コーカサス3国を旅して(2)

ゲストエッセイ
坦々塾会員 松山 久幸

アルメニア美人とキリスト教

 陸路での国境越えは数年ほど前、ナイアガラの滝見物の折りアメリカからカナダへ車で経験して以来で、今回は車ではなく徒歩であるから、どのような状況になるのか興味津津。至って事務的にジョージア側出国審査を終えた後、スーツケースを押しながら50mほどの国境の橋を渡り、愈々アルメニア側に入る。検問所でビザ申請してから入国審査となるのだが、グループの最後列に並んでいた私の番になって係官は私のパスポートを矯めつ眇めつして見るだけでなかなかハンコを押してくれない。件の係官は何かアルメニア語で喚いているが私にはチンプンカンプンで何のことやら。仲の悪いアゼルバイジャン経由が気に食わないとしても、既に審査を通った我がグループの20名は皆アゼルバイジャン経由なのだから、これも入国拒絶の理由にはならない。流石に私も少し不安に駆られイライラし始めていたところ、我々ツアーのアルメニア人ガイドさんと思しき女性が現れて、その女性が係官にツアー名簿を見せながらガチャガチャやってくれて、やっとのことで係官は嫌々ながらもハンコを押す。入国が叶いほっとする。ガイドさんに聞いたが、彼女も入国に手間取った理由は分からないという。入国遅延の真の理由を知りたいところではあった。
そして愈々アルメニアに入る。アルメニアの人口は325万人で国土の平均標高は1,800mとなっている。セヴァン湖という琵琶湖の2倍の湖はあるが海はない。世界で初めてキリスト教を国教とした国でも知られる。

 バスは山間の道を進み銅の精錬所跡などを窓外に見ながら、山の中のレストランに着く。幹線を逸れてからそこに至る道は鉄柵も何もない断崖絶壁で高所恐怖症の私には寒い思いに駆られた。レストランのメニューは今までの2国と同じで、塩辛くそして香菜がたっぷり。私の食べられるものは限られる。日本に帰ってからの体重計の目盛りが楽しみだ。
その食事をしている時にアルメニアのおじさん2人が現れてエレクトーンとクラリネットで演奏と歌を始めた。2曲目が何と「百万本のばら」で上手な日本語で歌詞も見ずに歌ってくれた。感激の余り大拍手をしてお捻りを持って行ったら「有難う。」と嬉しそうにニコニコしていた。「百万本のばら」は昭和60年代に大ヒットした曲で、表面的なことしか知らなかったのだが、アルメニアに入る前、ジョージアを周っている時にジョージア人の美人の女性ガイドさんがこの曲について解説をしてくれていた。帰国してからインターネットでも調べてみた。ニコ・ピロスマニというジョージア出身の孤高の画家が、偶々出会ったフランス人女優マルガリータの美しさに魅せられ、貧しい中で「百万本のバラ」を彼女に送ったが、その恋は空しく終わったという悲しい物語である。

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 レストランの近くの山間から煙がもくもくと立ち上っている。銅の精錬所の煙だという。
昼食後に向かったところはハフパト修道院。ここに行くまでの道すがら、正装した若者達が色とりどりの風船やテープで派手に飾った車に乗って、クラクションを鳴らしながらまるで日本の暴走族のようにバスの横を追い越して行く。中には車の窓から身を乗り出し窓枠に腰かけ、我々に投げキッスをくれる若者もいる。ガイドの説明によれば若い男女の若者達はいま高校を卒業して成人になった記念に羽目を外しているとのこと。車の中には年配の人も見えるからそれは恐らく肉親か誰かであろう。若者だけの単なるバカ騒ぎではなさそうだ。どこぞの国の成人式のバカ騒ぎとは大違いだ。バスは漸くハフパト修道院に着く。先程の若者達も大勢来ている。成人したことを神に報告に来たに違いない。我々観光客にもみな笑顔を返してくれる。ここハフパト修道院はアルメニア正教会に特徴的なアルメニア十字(聖十字架)で有名である。奥の方にある古びた鐘楼も印象的だ。

 美男美女の若者達に別れを告げ、バスは山間の道を南下していた。ところがこの道は所々に大きな穴のあるデコボコ道だ。バスは右に左に大きく揺れながらゆっくりゆっくり進む。不図懐かしい昔を思い出した。子供の頃の田舎の道もこうだったのだ。いま日本ではこんな悪路にはもうお目に掛かれない。地図で見るとジョージアとアルメニアを結ぶ幹線道路は3本しかない。その一つがこのような状況にある。悪路はやっと過ぎ、バスはアルメニア第3の都市ヴァナゾールを通る。1988年に起きた大地震では25,000人もの死者が出たとのことで、ここヴァナゾールも大きな被害を受けたそうだ。

 バスはアルメニア最高峰のアラガツ山(標高4,092m)の麓を通り抜け、アルメニア文字公園を見た後、暫くして首都のエレヴァンに着く。エレヴァンは人口が119万人で現存する世界最古の都市の一つと言われている。
翌朝、市内観光出発まで少し時間があったので、ホテル近くの24時間スーパーを覗いてみた。早朝で客は殆どいなかったが、商品は様々の物が豊富に並んでいる。全部の値札を見た訳ではないが、物価は少し高いような気がした。

 バスで本日一番に向かったところはアララト山が良く見えるホルヴィラップ修道院。アララト山はアルメニア民族のシンボルとまで言われている山で大小2つから成り、大アララト山は5,165m、小アララト山は3,925mの高さだ。現在は、複雑な歴史が絡みトルコ領内にある。山自体は国境から32㎞のところにあるが、国境そのものは修道院から僅か8㎞のところだ。

 アララト山は旧約聖書のノアの方舟の舞台でもありその形状は極めて美しい。周辺に高い山がなくくっきりと聳え立っているのは富士山とも似ており、我が千円紙幣の裏面の湖に映る山はアララト山ではないかという説まである。今回我々の見たアララト山は頂上近くが雲で蔽われていて惜しい哉全容を確認することは叶わなかった。

 さて、アララト山の景観を一層引き立てるホルヴィラップ修道院の歴史は4世紀にまで遡り、アルメニアの地でキリスト教の布教に勤めていた聖グレゴリウスが13年もの間捕らわれていた所で、その地下牢は今でも残っていた。聖グレゴリウスの努力によりキリスト教は301年に世界で初めて国教として定められた。因みに2番目はローマ帝国、3番目がジョージアである。
我々が祭壇を見学していた丁度その時、若い司祭が香の入った祭具を前後に振りお祈りをしていて、信者と分け隔てなく我々異教徒にもお祈りの所作をされた。祈りの祭具より放たれる独特の煙は聖グレゴリウスの昔からの香のような気がした。
アララト山の頂上まで見られなかったという悔しさはあったが、天気が曇りか雨で山全体が全く見られないという不運は避けられたのだから、これも良しとせざるを得ない。嘗て私はこんな経験をしたのを思い出す。7~8年ほど前、ノルウェーのトロムソに家族でオーロラを見に行ったことがあるが、同じツアー客の中に1年前も来たが1度もオーロラを見られなかったというご家族がいた。お気の毒と言うしかない。私達家族はあの幻想的なオーロラを初めてのツアーで見られたのだから実に幸運だったと言える訳だ。

 バスはエレヴァン方向に引き返し、郊外の街を抜けていた。ガイドさんの案内でバスを降りた所の電柱の上にコウノトリが巣を作っている。辺り一帯の電柱も皆同様である。日本では兵庫県豊岡市のコウノトリが有名であるが、市全体が必死で保護した成果と聞いている。果たして此処のコウノトリはどうなのでしょうか。ガイドさんに聞きそびれてしまいました。アルメニアの現地ガイドさんは余りにも日本語がたどたどしく、かわいそうなくらい。
コウノトリの巣から然程離れていない所に原子力発電所の施設が見えた。ガイドさんの説明では、この原子力発電所はロシア製の旧式型でかなり老朽化しているものの、国内電力事情のかなりの割合をこの発電所に依存しているので、政府も頭を悩ましている模様。アルメニアはまた地震も多く、しかも首都エレヴァンにも近い場所とあって、今や世界で一番危険な原子力発電所だと恐れられているそうだ。

 次に訪れたのがガルニ神殿。アルメニアに残る唯一のヘレニズム様式の建造物である。三方が崖となっていて周囲の景色も良く、嘗ての浴場跡も残されている。帰り際、神殿敷地内の草を刈っている作業員がいて、使用していたのが今まで見たこともない様な三日月型の大鎌。記念写真に収めました。

 山間を縫ってバスはゆっくりと進み、ゲガルト洞窟修道院に着いた。此処は初期キリスト教時代に既に出来ていたと伝えられ、岩盤を穿って造られた洞窟の内部は黒くそしてまた暗く、暗黒の冷たさが肌で感じられる。初期の信者は信仰を隠す為に恐らくこの様な厳しい場所を選んだのではないかとも思う。洞窟内の祭壇では洗礼式が行われていて多くの信者が集まっていた。洞窟を出た所で敷地内に沢山の蜜蜂の巣箱を見掛けたが、初期キリスト教徒も蜂蜜を栄養源にしていたのかな。 
今度の旅も愈々終わりに近づいて来た。アルメニア正教の総本山エチミアジン大聖堂を訪れる。入口近くで、門を出て行く屈強の迷彩服を着た数名の兵士に守られて、軍服の胸の部分にいっぱいの勲章を付けた将軍と思しき男と偶々出くわした。大聖堂でトルコやアゼルバイジャン打倒を祈願して来たのかも知れない。

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 エチミアジン大聖堂は世界最古の教会で、4世紀にその基礎が築かれ現在に至っている。入口を入ると中は広大な敷地で、大聖堂内には大司教座が設けられ、修道士の神学校もある。花壇も整備され、綺麗なバラを主体に様々な花が咲き乱れている。殊に神学校前の白バラの園は見事である。宝物館にはノアの方舟の破片やキリストの脇腹を刺した槍(聖槍)も展示されており我々を古い歴史と聖書の世界へと誘ってくれる。

 この日の最後に訪れたのはエレヴァン市内にあるカスケード。その最も高い場所に「ソヴィエト・アルメニア樹立50周年記念塔」が建っていて、その近くには「アルメニアの母の像」も見える。記念塔が出来たのは1970年で市の中心部に独立後もそのまま建っているのはアルメニアの対ロシア感情を如実に物語っているようだ。因みに、軍隊もロシア軍の支援をかなり受けているそうだ。我が日本の情況も米軍無しでは成り立たず、もしかしたらアルメニア以下かも知れない。「母の像」は類似のものがトビリシでも見られたが、直立の母の姿と真横に持った剣はソ連に遠慮した隠れ十字架になっているとのこと。

 カスケードは階段状の滝のことであるが、水は流れていない。一部工事が中断したままになっていて完成の見通しは今のところないという。しかしエレヴァンの若者達はそのカスケードを楽しんでいて、我々観光客にも優しい笑顔を見せてくれる。上層の方からは市街も良く見え晴れた日はアララト山も展望出来るとのこと。最上階から一番下までゆっくり歩く間に何度か前後しながら顔を合わせていた麗しいアルメニア美人が、下の広場で椅子に腰掛けていて、目の前を通り過ぎる私に小さく手を振ってくれたので、今までの旅の疲れは一挙に吹き飛んだ。

 アルメニアは何と美人の女性が多いことか。世に「世界一の美人が多い国」とも言われるのはどうも真実のようだ。コーカサスという特異な地勢の中で、ヘレニズム、ローマ帝国、蒙古、ペルシャ、オスマントルコ、ロシア等の影響を東西南北のあらゆる方向から強く受け、いや翻弄されたと言った方が適切かも知れない。そういった真に厳しい状況の中で旧約聖書の「ノアの方舟」以来、その息子の子孫として混血を繰り返し現在の美的アルメニア民族が形成されて行ったのではないだろうか。これは私の全く勝手な想像であり単なる思い付きの類と言ってよい。

 ここまで来てはたと思い当たった。アルメニア入国の折り、入国審査官が私の入国許可を躊躇ったのは、人攫いと勘違いしたのではなかろうかと。人攫い即ち美女攫いと(笑)。
カスケードの横にシャルル・アズナヴール博物館(ガイドさんは自宅だと言っていたが)がある。シャルル・アズナヴールはフランス在住の世界的に有名なアルメニア系歌手で、アルメニアに対しても多大の貢献をなしているとのこと。
共和国広場に寄った後、民族音楽と民族ダンスのショーを見ながらの夕食で、ダンスの方はテンポの速いコサックダンスにも似ていて、ここにもロシアの影響が強く感じられる。店は略満席で観光客は我々グループだけで、他の客は皆地元の方のようであった。営業的にもっと工夫すれば、より多くの海外の観光客にも楽しんで貰えるのではないかと思う。民族音楽も民族ダンスも素晴らしいものだったから。

 翌朝、最終日はセヴァン湖とセヴァン修道院を見学。修道院の2棟の建物と湖のコントラストがよい。セヴァン修道院に飾られているイコンの神の姿は蒙古の顔形をしている。嘗て蒙古の軍勢がここに攻め入った時、恭順の意を表す為に、神もその様な姿に変えざるを得なかったのだという。如何に東西の接点とは言え、そこまでしなくてはならなかった小国の民族の悲しい歴史をまざまざと見せつけられ、もし元寇の折りあの神風が吹かなかったならば日本は一体全体どうなっていたか。酷く複雑な思いに駆られた。

 セヴァン湖とセヴァン修道院の見学で今回のツアーは終了しバスは再びジョージアとの国境を目指した。アルメニアとアゼルバイジャンとは宗教も民族も異なり領土紛争をしばしば起こしていて極めて仲が悪く、アルメニアからアゼルバイジャンに直接戻ることは出来ないので帰りもジョージアのトビリシ経由である。

 帰途、ジョージアとの国境まで行く途中に例のデコボコの悪路の続く箇所があるが、一つあるトンネルの中までその悪路は続いていた。しかも道は泥濘である。其処をゆっくりゆっくり通過している時に一悶着が起きてしまった。バスがトンネルの出口に近づいた時、向こうから大型のトラックが入って来てしまった。丁度其処はトンネルが少しカーヴしていてバスの警笛も役立たなかった。大型トラックが何度もバスの横をすり抜けようと試みたが、デコボコの為車体は左右に大きく揺れるし、トンネル自体がかなり狭いので、如何にしても横をすり抜けることは出来なかった。そうこうしている内にお互いの車の後ろは後続車が列を作ってしまい二進も三進も行かない状況になってしまう。中には普通車がちょっとした隙間をすり抜けようとして前に出て来てしまう有様で収拾がつきそうもない。これは一体どうなることかとハラハラしながら見守っていたところ、結局大型トラックがバックすることになり、直ぐ後方にいたもう1台の大型トラックも一般の車も皆トンネルの外に後退し、我々のバスは漸くトンネルから外に出た。乗客皆で我々のバスの運転手さんに拍手した。滅多にない経験ではある。

    結び

 帰りの国境越えは至ってスムーズであった。折しもジョージアの入国審査手続きを丁度終えたところで、係官も吃驚する様な大きな雷が鳴り急に雨も降り出した。しかも大粒の雨で土砂降りになって来た。バスの中からは頻繁に稲妻も見え、時々霰も混じっている。バスはまるで滝の中を走っているかの如くである。

 トビリシ空港に着く頃は運よく雨も止んでいた。出国手続きを済ませ搭乗を待つ間、オマーンからのムーサ一家にまた出会った。ムーサ氏「Oh ! Surprise.」と。一家はアゼルバイジャンとジョージアを観光して帰るのだという。ムーサ氏より、もし機会があればオマーンにも来て下さい、オマーンは山やビーチや砂漠の美しい所が沢山ありますからと。カタール航空の機内に乗り込んだところ、何とムーサ一家は私達の直ぐ前の座席に座っていた。3人のお嬢ちゃん達は座席の前の画面を苦も無く操作し各々違った子供番組を見ている。世の中、斯様な偶然が連続するのも不思議だ。広大なドーハ空港で成田行きのカタール航空に乗り換え、5月30日帰国の途に就いた。

 此度の旅行で気が付いたことは、3つの国で何人かに声を掛けられ、それは決まって「あなたは日本人ですか。」と。他所の国では、支那人や韓国人によく間違えられる。今回はそれがない。

 また、今回の旅では支那人・韓国人のグループには1度もお目に掛からなかった。稀有なことである。3国とも韓国製の車は結構走っていたにも拘わらずである。実にほっとした。今や世界のどんな観光地に行っても彼等は来ている。コーカサスへ行くのは今の内ですよ。

 最後に一言付け加えたいのは、この拙い文の中に所々私のつまらない見解が入っていますが、たった1度の、しかも限られた対象の訪問記でありますから、私の一面的なものの見方で管見に過ぎません。どうかご容赦願いたい。

コーカサス3国を旅して(1)

ゲストエッセイ
坦々塾会員 松山久幸

 コーカサス山脈の南側はアジアである。旧ソ連から独立したアゼルバイジャン・ジョージア(グルジア)・アルメニアの3カ国はコーカサス3国と呼ばれ、それぞれ特異の歴史と文化を持っている。或る旅行社のツアーに参加し5月の下旬に彼の国々を訪れた。

アゼルバイジャンの炎

 5月23日夕刻、成田空港を出発しカタール航空でカタールのドーハまで飛び、恐ろしく広大な空港で便を乗り継ぎ、翌日午前アゼルバイジャンの首都バクーに到着した。機内の窓から、滑走路より少し離れた草地に小銃を手にした1人の兵士の姿が見える。予め用意した査証も提出して入国手続きを済ませ空港の外に出た。東京と似たような気温だ。外から見た空港ビルは派手で超モダンな造りである。

 大型観光バスでそのまま市内観光に繰り出した。アゼルバイジャンの人口は904万人、首都バクーの人口が300万人。石油で昔から世界的に有名だ。近代的なビルも多く散見され、車も日本車を含め高級車が多い。いま世界の注目を集めているアメリカ大統領候補ドナルド・トランプ氏の高いビルが目に入った。後で分かったことだが、このビルは90%出来たところで工事は頓挫したままだそうだ。

 市内観光でまず訪れたのは「殉教者の小道」。1991年のソ連からの独立に立ち上がって犠牲となった英霊の墓が小道に整然と並び、黒の墓石には英霊の顔も一人一人刻まれている。お墓には赤いカーネーションの花が1本ずつ手向けてあった。ただ彼等英霊は宗教的犠牲者ではないのだから、「殉教者」とするのには違和感がある。その小道の先が高台になっていてカスピ海やバクー市街が一望出来、海沿いにある長いポールに掲揚された巨大な国旗が悠然と身をくねらせていた。因みに、カスピ海は世界最大の塩湖であるが、その塩分は通常の海水の3分の1だそうです。
 高台からの雄大な眺めに浸っていると若いギャルから声を掛けられた。聞けばトルコから来たという女子学生2人。私が日本から来たことを伝えると、並んで写真を撮りたいと。トルコは紛れもない親日国なので安心したのかも知れない。
 バスは高台を下って旧市街に入った。世界遺産になっているその旧市街は然程広くない。まずシルバン・シャフ・ハーン宮殿と乙女の塔を見学。16世紀まで栄えていた王宮の跡で霊廟、モスク、浴場跡などが残っていてこじんまりした感じだ。乙女の塔の周りを燕がいっぱい飛び交っている。

 驚いたことに、この旧市街を中心とした広くもない道路で6月の17日18日19日の3日間、F1グランプリレースが行われるという。街のあちらこちらにスタンド席を設け防護フェンスなどが用意されていた。普段の日でも道路はかなり混んでいるというのに、開催中はどうなることやら。

 アゼルバイジャンはイスラム教の国である。しかしチャドルを身に纏った女性にはとんとお目に掛かれない。モスクも何処にあるのか分からない。緩やかなイスラム国家であることは確かだ。

 翌朝、バクー郊外にあるゴブスタン遺跡見学に向かう。カスピ海に沿う道は半砂漠で荒涼としている。海上には所々油井も見え、途中BTCパイプラインの起点になる施設もあった。Bはバクー、Tはトビリシ、Cはトルコの地中海沿岸都市ジェイハンの頭文字で全長1,768㎞。口径は凡そ1,000㎜。輸送能力は日産100万バーレルで2006年に完成した。距離的にはバクーからアルメニアを通りジェイハンに繋げば近い筈なのに、アゼルバイジャンとアルメニアは昔から仲が悪く、最近も地域紛争(ナゴルノ・カラバフ戦争)で武力衝突したこともあり、パイプラインは大きく迂回してジョージアのトビリシ経由となっている。因みに、このパイプラインはイギリスのBPが主導出資し、日本の伊藤忠商事と国際石油開発も若干出資している。

 バスは1時間ほどでゴブスタン遺跡に到着し、まずは其処の博物館を見学。中の展示物を一通り見て外に出た時、オマーンから見えたというムーサ一家に偶然出会う。話を聞くと可愛いお嬢ちゃん3人とご夫妻で個人観光だそうだ。ご主人はきりりとしたビジネスマンで6年前に仕事で日本に来て地方も含め各所を周り、日本に対して大変好印象を持ったという。ご夫人も綺麗な方でしっかりとチャドルを着用していた。名刺交換したあと「Have a nice day !」と言ってご一家と別れ、遺跡の見学に向かう。

 ごつごつした岩石に、人間や牛、蛇などの動物、小舟、太陽、星などが5,000年から2,000年くらい前の人類によって描かれたこの遺跡は貴重な遺産である。岩々を巡る道すがら、2mもありそうな蛇やイグアナを小型にしたような蜥蜴達にも出くわした。あたかも我々を歓迎してくれているようにも思われた。

 市内に戻って昼食を摂ったあと、バクー市街の外れにあるゾロアスター教の寺院を訪れる。敷地中央の祭壇からは消えることもなく怪しげな火が燃え盛っている。昔はその地下の天然ガスを引いたものであったが、今は他所からパイプで引いて来ているという。自然と宗教が密接に結び付いている証左ではないかと思った。ゾロアスター教は光(善)の象徴として「火」を尊ぶため拝火教とも呼ばれる。最高神アフラ・マズダの名を取ったものに、マツダ(MAZDA)自動車や東芝のマツダ電球などがある。ニーチェの著作「ツァラトストラはかく語りき」のツァラトストラはゾロアスターの独語読みであることは言うまでもない。拝火教寺院の帰り道、周囲に沢山の油井を見た。アゼルバイジャンの石油の多くは、今ではカスピ海の海底油田によると聞いていたが、陸上の油井も直に見ることが出来た。

 トビリシへ向かう飛行機にはまだ時間があったので市の中心街からほど近い海沿いの公園を散歩する。季節も良く公園には色とりどりの様々な花が咲き乱れ目を楽しませてくれる。夕刻、同じカタール航空でバクーからジョージアのトビリシに飛んだ。日が暮れるのは遅く、眼下の景色は半砂漠から緑に変わって行くのがはっきり見て取れた。

ジョージアの道

 ジョージアはロシア革命後の1918年5月26日にロシア帝国の支配を脱し一旦は独立したものの1921年、ソ連の侵略を受けてその支配下に入ってしまう。ジョージアはこの5月26日を独立記念日としており、我々がトビリシに着いたのがその前日に当たり、記念行事の準備で市内各所は交通規制が敷かれ、宿泊先のホテルまではバスからタクシーを乗り継ぐという方法が取られた。しかしタクシーは狭い道路の大渋滞に嵌まり込んで殆ど身動きが取れず、ホテルに着いた時には疲労困憊の状態であった。ホテルの部屋にも独立前夜を祝ってか花火の音など聞こえて来たが、そのまま深い眠りに就いた。

 翌26日は独立記念日である。ジョージアの人口は372万人で首都トビリシの人口は112万人。記念行事の行われる市の中心部は避けてジョージアの古都ムツヘタの方に向かい、まずは川沿いの小高い丘の上に建つジュワリ聖堂を見学する。ジョージア正教の教会で黒の礼服を纏った神父さんがいて我々を出迎えてくれた。この神父さん、三国連太郎に実によく似ている。小振りな建物ではあるが其処からの眺めは良く、昔は辺りに睨みを利かす要塞的な砦の役目もあったのだろう。世界遺産古都ムツヘタも目の前に一望出来る。

 次はムツヘタにあるジョージア正教のスヴェティツホヴェリ大聖堂を見学。6世紀、都がトビリシに移るまでジョージア正教の中心であった。ジョージア最古の教会であり、ジョージア人にとっての聖地でもある。歴代の王や貴族は皆ここに埋葬されているという。建物は至って重厚な造りだ。この大聖堂の裏にある庭園を散歩していた時、イギリスから見えた老紳士に声を掛けられた。勿論ご夫人も一緒である。私が日本人であることを疑っていなかった。

 観光バスの駐車場から大聖堂までの道には土産物屋やこ洒落たレストランも幾つかあったが皆、長閑である。門前は売らん哉の姿勢より、このような長閑さが私は好きである。

 さて次にバスは愈々ジョージア軍用道路を走った。トビリシから大コーカサス山脈を越えロシアのウラジカフカスまでの全長210㎞のアジアとヨーロッパを結ぶ交通の大動脈である。ロシア軍により1799年に建設が開始され1817年に一応完成はするがその後1863年まで道路の拡張工事は続いたという。

 世界に軍用道路として作ったものは夥しく有るに違いない。しかし現在その名称を残している有名な軍用道路は、ここ以外寡聞にして知らない。ジョージアは今でもこの道路を「軍用道路」と呼んでいるが、嘗てはロシア帝国の、そしてまたソ連のジョージアやアルメニア支配の要であったことは容易に察しが付く。この道路の完成によってロシアによる侵略は確かなものとなり、ジョージア人にとっては屈辱以外の何物でもなかったであろう。恐らくこの事実を民族の忌まわしい記憶として永く後世に伝えんとして、敢えて現在でもこの名称で呼んでいるのだと私は確信する。

 軍道に入って最初に訪れたのはアナヌリ教会である。静かなジヌヴァリ湖と美しい森林を背景にして建つ要塞建築の教会である。この日は独立記念日とあって学校が休みの為か、多くの子供達が見学に訪れ、説明員の話を熱心に聞いていた。我々のガイドさんに案内されて橋の上から絵葉書的構図で教会をカメラに収める。

 バスは軍用道路を上りグダウリというリゾート地に至る。周囲はコーカサス山脈が迫りなかなかの景観である。昼食のレストランの入口に2匹のシベリアン・ハスキー犬がいて我々を出迎えてくれた。日頃、日本で見るハスキー犬とは異なり毛も少しふさふさしていて目もあの獰猛さがなく人なつっこい感じがする。皆で代わる代わるその頭を撫でてあげた。スキー用リフトも近くに見えるがスキー用の雪は今はない。

 軍用道路を更に上って行くが、道路上を牛が三々五々のんびり歩いていたり、道路いっぱいの羊の大群に出くわしたりもする。車はその羊の大群の様子を楽しみながら通り過ぎるのを待つ。警笛を鳴らすような野暮なことは誰もしない。
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 バスはジョージア軍用道路で最も高い標高2,395mの十字架峠に至る。其処から眺める雪を頂く5,000m級の雄大な山々が連なる大コーカサスの景観は圧巻である。
 バスは更に奥地に入って行くと、大型トラックが軍用道路の片側に延々と連なっているのに出くわした。ロシアとの国境に近くその通関待ちだという。最後列のトラックが今日中に果たして通関出来るのか知らん。
 バスは通関待ちの大型トラックの横をすり抜け国境の村ステパンツミンダに入る。西の方角にあるのはコーカサス山脈の中でも有名なカズベキ山(標高5,033m)で、山頂は残念ながら雲に隠れて見えない。その手前側の山の上に建つツミンダ・サメバ教会(聖三位一体教会)は小さいながらくっきりと見える。本来はこの教会に四輪駆動の車(三菱自動車製)で登る筈であったが、途中の道路の水道管が破裂したとかで道路閉鎖になり登れない。今回の旅行の目玉の一つでもあった「空に浮かぶような天空の教会」は、麓から遥か遠くで眺めるしかなかった。村の東側にも雪を頂く急峻な岩山が屏風のように聳え立って眼前に迫り真に美しい景観である。国境の両替所はルーブル、ドル、ユーロの順でその交換比率を表示していた。

 帰途、ツミンダ・サメバ教会に登って行く道の入口の村にバスは入る。バスが停車した丁度目の前にある草地に、まだ生まれたばかりかと思われる仔馬が母馬の乳を吸っていた。仔馬の脚はよろよろしていて覚束ない。都会暮らしにはなかなかお目に掛かれない光景ではある。歩いてその辺りを散策す。様々の山野草の花が目を楽しませてくれる。

 行く時にも見えていたロシア・ジョージア友好記念塔なるものに立ち寄った。1983年に出来たというから、ジョージアがまだソ連領だった頃に作った代物で、実にけばけばしく毒々しい色彩だ。友好200年の記念として作ったものらしいが、占領200年の屈辱の証でしかない。「友好」なる名の付くものは全て警戒して当たった方がよい。

 トビリシ郊外のレストランで夕食。身なりのきちっとした清潔そうな好青年がバイオリンで数曲演奏してくれた。その内の1曲は「ある愛の詩」。実に懐かしい曲だ。料理は塩辛くそして香菜だらけで辟易したが、バイオリン演奏は流れるような旋律で情趣に溢れ心を和ませてくれた。但し、投宿のホテルまでは例によってバスからタクシーに乗り継いだものの、タクシーはまたしても大渋滞に嵌り独立記念日のトビリシの交通事情を痛いほど味わった。

 翌朝は悪夢の交通事情も平常に戻りホテル前よりバスに乗り込むことが出来た。トビリシ市街の中心部を流れるムトゥクヴァリ川(クラ川)のほとりの丘の上に建つメテヒ教会を訪ねる。この教会は目下修理中。丘の上からは旧市街を見渡すことが出来、その景色は素晴らしい。眼下の川はトルコに源を発しトビリシを通過してアゼルバイジャンからカスピ海に注ぐ。コーカサス3国を流れる川は押並べて泥川で清流にはとんとお目に掛かれない。日本の川が如何にきれいか我々はその恩恵を忘れるべきでない。但しトビリシのその川に架かる目の前のSF的な橋は頂けない。イタリアの然る有名な建築家がデザインしたものらしいが、歴史的街並みには全くそぐわず私には折角の景観を唯ぶち壊しているとしか思えない。

 丘を下り川の反対側の下町風情の所を歩きシナゴーグの前まで来た。ガイドが交渉したが我々非ユダヤ人には冷たく、門の内には入れてくれない。その直ぐ近くにあったジョージア正教の総本山シオニ教会は誰でもウェルカムで中に入ることは自由。創建は6世紀だそうで、シオニの名はエルサレムのシオンの丘から取られているそうだ。ジョージアにキリスト教を伝えた聖ニノの十字架や数多くのイコンが飾られている。通りすがりの現地の人々がちょっと立ち寄ってお祈りを捧げて行くのを見ると、我々日本人が神社に気軽にお参りするのとよく似ているなと感じた。

 ソロラキの丘の上に立つジョージア母の像を見上げながらトビリシをあとにし、バスはアルメニアとの国境の町サダフロに向かう。

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英国のEU離脱について

平成28年6月26日 坦々塾夏季研修会での私の談話

 6月25日のニュースを見ながら考えました。今回のイギリスの決定で、離脱派の党首と思しき人物がテレビで万歳をして、イギリスの独立、インディペンデント・デイだと叫びました。常識的に考えて、世界を股にかけ支配ばかりして、世界各国から独立を奪っていた国が、自ら「今日は独立の日だ」などと叫んでいるのですから、いったい地球はどうなっているのかと思いました。

 今日の段階で日本のメディアはヨーロッパの情勢ばかり言っています。アメリカや中国を含む地球全体の話をほとんどしません。そして英国のEU離脱、すなわちEUというグローバリズムの否定、英国ナショナリズムをさも悪いことのようにばかり言っていますが、そうなのでしょうか。

 ヨーロッパは今、確かに混乱していて、伝え聞くところでは、ドイツのメディアは気が狂ったかのようにイギリスを罵って、「こんな不幸なことを自ら招いている愚かなイギリスの民よ・・・、これからイギリスは地獄に向かってゆく。あれほど言ったではないか。」私には、これがドイツの焦りの声に聞こえます。さっそくドイツ、フランス、イタリアの外務大臣が会合して、意気盛んに「すぐにでも出てゆけ。来週の何曜日に出て行け。」まるで借家人を追い出すような勢いで言っているそうです。フランスもイタリアも次の「離脱国」になりそうで怖いのです。ですからイギリスはいろいろ長引かせようと思っても、そういう四囲の状況から早晩追い立てられるようにして出ていくことになるのではないか。いっぽうイギリスの中では後悔している人が何百万人もいて、再投票をしてその再投票願望のメディア、インターネット上の票数が何百万に達したとかいうような騒ぎもありますが、もうそんなことは出来ないでしょうから、決められたコースに従って粛々と動いてゆくことだろう思います。

 それもこれも日本のメディアがEUというグローバリズム、国境をなくす多文化主義を一方的に良い方向ときめつけて、それに反した英国の決定を頭から間違った方向と定めているからではないでしょうか。必ずしもそうではない、という見方が日本のメディアには欠けています。

 各国の思惑はそれぞれで、日本のメディアはとてもそこまで伝えていないけれど、基本的にはヨーロッパの情勢を伝えているだけですので、私は今日は今度の一件を端的にアングロサクソン同志の長い戦い、米英戦争の一環と考えてみたいと思います。アメリカとイギリスという国は宿命の兄弟国であり、また宿命のライバルでもあって、何かというと、どちらか片一方が跳ね上がると、すぐもう片一方が制裁を加えるということを繰り返しています。これはずっと昔からそうで、私が『天皇と原爆』の中でも書いたように、基本的に第二次世界大戦は「アメリカとドイツ」、「アメリカと日本」の戦いであると同時に、実は「アメリカのイギリス潰しの戦い」でもあったということを何度も何度も歴史的な展望で語ったのをご記憶かと思いますが、私の見る限りではそういうことは度々あるわけです。

 今回のイギリスはやり過ぎていますね。何をやり過ぎたかというと、キャメロン首相とオズボーン財務大臣というのは組んでいて、オズボーンはキャメロンと大の友達で、キャメロンの後を継ぐことにもなっていて、キャメロンを首相に持ち上げた人ですが、大英帝国復活の夢を露骨に言い立てています。しかし今の自分の国の力だけでは出来ないので中国の力を借りるという路線に踏み込んで、オズボーンは中国に出かけて行って「ウイグルは中国の領土だ」と言って習近平を喜ばせたりしてやっていたイギリスの勢力です。私なんかは日本人として苦々しく思っていましたが、アメリカの首脳部も苦々しく思っていたのだ、ということがいろいろ分かってきました。

 基本的にヨーロッパはどの国も中国が怖くありません。煩くもないので、中国を利用したいという気持ちがつねにあり、そしてロシアが邪魔という気持ち、この二つがあります。それからドルは出来るだけ落ちた方がいい、ドルの力を削ぎたいという気持ち。これがヨーロッパ人が考えている基本姿勢です。ですから日本に対する外交も全部その轍の中に入っています。なんとかして日本を・・・、という考えは全く無く、この間の伊勢志摩サミットでどんな話が出たのか分かりませんが、結局今言った基本ラインがヨーロッパの政治の中枢にありますので、そういう方向だったでしょう。

 今中国が握っている人民元は2,200兆円(22兆ドル)です。ところが中国は3,000兆円もの借金をしています。だから2,200兆円を世界にばら撒いても、借金が3,000兆円で、年間150兆円の金利を払わなければいけないのですが、中国にそんな力はありません。ですからズルズルと中国経済がおかしなことになっているのが我々には見えているのです。そのズルズルとおかしなことになっている間に人民元が急落するでしょうから、そうなる前に何とか自国に取り込もうと、少しでも自分たちの利益になるようなことをしようということを、各国が目の色変えてやっているのです。その先陣を切ったのがイギリスでした。ご承知のAIIB、アジア・インフラ投資銀行でイギリスが真っ先に協力を申し出たというので、世界を震撼せしめました。それは先ほど言った財務大臣オズボーンの計略だったのです。中国の力を使ってシティを復活させたい・・・。中国もシティの金融のノウハウを手に入れたい・・・。

 中国共産党党員の要人が金を持ち出しているのは夙に有名ですが、その持ち出した金は1兆5千億ドルから3兆ドルの間と、はっきりした額は分らないのですが、1兆ドルは100兆円ですから、「裸官」によっていかに途轍もなく多くの金が海外に飛び出しているのです。しかし、なによりもそれをアメリカがしっかり監視し始めて、アメリカはこれを許さない、というスタンスになってきた。中国人からするとアメリカではもうダメだ、ということで、中国共産党の幹部たちはその資金をシティに逃がしたい。香港経由で専ら中国とイギリスは手を結んでいましたので、シティを使って自分たちのお金を逃したいということもあるのでしょう。

 それを暴露したのがパナマ文書ですよね。それでキャメロンが引っかかったではないですか。ものの見事にアメリカは虎の尾を捕まえたのです。おそらくEU離脱派を主導しているジョンソンという人が次の総理になる可能性が高いと思いますが、あの人物もトランプに顔が似ていてね・・・。(笑)ジョンソンが首相になったら、彼は反中ですから、イギリスはAIIBから抜けますと言う可能性は高いし、今まで支持していたSDRの人民元の特別引き出し権も止めるかもしれない。つまり、イギリスは中国から手を引いて一歩退くという方向に行くかもしれない。中国の悲願は、人民元が国際通貨ではないということをどうやったら乗り越えられるか、何とかして人民元を国際通貨にしたい、どこの国でも両替できる通貨にしたい。それができなかったので、今は香港ドルに替えて、そこから国債通貨にしていますから香港ドルに縛られていたのです。10月からSDRを認められて、人民元はいよいよ国際通貨になれると期待されていますが、英国の離脱でさてこれもどうなるか?疑問視されることになるでしょう。

 パナマ文書という言葉が先ほど出てきましたが、ついこの間までタックスヘイヴンやオフショア金融とかいう言葉が飛び交ったことはご記憶かと思います。タックスヘイヴンは「脱税システム」ということで有名です。私は、あぁこれこそ歴史上イギリス帝国が植民地を拡大した時の悪貨な金融システムなんだなぁと・・・。そうなのです。イギリスは酷いことをやっていたのですよ。タックスヘイヴンというのは、その中心、大元締め、つまり元祖みたいなものはシティです。シティというのは、イギリスの女王がシティに入るためにも許可がいるというほどイギリスの中の独立国みたいなものです。つまりローマの中のヴァチカンのような一つの独立国みたいなもので、それくらい権威が高く、しかも中世から続いているわけです。そしてそれを経て東インド会社ができて、世界中を搾取した、あの大英帝国の金融の総元締めであって、そしてそれによって皆が脱税などを繰り返した。そう、二重財布ですよね。つまり日本でも税金を納めないでやるために商店とかでも二重財布をやっているでしょう。実際の会計と、それから違う会計を作ってやってるではないですか。その二重財布みたいなことをやって、これで世界を支配していたんだなぁと。武力だけではなかったということです。日本は明治維新からずうっと手も足も出なかったではないですか。悪質限りの無いこのオフショア金融あるいはタックスヘイヴンのシステムというものを、今でもアングロサクソンは握っているのですが、結局この思惑が米英で今ぶつかったのですね。

 アメリカはイギリスのやり方がやり過ぎている、というか、チョッと待てと・・・。じつはアメリカだって隠れてやっているけれど、パナマ文書にアメリカは出てこなかった。イギリス人やロシア人や中国人は出てきたけれど、アメリカは国内にそういうシステムがあるものだから誤魔化せるわけですね。ですがアメリカは国際的に大々的にはやりませんよ。その代り各国の不正な取引は監視します、と。

 なぜそういうことになったかというと、一つにはリーマンショック。自分の不始末で金融がぐちゃぐちゃになって、これを何とかしなければいけない。監視しなければいけない。それからもう一つは、ダブついたお金がテロリストに回って、イスラム国みたいなテロリスト集団が出てきたから、これを何とか抑えなければいけないということ。この二つの動機からアメリカは断固取り締まるという方向になりました。そうすると目の色が変わるのはシティです。イギリスはシティによっていま一度大英帝国の夢を・・・、ということですから、これは当然ながらイギリスのシティがアメリカのドル基軸通貨体制の存立を脅かすということになってきます。深刻な対立が生まれていたことがお分りかと思います。

 「中国の野望」は「イギリスの野望」を裏から支えているという姿勢があります。つまり所謂プレトンウッド体制というものが毀れかかってきている。そのためにアメリカは過去にイラク戦争もしてきたわけですから、アメリカは焦っている。しかも身内であるイギリスがそういうことをやったということで、対応をとる処分に苦慮してきたのだろうと思います。

 それでもアメリカとイギリスが永遠に対立するなどということは無いので、結局イギリスの中の体制が変わってキャメロンが辞めて、きっと親米政権が生まれるでしょう。そして、どうせまたアメリカとイギリスは手を結ぶことでしょう。いずれはウォール街とシティは和解するのです。今度の出来事はその流れの一つではないかと思いますが、皆さんいかがでしょうか。

 そうなると、残ったEUはどうなるでしょうか。先ほども申したようにドイツは頻りに「哀れなイギリスよ、お前たちは泥船に乗ったのか?」と言っているそうです。メディアも頻りに「可哀想なイギリスよ」とやりたてている。テレビなどがイギリスは明日ダメになってしまう、というようなことをどんどん流しているそうです。そしてシティがEUから離れていくわけです。そうするとEUは必然的に没落します。それでシティの代わりにフランクフルトにいろんな金融機関が集まってくるということが興りかかっているそうです。しかし100パーセントそうはならないでしょう。つまりこのあとアメリカはイギリスの出方ひとつでシティを守るかもしれません。だから結局EUはドイツが中心。アメリカとドイツが永遠に仲良くなるとは思えませんし、結局アメリカとイギリスは和解してEUはダメになる。そしてシティはアメリカの管理下に置かれる。アメリカ、というかウォール街がシティの上に立つような構造になるのではないか、ということが当たるかどうか分かりませんが私の予想です。
ヨーロッパ全体はおかしくなってくる。フランスやイタリアもEUを否定する政権になるかもしれず、ドイツは英国を憐れんでいましたが、話は逆になるかもしれない。ドイツはEUという泥船をかかえてどうにもこうにもならなくなるかもしれません。

 少なくとも中国の世界戦略は破綻した・・・。良かった!と思います。今度の事件で私は良かった、と思ったのですが、私はドルを少し持っています。ドル建て債券を持っていて、円高になるからみんな落っこっちゃったのです。私なんかほんとに僅かだけれど、その変化をみていると、企業や国家が持っているドルはどんどん目減りするわけですから、大変なことになるだろうなぁと思っています。アベノミクスがうまくいったとかいうのは、あれはほとんど円安政策です。円安があそこまでいったから経済が動き出したのですから、名目上のことです。とにかく個人的には不味いのだけれど、私の中の非個人的な部分は万歳と・・・。心の中で喜んでいます。

 私の短い人生の中でこんなことが沢山はないのです。つまり中国が台頭したのも理解できない。あの最貧国が大きな顔をして、お金で他国を威圧するなどということは5年くらい前までは夢にも考えられなかったということ。そしてあのアメリカがタジタジとして自分で自分を護れなくなっているというのもビックリする話で、イギリスもおかしくなってきた。おそらくスコットランドが独立するのではないかという気がします。スコットランドがもう一回独立投票をやれば確実に離れるでしょう。そうするとイギリスという国は無くなるのです。ブリティッシュという概念は無くなってイングランドになる。イングランドになると同時に大国ではなくなります。何がおこるかというと、おそらく第二次世界大戦の戦勝国としての地位を失う。即ち国連の常任理事国としての地位を継承できなくなると思います。だってそうでしょう。ブリティッシュ、ブリテン大国がイングランドになったら、これはもう違う国なのですから。そういうことが直ぐにではなくとも必然的に起こりますよね。これでイギリスに片がつくと・・・。明治以来日本の上に覆いかぶさっていた暗雲が私の短い人生の中で一つずつ消えてゆく、というようなことを考えながら昨日(6月25日)のニュースを見ていた次第です。

文章化:阿由葉秀峰

青葉を観ながら考えさせられたこと

ゲストエッセイ
坦々塾会員 伊藤悠可

 梅雨入りしたが雨が少ない。初夏の光のある間に青葉をみておこうと、先般、親しい人たちと近郊の名所を訪ねた。春の桜もいいが新緑の瑞々しさは格別だ。最近、力作の論文を書き続け、講演でも活躍する坦々塾の中村敏幸さんも一緒だった。彼は文章と同様、意見の交換も常にストレートである。ふだん同じ方向を向いているつもりでも、論点で微妙な差異が見つかることは却って面白い。その日、彼と違いをぶつけあって楽しかった。

中村さんは断っておくが安倍首相の“応援団”という人ではない。シンパでなく、むしろ厳しい視線を常に注いでいる批評家である。だが、この間のサミットについてかなり高評価を与えていることを知った。「安倍首相がサミットの開催地に伊勢を選んだことを君はどう思うか」と私に訊くからである。中国経済の末期症状、南シナ海問題、北朝鮮の核などの会議の内容ではなく、何と開催地についてだった。

 私はある程度、中村さんという人間を知っている。そもそもこんな質問をするのは、伊勢神宮への崇敬の念から出ていることは察せられるし、さすが安倍晋三はツボを心得ていると感心してのことだろう。いきなり「君はどう思うか」というときは大体、強烈に同意を求めているときである。可笑しかったが、私は反対なのである。感心しないと答えた。

 まだ選定のはじまる時期ではない頃から、何となく「伊勢」が候補地に上がるだろうなと自分は予想していた。日本文化の中心であり、魂のふるさとであり、最も尊い聖地。安倍という人のこだわりそうなことである。各国首脳をここに招き、実地に神域にふれさせ、至尊の幣垣内に導きたい。中村さんはいう。「地上絶類の清らかな神気をこうむった首脳たちは、そのときは何も感じなくても、将来、この瞬間の感動はリーダーたちの深層にはたらくのではないか」と。

 おそらく中村さんの頭には、アインシュタインやアンドレ・マルロー、マルローと親交のあった竹本忠雄さんのことなどがよぎっているのだ。安倍首相も同じような動機かもしれない。伊勢の神気というものを念頭において、純粋に目の当たりに神明造りの社を見せたいという気持ちがあったのだろう。

 そのとおりなら、私はその純粋な動機が子供じみていて深慮に欠けているとも感じられ、少しいやなのである。自分は伝統を最も重んじる政治家だ、伝統の最上といえば伊勢だ、神宮のすばらしさをトップリーダーの眼にやきつけてもらう。言い換えれば図式化された感動づくりなのだ。安倍晋三にはそういうところがある。日本イデオロギーというべきか。

米国議会でのスビーチがまずそれだ。七十年談話がそれだ。韓国との慰安婦問題のケリのつけかたがやはりそれだ。この三つの歴史の課題はここで触れないが、安倍首相はこのあたり明確にカーブを描いている。心情は曲げないが言葉は相手の受けをみて変える。いっそう良くないことなのだが、そうなっていないか。こっちは政治なのだ、と安倍は手を打つようになった。

 話を戻したい。伊勢参りの有名な浮世絵を思い出す。広重のなかでも私の好きな一枚は、主人に代わって参詣するけなげな犬である。けものだから宇治橋は渡させてもらえないのだろうか、たもとで参詣者の群に埋もれていたと思う。犬を家族としてきた私ほこの版画にほろっとしてしまうのだ。ここで皮肉を言っているわけではない、オバマやメルケルは広重が描いた犬ほど無心で清朗だろうか。オバマやメルケルはマルローの感受性をもっているとは思えない。

サミットはなかば格闘技である。私が反対なのは、神宮が貴いというなら神宮を使うな、という意味なのである。政治の土俵は神宮の対極にあるのではないだろうか。伊勢は遺跡でないし、廟でもないし、施設でもない。

それから、危惧もある。現実の脅威となったテロリストにヒントを与えるべきではない。

  春めくや人様々の伊勢参り
  参宮と言へば盗みも許しけり
 (蕉門の連句だったと思いますが、二つともいいですね)

 大事なものはそっとしておくものだと思う。伊勢と同等には語れないが、国内各社で世界遺産に指定された神社が多い。厳島神社、下賀茂・上賀茂の両社もそのため内外の観光客が増えたにちがいない。これからの予算も心痛のタネかもしれぬ。しかし、世界遺産の指定を何にもまして夢見るという感覚は本来神道界のものではあるまい。私は寺社にかぎらず世界遺産全般に良い印象をもっていない。落とし穴のありそうな不吉な贈答品だというイメージが拭えない。

 考えてもみよ、何で「遺産」なのか。人類はまだ若いかもしれないじゃないか。

 素人の私には、神道というものが濃い霧に包まれてほとんど奥行きがわからない世界にみえる。神宮・大社とよばれるところでは、非合理というべき契りや秘密や伝えが残されている。私はこう書きながらもう一つ記憶がよみがえる。それは昭和二十年十二月十五日に発せられたマッカーサー司令部の「神道指令」である。

 日本政府に発した「神道指令」とは、国家神道の禁止と政教分離の徹底であった。これによって神道の本質はほとんど抹殺されると震撼した日本人が少なくない。発令から一週間を経た二十二日夜、宮中でお茶会が催されたのだが、そこに召されていた歴史学者の板沢武雄博士が陛下に述べられたという。「この司令部の指令は、顕語をもって幽事を取扱うものでありまして、譬えて申しますならば、鋏をもって煙を切るやうなものと私は考えて居ります」。これを陛下はまことに御感深く御聴き遊ばされたと、木下道雄著『宮中見聞録』に書かれている。

 その人の著書を読んだことがなく板沢武雄のことは何もしらない。が、顕語をもって幽事を取り扱うという言葉も、鋏をもって煙を切るという表現も、とても味わい深い。これほどの達観と自信とをわが国の神道人は今もたずさえているのだろうか。さっさと忘れて新しい道を歩いているのだろうか。若葉を観ながら、中村敏幸さんが投げかけた、どちらかというと他愛のない伊勢サミットの話題から、さまざまなことを考えさせられた一日だった。
(了)

新刊『日本、この決然たる孤独』について

 このたび、6月30日付で、『日本、この決然たる孤独――国際社会を動かす「平和」という名の脅迫――』という題の評論集を刊行しました。すでに一部の店頭には出ています。

 さしあたり「あとがき」の最初の部分と、目次をおしらせします。

 版元は徳間書店で、定価は¥1700(税別)です。

あとがき

何年も前に書いた私の予言が当たることが比較的多いのは少し恐いことである。本書の中にも、当たったら大変な事態になることが語られている。私は希望的観測に立ってものを言わないからだろうか。いま政府や関係官庁が本気になって目前の災いを取り除いてほしいと思えばこそ、きわどい真実を語るのである。私は観察し、そして恐れている未来への思いを正直に打ち明ける。外国との関係に幻想を持たない。日本の弱さにつねに立脚する。自国の優越に立ってものを考える前に、他国の劣弱をしっかり見抜くべきことを説く。歴史は自国の優位を汲み出す泉ではなく、他国の主張する諸価値のウラを読み解く鍵である。自国の歴史に自信がなければ他国は見えない。自国の特性を美化する人が多いが、自信は秘匿されていなくてはいけない。私はあらゆる意味で〝守り″の思想家なのだ。

本書は主に2014-16年(前半)に右に述べたような態度で書かれた文章から成り、それ以前に書かれた文章も若干含んでいる。一冊の表題は迷っていくつもの案があったが、「日本、この決然たる孤独」という私の好みの題をつけさせてもらった。ただ、もう少し説明がほしいといわれ、副題に「国際社会を動かす『平和』という名の脅迫」を添えた。日本の国内の平和主義の弊害をはるかに越える恐ろしい沈黙の脅迫が世界を支配している。

(『日本、この決然たる孤独』目次

Ⅰ 安倍政権の曲り角──わたしの疑問と諫言
 総理に「戦後七十五 年談話」を要望します
 日韓合意、早くも到来した悪夢 
 北朝鮮への覚悟なき経済制裁の危険 
 外国人問題で困るのはタブーの支配 

Ⅱ 中国とヨーロッパ
 歴史の古さからくる中国の優越には理由がない 
 中国、この腐肉に群がるハイエナ 
 ヨーロッパの「正義の法」は神話だった 
 人民元「国際化」のごり押しに目をつむる英仏独 

Ⅲ アメリカと日本
 「反米論」に走らずアメリカの「慎重さ」を理解したい 
 日本の防衛はアメリカからとうに見捨てられている 
 無能なオバマはウクライナで躓き、アジアでも躓く 
 「なぜわれわれはアメリカと戦争をしたのか」ではなく、
 「なぜアメリカは日本と戦争したのか」と問うてこそ
  見えてくる歴史の真実
 悲しき哉、国守る思想の未成育 

Ⅳ 韓国について
 「十七歳の狂気」韓国 
 韓国との「国交断絶」を覚悟しながら歩め
   ──世界文化遺産でまた煮え油!     

Ⅴ 朝日新聞的なるもの
 「朝日新聞的なるもの」とは何か 
 ドイツの慰安婦と比較するなら 
 朝日叩きではない、朝日問題の核心 

Ⅵ 掌篇
 本の表題 
 岡田史学と『国民の歴史』
 遺された一枚の葉書
   ──遠藤浩一氏追悼 
 文学部をこそ重視せよ
   ──国家の運命を語ってきた文学的知性 

Ⅶ 歴史の発掘
 仲小路彰論 
 仲小路彰がみたスペイン内戦からシナ事変への潮流 

あとがき

ketuzen

トランプ外交も本質変わらず…米国への「依頼心」こそ最大の敵

6月9日産經新聞「正論」欄より

 米大統領選挙のあとに日米関係は大きな変化が訪れ、わが国は今まで考えていなかった新しい国難や試練を強いられるのではないか、という不安が取り沙汰されている。

≪≪≪ 孤立主義は米外交の基本ライン≫≫≫

 オバマ米大統領の8年間の外交政策の評価は低い。現在の世界の不安定は相当程度に彼の不作為に原因がある。何と言っても同盟国を軽視し、仮想敵国(中国やイランなど)との融和を図る腰のぐらつきは困ったもので、日本、イスラエル、サウジアラビア、トルコなどをいたく不安がらせてきた。さらにイギリス、ドイツ、韓国を「習近平の中華帝国」に走らせ、フィリピンまでが“親中派”ともされる大統領を選んだ。

 米国のいやがる安倍晋三首相のロシア接近も、親米一辺倒の昔の自民党なら考えられぬことだ。すべてはオバマ政権が覇権意志を失いかけていることに原因がある。

 大統領選共和党候補トランプ氏が言い立てている外交戦略は、オバマ大統領の政策とはまるきり違い、大胆なものとの印象を与えているが、それほど大きな隔たりはない。「米国は世界の警察官にならない」と2度にわたって宣言したオバマ大統領の方針と本質的な違いがあるとは思えない。

 背景には軍事予算の大幅削減の事情があり、だれが大統領になっても「孤立主義」「米国第一」「国際非干渉主義」は、イラク戦争が失敗と分かってから以後の米国外交の基本ラインである。ただトランプ氏は、中国やロシアに対しては同盟を組まなければ米国も自分を守れないということが全く分かっていない点に、相違があるのみである。

≪≪≪ あらゆる面で依存してきた日本 ≫≫≫

 動かせない米国の内向き志向の情勢下で、肝心なことは、わが国が依存体質をどう脱し、自立意志をどう高めるかである。軍事力を背景に現状を変更しようとしている中国に対する米国の抑止力は弱まるだろう。アジア各国は米国への不信感を募らせ、それぞれ生存を図ろうと中国との関係を調整し(すでに始まっている)、同盟の組み替えを試みるようになるだろう。そして国内に中国共産党の意向を迎える勢力の拡大を少しずつ許すようになるだろう。わが国も多分、例外ではない。

 恐るべきことが始まろうとしている。米国の“離反”を目の前にして、わが国が今まで米国に何をどのように依存していたかを整理してみる必要がある。核抑止力と通常戦力、軍事技術の基本的な部分、安全保障に必要な国際情報のほぼすべて、エネルギー輸送路の防衛、食料の大部分、驚くべきことに水資源も食料という形で大量に輸入している。これだけ依存していれば米国から離れられるわけがない。

 米国は今でも世界の国防費の37%を掌握している。中国が11%でそれに次ぎ、ロシアが5%、約3%が英、仏、日本である。日本の自衛隊の質は非常に優れていて、装備の性能や技術力も高いが、兵員や装備は数量的に劣っている。法的準備態勢などはご承知の通り、だめである。なぜ日本が安全であったかといえば、世界最強の軍事大国と同盟を結んできたからである。
 これは否定することのできない事実である。そしてこの事実の代償として、わが国の国土に133カ所の米軍基地(施設・区域)を許し、軍事装備品の米国以外からの購入も自主開発も制限され、約1兆ドルにも及ぶ米国債を買わされ売却する自由はなく、貿易決済の円建ては事実上、封じられている。しかも金融政策まで米国の意向に合わせざるを得ない。

≪≪≪ 国内が引き裂かれる状況に ≫≫≫

 これはすなわち“保護国”ともいえる証拠である。逆に米国は日本から防衛費の何倍もの利益を得ていることになる。トランプ氏はこの事実を知らない。わが国民も中国の「侵略」を目の前に見て、同盟国に責任と補償をさらに求めてくる米国のこれからの対応-大統領が誰になっても-に対し、今まで体験してこなかった想定外の戸惑いと苦悶(くもん)を強いられることになるだろう。

 なにしろ中国の現預金は22兆ドル(約2400兆円)もあり、そのだぶついているカネを、人民元が暴落しないうちに少しでも取り込もうと、欧米の金融資本は目の色を変えている。南シナ海を侵す醜悪なスターリン型全体主義体制を、あの手この手で生き永らえさせ、温存することに必死である。日本の財務官僚も例外ではない。
 恐ろしいことが起こりつつある。日本は一国では中国に立ち向かえない。米国の助けが必要である。しかし米国は内向きで、日本が必死になってすがりつこうとすればするほど、背負うべき負担はさらに倍増され、一方、国の独立と自存に無関心な国内の親中派が米国との関係を壊そうとする。

 このように国内が引き裂かれる状況になるのをどう避けたらよいだろう。これからの日本に真に大切なのは、国民が自らの弱点によく気づき、国家の自立意志を片時も忘れぬことだろう。(にしお かんじ)

ユネスコ記憶遺産登録

ユネスコ記憶遺産登録の無法ぶりに対しずっとわれわれはなすすべなく、自らの無力に歯ぎしりしていました。しかし次のニュースに接し、ついに無法に切り込んでくれる日本人の実行者が現れたこと、そしてともあれ一太刀あびせることができたらしいことをうれしく思いました。実行者の皆さまに御礼申し上げます。

日本政府には期待できません。民間団体によるこの登録申請は、歴史戦に対する日本側からの初めての挑戦で、日本の歴史にとってまことに画期的なことと思います。

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(一社)新 し い 歴 史 教 科 書 を つ く る 会

つくる会FAX通信

第390号 平成28年(2016年)6月3日(金)  送信枚2枚

TEL 03-6912-0047 FAX 03-6912-0048 http://www.tsukurukai.com 

ユネスコ記憶遺産に

「通州事件・チベット侵略」「慰安婦」を登録申請

歴史戦の新しい展開を「つくる会」は支援

5月31日、日本、チベット、アメリカの民間団体が共同して、ユネスコの記憶遺産に2つのテーマを共同申請しました。共同申請とは、一つの国の枠を越えて、複数の国の団体や個人が共同で申請する記憶遺産のルールにもとづくものです。

第一のテーマは、「20世紀中国大陸における政治暴力の記録:チベット、日本」というタイトルで、1937年7月29日に起こった日本人虐殺事件(通州事件)と、戦後の中国によるチベット民族消滅化政策を、中国の政治暴力の犠牲者として位置づけた申請です。

第二のテーマは、「慰安婦と日本軍規律に関する文書」というタイトルで、日米の共同申請です。慰安婦制度の正しい姿を知ることの出来る資料を登録する内容です。

それぞれの申請書の概要部分は下記のとおりです。

なお、この中で、申請の主体となっている「通州事件アーカイブズ設立基金」は、通州事件についての資料の発掘、調査、保存、普及のためのNGO団体で、5月に発足しました。

会見は、「通州・チベット」側から、基金の藤岡信勝代表、皿木喜久副代表、ペマギャルポ、三浦小太郎の各氏、「慰安婦」側から山本優美子、藤木俊一、藤井実彦の各氏が出席しました。今後は年内におおよその結論を出すとみられる小委員会と対応し、来年10月の登録を目指します。

これらの申請の登録が実現するよう、当会も全面的にバックアップをしてまいります。

(1)「20世紀中国大陸における政治暴力の記録:チベット、日本」

<申請者>日本:通州事件アーカイブズ設立基金

チベット:Gyari Bhutuk

<概要> 20世紀の中国大陸では、他国民あるいは他民族に対する政治暴力がしばしば行使された。この共同申請は、対チベットと対日本の事例についての記録であり、東アジアの近代史に関する新たな視点を示唆するとともに、人類が記憶すべき負の遺産として保存されるべきものである。以下、事件の概要を、時間順に従い、(A)日本、次いで(B)チベットの順に述べる。

(A) 日本: 1937年7月29日に起こった通州虐殺事件の記録である。この事件は暴動によって妊婦や赤ん坊を含む無辜の日本人住民200人以上が最も残虐なやり方で集団的に殺害されたもので、日本人居住者を保護する立場にあった冀東自治政府の中の治安維持を担当する保安隊を主体とした武装集団がやったことであった。

(B)チベット: 中華人民共和国建国直後の1949年から始まったチベットに対する侵略行為の記録である。それから1979年までに、1,207,387人のチベット人が虐殺された。犠牲者の中には、侵略者に対する抵抗運動の中で殺された者や、収容所や獄中で拷問の末に殺された者などがいた。チベット仏教の文化は消滅の危機にさらされている。チベットのケースは、日本とは規模は大きく異なるが、残虐行為の実態は驚くほど共通している。

(2)「慰安婦と日本軍規律に関する文書」

<申請者>日本:なでしこアクション、慰安婦の真実国民運動

     アメリカ:The Study Group For Japan’s Rebirth

<概要> 慰安婦comfort womenについて誤解が蔓延しています。正しく理解されるべきであり、記憶遺産に申請します。慰安婦とは、戦時中から1945年終戦までは日本軍向け、戦後は日本に駐留した連合軍向けに働いた女性たちで、民間業者が雇用、法的に認められた仕事でした。他の職業同様、住む場所・日常行動について制限はありましたが、戦線ではあっても相応な自由はあり、高い報酬を得ていました。彼女らは性奴隷ではありません。申請した文書には、日本人33人の証言集があります。これは当時、慰安婦らと直に会話し取材したものです。また、慰安所のお客が守る厳格な決まり、占領地の住民を平等に扱ったこと、ヒトラーのドイツ民族優位論を否定するなど、日本軍の規律や戦争に対する姿勢などが記されている文書もあります。慰安婦制度が現地女性の強姦や、性病の防止に効果があったこと、日本軍は規律正しかったことも記されています。

オバマ広島訪問と「人類」の欺瞞

 オバマ大統領の広島演説を聴いた。予想した通り「人類」という言葉が使われた。短い発言を区切って一語一語をたしかめるように語り、演説の効果を高めていた。うまいと思った。

 その後につづく安倍首相の演説は長過ぎた。内容もやや低調だ。きれいごとを冗漫に語りつづけ、もうここいらで止めたらいいのにと何度も思った。

 大統領に謝罪を求める気持ちが日本人にないということがアメリカに伝わり、好感情を持たれ、それがオバマの訪問を後押ししたといわれる。何ごとにでもすぐ安易に謝罪したりされたりしたがる日本人が、原爆投下に対してだけは謝罪を求める気持ちを持たないということは深く複雑で、簡単にすぐ解ける問題ではない。

 70年間にわたり日本人を支配したのは「恐怖」だった。今も消えてはいないし、これからもつづく。アメリカに対する怨みや、憎しみや、敵意といった単純な心理で説明することのできない、何とも言いようのない理不尽なものを感じつづけてきた。悪ではない、悪以上の何か、非道なことを平然とやってのける冷酷さを感じつづけてこなかった日本人は恐らくいないだろう。

 「恐怖」を逃げるために日本対アメリカの対立構図を避けて、日本とアメリカの両方を越える「人類」という概念に救いが求められる。そして、オバマ大統領も私が予想した通り「人類」の語を使った。日本の被爆者代表の人もよくこの語を用いたがる。

 恩讐の彼方に、ということなのだろうか。そんな風に単純に考えていいのだろうか。

 私はオバマ訪日の5月26日の二週間前に、新雑誌「月刊hanada」のために27日の広島を予想して一論考を書き上げ、編集者に渡した。題して「オバマ広島訪問と『人類』の欺瞞」

 ところが雑誌が店頭に並ぶ26日より2日前に私の手元に一部届けられ、目次を開いたら「オバマ広島訪問と拉致問題」にとり替えられていた。私は正直がっかりし、また悲しかった。ずっとそのあと気分がすぐれず落ち込んでいる。

 私の論文は拉致問題を話題にしてもち出してはいるが、単に冒頭に論述上の枕として用いただけで、拉致のテーマは論じていない。私の従兄の原爆死、叔母の悲嘆、従姉との思い出などを基本に、あの有名な原爆碑の碑文をめぐるテーマを取り扱っている。オバマが「人類」という概念を用いるであろうことを三週間前に予想して書き上げた内容だ。

 私の読者に告げておきたい。雑誌にのる私の文章の題名は私がつけるのではない。題名を無視して欲しい。内容を読んで、私の真意を自らつかんで欲しい。

 「オバマ広島訪問と『人類』の欺瞞」が「オバマ広島訪問と拉致問題」に取り替えられたとき、文章の内容の70%はすり替えられてしまっている。私の真の読者はごまかされないだろうが、一般の広い読者は誤読するだろう。こんなことは一昔前の言論界にはなかったことだ。

 いつの日にか私はこの論文も単行本に収める日が来るだろう。そのときには元の題「オバマ広島訪問と『人類』の欺瞞」に戻すだろう。しかし書誌的には私が本に入れるときに改題したということになり、不本意な思いが残る。

 こういうことが最近あまりに多い。だんだん書く元気がなくなってきている。

 で、読者の皆さまにお願い申し上げる。私の評論が雑誌に出たとき、標題はないものにして考えないことにして欲しい。標題が目に入っても大抵これは別の人の作為が入っているから当てにならない、と考えて欲しい。そして「人類の欺瞞」がこの評論の中心テーマだと知って今気持ちをあらためて当該論文を手に取って読んで欲しい。