松本重治について

 

文末にチャンネル桜のお知らせがあります。

足立氏の前記の文中に、松本重治『上海時代』(上・中・下三巻、中公新書)のことが書かれている。仰る通り不可解かつ不審な知識人のひとりが松本重治だった。私はずっと怪しいと思いながら、正体不明な存在で、丁寧に読む気にはなれなかった。足立さんが書いている通り、彼は自らをアメリカ寄りとみせていた、「左翼に入らない左翼」だった。

 私たちの世代にとって中央公論社から出ていた「世界の名著」は、余り左に片寄らない知識人、岩波型共産主義者からは一定の距離を置いている大学知識人を責任編集者に据えている、中庸のとれたシリーズとみられていた。松本重治はその中で『フランクリン、ジェファソン、マディソン、トクヴィル』の一巻を担当していた。

 自分の身にひきつけた長い解説文がこのシリーズの特色であった。松本はその中で東京帝大法学部で米国講座の担当の高木八尺(やさか)教授の下で昭和3年から大学助手としてつとめてきたいきさつから説き起こしている。彼がジェファソンやリンカーンに関心を寄せたのはそのころで、翻訳も始めていた。

 その後、高木先生のご諒解を得て、私はジャーナリズムに身を投じ、上海(シャンハイ)に赴任した。在勤6年、日米関係の癌(がん)ともいうべき中国問題を現地で考える機会をもったが、従軍記者としての過労から病を得て帰朝。健康を回復すると、やがて同盟通信本社の編集の責任をとるようになった。その職場において日米相戦うことを回避しようと微力ながらつとめたが、大勢いかんともなしがたく、日本は太平洋戦争に突入、敗戦、占領、そして私は裁かれることなくパージとなった。

 しかしそれは、私にとって天恵であった。パージされたものにも、学問研究の自由が許されていたからである。われわれアメリカ研究者たちは、戦前、アメリカの事情につき、世論の啓発に努力が足りなかったことを痛感した。私は再び高木先生の膝下(しっか)に馳せ参じて、昭和22年(1974)秋、藤原守胤(ふじわらもりたね)氏、中屋健一氏、清水博氏その他と相はかって、先生を初代会長とするアメリカ学会を結成した。そして一方、アメリカについて、占領下の日本国民の啓蒙に資するために「アメリカ研究」という入門雑誌を発行するとともに、他方、『原典アメリカ史』の本格的な共同研究を分冊刊行する仕事をはじめた。

文:松本重治  アメリカ民主主義思想の原型より

 どうもこのあたりの研究に問題がある。日本の戦後を再検討するにはこの時代のアメリカ研究の甘さ、「左翼に入らない左翼」を吟味する必要があろう。松本の『上海時代』は、私は食わず嫌いでよく読まなかったが、キーポイントになるのかもしれない。

 近刊の『保守への怒り』の55-56ページで、私は本多勝一の裏返しのアメリカべったり派の名を列記した。宮沢元首相、都留重人、坂西志保、入江昭、鶴見和子・俊輔から竹中平蔵、中谷巌をへて寺島実郎にいたるアメリカ左翼の系譜、日本では親米派とみられるので左翼には入らないが、しかしじつは最も厄介な、戦后を歪めた正体不明者の系譜である。今にして思えば、松本重治はそのトップに位置する人であると思う。

 加えて、「世界の名著」の『ウェーバー』の巻の責任編集者は尾高邦雄である。尾高といえば私がGHQ焚書図書開封の最初の巻でGHQ協力者として名を挙げた二人のうちの一人である。戦後知識人の世界がどのようにして形成されたかは、このシリーズの責任編集者の名前をじっとみといるといろいろ分ってくる。

 彼らのほとんどすべては鬼籍に入ってもういない。まさか『ショーペンハウァー』の巻の責任編集者がまだ生き残っていて、GHQ協力者の系譜に厳しい猜疑のを向けつづけているというようなことが起こっているとは、冥府の彼らもよもや考えておるまい。

 「左翼に入らない左翼」の親米派の行動の謎はわが国の独立のために今必要である。なぜならルーズベルトと蒋介石が手を結んだあの悪夢の時代がまた東アジアを襲っているからである。

 さしあたり松本重治の『上海時代』を今の新しい実証の光に照らしてよみ直すのは新しい課題になるだろう。北京勤務時代をもつ足立誠之さんあたりにやっていたゞけたらありがたいと思った。

番組名:「闘論!倒論!討論!2009 日本よ、今...」

テーマ:民主党政権と解体する日本

放送予定日:平成21年12月19日(土曜日)
       20:00~23:00
       日本文化チャンネル桜(スカパー!217チャンネル)

パネリスト:(50音順敬称略)
      潮 匡人(評論家)
      石 平 (評論家)
      川口マーン惠美(作家)
      永山英樹(台湾研究フォーラム会長)
      西尾幹二(評論家)
      西村幸祐(評論家・ジャーナリスト)
      藤井厳喜(国際問題ジャーナリスト)
      山村明義(ジャーナリスト)

司 会:水島 総(日本文化チャンネル桜 代表)

追悼・川原栄峰先生

 哲学者の川原栄峰先生が逝去されてから早くも2年半が過ぎている。ショーペンハウァー協会の小冊子に私が追悼文を頼まれたのはご逝去後一年半経ってからで、それが活字になったのはさらに半年後だった。すべてはゆっくりしている。今の時代には珍しいが、哲学者の追悼にはむしろふさわしい。

 川原先生は早稲田大学名誉教授。大正10年(1921年)お生まれ。2007年1月24日にご逝去。ハイデッガーやニーチェに関するご論考、翻訳が多く、主著に『ハイデッガーの思惟』(理想社)という大著がある。贈呈を受けている。他にも多くの著作がある。

追悼・川原栄峰先生

西尾幹二(電気通信大学名誉教授)

 川原栄峰先生といつ、どこで、どのようにお知り合いになることができたのか、はっきりした記憶がない。昭和50年(1975年)より前に、個人的ご交際を賜っていたことは間違いないのだが・・・。

 私は先生から教室でお教えをいただいた立場ではない。先生は自分より歳下の、哲学を語り合える若い友人として遇してくださった。そして何となくウマが合った。どこを気に入っていただいたのか分らないが、先生は私に優しかった。お会いしている間、楽しそうにしておられた。

 先生は私の家にもたびたびお出かけ下さり、酒盃を交した。昭和50年から54年の間、私の一家は東京の京王線の奥、日野市の平山京王住宅に初めて一戸建ての家を買って、暮していた。先生はある期間毎月一回、規則正しくわが家を訪ねて下さる習慣を守っておられた。というのには理由があった。

 先生は多分その少し前ではないかと思うが、ご子息を亡くされた。登山中の遭難であったと聞く。先生はその悲運をかきくどくようなことはなかったし、ご子息のことを私の前で詳しく話されたこともない。ただ、その悲しみがいかに大きく、また悲しみを乗り超えようとする努力をいかに辛抱づよくわが身に課しておられたか、当時私の内心にこの点で小さくない驚きが宿っていたのを覚えているのである。

 先生はご子息の墓が八王子にあると仰っていた。そのご命日が何月何日かは覚えていないが、毎月一回、何日かは必ず回ってくる。その日に八王子に墓参をなさる。年に十二回である。墓参の帰路、八王子に近い日野市の拙宅にお立寄り下さるという次第だった。

 私も若かった。私も家内も先生にお会いするのが楽しくてその日をお待ちしていた。それがどのくらいつづいたか、何回だったかは覚えていない。四年間あれば四十八回だが、そんなに数多くはない。さりとて、全部で五、六回ということもない。

 わが家にお立寄りくださっても、くださらなくても、ご子息を偲ぶ先生の月一回の規則正しい墓参はその後もずっとつづいたに違いない。昭和54年の夏、わが家は日野市の丘の上の住宅を引き払って、杉並区に引越した。それから後、先生をお迎えする機会は減り、私も44歳、多事多繁の歳月に入って、先生とのご交際も次第に間遠になっていった。

 いかにわが子への思いが熱いとはいえ、いったい月に一回、中野区のご自宅から八王子へ墓参をくりかえす情熱は何なのだろう、と私は感嘆した。先生は僧籍をお持ちで、宗教上の信念はまた私などとは異なる独自のものをお備えになっているに相違ないとはいえ、並々ならぬお勤めのご意思の表われだと感銘を深くしたものだった。

 学問上のご業績や達成度の高さについては、私などが贅言を重ねるべきではなく、それにふさわしいしかるべき専門学者の言を俟ちたいが、私も先生の翻訳・論文・大著のいずれもの愛読者であり、関心と敬意をずっと抱きつづけてきた。その中で、忘れることのできない一冊がある。私が先生に惹かれつづけた基本はこの一冊だという本である。

 『哲学入門以前』(昭和42年、南窓社)がそれだ。扉を開くと「西尾先生奥様 恵存 川原」とペンでサインが書かれているので、贈呈していただいた本であることは間違いない。線がいっぱい引いてあり、幾度も読んだ記憶がある。

 「入門以前」という標題に先生の含羞と自負の両方がこめられている。「哲学入門」は普通の題のつけ方だし、出隆に『哲学以前』があり、従って「入門以前」はそのどちらに対しても自分を抑止している謙虚の表現であると共に、そもそ哲学とはどこまでも「入門以前」の心構えでなければならず、人に哲学を説くときにも「入門以前」とは別のいかなるものであってもいけないという確固たるご信條があってのことと思われる。というのも「あとがき」に、哲学者は本を書かないものだ、といきなり先生の言葉が発せられているからである。

 「ソクラテスは本を書かなかった。吹きつける存在の嵐があまりに激しくて、とても片隅によけて本を書くなどということができなかったのだとのことである。イエス・キリストは人ではないと言われるからしばらくおくとしても、釈尊も孔子も本を書かなかった。一流の人物は本を書かなかったのである。つまりたとえどんな立派な本を書いたにしても、本を書くということは、二流以下の人物に下がることなのだ。だから私は本を書かない。――こんなことを言って大勢の学生に大笑いされたことがある。」

 哲学者としての先生の並々ならぬ自負が「入門以前」というタイトルにすでに現れていることは明らかであろう。「自由、歴史、個と普遍、科学の勃興、客観性、弁証法、実存、ニヒリズム」がこの本の目次の区分である。

 ひとつだけニヒリズムの章に忘れもしない比喩があった。「・・・・・である」という本質規定に対して、「・・・・・がある」という実存、何かがあるということを言うために、ヘラクレイトスは火があると言った。この「火」はそれは犬である、猫である、机である、私であるというような「・・・・・である」と規定されるたぐいのものではない。「何である」かはいえないがともかく「何かがある」というときの不気味な「ある」を説明するために、川原先生は面白い比喩を用いた。

 「仮に地上や人間の営みを一万年分ぐらい撮影しておいて、そのフィルムを1時間ぐらいで回して映写してみたらスクリーンに何がうつるだろうか?すべての色は抹殺されて灰色になってしまうだろうか、そして多分、戦争も平和も、大きなあやまちも小さな親切も、デモクラシーもコミューニズムも、何もかもごっちゃになって、『何である』ということは全部消えてしまうだろう。が、しかし灰色の『何か』が、どこからどこへということなしに、不気味に動いているだろう、――永遠に生きる火として!」

 このくだりを私は後日何度も思い出していた。ニーチェのいわゆる「根源的一者」すなわち「ディオニューソス的なるもの」も川原先生のこの比喩でうまく説明できるのではないかと思ったものだった。

 ともかくこの『哲学入門以前』は分り易く書かれていて、しかも根底的に思索することをわれわれに誘ってくれる。私には得がたい、素晴らしい一冊だった。

 その頃私と親しくしていた講談社現代新書のTさんがやはり私と同じようにこの一冊に感激して、先生に執筆を頼みに行った。そうして出来あがったのが『ニヒリズム』(講談社現代新書468号)だった。昭和51年秋刊行である。

 ところが、Tさんは本が出来てから少しがっかりして私に言った。「少し違っちゃったんですよ」「何がですか」「『哲学入門以前』のあのういういしい感動がないんですよ」「あっそうですか。」

 人間は同じことを二度出来ないのである。『ニヒリズム』は別の意味で重要な本だが、すでに先生は次の思索世界へ向かって旅立たれていたのである。

 『ニヒリズム』は昭和48年~49年の私の『歴史と人物』連載中や昭和51年『新潮』掲載のニーチェ論が参考文献として掲げられていた。

 日野市の住宅で先生からハイデガーやカール・レーヴィットに出会った日々の生き生きしたお話を伺った往時の対話を思い出さずにはおられない。

 先生の最晩年、私は多忙にかまけ、つい先生のおそば近くに行って、新しいお話を伺わないで終ってしまったことが残念でならない。

 年賀状にはいつも、「表の宛名書きは孫の手で書かれました」と記されてあった。

(平成20年9月9日記)
日本ショーペンハウァー協会会報 第42号(2009.1.15)。

 終りの方に出てくるT氏とは講談社専務をつとめられた田代忠之氏(昭17年生れ)で、氏も今年の5月に病没された。若い時代に私の『ヨーロッパの個人主義』を出してくださった人だ。

 謹んで両氏のご冥福を祈る。

立春以後(三)

 2月14日(土)に黄文雄氏の六時間講演(第二回)があった。テーマは日中戦争史観。――

 ブロックは三つに分れ、「歴史捏造」「日中戦争の背景と史観」「歴史貢献」の三つである。日本に流布している日中戦争史観の完全に正反対の歴史観が確立されている。

 午前10時から昼休みを挟んで午後5時まで講義があった。そのうち1時間は「南京学会東中野修道会長の最新研究講座」であった。臨時の飛び込み講座である。

 黄氏も、東中野氏も生涯を自分の歴史の検証に捧げて見事で、胸を打つ。同時代にこういう人が存在していたことを知るのはわれわれの希有にして貴重な体験である。われわれは見逃してはならないのだ。

 世の中にはもの凄い人間がいるということだ。われわれは歴史の逸話としてそういう人間についてたくさん読んできているが、いざ目の前にいる、同時代人となると、つい見逃してしまう。自分の生きている同じ町に、同じ空気を吸って、同じような物を食べている人間に、偉大な「例外者」がいるということを理解することはなかなか難しいことなのであろう。

 東中野氏は講演中にふと自分の生きているうちに曙光を見るとは思っていないと仰った。若い人の中に後継者がほしい。今日のお集りのようなお年寄りの皆さんではもうダメなのだ(と言って皆を笑わせた)。若い後継者に語り伝えていくための考え方の正確な筋道をいま準備している、と。

 国際法に違反するような南京虐殺はいっさいなかったことを証す昭和12年のあの日に、われわれが正確にもう一度もどること――それが「歴史」である。そのための考え方の筋道をきちんと用意しておきたい。若い人にそれを遺したい。東中野氏のそういうメッセージは痛いほどに私には分った。

 私はご講演の内容をいまかいつまんでここで述べることは控えたい。それは氏のご著書を読んで各自学習していたゞきたい。たゞこの日の氏のお話は諧謔を混じえて確信に満ち、聴講していた旧友のK君がむかし学生時代に聴いた人気教授の講義のようだった、と言った。そのことからも分るように、壇上一杯にチョークを振り翳して動き回る細身の東中野先生が今日はいかに説得的で、颯爽としていたかをお伝えするに留めよう。

 黄文雄氏が同じように「もの凄い人間」のお一人であることはこのブログの「大寒の日々(一)」でもつい先日お伝えしたので、くりかえすことはしない。

 黄氏は年に数冊の本を書きつづけてこられた。中国の古典から現代書まで読みこなしての日本への情報の大量伝達は、われわれの社会の中国研究家の誰ひとりなし得なかった偉業である。その影響は量り知れない。

 そんなにたくさんの本が出せるのは氏の本が売れるからである。そして氏は家が買えるくらいのお金を毎年台湾の独立運動のために献じているらしい。誰にでもできることではない。

 さらに独立運動のために世界中を飛び回っている。氏もまた自分を超えるものの存在を信じ、生涯を捧げている人である。

 来年からは自分のために生きることを少し考えているとふと洩らしていたが、氏も東中野氏と同じように年齢の限界を感じ始めているのであろう。

 この日5時間語ったご講義の内容は大変入り組んで、清朝中国史にも及び、とても簡単に要約することができない。私はノートを取り、録音もした。今日は録音を再聴している余裕がないので、私のノートの中から後先の順不同で、印象にのこった言葉のいくつかを書き記しておこう。(文章の選択は任意で、黄先生にはご迷惑であろう。文責は私にある。)

 

「日中戦争は中国の内戦に対する日本の人道的道義的介入であった。中国のブラックホールに日本は巻き込まれたのである。米英が逃げてしまった後に巻き込まれたのが実情である。」

「清朝の時代は中国史の黄金時代だったが、それでも内乱と疫病は止まなかった。ペストなど人類の疫病の発生源は中国である。」

「自然破壊が清王朝の崩壊の因である。森の消滅、巨大水害と干魃、いなごの害で数千万人単位の餓死者が出た。」

「戦争をしなくても匪賊(強盗団のこと)が跋扈する社会だった。戦争に敗けたら匪賊になり、勝ったら軍閥になる。それが中国である。」

「日本では8万の東軍と7万の西軍が対決した関ヶ原の戦いが史上最大の内戦であるが、人類史上最大の内乱を記録した太平天国の乱は、10-15年もつづき、清朝の当時の人口4億の約10-20%、5000万人-8000万人の死者を出した。そしてひきつづき回教徒を虐殺する乱が起こり、イスラム教徒約4000万人が殺戮された。」

「辛亥革命のあと中華民国になってから以後も内乱は止まず、国民党内部も激しく戦い合い、中国共産党もまた内部で殺し合いの嵐が吹き荒れた。文化大革命も中国史に特有の内乱のひとつにほかならない。日本はこうした内乱の歴史に『過去の一時期』(と日本政府はよく言うが)、たしかにほんの一時期巻き込まれたにすぎないのである。米英はその前にうまく逃げてしまったのだ。」

(この項つづく)

萩野貞樹さん追悼記念会の開催

 4月22日九段会館で萩野さんの追悼記念会が開かれました。参会者は102人でした。

 「厳粛でそして盛会でしたね」とか、「遺徳を偲ぶ会らしい雰囲気でしたね」とか告げる人が多く、終りの時間が来ても人々がなかなか立ち去らない、余韻を残した会でした。

 先に「追悼 萩野貞樹先生」(3月3日)で、私はご病気と死に至る説明は述べました。当日奥様からあらためて報告がなされ、われわれは最後の末期ガンの苦痛に胸塞がれる思いで聞き入りました。

 でも、弱音や泣きごとをいっさい口にしなかったそうです。彼はストイックな人でした。ガンは外からヴィールスに冒されるような他の病気と違って、自分と病気は一体なのだと言っていた由、覚悟のほどが察せられます。

萩野貞樹さん追悼記念会 平成20年4月22日
     
     式 次 第
開場
榊奉献
開会の辞 司会 西尾幹二氏(評論家)
黙祷
病状説明 故萩野氏令夫人
スピーチ
   中村 彰彦氏 (作家)
   桶谷 秀昭氏 (文芸評論家)
   吉田 敦彦氏 (神話学者)
   熊谷 光太郎氏(県立秋田高校級友)

献杯
   石井 公一郎氏(元・ブリジストン(株)専務)
榊奉献(開会前にお済みでない方々)
スピーチ
  安本 美典氏 (日本古代史学者)
  塩原 経央氏 (産経新聞論説委員兼特別記者)
  谷田貝 常夫氏(国語問題協議会事務局長)

閉会の辞 宮崎 正弘氏 (評論家)

 みなさんのお話もとても印象的でした。詳しく書けるとよいのですが、書きだすときりがなくなりそうなのでそれもできません。

 中村彰彦さんは大野晋氏の日本語のタミール語起源説を論駁した萩野さんの二十数年前の論文に出会ったときの感激を語っていました。桶谷秀昭さんは含羞ということを言っていました。吉田敦彦さんはギリシア神話の理解の深さについて語り、同席したお嬢さんのお一人が自分の教え児にもなるいきさつを説明していました。

 萩野さんには三人のお嬢さんがいて、会にもご出席でしたが、三女の方が東大大学院の博士課程で国文学を専攻しているそうです。自分の蔵書は娘に全部譲れると言っていたのを思い出しました。

 私が編集した『新 地球日本史』(扶桑社)第1巻に、萩野さんは見事な津田左右吉批判を寄稿して下さいました。『歪められた日本神話』(PHP新書)と重なる内容です。

 神話を神話として読むことを唱える萩野さんは、だからといって神秘主義めかしたことを言っていたのではありません。実証主義とか歴史批判とか言っていた津田の論述の仕方が実証にも批判にもなっていないことを緻密に、論理的に証明したのです。

 穏和しい方なのに論述の仕方は激しく、そして雄渾でした。ご参会の他の方もみなそう言っていました。

 私が萩野さんに惹かれたのは津田左右吉批判が10年ほど前の『正論』にのっていたのを読んだのが切掛けでした。徹底した津田批判の大きな本を一冊書いてよね、と言っていたのに、残念でなりません。

 私は会の終りごろに、萩野さんは若い才能ではなく、熟成した才能、人文学者らしく年を重ねて円熟していたので、あと10年生きつづけて下されば、目をみはるお仕事をなさったに違いなく、口惜しくて仕方がないと話しました。

 「国語問題協議会」や「文語の苑」の関係者の方が多く来ていて、理論的指導者を失ってとても打撃だと言っていたのが印象的でした。

 あらためてご冥福をお祈りいたします。

追悼 萩野貞樹先生

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 萩野貞樹先生が亡くなりました。

 2月24日午前3時59分、逝去されました。享年68歳。近親者で葬儀をすませ、初七日が過ぎたので、奥様より西尾に電話で知らせがありました。

 西尾に会いたいと仰せだった由です。私も迂闊でしたが、なぜか恐くて電話ができないでいました。奥様は私に知らせようと思ったが、先生の痛みが年末から甚だしく、痛みと痛みの間の穏やかな時間帯に来てもらおうとタイミングを図っていたがうまくいかなかったとのことです。私も慙愧の念に耐えません。

 萩野先生は前立腺癌が骨に転移し、多発性骨転移といって、転移が骨全部に及び、一寸した圧力で骨折も起こり、骨折の痛みも加わって、一月末頃から想像を絶する苦痛の日々を過ごされた由です。病院中のあらゆる鎮痛剤を大量投与され、それでもやゝ穏やかになる程度だったそうです。

 萩野先生は11月の坦々塾のご講話が外部でなさった最後の仕事で、「いい思い出になった」と喜んでおられたそうです。2月23日5時少し前、「明日は坦々塾だね」との対話を奥様と話されていたとか、それからほどなく昏睡状態になられました。そして未明にご他界になりました。

 11月のご講話は楽しそうでした。ユーモアもあり、余裕も感じられました。それでも背をよじって後ろ向きで字を書くのが少し辛そうに見えました。後で聞けば、やはりあの姿勢は痛みを伴っていたのです。

 私は若いときからの知己ではありませんでしたが、先生は過去10年において最も信頼の出来る友人であり、歴史と言語について正論を語って聞かせて下さるありがたい仲間でした。

 この2、3年めざましいご活躍をなさいました。神話や日本語の問題(旧字・旧かな・敬語など)について、次々と出版を重ね、本格的な研究を開始され、実が結ばれつつありました。

 私は個人的には古典や言語論で分からない問題にぶつかると相談しました。心強い助っ人でした。僧契沖の短い一文の意味が分からなくてお教えいたゞいたのも昨年の今ごろです。

 皇室典範改悪反対に関しては、女系天皇反対でめざましいお働きでした。男系ならどんな人でもいいのだ、とやゝ過激な言をつい口から漏らしたのも、あの穏和な萩野先生でしたからほゝ笑ましくもありました。

 心の優しい、しかし頑固なところのある、礼儀正しい、寡黙で男らしい人でした。まだまだ仕事の出来るご年齢ですので残念でなりません。

 こう書いていて時間が少し経つにつれて、私はあゝもうあの人と昔のように言葉を交わせないのか、もう万葉集のことや字音仮名遣いのことなどを遠慮なく質問できないのか、と思うと、突然、言いようもない哀しみと切なさに襲われました。

 奥様はお電話口で最後に、もう会えないと思うと悲しいのですが、もうあの苦しみの極の痛ましい姿を見ないでいられるかと思うとホッとしてもいます、と仰っていました。このお言葉に萩野貞樹氏の最後の壮絶なる戦いの姿を瞼に浮かべずにはいられません。

 本当に今となっては何と申し上げてよいか分かりません。
 心よりご冥福をお祈り申し上げます。

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坂本多加雄選集のこと(四)

 解説――恐るべき真実を言葉にする運命
 

坂本多加雄

 本書では、たとえば、日本でもっぱらドイツの良心を象徴するものとして称賛されるヴァイツゼッカー演説に関しても、ナチスの他民族への巨大な犯罪が、ドイツ人全体への復讐を招き寄せることを防止するために、懸命になって構築した論理の所産であることを指摘する。すなわち、ドイツの戦後処理の態度を、高潔な倫理観のあらわれというよりも、あくまで、そのしたたかな政治的意思の発顕として理解するのである。著者は、さらに、ドイツの日本に対する「悪意」にも言及しているのだが、そうした著者の姿勢に、「ドイツに見習え論」とは逆の、ドイツへの執拗な批判の意図を感じとる読者もあるかもしれない。

 しかし、著者の本意は、おそらくそこにはない。著者は、むしろ、日本が、ドイツを含めて西洋諸国に真に学ぶべきことを主張し、しかも、それは、「ドイツに見習え論」などが言うところとは、まったく別のことだと説くのである。その点は、著者が、本書で、西洋に「学ぶ」ことを、「崇拝」することから厳格に区別しながら、次のように述べていることに示されている。「われわれが学ぶべきは現実に対する西洋人の対応の仕方、リアリズム、自国民を守ろうとする生命力であって、その歴史観や戦争観などではない」と。言い換えれば、西洋の主張している個々の言説の内容を学ぶのではなく、そのような主張の背後にある精神の構えを学ぶべきだというのである。

 ところで、西洋人のそうした精神の構えの根幹にあるのは、いま引いた部分にある「生命力」に他ならない。ちなみに、「生きるため」とか「生きようとする意思」といった言葉は、著者の多くの文章に見られるものであるが、私たちは、ここで、著者が、ニーチェの専門的研究者であることを思い出すべきなのかもしれない。すなわち、著者の念頭にあるのは、個人や人間の集団が自らの生存を賭けて行動する姿勢には、外側からの安易な毀誉褒貶(きよほうへん)を超越するような、ある厳粛ななにものかがあるという認識であり、そして、このことをいささかも心に留めない言論は、どこか軽薄なものとなるという思いではないだろうか。

 著者の見るところ、ドイツの戦後処理の仕方にも、このような懸命に「生きよう」とする激しい意思が発顕しているのである。本書の意図が、世上の「ドイツに見習え論」を逆転して、単にドイツ批判を展開するところにあるのではないことも、以上のことを考慮すれば、自ずから了解されるであろう。

 さて、そうした見地から、改めて、日本の戦後処理の仕方を問題とするような議論を見てみると、そこには、当のそうした議論が全く自覚していないような、別の深刻な問題がうかがわれるように思われる。すなわちそうした議論は、自らの生き残りを賭けて行動しているドイツの姿の全貌に眼が届かず、ひとえに倫理的な模倣像のみを投影して、それに倣(なら)えと説いているのだが、実は、それは、今日の日本が、国家として「生きる」ということの切実さに対して、あまりの鈍感に陥ってしまっていることのあらわれではないのかということである。そして、それは、ひょっとすると、戦後の安楽な環境の中に置かれ続けてきたことで、日本自身の「生命力」が衰弱しつつあることを暗示しているのかもしれないのである。本書は、そのように訴えているように思われる。

 先にも述べたように、本書は、論争の書である。にもかかわらず、著者自身は、自分が、その文章の厳しい表現のはしばしから推測されるような「硬骨漢」ではないことを示唆する。確かに、「硬骨漢」といった言葉は、著者の言論人としての本領を充分に語るものではないかもしれない。それでは、著者の言論人としての活動を導いているものは何か。それは、おそらく、「なにものかに動かされたかのごとく、当時の世人の意に逆らう恐るべき真実を次々と言葉にするしかなかった『運命』」であろう。これは、著者自身がマキャヴェリと韓非を論じた文章の一節にみられる言葉である(『人生の価値について』新潮社)。本書は、そうした著者、西尾氏の「運命」から紡(つむ)ぎだされた貴重な一冊に他ならない。

(学習院大学教授)

年末のお知らせ

 あまり気のきかない話ですが、『江戸のダイナミズム』の事項索引の作成に年末までかゝり切りになり、私の手を離れたのは26日でした。担当の編集者はまだまだ作業がつづき、校了は年明けになるそうです。すべての作業が三冊分あるので、いつまでも身軽になれません。それでも、私はやっと年末に解放されました。

 そんな事情で今月は他にたいした仕事も出来ませんでしたが、店頭にはかろうじて三つほどお知らせするものが出ています。WiLL2月号の「無抵抗主義で国家も国民も自滅する」という評論が今月の新作です。

 『撃論』(西村幸祐・山野車輪責任編集オークラ出版)というコミックオピニオン誌が出はじめ、Vol.①で「日本はナチスと同罪か」と題し、私の論文の一部がマンガ化されています。

 関岡英之編『アメリカの日本改造計画』(イーストプレス)に私の今年の評論のひとつである「保守論壇を叱る」が「巻末特別収録」として再録されています。とても大事なテーマを語った一篇なので関岡氏の慧眼に感謝しています。

 日本文化チャンネル桜12月31日(日)夜8時~午前0時「日本の未来 アジアの未来――再び日本の核武装を語る――」に出演します。4時間討論のパネリストは黄文雄、田久保忠衛、西岡力、西部邁、西村真悟、平松茂雄、宮崎正弘の諸氏、それに私です。

 司会は水島総氏です。

 
 良いお年をお迎え下さい。

坂本多加雄選集のこと(三)

 私の書いた月報にあげた坂本さんの解説文とは、『異なる悲劇 日本とドイツ』の文春文庫版に寄せられた文章である。最近『日本はナチスと同罪か』(WAC出版)と改題再刊された一書である。坂本さんを偲んで、ここに同解説文を紹介する。

 解説――恐るべき真実を言葉にする運命
 

坂本多加雄

 ここ数年来、先の戦争における日本の「加害者責任」と「戦後補償」の問題が世上を賑わしている。最近のいわゆる「従軍」慰安婦をめぐる論議もその一環である。そして、そのことに関連して、日本の戦争への反省の仕方は、ドイツに比べて不十分である、それゆえ、日本もドイツに見習って正しい戦後処理を行うべきだといった論議が流布されてきた。

 本書は、こうした「ドイツに見習え論」とでも称しうる議論が、歴史への深い理解を欠いた安易な立論であることを指摘して、徹底的な批判を加えた論争の書である。ドイツを模範として引き合いに出す主張は、一部の大マスコミやドイツの事情に通じていると称する人々によって繰り広げられたため、直接、ドイツの実情に接する機会が少ない日本の多くの人々は、釈然としないものを感じながらも、それを受け入れざるをえないような状況に置かれてきた。そうしたなかで、ドイツの文学・哲学に精通し、さらにはドイツのみならず、ヨーロッパ大陸の各国事情に詳しい著者によって、このような内容を持つ書物が記されたことは、まことに画期的な意義を有していたと言うべきであろう。三年前に本書が出版されて以来、それまでのような単純な形の「ドイツに見習え論」は、少し下火になったという印象がある。

 もっとも、本書を読まれた方には既に明らかなように、本書の内容は、単に、ドイツに詳しい「情報通」によって記された、ドイツ戦後賠償の「裏事情」の暴露といったことに尽きるものではない。そこでは、日独両国の戦争の相違についての比較史的な検討、通常の戦争犯罪とナチスの犯罪との法理論上の区別、そもそも歴史探求と倫理的評価は如何に関わるべきかといった深遠な問題について、まことに広い視野から、様々に考察が展開されているのである。ちなみに、著者は、本書の前年に出された『全体主義の呪い』(新潮社)で、旧ソ連圏諸国におけるかつての共産党政府への責任追及の動きが、ナチスへの責任追及と共通する問題を孕んでいることを論じて、日本が十分感知しないままに過ごしつつある「第三次大戦」の世界情勢の新たな展開という見地から、今日の諸問題を見直すべきことを提唱したが、本書もまた、そうした広範な歴史的パースペクティヴを継承したところに成立しているのである。

 本書を読んだ後で、「ドイツに見習え論」を眺めると、それが、日本人の「国際感覚」の欠如をあげつらいながら、実際は、半世紀前の連合国側の戦争観に拘束されたまま、もっぱら日本の国家権力を批判しようという意図のみが先走り、ドイツの事情についても、そうした日本中心のまことに狭隘な視野に入る事柄だけを取り上げて、しかも、それを現在の日本人の感性から一方的に解釈しているに過ぎない点で、逆に、真の国際感覚の欠如を露呈してしまっていることが明白になるであろう。

つづく

坂本多加雄選集のこと(二)

 坂本多加雄選集のこと(一)の続きです。 

 選集のⅡ巻目の月報に私も寄稿していることは前回にも語った。それは次のような内容である。

偲ぶ会のこと

 永田町の星陵会館で平成14年12月21日、新しい歴史教科書をつくる会と民間憲法臨調が主催する「坂本多加雄先生を偲ぶ会」が行われた。高橋史朗氏の司会で始まり、まず田中英道氏が「常識を大切にする、壮士風ではない」つくる会の性格形成に、坂本氏がいかに貢献したかを語った。三浦朱門氏は、坂本氏が歴史を物語だと言ったのは、歴史を現在の枠で見るのではなく、それを形成した往時の人の意図や課題に即して見ようとしたからだと評価し、田中氏とは逆に「坂本さんは国士ともいうべき人」と語った。

 来賓の自民党中川昭一氏は「あのいかがわしい靖国懇談会」(というお言葉を使った)のさ中に、ただ一人まともといっていい戦いをした坂本先生への感動を述べた。つづいて私が話をした。録音テープを再現する。

 「よく言われることでありますが、死んで初めてその人の姿がくっきりと見えてくる、そういうことばがございますが、私は彼に先に死なれ、このたびあらためて次々と著作を読む機会を得ました。そしてご著作の文章のリズムに――やはり現代では52歳の死は夭折ですからね――いわば業半ばにして、仕事の絶頂期に逝った人のはげしい息遣い、切ないまでの、急いで生きた人の足取りが感じられました。

 坂本さんは予想よりもずっと大胆な思想家であったのだな、という思いを改めて致しました。普通、静かな思索家と思われていた彼が――つくる会の会合では付和雷同せず、さりとて独断専行もなさらず、同調的で、しかも意志的で、責任感もお強かった――、その彼が、じつは静かなたたずまいとは別に、非常に緻密な思索の奥に、思いもかけない飛躍的独断――これはご文章の世界について申し上げているわけですが――、論議上の思い詰め方、切り込み方、逆説的な言葉の転調、そういうものを、私は今回読み進みながら、何度も何度もくり返し感じました。あゝなるほど、早く逝った人らしい、そういう言葉遣いだったんだなァ、と改めて思った次第であります。

 大量の本を次から次へと読み、読書中毒ではないかという読み方で、知識を呑み込み、慌ただしく吐き出しているような著作もございます。かと思うと、学問と政治、哲学と歴史、認識と行為といった相反する概念の矛盾の中にあえて身を置いて、その矛盾を構造的に解明しようとしたご著作もありました。代表作『象徴天皇制度と日本の来歴』はさしずめその一つです。

 坂本さんは歴史は物語であり、来歴であるとおっしゃいました。坂本さんならではの大胆なこの規定は、歴史教科書の世界では有効で、ありがたい思想でしたが、よく考えてみますと、とてもきわどい危ない思想でもあるのです。なぜなら歴史が民族の物語であり、来歴であるなら、国境を越えた歴史の客観性、普遍性を否定してしまっているのですから。あくまで自分の生きている共同体の幻想だけが歴史であると断定しますと、人類の歴史というものはどこかへ行ってしまいます。その矛盾、その危機を、彼は最初から意識しておりまして、無知でそういう言葉を弄していたわけではないのです。

 彼はハイデガーを使ってこの矛盾、危機をどう乗り越えるかを説明しています。ハイデガーを使う人というのはどうも危ないところがある。いつでも死を思うところに立ち還る。人間が人間としての本来のあり方、本来的自己に立ち還る、そこに死のモチーフがあるのですが、坂本さんは日本の歴史が死を思うことが二度あったと言います。19世紀の初頭と昭和20年です。日本人はそれぞれこの時期に、自分たちの『来歴』を思い出しました。それがつまり『国体』という概念です。

 歴史は必ずしも物語ではないのかもしれませんが、坂本さんはあえて物語であると承知して言おうとする。歴史はフィクションだと言ったら大変なのです。そんなことは言えない。そこで、そのきわどい矛盾を乗り越えるために、行動が必要になった。政治行動が必要になった。学問と行動、認識と実践を統合しないと学問も認識も前へ進まない、そういうタイプの学者だったんだと今にして思います。

 書斎の人でありながら、そこだけでは完結しない。物静かな思索家でありながら、思考の論理に飛躍があり、思いのほか大胆だったと、先に申し上げたのはこのことであります。」

 私は政治参加(アンガージュマン)が坂本氏の哲学の必然から出ていて、凡百の政治学者とそこが違う点だと言ったつもりである。話の最後に私は彼の学者としての誠実さを伝える逸話を添えた。坂本氏が私のある本の文庫本の解説を書いてくれたことがある。彼は私の別の関連本を二冊、つまり一冊の本の解説を書くのに都合三冊読んで書いた。「こんな篤実な人はいない。坂本さんはそういう人だったんです」と私は結んだ。

 私につづいて四人の挨拶があり、献花が行われ、参列者全員によって彼が好んだ「海行かば」が斉唱され、散会した。

坂本多加雄選集のこと(一)

 坂本多加雄さんが逝ってから早くも四年が経つ。藤原書店から部厚い二巻本の選集が出てからも一年経った。以前に「日録」でもこの本のために知友が集って、ご父君の援助もあって、選集出版を誓い合ったことを報告している。

 思い出せば亡くなられた年の師走の寒い雨の日に追悼のための集会が行われた。今年もまた同じような寒い年末を迎えている。ここで二巻本の選集のことを遅ればせながら顧みておこう。

 選集は坂本さんの弟子筋の杉原志啓氏が奔走して、実務も担当され、実現の運びとなった。杉原さんがいなければとうてい日の目を見なかった著作だった。

 残念なのは一冊の値段が各8400円+税と高額なことである。序には粕谷一希、解説には杉原志啓、そして二冊の月報に猪木武徳、梶田明宏、北岡伸一、中島修三、西尾幹二、東谷暁、御厨貴、山内昌之の八人が名を並べている。

 Ⅰ、近代日本精神史、Ⅱ市場と国家の二冊に分れ、カタログにはⅠについて、「日本政治思想史研究」を学問として成立させた丸山真男を受け継ぎ、この学問の新たな領野を切り開いた坂本多加雄。秀逸の丸山論、福沢論を始め、近代日本思想史の豊かな遺産を現代に甦らせた諸論考と、「言葉」を手がかりに大正以来の思想史を初めて一望してみせた『知識人』を収録、と書かれている。

 Ⅱ市場と国家については、憲法に規定された「象徴天皇制度」の意味を、日本の来歴に基づいて初めて明らかにした天皇論、国家の相対化や不要論が盛んに説かれるなか、今日における「国家の存在理由」を真正面から明解に論じた国家論、歴史教育、外交など、時事的問題の本質を鋭く迫った時事評論を収録、と書かれている。

 以上はカタログの文言である。ここでは私の月報の文章と、その文中に坂本さんの真摯な性格を物語る一例として取り上げた、往時の彼の解説文を紹介したい。

   彼がいてくれればこんな事にはならなかったとしきりに思う。死なれると存在が大きく見えるものである。生きている人間は生ぐさくて浅間しい。

 思い出すために亡くなられた直後に私が新聞にのせた追悼の「談話」をもう一度読んでもらおう。

 あまりにも早い死を悼む
 学識もあり、洞察力もある優れた知識人だった。あまりにも早く逝った。今思えば、病気が彼の体を急速にむしばんでいたのは、靖国神社の代わりの追悼施設を審議する懇談会で一人正論を主張していた五、六月のことではなかったろうか。

 坂本さんはつくる会創設の最初の四人のメンバーの一人で、教科書のかなりの部分を執筆した。しかし実は、彼の専門の明治維新前後はほかの執筆者が書いた。彼の当初の原稿は批判されたのである。専門家でありすぎ教科書の記述にはなじまない、と。だが、ここからが坂本さんのすごい所だった。近世や戦後史など専門でない分野を進んで担当した上、全体の完成度を高めるために献身的、協力的だった。私は彼に人間的に負けたと思った。

 「一番男らしいのは坂本さんだ」。当時の編集者のこの言葉がすべてを表している。(談)

哭泣の書

 以下に掲げるのは、平成15年(2003年)7月25日に私が当ブログに書いた「八木秀次氏のこと」という文章である。彼は私の息子の世代である。私はほかでも何度もそう書いたことがあったのを思い出す。 

 なぜ彼は私にあの「怪文書 2」を送る非情をなしえたのだろうか。70歳すぎた人間に「西尾先生の葬式に出るかどうかの話も出ました。」と書くのは、よほどの神経である。あるいはこの部分は宮崎氏の筆になるのであろうか。関係者のお葬式にとびまわっていた人だった。

 「八木はやはり安倍晋三からお墨付きをもらっています。小泉も承知です。岡崎久彦も噛んでいます。CIAも動いています。」の一行には、私自身がハッと思い当たることがある。八木氏が余りに態度をくるくる換えるので、遠藤、福田、藤岡の三氏と私で、クリスマスの晩に新宿の中華料理屋に彼をよんで問いただしたことがあった。その件は無事にすんだのだが、帰りしなに八木さんは、私の新著「<狂気の首相>で日本は大丈夫か」を非難がましくいい、「官邸は西尾先生に黙っていない、って言ってますよ。」と脅かすように言った。西村代議士の強制捜査をわざと連想させるシチュエーションにおいてである。

 「誰が言ったのですか。」と私はきいた。「知っている官邸担当の政治記者です。」「それはいつですか。」 聞けば私のこの本の出る前である。そういうと「先生はすでに雑誌に厳しい首相批判を書いていたでしょう。西村代議士がやられたのは<WILL>での暗殺容認の発言のせいらしい。」「私はそんな不用意な発言はしていないよ。」と受け答えたことを覚えている。
 
 八木さんは安倍官房長官に近いことがいつも自慢だった。紀子妃殿下のご懐妊報道の直前、日本は緊張していた。あのままいけば、間違いなく「狂気の首相」が満天下にだれに隠すところもなく露呈してしまうのは避けがたかった。国民は息を詰めていた。制止役としての安倍官房長官への期待が一気にたかまった。八木さんは安倍夫人に女系天皇の間違いを説得する役を有力な人から頼まれたらしい。まず奥様を説得する。搦め手からいく。「有力な人」の考えそうなことである。

 八木さんはこの抜擢がよほど得意らしく、すくなくとも二度私は聞いている。彼は権力筋に近いことをなにかと匂わせることの好きなタイプの知識人だった。私は政権と言論ははっきり切り離されているべきだという考えである。ことに安倍政権が有力視されるようになってから、私は言論人の政権接近ににわかに厳しい批判の目を注ぐようになった。小泉容認に急傾斜した伊藤哲夫さんと袂を分かつようになったのもこのせいである。八木さんは伊藤さんの強い影響下にあるのかもしれない。

 このへんの問題意識はわたしの本年の「謹賀新年」をみていただきたい。

 いずれにしても、鈴木尚之氏の証言だけではなく、文面的にみても、「怪文書 2」に八木さんが関わっていることは私にはほとんど疑う余地がない。つくる会ファックス通信173号では、産経渡辺記者が「謀略的怪文書を流しているのが<八木、宮崎、新田>であると言明した。」とはっきり書いている。会の公文書がここまで打ち出しているのである。軽く見逃すことはできない。

 嗚呼、それならなぜ? 八木さんはなぜそんなことを? 私は痛哭の思いである。そういうタイプの人だという説がある。論壇の寵児とにわかに持ち上げられて、慢心したという人もいる。私には解らない。保守論壇などというものは、日本人の精神活動のなかでは、一隅の小さな、小さな、頼りない、無力な世界である。私は酒の席でそういうことを言って、無視されてきた自身の人生の悲哀を彼に語ったことがある。八木さん、覚えているだろうか。貴方はそのとき「自分は日本の文化界の中央を歩んでいるつもりだ。」とためらいもなく言った。私はその自信に少し驚き、しかしこれからの若い人はこれでいのかもしれないと思って、それ以上なにも口にしなかった。

 以下は3年前の私の文章である。 

            哭  泣   の   書(原題 八木秀次氏のこと)
                                  
                                 平成15年7月25日     八木秀次氏のこと

 私が八木秀次さんに最初にお目にかかったのは、平成7年(1995年)の春先か、あるいはもう少し前の頃ではなかったかと思う。伊藤哲夫さんが主催している日本政策研究センターの談話会があり、私は講師をたのまれて、一座の談話を行った。テーマを覚えていないし、何を話したのかも勿論まったく覚えていない。伊藤さんに昔の記録を調べてもらえば、日時とテーマも正確に全部分かるだろうが、まあそれはどうでもいい。

 車座に囲んだ15人程度の会であったと覚えている。そのときの席にいたまだ若いひとりが八木さんだった。八木さんは鋭い質問をした。質問の内容をこれまたまったく覚えていない。日本国憲法の歪みが革命国家フランス模倣に由来することに関連する話題ではなかったかと思う。私はすでに5年前に「フランス革命観の訂正」(Voice1989年8月号)を書いていた。この論文は後に『国民の歴史』の「西洋の革命より革命的であった明治維新」の章の原型をなしている。

 けれども私は憲法学に関する知識を持たない。私が漠とした疑問を抱いている憲法学者樋口陽一に対する批判を八木さんが口にした。私は詳しく知りたかった。憲法は素人だが、何でも私は知りたがり屋なのだ。しかも私と考え方が近い人が持っている未知の知識に関する限り、私の知識欲は貪婪であり、見境がない。私は家に帰ってから八木さんに電話をした。基礎から教えて欲しい、と。

 私と八木さんとの交流が始まったのはこの日からである。彼は私の欲求を知って、樋口陽一の著書や論文のコピーを数多く送ってくれた。さらにまた会って憲法学会の狂った方向について説明してもらった。私と八木さんとは怒りを共にしていることが直覚された。彼のデータや情報の提供は誠意があり、献身的であった。私は深く感謝し、その無私に感動した。

 ちょうどその頃はオウム真理教の不安や関心が高まっていた時代だった。『諸君!』(平成7年10月号)に、「政教分離とはなにか」を私は書いた。この最後の小節は「憲法モデルをフランスに置く弊害」とあり、樋口陽一の『近代国民国家の憲法構造』への批判が展開されている。この小節での考え方の骨子とデータの提供者は八木さんである。

 つまり、私より30歳以上も若い彼だが、私は八木さんの師ではなく、八木さんが私の師なのである。

 彼は当時まだ無名だった。しかしその頃から論文が注目され始め、あっという間に世間に知られるようになった。この数年の彼の成長はめざましい。保守系の憲法学者はこれから特に貴重な存在である。自重し大成してもらいたい。彼の大成に日本の未来がかかっている、とあえて言ってよい。もし彼が挫折するようなことがあれば、日本の憲法つくり直しの道も挫折するのである。

 今から38年ほど前、私は福田恆存先生のお宅にお教えを乞いによく伺っていた。私がドイツに留学する報告をした日に、先生は「君が帰ってくるころに、仕事がし易くなるようにしておくよ」と謎めいたことを仰言った。日本文化会議の設立が考えられていたのだと思う。左翼一辺倒のマスコミをある程度きれいに清掃しておくよ、というくらいの先生一流のユーモアのこもった決意であったかと思う。

 私は八木さんに、「君のために仕事がし易くなるようにしておくよ」と断固として言ってあげたい。福田先生がそう言ってくださったが、私の人生において仕事は必ずしもし易くならなかった。左翼一辺倒のマスコミは相変わらずで、千年一日のごとくである。「幻想は切っても切ってもあとから湧いてくる」というのも福田先生のことばだった。私も今同じ心境である。人々はなぜ現実の悪にそのまま耐えられないのか。なぜ悪をむなしい善の見取り図にすり替えたがるほどに弱いのか。欲求不満を自由と錯覚し、不必要な希望を休みなく未来にいだきつづける人々の幻想を、「切っても切ってもあとから湧いてくる」状況の継続に私はほとんどもう疲れた。八木さんが仕事のし易くなる状況をいっぺんに作り出してあげられない私の無力を私は噛みしめ、彼にゴメンナサイと心の中で言っている。

 今私は彼とある新しいプログラムをスタートさせている。伊藤哲夫さんや中西輝政さんや西岡力さんや志方俊之さんや遠藤浩一さんもそこに加わっている。志は「押し返す保守」である。それくらいまだ不利な状況にある。みんなの力で愚かな「幻想」を根っこから打ち滅ぼしてしまいたい。彼のために仕事のし易い状況を作ってやれないで、私の人生もまた終わるのかもしれない・・・・・そのうち日本も沈没するかもしれない、そんな暗い予想さえ抱く。