アメリカの脱領土的システム支配・講演会開催のお知らせ

「個人主義と日本人の価値観」講演会開催のお知らせ

   西尾幹二先生講演会

「個人主義と日本人の価値観」

〈西尾幹二全集〉第1巻『ヨーロッパの個人主義』(1月24日発売)刊行を記念して、講演会を下記の通り開催致します。

 ぜひお誘いあわせの上、ご参加ください。

★西尾幹二先生講演会

    「個人主義と日本人の価値観」

【日時】  2012年2月4日(土曜日)

  開場: 13:30 開演 14:00
    ※終演は、16:00を予定しております。

【場所】 星陵会館ホール

【入場料】 1,000円

※予約なしでもご入場頂けますが、会場整理の都合上、事前にお知らせ頂けますと幸いです。

★講演会終演後、<立食パーティ>がございます。

【場所】 星陵会館 シーボニア 

※ 16:30~(18:30終了予定)

【参加費】 6,000円

※<立食パーティー>は予約が必要となります。1月24日までにお申し込みください。
ご予約・お問い合わせは下記までお願いします。予約時には、氏名・ご連絡先をお知らせください。

・国書刊行会 営業部 

   TEL:03-5970-7421 FAX:03-5970-7427

   E-mail:sales@kokusho.co.jp

・坦々塾事務局   

   FAX:03-3684-7243

   tanntannjyuku@mail.goo.ne.jp
星陵会館(ホール・シーボニア)へのアクセス
〒100-0014 東京都千代田区永田町2-16-2
TEL 03(3581)5650 FAX 03(3581)1960

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※駐車場はございませんので、公共交通機関にてお越し下さい。)

主催:国書刊行会・坦々塾

後援:月刊WiLL

謹賀新年(平成24年)

 喪中につき年末年始の挨拶を遠慮するという恒例の葉書の知らせは昨年末、数えてみたら62通あった。多いか少ないか分らない。毎年これくらい来ているとは思うが、毎年は数えていないので判断できない。たゞ今度気づいたのは長寿でお亡くなりになった方がきわめて多いことだった。90歳より以上の方が22人もいる。100歳以上で逝去された方が4人もおられた。私は自分がだんだん齢を重ねてきたので、死者の年齢も次第にあがって来たのだと思うが、たゞそれだけではない。一般に長生きが普通になったのである。

 天皇陛下がご高齢になられたとの声をテレビでしきりに耳にする昨今である。陛下は私とはわずか1.5歳くらいの年差であられる。私も「ご高齢」になったのだとテレビでいわれているようで奇妙な気がしてくる。

 陛下はまだまだご丈夫だと思う。被災地をご訪問になり、避難所の床にお膝をついて話をなさるシーンを何度も目にした。膝をついて坐れば、膝を起こして立たなければならない。立ったり坐ったりするのは容易ではない。陛下は鍛錬なさっている。私はそう直感した。私なんかより足腰はしっかりしておられ、きっとお強いのだ。まだまだ大丈夫である。

 私は昨年全集の刊行開始、相次ぐ雑誌論文、単行本三冊の出版で年齢にしてはやり過ぎである。私より高齢で多産な人もいるから、音を上げてはいけないが、10~11月ごろに少しばて気味だったことは間違いない。むかし手術を受けたところの古傷がいたんで、すわ再発かと恐れたが、要するに疲労とストレスが貯まった一時的な結果だった。仕事量を減らさなくてはいけない。

 昨年私はニーチェと原発と日米戦争に明け暮れたが、今年はどうなるだろう。今年は全集を4巻出し、次の年の4巻の準備をしなくてはならない。そして夏ごろスタート予定で『正論』に長編連載を開始する約束になっている。小さな論文とか新しい単行本の企画とかは慎まなくてはならない。それがいいことかどうかは分らないのだが・・・・・・。

 自分の肉体がだんだん衰徴していくのは避けがたいが、それにも拘わらず、行方も知れない日本の運命への不安がますます募るようで、私の心理的ストレスは高まりこそすれ鎮まることはないだろう。中国に対する軍事的警戒とアメリカに対する金融的警戒はどちらも同じくらい必要で、どちらか一方に傾くというわけにはいかない。前者を防ぐためにアメリカの力を借りれば、後者から身を守るすべが日本にはない。

 先の戦争が終ったころ、米国務長官アチソンがフィリピン、沖縄、日本、アリューシャン列島のラインをアメリカが責任をもつ防衛範囲であると明言し、それ以外の所は責任を持たないと言ったために、金日成が南朝鮮を安んじて侵攻した、という歴史がある。アメリカが最近海兵隊をオーストラリアに移動させたことをもって、アメリカの対中防衛網の強化だと歓迎する人が多く、そういう一面は私も否定しないが、しかし考えようによってはアチソン・ラインが南に下げられ、日本列島はラインの外に出されてしまった、という見方もないわけではないのである。

 大震災が起こったとき、アメリカ艦隊が大挙して救援に来た。例の「オトモダチ作戦」は善意と友情の行動という一面もあるが、日本列島がかっての「南ベトナム」「南鮮」のような保護対象としての主権喪失国家のひとつと見られた事実も間違いなくあるのである。少くとも今、日本列島はアメリカ合衆国の国境線になっている。かつての満洲北辺が大日本帝国の国境線であったのと同じような意味においてである。

 東シナ海、日本海近辺には石油・天然ガスが大量に眠っており、その総量はサウジアラビアを凌駕するという説がある。これは日本人にとって悪夢である。中国が狙うだけではない。アメリカも狙っているからだ。アメリカはこれを奪うために日中間の戦争が起こるように誘導するかもしれない。世界経済が完全に行き詰まった後、何が起こるか分らない。

 ジョゼフ・ナイの「対日超党派報告書」というのがある。ごらんいたゞきたい。

 http://www.asyura2.com/09/senkyo57/msg/559.html 

 わが日本列島はこの200年間、運命に対し受身であるほかなかった。日本の行動はすべて受身の状態を打開するためで、悲しい哉、自らの理念で地球全体を経営しようと企てたことはない。外からの挑戦につねに応答してきただけである。これからも恐らくその宿命を超えることはできないだろう。

 昨年末に次の本を校了とし、出版を待つばかりとなった。表紙もできあがったのでお目にかける。

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 前にご紹介した担当編集者の作成メッセージをもう一度お届けする。

天皇と原爆

強烈な選民思想で国を束ねる
「つくられた」国家と、
世界の諸文明伝播の終着点に
「生まれた」おおらかな清明心の国。

それはまったく異質な
二つの「神の国」の
激突だった――。

真珠湾での開戦から70年。

なぜ、あれほどアメリカは
日本を戦争へと
おびき出したかったのか?

あの日米戦争の淵源を
世界史の「宿命」の中に
長大なスケールでたどりきる、
精細かつ果敢な
複眼的歴史論考

店頭に出ている雑誌

 ちょうど今店頭に出ている雑誌とこれから間もなく出る雑誌に、次のような私の関連記事が相次いで載っていますので、ご報告します。

 『SAPIO』2011.12.28(NO19)日米開戦70年目の真実――米国が戦後「GHQ焚書図書」指定し歴史の闇に葬った「不都合な真実」を開封する、という趣旨の論文です。

 『歴史通』2012.1月号 高山正之氏との対談「アメリカの野望――米西戦争からTPPまで」――これはかなり大型の対談です。私の発言分には、スペイン帝国からオランダ、イギリス、アメリカへと覇権が移り変わる略奪資本主義の歴史の展開を見据えて、1973年の石油危機から最近の金融危機にいたる諸問題を射程に入れた新しい観点を提出し、単なる日米開戦回顧ではなく、今まで私が言っていない歴史の見方を打ち出しているつもりです。

 『前夜』2011年12月25日創刊号(小林よしのり責任編集の新しい雑誌・幻冬舎刊)原発は戦後平和主義のシンボルだった、――小林氏の新しい企てに協賛して20枚書き下ろし論文を寄稿しました。

 『WiLL』2012年2月号(12月26日発売)特集・日本、これからの10年!「擬似保守」は消えてなくなる――保守の10年後はどうなるのかの問いに答えた10枚のエッセーです。日本は過去も今も保守はなく、大切なのは愛国の熱情だけで、単なる「親米反共」といった冷戦思考ではもう時代は乗り切れないことを訴えました。

日本文化チャンネル桜 本日(土)の放送は以下の通り。

番組名 :「闘論!倒論!討論!2011 日本よ、今・・・」

テーマ :一体、日本をどうする!?大東亜戦争開戦70年記念大討論

放送日 :平成23年12月10日(土曜日)20:00~23:00)
     日本文化チャンネル桜(スカパー!217チャンネル)
     インターネット放送So-TV

パネリスト:50音順敬称略
     荒谷 卓(元陸上自衛隊特殊作戦群初代群長)
     上島嘉郎(別冊「正論」編集長)
     田久保忠衛(杏林大学名誉教授)
     西尾幹二(評論家)
     西部 邁(評論家)
     藤井 聡(京都大学大学院教授)
     宮脇淳子(東洋史家・学術博士)

司会  :水島 総(日本文化チャンネル桜 代表)

宮崎正弘氏から次の書評をいただきました。ありがとうございます。

真珠湾攻撃から70年 開戦記念日に読むべき格好の書籍はこれ!
  米国の反日ルーズベルト政権は、最初から日本をだまし討ちにする積もりだった

  ♪
西尾幹二『GHQ焚書図書開封6 日米開戦前夜』(徳間書店)
@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@

 FDR(フランクリン・ルーズベルト大統領)を「日本を戦争に巻き込むという陰謀を図った狂気の男」とフーバー元大統領が辛辣に批判していた事実が、ようやく明らかになった。
この大統領のメモは米国内で、ながく禁書扱いを受けていたからだ(詳しくは産経12月8日付け紙面)。
 小誌読者の多くには、いまさら多くを語るのは必要がないかもしれないが、大東亜戦争は日本の自衛の戦争であり、米国との決戦は不可避的だった。直前に様々な和平工作がなされたが、それらは結果的に茶番であり、ルーズベルトその人がどんな謀略を行使しても、日本と戦争しなければならないという確固たる信念の持ち主であったから、戦争回避工作には限界が見えていた。

 開戦の報に接して太宰治は短篇「十二月八日」のなかに次のように書いた。
「早朝、布団の中で、朝の支度に気がせきながら、園子(今年六月生まれの女児)に乳をやっていると、どこかのラジオが、はっきり聞こえて来た。
 『大本営陸海軍部発表。帝国陸海軍は今八日未明西太平洋において米英軍と戦闘状態に入れり。』
 しめきった雨戸のすきまから、まっくらな私の部屋に、光の射し込むように鮮やかに聞こえた。二度、朗々と繰り返した。それを、じっと聞いている裡に、私の人間は変わってしまった。強い光線と受けてからだが透明になるような感じ。あるいは、聖霊の息吹を受けて、つめたい花びらをいちまい胸の中に宿したような気持ち。日本も、けさから、ちがう日本になったのだ」

 ほとんどの国民がそういう爽快感を抱いた。後知恵で軍部に騙されたなどとする戦後進歩的文化人の史観は嘘でしかないのだ。

 それにしても、米国はなぜ対日戦争を不可避的と考えたのか。それはマニフェスト・デスティニィにあることを戦前のジャーナリスト、学者、知識人の多くが把握していた。この第六巻では、読売新聞の斎藤忠の著作などを西尾氏は引用されながら、こう総括される。
 「アメリカのこうした信仰は、裏返せば、ナチスとおなじではないでしょうか。アメリカはナチスを憎むといっているけれど、私たち日本人から見れば、ナチスそっくりです。ヒットラーといちばん似ているのは東条英機じゃなくてルーズベルトのほうではないでしょうか」
 その比喩を西尾氏は最近鑑賞された映画『アバター』と結びつける。
 「地球人が機械化部隊でもって宇宙にある星の自然を破壊する。地球人は飛行機で戦い、宇宙人(アバター)は弓矢で迎え撃つ。まさに西部劇そっくりです。西へ西へと向かいアジアを破壊しつづけたアメリカ人の根本の衝動には変わらぬものがあり、彼らの想像力もまたつねに同一です。大事なポイントはその星にすばらしい巨大な樹木があって、その一本の巨木を倒してしまえば宇宙人は全滅してしまうというのがモチーフの中心にあります。つまり、その星のすばらしい樹木はわが国の天皇のようなものなのです」

 ▲日本は最初から最後まで聖戦と貫いた

 西尾さんが本巻に引用された斎藤忠さんは、国際ジャーナリストとして戦後も活躍したが、昭和四十年代にジャパンタイムズの主筆をつとめておられた。背丈こそ低いが古武士のような風格、片方が義眼で伊達政宗風のひとだった。
というのも、じつは評者(宮崎)は品川駅裏にあった同社に氏をよく訪ねて国際情勢の解説を聞いたり、学生の勉強会にも数回、講師として講演をお願いした。その浪花節調の明確で朗々たる講演の素晴らしさに感銘を受けたものだった。あの論客の戦前の作品が復活したことは喜びに堪えない。

 そして西尾氏は、米国の壮大なる徒労をかくまとめられる。
 「アメリカはいったいなぜ、また何のために日本を叩く必要があったのでしょう。戦争が終わってみれば、シナ大陸は毛沢東のものになり、共産化してしまった。アメリカが何のために日本を叩いたのか、まったく分かりません。アメリカのやったことはバカとしかいいようがありません。あの広大なシナ大陸をみすみす敵側陣営(旧東側陣営)に渡す手助けをしたようなもの」で、まことにまことに「愚かだった」のである。

 しかし、この米国の病、まだ直る見込みはなく、ベトナムに介入して、けっきょくベトナムは全体主義政権が確定し、またイラクに介入して、イラクはまもなくシーア派の天下となり、アフガニスタンに介入し、やがてアフガニスタンはタリバンがおさめる「タリバニスタン」となるだろう。愚かである。

 開戦記念日。こういう軍歌が歌われたことを西尾氏は最後のしめくくりに用いられる。
「父よあなたは強かった」の歌詞はつぎのごとし。
 ♪「父よあなたは強かった 兜も焦がす炎熱を 敵の屍と ともに寝て 泥水すすり 草を噛み 荒れた山河を 幾千里 よくこそ撃って 下さった」
 嗚呼、評者も学生時代の仲間と呑む機会には二次会で歌う一曲である。
    △△

黙々と課題を片づける

 日々の課題を黙々と片づける生活がつづいている。気温が下がる時期には体調に変化が生じるので気をつけないといけないと思いつつ、時間をフルタイムに使って生きている。

 今日やった課題が表に出るのは一ヶ月後だったり、一年後だったりするので世間からは私の毎日の暮らしは見えない。最近いいことは早く寝て早く起きるようになったことだ。「夜型」人間であることを止めて久しい。

 『WiLL』12月号(10月26日発売号)だが、「西尾幹二全集 刊行記念 特別対談」と銘打って、遠藤浩一さんとのトーク、題して「私の書くものは全て自己物語です」という10ページ仕立ての対談を出していただく。

 小見出しは下記の通りである。

● 出会いは高校三年生
● 「自由」が与えられた恐怖
● 「比較」には驚きが大事
● 根源的な大江健三郎批判
● 「江戸」がニーチェの続篇?
● 福田恆存からの離反劇
● 三島由紀夫との出会い
● 世界史のなかの日米戦争

 小見出しだけ見ても何のことか分らないだろうが、何となく分るという方もおられるかもしれない。花田編集長曰く「これを読めばきっと全集を買いたくなりますよ」に、私は「え?ホント?」と応じて、半ば期待し、半ば「そんなに甘くないぞ」と思っている。全集は今日(21日)にやっと予約者に配送されだしたようだ。

 次いで『正論』12月号は特集「日米開戦20年と歴史問題」に対応し、「真珠湾攻撃の高い道義」を寄稿した。最初に予定した題「このまゝ『戦後百年』が来ていいのか」は長すぎてダメ、次に考えた「アメリカの敵はイギリスだった」は気を引く題だが、特集に合わない。小島副編集長とあぁでもないこうでもないと話し合って上記にやっと決まった。

 どうだろう?大胆すぎるだろうか?否、ちっとも驚かない、もうここいらで普通並だと思うだろうか。とにかく70年経過して、何をどう言おうともう人に衝撃を与えることはできまい。

 遠藤さんとの先の対談の最後の小見出し「世界史のなかの日米戦争」に関係もあるテーマであり、次の私の仕事の大構想がこれである。生きている間に果たすことができるか。

 それにともかく、徳間のシリーズの⑤はすでに出ているが、11月中に⑥を出して、次のように二冊まとめて世に訴えることになっている。

「パールハーバー70周年記念」
『GHQ焚書図書開封 5――ハワイ・満洲・支那の排日』
『GHQ焚書図書開封 6――日米開戦前夜』

 いま校正ゲラ刷りを見ている最中である。日々の課題を黙々と片づける私の日常生活はこんなふうに続いている。今日は有楽町朝日ホールの「これからの原子力を考える」シンポジウムに行って言うべきことをガンガン言ってきた。保守派で数少ない原発反対の役割は小さくない、と自認している。明日は小石川高校の久し振りの同窓会である。日比谷公園内の松本楼で開かれる。また酒を飲むことになる。

西尾幹二全集刊行記念講演
「ニーチェと学問」
講演者: 西尾幹二
入 場: 無料(整理券も発行しませんので、当日ご来場ください。どなたでも入場できます。)
日 時: 11月19日(土)18時開場 18時30分開演
場 所: 豊島公会堂(電話 3984-7601)
     池袋東口下車 徒歩5分
主 催:(株)国書刊行会
     問い合せ先 電話:03-5970-7421
           FAX:03-5970-7427

西尾幹二全集発刊にからむニュース (5)

 『正論』11月号に「ニーチェ研究と私」が出ている。全集第5巻(第一回)の内容を示唆するだけでなく、ニーチェについて私がした仕事、し残した仕事を整理して述べている。

 『WiLL』12月号のために明日遠藤浩一さんと私の全集発刊の意義をめぐって対談をする。雑誌面で読めるのは今月の末になる。この両雑誌の全面的支援はまことにありがたい。

 全集の新聞広告は10月末に朝日、読売、日経、産経等に出るときいているが、広告のキャプションづくりで国書刊行会の編集部は大変に苦労したようだ。

 やっと決まったというその内容を少し恥しいがご紹介する。

予約受付開始 善著作を収めた初の決定版全集!!

西尾幹二全集  全22巻 年四冊刊行

ニーチェ研究で衝撃デビューを果たし、
近代日本のあり方を深く、多角的に洞察してきた
「知の巨人」西尾幹二の集大成。
ショーペンハウアーや福田恆存の解読も踏まえ、
文学評論、教育論、日本の歴史、江戸の学問論を展開。
世界の知識人との対話や
日本の言論界での苛烈な論戦を経て、
自由とは何か、人生の価値とは何か、
日本の根本問題は何かを問うてきた
思想家の半世紀を超える軌跡を辿る。

西尾幹二全集刊行記念講演

「ニーチェと学問」

講演者: 西尾幹二
入 場: 無料(整理券も発行しませんので、当日ご来場ください。どなたでも入場できます。)
日 時: 11月19日(土)18時開場 18時30分開演
場 所: 豊島公会堂(電話 3984-7601)
     池袋東口下車 徒歩5分
主 催:(株)国書刊行会
     問い合せ先 電話:03-5970-7421
           FAX:03-5970-7427

西尾幹二全集発刊にからむニュース (4)

光と断崖: 最晩年のニーチェ (西尾幹二全集) 光と断崖: 最晩年のニーチェ (西尾幹二全集)
(2011/10/12)
西尾幹二

商品詳細を見る

 私がいま振り返って辛うじて他人に見せられるような文章を残しているのは25歳以後である。誰でも出発点をどう踏みしめてスタートしたかを確かめてみたくなる。30歳から40歳ごろまで私はこのうえなく多産だった。爆発的といってもよいくらいの活動をしている。

 主に三つに分類できる。全集を編集する前からそう思っていた。第一巻『ヨーロッパの個人主義』、第二巻『悲劇人の姿勢』、第三巻『懐疑の精神』の三巻に分けたのには理由がある。

 第一巻はドイツ留学体験記で、処女出版であり、文明論であり、言論界への出発点である。第二巻は私が師表として仰いだ東西の思想家小林秀雄、福田恆存、ニーチェを軸とし、三島由紀夫の悲劇的な死のテーマにつながる。

 それに対し第三巻は混沌として形をなさない。私は星雲状の嵐の中にいる。しかし意思は一番明確でもあった。私の批評の原型がこの「懐疑」ということばの中にある。

 第三巻『懐疑の精神』とは、出版という形になる前の私自身の思考の渦、外の現実の世界への触覚によるタッチから始まり、ゆっくりと転身し、静かに展開し、40歳台の安定期に入る軌跡を辿っている。もし将来私に関心を持つ解明家がいたら、この第三巻が私を解く鍵というだろう。

 第三巻の編集には大変に時間がかゝり、手間取った。ようやく「目次」が完成したのでお目にかけたい。非常に長い目次であるが、まずは説明の前に全体をお示しする。

第三巻 懐疑の精神

Ⅰ 懐疑のはじまり(ドイツ留学前)

私の「戦後」観
私のうけた戦後教育
国家否定のあとにくるもの
知性過信の弊(一)
私の保守主義観

「雙面神」脱退の記
一夢想家の文明批評――堀田善衛『インドで考えたこと』について
夏期大学講師の横顔――福田恆存先生
民主教育への疑問
知識人と政治

Ⅱ 懐疑の展開

大江健三郎の幻想風な自我
状況の責任か、個人の責任か――ハンナ・アレント『イェルサレムのアイヒマン』
老成した時代
短篇思想の国
帰国して日本を考える
 反近代」論への疑い( )日本人論ブームへの疑問( )読者の条件( )
 比較文化の功罪( )節操ということ( )前向きという名の熱病( )
 変化のなかの同一( )江戸の文化生活( )物理的な衝突( )現代のタブー( )
個人であることの苦渋
実用外国語を教えざるの弁
わたしの理想とする国語教科書

Ⅲ 反乱の時代への懐疑(ドイツからの帰国直後)

国鉄と大学
喪われた畏敬と羞恥
知性過信の弊(二)
文化の原理 政治の原理
二つの「否定」は終わった
ことばの恐ろしさ
見物人の知性
 見物人の知性( )外観と内容( )ネット裏の解説家( )
紙製の蝶々
自由という悪魔
高校生の「造反」は何に起因するか
生徒の自主性は育てるべきものか
大学知識人よ、幻想の中へ逆もどりするな
ヒッピー状況と教養人

Ⅳ 情報化社会への懐疑

言葉を消毒する風潮
マスメディアが麻痺する瞬間
テレビの幻覚
現代において「笑い」は可能か
日本主義――この自信と不安の表現

Ⅴ 地図のない時代

哲学の貧困
権利主張の表と裏
はじかれるのが恐い日本人
ソルジェニーツィンの国外追放
韓非子を読む毛沢東
ノーベル平和賞雑感
オリンピック・テロ事件に思う

Ⅵ 古典のなかの現代

知的節度ということ――サント・ブーヴとゲーテの知恵

人は己れの保身をどこまで自覚できるか
  ――ピランデルロと教養人の生き方

富と幸福をめぐる一考察
  ――ベーコン、ショーペンハウアー、ニーチェ
古典のなかの現代
  ――ベーコン、ニーチェ、ルソー、ヴォルテール、
パスカル、吉田兼好、マキアヴェリ

Ⅶ 観客の名において――私の演劇時評

序にかえて――ヨーロッパの観客
第一章 文学に対する演劇人の姿勢
第二章 解体の時代における劇とはなにか
第三章 『抱擁家族』の劇化をめぐって
第四章 捨て石としての文化
第五章 ブレヒトと安部公房
第六章 情熱を喪った光景
第七章 シェイクスピアと現代

Ⅷ 比較文学・比較文化への懐疑

東大比較文学研究室シンポジウム発言(司会芳賀徹氏)
東工大比較文化研究室シンポジウム発言(司会江藤淳氏)

追補 今道友信・西尾幹二対談「比較研究の陥穽」

後記

 以上の長い目次のⅠのブロックを「懐疑のはじまり(ドイツ留学前)」として区切ったのは、これが私の20歳台の文章であることを示している。ドイツ留学が29歳から32歳であったから丁度区切りがいいのである。

 私は20歳台後半に『雙面神』という同人誌に属していた。同人には小田実、饗庭孝男などがいた。戦後派作家特集が組まれた。堀田善衛特集号で私が彼の『インドで考えたこと』を批判する文章を書いたところ、同人会を牛耳っていた幹部Sが私に無断でこれを掲載しなかった。小田も饗庭もこの件には関与していない。

 同人会の幹部Sは、戦後派を批判してもいいが、「大きく救う」ところがなくてはいけないと言った。私はその言い分に疑問をもち、そこにまた当時の文壇を蔽っていた不健全な政治主義的空気を感じ、脱会した。

 この一件をどういうわけか文芸誌『新潮』が嗅ぎつけ、私は「『雙面神』脱退の記」という短文を書くことになった。これは私が公刊雑誌に最初に書いた文章で、しかも『新潮』との長い、重要な関係はこの時をもって始まる(1962年4月号)。

 このころ言論誌『自由』が懸賞論文を募っていた。私は「私の『戦後』観」をもって応募し、第一席に入った(1965年2月号)。選考委員は竹山道雄、林健太郎、福田恆存、木村健康、武藤光朗、平林たい子、関嘉彦の諸先生だった。

 「私のうけた戦後教育」は受賞第二作として同誌(1965年7月号)に掲載された。この中で私は芥川賞作家大江健三郎――大学の同期であった――のエッセイ集『厳粛なる綱渡り』をとり上げ、「戦後世代と憲法」という平和と民主主義を信仰のように崇める教育論に異議を唱えた。私の大江批判はこのときに始まる。29歳だった。

 「私の『戦後』観」は文藝春秋の池島信平氏の目に留まり、『文藝春秋』から依頼が来た。「国家否定の後にくるもの」(1965年8月号)がそれである。

 そのころお教えをいたゞいていた福田恆存先生から、身に余る大役を仰せつけられていた。インターネットにすでに明らかにされている通り、筑摩書房刊の現代日本思想大系第32巻『反近代の思想』(福田恆存編)の100枚解説文の下原稿を頼まれた。先生は発表に当たり手を加えたが、事実上代筆だった。

 これは永い間秘事として伏せられていたが、先生は公明正大で、末尾に私の名を付記し、かつ月報(1965年2月)の原稿を私の名で書かせた。業界関係者ならこれで何が起こったかは分る。ここに挙げた「知性過信の弊」というのはその月報の文章である。

 月報は一巻に二人だった。私のほかにもうひとりいて、
そのもうひとりは何と保田與重郎氏だった。『反近代の思想』は彼の「日本の橋」を収録していた。

 他に収録された著作家は夏目漱石、永井荷風、谷崎潤一郎、亀井勝一郎、唐木順三、山本健吉、小林秀雄だった。

 作者と作品の選定はもとより福田先生だった。ただ唐木順三「現代史への試み」だけは私がお願いして入れてもらった記憶がある。

 私は先生の文章を用い、口真似をしてその解説文を書いた。完全なエピゴーネンだった。それでも文体まで似せることはできない。意は似せられるが姿は似せられない、は誰かの有名なことばだった。

 同解説文は二人のどちらの全集にも入れることのできない奇妙な文章に終った。福田先生は昔から「解説」ごとき仕事をいっさいなさらなかった。小林秀雄もしなかった。

 同解説文は福田先生の名で出されたが、若いエピゴーネンが猿真似をして書いた、ということを証言しておくことが、先生の名誉のためにもなると思う。

 以上の出来事は私のドイツ留学前だった。『反近代の思想』解説は私自身の思想形成には役立ち、『ヨーロッパ像の転換』と『ヨーロッパの個人主義』を目に見えぬかたちで支えている。福田哲学は私の処女作に乗り移っている。

 「夏期大学講師の横顔――福田恆存先生」は先生が高知に講演に行かれた際、私に短いポートレートを書いて現地の求めに応じて欲しいとたのまれ、必死に書いた。わずか二枚程度だが、私の最初の福田恆存論である。高知新聞(1963年7月15日)に掲載された。

 私の福田関係諸論はすべて第二巻『悲劇人の姿勢』に集めてあるが、この一文だけは20歳台の文章なのでここに残した。

 「私の保守主義観」は清水幾太郎編『現代思想哲学事典』(講談社現代新書)の「保守主義」の項が私に託された折の一文である。清水先生からのご指名であった。

 「民主教育への疑問」「知識人と政治」は自民党の新聞『国民協会』(1965年2月21日及び7月11日)に頼まれて書いた。自民党に文章を出したというので悪評紛紛と湧き起こり、ドイツ文学の仲間や先輩たちの顰蹙を買った。自民党は人間の皮を被った悪魔の集団と思われていたからである。60年安保騒動から5年目である。私はその後も自民党の新聞に二度ほど寄稿し、ドイツからも送稿している。全集には記念として20歳台の最初の二篇のみを収録した。

西尾幹二全集刊行記念講演

「ニーチェと学問」

講演者: 西尾幹二
入 場: 無料(整理券も発行しませんので、当日ご来場ください。どなたでも入場できます。)
日 時: 11月19日(土)18時開場 18時30分開演
場 所: 豊島公会堂(電話 3984-7601)
     池袋東口下車 徒歩5分
主 催:(株)国書刊行会
     問い合せ先 電話:03-5970-7421
           FAX:03-5970-7427

西尾幹二全集発刊にからむニュース(3)

 全集刊行は10月12日に第1回配本がなされる。段取りは順調で、丸善丸の内本店が30冊も申し込んできた知らせに版元は喜んでいる。全国の書店からも問い合わせや申し入れが相次いでいる。

 第2回配本『ヨーロッパの個人主義』は来年1月刊行の予定で、校正も完了し、早い準備が進んでいる。目次がきまったので、まずそれをお知らせする。

第一巻 ヨーロッパの個人主義

Ⅰ ヨーロッパ像の転換
    序 章  「西洋化」への疑問
   第一章  ドイツ風の秩序感覚
   第二章  西洋的自我のパラドックス
   第三章  廃墟の美
   第四章  都市とイタリア人
   第五章  庭園空間にみる文化の型
   第六章  ミュンヘンの舞台芸術
   第七章  ヨーロッパ不平等論
   第八章  内なる西洋 外なる西洋
   第九章  「留学生」の文明論的位置
   第十章  オリンポスの神々
   第十一章 ヨーロッパ背理の世界
   終 章 「西洋化」の宿命
   あとがき
 
Ⅱ ヨーロッパの個人主義
   まえがき
   第一部 進歩とニヒリズム
    < 1>封建道徳ははたして悪か
    < 2>平等思想ははたして善か
    < 3>日本人にとって「西洋の没落」とはなにか
   第二部 個人と社会 
    < 1>西洋への新しい姿勢
    < 2>日本人と西洋人の生き方の接点
    < 3>自分自身を見つめるための複眼
    < 4>西洋社会における「個人」の位置
    < 5>日本社会の慢性的混乱の真因
    < 6>西欧個人主義とキリスト教
   第三部 自由と秩序
    < 1>個人意識と近代国家の理念
    < 2>東アジア文明圏のなかの日本
    < 3>人は自由という思想に耐えられるか
    < 4>現代日本への危惧―一九六八年版あとがき
   第四部 日本人と自我
    < 1>日本人特有の「個」とは
    < 2>現代の知性について――二〇〇七年版あとがき
 
Ⅲ 掌篇

  【留学生活から】
    フーズムの宿
クリスマスの孤独
ファッシングの仮装舞踏会
ヨーロッパの老人たち
ヨーロッパの時間
ヨーロッパの自然観
教会税と信仰について
ドイツで会ったアジア人
  【ドイツの悲劇】
確信をうしなった国
東ドイツで会ったひとびと

  【ヨーロッパ放浪】
ヨーロッパを探す日本人
シルス・マリーアを訪れて
ミラノの墓地
イベリア半島
アムステルダムの様式美
マダム・バタフライという象徴
  【現代ドイツ文学界報告】
ヨーゼフ・ロート『物言わぬ預言者』()マルティン・
ヴァルザー 『一角獣』()ギュンター・グラスの政治参加
()ネリー・ザックス『エリ』()ハインリヒ・ベル
『ある公用ドライブの結末』()シュテファン・アンドレス
『鳩の塔』()ペーター・ハントケ『観衆罵倒』()
ロルフ・ホホフート『神の代理人』()批判をこめた私の総括
()ペーター・ビクセル『四季』()
フランツ・カフカ『フェリーチェへの手紙』()
スイス人ゲーテ学者エミール・シュタイガーのドイツ文壇批判()
言葉と事実――ペーター・ヴァイス小論()

Ⅳ 老年になってのドイツ体験回顧
   ドイツ大使館公邸にて

追補 竹山道雄・西尾幹二対談「ヨーロッパと日本」

後記
(9月下旬更新の最新の目次です)

 色替えの個所は、私の若い頃の単行本にも収録しないできた置き忘れられた文章群である。

 二冊のヨーロッパ論はドイツ留学に取材した私の処女作であり、言論界へのデビュー作である。『ヨーロッパ像の転換』は三島由紀夫氏から、『ヨーロッパの個人主義』は梅原猛氏から推賞の辞をいたゞいている。後者の名は意外であろう。

 二冊は入試問題にひんぱんに用いられ、国語の教科書にも採用され、永い間私の著作はこの二冊だけのように思われていて、少し心外だった。

 今読み返してみて、若書きだとは思うが、文章に緻密さもリズムもあり、はっきりした問題意識もあり、自分で言うのも妙だが、私自身が論理的に説得されて読み進めることができたので、成功を収めた処女作であったのだと自己納得している。

 『ヨーロッパ像の転換』のほうが多面的な内容で、私にとっては本来の処女作である。けれども不思議なもので、初版から40年経って、『ヨーロッパの個人主義』のほうが私の代表作の一つのようにいわれ、有名になっている。世間のその評価に全集第一巻の題名を合わせた。今は『個人主義とはなにか』(PHP新書)の改題の下に継続して刊行されている。

 この二冊のヨーロッパ文明論と近代日本の具体的テーマについては、今日は論述しない。ドイツに留学したのに、なぜ私はドイツではなく、ヨーロッパを振りかざしたのか。

 西洋文明を受け入れ近代化した明治以来の日本の大先達の驥尾(きび)に付すのが私の留学の目的で、ドイツ一国を相手にするために渡航したのではない、との秘かな自負が私にはあった。『ヨーロッパ像の転換』の第九章が「『留学生』の文明論的位置」と名づけられている処にすべてが現われている。

 それにこの二冊に当時の東西分裂下のドイツ問題が語られていないことを、その後の私の活動から推して不思議に思われる人もいるであろう。関心がなかったのではない。書いているのである。

 Ⅲ掌編に「ドイツの悲劇」とある。「確信をうしなった国」は極右政党NPDの台頭に揺れる政情報告文であり、「東ドイツで会ったひとびと」は文字通り私の東ベルリン訪問記である。今よむと当時のドイツの政治情勢が生き生きととても良く書けている。しかし私は自分の本にこれらを入れなかった。

 私は政治報告文屋さんと見られるのを潔しとしなかったのである。そのころベルリン留学の報告文で名を挙げていたドイツ文学の先輩西義之という人がいた。私は彼のような「もの書き」には絶対にならない、と心に誓って渡独した。私の行き先がベルリンではなくミュンヘンだったのも幸いだった。私は「ヨーロッパ文明」と対話するのが留学の目的であって「ドイツの政治」などという一時的な小さなテーマを主な相手にはしない、という考えでほゞ一貫していた。

 ものを書く動機の基本に「他と違う」ということがなくてはならない。先人に学ぶことはあっても「先人と同じ歩き方はしない」ということがなくてはならない、と思っている。いやしくもジャーナリズムで生きようとするならそれは不可欠である。

 けれどもドイツの政治に対するドイツの知識人、ドイツの文学者の偏向した意識に私は無関心になることはできず、抑えていてもどこかから爆発する思いが出てくる。

 Ⅲ掌編の中の「現代ドイツ文学界報告」は、人からみれば全集に入れるべき文章ではあるまい。文芸誌『新潮』にある期間月ごとに送っていた「世界文学マンスリー」という見開き2ページのドイツ文壇紹介文にすぎない。

 けれどもこれはある意味で私が専攻していた「ドイツ文学」の世界から決別する切っ掛けとなる仕事でもあった。私は文学情勢をていねいに調べ書き送った。けれどもギュンター・グラス、ハインリヒ・ベル、ロルフ・ホッホフート、ペーター・ヴァイスといった一連の政治主義的作家たちの非文学性、あるいは凡庸な反ヒットラー反ナチ単一志向性がまことにばからしく、次第に腹が立ってきて、「批判をこめた私の総括」という否定文を掲げた。

 この一文だけでも全集に入れた意味がある。またスイスのゲーテ学者エミール・シュタイガーが私と同じように批判を展開していたのがうれしくなって、これも掲げて、『新潮』編集部に言ってドイツ文壇報告を打ち切りにした。

 間もなく、同じようなドイツ文学報告文を『文学界』で書いていた東大の神品芳夫助教授から私の批判を「はた迷惑」ということばで攻撃する文章が掲げられた。現代ドイツ文学研究の業界全体にとって「迷惑」だというのである。

 私は笑った。読者も恐らく笑うだろう。40年経って誰が本当のことを見抜いていたかは明らかになった。例えばギュンター・グラスは大江の後を追うようにノーベル文学賞をもらったが、60年代のこのときの「政治参加」が欺瞞であったことは、彼が若い時代にナチ協力者であったのを隠していたことが暴露されて権威を失い、失脚したことからも明らかである。

 追補 竹山道雄・西尾幹二対談「ヨーロッパと日本」はドイツ問題のこんな騒ぎとは関係なく、老大家竹山先生の戦前からのヨーロッパ体験のお話を伺う、静かな心愉しい示唆に富む内容である。

夏の終りに

 私はこの夏、三つの仕事に従事してきた。(一)原発事故への言論活動、(二)自己の個人全集の編集、(三)日米戦争の由来を再考する複数の著作活動の準備、である。

 9月26日に発売される『WiLL』11月号に、原発事故をめぐる今までの総集編とでもいうべき、少しばかり仕掛けの大きい論考を発表する。題名は「現代リスク文明論」(仮題)である。原稿用紙で50枚で、あの雑誌が載せてくれるぎりぎり一杯の長さだと思う。

 50枚の論文はむかしの言論誌では当り前だった。今は何でも簡便安直が好まれるので、20枚を越える文章は月刊誌では滅多にみかけなくなった。私はいつも心外な思いを抱いている。

 次いで10月1日に発売される『正論』11月号に、「ニーチェ研究と私――ニヒリズム論議を超えて――」(35枚)を書いた。これも夏の終りの仕事であった。いうまでもなく個人著作全集の最初の巻が『光と断崖――最晩年のニーチェ』であるので、これを機会に私のニーチェ研究の重点がどこにあったのかを回顧的に語ったものである。

 なお全集の編集は順調に推移し、10月12日に第一回配本が刊行される。これに関連して次のような公開講演会が企画されているので、ご報告する。

西尾幹二全集刊行記念講演

「ニーチェと学問」

講演者: 西尾幹二
入 場: 無料(整理券も発行しませんので、当日ご来場ください。どなたでも入場できます。)
日 時: 11月19日(土)18時開場 18時30分開演
場 所: 豊島公会堂(電話 3984-7601)
     池袋東口下車 徒歩5分
主 催:(株)国書刊行会
     問い合せ先 電話:03-5970-7421
           FAX:03-5970-7427

 (三)日米戦争の由来を再考する複数の著作活動、については、周知のとおり、『GHQ焚書図書開封 6 ――日米開戦前夜』(徳間書店)の準備をいま鋭意進めている。このほかにもうひとつ、今年さいごの重要な著作を12月8日までに出版する手筈である。これについては、今まで報告しなかったが、『天皇と原爆』という題で、新潮社から出される。作業は順調に捗っている。

 息の抜けない忙しい夏だったが、9月10日~12日に上高地、飛騨高山、白川郷を旅してきた。