西尾幹二先生
先日、西尾幹二全集第三回配本の『悲劇人の姿勢』ちょうど読み終えた、まさにそのときに、第四回の『懐疑の精神』が配本されてきました。冒頭25~36頁の「私の受けた戦後教育」、身につまされる思いで読みふけりました。
「要するに新教育の理念の名においていろいろ奇怪なことが行われていたのである。先生は教えるのではなく生徒とともに考えるのである。先生はつねに生徒と友達のように話し合おうとする。どうもそういうことだったらしい。終始先生は私たちの考え方に耳を傾けようとする姿勢を示して、アンケートのようなものをさかんに行ったが、子供に確固とした考えがあるわけでなく、私たちは教師の
暗示につられて、結局は教師のしゃべっている「思想」を反復しただけではなかったろうか。私たちは決して一人前の人格として扱われていたのではない。子供を一人前の人格として扱うべきだという民主教育の実験材料にされていただけなのである。
子供はそんなに単純ではない。ある意味では子供ほど敏感なものはない。大人の意図をことごとく見破ることはたしかに子供には不可能かもしれない。しかし大人が大人らしくなく振る舞えば、それが何を意味するかはわからないでも、なにかが意図されているということだけは子供は誰よりも早く敏感に感じとるものである。そこには不自然さがある。というより嘘がある。先生が先生らしくなく
振る舞えば、子供はそこに作為しか感じない。先生と生徒の間には、厳とした立場の相違、役割の相違がある。そういう暗黙の約束があるのを誰よりもよく知っているのは子供である」
私がこの一文になぜそれほどの衝撃を受けたかというと、実は私自身の受けた教育と大きな関係があるのです。私は昭和41年4月~44年3月、私の故郷鳥取県の某中学校で学びました。この中学校は自主学習という世にも珍しい教育法で全国にその名を知られた有名校であり、日本全国津々浦々から教育関係者がひきもきらず参観に訪れていました。自主学習というのは生徒の主体性を最大限に
尊重し、授業は原則として生徒の自主運営に任せる、というやり方です。生徒たちが自分で主体的に学習カリキュラムを作成し、それに従ってグループごとに黒板に板書し、発表する。生徒たちで選んだ司会や委員の主導の下にクラス全員による質疑応答が行われ、討論し合う。教師はそれを傍観しながらときたま口をはさみ適切なアドバイスを行う。教師のアドバイスは必要最小限に限られ、極力口
をはさまないのが望ましいとされる。
これは戦後しばらくたった昭和三十年代初頭、地元のある校長が発案し、有志の教師たちを巻きこみ、PTAを説得して、半ばゴリ押し的に強行し実現してしまったものなのです。このような現実を無視した、常軌を逸した教育が(志を同じくする者が集まって結成した私塾や新興宗教教団ならいざ知らず)義務教育の公立中学校で成り立つはずがないのです。その不自然さは誰が見ても一目瞭然で
す。これを発案した校長はおそらく、自分の名を後世に残したいという功名心に駆られていたのでしょう。
私は中学に入ったとき、この教育方法に対して子供心におどろおどろした違和感を感じ、この違和感は薄らぐどころか強まる一方で、中学三年間は苦痛以外の何ものでもありませんでした。主体性どころか、これほど生徒の個性を無視したやり方はなく、これは教育に名を借りた精神の暴力、一種の拷問だったと言ってもよい。かつて文化大革命で十代の少年紅衛兵たちが、自己批判せよと迫りなが
ら、大衆団交という名の人民裁判で被告をつるしあげる、あの方式を彷彿とさせるものがあります。私はふてくされ、反抗的になり、浮き上がってしまいました。不良で成績の悪い落ちこぼれの生徒ならいざ知らず、私のようないわゆる勉強のよくできた生徒からそのような反抗的な態度をとられると、教師の立場はなく、教師から見れば私は扱いにくい、憎たらしい生徒だったことでしょうね。
先生の指摘されるごとく、子供ほど敏感なものはないのです。小学校に入ったばかりの六歳の児童ですら、教壇に立つ教師の人間性を本能的に直感で見抜いています。私は中学校には不快な思い出しかないが、小学校時代は無性に懐かしい。なぜならそこには秩序と権威があったからです。威厳と慈愛に満ちた教師の指導のもとで、思考力と感性の基礎がしっかりと育まれました。
35頁の、大江健三郎に対する先生の批判は胸のすく思いでした。
「大江さん、嘘を書くことだけはおよしなさい。私は貴方とまったく同世代だからよくわかるのだが、貴方はこんなことを本気で信じていたわけではあるまい。ただそう書いておくほうが都合がよいと大人になってからずるい手を覚えただけだろう。「戦後青年の旗手」とかいう世間の通念に乗せられて、新世代風の発言をしていれば、新思想、新解釈が得られるような気がしているだけである。大江さん、子供の時のことを素直な気持ちで思い起こしてほしい。子供の生活は観念とは関係ない。あるいは大人になっていく過程で、幼稚な観念は脱ぎ捨てていくものだ。貴方の評判のエッセイ集『厳粛な綱渡り』の中から一例。「終戦直後の子供たちにとって戦争放棄という言葉がどのように輝かしい光を備えた憲法の言葉だったか」。こんなことをこんな風に感じた子供があのときいたとは思えないし、いまも決していないだろう」
大江のあののっぺりとした顔が、これを読んで目をぱちくりしている光景を想像すると、溜飲が下がります。
先生がこれを書かれたのは昭和40年7月、30歳のときだったのですね。私が小学六年で、中学に入る前年の年です。私がもしも当時この論文を読んでいれば、精神的に救われていたかもしれません。それにしても先生の文体というか論理展開のスタイルは、30歳のときと現在と寸分変わっていませんね。50年近く前に書かれた先生の文章が、現在読み返しても新鮮さをまったく失っていない
ばかりか、ますます説得力を増しているのはどういうわけなのでしょうか。
平成24年8月3日
東京国際大学教授 福井雄三