拉致問題の新しい見方 (五)

 
 一昨年の10月15日の帰国に際し、5人の記者会見があり、現地で一番地位の高いといわれる蓮池薫さんの目が異様に光っていて、無気味だったことを覚えている人は少なくないだろう。
 
 私は当時次のように書いた。
 
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 帰国直後、記者会見に出るのを最初いやがった1人の帰国者の発言は、私に奇妙なものを感じさせた。8人の日本人が亡くなられているので、「私のようなものが皆さんの前に出るのは忍びない。表に出るような身分ではない」(『読売』10月16日)という発言は不可解な印象を与えた。有名な元北朝鮮工作員から、この日本人は高い地位の工作員であったという証言も得られた。
 
 私は17日付の私の「インターネット日録」に「ここから先は憶測である。歴史から一つのことがいえる。ナチスのユダヤ人迫害には、ユダヤ人による組織的協力があった。全体主義の恐怖社会で生き残りに成功した者は、過去にそれなりのことはあった」と書き添えた。
 
 インターネットの書きこみに、私のこの言い方は余りに無情だ、容赦がなさすぎる、という批判が乱れとんだ。また私を擁護する反論もあった。(『正論』平成14年12月号)
 
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 ある自民党の有力な政治家が、「蓮池さんは犯行の当事者なのだから・・・・」という言い方をテレビで敢えて言った。私の直観はそう間違ってはいなかったのだと今は信じている。
 
 けれども過去に何があったにせよ、彼が悲劇の犠牲者であることに変りはない。表面的な善悪で問うべき事柄ではまったくない。けれども、お子さんがたも無事手もとに取り戻したのだから、ここで洗いざらい全部体験を語って、安否未確認者や特定失踪者の情報を待ちわびる人々の期待に応えるべきだと誰しもが思うのだが、私は必ずしもそうならないのではないかと、一抹の不安を抱くのである。
 
 強靭な意志力、したたかな心理眼、物怖じしない演技力、信じさせておいてさっと翻すあの裏切りへの胆力、知力、行動力――そういうものの一切を有していたからこそ両家は帰国できたのである。(曽我さんの場合には米兵がらみに北の目算があったためで、別ケースと思う。)
 
 私は蓮池・地村ご夫妻とそのお子さんがたを、あの社会の本質を知っている生き証人と考える。発言に注目したい。文章を詳しく書いてもらいたい。ことにお子さんの出版を期待する。私が心配するのは、彼らが北に残留する犠牲者に対し加害者の位置にあるかもしれないので、発言に自己防衛のかすみがかかり、これ以上の事態の解明にかえって蓋をしてしまう可能性が小さくないと考えられることである。

拉致問題の新しい見方 (四)

 蓮池さんと地村さんの親子がお互いに体制の相違について率直に話せない複雑な心理背景は、以上からだいたい推理できると思う。ただ、私は帰国した5人の子女をテレビで見ていて、ひょっとすると北朝鮮もまた子供の心を利用しようと年来計画を立てていたのではないかと、私の意識をフト横切るものがあった。
 
 いったいなぜ日本人を拉致する必要があったのか、という最初からの謎に、いまだ誰も分り易い答を出してくれていない。住民票を奪って日本人になりすました偽造旅券の一件があった。あの件の理由はよく分ったが、北朝鮮人スパイの教育係に、拉致した日本人が必要だという今までの説明はどうしても腑に落ちない。
 
 25年前の北朝鮮はまだ国力があった。拉致した日本人の二代目をつくらせ、1.2キロ四方の囲いの中で特殊な生活をさせ、親子の関係を利用して、洗脳された若い日本人スパイ(北朝鮮国籍の)を大量に、組織的に日本に送りこむ壮大な長期計画を展開しようとしていたのではないのか。だとすると、5人どころではない。拉致日本人の二世の子供たちがいま他にも多数育てられているのではないだろうか。
 
 信ずべき情報筋から聞いた話だが、蓮池・地村両氏は二年前の10月15日に、北朝鮮当局から子供たちを連れて帰ってもよいと言われたそうである。両氏はすぐに断って、夫婦だけの「訪日」を希望したそうだ。かりに喜々として当局の提案を受け入れたら、忠誠心を疑われ、彼らの「訪日」は取り消され、そして別の二組が代わりに選ばれただろう、と。
 
 恐しい話である。しかしあの体制の真実をえぐっている。両氏は信じるもの乏しき荒涼たる心の戦場をくぐり抜けて今日ここに立ち戻った人々である。大変なことである。待っていた親の愛があり、故郷の土を踏んだ日の暖い歓迎があり、全国民の支援がウソでないことが歳月と共に分って、ようやくマインドコントロールは融けた。彼らの子供は若い柔かい心を持つだけに融けるのが早いともいえるし、親と違って、故郷に帰ったわけではないからマインドコントロールは容易に融けないともいえる。どちらかは分らない。

拉致問題の新しい見方 (三)

  
 弱点を握られた特権階級が、一番従順なスパイになり易いという。体制への反抗心を強く抱いていればいるほど扱い易い。親か子のどちらか一方の身柄を押さえてさえおけば、思想的に西側自由社会の色に染まっていてくれたほうが、西側に浸透し易く、東側にはかえって便利で、ありがたい。顔色ひとつ変えずに西側の人間になり澄まし、東側の体制の悪口を言い、裏切り者の顔をして、いよいよ最後のところで逆転してもう一度裏切ればいい。
 
 自由社会に浸透したこの種の二重仮面の人間は南北朝鮮の間にも数えきれぬほど存在するだろう。日本の政治家や言論人にも必ずいるにきまっている。そういう人間を育てるのが謀略国家の目的の一つであったからだ。
 
 東ドイツの場合に、東ドイツ社会に反抗的な一家の子供は、家庭で話すことと学校で話すこととをたえず厳密に区別しなくてはならなかった。西側自由主義社会がいかに物資が豊かで、情報が自由であるかを、親子はよく知っている。子供はそれをその侭学校で喋るわけにはいかない。彼らは言えと学校で自分を使いわける演技を幼い頃からつづけている。これは一流のスパイを育てる技術を幼児期から毎日磨いているようなものである。事実、東ドイツの超一流の名を轟かせたスパイは、国際的学者や演奏家など、東西を行き来する特権をもつ者の家庭の子供から育てられた場合が多い、と関係書にしばしば書かれている。
 
 東ドイツには西のテレビや書物が入って、今の北朝鮮の息づまるような閉ざされた密封社会とは少し情勢が違うかもしれない。しかし、共産主義的全体主義社会の基本性格には変りはないと思う。
 

拉致問題の新しい見方 (二)

2004年06月18日拉致問題の新しい見方 (二)
 
 東ドイツの例でいうと、独裁者がいちばん恐れているものが三つあった。教会の牧師、文学者、そして子供の心。この三つは独裁者の手の届かない、どう動くか予測のつかない恐しいものだった。体制に裂け目が生じるとすればここからだと思われていた。
 
 そこで教会の牧師の組織では、枢要のポストに秘密警察の非公式協力者が配置された。もちろん聖職者がそれになりすましていたのであって、密告のシステムが張りめぐらされていたということである。一方作家や詩人や文芸評論家にはそういうやり方をしなかった。相互監視の方法もとらない。出版物への検閲は勿論あるが、それもさほどうるさくない。文学者には自己検閲をやらせた。当局は「もうこれで十分だとご自分でお考えになったところで提出してください。」と言った。文学者たちにはこれはかえって不気味であった。どこまでが制限枠かが分からないからだ。すると人間は自分で夢中になって自分を縛る方向へ走る。体制に忠順な「いい子ちゃん」であることを一生懸命に自己証明しなくてはならない。全体主義の国ではこのやり方が文学者を体制順応型に縛り、文学を国家の奴隷に文学者を仕立てていく最も有効なやり方であったと聞く。
 
 人間の心の弱さにつけ込んだ卑劣なやり方である。独裁者にとって一番こわいものの三つ目、すなわち子供の心は、牧師や文学者に対するやり方のいずれでもうまく行かない。子供はどう出るか分からないからだ。親の安否を抑えれば有効だが、子供というのはそれでも分からない。
 
 東ドイツ秘密警察のミールケ長官は14歳以下の小学校のクラスの中からスパイの適格者を選び、特訓する方針を打ち出した。15・6歳になったらもう遅い、と彼は言う。独裁者とその輩下たちが年端もゆかぬ子供を最も恐れていたのだから、面白い。
 
 選んだ子供にクラスの他の子供たちや教師をスパイさせるのである。子供たちを通じてその親たちの動静をさぐらせるのが目的である。外国にしばしば出て行く職業がある。外交官、国際的学者、音楽家、スポーツ選手、船舶や航空機の関係者、彼らは共産主義的全体主義の国ではいわば特権階級であった。ひごろの言動で体制に最も忠誠な安全人間でなければ選ばれない。それでもたびたび外国へ行き、自由社会に触れているうちに変心する人が出てくる。親の行動を子供に密告させる絶好のチャンス、そういう手続きがいよいよ必要になる場合といってもいい。しかしそれよりも、西側を知った人間は親子ともども体制への反抗心を募らせるという方向へ傾く人々がはるかに多かったという。
 
 東ドイツの秘密警察当局はこういう親子を見つけるとゆっくり動き出す。逮捕するためではない。彼らを威嚇して手なづけるためである。
 

拉致問題の新しい見方 (一)

2004年06月17日拉致問題の新しい見方 (一)

 いま多分皆さんが一番関心のあるテーマについて、陸上自衛隊の親睦雑誌『修親』にエッセーをたのまれて、蓮池さん、地村さんのお子さんがたの帰国に伴う微妙な諸テーマについて書きました。『修親』には一歩早くて悪いのですが、タイムリーなテーマなので、掲載します。
 
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 5月22日拉致被害の蓮池・地村両家の子女5人が帰国した。タラップを降りて来た16歳から23歳までの5人のテレビ映像は、日本中の視線を釘づけにした。少し小柄で、政府が用意したのであろう余所行きの服装は若干流行遅れで、面立ちは同年の日本人に比べやゝ幼く、しかしはにかみや礼儀正しさや慎ましさが感じられて、見慣れている日本の生意気な若者よりいい印象であった。
 
 その後の様子を詳しく知るわけではないが、両親の記者会見によると、親は一族の数奇な運命をすぐには話題にしていない。子供も聞かない。話題はいつまでも核心に入らない。双方のそんな遠慮が伝えられた。
 
 恐らくそう遠くない時期に、親子は真剣に討議し、論争し合うときを持たざるを得なくなるだろう。親のさし当りの沈黙は、子に対する思いやりであるが、子の沈黙は必ずしも日本という新しい現実・未知の世界への恐怖からだけではない。それもあるとは思うが、それだけではない、と私は考えている。
 
 共産主義的全体主義の国家では、人が意見を持つことは過失であり、才知を見せることは落度であり、大胆であることは罪悪である。そのように教育され、躾けられてきたに相違ない。ましてこの5人の若者は工作員教育を受けてきたと聞く。対日工作が目的の施設で、親兄弟から切り離されて、幼児時代から特訓を受けてきた。
 
 何年もしないうちに5人のうちのいく人かが北朝鮮へ帰りたいと言い出すかもしれない。日本で生れ育った親とは違うのだ。両家の親はそのような子供の心の動きをよく知っているので、警戒しているのであろう。心の奥には触れないようにし、腫れ物に触るようにしているらしい。
 
 5人の子供は笑顔は見せるが、テレビで見る限り、無表情である。面白い発言をした、というニュースはなかなか聞こえてこない。そのうち奇抜な日本観察があって、われわれを驚かせるようになれば、心がぐっと開かれた証拠である。
 

新刊報告『男子、一生の問題』

 前からご案内していた『男子、一生の問題』が6月18日(金)に三笠書房から出版されます。東京都内の主要書店には18日に、地方都市にも21日(月)には出店されるでしょう。

 初版は15000部で、今の出版不況下では相当に思い切った数です。三笠の意気ごみが感じられます。いつかご紹介した、編集者清水篤史氏の熱意の賜です。

 6月初旬、私の留守中に、見本の一部が東京都内の2,3の店頭に出たそうですね。それをいち早く目ざとく見つけて買って読んで下さったかたがたもいらっしゃるようです。帰国して、拝読して、驚きました。厚く御礼を申し上げます。

 『男子、一生の問題』の内容は、まえがきに、「生まれてはじめて試みた新しいタイプの本、そして二度と書かれることのない珍しい種類の本である」と記したことばにすべて尽くされています。少し思わせぶりですが、私としてはたしかに、初めて書いた冒険的な形式です。

 それに、多分、非常に読み易い。平明です。私は年齢を重ねて、最近ますます文章は平明であるべきだという心掛けになっております。

 以下に、目次の各章の章名だけを掲げておきます。

 1章 「男子の仕事」で一番大事となるものは何か
 2章 時間に追われず、時間を追いかけて生きよ
 3章 この国の問題――羞恥心の消滅
 4章 「地図のない時代」にいかに地図を見つけるか
 5章 男同士の闘争ということ
 6章 軽蔑すべき人間、尊敬すべき人間
 7章 「自分がいないような読書」はするな
 8章 仕事を離れた自由な時間に
 
 各章の下の小見出しは49あり、その中の面白そうなものをあげると、「『世の中の真ん中』を気にしないでいけ」「他人の才能を評価できるのは大きな才能だけである」「性差を否定する者は、人間を廃業すべし」「人の一生に対し、正しい評価は存在するか」「『髪を染めた日本人』は、西洋人には猿にしか見えない」「インターネット――実名で書かない自己欺瞞」「古代だけでなく現代も無文字社会になる」「『相手が反論する能力がある』とは思わずに論争せよ」「私が『かつての盟友、小林よしのり氏を厳しく批判した』理由」「セクハラの概念を考える」「三島由紀夫氏との『ただ一度の思い出』」「哲学者・中島義道氏のスケールの大きさと危うさ」「深酒の思い出――酔っていたのは私でなく、日本の世相であった」etc。
 
 いろいろ皆さんの間で物議を醸しそうなテーマも入っています。それはともかく、当感想板で、書中のいくつかの関心事をとり上げて熱心に討論していただけたら、これに勝るよろこびはありません。 
 

管理人の皆様へ

 私は6月初めより、13日まで外国旅行中で、インターネットに無縁の生活をしておりました。その為、今はじめて自分のサイトがリニューアル移転したことを知りました。以前よりデザイン変更も含めてそういう計画があることは予感しておりましたので、特別驚きはしませんでしたが、管理人さんの一部に変更があったことは初耳でした。

 インターネットの技術については、私は全くわかりませんが、今まで書き溜めてきた日録内の文章の分量がどのくらい多いものかは私が一番よく知っています。今度調べて「私は毎日こんな事を考えている」以外に二冊分の本になる分量があります。それらのものをサイト上に保存管理することは、大変なエネルギーのいる作業だったことでしょう。今回を期に集中的管理をしていただいた旧管理人グループが一度解散し、新たに集結したという報告を受けました。

 旧管理人の方々には、今までほんとうにご苦労様でした、と申し上げます。又、新管理人グループの方々には、これからもよろしくお願いします、と申し上げたいと思います。

 又、読者の皆様には、今後とも当日録の読者として或いは掲示板の参加者としてご支援いただきたいと思います。ただし、私自身が一年前のある時期のように集中的にネットに書きこめるかどうかは分かりません。私がネットに熱心なときは、本来の著作活動が少し手を抜いているときです。これから1年余はそうはいきそうもありません。忍耐して頂きたいと思います。

 あらためて旧管理人の皆様へ心から感謝申し上げます。

九段下会議の考え方 (十一)

*****日本の背筋を正すのは*****

伊藤: では、そういう日本をもう一度取り戻すためにはどうしたらよろしいでしょうか。

八木: 西尾先生からもお話がありましたが、やはり「保守」というものを内実をはっきりさせることです。例えば、対外認識でのリアリティを取り戻すことが先決ではないかと思います。元産経新聞の高山正之さんの明言で「世界はみんな腹黒い」という(笑)のがありますが・・・・・。

伊藤: 相林さんという中国の民主化運動をやっている日本の代表がいるんですが、その人にインタビューしたときに、世界は狼ばっかりだと、狼だらけだと。世界は羊ばかりだと考えているのは日本人だけだと、こう言われた。非常に印象深かったことがあります。

八木: そういう甘い対外認識を変えるとともに、人間は性善なるものだという人間観についても見直す必要があります。みんな平等でなくてはいけないんだという考えは間違っているということを基本にした具体的な政策を提言することだと思います。

 また結論をいえば、やはり保守の理念を正確に理解している指導者の輩出、そしてそれを支える国民運動の必要性ということに尽きると思います。

伊藤: 西尾先生はこれに何か付け足されることがありますか。

西尾: 自虐などという言葉を誰が考えついたのかしらないけれど、自分が悪いことをしたらそれをひたすら言って歩いて、世界の人に頭を下げて歩き、謝れば許されると思っている。それだけではなくて、謝れば謝るほど、自分が美しく見える、自分が道徳的に見えるという錯覚を僕は一番問題にしたいと思うのです。

 あるドイツの歴史の先生がベルリンでドイツの戦争について講義された。その時、日本人が立ち上がって、日本も韓国人や中国人に酷いことをしたんですと言ったのです。すると、そこにいたユダヤ人が、「今、日本人からそういう意見があったけれども、一つの民族を組織的に集めて、組織的に大量に虐殺した国は史上ドイツ以外にはない。日本はその中に入らない」と言ったのです。その日本の知識人はしゅんとしてしまい、言い返す言葉もなかったという話をその場にいた人から聞いたことがあります。実に愚かな話です。

伊藤: 本当の悪というものを見ていないが故に、本当の善というものも見えなくなっているということですね。

八木: 善もそうですが、本当に美しいものに対する認識もなくなっています。

 今、韓国のテレビドラマ「冬のソナタ」が日本で大ブームになっていますが、その主演俳優が日本に来たら、30代から60代までの女性たちが大騒ぎした。ドラマは初恋の淡い思いがテーマですが、なぜ日本のその年代の人たちがそれだけ熱中するかといえば、日本にはそういうものが無いからなのです。

伊藤: 純愛ものがないと。

八木: 日本の多くの若者は体の関係から入っていくし、学校ではいきなり肉体的な性教育から始まっていて、感情や精神の教育はない。文学作品を読んで恋に憧れるということもない。しかし、悔しいことながら韓国にはそういうものがあるということなのです。日本ではむしろ、そうした美しい感情が教育によって潰されていると思うのです。本来、秩序あるものは美しいものだし、上品・下品という言葉があるように価値の上下があること自体は美しいことです。それが今の日本では不平等だという言い方で、つまりは甘い言葉で次々と潰されている。しかし、「冬のソナタ」の大ブームを見ると、多くの人たちは実はそういう美しいものを求めているのではないか、と思うのです。

伊藤: そういう意味でも、九段下会議では今の日本の状況を深く掘り下げていただき、警鐘を乱打しているわけですね。

西尾: 今、北朝鮮を巡る6カ国協議で問われているのは、実は北朝鮮ではなくて日本であると思います。各国が日本の行く末、とりわけ日本の軍事力をどうしてやろうかというふうに見据えていると思うのです。

 この点をマニフェストはこう述べています。

 《日本をとり巻く四囲の国際環境はがらりと変った。もし判断を間違え、改革の方向を取り違えるなら、「第二の敗戦」だけでは済まない。米中露の谷間の無力な非核平和国家であることに自己満足しているうちに、知らぬ間に友好の名における北京政府の巧妙な内政干渉が、日本の政治権力を骨抜きにし、あっという間に事態は悪化し、気がついたときにはもう遅い。警察権力の内部にまで中国が入りこむ。かくて「第二の占領」を完成し、日本はアメリカに愛想をつかされ、見捨てられるという事態も起こらぬではない。》

 さらに、米中対決が深刻化し、そのなかで日本が中国寄りのまま、優柔不断をくりかえすなら、アメリカとしてはこの土地を放棄しないと決めた以上、「再占領」以外の手はないことになるであろう、とも書きました。むろん、いずれも極端なケースであり、明日起こるというわけではないのですが、最悪のシナリオを心の隅に思い描いて、それへの用意を片ときも忘れずに政策を組み立てるのが政治というものです。

 話を6カ国協議に戻しますと、テーマは朝鮮半島の非核化であり、日本が求めていることでもあるわけです。しかし、それは同時に日本列島を含む太平洋の真ん中を非核化して、米中露三国の核大国が取り巻くという構造を恒久化することも意味している。つまり、北朝鮮の核問題の解決は農法によっては日本の非核化の恒久化にもつながっているのです。

 しかし、それは中国、ロシア、アメリカが核を持たないのであればいいけれども、そうでない以上、日本が永久に各国に翻弄されることになりかねず、はなはだ危険です。

 核に限らず、軍事力というのは、何も明日戦争を起こすためにあるのではないのであって、軍事が政治に跳ね返ってくるということが大事なのですね。現に、今度イラクに派兵しただけで、かなりの政治効果が期待されているのです。これは北朝鮮に対する無言の圧力になったし、中国に対しても同様です。その意味で、見せるべきときには見せなければならないのです。

 つまり、軍事力というのは、ある意味では日本人の心の支えなのです。実際に打って出るとか、戦うとかいう話ではなくて、いつでも大丈夫だよという支えです。それがないから、びくびくして北朝鮮に対する経済制裁一つできない。どんなことがあったって大丈夫だよという備えがあって、初めて経済制裁をして相手を倒してでも拉致の被害者を連れ戻すという決意を示すことが出来るのです。これが国家というものではないでしょうか。

 拉致問題について日本が身動きできないのは、日本が戦争ができない体制になってしまっているからです。ここのところを何としても変えなければ、この国は背筋を正すことができないと思います。

 国が近隣の不正を自らの力で罰したり、あるいは遠いところで起こっている紛争に出て行って調停をしたりすることをしなければ、子供たちが学校の中で、いじめっ子が横暴なことをしても黙ってしまうのは仕方がないという思想や精神態度を育成していきます。

 先ほどの「冬のソナタ」という韓国の映画を私も見ましたが、学校の先生の生徒に対する態度など、イメージとしては30年前の日本を見たような感じがしました。そういう面だけをとれば韓国はまだ健全です。

 逆に日本はネジを元に戻さなければダメです。これ以上崩れたらもうおしまいです。そのためにも、日本政策研究センターに多いに頑張っていただいて、指導的役割を果たしていただきたいと願っています。

九段下会議の考え方 (十)

*****国際社会の現実を認識せよ*****

伊藤: 結局、こうした動きに対する反撃の根本は、やはり保守思想とは何ぞやというところまでいくのだと思いますが、その保守思想の一つの重要な要素として、この社会に完全平等なんてない、社会というものは本質的に不平等なものであるといった常識を取り戻すことが大切ですね。

西尾: 国際社会に完全な正義なんてない。

伊藤: 人々は自由でもないし、そしてみんなが善意なんてこともありえない。とりわけ国際社会は悪意に満ち満ちている。それにどう対抗して、したたかに、譲れないものを守っていくかということを考えるのが保守の原点だと思うのですが。

西尾: 例えば、多くの日本人はイラク問題を巡ってドイツとフランスがアメリカの行動に反対したことをさながら平和主義の錦の御旗のように思っているかも知れないけれども、それは日本の知識人とテレビが言っているだけです。ドイツもフランスも、取り巻いている国際環境が最早防衛問題から解放されてしまって、何も恐怖がないために、少なくともアメリカに拘束されるのはいやだ、イラクの利権はヨーロッパにもあるのだ、ということを言いたいために反対したのです。平和主義の仮面の下にはしたたかな駆け引きがあるわけです。

 どんな場合でも全くそうです。フランスなどはかつてイラクに原子炉を売っていた。この原子炉は完成する前にイスラエルが爆撃しましたが、つまりはイラクの大量破壊兵器につながるようなことをフランスは裏でやっていたのです。
 
 フランスと言えば、東アジアに対する対応はものすごく悪質です。今は中国にすりよっていますが、台湾にラファイエット号という軍艦を売ったことがありました。このときは大変な汚職が起こって何人も自殺するような大事件になった。フランスという国は、他国に武器弾薬を売るのが唯一の経済力を維持する方策であり、どこに武器を売る場合にも、莫大な汚職を犯すので有名です。しかも、ラファイエット号の場合は、中国が猛烈に反発したら、今度は中国を黙らせるために江沢民に金を渡し、そのリベートまで取っていたというのだから驚きます。
 
 しかし、これが世界の現実の姿なんです。そうした凄い現実の上で世界が動いているということを知らないから、さっき言ったように、日本人は誰かがかわいそうだと思ったり、国際社会の中で日本が悪いことをしたということを認めることが道徳であるかのように誤解しているのです。
 
 
伊藤: やはり無葛藤社会の中から道徳なんて生まれないわけであって、むしろ性悪説的な社会というものをよりリアルに認識すればこそ、そこからの脱出を求めて道徳の必要性というものに気がつくのではないでしょうか。

 ところが、戦後はまさに皆が善い人だという無葛藤社会の幻想からスタートして道徳を考えようとしたが故に、全く変なことになっているということではないでしょうか。
 
 
西尾: 戦前も大衆は無葛藤社会の中に生きていたのではないかと思いますが、指導者は意外と葛藤社会を見ていたと思いますね。ところが、今の日本はリーダー、知識人も含めて政官財のリーダーがみんなダメになっている。少し前までは、大蔵省でも日銀でも経済官僚は愛国心や国益の観念がもっとあったような気がしますが・・・・・。

九段下会議の考え方 (九)

*****新たな「革命戦略」*****

西尾: 今の話を世界的な共産主義の流れから見ると、1968年のチェコのソビエト離れが切っ掛けとなって、あそこで確実に共産主義の運動は衰弱し、内向化するのです。西側の共産主義運動は、繁栄し平等になって豊かな社会の中でいかに革命運動を行うべきかということを考え始めた。これがまさに全共闘がぶつかった問題だったのです。それで、彼らはソ連は理想ではない、しかし革命は永遠だということを言っていた。それが反帝国主義・反ソ連となり、さらに人間革命、自己革命というところに流れていったのです。

 つまり、マルクス主義に幻想を持たない人たちは、とうの昔にマルクスに魅力を失っていました。彼らが唱えていた程度の平等は、高度産業社会の中であらかた実現した。同時に、平等で繁栄している社会では人間が衰弱している。それを見て、その弱くなった人間を使ってどのように革命を起こすのかという戦略に変ったわけです。つまり革命は変質したのです。変質した革命思想を抱いてみんな社会の体制の中に入ってしまった。もちろん、過激な勢力は赤軍派のように外へ飛び出しますが、それ以外の人たちは体制の中でずっと共産主義の感情と情熱を抱いて生きてきたのです。

 そこから、「自分らしく生きろ」とか、「一人でも弱い者がいてはいけない」とかいうような無限平等論的な主張も出てくるのです。つまり世の中には一定の不平等がなければ成り立たないという常識がないのです。そういうことが結果として精神の衰弱を招くわけですが、衰弱を招かせようとは思っていないのです。繁栄と平等が引き起した精神の衰弱をどう捉えて自分達の革命理論を新しい時代にフィットさせていくかということを考えてやっている。彼らの論理は、それはそれで一貫しているわけです。とはいえ、彼らがやったことは日本の破滅であり解体です。

八木: 『正論』5月号に、漫画家のさかもと未明さんが、職業には貴賎はないということを実践するために、いい大学を卒業した女性がアダルトビデオの女優になったという話を紹介しています。

 自分がやっていることを、密かに恥ずかしく思って、しかし強がりでそういうことを言っている分にはいいのですが、そうではなく、本気で職業に貴賎はないと思っているというのです。先ほど西尾先生がおっしゃった無限平等論とでも呼ぶべき考えがあって、それが社会を激しい勢いで壊していっているのです。

 最近の例でいえば、3月の初めに非嫡出子の戸籍の記載を問題とした判決がでました。あれも子供は親を選べないだとか、嫡出子か非嫡出子かが分かるように戸籍に記載するのはけしからんとか、かわいそうではないか、という話です。しかし、それを言い始めたら、家族の枠組みや秩序は全部壊れてしまいます。そもそも非嫡出子というのは、一般的なパターンで言えば、男が奥さん以外の女性との間にできた子供です。その子供を奥さんとの間にできた子供と同じように扱えということになれば、家族は壊れてしまいます。

 しかし、かわいそうだという感情論に対して、いやそれは違う、世の中には完全には平等にならないものがあるのだと反論できる人たちが余りにも少なくなってしまっている。九段下会議で出した政策提言の内容も大体、まず確信的な左翼が火をつけて、あとは一般の人たちが、かわいそうだ、かわいそうだということで、政府や行政の中に入り込んで作られた問題がほとんどです。子供たちに勉強をさせすぎるのはかわいそうだというところからゆとり教育が出てきたし、税金を払っているのに外国人に痴呆参政権さえ与えないのはかわいそうだといって話が外国人地方参政権の話になっていった。

西尾: 拉致事件でも、これを契機に日本人の認識は少しは深まったようにも思いますが、大半の日本人は曽我さんがかわいそうだ、横田めぐみちゃんはかわいそうだという次元ではないでしょうか。同じように、瀋陽事件のハンミちゃんもかわいそうだと言うのです。

 ところが、だれも拉致事件は人権の問題ということよりはむしろ国家主権の問題なのだということをいいません。総理さえ言わない。人権侵害事件だというふうな解釈でいこうとするわけです。むしろ被害者のご家族の方がはるかに国家主権の問題だという自覚をもっておられる。