このあいだ九段下会議で人民日報の原文のコピーを解説づきで読む機会があった。その中の社説の一つに小泉首相の靖国参拝は中国にとって「寒風」だという表現があった。
何のかの言っても、参拝は中国に対する圧力になっている証拠といえるかもしれない。今までの首相にできないことを小泉氏はやってのけたではないか、という評価の声がこのときもあがった。保守派の中の根強い小泉評の一つである。
政治効果という点でこの事実は認められてよいのかもしれない。しかしどうしても私が素直に認められない気持にもなるのは、心の内実が透けて見えるからである。寒々とした首相の心の中が覗けるように思えるからである。
靖国参拝には至誠、まごころがなによりも求められる。首相は昨夏発表した談話で「戦争によって心ならずも命を落とされた多くの方々」との表現を使った。自ら進んで戦場に赴いた将兵たちの心がまったく分っていない証拠を、期せずして漏らしてしまったのである。
靖国参拝は拉致被害者を一部取り返した実績とも併せて、小泉純一郎という政治家が国民に最大の目くらましを食らわせている、戦術に長けた、微妙な言動の空間であると私は考えている。
本書の61~62ページに私は次のように記している。
「心ならずも命を落とされた多くの方々」という表現に、今夏、激越な調子で反駁し、自ら進んで国に殉じた往時の将兵の心のわからない首相への痛憤の念を靖国の演説で吐露した方がいる。小野田寛郎さんである。小野田さんは別の所で、政府主導の、戦没者慰霊の追悼・平和祈念のための記念碑を以て靖国の代替にすることがもし決まったら、英霊はこの国を「敵国」と見做すであろう、と断固たる発言をされている。
ところが奇妙なことに、別にこれに答えてではないが、首相はつねづね代替施設が仮りにできても、靖国に代わるものではないと語り、保守サイドの人々を喜ばせるのである。それでいて、「心ならずも」を含む今夏の首相コメントは平成7年の村山首相の侵略戦争謝罪談話の域を越えていない。
首相の言葉は靖国を大切に思う人たちにフッと近づき、そしてまたフッと離れる。行動も同様である。最初に8月15日に参拝して、毎年堂々と続けていれば中国は沈黙した。スキを見せるから政治的に利用価値があるとみられるのである。それなのにまた今回は、登壇せずに一歩尻ごみした祈祷態度に出たので、再び中国につけ入られるであろう。
このように中途半端で、曖昧で、それでもほんの少しだけ国民に理解されやすい言葉を並べたり、行動したり、靖国関係者に「参拝して下さるだけで有難い」と言わせるかと思うと、小野田さんのような人を激怒させる。
このフッと近づきフッと離れるやり方こそが、ほかでもない、「左翼」の常套手段なのである。形だけの参拝で、靖国を大切に思う人々に、まるで乞食にものを投げ与えるように恩着せがましい言動を重ねる首相に、私はいい加減にもうやめろと、言いたい。
しかしここにこそ、この政治家の国民的人気を博している煽動家としての独特な心理誘導の極致がある。ナチス時代のドイツ国民は総統演説の熱っぽさに酔ったのではない。そのつどそのつどほんの少しだけ理にかなった言葉が並んでいることに引きずられていったのである。
私あての私信で、この部分に共鳴して下さったのは国語学者の萩野貞樹氏であった。
かういふ書物を読んで反撥できれば気楽でせうが共感せざるを得ず、その共感なるものは即ち現首相への苛立ちであるわけですから読者としては辛いところです。62頁「首相の言葉は靖国を大切に思う人たちにフッと近づき、そしてまたフッと離れる」のご指摘は実に印象的ですが、首相のこのとりとめなさに、われわれはきりきり舞ひさせられてゐるわけです。それなのに取り敢へずはこの人を兢々の思ひで見守るしかなく、思へばわれわれは不思議な地点に立たされたものです。
たしかにそうなのだ。この厄介な首相に私たちはキリキリ舞いさせられてきたのである。なかでも最近の、皇室典範改定のテーマはその最たるものであった。秋篠宮妃のご懐妊のニュースで全国民がやっと愁眉を開いたなどというのはおよそあってはならないことなのである。
それでもなお2月9日から10日にかけて私は首相の本意を測りかね、TVのニュースのたびに彼の言葉に注意を向けつづけた。そして、皇室典範改定の法案の国会上程を取り止めた、という首相じきじきの言葉が、ついに口から出ていない事実に、いまだに一抹の不安を抱いている始末なのである。
タイミングよくご懐妊のニュースが飛び出たから良かったものの、そうでなかったら皇室に関わる国会内の衝突は不可避だっただろう。しかもあれも、なぜか宮内庁というお役所をとびこえて宮家からダイレクトに陛下への奏上がなされ、同時にニュース公開となった経緯に、政府に対する宮家の警戒心、あるいは不信があってのことと思わずにはおられない。ひょっとすると妨害をかいくぐってのスリリングな発表だったのではあるまいか。憶測かもしれぬが、悪しき政治家のために宮家に心を煩わしめて、お気の毒にと私は一瞬心をくもらせたのである。
小泉とは何という人物であろう。許しがたい政治家ではないか。「至誠至純」が求められる靖国参拝にもなにか説明のできない不純で不誠意で場当たり的なモチーフを同様に私は感じつづけてきた。
大学と政界を通じての友人の栗本慎一郎氏の「パンツをはいた小泉純一郎」に次の証言がある。
靖国神社参拝問題で、小泉は中国、韓国の怒りを買っていますが、靖国神社に対して、彼は何も考えていないですよ。
私はかつて国会議員として『靖国神社に参拝する会』に入っていた。そこで、小泉に『一緒に行こうぜ』と誘ったのですが、彼は来ない。もちろん、靖国参拝に反対というわけでもない。ではなぜ行かないのかといえば『面倒くさいから』だったのです。
ところが、総理になったら突然参拝した。きっと誰かが、『靖国に行って、個人の資格で行ったと言い張ればウケるぞ』と吹き込んだのでしょう。で、ウケた。少なくとも彼はそう思った。
それに対して、中国、韓国が激しく抗議するものだから、彼は単純に意地になった。批判されるとますます意地になる人がいますが、彼はまさにそのタイプです。だから、中国や韓国がこの問題を放っておけば、小泉も靖国参拝をやめますよ。もし私が中国、韓国の首脳なら、靖国のことなんか忘れたふりをして、「いい背広ですね」とか、関係ない話をする。そうしたら、次の年には行かなくなりますよ。小泉は、その程度の男なのです。こうして彼は自意識の劇場を演じているのです。
こんな男がこの国の総理です。注意すべきではないでしょうか。」
これを読むと私の口から何たることよと深い溜息が出て、ただ空しい思いに襲われるのみである。