には究極的に目的も意味ないのかもしれない。そう問うことは自由であり、可能である。けれども人生は無価値だと断定するのもまた虚偽なのである。なぜなら、人間は生きているかぎり、生の外に立って自分の生の全体を対象化して眺めることはできないからである。
われわれは自分の人生の価値について客観的な判定者になれない。そのような判定者になれるのは、われわれが自分の生の外に立ったときだが、そのとき、われわれはこの世にはもはや存在しないのである。したがって生きているかぎり、われわれは自分の生を総体として把握することを封じられた存在であって、仮説をあれこれ立ててみる自由しか与えられていない。
さまざまな問いを立て、仮説を試みることは可能だし、一方で大切なことだとは思うが、われわれがいま現に生きているというこの単純な事実の外部にあたかも立脚点を持つことができるかのようなあらゆる立論は空しいシニシズムに終わることもまた、われわれがわきまえておかなくてはならないもう一つの問題点である。
(西尾幹二『人生の価値について』1996年 新潮社)
(注)シニシズム…社会風習や道徳・理念などを冷笑・無視する態度のこと
【設問】
問(1)傍線部①~⑤の読みを書きなさい。
①炯眼 ②示唆 ③大袈裟 ④逸らし ⑤自嘲問(2)傍線部(1)~(5)のカタカナを漢字に直しなさい。
(1)ボウトウ (2)ダンガイ (3)ボンヨウ (4)ホウシュウ (5)ヒアイ問(3) カミュとドストエフスキーが主に活動した国の名前と文中で挙げられていない著作一点をそれぞれ答えなさい。
問(4) 赤線部Aの「幻想のヴェール」とは何を指しますか。30字以内で答えなさい。
問(5) 青線部Bの「われわれの市民的な日常生活の背後に、いつもこの「時間の空虚」が伏せられている」という著者の考えについて100字以内でわかりやすく説明しなさい。
問(6) 著者は、緑線部Cのように、「この人生に生きる価値があるのかどうかを問うことをわれわれはある意味では封じられている」と言いながらも、さまざまな問いを立て仮説を試みることを否定していない。この著者の主張に対しその根拠を説明し、あなたの考えを600字以内で述べなさい。
問(3)でドストエフスキーのロシア、『罪と罰』くらいは答えられるだろうが、カミュのフランス、『異邦人』(あるいは『ペスト』)は、はたしてどうであろう。今の女子高生の常識のレベルを私は知らない。
問(4)は直前に書いてあることばを拾えばよいのだから易しいが、問(5)も問(6)も容易でない。ことに問(6)は600字で、点数も最高であり、これは大変である。私は若い受験生が120分間四苦八苦している姿を想像して、断然同情的になってしまう。
問(6)は私にだって答えられない。誰にも答えられまい。原則的にそういう問いである。ただし人生の経験をつみ、年をとれば深いことばが書けるというものでもない。若い頭脳は死を思うこと多く、案外に哲学的なのである。
比較的最近の出題例から、八回にわたってタイプの異なる問題を選んでみた。まだ他に数多くあるが、手許にすぐ見つかるかたちに保存されていない。
高校入試の問題も予想外に多いらしいが、これは送られてこない。代りに問題集を出版する会社から掲載許可ねがいがくるので、予想外に多いのだと気がつくのである。
他に河合塾とか代々木ゼミとかの模擬テストの採用例となると何倍もの数になり、数え切れない。一年の終りに使用リスト一覧と謝礼金が送られて来て、どの本から年間何回ぐらい使用されたかが分るが、詳しく見ていない。
受験生は大変だなと思う。自分が受験生だったときのことを思うと、点数を稼げるのは暗記物(私の場合は「日本史」と「世界史」)で、国語というのはうんとひどい点にもならないが、高得点も望めない教科だった。
いくら勉強しても点のとれる保証がない。それが国語である。私の若い時代からそうだった。私の著作からの出題例をみても同じことがいえる。誰にも答えられないような人生そのものへの問いが出題されているのだから、受験勉強は何の役にも立つまい。
受験生はうんと本を読みなさい、などと指導されているだろう。しかし本をいくら読んでも、いい答が書けるとは限らない。
つまり国語に関しては受験勉強なんかしない方がいい。してもしなくても同じである。私は高校生の頃にそう思っていたが、今の問題群をみてもやっぱりそう思う。
受験は評点をつけて人を評価する制度である。いくら勉強しても準備として役立たない国語は、出題側がどうしても無責任になるし、受ける側は無保証の不安定の唯中に立たされることになる。しかもそれで評点をつけられてしまうのである。
人生そのものの理不尽に似ているのかもしれない。国語は人生の不条理そのものかもしれないな、などとふと思う。