西尾幹二全集刊行記念講演会報告(六)

【補足】
ご講演のために西尾先生はレジメを作成されました。(三)からの『昭和のダイナミズム』の冒頭はそれを基にご講義されたのですが、当報告文でうまく表示できず、ご講演に名前が挙がらなかった人物もいますのでこの場で紹介いたします。

(徳富蘇峰)大川周明/林房雄、三島由紀夫/保田與重郎、蓮田善明 、岡潔/
(内藤湖南)平泉澄、坂本太郎/折口信夫、橋本進吉、山田孝雄/
      /小林秀雄、福田恆存/和辻哲郎、竹山道雄、田中美知太郎/
(西田幾多郎)鈴木大拙、西谷啓二、久松真一/

レジメは縦書きです。括弧書きは「点線の上は昭和ではない」人々で、「/」は改行箇所です。(三)の冒頭で上述の表を下(左)から上(右)に向かってご講義されました。

 ご講演の感想
坦々塾会員 阿由葉秀峰

私はこの度のご講演の前半部分を、ふさがれた地下水脈である「昭和のダイナミズム」に至るまでの「導入部」と思い拝聴していました。東西文明の俯瞰、そして歴史を時代区分に縛られない長い時間の尺で捉え、軸足は確りと日本に置いた「広角レンズ」の視点、併せて古代への神秘主義に傾倒した江戸の思想の系譜を「昭和のダイナミズム」と後半部に仰有られました。振り返ってみると、二部に分かれる今回のご講演が「昭和のダイナミズム」の「歴史編」(序章)と「思想編」であったと私には思えたのです。

「外国にふさがれた地下水脈」とは、大川周明、平泉澄、仲小路彰、山田孝雄・・・、彼等が大戦中に、日本の運命に積極的に真のリアリズムを以て関与した「思想の部分」に違いありません。
「ふさがれた」ままの問題は戦後主流の保守思想家たちにもあって、彼らは「徒に戦争を批判または反省する愚」を戒める一方で、「あと一歩というところで口を噤んでいる。(268頁上段)」そして、「一口でいえば戦後から戦後を批判する制限枠内に留まり、アメリカ占領軍の袋の中に閉ざされたままであるという印象を受けるのである。(268頁中段)」と。終戦までの日本の置かれた運命に、我が身を置いて素直に向き合うことを避けている不正直な姿勢から、「そこから先がない。あるいはそれ以前がない、(268頁上段)」。小林秀雄、福田恆存、竹山道夫ら重要な戦後保守思想家たちのことです。雑誌『正論』7月号『日本のための五冊』という企画『戦前を絆(ほだ)す』からの引用ですが、そこで西尾先生は彼等の作品を選ばれていません。彼らが戦前の思想をハッキリ知っている世代であるという点は重要です。私は、彼等は戦後占領軍主導の苛烈な統制から糊口の道を閉ざされる恐怖、実際それを目の当たりに見てきたからではないか、という気もしていますが、分かりません。しかしそれでは真の歴史を描くことも、時代々々の思想や営為も窺うこともできません。
大戦を含めた歴史を振り返るとき彼等に違和感を覚える、という西尾先生のご指摘はとても重要です。今の日本はもはや「そこから先やそれ以前」を糊塗して済ますことができないからです。

全集刊行を記念して西尾先生は、亡くなった遠藤浩一氏とのご対談(平成24年2月2日付当ブログまたは雑誌『WiLL』12月号)で「明治以降の日本の思想家は貧弱で、ニーチェの問いに対応できる思想家はいません。」と、今回のご講演に通じることを仰有いました。思えば、同じ遠藤浩一氏とのご対談で『ニーチェ』二部作の第三部目が大著『江戸のダイナミズム』であると仰有いました。ということは「昭和」の視座で描かれた雑誌『正論』連載中の『戦争史観の転換‐日本はどのように「侵略」されたのか』が書籍化された暁には、それこそが第四部目となるのでは、と想像を逞しくしました。

西尾先生はご講演の締め括りに平泉澄の『我が歴史観』を共感と共に紹介されましたが、私は次の言葉を思いました。「凡そ不誠實なるもの、卑怯なるものは、歴史の組成(くみたて)に與(あずか)る事は出來ない。それは非歴史的なるもの、人體でいえば病菌だ。病菌を自分自身であるかのような錯覚をいだいてはならぬ。」(『少年日本史』「はしがき」)
大正末から昭和45年と長い時間を隔てていますが、「歴史は畢竟、我自身乃至現在の投影。」の認識を経ての言葉であることを思えば『少年日本史』の響きは変わります。そして今日の教育現場では正に「病菌」という錯覚を「自分自身」として教えているといえます。「自虐史観」と謂われますが、自分という認識が無ければ「加虐史観」です。決して歴史の名に値しません。

過去は、裁いたところで、幻とはならない。必要なことは、過去の悪をことごとく肯定する勇気である。さもないと、将来ふたたび反省や後悔をくりかえし、現在の自分の立場もまた悪として断罪の法廷に引き出されることになるであろう。(『第三巻 懐疑の精神』24頁下段)

結局過去の認識は現在に制約されているといえる。われわれの熟知しているごく近い過去の出来事ひとつの解釈にしても、じつに数かぎりない解釈が存在することはわれわれの通常の経験である。それはおおむね歴史家ひとりびとりの個人の主観の反映である場合が多い。あるいは時代の固定観念、すなわち通念の反映像という場合もありうるだろう。つまり過去像はそのときどきの現在の必要に相応して描き出されているのである。(『第四巻 ニーチェ』495頁上段から495頁下段)

「歴史」は「今」を生きる私たちにとって相対的なものです。時代区分についても、「境」は「今」を基準にして後付けするのです。必然的に最近の出来事の方が情報量も多く関心も高いから細かく境を細かくするものです。それはけっきょく自己都合に過ぎません。今から五百年や千年も経てば、細分化さる「今」もかなりザックリと括られてしまうのです。それは仕方のないことでしょう。
「今の自分」との関係から「史実」を取捨選択して「歴史」の材料とするのですから、その「今の自分」という「主体」を無くして歴史はできません。ましてや万国共通の「世界史」など描くことは出来ません。史実と歴史とはまったく別問題で、だから「歴史は行為」することなのであって、歴史からそれを描いた主体がよく見えることはおかしいことではありません。しかし戦後70年かけて「文学が無くなってしまった」時代にどう歴史を描いてゆくのでしょう。

 過去は現代のわれわれとはかかわりなしに、客観的に動かず実在していると考えるのは、もちろん迷妄である。歴史は自然とは異なって、客観的な実在ではなく、歴史という言葉に支えられた世界であろう。だから過去の認識はわれわれの現在の立場に制約されている。現在に生きるわれわれの未来へ向う意識とも切り離せない。そこに、過去に対するわれわれの対処の仕方の困難がある。(『第六巻 ショーペンハウアーとドイツ思想』207頁下段)

過去は固定的に定まっているのではなく、生き、かつ動いているのである。また、過去を認識しようとしている人間もまた、たえず動いている。歴史は、動いているものが動いているものに出会うという局面ではじめて形成される創造行為である。(『同上』482頁上段から下段)

 プラトンの対話篇『国家』でイデアを説くところの「洞窟の比喩」に、ことの難しさを感じます。
生まれながらにして洞窟内に脚と首とを縛られて壁に向かって坐らされている囚人たち。背後に松明(たいまつ)が燃えているが、彼らは振り返ることが出来ないので、彼らの背後をいろいろな物を持って行き来する人々の「壁に映る影」だけを見続け、それを影とは知らず「もの」と思い込んでいる。囚人には影以外のものが見えないからです。あるとき、ひとりの囚人が束縛から放たれて後ろを振り返り歩みだします。松明の光は眩しく目は慣れないが、何者かに外界に連れ出されてしまう。やがて外界に慣れてくると「ものの影」ではなく「そのもの」の姿を認めるようになり、太陽こそがことの原因であることを悟ります。彼は再び真っ暗な洞窟に帰り、縛られ続けている他の囚人たちに外界のことを話し、彼らを連れ出そうと束縛から放ちますが、囚人たちは彼を信用せず捕らえて殺してしまう・・・。
 以上のような筋でしたか・・・。囚人たちは「影」しか知らないので「そのもの」を、それがどうであれ受け容れることが出来なかったということなのでしょう。また囚人の束縛は、囚人の生の支えであったという気もします。

いつの時でしたか西尾先生とお話をしたとき、「私の言論は10年ほど経ってから理解される。」と仰有るので、私が「教育や移民問題を思えば、四半世紀は先んじていますよ。」と申したところ、「それでは困る。」と仰有いました。西尾先生が困られるのも当然で、「今起こっている」問題について声を挙げていらっしゃるのだから「先見」ではなく、「今」響かないのは確かに困るのです。10年や25年経ってから響くようでは全く困るのです。失礼なことを申してしまったと思いました。であれば、雑誌『正論』の中で異彩を放っている西尾先生の連載は今ますます重要で、「戦争史観」五百年史観は、日本人は直ぐにでも「転換」するべきものと思うのです。

最後に、私がこの度のご講演に関連していると感じた西尾先生のアフォリズムを、全集から幾つか拾って纏めてみます。

歴史は認識するものでも裁断するものでもなく、可能なのはただ歴史と接触することだけであり、そこに止まって「成熟」するより他に手はない。(『第二巻 悲劇人の姿勢』36頁下段)

歴史は個人を超えている。知性は全体を把握することができない。知性が歴史全体に対し神の位置に立ったとき、歴史は姿を消す。過去に対しても、未来に対しても、個人は不自由である。不自由の自覚を通じて、個人は初めて「現在」に徹する自由への第一歩を踏み出すことを可能にするのみである。(『同上』143頁下段「知性過信の弊(二)」)

われわれが現在の価値観によって制約され、過去を認識しているにすぎないのなら、自分が未来に何を欲し、どう生き、いかなる価値を形成しようと望んでいるかを離れて、われわれの歴史認識は覚束(おぼつか)ない。過去の探求は、一寸先まで闇である未来へ向けて、われわれが一歩ずつ自分を賭けていく価値形成の行為によって切り開かれる。過去を知ってそれを頼りに未来を歩むのではなく、未来を意欲しつつ同時に過去を生きるという二重の力学に耐えることが、人間の認識の宿命だろう。(『第四巻 ニーチェ』495頁下段「第二節 ワーグナーとの共闘」)

歴史は客観的事実そのものの中にはない。歴史家の選択と判断によって、事実が語られてはじめて、事実は歴史の中に姿を現わす。その限りで、歴史はあくまで言葉の世界である。けれども、歴史家の主観で彩られた世界が直ちに歴史だというのではない。そもそも主観的歴史などは存在しない。歴史家は客観的事実に対してはつねに能う限り謙虚でなくてはならないという制約を背負っている。客観的事実と歴史家本人とはどちらが優位というのでもない。両者の間には不断の対話が必要な所以である。(『第五巻 光と断崖― 最晩年のニーチェ』24頁下段から25頁上段「光と断崖」)

 過去は定まって動かなくなったものではなく、今でも絶えず流動し、休みなく創造されているものである。あるいは絶え間なく再生産されていると言っていい。そして、そうでなくなったものにとっては、どんな素晴らしい過去といえども死物に過ぎない。過去の文化とはそもそも幻影であって、実体ではないのだ。実体はあくまでそれを受け取って再生産する後世の人間の意識の運動の中にしかない。しかもそれはきわめてあやふやな運動で、時代によって異なった幻影を生むし、個人によって異なった再創造の試練を受ける。後世の人間がそのあやふやさに耐え、何らかの価値を賭けていく行為こそがまさしく文化なのではないだろうか。(『第七巻 ソ連知識人との対話 ドイツ再発見の旅』551頁下段から552頁上段「文化観」)

総じてヨーロッパ人がアジアに対する「公正」や「公平」を気取ろうとするときは、ヨーロッパの優越がまだ事実上確保されている場合に限られよう。もし優位がぐらつき、本当に危うくなれば、彼らの「公正」や「公平」は仮面をかなぐり捨て、一転して、自己防衛的な悪意へと変貌することにならないとも限らないのだ。(『同上』349頁下段「仮面の下の傲慢」)

 変わっていなくても勿論いい。日本は日本である。われわれの「近代」がヨーロッパを追い越す段階に達した今になって、日本はやはり日本だったということがはっきりして来たまでのことである。われわれは江戸時代以来の社会心理、人間関係、エートスを保存したまま、外装だけ近代技術の鎧(よろい)で武装して生きているのだ。それはそれでなんら不思議はない。(『第八巻 教育文明論』258頁下段から259頁上段「第八章 個人主義不在の風土と日本人の能力観」)
 
 西尾先生は平泉澄の『我が歴史観』をご紹介されながら胸に深く響いたと仰有いましたが、私は西尾先生の言葉触れて唯々思い入るのです。
 了

西尾幹二全集刊行記念講演会報告(五)

    (五)

 誰が本物であり誰が贋物であるか。誰が本物のリアリストで、誰が贋物の付和雷同者であったかの区別は今の時代にあってこそ愈々なされなくてはならず、戦争に負けたから協力者は全て悪である、とレッテルを貼るのだったら、これは戦勝国の論理ではありませんか。敗戦国がそんな粗雑さで自分の国の歴史への参加者を簡単に裁いて良いのでしょうか。戦争に協力した者は戦争が悪なのだから等し並みに悪である、と言うのだったらこれでは左翼と同じではないですか。この結果決定的にまずいことが起こるのです。戦争には負けたかもしれないが、あの時代の日本には数多くの選択の道があったはずで、その時開戦に追い込まれた協力者の中で誰が唱えていたことが、たとえ負けたとしても貴重な思想であり、選択であったか。負けたか勝ったかだけの根拠をここで問題にするのなら、これは戦争の論理、政治の論理であって、負けても勝っても立派だったかどうかを問わなければいけないわけですから。だったならば、あの時代の日本の運命を道徳基準で決めるのではなくて、国家を襲った歴史の必然性の基準によって評価するということが求められるべきことではないだろうか。私は戦後70年、保守も左翼もこの問題を避けてきていると思います。

 だから私は言うのです。私も人生終わりに近づいているから言うだけのことは言っておかなければならないと思っているのですが、彼らが戦後から戦後を批判しているレベルに見え、そこから先に進もうとしないというふうに見えるのは私には不満だと申し上げたのはその所以です。

 あの時代の日本の選択、開戦に至る必然性、戦争指導の理念的あり方、それについて思想指導者として誰が正しかったか、誰が私たちにとって理に適うか。正しいという言い方は拙い。誰が今の私たちにとって理に適うか、という評価が下される必要がある。それがされないままに終わってしまっては困る。

 例えば国書刊行会が協力して「新しい」本が次々と発掘されている仲小路彰という思想家は、海軍大将末次信正や海軍大佐富岡定俊、昭和15年に軍令部作戦課長に就任していた人物とタイアップしてアメリカ軍との太平洋戦争を避けるべきこと、インド洋から中東へ海軍を動かして、南下するドイツ軍と連携すること、アメリカからのソ連への補給路を断ち、アメリカ軍の参戦の口実を封じることを提案していました。その結果、身が危うくなって昭和19年に東京を離れて山中湖へ隠棲します。仲間の明星大学の教授であった小島威彦(こじまたけひこ)は投獄されます。ルーズベルトが国内世論に迷ってぐずぐずしていた時代ですから、こういう作戦は有効だったのです。すべてを台無しにしたのは山本五十六の暴走です。とんでもない奴ですね。そうなってしまった後は、本当にもう運命みたいなものですね。だから軍部に協力していたとかいないとか、そういうことでその人の思想まで葬ると言うのは、もうここまで。それこそ70年、戦後70年なのです。我々は立ち止まって考えるときが来ているのです。

 小林秀雄は、「利口なやつはたんと反省すればいいさ、俺は反省なんかしないよ、」日本人がもっと聡明だったら、もっと文化的だったら戦争なんか起こらなかった、というような馬鹿なことを言うような知識人に向かって、「そんなことはない、日本人を襲ったのは悲劇であり、悲劇の反省など誰にもできない、」「政治と文学」昭和36年12月号で彼は言いました。当時は戦争責任という言葉が吹き荒れていました。左翼の党派的欺瞞が横行していました。福田恆存「文学と戦争責任」昭和21年11月号、吉本隆明「文学者の戦争責任」昭和31年もその辺りを正確に撃っているのです。その辺りの知識人の欺瞞、日本人の欺瞞、嘘ばかり言っていては駄目だよと。我々を襲ったのは悲劇なのだと。それはその通りです。反省して歴史を変えられると思っている愚かさを戒めることにおいてまことにこれらの人々は峻厳でした。厳粛でしたが、そこに留まっていてそこから先がないのです。あるいはそれ以前がないといっても過言ではないかもしれません。

 例外は林房雄の「大東亜戦争肯定論」でしたね。ただこの本が私にとって今思うと不足なのは、日米百年戦争を論じているのです。私にとって日米百年戦争がとても新鮮に見えたのは私が戦後つ子で、昭和3年満洲事変から日本は血迷いだしたという戦後歴史観に結局私も踊らされておりました。そういう歴史観に閉ざされていて、そのために林房雄の百年戦争論が大変面白く感じた。でも後で私がGHQ焚書を調べていたら戦争前は全部、誰もが皆そういうことを言っていた。林房雄は卓見を述べたわけでも、新発見をしたわけでもない。大川周明以下多くの人々が皆百年戦争、ペリー以来の戦争を言っているし、更には五百年戦争史観を述べているのは大川周明です。

 もうあまり時間が無くなりました。平泉澄の話をしましたので、平泉澄の「我が歴史観」という論文を紹介して終わりにします。こんなに古い本です。これは素晴らしい本です。これをいま、講談社の学術文庫なんかに入れるといいと思いますが、平泉澄は徹底的に否定されちゃっているのです。とんでもない話ですよ。一方で大川周明は全集まで出ているのです。大川周明は復活しているのです。それは北一輝と並んで復帰して、少し左翼っぽいのです。それによって戦後受けているのです、ところが平泉澄は徹底的な日本主義ですから。それで、私が実に感服したというより共感したのは、私の考え方に非常に近いので共感したのですが、ドイツの歴史書をずっといろいろ述べた後で言っているわけですが、最後のところだけ紹介します。ハインリッヒ・リッケルトがどうだとか、ヴィヘルム・ハインリッヒ・リールがどうだとかいろいろ言っているのですが、それからです。

「主観的要素というものは、全ての歴史的把握のうちに必然的に存在してこれを根絶することはできない。個々の時変は、歴史的考察によって初めて同時代に起こった時変の無制限なる集団の内から拾い上げられて一個の歴史的出来事となる。歴史家は自分自身から問題を提案し、これをもって資料にあたってみる。この提案は歴史家に出来事を整理し、諸々の歴史的要機を選り分ける手がかりを与える。そして歴史家はこの問題を解決するために歴史的結論を出すのである。歴史家の現在は、どんな歴史からも切り離すことのできない一個の要機である。そしてこれは言うまでもなく歴史家のその人の個性よりも、彼の生きているその時代の思想界である。あらゆる時代において我々の到達しうるものはただ歴史に対する我々の認識のみであって、決して絶対的な無限に妥当する認識ではない。」

 歴史認識というのは相対的なものなのだということを、まず私も非常に強く共感するものであります。

「こう言えば破壊的に聞こえる、けれども我々は恐らく次のことが自然科学についても、また概して人間のあらゆる認識についても一様に変わりがないと許容すべきであろう。昔より数多くの歴史家が現れ、数多くの歴史が著わされたにも拘らず、絶えず新たに歴史家の活動の要求せられるのは、ひとつはこの理によるのである。」

 分かりますね。絶えず歴史家が求められるのは、歴史は一つではないと言っているのです。多様だと言っているのです。相対的だと言っているのです。でも総体と言ったら恐ろしい話です。何でもかんでもということになってしまうのだから。

 

「過ぎ去りし真実は固定して如何にも千古不変であろう。しかし、その事実を如何に把握するかは歴史家の個性及びその時代の思想によってそれぞれ違ってくる。中世に書かれた歴史は、畢竟中世的な把握の仕方である。現代は現代的な把握を要求する。それ故に歴史は絶えず書き改められなければならないのだ。」

まともなことを言っているでしょう。

「昨日は無意味なこととして除かれたものも、今日は重要なる意義を持てるものとして採用せられることは、我等が実際に歴史を取扱う上に屡々、否、常に経験するところである。」

 もう一度いいますと、無意味なものとして除かれたものも、昨日は無意味、今日は重要というようなことは絶えず起こることだと。動くということですよね。何が重要で何が重要でないかは毎日違うという、つまり歴史は動いている。我々も動いている、動いているものが動いているものにぶつかるのが歴史です。

「然して、このことは思惟下の人格及び彼が如何に正しく現代を理解しているかが最も重大であることを示す。実際純粋客観の歴史というものは断じてあり得ないのであって、」

 韓国人に爪の垢でも飲ませてやりたいですね。

「もしありとすれば、歴史では無くて古文書記録即ち資料に外ならない。」

資料というのはあるわけです。でも資料は歴史ではありません。

「歴史は畢竟、我自身乃至現在の投影。」

 私自身の過去に対する投影、つまり主観的だと言っているのです。

「道元禅師の所謂、我を配列して我此れを見る。」

 道元禅師が、自分を並べて、そして自分がそれを見るのだと、自分が自分を見ているのだと。道元は「歴史」と言っているわけではないけれど、「我を配列して我此れを見る。」しかもまた、「歴史を除外して我は無い。」と、今度は逆のことを言っているのです。我があるだけではない、歴史を除外して我は無いのです。

「我は歴史の外に立たず、歴史の中に生くるものである。歴史を持つものでは無く、厳密には歴史するものである。だから歴史する行為というものに結びつく。先(まえ)には歴史のオブジェクト、客観に人格を要求した。今は歴史のサブジェクト、主観に人格を要求する。斯くの如く内省してゆくところに現代史観の特徴がある。外へ外へと発展を急いだ時代は既に過ぎた。思うに斯くの如きはひとり歴史に於いてのみ見らるるところではあるまい。全ては今、反省して自己を確立すべき時である。」

 大正14年11月の文章です。昭和元年に近い。平泉澄の言っていることは、誠に真っ当な私の胸にピンピン来るような素晴らしい文章であると思っております。歴史のパラドクスということ、「歴史をする」ということは世の中に無いけれど、「歴史をする」というのは「歴史は行動である」ということを言っているわけです。

 平泉澄が大戦中にどういうことをしたのか、ということが非常に深く関係してくるので、皆さんご存知なければ最後にご説明しておきます。平泉澄は32歳にして昭和天皇に楠木正成の功績をご進講されています。その前には欧米に留学しています。満洲を視察して溥儀とも会見しています。満洲建国大学の創設にも参画しております。そして昭和20年に東京帝国大学を辞職せざるをえなくなります。

 終戦時の陸軍大臣、阿南惟幾は自刃しました。この人は平泉澄の弟子です。続く東久邇宮稔彦王(ひがしくにのみやなるひこおう)の次の下村定(しもむらさだむ)。この人も平泉澄の弟子です。帝国陸軍の最期は終戦の直前と直後において平泉澄の愛弟子の指導の下に事後処理を、陸軍は自分を解体したのです。平泉歴史神学は戦争から戦後にかけての行動の導きの星であったということであります。

了  (まとめ 阿由葉秀峰)

西尾幹二全集刊行記念講演会報告(四)

   (四)

 私たちは予想外に戦前の「国体論」と同じ思想の波動の中に生きているということがあるのです。例えば以前「日本人論」というのが流行になりました。「国体論」というのは「日本人論」なのです。「国体」という言葉は消えて「国民体育大会」になってしまったけれど、日本人論のことなのです。それと「皇室」ということです。皇室についての様々な国民の感情の動きも戦前の国体論とそっくり同じです。戦争の時代には特有の歴史の見方があって、論争がありました。即ち皆さんもご存知のとおり、国民は天壌無窮の皇統を仰ぎ奉り、ひたすら忠誠忠義の心を唱えなさい、そうでありさえすればよい。という考えもありました。国民に主体性も個性も要らない、ひたすら忠誠心だけあればいいという。文部省の「国体の本義」はそれです。基本的には良い部分もたくさんあるけれど、これは変な本です。神武天皇のところがたくさん書いてあって、もちろん建武の中興、後醍醐天皇のこともたくさん書いてある。そして、明治天皇のことがたくさん書いてある。それは分かるのですが、鎌倉時代を否定している。それから江戸時代を細々と書いているだけで、あまり書かない。これでは国民の歴史ではありません。つまりどういうことかというと、皇室偏重の歴史なわけです。武家が威張っていた時代は駄目だということです。そんな莫迦な話は無いし、歴史というのはそういうものではない。

 大川周明の「日本二千六百年史」という有名な本がありますが、これは鎌倉時代の成立を革新の名で捉えたために、不敬の書として刑事告発されて東京刑事地方裁判所刑事局思想部に摘発されます。それで、皇室への反逆の時代であるがゆえに、これを低く見なければいけないということですね。そこに革新の意図を認める、などどいうことは許せないということです。告発したのは蓑田胸喜(みのだむねき)です。この人を好きな人も多いのですが、私は少し変な人だと思っています。

 
 私は偏った「国体の本義」論を良いとは思いません。「国体の本義」というのは昭和12年ですが、昭和8年に山田孝雄、さっき挙げた国語学者が同じ題名で「国体の本義」を書いていますが、ずっと良い本です。どういうことかというと、すぐに論争が起こったのです。文部省刊「国体の本義」に対しては反論が起こったのです。つまり、論争があると申し上げたいのです。どういうことかというと、総力戦体制で戦おうとしている軍人たちの精神にとって、ただひたすら天壌無窮の皇統を仰ぎ奉ってさえいれば良いという消極的な事では、これでは精神涵養さえ覚束ない。そんなスタティック、静的な歴史観を基本に置いたのでは困るというような反論で、わが国体は何らかの理由なしに尊厳なのではなくて、国民個々人の主体性の関与があって初めて尊いものになるから、国民の主体性を無視するような静的な天皇観、国家観では困ると。武人の自立を尊重する意志的日本人観への転換を求めるという。分かりますね。当時の時代はそういうことを言ったのでありまして、これは山田孝雄も言ったし、平泉澄も言っています。

 そしてこの平成の言論界に於いても、最近ちょっと下火になりましたが屡々皇室論がありました。同じように、臣民たる分際を守って皇室をひたすら仰ぎ見ていなさいと、余計なことに口出ししてはいけません、という声が一方にあります。私は、そんなことでは現代日本の旗幟には対応できないだろうと。皇室への尊重の気持ちに対して能動的に関与してゆくことは必要ではないか、一歩踏み込むべきである、というのが私の考えです。そのことは知っておられる方もおられるでしょう。今でもこの二つがあるわけです。ちょうど戦争中の考え方と、皇室に関する考え方は時代の問題で内容は違うけれど波動はよく似ているのですね。歴史は敗戦ということで切れていないのです。戦前の思想は言葉遣いなどに馴染みは無いのですが、予想外に私たちの実感に近い所がありまして、日本人論などは興味深い。

 それから朝鮮半島と台湾が併合になったということに平泉澄が疑問を呈しているのです。どういうことかというと、大和民族の血が汚れると。「汚れる」とまでは言っていないけれど、それほど広がると「大和民族というのは何であるか」ということを考えるときに困るではないかと。その事を考えないで、ただ領土を広げて帝国主義万歳と言って良いのかという問題です。

 実はこれは今の難民問題と直結しているテーマですね。今大変な問題がドイツを直撃しています。でもよく考えてみたら、日本だって明日何が起こるか分からない。シリアでは問題が起こるか分からないけれど。アジア諸国にどういう動きが起こるかも分からないので非常に不安です。とにかく、水難事故が起こってもこれだけの困難がこの国に訪れる訳ですから、何万人という外国人が難民として日本に入ってきたらどうするのだろうということは、今からしっかりと考えておかなければならないテーマではないかと思います。

 さて、私が言いたいのはそこから先です。昭和のダイナミズムの一覧表の中には昭和に生まれ、戦前に生まれ戦後に通用して来た保守思想家たちがたくさんおられます。私が先生としてきた人たちです。小林秀雄、福田恆存、竹山道雄。田中美知太郎もそうです。戦前に生まれて戦後に保守思想家であった人たちです。林房雄、岡潔、三島由紀夫も皆入りますが、これらの人たちは戦後的生き方を批判してきました。しかし戦前の考え方を肯定しているかといえば必ずしもそうではないでしょう。戦後的価値観で戦後を批評することは盛んでしたけれど、戦前の日本の在り方というものに果たして立ち還っているのかと疑問に思うことが最近多いのです。戦争に立ち至った日本の運命、国家の選択の止むを得ざる正当さ。自己責任をもって世界を観ていたあの時代の自己認識。こういうものを、小林秀雄、福田恆存、竹山道雄、田中美知太郎、戦後の和辻哲郎その他、ここに出てくる方々を含めて、ちゃんと直視しただろうか。この会場に居られる多くの方は、今挙げた先生方を神様のように思っている方が多いでしょうし、私にとっても最も大切にしてきた人たちであります。

 戦前が正しくて戦後が間違っているというようなことでは決してありません。対立や区分けがそもそもおかしいので、ひと繋がりに連続しているということを先ず考えます。戦前のものでも間違っているものは間違っているし、戦後のものでも良いものは良い。それは言うまでも無いのですが。日本の歴史は連続して今日まで至っているのですから、戦後の保守思想の欠陥ということであります。

 小林先生、福田先生、竹山先生、先達たちにも何かが欠けているように私には思える。間違ったことは仰有っていません。不足感があるのです。戦後の迷妄の数々は見事に指摘して否定されましたが、戦後から戦後を批判する段階に留まっているのではないかという疑問であります。小林秀雄の有名なべらんめえ口調で言った「利口な奴は戦争のことをたんと反省すればいいさ、俺は反省なんかしないよ・・・」といった台詞は有名になりました。勿論良いのです。こういう言葉は素晴らしいのです。でも小林秀雄は戦争についてそれ以上のことは言わなかったのです。もう一度それを正確に言ったのは、「政治と文学」という文章の中でした。日本人は「正真正銘の悲劇を演じたのである。・・・悲劇の反省など誰にも不可能です。悲劇は心の痛手を残して行くだけだ。」と。これも良い言葉です。でも小林秀雄は常にそこで終わっているのです。皆さんそう思ったことはありませんか。福田先生も、私は福田先生と呼ばせて頂きますが、「『戦争責任』といふものはあるかもしれぬが、『戦争責任』論などといふものは、元来、成り立たぬ・・・」ということをはっきり仰有いました。そこは良いのです。でもアメリカにも戦争責任があったとは生涯通じて決して仰有らなかった。この件は雑誌「正論」2013年3月号に佐藤松男さんが「福田恆存、知られざる『日米安保』批判」という報告を書いておられまして、最晩年の福田先生が、はたと気がついたと、自分は親米ばかりではないのだよ、と気がついたという評論を書いております。大事な指摘だったと思います。

 戦後一世を風靡しました思想家はご両名以外たくさんおりますが、間違った内容は一言も書いておりませんけれど、あと一歩というところで口を噤んでいる。平板な敗北的平和主義は見事に彼らによって否定されてきましたけれど、何かが不足している。何だろうと考えることがあります。一つは「戦後起こった残虐事件」とされるもの。南京虐殺とかを代表とする旧日本軍による残行と言われるものについて、竹山道雄先生も福恆存先生も反論しませんでした。そして寧ろ弁解しました。私はお二人のそういった文章を読んでいます。外国人に突っ込まれて、日本人に足りない所があって、制度的にも遅れがあって、それでこういうことが起こっているというようなことを、福田先生も外国体験記があって、その中でアメリカ人に言われてそういうふうに答えています。つまりあの時の日本人は皆、お前たち日本人は劣悪な民族だぞ、残虐なことをしたんだぞ、と言われて反論できなかったのです。公的にも私的にも。それは同情すべきかと皆さん思うかもしれないけれど、私たちと違ってあの時代を知っていた人たちではないですか。私なんかは、もう知らない世代ですから、若くてね。あの時代を生きていた、現に見聞き、知っていた人ではないですか。「そんな馬鹿なことは無い!我が皇軍に限ってはあり得ない!」となぜ言い返してくれないのか。そういうことですよ。これは私が少しずつ不満に思っているところであります。林房雄は日本軍の残虐については一言も言わなかったですね。

 それからもう一つあります。戦後のこれら保守思想家は戦時中軍部に積極的に協力した知識人に対しておおむね否定的なのです。戦時中軍部に積極的に協力した知識人、誰でしょう。大川周明、平泉澄、山田孝雄、徳富蘇峰、それからここに名前は挙がっていませんけれど、仲小路彰といった人たちは東条内閣に協力した人たちでもあるわけで、彼らを徹底的に警戒して、彼らについて言及せず、彼らを好意的に取り上げたという例を見たことがありません。福田さんが確か好意的に山田孝雄を国語学として好意的に取り上げましたが、平泉澄とか大川周明のことは言わないですね。用心深く言及を避けているのです。全部徹底的に調べた訳ではありませんから一概には言えないのですけれど、これはおかしなことではないでしょうか。なぜならば、戦争中に戦争に協力者には下らない嫌な賤しい奴もいたが、立派な人もいたでしょう。違いますか。私は平泉澄なんかは立派な人だったと思いますし、仲小路彰なんかも立派な人だったと思っています。身を挺して危ない思いをしたのですから。

つづく

西尾幹二全集刊行記念講演会報告(三)

(三)

昭和のダイナミズム

 私がなにかに触れて好きな人、というくらいで並べてみたのですが、点線の上は昭和ではないからです。でもこういう流れでしょう。なぜこんな流れを考えたかというと、「江戸時代の継承」ということなのです。

 仏教の流れがあります。これはいちばん左の流れですね。それから儒教の流れは切れてしまいました。儒学の大家はいますが、吉川幸次郎にしても毛沢東礼賛に走ってしまう人たちで、中国研究家はおよそ尊敬に値しません。貝塚茂樹とか、宮崎市定とか大学者には違いありませんが、何で毛沢東礼賛なのでしょうか。外来思想としての儒学、つまり合理主義の面。これは西洋学がそっくり引き受けたというふうに考えて、これがその次の左側の五人です。それから国学は脈々と宣長の血統がありまして、私はこの三人だと思っているのです。折口信夫、橋本進吉、山田孝雄(やまだよしお)。最後の二人は国語学者ですけれど、本当に宣長の国語学を継承していますね。そして山田孝雄は国語学者だけではなくて、同時に宣長と同じ日本主義あるいは国学主義、国体論者です。

 その次の列は歴史家ということです。ところで歴史家にちゃんとした人がいるのでしょうか。私が好きなのは坂本太郎です、知っていますか。この人のものは何かと読みますが、良いですね。論じられるほどの材料は持っていません。ただ、読んでいないけれど密かに全集は持っています。そして問題は平泉澄(ひらいずみきよし)ですよね、これはすごい人ですね。それから右側はどちらかというと日本浪漫派。大川周明はちょっと違いますが。こういう文脈で言えるかどうかはちょっと分かりませんが、何となく分かるでしょう。でも「徳富蘇峰の流れ」というわけでは必ずしもありません。

 私は今申し上げましたように、昭和のダイナミズムは、江戸のダイナミズムを継承している、そういう風に理解しているのです。明治、大正はつまらないというのが私の独断と偏見でありまして、明治、大正を飛ばして江戸を継承して花を開かせたのは昭和の思想文化であると。そしてそれは、皆さんを含めて私たちが生きていた、目の前で見てきた人たちです。今、その時代が終わろうとしているのです。終わろうどころではない、もう終わっているのです。今さっきそこで新潮の元編集長と話しましたけれど、「もうあかん。文学は無くなっちゃった。」と言っていましたが、もう無くなってしまったのです。文学者というものがいなくなっている。芥川賞があっても、そんなものは何の証拠にもならない。

 つまり私たちが見てきた昭和のダイナミズムは、私たちが最後の目撃証人、皆さんはこういった人たちの本を買ったり読んだりしてきたわけだから最後の目撃証人で、これをもって日本は終わりとなりつつある。この後出てこないかもしれない、なにも起こらないかもしれないですね。そういう意味で、江戸で花開いた文化は昭和に花開いたのではないか、というのが私の仮説で、それで仏教の流れ、合理主義、西洋の流れ、それから国学の流れ、歴史、そしてその他日本浪漫派というようなことで考えてみたわけです。特徴は何れの人も全部というわけではないけれど、何れにしても古代復帰の願望を持っているということです。価値観が古代に傾いているということです。これは江戸時代と同じです。江戸は近代と古代の架け橋の時代であって、古代に傾斜した時代です。神秘主義ですよ、徂徠だって宣長だって。でも明治大正は神秘主義が一変に無くなっちゃう時代ではないですか。それでやっぱり昭和には古代復古、永遠というものの視座、時間を超えてゆくものへの視座。そういったものがこの人たちにはあります。そしてそれは江戸時代にもあったものです。合理化された明治、大正には無いのです。

 もう一つは西洋に学び西洋を越えるという視点がどの人にもある。皆西洋に学んでいます。国語学者でもそうです。国語学者だから国語だけやって、なんて人は誰もいませんよ。皆当然ながら西洋語も出来るし、平泉澄なんかすごい人ですよね。国史ですけど語学が達者ですごい人ですよ。だけど、ドイツ語もフランス語も英語もすごいですね。西洋を学び西洋を越える、という視点が皆ある。それが一つ。

 それから比較文明のというものの視座を持っている。やはり他の文明と自分を比較するという感覚はどの方もお持ちです。例えば鈴木大拙も仏教をどのようにして西洋に理解させるか、西洋人に理解させるか、というところからスタートしていますから。もちろん英語で仏教を語るということにおいて傑出していたわけだし。現実に比較文化、外来との緊張を持たない日本人はいなかったということです。

 私はここに柳田國男は入れていないのです。何かそういう大きな精神の流れの穴。それを欠落している人に見えるから。つまり西洋との闘いや西洋との緊張、それによって自分、日本をもう一回認識して・・・、というような問題意識から完全に離れてしまっている人で、私は全然魅力を感じません。私には、柳田國男は何を言っているのかよく解らないのです。正直言って私にはそうなのです。私にも解らない人は一杯いるのです。

 ここに挙げた人も皆解るわけではありません。この中でも好きな人もいるし、読んでもよく解らないという人もいるのです。例えば大川周明です。私は大川周明よりも平泉澄のほうがずっと解るのです。大川周明という人は、朱子学、儒学から出た人です。そうしてインド哲学が専門で、イスラム研究に入るわけですから。その間に大変な碩学で、いろんな日本の歴史も含めてやったわけで、巨大な思想家ですけれども。読んでいると何かピンとこないところがあり、言葉が分かりにくいのです。例えば平泉澄の言っていることはピンピン解るのですけれど、大川周明の言っていることは解らない。ということは例えば平泉澄はドイツ哲学があるから、基本に私には解り易いということで、大川周明が解りにくい、ということは多分そういうところなので、個人差です。こうなると普遍的なことを言っているのではなくて、私は個人差です。この中で和辻哲郎は好きだし、小林秀雄、竹山道夫、福田恒存、よく解るし、平泉澄も解る、坂本太郎も解る。でも大川周明、保田與重郎は解りにくいのです。私には非常に解りにくい人です。それは個人の好みだからしょうがないのですね。

 それからもう一つは「広角レンズ」になっているということ。言い方は変ですが、視野が広くなっているということ。これは明治、大正の人には無かった問題です。例えば大川周明の視野の広さというのは凄まじいです。ほんとうに何処まで行くのか分からないような、いろんな分野に触手を伸ばしています。他の人も含めてそうです。和辻哲郎の博覧強記には唯々驚くわけですが、どなたも皆視野が広くなっている。

 それに対して、そんな視野なんか広げたって駄目なのだと、小林秀雄なんかが言おうとして自我を逆の方向に持っていこうとするようなのもあります。敢えて博識というものに挑戦して、純粋自我という所に自分を持ってゆこうとする。そういうような人もいるけれど。しかし小林秀雄の視野が狭いというわけでは勿論なくて、非常に広いですよね。

 つまり、いろいろな意味でこれらの人たちは新しい時代と、そして再び言いますが、比較文明の意識、西洋を学んで西洋を越える、広角レンズ、古代復帰への意思、永遠への視座をもっている。そういった意味で江戸の思想と繋がっていてそれを復活させていると。そういう側面がある。仏教、国学、この人たちにみんな繋がっていますから。そういう私としての感想を最初に述べておきます。私はこれらの人の個々の思想について今お話しすることはとても出来ないのですが、いくつか言わなければならないことが残っておりますので、お話ししたいと思います。

 昭和のダイナミズムと称して、これは戦前も戦後も境を設けておりません。つまり戦前も戦後もひとつです。これを何で線引きするのか私には理解できない。明治維新もそうです。維新で線引きして何も良いことはありません。維新の前後は繋がっているのですから。それは文学史だってそうです。全部繋がっています。それは繋いで考えるべきだし、昭和も繋いで考えるべきだと思うのです。少し例を説明しますと、昭和10年代の言論の世界というのは非常に盛んであったということを皆知らない。出版界も大変活力を帯びていた。戦争前夜です。まるで自由のない言論封圧の時代だと思われるのは大間違いで、確かに戦前に正統と思われなかった思想は、戦後抑圧されたかもしれない。しかし戦前には戦後とは違った戦前に特有の活発な言論活動があったということを言いたいのです。時流に投じたベストセラーもありました。百何十万部などというベストセラーもありました。

 戦前に正統と思われなかった思想が、戦後息を吹き返したのは当然ではありますが、今度は逆に戦前に正統と思われていた思想が抑圧されてしまい、ずうっと今日に至っているというのはやはり不自然ではないでしょうか。敗戦で日本の全てが変わったという錯覚を与えているのはGHQです。日本人にとって自分が生きてきた時代の思想を他人の手で捥ぎ取られたり、捨てられたりする理由はありません。

つづく

西尾幹二全集刊行記念講演会報告(二)

            (二)

 では江戸時代までの日本は何であったか。「日本は世界で最もイデオロギーを持たない民族である」ということす。日本は「神仏信仰」の国です。「生き神」と「超越神」、政治的なことは神道で良いのですが、私たちの生死のこと形而上的、実存的な問題で仏教が大事なものとなります。
インドの地に興り発展した仏教ですが8世紀の密教に至りインドの地から忽然と消えてしまいました。仏教そのものが消えてしまったわけではなく、ネパール、インド、中国、そして日本やタイにそれぞれ伝播して根付きました。たいへん珍しい宗教です。したがって仏教にインド文化の強制的なイデオロギーなど何も無いのです。ところがキリスト教は正反対で、イスラエルの地での神学的な展開はありませんでしたがローマを経て、後の時代ヨーロッパで大きな神学的展開を遂げました。
 仏教は背後にイデオロギーや政治的なものが何も無く非政治的な宗教とも言えます。そうであったからこそ日本人が抵抗なく入ってゆけたのだと思うのです。

 また、江戸時代は儒学が盛んであったと言われますが実際は異なります。儒教は皇帝制度や科挙等の官僚選択機構による統治の仕方や、財産贈与の仕方、厳格な血統主義、喪に服す期間、火葬を禁じていたことなど、政治から習俗風習まで、中国のイデオロギーと密接に結びついています。ところが江戸の儒学は儒教を非政治化つまり中国のイデオロギーと密接な部分を排除しました。江戸の儒学者は大思想を展開したとも言われますが、実際儒学を学ぶものは少なく、身分にしても中国の儒者が支配階級であったのと全く対照的に、侍が支配階級であった日本の儒学者の地位はかなり低いものでした。

 朱子学についても、江戸時代の朱子学はかなり違うものになってゆきます。朱子学を超え朱子学否定になってしまいます。
中国の儒教では社会関係を決めたり人間の価値観を決めるとき、どうしても道徳主義になります。ある皇帝が立派だったのは、道徳的に立派だったから国がよく治まった。しかし治まらなかったとしたら、それは道徳的に欠陥があったのだと。政治の帰趨というものをそういう価値判断にする。水戸学でも前期水戸学の儒教の影響を受けている時はその傾向が強かった。じつはヨーロッパでもゲーテが、フランス革命が起きたのはマリー・アントワネットが贅沢しすぎたから、などと言ったり、道徳を基準に歴史を考えるということはあります。
 しかし荻生徂徠をはじめとする反朱子学、反儒学は違う考えを持ちます。荻生徂徠は、道徳観念を否定して、孔子も論語も尊重すべきところではないとします。礼楽制度を作った堯舜といった古代の名君こそが聖人で、この聖人が言行を記した古典を正確に理解することが儒教研究の大本とします。「孔子はまだまだ駄目だよ。」と言いたげなところが徂徠にあるので、江戸時代には何と不遜な男かと叩かれますが、そこが面白いところです。徂徠は聖人とか聖者を打ち壊すのが平気で、ニーチェのような人に思えます。
 中国古代の聖人、堯舜時代の「先王の道」を理想化した徂徠は、周の時代の封建社会を理想として秦の始皇帝が中央主権国家を作って封建社会を毀してから後の中国はもう駄目になった、そして寧ろ家康の創った徳川社会の封建社会こそ理想に近いのではないか、ということを考える。何故なら封建社会は人民と君主が肌触れ合って生きる、何代にも亘り明君、所謂仁愛を施すことが出来るわけです。
ところが中国は封建社会ではなく郡県制度。「官吏」といい、「官」は長官のことで、「吏」は地方の官僚のことです。実際に政務の実務を司るのは「吏」、地方役人、小役人ですが、「官」というのは長官、つまり科挙の試験を合格して三年に一回ずつ回り、何をするかというと何もしないでいいのです。官は歌を歌い楽器を鳴らして、詩を詠んで毎日を過ごす。でも、お金はどんどん入ってくる。そして賄賂を貰うのは当たり前、貰わなければ何のためにやっているのか分からない。そういうシステムです。
 吏は法に縛られますが、官は法に縛られず、礼によって縛られます。「礼」は自己決定、悪いことをしても分からなければそれきりです。ただし、皇帝に呼び出されたら一生の終わりです。それこそ習近平に呼び出されて、牢屋に入れられ、昨日まで滅茶苦茶なことをやり続け・・・、習近平も同様でしょう。そっくり昔と同じなのです。
 「仁」という孔子のいったような君主と民衆がよき仲。日本の封建制度での名君は、常に肌触れ合う親愛の情の中で生きるということで、飢饉が来れば米蔵を開けるだろう、というようなことです。それこそが正しいあり方なのに、徂徠は皇帝制度になってから中国は駄目だというのです。そして善悪ではなくて先王の道、礼楽の制度を作った。「制度」という観念が徂徠によって始めて歴史の中に導き入れられて、「道徳」よりも「制度」を上に位置付けた。人間を動かしているのは制度であって道徳ではない。極めて社会科学的な発想が生まれ近代的な感覚が勃々と生まれました。江戸の儒学の秀れた部分は日本的であり、徂徠の脱朱子学をいい例として、「日本的なるもの」を確立する媒体となったのです。
 江戸時代に朝鮮通信使が日本にやって来たとき、初めはいい気になって朝鮮人は日本人に教えていましたが、ある時日本人が変わってきたことに気付きます。徂徠学がはじまっていたのです。日本人は近代化に向けて走り出していたわけです。しかし朝鮮人は日本人の考えから学ぼうなどという気は全くないので、何だか訳が解らなかったのです。そういうドラマがあり、江戸の中期頃から徐々に近代化が始まっていた、意識の変化があった。分かりやすく言えば中国儒教を日本的なものにしたのです。

 日本は成熟した江戸時代に中国と自己との相違を強く意識して論理的にも超克したのですが、その対中国に腐心しすぎて対西洋を盲目にしてしまったのかもしれません。
 近代日本は、中国も朝鮮も入ってこずに単独で欧米諸国と対決することになりました。19世紀に不平等条約を強いられる形で開国しましたが、それを解決するために一歩一歩力を注いで日清、日露の戦役を通じて解消していったのですが、日本は一国ですべての国を相手にしなければいけない局面でした。それは最初から負けている状況でした。それを承知で、その後も零戦を造ったり特攻隊を出したりして何とか戦ってきました。他者を常に意識して、世界が自分の思い通りにならないことに直面してそれを自覚する。過去においても、また最近の金融戦争も同様です。
 一方中国は、1920年代から不平等条約の撤廃を要求し始めて、1931年に条約の無効を一方的に宣言して、受け容れられないとなると排外運動を始める。一歩一歩立場を高めることなしに状況を一変に突破しようとする姿勢は今日も変わることがありません。

 イデオロギーに凝り固まった典型として、呉善花氏との対談本、祥伝社新書の「日韓悲劇の真相」に、イデオロギーを持たずに生きる日本人の姿勢を韓国人はどうしても理解できず結果的に許せないという日韓の歴史観を含む価値観の絶望的な相違、先述の中国によくある「排外運動」については、韓国は力が無いだけで力を得たら中国以上のことをするであろうこと、民事訴訟の件数は人口あたり日本の60倍ということで、何かあればすぐに訴えて自分がいかに正しいかを捲し立てる人が非常に多く、勝負どころはいかに相手を圧倒するかであること、などいろいろと厄介な話を紹介しています。
 しかし、呉善花氏の日本擁護、韓国批判は彼女ご自身の壮絶で徹底したな自己犠牲のうえに切り拓く「ご自身への実験」のようなものです。そのような呉善花氏に私たちが簡単に甘えてしまうのは疑問で、またとても可哀想でならないという気持ちも本に込めています。

 日本列島の周りの海流は非常に速く大型船が出来るまで容易に近づけなかった。したがって古来より人を含む多くのものが渡ってきましたがそこから外へは出て行かない。争わずとも自我を保てたので、戦い自己主張する自我が育たない。何でもかんでも包摂しつつ黙って選択する。古いものを大切にするので、例えばすべての時代の仏像が残っている。そういう意味での驚くべき主体性は、日本人の素晴らしさの一面ではないかと思います。長い時間をかけて多様性を積み重ねてきたのが日本文明で、貯水池のような文明、世界の諸文化の集合地とも言われます。己を小さくして、個我を滅却して学ぶ、日本人の大切な一面ですが、一方そのために自分を見失うところまで行ってしまう愚かな一面もあります。日本は「他者に負けなければ生きてゆけない国」であるとも思えます。

 自らを閉ざしていた江戸時代、熟成した思想や精神は「江戸のダイナミズム」を形成しました。しかし西欧からの激震に喘いでいた次の明治、大正期はどこかに無理がありました。「昭和のダイナミズム」は、維新や敗戦を切れ目とはせず、「広角レンズ」のように世界に大きく視野を広げた精神や思想の躍動です。最初にも述べましたが、のんびり過ごしている70年間、私たちの経験を足場にもう一度歴史感覚を見直してみれば、ものの見方も変わってくるのではないのでしょうか。

つづく

西尾幹二全集刊行記念講演会報告(一)

           (一)

西尾幹二全集刊行記念講演会
「昭和のダイナミズム」-歴史の地下水脈を外国にふさがれたままでいいのか-

 拙著『江戸のダイナミズム』を前提に、江戸時代に熟成した日本の言語文化は明治・大正期に西洋からの影響で一時的にぐらつき、昭和期に入って反転し、偉大なる「昭和のダイナミズム」を形成した。ここでいう「昭和」は戦前と戦後を一つながりとみる。戦争に向けて「昭和文化」は高揚し、世界に対し視野を広げ、戦後も二、三十年間はその余熱が続いた。明治維新も敗戦も切れ目とは考えない。歴史は連続している。興隆と衰亡の区別があるのみで、歴史は維新や敗戦で中断されて姿を変えたと考えるのは間違いである。

西尾幹二

平成27年9月26日 
於 グランドヒル市ヶ谷 瑠璃の間
報告者 坦々塾会員 阿由葉秀峰

 この度の報告文につきまして前半(一)から(二)「序章」は、報告者阿由葉による「要旨のまとめ」とさせていただき、ご講演約二万字の分量を半分弱にしました。ご容赦ください。また、(三)から(五)の「昭和のダイナミズム」につきましては、ご講演をほぼ文章化した体裁での報告とさせていただきます。

序章

 最初に過日出された安倍総理の戦後70年首相談話に因み、「70年」という時間をきっかけとして終戦の昭和20年(1945年)から平成27年(2015年)の70年、そして明治維新(1868年)から昭和13年(1938年)つまり開戦前夜の70年、という二つの時間の比較を試みます。
 敗戦から今日までの70年間、私達の生活もそして国家の歴史も起伏も無く過ぎ去った感があります。そしてその前の僅か三年半の戦争について、反省や論争に明け暮れました。1938年は国家総動員法が公布され、東京オリンピックが返上され、近衛首相が「蒋介石を相手にせず」と言い切った年で、あっという間に戦争に突入した時代です。日本人は生命が安全だったこの長い70年間より、寧ろ生命を脅かされていた三年半の体験にひたすら生命感を覚えていたという皮肉な歳月を過ごしてきました。
 試みに明治維新に10歳で、昭和13年に80歳を迎えた「架空の翁」の生涯を当て嵌めてみると、彼の生きたその激動の70年間は、感じられる時間の長さ、厚み、慌ただしさ。「今日までの70年間」とはあまりに違います。明治、大正、昭和を生きた翁の数はきっと稀で貴重な人生を歩まれたとして、その感慨は大きなものでしょう。
 同じ70年といっても、とても同じ時間ではありません。例えば退屈で無為な時間はその中に居るととても長く感じるものですが、後になって思うととても短くあっけなく感じるものです。しかし短期間でも充実した時間、例えば生まれて初めて1ケ月の海外旅行などその時間は瞬く間に過ぎることでしょうけれど、再び平凡な日常に戻るとその時間がとても長く感じるものです。
 また明治維新から更に70年前は1798年(寛政10年)、松平定信の寛政の改革の5年後です。ペリー来航など未だ半世紀も前のことです。西欧に目を遣ればフランス革命からナポレオン戦争を経てアメリカが独立に向かう時代です。あっという間にも感じられた70年という時間を僅か三倍しただけでそういうことになるのです。私たちが如何に時間の錯覚の中で生きているかということです。

 半ば国を閉ざし平和でのんびりした江戸時代、そして私たちの過ごした戦後の70年間。その狭間の70~100年、日本近代は外来文明にあまりに短期間のうちに襲われ、今の私たちには想像もつかないほどの激震に襲われて喘いでいた時間でした。
激動期の苦労を偲べば、そこに先達への同情の気持ちはあります。しかし激震であったが故、慌ただしいが故に、盲点に気付かぬまま選択判断を誤ったことが沢山あったことでしょう。福沢諭吉、中江兆民、岡倉天心、内村鑑三ら明治の考慮すべき思想家は世界全体が見えていたのでしょうか。人はよく「明治の偉大さ」を言いますが、果たして当時、西欧の抱える闇の面をも見えていたのでしょうか、当時の世界を観る日本人の目は単眼に過ぎなかったのかもしれません。それほど偉大な精神や思想が成熟した時代であったとも思えません。
江戸時代はゆったりした時間の中で成熟した価値観を獲得した時代でした。そしてのんびり過ごしているこの戦後70年間。そこで育んだ経験や価値観を再評価して、それを足場に明治以降の歴史や戦争の歴史を見直すことが寧ろ必要なことではないでしょうか。

14回を数える雑誌「正論」への連載「戦争史観の転換」では、近世ヨーロッパの日本侵略への道のりを500年遡ります。古来ヨーロッパはイスラム世界に圧倒され続け、中世にモンゴルが攻めて来た時でさえモンゴル軍と妥協してでもイスラムを討ちたいという野望がみられます。キリスト教と同じ根に持つイスラム教は最大の敵で、異質なモンゴルは妥協できたのです。今日でこそ死闘を演じ続けているイスラム社会ですが、嘗てはイスラム世界の方がずっと寛容でした。そしてキリスト教徒は遥かに暴力的で非寛容でした。
中世から近世ヨーロッパの三要素に「信仰、暴力、科学」があり、特に「科学」の出現によりヨーロッパは勃興しました。たとえば内に魔女狩り、外に十字軍いとう「暴力」。そして16世紀の初頭に始まるコペルニクス、ガリレイ、ケプラー、ニュートンらの「科学革命」。それらを積極的に推進したのはキリスト教会です。それは信仰の「光と闇」の二面性ともいえます。
聖書にはいろいろと矛盾した非科学的なことが書かれてありますが、プロテスタントの急進派であるカルヴァンは、科学の発展の妨げとなる聖書の曲解を止めるよう頻りに言いました。原理主義者ともいえるカルヴァンが自然科学の囚われの無い自由な思想の推奨を代表していたのは不思議なことです。意外なことにニュートンは、ピューリタン革命の源思想とも言うべき千年王国論の信者で「ダニエル書と聖ヨハネの黙示録の予言に関する考察」という論文を著わしています。

コペルニクスらの天文学を巡るドラマは、今日では純粋な自然科学の問題として理解されています。しかしダーウィンの「種の起源」だけは、アメリカでは否定されて大きな教育上の問題でもあり続けています。ヨーロッパはすっかり醒めている問題ですが、アメリカは前近代的といえます。科学とキリスト教の絡み合いは一体何なのか、とても謎めいていて複雑な問題です。
ヨーロッパはもし信仰と暴力だけだったらとっくに駄目になっており、科学によって救われ、将来的には大きな覇を唱えイスラムにも打ち勝ったといえます。しかしそれは、ずっと後のことなのです。裏で圧倒的なイスラム世界という外部勢力におびえ続けた劣等感の歴史があったのです。
科学は根元では宗教と一体をなしていたといえますが、日本人が迎え入れたその科学は、「窮理の学」という合理性を強く希求する朱子学の概念のひとつとして江戸時代後期頃から迎えられました。

南北アメリカの新大陸の発見は、キリスト教の終末思想などで逼塞した状態の自己救済への道であったといえます。新大陸発見という未知の空間の出現「新大陸幻想」は、ヨーロッパキリスト教世界に途方もない好奇心を掻き立て、そこに全文明を傾けて立ち向かいました。以降400年に亘って地球全体にラインを引いて分割占拠に熱中してゆきます。
ヨーロッパは日本の僅か明治維新の直前頃までオスマン帝国というイスラム世界に圧倒され続けたのですが、そのヨーロッパに圧倒的な影響を及ぼしているイスラムを明治、大正の日本人はまるきり意識しませんでした。そのイスラムが日本人の思想界に初めて登場したのは大川周明(1886~1957)です。7世紀から17世紀までの約千年間地球を支配していたのはイスラム世界なのに、これはおかしなことです。
日本が明治維新で国を世界に開いたとき、キリスト教とイスラム教の勢力均衡の世界は見えていませんでした。イギリス、フランス、プロイセン、オーストリア、ロシアという五大一等国の価値観、つまり万国史の名を偽ったヨーロッパ史や万国公法の名を偽ったヨーロッパ国際法学という基準を「普遍的な理想」としてしまったことに明治日本の大きな問題があります。

日本の立ち上がりは明治維新と日清日露の戦役ではありません。秀吉の朝鮮出兵、支倉常長の欧州偵察外交、シャム(タイ)に渡った山田長政等かなり早い時期です。倭寇が海賊というなら、ポルトガル、スペインも同じで、ヨーロッパのが力は一段上で、特にイギリスの海賊は圧倒的な力を誇りました。ヨーロッパも日本も海に躍り出る願望に共通するものがあったといえます。しかしヨーロッパにあって日本に欠けていたもので、歴史家が見落としているものとして、「自己救済への道」としての南北アメリカ両大陸への「新大陸幻想」があります。ヨーロッパが全文明を賭して立ち向かう「新大陸」について、日本は同じような政治的企ても予感もありませんでした。それは最大の欠点であったといえます。

ヨーロッパ、キリスト教の「千年王国論」の延長にアメリカはあるといわれますが、その「千年王国論」とは何なのでしょう。
まず神が地上に再臨して激しい争いと変革、戦争が起こり、その後に幸福な王国が訪れて、それが千年間続く・・・、というプロテスタントの革命的な思想です。因みにそれを世俗化、通俗化したものが、プロレタリア革命が起こり、その後至福の無階級社会が来るという「マルクス主義」です。何れにしても原理主義的な革命理論です。アメリカはこの過激な千年王国論、ピューリタン革命に引き摺られて出来上がった国家ということです。そしてアメリカは産業が豊かになり富が行き渡ると穏やかになるのですが、ひとたび危機が訪れると千年王国論が出現します。第二次世界大戦のときもそうでした。

以上ヨーロッパからの歴史的経緯、アメリカ「新大陸」のイデオロギーを考えてみると、いかに日本と無縁であるかが解かるかと思います。そして日本を短期間に襲った激震について、戦後保守の本を読んでも、何か日本の遅れや政治的な間違いであったり、封建制でどうだったとかいう弁解が頻りに言われますが、襲ってきたものが余りに大きく、そのため周章狼狽していたのです。だから日本の責任など殆ど何もないように思えます。

西尾先生への手紙

ゲストエッセイ

 中村 敏幸 坦々塾会員

西尾幹二全集第十二回配本記念講演会
 「昭和のダイナミズム」―歴史の地下水脈を外国にふさがれたままでいいのかー
 に対する感想文(西尾先生宛て書簡)

 前略にて失礼致します。
 九月二十六日の御講演「昭和のダイナミズム」に対する感想の件、所用が重なっており遅れてしましましたが、以下のとおり御報告申し上げます。

 同日同時刻に他に三つもの催し(井尻千男さん追悼会、高山正之さん講演会、山田宏さん激励会)が重なってしまったにもかかわらず、約二百五十人の方が聴講に訪れ、大盛況であったと思っております。中でも懇親会参加者は講演会の受付段階では四十名弱でしたが、先生の御講演を聞いて懇親会参加を決められた方が多数出て、結果的に五十六名(過去最高)の方が参加され、懇親会も大いに盛り上がり、続く二次会にも三十名(これも過去最高)の方が参加して下さいました。

 今回の御講演の意義は何と言っても、明治は西洋への対峙に追われて思想的には見るべきものがなく、ゆったりとした時代に育まれた「江戸のダイナミズム」を継承したのは明治ではなく昭和であり、「昭和のダイナミズム」の存在意義を知らしめることにあったと思いますが、懇親会や二次会の場でも多くの方々がそのことに言及しておられましたことから、今回の御講演は大成功であったと思っております。

 我が国では保守と称する人達の中に、司馬某や昭和史家と称する徒輩の台頭によって、「明治は偉大であったが、昭和は世界の大勢を見失って、愚かな戦争に突入した暗黒と失敗の呪うべき時代である」との史観?に毒されている輩が多数おりますが、この歴史認識こそがGHQによる焚書と公職追放によって記憶を奪われ、WGIPによって自虐史観を刷り込まれたことに起因して生じたものであり、日本が日本を取り戻すためにはこの歴史認識を払拭することが必須課題であり、「昭和のダイナミズム」の存在意義を知らしめることが益々重要度を増していると思います。

 また、今回の御講演で聴講者に感銘を与えたのは、先生が「正論・七月号」に続いて今回の御講演でも述べられた、「戦後を代表する保守知識人であった小林秀雄も福田恆存も、反省して歴史を変えられると思っている人の愚を戒めることにおいては峻厳であったが、そこに止まっていて、戦争責任はアメリカにもあったとは生涯通じて決して言わなかった」ということであり、聴講者の多くが「今まで気付かなかったが確かにそうだ」と考えるに至ったと思います。

 この問題について、私は「正論・七月号」の御論稿を拝読してから、彼らは占領期間中ならいざ知らず、何故主権回復後も言わなかった、或いは言えなかったのかを考えてまいりましたが、その理由を私なりに次のように考えております。

 ①GHQによる占領政策が余りにも巧妙であり、占領中も主権回復後も我が国の言語空間ではアメリカの戦争責任はもとより、日本の正当性を主張することもタブーとなっており、とてもその様な事を言える状態ではなかった。
②日本軍による残虐行為についても当時は反論するだけの研究材料に乏しく、一部の保守知識人の間では、戦前の我が国の正当性を体験していたにも拘らず、占領工作に洗脳されて、非は日本に在り、実際に残虐行為が行われていたと考えるに至っていた。詩集「大いなる日」で英米と蒋介石の非を詠った高村光太郎も戦後は自らを暗愚であったと言って花巻の山小屋に籠って一切の活動を停止してしまった。
 ③戦いは昭和二十年八月十五日で終わったのであり、終わったことを今更とやかくいっても仕方がないと思い、かつアメリカの国策が日本を自虐史観に封じ込めて従属国家にし続けることであることを直視せず、戦う姿勢を失っていた。
 ④漸く近年に至って、「南京大虐殺」も「従軍慰安婦」も「バターン死の行進」も虚偽捏造の反日プロパガンダであることが立証され、反撃の機運が盛り上がってきたが、それまでに七十年近くを要し、漸く言語空間もそれを受入れる状態になりつつある。

 先生の「正論」に連載中の「戦争史観の転換」が第一ですが、竹田恒泰氏も「Voice」に「アメリカの戦争責任」を連載しました。しかしこれが十年前であれば「正論」も「Voice」も掲載を受入れたか否か・・・疑わしいものがあると思っております。

 次に先生は、「私たちが見て来た『昭和のダイナミズム』は私達が最後の生き証人であり、この後は出て来ない。文学は無くなってしまった」と仰いました。確かに昭和の終わりと前後して文壇が終焉を迎え、文芸作品は生まれなくなってしまいましたが、文芸作品が生れないということは日本はもう終わりということになり、私は「この後はもう何も生まれない」とは考えておりません。記紀万葉の時代から連綿として続いた我が国の文芸の歴史の中ではそれはほんの一時期のことに過ぎず、地下水脈として流れ続けている民族精神・民族文化が湧出する日が必ずめぐってくるものと信じる者であり、またそうさせなければならないものと考えております。

 以上とりとめのない感想になってしまいましたが、日本が日本を取り戻すためには「昭和のダイナミズム」の顕現は必ず達成されなければならない課題であり、これを実現できるのは貴先生をおいて他に無く、貴先生の一層の御健勝を切にお祈りする次第です。
                             
                                         拝 具

    平成二十七年十月六日

                        中村敏幸

     西尾幹二先生
          侍史

追伸
 今回の御講演とは直接関係がありませんが、先生のレジュメの中に蓮田善明と三島由紀夫の名前が記されておりましたので以下のようなことを思い起こしました。

 それは小高根二郎氏の著作「蓮田善明とその死」によれば、三島氏は昭和二十年十一月十七日に催された「蓮田善明を忍ぶ会」に参加し、後日出席者の感懐をまとめた「おもかげ」と題した冊子に、墨痕あざやかに次の詞を投稿しており、三島氏は自決に当って蓮田善明の自決のことが心の奥底にあったのでないかということです。
   
 古代の雲を愛でし君はその身に古代を現じて雲隠れ給ひしに
 われ近代に遺されて空しく靉靆の雲を慕ひ
 その身は漠々たる塵土に埋もれんとす
                      三島由紀夫

 また、小高根氏の著作の「序」(昭和四十五年三月五日初版)に三島氏は次のように書いております。

 「予はかかる時代の人は若くして死なねばならないのではないかと思ふ。・・・・・然うして死ぬことが今日の自分の文化だと知つてゐる。」(大津皇子論)
蓮田氏の書いた数行は、今も私の心にこびりついて離れない。死ぬことが文化だ、といふ考への、或る時代の青年の心を襲つた稲妻のやうな美しさから、今日なほ私がのがれることができないのは、多分、自分がそのやうにして「文化」を創る人間になりえなかつたといふ千年の憾みに拠る。(中略)。
 それがわかつてきたのは、四十歳に近く、氏の享年に徐々に近づくにつれてである。私はまづ氏が何に対してあんなに怒つてゐたのかがわかつてきた。あれは日本の知識人に対する怒りだつた。最大の「内部の敵」に対する怒りだつた。
 戦時中も現在も日本近代知識人の性格がほとんど不変なのは愕くべきことであり、その怯懦、その冷笑、その客観主義、その根無し草的な共通心情、その不誠実、その事大主義、その抵抗の身ぶり、その独善、その非行動性、その多弁、その食言、・・・・・それらが戦時における偽善に修飾されたとき、どのやうな腐臭を放ち、どのやうな文化の本質を毒したか、蓮田氏はつぶさに見て、自分の少年のやうな非妥協のやさしさがとらへた文化のために、憤りにかられてゐたのである。この騎士的な憤怒は当時の私には理解出来なかつたが、戦後自ら知識人の実態に触れるにつれ、徐々に蓮田氏の怒りが私のものになつた。そして氏の享年に近づくにつれ、氏の死が、その死の形が何を意味したかが、突然啓示のやうに私の久しい迷蒙を照らし出したのである。(中略)
 雷が遠いとき、窓を射る稲妻の光と、雷鳴との間には、思わぬ長い時間がある。私の場合には二十年があつた。そして在世の蓮田氏は私には何やら目をつぶす紫の閃光として現はれて消え、二十数年後に、本著のみちびきによつて、はじめて手ごたへのある、腹に響くなつかしい雷鳴が、野の豊穣を約束しつつ、轟いてきたのである。

 自決された年の初め頃に書かれたと思われるこの文章を改めて読み直し、三島氏の、内なる敵はもとより、戦う姿勢を有しない戦後の保守知識人に対する怒りが伝わってまいりました。

 三島氏から見れば、小林秀雄も戦う姿勢を失った極めて高尚な趣味人にしか過ぎないと映ったのかも知れません。

『日韓 悲劇の深層』(四)

まえがきより

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 もちろん今の呉さんがこれをそのまま信じ主張しているということではない。韓国人の心の深層にある対日心理を摑み出してみると多分こういうことになるだろう、と言っているのである。日本ではたくさんの韓国論が書かれてきたが、韓国人の立場に一度は徹底的に立ってみるということを、必ずしもしていない。

 韓国から再入国を拒否されている呉さんこそが、じつは真の愛国者なのであって、それだけに精神的に股裂きにされているこの思想家の「悲劇」には、格別の注意を払うことが、われわれ日本人には必要である。奥深いところにある心の襞をていねいに吟味し、公正に判断していくことが、有益である。呉さんは苦難の半生を歩み、今では日本人として文化の立場に徹底的に立ってみようとなさっている。我々はそれに心地良く酔い、甘えてはならない。それは生命を賭けた「実験」であり、簡単な話ではなく、日本人は深窓の心の葛藤にこそ目を向けるべきである。

そう思っていた私は、再会の折、ご講演の中の「日本人には精神の軸がない」の真相をもっと詳しく知りたい、またそれに対し私の所見も述べたい、と申し上げた。そしてそれなら二人で対談本を作成したらどうであろうか、とどちらが言うまでもなく話し合いがなされ、合意に達した。本書はこうして生まれたので、起点となったご講演「『恨』と『もののあはれ』」を巻末に付章として添えることを私は提案し、それが実現したことは嬉しい。講演の内容はヒントに富み面白いので、ぜひご繙読(はんどく)たまわりたい。

『日韓 悲劇の深層』(三)

まえがき

 私は、私の読者を対象にした、ある勉強会を主宰している。そこで2014年10月に呉善花(オソンファ)さんに講演をしていただいた。その内容は体験的であると同時に歴史に目の行き届いた示唆に富み、日韓関係について思いがけない未知の方向から、考えてもいなかった観点を突きつけられ、私は足をすくわれるような感覚を味わった。

 日本人というのはまったく分らない国民で、日本人の精神の軸、そう呼べるものがいったい何なのか、どうもはっきりしない、韓国人にとってはそれが謎であるだけでなく不安の原因なのだ、という意味のことをおっしゃった。

 韓国は朱子学の儒教社会であり、これが軸といえるだろう。日本人は神道なのか武士道なのか仏教なのか、いったい何だ?ほかにもあるかもしれない。韓国人はそこで戸惑ってしまう。八百万(やおろず)の神々というが、太陽であったり樹木であったり、自然を敬うアフリカ人なら分かるが、いやしくも文明国であってはならないことだ。どういう精神性なのか、ここで韓国人は困ってしまう。頭が混乱するだけでなく、許せないということになる。韓国では先祖以外のものを拝むのは迷信の部類である。

 日本の室町時代の頃、韓国は仏教も陽明学も棄てて朱子学だけを大切にするという転換を行なった。文治主義の徹底化を図った。ところが日本では、これ以後も野蛮な武士の戦いがいっこうに収まらない。どうにもならない国だ、と自分たちの先祖は考えた。日本人には価値とか道徳がない。こう述べた後、呉さんは次のように語っている。

 「デタラメな基準で生きている日本人はこれ(真の価値)が理解できないから、いつも頭を叩いておかないと彼らは何をするか分らない。考えを変えてしまう。常にきちんと教え込んでおかないといけない。韓国人が言うところの『歴史認識』とはこれであって、双方の国民がそれぞれ意見を主張しあって互いに歩み寄る、というものでは決してないのです。日本人がやることは韓国が主張するものを受け取るだけ。反論や異論などとんでもない。繰り返し繰り返し、韓国の言うことを、日本人は心して聞けということです」

 そしてこう述べた後、韓国の現在の朴槿恵(パククネ)政権は戦後いちばん外交で成功しているという評価を国内では得ているのです、と付け加えた。

『日韓 悲劇の深層』(二)

10月3日 宮崎正弘の国際ニュース早読み 4671号より

朴権恵は「前代未聞の反日政権」と呉善花さんが言えば、
  「日本人は反省しすぎるんです」と西尾氏

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西尾幹二 vs 呉善花『日韓 悲劇の真相』(祥伝社新書)
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 いまの日韓関係は「史上最悪」、すべての原因は韓国の狂気ともいえる反日感情と行動にあるが、だからと言って国交を断絶するわけにも行かず、日本外交の転換が試される状況にある。韓国の世論を日本から判断すれば、ほとんど狂気の沙汰である。
 本書にはこういう会話がある。
 西尾「日本は古いものを大事にするので、すべての時代の仏像が残っています。前代のものはほとんど破壊してしまう中国文明に対して、日本は神話を始め、すべからく大事に保存する文明です」
 呉 「日本文化は『和合』『融合』を軸にして形成されてきた、ということが分からないと、とても理解できません。中国や朝鮮半島の文明は『対立』を軸に文化国家を形成して来ましたから、その目で見る」(中略)「他者との向き合い方が、とにかく対抗的、敵対的なわけです」
 西尾「北朝鮮の異常さと韓国の異常さは、かつては別のものと考えていましたが、しかし最近はどこか同質な一面があるのではないかと思っています。たとえば北朝鮮の独善性と、韓国の『対他者意識の欠落』は、よく考えてみると、じつにそっくり」
 呉 「韓国を知るには北朝鮮を見ると分かりやすい、韓国を極端にしたのが、北朝鮮」。

 いやはや本質をすばり抉り出す語彙が次々とお二人から機関銃のようにでてくる。他者を意識しないジコチュウがここまで高まると手に負えないともいえる。
 だから韓国の政治家らは世界中が日本が悪いと認識していると一方的に思いこんでいるわけで、ところが韓国大統領が西側に「告げ口外交」に行くと、ハナから馬鹿にされる。韓国の社会とは「分裂抗争が拡大増幅する社会だ」と呉さんは指摘する。
 西尾氏が続ける。
 「韓国は『日本は反省していない』と言いますが、日本人は反省しすぎるんです。愚かと思えるくらい反省する国民です。これほど反省ばかりしている日本を、『まったく反省しない国』と言いつのる韓国は、いったい何処を見ているのだろうと、不思議でなりません」。
 対して呉さんは、韓国人ジャーナリスト等は「日本がアジア解放に大きな役割を果たしたという評価が世界にあることは知っています。しかしそうした評価は、彼らとしてはあってはならないものです」

 日本に留学前まで、呉さんは「韓国が日本から大規模な経済技術援助を受けていたなど、まったく知りませんでした」と率直に告白するほどに、韓国の教育現場もマスコミは身勝手なのである。
 かくして二人の話題は縦横無尽に朝鮮半島に関してのあれこれを話し合う。
 とくに呉善花という稀有の思想家がいかに形成されてきたか、西尾氏は当人に鋭角的な質問を浴びせつつ、両氏の文化文明論が会話の随所に加わるので、それだけでも読書の醍醐味がある。

さて評者は、この本を読みながら、過去半世紀の個人的な韓国との関わりを連想していた。
最初に韓国を取材したのは1973年だったと記憶するが、一週間ソウルに滞在し、毎晩のように閣僚らとも懇談した。金鐘泌首相、文科相、スポーツ担当相ら、全員がなんと日本語を喋った。それも格調高き戦前の日本語だった。
この時期、「開発独裁」を掲げていた朴正煕政権は日本に対して謙虚とも言えるほどの態度をとりつづけ、日本の親韓派といえば、ほぼ全員が保守系だったのである。なぜなら韓国は「反共」の砦であり、国際的は反共運動が盛んであったし、韓国を批判していたのは岩波、朝日など例によって左翼だけだった。
 それが朴政権の退場によって続く軍人政権はふたりとも日本語を喋ったのに人前では決して親日的態度を示さなかった。
驚いたのは朴政権時代の政治家をパージし始めたことだった。前政権否定が、韓国の常識であることをしらなかったから、なんとカメレオンのように変貌するのかと思った。
同時に日本の反共保守陣営も徐々に韓国から遠のいた。
 それからしばらくも仕事の関係でソウルへよく行ったが、この間に国際シンポジウムで招かれ、高坂正堯氏、黒田勝彦氏らと参加したことがあった。強烈な反日姿勢を感じることはなかった。とはいえ、なにか、距離が遠くなったなぁという感想をいだいた。
88年ソウル五輪前にも国際会議があって、竹村健一、日高義樹氏等と参加したが、日本との距離が大きくひらいたという気がした。
評者はこの間に、池東旭氏と二冊の対談本を出した。
 韓国が露骨な反日を示し始めたのは金大中後期、そして盧武鉉で確定的となった。なぜかと言えば「反共」が西側の政治スタンスから消えたからである。
そのうえ、中国がグローバルな視野に躍り込んできたため、韓国の政治スタンスががらがらと変わった。
韓国外交は露骨に北京寄りとなった。日本は「どうでもよくなった」のである。
 李明博政権後期からは誰もが認める反日がスタンスと代わり、反日を言わなければ政治家の資格がないという韓国特有の不思議な雰囲気に変わってきた。
 異形な韓国の反日は、病的に進化し、こんにち狂気の反日政治家、朴権恵を産んでしまった。そして次の韓国大統領はおそらく、いまのより酷い反日家がなるであろう、と絶望視される。
 このような時代の変遷を本書は西尾氏が、「日本極右勢力の女王様」と韓国のネット上で批判され、入国も出来ない呉善花さんの来歴をずばり質問してゆく過程のなかで随所に述べられている。知的興奮に満ちた書物である。