中川八洋氏に対する名誉毀損裁判の途中経過報告

 私は中川八洋氏がオークラ出版の雑誌『撃論』第3号と日新報道が出版した中川氏の本において、私の名誉を著しく毀損していると判断し、かねて東京地方裁判所に名誉毀損で三者を提訴していました。三つの案件のうち先頃、オークラ出版とは和解が成立し、同社のホームページに次の謝罪文と告知文が掲示されましたのでここにご報告いたします。

 平成26年8月13日 

                             西尾幹二

             お詫び

 弊社は、弊社刊行物(撃論 vol.3)の発行により、西尾幹二氏に大変ご迷惑をお掛けし、不愉快なお気持ちにさせてしまいましたことについて、深くお詫び申し上げます。なお、弊社が発行しておりました雑誌「撃論」は廃刊と致しました。

平成26年8月1日 

株式会社オークラ出版
代表取締役 長嶋うつぎ

 なお、このオークラ出版のホームページ上の掲示は8月1日から90日間行われる約束になっています。

國字としての漢字

ゲストエッセイ
    田中 卓郎 坦々塾会員 哲学者

 通常國字と言へば、支那から輸入された漢字ではなく、我が國に於いて案出され、支那には無い國産の「漢」字、例へば「峠」や「榊」などの文字を文字を指す。それら以外の漢字は、支那傳來の文字といふ意味で文字通り漢字である(津田左右吉は『支那思想と日本』に於いて「支那文字」といふ表現を用ゐてゐる)。
 さういふ譯で、漢字は支那が本國で、我が國はその輸入國に過ぎず、現在に到るも漢字に關するあらゆる事柄の最終的判斷基準、根據は依然として支那や支那の典籍、あるいは支那人學者の言に在るとわれわれのうちの大多數は信じ込んでゐるやうに思はれる。このことは一般の素人も專門家も變らず、殊に專門家はその多くが研究對象を盲目的に崇拜愛好するので、漢字に關する支那本家意識は素人よりも一層強いとも想像される。その證據に、支那文學、史學、語學等を問はず、支那關係諸學で支那を正しく「支那」と呼んでゐる專門家は現在皆無に近いのではないか。「中國」などといふ美自稱を卑屈に受け容れさせられて使用してゐる主要先進國は、戰後の我が國だけではないのか。一般に或る國をどのやうに呼稱するかはその言語使用者が決定することであり、明確な蔑稱でなければその使用に問題は無い筈である。現に歐米主要先進國での支那の呼稱は「支那」(の語源である秦、Chin)に由來するものである。私は西洋諸語に於ける我が國の呼稱JAPAN及びその變化形を個人的には好まないが、それは外國語に於ける呼稱であるから許容する。自ら名乘る場合は、ローマ字表記ならばNIPPONが當然の呼稱であるが(一九七〇年代くらゐまでは概ねさうであつたかと記憶する)、最近は「オール・ジャパン」などと平然と叫んで何の躊躇ひも無い。眞に滑稽で堪へ難いのは、それに「サムライ」などといふ形容詞を附けて、「サムライ・ジャパン」などと言ふことである。正確な現實認識の第一歩は正確な言葉遣ひであることを改めて想起する他は無い。

 現在のわれわれの常軌を逸した支那への卑屈な迎合は、勿論主に戰後の占領政策及び共産黨政權成立後の支那への左翼的幻想に由來すると考へられるが、より長期的、文化的な次元での支那認識の問題としてこの心理を考へると、文字の輸入といふ問題がその本質的な一部として伏在してゐるやうに思はれる。現に我が國の文字といふ意味で「國字」と言つてみても、高度な、學問的な觀念、概念を表現してゐるのは漢字及びその結合體たる漢語であり、かかる意味に於いて、「國字」と呼んでも實際は支那文字に過ぎず、これを突き詰めて考へても國語には辿り着かないのではないか、といふ疑念が心中に蟠居してゐるのではないかと思はれる。この意識はある意味でわれわれの潔さ、道徳性の高さの現れとも考へられるが、同時に自我の弱さとも考へられ、われわれの正確な現實認識を妨げてゐる。

 周知の如く、現在のヨーロッパ諸國で廣く用ゐられてゐるアルファベットは、その名が示す如く、ギリシア人がフェニキア人の文字を改良して案出したものであり、アルプス以北のヨーロッパ人が發明したものではない。にも拘らず、彼らはそれを自らの言語を表現する文字として使用し(勿論、西歐諸國が使用してゐるアルファベットはローマ人が使用したラテン・アルファベットであるが)、その使用によつて表現可能となつた自らの諸言語を用ゐて近代以降の世界支配を可能としたあらゆる思想、科學などを記述した。西洋諸語を母語として使用する者達は、その記述文字であるアルファベットが自分達の發明品ではないがゆゑに自らの言語に蟠りを覺えることはあるまい。自らの言語を普遍文明の言語たらしめたことは自分達の力以外には有り得ない、と強固な自我をその第一の特質とする近代ヨーロッパ人達は當然考へてゐるであらう。

 同樣のことが漢字についても妥當するのではないか。幕末期以降、西歐列強の侵掠の嵐の中に在つて、我が國はこれを防禦し、植民地化を免れる爲に彼の者達の文明を理解し、その力を我がものとする爲に西洋の學術書の讀解、翻譯に力を注いだ。その翻譯の爲に、西洋語の專門用語に對應してその内容を擔ひ得る「漢」語を「漢」字の組合せによつて案出した。それは、われわれの漢字の本質的な理解と西洋の學術書の正確な理解とが相俟つて初めて可能となる高度に獨創的な語彙の發明であり、これらの高級語彙の案出によつて初めて西洋の先進科學の受容が可能となり、その結果、我が國は列強の侵掠を免れて急速な近代化を成し遂げ、非西洋諸國唯一の近代的大國の地位を得たのであつた。これらの學術的な高級語彙たる日本製「漢」語は支那へも輸出され(「逆輸入」といふ表現はこの場合適切ではない)、彼の國の西洋理解を可能とする決定的な契機となつたのではないか。

 この歴史的事實を認識するならば、學術的高級語彙としてのかかる日本製「漢」語の案出こそ漢字使用に於ける決定的な成果であり、漢字を近代文明の先端を擔ふに足る文字と爲した決定的な偉業と言ふべきであり、これを成し遂げた我が國こそ「漢」字の本家であり、これらの學術的高級語彙こそ眞に「國字」の名に相應しいと言へるであらう。

 かかる認識の普及の爲にも、我が國由來の「漢」語を網羅し、とりわけ學術的な高級語彙を詳細に解説した書籍、辭書類が必要不可缺であるが、その要を滿たすものが見當らない。もし既に出版されてゐるのであれば、お知らせ願ひたいし、未刊であれば、然るべき專門家の先生方にその編纂を切に御願ひ申し上げたい。

『天皇と原爆』書評

『天皇と原爆』 堤堯氏書評

 本書は著者がCS放送(シアターTV)でおこなった連続講話をまとめた。小欄は毎回の放送を楽しみに見た。これを活字化した編集者の炯眼を褒めてあげたい。

 著者は日米戦争の本質を「宗教戦争」と観る。アメリカは「マニフェスト・ディスティニー(明白な使命)=劣等民族の支配・教化」を神から与えられた使命として国是に掲げ、それを「民主化」と称して世界に押しつける。ブッシュの「中東に民主化を!」にも、それはいまだに脈々と受け継がれている。

 かつて第10代の大統領タイラーは清国皇帝に国書を送り、

「わがアメリカは西に沈む太陽を追って、いずれは日本、黄海に達するであろう」

 と告げた。

 西へ西へとフロンティアを拡張した先に、これを阻むと見えたのが「現人神」を頂く非民主主義国(?)日本だ。これを支配・教化しなければならない。

 日露戦争の直後、アメリカはオレンジ・プラン(対日戦争作戦)を策定した。ワシントン条約で日英を離反させ、日本の保有戦艦を制限する。日系移民の土地を取り上げ、児童の就学を拒否するなど、ことごとに挑発を続けた。

 日中衝突を見るや、いまのカネに直せば10兆円を超える戦略物資を中国に援助する。さらに機をみて日本の滞米資産凍結、くず鉄、石油の禁輸で、真綿で首を絞めるがごとくにして日本を締め上げる。着々と準備を進めて挑発を重ね、日本を自衛戦争へと追い込んだのは他ならぬアメリカだ。それもこれも、神から与えられた使命による。

 彼らピューリタンからすれば、一番の目障りは日本がパリ講和会議で主張した「人種差別撤廃」の大義だった。大統領ウィルソンは策を用いてこれを潰した。彼らの宗教からすれば、劣等民族は人間のうちに入らない。かくて原爆投下の成功に大統領トルーマンは歓喜した。

 ニューヨークの自然史博物館に、ペリー遠征以来の日米関係を辿るコーナーがある。パシフィック・ウォーの結果、天皇システムはなくなり、日本は何か大切なものを失ったといった記述がある。インディアンのトーテムを蹴倒したかのような凱歌とも読めるが、一方で、わがアメリカの抵抗の心柱となった天皇を、なにやら不気味な存在と意識する感じも窺える。

 戦後、アメリカはこの不気味な存在を長期戦略で取り除く作業に取りかかる。憲法や皇室典範の改変のみならず、いまではよく知られるように皇室のキリスト教化をも図った。日本の心柱を取り除く長期戦略はいまだに継続している。このところ著者がしきりに試みる皇室関連の論考は、それへの憂慮から来ている。

 従来、戦争の始末に敗戦国の「国のかたち」を改変することは、国際社会の通念からして禁じ手とされてきた。第二次大戦の始末で、はじめてそれが破られた。

 改変の長期戦略は、日本人でありながら意識するしないに拘わらず、アメリカの「使命」に奉仕する「新教徒」によって継続している。

 むしろ「宗教戦争」を仕掛けたのはアメリカだとする主張――それが本書全編に流れる通奏執音だ。いまだに瀰漫する日本罪障史観に、コペルニクス的転換をせまる説得力に満ちた気迫の一書である。

『天皇と原爆』の文庫版の刊行

平成24年(2012年)1月に刊行された『天皇と原爆』が「新潮文庫」になりました。7月末に発売です。

天皇と原爆 (新潮文庫 に 29-1) 天皇と原爆 (新潮文庫 に 29-1)
(2014/07/28)
西尾 幹二

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解説 渡辺望

前著『アメリカと中国はどう日本を「侵略」するのか』について、アマゾンに出た書評のひとつを紹介したい。

炎暑の刺激的な読書体験 2014/7/28

By nora

年が行ってからはあまり刺激的な読書はしてこなかった。意識的に遠ざけていたわけではないが、いまさら刺激を受けてもしょうがないだろうという気分があった。それなのに、こんな刺激的なタイトルの本を読んでしまったのは、梅雨も明けないウチから続く今年の炎夏のせいだ。
暑い夏にあえてアッツイ鍋物を食べるという避暑対策があるが、刺激的読書をすれば暑さを忘れ、ゆるんだ頭も少しは活性化するかもしれない……というわけで、扇風機の回る部屋で寝転びながら読み始めた。
十分に刺激的な読書体験となった。
まえがきから『日本は「侵略した国」では、なく「侵略された国」である。「日本はアジアを開放した」と言っているが、アジアの中で外国軍に占領されているのは日本だけである』といった刺激に溢れたフレーズが続く。私にとって初見の「歴史」が次々と紹介、展開されていく。読み終える頃には、シャツは汗でびっしょりと濡れ、アタマも妙に動き出した。そのせいで、年甲斐もなく「歴史」とは何だろう、と考えることとなった。
web検索するうちに、「歴史とは、現在と過去との間の尽きることを知らぬ対話である(イギリス歴史学者E.Hカー)」という言葉を見つけた。
カーは、『「歴史上の事実」とされるもの自体が、すでにそれを記録した人の心を通して表現された主観的なもので、「すでに主観的である」歴史上の事実と私たちが対話してゆく道は、自らの主観を相対化し問い直す存在として接しようとするところにこそ開ける』と言う。
これはけっこう大変な作業だが、せっかくこの本で、たくさんの「新しい歴史」を見つけたので、アタマがまたスローダウンしないうちに関連本を読んで見ようと思っている。

 本を読んだ新鮮な「驚き」が素直に語られていて、著者としてはまことに嬉しかった。

 ぜひこの方に『天皇と原爆』のほうも読んでいただきたい。炎暑の中のもう一度の「刺激的な読書体験」になるのではないかと期待している。

 また、ここで述べられているE・H・カーの歴史とは過去との「対話」だ、という考え方は、私の『決定版 国民の歴史』(文春文庫)に新たに追加した序文「歴史とは何か」にも通じるので、目を向けていただければありがたい。

西尾幹二全集第14巻『人生論集』の刊行

 7月半ばに遅れていた私の全集第14巻『人生論集』がやっと出ました。第10回配本です。前回は第9巻『文学評論』でしたので、第10、11、12、13巻の四冊をスキップして、いきなり第14巻に飛びました。

 そのわけは、この第10、11、12、13巻は世界の状況が急変した共産主義の終焉を第11巻に予定していて、編集が大変に複雑で難しくなってくるので、内容のまとまっている第14巻『人生論集』を先に出したのでした。

 いち早く7月15日付である方から第14巻についていきなり次のコメントが届きました。

3.西尾幹二全集14巻が届きました。毎巻、書架の装飾がわりに並べておくだけで、中身は一度の読んだことがありません(ケースから出したこともない)が、今回は、一気に全部読みました。おかげで、このところ寝不足です。西尾さんの日常が軽妙なタッチで描かれていて、大変面白かった。

コメント by 藤原信悦 — 2014/7/15 火曜日 @ 12:05:03 |編集
(「正論」連載「戦争史観の転換」へのコメント)

 箱も開けていないなんてひどいなァ、と思いましたが、第14巻は読み出したら止まらなくて寝不足になった、というくだりは正直うれしい感想でした。具体的エピソード満載の一巻ですので、この一巻は読みやすく、面白いこと請け合います。

 まだ私の全集に近づいていない方はぜひこの巻を入り口に手を出して下さい。(株)国書刊行会の販売部長永島成郎氏(Tel 03-5970-7421)が買う巻の順序などについてはご相談にあずかります。以上はコマーシャルです。

 以下に第14巻の目次を示します。巻末の「随筆種(その一)」も目玉商品です。

オモテ帯
作家 川口マーン惠美
ドイツからの手紙

全編を通して共感を覚えるのは、西尾先生ご自身がご自分を上段に置くことなしに、すべてを正直に心に問い、疑い、弱い部分もさらけ出していらっしゃるところ。それは、とくにご闘病のシーンに顕著です。そして、死を恐れるご自分を見つめ、悩み、その挙句、あらゆる患者に癌を告知するべきだという理屈は「強者のモラルの極論ではないか」と憤る場面に、読む者は心を打たれます。つまり、先生ご自身も、紛れもなく、「本当の姿を見ることを本能的に拒否し」、「自分で自分を騙して生きて」いる人間、「完全な自由も、完全な孤独も」持たない人間の一人なのです。その謙虚さを感じるからこそ、ここに掲示される多くの疑問や考察は、読む者の心に素直に染み透っていきます。
(『人生の価値について』解説より)

目 次
Ⅰ 人生の深淵について

 怒りについて
 虚栄について
 孤独について
 退屈について
 羞恥について
 嘘について
 死について
 教養について
 苦悩について
 権力欲について

Ⅱ 人生の価値について
 断念について――新版まえがきに代えて

第一部
 無知の権利
 自分への幻想
 褒められること
 成功と失敗
 人生の評価
 真贋について
 虚飾について
 ふたたび 真贋について
 虚栄について
 自由と混沌
 独創性について
 芸術と個人
 自由と平等
 ふたたび 自由と平等
 自由と競争
 自由の隠し場所
 福音について
 理解について
 行為と言葉
 思想ということ
 書物の運命

第二部
 無私について
 現実について
 運命について
 賭けと現実
 現実は動く
 理想と現実
 政治と道徳
 統治について
 思想の背後
 知ってしまった悲劇
 孤独の怒り
 始皇帝の展覧会を見て
 出会いの神秘
 聖人と政治
 ふたたび 聖人と政治
 内政と外交
 言葉が届かない
 ある歴史物語(一)
 ある歴史物語(二)
 ある歴史物語(三)
 ある歴史物語(四)
 悲劇について(一)
 悲劇について(二)
 悲劇について(三)
 行為と無
 人生の主役

第三部
 落ちていく自分
 破滅について
 危機の時代
 狂気と正常
 疾走する孤独
 ニヒリズムについて
 遊戯と真剣
 不自由への欲求
 青年の変貌
 自閉衝動
 深まるニヒリズム
 自由の恐怖
 違反と禁止
 真理について
 宗教と歴史
 古代の獲得
 知行合一
 歴史の死
 行為と観照
 歴史と文学
 預言者の悲劇

第四部
 インドでの戦慄
 信じられないこと
 人権について
 浄、不浄の観念
 インドの上流家庭
 カースト制度の打倒
 菜食主義
 結婚の条件
 差別の解消
 不寛容な社会
 差別と区別
 個体という幻
 裁きについて
 自然の意志
 意志と煩悩
 忍苦の世界

第五部
 懺悔について
 後悔について
 取り戻せない過去
 希望について
 ある体験(一)
 ある体験(二)
 ある体験(三)
 ある体験(四)
 ある体験(五)
 自分の知らない自分
 死の統御について
 死の自覚について
 自覚の限界について
 病気の診断について
 羞恥について
 人生の長さについて
 人生の退屈そして不安(一)
 人生の退屈そして不安(二)

あとがき

Ⅲ 人生の自由と宿命について   西尾幹二と池田俊二

 第一章 青春の原体験
 第二章 ベルリンの壁崩壊がもたらしたもの
 第三章 人生の確かさとは何か
 第四章 近代日本の宿命について
 第五章 しっていてつく嘘 知らないで言う嘘
 第六章 アフォリズムは人間理解が際立つ形式である
 第七章 ニーチェのはにかみとやさしさと果てしなさ

Ⅳ 男子、一生の問題
 はじめに 日本人が、考えなければならない「問題」がある
 第一章 「男子の仕事」で一番大事となるものは何か
 第二章 時間に追われず、時間を追いかけて生きよ
 第三章 この国の問題――羞恥心の消滅
 第四章 「地図のない時代」にいかに地図を見つけるか
 第五章 男同士の闘争ということ
 第六章 軽蔑すべき人間、尊敬すべき人間
 第七章 「自分がいないような読書」はするな
 第八章 仕事を離れた自由な時間に

Ⅴ 随筆集(その一)
 女の夢、男の夢
 蛙の面に水
 村崎さんの偏差値日記
 私は巨人ファン
 大学のことばと会社のことば
 買いそびれた一枚
 ミュンヘンのホテルにて
 西洋名画三題噺――ルソー、クレー、フェルメール
 子犬の軌跡
 音楽後進国の悲哀
 親の愛、これに勝る教師はなし
 恩師小池辰雄先生
 愛犬の死

追補一 「思想」の大きさについて 小浜逸郎
追補二 ドイツからの手紙 川口マーン惠美
後記

ウラ帯
「真に高貴な人間は怨みとか焦りとか妬みとかを知らない。ただ怒りだけを知っている。勿論それで身を滅ぼすこともある。神のみが為し得る正義の怒りを、人間が常に過たずに為し得るとは限らないからである」(怒りについて)

「生産的な不安を欠くことが、私に言わせれば、無教養ということに外ならない。それに対し絶えず自分に疑問を抱き、稔りある問いを発しつづけることが真の教養ということである」(教養について)

「他人を出し抜いて得をしようというのも虚栄なら、わざと損をして自分を綺麗に見せようとするのも虚栄である」(虚栄について)

「われわれは一般に真実を語ろうとする動機そのものの嘘に警戒をする必要がある」(嘘について)

「孤独感は自分に近い存在と自分との関わりにおいて初めて生ずるものではないだろうか。近い人間に遠さを感じたときに、初めて人は孤独を知る。孤独と人生の淋しさ一般とは違うのである」(孤独について)

(『人生の深淵について』より)
以上

「アメリカと中国はどう日本を『侵略』するのか(二)

アメリカと中国はどう日本を「侵略」するのか アメリカと中国はどう日本を「侵略」するのか
(2014/07/16)
西尾 幹二

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宮崎正弘氏による書評

いずれアメリカは日本を捨てる日が来るかも知れない
  日本は本物の危機がすぐそこにある現実に目覚めなければいけない


西尾幹二『アメリカと中国はどう日本を侵略するのか』(KKベストセラーズ)
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 副題は「第二次大戦前夜にだんだん似てきている、いま」である。
 日本は従来型の危機ではなく、新型の危機に直面している。
 国家安全保障の見地から言えば、戦後長きにわたり「日米安保条約」という片務条約によって日本はアメリカに庇護されてきたため、自立自尊、自主防衛という発想がながらく消え失せていた。付随して日本では歴史認識が歪曲されたまま放置された。左翼の跋扈を許した。
米国が「世界の警察官」の地位からずるずると後退したが、その一方で、中国の軍事的脅威がますます増大しているのに、まだ日米安保条約があるから安心とばかりに「集団的自衛権」などと国際的に非常識の議論を国会で日夜行っている。
まだまだ日本は「平和ぼけ」のままである。
 実際に「核の傘」はボロ傘に化け、精鋭海兵隊は沖縄から暫時撤退しグアム以東へと去る。一部は中国のミサイルの届かない豪州ダーウィンへと去った。オバマ大統領は訪日のおり、「尖閣諸島は日米安保条約の適用範囲」と言ったが、「断固護る」とは言わなかった。
 それなのに吾が自衛隊は米軍の下請けシステムにビルトインされており、日本の核武装は米国が反対している。
 これはアメリカにとって庇護下から日本はぬけでるな、という意味でもある。欧州との間に交わして「核シェアリング」も日本にだけは絶対に認めない。
 「日本はまず日本人で守ろう、日本は良い国なのです」と言った航空幕僚長は馘首された。
 従来型の軍事力比較ばかりか、近年は中国ハッカー部隊の暗躍があり、日本の通信はすべて盗聴・傍受、モニターされているが、対策するにも術がなく、ようやく機密特別保護法ができたほどで、スパイ防止法はなく、機密は次々と諸外国に漏洩し、なおかつハッカー対策に決定的な遅れを取っている。
 通信が寸断され、情報が操作されるとなると敵は戦わずして勝つことになる。

 経済方面に視点を移すと、日本は戦後の「ブレトンウッズ体制」で決められてIMF・世銀、すなわちドル基軸体制にすっかりと安住し、あれほど為替で痛い目に遭わされても、次のドル危機に構えることもなく(金備蓄の貧弱なこと!)、また米国の言うなりにTPPに参加する。
 TPPは中国を排除した知的財産権擁護が主眼とはいえ、これが安全保障に繋がるという議論はいただけず、また目先の利益優先思想は、長期的な日本の伝統回復、歴史認識の蘇生という精神の問題をなおざりにして、より深い危機に陥る危険性がある。誰も、TPPでそのことを議論しない。
 アメリカは戦後、製造業から離れ宇宙航空産業とコンピュータソフトに代表される知的財産権に執着し、金融のノウハウで世界経済をリードした。日本は、基幹をアメリカに奪われ、いはばアメリカの手足となって重化学機械、自動車を含む運搬建設機材、ロボット、精密機械製造装置で格段の産業的?家をあげたが、産業の米といわれるIC、集積回路、小型ICの生産などは中国に工場を移した。
 つまり貿易立国、ものつくり国家といわれても、為替操作による円高で、日本企業は海外に工場を建てざるを得なくなり、国内は空洞化した。若者に就職先が激減し、地方都市はシャッター通り、農村からは見る影もなく『人が消えた』。
 深刻な経済構造の危機である。グローバリズムとはアメリカニズムである。
 こうした対応は日本の国益を踏みにじることなのに、自民党も霞ヶ関も危機意識が薄く、またマスコミは左巻きの時代遅れ組が依然として主流を形成している。
 これらを総括するだけでもいかに日本は駄目な国家になっているかが分かる。

 だから西尾幹二氏は立ち上げるのだ。声を大にして自立自存の日本の再建を訴えるのである。第一にアメリカに対する認識を変える必要がある。
 西尾氏はこう言われる。
 「アメリカの最大の失敗は『中国という共産党国家を作り出したこと』と『日本と戦争をしたこと』に尽きる。(アメリカの)浅薄な指導者たちのおかげでやらなくてもいいことをやってしまった。その後も失敗を繰り返し、今回もまた同時多発テロ後、中国に肩入れをしていつの間にか中国経済を強大化させてしまった」(95p)
 「オバマ政権は世界の情報把握も不十分で、ウクライナでしくじったのも、イラクであわてているのも、ロシアやイスラム過激派の現実をまるきり見ていないし、サウジアラビアのような積年の同盟国を敵に回して」しまった(105p)。
 秀吉をみよ。情報をきちんと把握し、キリスト教の野望をしって鎖国へと道筋を付け、当時の世界帝国スペインと対等に渡り合ったではないか。
 しかし戦後の歴史認識は狂った。
 「あの戦争で日本は立派に戦い、大切なものを守り通した。それを戦後の自虐史観が台無しにした。先の大戦を『日本の犯罪だ』とう者はさすがに少なくなった。ただ、半藤一利、保坂正康、秦郁彦、北岡伸一、五百旗頭真、加藤陽子など」がいる(182p)。
 日本は確かにいま米国に守護されてはいるが「アメリカはあっという間に突き放すかも知れない。中国の理不尽な要求に、耐えられない妥協をするようアメリカが強いて来るかも知れない。『平和のためだから我慢してくれ』と日本の精神を平気で傷つける要求を中国だけではなく、アメリカも一緒になって無理強いするかもしれない」(242p)。
 ことほど左様に「アメリカは、軽薄な『革命国家』」なのである。(251p)
 憂国の熱情からほとばしる警告には真摯に耳を傾けざるを得ないだろう。
 結論に西尾氏はこう言う。
「外交は親米、精神は離米」。たしかにその通りである。

「アメリカと中国はどう日本を『侵略』するのか」の刊行

アメリカと中国はどう日本を「侵略」するのか アメリカと中国はどう日本を「侵略」するのか
(2014/07/16)
西尾 幹二

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【新刊のお知らせ】

『 アメリカと中国はどう日本を「侵略」するのか 
-「第二次大戦」前夜にだんだん似ている、今 』
西尾幹二(KKベストセラーズ) 本体価格:1,000円+税
2014年7月15日配本開始!(全国書店、インターネット等で発売)

第1章 米中に告ぐ!あなた方が「侵略者」ではないか
第2章 中国人の「性質」は戦前とちっとも変わっていない
第3章 「失態」を繰り返すアメリカに、大いに物申すとき
第4章 16世紀から日本は狙われていた!
第5章 「日米戦争」はなぜ起こったか?
第6章 敢えて言おう、日本はあの戦争で「目的」を果たした!
第7章 アメリカの可笑しさ、
    自らの「ナショナリズム」を「グローバリズム」と称する

<あとがきより>
 アメリカ革命やフランス革命は、ある時期確かに新しい価値をもたらしたが、それは人類の普遍的価値ではない。ふたつの革命が時代とともに人類に禍を引き起こした面もある。

 戦勝国アメリカが「敗戦国日本に民主主義や自由主義の理念をもたらしてくれた」と思っている人が未だにいるが、それは正しくない。
ヨーロッパの古い文明は、まだ有効性を持っているかもしれないが、われわれはそれを必ずしも模範として学べばよいという時代ではない。いわんや、アメリカ文化はもう日本のモデルではない。

 「最近若い人がアメリカに留学しなくなった。日本人が内向きになったからだ」と、言う人がいる。しかしそれは、日本社会がもはやアメリカを手本にしてわが身を正そうとしなったからではないか。だから日本の若者が、アメリカに行っても得をしないと思うようになった。アメリカが世界の普遍性の代表ではなくなったのである。

 私はアメリカを否定する者ではない。決して、いわゆる「反米」ではない。外交的にも軍事的にもアメリカからすぐ離れることはできない。ただ、もっと距離をもって捉えるべきだと言っている。精神的に離れるべきだと言っている。

 第二次大戦後に毛沢東に肩入れして、今の中国をつくってしまったのはアメリカである。アメリカ人は革命好きなのである。それでいて、あっという間に毛沢東軍と朝鮮で泥沼の戦争をしたのもアメリカである。アメリカ人には幼い面がある。このことの歴史的深刻さを、よく認識しておかなければならない。

 アメリカは「世界政府」志向の帝国で、自国の「ナショナリズム」を「グローバリズム」の名で呼ぶという、笑ってしまうような平然たる傲慢さがある。
それに対し、日本はどこまでも単一民族文化国家であり、異なる独自の価値観に生きている。世界のあらゆる文明はそれぞれが独自であって、特定の文明が優位ということはあってはならない。

 平成二六年六月                         西尾幹二

「移民問題連絡会」の立上げと「トークライブ」(観覧報告)

〈ゲストエッセイ〉                  平成26年7月6日

  

                      小川揚司(坦々塾事務局長)   

 今般、西尾幹二先生は「移民問題連絡会」を立ち上げられ、関岡英之氏(評論家)、三橋貴明氏(経済評論家)、河添恵子氏(ノンフィクション作家)、坂東忠信氏(元警視庁北京語捜査官)がそのメンバーとして参加されるところとなりました。そして、西尾先生は、雑誌「正論」の小島編集長と語られ、この気鋭の論客四氏に呼びかけ、河合雅司氏(産経新聞論説委員)も加わり、7月6日(日)のトークライブ「日本を移民国家にしてよいのか」(雑誌「正論」主催)に出演される運びとなりました。

 この「移民問題」と云う深刻なテーマに、主催者の観覧者募集広告に対し、応募者は6月半ばの時点で会場の収容能力の限度である八百名を超え、主催者が更に殺到する応募を断るのに大童になる一幕もあり、この問題に心ある国民の関心が如何に高いかを如実に表すところとなりました。そして、当日、会場の「グランドヒル市ヶ谷の大広間」は、忽ちのうちに真摯な観覧者で埋め尽くされました。

 開演冒頭、主催者の挨拶に続き、西尾先生は、約7分間、満場の観覧者を前に、このトークライブの趣旨とするところを次のように語られました。

「私は丁度25年前、中国人に偽装したベトナム難民の渡来事件が起こり、 外国人単純労働者受け入れの是非が世の中で問われだしたときに、外国人受け入れに慎重論を展開した。聴衆の中でご記憶の方も居られるかと思う。
そのとき確認したメインポイントが8点あり、今もなお有効かどうか、本日のトークライブを聴かれた皆様にご判断いただきたい。

1.日本人は必ず加害者になる。
   被害者にもなるが、加害者とされ、国際誤解を招くような事件が必ず起こる。フィリピン人女性の変死事件で、日本では話題にならなかったが、フィリピンでは連日新聞が書き立て、悲劇のヒロインの映画までつくられた。

2.労働者受け入れ国は送り出し国に依存する。 
  大相撲をみれば分かるように、彼等送り出し国のパワーに日本側が取り込まれてしまう。ドイツではお金をつけてトルコ人を帰国させたが、同じ数の別のトルコ人がドイツに戻ってきてしまった。ドイツ側が特定の職業の専門集団であるトルコ人を必要とするからである。例えば、洗濯屋さんはトルコ人の仕事になっていて、代わりがいない。同じようなことは日本にもあるだろう。

3.入ってくるのは人間であって牛馬ではない。
   一度入ってきて日本のために働いた人を、強制的に帰れとは言えない。妻子を呼ぶなとは言えない。大事なことは、外国人もまた日本に来たら、日本で「出世」を望むことだ。彼等も老人になり「介護」を必要とすることになるだろう。

4.期限を切っても大半は必ず定住化に転じる。
   今までの各国の実例が示している。

5.日本には労働者階級はいない。
   日本は階級差が少なく、永続的な「カースト」は日本には存在しない。   
   移民達は自国の「カースト」を日本に持ち込む。日本に来て民族間の差別、中国人→ベトナム人→フィリピン人 といった格差を持ち込み、日本の流動的な社会を固定化し、創造的な日本文化を脅かす。

6.日本人は諸外国のように外国人を冷酷に対応できない。
 シンガポールでは、フィリピンメイドが多数働いているが、彼女等は定期的検診を受け、妊娠が判明すると国外退去を命じられる。シンガポールの雇い主の男性が原因でも、責任はメイドだけが問われ、追放される。
世界中どこでも外国人に対する「差別」が構造化している。日本人は 冷酷に対応できないだろう。メイドと一緒に食事をしたりするようになるだろう。我々は犬猫の前で裸身になっても平気だが、外国の使用人の前でも裸身になることができるだろうか。欧米人は犬猫を前にしたように外国人を扱う。

7.世界は鎖国に向かっている。
   移民国 カナダ、オーストラリア、アメリカでも導入を拒否し始めている。

 8.石原慎太郎氏は判断を間違えている。
   SAPIO(6月号)で石原氏は「太古から世界の人材と文化受け入れてきた日本の寛容を知れ」と言っている。氏は25年前から似たようなことを言っているが、勘違いしている。二千年にわたって少数づつ入ってきた技術者などと、今、地球の人間大移動期、イスラム教徒と中国人の大量移動の場合とは意味が違うので同一視はできない。
   それに、宗教的に包容力のある日本文化も、キリスト教、イスラム教、ユダヤ教、韓国儒教などの原理主義は基本的に受け入れていない。型どおりに包み込むが、歴史の中に取り入れず、歴史の片隅に置き去りにして行くだけだ。
   日本文化は選択している。大量の原理主義の導入は、日本文化の包容力を壊す恐れがある。
石原氏に再考を求める。」

 そして、西尾先生の司会により、パネリスト報告に入りました。

 パネリスト五氏の報告は、いずれも現実を具に見据えた視点から問題の本質を鋭く指摘するものであり、憂国の熱誠と相俟つ熱弁に満場の観覧者も文字通りざわめき一つなく熱心に聴き入り、結節毎に拍手で応え、場内の熱気と凛とした緊張感は高まり続けました。途中15分の休憩をはさみ、後半のフリートークに入ってパネリストの熱弁は更に舌鋒の鋭さを増し、聴衆もパネリスト達と一体化して呼吸する空気を、聴衆の一人として筆者もヒシヒシと感じました。

 やがて、トークライブも終演に近づき、司会者の西尾先生が、パネリスト達の諸提言を素早く集約され、次の8項目にまとめて、力強く再度読上げられました。

1.外国人受け入れ政策は、諸外国の事例を踏まえるべきであり、国民的議論なく進めることは認められない。

2.外国人単純労働力の受け入れ拡大は、日本の移民国家化と同じである。(国連における移民の概念は、1年定住)

3.高度人材の受け入れ要件と審査こそ、その厳格化を必要とする。

4.外国人労働力の受け入れ拡大は、国内労働者の賃金を下げ、格差社会を拡大するため、景気回復にはつながらない。

5.労働力不足は日本人だけで解決することができる。

6.日本在留者の犯罪検挙率・犯罪検挙数・犯罪検挙人口が国別で上位3カ国の出身者については、特に厳格な受け入れ基準を設けるべきである。

7.移民政策は少子化対策・人口問題の解決にはならない。

8.移民問題は、国防問題にほかならない。

 観覧者の少なからぬ方々がこの8項目を書き留める姿を筆者も目撃し、また、大きな拍手により、満場が賛同の強い意志を表したことを筆者は確認した思いでした。そして、残り時間も僅かとなって、ようやく質疑応答の時間となり、少なからぬ方々が挙手をされましたが、当てられたのは数人の方々で、斉しくパネリストに謝意を表した後「これらの提言は具体的に政府に建白すべきである」「何故、政府が外国人労働者の受け入れを閣議決定し、法案成立に向けて画策していることをマスコミは積極的に報道しないのか」と云った厳しく鋭い真摯な質問も相次ぎ、西尾先生をはじめ壇上のパネリストの先生方も大いに意を強くされたことであろうと、また、会場に参集された方々のご見識と憂国のご熱誠も本当に高いものであったと、筆者も深く感じ入ったところです。

 その気運を反映されてか、終演の挨拶において主催者も「今後、産経新聞においても、雑誌「正論」においても、特集を組んでこの問題に関する国民的議論にしっかりと取り組み、向かい合ってゆく」旨を言明されるところとなり、移民問題連絡会 代表の西尾先生をはじめとする諸先生の堅固なご決意とともに、この運動の行く手に確かな光明を見出した、そのような思いを筆者も強く感じた次第です。

 而して、降壇される西尾先生達パネリストの諸先生を、満場の観覧者は万雷の拍手で見送り、トークライブは大成功裏にお開きとなりました。

 あらためて、壇上で熱弁を奮われた西尾先生と気鋭の論客諸先生達に、またこのトークライブを企画・運営された「正論」の小島編集長達に深甚の敬意を表し上げ、そして、それを支えられた編集室のスタッフの方々、坦々塾の有志の諸兄に深く感謝を申し上げて、ご報告の筆を擱くことといたします。
以上

西尾追記

三橋貴明氏の以下の新刊本を推薦します。

移民亡国論: 日本人のための日本国が消える! (一般書) 移民亡国論: 日本人のための日本国が消える! (一般書)
(2014/06/27)
三橋 貴明

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無能なオバマはウクライナで躓き、日中韓でも躓く(四)

 気鋭の歴史研究家、渡辺惣樹氏が『アメリカはいかにして日本を追い詰めたか』(草思社)という日米開戦に関する新しい観点の一書を世に問いました。フランクリン・ルーズベルト大統領の戦争責任に関する、アメリカにおける論争史を整理したような内容です。ジェフリー・レコードという国防政策の専門家が分析し、二〇〇九年に発表した開戦に関する文書、「米国陸軍戦略研究所レポート」と題されていますが、これを渡辺氏が翻訳し、自ら詳細な解説を付して二部構成の書物に仕立てています。解説の方では当時のアメリカの世論の動向をていねいに説明し、ルーズベルトの功績を高く買ってその戦争指導は大筋において正しかったと評価する従来の説と、そこに陰謀やソ連への無警戒、悪夢のような冷戦、共産国家中国を作ってしまった罪責などを見届けようとする否定的な説、前者を「正統派」とすれば後者は「修正派」と呼ばれていますが、この二つの織りなす解釈の流れを語っています。

 歴史観にはやはりこのようにオモテとウラがあります。オモテは最初に公認され、通説として確立されて根強いのですが、ウラも無視できず、ウラが有力な証拠を突きつけて、通説を破壊し、少しずつ習慣化したオモテの公認史観を修正し、色を塗り替えていくプロセスは、日本の戦後史のようにオモテが硬直化し、観念化し、動かなくなってしまったのと違って、大変に参考になります。

 先述の「米国陸軍戦略研究所レポート」は基本的には「正統派」に属するのですが、日米開戦に関しては「修正派」の立場でもあり、その結論はルーズベルトが過重な経済制裁を加えて日本を「戦争か、アメリカへの隷属か」の二者択一へと追い詰めた外交政策に開戦原因の一半があったと見る方向の考え方を大胆に検証したものです。

 最近はフーバー大統領の回想録やビーアドの『ルーズベルトの責任』等により、この方向を模索する動きは勢いを得ていますが、だからといって現民主党政権内のオバマ大統領やケリー国務長官やサキ報道官の頭の中まで変えるにはまだ至っていません。第二次大戦の戦争責任はアメリカにもあった、と認めさせることはいつの日か可能でしょうが、アメリカにこそあった、と認めさせることは恐らく容易ではありません。まして慰安婦問題を持ち出せばこれは人権問題だ、と別件扱いされるでしょうから、戦争責任の問題(「侵略」の概念の問題)に結びつけるのは得策ではないと思います。(という意味は河野談話と村山談話は別テーマだということです。)

 渡辺氏の本の結論にさながら符合するかのごとく、私の最新刊『GHQ焚書図書開封9』(徳間書店)は『アメリカからの「宣戦布告」』という題で、三月三十一日付で刊行されたばかりです。開戦の直接の原因となったアメリカによる経済封鎖の実態、石油、鉄と屑鉄、非鉄金属、機械類などの禁輸、船舶航行禁止、そして最後に資産凍結に至った、日本人が今やすっかり忘れてしまった恐怖の日々の実相を伝えた内容の本です。あのときの世界情勢の中での、アメリカの暴戻と戦争挑発、ぎりぎりまで忍耐しながらも国家の尊厳をそこまで踏みにじられては起つ以外になかったわが国の血を吐く思いを切々と訴えた、貴重な記録となった一冊であります。

 いま読者の注意を促したいのは単にこの本自体のことではなく、渡辺さんの本と私の本との二冊の開戦動機の内容の接近です。私の本は昭和十八(一九四三)年刊行の古書に依拠しています。「米国陸軍戦略研究所レポート」は二〇〇九年に書かれ、渡辺さんの著作自体は二〇一三年刊です。ルーズベルトの過酷な経済封鎖に開戦の原因を見出している点で両者は共通しています。細部はいま措くとして、六十六年という長い歳月を間に挟んで、歴史は敵味方を越えて同じ現実を露呈させつつあるのが興味深いのです。あの過去は政治ではなく、だんだん歴史に、本当の歴史になりだしているのです。

 敗者が体験していたものが真の現実で、永い間勝者がそれを蔽い隠してきました。勝者のプロパガンダが真相に蔽いを掛け、敗者は法令、教育、放送、言論などを通じて、現実にあったことは考えてはならない、言ってはならないこととして、「洗脳」を強いられてきました。オモテがウラを押し隠してきたのです。そのため日米開戦については最初のうちは敗者の挑発であり、犯罪であるとされ、やがて少し時間が経っても敗者の失敗か愚行であったと言われつづけ、いまだにそのようなマインドコントロールが色濃くて、一定の締めつけを続行しているのですが、時間とはこわいもので、勝者もまたウラを覗くようになります。オモテの胡散臭さに耐えられなくなるからです。

 ただしすべての戦争がこのような経過を辿るとは考えていません。ナチスとの戦いでは右のようなことは言えないでしょう。日米戦争は欧州大戦とは異なります。戦勝国アメリカの側に日本に対する戦争目的そのものの曖昧さの自覚があり、第一次大戦後のパリ講話会議より以後に日本を一方的に追い込んだ外交上の無理強いの自己認識があるのだと思います。というのも対独戦争の記録は開戦前からほぼすべて公開されたのに、対日戦争の記録は外交も軍事も含めて未公開のものが多く、どのくらい蔵されているのかも分らないほどです。なにか表に出したくない理由が英米側にあるのだ、と国際政治学者は言っています。後めたさがあるのでしょう。全部公開されたらウラがすべてオモテになり、東京裁判の悪行が白日にさらされることになるのではないでしょうか。

 そういうわけですから日本人は自分の歴史に自信をもってよいのです。私がGHQに没収された古書の文字をこつこつと拾い出しているのは、そこからは愚直な声、真実の響きが聞こえてくるからです。例えば東欧やフランスのナチ協力者は民族への薄汚い裏切り者とされますが、アジア各国の旧日本軍の協力者は各民族の愛国者であり、戦後も民族国家の建設に邁進した人々です。もうそれだけで二つの敗戦国は決定的に違うのです。

 最近のドイツが中国や韓国の口車に乗って反日プロパガンダに興じるのは哀れな自己欺瞞です。ホロコーストは今の自分たちとは関係ない、あれはナチがやったのだと言ってドイツとナチを区別したがる彼らは、他の国の歴史の中に悪の道連れを無意識に欲しているのです。そういう苦しいドイツ人を利用しようとする中国人や韓国人のほうがよほど悪魔的ですが、最近ではユダヤ人の発言に、ホロコーストと慰安婦とを同一視されるのはたまらない、いやだというクレームをつける向きがあるそうです。それはそうでしょう。ナチスドイツはルーマニアやポーランドからの若い女性の強制連行も軍が直接手を出した慰安施設の経営管理もやっていましたが、そのていどのことはホロコーストの惨劇に比べれば影が薄く、戦後だれも問題にしませんでした。常識は物事のバランスや程度をつねに秤りにかけて考えます。いまアメリカ政府が韓国の主張にもならない主張を使って日本の不満を抑えにかかろうとするのは、考えによれば中国人や韓国人よりも悪魔的なことなのかもしれません。

 日本は外交上の戦術を考えるべきです。ワシントンで安倍首相に日本人の名誉のための記者会見を開いて欲しいという渡部提案に私は先に賛成しましたが、このほかにも日本が意図的に打って出すべき主張はあります。戦前から人種平等の精神を謳っていたわが国政府はユダヤ人排斥に政府として反対でした。五相会議で「猶太人対策要綱」を国策として決定しましたが、これを主導し提案した人は板垣征四郎陸軍大臣(A級戦犯)でした。また、ユダヤ人問題ベテランの安江仙弘陸軍大佐や樋口季一郎陸軍少将の行動をドイツ外務省の抗議から守って、ユダヤ人擁護に道をつけたのは東條英機(A級戦犯)や松岡洋右(A級戦犯)でした。くりかえしますが日本は国策としてユダヤ人排斥に反対していたのです。杉原千畝はただそれに従っていただけで、勇気ある個人的善行であったとは必ずしも言えません。杉原の行動はそれはそれで立派ですが、戦後日本の外交当局が東京裁判をひたすら恐れて、史実の全貌を示さず、杉原の個人芸を強調したために、国家としての日本の名誉は失われました。また過去の指導者たちの天に恥じない義に従った行動が曲げられてしまいました。日本政府はユダヤ世界とユダヤ人の多いアメリカ社会に向けて右の史実を明瞭な言葉で公表し、併せて東條英機をヒットラーとするたぐいの中国韓国にはびこる妄論を一掃していただきたい。