全集第8巻 感想文 浅野正美
全集8冊目の刊行となった本書には西尾先生が教育論について書かれた論文が一冊にまとめられている。既刊の全集中一番の大冊で、読了するのに毎日二時間を費やして三週間かかった。
冒頭から私事をお話する不躾をお許しいただきたいが、私は職業高校(商業科)を卒業してすぐに就職したため、大学というものがどういう社会なのかほとんど知らない。私が出た高校は学区内に八校ある公立高校の中で偏差値が下から二番目に位置していた。上位五校が普通科で、その下に工業科、商業科、農業科という序列になっていた。この固定化された階層は現在でもまったく変わらないのではないかと思う。
私が本書を読んで最初に驚いたのは、西尾先生が我が国の6・3・3・4の単線型教育システムの成果を大きく評価していることであった。門閥、貧富に関わりなく、能力と努力の結果によって平等に人間を選抜するこのシステムが、明治以降の国力増大に果たした役割を真正面から評価しているのである。これによって従来下層階級で教育の機会すら奪われてきた国民からも優秀な人間を発掘し、高度産業社会に貢献しうる人材に育て上げることができたということである。
私はかねがね三十数年の社会人生活を通して、教育というものがいかに不合理で不経済なものかということを痛感していたため、ドイツのような複線系の教育制度こそがその無駄から逃れる唯一の方法ではないかと考えていた。
私の勤務する小商店においても年々四大卒者の占める割合が増えてきたが、そのだれもが、本はいうに及ばず、新聞すら読んでおらず、まともな文章一つ書けない。経済学部を卒業しているにも関わらず為替や株式の値動きの理由を説明できず、仏文科を出ていながら、学生時代にバルサックもスタンダールも読んだことがなく、独文科を出ていながら、マンもゲーテも読んでいない人間ばかり見てきた。法政、中央、國學院といった一応は名の通った大学を卒業していながら、少なくとも私の勤務先に入って来る人間はみな例外なくこの程度なのである。大学とは一体何をしにいくところなのであろうか、この程度の人間に卒業証書を与えることが許される大学とは何のために存在しているのか、という問いが長い間私の中の大きな疑問であった。
大学教育にかかるコストが相当に家計を圧迫しているのにも関わらず、今や四大進学率は50%にまでなった。しかし、真に学問を修めるという目的を持った学生はその中のほんの一握りでしかなく、大半の大学生は社会に出るまでのモラトリアムとしての時間をただ無為に過ごしているように思われる。ある人は労働需給のアンバランスを解消する緩衝地帯として進学率向上を評価するが、それこそ本末転倒ではないかと思う。
こうしたどうしようもない大卒者ばかり見てきた私は、必然的に大学入学者の大胆な削減こそが問題解決に繋がるのではないかと考えてきた。大学教育に投資されている莫大な金銭は、直接の授業料だけでも年間数千億円にもなろうが、そのほとんどは何ら効果を生まない捨て金となっているという現実がある。もちろん授業料として支出された現金も国内で循環することによってGDPを増大させる効果はあるが、もっと直接的に消費財に回した方が国家経済への貢献も大きいのではないかと思う。私の考えでは、大学教育を受けるに値する人間は、今の大学生の中では十人に一人もいないと思う。真に高等教育を受けるに値しないような若者が大挙大学に押し寄せるという現状は何か不気味ですらある。
西尾先生も本書で再三指摘されているように、企業は採用する学生に大学で何を学んできたか、だれに教えを受けてきたかということを、少なくとも文系学生に対してはまったく問わない。法律を学ぼうが、経済や文学を学ぼうが、企業に入れば例えば営業マンとして働かされる。企業が見ているのは大学名だけだ。そうした新卒者は、企業内で無垢の状態から教育され、企業それぞれの社風に染められていく。私でも何かがおかしいと思う。
教育には無知が持つ闇から人間を解放するという崇高な使命もあったと思う。迷信や差別、迫害、詐術、風水、占い、新興宗教といったものは、人間の精神が抱く不安や恐怖といった心の闇につけ込んだ愚劣で非合理的な存在である。それだからこそ、人間は学問の習得を通して真理に近付き、こうした非合理的な思考を克服していかれると信じてきたのではないだろうか。しかし、世間を見渡して見れば、未だに多くの人間がこうした前近代的ともいえる闇から抜け出せずにいる。教育を受けることによってのみ得られると信じられた論理的に考え、合理的に判断するという行動規範が社会にしっかり根付いているかといえば、はなはだ心細い限りだ。さすがに錬金術や魔女狩りといった中世暗黒時代からは脱却できたものの、ここにも今日の教育の持つ限界を見て絶望的な気分になるのである。
西尾先生が6・3・3・4制を高く評価していることは先にも述べたが、その必然的な弊害についても率直に語られ、それに対する具体的な改善策も提示されている。弊害とは、東大を頂点とするピラミッド型のヒエラルヒーであり、戦後ますます強固になったこうした大学のランキングの固定化である。それはもはやテコでも動かない頑丈な構築物のように崩れないどころか、ますます強くなっている。人生における競争を受験一つに集約することの弊害。大学入学に向けた熾烈な競争を強いられている高校生の過重な負担。十八歳で輪切りにされてそれ以降交わることが極めて少なくなる実質的な身分制度。大学や企業における無競争のしわ寄せが高校生に無用の負担を強いている、等々。
西尾先生は本書に収録されている『「中曽根・教育改革」への提言』の中でこうした問題の本質的な原因を掘り下げているので以下に引用してみたい。
入学時点での大学名が個人の属性として一生ついてまわる日本人の「学校歴」意識・・・
日本の「学校歴」意識は、国民の広い範囲を巻き込んでいて、大学の受験生に限らないところに、問題があるのである。
一般社会において、どこの大学を出たから有利であるとか、評価できるかということは、現代では次第に意味を失いかけていると言われるし、また現実にそうであろうが、社会の現実と真理の現実との間には開きがあるのが常である。アメリカでもヨーロッパでも、「学校歴」意識は存在するが、人間を評価する尺度が多元的で、複数化している欧米のような文明圏では、個人のこうした一属性がライフサイクルに作用を及ぼすかのごとき幻想によって個人が不安を覚えるということは少ない。
大学生以上の大人の社会全体が赤裸々な個人競争を避けるために、人生の競争の儀式を、十八歳と十五歳の子ども立ち押しつけている。しかも最近では十二歳へとだんだん年齢的に下の層へ押しつける圧力を強めていることが憂慮すべき問題なのである。
言い換えれば、大人の競争を避ける分だけ、子どもの世界が競争を肩代わりして、それが今日の日本の教育の病理のもう一つの様相を示している。他人と違う存在であろうとする競争は共存共栄を可能にするが、他人と同じ存在であろうとする競争は、序列化した同一路線上での優勝劣敗の可能性しか残さない。
他人と同じ存在であろうとする日本人の競争心理(ないしは競争回避心理)は、平等が進めば進むほど、横に広がって価値の多様化をもたらすのではなく、同一路線にタテに並んで競い合う結果、「格差」をますます大きくするという特徴を持つ。戦後において高等学校や大学の数が増えれば増えるほど、学校間の「格差」が広がり競争が激化するという、経済の需要供給の関係では説明のつかない事態を招いたのも、この特殊な日本的競争の力学が作用している結果である。(以上698頁~699頁)
ここに引用した中でもとりわけ「経済の需要供給の関係では説明のつかない事態を招いた」という個所に私は強い感銘を受けた。こういう鋭い比喩を読むと私の心はなぜか浮き浮きとしてしまう。経済学の初歩にして大原則である需要と供給の法則は、中学生でも知っている。買い手が増えれば物の値段は上がり、商品が過剰になれば物の値段は下がるという法則である。無原則に志願者を入学させることで経営を成り立たせている二・三流の私立大学は、これからも続くであろう少子化という試練の時代を向かえて、ますますその傾向を強くするであろう。現実に現在でも、名前を書いて簡単な面接試験と称するセレモニーさえ通過すれば、その内容がどうであれ入学できる大学は無数にあると言われている。大学生の裾野が広がるということは、その平均的な知性レベルは必然的に低下するだろう。大学の経営を維持するためだけに入学する(させられる)無意味な大学が日本全国あちこちに存在する姿は異様ですらある。
私は今でも、高校を卒業して大学に進学する価値のある人間は全体の10%もいないと思っている。しかもそうした優秀な学問的素養を持った人物でも、大学で学んだことが社会で生かされるという幸運に恵まれる人は極めて稀だと思う。私の考え方は、ヨーロッパにおける学問は学問として独立したものであるという思想に近いのかも知れない。
実は私は、我が国の東大を頂点とする固定化された大学の序列というものは世界の標準的な形だと思っていたので、本書を読んで初めてその誤解を解くことができた。我が国の大学の在り方こそが特殊であると言うことを知ったのは新鮮な驚きであった。序列の固定化は大学の画一化を招き、大学間の競争と個性を消滅させたという。学問に目的はなく、教えを乞いたい教授の元に参集する学生は見られず、魅力的な研究に取り組みたいということが大学選びの動機になることもない。その結果、自分が取れるであろうテストの点数で入れる範囲において、一番レベルの高い大学に入るということだけが、大学選択の唯一の基準になってしまった。
これを書いてきてふと原点に立ち返るような疑問がわいてきた。そもそも大学の存在理由とは何であろうか、ということだ。そこで学ぶということがそれ以降の人生において何らかの意味を持つのだろうかという疑問である。例えば字が読めなかったり、簡単な四則計算もできなかったりすれば、現代社会で生活していく上では非常な困難が付きまとう。職場で上司や取引先のいっていることを正しく理解する読解力や、国語、算数以外の最低限の歴史、科学、英語の知識、マナーといったことは、ほぼ中学卒業(遅くとも高校卒業)の段階で習得できるであろう。冒頭にも書いたように、私は大学生活というものを経験していないため、ここで問うていることは単なる愚問かも知れない。大学の機能の一つに研究がある。これは主として教授の専権事項だろうが、理系、文系を問わず、このような最先端のあるいは地味な学問に対して、最高度の頭脳が鎬を削ることは極めて重要なことだと思う。こうした研究を経済的に支えるためには国家の助成金だけでは成り立たないから、一定の数の学生から授業料という形でお金を徴収してそれに充てるということも理解できるのだが、すべての大学がそういう役割をきちんと果たしているとはとても思えない。
話しがあらぬ方向に脱線してしまった。西尾先生は大学多様化の一試案として東大合格上位校の合格者数に制限を加えるという大胆な提言をされている。そうして日本全国に東大と同じレベルの大学が複数存在することが健全な学問的競争を促し、現在のゆがんだ東大信仰をなくすことに繋がると訴える。先生はこうもいう。「東大を実際の実力以上に押し上げてきた力・・・」それは日本人のあの無反省な「相互同一化感情(コンフォーミティー)」の強さに外ならないと。
競争がないところに向上も発展もないことは、企業の競争を見れば一目瞭然である。
西尾幹二全集刊行記念講演会のご案内
西尾幹二全集第8巻(教育文明論) の刊行を記念し、12月8日 開戦記念日に因み、下記の要領で講演会が開催いたしますので、是非お誘い あわせの上、ご聴講下さいますようご案内申し上げ ます。
記
大東亜戦争の文明論的意義を考える
- 父 祖 の 視 座 か ら -
戦後68年を経て、ようやく吾々は「あの大東亜戦争が何だったのか」という根本的な問題の前に立てるようになってきました。これまでの「大東亜戦争論」の殆ど全ては、戦後から戦前を論じていて、戦前から戦前を見るという視点が欠けていました。
今回の講演では、GHQによる没収図書を探究してきた講師が、民族の使命を自覚しながら戦い抜いた父祖の視座に立って、大東亜戦争の意味を問い直すと共に、唯一の超大国であるはずのアメリカが昨今権威を失い、相対化して眺められているという21世紀初頭に現われてきた変化に合わせ、新しい世界史像への予感について語り始めます。12月8日 この日にふさわしい講演会となります。
1.日 時: 平成25年12月8日(日)
(1)開 場 :14:00
(2)開 演 :14:15~17:00(途中20分 程度の休憩をはさみます。)
2.会 場: グラン ドヒル市ヶ谷 3階 「瑠璃の間」 (交通のご案内 別 添)
3.入場料: 1,000円 (事前予約は不要です。)
4.懇親会: 講演終了後、サイン(名刺交換)会と、西尾幹二先生を囲んでの有志懇親会がございます。ど なたでもご参加いただけます。(事前予約は不要です。)
17:00~19:00 同 3階 「珊瑚の間」 会費 5,000円
お問い合わせ 国書刊行会(営 業部)電話 03-5970-7421
FAX 03-5970-7427
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