「脱原発こそ国家永続の道」について(二)

 月刊言論誌の月が替わった。私は立てつづけに脱原発論を二本書いた。

 「平和主義ではない脱原発」『WiLL』8月号(6月26日発売)
 「さらば原発――原子力の『平和利用』の誤り」『正論』原発テーマの臨時増刊号(7月5日発売)

 今回は題名を次のようにもっとはっきりさせた方がよかったかもしれない。はっきりさせるなら「日本の核武装を妨げている原発」となる。そういう論旨で書いている。

 私は徹底して事実に即して語っている。空想は語っていない。日本の核武装、少くとも日本の国防の合理的強化を妨げているのは原発の存在である。このことを論証している。

 言論界は左も右も、すなわち平和主義的脱原発論も、国家主義的原発擁護論も、みな現実に即してではなく、情緒でものを言っている。日本の原発の置かれてきた国際情勢を見ていない。

 この期に及んで平和主義や国家主義に心がとらわれているようではダメであると私は言いたい。

 当「日録」では先月同様に、これから『WiLL』の7月号論文「脱原発こそ国家永続の道」を分載する。まだ読んでいない方もいるかもしれないし、すでに読んだ方はもう一度読んでいたゞきたい。

 ただし、コメントはすでに今売り出されている8月号の『WiLL』「平和主義ではない脱原発」を踏まえて、むしろこの方に力点を置いて書いていたゞけるとありがたい。これは当然議論を喚起している論文だからである。

甘い保守主義者へ

 最近の私の主な仕事をまとめておしらせする。

 『正論』7月号(6月1日に出ている)で張作霖爆殺事件をめぐって新しい研究を発表された加藤康男氏と大型対談をしている。『正論』の臨時増刊号(6月20日頃に出る)に、「仲小路彰の見たスペイン内戦から支那事変への潮流」を書いた。同じ頃に仲小路彰の新刊復刻本が三冊同時に発売される。私が解説を書いている。注意してみていただきたい。

 大震災から原発事故をへて、私は『WiLL』の5月号、6月号、7月号にこれまで立て続けに観察と見解を述べてきた。6月号論文は当日録に掲載し、7月号論文には日録で注意をうながした。

 『WiLL』8月号(6月26日発売)が昨日校了となった。私はひきつづき「平和主義ではない脱原発」を発表している。原発が日本の国防を混乱させ、国家の独立自存にマイナスに働いていることを書いた。原発がなくなると産業も成り立たない、などとまだ言っている古い保守主義者はいろいろなことをもっと知って、世界についても広い知識を持ってからものを言ってもらいたい。知らないで既成観念に閉ざされているのは愚昧と言われても仕方がない。

 私の8月号論文を読んで目が覚めたら、素直になって欲しい。原発をつづければつづけるほど、放射能の危険のことではなくて、国家の能率が下がることになる。それに原子力の研究者や技術者がどんどんいなくなっている。やりたくても原子力発電はやれない時代になっている。

 中国の風力発電が世界一なのを知っているだろうか。アメリカが世界最大級の洋上風力発電を企画し、三菱電機、伊藤忠、住友商事が次々と参画しはじめているのを知っているだろうか。日本がやらないから、日本の企業は世界に手を伸ばす。高速増殖炉と再処理工場の故障で動かない日本の原発は「ガラパゴス化」していたのである。

寒中閑なし

 今私がどんな仕事に毎日励んでいるかを今日は簡単に報告しておきたい。

 「日中歴史共同研究 中国側批判」の前半部分のゲラ刷りが今日送られてきた。『WiLL』(2月26日発売)4月号に予定されている。2月5日に四人のメンバーが集まって討議を完了した。四人とは福地惇、福井雄三、柏原竜一の諸氏と私である。この1年で三氏はそれぞれ独自性を発揮し、良い仕事をしてくれたとありがたく思っている。

 1月号と2月号で「北岡伸一『日中歴史共同研究』徹底批判」を行った際に、中国側の報告内容への追及は4月号と5月号に分載すると約束しておいたので、その整理の仕事がいま舞い込んでいるのである。

 日本側報告は昨年1月に、中国側報告は8月に、各600ページを越えるどっしりと重い2冊本で刊行された。一般の人の目には届かない本である(画像参照)。

kyoudou1.jpg

 われわれ四人は貴重な史料の批判的研究のチャンスを与えられた立場なので、言うべきことを言っておく責務を感じている。しかし歴史叙述の内容がデタラメきわまりないので、読むのも辛い。

 私が戦時中の思想家・仲小路彰の研究をしていることはすでに知られていると思う。彼の『太平洋侵略史』(全六冊)は昨年復刻再刊されたが、今度次の三冊が出ることになった。すなわち、『世界戦争論』(昭13)全一巻と『第二次世界大戦前夜史 一九三六年』(昭16)及び『同、一九三七年』(昭17)全二巻である。いずれも国書刊行会から3月に出版される予定である(画像参照)。

nakasyouji.jpg
 
今度も昨年につづき私が推薦文を書き解説を担当した。推薦文は昨年のうちに書き上げていたが、事情があって解説は遅れている。ただし『世界戦争論』のほうだけは一昨日やっと解説を書きあげて出版社に送った。

 昨日私は月に必ず一度録画撮りに訪れる文化チャンネル桜で今月分のGHQ焚書のテレビ録画を完了した。夜の7時から10時半までかゝり2本撮った。『ハワイを繞る日米関係』(昭18)と前記仲小路彰の『世界戦争論』(昭13)を取り上げた。知らないことがたくさん書かれていて学習はしたが、何日もかけて準備し、夜集中して2本の録画をするのはやはり疲れる。夜遅くまで付き合ってくれる若い3人のスタッフもきっと疲れただろう。ありがとう。

 この日で放送は71回目と72回目を終えたことになる。別れぎわにスタッフに「そのうち100回を数えるね」と笑って話しした。徳間書店から出ている『GHQ焚書図書開封』は10回分で一冊になるけいさんですゝんでいる。とすれば7冊出来あがっていて当然なのに、いまだ4巻で止まっている。私に時間がなくて書籍づくりが追いつかないのである。すでに2冊分のプランは終了している。次のように計画している。

 『GHQ焚書図書開封 5――ハワイ、満州、支那』
 『GHQ焚書図書開封 6――日米開戦前夜』
 

上記2冊は夏までにほゞ同時に刊行する手筈が整っていて、徳間書店側の了解もすでに取りつけてある。私に時間の余裕のないのだけが唯一の問題なのだ。

 どういうわけかわが国をめぐる先の大戦ばかりが私の最近のテーマになっている。年齢を重ねてますますそうなるのは、日本の運命がいつにここにかかっているとの思いが一層募っているからである。先日報告した私の全集の第22巻の標題に「戦争史観の変革」を掲げておいたのも、最晩年のわが宿運と思い定めているからである。

 じつは今週末までに私はある種の正念場を迎える。いくつもの〆切り課題が集中していることに緊張している。まず一年もかけてまだ仕上がらない単行本『日米戦争 歴史の宿命』(新潮社)の原稿全部をいよいよ19日(土)に担当者に渡すことになっているのである。何ヶ月にもわたり何度も〆切りを延ばしてきたので、もうこれ以上は信義にもとるので延期できない。しかもこれもやはり戦争のテーマなのだ。

 そこへ先ほどの仲小路彰『一九三六』『一九三七』の解説が迫られている。加えて、私の全集の第一回配本『光と断崖――最晩年のニーチェ』のゲラ刷り約600ページ分がどっと届けられている。幸いなことに全集については、元徳間書店出版局長の松崎之貞さんが私の側の編集協力者として付き添って下さることになり、すでに同氏が作業を開始している。それでも勿論私のしなくてはならぬことはたくさんあるので、一山越えたらそちらに取りかゝらなくてはならない。

 でも、こうして多くの仲間知友に支えられて何とかやっていけるということはありがたいことである。

 だが、この一年を振り返って今が一番苦しい時期を迎えていて、ちょっとぼやいてみたくなり、「寒中閑なし」などと無駄口を叩いて、近況報告の文に替えたい。(2月13日記)

【正論】年頭にあたり 

 中国恐怖症が日本の元気を奪う

産経新聞「正論」欄2011.1.12 より

 これからの日本は中国を抜きにしては考えられず、特に経済的にそうだと、マスコミは尖閣・中国漁船衝突後も言い続けている。

 ≪≪≪対中輸出入はGDPの2%台≫≫≫

 経済評論家の三橋貴明氏から2009年度の次の数字を教えてもらった。中国と香港への日本からの輸出額は1415億ドルで、日本の国内総生産(GDP)約5兆ドルの2・8%にすぎない。日本の輸入額は1236億ドルで、2・4%ほどである。微々たるものではないか。仮に輸出が全部止まってもGDPが2%減る程度だ。高度技術の部品や資本財が日本から行かなくなると、困るのは中国側である。これからの日本は中国抜きでもさして困らないではないか。

 それなのに、なぜか日本のマスコミは中国の影におびえている。俺(おれ)たちに逆らうと大変だぞ、と独裁国家から催眠術にかけられている。中国を恐れる心理が日本から元気を奪っている。日本のGDPが世界3位に転落すると分かってにわかに自らを経済大国と言うのを止め、日本が元気でなくなったしるしの一つとなっている。

 だが、これはバカげている。日本の10倍の人口の国が日本と競り合っていることは圧倒的日本優位の証明だからだけではない。今の中国人は人も住まない空マンションをどんどん造り、人の通らない砂漠にどんどん道路を造り、犯罪が多いから多分刑務所もどんどん造り、GDPを増大させている。GDPとはそんなものである。

 
 ≪≪≪経済大国3位転落気にするな≫≫≫

 日本のGDPが下がりだしたのは、橋本龍太郎政権より後、公共投資を毎年2、3兆円ずつ減らし続け、14年経過したことが主たる原因である。効果的な支出を再び増やせば、GDPはたちまち元に戻る。子供手当を止め、その分をいま真に必要な国土開発、港湾の深耕化、外環道路の建設、橋梁(きょうりょう)や坑道の補修、ハブ空港の整備(羽田・成田間の超特急)、農業企業化の大型展開など、再生産につながる事業をやれば、GDPで再び世界2位に立ち返るだろう。

 わが国は国力を落としているといわれるが、そんなことはない。中国に比べ、国民の活力にかげりが見えているのでもない。拡大を必要とするときに、縮小に向けて旗を振る指導者の方針が間違っていて、国民が理由のない敗北心理に陥っているのである。

 しかし、いくらそう言っても、中国を恐れる心理が消えないのはなぜなのか。中国は5千年の歴史を持つアジア文明の中心的大国であり、日本はそこから文化の原理を受け入れてきた「周辺文明圏」に属し、背伸びしても及ばない、という無知な宿命論が日本人から元気を奪っているからだ。ある政府要人は日本はもともと「属国」であったと口走る始末である。日本がかつて優位だったのはわずかに経済だけである。それがいま優位性を失うなら、もはや何から何まで勝ち目はない。この思い込みが、中国をただ漫然と恐れる強迫観念の根っこにある。

 しかし、これは歴史認識の完全な間違いである。正しい歴史は次のように考えるべきである。

 
 ≪≪≪古代中国幕閉じ、日欧が勃興≫≫≫

 古代中国は確かに、古代ローマに匹敵し、周辺諸国に文字、法観念、高度宗教を与えた。だが、古代両文明はそこでいったん幕を閉じ、日本と新羅、ゲルマン語族が勃興(ぼっこう)する地球の文明史の第二幕が開いたと考えるべきである。漢、唐帝国とローマ帝国は没落し周辺に記憶と残像を与え続けたが、もはや二度と普遍文明の溌剌(はつらつ)たる輝きを取り戻すことはなかった。

 ことに、東アジアではモンゴルが登場し、世界史的規模の帝国を築き、中国は人種的に混交し、社会構造を変質させた。東洋史の碩学(せきがく)、岡田英弘氏によると、漢民族を中心とした中国民族史というものの存在は疑わしく、治乱興亡の転変の中で「漢人」の正体などは幻と化している。

 現代のギリシャ国家が壮麗な古代ギリシャ文明と何の関係もないほどみすぼらしいように、現代の中国も古代中華帝国の末裔(まつえい)とはほとんど言い難い。血塗られた内乱と荒涼たる破壊の歴史が中国史の正体である。戦争に負ければ匪賊(ひぞく)になり、勝てば軍閥になるのが大陸の常道で、最強の軍閥が皇帝になった。現代の“毛沢東王朝”も、その一つである。

 ユーラシア大陸の東西の端、日本列島とヨーロッパはモンゴルの攻略を免れ、15、16世紀に海洋の時代を迎えて、近代の狼煙(のろし)を上げた。江戸時代は17世紀のウェストファリア体制(主権国家体制)にほぼ匹敵する。日本とヨーロッパには精神の秩序があり、明治維新で日本がヨーロッパ文明をあっという間に受け入れたのは、準備ができていたからである。

 中国が5千年の歴史を持つ文明の大国だという、ゆえなき強迫観念を、われわれは捨てよう。恐れる必要はない。福沢諭吉のひそみに倣って、非文明の隣人としてズバッと切り捨てる明快さを持たなくてはいけない。(にしお かんじ)

消された秀吉の「意志」(一)

 謹賀新年 

 世界に渡り合う救国のネゴシエーター(交渉巧者)を日本の歴史の中から探し出し、三人挙げてほしい、というアンケートが年末にあった。『SAPIO』誌からの依頼である。私はあまり深く考えず、豊臣秀吉、小村寿太郎、岸信介の名を挙げた。簡単に理由を書けという欄があったので、豊臣秀吉は国内の英雄としてではなく、スペインの脅迫にたじろがず、東の涯から世界的覇者たらんとする声をあげ、その意志をスペイン国王フェリペ二世に伝えた人物として、日本史唯一のネゴシエーターの名に値するという理由づけを書き添えた。

 小村寿太郎は風説と異なり、例のハリマンの満鉄共同開発拒否を積極的に解釈したいと書き、岸信介は国内の反対を抑えて日米安保条約を改訂し、米軍による日本防衛の責務を条文に明記させたことを評価すると書いた。いづれも国外に向けた「意志」の表現者・伝達者としての評価に基く。

 まあ、あまり深く考えない人選で、アンケートに答えた後忘れていた。間もなく『SAPIO』編集部から私の挙げた三人が上位五人に選ばれているとの知らせがあり、少し驚いた。1位から10位までは次の通りである。1位 小村寿太郎、2位 黒田官兵衛、3位 豊臣秀吉、4位 鈴木貫太郎、5位 岸信介、6位 勝海舟、7位 大久保利通、8位 陸奥宗光、9位 川路聖謨、10位 徳川家康。そして3位に選ばれた豊臣秀吉について私に2ページの記事を書いて欲しいとの依頼があった。

 私は戦国武将としての国内における秀吉の活躍については、子供のころにさんざん読んだ覚えがあるが、今さら興味はなく、ヴァスコダ・ガマからマゼランに至る大航海時代に雄飛した世界制覇への「意志」の表明者の中に秀吉を入れていいという考えから、朝鮮出兵を解釈し直したいとつねづね思っていた。『国民の歴史』16節「秀吉はなぜ朝鮮に出兵したのか」に同趣旨のことをすでに書いている。『SAPIO』誌には要点を短くまとめることにした。関係文献を少し読み直し、今まで書かなかった新しい知見も若干加味した。いま販売中の『SAPIO』2011年12・22/1・6号に掲載されている。

 秀吉の攻略の目標が朝鮮を越えて大唐国(シナ)の明に据えられていたことはよく知られている。しかし関白秀次にあてた書状によると、彼の壮大な世界征服計画はそんなレベルにとどまっていなかった。

 北京に後陽成天皇を移す。秀吉自らは寧波に居を定め、家臣たちに天竺(インド)を自由に征服させる。この構想は中華帝国に日本が取って代わるのではなく、東アジア全域に一大帝国を築き上げようとするものである。秀吉は北京にいる天皇をも自らは越えて、皇帝の位置につき、地球の半分を総攬すべき統括者になろうとするこのうえもなく大きな企てであった。これはすなわち中華中心の華夷秩序をも弊覆のごとく捨て去ってしまう日本史上おそらく最初の、そして最後の未曾有の王権の主張者の出現であったと見ていい。

 これを誇大妄想として笑うのは簡単である。結果の失敗から計画の評価をきめれば、すべては余りに無惨であった。しかし彼は病死したのであって、敗北したのでは必ずしもない。秀吉はモンゴルのフビライ・ハーン、スペイン国王のフェリペ二世、清朝の祖・女真族のヌルハチと同じ意識で世界地図を眺めていた日本で唯一の、「近代」の入り口に立った世界史の創造者の一人であった、と私は考える。織田信長が生き延びていたら、やはり秀吉と同様の行動に出たであろう。

 勢威ある国々から自らの「意志」で地球規模の歴史を築こうとした人間群像が次々と立ち現われた時代の感情、歴史の奥底からのうねりのようなものに参加した日本人が存在した、そのことが大切な認識なのだ、と私は言いたかったまでである。『SAPIO』誌にそのように書いて、原稿をファクスで送った。

 ほどなくゲラ刷りが送られてきた。編集者がつけたタイトルは次のように記されていた。最後の四文字が私は不快だった。間違えているとさえ思った。私の文意が読めていない。

 豊臣秀吉―覇者スペイン国王をも畏れさせた「神の国」からの大言壮語、となっていた。

 論文のタイトルは書き手が空白のまま送り、編集者が付けるのがこの業界の慣習である。書き手が付けて送っても、取り替えられてしまうことがまゝある。

 私はゲラを送り返すときに「大言壮語」はネガティブなことばです、止めて下さい、と記した上で、四文字を消し、そこに「断固たる意志」と書いて置いた。雑誌が完成して、配送されたページをすぐ開いてみると「断固たる意志」も採用されず、そこに「気宇壮大」という新しい四文字がはめこまれていた。

 なるほど「気宇壮大」はネガティブな概念ではない。秀吉を貶めてはいない。しかし、必ずしもポジティブな言葉でもない。堂々として立派な良い性格を表す言葉と読めばポジティブにもなるが、読みようによってはネガティブにもなる。少くとも私が想定している秀吉の、日本人離れした「意志」を示す言葉としては必ずしも的確ではない。私はそう思ったが、もう雑誌は刷り上ってしまい後の祭りである。

 『SAPIO』は保守系の雑誌として知られ、従ってこの号にも、錚々たる保守論壇のメンバーが小村寿太郎以下10人のネゴシエーターを解明する論説を掲げている。雑誌そのものの歴史観は決して自虐的ではないし、反日的でもない。むしろ逆である。自虐的反日的な歴史イメージを否定する論文を並べている。

 それなのに、それを担当する編集者の意識に、世界に向かって日本人が一歩もたじろがない政治意志を示したという事跡に対し、そう表明することになんとなく気遅れがあり、後ろめたさがあり、ある種の照れ臭さ、あるいは恥ずかしさがあるように見受けられる。

 フェリペ二世の「断固たる意志」を表現することにはまったくの躊躇はないのだが、しかし、秀吉となるとそう言ってはいけないとなぜか頭から思い込んでいる。私に指示されても、それに合わせられないでいる。

 日本人が朝鮮を越え、シナを越え、インドを越えてものを考え行動するなどということはあり得るはずがない、と考えているのだろう。秀吉はフェリペ二世に挑戦状を叩きつけた、と私が秀吉の文面を引用してさえいるのに、それがどうしても信じられない。言葉にするのは憚れることだ、あってはならないことだと思い込んでいる。

 これは一体何だろう。このためらいはどう考えたらよいのだろう。

(この項つづく)

残暑お見舞い申し上げます

 「日録」の読者の皆さん、今年の夏は本当に格別に暑い夏でした。そして今も暑さはつづいています。いかゞお過ごしですか。

 私は5月~7月にかけて仲小路彰の『太平洋侵略史』全6巻を読んで解説(80枚)を書く仕事と、拙著『GHQ焚書図書開封 4』を刊行することで大わらわでした。前著『日本をここまで壊したのは誰か』の主要論文は2月から4月にかけて書きましたので、そのあとひきつづき休息がありませんでした。「日録」の更新も思うにまかせませんでした。

 その間内閣は変わり、日本経済の行方に黄ランプが灯り、気力のない国民の不甲斐のなさが八方で論じられています。菅内閣の「謝罪マニア」ぶりが気分を重くしています。そして8月の恒例の終戦をめぐるテレビ放映をみました。

 チャンネル桜の水島さんがご自身のニュース解説の時間帯に30分、以上のような日本の今の状況についてどう考えているかを語ってほしいといわれ、8月19日夜放映されました。

 ここに同社の許可を得て私の動画画面をご紹介することで、残暑お見舞いに替えさせていたゞきます。

言わずに死ねるか!

 週刊ポスト2010年6月18/25日号にて、憂国オピニオンワイド「言わずに死ねるか」と題して、筒井康隆・三浦朱門・山折哲雄・岸田秀・長部日出雄・西尾幹二・呉智英の七人が筆を執った。インタビューの記事に修正を加えた文章なので、不本意な文体ではある。緻密さを欠く文章であることは承知の上で、面白いところもあるので、ご紹介する。

posto.jpg

 ひどい表紙絵であるが、私の名もこんな形で載った。七人一緒なので、みんなで渡れば怖くないの一種である。

●政治・経済・外交・軍事のバランスこそが肝要だ

西尾幹二74評論家 
あの時、米軍を「進駐軍」と呼んだのが大きな過ちだった

 日本の歴史教育は、満州事変以後の日本軍の暴走という考え方を戦後ずっと子供たちに植えつけてきた。その結果、あたかも日本が世界に対する侵略国家であるかのような誤った認識が定着した。戦争を知らない世代が政治家や経済人に多くなるにつれ、政治、外交、防衛が旧敵国の圧力で翻弄されるようになってきた。

 満州事変以後の「昭和史」に限定して日本の侵略をいい立てる歴史の見方には、一つの政治的意図があった。日本を二度とアメリカに立ち向かえない国にするというアメリカの占領政策である。自らにとって、“都合のいい時代”を抜き出すことで、一方的に日本に戦争の罪を着せようと考えたのだ。

 アメリカだけでなくソ連も参加し、特定の期間の歴史を強調した理由はもう一つある。ロシアを含む欧米諸国が400~500年も前から地球上で起こしてきた侵略の歴史をあいまいにするためだった。

 たとえば、イギリスが東インド会社を設立してアジアへの侵略を開始したのは1600年。同じ年、日本では関ヶ原の戦いをしており、地球の涯(は)てを犯すという妄想さえなかった。その後イギリスはインドでの覇権を賭けてフランスと戦い、1757年のブラッシーの戦いで勝利する。日本史でいえば本居宣長が生きた時代である。

 そこから日本の幕末までの間に英、蘭、仏、露によるアジア侵略はほぼ完了した。1936年時点で、列強の地表面積における支配は、イギリス27%、ソ連16%、フランス6%、アメリカ6・7%で、合計58・7%――実に地球表面の6割近くをわずか4か国が占領していたというのが歴史的事実だ。日本はそれに対して国をあげてNOといった最初のアジアの国なのだ。アジア解放と自存自衛が大東亜戦争を世界に宣言した目的である。

 アメリカは欧米の暗い過去を隠すため、GHQの占領政策のなかでいつの間にか「侵略をしたのは日本だ」というすり替えを行なった。問題は、このように意図的に仕組まれた占領政策の呪縛から日本がいまだに脱することができていないということだ。

 戦後65年経った今も、日本はアメリカに騙され続けている。昔は「英米の侵略」といい、「日本の侵略」という言葉は存在しなかった。それを忘れ気づかない今の日本国民の愚かさは目を覆うばかりだ。いい加減にこの状況から抜け出さない限り、日本という国家はいずれ消滅してしまうだろう。それは、日本人が長い年月をかけて築き上げた歴史と伝統が蹂躙され、「日本人」という“民族”ではなく、外から来て日本に住んでいるだけの“住人”しかいないただの「列島」になってしまうことを意味する。

太平洋戦争は終わっていない

 日本人は真実を知る必要がある。大東亜戦争は日本がはじめた戦争では決してないということだ。あくまで欧米諸国によるアジアに対する侵略戦争が先にあって、日本はその脅威に対抗し、防衛出動している間に、ソ連や英米の謀略に巻き込まれたに過ぎない。次に、日本は中国大陸を含め、アジアのどの国も侵略していない。侵略と防衛との関係は複雑である。もしも日本が防衛しなかったら、中国の3分の1と朝鮮半島はロシア領になっていただろう。中国が対日戦勝国だと主張するのは大きな誤りなのだ。

 そもそも戦前の中国は国家の体をなしていなかった。清朝の末期から1970年代の文化大革命まで内乱の連続だった。満州事変当時も国民党、共産党のほかに軍閥が跋扈(ばっこ)し、いくつもの“政府”があった。日本はそれらの政府の一つと条約を結び、自国の居留民を守るために軍隊を駐留させていた。しかも、その条約ではある時期には中国人を守ってほしいと頼まれてもいた。英米仏独の各国も軍隊を駐留していた。

 日本の駐留基地は盧溝橋事件で中国兵から攻撃を受けた。それは在日米軍基地に日本の自衛隊が攻撃を仕掛けたようなもので、その場合アメリカはこれを侵略とみて日本への宣戦布告の理由にできる。日本が中国兵に応戦したのは当然である。戦争を拡大したのは諸外国の謀略に基づく支援をうけた蒋介石であった。

 1945年の敗戦の際にわが国に起こったことは、米軍による「解放」ではなく「占領」である。しかも、米軍は一時的な「占領軍」ではなく1か国による「征服者」だった。アメリカはその後、朝鮮戦争、ベトナム戦争、湾岸戦争と世界各地で戦争を繰り返した。しかし、日本に対してやったような、戦後の社会と政治までをも変更して支配する「征服戦争」は一度もしていない。アメリカにとって日本は初めてのケースであり、その意味で日本の戦争はまだ終わっていない。日本は「大東亜戦争」ではなく「太平洋戦争」という名の新しい戦争を戦後にアメリカから仕掛けられ、今もその戦争は継続している。

 征服者を「進駐軍」と呼んでしまったことが大きな過ちだった。連合軍を「国連」と訳し直して(この二つは同じもの)なじみ、敗戦と考えたくなかった日本人は、「終戦」と呼んで経済復興にだけ力を注いだ。この弱さはアメリカと手を携え、反共反ソの思想戦にのめり込んでいった。それが保守と呼ばれた勢力の関心事であり、戦後の保守は親米反共で満足し、真の敵が見えず、自民党の崩壊はその必然の結果である。

 鳩山政権は普天間基地の問題で幼い不始末を天下に晒した。沖縄の基地に変革を加えたいのなら、まず憲法を改正すべきだった。名実ともに国軍の地位を確立し、米軍から信頼の得られる軍事力を備えることから着手すべきだった。

 私は米軍を日本列島から排除すべきだなどといっているのではない。むしろ日本艦隊が米軍と共同して太平洋を管理するという、成熟した関係の構築を目指すべきだと思う。一方的な依存関係から脱することをまず目標とすべきなのだ。

 国家を車に例えるなら、政治、経済、外交、軍事の四輪は同じ大きさでバランスをとることによってはじめてうまく回転する。

 これまでの日本は経済だけが突出して大きく、その経済に外交と軍事の代役を押しつけていた。そんな「経済大国」から脱皮することは、むしろ今後の日本にとって幸いなことだと思う。

アンケート「日本史上最強の女傑」

japan_05.jpg 

 奇妙な企画だと思うが、SAPIO(2010・5・12)が「日本史上最強の女傑は誰か」というアンケートを企画し、第10位に美智子皇后が選ばれ、私がそこに短い文章を書くように求められた。

ちなみに選ばれた10人は次の通りである。
1位  北条政子
2位  神功皇后
3位  春日局
4位  日野富子
5位  淀殿
6位  坂本乙女
7位  山本(新島)八重
8位  乃木静子
9位  野村望東尼
10位  美智子皇后

 なかなか難しい。私の知らない女性もいる。美智子皇后に寄せた私の添え書きは以下の通りである。

無言の説得力を持ちこの国の中心を担う

 明治時代を代表する日本人は政治家にも軍人にもいる。昭和時代を支えた人は誰か。「新しい歴史教科書」でコラムを作成するとき昭和天皇に衆議一決した。ならば平成時代は?まだそんな段階にはならないが、私は美智子皇后を挙げるだろう。

 平成時代は国力の停滞と下降の時代だが、皇室が国民共同体の中心であることはこの方のおかげで守られてきた。民間人から嫁がれて格別のご苦難は国民周知だが、「私はいつも自分の足りない点を周りの人々に許していただいてここまで来たのよ」(雅子妃に語った言葉として伝えられる)は日本人の理想とする皇室の徳、つつましさ、控え目、ありのまま、清潔、謙譲、飾りのなさ、作為のなさ、総じて慎重な心づかいを自然体で現わしていて、しかもその節度と品格ある生活態度の中に、凛として清冽(せいれつ)なつよさをつねに感じさせるものがある。

 女傑とか女丈夫とかの概念とは余りに違うようにみえるが、外国にお出まし賜ってそのお人柄には人を魅了し感服させる無言の説得力のあることがわかり、日本国民として誇らしくも、嬉しくも感じられる。

 昭和天皇亡き後、「第二の敗戦」といわれた平成の御代に、何とかご皇室を、そしてこの国を、ここまで持ちこたえさせてこられたのも、国の中心に魂のあるご存在がおられたからである。

 私は先日「皇室と国家の行方を心配する往復メール」(六)で、美智子皇后のテレビ報道が人格主義に傾くことは最良の皇室報道ではない、という意味のことを書いたのに、私の文章はその傾きを免れていない。自説に矛盾して申し訳ない。しかし、皇后について書けばどうしてもこういうことになるのは何とも致し方ない。ここに書いてある通りに普段考えているから、正直その通りになった。

 尚アンケートは日本史上最高の美女の10人という企画も同時に行っていて、興味があると思うのでついでに紹介する。

日本史上最高の美女10人

1位  お市の方
2位  細川ガラシャ
3位  小野小町
4位  陸奥亮子
5位  和泉式部
6位  原節子
7位  額田王
8位  山本富士子
9位  弟橘媛
10位  石井筆子
10位  吉永小百合
10位  山口百恵

三寒四温

 普通3月のお彼岸前に三寒四温ということがいわれるが、桜が散った4月半ばにこんなに寒くなったり、暖くなったり、気温が大きく動くのは珍しい。昨夜は会合があって外出したが、ひどく寒かった。

 東京は3月23日頃に開花した。そして4月13日、14日頃にようやく散り始めた。が、いっぺんに葉桜にならない。20日以上も開花したままの桜の姿を楽しめたのも寒さのせいと思うが、たえて例のない春だった。

 お花見は二度やった。宮崎正弘さんが主催する恒例の隅田川の遊覧船が3月27日、大石朋子さんが世話して下さった坦々塾の錦糸町公園が4月4日、どちらも二次会まであるお酒の会で、例によって花を愛でるよりも談笑が主で、しかも何を話し合ったかまったく覚えていないのもいつもの通りである。楽しさだけが心に残っている。

 4月10日に日比谷野外音楽堂で講演をした。例の平沼新党が誕生した日なので、平沼赳夫、与謝野馨、中川義雄の三議員といっしょに講演をすることになったが、私は新党とは関係はない。主催者団体が何を企図していたのかはよく分らないものの、信頼すべき方々が主催されていたので私は講演依頼を受けていた。

 この日は幸い日が照っていて一日中暖かった。日比谷の桜もまさに満開のままだった。桜のほかにもチューリップその他春の花が手入れよく苑内の花壇をきちんと整えていた。

 会場にはワック社『WiLL』編集部のNさんが駆けつけて下さった。独自に録音して、持ち帰ったものを文字におこした私の講演原稿は2日後に送られてきた。添え状にお世辞でも次のように記されていたのは嬉しい感想だった。

素晴らしいご講演を誠に有難うございました。
あの後、最後まで、全ての講演を聞いておりましたが、西尾先生のご講演時が最も聴衆が一体となり、湧き上がっていました。

昭和十七年の時点で、「日本が英米を指導しなければならない」と語っていた、哲学者がいたことに大変感銘を受けました。
日本がアジアの香港になってしまうこと、原爆を落とされた国が落とした国に向かって縋りついて生きている異常な構図がいつまで続くのか、という先生の問いかけが、非常に胸に響きました。

 題して「よみがえれ国家意識」という25分の講演は、『WiLL』の4月26日発売号(6月号)の巻頭論文にしてくださるそうで、昨日花田編集長からそう電話があった。

 日本人は高い意識を持たなければいけないのだ。世界は動いている。アメリカや中国の出方にいちいち振り回されていてはいけない。

 昨日も今日も雨模様で、東京は寒い。桜はすでに散ったのだが、まだ枝々は花の色をとどめている。私の家の周りにも桜の樹はいたるところにあり、犬を連れた散歩はこのところ毎日がお花見だった。

 『WiLL』5月号誌上の私と福地惇、福井雄三、柏原竜一の三氏による共同討議「現代史を見直す」シリーズ第5回「半藤一利『昭和史』徹底批判」には続篇がありますが、続篇の分量が多かったため、5月号で終わらず、6月号、7月号に分載されるとの連絡を受けました。3回連載となります。

「外国人制限」がタブーになった 

産経新聞3月30日(平成20年)正論欄より

 
 貴乃花が大相撲の改革に乗り出して相撲協会理事に立候補し、当選するという話題をさらう出来事があった。私は貴乃花の提案する改革の内容に注目した。誰が見ても今の相撲界の危機はモンゴル人を筆頭に外国人力士が上位を圧倒的に占有していることである。若い有能な日本人はこれでは他のスポーツに逃げてしまう。

≪≪≪「人種差別」の批判を恐れ≫≫≫
 
 しかし貴乃花は理事に当選する前も、した後も外国人制限に関する新しい何らの提言もしていない。否、スポーツ評論の世界で現実的で具体的なこの点での揚言をなす者は寡聞にして聞かない。西欧の音楽の世界では、オーケストラでもオペラでも東洋人の数を1人ないし2人に制限している。
 自分たちの文化を大切に思うなら、異邦人に対する厳格な総数制限は当然であり、遠慮は要らない。しかし貴乃花にしても誰にしても決して声を上げない。それはなぜであるか。「人種差別主義者」といわれるのを恐れているからである。外国人地方参政権問題でも、困るのはタブーが支配し、唇寒くなることである。
 
 高校授業料無償化法案をめぐって、金正日総書記の個人崇拝教育が公然と行われている朝鮮学校は対象外とするのが当然なのに、方針があいまいなままになっている。ここでも「差別はいけない」の美しい建前が、侮辱的な反日教育に日本の税金を投じるなという常識をついに圧倒してしまった。

 外国人地方参政権法案が通ると、こうした筋の通らぬおかしなことが全国いたる所に広がり、朝鮮総連や韓国民団の理不尽な権利要求は「差別はいけない」の声が追い風となって、何でも通る敵なしの強さを誇り、中国人永住権獲得者がそれに加わって、日本の市役所や教育委員などはただ頭をぺこぺこ下げて、ご無理ごもっともと何ごとにつけ押し切られてしまうだろう。
 
 政府が「国連」とか「世界市民」とか「人権擁護」といった美しい理念に金しばりに遭い、それに歩調を合わせてメディアが「人権差別」という現代のタブーに触れるのを恐れて沈黙し、言論人やジャーナリストが自由にものが言えなくなってしまうのが、外国人受け入れ問題の、受け入れ国側に及ぼす目に見えない深刻な影響である。

≪≪≪欧州では「内乱」状態に≫≫≫
 
 人口比8~9%もの移民を受け入れた西欧各国の例をみると、反対言論を封じられた怒りが反転して爆発し、フランスやオランダを一時、「内乱」状態に陥れた。ドイツは国家意志が「沈黙」を強いられた悲劇に陥っている。
 
 ドイツの首都ベルリンのノイケルンというトルコ、旧ユーゴ、レバノンからの移民が9割を占める地区の小学校の調査リポート、約9分の国営放送制作の貴重なフィルムを、今われわれはインターネットの動画(YouTube)で見ることができる。「ドイツの学校教育とイジメ・移民政策の破綻(はたん)」の文字を入力して、日本の未来を思わせる次の恐ろしい悲劇をぜひ見ていただきたい。
 
 ドイツの小学校の校内は暴力が支配し、カメラの前で2人のドイツ人少年は蹴(け)られ、唾(つば)をかけられ、安心して歩けない。ここは校内撮影を許されたが、別の小学校である児童は「お前はドイツ人か、トルコ人か」と問い詰められ、「そうさ、ドイツ人さ。神さまなんか信じない」と言ったら、いきなり殴られ、学校中の不良グループが集まってきてこづかれ、「僕は何もできなかった」と唇を噛(か)む。ある少女は宗教をきかれ、「そうよ、キリスト教徒よ」と答えると、みんなから笑われ、「あんたなんか嫌いーッ」と罵(ののし)られた。この小学校の調査訪問を申し出ると、撮影は「外国人差別を助長するから」の理由で公式に拒否された。

≪≪≪逃げ出すのが唯一の解決≫≫≫
 
 リポーターはベルリン市の行政の門を叩(たた)く。移民同化政策の担当者はフィルムを見ても「子供の気持ちは分かるが、そもそもドイツの学校はドイツ人のものだという古い考え方は倒錯した考えだ」と紋切り型の言葉を述べる。リポーターは家庭訪問もするが、母親は「街を出るのがいいのは分かっているけど、私はこの街で生まれたのよ」と言う。経済的に余裕のある人はこの地区に住んでいないとリポートは伝える。街を逃げ出すのが唯一の解決なら「共生」という名の移民政策の破綻ではないかと訴える。

 問題を公にする者は差別者のレッテルを張られ、排除される。このスキを狙い、貧困家庭をターゲットにしたカルト教団が動き出している。問題を公に口外できないタブーの支配が政治の最大の問題である、と。

 ドイツは今、税収不足を外国人移民の増加に依存し、それで救われているのが教会であり、国防軍も外国人の若者に頼るという、首根を押さえられた事態に陥っている。外国人に奪われた土俵を見て見ぬふりの貴乃花の沈黙は、やがて日本の社会全体を蔽(おお)う不幸の発端であり、象徴例であるといっていいだろう。(にしお かんじ=評論家)

はてなダイアリー ドイツでも移民問題(オランダの悲劇)