教育文明論 感想文・お知らせ

全集第8巻 感想文             浅野正美

全集8冊目の刊行となった本書には西尾先生が教育論について書かれた論文が一冊にまとめられている。既刊の全集中一番の大冊で、読了するのに毎日二時間を費やして三週間かかった。

冒頭から私事をお話する不躾をお許しいただきたいが、私は職業高校(商業科)を卒業してすぐに就職したため、大学というものがどういう社会なのかほとんど知らない。私が出た高校は学区内に八校ある公立高校の中で偏差値が下から二番目に位置していた。上位五校が普通科で、その下に工業科、商業科、農業科という序列になっていた。この固定化された階層は現在でもまったく変わらないのではないかと思う。

私が本書を読んで最初に驚いたのは、西尾先生が我が国の6・3・3・4の単線型教育システムの成果を大きく評価していることであった。門閥、貧富に関わりなく、能力と努力の結果によって平等に人間を選抜するこのシステムが、明治以降の国力増大に果たした役割を真正面から評価しているのである。これによって従来下層階級で教育の機会すら奪われてきた国民からも優秀な人間を発掘し、高度産業社会に貢献しうる人材に育て上げることができたということである。

私はかねがね三十数年の社会人生活を通して、教育というものがいかに不合理で不経済なものかということを痛感していたため、ドイツのような複線系の教育制度こそがその無駄から逃れる唯一の方法ではないかと考えていた。

私の勤務する小商店においても年々四大卒者の占める割合が増えてきたが、そのだれもが、本はいうに及ばず、新聞すら読んでおらず、まともな文章一つ書けない。経済学部を卒業しているにも関わらず為替や株式の値動きの理由を説明できず、仏文科を出ていながら、学生時代にバルサックもスタンダールも読んだことがなく、独文科を出ていながら、マンもゲーテも読んでいない人間ばかり見てきた。法政、中央、國學院といった一応は名の通った大学を卒業していながら、少なくとも私の勤務先に入って来る人間はみな例外なくこの程度なのである。大学とは一体何をしにいくところなのであろうか、この程度の人間に卒業証書を与えることが許される大学とは何のために存在しているのか、という問いが長い間私の中の大きな疑問であった。

大学教育にかかるコストが相当に家計を圧迫しているのにも関わらず、今や四大進学率は50%にまでなった。しかし、真に学問を修めるという目的を持った学生はその中のほんの一握りでしかなく、大半の大学生は社会に出るまでのモラトリアムとしての時間をただ無為に過ごしているように思われる。ある人は労働需給のアンバランスを解消する緩衝地帯として進学率向上を評価するが、それこそ本末転倒ではないかと思う。

こうしたどうしようもない大卒者ばかり見てきた私は、必然的に大学入学者の大胆な削減こそが問題解決に繋がるのではないかと考えてきた。大学教育に投資されている莫大な金銭は、直接の授業料だけでも年間数千億円にもなろうが、そのほとんどは何ら効果を生まない捨て金となっているという現実がある。もちろん授業料として支出された現金も国内で循環することによってGDPを増大させる効果はあるが、もっと直接的に消費財に回した方が国家経済への貢献も大きいのではないかと思う。私の考えでは、大学教育を受けるに値する人間は、今の大学生の中では十人に一人もいないと思う。真に高等教育を受けるに値しないような若者が大挙大学に押し寄せるという現状は何か不気味ですらある。

西尾先生も本書で再三指摘されているように、企業は採用する学生に大学で何を学んできたか、だれに教えを受けてきたかということを、少なくとも文系学生に対してはまったく問わない。法律を学ぼうが、経済や文学を学ぼうが、企業に入れば例えば営業マンとして働かされる。企業が見ているのは大学名だけだ。そうした新卒者は、企業内で無垢の状態から教育され、企業それぞれの社風に染められていく。私でも何かがおかしいと思う。

教育には無知が持つ闇から人間を解放するという崇高な使命もあったと思う。迷信や差別、迫害、詐術、風水、占い、新興宗教といったものは、人間の精神が抱く不安や恐怖といった心の闇につけ込んだ愚劣で非合理的な存在である。それだからこそ、人間は学問の習得を通して真理に近付き、こうした非合理的な思考を克服していかれると信じてきたのではないだろうか。しかし、世間を見渡して見れば、未だに多くの人間がこうした前近代的ともいえる闇から抜け出せずにいる。教育を受けることによってのみ得られると信じられた論理的に考え、合理的に判断するという行動規範が社会にしっかり根付いているかといえば、はなはだ心細い限りだ。さすがに錬金術や魔女狩りといった中世暗黒時代からは脱却できたものの、ここにも今日の教育の持つ限界を見て絶望的な気分になるのである。

西尾先生が6・3・3・4制を高く評価していることは先にも述べたが、その必然的な弊害についても率直に語られ、それに対する具体的な改善策も提示されている。弊害とは、東大を頂点とするピラミッド型のヒエラルヒーであり、戦後ますます強固になったこうした大学のランキングの固定化である。それはもはやテコでも動かない頑丈な構築物のように崩れないどころか、ますます強くなっている。人生における競争を受験一つに集約することの弊害。大学入学に向けた熾烈な競争を強いられている高校生の過重な負担。十八歳で輪切りにされてそれ以降交わることが極めて少なくなる実質的な身分制度。大学や企業における無競争のしわ寄せが高校生に無用の負担を強いている、等々。

西尾先生は本書に収録されている『「中曽根・教育改革」への提言』の中でこうした問題の本質的な原因を掘り下げているので以下に引用してみたい。

入学時点での大学名が個人の属性として一生ついてまわる日本人の「学校歴」意識・・・

日本の「学校歴」意識は、国民の広い範囲を巻き込んでいて、大学の受験生に限らないところに、問題があるのである。
一般社会において、どこの大学を出たから有利であるとか、評価できるかということは、現代では次第に意味を失いかけていると言われるし、また現実にそうであろうが、社会の現実と真理の現実との間には開きがあるのが常である。

アメリカでもヨーロッパでも、「学校歴」意識は存在するが、人間を評価する尺度が多元的で、複数化している欧米のような文明圏では、個人のこうした一属性がライフサイクルに作用を及ぼすかのごとき幻想によって個人が不安を覚えるということは少ない。

大学生以上の大人の社会全体が赤裸々な個人競争を避けるために、人生の競争の儀式を、十八歳と十五歳の子ども立ち押しつけている。しかも最近では十二歳へとだんだん年齢的に下の層へ押しつける圧力を強めていることが憂慮すべき問題なのである。
言い換えれば、大人の競争を避ける分だけ、子どもの世界が競争を肩代わりして、それが今日の日本の教育の病理のもう一つの様相を示している。

他人と違う存在であろうとする競争は共存共栄を可能にするが、他人と同じ存在であろうとする競争は、序列化した同一路線上での優勝劣敗の可能性しか残さない。
他人と同じ存在であろうとする日本人の競争心理(ないしは競争回避心理)は、平等が進めば進むほど、横に広がって価値の多様化をもたらすのではなく、同一路線にタテに並んで競い合う結果、「格差」をますます大きくするという特徴を持つ。戦後において高等学校や大学の数が増えれば増えるほど、学校間の「格差」が広がり競争が激化するという、経済の需要供給の関係では説明のつかない事態を招いたのも、この特殊な日本的競争の力学が作用している結果である。(以上698頁~699頁)

ここに引用した中でもとりわけ「経済の需要供給の関係では説明のつかない事態を招いた」という個所に私は強い感銘を受けた。こういう鋭い比喩を読むと私の心はなぜか浮き浮きとしてしまう。経済学の初歩にして大原則である需要と供給の法則は、中学生でも知っている。買い手が増えれば物の値段は上がり、商品が過剰になれば物の値段は下がるという法則である。無原則に志願者を入学させることで経営を成り立たせている二・三流の私立大学は、これからも続くであろう少子化という試練の時代を向かえて、ますますその傾向を強くするであろう。現実に現在でも、名前を書いて簡単な面接試験と称するセレモニーさえ通過すれば、その内容がどうであれ入学できる大学は無数にあると言われている。大学生の裾野が広がるということは、その平均的な知性レベルは必然的に低下するだろう。大学の経営を維持するためだけに入学する(させられる)無意味な大学が日本全国あちこちに存在する姿は異様ですらある。

私は今でも、高校を卒業して大学に進学する価値のある人間は全体の10%もいないと思っている。しかもそうした優秀な学問的素養を持った人物でも、大学で学んだことが社会で生かされるという幸運に恵まれる人は極めて稀だと思う。私の考え方は、ヨーロッパにおける学問は学問として独立したものであるという思想に近いのかも知れない。

実は私は、我が国の東大を頂点とする固定化された大学の序列というものは世界の標準的な形だと思っていたので、本書を読んで初めてその誤解を解くことができた。我が国の大学の在り方こそが特殊であると言うことを知ったのは新鮮な驚きであった。序列の固定化は大学の画一化を招き、大学間の競争と個性を消滅させたという。学問に目的はなく、教えを乞いたい教授の元に参集する学生は見られず、魅力的な研究に取り組みたいということが大学選びの動機になることもない。その結果、自分が取れるであろうテストの点数で入れる範囲において、一番レベルの高い大学に入るということだけが、大学選択の唯一の基準になってしまった。

これを書いてきてふと原点に立ち返るような疑問がわいてきた。そもそも大学の存在理由とは何であろうか、ということだ。そこで学ぶということがそれ以降の人生において何らかの意味を持つのだろうかという疑問である。例えば字が読めなかったり、簡単な四則計算もできなかったりすれば、現代社会で生活していく上では非常な困難が付きまとう。職場で上司や取引先のいっていることを正しく理解する読解力や、国語、算数以外の最低限の歴史、科学、英語の知識、マナーといったことは、ほぼ中学卒業(遅くとも高校卒業)の段階で習得できるであろう。冒頭にも書いたように、私は大学生活というものを経験していないため、ここで問うていることは単なる愚問かも知れない。大学の機能の一つに研究がある。これは主として教授の専権事項だろうが、理系、文系を問わず、このような最先端のあるいは地味な学問に対して、最高度の頭脳が鎬を削ることは極めて重要なことだと思う。こうした研究を経済的に支えるためには国家の助成金だけでは成り立たないから、一定の数の学生から授業料という形でお金を徴収してそれに充てるということも理解できるのだが、すべての大学がそういう役割をきちんと果たしているとはとても思えない。

話しがあらぬ方向に脱線してしまった。西尾先生は大学多様化の一試案として東大合格上位校の合格者数に制限を加えるという大胆な提言をされている。そうして日本全国に東大と同じレベルの大学が複数存在することが健全な学問的競争を促し、現在のゆがんだ東大信仰をなくすことに繋がると訴える。先生はこうもいう。「東大を実際の実力以上に押し上げてきた力・・・」それは日本人のあの無反省な「相互同一化感情(コンフォーミティー)」の強さに外ならないと。
競争がないところに向上も発展もないことは、企業の競争を見れば一目瞭然である。

            西尾幹二全集刊行記念講演会のご案内

  西尾幹二全集第8巻(教育文明論) の刊行を記念し、12月8日 開戦記念日に因み、下記の要領で講演会が開催いたしますので、是非お誘い あわせの上、ご聴講下さいますようご案内申し上げ ます。
 
                       記
 
  大東亜戦争の文明論的意義を考える
- 父 祖 の 視 座 か ら - 

戦後68年を経て、ようやく吾々は「あの大東亜戦争が何だったのか」という根本的な問題の前に立てるようになってきました。これまでの「大東亜戦争論」の殆ど全ては、戦後から戦前を論じていて、戦前から戦前を見るという視点が欠けていました。
 今回の講演では、GHQによる没収図書を探究してきた講師が、民族の使命を自覚しながら戦い抜いた父祖の視座に立って、大東亜戦争の意味を問い直すと共に、唯一の超大国であるはずのアメリカが昨今権威を失い、相対化して眺められているという21世紀初頭に現われてきた変化に合わせ、新しい世界史像への予感について語り始めます。12月8日 この日にふさわしい講演会となります。

           
1.日 時: 平成25年12月8日(日) 
(1)開 場 :14:00
 (2)開 演 :14:15~17:00(途中20分 程度の休憩をはさみます。)
                       

2.会 場: グラン ドヒル市ヶ谷 3階 「瑠璃の間」 (交通のご案内 別 添)

3.入場料: 1,000円 (事前予約は不要です。)

4.懇親会: 講演終了後、サイン(名刺交換)会と、西尾幹二先生を囲んでの有志懇親会がございます。ど なたでもご参加いただけます。(事前予約は不要です。)

        17:00~19:00  同 3階 「珊瑚の間」 会費 5,000円 

お問い合わせ  国書刊行会(営 業部)電話 03-5970-7421
FAX 03-5970-7427
E-mail: sales@kokusho.co.jp
坦々塾事務局(中村) 携帯090-2568-3609
                 E-mail: sp7333k9@castle.ocn.ne.jp

  

アメリカとグローバリズム(三)

―国際標準と「偏狭ならざるナショナリズム」  河内隆彌

 いまアメリカでウォールストリートは、右の方からのティーパーティ運動、左の方からOWS(オキュパイ・ウォールストリート)運動など左右から挟撃されている。極右とされるロン・ポールと極左とされるラルフ・ネーダーが反ウォールストリートでは共闘関係を組んだ。実はウォールストリートに対する抵抗運動?糾弾運動?は古くからある。その辺左翼であり、日本に関しては東京裁判史観から一歩も出ていない本ではあるが、映画監督、オリバーストーンの「オリバー・ストーンが語るもうひとつのアメリカ史」に詳しい。しかしかれら左翼の批判は当然のことだがグローバリズムそのものの批判ではない。

 大変乱暴な結論だが、小生は、リンドバーグほかの当時の孤立主義者たちは、国民国家としてのアメリカの最後の愛国者たちだったのではないだろうか?かれらが負けたときに、アメリカは「モンロー宣言のアメリカ」であることをやめて、「グローバリズムのアメリカ」になったのではないだろうか?それを批判するリベラル左翼も、「建国の父」たちの自由・平等を謳いながら、アメリカン・ナショナリストとして批判するわけではなく、もう一つの普遍主義、ないし理想主義に基礎をおくグローバリズムから批判しているようだ。西尾氏は、「憂国のリアリズム」のなかで、「アメリカはいつからアメリカでなくなったのか?」と疑問を書いておられるが、この辺が一つの解答になり得るかもしれない。

 これから先の対立軸は、勝ち組、負け組(支配、被支配)の関係になるのではないか?1%対99%の世の中が修正に向かうことはあまり考えられない。遺伝子組み換え農産物で世界を席捲しようとする農産複合体、無人機などで挽回を図る軍産複合体、刑事逮捕率を上昇させて刑務所の安価労働で儲けようとする刑産複合体、公立学校を潰して教育産業で稼ごうとする教産複合体などなどビッグビジネス、コーポラティズムの脅威は、岩波新書の(やはり左翼陣営と思われる)堤未果「㈱貧困大国アメリカ」に詳しい。

 だれが損をして、だれが得をするのか、よく考える必要がある。

 ここへきて、アメリカの財政問題、どう収束されるのか、相変わらずわからない。債務上限引き上げが一時的に成功して、デフォルトが当面避けられたとしても、それは先延ばしにすぎず、すぐ同じ問題に逢着するはずである。何か起りそうな予感がありながら、とりあえずの安泰にその日暮らしをしているのが現代人の姿ではないだろうか?

 日本でも、TPP、原発、消費税、女系天皇、などなどのマルチ・イシューの時代となっている。単純に保守かリベラルの軸足では割り切れない。この前、最高裁で驚くべき判事の14名全員一致で、婚外子の相続2分の1が違憲とされた。国際標準にしたがう、というのが大義名分だった。気づかないうちに表面上のキレイごとがまかり通ってしまう。われわれも、本来キレイごとには弱い一面があるわけだが、本当の仕掛け人がどこにいるのか、充分見定める必要がある。保守かリベラルかの軸足とは別の次元で、グローバリストかアンチ・グローバリストかという基準もありそうである。

 アンチ・グローバリストとはナショナリストにほかならないが、いまナショナリストという言葉には、必ず「偏狭な」という形容詞がつけられる。しかしそうではない。意味するところは、単なる「日本の」愛国者ではない。各々の国民が、それぞれ自国を愛することは大いに奨励するものである。相互のナショナリズムは尊重する。そのような考え方が国際社会を作って欲しい、国際標準になって欲しい。いわば「孤立主義」、「不介入主義」の立場のすすめである。
                          (了)

アメリカとグローバリズム(二)

 ―グローバリズムの三つのベクトル?  河内隆彌

キレイごととしての理念的グローバリズムの裏側には、三つのベクトルがある、というのが私見である。

① 理想主義リベラル・グローバリズム
② 社会主義リベラル・グローバリズム
③ ウォールストリート・ビッグビジネス(コーポラティズム)グローバリズム

以下それぞれを説明する。

① 理想主義リベラル・グローバリズム
 キレイごとそのままの理念的グローバリズムで、一般大衆が希求してやまないグローバリズムである。要は、「戦争のない、平和な一つの世界(ワン・ワールド)」、「民主主義の自由で平等な一つの世界、人類の愛の世界」、「山のあなたの空遠く、あるのではないか、と信じられている世界」である。

 99%くらいの人がそう思っているだろうか?②③のダブルスタンダードに簡単に引っかかってしまう人たちのベクトルである。

 最近、適菜収という人が、著書で「B層」と名づける人々である。その定義は次のとおり:
グローバリズム、改革、維新といったキーワードに惹きつけられる層、単なる無知ではない、新聞を丹念に読み。テレビニュースを熱心に見て、自分たちが合理的で、理性的であると信じている。権威を嫌う一方で権威に弱く、テレビ、新聞、政治家や大学教授の言葉を鵜呑みにし、踊らされ、騙されたと憤慨し、その後も永遠に騙され続ける存在である。

② 社会主義リベラル・グローバリズム
 その淵源がマルキシズムにある、本当の?左翼のリベラリズムである。かれらはマルキシズムの普遍主義を化体して、社会主義ワン・ワールドをめざす。ロシア革命で成功しかかったが、統治の方法論を持っていなかったために、スターリンの独裁主義を呼び、その死後は単なる官僚主義に陥って冷戦に敗れた。そのあと中国が引き継いだが、これはもう相当変質してきている。むしろ③のウォールストリート・ビッグビジネスグローバリズムと相性が良くなってきているように思われる。

③ ウォールストリート・ビッグビジネス(コーポラティズム)グローバリズム
 むかしからそうであるが、金融には国境がない。改めてユダヤ人陰謀説を唱えるわけでもないが、ヨーロッパ文明における主たる金融の従事者は、国境を持たないユダヤ人であった。ウォールストリート・グローバリズムもあえて説明するまでもない。かれらは戦争そのものでも儲けるし、景気の上昇場面、下降場面双方でも儲けることができる。また1970年代以降の変動為替相場制、1980年代のいわゆる金融ビッグ・バン以降資本取引はほとんど制約なしに行われる状況となって、投資活動も国境を超えて行われることとなった。

 1950年代、経済の27%を占めていたアメリカの製造業は、2010年、11%となり、製造業労働人口は、非農業部門の9%にまで下がって、国民国家としてとらえた工業国アメリカ(地理的概念における)はブキャナンの嘆くように崩壊してしまった。しかし、いまウォールストリートと、アメリカを原点とする多国籍、無国籍ビッグ・ビジネスのグローバリズムは、「わが世の春」を謳歌している。

 かれらは、いっとき、「大きい連邦政府」の敵として、ニューディールに反対してきたが、タックス・ヘイブンというような税金を払わないで済む方法も編みだした。いまや、この③のグローバリズムは、税金を払わないで済むなら、むしろ「強い政府」は有利である。「回転ドア・システム」と呼ばれる、政権との人事交流を通じて、自らに有利な法制を設定しており、いまや一人勝ちの状況にある。

 以上三つのグローバリズムはお互いに複雑に絡み合っている。①はどちらかというと受動的な側面があるので、常に②と③のベクトルに引っ張られる側面がある。逆にいえば②と③に虎視眈眈と狙われているのである。

 以下極めて大胆というより乱暴な私見を述べれば、いま②はほとんど世界的に力を失ってきていて、むしろ③と重ね合わさってきている?猖獗を極めているのが、③のウォールストリート・ビッグビジネスグローバリズムである。これはまた、効率化という至上命題のもと、より安価な労働力を求める形で世界中に拡散している。

 アフリカ系のオバマがなぜ大統領になれたか?ある意味で、ポリティカル・コレクトネスというか、白人の黒人に対する歴史的な差別に関する贖罪意識のなせるわざ、という論評もあった。2012年は、2008年よりもかなり苦戦したが、ロムニーを破って2期目を獲得した。選挙前は「貧乏人の味方」のような顔つきだったが、いまオバマもウォールストリートの代理人であることがはっきりしてきた。

 オバマ登場のきっかけは、2004年の民主党党大会でケリーの応援演説をしたとき、ご他聞に洩れず「建国の精神に戻れ」と格差社会を批判して一躍名を挙げた。ふたを開けてみれば、オバマの大統領選には、かなりウォールストリートから資金が出ていたことがわかった。ノーベル平和賞の受賞演説では、「必要で正当な戦争はある」と断言した。アフガン戦争は継続して、ブッシュのネオコン路線を継承した。リベラル向けには「同性婚」への支持を鮮明にした。

 いま、共和党か民主党か、保守かリベラルか、という論議にはあまり意味がないようである。国内、国外政策ともに大差がなくなってきている。大きな二項対立があるとすれば、(アメリカだけではないが)グローバリストか、アンチ・グローバリストか、という視点が重要になるように思われる。

アメリカとグローバリズム(一)

 本年、私の友人河内隆彌さんがパトリック・ブキャナンの二冊の本を翻訳出版した。『超大国の自殺』(幻冬舎)と『不必要だった二つの大戦――チャーチルとヒットラー』(国書刊行会)の二冊である。永年銀行員だった河内さんの翻訳家への転身は一部で話題になった。何しろ高校時代の私の同級生だから、私と同年の78歳である。

 三冊目の翻訳書が彼の手で準備されている。Ian Kershawという人の、原題を直訳すれば『1940―1941年の世界を変えた10の運命的決断』で日本人の運命にも関係の深い内容である。英、独、日、伊、米、ソの各国のリーダーがどういう状況で、どういう決断をし、それが玉突き的に他の国のリーダーにどう影響をしたかを描いている歴史書である。白水社から刊行される予定であると聞いている。

外国の歴史家の大胆にして自由な発想に基く歴史の描き方が羨ましい。敗戦史観とマルクス主義に縛られて世界が見えない視野狭窄の日本の歴史学会の、余りといえば余りのていたらくぶりとつい比較してしまいたくなる。

 さて、河内さんは上記の仕事とは別に、10月某日ある会合で、ルーズベルトとリンドバーグの話をした。リン・オルソンという人の『憤怒に燃えたあの時代――ルーズベルト、リンドバーグ、アメリカの第二次大戦史』を読んで、その紹介と解釈をめぐる講和だった。長い話だったので、それはここに掲示することはできない。四冊目としての翻訳の出版もきまってはいない。

 ただ講和の終わりに河内さんが現代のアメリカ文明について、その歴史と日本との関係について、自由な感想をお述べになった。「アメリカとグローバリズム」と題して、ここに以下3回に分けてその日の彼の感想所見を提示する。

アメリカとグローバリズム(一) 河内隆彌

 以下、「まとめ」のような話に入るわけであるが、何せアカデミズムとまったく無縁の、アマチュアの話なので、「岡目八目」の話になると思う。

ブキャナンの本などを読みあわせ上で二三、意見というか、問題提起というか、感想というか、述べてみたい。それは違うよ、というようなところは多々あると思うが、お聞き流しいただければ幸甚である。

  ―アメリカ、「二項対立の国」?

 リンドバーグとルーズベルトの時代は、米国史上、南北戦争以来の対立の時代と申し上げたが、そもそもアメリカとは「二項対立」で成り立っている国、とも言い切れる。

 まず、日本人の多くが一種憧れを以て見ている、二大政党、共和党と民主党がある。
以下、
保守とリベラル
内陸部対沿岸部(東部/西部)
同じような意味で、レッド・ステーツ対ブルー・ステーツ(選挙ではっきり出ている)
州権尊重主義対連邦主義
国内優先主義(孤立主義)対国際主義(介入主義)
白人対有色人種
1%対99%(金持ち対貧乏人)
Tax-payer対Tax-eater(税金を納める人、消費する人)
同性愛反対派対賛成派
妊娠中絶反対派対賛成派
銃規制反対派対賛成派
死刑廃止反対派賛成派

 などなどである。いま先に出た方が、どちらかといえばいわゆる「保守」であとの方がいわゆる「リベラル」であるが、必ずしも一致はしない。イシューごとに人々はそれぞれの立場をとるからである。

 リンドバーグ対ルーズベルトの時代ならずとも、いまだに、というよりも、はた目には、これらの二項対立は実に激しくなっているように見られる。むしろ、参戦、反戦といった大きな、単純な対立ではなく、もっと細かな複雑な二項対立となっている。世の中がマルチ・プロブレム(イシュー)に時代に入っている。公民権運動以来、有色人種が(ヘンな言葉でいうと)「一人前」となってから様相はきわめて複雑にもなっている。

 しかしいずれにせよ、アメリカ社会がいかに人種的、経済的、社会的、文化的、宗教的に多様化しようと、そして銃砲が世の中に溢れていようと、流血事態で国が割れたり、南北戦争ではないが、州が分離してゆくこともかなり想像しにくい。(大きく、いわゆるブルー・ステーツ、レッド・ステーツの色分けはかなりはっきりしているが・・。)

 南北双方あわせて南北戦争では60万人余という犠牲者を出している。実はこれは手痛いアメリカの学習効果となったのではないだろうか?南北戦争というのは、奴隷制度をめぐっての、ないし工業の北部対農業の南部の戦争という理解よりも、「二項対立」、この場合、連邦優先か、州権優先かで、国家が分裂することもある、ということを血を流してでも防いだ戦争という理解も出来るのではないか?そもそも建国の父たちである、トマス・ジェファソンとアレクサンダー・ハミルトンの州権優先主義、連邦優先主義の「二項対立」を孕んだまま国が始まっている。その後紆余曲折があって、この二つの主義は、立場を入れ替えたりしながら、今日の共和党、民主党の二大政党につながっている。

 アメリカは議院内閣制ではなく、大統領制である。したがって、中間の党との連立政権といったシステムが存在しない。常に白か黒かとなる。もう一つはメディアである。
 
 リンドバーグとルーズベルトの対立も、メディアが率先して煽った嫌いがある。前述した現在の、もろもろのイシューに関する対立もメディアが騒ぎ立ている面が大いにある。何か、アメリカ人は、どんな問題でも、賛成か反対か、「プロ」か「アンチ」の立場をとることをあたかも強制されているかのように見えないでもない。要は一般にとって、右左以外の選択肢はあまり提示されず、世のなかはあたかも二択しかないように思わされているのではないかのように見える。換言すれば「二項対立」こそが、アメリカの特質であり、ダイナミズムの源泉になっているのではないだろうか?

 本日のテーマである、リンドバーグとルーズベルトの、孤立主義者と介入主義者の対立は、大雑把に保守とリベラルの対立だったといえる。政党の色分けでいえば、共和党の主流は孤立主義者、民主党はおおむね介入主義者だった。しかし、ウェンデル・ウィルキーのような共和党員もいた。かれは共和党員としては傍流だったのだが、ヒトラーの快進撃という警戒感の時の流れで、共和党大会で「ウィーウォント・ウィルキー」コールを引き出して指名された。

 ウィルキーは、ルーズベルトとの決戦となったとき、参戦についてルーズベルトとの対立軸を失った。共和党のメイン・ストリームの抵抗にもあって、本選挙では孤立主義者にくらがえして結局ルーズベルトの三選を許した。

 当時の保守、共和党は明白に反介入、反戦だった。戦後の、リベラルの専売特許と思われているようなベトナム反戦、イラク反戦、最近ではシリア介入反対などの反対行動とはちょっとニュアンスが異なるように思われる。軍幹部、上層部が孤立主義者寄りだったことは説明した。かれらは別に平和主義者として反戦をとなえたのではない。そうではなく、外に出て戦うのではなく、自分の国を防衛するのが先ではないか、と言う優先順位を大事にしたのである。そこには紛うことない愛国主義があった。「国民国家としてのアメリカン・ナショナリズム」というものについての、かれらなりの発露だった。

 いま同じ共和党のなかにいわゆるネオコン(新保守主義)と呼ばれる一派がいて、湾岸、アフガン、イラク戦争などの旗振りをした。おかげで、保守の共和党は戦争屋で、リベラル民主党が平和の守護人という見方が内外で定着しているようでもある。しかし第二次戦争を戦う指揮をとったのは民主党のルーズベルトとトルーマンであり、ベトナム戦争は民主党のケネディがエスカレートさせた。オバマもシリア介入のレッドゾーン(化学兵器使用の一線を越えたら攻撃するぞ)というようなことも言い出した。

 しかしどうも、いわゆるアメリカの戦争屋の戦争には、「国民国家としてのアメリカ」についての愛国主義の発露として見るには、何か馴染まないものがある。かつての「民主主義を守るため、戦争を終わらせるため」の戦争というウィルソンのレッテルには胡散臭さがあった。

 西尾氏もどこかに書いておられたと思う。ブキャナンもそう言っている。アメリカは結局枢軸国に対する勝利と同時に、宿願である大英帝国潰しに成功した。アメリカの戦争目的には、国民国家としてのアメリカのナショナリズムの発露というより、グローバル(ワン・ワールド)覇権の樹立にあったということがはっきりしたのではないだろうか?

 この勉強会の一つのテーマであるが、アメリカは、戦後、強大なソ連と共産中国を生み出してしまった。甘さがそこにはあったのかもしれない。そこで朝鮮戦争とか、ベトナム戦争などの代理戦争をやった。レーガン時代にやっと冷戦に勝って、ソ連は何とか片づけた。(近頃はシリアの問題などで、プーチンがまた何かと目障りなことを言っている。)中国とは「対決」か「妥協」か、さきのところはわからない。このところアメリカは内向きになっているように見えるが、グローバル覇権というのは「軍事優位」の世界だけにあるものでもなく、別な形で狙っているのではないだろうか?あとに触れることと関連する。

 リンドバーグたちの孤立主義は本来ナショナリズム、愛国主義であるにもかかわらず、孤立主義という何やら淋しげなマイナス・イメージを伴うレッテルが貼られるについては、ルーズベルトたちが、自分たちの側を愛国者とするために、そのグローバリズムを隠ぺいする方便だったのではないか?孤立主義者はナチ、ドイツのスパイであるなどと喧伝している。いずれにしても、国民国家としてのアメリカの愛国保守の勢力は、リンドバーグの時代で終わったのかもしれない。

 戦後、ベルリン封鎖、共産中国の成立、朝鮮戦争の勃発などでその反動が起こりかかった。マッカーシーが上手にやっていればアメリカン・ナショナリズムは盛り返すことが出来たかもしれない。しかしいま、アメリカの教科書で、マッカーシーは嘘つきで有名人になりたかっただけ、云々とケチョンケチョンである。その点、いま細々と?受継いでいるのが共和党の、真正保守(ペイリオコンサーバティブ)と呼ばれるブキャナンたちかもしれない。

 ブキャナンは、ネオコンを蛇蝎のごとく嫌っている。ネオコンの正体は、イスラエル・ロビーという左翼から発しているらしい。したがって、共和党もいまやリベラルのグローバリストに占領されている?ブキャナンのような真正保守は、アメリカで一定の支持はあるようだが、メディアからは大変に嫌われている。さきの本のおかげで、白人至上主義者(ホワイト・スプレマシスト)と烙印を押されて、MSNBCというTV(ケーブル?)のホストをおろされた。

 いま西尾氏が「正論」で、「そも、アメリカとは何ものか?」いう問題意識で議論を展開されている。まさにアメリカだから、そもそも何ものか、という設問が成り立つ。これがイギリスとは、とか、フランスとか、ないしロシアとは・・ですらも、わざわざ問うまでもなく見当がついてしまうように感じられる。

 南北戦争の30年くらい前に、同じような問題意識でアメリカを見てまわって、「アメリカの民主主義」という本を著したフランスの政治家、政治思想家、アレクシ・トクヴィルは、アメリカの例外主義という定義づけを行った。最初から人工国家として、理念の国家として人々が文字通り「創った」国家であるアメリカには、最初から抽象的な、キレイごとが独り歩きする特質がある。キレイごとと現実との折り合いをつけるためには、ダブル・スタンダードを常用してゆかざるを得ない。アメリカのわかりにくさとは、もろもろの事象に潜むダブル・スタンダードにあるのかもしれない。もちろん、日本にせよ、どこにせよ、どこにでも二重基準はあることはあるのだが・・。アメリカの場合はどこにあるのかわからない場面が非常に多いような気がする。

 もう一つ、アメリカの「国体」とは何か、という問題もある。伝統、歴史のないアメリカ人にとって唯一の神話となり得るのは、いわゆる「建国の父たち」である。独立宣言から始まって、独立戦争を勝ち抜いて、憲法と人権宣言などなどのキレイごとを創ったジョージ・ワシントン、ベンジャミン・フランクリン、ジョン・アダムズ、トマス・ジェファソン、アレクサンダー・ハミルトンなどなどのメンバーである。

 保守、リベラルを問わず、水戸黄門の印籠のように、「建国の父たち」の価値観を引き合いに出すとみな畏れ入ってしまう。この辺はいまさら小生如きが講釈しても始まらないが、要は、このご印籠が、ダブル・スタンダード隠しに魔力を発揮するのである。曰く、自由、平等、民主主義エトセトラ、エトセトラのいわゆるアメリカ的価値観である。

 表向きアメリカの理念そのものであるキレイごとの価値観は、きわめて「普遍的な」価値観である。この価値観が、西尾氏が「天皇と原爆」そのほかで説かれる、アメリカのキリスト教原理主義の持つ「普遍性」と結びついて、アメリカを建国の当初からグローバリズムの方向へ向かわせた。中村氏の資料にあるとおり、アメリカの国璽に「New World Order」「e pluribus unum」(out of many, one)(多数から一つへ)と書かれていることは偶然ではない。

坦々塾 「第一回・語る会」報告

中村敏幸氏による坦々塾「第一回・語る会」の記録です。

 坦々塾会員による「第一回・語る会」が、4月6日(土)午後2時から高田の馬場の戸塚地域センター会議室に於いて開催されました。当日はあいにく爆弾低気圧の接近により、夕刻から東京地方も暴風雨になることが予想されましたが、新潟、群馬、山梨等の遠隔地からの参加者も含め西尾先生以下30名の会員の方々が参集されました。

 西尾先生の中国、北朝鮮情勢にふれられた御挨拶の後、下記4名の方が演台に立たれましたので、その概要を御報告致します。

Ⅰ.一番手は、鵜野幸一郎さんの「社会的事象としての本人認証」です 

 鵜野さんは、長らくIT関係の仕事に携わってこられましたが、我々の日常生活に於いてもサイバー空間が急速に進んでいる状況下に於いて、現在使用されている「本人認証」の方式は極めて脆弱であり、安全、安心に使いこなせる「電子的本人認証基盤の確立」が極めて重要であることを語られました。

(1)「本人認証」とは、「自分がその本人であると主張する人物が本当にその人物であるかを確認すること」であるが、本人認証にはリアル空間(署名・捺印等)とサイバー空間(パスワード等)がある。
(2)「自分が自分であることを証明するのにさほど困難は伴わない」、と考えてきたのが日本人一般であるが、我々が住んでいる現代社会は既にそんな悠長な世界ではなくなっている。
(3)サイバー空間が加速的に拡大するにつれ、不利益を受けずにサイバー空間の圏外で暮らす選択が困難となりつつあることに気付かなくてはならない。
(4)ある技術の普及から対抗技術が生れ、却って社会の不安を誘うことがある。例えば、指紋はガラスに残された残留指紋から作られた複製指で市販の指紋認定装置を通過出来ることが実証された。また、DNAも毛髪からの複製が可能であり、文字パスワードは脆弱である。
(5)本人認証はあらゆるセキュリティ要素技術を考慮する前に既に存在していなければならない基礎的な与件であり、これからは本人の記憶、思い出等を画像で照合(パス画像)する個人認証技術が重要になってくると思われる。
(6)買い物や銀行決済というレベルの話ではなく、電子行政サービスの導入が真剣に構想されている今日、最も重要な課題はサイバー社会において国民一人一人が安全・安心に使いこなせる「電子的本人認証の基盤確立」が喫緊の課題であり、これは国家の安全保障にとっての基礎的与件でもある。

Ⅱ.二番手は、小池広行さんの「死の淵を見た男たち」です。

 小池さんは福島第一原発事故に於いて当時所長として陣頭指揮を執られた吉田昌郎氏と東電入社同期とのことで、震災発生1カ月半後の4月末に現場に赴き、つぶさに実態を確認されました。全電源喪失、注水不能、放射線量増加、そして水素爆発と絶望的な事態の推移の中で、文字通り死を覚悟して奮闘された吉田所長以下の所員と協力会社、自衛隊員等の初動対応と、それとは対照的に現場の足を引っ張り続けた、時の総理管直人等の愚行、そして、政府、国会、民間、東電の各事故調の報告は無味乾燥であり、この壮絶な闘いを誰かが纏めてくれないかという思いにかられた中、昨年、門田隆将氏の「死の淵を見た男」が刊行されたことを時折声を詰まらせながら語られました。

(1)先ず、津波来襲直後に現場はパニック状態に陥ったが、吉田所長は即座に「チェルノブイリ級の事故」になることを想定し、電気がない、冷却水がない状態では海水を入れるしかないと判断した。そして、発電所に3台あった消防車のうちの2台が津波で破損したことを知ると、即座に消防車の手配を本店に要請した。
 この要請はすぐさま郡山の陸自第6師団に届き、翌12日午前7時には福島、郡山の駐屯地から12名の隊員を乗せた2台の消防車が到着し、隊長から「何でもやらせてもらいます。指示を出してください」との決意表明があった。
(2)11日23時、所長による「入域禁止」の指令が出る一方、緊急対策室からベントのための手順作成とメンバーの選定指示が出された。現場の責任者は若い人には行かせられないとの方針を打ち出したにも拘らず、若い人達が次々と手を挙げた。そうして、若手は最終的にメンバーから外されたが、3組のベント突入隊が結成され、諸準備を整えて「ゴーサイン」を待った。
(3)しかし、その時に管総理を載せたヘリが到着し、緊急対策室は一時間半ほどその対応に追われ、すべての指示かストップし、自衛隊員も所員も待機状態に陥ってしまった。
(4)ヘリが着陸した時、管総理の現地視察の様子を撮影するため、「まず、総理だけが降りますから、他の人は誰も降りないで下さい」との指示が発せられ、これには同行の斑目氏もむっとした。
(5)管氏は、疲れ果てた現場の作業員をねぎらうこともなく、「なんで俺がここに来ていると思っているんだ」と始終怒鳴りまくっていたが、吉田所長の「決死隊を編成して対応する」との話に納得して帰った。
(6)一方では、原発事故の際に現場にいることを義務付けられている保安検査官は、12日午前5時頃に線量が上がってきたために、原発から5km離れたオフサイトセンターに逃げてしまったのである。
(7)3月12日15時36分、1号機爆発 ⇒官邸~本店~現場間の海水注入とその停止をめぐるやりとり⇒3月14日11時1分、3号機爆発と事態は悪化の一方であったが、3号機の爆発の影響で2号機のベント弁が閉となり、原子炉圧力がどんどん上昇して2号機が最大の危機を迎えた状況下で、15日朝5時半頃、管総理が東電に乗り込んだ。
(8)その頃、吉田所長は自分と一緒に死んでくれる人の顔を思いうかべていた。
(9)15日の朝、吉田所長による管理職を残しての「退避命令」が出されたが、死を覚悟して残った69人はまるで死に装束をまとっているようであった。
(10)その後、茨城県小美玉市百里航空自衛隊基地から駆けつけた消防隊等による、地上からの決死の放水活動により状況は改善の方向に向かった。
(11)今回の事故に対する、東電と政府による危機対応の惨状は「失われた時代」の日本の危機そのものを反映しており、結局は精神の自立を欠いた「いびつな日本の安全保障意識」がもたらしたものではないだろうか。

Ⅲ.三番手は、松木國俊さんの「従軍慰安婦問題、韓国、米国の恐るべき謀略」です。
 
 

 松木さんは、商社マンとして長い間「日韓貿易」に携わる傍ら、日本の朝鮮統治と戦後の反日の真相を精緻に調査され、その成果を一昨年、「ほんとうは『日韓併合』が韓国を救った」という著作にまとめられました。この本は3万部以上売れたそうです。

(1) 先ず、「従軍慰安婦問題」に対する米国の理不尽な圧力は、日本を「野蛮な侵略国」に貶め、米国が行った無差別大空襲や原爆投下という「人道に対する罪」を糊塗するためである。
(2) そして、安倍首相はこの問題を「政治・外交問題化させない」との立場をとるが、この問題は既に政治・外交問題化しており、米国の圧力に屈した安倍首相は厳しく批判されるべきである。この問題は、今が正念場であって、「政治・外交問題化」している次のような具体例がある。
   ・韓国外交通商部は「慰安婦問題は1965年の日韓基本条約の対象外である」と主張(2010/3)
   ・韓国憲法裁判所は「慰安婦への賠償を日本政府に請求しないのは韓国政府の不作為であり、憲法に違反する}との判決を出す。(2011/8)
   ・李明博大統領は昨年、「慰安婦問題解決につき日本が誠意を示さないために竹島に上陸した」と主張。
   ・以上のように「慰安婦問題」は韓国では対日外交問題の最重要課題となっている。
   ・更に、欧米諸国の議会で、「慰安婦問題」にかかわる「日本非難決議」が続々と採択されている。
   ・また、米国では「慰安婦の碑」が建設され、日本国の尊厳が傷つき、日本人子弟に対し「野蛮人の子供だ」という虐めが始まっている。
(3) また、「政治・外交問題化」している何よりの証拠は、海外在住の韓国人による反日活動を韓国政府が支援していることであり、次のような具体例がある。
   ・海外における反日活動の司令塔であるVoluntary Agency Network of Korea(VANK)に韓国政府が莫大な公的資金援助をしているが、この組織の活動目標は「世界における日本の地位低下」である。
   ・政府と直結した組織「東北アジア歴史財団」が創設され、活動目標の第一に「日本軍慰安婦の問題と国際問題化」が明記されており、年間20億円近い予算を得て反日活動の司令塔になっている。
   ・「韓国挺身隊問題対策協議会」という組織があり、ここにも韓国政府は資金援助を行っている。
(4) では、何故これほどまでに第三国で反日活動を展開するのか。それは韓国人の習性であり、周りを巻き込んで戦うのが韓国流のケンカの仕方だからである。それ故、韓国は「慰安婦問題」を捏造して世界に発信するのであり、米国に於いてはそれが原爆投下に対する免罪符になっており、このままでは嘘の歴史が世界中に定着してしまい、日本にとって一国の猶予も許されない「政治・外交問題」である。
(5) それにしても韓国は何故これほどまでに執拗に「慰安婦問題」を持ち出してくるのか。実は日本統治時代には今のような反日感情はなく、これは戦後になってからである。李氏朝鮮は正式な国際条約によって日本に併合されたのであり、日本から独立するのであれば、李氏朝鮮の復活でなければならず、李承晩による大韓民国の成立に正統性はなく、李王朝に対するクーデーターだったのである。そのため、李垠殿下という正当な皇太子が存在したにもかかわらず、李王朝は日本によって跡形もなく滅ぼされてしまったとの嘘を捏造して大韓民国を正当化したのである。
朝鮮は、日本統治時代の方が一等国民として生活も豊かであったが、そんなことを国民に言わせては大韓民国の基盤が揺らぐために、猛烈な反日教育を始め国民の記憶を塗り替え、それによる反日感情によって彼等は自家中毒を起こしている。
(6) そして、今や反日感情は、日本に対し仕返しをするべきであり、報いを受けさせなければならないという域にまで達しており、「慰安婦問題」こそ日本に対して復讐をする絶好の材料になっているのである。我々はそれを直視しなければならない。
(7) 韓国には「過去のことを水に流す」という文化はなく、朴槿恵大統領の「加害者と被害者の関係は千年たっても変わらない」との発言はここからきている。よって、「慰安婦問題」は謝罪すればするほど悪化するのであり、何としても彼等を正面から論破しなければならない。
(8)「女子挺身隊」と「慰安婦」を同一視するのが韓国の公式見解であるが、「挺身隊として引っ張られて慰安婦にされた」との証言は一つもなく、これは歴史の歪曲である。また、「慰安婦狩り」は吉田清二による歴史の捏造である。20万人の女性が強制連行されたのなら、朝鮮全土に暴動が起
こるはずであるが、そんな記録は1件もない。しかも、当時の朝鮮の警察官の80%は朝鮮人であった。それでもあったと言う者がいれば、あなた方の父祖は自分たちの娘や恋人が強制連行されていくのを指をくわえて見ていたことになり、それ程ふがいない男達だったのかと言ってやれば良いのである。
(9)では、これ程虚偽捏造であることがはっきりしているにもかかわらず、韓国は何を根拠に「強制連行」があったと言っているかというと、それは「河野談話」であり、「河野談話」が韓国に復讐の口実を与えてしまったのである。
(10)最後に、一国を亡ぼすのに武器は不要であり、歴史と民族の誇りを奪われた国は滅亡する。「慰安婦問題」は日本民族の生き残りをかけた「外交戦争」であると述べて締めくくられた。

Ⅳ.四番手は石部勝彦さんの「歴史学界への挑戦」です 

 石部さんは長い間、高校で世界史の教鞭をとられましたが、御自身が所属する「歴史学会」が未だに左翼イデオロギー一色であり、同学会が開催したシンポジウム『戦後歴史学とわれわれ』に出席した際に抱いた、三つの問題点を、堂々と同学会に提起され、挑戦を挑まれたことを語られました。

(1) 第一の問題点は、『戦後歴史学』が、ごく少数の専門の歴史学者だけの狭い世界のものになっていて、国民全体のレベルに於ける歴史への興味や関心から遊離したものなっていることである。
 塩野七海氏や渡部昇一氏、あるいは黄文雄氏の歴史書はよく読まれていると思うし、西尾幹二氏の「国民の歴史」もベストセラーになったが、これらの方々は専門の歴史学者ではない。
 一方、『戦後歴史学』の世界に所属する専門の歴史学者のもので、これらに匹敵するようなものはない。
(2) 第二の問題点は、『戦後歴史学』が国民に対してその責任を果たしていないことである。日本の学生が海外留学先で、世界各地の若者と交流する場合、自己紹介に際してどこの国の若者も自国の歴史を誇らしげに語るが、日本の若者にはそれが出来ないと言われている。 
 その直接の責任は日本の歴史教育にあるが、本当の責任はそれを配下に置く『戦後歴史学』にあるのではないか。
(3) 第三の問題点は『戦後歴史学』が、学問にとって最も大切である「学問の自由」を蔑ろにしていることである。昭和57年、宮沢官房長官によって「近隣諸国条項」が出されたが、これは日本の教科書には近隣諸国の意に反することを書いてはならないというものであり、「学問の自由」に対する冒涜であった。しかし、これに対して異議を唱えた歴史学者はいなかった。
 平成15年、一橋大学名誉教授で、歴史学研究会委員長、日本学術会議会員等を歴任した永原慶二氏による「20世紀日本の歴史学」という本が出版された。その「まえがき」に於いて氏は、平成13年に「新しい歴史教科書をつくる会」が発足したが、「つくる会」による教科書の記述は史実を歪曲する非学問的行為であり、日本の歴史学は「東京裁判」によって正しい歴史の見方を教えられたのである。「つくる会」のような動きに対しては、歴史学の研究者としては、一歩もゆずることが出来ないと主張しているが、これは「学問の自由」を否定するものである。
 しかし、この永原氏の見解に対して異議を申し立てた学者は皆無である。
  *石部さんの「歴史学会」に対するこの挑戦状に対し、同学会も無視することが出来ず、「検討する」との回答が寄せられており、石部さんの戦いは今後も続くとのことでした。

  以上が四人の方々の発表の概要ですが、演題も多岐にわたり、講演後の質疑応答も持ち時間を余すことなく活発に行われ、第一回目としては大成功であったと思います。
 今回は、暴風雨の到来により「懇親会」は中止となりましたが、雨脚が激しさを増す中、感興さめやらぬ十数名の方々が、西尾先生を囲んで近くの居酒屋で1時間余りの歓談を行いお開きとなりました。
 
 尚、次回、第2回の「語る会」は9月1日を予定して居ります。

                       記録係 中村敏幸 記
 

つくる会の本の出版決意

ゲストエッセイ

鈴木敏明

 去年、私は自分のブログで「新しい歴史教科書をつくる会」、通称「つくる会」の本を書くと宣言しました。さっそく書き上げ、原稿を出版社(A)に提出した。出版社から原稿がまるで「つくる会」の広報誌みたいだと言われました。そこで原稿を書き直し再度(A)出版社に提出した。その結果を数ヶ月待たされた。やっと出た結果は、(A)出版社は、出版する本が6千冊から8千冊ぐらい売れそうもない本は、出版しないことが社の規定になってしまったと断られてしまった。私みたいな自称定年サラリーマン作家は、売れる見込みがないといわれるとどうしても弱い。そこで同じ原稿を(B)出版社に持ち込みました。(B)社の結論は早かった。「昔はつくる会も人気があったが、いまはあまり話題にもならないし、人気が昔ほどではない。本を出版してもあまり売れないでしょう。」と言うのです。それでも、もし私が出版費用の一部を負担してくれれば出版してもいいという返事でした。出版費用の負担額を聞くと、なんとかやれそうなのです。

実は、今年の1月12日に、私のブログに「ついに英文翻訳完成」という記事を出しました。そのブログに書いていますように、私とは縁もゆかりもない鎌倉在住の渡辺氏が、私の大作、「大東亜戦争は、アメリカが悪い」の英文翻訳に参加し、出版費用の半分を持ってくださるという宝くじに当たるような幸運があったのです。その浮いた半分の費用で「つくる会」の本を出版することにしたのです。それではなぜ自分のお金を使ってまでも「つくる会」の本を出版しようとしたのか。私は「つくる会」の一会員として日本の保守陣営に対する激しい義憤を感じるからです。例えば、

1.「つくる会」を乗っ取ろうとした主人公、八木秀次氏を筆頭に6人の学者、先生たちは、「つくる会」に何をしたのか。産経新聞と産経新聞記者、渡辺浩氏は、「つくる会」に対してどういう記事を書いてきたのか、宮崎正治氏は、「つくる会」の事務局長だった。彼は日本会議会員、その日本会議の大幹部、椛島有三氏や小田村四郎氏と宮崎氏の三人は、「つくる会」に何をしたのか。

八木秀次会長、種子島経会長や小林正会長は、なにをしたのか。「つくる会」の教科書を出版していた扶桑社は、なぜ「つくる会」の教科書出版を止めたのか。あるいは新規の出版社、育鵬社は「つくる会」に何をしたのか。この事は、古い会員の一部は知っていても、私を含む多くの正会員は、あまり知らないか、ほとんど知らないのです。この時「つくる会」を去っていった会員たちのほとんどが、詳細も知らず、内部分裂とか内紛などと言って去っていったのです。会員でない人たちには、「つくる会」が内紛を起こしているらしいというような状勢だったのです。しかしこの一大騒動も、「つくる会」の一大使命である素晴らしい歴史教科書や公民教科書をつくり、それらを日本中の中学校で学ばせるという目的を理解した会員、中でも特に東京支部を中心とした首都圏支部の会員たちの奮闘のおかげで、私利私欲にかられた不埒な学者、先生たちを追い出す形になり、「つくる会」と教科書の独自性を死守したのです。もし独自性を保てなかったら「つくる会」は「中国社会科学院日本研究所」と協力関係となる恐れが十二分にあったのです。

2.二年前の教科書採択戦時、「つくる会」は、育鵬社の歴史教科書が「つくる会」の歴史教科書の盗作をしていたのを知っていた。しかし実情では、どの程度の盗作があるのかわからないので、採択戦後にていねいに調査した結果、育鵬社は、「つくる会」の教科書の47ヵ所を盗作していたことがわかった。そこで「つくる会」は育鵬社側に手紙を書き、話し合い解決の場を求めました。しかし育鵬社からは、ほとんどなにも回答らしい回答はありません。現在、中学生が育鵬社の盗作教科書を学んでいるにもかかわらず、メディアは一切報じません。有名な保守知識人も誰一人一切語ろうともしません。それどころか左翼が得するだけでなにも得にもならないことになぜ熱を上げるのかと「つくる会」を非難する保守の人々も沢山います。

そこで「つくる会」は、直接自ら編纂して「歴史教科書盗作事件の真実」というタイトルの本を自由社から昨年10月末に出版し、記者会見もした。それでも新聞の小さなベタ記事になり、育鵬社の盗作否定を報じただけ。育鵬社の教科書を支持した保守知識人は、数え切れないほど沢山いました。その彼らの全員が一言も語らないのだ。育鵬社のバックにあるフジサンケイグループが恐いのでしょう。いつも日本人はいざとなると論理的な行動ができず、情緒的に行動しようとするのではないでしょうか。戦前の話に飛びますが、関東軍の起こした満州事変は、日本陸軍の軍法違反で起きた事件です。ところ大成功したため、軍事裁判にかけられるどころか、昭和天皇に誉められ、石原莞爾ら首謀者は、ほとんど昇進。このことが大東亜戦争に悪影響をあたえたことが知られているのです。47箇所の盗作歴史教科書を書いた執筆者は、有名人ばかりです。伊藤隆(東大名誉教授)、八木秀次(高崎経済大学)、渡部昇一(上智大学名誉教授)、渡辺利夫(拓殖大学学長)、石井昌浩(元拓殖大学客員教授)、岡崎久彦(元駐タイ大使)などです。実際に彼らが直接書いたわけではなくても責任があります。育鵬社は、教科書ビジネスとしては成功したかもしれませんが、歴史教科書の大盗作という大スキャンダル事件を起こし、責任者を一切追及することなく、謝罪さえもせず、なにもなかったことにしてすまそうとしています。はたしてそれで良いのでしょうか。将来の教科書業界に悪影響及ぼすことが心配されます。

3.育鵬社が保守派の教科書として歴史教科書、公民教科書に進出すると聞いた時、私たち「つくる会」の会員は、保守系教科書の共存共栄と喜んだものです。ところ八木秀次氏は、「つくる会」の会長の時、「つくる会」の執行部には内緒にして秘密裏にシナのスパイ網の一組織といわれる「中国社会科学院日本研究所」を訪問し、歴史認識をめぐって会談しているのです。その後、「中国社会科学院」の歴史研究者が日本訪問したりして八木氏らとの交流が続いているのです。「つくる会」の藤岡信勝氏は、二度にわたって月刊誌「WiLL」に八木氏らの行為はスパイ活動だと非難していますが、その非難を明瞭に否定する回答がありません。育鵬社側のスパイ活動もこの「WiLL」による二度の報道以外に語られることはありません。保守どうしけんかして得するのは左翼ばかりということで、盗作という違法行為とスパイ行為という不道徳行為を見逃そうとしているのです。その八木秀次氏が、今度の第二次安倍内閣が作った「教育再生実行会議」のメンバーの一人に選ばれるとは仰天に値します。

この度、出版する本は、この三点だけを書いているわけではありませんが、とりわけこの三点には、私は義憤を感じるのです。それだけに詳細に書き、多くの読者に訴えたいのです。特に「つくる会」を去った人たちの中には、反「つくる会」行動にでた人たちの言動に惑わされた人も多いいと思います。ぜひこの本を読んで、入会時のような国に対する熱い思いを思い出し、再入会して欲しいと思っております。最近、高校の日本史教科書の自虐史観ぶりがひどいと聞いております。「つくる会」の存在感はますます高まっています。「会員」が減ると資金力が足りなくなり、教科書出版の可能性がなくなります。

是非読者の皆様も入会していただけたらと思っています。私の本は今年の6月前後に出版されます。本のタイトルは、本の原稿を書くよりむずかしく、まだ決まっておりません。出版日が決まりしだい。また連絡いたします。

最後に「つくる会」は、日本全国の私のような小市民の方が日本の歴史教科書や公民教科書の内容を改善しなければだめだと自ら立ち上がって行動している団体です。資金力も少なく、それだけに吹けば飛ぶような存在かもしれません。その「つくる会」を、日本の保守言論の雄である一流マスコミや一流保守知識人がグルになって「つくる会」を乗っ取ろうとしたり、潰そうとしたり、大盗作したりして私たちを翻弄しているのです。怒りを示す私が悪いのか、何事もなかったかのうようにすましてしまおうとする現在日本の保守陣営が悪いのか、読者に判断してもらいたいと思っています。一寸の虫にも五分の魂。「つくる会」は、これからも戦い続けます。

文章:鈴木敏明

四万温泉にお伴して

伊藤悠可

 御全集刊行の記念講演会(第五回)を1月19日に了えられてから、西尾幹二先生はことさら誰かにお膳立てを指示されたというわけでもなく、「熱い温泉にでも浸かりたい」と洩らされたそうだ。それを聞いていたのが、このところ坦々塾の会合、講演会等の世話役を買って出てくださっている中村敏幸さんである。

 中村さんは群馬県の渋川在住。山と温泉はいくら選んでも品切れにならないほどまわりにある。思い立ったら吉日で、先生は「今すぐ行きたい」と仰言る。無計画に近い旅の計画をすばやく立ててエスコートするのもまた、中村さんは得意である。道連れは何人にするかなどと悩むのはやめて、旅は一泊、「今すぐ」に応じられる人を募って締め切ろう、ということになりプランは固まった。

 先生も旅人である。草津の湯は軽井沢に行き来するとき幾度も体験された、伊香保は今さほど魅力を感じない、赤城・水上はさらに物足りない。こうして候補を削ぎ落して最後に残ったのが四万温泉だった。四万温泉郷は県西北端に位置する湯治場。元禄時代、近隣の大名から農閑期に疲れを癒したお百姓まで、湯煙の途絶えぬ里のにぎわいが絵図に描かれている。伝承としては蝦夷征伐の坂上田村麻呂が登場する場所だから、古さという点ではもう説明は要らない。無論、お湯は上質である。

「なら、四万にしましょうか」と中村さんが電話で推奨すると、先生は「一度行きたかったところなんだ」と感慨深げに話されたそうだ。われわれはその理由を旅先で初めて聞いたのだが、なるほど西尾先生が必ず訪ねなくてはならない場所だったのである。後述する。

 ちなみに、最近のバス旅行の便利さには驚かされる。八重洲でも丸の内でも豊富に遠距離バスの停留所があって、四方八方の観光地に向けて直行便が出ている。四万温泉へは東京駅八重洲中央口近くから『四万温泉号』に乗れば旅館の前まで連れていってくれるのだ。

 2月15日朝、先生のお伴をすることになったのは小川正光さん、松山久幸さん、小川揚司さん、そして私であった。中村さんはバス到着時刻に合わせて車をとばし旅館の玄関で迎えてくれるという段取りだった。参加予定者に都合がつかず断念された方もあり、結局6人と小グループで出発した。

 この日、あいにく関東一円には雨雲が下りてきていた。青空と四万川の清流をながめるはずだったのに残念だと思った。「小川揚司さんは酒さえあれば景色などあってもなくても同じだろうが、私はそうじゃない」と無言でつぶやいていると、前の座席で威勢よく缶ビールの栓を開ける音がした。先生の隣の小川さんだった。

 天気に落胆することはなかった。低気圧が別の趣向をこらしてくれたのである。関越自動車道・渋川ICを降りて四万街道(国道353号線)に入ると、雨が霙となり霙がやがて雪になった。役場のある中之条町の中心を抜ける頃は、降りつもる細かな雪で山間の景色が白と黒とに分けられていた。真綿をかぶせたようにみえるが、遠い山裾の家は形からして古い茅葺なのだろう。渓谷の川面だけが深い暗がりを保ちコントラストが美しい。「まるで雪舟だね」と前の席から先生の声が聞こえた。

 われわれの宿は四万温泉口を入ったばかりの大きなY旅館である。女将もテレビで有名だそうでロビー売店のポスターの顔には見覚えがあった。名を知られて却ってサービスが荒れるところもあるが、ここは何かと行き届いて親切だった。最上階の7階二部屋に陣取ると、夜中であろうと朝であろうと、四つほどある露天・屋内風呂のすべてを制覇しようと話し合った。窓の向こうには急勾配の白い山肌が迫っていて、見下ろすと青く澄んだ清流が音を立てていた。この辺り、中村さんによると熊や猪の姿は茶飯事だという。小さな滝が櫛のように氷柱をぶらさげていた。

 全員で川縁の露天風呂に繰り出した。雪を見て、せせらぎを聴いて、ゆったりと体を湯に浸すだけだ。とりとめもなく天下国家の話から大小公私の浮世話をしていると、「おおっ西尾先生、お元気で少しも変わりませんね」と湯船で親しく声をかけてくる年輩があった。先生の知己ではない。向こうが一方的に知己なのである。が、考えてみると、先生なら何処へ行ってもこういう方に出くわすことがあるだろう。ご年輩は自己紹介をはじめると、先生も親しく応じて、のぼせるのではないかと思うほど話に花を咲かせていた。

 夕げは旨かった。ビールも酒も肴もみんな旨かった。他のテーブルの客はさっさと部屋に帰り、先生を囲んだわれわれのテーブルだけが延長戦をやっていた。部屋に戻ると、今度は宴の第二ラウンドをはじめた。卓袱台につまみが並べられ、またビールからはじめて焼酎や日本酒も飲んだ、と思う。思うというのは半分の記憶だからである。この夜、よく笑ったがよく叱られたような気もする。

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 翌日、『積善館(せきぜんかん)』を訪ねた。旅館から徒歩十分ほど上流のほとりに立っている四万最古の旅籠である。易経に「積善の家に余慶あり」とある。当主の祖先はもと源氏に仕えた武士。下関から関東に移り、何代かを経てこの四万の地に分家したのが初代「関善兵衛」で、関が原の戦と時代は重なる。以来、子孫の当主は代々この名を襲名し、明治になって15代関善兵衛が自分の名と〈積善〉をかけて宿を『積善館』にしたという。

 本館玄関部分は元禄4年に建てられたもので県重要文化財。江戸の典型的な二階建て湯治宿の面影を残している。大正ロマネスク様式の大浴場「元禄の湯」(昭和5年建築)などは道後温泉と同様、記念に入浴したいと思わせる風情がある。後藤新平、中村不折、佐藤紅緑、徳富蘇峰、柳原白蓮、榎本健一、岸信介…とここを訪れた文人墨客を数えればきりがなくなる。近いところでは人気アニメ、宮崎駿の「千と千尋の神隠し」の湯屋の舞台が積善館である。

 けれど、先生がぜひ積善館を訪ねたいと仰言ったのは、伝統があって著名人が喜んだ歴史的名所だからというような話ではない。先生の父君と母君が初めて出逢った場所がこの積善館だったのである。ご両親から聞いていた先生の記憶によると、昭和初年頃、銀行員でいらした父君は慰安旅行で遠路遥々、四万を訪れたそうだ。一方、母君はその頃、結核を患っておられ湯治客として滞在していた。

 団体客の一人であるお父さまがどうして治癒目的のお母さまと遭遇したのかというと、これは意外なめぐり合いによる。積善館は裏手の山を上るように宿泊施設が建っている。今はエレベーターで手軽に昇降できるが、昔は長い外階段を巡らせていただけかもしれない。どのような状況にあったのか想像するしかないが、とにかくお母さまが階段で転ばれた。そのとき通り掛かったお父さまが咄嗟にお母さまを受けとめ助けたというのだ。

 玄関受付すぐ横の板張の梯子段を昇ると、二階廊下の外は急勾配な崖の下にあたる。そしてその崖には斜め上に石段を刻んでいる。昭和初年と今とでは施設形式の異同はわからない。「転んだのはこの階段ということにしておこう」。先生は懐かしそうに廊下の窓から写真を撮っておられた。慰安旅行がなければ、また病気をしておられなかったなら、西尾幹二はこの世に生まれなかったのである。

 昼、蕎麦を食べながら先生はこんな話をなさった。「二人(父母)は四万を訪ねたいと言ってたんだ。きっといつか、と待ってたのかもしれない。結局連れてきてあげられなかった。それを思うと悲しいというより、かわいそうという気持ちになりますね」。この旅の三日前まで、私は郷里に帰り父母のいなくなった家で一人、着物やら日用品やらを片付けていた。私の母にも「連れてってほしい」という場所があった。私は「また今度」と先送りして、とうとうそのままにしてしまった。先生の話に思わず胸が詰まった。

 帰りのバスの時間になった。一泊とは思えない長い旅だった感覚で帰途についた。先生、皆さん、お世話になりました。

文章:伊藤悠可

(了)

全集記念講演会「第四巻 ニーチェ」感想文

 渡辺望氏による感想文

  1月19日、市ヶ谷グランドヒルにておこなわれました西尾先生の全集記念講演会「第四巻 ニーチェ」を拝聴しました者の一人として、講演会の感想を記させていただきたいと思います。

 西尾先生はニーチェに関して、実にたくさんの評論、翻訳の仕事を残してこられましたことは周知の通りで、西尾幹二とニーチェの両者のイメージは、戦後日本では水魚のように分かち難く結びついています。だからこそなのでしょうけれど、西尾先生がニーチェを演題にして語られると聞くと、西尾先生とニーチェのかかわりの個人的歴史の整理というものではないか、という先入観を私などはもってしまいがちです。もしかしたら新しい論点はそれほどないのではないか、という下手な先入観です。

 しかしその先入観は(幸運にも)まったくの間違いでした。西尾先生が従来展開してこられたニーチェ解釈に、新しいニーチェ解釈が加わり、さらにそれら解釈の現代的意義が加わり、この三者が有機的に連関することで、豊饒かつ新奇な発見に満ちた内容が構成された講演でした。ただ惜しむらくは、三者の結びつきのスピーディーさが、壮大な文明論の入り口に入りかけていたところで講演時間が終えてしまったことでしょう。今回の講演は、完成体ではなく、「入り口」とでもいうべき新しいニーチェ論だったと思います。

 たとえば、キリスト教の融通のなさ、対話性のなさということと、現代アメリカの宗教国家性を結びつけていることなどは、実は日本で指摘された方は他にはいないのではないかと感じられるお話でした。ニーチェが生涯格闘したヨーロッパ形而上学が、現代アメリカに再生している可能性を先生は指摘されました。ニーチェを読む精神と「アメリカという国の読み解き」の精神は21世紀に一致するものになってくるかもしれない。ニーチェで理論武装した「アメリカという国の読み解き」というようなものがこれからありうるのかもしれないという「入り口」です。

 あるいは、秦郁彦や加藤陽子たち歴史学者が依拠している近代主義的歴史観=「歴史的事実は固有的であり、歴史観は普遍的である」というイデオロギーへの反論は、すでにニーチェにおいて完全になされており、秦や加藤が19世紀の歴史観に閉塞しているという先生の指摘も興味深いものでありました。先生が講演の中途で紹介されたように、ニーチェは仏教をはじめとする東洋的価値観をキリスト教世界に優位するものだと強調していました。

 にもかかわらず、キリスト教世界を模範とした近代日本において、ニーチェが一番怒りの対象にしそうな近代主義的歴史学が依然として優位にたっているのは、実に皮肉な現象に他なりません。西尾先生は左翼史観だけでなく、皇国史観も近代主義の一派生と講演内で断じられましたが、ニーチェが現代日本にいても、おそらく同じふうに裁断したことでしょう。ここには、「ニーチェを表層からしか取り入れなかった近代日本」という、これまた大きな文明論の「入り口」がありそうです。

 このようにいろいろな「入り口」の発見に出会うことのできた講演会だったわけですが、その発見のいろいろの中で、自分にとって特に新鮮に感じられた話の内容の一つ、提供していただいた「入り口」の一つに「ニーチェとユーモア」ということがありました。ニーチェにおけるユーモアという問題について、今までの私はほとんど無自覚でしたが、西尾先生の講演のおかげで、このことについて少なからず考えることができました。

 今回の講演で、西尾先生はたくさんのニーチェの言葉の引用をされましたけれど、たとえばそんな先生の引用の一つに、カントを揶揄する目的でいった、「神はついに物自体になったのだ!」という言葉があり、私は思わず声を出して笑ってしまいました(先生も笑っていました)カントの批判哲学が本当は神とか永遠を否定しうる力をもっていたのに、カントはそれをあえてせずにキリスト教世界に反転して引き返し、そこに引きこもった、そういうある種の哲学喜劇をニーチェは言おうとしている。でも単に論理的に言うのではなくて、ユーモアをこめて書いているのです。ニーチェ自身もこのくだりを書きながら、おそらく笑っていたに違いない。

 そこで感じたのですが、自分は哲学書を読んで「笑った」という経験はほとんどない人間です。ところが、ニーチェの哲学書を読んでいると、笑ってしまうことが多々ある。しかもいろんな笑いがある。哄笑、苦笑、微笑、ブラックユーモアなどなど、笑いの種類も豊かです。実はニーチェほど笑い・ユーモアに親しい哲学者は他にいないのではないか。ニーチェ自身も、そのことにきわめて自覚的で、笑い・ユーモアの意義を認めた文章もたいへんに多いのです。

 「笑いと智恵とが結ばれるだろう。そしておそらくそのときは<悦ばしい知識>だけが存在することになるだろう」「ツァラトゥストラは予言する。ツァラトゥストラは笑って予言する。我慢できない者ではない。絶対者ではない。縦に横に飛ぶことが大好きな者なのだ」こうしたニーチェの言葉からすると、ニーチェの言うところの超人には、どうも笑いが不可欠なことがわかってくる。笑いやユーモアを定義した哲学者はベルクソンなどはじめたくさんいました。しかし自身の哲学の不可欠の要素として、笑いやユーモアを取り入れた哲学者は、ほとんど稀なのではないでしょうか。

 西尾先生も、ニーチェ論『光と断崖』で、『この人を見よ』について、「・・・・この作品で私自身を特別な存在のように語る彼の尊大さが、自己諷刺やアイロニーとうまく手を取り合っていて、読者を爽快な深刻さに心地よく誘う効果を発揮している。ときにはそこに笑いの要素さえないではない」(『西尾幹二全集』第五巻所収)と、ニーチェ哲学のユーモアの存在について指摘しています。晩年の狂気やナチスの思想的利用などによってとかく暗いイメージの漂うニーチェですが、実は少しも暗いものではなく、ユーモアを好みそれを武器にし、好んだだけではなくて、それを生かすことのできるユーモアの天才でもあったのではないか、と思われます。

 「ユーモアの天才」という視点で読む楽しみを与えてくれる哲学者がニーチェならば、「ユーモアの凡才」の典型ともいうべき哲学者は、まさにニーチェにユーモラスに批判されたカントでしょう。講演会で西尾先生は、「カントは結局、常識人なのだ」といわれましたが、この場合の「常識人」という言葉の意味は「常識に引きこもる人」という意味だと思われます。普遍的慣習その他の肯定的意味としての「常識」ではなく、世間的現実の妥協ラインとしての「常識」に従う人、ということです。ヴォルテールは「常識は、実はそれほど常識ではないのである」といい両者の常識を区別しましたが、カントの文章世界にはたしかに、時折露骨なほどの、世間的現実、すなわち当時のヨーロッパ世界との妥協をは
かろうとする彼の意図があると私には感じられる。

 たとえばニーチェには次のようなカント評があります。「カントは物自体を搾取したその罰として、定言命法に忍び込まれ、それを胸に抱きしめてまたもや神、霊魂、自由、さらには不死のもとへと、まるで自分の檻の中へと迷い帰る狐のように、迷い帰っていった。しかも、この檻を破ひらいたのが、ほかならぬ彼の力であり英知であったというのに!」ニーチェはカントによって、ヨーロッパ哲学におけるラディカルな懐疑論が始まっていることを卒直に認めている。にもかかわらず、カントは、再び、キリスト教世界の迷妄な「常識」の数々に、舞い戻ってしまったのです。

 狐は狡猾な動物です。カントは自身の哲学の力をもって否定しえたはずの神や霊魂や不死といった概念のもとに、カントという狐は狡猾に舞い戻ってしまった。もしかしたら「迷い帰る」ことさえも、狐の演技かもしれません。このカント評は「神は物自体になったのだ!」という先生の講演会で紹介されたニーチェのカント評と同じ意味であり、同じくユーモアなのでしょう。

 カントというと、数々のエピソードから、品行方正な人物をイメージするかもしれませんが、そういうイメージは必ずしも正しいものではありません。カントは哲学論以外に、膨大な数の社会批評めいた文章を残しており、それらを読むと相当に意地悪な人で、世間的常識を纏いながら実は、ニーチェにも増して人間観察と悪口の大好きな人だったことがわかります。しかしその表現はどれも直接的過ぎる。ユーモアや笑いという以前に、何か「余裕」というようなものがない。キリスト教社会の世間的常識からの視線を過剰に意識していたカントは、「悪口」とはいつでも反論可能なふうに論理的なものでなければならない、というような思い込みがあったのではないでしょうか。

 たとえば女性について、(かなりの女性嫌いだったらしい)カントの悪口がこんなふうに炸裂します。「女性の場合には欲望は無限であり、ふしだらは増しても何物によっても抑制されない」「学問をしたがる女性は口髭をつけた方がいい」これが同じ女性への悪口でも、(やはりかなり女性嫌いだったらしい)ニーチェになるとこうです。「完全な女というものは、自分が愛するときは相手を八つ裂きにするものなのだ。私はそういう狂乱巫女たちを知っている。ああなんという危険な、忍び足で歩く、地下に住む猛獣!それでいて何とまあ好ましい」(『この人をみよ!』)この最後の「何とまあ好ましい!」はカントには決して書けないユーモアでしょう。両者の文章を比較してみて、哲学科でカントを専攻
する学生はいてもドイツ文学科でカントを専攻する学生がほとんどいないのはむべなるかな、と私には感じられます。

 カントがニーチェより劣っていたとか、文学的表現が哲学に必要だとかということでは全くありません。ただ私が考えるのは、本当に自由な観念を持たないと、ユーモアというものは生まれない、そして自己が属している文明なり宗教への批判的精神というものは生まれない、ことです。たとえば先生は講演会で、カントにはインドでのキリスト教宣教師の傲慢を紹介した文章があるといわれました。カントの博学は驚くべきもので、彼の平和論には江戸日本の鎖国政策や日本の宗教について触れているものさえあります。しかし彼の膨大な博学は、決して斬新な文明論を形成するには至らなかった。なぜかといえば彼は狡猾な狐のように、キリスト教社会の檻で再び生きることの代償として「自由でないこと」を
選んだから、です。

 自分のキリスト教文明を否定するような所為には、彼はあえて踏み出すことはできなかったのです。だからカントには笑いがない。ユダヤの格言だったと思いますが、「自分を笑うことのできるものは、他人から笑われない」という言葉を私は思い出します。ここにいたると、笑い・ユーモアというのは、自身や自身の文明を批判する自由ということと同義になるともいえましょう。

 カントが狡猾に選択した不自由に比べ、ニーチェはヨーロッパ文明そのものを敵にまわすことで、実は完全といっていいほどの自由を手に入れた。彼の完全な自由は、一見するとおそろしい孤独を彼に与えてしまったようにも見えるけれども、しかし、彼の哲学書のいたるところにみられるユーモアをも可能にしたということができるのではないか、と思います。哲学論はともかくとして、文明論という面におけるカントとニーチェのスケールの差は、ユーモアの差、つまり自由の差なのではないでしょうか。

 今回の先生の講演会を拝聴しまして、ニーチェという哲学者が、あらためてスケールの大きなテーマに生涯を賭けていたことを再認識しました。それは彼の人生を瓦解させたかもしれないし、21世紀に思想的根拠を与えるものだったかもしれません。しかしその巨大さの証しとして、彼の著作のいたるところにあふれているユーモア、笑いというものに注目してほしい、と私は思いました。先生はニーチェの講演会となりますと、幾度も幾度もニーチェの引用でお笑いになりますが、やはりニーチェのユーモアということの真髄を理解されているのではないかな、と私は想像しております。

文:渡辺望

武田修志さんのご文章

 今日ご紹介する文章の書き手 武田修士さんは、前にもここで取り上げたことがあります。私と同じドイツ文学の専攻で、鳥取大学の先生です。

 いつもお書き下さるのは名文で、書かれた私はうれしくて、全集の編集担当者についお見せしました。彼も深い感銘を受けたようです。

 ご自身の体験に即して書かれていて、しかもどこか無私なところに味わいがあるのです。私は自分のことを書かれているから言うのではなく、武田さんはいつも素直に自分を出していて、しかも必要以上には自分を出さないのです。

 彼の手紙はファイルして秘匿しておきたいと思います。それでいて矛盾していて、いろんな人に読ませたいとも思うのです。

 また前回の「コメント5」の佐藤生さんのように、「宣伝」といわれるかもしれませんが、いわれてもいいから、お見せしましょう。

 新年もすでに今日は六日ですが、西尾先生におかれましては、ご家族ともども、良きお正月をお迎えになったことと、拝察申し上げます。今年もお元気でご健筆をふるわれますよう、心よりお祈り申し上げます。

 年末年始に「西尾幹二全集 第二巻」に収められた三島由紀夫関連の御論考を再読いたしました。単行本『三島由紀夫の死と私』は、この本が出版されました平成20年12月に一読していましたが、今回全集が出るに及んで、「文学の宿命」「死から見た三島美学」「不自由への情熱―三島文学の孤独」等の評論と合わせ読むことができ、三島事件について理解を深めることができました。『三島由紀夫の死と私』は、先生の「三島体験」の詳しい報告、という控え目な体裁をとっていますが、三島事件と三島文学を理解する上で、最良の導きの書になっていると思います。これから三島文学を論じたり、三島事件に言及する者は、必ずこの書と先生の三島論考を読まなければならないことになるのであろうと思います。

 三島事件が起きた昭和45年(1970年)に、先生はすでに35歳の気鋭の新進批評家であり、私は20歳になったばかりの大学二年生にすぎませんでしたので、体験の質が違い、比較はできませんが、しかしそれにもかかわらず、三島事件から受けられた先生の「衝撃」は、私があの事件から受けた衝撃と非常に似かよったものではなかったかと、正直感じました。

 私はちょうどその年、それまで一度も読んだことのなかった三島由紀夫の作品を少しまとめて読んでみようと、「金閣寺」「潮騒」「永すぎた春」「春の雪」と続けて読んでいるところでした。「潮騒」には少し心動かされたような記憶がありますが、先生もお書きになっているように、「三島さんの作品に、感動するものがあまりなかった」――そういう感想を持ちました。マスコミの伝える「楯の会」のパレードといったものにも、さしたる関心を持っていませんでした。

 ところが、11月25日のあの事件に遭遇して、私は心から震撼させられたのです。第一報は、午後の第一時間目のドイツ語の先生からでした。「三島由紀夫が割腹自殺したみたいだ」、そういう短い言葉でした。その授業が終わって、独文研究室に立ち寄ってみると、何人か人がいて、三島事件について話をしていました。よく覚えているのは、そのとき、30歳に近い独文助手の左翼の女性が「三島由紀夫は何という馬鹿なことをしたのか」というような批判的なことを言ったとき、私の中に激しい怒りが湧いて、「こいつは何も分かっていない!」と私が腹の中で叫んだことです。そのとき三島事件について私は詳しいことは何も知らなかったはずなのですが、確かに、その女性の発言に憤激したのです。たぶん「文化防衛論」をすでに読んでいて、三島由紀夫が何を主張してその事件を起こしたのか、分かったような気がしたのではないかと思います。

 そのまま大学からバスに乗って、市内のバスターミナルへ向かいました。わが家へ帰るためです。そのバスターミナルではすでに「号外」が張り出されていて読むことができました。また、待合室のテレビでは事件の報道を流していました。この事件が何のために引き起こされたのか、そのことについて、自分の予測は的中していました。自宅に帰りついてからも、家族と黙ってテレビを見ました。私は何か大きなショックを受けて、しばらく物も言えなかったように記憶しています。衝撃を受けたのは、三島の主張に私が同感したからでもありますが、何と言っても、自分の信じる政治的主張のために、本当に命を掛ける人間がいるのだ――そのことを目の前で見せつけられたからです。

 三島氏がバルコニーで自衛官たちへ呼びかけたときに下品なヤジを飛ばしていた者たちがいましたが、彼らに対して「なんという卑劣」と猛烈に腹が立ちましたが、しかし、もし自分があのバルコニーの下にいてあの演説を聞いていたとしたら、「お前は立ち上がって、三島氏の元へ駆けつけることができたか」と自問すれば、百パーセント「否」でした。そういう決断も勇気も自分にはないということはごまかしようもありませんでした。まだ本当の大人ではありませんでしたから、先生のように「三島さんに存在を問われていると感じ」たということではありませんが、自分の日ごろの生き方が全く口先だけのものだというようなことは感じたのです。

 先生は三島氏があの事件を決行するに至った経験や動機を、様々な面から解明しようとしておられて、私にはどれも参考になりましたが、私が第一に説得されたのは、やはり、全集48ページからの「思想と実生活」の考えです。「思想が実生活を動かすのであって、実生活が思想を決定づけるのではない」ということです。三島氏は多面体の天才でしたから、彼があのような行動に出たことについていろんな理屈をつけることができるでしょうが、私には、三島氏の「日本の運命への思い、憂国の情」が決定的な動機であったことは、一点の疑いもないように思われます。

 そして、その「日本の運命への思い、憂国の情」は三島氏やそれを取り巻く少数の右よりの人々だけが共感するようなものではなく、実のところは、もっと多くの日本国民の心に眠っていた思いであり、憂国の情であったと考えられます。ここで思い出すのは、野坂昭如という作家が、しばらくのち何かの雑誌に発表したエッセイのことです。そのエッセイの中で、このどちらかと言えば左よりかと思われる人が、「あの事件の日は、日本中があるしんとした思いに心を一つにした」というような意味のことを書いていたのです。昭和24年生まれの私には経験がありませんが、これは先生が書いておられる終戦の日の「沈黙」と同じものではなかったでしょうか。三島由紀夫の決起の呼び掛けは功を奏しませんでしたが、何もかもが無意味だったわけではありません。我々は一瞬にせよ、彼が求めたところへ心を致したのであり、その瞬間の思いを今も忘れてはいないのです。

 今回、先生の三島論を拝読して、この作家について教えられることがたいへん多かったのですが、特に印象の残っていることを一つ上げてみますと、三島氏が、縄目の恥辱を受けた総監は、自決する恐れがあると考えて、自首した学生に総監を護衛するように命じたというエピソードです。先生のご指摘通り、「いかに自衛官でもそんなことが決して起こりえないことは、われわれ今日の日本人の一般の生活常識」です。しかし、三島氏がそんなふうに考える人だったということを知って、私には何か感動させられるものがあります。こういうふうに考えることのできる人だったからこそ、自分の「思想」というものを持つことができたのだと、納得のいくものがあるのです。

 御論考「不自由への情熱」の中にこういうご指摘があります、「だが、多くのひとびとがこれまで試みてきた美学的解釈も、政治的解釈も、偏愛か反感か、いずれかに左右され過ぎている。この作家の少年期からの孤独な心、外界と調和できず自他を傷づけずにはすまぬ閉ざされた心、そういうものが見落され勝ちである。外見とは相違する裏側には驚くほど正直な、幼児にも似たつらい率直な心が秘められていた。私はそう観察している。」この評言を、三島由紀夫に関してあまりに少ない知識しか持ち合わせていない私は正確に判定できませんが、しかしそれにもかかわらず、直感的にはまさにこの通りであろうと私には思われました。作家三島由紀夫の生の秘密を最もよく見抜いた人こそ西尾先生であると、今回、関連の御論考をまとめて拝読して再認識したことでした。

 いつものようにまとまりのない感想になりましたが、今回はこれにて失礼いたします。
 
 お元気で御活躍ください。

  平成25年1月6日

                       武田修志

西尾幹二先生

中村敏幸さんの当選作(三)

東京裁判とGHQの日本弱体化工作 

 開戦前に日米交渉に当った野村、来栖両全権大使は、ただアメリカの時間稼ぎに翻弄されていただけのように思われているが、来栖大使が開戦一年後に行った講演「日米交渉の経緯」には、日本がアメリカの悪意を正確に読み取っていたことが記されており、感慨深いものがある。(10)

 また、硫黄島守備に当った市丸海軍少将が栗林陸軍中将と共に最後の総攻撃に臨む直前に記した「ルーズヴェルトニ與フル書」(11)にも東洋征覇を目指した、アングロサクソンの非道と我が国が開戦のやむなきに至った経緯が切々と述べられているが、何よりも、我が国が開戦を決意した経緯については「開戦の詔書」とそれに続く「帝國政府聲明」に言い尽くされている。我が国は世界の情勢を把握することなく、やみくもに無謀な戦争に突入した訳ではない。対日包囲網の中にあって、ハル・ノートを突き付けられた時点で、我が国に残されていた道は、ハル・ノートを受入れ、戦わずして屈従の道をたどるか、それとも、勝敗を超えて敢然と必戦の決意を固めるかの二つに一つしか残されていなかったのであり(12)、当時多くの国民は、12月8日を、先行きに対する言い知れぬ不安感と共に、息の詰まるような圧迫感からの解放と「ついに来るべきものが来た」との覚悟を固めて迎えたのである。

 そして、終戦直後の国民の多くは江藤淳氏がその著「閉ざされた言語空間」でいうように、あのような戦争と敗戦の悲惨な結末は自らの「愚かさ」や「不正」がもたらしたものとは少しも考えていなかったのであり、この多くの日本人の静かなる不服従に脅威を抱いたGHQは、占領後直ちに、予てから準備していた「ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム(戦争についての罪悪感を日本人の心に植え付けるための宣伝計画)」と「東京裁判」を実行に移し、彼等の攻撃の手は、我が国民の心の中に目標を定めたのである。

 先ず、「降伏文書調印」の直後から報道、出版はもとより私信に至るまでの検閲よって言論を封じた上で、公職追放によって、各界に於いて、祖国の存亡をかけて奮戦した20万人余りの人々を一掃した後、その空いたポストを敵国に媚び諂った戦後利得者である左翼売国勢力に占拠させた。更に、7千冊以上に及ぶ書籍の焚書によって我が国の大義と歴史の真相を闇に葬り、洗脳番組の報道と神道指令や教育改革、占領憲法などの押しつけによって我が国の精神的な基盤を破壊した。

 東京裁判の不正に就いては語り尽くされているためにここでは触れないが、これらの洗脳工作によって、国民の多くが、先の大戦は邪悪な侵略国家であった日本によって引き起こされたとの贖罪意識を植え付けられた。そのために、散華された200万余柱の英霊は残虐非道な侵略戦争のために戦ったとの烙印を押され、英霊に対する慰霊の心を失わせ、今日なお、各地の戦跡に眠る、約半数、100万余柱もの英霊の遺骨を収拾することなく、恬として恥じない国情を生み出してしまったのである。

日米戦争は姿と形を変えて現在も続いている 

 アメリカはペリー来航以来今日に至るまで、日本に対して真に友好的であったことは一度も無い。サンフランシスコ講和条約発効後も、我が国を自己決定権の持てないアメリカ覇権の手足となる隷属国家に仕立ててきた。

 1960年代の「日米貿易摩擦」に始まり、「プラザ合意」、「日米構造協議」、「日米経済包括協議」、「年次改革要望書」と手を変え品を変えながら、アメリカは日本の金融と経済のしくみや日本型経営の基盤を破壊し続ける一方で、米国債購入やアメリカ起因による円高への為替介入によって生じた為替差損などによって日本から富を奪い続けた。そもそも、「日米構造協議」とは協議ではなく、「日本の構造は間違っており、アメリカ主導により、アメリカ流の(正しい)構造に改革させる」という意図をもって行われたものである。

 我が国は、GHQの日本弱体化工作によって二度とアメリカの脅威とならないように精神的な基盤を破壊されたが、それに続いて日本社会の構造基盤をも破壊されたのであり、日本の強さの基盤を失った。これは筆者が日米戦争は姿と形を変えて現在も継続しているという所以であり、連戦連敗の状態が続いているのである。

日本再生への道標

 最後に我が国がこれから再生へ向けて進むべき道標について示したい。

1.先ず第一に先の大戦で散華された英霊の慰霊と残された遺骨の収拾である。
   先の大戦に於いて、我が国は、仕掛けられた戦争に対し、やむなく決然と立ち上がり、我が将兵は祖国の存亡をかけ東亜の解放を願って勇猛果敢に立派に戦ったのである。この史実を国民の多くが認識し、東京裁判史観とGHQ工作の呪縛を解き、200万余柱の英霊に対し感謝の誠を捧げて御霊を安んじ奉り、我が国再生への御加護を祈念しなければならない。そして、今なお各地の戦跡に眠る百100万余柱の英霊の遺骨収拾を国家として全力で行い、首相閣僚はもとより、天皇陛下の靖国神社御親拝を実現した時が、真に我が民族が誇りと自信を取り戻した時と言えるであろう。

2.正しい歴史教科書づくりとその普及
   自国が残虐非道を尽くした侵略国家であったと教えられて育った子供たちに、健全な精神が育成されるはずはない。歴史教科書から虚偽の自虐史観を一掃し、子供たちが自国に対して誇りと自信を持てるようになる教科書づくりとその普及が急務である。

3.家族家庭の再生
   現在、我が国は深刻な少子化問題を抱えているが、子供は国や社会が育てるのではなく、親が育てるのが第一義である。戦後の混乱期に於いて、我が父祖は、日々の食糧に事欠く中にあっても懸命に子供を育てた。少子化対策として子供手当や婚外子支援、はたまた外国人労働者の導入を唱える徒輩がいるが、本末転倒も甚だしい。先ずは、我が国の家庭の雰囲気が温和に保持され、家族の絆と祖先を敬い家系を守る気概を養うことが最重要課題であり、ジェンダ・フリー、過激な性教育、夫婦別姓、男女共同参画などによって家族破壊を押し進めてきたことが少子化の元凶である。

4.グローバリズムとの対決
  ゲェテは「親和力」に於いて、「種に於いて完成されたものが、初めて種を超えて普遍性を持つ」と述べているが(13)、世界中を席巻するグローバリズムの波は「種」としての「民族国家の個性」を喪失せしめ、世界をボーダレスで無性格な弱肉強食の草刈り場と化そうとするものである。むしろ、今、我が国がなすべきは、世界情勢の動向を諦視しつつ、グローバリズムの波を巧みにかわしながら、グローバリズムによって破壊された我が国本来の社会構造基盤の再生に努めるべきである。
  
 今や国力が衰退傾向に陥り、半ば手負いの獅子となりつつあるアメリカは、昨今のTPP問題にとどまらず、今後一層凶暴になり、自らの国益追求のために更に過激な攻撃を仕掛けてくるように思えてならない。

5.自主憲法制定
  自主憲法制定については多くを触れないが、立案に先立ち、「万古不易、我が国を我が国たらしめてきた根源は何か」、「我が祖先が建国以来築き守ってきた国柄(国体)や伝統とは何か」を見つめ直し、次に「自主防衛体制」の確立を目指すことが最重要課題と考える。そもそも自国の防衛を駐留費を払って他国に依存する国は真の独立国家とは言えない。我が国がこの二つの課題の回復に努めるようになれば、現在我が国が抱えている多くのの難問は解決の方向に向かうに違いない。

6.孤独を恐れず、我が国の正しさを正面に掲げて米中韓との激論を戦わす
   アメリカは我が国と近隣諸国との友好を望まない。東京裁判によって突然表に出された「南京大虐殺」(25)、アメリカの後ろ盾によって大統領となった李承晩による「竹島不法占拠」、ヤルタ秘密協定によって生じた「ソ連の北方領土不法占拠」等、アメリカは戦後、我が国と近隣諸国との間に対立の火種を意図的に残した。今日でも、2007年の米下院に於ける「従軍慰安婦問題の対日謝罪要求決議」に代表されるような楔を打ち込み、「六カ国協議」という茶番劇を繰り返しながら北朝鮮の核開発もなし崩し的に容認し、中国の軍拡も、自国の軍事プレゼンスの正当化のために必要としているのではないかとさえ疑われる。

 中韓との軋轢は謝罪し補償することでは永久に解決されない。我が国は孤独を恐れず、支那事変は支那側からの突然の攻撃によって勃発したこと、そして、「南京大虐殺」も「従軍慰安婦問題」も全くの虚偽捏造であることを主張して「村山談話」と「河野談話」を破棄無効とし、韓国が今日有るのは、日本の統治と戦後の経済や技術支援の寄与大なることを堂々と正面に掲げた中韓との真っ向勝負の激論を戦わさなければこの問題を解決することは出来ない。あわせて大東亜戦争もアメリカが仕掛けた戦争であることを主張して「東京裁判」を否定しなければならない。その時、米国、中国、韓国は彼らの主張する正義が崩壊するためにそれを最も恐れているのであり、他のアジア諸国からは必ずや支持と歓迎を受けるであろう。それを乗り越えて初めて「大東亜戦争の世界史的意義」が明らかになり、我が国は世界の平和と繁栄に貢献する国として世界史の新たなステージに立ち、「日米百五十年戦争」にも終止符を打つ道が開けるものと確信する。

 我が国は今日なお、GHQによる日本弱体化工作の毒が全身に回っており、内閣が代わるたびに「村山談話」を踏絵にし、今日では虚偽捏造であることが明らかになった「南京大虐殺」についても、それを記載しなければ教科書検定に合格しない自己検閲状態が続き、病膏肓に入っている感がある。

 しかし、潮流は表層が東から西へ向かっているようでも、下層では逆に西から東へ向かっていることがあるように、また、「陰窮まって陽を生ず」とも言い、昨今の「河村市長発言」や「石原都知事の尖閣購入発言」を支援する国民的なうねりが見られ、日本を貶め続けてきた「従軍慰安婦問題」はもとより「バターン死の行進」も憂国の史家の努力によって、全くの虚偽捏造であることが明らかになって来た。また、1951年5月の米国上院軍事外交合同委員会に於ける「連合国側の経済封鎖によって追い詰められた日本が、主に自衛(安全保障)上の理由から戦争に走った」とのマッカーサ―発言が、都立高校の、平成24年度版地理歴史教材に新たに記載されることになり、底流では、我が国再生への流れが勢いを増して来ているように思われる。

 平成25年は20年毎に斎行されてきた伊勢神宮の式年遷宮の年に当る。神宮の御社が東の敷地から西の敷地へお移りになる時は、国威発揚の時期であると言われており(14)、これからの20年が、日本が本来の日本を取り戻し、世界に向かって羽ばたくために、孤独を恐れず、宿命としての孤独に耐え、眦を決して戦う秋である。

 註3                                                
(10)来栖三郎著「大東亜戦争の発火点・日米交渉の経緯」〔GHQ焚書図書〕。
(11)この書簡は、米軍の手に渡り(ルーズヴェルトは4月12日に急死)、原本はアナポリス海軍兵学校に保管されているが、その写しが靖国神社遊就館に展示されている。欧米列強の東洋侵略に対し下記のように抗議している下りがある。
     *卿等は既に充分なる繁栄にも満足することなく、数百年来の卿等の搾取より免れんとする是等憐れむべき人類の希望の芽を何が故に嫰葉(ワカバ)において摘み取らんとするや。ただ東洋のものを東洋に帰すに過ぎざるや。卿等何すれぞ斯くの如く貪欲にしてかつ狭量なる。
(12)東京裁判に於ける、東條・キーナン対決に於いて、東條元首相は「乙案のどの一項目でも、あなたのお国が受諾したら、真に太平洋の平和を欲し、互譲の精神をもって臨んでくれれば、戦争は起こらなかった(要約)」と述べている。
(13)「親和力」第2部9章の「オッティーリエの日記から」に次のように書かれている。「ある調べで鳴いているかぎりは、ナイチンゲール(夜啼き鶯)もまだ鳥である。しかしその調べを超えると、ナイチンゲールという鳥の種類の枠を超えてしまい、およそ鳥が歌を歌うとはどのようなことであるかを鳥一般に知らしめているように思われる。種に於いて完成されたものは種を超えていくに違いない。それは何か別のもの、比類を絶したものになっていくに違いない」。
(14)多少の周期のずれや、時代に応じた転調はあるが、明治開国以降の約150年を振り返ると下記のようになる。
     *第55回(明治2年、東の敷地へ)維新後の国づくり期。第56回(明治22年、西の敷地へ)日清日露の戦役を経て世界へ飛躍。第57回(明治42年、東の敷地へ)大正時代を中心とする低迷期。第58回(昭和4年、西の敷地へ)満州事変から大東亜戦争へ。第59回(昭和28年、東の敷地へ)戦後の復興期。第60回(昭和48年、西の敷地へ)日本経済の安定成長期。ジャパン・アズ・ナンバーワン。第61回(平成5年、東の敷地へ)バブル崩壊と失われた20年。第62回(平成25年、西の敷地へ)真の日本再生期。

文:中村敏幸