西尾幹二全集 第三巻『懐疑の精神』の刊行

 西尾幹二全集第三巻『懐疑の精神』が刊行された。第四回配本である。なんのかんのと言っているうちに4冊もついに出たんだなァ、と感無量である。

 最初に出た『光と断崖――最晩年のニーチェ』は別にして、第一巻から第三巻までが私の初期作品群ということになる。

 今度の第三巻は次の3冊の過去の評論集から最も多く採り入れている。

情熱を喪った光景  河出書房新社 1972年
懐疑の精神  中央公論社 1974年
地図のない時代  讀賣新聞社 1976年

 しかし、この3冊をそのまま収録したのではないし、この3冊にも他の何処にも今まで収録していなかった作品や、そもそも何処にも出さないでいた初期の未発表論文も収められている。目次をお見せするが、色替わりのところがそういう未知の文章で、今度はじめて世に問うている。

目次

Ⅰ懐疑のはじまり(ドイツ留学前)…7

私の「戦後」観…9
私のうけた戦後教育…25
国家否定のあとにくるもの…37
知性過信の弊(一)…42
私の保守主義観…45

「雙面神」脱退の記…49
一夢想家の文明批評-堀田善衞『インドで考えたこと』について…52
民主教育への疑問…64
知識人と政治…66

Ⅱ懐疑の展開(ドイツからの帰国直後)…69

ヒットラー後遺症…71
状況の責任か 個人の責任か-ハンナ・アレント『イェルサレムのアイヒマン』…97
面白味のない「知性」-ハンス・M・エンツェンスベルガー『ハバナの審問』…107
大江健三郎の幻想風な自我…116

知性過信の弊(二)…132
国鉄と大学…147
喪われた畏敬と羞恥…149
文化の原理 政治の原理…160
ことばの恐ろしさ…187
見物人の知性…190
見物人の知性(190)外観と内容(192)ネット裏の解説家(193)
二つの「否定」は終った…195
自由という悪魔…204
紙製の蝶々…210
高校生の「造反」は何に起因するか…214
生徒の自主性は育てるべきものか…217
大学知識人よ、幻想のなかへ逆もどりするな…220
安易な保守感情を疑う…223

Ⅲ懐疑の精神(七〇年代に露呈した「現代」への批判)…233

老成した時代…235
現代において「笑い」は可能か…269
成り立たなくなった反語精神…274
現在の小説家の位置…279
生活人の文学…290
日本主義-この自信と不安の表現…293
実用外国語を教えざるの弁…300
わたしの理想とする国語教科書…305
帰国して日本を考える…311
「反近代」論への疑い(311)日本人論ブームへの疑問(314)読者の条件(317)比較文化論の功罪(318)節操ということ(321)
前向きという名の熱病(322)変化の中の同一(323)江戸の文化生活(324)物理的な衝突(325)現代のタブー(327)
土俗的歴史ブーム(328)
個人であることの苦渋…331

Ⅳ情報化社会への懐疑…345

言葉を消毒する風潮…347
マスメディアが麻痺する瞬間…353
テレビの幻覚…361
権利主張の表と裏…373
ソルジェニーツィンの国外追放…378
韓非子を読む毛沢東…385
ノーベル平和賞雑感…392

Ⅴ観客の名において-私の演劇時評…395

序にかえて-ヨーロッパの観客…397
第一章 文学に対する演劇人の姿勢…401
第二章 解体の時代における劇とはなにか…412
第三章 『抱擁家族』の劇化をめぐって…433
第四章 捨て石としての文化…449
第五章 ブレヒトと安部公房…463
第六章 情熱を喪った光景…480
第七章 シェイクスピアと現代…497

Ⅵ比較文学・比較文化への懐疑…519

東京大学比較文学研究室シンポジウム発言
 比較文学比較文化-その過去・現在・未来(司会芳賀徹氏)…521
東京工業大学比較文化研究会シンポジウム発言
 比較文化とはなにか、それはなにをなし得るか、またなし得ないか?(司会江藤淳氏)…533

追補 今道友信・西尾幹二対談-比較研究の陥穽…553

後記…585

 私の本をよく読んで下さった方でも、標題を見たこともない、知らない文章に数多く出会うであろう。特にこの第三巻『懐疑の精神』はそうである。

 1974年に中央公論社から『懐疑の精神』という一冊が出ていることは前に述べたが、全集第三巻は題名を借りているだけで、同一の内容の本ではない。私の今度の全集はどれも再編成されている。昔の本をそのままというのは少ない。

 第三巻『懐疑の精神』の帯の文字は次の通りである。ご紹介しておきたい。

人間はつねに自分の心の主人公であるとは限らない。
「ヒットラー後遺症」「大江健三郎の幻想風な自我」「国家否定のあとにくるもの」「比較文学・比較文化への懐疑」・・・・・。私は自分の言論の自由にいつも飢餓感を覚えて生きてきた。もし本全集がなかったら、これらの論文は永遠に闇の中に消えてしまったであろう。(「後記」より)

 解説の部分にあたる「後記」はこれまでも長かったが、今回はまた特に詳しく、28ページに及ぶ。20台後半からの私の評論活動の起ち上がりの物語りを回顧録風に綴っている。

『天皇と原爆』の刊行(十二)

天皇と原爆 天皇と原爆
(2012/01/31)
西尾 幹二

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 これは「GHQ焚書図書開封」の時間に流した番組ですが、いつもと違って溝口さんの御著書と私の『天皇と原爆』をとりあげて二人で討議する番組になりましたので、その位置づけでお送りします。

秘録・ビルマ独立と日本人参謀: 野田毅陣中日記 秘録・ビルマ独立と日本人参謀: 野田毅陣中日記
(2012/01/20)
溝口郁夫

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西尾幹二全集 第二巻 『悲劇人の姿勢』の刊行

 西尾幹二全集第二巻『悲劇人の姿勢』(第三回配本)が刊行された。自己解説であるところの「後記」が今度もかなり長い。若い時代の自分が何であったかを見定めようとする思いが今の私には強いので、今度もしっかり書いている。

 以下に目次を掲げる。私の9冊の単行本から拾い出し編集されている。作品の確定と配列までに時間がかかり苦労があった。色替えをしている作品名はどの単行本にも収録されないで来たもので、ほとんど誰も見ていない文章だと思う。

 第Ⅰ章は私の学会と文壇へのデビュー作をとり上げた。論壇へのデビュー作は、まだ刊行されていない第三巻『懐疑の精神』に集められている。学会(ドイツ文学会)、文壇(「新潮」「文学界」)、論壇(「文藝春秋」「自由」「諸君!」etc)という三つの区別が当時はあった。三方向にほとんど同時に書き出している。

 ドイツ留学前の25~30歳台に始まっている。今回刊行された『悲劇人の姿勢』は最も若いときの修士論文の焼き直しから、72歳の老年の文章までとり入れている。特定の視点で集めているからである。こういう思い切った編集の仕方はこの巻だけである。けれども私のこの全集は、単行本をたゞ無造作に並べているのではなく、今の時点での再編成あるいは再編集したものであることは、今までの二巻でも明らかであったと思う。

Ⅰ 悲劇人の姿勢
   アフォリズムの美学
   小林秀雄
   福田恆存(一)
   ニーチェ
     ニーチェと学問
     ニーチェの言語観
     論争と言語

   政治と文学の状況
   文学の宿命―現代日本文学にみる終末意識
   「死」から見た三島文学
   不自由への情熱―三島文学の孤独
  
Ⅱ 続篇
   行為する思索―小林秀雄再論
   福田恆存小論六題
     福田恆存(二)
   夏期大学講師の横顔
     大義のために戦う意識と戦う――福田恆存著『生き甲斐といふ事』

     現実を動かした強靭な精神――福田恆存氏を悼む
     「私に踏み絵をさせる気か」
     三十年前の自由論
   高井有一さんの福田恆存論
   田中美知太郎氏の社会批評の一例
   田中美知太郎先生の思い出
   竹山道雄先生を悼む

Ⅲ 書評
    福田恆存『総統いまだ死せず』 三島由紀夫『宴のあと』 三島由紀夫『裸体と衣裳』 竹山道雄『時流に反して』 竹山道雄『ビルマの竪琴』 吉田健一『ヨオロッパの世紀末』 中村光夫『芸術の幻』 佐伯彰一『内と外からの日本文学』  

Ⅳ 「素心」の思想家・福田恆存の哲学
一 知識人の政治的行動について
二 「和魂」と「洋魂」の戦い
三 ロレンスとキリスト教
四 「生ぬるい保守」の時代
五 エピゴーネンからの離反劇
六 「眞の自由について」

Ⅴ 三島由紀夫の死と私
はじめに――これまで三島論をなぜまとめなかったか
第一章 三島事件の時代背景
第二章 一九七〇年前後の証言から
第三章 芸術と実生活の問題
第四章 私小説的風土克服という流れの中で再考する
あとがき

Ⅵ 憂国忌
三島由紀夫の死 再論(没後三十年)
三島由紀夫の自決と日本核武装(没後四十年)

追補 福田恆存・西尾幹二対談「支配欲と権力欲への視角」
   同対談解説  エゴイズムを克服する論理

後記

『天皇と原爆』刊行(二) ・チャンネル桜出演のお知らせ2

宮崎正弘さんの書評

 

この馬鹿馬鹿しくて、だれた世の中に号砲一発、保守論壇も揺さぶる
  西尾式爆発力をともなった問題提議、史観の再確立を呼びかける問題作

  ♪
西尾幹二『天皇と原爆』(新潮社)
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 いきなり近代史の総括的整理を西尾氏は次のように叙する。
 西安事件から廬講橋事件、そして「スペインの内戦から第二次上海事変(1937年8月)まで歴史を動かしていたのはコミンテルンとユダヤ金融資本です。突如として英ソが手を結んだ欧州情勢はヒットラーの憎々しさだけでは説明できません。当時アメリカ大統領がコミンテルンの思想に犯されていたことは判明しましたが、英仏の政治中枢も同様であったかもしれません。スペインの赤化政府を応援し人民戦線に簡単に味方した欧米の知識人、アンドレ・マルロォやヘミングウェイ等の動きはやはり簡単には理解できない謎です。あの時代を神秘的に蔽ったコミンテルンの影響史と、それを裏から手を握った金融財閥の影を決定的要因と見ない歴史叙述は、やはり現実を反映しないフィクションにすぎない」
 
 そうだ。スペイン内戦になぜマルロォは飛んでいって『希望』を書き、ヘミングウェイは『誰がために鐘は鳴る』を書いたのか、不思議でならなかった。名状しがたいムードに流されたか、あるいは日本でもマルクス主義が猛威を振るったように流行現象、知識人にもっとも伝染しやすい病気であったのか?
 本書は日本の空疎な論壇やアホな「政治ごっこ」に明け暮れるぼんくら政治家、それを許容している大半の日本人にしかけられた凄まじい破壊力をもつ爆弾である。

 しかし多作で多彩なテーマを追う西尾さんが、またまた瞠目すべき題名の本書を書かれたわけだけれど、いったい何時、このような新作を構想され、準備し、執筆されているのかと訝しんだ。傍らで全集を出されている時期にもあたり、執筆の時間がよくおありになったなぁ、と。
本書の「あとがき」から先に読んで納得、これは二年がかりでテレビのシリーズで論じられた草稿に手を加え、TPPも話題の中にでてくるほどに時宜を得た政治的哲学的な装飾を施した新刊なのである。
読み始めて評者(宮?)はなぜか脈絡なく歴史家ポール・ケネディの『大国の興亡』という仮説を類推し、ついでポールの息子と日本に滞在中になした会話を思い出した(息子は日本に一年ほど研修できていた)。
そのとき、評者は或るラジオ番組をもっていたので、かれに出演を促し、英国人としての意見を聞いたことがある。
ちょうどパパ・ブッシュの湾岸戦争が米国の大勝利に終わって、ブッシュ政権は「ニュー・ワールド・オーダー」(世界新秩序)なる新戦略を盛んに吹聴していた。後にもイラク戦争に大勝利したブッシュ・ジュニアのときにネオコンが「リバイアサンの復活」を獅子吼したような戦捷の雰囲気があった。
しかし中東と南アジアでの米軍の結末はどうだろう。米国の栄光はすぐにペシャンコになり、イラクはシーア派にもぎ取られる勢い、アフガニスタンは宿敵ビン・ラディンを殺害した途端に撤退を始める。連続する無惨なる敗北、あのベトナム戦争のときの精神的トラウマが米国の輿論を覆い尽くし、イランが核武装するのを拱手傍観、経済制裁でお茶を濁しつつ、ホンネではイスラエルの空爆奇襲を待望しながらも、表向きは「イスラエルの空襲には協力しない」などと綺麗事を言いつのる。
やけっぱちの米国は口舌の徒=オバマを選んだ。彼の外交は素人であり、敗北主義であり、猪突猛進の米国が内向期の循環をむかえたかのようだ。
そのことはともかくとして、湾岸戦争の勝利直後、ポール・ケネディの息子に「世界新秩序なんて聞いて、どう思うか?」と尋ねると、「いやな感じですね。なんだかヒトラーみたい(に米国は傲岸である)」。

 さて本書で西尾さんが力点をいれて論じるテーマのキー・ワードは「闇の宗教」(米国)と「神の国」(日本)である。
米国は「マニフェスト・ディスティニィ」などという呪術的な闇の信仰にとりつかれて奴隷解放の名の下の南北戦争以後、西へ西へとインディアンを撲滅しつつ西海岸から太平洋に進出し、その際に最大の障害だったスペインに戦争を仕掛けてプエルトリコを奪い、キューバにスペイン艦隊を追い込んで殲滅し、運河を建設するためにパナマを奪い、ハワイを巧妙に謀略で合併し、そしてサモアの半分を奪い、フィリピンを奪い、その果てしなき侵略性を剥き出しにしつつ日本との戦争を準備したのだ。
日米戦争は始めから終わりまで米国が仕掛け、日本にとってみれば理由の分からないまま、米国の横暴に挑戦した。やむにやまれぬ大和魂の発露でもあった。
米国は最終的にシナの権益を確保するために満州を奪おうとして、日露戦争では日本を便宜的に支援したものの、日本が満州を先取りするや、猛烈に日本に攻撃を仕掛け、つまり『太平洋戦争』なるものは、米国の謀略で日本を巻き込んだ結末にほかならない。
米国が「正義、フェア」などと表面的には綺麗事を並べるが、その基本にある潜在意識は闇の宗教、やってきたことは正反対、おぞましいばかりの殺戮と侵略と世界覇権だった。
 この文脈から推論すれば次なるシナリオとは、米国に楯突く中国といずれ米国は対決せざる得なくなり、その準備のために在日米軍の効率的再編を行い、日中離間をはかっていることになる。
 こうした歴史観からすれば、対米戦争は日本が悪かったとか、シナへは侵略戦争だったとか、正邪が逆転している、いまの日本を蔽う自虐史観がいかに視野狭窄で政治的謀略に基づく利敵行為であるかが理解できる。
 本書で西尾さんは「懇切丁寧」ともいえるほど平明で、しかし執拗に半藤一利らに代表される左翼似非(えせ)史観を糾弾しつつづける。
 評者にとっては半藤とか、丸山真男とかは「正真正銘のバカ」という一言で、詳しく論ずるのも馬鹿馬鹿しいと思っている。「正真正銘のバカ」というのは「たらちねの母」のように枕詞である。しかし西尾さんは、これらの似非歴史家への批判を通じて、わかりやすい、正しい歴史観を説明されるのである。加藤某女史への適切にして舌鋒鋭き批判の展開も、国学の復活と視座からパラレルに揶揄される。

 西尾さんはこうも言われる。
 「まだ国家が生まれていない十三、四世紀のヨーロッパ世界において、教会が『神の国』であったのと似た意味で、この列島で意識されていた『神の国』とは、一貫して天皇だった」、日本では「儒仏神という三つの宗教があって織りなす糸のように混じり合い絡み合い、とりわけ神仏が二つに切り離せないほどに一体化してしまったところに儒教が出てきて、仏教に支配されていた神道を救い出すというドラマもおこ」った。これが「江戸末期の水戸学、『国体論』の出現でした」

 ともかく一神教の「神の国」である米国は、「日本にサタンを見て、この国の宗教をたたきつぶそうと意識していたんですよ。ためらわずに原爆まで落とすくらいに。こっちは『菊と刀』みたいなことは全然考えてなくて、(当時の日本の論客らの総括では)アメリカは統計と映画の国と書いてあるだけ」で、「そんなことで勝てっこない」
 だから言い訳がましくも強弁を張る米国の政治家とて、原爆投下は後ろめたいのであり、日本は米国に執拗にそのことを糾弾すべきであると西尾さんは言う。
しかも米国は日本に復讐されると恐れるがゆえに日本の核武装を防ぐために核拡散防止条約を押しつけ、NPT体制の構築でひとまず安心、しかしインド、パキスタンに続いて北朝鮮の核武装で「核の傘」が破れ傘になるや、日本が米国の核の傘は信用できないと言えば、おどろき慌てて「核の傘は保障する」とだけを言いにライス国務長官が日本へ飛んできたこともある。
 西尾さんは本書の掉尾を藤田東湖の『正気の歌』を掲げて筆を擱いているが、本書を通読したあとだけに理由が深く頷ける。西尾さんは子供の頃、この正気の歌を暗誦していたというのも驚きだった。 
         ○△ ○△ □○

番組名  :「闘論!倒論!討論!2012}

テーマ  :「キャスター討論・漂流する戦後日本を撃つ!」

放送予定日:平成24年2月18日(土曜日)
       20:00~23:00
       日本文化チャンネル桜(スカパー!217チャンネル)
       インターネット放送So-TV(http://www.so-tv.jp/)
       「Youtube」「ニコニコチャンネル」オフィシャルサイト
     
パネリスト:(50音順敬称略)
      井尻千男 (桜プロジェクトコメンテーター)
      小山和伸 (桜プロジェクト・報道ワイド日本Weekendキャスター)     
      鈴木邦子 (報道ワイド日本Weekend」キャスター
     西尾幹二 (GHQ焚書図書開封)
      西村幸祐 (報道ワイド日本Weekend・桜プロジェクトキャスター)
      三橋貴明 (報道ワイド日本Weekend・桜プロジェクトキャスター)
      三輪和雄 (桜プロジェクトキャスター)
      
          
司 会 :水島 総(日本文化チャンネル桜 代表)

『天皇と原爆』刊行(一)

 私の新刊『天皇と原爆』(新潮社¥1600)が2月初旬に刊行されました。目次を掲げます。

  目 次
第一回   マルクス主義的歴史観の残骸
第二回   すり替わった善玉・悪玉説
第三回   半藤一利『昭和史』の単純構造
第四回   アメリカの敵はイギリスだった
第五回   アメリカはなぜ日本と戦争をしたのか
第六回   日本は「侵略」国家ではない
第七回   アメリカの突然変異
第八回   アメリカの「闇の宗教」
第九回   西部開拓の正当化とソ連との未来の共有
第十回   第一次大戦直後に
      第二次大戦の裁きのレールは敷かれていた
第十一回  歴史の肯定
第十二回  神のもとにある国・アメリカ
第十三回  じつは日本も「神の国」
第十四回  政教分離の真相
第十五回  世界史だった日本史
第十六回  「日本国憲法」前文私案
第十七回  仏教と儒教にからめ取られる神道
第十八回  仏像となった天照大神
第十九回  皇室への恐怖と原爆投下
第二十回  神聖化された「膨張するアメリカ」
第二十一回 和辻哲郎「アメリカの國民性」
第二十二回 儒学から水戸光圀『大日本史』へ
第二十三回 後期水戸学の確立
第二十四回 ペリー来航と正気の歌
第二十五回 歴史の運命を知れ

あとがき

【付録】帝國政府聲明(昭和16年12月8日午後零時20分)

天皇と原爆 天皇と原爆
(2012/01/31)
西尾 幹二

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 今日は二つの書評をお送りします。

 最初は都留文科大学教授・文芸評論家の新保祐司さんが新潮社の『波』(2012年・2月号)に書いて下さいました。もうひとつは私の高校時代の友人の、関東学院大学名誉教授・経済学者の星野彰男さんからの私信です。星野さんは私の竹馬の友で、アダム・スミスの専門研究家です。

 このお二人の論評は対照的で、星野さんは批判的読み方をしています。これらの書評に触れてでもよく、拙著を読んだ方の評文をコメント欄に期待します。

歴史哲学者の衷心からの直言

――西尾幹二『天皇と原爆』  新保祐司

 西尾幹二氏は、世間では保守派の論客ということになっているが、本書の中に天皇の戦争責任をめぐって「私は左翼の議論も、いわゆる保守の議論も、どちらも容認できない」と書かれている。この問題に限らず、氏は「いわゆる保守」の人ではないので、本書にあらわれている精神の相貌は、深い憂国の情をたたえた一人の歴史哲学者のものであるといっていいように思われる。

 時事的な問題についての発言も氏は積極的に行っているが、それも単なる時事評論家の解説の類ではなく、「歴史の運命は、私たちのこの目の前で今も起こっているんだということを、片ときも忘れてはいけないのだ」との、自らに課している戒律に基づいているのである。

 私たちの国は今、再び国体論をきちんと考え直さなければ切り抜けられそうにない時代にさしかかっている」という危機感から、本書の歴史哲学は生まれているが、その眼目は、日本とアメリカが戦った大東亜戦争とは、宗教対宗教の戦争であったとするところにある。

 これは、世界や人間を考えるときに、宗教という視点をほとんど考慮しない今日の日本人の盲点を鋭くついた議論である。「これまで日米戦争をめぐっては、政治的、外交的、経済的にはたくさんの説明がなされてきましたけれども、宗教との戦いが大きく背後にあったことは、あまり論じられておりません」と氏が指摘される通りであり、本書の歴史哲学の画期的な意義はそこにあるであろう。今日必要なのは、実証的な事実の検証を誇る歴史学ではなく、日本人に日本人であることの意義と誇りを回復させる歴史哲学であり、それは歴史の宿命を明らかにするのである。「外務省の文書館にそんな記録があるのか。ありませんよ。証拠はなくったって、まさにそれが歴史なんです。歴史とは、細かな実証的事実にとらわれてどうだこうだの閑話ではまったくないのだということを、よく理解していただきたいと思います」と語るのは、まさに信念に溢れた歴史哲学者に他ならない。

 「神のもとにある国・アメリカ」の章で詳しく論じられているように、アメリカとは「神の国」なのである。「進化論を信じられない人が極めて多く、現在でも神を信じる人が92パーセントにのぼるアメリカ」とあるように、アメリカは極めて宗教的な国といっていい。

 そして、次の章は「じつは日本も『神の国』」と題されている。日本思想史、あるいは日本宗教史に関する該博な知識と深い考察により展開されている日本の精神的本質についての議論は、今日の日本の危機的状況を鑑みるとき、極めて重要なものであり、日本の歴史と文化について考えるに際しての豊富なヒントを与えてくれるであろう。

 昭和の戦争を満州事変あたりから昭和20年の敗戦に至る期間に限定して論ずる今日の一般読書界に広く読まれている著者たちの言説に対する厳しい批判は、この昭和の戦争をもっと尺度の長い世界史の視野から見ることが必要だからである。期間をその15年ほどに区切れば、日本は「侵略」国家にされてしまうのである。17、18世紀から始まる西洋のアジア侵略がまず先にあったことを頭に入れようとしない。

 「日米戦争は、アメリカの強い宗教的動機と日本の天皇信仰とがぶつかり合った戦いにほかなりません」と結論づけられていて、「向こうは日本にサタンを見て、この国の宗教を叩きつぶそうと意識していたんですよ。ためらわずに原爆まで落とすくらいに」と、日本への原爆投下という最も恐るべき行為も宗教的動機があったからこそ可能だったとしている。この見解をはじめ、本書には苛烈な発言が多い。しかし、「我々は何かに大きくすり替えられて暮らしている。頭の中に新しい観念をすり込まれて、そこから立ち上がることができなくなっている。その現実を、しかと見ていただきたいと思います」とは、そういう発言をせざるを得ない著者の衷心からの直言であろう。

関東学院大学名誉教授(経済学)星野彰男

 このたびは、ご新著『天皇と原爆』をご恵贈下さり、まことにありがとうございます。表題からは、こういう内容であるとは想像できませんでした。日米間の宗教比較論や水戸学などこれまでに無い新しい見解が満を持したように披瀝され、大いに学ばせていただきました。これほど徹底した議論はこれまで触れてこなかったので、これをどう受け止めたらよいのか、正直のところ大変戸惑っています。

 M.ウェーバーの宗教社会学に近い面もありますが、内容的には正反対のようです。彼は、宗教改革→合理化精神→資本主義精神→「精神なき専門人」というテーマで、ヒンズー教、儒教、道教等と比較分析しましたが、基本は「合理化」論ですから、丸山真男や大塚久雄のような見方になりましょう。その点、本書はむしろ非合理的な情念、伝統、共同性、ナショナリズム、国家、祭事等を内容とした日本宗教論ですから、ウェーバーでは捉えきれない面を捉えています。その点は『江戸のダイナミズム』と同様です。むしろ、ウェーバーが批判したドイツ歴史学派の見方に重なると言えるかもしれません。

 ただしその分、アメリカの建国経過の否定的面が強調されました。そういう議論はわれわれの分野でも時々提起されますが、「今さらそれを言っても」という雰囲気です。土地所有観念の無い狩猟族に労働所有観念を所有する文明人(ホッブズでなくロック)が鉢合わせすれば、仮に日本人が殖民しても同じ結果になるはずです。したがって、われわれはこれを暗黙裡に「歴史の宿命」として黙認してきたようです。

 それと土地所有観念を有する国に殖民して現地人と争いになることは、かなり次元の違う問題でしょう。それらを混同したところに日本の殖民の無理筋がありましょう。日本、ドイツ、ロシア等にとって、もはや狩猟族の大地が残されていなかったことも、「歴史の宿命」ではないでしょうか?

 和辻哲郎にそういう客観的な見方があったでしょうか?あの状況下では無理でしょう。満洲殖民にそういう無理があったとすれば、そこにアメリカの投資を認めていれば、それで済んだかもしれません。その上で、欧米列強の植民地の門戸開放を主張すれば、アメリカもこれを認めたかもしれません。それがアダム・スミス路線で、矢内原忠雄はそれに近かったようです。しかしすべてが「宿命」であれば、言っても無駄なことで、敗戦も東京裁判もそうでしょう。だとすれば、ご説のようにこれからどうするかだけが問題となるでしょう。

 ご指摘のホッブズから、ロック(ルソー)→ヒューム→スミスに至り、宗教や政治を含む歴史を動かす動因は経済力にあることが解明されてきました。ウェーバーはその逆作用をも捕らえましたが、いずれにしても経済がポイントです。今はそれが金融過剰化によって危機的状況を迎えていますが、それは明らかにスミス路線から余りにも逸脱した結果です。したがって、そこにいかに戻すかに成否がかかっています。それを充分勘案した上での宗教や国のあり方が問われるのではないでしょうか?それらの極端な原理主義は経済にとっての妨げになり、自滅します。なお、これに関わる「書評」を発表しましたので、同封します。上記と多少か関わりのある議論があります。  不一

全集第一巻『ヨーロッパの個人主義』刊行

 全集の第2回配本、第一巻『ヨーロッパの個人主義』が出ました。私の最初の二作品『ヨーロッパ像の転換』と『ヨーロッパの個人主義』が収録されていますが、じつは巻全体の約半分は、個別のさまざまな小篇と竹山道雄先生との対談で埋められています。

 以下に目次を掲げますが、さまざまな小篇の色替えの個所は、私の若い頃の単行本にも収録されていないできた置き忘れられた文章群です。

 色替えでないものは、一度は単行本に収められていた文章群ですが、今では覚えている人はほとんどいないでしょう。さらっと書かれたこれらの小篇は、自分で言うのも妙ですが、そう悪くはないのです。

 当時本当にたくさん書いていたものだと自分でも思います。ヨーロッパに関するものに限ってもこれだけありました。

Ⅰ ヨーロッパ像の転換
    序 章  「西洋化」への疑問
   第一章  ドイツ風の秩序感覚
   第二章  西洋的自我のパラドックス
   第三章  廃墟の美
   第四章  都市とイタリア人
   第五章  庭園空間にみる文化の型
   第六章  ミュンヘンの舞台芸術
   第七章  ヨーロッパ不平等論
   第八章  内なる西洋 外なる西洋
   第九章  「留学生」の文明論的位置
   第十章  オリンポスの神々
   第十一章 ヨーロッパ背理の世界
   終 章 「西洋化」の宿命
   あとがき
 
Ⅱ ヨーロッパの個人主義
   まえがき
   第一部 進歩とニヒリズム
    < 1>封建道徳ははたして悪か
    < 2>平等思想ははたして善か
    < 3>日本人にとって「西洋の没落」とはなにか
   第二部 個人と社会 
    < 1>西洋への新しい姿勢
    < 2>日本人と西洋人の生き方の接点
    < 3>自分自身を見つめるための複眼
    < 4>西洋社会における「個人」の位置
    < 5>日本社会の慢性的混乱の真因
    < 6>西欧個人主義とキリスト教
   第三部 自由と秩序
    < 1>個人意識と近代国家の理念
    < 2>東アジア文明圏のなかの日本
    < 3>人は自由という思想に耐えられるか
    < 4>現代日本への危惧―一九六八年版あとがき
   第四部 日本人と自我
    < 1>日本人特有の「個」とは
    < 2>現代の知性について――二〇〇七年版あとがき
 
Ⅲ 掌篇

  【留学生活から】
    フーズムの宿
クリスマスの孤独
ファッシングの仮装舞踏会
ヨーロッパの老人たち
ヨーロッパの時間
ヨーロッパの自然観
教会税と信仰について
ドイツで会ったアジア人
  【ドイツの悲劇】
確信をうしなった国
東ドイツで会ったひとびと

  【ヨーロッパ放浪】
ヨーロッパを探す日本人
シルス・マリーアを訪れて
ミラノの墓地
イベリア半島
アムステルダムの様式美
マダム・バタフライという象徴
  【現代ドイツ文学界報告】
ヨーゼフ・ロート『物言わぬ預言者』()マルティン・
ヴァルザー 『一角獣』()ギュンター・グラスの政治参加
()ネリー・ザックス『エリ』()ハインリヒ・ベル
『ある公用ドライブの結末』()シュテファン・アンドレス
『鳩の塔』()ペーター・ハントケ『観衆罵倒』()
ロルフ・ホホフート『神の代理人』()批判をこめた私の総括
()ペーター・ビクセル『四季』()
フランツ・カフカ『フェリーチェへの手紙』()
スイス人ゲーテ学者エミール・シュタイガーのドイツ文壇批判()
言葉と事実――ペーター・ヴァイス小論()

Ⅳ 老年になってのドイツ体験回顧
   ドイツ大使館公邸にて

追補 竹山道雄・西尾幹二対談「ヨーロッパと日本」

後記

新春の仕事開幕

 平成24年(2012年)になり、早速私の次のような仕事が相次いで公開される。

 『SAPIO』(2月8日号)に脱原発特集が組まれた。題して「まだ終わっていないのに『なし崩し的再稼動』はNOだ。ここが正念場!脱原発を巡る論考を続けよ」となっていて、12本の論考が掲げられている。その中で私は「国防」を分担している。曰く「脱原発してこそ、日本は独立自尊を回復し、自由で合理的な国防と核武装が可能になる。」

 それより大きい仕事は『WiLL』(3月号・1月26日発売)の巻頭論文19ページである。題して

 
天皇陛下に「御聖断」を、女性宮家と雅子妃問題の核心
 

 女性宮家のテーマは付け足しで、それより大切なもの、国家の運命に関わるのが雅子妃問題であることを久々に訴えた大型論文である。平成20年(2008年)5月号の「皇太子さまへ敢えて御忠言申し上げます」から4年ぶりの本格的問い掛けである。しばらく様子を見ていたが、あれから事態は悪化する一方で、やっと重い腰を上げた。国民みんなが真剣に考えるときが来ている。

 新潮社刊の単行本『天皇と原爆』は24日に見本刷が出る。発刊は31日なので、次回詳しい案内をしたい。

 さて、西尾幹二全集第二回配本(第一巻)『ヨーロッパの個人主義』は同じ時期に刊行され、予約者のお手元に届くのは月末か遅くとも2月最初の週である。これに合わせて2月4日「個人主義と日本人の価値観」と題した公開講演会を開く。会場費の一部をご負担いたゞかないと運営できないので¥1000をもらい受ける。講演会の内容案内は末尾に再録する。

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「個人主義と日本人の価値観」講演会開催のお知らせ

   西尾幹二先生講演会

「個人主義と日本人の価値観」

〈西尾幹二全集〉第1巻『ヨーロッパの個人主義』(1月24日発売)刊行を記念して、講演会を下記の通り開催致します。

 ぜひお誘いあわせの上、ご参加ください。

★西尾幹二先生講演会

    「個人主義と日本人の価値観」

【日時】  2012年2月4日(土曜日)

  開場: 13:30 開演 14:00
    ※終演は、16:00を予定しております。

【場所】 星陵会館ホール

【入場料】 1,000円

※予約なしでもご入場頂けますが、会場整理の都合上、事前にお知らせ頂けますと幸いです。

★講演会終演後、<立食パーティ>がございます。

【場所】 星陵会館 シーボニア 

※ 16:30~(18:30終了予定)

【参加費】 6,000円

※<立食パーティー>は予約が必要となります。1月24日までにお申し込みください。
ご予約・お問い合わせは下記までお願いします。予約時には、氏名・ご連絡先をお知らせください。

・国書刊行会 営業部 

   TEL:03-5970-7421 FAX:03-5970-7427

   E-mail:sales@kokusho.co.jp

・坦々塾事務局   

   FAX:03-3684-7243

   tanntannjyuku@mail.goo.ne.jp
星陵会館(ホール・シーボニア)へのアクセス
〒100-0014 東京都千代田区永田町2-16-2
TEL 03(3581)5650 FAX 03(3581)1960

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※駐車場はございませんので、公共交通機関にてお越し下さい。)

主催:国書刊行会・坦々塾

後援:月刊WiLL

二つの『光と断崖』読後感(一)

 昨年末二人の知友から私の全集第五巻『光と断崖――最晩年のニーチェ』をめぐる読後感をいただいた。最初は一級建築士の大西恒男さんの感想で、京都在住の彼は震災後の復旧の仕事で茨城に長期間出張していて、そこで自由時間にニーチェと向かい合っていたらしい。二人目はいまヨーロッパ史に関する大著に取り組んでいるインテリジェンス研究家の柏原竜一さんである。お二人の論考をつづけて掲載する。

西尾幹二全集 第五巻 「光と断崖 最晩年のニーチェ」 を読了して

先生の著作で容易に手にすることの出来なかった文章群にふれ、楽しく・意味深く本書を読了いたしました。特に白水社のニーチェ全集を手にする機会を持たなかったので本書に収められた文章の多くをはじめて拝見いたしました。

光と断崖・・は晩年のニーチェの精神活動を知るのに分かりやすく。幻としての権力の意志・・はその成立顛末が詳しく述べられてあり、既存本 権力の意志 の小見出しは著者の意図しないニーチェの妹とガストの編集ということもわかりました。この人を見よ・・の翻訳は格調高く訳注も精緻を極めた内容になっていたのでこの訳注だけを単独に読み返しました。

ドイツにおける同時代人のニーチェ像・・は特に興味深く読みました。ニーチェをよく知るサロメの文章は心理的な意味が深く、(光のマントに包んで身を隠した者とはあの人自身にみごとにあてはまる。)などの表現は美しくまた正鵠を得ているようです。ヘッセの講演でツアラツストラを評した講演内容紹介もすばらしいと思いました。

研究余録 ギムナジウム教師としてのニーチェ・・はニーチェの人となりを知るのに好都合でした。若き大学教授ニーチェが教えるギリシャ語の授業風景が目に浮かびます。20人程度と規模が小さい古典語クラスの格調と厳しさ・真剣さなど教室の音さえ聞こえるようです。(すでにこの最初の時間で、われわれはある運命が大変な教師をわれわれのもとに送りとどけてくれたという印象をもっていた。1時間ごとにわれわれの尊敬と感激は高まっていった。)T.ジークフリート
以前、カルチャーセンターで西尾先生の講義を受講したとき我々受講生は上記に近いものを感じたと思っています。受講前と受講後では我々の気持ちの高ぶりが違っていたものでした。
ある受講生の女性は会社の上司に西尾先生の講義内容を話したあと、大学がこのようなものであるなら会社を辞めて進学したいと真剣に話をされていたことを思い出しました。

本全集第五巻の続きは西尾先生の翻訳された白水社イデー選書 「偶像の黄昏・アンチクリスト」にチャレンジしたいと思います。

大西恒男

 大西さん、どうもありがとう。その後の来信によると、彼はニーチェの『アンチクリスト、偶像の黄昏』(白水社イデー選書)も入手して、すでにお読みになったらしい。

謹賀新年(平成24年)

 喪中につき年末年始の挨拶を遠慮するという恒例の葉書の知らせは昨年末、数えてみたら62通あった。多いか少ないか分らない。毎年これくらい来ているとは思うが、毎年は数えていないので判断できない。たゞ今度気づいたのは長寿でお亡くなりになった方がきわめて多いことだった。90歳より以上の方が22人もいる。100歳以上で逝去された方が4人もおられた。私は自分がだんだん齢を重ねてきたので、死者の年齢も次第にあがって来たのだと思うが、たゞそれだけではない。一般に長生きが普通になったのである。

 天皇陛下がご高齢になられたとの声をテレビでしきりに耳にする昨今である。陛下は私とはわずか1.5歳くらいの年差であられる。私も「ご高齢」になったのだとテレビでいわれているようで奇妙な気がしてくる。

 陛下はまだまだご丈夫だと思う。被災地をご訪問になり、避難所の床にお膝をついて話をなさるシーンを何度も目にした。膝をついて坐れば、膝を起こして立たなければならない。立ったり坐ったりするのは容易ではない。陛下は鍛錬なさっている。私はそう直感した。私なんかより足腰はしっかりしておられ、きっとお強いのだ。まだまだ大丈夫である。

 私は昨年全集の刊行開始、相次ぐ雑誌論文、単行本三冊の出版で年齢にしてはやり過ぎである。私より高齢で多産な人もいるから、音を上げてはいけないが、10~11月ごろに少しばて気味だったことは間違いない。むかし手術を受けたところの古傷がいたんで、すわ再発かと恐れたが、要するに疲労とストレスが貯まった一時的な結果だった。仕事量を減らさなくてはいけない。

 昨年私はニーチェと原発と日米戦争に明け暮れたが、今年はどうなるだろう。今年は全集を4巻出し、次の年の4巻の準備をしなくてはならない。そして夏ごろスタート予定で『正論』に長編連載を開始する約束になっている。小さな論文とか新しい単行本の企画とかは慎まなくてはならない。それがいいことかどうかは分らないのだが・・・・・・。

 自分の肉体がだんだん衰徴していくのは避けがたいが、それにも拘わらず、行方も知れない日本の運命への不安がますます募るようで、私の心理的ストレスは高まりこそすれ鎮まることはないだろう。中国に対する軍事的警戒とアメリカに対する金融的警戒はどちらも同じくらい必要で、どちらか一方に傾くというわけにはいかない。前者を防ぐためにアメリカの力を借りれば、後者から身を守るすべが日本にはない。

 先の戦争が終ったころ、米国務長官アチソンがフィリピン、沖縄、日本、アリューシャン列島のラインをアメリカが責任をもつ防衛範囲であると明言し、それ以外の所は責任を持たないと言ったために、金日成が南朝鮮を安んじて侵攻した、という歴史がある。アメリカが最近海兵隊をオーストラリアに移動させたことをもって、アメリカの対中防衛網の強化だと歓迎する人が多く、そういう一面は私も否定しないが、しかし考えようによってはアチソン・ラインが南に下げられ、日本列島はラインの外に出されてしまった、という見方もないわけではないのである。

 大震災が起こったとき、アメリカ艦隊が大挙して救援に来た。例の「オトモダチ作戦」は善意と友情の行動という一面もあるが、日本列島がかっての「南ベトナム」「南鮮」のような保護対象としての主権喪失国家のひとつと見られた事実も間違いなくあるのである。少くとも今、日本列島はアメリカ合衆国の国境線になっている。かつての満洲北辺が大日本帝国の国境線であったのと同じような意味においてである。

 東シナ海、日本海近辺には石油・天然ガスが大量に眠っており、その総量はサウジアラビアを凌駕するという説がある。これは日本人にとって悪夢である。中国が狙うだけではない。アメリカも狙っているからだ。アメリカはこれを奪うために日中間の戦争が起こるように誘導するかもしれない。世界経済が完全に行き詰まった後、何が起こるか分らない。

 ジョゼフ・ナイの「対日超党派報告書」というのがある。ごらんいたゞきたい。

 http://www.asyura2.com/09/senkyo57/msg/559.html 

 わが日本列島はこの200年間、運命に対し受身であるほかなかった。日本の行動はすべて受身の状態を打開するためで、悲しい哉、自らの理念で地球全体を経営しようと企てたことはない。外からの挑戦につねに応答してきただけである。これからも恐らくその宿命を超えることはできないだろう。

 昨年末に次の本を校了とし、出版を待つばかりとなった。表紙もできあがったのでお目にかける。

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 前にご紹介した担当編集者の作成メッセージをもう一度お届けする。

天皇と原爆

強烈な選民思想で国を束ねる
「つくられた」国家と、
世界の諸文明伝播の終着点に
「生まれた」おおらかな清明心の国。

それはまったく異質な
二つの「神の国」の
激突だった――。

真珠湾での開戦から70年。

なぜ、あれほどアメリカは
日本を戦争へと
おびき出したかったのか?

あの日米戦争の淵源を
世界史の「宿命」の中に
長大なスケールでたどりきる、
精細かつ果敢な
複眼的歴史論考

西法太郎さんの文章その他

 『文藝春秋』12月号――すでに月が替わって今は1月号だが――に、旧宮家の令嬢久邇晃子さん(精神科医)が原発への疑問を書いている。「愚かで痛ましい我が祖国へ」と題したそのご文章は深く味わいがあり、心を打つ内容であった。

 今まであまり論じられていない新しいことが二つ書かれていた。代替エネルギー関連の特許は日本が世界の55%を占めているとのことである(国連の専門機関WIPOの報告書)。それなのに日本がそれを生かせているとは言い難い。わが国の技術開発力のすばらしさと、それを社会化していく能力の貧困とのギャップが口惜しいと仰っている。私もそう思う。

 最近の風潮では、また少しづつ世論の鎮まるのを待って、原発路線へ戻ろうとする動きがボツボツ目立ち始めている。「自然エネルギーは実現性が無いから、などとそれ自体論拠の薄いことを主張して、原子力発言の割合を含めて現状維持しか方法は無いのだ、と冷笑的な態度を取っている人が大勢を占めている間に、日本は世界に後れを取り、競争力が低下し、これから急速に成長していく可能性の高い有望な分野での(しかも日本が得意な分野での)またとないチャンスを逃している。」と彼女は書いている。

 幼少時より外国経験の多かった久邇さんは、日本が戦争に敗れて以来黙々と働きつづけ名誉ある地位を回復したことに好意を寄せてくれる国々として、「ヨーロッパの中でも、東欧の人たちや、ラテンアメリカの人たち、中近東の人たち」を挙げ、日本が万一また失敗し、海や大気などを再び汚染するようなことが起こったら、「日本に対する同情は一転して反感に変わる」だろうと仰り、そのことに心を痛めている。

 「愚かで、痛ましい我が祖国。美しい日本の野山を見ると、じっと耐えている東北の人々の姿を見ると、涙が止まりません。」

 静かなその語り口に共感した。そして、少し余計な話かもしれないが、こういう方が皇太子妃であって下さったら日本国民は救われたのに、とついあらぬ方向へ思いが及んでしまう昨今でもある。

 原発については10月21日に私は有楽マリオンの朝日ホールで、専門家の方々に立ち混ってシンポジウムに参加したことと、文藝春秋から『平和主義ではない「脱原発」』という単行本を出版したことの二つが私の最近のトピックである。

平和主義ではない「脱原発」―現代リスク文明論 平和主義ではない「脱原発」―現代リスク文明論
(2011/12)
西尾 幹二

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 最近は少し根気を失って、原発発言はやめている。たゞしこの本のあとがきである「ひとりごと――『あとがき』に代えて」は読んでもらいたい新稿である。また、小林よしのり氏の新雑誌『前夜』創刊号(12月25日刊)に協力して書いた一文も、「原発は戦後平和主義のシンボルだった」(20枚)と名付けた。これは『WiLL』12月号で田原総一朗氏が「脱原発は一国平和主義と同じだ」と書いたことに対抗し、こういう傾向の考えをからかった題名である。

 どうも『WiLL』は遺憾なことに、全体の傾向は原発推進派のようである。私は例外的に扱われているみたいだ。保守論壇はこぞって原発万歳の方向なのであろう。保守の中で脱原発を明言しているのは、小林よしのり氏と竹田恒泰氏と私の三人くらいである。

 私は原発の存在が日本の国防を阻害していることを特記している立場である。この点については、正月が明けてから『SAPIO』でもう一度強力にテーマをしぼって発言すべく、昨日、インタビューに応じた。

 さて、西法太郎氏がこうした一連の私の言論のあり方について、大変に印象深い言及と分析を二度にわたって書いてくださっているので、以下に感謝をこめて掲示する。

(1)日録10月6日 全集発刊にからむニュース(5)のコメント(1)

1. WiLL11月号の西尾先生の御論考「現代リスク文明論-原発事故という異相社会」を手にとって思いめぐらしたことを以下徒然に綴ります。

西尾先生の御論考はどれも御自身の地頭で思考したことをズバズバ述べていて読む者を痛快な気分にさせてくれます。

それはまるで焔を噴きだす巨龍のような迫力です。それはまるで百畳の部屋いっぱいに拡げた和紙にたっぷり墨汁を含ませた特大の筆を一気呵成に運ぶ大僧正のおもむきです。

展開する内容は小難しくも小賢しくもなく読み下して行けばストンと胸の中に収まものです。これはなかなか出来ることではありません。書き手が自分の意を読者に伝えることは意外に難しいのです。往々にして意余って言葉足らずとなりかねないのです。

その一方伝えるべき肝心の自分の意を持ち合わせない手合いが物書きの中にごまんといます。そういう手合いは他人の文章を換骨奪胎してあちらからこちから引き写して編集者や読者に迎合するものを仕上げています。それを自分のもののように取り繕います。それが感心するほど上手い人がいます。
西尾先生はひたすら我が道を往くだけです。周りの状況を読んで処世で動くということはしません。KYという語は西尾先生の辞書にありません。なぜなら周囲の空気を読むような姿勢を容認する言論空間にいないからです。政治家は民意を読み取ってその流れに乗らないと商売になりません。言論人は政治家とは違います。あたかもヴェネチアが数百万本の杭をラグーナに打ち込んで堅牢な海上都市を築いたように、西尾先生は「30歳から40歳ごろまで」「爆発といってもよいくらいの活動をして」「多産だった」時代に確固とした思想形成の土台を築いたのです。あらゆるものを〝懐疑〟してその地盤を踏み固めたのです。それがマグニチュード9の大震災や大津波に動じることなく、原発被災以降の日本をそれまでと異なるフェイズに入ったと捉える透徹した視力をそなえさせたのです。
WiLLの西尾論文は次のように結ばれています。

「人類はかつてプロメテウスの火をもてあそんだように、原発はやってはいけない神の領域に手を突っこみ、制御できなくなった「火の玉」が自らの頭上に堕ちてくるのをいかんともし難くもて余し、途方に暮れている姿に私には見える」

ハインリヒ・アルフレート・キッシンガー(英語名ヘンリー・アルフレッド・キッシンジャー)に『核兵器と外交政策』という大著があります。

キッシンガーは、その第三章「プロメテウスの火」の冒頭で次のように説いてまだ30歳台の少壮学者時代の鋭い洞察力をきらめかせています。

「プロメテウスは、神々から火の秘密を盗んで、岩に鎖でつながれて余生を送るという罰を受けた。この伝説は何百年の間、思い上がった野心に対する処罰の象徴と考えられている。ところが、プロメテウスが受けた罰は、慈善行為だったともいえるのではなかろうか?
というのは、神々が自分達の火を盗ませるようにしむけたとしたら、その方がはるかにひどい罰ではなかっただろうか?
現代のわれわれも、神々の火を盗むのに成功したために、火の恐怖と共に生きなければならぬ運命となってしまった」

そのギリシア神話は次のようなものです。
チタン族がクロノスを助けてゼウスと戦ったとき、プロメテウスは一族に背いてゼウスに味方したため、後にゼウスから人間創造の大任を委ねられた。しかし、プロメテウスは自らの創った人間を愛するあまり、ついに天上の火を盗んで人間に与えた。
ゼウスは怒ってプロメテウスをカウカソスの山上の巨きな岩に繋縛し、日毎にハゲ鷲に肝をついばませた。
プロメテウスはヘラクレスに救われるが、神が罰として弟エピメテウスに渡したパンドラの匣が開けられ、封じ込められていた禍の種子が世界に飛散して、人間界は混乱と争いが絶えない悲惨なところとなった。

ギリシア神話と無縁の大日本国(おおやまとのくに)は、世界初の原爆の苛烈な火を降り注がれ、すさまじい災厄を蒙りました。しかるのち生き残った民は大和魂を抜かれ、背骨を熔かされ、精神的軟体動物に成り果てて、哀れを止めぬありさまです。

大和の神々は自ら社稷を汚してしまった民草を守ってはくれないのでしょうか。神を懐うことをなおざりにした民に御陵威は及ばず、守られるに値しないのでしょうか。消え行くしかないでのしょうか。

こんな大和の民が蘇生するには、神韻漂渺の世界を想い、先達の困難克服の営みとあまたの犠牲を顧み、その上に今在るわれわれが存していることを感得することしかないでしょう。しかしこれは易いことではありません。(了)
コメント by 西 法太郎 — 2011/10/11 火曜日 @ 17:48:37

(2)坦々塾ブログ 11月12日 “孤軍奮闘の人”西尾全集の発行に寄せて
坦々塾ブログからの転載

〝孤軍奮闘の人〟西尾幹二先生の全集発刊に寄せて

        坦々塾会員  西 法太郎

 2011年10月 【西尾幹二全集】 全22巻の刊行が遂にスタートした。年4冊のペースだというから完結まで6年を要することになる。単行本に収められなかった御論攷(『批評』に発表した「大江健三郎の幻想風な自我」など)や未発表の原稿なども日の目を見るというから楽しみだ。  

 完結の暁には〝西尾幹二大星雲〟の全貌が姿を顕すことになる。しかしこの大星雲は今なお膨張し続けており、完結までに成しゆく著作で巻数が増えることは想像にかたくない。
 この大事業が完成するまで西尾先生は意気軒昂でおられるだろうが版元が全集発刊の体力を保てるか不安である。それは版元の経営状態を云々するのではなく昨今の出版業界の不昧がこれから更に酷くなる厳しい状況が続くことが確実だからである。先行き不透明な現下、壮挙と呼べる本事業を引き受けた版元の心意気やよしである。

 学者としてスタートした先生はその後言論人としてひたすら我が道を突き進んできた。それは周りの状況をうかがって処世で動くことができない性格からそうなったとも言える。しかしそういう不器用さは善である。先生は周囲の空気を読むような言論空間にいないのだ。だからその辞書に「空気を読む」という言い回しはない。

 先生はあたかもヴェネチアが数百万本の杭をラグーナ(潟)にどんどん打ち込んで堅牢な海上都市を築いたように、「30歳から40歳ごろまで」「爆発といってもよいくらいの活動をして」「多産だった」時代に思想形成の強固な土台を築いた。
 あらゆるものを〝懐疑〟してその基盤を踏み固めた。それがマグニチュード9の大震災、大津波に精神を動じさせることなく、原発被災以降の日本がそれまでと異なるフェイズに入ったと捉える透徹した視力をそなえさせたのだ。

 今から66年前、大日本国(おおやまとのくに)の民は世界初の原爆の熱炎を降り注がれる苛烈な災厄を蒙った。しかるのち生き残った民は大和魂を抜かれ、背骨を熔かされ、精神的軟体動物に成り果てて、哀れを止めぬありさまである。

 大和の神々は今回放射性物質で社稷を汚してしまった民草をもう守ってくれないのだろうか。神を懐うことをなおざりにした我々は守られるに値せず、御陵威は及ばず、消え行くしかないのだろうか。

 こんな大和の民が蘇生するには、神韻漂渺の世界を想い、先達のあまたの犠牲と困難克服の営みを顧み、今その上にみずからが存していることを感得することしかないのだろう、と思う。易いことではないが先生はこのことを感得している。

 先生を〝孤軍奮闘の人〟と呼んだのは長谷川三千子氏だが、先日都内で行われた≪東京電力・福島第一原子力発電所事故と原子力の行方≫というシンポジウムに登壇した先生はまさに〝孤軍奮闘の人〟だった。

 先生以外のパネリスト5名の内4名は長年原子力村に棲息してきた日本原子力技術協会・最高顧問、京都大学原子炉実験所・教授、九州大学副学長・教授、日本アイソトープ協会常務理事という肩書を持つ学者たちで、あと一人は原発推進に与する作家、つまり脱原発論者は先生ただ一人だった。

 司会は田原総一朗氏で、原発擁護派の学者にも突っ込んだ質問をしていたが、先生には「西尾さん、あんた頭がおかしいよ」と罵倒の言葉を投げる悪態をついていた。先生は聞こえない風をよそおいポーカーフェイスで受け流していた。

 先生は遠藤浩一氏との最近の対談で「私の書くものは研究でも評論でもなく、自己物語でした。・・・〝私〟が主題でないものはありません。私小説的な自我のあり方で生きてきたのかもしれません」と語った。

 学者の書く物には自分を虚しくすることが求められるが、言論人の役割は我らに自己をよく語り、我らをその精神に共鳴させることだと思う。その意味で先生はまごうかたなき言論人である。

 先生は百畳の部屋いっぱいに拡げた和紙にたっぷり墨汁を含ませた特大の筆を一気呵成に運ぶ大僧正のおもむきを持つ。その筆鋒は巨龍の口から噴きだされる炎のような迫力で数々の言説を描き出して来た。

 そのような先生の言説はどれも展開されたまま読み下して行けば、論旨がストンと胸の内に収まるものだ。先生自身の地頭で思考したことをズバズバ述べていて読む者を爽快、痛快な気分にする。

 だが独文学者として書かれたものや全集の核心になるという声がある『江戸のダイナミズム』 は扱っている主題が主題だけに読む者は相当の忍耐と集中力を強いられるだろう。そしてその苦行は必ず自分の知的覚醒となり、心の糧となるはずだ。(了)

 西法太郎さん、ありがとうございました。こんな風に論じて下さったのは身に余ることですが、ひとつだけ申し上げたいことがあります。私は「空気を読まない」人間とお書きになっていますが、しかし「処世」とは違った意味で私はいつも世の中の空気を読んでいる人間でもあります。さもなければ言論人としてこんなに長く生きつづけることが出来たはずはありません。普通で使われるのとは違う意味で、私は徹底的に「空気を読む」人間であると考えています。