阿由葉秀峰が選んだ西尾幹二のアフォリズム「四十三」

全集第7巻 ソ連知識人との対話 ドイツ再発見の旅 より

(7-1)言論の自由は、いい言論、悪い言論の選別を個人個人の良心に委ねているのであって、自由の結果、悪い言論がはびこって社会が崩壊する危険をも当然内にはらんでいるのである。低俗氾濫もある程度覚悟のうえである。いい言論、悪い言論の基準は個人によって異なり時代によって異なる以上、低俗化への潜在的可能性は止むを得ないのであり、それを許す自由が言論の自由なのであるから、自由を原則とする世界は、つねに危うい瀬戸際を歩みつつ、社会自体がなにものかに試され、挑戦されていることを知っていなくてはならない。

(7-2)ヨーロッパでは地つづきに無理に線を引いて、互いの約束ごととして、フィクションとして、近代国家が作られた。個人と国家の関係は、自由で、契約的な意味合いを持っている。
 フィクションという自覚があり、契約という意識があれば、個人と国家との関係はいつでも毀せるし、粗末に扱ってもいいように思えるかもしれないが、じつは現実はそうではない。逆に非常に大切にする。自分で選択した関係だという自覚があるから、大切にせざるを得ないのだろう。

(7-3)私たちの社会では自由を僭称しながら、政治や教育は経済優先の風潮に流されて、本来の機能を発揮できないでいる。スポーツや芸能までが商品広告の犠牲となっている。学問や思想は情報過剰の中で溺れかかり、何がもっとも価値があるかという評価の基準は失われ、政治の原理でしかない多数決の傾向に毒されている。これがたしかに、批判される通り、自由主義社会の現状である。つまり自由はあるようでいて、案外にない。ただ私たちは自分自身のこういう欠点を批評する自由を持っている。それがじつは人間性の自立のためには決定的に大切な要素なのである。

(7-4)人間は製作し、工作する動物である。と同時に人間はなにごとかを未来に賭けて生きている存在である。社会主義社会は人間が自分の個性を試して生きようとするこの可能性を廃絶したのではないか。老舗や秘伝による伝統的職人芸ももう生かされないだけでなく、未来へ賭ける実験者としての生の形式もここでは認められない。社会主義社会は人間の心を尊重するというのはいったい本当だろうか。

(7-5)個体が自分勝手な生き方をして、社会との諧和を無視してかかれば、じつは個体は有効な働きが出来ずに、死滅する以外にない。したがって意識するとしないとにかかわらず、「個」にとっては「全体」がいかなるものであり、それとどう関わって行くかは、生の目的の基本をなす重要な課題といえるだろう。
 それが、世界的に見て、非常にいま怪しくなっている。政治的全体主義がややもすると擡頭するのは、「個」が世界状況の中に置かれたこの不安に、つけ入られる隙があるからに相違ない。

(7-6)人間は必要な自由のみか不必要な自由を持っている。人間には善をなす自由のみならず、悪をなす自由もあるからである。悪をなすも、なさないも、それこそ個人の自由である。それが自由ということである。いいかえれば自由はつねに試されているといえる。

(7-7)革命を試みた社会というものは、それの成就した暁には、必ずといっていいほど秩序の再建に向かい、新たな個人の実験や社会の流動化を嫌い始めるようだ。芸術家を少し前の時代の美意識や価値観に押しとどめて、口では革命を礼賛しながら、いささかも革命的でない精神を奨励するという奇妙な結果を惹き起こす。なぜ革命を経た後の社会が、それを知らない社会よりも「保守化」への傾向を一層強めるのか、私には人間性の秘密の一つに思えてならない。例えばフランスはあの輝かしいフランス革命を持ったお蔭で、農業国として固定化し、その工業力は十九世紀末にすでにドイツなどに立ち遅れ、今なお身分秩序の厳しい保守的社会構造を色濃く残存させているではないか。

(7-8)相手のエゴイズムを怖れるあまり、自分のエゴイズムをできるだけ抑えようとする。相手を独裁者にしたくないために、自分が独裁者になろうとする野望を我慢する。それをルールにしたのが、欧米の民主主義であり、契約の思想である。

(7-9)待つということは、待たないでよくなる至福の瞬間を待つということなのである。たとえこの世で得られない瞬間だとしても、いつか幸福な終着が訪れるのを信じればこそ人は待てるのである。

(7-10)今の時代に外国に出かけて、いちいち日本的にはにかんでいても仕方がない。こちらの率直な声には外国人はかえって耳を傾けるものだ、

(7-11)誰でもみな自分中心の世界像を描いて、それで心を安定させている。

(7-12)世人の今日的な関心の多くが、考えることの根拠を問う、あるいは生きることの根拠を問うという姿勢をとかく欠いていることだけは、動かせない事実であるように思える

(7-13) 日本人は外に対しては自分を主張せず、臆病であるといわれている。その弊はいっこうに改まってはいないのに、国内では自分で自分を自慢する破廉恥なまでの臆面のなさ、自己主張、羞恥の欠如、空威張りがもっともらしい知的な衣をつけて横行している。それがジャーナリズムの光景である。
 それが繁栄と平和のつづく無思想の時代の、このわれわれの精神生活のいらだたしげに、むなしく飾り立てられた姿である。じつに情けないことと言わなくてはならない。

(7-14)本当の経験は自分で困難にぶつかるよほどのことがない限り容易にできないという不自由な限界のなかでしか、起こらない

(7-15)結局われわれにはどこにも故郷はない。それでいて、自分の生活を成り立たせている多くの部分が、自分の内部に故郷をもっていないことにもつねづねおびえている。近代日本人のどうしょうもない孤独がここにあるといえよう。

(7-16)勤勉であることを放棄して、一体、日本人が世界の中で他に伍してやっていけるいかなる財産がほかにあるといえるのだろうか。

(7-17)二十世紀に入って以降の「文化人類学」や「比較文明論」の各業績は、表向きは、異文明への理解と寛容の上に成り立っているが、裏返せば、西欧的世界解釈の新しい拡大形式ではないだろうか。
 しかも、非ヨーロッパ世界はそれに対抗する学問上の方法論をもち得ず、今や自分自身の未知の部分を発見するためにさえ、ヨーロッパから借りて来たこの対象認識の方法を採用するしかなくなっているのである。

(7-18)総じてヨーロッパ人がアジアに対する「公正」や「公平」を気取ろうとするときは、ヨーロッパの優越がまだ事実上確保されている場合に限られよう。もし優位がぐらつき、本当に危うくなれば、彼らの「公正」や「公平」は仮面をかなぐり捨て、一転して、自己防衛的な悪意へと変貌することにならないとも限らないのだ。

(7-19)音楽が言葉から離れオペラが真のドラマ性を失っていることを批判したのが、ほかならぬワーグナーの総合芸術論ではなかっただろうか。彼は西欧芸術の源であるギリシアにあっては、音楽、言葉、舞踏、造形が一体となっていたことを強調した。そしてその後の歴史しおいて次第に音楽のみが分離し、音楽が言葉を捨てて自分だけの形式に向かうか、または言葉を軽んじながら利用するか、そのいずれかにならざるを得なかった点を彼は遺憾としたのだ。前者が純音楽の発展であり、後者がいわゆるオペラであることは、あらためて言うまでもないが、ワーグナーはこの二つの近代音楽のあり方に対し挑戦的で、ギリシア的全体性の復興を願った人である。

(7-20) イギリス人は一般に物を製造する職業を軽蔑し、商業より工業を一段と低く見る。それに対し、ドイツはその逆だ、という指摘がよくある。
 イギリス人の家庭に行くと、たしかに台所用品など大半が外国製品であることを、イギリス人自身が誇りに思っているようにさえ見える場合がある。他人が額に汗した労働の結実を金で買い集め、享受する方が、それを製造するよりも高級な生き方だとする永年の習慣が、いまだに抜け切れないのであろう。

(7-21)もともと生と死は一つである。死があってはじめて生が成り立つ。昆虫や野生動物の例を見るまでもなく、種族の繁殖のためには、個体は自己の消滅を顧みない。大量に死に、そして大量に誕生する―それが生物の自然な、健康な姿であろう。古代社会の密儀において、通例、生殖と死とが対立的に捉えられていないのはそのためである。この二つは元来、自然の全生命に所属していて、個体が死んでも生命そのものは亡びず、死はそれ自身すでに生命のうちに含まれ、生命の一部を成していると考えられていたからである。ところが近代のヒューマニズムは、ただひたすら個体の生命にだけ執着し、延命を絶対善と考えてきた。その結果、生命そのものを薄め、弱めるという思い掛けぬ事態を招いたが、それも近代のヒューマニズムが大自然の生命に根本をおいて違反する思想があったからではないか。

(7-22)日本の大学は世間の批判だけでなく、大学同士の相互批判をも厚い壁で拒むような昔からの慣行に閉ざされて運営されている。何か突発事件が起こらない限り、世間は内部の出来事を知ることは出来ない。

(7-23)日本人は他人の悪や不徳義に対する用心を欠いているだけではなく、自分が悪や不徳義を犯すかもしれないという自分の内面悪の可能性への用心をそもそも欠いている。他人に対しても、自分に対しても甘いのである。だから分別もある大学教授たちが子供っぽい犯罪を繰り返して、間尺に合わない社会的報復を受けているのだ。すべてが無自覚なのである。善と徳の幻想に包まれた日本人のこの深い沼のような無自覚状態は、社会の隅々に瀰漫している

(7-24) 生徒の自主性を自由に育てる、といえば聞こえはいいが、それは生徒を無限に甘やかすこととじつは紙一重の差なのである。一定の訓練を与えないでおいて、どんな創造力も子どもからは生まれては来ないであろう。無から有は生じない。

(7-25) 数学や理科の学力国際比較で日本の子供はトップに位置しているといわれる。しかし大学生以上の水準になると、日本の学問の独創性がいつも疑問になるのはどういうわけだろうか。日本は教育熱心な国だが、幼い子供の頃から画一的方式で全員同じになるように教育し、おとなしい羊を量産していはしないだろうか。

(7-26)どの国民も自分の身の丈に合った政府をしか持つことが出来ない、とよく言われるが、それは教育についても当て嵌まる言葉で、どの国民も自分の賢さと愚かさの両方をその中にもののみごとに映し出しているのが教育制度である、と私には思えてならない

(7-27)教育制度というのはまことに生き物の身体のようなものである。身体のある部分をもう古くさい、役立たぬしろものだからと切り取ってしまうと、ホルモンのバランスを失い、思わぬ副作用が発生したりする。

(7-28)例えば将来秀れた歴史家になろうとする人間がいたとして、彼は高等学校の時代にはたして歴史の専門教育の手解(てほど)きを受ける必要があるだろうか。それより、ギリシア語やラテン語の、若いときにしか出来ない訓練に没頭することの方が、将来歴史研究に専門的に従事するうえでも、はるかに有益なのではないだろうか。

(7-29)いま私たち日本人の眼に、災いをもたらすと映じている教育上の問題は、今は眼に見えないかもしれないが、日本人の知恵とどこかでつながっているかもしれないのである。災いだからといって、切り捨てたときに、どんなしっぺ返しが来ないとは限らない。そこまで予見しなければ改革の手は打てないし、教育はそれほど複雑なメカニズムのうえに運営されているのである。いいかえれば教育は人間の営為であって、同時に人間を超えたなにものかの意志に動かされている運動でもあるのである。

(7-30)おそらく、「格差」という病原体が、じつは眼にみえないところで、日本の近代社会の健康維持とバランスの保全に役立っているという隠れた現実が存在することに、問題の基本があるのではないだろうか。ヨーロッパの場合には「階級」というものが細菌と薬剤の両面の役割を果たしている。それを失った日本の近代社会は、代償として教育に「格差」を持ち込んでバランスを保ったといえよう。その結果、教育はポジション獲得のための手段と化し、荒廃した一面、実社会に不明朗な「階級」を再生産させないですませた日本人の知恵が、そこに認められるともいえよう。
 もし「格差」という患部を教育の世界から切除しようとするなら、その代わりに実社会に、教育よりも薬剤として効きめのある「格差」を用意しておかなくてはならない。が、ことさらの手術を施さないでも、賢明な日本の実社会は、徐々にそのような形態に衣更えしつつあるようにも私にはみえる。

出展全集第七巻
「Ⅰ ソ連知識人との対話(一九七七年)」より
(7- 1)(44頁上段「第二章 一女流詩人との会談」)
(7- 2)(57頁下段から58頁上段「第三章 フィクションとしての国家」)
(7- 3)(141頁下段から142頁上段「第九章 ソ連に〝個〟の危機は存在するか」)
(7- 4)(142頁下段「第九章 ソ連に〝個〟の危機は存在するか」)
(7- 5)(147頁下段から148頁上段「第九章 ソ連に〝個〟の危機は存在するか」)
(7- 6)(154頁上段から下段「第九章 ソ連に〝個〟の危機は存在するか」)
(7- 7)(167頁上段から下段「第十章 世紀末を知らなかった国」)
(7- 8)(203頁上段「第十二章 メシア待望」)
(7- 9)(217頁下段「第十二章 メシア待望」)
(7-10)(220頁上段「あとがき」)

「Ⅱ 自由とはなにか」より
(7-11)(245頁上段「文明や歴史は複眼で眺めよ」)
(7-12)(251頁下段「全体が見えない時代の哲学の貧困」)
(7-13)(258頁下段「無思想の状況」)

「Ⅲ 世界そぞろ歩き考(一九七〇年代)」より
(7-14)(264頁下段「世界そぞろ歩き始め」)
(7-15)(270頁上段「ヨーロッパの中の日本人」)
(7-16)(293頁下段「ヨーロッパの憂鬱」)
(7-17)(300頁下段「ヨーロッパ文化と現代」)

「Ⅳ ドイツ再発見の旅(一九八〇年代)」より
(7-18)(349頁下段「仮面の下の傲慢」)
(7-19)(378頁上段「ミュンヘンで観た『ニーベルングの指輪』」)
(7-20)(387頁上段から下段「技術観の比較」)
(7-21)(398頁下段から399頁上段「人口増加に無力なヒューマニズム」)
(7-22)(428頁下段「ドイツの大学教授銓衡法を顧みて」)
(7-23)(432頁上段から下段「ドイツの大学教授銓衡法について」)
(7-24)(434頁下段「個性教育の落とし穴」)
(7-25)(442頁上段「ドイツの子供たち」)
(7-26)(445頁下段「思わぬ副作用」)
(7-27)(452頁下段「思わぬ副作用」)
(7-28)(455頁下段「思わぬ副作用」)
(7-29)(469頁下段「思わぬ副作用」)
(7-30)(470頁上段から下段「思わぬ副作用」)

西尾幹二全集19巻「日本の根本問題」目次

序に代えて 「かのようにの哲学」が示す知恵

Ⅰ 歴史と科学
『歴史と科学』(二〇〇一年十月刊)

第一章
歴史と自然
1日本文化の背後にある縄文文化
2原理主義を欠く原理を持つ日本人
3森の生態系の中で熟成した自然観
4世界四大文明に匹敵する「縄文土器文明」
5インドの叡智に魅了された「森の住人」たち
6原罪としての自然科学

第二章
歴史と科学
1科学と「人間的あいまいさ」の関係
2自然科学は現代人の神である
3科学は発展したが「真理」からは遠ざかった
4科学から歴史を守れ

第三章
古代史の扱い方への疑問
1砂漠の文化の基準で森の文化は測れない
2歴史学は科学に偏りすぎてはいけない
3 「二重構造モデル」の重大な過誤
4大陸文化と対峙する日本文化
5歴史は知的構築物にほかならない

あとがき
参考文献

Ⅱ 神話と歴史
「自己本位」の世界像を描けない日本人
危機に立つ神話
森首相「神の国」発言から根本問題を考える
古代日本は国家であり文明圏でもあった
大陸とは縁の遠い日本文明
知識思想世界のパラダイム

Ⅲ 憲法について
改正新憲法 前文私案
「改憲論」への深い絶望――参議院憲法調査会における参考人意見陳述
このままでは「化け猫」が出てくる

Ⅳ ご皇室の困難と苦悩
1 皇位継承問題を考える
  一 皇室の「敵」を先に念頭に置け
  二  「かのようにの哲学」が示す知恵(二〇〇六年四月・本巻「序に代えて」に掲載)

2 『皇太子さまへの御忠言』(二〇〇八年九月刊)
まえがき
第一章 敢えて御忠言申し上げます
第二章 根底にあるのは日本人の宗教観
第三章 天皇は国民共同体の中心
第四章 昭和天皇と日本の歴史の連続性
「WiLL」連載で言い残したこと――あとがきに代えて
主要参考文献

3  「弱いアメリカ」と「皇室の危機」
「弱いアメリカ」と「皇室の危機」(二〇〇九年)
危機に立つ日本の保守
『「権力の不在」は国を滅ぼす』の「あとがき」(二〇〇九年)
天皇陛下はご心痛をお洩らしになった(二〇〇八年十二月)

4 皇族にとって「自由」とは何か
「雅子妃問題」の核心――ご病気の正体(二〇一一年)
背後にいる小和田恆氏(二〇一二年)
正田家と小和田家は皇室といかに向き合ったか(二〇一二年)
天皇陛下に「御聖断」を(二〇一二年)
おびやかされる皇太子殿下の無垢なる魂(二〇一三年)
皇后陛下讃(二〇〇九年)

5 今上陛下と政治
歴史が痛い! (二〇一七年十月、ブログ発信)
沈黙する保守 取りすがるリベラル――インタビュー記事
陛下、あまねく国民に平安をお与えください――あの戦争は何であったのかを問い続けて――二〇一八年十二月十三日(靖國神社創立一五〇年 英霊と天皇御親拝)――
日本人は自立した国の姿を取り戻せ(二〇一九年三月一日)

6 令和時代がはじまるに当って
回転する独楽の動かぬ心棒に――新しい天皇陛下に申し上げたいこと(二〇一九年三月一日)

Ⅴ 日本人は何に躓いていたのか(二〇〇四年十一月刊)
序章 日本人が忘れていた自信
第一章 外交――日本への悪意を知る
第二章 防衛――冬眠からの目覚め
第三章 歴史――あくまで自己を主軸に
第四章 教育――本当の自由とは何か
第五章 社会――羞恥心を取り戻す
第六章 政治――広く人材を野に拾う
第七章 経済――お手本を外国に求めない

追補一
平田文昭・西尾幹二対談 保守の怒り(抄)
追補二
竹田恒泰・西尾幹二対談 女系天皇容認の古代史学者田中卓氏の神話観を疑う
追補三
国の壊れる音を聴け――西尾幹二論  加藤康男

後記

たまにはいい事もある 2019.4.28

 たまにいい事もある、と今朝は嬉しかった。加藤康男さんから下記のようなメールが届いた。ゲラで一度読んでもらっていて、雑誌が届いてもう一度読んでくれたようだ。

「正論」6月号の「回転する独楽の動かぬ心棒」を改めて拝読。正に正鵠を射ていて、他の凡百論文とは比べものになりませんでした。五項目にテーマを分けて立論されたのも功を奏していたと思います。なかんずく四、五の後半が迫力満点で、他の誰も書けない部分でした。お疲れさまでした。全集の「あとがき」等々と共にこの論文も後世に残るお仕事です。少し体を休めて下さい。加藤

 当事者以外には感興を喚び起こさないメールの内容かもしれないが、ここまで書いてもらえると当事者は嬉しいだけではない。次の仕事へのメドも定まり、意欲も湧いてくる。

 たしかに自分でもあの論文はうまく書けたと思っている。産経出版の瀬尾編集長からも読んだと電話があり、「一語一語の選び方が迚も的確だと思った。これ以外にはあり得ない、と思われるほど考え抜かれた各々の言葉が選ばれている」との評語を有り難く受け取った。人は褒められると伸びるというが、学生生徒でも老人でもこれは同じである。まだ自分にも伸びしろがあると信じているのが人間である証拠である。

 今私は次の三つの仕事を目前に控えている。

 全集第19巻「日本の根本問題」は校了直前にまで来ている。連休で妨げられているが、私のつとめはほゞ終わった。

 産経新聞コラム正論が1986年以来100篇書き貯った。これが一冊の本になる。全正論を単著でまとめて一冊にして出した例は、これまでにはないだろう。(本の題未定)

 次に文芸評論とも、哲学論とも、歴史書とも言いかねるような大部の一巻が進行中である。(本の題未定)すでに約700枚の原稿は出そろっている。6月末までに、巻頭の100枚を書く予定で、編集者との打ち合わせも終わっている。あとは実行あるのみであるが、筆力よりも体力を心配している。

 これでもまだ私は人生最後の一冊になるとは言っていないし、そのつもりもない。

P.S. 当日録コメント欄の4月28日午後4時54分の土屋六郎氏のコメントは、本日のこの文を書いた後に拝読した。厚く御礼申し上げます。

坦々塾「冬の富士を愛でる」一泊旅行

 平成31年2月13日(水)から14日(木)にかけて、西尾先生を囲む有志16名とともに、甲斐の国の名勝地、富士五湖周辺を巡ってきました。これはその紀行文です。

 昨年の暮れも押し詰まったころのこと、西尾先生が「オーケストラの演奏をコンサートホールで聴いたり、まだ読み残している文豪の小説を読んだりする、そんなゆったりとした時間を過ごしてみたい」と、だれに言うともなくつぶやかれた。
 先生がいかに多くの、そして偉大な仕事をされてきたかということは、現在刊行中の浩瀚な個人全集を見るまでもない。しかもそれが、決して物理的に巨大なだけでないことは、このブログの読者ならば、だれでも知っていることであろう。
 先生の言葉を聞いて改めて気づいたのは、あれだけの仕事をなされるために費やした時間とは、慰安や娯楽を犠牲にした膨大な切磋琢磨の積み重ねだったということである。まさに、疾風怒濤の人生である。

 これもまた昨年の春のこと、花を見ようというお誘いを受けて日時を約束したが、去年の異常に早い開花に、その日の桜は残り花一片とてなかった。桜と富士こそは、日本人のこころに、悠久の時を経て受け継がれ、育てあげてきた美の象徴でもある。花と呼ぶだけでそれが桜花であることを、わが民族は共通の心情として持っている。

 それ故にこそか、桜も富士もどちらも月並みだが、月並みこそは最高の様式ではないかと思う。洗練に洗練を重ね、その絶頂に完成された月並みこそが様式美だと思うからである。

 先生から富士山に行こうと誘われたのは、去年の11月であった。桜の開花日が神のみぞ知るように、富士が望めるか否かも神の采配にかかっている。ならば、晴天の確率が高く、しかもその姿あくまでも気高き、真白き富士を仰ぐためにも、あえて真冬の山梨に行きましょうと提案した。

 一日目、雨こそ降らないものの空は雲に覆われている。この旅でのお宿は、富士五湖随一の名旅館と謳われる鐘山苑(かねやまえん)であった。

 その中でも特に名物といわれているのが、屋上露天風呂から左右の裾野まで見渡すことができる富士の雄姿である。だがこの日、結局富士山は一度も顔を出すことはなかった。
 翌日の天気予報を確認すると、晴れ時々曇りとなっている。気になるのは気温が高いことだ。地上に暖気が残るということは、放射冷却の朝のように、カラリと晴れる条件を満たさない。深夜から早朝にかけて何度も空を見上げるが、月も星も見えない。やがて、東雲(しののめ)の空を朱に明け染めることなく朝がきた。おそらく、全員の胸に落胆の思いがあふれていたことであろう。
「新しい朝が来た 希望の朝だ 喜びに胸を開け 大空あおげ」という気分になどとてもなれない。

 二日目は山中湖の水陸両用バス「KABA」に乗る。
 30分の行程のうち前半の15分間は林間を走り、後半はそのまま湖に入り、水上に浮かんだまま湖水の上を周遊するというものだ。
 実は我々は、ホテルの出発が遅れ、当初予約していた便に間に合わなかった。そのため一本遅いバスに乗車したのであるが、結果的にこれが奏功したのである。バスが山中湖に入ったとき、左窓からはわずかに富士の裾野だけが見えていた。そして、対岸の手前で反転し陸地が近づく直前、富士の山頂が姿を現したのだ。時刻は午前11時10分だった。

 それからは、中腹を覆っていた雲もやがて切れ、忍野八海に向かう車中からは、ほぼその全容を眺めることができたのである。

 このとき西尾先生が山の斜面を見つめながら、「あのギザギザとした線はなんですか?」とお尋ねになった。それは直登を避けるためにジグザグにつけられた九十九(つづら)折れの登山道で、いくつかある富士山登山路のうちの吉田ルートのものである。


 毎年何十万人もの人によって踏み固められ、そして削られてゆく、現在進行形の富士の生傷とも言えよう。

 忍野八海では、そこに滞在中ずっと富士山を見ることができた。背景は青空ではなくて厚い雲ではあったから、終わりよければすべて良しとするには少し足りないかもしれないが、見えるのと見えないのとではまったく違う。やっと少しだけ、責任を果たしたような気分になった。

 例年4月から5月にかけて、富士山の北西斜面に「農鳥・のうとり」という雪形が出現する。これが現れることで春の訪れを知り、農作業の準備をしたという言い伝えがあるが、我々が訪れたとき、この農鳥がくっきりと見えたのである。


 冬場の強風等で周囲の雪が吹き飛ばされることで、1月や2月に現れるものを地元では、「季節外れの農鳥」と呼ぶのだそうである。

 昼食を終え帰路につくバスが高速道路に乗るころには、富士はまた厚い雲の中に隠れて見えなくなった。

 古今和歌集から富士を読んだ歌、二種

人知れぬ思ひを常に駿河なる富士の山こそ我が身なりけり(詠み人知らず)
【恋しいお方に知られない思いの火を燃やし続ける私。まるで、火を噴き出す富士山こそ我が身なのだろう】

富士の嶺のならぬ思ひに燃えば燃え神だに消たぬむなしけぶりを(紀全子)
【炎にはならず、煙ばかりをあげる富士山のように、私の思いも成就しないまま燻ぶるだけ燻ぶるがいい。神も消すことが出来ない空しいその煙を】
どちらも片恋の歌である。
 富士山が最後に噴火したのは宝永4年(1707)だから、古今集が勅撰された延喜5年(905)の平安時代にも盛んに噴煙を上げていたことだろう。ずっと時代が下った平安末期、西行法師も
風になびく富士の煙の空に消えてゆくへもしらぬわが思ひかな(新古今)
と詠んでいる。

 「三七七八米(ママ)の富士の山と、立派に相対峙し、みじんもゆるがず、なんと言ふのか、金剛力草とでも言ひたいくらゐ、けなげにすくつと立つてゐたあの月見草はよかつた。富士には、月見草がよく似合ふ」
富嶽百景の、特に最後の一行は有名だが、実は太宰は同作でこんなことも書いている。
「御坂峠に着き、この峠の天下茶屋から見た富士は昔から富士三景のひとつらしいが、あまり好かなかつた。好かないばかりか軽蔑さえした。あまりに、おあつらえのむきの富士である。」
 実は西尾先生も、これとそっくりのことをおっしゃっていたのである。「手前に湖があって、その奥に富士山があるような眺めは好きではない。人々の生活感が感じられる屋並みを通して望む富士こそ見たいのだ」と。

浅野正美

Hanada三月号より

管理人長谷川です。

 西尾先生に関する記事がありますのでご紹介します。
是非ご覧ください。

 月刊誌Hanadaの2019年3月号(今月発売)の19ページのFRONT PAGE で山際澄夫さんが「左折禁止」というコラムを書いておられます。内容はここの日録の記事「2018年から2019年初にかけて思うこと」を冒頭に紹介し、保守政党である自民党への苦言となっています。山際氏には西尾先生の論文評価とともに、日録の紹介となりましたことにも感謝しています。

 また、既にお知らせしていました文春オンラインが掲示されています。コメント欄でおなじみの「あきんどさん」のことについてもお話されています。