期せずして私の原点回帰

――焚書・皇室・三島由紀夫――

 いく冊もの新刊が重なるようにして次々と出ることになった。運が悪いのである。早く出るべきものがぐんと遅れ、そうこうするうちに次の出版予定が近づいてしまった。

 四つの出版社から立てつづけに五冊出るので、各社の担当者で話し合ってもらった。6月から毎月一冊づつ出るように手順を改めてもらった。それでも混みすぎる。私の愛読者の方ですらウンザリするであろう。

 『GHQ「焚書」図書開封』(徳間書店)が二ヶ月おくれてようやく6月中ごろまでには出る。今週校了である。おくれたのは新事実発見があったという積極的理由からであるから、お許しいたゞきたい。

 ナチスのユダヤ人迫害にユダヤ人の協力があったことは世界に衝撃を与えた。米軍の占領政策に被占領国側の人間の協力は必ずあった。GHQによる「焚書」に日本の知識人、学者、言論人の協力があったに違いない、と私は推論していたが、容易に証明できなかった。

 今度の私の本の冒頭の章で、一定の諸事実を明らかにした。東京大学文学部の関与が判明した。二人の助教授(当時)の名前も明らかになった。そのうちの一人は昭和33年当時文学部長になり、私の卒業証書の発行人でもあった。

 6月7日夜日本文化チャンネル桜の私の持時間帯で、〈『GHQ「焚書」図書開封』の発刊と新事実発見〉と題して、深刻な内容の全貌をざっと紹介をする。

 この本は二巻つづけて出るはずである。8月15日までに第二巻を出す予定である。第三巻は大略一年くらい先になるだろう。

 『WiLL』7月号に「親米、親中の時代は終った」という、15ページの評論をのせている。大型の評論である。この論文の前半は5月号に予定されていた。ところが皇室問題を書いて欲しい、という例の依頼があって、その気になって書くことになり、急遽差し換えた。皇室問題のほうは期せずしてご承知のように5,6月の二号連作となったので、「親米、親中の時代は終った」は後回しになって、やっと7月号に、後半分を書き加えて皆様の目に触れることになった。

 今の私が時代に向かって訴えたいのは、チベット問題でも米中がつながっていますよ、というこの論文のテーマである。皇太子論では必ずしもない。

 「皇太子殿下にあえてご忠言申し上げる」はWiLL 8月号に第三弾を出す約束になっている。私がいかに忙しいかがお分かりだろう。その前にもう一作、『新潮45』に秘密兵器をかかえている。これは出てからのお楽しみにしておいて欲しい。

 書物を五冊出すと言っていた順序は編集担当のみなさんで相談して次のように散らしてもらうことになった。

 6月 GHQ「焚書」図書開封  第一巻 徳間書店
 7月 皇太子殿下へのご忠言  ワック出版
 8月 GHQ「焚書」図書開封  第二巻 徳間書店
 9月 真贋の洞察  文藝春秋
10月 三島由紀夫の死と私  PHP新書

 各冊の内容紹介は追ってそのつど少しづつ申し上げる。が、焚書、皇室、三島由紀夫は別に意図したわけでもないのに、期せずして一つの共通のテーマに向かって収斂しているようにさえみえる。

 全冊のテーマが偶然、一つの原点に向かって集中するかたちになった。本当に不思議である。自分で意図したわけではないのである。私も著述人生の終期を迎えているということなのだろうか。

――WiLL 7月号のこと――

 WiLL 7月号、つまり私の「親米、親中の時代は終った」の掲載されている号に、WiLL 5、6月号の「皇太子殿下にあえてご忠言申し上げる」への反論がのせられている。竹田恒泰という人である。私は今まで読んだことがない若い著者である。

 WiLL編集部が私への反論をのせたのは、またそこで盛り上げて読者の気を引こうという、花田紀凱編集長の商策であろう。それは一目で誰が見てもそうと分るやり方である。

 私は昨日雑誌を受け取って、今日竹田氏の所論を拝読した。旧皇族の方だそうだが、であればなおのことこんな政治的発言をするとなにか欲があるように思われて損ではないだろうか。戦後の熊沢天皇の例もあるのである。

 私が学歴主義という言葉を用いて言おうとした明治以来の文明史的な文脈を竹田氏はよく分っていないらしく、「東大卒のどこがいけないのか」というようなシンプルな捉え方しかしていないし、それに妃殿下問題は病気治療の問題ではなくすでに「国家の問題」と私が言ったことについても、また皇室が国民に今与えている不安や違和感についても、何もお感じになっていない呑気さ、あるいは鈍さである。

 ま、それはともかくいいとして、「日録」の読者ならすぐピンと分ることを以下にお伝えしておこう。

 今夜、WiLL 7月号を発売一日前に入手できる位置にいた友人から電話が入り、こう言っていた。

 「花田さんははめられたんだよ。僕は竹田恒泰という名を見てピンと来たよ。八木秀次がこの人に急接近してか、あるいは取りこんでか、とにかく6月の日本教育再生機構のシンポジウムにこの人が出ることはご存知ですか」

 「いや、知らない」と私。

 「つまり、花田さんはまるきり気がつかないで、WiLLは〈つくる会〉内紛に巻き込まれたんだな。」

 「言っておくけど、あれは〈内紛〉じゃないよ。〈つくる会〉側からみて正義の戦い、公判で黒白つける客観的な正義を問う戦いなんだよ。」

 「いやあーご免、それはともかく、いずれにしても竹田という男は八木に利用されたんだよ。」

 「八木さんは6月6日の地裁の公判に、裁判長からの召喚命令を受けていると聞いているよ。」

 「だからみんな息を詰めて見守っている。いよいよ彼も正念場だ。竹田という人がこんなことを書いて、後で大損しなければいいが。」

 「それは分らないが、この人の文章を読んで、私は何年か前に夜中に八木一派から送られた〈怪メール〉と同じような奇妙な印象、なぜ?という根本の動機の分らない異様なものの印象をもったことは確かなのだ。」

 「そうだ。そうだろう。そのことを言いたかったんだ。フーム、成程ねぇー」

 「それに八木さんの側はどうやら歴史教科書の方も出せないことになったらしく、相当に追いこまれているんじゃないのかな。私は教科書検定の詳しい事情は知らないんだが、拳を振り上げた扶桑社もフジテレビもどうするつもりなんだろうねぇ。」

 「とすれば必死で、手当り次第、利用できるものは何でも使おうというわけだね。謀略好きの人だからね。竹田さんも可哀そうだなァ。」

 と友はしばらく感懐ありげな趣きで、二、三言葉を継いでいたが、やがて別の話題に転じて、しばらく談笑し、電話を切った。いつもの対話の調子である。「日録」の読者には関心があると思うので、ご紹介しておく。

非公開:『三島由紀夫の死と私』をめぐって(一)

kkiga.jpg 私はもう何年前になるか覚えていないが、小浜逸郎さんを介して『飢餓陣営』という個人雑誌を出している佐藤幹夫さんとお識り合いになった。洋泉社の小川哲生さんと三人で何度かご一緒し、酒盃を交したこともある。

 佐藤さんが児童精神病の問題に関心があり、自閉症の少年事犯について立派な著作を出されていることをそのときは知らなかった。彼の関心は持続的で、岩波書店から『裁かれた罪 裁けなかった「こころ」』をもお出しになって、17歳の自閉症裁判のかかえる問題、責任能力、罪と罰、刑罰か治療かといった深層心理にも入る難問に取り組んでおられるらしいことも、最近少しづつ知るようになった。

 『飢餓陣営』は少し前まで『樹が陣営』という名だった。教育や哲学の雑誌で、小浜逸郎さん、長谷川三千子さん、佐伯啓思さん、竹田青嗣さん、刈谷剛彦さんなどがよく寄稿されていることは知っていた。

 今お名前を挙げた方々は、皆さんが私の主宰する勉強会「路の会」に来てお話をして下さった方々であることもお伝えしておく。また、佐藤幹夫さんは『村上春樹の隣には三島由紀夫がいつもいる』(PHP新書)というユニークな一書をもお出しになっている。このことも逸せられない。

 私が『飢餓陣営』に二度にわたって長文の三島論を書くに至った佐藤さん側の勧誘の動機は、「編集後記」に次のような表現で記されている。

前号の三島・吉本特集の執筆依頼者を考えるさい、いま三島由紀夫をきっちり論じることのできる文芸評論家は誰がいるのだろうか、と熟慮を重ねた結果、たどり着いたのが西尾氏でした。企画者自身、まさかこれほどのドラマが隠されていたとは思ってもみませんでしたし、政治イデオロギーで(あるいは政治的予断をもって)なされる、文学作品や文学者に対するレッテル貼りが、いかに文学を理解しない愚かなことか、改めて感じました。西尾氏には深く感謝です。(本論はさらに一章が追加され、PHP新書として刊行予定です。)

 連載の第2回目の載った『飢餓陣営』第33号が3月末ごろに刊行された。宮崎正弘さんがさっそくにメルマガに取り上げて下さった。私が自分で説明するよりも上手にまとめておられるので、感謝をこめてここに掲示させていたゞく。

(宮崎正弘氏のコメント)
ところで西尾幹二氏が事件から38年を経て、はじめて本格的に三島由紀夫を論じています。連載は昨年から『飢餓陣営』という雑誌で開始され、発売されたばかりの2008年3月号(『飢餓陣営』、33号)が二回目です。
 
連載といっても一回分が長い。なんと今月号の第二回は140枚です。
 
論旨は生前の三島さんと西尾氏は一度だけだが、会ったことがあり、三島邸へ招かれて談義のあと、いきなり六本木へ飲みに連れて行かれたときの感動と哀切と友情をこめて書かれた内容で、これが第一回目でした。
 
それを受けた第二回は生前の三島さんが、西尾氏の論じた三島論を本質的なものと注目していたことが、ようやく38年にして明かされます。死の直前の三好行雄氏との対談でも三島さんは、それを活字にしていた。
 
三島さんはこう言っているのです。
 「西尾幹二のこんどの評論は、ぼくの、芸術と行動の間のギャップみたいなものを統一的に説明した良い評論だと思う。だれもいままでやっていなかった」(三好氏との対談、『國文学』昭和45年五月号)。

 
芸術や思想と人生の実生活とは異なり、ショーペンハウエルは厭世主義を唱えたが、楽天家だった。葉隠を書いた山本常長は畳の上で死んだ。それなのに日本の私小説作家には、堕落した日常生活を作品にした太宰治のように、この二元論がない。三島は、日常生活をサラリーマンのように時間を管理して生きたが、作品のなかでは勇躍無尽だった。
 
三島の口癖は「ヴェルテルは自殺したが、ゲーテは死ななかった。トーマス・マンは銀行員のような私生活を送っていたが、デカダンな小説を書いた」
 事件後、わかって良いはずの保守陣営がさっぱり三島の本質をわからず、論評せず、江藤淳に至っては、あれは「ごっこ」だったと言い張って、論壇自体が大いにしらけていた。
 
そうした知的情況の中で、西尾さんはおおいに傷つけられ、ニーチェの翻訳に没頭していく空白期が赤裸裸に描かれています。
 
完結後の単行本が早くも、待たれます。また既報のように今年の憂国忌は、この本をテーマに西尾幹二氏の記念講演です。(11月25日、九段会館)。

(なおこの雑誌『飢餓陣営』33号は池袋リブロ、神田東京堂、高田馬場芳琳堂、八重洲ブックセンター、大阪りょうざんばく、京都三月書房、久留米リブロ、池袋ジュンク堂などでしか扱っていません。直接の申し込みは
 273-0105 鎌ヶ谷市鎌ヶ谷8-2-14-102 佐藤幹夫
 メール miki-kiga@kif.biglobe.ne.jp
 郵送注文は送料とも1200円。郵便振替 00160-4-184978 飢餓陣営発行所(名義)です。

 憂国忌のことはまだ悩んでいるが、宮崎さんは掲載雑誌の販売ルートまで書いて下さっているのは大変ありがたい。どこの書店にも置いてある雑誌ではないので、文末の指示に特段のご注意を払っていただきたい。

 では、私の今度のこの仕事は、どのような目的と狙いから書かれたか。第2回目の掲載文の冒頭で、私自身が次のように説明しているので、以下にこれも紹介しておきたい。

 本稿で私は三島文学を論究するのでも、三島さんの死をめぐる諸解釈を再吟味するのでもありません。三島さんの文学もその死をめぐる諸説も、本稿の目的とする範囲を超えていることをあらためて申し述べておきます。私は最初にも言った通り、死の前後に偶然この作家に精神的に関わった執筆者として、直前と直後に書いた自分の文章をとりあげ、前と後とで共通する主題を再提出するだけでなく、微妙な内容の変化と世間の反応の移動を思い出すままに報告したいのです。これが第一点です。

 次いで私が三島さんの死の前に書いた文章に三島さん自身が生前反応していたという興味深い事実があります。このことを私は今まで人前で話すことはありませんでした。私自身がそういう事実のあることを人から教えられたのは彼の死後です。私があえてそれを取り上げなかった理由は、今思い返すと複雑です。「三島事件」となったあの死以後、各方面の人々が、「私は三島さんからかくかくの次第で接近がなされ、今思えば謎の死の秘密を解く鍵だった」と言い立てるケースが数多くみられたからです。同じ仲間と思われるのがいやだというよりも、私のケースも同類なのかもしれないという思いは正直あります。

 三島さんが寄せた私への関心を本気にしなかったのではなく(私は当時も今も本気にしています)、話題を遠斥けたもう一つの理由は、前にも申し述べた「恐怖」にあります。私は単純に怖かったのです。「三島と西尾は思考のパターンが似ている」と秘かに保守系知識人の仲間――当時の日本文化会議のメンバー、等――に噂された事実があり、私は威かされているような、からかわれているような不安な心情に襲われました。

 あの時点では「お前もテロリストか」といわれているのと同じですから愉快なはずはありません。

 三島さんの私への言及を私が逃げたもう一つの理由は、後で詳しい分析を語りますが、ひょっとすると生前の三島さんを私が私の論理で死へ向けて追いこんだのではないかという内心の危惧の念があったからでした。今はそんな心配はしていません。しかし当時は不安でした。そう思った理由はそれなりにあるので、この件はだんだんにお話します。

 以上のような次第で、本稿は三島文学論でも、その死の総括論でもなく、死の直前と直後に彼に言及した一執筆者の体験の報告に目的を限定します。

『GHQ焚書図書開封』の刊行が決定

再掲示

 現在西尾幹二先生自身の筆による「西尾幹二のインターネット日録」は休載中ですが、許可を得て、管理人が西尾先生関連のエントリーを挙げています。

 今回は近く発刊される西尾先生の新刊についてです。紹介文は西尾先生の手によるものです。

 『GHQ焚書図書開封』の刊行は、空白の歴史の回復、自国史に関する広い新しい視野の獲得のための試みです。

 昭和8年頃から昭和19年までの日本の目星しい書物が敗戦後GHQによって没収されました。その数は現在の研究で7100冊に及ぶとみられていますが、完全に忘れられ、今では一般の人の目に触れることはありません。

 戦後わずかに古書店と個人所有と一部の図書館に残存した以外には、ことごとく米占領軍によって消されました。官公庁や学校や版元や流通ルートが所有することは禁止されました。また仮に古書店にあっても、戦前、戦中を否定したこの国の国民は、あえて手に取ってみようとする者はほとんどいませんでした。

 私は『日本人はアメリカを許していない』の中で、10冊程度焚書図書を利用した論文を書いています。

 「文化チャンネル桜」の水島総社長が1200冊ほどの焚書図書のコレクションを作成し、いまなお蒐集中です。私はこれを使用して紹介、解説する番組を放送する機会を与えられました。

 番組はいまなお放送続行中ですが、最初の16回分のタイトルは以下の通りです。( )内は放送日。徳間書店が刊行を決定し、活字におこす作業を開始しました。

 第1回:占領直後の日本人の平静さの底にあった不服従に
      彼らは恐怖を感じていた (2月1日)
 第2回:一兵士の体験した南京陥落 (2月15日)
 第3回:太平洋大海戦は当時としては無謀ではなかった (3月1日)
 第4回:正面の敵は実はイギリスだった (3月15日)
 第5回:太平洋上でのフランスの暴虐 (3月29日)
 第6回:オーストラリアは何故元気がない国家なのか (4月11日)
 第7回:オーストラリアのホロコースト (4月25日)
 第8回:南太平洋の陣取り合戦 (5月9日)
 第9回:シンガポール陥落までの戦場風景 (5月23日)
 第10回:人権国家フランスの無慈悲なる人権侵害 (6月6日)
 第11回:アメリカ人が語った真珠湾空襲の朝 (6月20日)
 第12回:オランダのインドネシア侵略史 ① 7月3日
 第13回:オランダのインドネシア侵略史 ② 7月31日
 第14回:日本軍仏印進駐の実際の情景 8月28日
 第15回:日本軍仏印進駐下の狡猾惰弱なフランス人10月2日
 第16回:『米本土空襲』という本 10月23日

 以上は300冊程度の焚書図書をしらべ、30冊程度を取り扱った結果で、氷山の一角のそのまた一角の紹介にすぎません。

 以上の出版の後にも、放送は続行し、出版も継続されるはずです。私の出版が何冊で終わるかも今の処わかりません。それでも氷山の一角のそのまた一角のレベルを越えることはないでしょう。

 60年間顧みられることなく放置されていた未知の歴史情報の回復には、60年を要するのかもしれません。私の仕事はどこまでも「開封」であって、それ以上のものではありませんが、この「空白の歴史」を埋めなければ「国民の歴史」は欠損のままで、いつまでも完成しないのです。

 第一冊目は来年早々にも出版されると思います。

文・西尾幹二

『GHQ焚書図書開封』の刊行が決定

 現在西尾幹二先生自身の筆による「西尾幹二のインターネット日録」は休載中ですが、許可を得て、管理人(長谷川)が西尾先生関連のエントリーを挙げています。

 今回は近く発刊される西尾先生の新刊についてです。紹介文は西尾先生の手によるものです。

 『GHQ焚書図書開封』の刊行は、空白の歴史の回復、自国史に関する広い新しい視野の獲得のための試みです。

 昭和8年頃から昭和19年までの日本の目星しい書物が敗戦後GHQによって没収されました。その数は現在の研究で7100冊に及ぶとみられていますが、完全に忘れられ、今では一般の人の目に触れることはありません。

 戦後わずかに古書店と個人所有と一部の図書館に残存した以外には、ことごとく米占領軍によって消されました。官公庁や学校や版元や流通ルートが所有することは禁止されました。また仮に古書店にあっても、戦前、戦中を否定したこの国の国民は、あえて手に取ってみようとする者はほとんどいませんでした。

 私は『日本人はアメリカを許していない』の中で、10冊程度焚書図書を利用した論文を書いています。

 「文化チャンネル桜」の水島総社長が1200冊ほどの焚書図書のコレクションを作成し、いまなお蒐集中です。私はこれを使用して紹介、解説する番組を放送する機会を与えられました。

 番組はいまなお放送続行中ですが、最初の16回分のタイトルは以下の通りです。( )内は放送日。徳間書店が刊行を決定し、活字におこす作業を開始しました。

 第1回:占領直後の日本人の平静さの底にあった不服従に
      彼らは恐怖を感じていた (2月1日)
 第2回:一兵士の体験した南京陥落 (2月15日)
 第3回:太平洋大海戦は当時としては無謀ではなかった (3月1日)
 第4回:正面の敵は実はイギリスだった (3月15日)
 第5回:太平洋上でのフランスの暴虐 (3月29日)
 第6回:オーストラリアは何故元気がない国家なのか (4月11日)
 第7回:オーストラリアのホロコースト (4月25日)
 第8回:南太平洋の陣取り合戦 (5月9日)
 第9回:シンガポール陥落までの戦場風景 (5月23日)
 第10回:人権国家フランスの無慈悲なる人権侵害 (6月6日)
 第11回:アメリカ人が語った真珠湾空襲の朝 (6月20日)
 第12回:オランダのインドネシア侵略史 ① 7月3日
 第13回:オランダのインドネシア侵略史 ② 7月31日
 第14回:日本軍仏印進駐の実際の情景 8月28日
 第15回:日本軍仏印進駐下の狡猾惰弱なフランス人10月2日
 第16回:『米本土空襲』という本 10月23日

 以上は300冊程度の焚書図書をしらべ、30冊程度を取り扱った結果で、氷山の一角のそのまた一角の紹介にすぎません。

 以上の出版の後にも、放送は続行し、出版も継続されるはずです。私の出版が何冊で終わるかも今の処わかりません。それでも氷山の一角のそのまた一角のレベルを越えることはないでしょう。

 60年間顧みられることなく放置されていた未知の歴史情報の回復には、60年を要するのかもしれません。私の仕事はどこまでも「開封」であって、それ以上のものではありませんが、この「空白の歴史」を埋めなければ「国民の歴史」は欠損のままで、いつまでも完成しないのです。

 第一冊目は来年早々にも出版されると思います。

文・西尾幹二

「株式日記と経済展望」からの書評(四)


 現在西尾幹二先生自身の筆による「西尾幹二のインターネット日録」は休載中ですが、許可を得て、管理人(長谷川)が西尾先生関連のエントリーを挙げています。
 
 今回は、「ブログ株式日記と経済展望」から、西尾先生の文章の論評を、許可を得て転載します。今回のものは昨年(平成18年)9月13日に書かれたものです。その予見を一年たって読むのも面白いものです。なお、この文章は『国家と謝罪』に掲載されています。

憲法改正に5年もかけるという気の長さはやらないと言っているに等しい

安倍氏が中国への対決姿勢を捨て協調路線を散らつかせて、憲法
改正に5年もかけるという気の長さはやらないと言っているに等しい

2006年9月13日 水曜日

◆<自民総裁選>安倍氏VS参院自民 参院選めぐり波風

毎日新聞の記事はこちらを参考にしてください。

◆「小さな意見の違いは決定的違い」と言うこと(五) 9月13日 西尾幹二

 いま新聞や週刊誌は誰が大臣になれるかなれないか、幹事長や官房長官の座を射とめるのは誰か、そんな話題でもち切りである。誰が大臣になっても同じだと嘲笑う一方で、誰それは必ず何大臣になりそうだとかなれそうでないとかの情報をまことしやかに、さも大事そうに伝える記事も忘れずに書く。
 
 マスコミの習性は昔から変わらない。そして学者や言論界の予想されるブレーンの名前を添え書きするのも毎回同じである。ただ今回は、「新しい歴史教科書をつくる会」の紛争記事でおなじみになった名前、岡崎久彦、中西輝政、八木秀次、伊藤哲夫の名前がたびたび登場するのが注目すべき点であろう。

 当「日録」でしばしば扱われてきた方々が新内閣のブレーンとして重職を担うということになるのだそうである。もしそれが事実であるとすれば、「歴史教科書」をめぐって最近起こった出来事、すなわちかの激しい紛争と安倍新政権とがまったく無関係だと考えることは、どうごまかそうとしても難しいだろう。

 「日録」に掲げられた「つくる会顛末紀」「続・つくる会顛末紀」をお読みになった方は、「つくる会」紛争のキーパーソンが日本政策研究センター所長の伊藤哲夫氏であったことに薄々お気づきになったに違いない。旧「生長の家」の学生運動時代において、「つくる会」宮崎元事務局長と同志であり、「つくる会」元会長八木秀次氏とは師弟関係、あるいは兄貴分のような位置関係にあると見ていい人だと思う。

 思えば安倍政権の成立に賭けてきた伊藤氏の永年の情熱には並々ならぬものがあった。それは悪しき野心では必ずしもない。自分の政治信条を実現するうえで安倍氏は最も役に立つ、という判断に立っている。「安倍さんは自分たちの提案を一番聞いてくれる」と伊藤氏はよく言っていた。

 伊藤氏はシンクタンクの代表者であり、アドバイザーである。昭和天皇冨田メモ事件における安倍氏の記者会見の発言は伊藤氏に負う所大であると秘かに伝え聞く。これからも伊藤氏は安倍新内閣を側面から扶助し、相応の権力を分与される立場に立つであろう。

 伊藤氏がそうなることは氏の永年の夢の実現であり、昔の友人として私はそのような状況の到来を喜んでいる。氏は思想家ではないと自分で自認している。氏は言論人でもない。政治ないし政界にもっと近い人である。フィクサーという言葉があるが、そういう例かもしれない。故・末次一郎氏のような役割を目指しているのかもしれない。

 伊藤氏のような仕事を目指す方がこういう補完的役割を果すということは、それ自体はとても良いことなのだが、中西輝政氏や八木秀次氏は学者であり、言論人であり、思想家を自称さえしているのであるから、伊藤氏とは事情を異にしていると言わなければならない。

 中西輝政氏は直接「つくる会」紛争には関係ないと人は思うであろう。確かに直接には関係ない。水鳥が飛び立つように危険を察知して、パッと身を翻して会から逃げ去ったからである。けれども会から逃げてもう一つの会、「日本教育再生機構」の代表発起人に名を列ねているのだから、紛争と無関係だともいい切れないだろう。

 読者が知っておくべき問題がある。八木秀次氏の昨年暮の中国訪問、会長の名で独断で事務職員だけを随行員にして出かけ、中国社会科学院で正式に応待され、相手にはめられたような討議を公表し、「つくる会」としての定期会談まで勝手に約束して来た迂闊さが問われた問題である。中国に行って悪いのではない。たゞ余りに不用意であった。

 折しも上海外交官自殺事件を厳しく吟味していた中西輝政理事に、会としてこの件の正式判定をしてもらうことになった。高池副会長が京都のご自宅に電話を入れた。その日の夕方、中西氏からそそくさとファクスで辞表が送られてきた。電話のご用向きは何だったのでしょうか、の挨拶もなかったので、会の側を怒らせた。

 上海外交官自殺事件その他で、中国の謀略への警告をひごろ論文に書いている中西氏が、八木氏の中国行きを批判し叱責しなかったら、筋が通らないのではないだろうか。書いていることと行うこととがこんなに矛盾するのはまずいのではないか、という中西氏への非難の声が会のあちこちで上ったことは事実である。

 中西氏は賢い人で、逃げ脚が速いのである。けれども「つくる会」から逃げるだけでなく、もう一方の会からも逃げるのでなければ、頭隠して尻隠さずで、政治効果はあがらないのではないだろうか。とすればもう一方の会からは逃げる積りがないことを意味しよう。

 伊藤哲夫氏の日本政策研究センターは安倍晋三氏を応援する「立ち上れ!日本」ネットワークという「草の根運動」を昨年末ごろに開始している。安倍氏もそのパンフに特別枠の挨拶文をのせている。総裁選のための人集めと思われる。中西輝政氏も、八木秀次氏もそこに名を列ねている。

 すべてのこうした複数の名前が鎖につながれるように一つながりになって、「つくる会」を「弾圧」する側に回っていた背景の事情を、私はとうの昔に見通していた。しかし世の中は、安倍政権が近づいて、学者や言論界のブレーンの名前が新聞に出ないかぎり、どういうつながりが形成されていたかをなかなか理解しない。

 伊藤哲夫氏が「立ち上れ!日本」ネットワークのような特定政治家応援の運動を展開することは氏の自由に属する。氏の本来の仕事でもあるから結構なことである。

 私は伊藤氏のそうした政治活動を非難しているのではない。伊藤氏よ、間違えないで欲しい。

 そうではなく、伊藤氏が宮崎元事務局長を死守しようとして「つくる会」の人事権に介入し、八木秀次氏の「三つの大罪」(前回参照)を認めずに八木氏を背後からあくまで守ろうとして、一貫して「つくる会」を「弾圧」する理不尽な行動を強行したことを私は責めている。氏はこの事実をまず認め、反省してほしい。

 そして衆目の見る処、伊藤氏の「つくる会弾圧」の力の源泉は安倍晋三氏にあると考えざるを得ない。そのことが新聞に名が出ることで誰の目にも次第に明らかになってきた。

 総理大臣になる前に安倍氏がかねて最も大切にしていたはずの「歴史教科書」の会を混乱させ、分断にいたらしめたことに自ら関与しなかったにしても、結果的に、間接的に、関与していたという事情が次第に明らかになることは、安倍氏の不名誉ではないだろうか。

 「歴史教科書」と並ぶもう一つのタームである「靖国」に対しても、安倍氏は総理大臣になる前に、その遊就館の陳列の改悪に関して、岡崎久彦氏を使って手を加えさせようとしたのではないかという疑念がもたれている。

 私は今の処この件に関し背後の闇に光を当てる材料をもたない。しかし安倍氏ご本人が忙しくてどこまで自覚しているかは分らぬにせよ、伊藤哲夫氏や岡崎久彦氏のような取り巻きがこのように勝手に動いて安倍氏の首班指名前の歴史に泥を塗るようなことが起こっているのは事実ではないだろうか。

 私は伊藤氏が「歴史教科書」に関して八木氏が犯したような「三つの大罪」を犯しているなどとは全く考えていない。しかし、氏が「八木さんは悪くない。八木さんを支持して下さい」とあっちこっちで言って歩いていたのは間違いない事実である。

 以上のような八木氏の持上げは伊藤氏が安倍晋三氏の指示を受けてやったことなのか、ご自身の勝手な判断で安倍氏の意向を汲んでのことなのか、それともまったく安倍氏とは関係のない自由判断なのか。

 そのことは時間が経つうちに次第に明らかになるだろう。

 私は「つくる会」の紛争に安倍氏が無関係であったどころか、並々ならぬ関与があったのではないのかという疑いに一定の推論を試みているのである。「歴史教科書」と「靖国」という外交上の条件を新政権の成立前にともかく替えてしまいたい。その手先になって働く者は誰でもいいから利用したかったのではないか。

 安倍氏の靖国四月参拝は、小泉八月十三日前倒し参拝と同じ姑息な一手に見えてならない。氏が中国への対決姿勢を捨て協調路線を散らつかせているのも気になる。今さら憲法改正に5年もかけるという気の長さはやらないと言っているに等しい。国民の反応よりも、アメリカの顔色をうかがっているのかもしれない。参議院候補者の見直しは唯一の勇気ある態度表明だが、もう恐いものなしと見ての党内大勢を見縊っての発言であって、総裁選より参院選の方が心配だからである。中国とアメリカへの彼の態度の方はいぜんとして不透明で煮え切らない。

 「歴史教科書」を新米色に塗り替え「靖国」の陳列にアメリカへのへつらいを公言した岡崎久彦氏の干渉は、安倍氏の意向の反映でなかったと言い切れるか。

 12月末中国を不用意に訪問し、定期会談を約束し、慰安婦や南京で朝日新聞を失望させない教科書を書くと「アエラ」発言をした八木秀次氏の軽薄な勇み足は、安倍氏の外交政策の本音をつい迂闊に漏らした現われでなかったと果して言い切れるか。

(私のコメント)注:私とは株式日記と経済展望の著者2005tora氏のことです。

小泉内閣の功罪としては権力を官邸に集中させた事ですが、安倍氏が新首相になった場合にうまく機能するだろうか? 小泉首相はYKKの時代から経世会を相手に渡り合って来たから、ある程度のリーダーシップは持っていた。安倍氏の場合はタカ派のイメージではあっても政局の修羅場の経験があまりない。

日本の総理大臣がこれだけ権力が集中すると責任の重さに潰されてしまった首相もかなりいる。ある意味では日本の総理大臣はアメリカの大統領よりも権力が集中している。アメリカの大統領には議会の解散権はないし、二期八年経ったら辞めなければならない。それに対して小泉首相は自己の判断だけで衆議院を解散させてしまった。

それくらいのワンマンでないと日本の総理大臣は務まらないのかもしれない。かつては権力が分散して各自に任せていればよかった時代もあった。だから誰がなっても総理大臣が務まったとも言えるのですが、安倍氏が総理大臣になったときに集中した権力を使いこなす事ができるだろうか?

これだけ権力が集中すれば総理の周りには多くの有能なスタッフがいないとコントロールしきれない。そのスタッフのメンバーとして中西輝政、岡崎久彦、八木秀次、伊藤哲夫氏などの名前が挙がっている。小泉首相にはとくにブレーンはおらず亡国のイージ○が全て裏で動き回った。それに対して安倍氏は裏で動く人がおらず、汚れ役がいない。

小泉首相が独断で行動が出来たのも、亡国のイージ○が全て裏で手配して動いてくれたからですが、今回も安倍氏は来年の参院選での候補者の人選について見直すと言っていましたが、誰が決定をして誰が根回しをするのだろうか? このような実務を取り仕切る人が必要なのですが、単純に小泉首相の真似をしてもうまくいくはずがない。

おそらくは森派の森会長と亡国のイージ○が同じように総理大臣を動かして行くのだろうか? さらにはアメリカ政府のバックアップもなければ安倍政権は長続きできないし、しばらくは小泉首相が作った組織を引き継いで行くしかない。とくに大臣人事は政局の原因になるだけに細心の注意が必要ですが、自薦他薦が渦巻いて小泉流にやるのも大変だ。

政策ブレーンも登用する話も出ていますが、小泉流に民間から大臣を登用するのも人気取りにはなりますが民間登用大臣は結局は飾りにしかならず、竹中氏も最終的には国会議員になった。だから政策ブレーンも人気取りに過ぎないのでしょうが、最初は国民の支持率を高めるために何でもやる必要がある。

株式日記では安倍氏の支持も不支持も決めていませんが、靖国問題や憲法改正問題などでの妥協的な態度が気になります。5年がかりで憲法改正では自分の任期中には憲法改正はやりませんと言っているに等しく、靖国神社も今年の8月15には参拝しなかった。つまり対中政策も妥協的になるのだろうか?

西尾幹二氏のブログに寄れば、安倍内閣では政策ブレーンに「作る会」のメンバーの名前があがっていますが、「作る会」の分断工作にも安倍氏が絡んでいるのだろうか? それとも亡国のイージ○が動いたのだろうか? 

同じ保守派思想にも、自主独立路線と、親米路線がありますが、私は理念としては自主独立であり、現実的対応として当面はアメリカとの同盟を組むと言うスタンスなのですが、日本での親米派は理念としても自主独立を放棄してアメリカべったりなのだ。

文・株式日記と経済展望:2005tora氏

『日本人はアメリカを許していない』(その四)

株式日記と経済展望より、『日本人はアメリカを許していない 』 西尾幹二(著) の書評を転載させていただきます。

 

西尾幹二著の「日本人はアメリカを許していない」は刺激的な題名ですが、歴史カードを中国や韓国のみならずアメリカが切り始めたことが問題だ。西尾氏は新版のまえがきで次のように述べている。

◆まえがき

 内閣が小泉氏から安倍氏に替わる直前にアメリカから雷鳴のようなニュースが届いた。平成十八年(二〇〇六年)九月十三日、米下院国際関係委員会(共和党のハイド委員長)が慰安婦問題に関する対日決議を行ったというニュースだった。靖国ではなく、ことあらためて慰安婦であることにわれわれは驚いた。すでに清算ずみの話だからである。

 法的拘束力を伴わない決議形式にすぎないが、慰安婦問題(強制連行説)は存在しないとしてきた日本側の議論への公式反論もあり、「学校教育での指導」まで言い出していて、これは歴史教科書の内容へのアメリカからの新たな干渉であるから、いったいこの間に何が起こったのか、日本側は不可解と不安の念に捉われた。

 次いでアメリカ下院外交委員会のハイド委員長は、同年九月十四日、靖国神社の遊就館の展示内容の変更を求める見解を公聴会で陳述した。民主党のラントス筆頭委員は、小泉前首相の靖国参拝を非難して、「次期首相はこのしきたりを止めなければいけない」と参拝中止を求めた。新首相誕生の直前に、さながら機先を制するかのごとき、タイミングを測ったアメリカからの素早い牽制であった。

 いったいアメリカはにわかにどうして中韓並みの反日政策に転じたのだろうか。中間選挙で民主党が議会の過半を占めたせいもあるといわれるが、下院外交委員会に、民主党マイク.ホンダ議員によって従軍慰安婦に関する対日非難決議案が上程されて、局面はさらに悪化した。十二月にいったん廃案になったが、平成十九年(二〇〇七年)一月に再上程され、三月まで議論は沸騰し、米国時間六月二十六日に採択された。本会議でも採択される可能性は高い(六月二十九日現在)。

 非難の内容は、二十万人の強制連行による性奴隷の制度を旧日本軍が管理したという荒唐無稽な暴論に蔽われている。アメリカ議会の中に、過去にどの国もが犯罪を冒し、アメリカを含めすべての国が十分に謝罪しているわけではない、とホンダ提案をたしなめる良識的見解を述べる議員もいて、反日色ですべてが塗りこめられているわけではない。

 しかし、その間に、「狭義の強制はなかった」とする安倍新首相の国会発言が出るや、たちまち議会は反日感情に傾き、シェーファー駐日大使のきつい安倍批判の言葉もあった。また、靖国問題については、ブッシュ元大統領(父)による日本の首相の靖国参拝反対発言があった。いったいなぜアメリカの論調はかくも変容したのであろう。

 歴史カードがアメリカからきたのだということが問題である。これが日本人に衝撃と不安を与えている新しい局面である。(P8~P9)

《私(株式日記と経済展望の著)のコメント》

「株式日記」では以前にも書きましたが、大東亜戦争は今でも終わってはいない。武力による戦闘は終わりましたが、思想戦、言論戦による戦闘はまだ終わってはいない。東京裁判で徹底的な思想改造が行なわれて、日本は侵略戦争を行った犯罪国家とされてしまいましたが、アメリカは勝手に戦争のルールを変えて日本を罰してきたのだ。

日本は今までのような限定戦争のつもりで開戦しましたが、アメリカは中国からの無条件即時撤退を求めてきた。しかしそれがいかに困難であるか、アメリカがイラクから撤退できない事からもわかるはずだ。つまりアメリカは無理難題を吹っかけてきて日本を戦争に追い込んできたのだ。まさに本土でアメリカインディアンを追い込んで絶滅させたのと同じ方法だ。アメリカはミスを重ねると何をやるか分からない恐ろしさを持っている。

日本人はアメリカを許していない』(その三)

株式日記と経済展望より、『日本人はアメリカを許していない 』 西尾幹二(著) の書評を転載させていただきます。

書評 / 2007年08月06日
『日本人はアメリカを許していない 』 西尾幹二(著) 歴史カードがアメリカからきたのだということが問題である。これが日本人に衝撃を与えている。

2007年8月6日 月曜日

◆『日本人はアメリカを許していない』 西尾幹二(著)

◆限定戦争と全体戦争

 もうひとつ忘れてならないのは、第二次大戦の緒戦における日本軍の行動の不審さである。これは、われわれがどう考えても、歴史を考えるたびに不思議でならない点だ。一九四一年七月、日本軍が南部仏領インドシナに進駐したとき、時の日本政府は、アメリカの経済封鎖による報復を予想していない。

 さらに、南方諸島を日本は破竹の勢いで攻撃したわけであるが、アメリカがやがて総力を挙げて反撃に出てくるであろうということも計算に入れていなかった。シンガポールを落としたところで、英米側は停戦を提示してくるのではないか、あるいは少なくともそういう有利なかたちで戦争を終結させ、日本は地歩を固めることができるのではないかと考えたふしがある。

 とてもではないが、自国の国力を考えたときに、英米と戦えるだけの潜在パワーがないということはよくよく分かる。中国大陸での戦争が泥沼に入っているときでも、日本は一方では中国のいろいろな関係者に協力してもらいながらかろうじて中国での戦争をした。日本と中国が戦ったのでは必ずしもない。日中戦争という言葉が間違いである。中国大陸において日本と他の欧米列強がぶつかったということなのだ。

 したがって、他の欧米列強の側に中国人の将軍がいれば、中国人の兵隊もいる。日本の側にも中国人の将軍がいれば、中国人の兵隊もいる。そして、それぞれの陣営を支援する中国人の商業資本があった。要するに、日中戦争というと日本が独立主権国家の中国を攻撃したのだというふうに考える人が多いかもしれないが、じつはそうではない。

 あれは、欧米列強を含む、世界の列強が中国のぶんどり合戦をし、それに苛立った日本が深入りをしたという話にすぎない。したがって、もし日本を支持した南京政府が日本政府の傀儡だと言うのであれば、蒋介石は紛れもなく英米の傀儡にすぎない。それははっきりしている。

 とにかく、日本側としては、どこまでも限定戦争でいけるつもりだったのではないか、そこに戦間期での欧米側の戦争観のルールの変更を見誤った日本の判断ミスがあるのではないか、という気がしてならないのである。

 つまり、シンガポールを落としたところで停戦ができる。たとえば、真珠湾攻撃で機先を制することで、やがてアメリカ側が構えていた罠にはまって、彼らが総力を挙げて日本に反撃してくるであろう、チャンス到来とばかりアメリカは待ち構えていた全勢力投入の機を利用してやってくるだろうと、そのことが分かっていたら、日本は真珠湾を攻撃するなどという愚を犯さなかったはずである。

 ところが、その攻撃、緒戦の奇襲作戦というものに対して、日本側には、これによってアメリカは怯んで、たじろいでしまうであろうという高を括った考え方も非常に根強くあったと言われる。繁栄しているアメリカのような国は戦争はしたくないのだ、イギリスもアメリカも、もう戦争には疲れていて、自分たちの平和主義ムードに現を抜かしている、享楽主義的、快楽主義的な欧米人は、日本の一撃にあったら、おそらく怯んで、停戦条約を示すであろうという、相手の心が見えない、ある意味では軽率きわまる態度で日本は立ち向かった一面があったことは間違いない。

 大胆とも臆病とも言えるこの不思議な日本の緒戦における行動は、結局、第一次世界大戦で全体戦争を経験した西欧世界の現実にふれなかった、ある種の感覚のずれではないかという気がしてならないのである。第二次大戦でも日本は全面戦争に参加するつもりが最初からなく、今度も第一次大戦と同様に、局地戦争・限定戦争で片づくのではないかという、そういう見込みで開戦に踏み切った一面があるのではないだろうか。

 ところが、大事なことは、アメリカやイギリスはいわゆる戦いのルールを第一次大戦と第二次大戦のあいだにがらりと変えていたという事情がある。そこに、日本の誤算があったと私には思えてならない。

 つまり、日本からすれば、戦争のルールを変えられてしまっていたということである。最初の戦争観、すなわち限定戦争と称するものを国際公法は認めていて、否定されたことは一度もない。戦争はどこまでも政治の手段と考えられていた。したがって、賠償を取ったり、領土を奪ったりする、いわばスポーツのゲームのようなものとして戦争が位置づけられていた。そういう戦争観は東洋にはもともとなかった。日本はそれを勉強し、身につけて日清・日露を戦った。

 言いかえれば、こういうことである。日本は幕末に薩摩がイギリス艦隊に砲撃される。あのとき、さんざん大砲を撃ち込まれていながら、薩摩藩は莫大なおカネを取られている。それから、下関でも英米仏蘭の連合艦隊と戦争になり、大砲を撃ち込まれ、敗北している。しかも賠償金を求められている。

 それで日本は初めて、戦争でカネが取れるというリアリスティックな現実を目前に見た。とすれば、なんとしても勝たなければいけない。負ければ名誉だけでなく、実利も奪われる。自分の力を示すことで相手から名実ともに勝ちとるのが正しいのだという西洋のやり方というものは、東洋にいままでなかった考え方なのであるが、それをここで導入し、アジアでいち早く日本が先鞭をつけたのである。

 中国と日本を考えたときに、いちばん大きな違いは、日本は武家社会であり、軍事力の意義について官僚国家であった中国よりも敏感であったということである。そして、中国は眠っていた。したがって、たとえば福沢諭吉は、日清戦争に対して好戦論者であった。その動機のひとつは、こういうことだ。

 眠れるアジアのなかで、黙っていれば世界の目は中国をアジアの中心と見なして行動するであろう。現実に、中国が四分五裂の状態になり、列強の分割の対象になっているのは、中国がアジアの中心であるからで、このアジアの中心をばらばらにしてしまえば、残りのアジアはヨーロツパ側の制圧下におかれるという考え方があったためである。それに対して日本はなんとしても抵抗しなければいけないと福沢は考えたのである。

 歴史的に、西洋人、いまのア人リカ人もそうだが、彼らの頭のなかでは、常に中国がアジアの代表であり、日本ではない。どうしても印象として中国に目がいってしまう。

 それに対し、福沢諭吉は、日本が眠れる中国とはまったく違った、活力のある国家として、文明国として、文明ここにありという意気を示す必要があると考えた。もはや中国は文明国ではない。中国よりも日本のほうが文明度が高い国だということを欧米諸国に知らしめるために、戦争に踏み切る必要があると説いた。

 つまり、そのときは武力が、戦争に勝つことが、より文明度の高さを証明する手段であった。時代がそういう時代だったのである。これが福沢諭吉の好戦論の論拠である。失敗すれば、日本は治外法権その他の不平等条約の撤廃をしてもらえないという事情があったからでもある。

 一八八四年一明治十七年一にフランスがベトナムに入ったとき、ベトナムは中国の植民地であったが、その属国だったベトナムがフランスにいいようにされるのに中国(清朝)は何ひとつ抵抗できなかった。それを目前に見た日本は、こんな中国を中心にしたアジアでは駄目だと考える。アジアの中心は中国ではない。ここにもうひとつ有力な文明国があるということを世界に知らしめる必要がある。さもなければ自分が危ない。

 それまで限定戦争、西洋で考えているような賠償と領土を手に入れるのが最大の目的で、戦争をゲームのようにして行う西洋的戦争観というものは東洋にはまったくなかった。これでは駄目だ、彼らと対抗するにはどうしたらよいか、日本は真剣に考えた。

 眠れる中国が西欧に侵される姿を見ながら日本は西洋からこの第一番目の戦争観、限定戦争観を学び、それによって日清・日露をかろうじて戦いぬいたと言える。そして、第一次大戦も日本だけはこれでなんとか成功し、第二次世界大戦まで、その同じ考えでずっと来てしまっていたのではないか。つまり、真珠湾攻撃まで同じ意識でいたのではないだろうか。

 しかし、明らかに欧米側は、戦間期に戦争のルールを変えているのである。これが、イギリスからアメリカヘ覇権が移動する微妙な時期と重なっている。同時に、アメリカは戦争を政治の手段として考える戦争観ではなく、平和の絶対価値を振りかざす挙に出た。

 ヨーロッパ人が、自らゲームのようにして戦争行為を当然視していたにもかかわらず、アメリカが戦争は文明に対する破壊であり、人類に対する犯罪だというような、第二次大戦以降、今日われわれはそういう戦争観に慣れ親しんでいるわけだが、それまでとはぜんぜん違った道徳主義、正義の平和論というものを持ち出した。

 しかもそれが、日本から見れば、英米の仮面であって、持てる国である英米が、持たざる国である日本を抑えつけるのに便利な、彼らに都合のいい理論だというふうにしか見えなかったし、また事実そういう側面があった。

 口で正義を言い、裏で不正を行う。たとえばアメリカは日本に、満州の門戸開放を正義であると言いながら、自国の権益を第一に考えていて、中南米の門戸開放を許さない。東ヨーロッパの民族自決を正義としながら、アジア・アフリカにはいかなる民族自決も許さない。

 ものごとのルールの変更がいかに自分勝手であるかは、アメリカという国の最近の動きを見ていても分かる。いまの貿易摩擦を見ていても、アメリカは好きなようにどんどんルールを変える。いちばん最初の日米繊維交渉のときから、今日までの変化を思い出してほしい。これはある意味では手に負えない。

 たとえば、自動車摩擦のときには自主規制をやらされ、それでも日本の黒字が減らないと分かると、日米構造協議で、日本の文化の構造にまで手を入れる。それでもうまくいかないと、今度は数値目標設定などということを言い出す。アメリカはどんどんルールを変える。どこまでもエゴイスティツクで、自国中心の、自国の利益を絶対第一に置いている国である。(P95~P101)文・西尾幹二

《私(株式日記と経済展望の著者)のコメント》

 今日は「広島原爆の日」ですが、8月は終戦記念日もあり先の大戦の事に関する話題も多くなります。しかしなぜ戦争に日本が踏み切ったのかという原因究明があまり進んでいません。国家元首だった昭和天皇自身も回顧録を書かなかったし、政治や軍部の最高幹部たちもほとんど回顧録を書いていない。

 唯一の例外は東京裁判における被告達の証言です。東條英機の『大東亜戦争の真実』という本を読んでも、戦争に至る状況が克明に証言されているのですが、仏印進駐を行っても「アメリカが全面的経済断交してくるとは思っていなかった」と証言している。まだ日米交渉で何とかなると考えていたようですが、経済断交で日米は実質的に戦争状態になってしまった。

 さらに独ソ戦の開始でアメリカの参戦の可能性はさらに強くなったのですが、「どのような段階を経て参戦してくるか分からなかった」と証言している。第二次近衛内閣の時であり、この時点で日本が妥協しなければアメリカとの戦争は避けられない状況になっていたのですが、アメリカと戦争すればどうなるのか近衛首相は考えていたのだろうか? 東條の証言によれば近衛はまだ日米会談で打開できると考えていた。

 ヨーロッパ戦線は拡大して独ソ戦も始まり、もしソ連がドイツに負ければ次の矛先はイギリスとアメリカに向かうだろう。そうなる前にアメリカは参戦してドイツを叩かなければならない。それは第一次大戦の経緯を見れば明らかだ。このような状況で日本は中国のみならず仏印まで勢力を拡大すればアメリカはドイツと日本に挟まれる事になる。

 アメリカは日本に対して中国からの即時無条件撤兵を要求してきたが、日本は条件付撤兵で解決しようとしていた。もし日本が北朝鮮のような金正日独裁体制のような国家なら鶴の一声で撤兵も可能でしたが、当時の陸軍は4年に及ぶ日中戦争で多大な犠牲を出し、アメリカの要求に従って無条件即時撤兵すれば、中国国民にバカにされると言うので日米交渉は暗礁に乗り上げてしまった。

 ならば日本はアメリカとの全面戦争をして勝てると思っていたのだろうか? 東條英機の証言によれば「陸海軍は2年足らずで燃料の欠乏で動きが取れなくなる」と証言している。つまり日本は2年以上の長期戦になれば負けることは分かっていた。にもかかわらず日米開戦に踏み切ったのはなぜか? 

 西尾幹二氏の意見によれば当時の軍部は日米戦争も限定戦争のつもりで開戦に踏み切ったのではないかと記している。東條英機の証言からも分かるように2年以上の長期戦になれば燃料欠乏で負けるかもしれないが、日清日露戦争や第一次大戦のように、たとえ負けても領土の割譲や賠償金の支払いで済むと思っていたのではないだろうか?

 当時の国民にしても戦争と言えば限定戦争の事であり、海外で戦争は行なわれて日本の国土が焦土と化す様な状況は想像もしていなかったに違いない。それが実際には原爆を二発も落とされて東京をはじめとして全土が焼け野原になってしまった。国民も全体戦争の恐ろしさが分かっていなかったのだ。軍部自体が全体戦争を知らなかったのだから国民は知る由もない。

 第一次世界大戦では日本は戦勝国であり、ヨーロッパの全体戦争の実態を知らなかった。イギリスはドイツの潜水艦の通商破壊作戦で窮地に陥りましたが、日本海軍はこのような潜水艦による通商破壊作戦をほとんど知らなかった。あくまでも日露戦争の時のような艦隊決戦で行なわれるものであり、通商破壊作戦は海軍の恥とされた。だからガダルカナルの時もレイテ湾の時もアメリカの輸送船団を前にして日本海軍はUターンして引き上げてしまった。

 このように日本の軍分は全体戦争の認識が無かったことが、安易に日米開戦に踏み切った原因でもあるのだろう。パールハーバーに一撃を加えればバルチック艦隊を失ったロシアのように講和し応じると思い込んでいたのかもしれない。しかし東條英機が真珠湾攻撃を知ったのは開戦後のことであると証言しているように、政府と陸軍と海軍はバラバラであり別々の戦争をしていたのだ。

 東條英機の宣誓供述書を見れば分かるとおり、東條は国家を担う首相の器ではなかった。戦争の原因を作ったのは近衛内閣であり近衛自身は戦後自殺してしまって証言は残ってはいない。東條が首相になった段階で中国からの即時無条件撤退を決断できれば戦争は回避できたのでしょうが、そうすると陸軍や海軍の責任問題となり、軍部はやぶれかぶれで戦争を始めてしまったようなものだ。

「株式日記と経済展望」からの書評(三)

 現在西尾幹二先生自身の筆による「西尾幹二のインターネット日録」は休載中ですが、許可を得て、管理人(長谷川)が西尾先生関連のエントリーを挙げています。
 
 今回は、ブログ「株式日記と経済展望」から、西尾先生の本の書評を、許可を得て転載します。最初は「江戸のダイナミズム」についての書評ですが、本の引用が長いので三回に分けて、転載します。(一)からお読み下さい。

(私のコメント) 注:私とは株式日記と経済展望の著者2005tora氏のことです。

日本の教育は憶える事にばかり重点が置かれて考える事に対する教育があまり行なわれていない。もちろん低学年においては憶えなければならないことに重点が置かれますが、高校大学においてもその傾向は変わらない。歴史教育も何年に何があったという事ばかりであり、そこからの価値観や意味づけなどは教育の場では避けている。

もっとも歴史教育は、入学試験からも排除されているから高校のカリキュラムからも排除されて、世界史などは学ばないまま卒業してしまう学生もいる。しかし毎日の政治や経済を見る上では世界史などが分からないと現代の政治や経済も理解する事ができなくなる。日本の教育は一番大切な科目を排除して教育しているのだ。

西尾幹二氏の「江戸のダイナミズム」という本は、江戸時代に対する歴史的解釈において、西洋よりも先に近代の芽が出てきた事を指摘している。西洋に近代の芽が出てきたのは、宗教戦争の後からであり、それまでは政治と宗教の区分けが出来ていなかった。

西洋における16世紀から17世紀におけるカトリックとプロテスタントの宗教戦争は、政治の世界に宗教が持ち込まれると凄惨な結果をもたらすことになり、政治と宗教は明確に区分けされるようになった。しかし日本では信長や秀吉や家康が宗教勢力と一線を画して政治を行なうようになったのであり、近代的日本が中世的ヨーロッパを排除したのがキリシタン禁令だ。

そのような意味で言えばアメリカははたして近代国家といえるのだろうか? アメリカはヨーロッパと違って宗教戦争を経験していない。だから今頃になっても第九次十字軍遠征軍をイラクやアフガニスタンに送っている。その目的はイスラエルの支援であり、ユダヤ・キリスト教の聖地エルサレムの恒久的な確保がその目的だ。

アメリカがキリスト教原理主義の国家であることは、福音派の信者の数からも明らかなことです。中には聖書を絶対視するファンダメンタリストに至っては進化論を否定して神が7日間で世界を作ったと信じて、ハルマゲドンの戦いが近いうちに起こってキリストの降臨を信じている人がブッシュ大統領の有力な支援団体になっている。

日本やヨーロッパの人から見れば、このようなアメリカはバカバカしく思える。しかし非キリスト教徒に対する無慈悲な扱いが時々出るのであり、日本に原爆を投下できたのも日本がキリスト教国家ではなかったからだ。ハルマゲドンの戦いではキリスト教徒だけが生き残ると書いてあるそうだから、非キリスト教徒は死んでもかまわないとも解釈できる。

近代人である日本人は、信仰の領域と自然科学の領域を一緒くたにすることはありませんが、アメリカのキリスト教の一派は聖書の絶対性を信じている。そして旧約聖書の中の預言された世界を実現させようとしている。そのようなアメリカ人を近代人であると見ることが間違ってる。

日本には7世紀に仏教が入ってきて、その後から儒教や朱子学などが次々入ってきましたが、神道をベースに仏教や儒教や朱子学などが地層のように積み重なっている。秀吉や家康がキリスト教を禁令にしたのも、キリスト教の教義に疑念を抱くだけの信仰の基盤がすでにあり、キリスト教の背後に隠された侵略的な意図に気がついたからだ。

家康は宗教勢力を東西に分裂させることで宗教が政治に口出しをすることを排除することが出来た。このような結果が葬式仏教といわれるほどに骨抜きにされてしまったのですが、明治になって基盤にあった神道が国家神道となりました。日本人は基本的に仏教も信じていなければキリスト教も受け付けていない。

しかし神道には教祖も経典も無い古代宗教であり多神教だ。アメリカ人にはこのような日本人が野蛮人に思えたことだろう。しかし実際の日本は戦国末期には宗教と政治とは分離された近代国家であり西洋よりもそれは早かったのだ。日本の歴史教育ではそのようなことは教えられず、鎖国によって近代化に遅れた日本を教えている。

先日はアメリカの高官が原爆の投下が100万人の日本人を救ったと述べていましたが、やはり原爆を投下したことに対する後ろめたさがあるのだろう。しかし投下を決断したルーズベルト大統領は選民思想から非キリスト教徒である日本人を抹殺しようとしたのだ。

このようなアメリカ人の精神的な発作はキリスト教の選民思想が原因であり、ブッシュは”神の声”を聞いてイラクに侵攻した。宗教戦争を経験していないアメリカ人だからこそこのような”神の声”を信じてしまうのでしょう。

文・株式日記と経済展望:2005tora氏

「株式日記と経済展望」からの書評(二)

現在西尾幹二先生自身の筆による「西尾幹二のインターネット日録」は休載中ですが、許可を得て、管理人(長谷川)が西尾先生関連のエントリーを挙げています。
 
 今回は、ブログ「株式日記と経済展望」から、西尾先生の本の書評を、許可を得て転載します。最初は「江戸のダイナミズム」についての書評ですが、本の引用が長いので三回に分けて、転載します。(一)からお読み下さい。

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◆仏教の堕落

 江戸時代になって日本の国のかたちを意識させたのは、先述のとおり儒教でした。しかしその儒教を背後からささえたのは神道でした。通例は神仏儒のイデオロギーの連合が強く出ているというふうに言われ、神仏は一体で祀られていましたけれども、しかしながら日本の国の全体の統一のまとまりを意識させたのは儒教だということを、今私はこれから少し説明します。

 神道は単一体としてみれば、江戸時代に入ると旗色が悪くなる。それはなんといっても天皇家と結びついておりますから、神道が盛んになると幕府の存在がそれだけ相対化されます。時の幕府からは疎んじられていました。一方、仏教は国教化して、幕府に保護される。幕府はとにかく一向一撲もいやだったし、もう坊主どもやキリシタンが荒れ狂ったら手に負えないのを知っていたので、宗教をいかにして自分たちの保護監督下に置いて管理するかということに力を入れた。政治の知恵ですが、それ故に保護された仏教は堕落します。

 たとえば檀家制度は民衆をお寺の管理下にくり入れるものであり、本末制度はお寺を本寺と末寺に分けて、住職の任命権を本山に限定するなどの制度ですが、どこまでも幕府がお寺を管理する制度です。これで政治による宗教の序列化がはっきりしましたが、ただ民衆の立場から言いますと、十六世紀まではろくなお弔いもしてもらえなかった。

 偉い人たちはちゃんとお墓も持てたけど、庶民にはお墓もなかった。ですけれども江戸時代になると、とにかくいろんなことが現在のわれわれの生活に近くなってきて、庶民もまたお弔いをしてもらえるし、戒名が頂戴できるようになった。これはありがたいことであって、広い意味での庶民の救いにつながづたと考えることはもちろんできるだろうと思います。

 お寺が民衆の日常の救いの場となり、ともあれ仏教が国民的宗教とレて確立した。現在残っているお寺の九〇パーセントは十六世紀、十七世紀の二百年問に創立されたと言われております。そのうち約八○パーセントは寛永二十年(一六四三年)までに成立しているということです。

 江戸学者の尾藤正英氏が、この事実からすれぱいわゆる本寺、末寺の制度などとか、あるいはまた檀家制度などというものは、権力による人為的なものではなく、それ自体としては自然発生的に成立し、江戸幕府はただそれを政治的に利用しただけであったと見るのが妥当であろうと、大変お寺さんに好意的な評価を下しています。そういう一面もたしかにあったと思いますが、お寺が庶民にとってありがたい一方の存在であったかどうかはまた別の問題です。

 というのは、お寺は、庶民に対してキリシタンでないことの証明をするかわりに、次々と彼らからカネを巻き上げるなどのことが多かった。庶民はそんな体質にウンザリして、お祈りの場としては山伏や占い師だとかに救いを求め、必ずしも仏教寺院を頼りにしないようになってしまった。つまり現在と同じような「葬式仏教」に堕ちてしまったのは事実のようであります。

 なにしろ葬式を行う資格は、幕府によってお寺にのみ与えられたために、当然お寺は傲慢になり堕落します。民衆は民衆で、お寺とはべつのところの信仰に走る。姓名判断とか、家相を見るとか、お祓い、お浄めとか、陰陽道だとかが盛んになります。これは現代にまでずっと続いている民衆宗教の流れです。今と変わらない同じ構造ですね。江戸時代の民衆の心のかたちは現在とあまり変化がないと私は見ています。現代の仏教不信は、むしろ江戸時代に始まっている。

 だから神仏分離が明治の初期に行われたときに、廃仏段釈(仏像破壊)が起こりましたが、政治的弾圧ということだけでは説明できません。政府の関与があったにせよ、民衆自らが率先して協力した側面もあったわけです。それだけ、お寺が憎まれていたということでしょう。(P30~P38)

西尾幹二『江戸のダイナミズム』より

「株式日記と経済展望」からの書評(一)

現在西尾幹二先生自身の筆による「西尾幹二のインターネット日録」は休載中ですが、許可を得て、管理人(長谷川)が西尾先生関連のエントリーを挙げています。
 
 今回は、ブログ「株式日記と経済展望」から、西尾先生の本の書評を、許可を得て転載します。最初は「江戸のダイナミズム」についての書評ですが、本の引用が長いので三回に分けて、転載します。

日本における「近代的なるもの」は日本史の内部から熟成して出て来た

書評 / 2007年07月09日

日本における「近代的なるもの」は日本史の内部から熟成して出て来た
のであり、場合によっては西洋史よりも早く姿を現わしている。西尾幹二

2007年7月9日 月曜日

◆江戸のダイナミズム―古代と近代の架け橋 西尾幹二(著)

 ヨーロッパというものの正体が何であったか、今にしてわれわれにはやっと分るわけですが、どうやって江戸時代の日本人にそれが分ったでありましょうか。しかし本能的になにかが分っていたのかもしれない。家康だけではなく先立つ秀吉にも分っていた。日本人の知恵、直感が働いていた。だからキリシタンの拒絶と、ポルトガル、スペイン船を近づけないという蛮族打払いの政策を実行することが可能であったわけでしょう。

 まあ、それはともかくとして、先の引用からも、ヨーロッパにだって未来は見えていなかったということを申し上げておきたい。

◆聖書と神道

 江戸の日本はヨーロッパをほんの少し知っていたけれど、しかしながらそれとは無関係に、自分の独自の価値観念を、閉ざされた江戸の空間のなかで追求していたのです。ヨーロッパも自らがどこへ向かうか分っていないと今申し上げましたが、日本は日本で、ヨーロッパはヨーロッパで、それぞれが独自の道を歩んでいたのであります。

 いいでしょうか、読者の皆さん。江戸時代は明治のための手段ではありません。それがまず最初に言いたかったことであります。

 明るい近代的なもののイメージを江戸時代に投影して、江戸を「初期近代」と呼ぶのも、みんな西洋からきた観念です。江戸を初期近代と言うといって、英語の研究書の中にそういうことが書かれてあるものだから、最近日本の国史学者たちは一部で、ああ、アメリカ人がそう言っている、イギリス人がそう言っていると慌てて近世の概念を疑うとか言いだしたり、江戸時代は初期近代だと言ったりしていますが、遅いんですよ。

 やっとそのレベルのことを言いだしていますが、遅いんです。遅いというのは、私はその逆を今言っているからです。つまり、江戸時代は近代明治のための手段ではなかった、と。江戸時代の人は明治を目的にして生きていたわけではない。

 徳川体制が壊れて、再び「朝廷の時代」がやってくるとは、江戸の人たちは想像だにしなかった。幕末になるまで、誰も考えていなかった。その時代にはその時代に閉ざされた特有の価値観があると、ランケが言いました。「各時代には各時代に特有の神がある」と。われわれは江戸時代を「近代的なるもの」の実現のプロセスの目盛りの程度で解くようなことをやめましょう。江戸の人が生きた、閉ざされた固有の価値観の内部でこれを評価しなくてはなりません。そこで第三の命題です。

 日本における「近代的なるもの」は日本史の内部から熟成して出て来たのであり、西洋史とは関わりなしに、場合によっては西洋史よりも早く姿を現わしているということ、そしてそれが先進的であるのは西洋の場合と同様に深く自らの過去の歴史に遡って、そこから養分を取り、そこへ戻り、そこをばねとしていること、そしてまた各時代の閉ざされた固有の内部の価値観を通じて確立されていったということであります。

 それならその閉ざされた江戸の空間の固有の内部での価値観とは何か。一口で申しますが、それはとりあえずはまず儒教であります。室町から戦国時代にかけて成立したいわゆる神の国この神の国はいつごろできたかと正確にいうのは難しいけれども、江戸時代になると、ここに明らかに儒教が入ってまいりまして、この国のかたち、まとまりといったものを考えだす。儒教が日本という国のまとまりを初めて自覚するきっかけになるのです。

 ここでいう”儒教”とは、もとより西洋とは無関係であり、また中国の儒教とは現われ方が違うものでありまして、日本的な儒教でありますが、しかしながら儒教は儒教ですから、おしなべて中国研究であることには変わりはないのであります。そこらへんが非常に難しいのですが、同時代の中国では考えられないような方向へ日本の儒教は展開し、そこでは予想外に巨大なスケールの仕事がなされたのであります。

 日本という国は、いつどのようにして、この国の国家的まとまり、国のかたちというものを自覚するようになったのでしょうか。通例は江戸の儒教とは関わりなく、元寇のときに、北条時宗の鶴の一声でまとまり、あれが神の国の始まりだという説もありますが、すると平安時代のいわゆる国風文化はどう考えたらよいのでしょうか。ともあれ、神の国の自己認識がいつ始まったか、文献学的に議論しても仕方がありません。そうではなく、私どもによく知られている明らかないくつかの道標を思い出してみましょう。

 例えぱ、豊臣秀吉は、スペインのフィリピン総督に宛てた手紙で、日本は神の国だからバテレンの布教はまかりならぬと応答しております。さらに秀吉は、日本で初めて自ら求めて神社に祀られるこおくとを希望し、日本で最初に「神」となり、朝廷からは「豊国大明神」の号を贈られております。家康も自ら神になることを求め、日光東照宮において「権現様」となっている。どうも神の国は、戦国から江戸にかけてのこの前後ですでに確立していることは間違いがないようです。

 今、「明神」とか「権現」という言葉を申しましたけれども、本来的には神道は偶像を持たないものです。が、神仏習合という仏教の影響であの美しい仏像彫刻を見せつけられているうちに、神道のほうでも明神様とか、権現様とかやってみようということでそうなったようです。これは、仏教が神道に与乏た影響です。

 江戸の二百五十年のこの国の枠、国のまとまり、それをつくったのは、秀吉と家康の知恵です。秀吉がバテレンの禁止と中華秩序からの離脱を実行した。中国何するものぞという、秀吉の態度をそのまま、そっくり内向きに引き受けたのが、二百五十年間の江戸幕藩体制の外交政策です。

 この方針を決定したのは、精神的には神の国を言っているけれども、実は神道でもなければ、仏教でもなく、中国研究でもあったところの儒教であったという逆説を申し上げなければならないのであります。というよりも神道と合体した儒教というか、垂加神道というふうな名前で呼ぱれるものです。日本には、「外来の思想を厚化粧のごとくまとった神道」と「化粧を落して神道本来の裸形に近くなった神道」との二種類があります。

 「化粧を落して神道本来の裸形に近くなった神道」のほうが、どちらかというと純粋な神道で、「外来の思想を厚化粧の、ことくまとった神道」は複合したものということなのですが、私の直感では、日本の歴史に二度大きな宗教が外から入ってきています。古代に仏教が先ず入ってきた。儒教も入ってきていますが、影響力はまだそれほど大きくない。そうして次に、室町時代以降に儒教、つまり朱子学が流入しています。

 その「外来の思想を厚化粧の.ことくまとった神道」は、最初は「本地垂迹の思想」という。垂迹というのは仏が本地、仏教が本体で、神としてそこに現われるというものであります。つまり両部神道といいまして、仏教と習合したということですが、やがてそれに対する反発が起こりまして、「化粧を落して神道本来の裸形に近くなった神道」のほうへ行く。これが、本来の神道であり、伊勢神道、または度会神道とも言いますが、反本地垂迹思想です。

 つまり仏教から脱するということで、神様が、本体で仏教がむしろ垂迹なんですから、仏教が外に現われるということになる。.神様が本体で仏教が外に現われる。いや、反本地垂迹といっても、脱仏教といっても、仏教を完全に離れるのではなくて、要するに薄くなるだけです。

 室町時代になりますと、こんどは道教、儒教、仏教合わせて全部一緒にしたごた混ぜのものになる。ある人に言わしめると、「錦織りの綴れ織りを鎧に纏ったような神道」となる。ここに「吉田神道」という巨大な伝統を持つ神道が生まれます。これもやはり反本地垂迹思想で、神が本体ということになる。ただ、神が本体であっても、ごたごた、こたといろんなものを身に纏っておりますので、こんどはそれを否定する、脱吉田神道が出てくる。再び、伊勢神道がもう一度、吉田神道の厚化粧を脱ぎ捨てて登場してくる。

 そこへ朱子学がどっと入ってまいります。そうしますと朱子学と神道がくっつきまして、それは林羅山、山崎闇齋などが代表する、儒教と習合した「垂加神道」や「理当心地神道」が生まれてくる。これらに対してしぱらく経ってから、いや、こんどは儒教も仏教もだめだ、『古事記』の神話に立ち戻れと言ったのが本居宣長の「古学神道」ということになります。彼の弟子の平田篤胤は、厚化粧のほうに回り、幕末になってキリスト教と習合するというおかしな話になってしまう。もっとも宣長も「聖書」を読んでいたという説もあることはあるので、キリスト教の影響もあったかもしれません。

 明治になると、厚化粧の神道は「国家神道」に向かい、戦後の神道は、憲法の規定などによって、存在するための根拠を失い、薄化粧というか、可哀相な神道となってしまった。森喜朗元首相の「神の国」発言でぐらつくほど頼りなくなっている。なぜそうなったかというと、たった一人、津田左右吉という人物が現われただけで、そうなってしまった。

 別に、津田左右吉が悪いのではなくて、自然科学というものに対して神道は防衛力を持っていなかったためでしょう。日本の神遺は何にでもまといついて、何にでも自然なかたちで習合する思想ですけれども、自已の存立のために戦う理論武装が弱く、本格的に思想家として自己防衛をしたのは本居宣長一人であったのではないかと思われます。

 過日、中西輝政氏と対談して、『日本文明の主張』という本を出しました。この中で、中西氏が、キリスト教にはたくさんの護教論(教義を護る議論)があるのに、日本の神道を守ろうとしたのは本居宣長一人だけだった、だから神道は脆いんだという指摘をなさいました。それはそうだと私も合点し、次のように付言しました。ヨーロッパの思想は、アンチクリストの思想まで実は「護教論」なんです。

 ドストエフスキーの『罪と罰』、二ーチェの『ツァラトゥストラかく語りき』はみんなアンチクリストの流れですが、これらとても、結局は「聖書」のパロディです。カントの『純粋理性批判』は、自然科学を基礎づける書であると一方では言っていいわけですが、実は「信仰の領域」と「自然科学の領域」は別物だと指摘し、信仰の領域を守ろうとしている。

 そういう意味ではカントの『純粋理性批判』も「聖書」のパロディかもしれない、とあえて言ってみたくなるのが西洋の宗教世界なのです。何を論じても全部「護教論」に通ずるものすごい世界なのです。それに比べると、目本の神道には防衡思想があまりにもないということは認めざるを得ません。

西尾幹二『江戸のダイナミズム』より