ニューヨークタイムズの偏見(一)

 11月10日に東京駅ビル内のホテルのロビー喫茶室でニューヨークタイムズの東京支局長のOhnishiという日系人、あるいは日系人ふれこみの東洋人のインタビューを受けた。私は警戒していたので、予定していた内容の話――韓国論である――を二度くりかえし、これ以外に書かないようにしてほしいと頼んで、約20分で切り上げようとした。

 しかし私も人が善いというか、愚かというか、そのあと雑談に移って約1時間半近くも自由放談をたのしんだ。テーマは日韓・日中の歴史的関わりについてである。漫画『嫌韓流』にエッセーを寄稿したことが原因で、インタビューに引っ張り出されたことは知っていたが、まさか自由放談の中の一つの誇張、福沢諭吉の脱亜入欧のところだけをねじ曲げて取り上げられるとは思わなかった。

 じつに沢山の話をしたのである。バカバカしい。その中の一番最後に語ったたった一つのテーマだけが取り上げられた。私の発言からの彼の引用は私の語った通りであって、そんなに不正確ではない。たゞ、1時間半の中の3分程度の部分に関して正確であっても、残りの1時間27分の話の内容が全部カットされているのだから、正確とは言いがたい。

 私を紹介するための一文、「新しい歴史教科書をつくる会」の説明文は歪められた固定観念であって、はなはだ迷惑である。これは彼の勝手な規定であって、デタラメである。外国の新聞というのはひどいことをするものである。新聞記事を見てここが一番ひどいと思って、東京支局にすぐ電話をした。

 新聞自体に抗議するには投書しか方法がないという。投書にも長短二つあって、方法を教えてくれたので、長文の方を選んで書いた。掲載されるかどうかも分からない。ニューヨークタイムズの記事の日付は11月19日。私の抗議文のメイルは11月30日に発せられた。私に関する記事内容に対してだけではなく、記事全体にたゞよう対日偏見に関して短く、鋭く私見を述べた。英訳は柏原竜一氏にお願いした。

 ニューヨークタイムズの記事やそれへの日本での反響を先に掲げ、私の抗議文と英訳は記事や反響の全部を紹介した後に示すことにする。関連記事の選択と配列は長谷川真美さんにお願いした。

歴史は復讐する

 皇位継承問題について、朝日新聞から寄稿を求められた。13字×100行=1300字というわずかな分量だが、担当者との打ち合わせも密にして、コンパクトにまとめることができた。

 少ない語数の中に多くを盛りこむのはむつかしい。できるだけ論理的に書いて、情緒的な形容詞などを省いた。「呪わしい悪夢」の「呪わしい」を削り、「澎湃として沸き起こる」の「澎湃として」を捨てた。それでかえってよかったと思っている。こんなに言葉を切り詰めて、400字詰め原稿用紙で3枚と5行で、ぎりぎり言うべきことを言ったのは初めてである。

 新聞社サイドは天皇制否定の共和制論者、女性天皇の積極論者、それに私の3人を並べて「視点」欄をつくる模様である。他の二人は誰であるのか、私はまだ聞いていない。

 有識者会議の無知の広げた世論に対し、小さな拙文が大きな破壊力を持つことを祈っている。

(以下、12月3日朝日新聞朝刊より転載)

 

 天皇の制度をなくした方がいいと考える人は別として、天皇の存在は日本人に末永く必要だと考え、そのうえで女系天皇でいいと主張するのは間違いだといいたい。

 有識者会議の答申は「将来にわたって安定的な皇位継承を可能にするため」女系天皇をも良しとするが、これは考えが足りない。

 旧宮家の皇籍復帰よって男系を守らない限り、皇位はむしろ不安定でトラブル続きになる。もし女系天皇を頂けば、30~50年後に今の天皇家はその正統性を問われ、政治的に左右両翼から挟み撃ちに遭うだろう。

 左派の最も意識的な天皇制度の否定者は共産党とその関連の知識人である。私のみるところ彼らは、女系天皇の容認は制度のなし崩し的否定に通じると見て歓迎してさえいる。この道を進めば、恋愛や離婚の自由、退位や皇籍離脱の自由、つまり皇族の人権化を通じて天皇制度そのものを破壊できる。「万世一系の天皇」という歴史的正統性からみて疑わしく贋(にせ)ものの天皇だ、と訴えることもできる。

 他方、右派からみても、女系の容認は皇室の系図をめちゃくちゃにするのでとうてい許せない。有識者会議の答申は女性天皇、女性皇族の配偶者も皇族とするといっている。衆議院議員○○家の長男、会社社長△△家の次男といった民間人がいきなり皇族に列する可能性がある。

 これは○○家、△△家の系図が天皇家の系図になるという歴史上例のない事態の出現であり、わが家系を天皇家にしようという権勢権門が競争して殺到するであろう。

 もし愛子内親王とその子孫が皇位を継承するなら、血筋を女系でたどる原則になるため、天皇家の系図の中心を占めるのは小和田家になる。これは困るといって男系でたどる原則を適用すれば、一般民間人の○○家、△△家が天皇家本家の位置を占めることになる。

 どちらにしても男系で作られてきた皇統の系譜図は行き詰って、天皇の制度はここで終止符を打たれる。

 今から30~50年後にこうなったとき、「万世一系の天皇」を希求する声は今より一段と激しく高まり、保守伝統派の中から、旧宮家の末裔(まつえい)の一人を擁立して「男系の正統の天皇」を新たに別個に打ちたてようという声が湧(わ)き起こってくるだろう。他方、左派は混乱に乗じて天皇の制度の廃止を一気に推し進める。

 今の天皇家は左右から挟撃される。南北朝動乱ほどではないにせよ、歴史は必ず復讐(ふくしゅう)するものだ。有識者会議に必要なのは政治歴史的想像力であり、この悪夢を防ぐ布石を打つ知恵だったはずだ。

 小泉首相は国民の意見も皇族の忠告も他の政治家の口出しも認めず、報告書通りに皇室典範改定を強行すると聞くが、独善的、閉鎖的なやり方は、郵政民営化のときとまったく同じ独裁主義の暴走だ。

 解決策は、旧宮家の皇籍復帰、養子縁組、新宮家の創設のほかには考えられない。有識者会議はこの方法について、戦後60年たつので国民の理解が得られないというが、これはおかしい。旧宮家は、明治天皇が皇女を嫁がせるなどした特別な存在であり、○○家や△△家の一般民間人が皇族になるよりは、はるかに違和感が少ないであろう。

ポスト小泉について(四)

 いわゆる造反議員といわれ、郵政民営化法案に反対して党を追われ、離党勧告まで出された無所属議員の大部分が、特別国会で続々と法案に賛成票を投じ、「転向」してしまった。無所属で反対票を投じたのは平沼赳夫氏ひとりであった。

 『読売ウィークリー』(2005.11.13)で平沼氏が興味深いことを言っている。

 「ちょっと残念でした。3、4人は反対すると思っていたのですが。大方の人が『民意に従って』ということを言い訳にして白票(賛成票)に転じていました。でも、民意は100万票も反対派が勝っているんです。国会議員は独立した存在で、その善し悪しは言いたくありませんがね」

 私が宮崎の都城市にまで応援演説に出向いた古川議員も「転向」してしまった側に入る。私に直接票を伸ばすなにほどの力もないが、私の依頼でかなりの数の運動家が加わって、支援組織は強化されたはずである。けれども古川氏からは当選後も私に何の挨拶もない。「転向」が気羞しいのかもしれない。

 郵政民営化法案に反対して彼に投票した有権者を彼は裏切った結果になっている。同じような無所属議員が他に何人もいる。平沼さんは彼らはそれぞれ「独立した存在だから善し悪しを言いたくない」と語って、寛大である。けれども裏切られた思いをした有権者はそのことを次の選挙で決して忘れないだろう。

 それはともかく、平沼氏は立派だった。称賛に値する身の処し方をした唯一の方で、敬服に値する。たゞ不足をいえば、なぜ解散の直後に真正保守派のメンバー、城内実、衛藤晟一、古屋圭司、森岡正宏の諸氏を糾合し、新人も入れて、15人くらいの党を結成しなかったのか。そうすればギリギリまで当選圏に近づいていた城内氏、衛藤氏らは比例で当選しただろう。

 しかし、先述の通り、小泉首相の今後の自民党に対する対応の仕方いかんで、政局は大きく動く可能がある。革命家気取りの彼の傲慢と暴政がさらに加熱し、ある限界点に達することをむしろ期待している。そのときこそ平沼氏の出番である。また裏切られて煮え湯を呑まされた安倍晋三氏が起ち上がる可能性もある。

 小泉氏はどうでもいい。真の敵は自民党内の左翼がかったリベラル勢力である。これを一掃するには党のある自壊現象が必要である。小泉首相は起爆剤になり得る。

 平沼氏は次のように語っている。
 「いまの自民党は、真の自民党ではない気がします。本当の自民党、本当の保守というものを打ち立てることが必要になってくる。そのときには、民主党の一部も巻き込んで、真の保守を打ち立てる局面があるのではないかと考えています。」(前掲誌)

 まったくその通りである。私は大いに期待している。民主党の一部が一日も早く殻を破って保守派と大同団結する日の来るのを祈っている。

 終りに当ってもう一度、小泉郵政選挙の実像を読者に思い出してもらうために、コラムニスト清野徹氏の「小泉劇場に乗っ取られたテレビの自殺」(『週刊文春』2005年10月13日)の中に印象的な名言があったので、その幾つかを書き抜いて記念とすることにしよう。

「ナチス宣伝相のゲッペルスよりも小泉のメディア戦略は巧みだった。」
「ネタを提供してくれる彼をテレビは追いかけた。要は、小泉はホリエモンと二重写しなのである。」
「本来、国民は関心がなかったはずの郵政民営化がぐっと争点に浮上したところに、メディアの役割はあったと思う。」
「郵政民営化の中身が具体的によくわからない、という声をよく聞いた。にもかかわらず、それに丁寧に答えるような番組はなかった。」
「『改革の流れを止めたら日本は終る』と叫んでいた。その言葉に根拠がなくとも、こういうレトリックに若者は動く。『本当にそうなのか?』と自分で考える力がないからだ。」
「かつてナチスが『ハイル、ハイル』と大衆を煽動したように、小泉は『改革、改革』と叫んだ。」

尚、ハイルとはドイツ語で「幸福を与える」とか「救済する」という意味である。
 

ポスト小泉について(三)

 新聞やテレビは「麻」「垣」「康」「三」などといって有力政治家四人のうちの誰がポスト小泉のレースのトップにいるのか、といった競馬じゃあるまいし、ばかばかしい下馬評に浮き身をやつしている。マスコミのくだらない所である。

 すでに観察した通り、第三次小泉内閣は論功行賞をまるで絵に描いたような構成である。ということは、この内閣のメンバーは閣外から白い眼で見られていることを意味する。武部幹事長などは得意満面でいるが、最も党内の一部から軽蔑され、憎悪されていて、時機がきたらばまっ先に粛清される人物であると思われる。

 今までの自民党のように党内合意の上に少しづつ評価を得て階段を昇ってきた人々ではない。竹中平蔵氏も小池百合子氏も政権が変わればやはりまっ先に葬られるだろう。否、今回のおべんちゃらで入閣したメンバーの大半は政権が交替すれば冷や飯を食わされる側に回る人々である。

 首相の任期はあと一年だと公言されているが、四年間は衆議院選挙をしないでいい。自民党内はいま、小泉首相をコン畜生!と思っている人と、小泉時代が終るのを恐怖している人とに別れているといっていい。いわゆる小泉チルドレンの83人は勿論後者である。

 小泉の続行が自分の最大の利益に適う人、つまり小泉時代が終ったらもう自分も終りだと思っている人は党内でいま過半数の勢力ではないだろうか。だとしたら、彼等が平成18年9月の小泉政権の終焉を必死に阻止しようとするなら、数が多いのだから、それを実現するのになんら苦労はいらないだろう。

 私はそういう推理を立てている。ポスト小泉はやはり小泉である。「狂気の政権」が続く不幸の可能性の方がそれが一年後に終る幸福の可能性よりも大きいと見ている。小泉氏の奸智は小泉再選を合唱する仕組みを今度の改造内閣の内に埋め込んでいるといっていい。

 小泉氏はこのあといかにも温厚に、間もなく身を引く運命を静かに待つ大人物、礼節のある紳士のふりをしていればいい。党内の半分以上がすぐ自分は困ったことになると気がつくだろう。「小泉チルドレン」の中には早く猪口邦子のようになりたいと思っている人が少くないだろう。そういう人がヂリヂリと動き出す。今度の入閣で権力を握った左がかった勢力が、どうして麻生内閣や安倍内閣を望むであろう。竹中内閣も可能性はあるが、権力の身の処し方を彼はまだ知らず、多数派が自分を守るのにまだ頼りにできない、そう思うだろう。ほかの誰でもない、やはり安定しているのは小泉首相の続投だ、という気分に次第になっていくだろう。

 方法はいくらもある。中曽根方式で、特例としての総裁任期の一年延長という前例がある。次の参議院選に勝つまで、という理屈も案外に有効である。しかしあと一年で退任すると公言した以上、小泉氏の顔も立てねばならない。任期は自民党総裁のそれであり、総理の任期は無期限である。

 「総総分離論」はいままで自民党の歴史で何度も出てきた。総裁と総理の分離である。以下はどこまでも私の推理であり、根拠のない空想だが、武部自民党総裁、小泉内閣総理大臣、という妙手もあるのである。否、小泉氏の計算の中にすでに入っているアイデアではあるまいか。

 それに、なにも自民党の名にこだわる必要はない。もう一つ別の新しい名前の党に取り替えて、別の党にしてしまえばいいのである。自民党をぶっ壊すと言ってきたのだから、堂々とそれをやればいい。彼がそこまでやる気があるのなら、面白いことになってくる。本当に面白いことになってくる。

ポスト小泉について(二)

 第三次小泉内閣はサプライズもなく、政界の常識に戻った落着いた布陣であるとひとまず安心して受け取られているようである。しかし安心させることがひょっとしてサプライズではないのだろうか。首相の戦術ではあるまいか。

 ここで再び「刺客」さわぎのようなハチャメチャな人事、例えばホリエモンを入閣させるようなことをやれば、首相はいよいよ本当に気が狂ったかと思われ、自分が危いと直観的になにかを感じていたに相違ない。その逆の手を打ってくることはわれわれの想定内にあった。

 けれどもそれなら今度の布陣はバランスのよくとれた堅実な内閣だろうか。どの新聞も「論功行賞色濃く」と書き立てたように、郵政民営化法案の成立のために汗を流した人、決定的な役割を果した人ばかりがズラッと並んでいる。「私たちは首相の御為に誠心誠意励みました」と叫んでいる人々のオンパレードである。

 人事がある程度の論功行賞になるのはやむを得ない。しかしここまで露骨な例は稀である。改造直後の記者会見で、首相は「改革続行内閣」だと謳い、相変わらず改革を公的使命感に結びつけているが、はたしてこの人選が国家のために考え抜かれた「公」の表現だろうか。誰もそうは思うまい。首相の「私」の表現、私心、邪心、下心の表現であろう。

 「偉大なイエスマン」と恥も外聞もなく自己呼称する武部幹事長、30人の総務会で賛成7票、反対5票(棄権18票)をもって多数決と決し、しかも党議拘束までかけた久間総務会長の留任がおべんちゃらの代表であるなら、内閣に目をやると、竹中平蔵総務大臣を筆頭に、小池百合子環境大臣、与謝野馨金融財政担当大臣、二階俊博経済産業大臣、川崎二郎厚生労働大臣、松田岩夫科学技術食品安全担当大臣らもまた一連のごますりメンバーの名前である。

 それにこの他にも、今回は困った人がたくさん選ばれている。社民党から出た方がふさわしい思想の持主が少くない。ヒューマニストぶって死刑廃止の失言をしたあの杉浦正健法務大臣がそうだし、男女共同参画担当とまで銘打った大臣に持ち上げられ、子供みたいにはしゃいでいる「小泉チルドレン」の代表・猪口邦子氏がそうである。男女共同参画社会基本法は今や党内の一部でも再検討の段階に入っているのに、ここでも首相はそういう動きを知らず、自らが「左翼」であると馬脚を露している。

 新三役の一人に選ばれた中川秀直政調会長は、杉浦法務大臣、二階経済産業大臣とともに人権擁護法の推進派であり、公明党の北側一雄国土交通大臣も同類であろう。それに、東シナ海のガス田でひとりがんばった中川昭一氏が農水大臣に横辷りし、これから重大局面を迎えるガス田担当の経済産業大臣に何と二階氏が回った。これはどういう謎を秘めているのであろう。

 二階俊博氏は人も知る通り、なんとまあ、江沢民の銅像を選挙区の和歌山に建てようとして地元の反発で挫折した、愚劣の極を行く媚中派の人物である。中国と激しく渡り合うことになる役になぜ彼を当てたのだろう。なにか秘密がありはしないか。

 噂は勿論ある。10月17日の首相の靖国参拝で中国が反日暴動をもう起させない、という代償に、日本はガス田の開発を放棄し、中国側に事実上開発権を与えた、というのである。そのウラ取引きに走ったのが先日訪中したトヨタの奥田会長だ、というのだが、この交渉に硬派の中川昭一氏は邪魔だから外された、という噂がある。噂は結局、ただの噂で終ってウソだったということになって欲しい。それにしても経済産業省のポストに二階氏が就いたことは不気味である。ガス田の問題はいよいよこれからなのである。軍事衝突の危機を孕んでいることは人も知る通りである。

 第三次小泉内閣は安倍晋三氏と麻生太郎氏という右寄りの政治家を目立つ位置に据えたので、いかにも中国サイドに厳しい内閣、国内左派にも暴走を許さないしっかりタガをはめた政権のような印象を与えているが、内実はどうだろう。

 安倍、麻生、中川(昭)の三氏を除けば、私にいわせればほとんどが怪しげな思想の持主である。谷垣禎一財務大臣も、「加藤の乱」で涙を流したあの加藤紘一氏の弟子筋で、思想はセンチメンタル左翼、私の記憶ではオウム真理教の破防法適用に反対した人である。今度の内閣になぜこんな人ばかりが選ばれたのだろう、と悩ましい思いがする。むしろ内閣全体が党の中心機軸からぐんと左傾したメンバーで成り立っている。安倍官房長官の舵取りは至難の技だろうと言ったのはその意味である。

 自民党はもはやたしかに保守政党ではない。平沼赳夫氏らを今度の選挙で追放してしまった結果、さらに人材払底の悲惨をみせつけている。

ポスト小泉について(一)

 私は文藝春秋6月号のアンケート「ポスト小泉」に答えて、安倍晋三氏を挙げ、400字ほどの理由を書いた。「日録」でもここに掲げておいた。

 私がこれを書いたのは4月である。氏を第一に挙げた私の理由説明は勿論今もまったく変わっていないが、あれから国内の政治環境は激変した。

 10月31日に内閣改造があり、安倍氏は官房長官になった。いつもならお目出度うと慶賀したい処だが、首相が首相であるだけに、茨の道であろうと不安のほうが大きい。麻生外相、中川農水相に対してもひとまず良かったと思うと共に、大丈夫かなァと首相との同道に対し同様に一抹の危惧を抱く。

 皇室典範改正問題がまっ先にくる。人権擁護法の国会上程も近づく。どちらも新官房長官の力量で廃案に持って行ってもらわなくてはならないほど危い内容の法案である。けれども安倍さんは官房長官であるだけに首相と一体といわれて、自分の考えを唱えることができまい。

 皇室典範改正を議する有識者会議はなぜか結論を急いでいる。国民の意見はこれ以上聴聞しないと言っている。女帝論に目立つ反論はないときめつけてもいる。いかなる政治家の口出しも許さないと言っている。さらに皇族の方にもご相談申し上げるつもりはないと宣言している。

 この閉鎖性と独断性は郵政民営化法案のすゝめ方とそっくり同じである。有識者会議のウラで首相の意志が働いているものと予想される。

 女帝論(女系天皇容認論)に異を唱える保守派の主張内容を安倍氏は十分に理解しているはずである。しかし小泉首相の意に逆らって自分の考えを通すことは出来るだろうか。恐らく出来まい。そうなると自分の意見を押し殺す苦しみだけで終らず、言動の矛盾が外に現れてしまうであろう。人権擁護法案を首相が通すと言ったときには、この矛盾はさらに大きくなるだろう。

 北朝鮮への経済制裁は安倍氏の年来の主張であった。一方、首相は頑として経済制裁をしない方針を貫いてきた。スポークスマンにすぎぬ官房長官はここでも矛盾をさらけ出し、拉致被害者の家族たちを失望させるだろう。と同時に、安倍氏への国民的信頼も傾くだろう。

 こんな種類の困難はこれからも相次いで起るような気がする。首相はそうなる情勢を見越しているのではないか。ポスト小泉の第一走者安倍氏に恩を着せる暖かい後見人のような振りをして、そのじつ安倍氏の言動の矛盾を天下に知らしめようとする悪意を隠しているのではないだろうか。

国家崩壊の感覚(二)

 首相の国会演説が「国民」を強調したのはまさに偶然ではない。今度の選挙で民族保守派の議員が多数切り捨てられたことにも必然性がある。この国は恐ろしい勢いで異質の相へ突入しつつある。今まで知られていない、奇妙な国に変貌しつつある。

 それが何処を目指し、行き着く先が何であるかは誰にも分らない。けれども目の前にあるいろいろなものがどんどん壊れていくことに近づく激震が表徴されている。

 たまたま目の前に3冊の新刊の本がある。歌川令三『新聞がなくなる日』(草思社)の表紙には、紙の新聞、宅配の大新聞が消えるのはもはや時間の問題だ、と書かれてある。田原茂行『巨大NHKがなくなる』(草思社)の帯には、肥大化と慢心、事件は起こるべくして起こった、とある。

 NHKの問題というより、テレビというメディアの限界がはっきり意識されだしている。私自身、新聞をあまり読まないし、テレビも見ない。信用していないからである。

 情報の発信元に信頼性がなくなり、情報が拡散し、もやをかぶったように不明になるということは、世界像がもはやわれわれの目に捉えがたくなっていることを意味する。いつの時代にも、自己をとり巻く世界像の崩壊は情報への不信から始まる。

 「大本営発表」は戦争末期に甚だしくなったことを思い出していただきたい。これは意図や策謀ではなく、国家の中枢にいた指導者にも時代がつかめなくなったのである。今の日本の政府や官僚も、本当はどうしてよいか分らなくなっている。

 3冊目の本は浅井隆『最後の2年』(第二海援隊)である。背文字には「2007年からはじまる国家破産時代をどう生き残るか」とあり、帯には「いよいよ財務省内部に預金封鎖特別研究チームが発足し、ハイパーインフレを切望する声も。」

 以上3冊はいずれも2005年9月刊、まさに最新刊で、3冊目は「経済大国」といわれてきたわれわれの国のシステムそのものの瓦解を予告している。この手の威しの本は世に多い、と思う人は、著名な経済学者の中谷巌氏の『プロになるための経済学的思考法』(日本経済新聞社 2005年5月刊)を読むがいい。その第2章にも同じことが書かれてある。

 私は国家は自分を守ってくれるものだとまだ漠然と信じていたし、これからも信じたいのだが、どうもそうではないらしい。「崩壊」は今までは文学的レトリックだったが、これからは現実のテーマである。

 私は不図、最晩年をドイツに亡命する自分を空想した。3冊目の本がニュージーランドへの移住を日本人に奨めているからである。これを読んだとき、氷原を歩いていていきなり足許に大きな裂け目が出来たような眩暈を覚えた。

 小泉氏は自民党を壊したのではなく、国家を壊したのかもしれない。今月号の私の評論「ハイジャックされた漂流国家・日本」(正論)と「郵貯解体は財政破綻・ハイパーインフレへの道だ」(諸君!)は、私のこの、国家と国民が崩壊していく眩暈の感覚に表現を与えたものだといっていい。

国家崩壊の感覚(一)

 小泉首相の今国会の冒頭の、さして長くもない施政方針演説に、「国民」ということばが何度もくりかえし用いられていると、フジテレビの解説者が指摘していた。

 誰か数える人がいたら面白いからやってみて欲しい。予見を自慢するわけではないが、私はこのことをある意味で予知していた。「ハイジャックされた漂流国家・日本」(正論11月号)という最新の評論で、自民公明党も民主党もともに「国民政党」に脱皮したがっているという新しい局面の変化をすでに取り上げているからである。

 自民公明党は特定郵便局、医師会、農協といった支持基盤を、民主党は官公庁や大企業の労働組合という支持基盤を、それぞれ振り捨てるか、あるいはそこと距離をもつことで、真中の曖昧にして不確定な「国民」の概念をつくり始めている。

 今度の選挙で「無党派層こそ宝だ」と首相がはしなくも言ったように、「国民」とは与党が選挙で勝たせてもらった無党派層、浮動票の主である大衆社会のことである。私の考える国民の概念とは異なる。

 国民は元来、歴史や伝統に根ざしたものでなくてはならない。『国民の歴史』が描き出した国民は日本の民族文化と切り離せない。しかし自民公明党を勝利に導いた「国民」は、改革ということばに踊らされ、変化だけを求め、足許のふるさとの土を忘れる現代の大衆社会の人工的な進歩的未来主義の別名といっていい。

 「これは大変に不安定なことになった」と私は書いている。大衆にたえず変化の種子を与えなければならないからである。たえず改革案を提出しなければならないからである。さもないと大衆はついてこない。これは困ったことになった、と私はあの論文で嘆いている。

 何に困ったか。「与野党どっちにとっても革新が善であり、保守は悪となる。能率が価値であり、習慣は敵である。ふるさとは切り捨てられ、競争がすべてに優先する。」と私は書いた。あゝ、いやな国になる、いやな時代が来るとしみじみ思う。

 小泉氏の自民公明党も、前原氏の民主党も、目指している方向は基本的に同じであろう。「国民」の概念は多分共通している。

 「すでに国鉄は民営化されて地方に廃線が多く、郵便ネットワークも将来は危い。農業も、医療も、初等教育も、公平から競争へと移り、日本人の生活全体が“市場原理主義ニヒリズム”とでもいうべきかさかさに乾燥した、薄っぺらに底上げした、味もそっけもない無内容なものに変わり果てて行く。」と私は書いた。

 だから私はあゝ、いやな国になる、いやな時代が来ると慨嘆したのだ。“市場原理主義ニヒリズム”は井尻千男さんがこの意味で使っていた的確な表現だったので借用した。

今日のさざ波

 郵政民営化法案に反対した票は

法案賛成 33,897,275  
法案反対 34,194,372

で賛成した票を上回っていることを教えてくれた人がいる。

 この数字の中には無所属や小会派で戦った人がいる。よく頑張ってあれだけの当選者を出したとむしろ褒めてあげたいくらいである。

 彼らの中には自民党に戻りたい、あるいは戻れると予期していま運動している人がいる。心の迷いは同情するが、見通しの甘さを恥じるべきだろう。

 「日録」に掲げた私の「候補者応援の講演」(六)を見ていただきたい。あれは8月28~29日の演説内容で、まだ公示日前である。私は候補者に、自ら自民党籍を党本部に突き返して、反小泉の旗幟を鮮明にせよ、その方が民主党支援者層に自分のファンを広げるのに有利である、と言った。さっさと腹をくくれと言ったのだ。当選してから「小泉さん、許して下さい、私は郵政賛成派だったんです」はないだろう。縒りを戻せると思うのは甘い。

 当然だが、次の選挙でも公認はもらえまい。次の選挙では今回「刺客」として送りこまれた人が再び公認される。自民党はもう昔の自民党ではないのだ。人情なんか糞くらえだ!戒律厳しいファシスタ党に変質しているのである。 

 それでもまだ野田聖子氏は小泉首相にラブコールを送っている。ようやく腹をくくって、国会の首班指名で小泉の名は書かないと平沼赳夫氏と野呂田芳成氏は宣言した。やっと分ったのである。しかし、それにしても遅すぎた。

 もしも解散直後に37人が束になって反対党を結成していたら、比例も入れて50人の当選者を出すことに成功していただろう。そんなことが出来ないのを小泉首相は見越していた。そういう洞察力はたしかである。

 37人の中には小泉氏の親しい交わりのあった人もいたようだ。彼は自らの非情さを得意としているところがある。「俺は非情だ」と口ぐせのように言う。非情という言葉に酔っているところもある。

 非情冷酷を演技しているのではなく、本当にそうなのである。いつも自分を信長に擬している。知人の臨床心理士は、「非情冷酷の次の段階は残忍非道ですよ。」と言っていた。医学的にはそういう順序になるようである。「いくら何でもと思い、あの『Voice』10月号の図表にはこの四文字は入れませんでした。」

 信長はこの四文字を絵に描いたような人物である。

 さて、話変るが、モスクワ発の次の時事特電をみてほしい。

2005/09/14-22:17
【モスクワ14日時事】インタファクス通信は14日、北京の北朝鮮外交筋の話として、日本政府は同日の日朝会談で、「日朝国交樹立を引き続き望んでおり、この問題を協議するため平壌を訪問したい」とする小泉純一郎首相のメッセージを口頭で伝えることを計画していたと報じた。時事通信

 さあ、お出でなすった。やっぱりそうだった。日朝国交正常化は彼の次なるターゲットである。勿論、北朝鮮の体制転換につながるのなら大歓迎である。相手が何も動かないままの、無条件の国交正常化だけは願い下げにしてもらいたい。

 どうなるか、どうするつもりか、静かに見守りたい。

 尚上記時事特電については、6カ国協議の日本代表団同行筋は「まったくない」と報道を全面否定もしている。真相は勿論われわれには分らない。

 さらにまた平沼赳夫氏は再び態度変更したとの報も伝えられている。こういう局面でぐるぐる姿勢を変えるのがご本人のイメージを損ねる原因になることをどこまでお気づきであろうか。地方応援者への気がねが理由で首班指名選挙で小泉と書き、他方法案にはどこまでも反対する考えという。大変に苦労し、八方に気配りさせられているのである。平沼氏は大人として立派な態度を守っておられる。

 追いこまれた人間を心理的にまた追いこむのは首相の非情さのゆえであって、猫が鼠をいたぶっている姿である。大衆はボロ負けするものはどこまでも負けろと喝采する。今の日本はそういう国になった。

参照:(9/16)民営化反対無所属議員、新会派結成の動き
“今日のさざ波” の続きを読む

ハイジャックされた漂流国家

 小泉首相の任期延長問題を、12日記者会見で首相自らがきっぱり否認した一件について、いろいろな解釈がとびかっている。切りのいい所で退陣してキングメーカーとしての影響力を残す戦術であるとか、いや、党内から任期延長論が湧きあがるのを前提とした高等心理戦術であるとか、そうではない、一年後の引退は本気で、引きぎわの良さという潔さの美学を見せたがっているせいであるとか、まあ、各種各様の解釈が花盛りである。

 私は首相が引退したがっているのは本当だと思う。たゞ、私の推理では――ここから先は私の勘にすぎないが――姉の信子さんから「純ちゃん、もうやり過ぎよ、ここいらでやめておいたら」と内輪で言われているためではないかと思う。

 彼女は弟が能力以上のことを偶然やってしまったことをハラハラして見ているのではないかと思うからである。あまりやりすぎるとヤバイと姉は知っている。私は伝記作家的な空想を語っているにすぎない。けれども私は病跡学(パトグラフィー)を読み耽ってきたニーチェ研究家でもあることを忘れないで欲しい。

 これは心理学的に面白いケースである。と同時に国民には危ういケースでもある。このブログのコメント欄で誰かが書いていたが、ヨーロッパ諸国、ことにイギリスなどでは最高権力者の逸脱を監視し、防止する歯止めが法的に存在する。19世紀には英王室が、20世紀には英国情報部がその役割を担っていたとか。しかし日本の法制度にはそれがない、と。

 小泉首相は郵政民営化だけをやり遂げればそれでもう満足で、他に国内経済改革に課題はないのではないか。医療と農協が次のターゲットだといわれているが、ご本人を夢中にとりこにしたテーマは郵政民営化だけなのである。それは政治信条というより、珍しい蝶を追って森林に分け入り、崖によじ登る少年時代の夢を生涯追求しつづける昆虫学者の情熱にむしろ似ている。詳しい分析は『Voice』10月号に譲る。

 首相は総合的な政治課題を持っていない。この点は今までの四年間で国民の前にさらけ出されている。最大の課題である郵政民営化が解決されずに残っていたので、幸い今日まで情熱を持続することができた。「殺されてでもやる」という有名な台詞は静かな意志表明ではない、思いつめた切迫感情の表白にほかならない。もう課題が後にないことを、だから首相はいつ辞めてもいいと思っていることを、自民党の森派の幹部は十分に知っているのではないだろうか。

 けれども他者を支配する政治家としての欲望は人一倍強い。政治的勘もいい。13日に、83人の新人議員を派閥に入れないことを命令した。小泉派閥をつくるつもりだと新聞は書いたが、私はあゝそうか、とすぐひらめくものがあった。「親衛隊」をつくりたいのである。

 これは独裁形成の確かな手続きの一つである。ご本人がどこまで目的を意識しているかどうかは別として、統治を一元的に強めたい指導者は党の内外に目を光らせる親衛隊を欲しがる。勿論最初はご本人にもそんなつもりはないというだろうが、いわゆる「小泉チルドレン」は結果としてだんだんそういう性格を帯びてくるだろう。

 もし小泉時代がつづけば、一年も経たないうちに、国民一般の目に異常と思われる政策が、党内を沈黙させ、あれよあれよという間に実行に移される局面が展開される可能性は決して小さくはないだろう。

 その際、歴史や伝統に発した真正保守の価値観には決して立脚しないだろう。首相は全学連の世代である。田中真紀子、加藤紘一、山崎拓、羽田孜、福田康夫、鳩山由紀夫、管直人と同じような思想傾向の人である。これも四年間でわれわれにすっかり見抜かれている。だから猪口邦子や片山さつきやホリエモンといった社民党から出たほうがいい人物に好意を寄せるのである。

 首相は集団的自衛権を認めるとは決して言わない。憲法九条の廃棄は自分の代ではやらないといつも逃げを打っている。北朝鮮への経済制裁は強い要請があるにも拘らず手をつけようとしない。拉致の被害者家族に会おうともしない。それどころか選挙中に、自民党候補者が拉致の関係の会に顔を出すことを禁じた。

 靖国参拝はやるかもしれないが、「心ならずも」戦場に赴いた人々などといって散華した将兵の心を知らない談話を平気で口にした。あの大戦は日本が一方的に悪いことをした侵略戦争だというアメリカの史観を引き摺っている。歴史教科書問題などには何の興味もない。そもそも教育問題には関心がない。人権擁護法はマスコミの政治家批判を押える法、政治家の人権を守るための法だとしか理解していない。外国人参政権の是非に意見は述べていないが、公明党に選挙協力のお礼をするためにあっという間に国会に上程するかもしれない。

 それよりも何よりも北朝鮮との国交回復につっ走るかもしれない。アメリカは核の輸出だけ禁じて核の開発を禁じない可能性がある。北朝鮮の「開国」には日本の金が必要といわれれば、核つき国家への巨額援助をあっさり決めてしまうかもしれない。・・・・・・・・

 何をしでかすか分らない人である。国家観、歴史観がしっかりしていないから、この国は外交的に、政治的に、軍事的に、国際社会の荒波を右に左に揺れ動く頼りない漂流国家である性格を今以上に露骨に示すようになるだろう。しかも操舵席は暴走気味の人格にハイジャックされている。

 今までは政府内に右もいれば、左もいて、自由な発言や提案が飛び交い、首相の意志決定に一定の歯止めがかけられていた。しかしこれからはそうはいかない。首相の鶴の一声ですべてがきまる。党内に意見具申の勢力が結集すれば「親衛隊」に蹴散らされる。

 今までの自民党を知る人はこんなはずではなかったとホゾを噛むだろうが、もう後の祭りである。米中の谷間で国家意志をもたない独裁国家、場当たり的に神経反応するだけの強力に閉ざされた統制国家、つまりファシズム国家らしくない非軍事的ファシズム国家が波立つ洋上を漂流しつづけるだろう。

 世間はファシズムというとヒットラーやムッソリーニのことを思い出すがそうではない。それだけではない。伝統や歴史から切り離された抽象的理想、外国の理念、郷土を失った機械文明崇拝の未来主義、過度の能率主義と合理主義への信仰、それらを有機的に結びつけるのが伝統や歴史なのだがそこが抜けていて、頭の中の人工的理念をモザイク風に張り合わせたきらびやかで異様な観念が突如として権力の鎧をつけ始めるのである。それがファシズムである。ファシズムは土俗から切り離された超近代思想である。

 小泉純一郎首班は過渡期の政権だとよくいわれる。そうだとしたら、この次に出てくるものが一段とファシズムの色を濃くしてくるのは必然だろう。ポスト小泉は「小泉的なもの」をさらに拡大した人物になれば、危険はいっそう強まる。

 しかし、前の首相と違うタイプの首相をくり出す自民党の健全な政権交替のルールが行われて、穏やかで、包容的で、安心を与える寛容な人物の手に政権が渡されれば、様相は一変するだろう。自民党の歴史が甦ることを祈るばかりである。

 首相は本当はこれから何をしてよいか分らない孤独な人であるように思える。郵政民営化が終った後の時間は真っ白かもしれない。一年たったら首相を辞めたい、とは本心だと私は思う。それに、いつも寄り添っている女性が幼児期からの彼をよく知っている。伝記作家として夢想する私の耳にはあの声、「純ちゃん、もうやり過ぎよ、ここいらでやめておいたら」と囁く声が聞えるようである。

 音楽をたった独りで聴いている時間が弟の一番幸せな時間であることを彼女はよく知っている、と私は秘かに信じているからである。