小泉首相の任期延長問題を、12日記者会見で首相自らがきっぱり否認した一件について、いろいろな解釈がとびかっている。切りのいい所で退陣してキングメーカーとしての影響力を残す戦術であるとか、いや、党内から任期延長論が湧きあがるのを前提とした高等心理戦術であるとか、そうではない、一年後の引退は本気で、引きぎわの良さという潔さの美学を見せたがっているせいであるとか、まあ、各種各様の解釈が花盛りである。
私は首相が引退したがっているのは本当だと思う。たゞ、私の推理では――ここから先は私の勘にすぎないが――姉の信子さんから「純ちゃん、もうやり過ぎよ、ここいらでやめておいたら」と内輪で言われているためではないかと思う。
彼女は弟が能力以上のことを偶然やってしまったことをハラハラして見ているのではないかと思うからである。あまりやりすぎるとヤバイと姉は知っている。私は伝記作家的な空想を語っているにすぎない。けれども私は病跡学(パトグラフィー)を読み耽ってきたニーチェ研究家でもあることを忘れないで欲しい。
これは心理学的に面白いケースである。と同時に国民には危ういケースでもある。このブログのコメント欄で誰かが書いていたが、ヨーロッパ諸国、ことにイギリスなどでは最高権力者の逸脱を監視し、防止する歯止めが法的に存在する。19世紀には英王室が、20世紀には英国情報部がその役割を担っていたとか。しかし日本の法制度にはそれがない、と。
小泉首相は郵政民営化だけをやり遂げればそれでもう満足で、他に国内経済改革に課題はないのではないか。医療と農協が次のターゲットだといわれているが、ご本人を夢中にとりこにしたテーマは郵政民営化だけなのである。それは政治信条というより、珍しい蝶を追って森林に分け入り、崖によじ登る少年時代の夢を生涯追求しつづける昆虫学者の情熱にむしろ似ている。詳しい分析は『Voice』10月号に譲る。
首相は総合的な政治課題を持っていない。この点は今までの四年間で国民の前にさらけ出されている。最大の課題である郵政民営化が解決されずに残っていたので、幸い今日まで情熱を持続することができた。「殺されてでもやる」という有名な台詞は静かな意志表明ではない、思いつめた切迫感情の表白にほかならない。もう課題が後にないことを、だから首相はいつ辞めてもいいと思っていることを、自民党の森派の幹部は十分に知っているのではないだろうか。
けれども他者を支配する政治家としての欲望は人一倍強い。政治的勘もいい。13日に、83人の新人議員を派閥に入れないことを命令した。小泉派閥をつくるつもりだと新聞は書いたが、私はあゝそうか、とすぐひらめくものがあった。「親衛隊」をつくりたいのである。
これは独裁形成の確かな手続きの一つである。ご本人がどこまで目的を意識しているかどうかは別として、統治を一元的に強めたい指導者は党の内外に目を光らせる親衛隊を欲しがる。勿論最初はご本人にもそんなつもりはないというだろうが、いわゆる「小泉チルドレン」は結果としてだんだんそういう性格を帯びてくるだろう。
もし小泉時代がつづけば、一年も経たないうちに、国民一般の目に異常と思われる政策が、党内を沈黙させ、あれよあれよという間に実行に移される局面が展開される可能性は決して小さくはないだろう。
その際、歴史や伝統に発した真正保守の価値観には決して立脚しないだろう。首相は全学連の世代である。田中真紀子、加藤紘一、山崎拓、羽田孜、福田康夫、鳩山由紀夫、管直人と同じような思想傾向の人である。これも四年間でわれわれにすっかり見抜かれている。だから猪口邦子や片山さつきやホリエモンといった社民党から出たほうがいい人物に好意を寄せるのである。
首相は集団的自衛権を認めるとは決して言わない。憲法九条の廃棄は自分の代ではやらないといつも逃げを打っている。北朝鮮への経済制裁は強い要請があるにも拘らず手をつけようとしない。拉致の被害者家族に会おうともしない。それどころか選挙中に、自民党候補者が拉致の関係の会に顔を出すことを禁じた。
靖国参拝はやるかもしれないが、「心ならずも」戦場に赴いた人々などといって散華した将兵の心を知らない談話を平気で口にした。あの大戦は日本が一方的に悪いことをした侵略戦争だというアメリカの史観を引き摺っている。歴史教科書問題などには何の興味もない。そもそも教育問題には関心がない。人権擁護法はマスコミの政治家批判を押える法、政治家の人権を守るための法だとしか理解していない。外国人参政権の是非に意見は述べていないが、公明党に選挙協力のお礼をするためにあっという間に国会に上程するかもしれない。
それよりも何よりも北朝鮮との国交回復につっ走るかもしれない。アメリカは核の輸出だけ禁じて核の開発を禁じない可能性がある。北朝鮮の「開国」には日本の金が必要といわれれば、核つき国家への巨額援助をあっさり決めてしまうかもしれない。・・・・・・・・
何をしでかすか分らない人である。国家観、歴史観がしっかりしていないから、この国は外交的に、政治的に、軍事的に、国際社会の荒波を右に左に揺れ動く頼りない漂流国家である性格を今以上に露骨に示すようになるだろう。しかも操舵席は暴走気味の人格にハイジャックされている。
今までは政府内に右もいれば、左もいて、自由な発言や提案が飛び交い、首相の意志決定に一定の歯止めがかけられていた。しかしこれからはそうはいかない。首相の鶴の一声ですべてがきまる。党内に意見具申の勢力が結集すれば「親衛隊」に蹴散らされる。
今までの自民党を知る人はこんなはずではなかったとホゾを噛むだろうが、もう後の祭りである。米中の谷間で国家意志をもたない独裁国家、場当たり的に神経反応するだけの強力に閉ざされた統制国家、つまりファシズム国家らしくない非軍事的ファシズム国家が波立つ洋上を漂流しつづけるだろう。
世間はファシズムというとヒットラーやムッソリーニのことを思い出すがそうではない。それだけではない。伝統や歴史から切り離された抽象的理想、外国の理念、郷土を失った機械文明崇拝の未来主義、過度の能率主義と合理主義への信仰、それらを有機的に結びつけるのが伝統や歴史なのだがそこが抜けていて、頭の中の人工的理念をモザイク風に張り合わせたきらびやかで異様な観念が突如として権力の鎧をつけ始めるのである。それがファシズムである。ファシズムは土俗から切り離された超近代思想である。
小泉純一郎首班は過渡期の政権だとよくいわれる。そうだとしたら、この次に出てくるものが一段とファシズムの色を濃くしてくるのは必然だろう。ポスト小泉は「小泉的なもの」をさらに拡大した人物になれば、危険はいっそう強まる。
しかし、前の首相と違うタイプの首相をくり出す自民党の健全な政権交替のルールが行われて、穏やかで、包容的で、安心を与える寛容な人物の手に政権が渡されれば、様相は一変するだろう。自民党の歴史が甦ることを祈るばかりである。
首相は本当はこれから何をしてよいか分らない孤独な人であるように思える。郵政民営化が終った後の時間は真っ白かもしれない。一年たったら首相を辞めたい、とは本心だと私は思う。それに、いつも寄り添っている女性が幼児期からの彼をよく知っている。伝記作家として夢想する私の耳にはあの声、「純ちゃん、もうやり過ぎよ、ここいらでやめておいたら」と囁く声が聞えるようである。
音楽をたった独りで聴いている時間が弟の一番幸せな時間であることを彼女はよく知っている、と私は秘かに信じているからである。