「ドイツ・EU・中国」そして日本の孤独(二)

 以上のようなことを枕木にしておいて、この講演の主催者から頂いたテーマ、「ドイツ・EU・中国」という三大話をして欲しいということで準備してきているのですが、ドイツのお話をするとなると、多分最初に戦後補償・戦後処理の話が聞きたいと思われるテーマでしょうから、それがどのように様々な問題に繋がるのか、ということがメインポイントになります。

 戦後処理というのは二つあります。ひとつは第二次世界大戦の戦後処理、もう一つは冷戦の戦後処理です。ドイツ人にとってこれは、すくなくとも同じ構造を惹き起こしました。冷戦終結の場合はドイツの半分、東ドイツに於いてですが、構造が全く同じなのです。つまり全体主義国家の犯罪処理です。個人の犯罪はどこまで責任が問えるのかという問題が、ヒトラーの時もスターリン型国家のあとにもあったわけですね。今もあるわけで、それは終わっていないのです。その話を私が徹底的に論じた本が『西尾幹二全集 第12巻「全体主義の呪い」』(国書刊行会)という本です。その目次を見てください。「序に代えて ドイツよ、日本の戦後処理を見習え」。そうなのですよ。私は30枚くらい徹底的に書いていますが、ドイツこそ日本の戦後処理を見習うべきで、日本はモデルと言っていいくらい見事に戦後処理を完結しているのです。この巻には『全体主義の呪い』という1冊の本が入っていて、これは「東西ヨーロッパの最前線に見る」という副題がつき、前編と後編に分かれています。前編が「罪と罰」、後編が「自由の恐怖」という題であり、東ヨーロッパを探訪した記録的な文章で一冊の大きな本です。このほかに同巻には『異なる悲劇 日本とドイツ』が入っています。先の『全体主義の呪い』を踏まえて私がヴァイツゼッカー前ドイツ大統領の謝罪演説がおかしい、という大変大きな大反響を呼んだ論文を書きましたが、それです。「ヴァイツゼッカー前ドイツ大統領の謝罪演説の欺瞞」「ヴァイツゼッカー来日演説に見る新たなる欺瞞(その一)」「同(その二)」「『異なる悲劇 日本とドイツ』がもたらした政治効果とマスコミへの影響―私の自己検証」この辺りがこの一冊のメインなのですが、私のこのテーマは大変評判を呼んで多く人の耳に達していると思いますが、このテーマを巡って一冊に全部入っておりますので、同問題を考えるときの私からの最重要な資料提供書です。

 ヴァイツゼッカーの問題を語るだけでも容易ではないので、ここではどれか一つだけでもお話しできればよいかと思っておりますが。カール・ヤスパースというドイツの哲学者が1946年に“Die Schuldfrage”『責罪論』という罪の責任を問う論文を著して、これは戦後大変評判になり翻訳もされています。ヤスパースは罪には四つの種類があるとして、第一に刑法で裁かれるべき罪、つまり「刑法上の罪」。これは裁判所で裁かれればよい。第二は「政治上の罪」。これは国家が責任を負って賠償金を支払えばよい。第三は「道徳的な罪」。これはどこまでも個人の心の問題。第四は「形而上的な罪」。これは神の啓示にかかわる問題。そのときの日本の知識人はどう対応したか。「ヤスパース先生の言うことは深みがあって素晴らしい。」となってしまうのです。

 私はこれを全部「嘘」と思って読みました。「刑法に触れた人は罪になる」といいますが、たとえばユダヤ人に致死量の注射を打った看護婦は罪になる。しかしユダヤ人を輸送した運輸省の官僚は罪にならない。したがってナチスの犯罪はいかなる行政にも官僚組織にもメスが入りませんでした。1,200万人のナチ党員は全て無罪で西ドイツ社会に残存しました。それが実態で、ドイツ国民は百も承知のこととしていました。それにしても、このヤスパースの議論はおかしいではないですか。収容所で監視をしていた男がユダヤ人を殺したとか殴って傷つけたことなどが戦後の裁判で裁かれました。昨年も98歳かの老人がこの件で判決を受けています。これは「刑法の罪」に触る。しかし「政治的な罪」に関しては国家はお金を払うしかないとはっきり言っています。ヤスパースがドイツ国民を奈落の底から救うための論法だったことは間違いないと私は思いました。

 ところが日本のインテリというのはそこが全く分からないのです。戦後だれも気がつかず、深みのある神への告白とか、世界への責任とか、実存哲学の先生が素晴らしいことを言ったとか言っていていたものです。神学的論法の中にも戦略があることに気がついていません。歴代のドイツ大統領は初代テオドール・ホイスからヨアヒム・ガウク現大統領にいたるまでこのヤスパースの理論を利用して、罪は個人にあり、集団に、民族に罪は無いと言いつづけました。やった個人にだけ罪があると言って、いまだに開き直っています。そういう問題が根源的にドイツにはあります。この程度の話ではなく、もっと奥深い重大な罪と罰を巡る諸問題を私の全集第12巻で詳しく論じていますが、ここでは簡単な概略だけをお話ししてみました。

 また全集を新たに追補した論文として、『異なる悲劇 日本とドイツ』には収録されていない「ヴァイツゼッカー来日演説に見る新たなる欺瞞(その二)」Ⅱ」から少し紹介してみます。ヴァイツゼッカーは東京ではなく名古屋で講演して、NHKで放送され全文は東京新聞に載りました。その来日講演「ドイツと日本の戦後五〇年」を吟味して書いた論文ですが、内容を少し紹介すれば私のお伝えしようとしていることが皆さんによりよくわかり易くなるだろうと思います。

 ヴァイツゼッカーさんは頗る慎重なものの言い方でした。日本側に対立感情があること、批判者がいることに気が付いていました。批判者がいたのです。それは私ですよ。ちゃんと伝わっていたのですね。そこで非常に慎重なことを言ったのですが、内容のほぼ中段でアッと驚くような極めて億面のない政治的主張を展開したのです。「12年にわたるナチ支配はドイツの歴史における異常な一時期である」と。日本の歴史には戦前から戦後にかけての連続性があるが、ドイツ史には断絶があり、客観的に「政治史」を比較すれば以上のようなことは確かにいえます。一人の天皇が戦前から統治した我が国はナチスのようなテロ国家に陥らないですんだひとつの「幸運」なのです。少なくとも日独の当時の体制の質的相違は間違いなくあるので、ヴァイツゼッカーさんがそのような違いを言ったのはそれなりに正しいのです。しかしドイツ史には「異常な一時期」があって、その一時期だけ「ナチスという暴力集団に占領された」が、今は彼らを追い払って「清潔な民主国家」に生まれ変わった、という前提にあくまでしがみ付いて語る。これは年来のドイツ国民の主張なのです。今のドイツ国民は頭からそう信じています。ドイツは12年間だけ悪魔に支配されましたが、それ以前もそれ以降の歴史にも悪魔はいない。丁度フランスやオランダやポーランドがナチスという悪魔から「解放」されたと同じように、ドイツも1945年に悪魔の憑(つ)きが落ちて、きれいさっぱり浄化されたと、まことに臆面のない主張が展開されていました。そんなバカなことはあり得ませんよね。ナチスにはそれに至る前史があります。またナチス協力者1,200人が裁かれずに社会復帰した戦後史があります。ナチスを支えた司法にも行政にも、戦後いっさいメスは入らなかったのです。ドイツにおいても過去は清算されず、継続したままです。私はそれでいいと言っているのです。仕方がないと言っているのです。過去は永遠にどの国だって清算などできません。ドイツが必死にそれを認めまいとするのは、余りにその過去がおぞましくて惨劇だから、簡単に認めることなどできないということで、私も同情はしています。

 日本人が戦前からの歴史の連続性を正直に認めることができるのは、「他民族絶滅政策」というナチスのような異常犯罪を犯していないからです。アメリカ・イギリス・フランス・オランダ・ソ連との戦争で、私たちは何の罪の意識を持っていません。そうでしょう。私たちはアジアの解放者ですから、いかなる罪も持ちません。正義の戦いをしたのだから当たり前です。シナについてだけは違うのではないかという議論はあるのでしょうが、それだけで大きな話になるからここで展開はしません。しかしドイツは事あるごとに一切の自己弁明が禁じられています。そのために歴史の中のある一時期だけは無かったことにするという弁解をせざるを得ない欺瞞的論理を展開することになりますが、そこまではいいのです。私はドイツの歴史には同情しているのだから。しかし日本の歴史の連続性を批判し、ドイツは戦後ナチスから解放された民主国家になったが、日本は僅かに経済発展が制度を少し変えた程度で、未だに天皇制など古い体質を引き摺って困ったものだと言わんばかりのことを言ったのです。とんでもないですね。これがヴァイツゼッカーの正体です。

 この間亡くなったシュミット前総理も同じことを言いました。今出ている週刊新潮(11月26日号)に私がシュミットに反論を書いたことが載っています。「墓碑銘」というところです。シュミットの日本人への忠告、「周りに友人を持て」という言葉は良いのだけれど、皆それに騙されて、まるで日本がナチスと同じような犯罪をしたかのようなことを言うのです。その「お節介」が中国と韓国に渡って、まるで日本をナチスのように言うわけです。それに反撃しない日本人がおかしいのですが、いったいドイツ史と比較して日本の過去をこんな風に批判する資格がドイツ人のどこにあるのでしょうか。それを感激して聴いたり、公共放送の電波にのせたり、聖者のように扱ったりする日本人はどこかおかしいのではないでしょうか。ドイツでは戦前、ヒトラーが政治的失敗をしても、国民はそれは誰か別の下輩がやった犯罪とみて、「ああ、そのことを総統が知っていてくれればなぁ」などと言っていたそうです。それほどまでにドイツ人はヒトラーを愛していたのです。ヒトラーが好きでたまらなかったのです。そういう自分の過去をなかったことにすることができますか。歴史が暴力集団に一時的に占領された、などという言い遁(のが)れのきくような単純な話ではない。ヒトラーとその一味を悪者にして、自分たちはそうではなかったということを言外に必死に言いたいがために、前大統領は巧みにドイツ擁護論をぶって、そのうえ日本を侮辱して帰国しました。私は論文の最後に「日本人よ、知的に翻弄されるな、しっかりせよ。私はただそう言いたいだけである。」と書きました。ありとあらゆる歴史問題が当全集12巻に書かれていますが、それをお話しすると空中分解してしまいますので、600ページ以上の厚い本ですが、ご自身で読んで頂きたいのです。

 さて、冷戦終結後も同じ問題が起こります。「全体主義の呪い」ではその問題だけを徹底的に論じていて、ヒトラーとスターリンの問題が東ヨーロッパの半分にとってはひじょうに深刻な問題でした。東ヨーロッパを旅行したら、どこに行っても第二次大戦中のファシズムと冷戦下の共産主義とを区別していません。どちらも同じものとして理解していました。たとえばユダヤ人に致死量の注射を打ったひとりの看護婦が罰せられる問題。そしてユダヤ人を輸送した運輸省の官僚は罰せられないという矛盾。同じ問題が、ベルリンの壁を越えて逃亡しようとした東ベルリンの市民を射殺した警官だけに殺人罪の罪が与えられ、なぜ秘密警察のミールケ長官の罪は問われないのかという形で冷戦終結後に大きな問題として沸騰しました。その問題を一所懸命戦ったのはガウクという現大統領です。それで彼はドイツでひじょうに評価されています。

 EUの問題はこのドイツの問題と切り離せない関係にあります。戦争が終わり、もう二度とああいうことはしたくないという、今までヨーロッパは盲のように二千年近く激しい戦争ばかりしていた地域でしたから、ドイツは「ユダヤ人の虐殺」には謝罪しましたが、「侵略戦争」には謝罪していません。なぜなら侵略はヨーロッパの世界ではごく当たり前なノーマルな現実で、あちこちを互いに侵略しあっていました。第二次世界大戦の侵略をいまさら謝罪するわけがないのです。そんなことはお互い様でしたから。

 そういうことに疲れてしまって、ヨーロッパにも広い世界がやっと見えてきたのです。つまり自分たちが唯我独尊でアフリカ、アジアまで侵略して勝手なことをやっていたのを、ふと気が付いたらアメリカが出てきている、日本が出てきている、ソヴィエトがある。ヨーロッパは纏まらなければやってゆけない。それに気が付いて統合ヨーロッパをつくろうという自覚が高まって、その中心になるのはドイツとフランスですから、彼らが和解しなければ何時までも永遠に争わなければならなかった。そのような自覚があって、ドイツがフランスに和を請う、という形になり、そのことで戦後ドイツが一貫して頭が上がらなかったのがフランスなのです。永い間フランスの意向をおもんばかりました。

(まとめ 阿由葉秀峰)

つづく

「ドイツ・EU・中国」そして日本の孤独(一)

株式会社リアルインサイト 講演会(平成27年11月22日)より

「ドイツ・EU・中国」そして日本の孤独

(一)

 今月から来月にかけて、サイコロの目がどちらに振れるか分からないので世界の目が固唾を呑んで見守っている重大案件があります(11月22日現在)。それは国際通貨基金(以下IMF)の特別引出権(以下SDR)、がドル・ユーロ・ポンド・円に加えて人民元を主要通貨として加えるか否かで、どうやら加えることになりそうだということ。そういうホットな問題が動いています。人民元がSDRの構成通貨になりますと、ドルと同じように基軸通貨のひとつになります。IMFはこれを非常に強く推進しようとしています。専務理事クリスティーヌ・ラガルドは中国から賄賂を貰っているのではないか、などという話もあります。

 金融マーケットの門戸開放や自由化をすると、人民元はある種の改革を強いられます。具体的には変動相場制にしなければならず、そのような条件に合わないのが人民元です。この間の8月にも株が暴落したとき、中国政府が介入してマーケットに取引のストップをかけるという、資本主義ではあり得ない前代未聞の国家管理が加えられました。そんな通貨を国際化していいのか。常識では当然考えられないことです。ところがどういう訳かIMFは大甘で、中国が変動相場制の「計画」を示しさえすれば来年10月からSDR構成通貨として認定してもよい、というシグナルを送っています。

 もちろんアメリカと日本は大反対を展開しています。中国経済はバブルの様相を深め、著しい経済の失速と成長率の低下でハードランディング、えらい自己破壊を演じるのではないか、というシナリオが世界の人々の視野には入っています。しかし「アメリカ・日本」対「中国・ヨーロッパ」の主導権争いが展開され、今のところ中国の押せ押せムードになっているということは新聞等のとおりです。なぜそれが私達にとって困るのかといえば、中国共産党の都合で上がったり下がったりする基軸通貨であったら、どんな政治的威嚇にも利用されてしまうからです。

 8月の人民元の相場が11日に約2%から3日間で5%近く落ちたわけですが、その下落幅自体は日本円でも75円から125円と相当あったのですが、当時の日本政府は何も為すことができませんでした。為替の介入を若干やっても動かなかった。私たちはその苦痛を知っています。しかし中国政府は主要な株の売買まで止めてしまいます。人民元はつまり、中国政府の意向によって突然ルールが変更されてしまうような通貨で、これは野球やサッカーの試合の途中で審判がルールの変更を宣言するような話であって、こんなことがあって良いのか、というのが常識です。

 同時に我が国が大変憂慮しているのは中国の経済的影響力が同時に軍事的拡大に拍車をかけることです。実はヨーロッパ諸国特にイギリス・フランス・ドイツは、日本を含むアジアの国々すべてが中国の植民地になっても一向に構わない、自分の財布が潤えばそれでよい、という考えです。これは昔からそうです。かつて日本がなぜ戦争に入ったかと言えばそれがあったからです。今は第一次世界大戦と第二次世界大戦の戦間期と大変に似ています。つまり日本の孤独ということです。

 東アジア諸国連合(ASEAN)のうち一国でも中国の支配下に入れば、中国は自由に太平洋を出入りできるようになり、日本列島は中国海軍に包囲されてしまします。食料や原油の輸入もいちいち中国の許可を得なければ動けないことになります。これはアメリカにとってもただごとではありません。もし日本の中国化が進んだらアメリカの西海岸は直接中国と対峙することにならざるを得ません。カリフォルニアの沿岸で中国軍の潜水艦と向き合うことになります。そんなことはあり得ないと思われるかもしれませんが、世界は何が起こるか分からないのが歴史の常です。「資本家は金儲けになれば自分を絞首刑にするための縄をなう」の故事を裏書きしていますが、お金のためなら何でもするのが中国です。つまり今起こっていることは、8月11日の人民元の引下げで多くの外国が損をしました。そのために中国から資金を撤退し、外資の引き揚げが更に進んでいます。中国人民銀行は株を買い支える、つまり北京政府が買い支えなければ暴落する、という危ない経済構造になっています。

 IMFはなぜそんな不相応な対応をするのか。日本とアメリカはそれに対抗しているのですが、8月から9月の段階で怪しい空気がたちあがっています。すでに麻生財務大臣がこれを認めざるをえないという発言をして、日本もその方向に進んでいます。あっという間の意向変更です。
「パニックや危機が起きる瞬間に中国当局が資本の移動を取り締まるのではという恐れがある限り、人民元をSDRの準備通貨とすることはできない」
とはサンフランシスコ連銀総裁の言葉ですが、私はこのコメントを支持します。アメリカにはしっかりした人もいるのです。しかし怪しい人もたくさんいます。

 中国は外貨準備高が急速に減少しています。とてもではありませんが、現状ではアジアインフラ投資銀行(以下AIIB)に対応するだけの余裕など無いのではないでしょうか。AIIBの資本金の振込みはドル建てになっています。しかし中国はこれを何とかして人民元で支払いたいのです。どんどん自分で札を刷ればよいのですから。それを国際社会が許すのか、ということもありますが。また人民元の価値が急速に下がり中国政府が損をする可能性もあります。中国は政府の為替介入はしないとか、変動相場制にするとか、こうした規制撤廃を半年後や一年後にするとかが必須です。中国の約束や計画だけで人民元のSDRを認めてしまうなら、IMFは約束が守られないことを承知で救おうとしているとしか見えません。

 結局これはヨーロッパ諸国が自分たちを守るためなのです。具体的にはフォルクスワーゲンの主力工場が失敗して、メルケル首相が中国に飛んで、中国のフォルクスワーゲンの工場は中国が資金を出すという約束をとりつけました。フォルクスワーゲンは他では売れないけれど中国ではまだ売れます。中国は一番大きな取引先で、大気汚染も構わず安ければよい国なので、当然ドイツは目の色を変えているのです。イギリスが中国に対して何故あんなみっともないことをしたのかというと、イギリス経済は行着くところまで行ってしまってもう先がないので、人民元によって金融街シティの活性化、シティを守り復活させたいという意図があるわけです。イギリスの製造業は見通しなく、金融(情報戦略)だけが国力の支えです。

 これは私の目には「中国とヨーロッパ諸国の弱者同盟」に見えます。しかしそれがどんなに大きな影響力があるかを考えると、簡単にはいきません。中国の状況は多くの情報にあるとおりで、ここで強調しませんが、特権階級は人口のわずか0.7%で、これが国富の70%を握っています。約9%は1億人程度ですが、中産階級で、あわせて9.7%です。つまりこの約10%が「爆買い」をしているメンバーですが、残りの12憶5千万人は抑圧され搾取されている人々です。恐らく中国経済が破産すれば中産階級を含めて没落消滅してしまうことでしょう。中国人は人民元が紙屑になることが近いことを敏感に感受して焦っているのです。だから外国で不動産を買い漁ったりして少しでもしっかりしたものを手に入れたいと思っているわけです。中国の経済体制が砂上の楼閣であることに気が付いているのですね。中国の負債総額は3千兆円といわれていて、利払いだけで年間150兆円くらいですから到底返せるわけがありません。リーマンショック以降、公共事業投資約6兆円のものと地方政府による不動産開発投資で一旦自由化の道に入っていたかに見えた中国のマーケットが、習近平によって一変に国家社会主義的、国家的管理の下のファシズム国家体制に戻ってしまったのは皆さんもご存じのとおりです。従って人民元を増刷して公的資金を企業に投げ込んで、ひたすら危なくなっている自転車操業の延命を図ろうとしているのが今の中国の実態です。このような中国に協力しないと自分たちも危ないと思い、一所懸命支持しているのがヨーロッパ諸国であり、IMFであるということになり、日本もまた仕方がないということでしょうけれど、麻生さんが急に合意するような発言に変わってしまったのも欧州の意向にさしあたり合わせたのでしょう。

 ここで政治的な話をしますが、ヨーロッパ諸国はヒトラーやスターリンに悩んだのではないでしょうか。その歴史を忘れてしまったのでしょうか。縷々説明するまでもありませんが、習近平はソフトな社会主義から一変にハードなスターリン型国家経営に転じていますね。それを私たちは黙って見ていてよいのでしょうか。安倍総理にはいろいろな機会で、共産主義の克服、一党独裁政治に終止符を打ち理不尽な人権無視に対抗すべきと言って頂きたい。かねてヨーロッパ・アメリカが言っていたことを今、声を大にして日本が叫ばなければならない時がきているのではないか。日本が人権と民主主義と自由を叫ぶときが来ているのではないか。いったいアメリカは何をやっいてるのかと。アメリカにだけはそれが分かる人がかなりいます。アメリカだけが頼りなのですが、そのアメリカさえも、オバマ政権がIMFの意向に沿うような発言をしているものだから、結局怪しいのですね。

 私たちの考えている未来がどの方向に行くのか見えない。これは第一次世界大戦と第二次世界大戦の戦間期においても、イギリス・フランス、もちろんドイツも自分たちを守るためには何でもするのだと、皆シナ大陸に出てきていて散々悪いことをしておきながら、最後に日本軍が残って、彼らはみんな旨い汁だけ吸って逃げていったわけですね。あとは日本が苦い味だけを背負い込んだ。というのがシナ大陸における第二次世界大戦の実態です。今戦争の話を深くはしませんが、わが国だけが貧乏くじを引いたというのは間違いなく、今度もまた同じようなことが起こりつつあります。ヨーロッパ諸国から見るとアジアは遠いのです。彼らには何の危険も影響もないのです。

 そうであるならウクライナは日本から遠いのだから、日本はウクライナに援助などする必要はありません。もちろん今のEUの難民問題も一顧だにする必要はありません。私はそう思います。日本を助けてなんてくれっこないのだから、こちらが手を差し伸べる理由も全くないのです。いくら何でも日本もその程度のことは分かっているでしょう。ヨーロッパ諸国が「遠い中国」を盛り立てることは、ロシアの脅威を回避するために必要なのです。それから少しでもドルの価値を減価したいのがヨーロッパですから、そのためなら何でもやりたいわけです。悪魔の国、中国を利用するということに於いて徹底しているのです。

(まとめ 阿由葉秀峰)

つづく

謹賀新年(2)

 また一年が経ちました。皆様にはいかゞお過ごしですか。

 最近私は時事評論が書きにくくなりました。経済が世界を動かし、政治以上に政治であるようになり、従来保守の普通の感覚で国際政治は語れません。

 経済と政治の両方を見て書いている人に、田村秀男氏、宮崎正弘氏、藤井巌喜氏、三橋貴明氏、渡辺哲也氏等がおり、私はいつも丁寧に拝読しています。政治のことだけ言っている人は、なぜか現実の半分しか語っていないように思われてなりません。

 ですから私も両面のリアリティを語りたいと思うのですが、これが難しい。難しいだけでなく、自分の柄にも合っていない。やはり私は人文系で、人間にのみ関心があり、数理の世界は苦手です。

 経済は本当に分らない処がある。シティとウォール街はつながっていて、イギリスはアメリカの永遠の同調者だと思っていたら、中国をめぐる対応が余りに違う。金融が政治を支配しているのは間違いないが、金融と政治とは別ではなく、金融の動きが政治なのです。さりとて金融はよく言われるように果して国家を超えているでしょうか。

 国家の果す役割は小さくなったと語る人がいますが、世界はいぜんとして国家単位で動いています。EUが壊れかけてからますます国家中心です。冷戦時代の方がむしろ今よりグローバリズムでした。ことに日本は国家中心で考えないと、どうにもならない唯一性に支えられています。

 「西欧の没落」(シュペングラー)が出て100年近くですが、西欧は没落なんかしていません。私見では、1600年代初頭に「海」のグローバルな秩序を西欧が抑えることに決し、たゞし東アジアは圏外に置くとした認定が300年つづいたのです。そして二度の戦争でこの認定は排されました。「圏外」はなくすということになったのです。今もこれがつづいています。イスラムとロシアが抵抗していますが、日本は抵抗をやめました。冒険を捨て安全を選んだのは、独自性を捨て凡庸性を選んだのと同じことです。

 それでいてあき足らないものがある。そこで何かと日本の文化、日本人らしさ、和風を主張する声があちこちに聞こえます。ラグビーやノーベル賞をよろこぶ一方で、日本の技はこんなに素晴らしいと賞めちぎるテレビ番組が氾濫しています。なぜか自然に日本文化が主張されているようには思えません。いったん世界性という凡庸な価値観をくぐり抜けた「和」の再評価、つくられた偽装の自己主張のようにみえてなりません。

 今の若い人風にいえば日本は「可愛いい」国になりつつあり、なろうとしているようにみえます。オリンピック競技場のデザインも例外ではないでしょう。やはり17世紀以来の特権、地球上の特別指定席、秩序の圏外に置かれた枠を廃止されたことは大きい。自分で新しい秩序をつくろうとしましたが失敗し、圏内に押さえこまれてしまったのです。

 アメリカのことを言っているのではありません。欧と米を合わせたキリスト教文化圏のことです。ロシア(ギリシャ正教)とイスラムは抵抗しています。中国も抵抗しています。たゞし中国は昔の日本と同じやり方で一つの圏を守り、新しい秩序をつくろうとしていますが、いつも世界の評判を気にし、アメリカ方式の模倣に走り、「可愛いい」日本が出すだけの文化の魅力、独自性を発揮することにもなりそうにありません。時代遅れの軍事パレードが古い世界システムの追認以外のなにものでもないことを明かしました。これでは支那文化の主張にはなりません。視野が狭く、心が共産主義以前のままに閉ざされているのです。

 それならば日本は世界に先がけて既成の秩序とは別のもう一つの独自な花を咲かせることができるのでしょうか。「可愛いい日本」を打ち破れるでしょうか。

 独自性は特殊性とは違います。例外的であることではないのです。外の世界との違いに気づいて、自分をあらためて発見するのは良いことでしょうが、違うにこだわるのは独自性の発見ではありません。独自性は特異性ではないのです。

 世界のルールや物指し(尺度)に反することは愚かなことですが、かくべつ異をてらわず、活動や努力をしつづけているうちに、それが世界のルールや物指しの中に数え入れられるようになっていることが独自性ということでしょう。日本にはそういう事例がすでにいくつもあると思います。具体的に何がそうであるかは敢えて言わないことにします。

チャンネル桜 「闘論、倒論、討論」出演(1)

テーマ「ヨーロッパ解体と野蛮の台頭」
中東・欧州情勢・中国のSDR入り等を中心に今後の世界情勢について

パネリスト:50音順敬称略

小浜逸郎(評論家)
高山正之(ジャーナリスト)
西尾幹二(評論家)
馬淵睦夫(元ウクライナ兼モルドバ大使)
丸谷元人(ジャーナリスト・危機管理コンサルタント)
宮崎正弘(作家・評論家)
渡邊哲也(経済評論家)

司会:水島 総(日本文化チャンネル桜 代表)

日本人は少しおかしいのでは?

 ときどき日本人はどうしてこんなにおかしい民族なのだろうかと思うことがある。わずか12年前に、今から信じられないあまりに奇怪な言葉が書かれて、本気にされていた事実を次の文章から読み取っていたゞこう。

 最近出たばかりの私の全集第12巻『全体主義の呪い』の576ページ以下である。自分の昔の文章を整理していて発見した。

 この作品は初版から10年後の2003年に『壁の向こうの狂気』と題を変えて改版されたが、そのとき加筆した部分にこの言葉はあった。私もすっかり忘れていたのだった。

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全集第12巻P576より

 北朝鮮の拉致家族五人の帰国は、私たち日本人の「壁」の向こうからの客の到来が示す深刻さをはじめて切実に感じさせました。向こう側の社会はまったく異質なのだという「体制の相違」を、日本人は初めて本格的に突きつけられました。それは相違がよく分っていないナイーヴすぎる人が少なくないということで、かえって国民におやという不可解さと問題を考えさせるきっかけを与えました。

 北朝鮮が他の自由な国と同じ法意識や外交常識をもつという前提で、この国と仲良くして事態の解決を図ろうという楽天的なひとびとが最初いかに多かったかを思い出して下さい。「体制の相違」を一度も考えたことのない素朴なひとびとの無警戒ぶりを一つの意図をもって集め、並べたのは、五人が帰国した10月末から11月にかけての朝日新聞投書欄「声」でした。

「じっくり時間をかけ、両国を自由に往来できるようにして、子供と将来について相談できる環境をつくるのが大切なのではないでしょうか。子どもたちに逆拉致のような苦しみとならぬよう最大限の配慮が約束されて、初めて心から帰国が喜べると思うのですが」(10月24日)
「彼らの日朝間の自由往来を要求してはどうか。来日したい時に来日することができれば、何回か日朝間を往復するうちにどちらを生活の本拠にするかを判断できるだろう」(同25日)

 そもそもこういうことが簡単に出来ない相手国だから苦労しているのではないでしょうか。日本政府が五人をもう北朝鮮には戻さないと決定した件についても、次のようなオピニオンがのっていました。

「24年の歳月で築かれた人間関係や友情を、考える間もなく突然捨てるのである。いくら故郷への帰国であれ大きな衝撃に違いない」(同26日)

「ご家族を思った時、乱暴な処置ではないでしょうか。また、北朝鮮に行かせてあげて、連日の報道疲れを休め、ご家族で話し合う時間を持っていただいてもよいと思います」(同27日)

 ことに次の一文を読んだときに、現実からのあまりの外れ方にわが目を疑う思いでした。

「今回の政府の決定は、本人の意向を踏まえたものと言えず、明白な憲法違反だからである。・・・・・憲法22条は『何人も、公共の福祉に反しない限り、居住、移転及び職業選択の自由を有する。何人も、外国に移住し、又は国籍を離脱する自由を侵されない』と明記している。・・・・・拉致被害者にも、この居住の自由が保障されるべきことは言うまでもない。それを『政府方針』の名の下に、勝手に奪うことがどうして許されるのか」(同29日)

 常識ある読者は朝日新聞がなぜこんなわざとらしい投書を相次いでのせるのか不思議に思い、次第に腹が立ってくるでしょう。あの国に通用しない内容であることは新聞社側は百も知っているはずであります。承知でレベル以下の幼い空論、編集者の作文かと疑わせる文章を毎日のようにのせ続けていました。

 そこに新聞社の下心があります。やがて被害者の親子離れが問題となり、世論が割れた頃合いを見計らって、投書の内容は社説となり、北朝鮮政府を同情的に理解する社論が展開されるという手筈になるのでしょう。朝日新聞が再三やってきたことでした。

 何かというと日本の植民地統治時代の罪をもち出し、拉致の犯罪性を薄めようとするのも同紙のほぼ常套のやり方でした。

 鎖国状態になっている「全体主義国家」というものの実態について、かなりの知識が届けられているはずなのに、いったいどうしてこれほどまでに人を食ったような言論がわが国では堂々と罷り通っているのでしょうか。誤認の拉致被害者をいったん北朝鮮に戻すのが正しい対応だという意見は、朝日の「声」だけでなく、マスコミの至る処に存在しました。

「どこでどのように生きるかを選ぶのは本人であって、それを自由に選べ、また変更できる状況を作り出すことこそ大事なのでは」(「毎日新聞」)12月1日)

 と書いているのは作家の高樹のぶ子氏でした。彼女は「被害者を二カ月に一度日本に帰国させる約束をとりつけよ」などと相手をまるでフランスかイギリスのような国と思っている能天気は発言をぶちあげてます。

 彼女は「北朝鮮から『約束を破った』と言われる一連のやり方には納得がいかない」と、拉致という犯罪国の言い分を認め、五人を戻さないことで
「外から見た日本はまことに情緒的で傲慢、信用ならない子供に見えるに違いない」とまでのおっしゃりようであります。

 この最後の一文に毎日新聞編集委員の岸井成格氏が感動し(「毎日新聞」12月3日)、一日朝TBS系テレビで「被害者五人をいったん北朝鮮に戻すべきです」と持論を主張してきたと報告し、同席の大宅映子さんが「私もそう思う」と同調したそうです。同じ発言は評論家の木元教子さん(「読売新聞」10月31日)にもあり、民主党の石井一副代表も「日本政府のやり方は間違っている。私なら『一度帰り、一か月後に家族全部を連れて帰ってこい』という」(「産経新聞」11月21日)とまるであの国が何でも許してくれる自由の国であるかのような言い方をなさっている。

 いったいどうしてこんな言い方があちこちで罷り通っているのでしょう。五人と子供たちを切り離したのは日本政府の決定だという誤解が以上みてきた一定方向のマスコミを蔽っています。

 「体制の相違」という初歩的認識を彼らにもう一度しっかりかみしめてもらいたい。

 日本を知り、北朝鮮を外から見てしまった五人は、もはや元の北朝鮮公民ではありません。北へ戻れば、二度と日本へ帰れないでしょう。強制収容所へ入れられるかもしれません。過酷な運命が待っていましょう。そのことを一番知って恐怖しているのは、ほかならぬ彼ら五人だという明白な証拠があります。彼らは帰国後、北へすぐ戻る素振りをみせていました。政治的に用心深い安全な発言を繰り返していたのはそのためです。二歩の政府はひょっとすると自分たちを助けないかもしれない、とずっと考えていたふしがあります。北へ送還するかもしれないとの不安に怯えていたからなのです。

 日本政府が永住帰国を決定した前後から、五人は「もう北へ戻りたくない」「日本で家族と会いたい」と言い出すようになりました。安心したからです。日本政府が無理に言わせているからではありません。政府決定でようやく不安が消えたからなのでした。これが「全体主義国家」とわれわれの側にある普通の国との間の「埋められぬ断層」の心理現象です。

引用終わり
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 いかがであろう。読者の皆様には多分びっくりされたであろう。

 「朝日」や「毎日」がおかしいというのは確かだが、それだけではない。日本人はおかしいとも思うだろう。

 これらの言葉を私はむろん否定的に扱っているが、まともに付き合って書いている。狂気扱いはしていない。これらが流通していた世の中の現実感覚を私も前提にしている。間違った内容だと言っているが、気違いだとは言っていない。しかし今からみれば、私だけではない、「朝日」の読者だって自分たちが作っていた言葉の世界は精神的に正気ではない世界だったと考えるだろう。

 日本人はやはりどこか本当に狂っているのだろうか。

人民元国際化の「脅威」と戦え

産経新聞 12月9日 正論欄より

 今年入手した外国情報の中で一番驚いたのは、ドイツに30年以上在住の方から中国の新幹線事故、車両を土中に埋めたあの驚くべきシーンが、ドイツではほとんど知られていないという話だった。

 中国の否定面の情報統制は欧州では十分に理由がある。良いことだけ伝えておく方が政財界にとって都合がいいし、一般大衆はアジアの現実に関心がない。アメリカでも中国の反日デモは十分には報道されていないと聞く。

 ≪≪≪ ドルを揺さぶる国家戦略の弾み ≫≫≫

 負債総額約三千兆円、利払いだけで仮に年150兆円としても返済不能とみられている中国経済。主要企業は共産党の所有物で、人民元を増刷して公的資金を企業に注入しては延命をはかってきた砂上の楼閣に中国国民も気づいている。早晩、人民元は紙くずになると焦っているからこそ、海外に巨額を流出させ、日本の不動産の爆買いまでするのではないか。天津の大爆発、鬼城(ゴーストタウン)露呈、上海株暴落、北京大気汚染の深刻さ。中国からはいい話はひとつも聞こえてこない。

 日本人はこの隣国の現実をよく見ている。にもかかわらず、まことに不思議でならないのだが、欧米各国はにわかに人民元の国際化を後押しし始めた。中国経済の崩壊が秒読み段階にあるとさえ言われる時機にあえて合わせるかのごとく、国際通貨基金(IMF)が人民元を同基金の準備資産「特別引き出し権(SDR)」に加えることを正式に決めた。

 これで中国経済がすぐに好転するわけではないが、長期的にはその影響力は確実に強まり、ドル基軸通貨体制を揺さぶろうとする国家戦略に弾みがつくことは間違いない。IMFは準備期間を置いて、中国政府に資本の移動の自由化、経済指標の透明化、変動相場制への移行を約束させると言っているが、果たしてどうだろう。昨日まで恣意的に市場操作していた人民銀行が約束を守るだろうか。言を左右にして時間を稼ぎ、国際通貨の特権を存分に利用するのではないだろうか。

 ≪≪≪ 資本主義が変質恐れも ≫≫≫

 欧州諸国は中国が守らないことを承知で中国を救う。それが自分たちを守る利益となると考えていないか。ドイツはフォルクスワーゲンの失敗を中国で取り戻し、イギリスはシティの活路をここに見ている。

 私は中国と欧州の関係を「腐肉に群がるハイエナ」(『正論』6月号)と書いた。米国の投資家は撤退しかけているが一枚岩ではない。中国の破産は儲けになるし、対中債務は巨額で、米国は簡単に手が抜けない。中国経済は猛威をふるっても困るが、一気に崩壊しても困るのだ。ちょうど北朝鮮の崩壊を恐れて周辺国が「保存」している有り様にも似ている。

 しかし、日本は違った立場を堂々と胸を張って言わなくてはいけない。共産党の都合で上がったり下がったりする基軸通貨などごめんだ。為替の変動相場制だけはSDR参加の絶対条件であることを頑強に言い張ってもらいた。

 「パニックや危機が起きた瞬間に中国当局が資本の移動を取り締まるのではという恐れがある限り、人民元をSDRの準備通貨とすることはできない」というサンフランシスコ連銀総裁のコメントを私は支持する。さもないと、資本主義そのものが変質する恐れがある。目先の利益に目が眩む欧州首脳は「資本家は金儲けになれば自分を絞首刑にするための縄をなう」の故事を裏書きしている。

 
 ≪≪≪ 民主化のみが唯一の希望 ≫≫≫

 忘れてはいけないのは中国は全体主義国家であって近代法治国家ではないことである。ヒトラーやスターリンにあれほど苦しんだ欧米が口先で自由や人権を唱えても、独裁体制の習近平国家主席を前のめりに容認する今の対応は矛盾そのもので、政治危機でさえある。この不用意を日本政府は機会あるごとに警告する責任がある。

 思えば戦前の中国大陸も今と似た構図だった。日本商品ボイコットと日本人居留民襲撃が相次ぐ不合理な嵐の中で、欧米は漁夫の利を得、稼ぐだけ稼いでさっさと逃げていった。政治的な残務整理だけがわが国におしつけられた。今度も似たような一方損が起こらないようにしたい。

 歴史と今をつないでしみじみ感じるのは“日本の孤独”である。誠実に正しく振る舞ってなお戦争になった過去の真相を、今のアジア情勢が彷彿させる。

 欧州はアジアがすべて中国の植民地になっても、自国の経済が潤えばそれで良いのだ。東南アジア諸国連合(ASEAN)のうち一国でも中国の支配下に入れば、中国海軍は西太平洋をわがもの顔に遊弋し、日本列島は包囲される。食料や原油の輸入も中国の許可が必要になってくる。

 米国も南シナ海の人工島を空爆することまではすまい。長い目でみれば中国の勝ちである。中国共産党の解消と民主化のみが唯一の希望である。わが国の経済政策はたとえ損をしてでもそこを目指すべきで、IMFの方針と戦う覚悟が差し当たり必要であろう。

旧著紹介

 コメント欄に「ニーチェが冒涜されている」という文章を書いていた方がいたので、最近はさっぱりニーチェを読まない私ですが、2013年に『ニーチェを知る事典』(故渡辺二郎氏と共編)という旧著復活の本を出したときの私の「文庫版を出すに当って」をご紹介したいと思います。

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 この本は、当時活躍されていたニーチェ研究家その他の方々の文章を蒐めた本ですが、レベルは高く、まだ大学教授が「劣化」していない時代の知性の鮮烈さを保っています。

 ちくま学芸文庫刊、780ページ、¥2000です。今でも入手可能です。当ブログでご紹介するのを忘れていたのは単なる偶然です。私の「文庫版を出すに当って」をさしあたりご紹介します。

 

私は最近ニーチェについてある簡単な本を書くように求められてお断わりした経験を持つ。それは右側のページにニーチェの言葉を置いて、左側でそれへのコメントを記すという編集者のアイデアに出た本だった。

 右側のページだけで終わらせる本、つまりニーチェ語録集なら作れないでもない。現にそういう本はこれまでにもたくさんある。けれどもニーチェの言葉を左側のページで簡単に解説したり、分り易く説き聞かせたりする本はどうしても作れない。書き手が負けてしまうことが明らかだからである。ニーチェの言葉が靭(つよ)いからだけではない。含みがあって謎が多いからでもない。書き手が自らにウソをつく結果に終ることが間違いないからである。

 最近の世の中は余りにも物事を簡単に考える人が多くなっている。ニーチェはニーチェを読む人に自らの体験を求めている。ニーチェはまず自分の読者であることを止めよと言っている。読者はニーチェを読解するのではなく、ニーチェを読むことを通じて、自分自身とは何であるかを再体験せよと言っている。

 本書は少し前の時代に、いろいろな分野で活躍された著名な方々の文章から成り立っている。ニーチェ研究家もいるが、そうでない人もいる。が、どなたもニーチェを体験して来た人々である。ニーチェと格闘して来た人々といった方がいいかもしれない。

 本書は入門書ではない。ニーチェを何とか苦心してすでに自分の体験にして来た方々が、自らの体験をそれぞれの分野で語った文章群である。ニーチェはじつに驚くほどの多面体である。だから本書にみられる体験も多様で、いろいろな切り口で語られている。本書の読者はどれか一つを真実と思わずに、さりとてすべてが真実であるという単なる相対論にも陥らずに、ニーチェを通じて自己を再体験するための苦闘の一助としていただければありがたい。

 ニーチェから発せられるすべては読者に向けられた問いであって、答はない。ニーチェから問われたくないと思う人はニーチェを読む必要もない。なにか簡単な解説の言葉を拾い読みして、知識として、教養としてニーチェを知ろうと思う人は、ニーチェに近づかない方がいい。

2013年4月