ゲストエッセイ
坦々塾塾生・つくる会会員・石原 隆夫
10)「学び舎」はつくる会潰しの刺客だったのではないか
「つくる会」の20年にわたる歴史を振り返りながら、周辺で起こった事なども縷々述べてきたのだが、昨年の採択で公立学校ゼロ採択という「つくる会」が存亡の危機に追い込まれた原因について、私の考えをに明らかにしておきたい。
第一に、会員が忘れてならないのは、20年前世間の熱い注目を浴びて発足した「つくる会」が、十二分の準備を経て世に問うた最初の教科書が、検定の段階で検定審議会の委員であった元インド大使による謀略であわや潰されそうになった事件である。外務省の「つくる会」潰しの謀略は新聞報道で暴露され失敗に終わったのだが、これは「つくる会」の歴史認識が自虐史観の外務省にとっては都合が悪かったために、国家権力を振るってまで「つくる会」を潰そうとした事件だったのだ。謀略がバレて「つくる会」潰しを外務省が諦めたと考えるのは早計である。日本の省庁では、一旦決めた方針は、それが成就するまではその方針を堅持するのはよく知られたことである。例としてあげれば、文科省の「ゆとり教育」の方針があれほど批判を受けたにも拘わらず、方針の白紙化の徹底は行われることなく、つい最近までその影響を残し細々ながら生き延びてきたし、外務省の例を挙げるならば、日本政府は東京裁判の扱いについて、judgments(個々の判決)を「裁判」と解釈し、日本は東京裁判全体を受諾したとし、永久にハンディキャップ国家であるべきだと考える外務省の東京裁判史観はいまだに確固として受けつがれていて、日本外交の隘路となっている。言うまでも無く今ではjudgmentsが個々の判決の意である事は、世界の国際法学者が等しく認めているところである。(佐藤和男監修「世界が裁く東京裁判」p247)
実は従来から歴史教科書について外務省は中韓と国内左翼から責められ続けてきた。例えば教科書誤報事件と言われる1982年の「第一次教科書問題」では、中韓に配慮した「近隣諸国条項」という屈辱的な検定基準を文科省は定めざるを得なかったし、1986年の「新編日本史」という高校の教科書がやり玉にあがった「第二次教科書問題」では、政府は中韓の圧力に負けて真っ当な発言をした藤尾文科大臣を罷免してしまった。当時、外務省が日中韓三国の力関係を冷徹に分析しかつ東京裁判史観に汚染されていなければ、国益を主張して政府をバックアップし、このような内政干渉を排除することは容易であった筈である。歴史教科書問題で常に日本が中韓の言いなりになってしまう原因は、そうした外務省の自虐史観から来る不作為にあると言っても過言ではないのだ。
長年にわたって「南京事件」や「慰安婦問題」を否定する活動を継続し、教科書運動にも反映しようとした「つくる会」は、中国・韓国からは歴史修正主義者だとして攻撃の的となり、それ故に常に中韓の矢面に立たされてきた外務省に取っては、一昨年の検定で明らかになった、南京事件については一切書かず、実際にあった中国兵による日本人虐殺事件である「通州事件」を書き、さらにマッカーサーの東京裁判批判談話を書くにいたった「つくる会」の教科書は、我慢の限界だったのかも知れない。そして中韓が長らく日本に対し外交交渉を通じて、南京虐殺と慰安婦を教科書にきちんと記述するよう求めていたことへの決着を付けるよいチャンスだと思ったに違いない。そして、外務省は20年前の「つくる会」潰しの謀略を完成させることにしたのだろう。
今回は20年前のように外務省が表に出て直接「つくる会」を叩くような馬鹿な作戦ではなく、
GHQが生みの親であり東京裁判史観を信奉する日教組や、「近隣諸国条項」に縛られる文科省の一部勢力など、反「つくる会」の勢力を合法的に利用し、事なかれ主義の採択関係者の心理をも巧みに利用した「つくる会」潰しが行われたと見て良いだろう。そして、「つくる会」潰しの刺客になったのが「学び舎」である。学び舎の教科書は、数年前から日教組の元教師達が退職金を持ち寄って作ったと言われているが、本当だろうか。日本史として系統立った記述ではなく、前後の脈絡もなくエピソードを積み重ねただけのような、とても歴史教科書とは思えない手抜き教科書に、それほどの時間と金が掛かったとは思えないのだ。だが、そんな学び舎の教科書が、結果的に「つくる会」潰しの刺客として効果を発揮したことは事実である。
学び舎が刺客として使われたのは、採択戦突入直前に朝日新聞が一面を使ってデカデカと報じた、直前まで文科省検定審議官だった人物とのインタビュー記事である、文科省の基準に合っていない学び舎を合格させるために自由社を貶めたあのインタビュー記事である。全国の採択関係者の殆どがこの記事に注目したに違いない。そしてこの記事は、「つくる会」の教科書を採択候補から外してもよい理由を採択関係者に提供したのである。微妙なこの時期に、朝日新聞にこのような人物を起用させてインタビュウー記事を書かせた黒幕は誰なのか?文科省基準を逸脱した学び舎の教科書と言いながらそれを検定合格させたのは、明らかに文科省の自殺行為だが、それを敢えて公表したのはなぜなのか? その結果、「つくる会」の教科書が公立学校から消滅したのはまぎれもない事実なのである。
ところで、学び舎の出現は「つくる会」潰しの刺客となっただけではない。恐ろしいことに、将来的に歴史教科書業界を一気に更なる左傾化へ転換させる布石となったのではないだろうか。何処の国の教科書かと言われるほどの「学び舎」の反日自虐教科書を挙って採択したのは、奇妙なことに、官界、法曹界、学会に多くの卒業生を送り込むエリート校と言われる国公立の附属中学校であり、反日ネットワークとも言うべき日教組の影響が大きい学校だった。この流れは、高校・大学への受験勉強に学び舎の教科書の存在感を増し、今後無視できないことになるのではないのか。私には、外務省と文科省と日教組がほくそ笑みながら、「つくる会」の今後に注目している姿が見えるのだ。そして符丁を合わせるかのように、昨年暮れに慰安婦日韓合意が突如成立し、外務省の不作為が原因で中国の思惑通り、南京事件があっさりとユネスコの記憶遺産に登録されたのだ。この一連の流れを全くの偶然とは私には思えないのである。
昨年の採択戦の結果としてはっきり言えるのは、子供達の教育環境がますます自虐史観の毒に染められていくだろうという予感であり、そこには国家権力が介在しているに違いないという怖れである。我々はこれをはね除けなければ子供達に顔向けができないのだ。より良い教科書作りの継続は勿論だが、国家権力の介入を排除し、国民に見える採択システムの構築を文科省に要求していくことも重要である。まだまだ戦える道はあるに違いない。
戦後、アメリカに良いようにされてしまった日本と日本人の教育を見直し、本来の日本人の歴史を取り戻そうとする「つくる会」の教科書改善運動は、東京裁判史観にどっぷり漬かり目的を見失なった末に、事なかれ主義と個人主義に漂よって太平楽を楽しむ世情に対し、危機感を抱いた無名の人達に支持されてきた。だが「つくる会」発足後20年にわたって、目に見えるような実りを得られなかった運動にもかかわらず、初心を忘れず運動を継続してきた会員の情熱と使命感には唯々頭が下がる思いである。ある会員が言った次の言葉が忘れられない。『結果が出るに越したことはないが、戦後70年の間染みこんだ垢を落とすには70年かかると思うべきだ。こんな壮大な運動に関わることが出来るだけでも幸せだと思うし、孫のためにも頑張らなければならないと思う。戦後、経済一辺倒で無為に過ごし、チャンとした日本を子供や孫達に残すことが出来なかった我々老人には、やらねばならない老後の仕事だと思っている』。願わくば、この老人のように残りの人生を有意義に過ごすことを望み、その手立てとして「つくる会」運動の灯を絶やすことなく、次の世代に手渡すまで戦い続けることができれば、これほどの幸せはないだろう。
了