『GHQ焚書図書開封4』の刊行(八)

 ゲストエッセイ 

小川 揚司:坦々塾会員

    「GHQ焚書図書開封4「国体」論と現代」を拝読して

 「GHQ焚書図書開封」シリーズの中でも「国体論」が取り上げられた第4巻を待望していた。そして、図らずもその恵贈に与り、胸を弾ませながら通読させていただき、猛暑の中で凛と冴え渡る麦酒を一気に飲み干したような爽快感に浸ることができた。しかし、底知れぬ格別の苦みも口中に残った。

 昭和45年の晩秋、三島由紀夫大人が市ヶ谷台で壮烈な自刃を遂げられた。その翌春、私は、防衛庁(当時)に入庁した。三島大人は、その檄文において「国体を守るのは軍隊であり、政体を守るのは警察である」と辞立されたが、以来、建軍の本義の根幹にある「国体論」は、私の終生の研究課題となった。しかし、防衛庁内局のシビリアンが「国体論」を、延いては、その根幹にある「天皇・皇室」そして「神道」を、自らの価値観の中心に置きその研究にのめり込むと云うようなことは、当時は甚だしくタブー視されるところであったので、私は、自分の立場は異端視されるであろうことを十二分に自覚しながら、密かに研究を続けていた。しかし、研修論文等によりその色は自ずと滲み出るもので、入庁15年目に陸上幕僚監部に二度目の転出をして以来、退官に至るまで、私は再び内局に戻ることはなかった。

 三島大人の散華以来四十年の歳月を経て、また、先頃は田母神航空幕僚長の解任事件の大反響もあり、一面において世論も随分と変わってきたように見えるが、それでも戦前・戦中の国民精神昂揚期の「国体論」を正面から取り上げ、非を非とするばかりでなく是は是として堂々と論ずると云うことは、敗戦以降、国民精神が虚脱から虚無に向かって淫々と流れてきた現在時点においては、大層勇気の要ることであり、況してや文壇の重鎮と云うお立場にあっての西尾先生のこの御壮挙にはあらためて瞠目したところである。

 西尾先生のこの御著作を先ず通読させていただき、実に爽快に感じたのは、そのような事由にもよるが、更なる理由は、西尾先生が数多の「国体論」の中から取り上げて論じられたこの六篇の「国体論」の選定と配列の素晴らしさ、その絶妙なバランスに感銘し深く共鳴したことによる。

 西尾先生は、戦後教育の洗礼を受けながらも真摯に歴史の真実にアプローチしようとする後学達を念頭に、当時の国体論の全体像がどのようなものであったかを的確に理解させるため、ここに六篇・六様の「国体論」を選定され、噛んで含めるように懇切に平易に解説され、その是非を論述して下さっている。拝読しながら、その愛情溢れる老婆心に涙を止めることができなかった。
そして、この六篇・六様の「国体論」それぞれに対する評価と、その配列の絶妙のバランスは、西尾先生の、近代知識人としての深い洞察力と強靱な思想批判力を具えられた高い視座からの「心棒」が厳存してのことである、と感嘆した。

 然は然りながら、未曾有の大戦と云う国家存亡の危機に直面し、国民精神が沸騰するまでに昂揚した当時においては、また別の至高の「心棒」が厳存し、それがバランスの中心点となり、この六篇を始めとする数多の「国体論」が、それぞれに処を得て百花繚乱と満開したものと思われる。そして、尋常な大多数の国民、即ち、吾々の父祖達は、そのような時代の空気の中で実に「意気」高く、凛として深呼吸しておられたものと憶念する。而して、そのバランスの中心点、即ち、至高の「心棒」とは、昭和天皇の信仰心(御敬神)に外ならなかったものと敬信する。

 昭和天皇の御敬神の篤さは、単なる建前ではなく、また、宮中祭祀は単なる形式儀礼に留まるものではなく、皇孫として皇祖皇宗を斎き祭り玉ふ御奉仕は敬虔なものであり、その御信仰は真実深いものであらせられたと、文献情報に限らず、漏れ承る。そして、普く国民はそれを真実として敬信したことにより、見識の高い辻善之助先生や白鳥庫吉先生の「国体論」に負けず劣らず、田中智学翁の熱狂的な「国体論」や杉本五郎中佐の絶対的な「国体論」も大いに光彩を放ち、数多の心酔者や共感者を現出させたものと認識する。  
繰り返しになるが、戦前・戦中の「国体論」の「心棒」は「昭和天皇の御敬神」に外ならず、その昂揚は、それに対する国民の感応、即ち「国民の敬信の念」に外ならなかったものと確信する。

 西尾先生は、この御著作の「あとがき」において、「戦争に立ち至ったときの日本の運命、国家の選択の正当さ、自己責任をもって世界を見ていたあの時代の「一等国民」の認識をもう一度蘇らせなければ、米中のはざまで立ち竦む現在のわが国の窮境を乗り切ることはできないだろう」と指摘され、また「戦前も戦後もひとつながりに、切れずに連続しているのである。戦前のものでも間違っているものは間違っている。戦後的なものでも良いものは良い。当然である。日本の歴史は連続して今日に至っているという認識に何度でも立ち還るべきであると私は考えている」と結んでおられる。
全くそのとおりである、と私も考える。しかし「あの時代の「一等国民」の認識をもう一度蘇らせる」ためには、そして「日本の歴史は連続して今日に至っているという認識に立ち還る」ためには、当時の「天皇の御敬神とそれに対する国民の敬信の念」を再び現代に蘇らせることができなければならないのではないだろうか、そして、それが果たして可能であろうか、と云う大きな難問に直面する。

 この秋の夜長、御著作を折に触れて拝読精読しながら、そのことを考えて続けてきた。
先ず「昭和天皇の御敬神」について、大御心を手前勝手に忖度することは誠に畏れ多いところであり、そこで、存在の次元の差こそあれ、神道思想の系譜と格調の高さにおいて相似すると拝察される山田孝雄先生の「国体論」即ち、御著作第2章の内容に沿って、また「国民の敬信の念」については、第7章以降を切り口として、西尾先生の御解説・批評をなぞりながら、所感の一端を記述させていただくこととする。

 西尾先生は、山田先生には「ふたつの顔」即ち「学問的、実証的な立場を堅持した顔」と「ある種国粋主義的な立場の顔」があると指摘された。私は、それは、真摯な学者としての姿と、敬虔な信仰者としての姿であると拝察する。

 私は、大学時代、ニーチェ研究の碩学である明治大学教授(当時)の小野浩先生に師事した。その小野先生は東北帝大でゲーテ研究の碩学である奥津彦重先生に師事されたが、その頃の東北帝大に山田先生もおいでになったと伺う。

 当時の東北帝大の学風は「広く世界的高処に立って西欧文化を総合的に摂取しつつ、日本を基盤として民族文化の根底を培い、学問研究において広大無辺の皇恩に応え奉るべし」と云うものであり、山田先生は、北陸の御出身の苦学力行の篤学で、そのような学風の中で至誠一途に研鑽を積まれた碩学であった、と承る。

 凡そ学者がその研究に際し、何らかの信仰を基礎として出発してはならないことは勿論であるが、自由公平な立場から冷静・周密に研究を進めた結果、正しいと結論した認識に基づいて敬虔な信仰を持つことは尊敬すべき姿であると考える。山田先生の神道に対する篤い信仰心は、その真摯な人生観の表象であり、更には、吾が国・吾が民族の危機に直面しての熱い愛国心を反映してのことでもあると拝察する。私が、山田先生を深く尊敬する所以である。

 そして、その山田先生の姿と重ね合わせ、近代人として高い見識をお具えになりながら、神事を御歴代相承され、皇孫として古代人そのままに宮中祭祀を敬虔に御奉仕し玉う昭和天皇の御姿を彷彿と思い浮かべるものである。

 次に、「中今」の解釈について、西尾先生は、先ずここにポイントがあると着目しておられる。私も全く同感である。ただ、私は「中今」は、神道の基底にある「ムスビ」の思想、即ち「生成発展しながら現象として結び出された「現実」を尊ぶ」と云う価値観を如実に表す言葉であり、「終末」や「抽象」に帰結するキリスト教やインド思想とは根本的に異なる吾が民族の独得の考え方である、と云うことが眼目であると認識する。

 また、西尾先生は「時間論」についても懇切丁寧に御解説下さっているが、私は、神道の基底には、そもそも「時」と云うものは「無い」と云う思想があると認識している。即ち「万事万物の変化推移が時といえば時なのであるが、それは相対的なものに過ぎず、絶対的な時と云うものがあって万事万物が変化推移するのではない」と云う考え方である。(神道には浦島太郎の昔話のような古伝・説話が数多あるが、山田先生は復古神道の思想の流れを汲まれる学者として、これら古伝・説話にはあまり重きを置かない嫌いがあるように拝察するが、この問題はまた別に論ずることとしたい。)

 さて、西尾先生の御解説の中で、ニーチェとハイデガーにおける「時間と生」の問題に関連し、私は、真っ先に、前述の小野先生が、昔日、ハイデガー先生をお訪ねになり、ヘルデルリーン詩の「帰郷」をめぐり、「帰郷」と云うことの本質と可能性について質問され真意を正された時のお話を思い起こした。そこで、小野先生は「帰郷とは、歴史の流れの現在的時点と考えられるところから「始原」へ向かって逆に遡るのではなく、それは不可能であり、歴史の最深層へ向かって直下にボーリングを降ろし、幽深な「場」に達し、清冽な源泉に汲むことではないか」、そして「源泉の直流と歴史の流れとは厳密に峻別されるべきではないか」と問われた。この問答の終始についての記述は省略するが、私は、民族のミュトス(古代伝承)へのアプローチと云うことについて、ここに重要な鍵があるのではないかと考える。

 そして、西尾先生は「国生み」の神話、即ち「日本は「作られた国」ではなく「生まれた国」である」と云うミュトスに、そして、そこに「吾が国の「真実」が秘められている」と云う山田先生の所信に対し、ここがポイントであり、正に「国生みの物語は日本の国家原論」であると指摘された。私も全く同感であり、それこそが「国体論」の原点であると確信する。

 而して、そこから「国体論」即ち「国家観」の基盤となる「民族の世界観・神観」が顕れてくるわけである。即ち、吾が国のように「神を親として生まれた国」と云う民族のミュトスを国家観の基盤においてきた国家・国民と、ユダヤ教をルーツとしキリスト教を基盤として「神との契約により作られた国」と云う信仰を持つ欧米に代表される諸国家・諸国民との、神観・世界観の根本的な相違が顕在化してくるわけである。

 そこから「神と人とは血のつながる親子の関係にあり、神を絶対的に信頼しひたすらに神恩を感応し、感謝の誠を捧げる」と云う信仰に生きてきた素朴な吾々日本国民と、「神との契約を破れば恐ろしい神の怒り触れることとなる、人は神を畏敬するにも狡猾でなければならぬ(タルムード)」とするユダヤ教の信仰、それをルーツとするキリスト教など一神教を信仰する老獪な諸国民とは、大は国際政治・国家間の交渉・術策から小は個々人の人生観・処世の姿勢に至るまで決定的な隔絶があることを、そして、西尾先生が指摘されるように、吾々日本国民が本質的に抱える強さと弱さがあることも、能く能く肝に銘じて対処して行かなければならないものと考える。
 
 そして、キリスト教や仏教が国境を超えて広まった普遍宗教であり、神道は国境を超えない特殊な宗教であると云う見解にも、根本的な異論がある。
それについて、少し長くなるが、国体論の名著の一つである田中晃先生の「日本哲学序説」(昭和17年9月初版)の序言の一節をここに引用する。
「日本国体の尊厳は、日本国家の特殊性が、既に世界の普遍性を媒介して成立した所にある。この意味に於いて、真に世界的の名を冠し得る国家があるとすれば、それはまさしく日本国家でなければならぬ。

 日本は何故に世界の普遍性を媒介していると云はれるのであるか。それは日本肇国の精神が、まさに神より生まれる所にあったからに外ならない。日本に於ては、神は生むもの、国は生まれたものであった。しかして生みの根源力たる神は、まさに万邦に通ずるであらう。この意味に於て、神より生まれない国はなかったのである。しかるに、神より生まれることを以て、如実に国家成立の原理としたものは、不可思議にも、日本の外にはなかったのである。生みの根源力は普遍的であり、生まれたものは特殊的である。生まれたものが生まれた所以を自覚し、その自覚によって普遍を媒介したる特殊となったのが、まさに日本的特殊であった。

 しかるに他の諸々の国家は、生まれたものでありながら、生まれたことの忘却によって、みづから神より離れて国家を第二義的存在とするか、或いは逆に、みづから神となることによって、特殊をもって普遍を奪はんとする。前者はキリスト教的国家観であり、後者は侵略的帝国主義の国家観である。日本の国体は、これらのものと全く原理を異にする。神は国を生むことによって国を肇めたまひ、国は神より生まれることによって神を現はす。それが神国である。神と国、普遍と特殊、その媒介の実相は、まさに「生む-生まれる」にあるのである。それは神より生まれたが故に、みづから神の地位を奪うのでもなく、しかも神より生まれたが故に、却って神意の実現となるのである。」一面において、非の打ち所が無いような卓論であると思われる。

 しかし、この万邦無比の国体を誇る吾が国が、神国日本が、大東亜戦争に完敗した、と云う厳然たる現実がある。

 西尾先生の「それが破れたがゆえに、こんどは自分たちがもっていた強さ、すなわち「日本は神国である」ということが逆に弱みになって、いまこの国を呪縛している」と云う御悲嘆は、私にとっても、この上なく痛恨なのである。

 昭和天皇の篤い御敬神、宮中祭祀の敬虔な御奉仕は、敗戦後、様々な苦難・障碍を半ば奇跡的に乗り越えられ、寸毫も変わることなく、今上天皇も御歴代同様にそれを相承され、宮中祭祀を御奉仕し玉うと、公開情報に限らず、漏れ承る。しかし「国民の敬信の念」はと云えば、御著作第7章以降の記述にも見られるように、純粋・素直であるが故に日本人としての信仰の原型を必死に守り通そうとする心情と、同時に純粋・素直である故に信仰を裏切られ、更には見事に洗脳されてしまい、必死に守ろうとする心情に抗う拗ねた情念の葛藤が底知れない混沌として、今なお数多の国民の心底にわだかまっているように思われてならず、戦後六十余年の歳月を経た現在においても、これを蘇らせることは決して容易ではない様相を呈していると認識する。

 しかし、天皇御歴代の宮中祭祀が、向後も形骸化し途絶してしまわない限り、国体は護持され得るものと敬信する。そして、西尾先生のこの御名著の刊行が、普く国民の敬信の念を蘇らせる長い旅程に画期的な道標を打ち立てられたものであることを確信し、先生に満腔の敬意を表し上げるものである。

以上
文章: 小川 揚司
             

坦々塾新年会(平成23年)の報告

  

平成23年1月8日(土)に行われた、坦々塾新年会の報告です。

 文章:浅野正美

 今回の坦々塾は従来と趣を変えて西尾先生のご講演と新年会の宴というプログラムで開催された。会場も定例の会議室を使用せず、最初から懇親会場の部屋に集合し、ここで西尾先生の講義を聴くスタイルとなった。

 当日は過去最高となる51人の出席者が集まり、宴会場の一部屋では収まりきらない人数であったが、何とか全員で膝を寄せ合い、かつての寺子屋を髣髴とさせる雰囲気での勉強会となった。

 西尾先生の講演は、田母神元空幕長解任における先生の強い怒りが、ある私的な感情に基づくことから語られた。西尾先生と当時の麻生内閣総理大臣とは古くから面識があった。マスコミが政権交代必至と扇情的に報じる時の世相において、先生は必ず読まれる手はずを整えて、麻生氏に手紙を書き送った。そこには、保守政治家を自負する麻生氏が、保守としてとるべき行動と心構えが具体的につづられていたが、麻生氏はその忠告に耳を傾けることなく、何者かにおもねるような政治姿勢を取り続けた挙句に、田母神氏解任という暴挙に出た。

 我が国は、戦後の見地からのみ戦争を批判するという宿痾に蝕まれ、勝敗とは別に、開戦前に立ち返っての大東亜戦争における必然性と正当性を深く思索するという営為を放棄してしまった。その結果、反戦、平和、民主主義といったものが、進歩主義として認識せられ、侵略戦争を否定するアメリカこそが侵略者であったという自明のことが忘れられた。 

 敗戦時、我が国で0時(国家の非在)を体験したのは、満州など外地からの引揚者、復員兵、昭和天皇だけであり、国民は「リンゴの歌」と「青い山脈」の能天気なメロディーに慰められて、それ以降の教育とマスコミによるばかばかしさの再生産は、今もやむことがない。ドイツの敗北後の惨状はこの比ではない。

 真に必要なことは、0時の時代の正確な認識を取り戻すことである。

講演終了後、20名に西尾先生署名入りの御著書が当たる抽選会が行われ、当選者には一番から順番に希望の書籍が贈呈された。この日のために広島から駆け付けた日録管理人の長谷川さんが一番くじを引き当て、長谷川さんによる乾杯の発声で新年懇親会が始まった。

 この日塾生一同は、新年の祝賀にも勝る慶事に沸いた。それは、西尾先生の個人全集が国書刊行会から出版されることが発表されたことである。全22巻、箱入り、二段組、年間4冊の予定で、完結は5年先になるという。この発表によって会場は大きな拍手に包まれた。懇親会は、お正月の華やかさに加え、この吉事により一層の歓びが重なった。

文:浅野正美

『西尾幹二のブログ論壇』(四)

ゲストエッセイ 
公認会計士 髙石宏典

拝啓 西尾幹二 先生

 年の瀬もいよいよ押し迫ってまいりましたが、西尾先生におかれましては健やかにお過ごしのこととご拝察申し上げます。

 さて、新著『西尾幹二のブログ論壇』のご刊行おめでとうございます。総和社様より同書を発売日前の17日に頂戴いたしました。本当にありがとうございます。早速、私信を掲載していただいた箇所を探し、その後通読いたしました。一度は「日録」や月刊誌で目にしていた内容が多かった訳ですが、懐かしいというよりも新鮮な思いで読み進め、特に第二章と第五章については、先生の過去の著作の中に実質上同じような内容や本書を理解するためのヒントの存在を直感したり、昔むかしにNHKテレビでも同じように面白く刺激的だった西尾先生が出演された論争や先生の実存主義哲学者たちに関する論説があったことを思い出したりしながら、自分なりに少しだけ考えるところがありました。以下は、必ずしも新著それ自体についての感想ではなく、新著から連想した心に浮かんでは消えてゆくとりとめのないことに過ぎませんが、記させていただきたく存じます。

新著の第二章「歴史は変化し動く世界である」については、読了後少し時間が経ってから、論争相手の秦さんの立場が、『ニーチェとの対話』の「学問について」における「モンテーニュの中途半端な歴史家」や「悲劇の誕生をめぐるニーチェの敵対者としてのヴィラモーヴィッツ=メレンドルフ」に符合するように感じました。つまるところ、先生が同書で書いておられるように歴史事実とか歴史の客観性とか言ってみたところで、歴史認識の「哲学的前提の高さ」や「歴史家の人間としての大きさ」がなければ、基本的には読むに耐えうる歴史にはならないということですよね。

モンテーニュは『エセー(随想録)』(白水社版 関根秀雄訳)の中で、西尾先生が『ニーチェとの対話』193頁で引用された箇所の後を以下のように続けています。

「・・・従って歴史を自分の気まぐれに従わせる。まったく、ひとたび判断が或る一方に傾くと、人はどうしても叙述をその方へその方へと曲げずにはいられなくなるのである。彼らは知られるに値する事柄を選ぼうと企てる。そして、それよりももっと我々に教えるところが多いかもしれない或る言葉ある私的な行為などを、しばしばかくしてしまう。」(上掲書764頁)

以上のようなことは、私がふだん日記を書くときに無意識ながら良くやることのように思います。歴史と日記の基本原理を類似したものと考えることは、やはり単純に単細胞にすぎるでしょうか?

また、この第二章の論争で思い出すのは、20年余り前にNHKで放送された「NHKスペシャル 外国人労働者 激突討論・開国か鎖国か」(平成元年5月13日)です。この討論には西尾先生が出演されておられて、切実で刺激的な番組を手に汗を握りながら見たように記憶しています。結果的には、西尾先生の主張が説得力を持ち外国人単純労働者の受入れを制限するわが国の方針が決まって日本社会の平和と安定が保たれてきた訳ですが、この侃々諤々の討論は実に面白かったですね。NHKはどうしてこうしたスリリングな討論番組を制作し放送しなくなったのでしょうか?

 今年の夏の「日本のこれから ともに語ろう 日韓の未来」(8月14日放送)のような「東京裁判史観」を追認するだけの偏向した番組よりも、こころある視聴者のみなさんなら戦争観をめぐるこの「西尾・秦論争」のような討論番組を本当は期待しているのではないでしょうか? そして、上記の夏のNHK討論番組に西尾先生のような見解の異なる識者の方々が、結果として出演されていないのはいかがなものでしょうか? 西尾先生がチャンネル桜のYouTube配信動画「これからの日本」(8月18日配信)で、「(映画監督の)崔洋一が出て来るんだったら、どうして西尾幹二を出さないんだ!なぜ公平にやらないんだ!!」とお怒りになられたのは、至極もっともなことだと思います。 

上記の「激突討論」と同じ頃だったと思いますが、同じくNHK(NHK教育?)で西尾先生の「キルケゴールやハイデッガーの退屈に関する哲学的論説」が放送されたことがありました。全体の論旨はあまり覚えていないものの、「退屈を知らないほど活動的でお金も地位もあるが、他人を退屈させる人間」のことを具体例を挙げて論評されていたことだけは、まだ世に出ておらず何物でもなかった私には意外な視点だったので印象に残っています。このテレビ論説の実質的内容は、『人生の深淵について』の「退屈について」や『人生の価値について』の「人生の退屈そして不安(一)(二)」に収録されていると思われますが、人間や人生の本質に迫る名文で今でも時折読み返したくなる箇所です。

さて、第五章「『三島由紀夫の死と私』をめぐって私の35歳の体験と72歳のその総括」については、本書の「予約特典動画」の中で先生が「小林(秀雄)さんと斎藤忍随と三島(由紀夫)さんとエンペドクレスとニーチェとヘルダーリンと全部つながるんですよ。」、と話されたことがきわめて印象的です。そうであるなら、著名なニーチェの研究家で三島由紀夫と「思考パターンが似ている」(本書249頁)と言われていた西尾先生もこの輪の中に入ることになり、西尾先生の死生観が反映された上掲の著書を通して、凡人には不可解に思える三島由紀夫の最期の行動を理解することも可能なことなのかもしれません。例えば、『人生の価値について』の以下のような先生の文章から三島由紀夫の行動原理を類推することは、やはりピントがずれていると言うべきでしょうか?

「退屈とは「時間の空虚に対する恐怖」でもある。それは薄められた死の予感であり、日常生活のなかに茫洋と漂っている死の自覚の別名と言ってもよいようなものである。」
(『人生の価値について』241頁)

「人間は法の前では平等かもしれないが、ある人にとっては退屈であることが別の人にとっては退屈でないという、退屈を覚える事柄の相違、範囲の広さの相違、いいかえれば苦痛を耐え忍ばねばならぬ程度に関して、人間は決して平等ではない。」(上掲書242頁)

「人間はまったく絶望的な状況のなかでも――シベリアの監獄が絶望的でないはずがなかろう!――自己統一を壊さないで済むだけの生の自足感情を、物を作るというささやかな仕事の中に見出すことに成功するというこの事実は、人間というものの悲哀を感じさせるというより、むしろ、人間の強さ、生きんとする意志の強さを感じさせる。しかし、これは逆にいえば、人間は時間の完全な空虚――無意味な行為の単調な繰り返し――には耐えられないきわめて弱い存在だというふうにも見ることができるのである。」(上掲書250頁)

 以上、本当にとりとめのない雑文で失礼いたしました。失礼ついでと言っては変ですが、以下に少しだけ私事を記すことをお許しください。

今年はテレビがちょうど良く壊れてしまったのを契機に、NHKとの受信契約を解除しテレビを見るのをキッパリ止めました。どの局のテレビ番組も詰まらなくなったこと、番組を見ることによって気持ちが掻き乱され落ち着かなくなることが多くなったこと等のためです。受信料を支払ってテレビを見るのはお金と時間の無駄遣いだとようやく悟り決断しました。わが身を振り返れば、今さらながら20~30年もテレビ界に君臨している大して面白くもないお笑い芸人たち(タモリ、たけし、さんま、紳助、ダウンタウン等)のテレビ番組で貴重な時間を大分無駄にしてしまったなあ、という後悔があります。冷静に考えるなら、これらの人たちは放送業界にとっても視聴者にとっても、つまるところ当たり障りなく暇つぶしをしてくれる都合の良い人たち(=暇つぶし請負人)であるに過ぎないのではないでしょうか。

ともあれ、本当のことを放送しない書かないマスメディアの凋落は、もはや時間の問題です。退屈な時間を当たり障りのないテレビや新聞や雑誌で埋めることに退屈し始めている、私のような日本人が多くなっていることは確かです。中身の濃い本書は既存マスメディアに飽き飽きしている人々の心の隙間を必ずや埋めてくれるでしょう。本書が一人でも多くの方々に読まれることを切に念願して、結びといたします。西尾先生、どうか良い年の瀬をお迎え下さいますように。                   
 敬具
平成22年12月24日  髙石宏典

『西尾幹二のブログ論壇』(三)

ゲストエッセイ 
「秦郁彦vs西尾幹二論争」を決着するために

柏原竜一

 思い切って書評を、と思いましたが、結局秦批判になってしまいました。その点はご容赦ください。

 最近になって思い出したのは、数年前に、西尾先生と私と早稲田大学の学生諸君と勉強会を開いていたことです。西尾先生がインテリジェンスの世界を知りたいという好奇心から始められた勉強会でした。月に一度ほど集まって英文を読みつづけました。そこでわれわれが取り上げたのはリチャード・オルドリッチの『隠された手』という部厚い一冊でした。なぜこの本が取り上げられたかというと、冷戦初期の米英のインテリジェンスがどのようなものだったのかを検討するにあたって米英の大学院では標準的なテキストだったからでもありますが、なによりもまず、私がこの本に惚れ込んでいて、先生に推薦したからでもありました。オルドリッチは「序論 情報史家とその敵」の冒頭部分で次のように述べています。

 

現代の情報機関の物語が提示しているのは明白な警告である。政府は相当の秘密を隠すと同時に注意深く詰め込まれた過去を提示するのだ。第二次大戦後すぐに、情報機関に関するくどくどしい話が現れた。それらはしばしば英国の戦時破壊工作組織であった特殊作戦局(Special Operations Executives: SOE)に関するものだった。これは、もはや戦争が終わったのだから、秘密活動に関する物語も語ることができたということを暗示していた。SOEで働いた、もしくはアメリカの姉妹組織であった戦略事務局(Office of Strategic Services: OSS)で働いた多くの人物が落ち着いて手記を執筆したのである。これは誤解を招く可能性があった。なぜならドイツとの戦いの重要な局面の幾つかは隠されていたからである。終戦から30年が経た1970年代になって初めて、ウルトラとブレッチリー・パークの物語-ドイツのエニグマ暗号機を解読した努力-が世界を驚かせることとなったのだ。その後、第二次大戦の戦略史が大きく書き換えられた。その中でも最も重要だったのは、枢軸国の意図が丸見えだったということが30年もの間歴史文書から隠されていたということだったのである。

 SOEとかOSSは、一般には、いわゆる戦争映画の特殊部隊の活動のようなものとして考えていただいてまあ間違いはありません。こうしたどうでもいいような派手は話が第二次大戦の情報機関の物語として一般に流布するのです。それから何十年もたって「枢軸国の意図が丸見えだった」という事実が明らかになったのです。たとえ民主的な政府であっても、英国も米国も情報を長期間隠し続けるのです。

 ウィキリークスのようなことでもない限り、外交公電が人口に膾炙することはないのです。敢えて付け加えるならば、ここでエニグマの情報が開示されたのは、ケンブリッジ・ファイブ(キム・フィルビーなどのソビエトのエージェントが英国政府内に紛れ込んでいた事件)の暴露という当時の英国情報機関の失態による権威の失墜を埋め合わせるためのものでした。ですから、こうした失態がなければ、公開はもっと遅れていたことでしょう。「枢軸国の意図が丸見えだった」ということは、第二次大戦の戦略史は根底から見直さなければならなかったということです。
 
 これは、恐ろしいことではないでしょうか。昨日まで真実であると考えられていたことが、新たな資料公開によって解釈が根本的に変わってしまうのです。それまでの研究成果が、一瞬にして無になるということですから、まじめにこつこつと史料を集めて分析されて、一定の成果を上げた歴史家の方々にとって、これは致命的な痛手と感じられるのかもしれません。

 ですが、インテリジェンスという微妙な問題を扱うときには、常に見られる現象なのです。ですから、なおさらのこと、歴史を研究するという志を持つ限りは、このどんでん返しにつねに身構えていなければなりませんし、心の準備ができていなければならないのです。思考の柔軟性が必要なのです。また、歴史家は既存の史料の裏をかく必要も出てくるわけです。そのときに導きの糸となるのが、歴史的想像力なのです。ですから、その史料の背後に何があるのか、推理するという精神的な態度が歴史研究には常に要求されているのです。

 ここで、「西尾幹二のブログ論壇」に収められた「西尾VS秦」対談には、次のようにあります。

 こういうもの(田母神論文)は日米関係にも決してよい影響は与えません。一部の人々のあいだで、田母神氏が英雄扱いされているのは、論文自体ではなく、おそらく彼のお笑いタレント的な要素が受けたからでしょう。本人も「笑いをとる」のを心がけていると語っています。

西尾 日米関係に悪影響云々は政治家が言うべき言葉で、歴史家の言葉ではありません。田母神さんを侮辱するのはやめていただきたい。軍人には名誉が大事なのです。彼の論文には一種の文学的な説得力もある。細かいことはどうでもいいんでね。

 やはり、そうはいかんのですよ。田母神さんは私の著書からも引用しているが、趣旨を全く逆に取り違えている。一事が万事この調子です。西尾さんも著述家だから、誤引用される不愉快さはおわかりでしょう。プロのもの書きではないとはいえ、自衛隊空幕長は大きな社会的責任を負う立場です。なんでも言いたい放題というわけにはいかない。・・・

 「日米関係にも決してよい影響は与えません」というのは、もう語るに落ちた言葉だと思ったのは私だけでしょうか。現在の政治関係を、歴史に当てはめるから、日本の「昭和史」研究は、見るに堪えない惨状になっている、というのが一読者としての私の正直な感想です。歴史から何かを学ぼうとするのではなく、現在の日米関係がこれこれこうだから、この種の発言は控えましょう、というのであれば、それは単なる第二次大戦の戦勝国への太鼓持ちではないですか。中国への太鼓持ちが「日中共同歴史研究」の本質でした。日本の歴史研究は、太鼓持ちエセ学問でおわるのでしょうか。少なくとも秦氏の姿勢からは、政治で歴史を断罪することを了としているとしか思えないのです。
 
 まあ、西尾先生の「彼の論文には一種の文学的な説得力もある。細かいことはどうでもいいんでね」という発言も、聞く人が聞けば卒倒する内容なのでしょう。「細かいことはどうでもいいんでね」等といわれてしまうと、もうそれだけで、従来の歴史学の全面的な否定に見えてしまう人もいるようです。文学的な説得力というのがいやならば、文学的な想像力と言ってもよいのでしょうが、その想像力抜きでなにか歴史研究が可能なのでしょうか。
 
 想像されたものが、歴史ではないのは自明です。しかし、その想像力抜きに、歴史を研究することができるのでしょうか。というのも、想像力の有無は調査能力に直結しているからです。ここらへんのアーカイブにはこれこれの情報があるはず、とすると、あそこのアーカイブのこれと照合すれば、かくかくの結論が導けるかもしれない、と考えるのは、通常の歴史研究では当たり前のことです。あり得たかもしれない現実を、自分の頭の中で再構成し、現実の史料とつきあわせて、事実を探るというのが歴史学という学問の営為ではなかったでしょうか。
 
 ですから、秦氏が自分の学問を誇るのであれば、「やはり、そうはいかんのですよ。田母神さんは私の著書からも引用しているが、趣旨を全く逆に取り違えている。一事が万事この調子です」というのであれば、どの文のどこが誤りなのかを、具体的に明示するべきでしょう。出された主張に対して、ひたすらその主張の信頼性を否定するというのであれば、これはもはや学問とは言えないでしょう。史料に対しては史料で対抗しなければなりません。しかし、秦氏には徹頭徹尾そうした誠実な姿勢に欠けているのです。秦氏はひたすら逃げ回っているのです。日本の「昭和史」を研究されている皆様は、この秦氏の無様な逃げっぷりを哀れだとは思わないのでしょうか。「細かいことはどうでもいいんでね」といわれて、脊髄反射しているようでは、日本の「昭和史」研究の夜明けは遠いといわねばなりません。「細かいことはどうでもいいんでね」といっているのは、むしろ秦氏の方ではないのでしょうか。
 
 たとえば、次のようなやりとりを読むと、あきれるというのを通り越して、無気力になります。

西尾 ・・・ルーズベルト政権が、コミンテルンの謀略に影響されていたことは、日米戦争の発端における大きな不幸のひとつで、これを度外視してあの戦争の歴史は書けないと、私は考えますが、同じ前提に立つ田母神論文について、秦さんは、「“風が吹けば桶屋が儲かる”式の妄想を連ねた話」(『週刊新潮』2008年11月13日号)と一蹴しています。

 いまでもその考えは変わりません。工作員が、実際、どれだけ歴史の流れに影響を与えられるか、という問題もあります。

 これを読んでいて、つくづく思うのは、「じゃあ、秦さんは、ヴェノナについてどれほど知っているの?」という素朴な疑問です。秦さんの論文を読まれたことがある方ならご存じでしょうが、英米の文献はほとんど引用されていません。私も、秦さんの張作霖爆殺に関する論文を見せていただいたことがありますが、ほぼ日本の文献しか用いられていませんでした。これでは史料が日本側に偏りすぎており、信用できないのではと思ったほどです。近代の国際関係というのは、相手があってのことなのですから、相手国のアーカイブと比較検討して初めて、結論が出せるのです。

 「工作員が、実際、どれだけ歴史の流れに影響を与えられるか、という問題もあります」などと、牧歌的な発言を平気で宣う秦氏には、インテリジェンスは永遠に理解できないでしょう。相手国のアーカイブ(たとえば中国やロシアのアーカイブ)との比較対照という手続きを踏んで居られない秦氏が、なぜ、「“風が吹けば桶屋が儲かる”式の妄想を連ねた話」といったけなし文句を吐けるのでしょうか。これは昭和史研究家と称される方々につきものの、一種の腐臭です。秦氏はなぜ学問的な反論ができないのでしょうか。インテリジェンスにはまるで無知な人物の語る内容が、どうして碩学の判断として通用してしまうのでしょうか。
 
 秦氏の尻馬に乗って西尾先生を批判する人は、当時のインテリジェンスについて記された書物を2,3冊なりとも通読されたことがあるのでしょうか。戦間期において、日本と全く関わりのないところで、インテリジェンスがどれほどの規模で行われていたのか、それを知らずに「秦先生のおっしゃるとおりだわ」といったところで、それは知性の欠如、教条主義の虜以外の何ものでもありません。

 また、次のようなやりとりもあります。

西尾 ホワイトらに関して、ご覧のように大河のごとく文献が溢れているのに、今さら否定は出来ないでしょう。日本語が読めるとか読めないの話は関係ない。重要なのはハル・ノートの原案を巧妙に示し、ソ連側の意向を伝えていたことです。

 だが、ルーズベルト政権には日本勤務の経験もあり、日本語が読め、日本の各界に人脈を持つ国務省の外交官が何人もいる。バランタインもジョン・エマーソンもそうです。ホワイトという素人に対日問題を任せなければならぬ理由はないのです。・・・

 ほんとに脱力しますね。「ホワイトという素人に対日問題を任せなければならぬ理由」は、ちゃんとあるのです。それは当時の国務省が対独戦の準備に忙しかったため、財務省のモーゲンソーとホワイトにおはちが回ってきたということです。正直、これを読んだときは、秦氏は、当時のアメリカ政界の有様も知らずに議論していたのかと腰を抜かすほど驚きました。そのぐらい海外のことを知らない、そんな人が歴史を論じるのです。これはかなり恐ろしい話ではないですか。
 あとは、脱力シーンの連続です。

西尾 ホワイトの隠密行動は一貫してソ連の利益のためにあった。自身がどういう役割を果たしたかは謎ですけれども、これだけ書かれていますからね、何もなかったということはいえない。申し上げたいのは、無罪であったとは断定できないということですよ。

 いや、歴史学の専門家的見地からいえばですね、その程度の推測はほとんど価値がないんですよ。

 「ほとんど価値がない」という前に、秦氏は、おそらくは対談の時に目の前に置かれていた文献を読んでいなければならなかったのではないでしょうか。ジョン・アール・ヘインズとハーベイ・クレアの『ヴェノナ』についても、この著者らは当初はソビエトの情報活動には否定的だったのです。しかし、明らかな証拠が出てきたので、彼らは転向してこの本を書いたというのが本当のところです。秦氏とジョン・アール・ヘインズやハーベイ・クレアのどちらが歴史学者として誠実な姿勢なのでしょうか。「“風が吹けば桶屋が儲かる”式の妄想を連ねた話」といって、新たな見解をこき下ろす暇があれば、まず、それらの文献のどこが誤りなのか、はっきりと、海外も含む様々なアーカイブの様々な公文書から指摘するべきではないでしょうか。その手間を省いて、ひたすら下品な悪口を言い続けるというのは、その悪口がいずれ自分に返るということを、まるでご存じではないような雰囲気です。

 文献を批判するには、まずその文献を読まなければならない。そして、その上でその文献の持つ根拠の弱さを議論できるだけの実力がなければなりません。秦氏にそれだけの実力があるのですか。実際には、その実力がないのに、「“風が吹けば桶屋が儲かる”式の妄想を連ねた話」という表現に逃げ込んでいるだけではないのですか。
 
 まずきちんと入手できる限りのあらゆる史料を読み、そこから確実性の高い史実を構成する、そこから更に、他のアーカイブでもチェックし、史実を確定していく。そこには、政治的配慮は無縁でしょう。オルドリッチは先の章の終わりに、次のように述べています。

 

冷戦の終了以降、モスクワや北京で機密解除された歴史的宝物と、それらが冷戦に投げかけた新たな光に関して多くの話を耳にした。しかし最大の秘密は西側の公文書館の中に眠っている。そして冷戦初期の劇的な時代における米英の政策が実際どのようなものだったのかは、我々にはわからない。ここでまた膨大な量の公文書が我々を待ちかまえている。そして新たな発見は始まったばかりなのだ。この複雑なモザイクを完成させ、そして西側がいかにして冷戦を戦ったのかということを理解するにあたっての最良の希望は、攻撃的で探求心にあふれた歴史家なのであって、そうした歴史家は、本当の秘密などは存在せず、存在するのは怠惰な研究者だけだと信じているのだ。

 「冷戦初期の劇的な時代における米英の政策が実際どのようなものだったのかは、我々にはわからない」というオルドリッチの一言に、私は、冗談ではなく、胸を射貫かれてしまいました。秦氏の「いや、歴史学の専門家的見地からいえばですね、その程度の推測はほとんど価値がないんですよ」という発言と比較すれば、いうのもはばかられますが、オルドリッチが英国を代表する横綱級の情報史家といえるのに対し、秦氏は三下にもなれないありさまといえるでしょう。オルドリッチ氏は、知りすぎているからこそ、謙虚であり、秦氏は、知らなさすぎるからこそ、傲慢なのです。

 「この複雑なモザイクを完成させ、そして西側がいかにして冷戦を戦ったのかということを理解するにあたっての最良の希望は、攻撃的で探求心にあふれた歴史家なのであって、そうした歴史家は、本当の秘密などは存在せず、存在するのは怠惰な研究者だけだと信じているのだ。」と、ここまで言い切れるオルドリッチは凄いと思いませんか。これは、オルドリッチが自分に課している十字架です。これはそのまま、「この複雑なモザイクを完成させ、そして日本がいかにして第二次大戦を戦ったのかということを理解するにあたっての最良の希望は、攻撃的で探求心にあふれた歴史家なのであって、そうした歴史家は、本当の秘密などは存在せず、存在するのは怠惰な研究者だけだと信じているのだ。」とも言い換えられるでしょう。

 先の話に戻りますが、西尾先生は既に『隠された手』は、部分的にせよすでにご存じなのです。それが、実はこの対談にも淡いグラデーションのように反映しています。現在、WiLL誌上で西尾幹二先生、福地惇先生、それに福井雄三先生の末席に加えていたゞいて、一連の昭和史家の批判を行っている最中ですが、その昭和史批判に対して、いわゆる昭和史家の方々に反論してもらいたいと願うのですが、何も言ってきません。何も言えないのでしょうか。もし彼らが反論されるならば、せめてこのオルドリッチの『隠された手』(Richard J. Aldrich, The Hidden Hand Britain, America, and Cold War Secret Service, (NewYork: THE OVERLOOK PRESS, 2001))ぐらいは全部通読してからにして欲しいと、心から希望する次第です。そうすれば、現在の日本の「昭和史」の水準が、どれほど低いかがわかるでしょうから。

文 柏原竜一

『西尾幹二のブログ論壇』(二)

 近い人から感想が届いた。雑感というにふさわしいややとりとめない感想で、友人の私にはピンとくるが、良く分らない人もいるかもしれない。しかしともかくこの本の最初に送られてきた批評文だ。

 秦郁彦に小沢一郎を連想している発想の奇抜さが面白い。「違法性の不在」は合法であるという点が、二人に共通するという意味らしい。占領軍史観に合っていれば合法、そうでないものは全部違法とみなす秦氏の硬直した論法には、小沢一郎の強引さがたしかにある。

 この本を最初によむ人は、どういうわけか、第二章の秦郁彦批判に注目の眼を注いでいるようだ。もう一篇届いている批評もそれに類するので、次回にお知らせする。

ゲストエッセイ 

『ブログ論壇』雑感 粕谷哲夫

これは前回の 西尾日録を単行本にしたものより 大分 上出来です。渡辺 望さんの<コーヒー論壇>からの導入もよくできているのはもちろん、ダイアログをうまく入れて読者との<双方向性>という構成がたいへん新鮮です。編集デザインとしてもかなりの< 艶>を感じさせます。西尾幹二 批判も 適度にちりばめられ 討論の公平性がよく保たれており、好感持てます。

390ページの高品位の量感をソフトカバーで包むという 配合は 「ハレ」と「ケ」のバランスという点でも秀逸だと思います。

それで 質の高い 硬質の議論をうまく包んでいる感じで これは 西尾著作物の中で市場の受容度は かなり高いと判断します。後は宣伝ですね。マーケッティングからみてもそう思います。

秦郁彦にも(聞くべきものはいくつもありますが)、改めて読み直してみると全体では あたかも 小沢一郎を合法性ないしは違法性の不在ゆえに弁護する 小沢支持派 の 形式論理のような空虚さと同じものを感じさせずにはおきません。

秦郁彦は 法律でいえば 「訴訟法ないしは法手続き」「証拠主義」に関心がありすぎです。
それでは 歴史への想像力をむしばんでしまう。

(この点では保坂さんの方がいいです。彼は疑いは疑いとして結論を出さずに 疑問を読者に投げかけます)

ちなみに 「訴訟法ないしは法手続き」「証拠主義」で行くと、同時代に生きている 小沢一郎 という 男にたいする 判断も一筋縄ではいきません。

20%の人は小沢に肯定的です。しかし80%は小沢に否定的です。 いま生きている そこにナマの物証があるにもかかわらず 見解は分かれます。 決定的な定説などというものは ことほど左様に なかなかあり得ないものなのです。

山本五十六だって 激しい毀誉褒貶にさらされています。

秦郁彦は 歴史的 絶対証拠のない 日常的な考現学的な諸事象をどう判断するのでしょう?

我々は証拠によって生活しているわけではない。
観察や伝聞や風評を 総合して判断しているのです。
知力と感覚の総体で判断し生活しているのです。
そのトータルな集積が文化というものではないでしょうか?
イギリスはその流儀です。

もっとも学問であれば そんなアバウトなことでは すまないことは百も承知ですが、それを言うなら ヴェロナ文書の原点などに自らあたるべきです。彼にとっては <昭和史>はすでに一件落着で加えるべきものはなにもないと言わんばかりですね。

小生は 「自然法ないしはコトの是非そのもの」に傾斜するので 秦理論には相当の違和感があります。

経営学的に言えば 秦郁彦の考え方は<形式知>寄りで  西尾幹二的な考え方は<暗黙知>的です。

いまや 悪評高いマッカーシーの暴いた 共産主義の陰謀・謀略は徐々に マッカーシーは正しかったと 証明されつつあると聞いています。 秦郁彦も 否定や肯定をする前に 自分で徹底的に調べてみたらどうなんですかね。 その好奇心というか情熱がないこと自体 学者として問題だと思う。極度の知的怠慢ですよ。

もっとも徹底的に調べるには 英語とロシア語のスーパーな読解力が必要ですが・・・・。

宮脇女史など 調査の必要に応じて 外語を学習していったというようなことを言っていましたが、秦郁彦ぐらいならば 読解力のある専門家も同伴してアメリカやロシアに乗り込んでいろいろな 史料を 追求していく興味があってしかるべきです。

どうも歴史学者は 日本にある書物の範囲からテリトリーを広げることをしない。 

と同時に 仲小路のような 西欧列強による アジア侵略の入手可能な史料ですら踏み込もうともしない。・・・ ということは <GHQ 焚書> にたいする学者の良心を失っているということではないのか?

話は飛びますが ゾルゲ事件の 尾崎秀実を死刑にせずに 生かしておけばよかったと思います。彼らなら スターリニズムの<平和主義>の妄想がいかに誤りであったか 後刻気づいて 率直に認めたと思います。
彼を生かしておけば 後刻 釈放しても純粋な人なだけに自らに非を公式に認め、それが日本の左翼論理の蔓延を防ぐことに多少なりとも 貢献したのではないか?

緊急出版『尖閣戦争』(その四)

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ゲストエッセイ 
坦々塾事務局長 大石 朋子

<『尖閣戦争』を読んで思ったこと>

     
 先月、イリハムさんの事務所でベトナム人のユンさんに『今日のミスチーフ、明日の尖閣』と書かれたメモを見せていただきました。

 私は、尖閣の文字を見てミスチーフについては、単に中国の占領ということしか知らなかったので、慌てて調べました。

 アキノ大統領時代「ヤンキー・ゴー・ホーム」といって米軍を1992年に撤退完了させ、その後中国が「領土法」を制定し、1995年フィリピンのミスチーフを中国が占領したという事実を知りました。ここに中国は軍事施設を建設したようです。

 西尾先生と青木さんの『尖閣戦争』を読んで、私なりに尖閣問題について考えたことを書かせていただきます。本の内容とは違うこともありますが、お許し下さい。

【友愛の海の意味?】

 中国が列島線全てを占領した場合、辺境思想の中国がそれで満足するとは思えず、領土(領海)拡大は今現在勢いのある中国がその勢いを止めることはない、と思います。

 シーレーンを喪失するということは、海上封鎖されるということで、石油はもちろん海上輸送に弊害がおこり物資の値上がりにも繋がると思います。
これが友愛の海だとは思えません。

【最低でも県外の意味】

 海兵隊を県外に出し、本土と沖縄の分断を図り琉球として独立させ、その後中国に編入する。

 現に「琉球復国運動基本綱領」には、琉球は日本の植民地であると理解することが出来るような文章があります。そこには、琉球臨時憲法、もちろん現段階では「案」であろうと思われますが、確かに規定されています。
ああ、このやり方は、嘗てのメキシコにやったアメリカのやり方だな。と、ふと思いました。

 尖閣五島のうち、四島は日本人の所有地で、年間2,450万円で賃貸契約を結んでいるということで、殿岡昭郎氏はK氏(日本人埼玉県在住)は国を売るような事をする人ではないと仰いますが、万が一ということを考えると、不安になります。
何故なら、今まで何人の日本人が中国の罠に掛かってきたことかと思うのです。

【下地島の事】

 下地島の空港は民間の離着陸の訓練場として使用されていて、2005年3月下地島伊良部町の町議会で「下地島空港への自衛隊誘致」の請願が賛成多数で可決されたが、一週間と少しで白紙撤回された。

 下地島に自衛隊を置けば、那覇、尖閣、与那国がカバー出来るだけでなく、インフラを新たに設けることも無いという好条件なのに、何故と思います。

 この問題は、民主党だけでなく、自民党政権からのことであるので、政権を交代する場合、何処に一票を入れれば良いのか迷います。

【中国がミスチーフを占拠したときのやり方】

 「海上避難施設が必要」と主張して上陸して実効支配に持っていく。
これが、尖閣にも行われないと、誰が言えるだろうかと思います。

 嘗て「流木にしがみついて流民として中国人が上陸してくる」という話を聞いたことがあるが、こうなると可能性はかなり高いと思います。

【国防動員法】

 これには習近平が大きな役割を果たしていると聞いています。
18歳から60歳までの中国国民は、国防のため総動員を発令できるというものだが、先の聖火リレーの時は未だ制定されていなかったのに、あれだけの数の中国人が集まったのです。
しかも、日本の警察は日本人を守ってくれませんでした。

 国防動員法が制定されたということは、私たちは便衣兵に常に囲まれて生活しているということです。何と恐ろしいことか。
その人たちに生活保護費を与え、さらに選挙権を与えるなど、とんでもないことだと思います。

 在日中国人の増加は、便衣兵の増加とイコールであると心するべきであると思います。

【ODAの迂回】

 アジア開発銀行のことですが、私たちの多額の税金がこのように使われていたことを国民は知りません。
こうして、日本のお金で中国は力をつけて日本に襲い掛かってくることに対し、私たちは指をくわえて見ているだけしか出来ないのでしょうか?

 テレビでも新聞でもスポンサーが強い力を持っているのですね。
日本のマスコミが日本の為の報道をしないことは悲しいことです。

 今回、尖閣問題が表に出て国民の意識が変わってきたことは良いことだと思います。

 国境防衛の領域警備法についてですが、海上保安庁の仕事ではなく、海上自衛隊にシフトするべきだと思います。
国を守る自衛なのですから、自衛隊の本来の仕事だと思います。

 これで、自衛隊は軍隊だからと反対する人は「奴隷の平和」に甘んずることを良しとする人でしょうが、私は戦うことを望みます。

『GHQ焚書図書開封 4』の刊行(七)

 新保祐司氏は拙著について二つの論評を書いて下さった。ひとつは保田與重郎を論じるのが主であった、産経新聞コラム「正論」(2010・10・25)の記事で、前回すでに紹介した。

 次は月刊誌『正論』(12月号)の書評欄の書評対象としてである。以下に掲示させていたゞく。恐らくこちらを先にお書きになったのではないかと思う。

GHQ焚書図書開封4 「国体」論と現代 GHQ焚書図書開封4 「国体」論と現代
(2010/07/27)
西尾 幹二

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戦前を「上手に思い出す」ことの実践

 二年前の6月に刊行が始まったシリーズの四巻目である。今回は、「国体」論関係の著作がとりあげられている。『皇室と日本精神』(辻善之助)、『國體の本義』(山田孝雄)、『國體の本義』(文部省編)、国家主義者・田中智学の著作、『国體眞義』(白鳥庫吉)、『大義』(杉本五郎中佐)といった「焚書図書」が、「開封」されている。

 シリーズの第一作で、著者は「自分を取り戻すために、目の前から消されてしまった本を取り戻すことから始めなければならないのだと私は考えて、この仕事に起ち上がりました」とその決意を語っているが、このシリーズ四巻目の「国体」論の「開封」は、日本人が「自分を取り戻すために」最も必要なものであろう。

 というのは、この戦前の「国体」論は、戦後の、そして今日の「保守思想」の盲点となっているからである。

 著者は、「戦前に生まれ、戦後に通用してきた保守思想家の多く」の弱点を鋭く指摘している。彼らは、「とかくに戦後的生き方を批判し、否定してきた。しかし案外、戦後的価値観で戦後を批評する域を出ていない例が多い。戦前の日本に立ち還っていない」からである。

 ヨーロッパの保守思想を使っての「戦後民主主義」批判は、よく見られるものであるし、また、日本の思想家でも、福田恆存は援用されることが多いが、保田與重郎はあまり理解されていないといった現状にもそれはうかがわれるであろう。今年、生誕百年の保田のとりあげられ方の淋しさは、「戦前の日本」にしっかりと「立ち還」ろうとする日本人がいかに少ないかを象徴している。「戦後的価値観で戦後を批評する域を出ていない」保守の言論は、精神の垂直性を持っておらず、結局空虚なのである。

 しかし、本書の最もクリティカルな点は、とりあげた「国体」論のある種のものに、著者が実に手厳しい批判を浴びせているところである。例えば、田中智学の著作や文部省の方の『國體の本義』などに対してである。

 「戦前が正しくて戦後が間違っているというようなことでは決してない。その逆も同様である」といい、「戦前のものでも間違っているものは間違っている。戦後的なものでも良いものは良い。当然である」と力強く断言している。

 「戦前」にしろ、「戦後」にしろ、それらを原理主義者のようにとりあげる偏狭さから、著者はその鋭い「批評精神」によって、きわめて自由である。その自由な思考が、戦前の「国体」論の著作を読むにあたり、生き生きと発揮されていて、「戦前」のものを扱う人間の多くが陥りがちな硬直性が感じられないところに、著者の精神の高級さが自ずと発露している。

 戦前の思想のうち、「良い」ものを見抜くこと、これは著者もいう如く「そこが難しい」。しかし、この「難し」さを自覚しながら「国体」を探求するときにのみ、真の「国体」は顕現するであろう。

 

文芸批評家 新保祐司

『GHQ焚書図書開封 4』の刊行(六)

産経新聞【正論】欄2010.10.25 より

文芸批評家、都留文科大学教授・新保祐司

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 ■ 戦前の地下水を汲み保守再生を

 現今の政権がもたらしている亡国的危機の最中にあって、心ある日本人は「保守の再生」ということを考えているに違いない。

 だが、問題は「保守の再生」という言葉が何を意味しているか、である。「保守」とは何か、何を「守り保つ」のか、「再生」とは何か、といった点がどうも明確にされていないように感じられる。人により、使われる場所によって内容が違っているのであり、それがこの言葉を掛け声だけのスローガンのように響かせている。

 今日の日本人が本来の日本人に「再生」するために必要なものについて重要なヒントを与えてくれるのが、この7月に出版された西尾幹二氏の『GHQ焚書図書開封4-「国体」論と現代』だ。
 2年前の6月にスタートしたシリーズの4巻目で、敗戦後、占領軍によって「焚書」された七千数百点の著作の中から順次、選び出して「開封」し論じている。

 ≪≪≪戦後価値観での批判は限界≫≫≫

 『皇室と日本精神』(辻善之助)、『国体の本義』(山田孝雄)、『国体真義』(白鳥庫吉)、『大義』(杉本五郎中佐)などの著作をとりあげた4巻で、氏は、戦後の、そして今日の「保守」の盲点を鋭く衝いて、「戦前に生まれ、戦後に通用してきた保守思想家の多くは、とかくに戦後的な生き方を批判し、否定してきた。しかし案外、戦後的価値観で戦後を批評する域を出ていない例が多い。戦前に立ち還っていない」と書いている。

 これは、保守思想を考える際の頂門の一針ともいうべき指摘であり、「保守の再生」というものも、戦後の保守政治の「再生」ぐらいにとどまっていては仕方がないということである。

 「戦前に立ち還」ることが戦前の思想のすべてを無差別に正しいとすることではないという点は、氏も明言しているところだ。それは「復古」にすぎない。「再生」としての「戦前に立ち還」るということは、戦前と戦後を貫いて日本人の精神に流れているものを回想し自覚することである。

 日本人の精神の中で、戦前と戦後が余りにも激しく分断されすぎた。確かに氏もいうように「戦前のものでも間違っているものは間違っている」。小林秀雄的にいえば、戦前を「上手に思い出す」ことが必要で、それが真に「戦前に立ち還」ることに他ならない。

 「戦後的価値観で戦後を批評する域を出ていない」保守思想が唱える「保守の再生」では、本来の日本人の「再生」にはつながらないであろう。そして、日本人が本来の日本人にならなければ、日本は本来の日本にはならない。福沢諭吉が「一身独立して一国独立す」といった通りだ。国防論議が熱してくるであろう今後、この順序を心に銘記すべきである。

 ≪≪≪保田與重郎再評価を一歩に≫≫≫

 このように、今必要な「戦前に立ち還」ることのひとつとしてとりあげるべきは、保田與重郎の著作であろう。保田は、今年生誕百年であるが、余り問題とされていないようである。戦前、日本浪曼派の中心人物として活躍し、『日本の橋』『後鳥羽院』『万葉集の精神』などの名作を刊行したものの、戦後、一転してジャーナリズムから追放された。この稀有な文人の著作は、GHQによってというよりも日本人そのものによって「焚書」されたといっていい。

 その後、心ある日本人によって「再生」されたが、保田がどのようにとらえられてきたかは、生誕百年を記念して出版された『私の保田與重郎』という本によってうかがうことができる。

 これまで刊行された保田の全集の月報や文庫の解説に書かれた、172名の諸家の文章を集めたものであるが、これを読んで心に残った表現のひとつは、倫理学者の勝部真長氏の「地下水を汲み上げる人」というものであった。

 ≪≪≪まず、日本人たるべし≫≫≫
 
 勝部氏は保田のことを「歴史の地下水を汲み上げる人」と呼び、「地下水にまで届くパイプを、誰もが持ちあはせてゐるわけではない。保田與重郎といふ天才にして始めて、歴史の地下水を掘り当て、汲み上げ、こんこんと汲めども尽きぬ、清冽な真水を、次から次へと汲みだして、われわれの前に差し出されたのである」と評している。
 
 「保守の再生」への国民的精神運動に、保守思想家が貢献できるのは、戦前の「地下水」の中から「清冽な真水」を「掘り当て、汲み上げ」ることに他ならない。現在では、保田自身が「歴史の地下水」になっている。保田の著作から日本の歴史の高貴さを汲み出して、魂の飢渇に苦しむ今日の日本人に「一杯の水」として差し出すことは、大切な仕事であろう。
 
 保田は戦後の著作『述史新論』の中で「我々は人間である以前に日本人である」と書いた。「日本人である以前に人間である」という、戦後民主主義の通念の中で生きてきた日本人は、「人間である以前」の日本人という精神の堅固な岩盤を掘り当てなければならない。そこから「保守の再生」は始まるのである。(しんぽ ゆうじ)

中国人相手の反論力

ゲストエッセイ 

      坦々塾会員 大石 朋子

 最近、特に駅の表示やトイレの表示に中国語やハングルが目立つのが不愉快。ここは日本だ。

 たまに、外食をすると聞こえてくるのは、日本人の数倍の大きな声で話をする中朝の人々。
これが、「立場が逆なら灰皿で頭を殴られるんだよな」と以前中国で起きた事件を思い出しました。

 最近特に外国人登録者数の増加が著しい江東区では、身近なところで「日本人より中国人が偉いんだ」という声を聞くのですが、我が家では「とりあえず日本人が中国に密入国するようになったら、中国が日本より凄いんだと認めましょう」
と答えるようにしています。

 日本に来て、自分達が偉いと勘違いしている中国人に、媚び諂う日本人も情けないのですが、よく「中国人の自慢話には辟易する」と言う話を聞くのです。

 私は何故反論しないのか不思議でなりませんでしたが、日本人の不勉強さと誤解が大きな問題であると思いました。

 ある日、産経新聞の集金に中国人が来て、我が家の玄関の本棚にある中国問題、南京問題、尖閣問題の本の背表紙を見て、突然「日本人は昔わるいことした、だから謝らなくてはならない…」と始めたので、さぁ大変。
 彼は私に捕まり一時間以上、ディベートに付き合わされました。
その中国人は、二度と我が家に集金には来ません。

 元台湾人の私の友人からも、中国の高層ビルはエレベーターが少ないため、上層階に行くには時間が掛かるので上層階は空室が多いという話を聞いていましたので、「中国は日本より高いビルが沢山ある」という自慢話にも反論できました。

 A(匿名)の仲間に、中国人を連れてきた人が居て、その中国人が、「中国はいい国だが、日本は酷い国だ」と言うので、Aは「じゃぁ『いい国の中国』に帰れば。」と言うと「お金が無いから。」それに対しAは「『公的機関で帰国費用を一時立て替えてくれるところがあるので、教えようか?』と言ったら、次からは来なくなった。」と言っていました。

 何れにせよ、この反論力を日本国民が持ち始めたことは喜ばしいことですが、政治家が、マスコミが、この反論力を持っていないのか、使おうとしないのかが悲しいと共に、何か弱みを握られているのではないかと勘ぐってしまうのです。

 日本人は、沈黙を良という民族です。この問題が起きたとき「沈黙は時として悪である」と私はメールで流しました。この沈黙が相手を増長させたのであるのなら、日本側にも非があるのだと思います。

 今回のこの尖閣問題は、長年沈黙し後回しにしてきたつけです。

 国際政治学者の殿岡昭郎さんの「尖閣諸島『灯台物語』」(高木書房)をお薦めします。
今年の六月に殿岡さんからこの本をいただいて読みましたが、民間人がここまで頑張ってきたことを、マスコミは正義として報じず、政府は右翼のやったこととして揉み消し妨害したことに、知れば知るほど涙が出ました。

 フォークランド紛争に多額の予算を割いたのは何故か。

 排他的経済水域の重要性を、日本の漁民たちはやっと気付き始めました。

 政治家は何時気が付くのでしょうか。

坦々塾報告(第十八回)報告(一)

 6月5日(土)に第18回坦々塾が開かれました。報告が遅れましたことをお詫びします。

 この日は次のようなプログラムでした。

 浅野正美氏 諏訪大社の古代信仰
 西尾幹二  仲小路彰の世界
 若狭和明氏(外部講師) 日本人が歴史から学ぶべきこと

 坦々塾のメンバーのお一人である浅野氏のご講話の内容は、浅野氏ご自身が要約文にまとめましたので、以下に報告していただきます。

 長野県諏訪地方は本州のほぼ中央、太平洋からも日本海からも一番遠い山間の狭小な盆地である。諏訪大社には上社と下社があり、さらに上社は本宮・前宮、下社は春宮・秋宮が鎮座する二社四座という独自な構成になっている。上下とあるが二社四座に社格における序列、上下関係はない。現在諏訪神社は全国に5,000社以上あるといわれているが、四社すべてがその5総本山ということができる。現在一般的には、上社が男神、下社がその妃神、女神と伝えられているが、これは後年の創作と思われる。下社では毎年2月1日と8月の1日に、御神霊の遷座祭を執り行う。2月から7月までは里宮である春宮で五穀の豊穣を見守り、8月から1月までは山宮である秋宮にお帰りになる。
春宮が立地する場所は、下社の信仰圏である諏訪湖北部の沖積台地、いわゆる扇状地の最上部にあたり、その平野を作り出している砥川(とがわ)のほとり、ちょうど山と平地の境目に位置する。さらにこの川は霧ヶ峰高原の西端に源流を発し、そこには下社の奥宮が祭られていることから、下社は水と農業を主体とした祭祀と考えて間違いないと思う。

 上社には前宮と本宮があるが、この二社の性格は下社とは違って、半年ごとの遷座祭は行われない。大まかにいってしまうと前宮が土着諏訪信仰の聖地、本宮が大和朝廷によって秩序付けられた諏訪信仰と考えられている。今日お話しする内容は、この上社前宮のことが中心となる。
 
 古代信仰を研究する人の間で「諏訪がわかれば日本がわかる」ということがいわれている。これは古代諏訪がある種のアジール(守護聖地)として、中央の統制に組み込まれない独自の祭祀を維持していたのではないかと考えられているためで、それが解明されることで古代日本の正史には残らなかったある一つの姿を解明できると考えられているからである。閉じられた空間の中で独自に進化することを一般的にガラパゴス現象ということがあるが、古代から中世の諏訪がまさにそうした状態にあったのではないかと考えられている。一例を挙げると、諏訪には長い間仏教が入った形跡がなく、確認されている最古の仏教寺院は西暦1293年と極めて新しい。文書、考古学的発掘によっても、これをさかのぼる年代に仏教が普及していたことを示すものはまだ見つかっていない。7世紀以降、我が国は朝廷が中心となって熱狂的ともいえる情熱をもって仏教を受け容れて来たが、そうした時代にも諏訪は頑なに仏教を拒み、古代信仰と共に生きていたと考えられている。

 もう一つ不思議なことは、712年の古事記編纂から程ない721年、元正天皇の時代に諏訪は信濃から独立して一国の地位を与えられている。強大な信仰圏と、それがもたらす潤沢な経済的基盤があったために一国として充分成り立つと中央が認めたのではないかと考察する学者もいるが、10年後の731年、聖武天皇の時代に信濃に戻されている。

 諏訪を巡る動きを時系列に追ってみると、西暦685年、天武天皇は諏訪の近くに行宮を作らせている。天武天皇は翌年崩御されたので、実際に天皇が行幸されることはなかったと思うが、勅使の派遣はあったのではないか。691年、持統天皇は都で諏訪の神を10数度祀らせている。702年、文武天皇のもと吉蘇路(後の中山道木曽路・現国道19号線)が着工され、713年に開通。この開通によって都と諏訪の旅程が短くなった。そしてつかの間の諏訪の独立と再併合となる。朝廷にも強く諏訪を意識せざるを得ない何らかの要因があったとみてよい。8世紀半ばの国家プロジェクトというと国分寺の建立があげられる。741年3月、聖武天皇によって号令されたが、そのことと信濃への再併合は何か関係があるのではないか、という指摘もなされている。例えば、一国である以上その国には国分寺を建立する必要があったが、諏訪はそれを拒んで信濃に再編入される道を選んだか、諏訪という小国では国分寺の建立費用をまかなえなかったのではないか、ということが考えられる。

 いずれにせよ諏訪では650年以上にわたる仏教の空白期間があったといってよい。13世紀以降は諏訪も仏教を盛んに取り入れ、本地垂迹、神仏習合も抵抗なく受け容れていった。

 諏訪の名が中央の歴史に登場するのは古事記における「出雲の国譲り」の場面である。オオクニヌシの息子であるタケミナカタは、アマテラスの使いであるタケミカズチ(鹿島神宮の御祭神)との戦に破れて諏訪まで逃げのびる。ここで国土の譲渡と今後諏訪から一切出ないことを条件に命を助けられる。

 1356年、室町初期に「諏訪大明神画詞」(以降画詞)が編纂された。諏訪の風土記のようなもので、小坂円忠という足利尊氏に右筆として仕えた武士が、古老からの聞き取りや言い伝え、古典に登場する諏訪信仰などを収集して、12巻の絵巻物としてまとめられた。原本は紛失しており、文章だけを写した写本が13種類残っている。各巻の外題には後光厳天皇から御宸筆をいただき、尊氏も奥書に署名をしたといわれる。原稿は円忠本人が書き、絵師は本願寺にも作品の残る大和絵の巨匠5人が描き、書も当代一流の能筆家が当たった。

 この画詞ではタケミナカタを迎え入れた諏訪の視点から、この時の様子を描写している。出雲族を迎え入れた諏訪には、洩矢の神という土着の豪族がいてミシャグチ様を信仰する強固な信仰圏を形成していた。洩矢の神とは神様ではなく、神様を祀る神官である。このミシャグチという言葉、いまではその意味も神を表す固有名詞なのか、信仰の形態を表す抽象概念なのかまったくわからなくなってしまった。ミシャグチを祀る神社は諏訪だけでなく、丹念に調査した人の資料によると、長野675、静岡233、愛知229、山梨160、三重140、岐阜16、に分布するという。ある郷土史家は、明治の神道統合の際にいわれのはっきりしない神様の多くが、淫祠、邪神として排除され、整理統合されていく中で、ミシャグチ様もその一つとして扱われたのではないかと推理している。多くの祠は別の神様をお祀りし直したり、取り壊されたり、あるいは統合される中で、いわれはわからないながら、何となく昔から共同体の中で大切にされてきた、というただそのことだけで、現在まで少なからぬミシャグチ様をお祀りした祠が残ったのではないかというのである。

 現在のミシャグチ様に対する共通理解は、地母神ではないかといわれている。動物、植物、さらには人間をも無限に生み出してくれる地の母の神。それがミシャグチではないか。縄文時代の土偶には、妊婦を連想させる姿のものが諏訪からも多く発掘されているが、こうした受胎崇拝のような感情が基層にあると考えられる。

 画詞によると出雲における国譲りの抗争が、諏訪の地においても立場を入れ替えて繰り返されている。洩矢の神にとって出雲族は侵略者になるため、進入を食い止めるために武力衝突があったが、ここでは諏訪が敗れる。「画詞」の描写では、洩矢の神を賊臣(ぞくしん)と書いているが、これはこの本の作者小坂円忠が将軍尊氏に直接仕えるほどの地位にあったため、大和朝廷の縁起書でもある「古事記」に、あるいは体制に敬意を表する必要から、敢えてこうした表現を用いたのではないかと私は考えている。諏訪はかつて鎌倉幕府に忠誠を誓っており、執権北条が足利、新田勢によって滅ぼされたときには運命を共にしている。このように鎌倉と深い関係にありながら諏訪出身の我が身を取り立ててくれた尊氏に対して、円忠は深い恩義を感じ、またその微妙な立場故のバランス感覚も必要とされていたのではないかと思う。

 戦いが終わった後、戦後の和平交渉が話し合われ、そこで今後諏訪の地をどのように統治していくかという話し合いが行われ、両者による妥協が成立する。タケミナカタは、自らが天孫族に助けられたように、諏訪の洩矢の神を滅ぼすことなく共存の道を選んだ。

 神権政治の時代にあっては、祭祀権を持つ者が同時に地勢権も握っていたが、タケミナカタはこれを譲り受けるかわりに、洩矢の神は祀られ崇められる存在である神(タケミナカタ)の末裔に神霊を付与する、いわゆるシャーマンとしての役割を手に入れる。このシャーマンのことを諏訪では神長官と呼ぶ。神長官と書くが、官は発音せず神長と発音する。

 そして洩矢の神の子孫である守矢家が代々その役割を受け継いできた。タケミナカタの末裔は代々諏訪神社の大祝(おおほおり)を継いで行くことになる。大祝というのは、一般的には神職(神主)の最高位を示すが、諏訪では神職ではなく現人神を意味し、極限的な王朝が確立していたといってよい。諏訪以外で大祝の制度があった神社には伊予の三島神社があり、ここでも江戸時代まで大祝は神として崇められていた。

 神職はどこまでも人間であるのに対して、大祝はある手続きを経ることによって神、あるいは神の依代になるということである。かつての諏訪にはもう一つの天皇制度(諏訪朝廷)が続いていたということもできる。天皇は皇位継承において大嘗祭を行なうことで践楚が完成するが、諏訪の大祝は神長官から神霊を付与されることによって始めて神格を得ることができ、祀られる存在、生き神となる。神降ろしの秘術は一子相伝による口伝、親から子への口伝えで伝えられたため、文字としては残されなかった。明治維新の廃仏毀釈と神道の統制によって、諏訪の神長官制度は廃絶しこうした神降ろしの秘術も維新と共に消滅した。前回の勉強会で西尾先生がお話しになったように、神話に基づいた絶対皇国史観によって新たに国を束ねていこうという明治政府にとって、わが国に正統ではない現人神が存在するということは絶対に許すことができなかったであろう。守矢家は今も存続し、かつて神長官屋敷のあった場所には今もミシャグチ様の総社が鎮座しています。

 宮中の大嘗祭に相当するミシャグチ降ろしの秘技は、大祝となる人物の22日間に渡る潔斎の後、前宮にある柊(ヒイラギ)に神霊が降臨し、その神霊が柊の根元にある巨石に滑り降りたところで、大祝となるべき人物がその石の上に立ち、神長官の祝詞によって神霊を乗り移されて正式に大祝が誕生するといった儀式を行っていたといわれている。

 ここで興味深いのは、タケミナカタは諏訪の神との戦いには勝ちますが、洩矢の神と妥協をすることによって、タケミナカタの子孫が正当なる大祝に即位するための神霊降ろしにおいて、古代諏訪信仰の神霊であるミシャグチ様を降ろされていた可能性があるということである。反対側の視点から見ると、洩矢の神は戦いには敗れたが、諏訪の信仰の正統性を維持することには成功したということがいえるのである。これは、戦には敗れても交渉には勝つという大変高度な外交交渉を展開したといえる。国土を失ったように見せかけながら、古くから崇めてきた諏訪の神であるミシャグチ様にはついては、ほとんど失うものがなかった。タケミナカタはオオクニヌシという我が国の名門中の名門の家系を継承し、諏訪の地においては大祝という祭祀王として代々君臨しますが、信仰の基層においては諏訪信仰のミシャグチ様をまとっている。このトリックのような構造を編み出して、諏訪の古代信仰はその後も継承されていくことになった。

 さて、古代諏訪信仰には重要な祭祀が二つあった。一つは御室神事(みむろしんじ)と呼ばれるもので、もう一つは大立座神事(おたてまししんじ)と呼ばれるものである。二つの祭祀は繋がった一つのお祭りと考えることもできる。御室神事は、旧暦12月22日、上社前宮境内に穴(この穴が御室)を掘り、そこに8歳の子供六人と大祝、神長官が籠もる。6人の意味は、3人がメインで残りの3人はサブであったという。

 この御室の中でどのような秘技が行われていたのか、一部は文章が残っているが、ほとんど何も解っていない。画詞には「神代童体故ある事なり」「其儀式恐れあるによりて是を委しくせず、冬は穴にすみける神代の昔は誠にかくこそありけめ」とあり、こうした言葉から、この子どもたちは最後には人柱となって神に献げられたのではないかと空想する人もいる。

 この御室にこもった6人の子供達は、神の依代として、大祝の分身として神長官から神霊降ろしを受けていた。何日にもわたる秘技を受けた後に神霊を降ろされた子どもたちは、ミシャグチ様の分身として地上に姿を現す。

 それが旧暦3月酉の日であった。上社前宮境内にある十間廊(じっけんろう)という吹きさらしの建物において大御座神事(おたてまししんじ)が執り行われた。御室に籠もった子供はこの時すでに神霊降ろしを受けて、大祝と同じ神霊を身にまとっている。現人神の分身といってよい。

 大御座神事は諏訪神社の数ある例祭でも(年間70を越えるお祭りがあった)最も大切な神事とされており、膨大な費用をかけて行われた。地元で調達できるものとしては、鹿の生肉、鹿肉のミンチと脳みその和え物、フナ、鹿の頭75頭、ウサギの串刺し。アワビなど海産物もたくさんあったが、塩付けにして何日もかけ運んだのであろう。

 画詞にはこのときの様子を「禽獣の高盛 魚類の調味美をつくす」と表現しているが、はっきりと狩猟文化の痕跡が伺える。

 仏教の影響で殺生が禁じられていた時代にも、諏訪神社が発行する鹿喰免(かじきめん)のお札をもっていれば肉食が許されていた。全国を回ってこのお札を売っており、このお札は諏訪神社の経済的基盤にもなっていたと思われる。
 
 生神となった8歳の子どもたちは、神使(おこう)と呼ばれました。神使は馬に乗ってそれぞれの分担する地区を回り、ミシャグチ様の神霊を大地に降り注ぎ、大地に活力を与え、五穀の豊穣を祈って回った。その時ならした鈴が「さなぎの鈴」で、この行事のことを「湛えの神事」とよんでいた。湛えにはさんずいの漢字が当てられているので、農地に豊富な水をもたらすための儀式であったのか、神の降臨を称えたのか、、あるいはその両方だったと思われる。

 神使の分担は、内県、小県(おあがた)、外県の三地区に分かれており、ここがかつての諏訪神社の勢力圏と一致するのではないかと思う。神使は、御室に籠もってから一年間、このたたえ神事をはじめとしていくつかの神事を務めなくてはならなかった。次の年の御室神事に新しい子供が任命されるとお役ご免となるが、この後この子供達は帰って来なかったともいわれている。これが人柱説の根拠となっている。

 大祝や神使のように、諏訪では人間に神霊を憑依(依り付かせる)させることで、信仰を成り立たせて来た。「我に別躰(てい)なし 祝を以て御躰(てい)となすべし。我を拝むと欲せば須く祝を見るべし。」これは諏訪明神が大祝の口を通して発したといわれている神勅だが、諏訪信仰の特質はまさにここにあるのではないかと思う。

 これは余談ながら、織田信長は既存宗教を弾圧したが、戦国時代の1582年武田勝頼を追って諏訪まで攻め込み、上社本宮の社殿も焼き討ちにしている。実際に火をつけたのは息子信忠だが、このときの様子を信長公記はこう記している。

 「3月3日中将信忠卿 上の諏訪に至って御馬を立てられ所々御放火 そもそも当社諏訪大明神は日本無双の霊験、殊勝七不思議の神秘の明神なり。神殿をはじめ奉り諸伽藍ことごとく一時の煙となされ 御威光是非なき題目なり。」

 信長が本能寺で亡くなるのは上社焼き討ちの三ヶ月後の6月2日であった。この時、明智光秀も諏訪に同行していた。

 諏訪信仰はタケミナカタの諏訪入りと戦国の混乱という二度の危機に見舞われたが、幸運なことにどちらにおいても信仰の基盤を失うことはなかった。そして、明治維新という我が国が近代国家として西欧と対峙せざるを得なくなったときに、この我が国でも特異な神長官と大祝によるミシャグチ信仰という形態は滅んだ。それは日本という国が、国際社会の荒波の中に否応なく叩き込まれ、小国といえどもこれに対して一歩も引かずに挑んで行くためにはやむを得ない面もあったのではないかと思われる。大東亜100年の戦いの中で、諏訪神社は、信濃の國一之官、官弊大社、日本第一軍神として崇められ、全国から大きな崇敬を受けた。これは古事記においてタケミナカタが最後まで天孫族に抵抗したレジスタンスとしての精神を高く評価されたためであると思う。

 現在では地元でもこうした故事を知る人も少なくなったが、御柱の熱狂を見てもわかるように、神社と氏子は変わらずに強い絆で結ばれている。諏訪の地は6市町村に人口20万人という小さな共同体であり、自らを自称するときに諏訪人というように、諏訪大社の氏子であることに大きな誇りを持っている。御柱における団結を見ると、諏訪という地域が強固な連帯意識で結ばれた祭祀共同体とでも言うべき文化圏を形成しているのではないかと思われるが、実は大変に地域エゴの強固な地域でもあり、先の平成の大合併においても諏訪の6市町村はどれ一つ合併することがなかった。「諏訪を一つに」というスローガンは数十年前から唱えられながら、現実可能性はまったくない。根底にはそれぞれの自治体の経済問題がある。八ヶ岳の裾野に広い農地をもつ町や村は住民も自治体も相対的に恵まれており、貧しい市との合併に難色を示している。これを湖周文化と山浦文化の軋轢と見る人もいる。ユーロ問題の地方版のようだが、ギリシャの悲劇やドイツの苦悩を見ると、理念や夢だけでは現実は運ばないということを強く感じている。

文:浅野正美