「『鎖国』の流れと『国体』論の出現」を拝聴して(二)

ゲストエッセイ 
伊藤悠可(いとうゆうか)
記者・編集者を経て編集制作プロダクトを営む。
NPO法人 日本易学研究指導協会理事長。坦々塾会員

6.義満の強大無比
  こうした皇位継承の型が続けば、おのずと天皇は「象徴天皇」に向かう。「摂政」が不可欠になる。室町・足利義満は存在自体が皇位をおびやかすまで権力が強大だった。病死しなければ彼に天皇の位は奪われていた。諡号まで用意されていたのだから。「偶然」がはたらいて皇位が守られた例である。

 [閑話休題]皇室の危機について思い返す。誰もが知っている皇室の危機、皇位継承の危機を招いた主役は「道鏡」「将門」「尊氏」「義満」であるが、坦々塾の畏友・平田文昭さんなどはたしか新井白石の『余論』を引いて、足利尊氏を古い固定観念で逆賊と決めつけることを排している(『保守の怒り』)。楠公は四百年悪逆の徒の烙印を押されてきた。楠公を忠臣とするのは光國などの顯彰の影響も大きいが、主として昭和初期の急進的国家神道イデオロギーの産物とみる人も出てきた。私にとっては新しい人々である。高山樗牛は菅公をボロくそに言っている。保守や日本主義もこうしてみると、やはり常に揺れ動いているとみるべきか。

7.王がいなくなると民族がなくなる
  満洲、そしてモンゴルの興亡をみる。「王と民族」の消失劇である。オイラードのように男系でない民族は王が続かない。王がなくなると民族がなくなる。前出の赤ちゃんの即位の意味の重さをあらためて思う。

8.もう一つの「ためらい」
  明治、大正、昭和に出てきたもう一つの「ためらい」。明治政府は皇室皇統の原点を「古代神話」に求めた。それに対する「ためらい」はその以前から、水戸学からも発せられていた。神代と人代とは明確に分けるという考えで、さかのぼると山崎闇斎や新井白石の立場も同じである。明治の硬直した古代神話重視が、津田左右吉や西村真次ら解明主義者の台頭を招いたとも言える。萩野貞樹先生から言わせると幼稚な科学主義者の主張にすぎない。しかし、次項に挙げた理由からも神勅派へのためらいは道理でもあった。解明主義派、神勅派、そして神勅ためらい派ともいうべき人たちが現われる。解明主義派の勃興に対する昭和初期からの「国体論」(白鳥庫吉、山田孝雄)については、「『国體の本義』の本質」を以前、先生の坦々塾講義で教わっている。

9.「それでは戦えない」という平泉澄の姿勢
  平泉澄は神官の家に育ちながら、古代神話信奉の道を歩かなかった。ヨーロッパをよく見てきた人で、彼我の中世に精神支柱を求めた。クローチェにも会っている。ホイジンガの「秋」(『中世の秋』)も読んだのだろう。したがって平泉は日本の歴史といえども国際社会の真っ只中に生きているという感覚を失っていないし、唯ひたすら神話を奉じるといった国体堅持派の主張では「わが国は戦えない」と考えた日本人の一人である。

10.現代の図式にあてはめると
  先生は山田孝雄、そして平泉澄を現代に照らしてみられた。皇室皇統にいくつもの問題が兆している。この日のお話の中にも皇統の曲がり角といえる歴史的局面は数多くあった。例えば保守統括を自認する日本会議は「ありがたや天皇崇拝」で固まり、また固めようとしている人があまりに多い。皇室に関することは基本的に発言してはならないという硬直した姿勢。これは何なのか。とりわけ図式化すれば「山田孝雄」と「平泉澄」は、今の「日本会議」と「西尾幹二」に対比することができるのではないかと、先生は相違を明らかにされた。
 

文責:伊藤 悠可

つづく

「『鎖国』の流れと『国体』論の出現」を拝聴して(一)

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(当日の手書き資料、西尾メモ)

ゲストエッセイ 
伊藤悠可(いとうゆうか)
記者・編集者を経て編集制作プロダクトを営む。
NPO法人 日本易学研究指導協会理事長。坦々塾会員

 3月6日(土)の坦々塾に出られなかった私に、西尾先生のご講義(音声記録)を聴く機会を与えてくださいました。「『鎖国』の流れと『国体』論の出現」という題には大いに惹かれ、予告に「日本列島は半鎖国をしながら深呼吸をしてきた」とありましたから、『江戸のダイナミズム』に通じる先生の“眺め方”に興味は尽きません。期待どおりじっくりと先生の文明史的な日本観をうかがうことができました。

 以下は、私自身がご講義のここが急所だと感じて書き留めたメモと先生にご送付した自由感想文です。先生が語り、刺激されたら自分の考えを走り書きするといった断片で、起承転結は欠いています。

 現実に起こっている物事の底面にふれ、虚と実、本流と支流を教えて下さる先生の仕事にハッとさせられますが、それとは異なる仕事、目前の対象からすっと離れて眺めた後、文明や民族を思惟される世界に静かな興奮が沸いてきます。

 一時間二十分、漏らさず拝聴しました。日本民族は童心が過ぎるのでしょうか。それとも単細胞で運命の舟にまかせて、小さな田園と山村で四季を生きることが何より好きなのでしょうか。外界に接触し緊張するときは過呼吸に陥り、生命も簡単に捨てますが、本来は「できるなら放っておいてほしい」という内向きの世界遮断を感じます。「沈黙とためらい」を楽しく思考致しました。
 
 私が思った先生のご講義の急所

1.「礼」は政治そのもの
  新年の「恭賀の儀」というもの。それは単なる豪華絢爛なお祝いごとではなかった。国家意志の表現であった。「礼」は「政治」そのものであり「政治」が「礼」であった。こういう捉え方があるのかと驚く。内外の賓を迎え、文武百官、律令官人といった群臣が朝庭を埋めつくして色の波となる。唐における朝賀も荘厳だが、平安宮大内裏の元旦も引けをとらない。「礼の張り合いをしていた」という先生の説明がすっと入ってくる。

2.苦難を経たのちの頂上の安定期
  権力と権威を集中していたのは天武天皇。7世紀後期に「潜龍体元存雷応期の徳を以ち給ふ」と仰ぎ見られた帝。古事記を阿礼に口授した人皇天四十代天皇であり、四世紀以降の対外緊張と進出を経て、壬申の乱を戦い抜き、天皇を頂点とする中央集権的支配体制を確立している。苦難を乗り越えて迎えた“頂上”の御代。先生の説明にあったように帝室のターニングポイントに当たる。「大王(おおきみ)は神にしませば」の歌は天武天皇を讃えたものとされる。偉大な天皇を仰いだ幸福な時代。

3.「国際社会」の喪失
  天武天皇以降、この対外緊張感は希薄になってくる。唐の崩壊は決定的で、大がかりな元旦儀礼は完全になくなる。ふつう、彼我の緊張がなくなれば周囲を気にせずに元旦から大宴会を開いて楽しむのでは、と考えるのはあさはかな現代人の頭か。やはり先生のいわれる「礼」は「政治」そのものということになる。国際社会に生きているという感覚の喪失がはじまる。

4.沈黙とためらい
  西洋が近づいてくるのが15世紀から16世紀。近づいてきたから開く、積極交渉に出るというものではないので先生のいう「沈黙とためらい」が続いていくことになる。対外関係・対外意識というものが、こちら側を変える。(こういう認識が今に至るまでわが国の歴史家には乏しい)。

5.皇位継承は苦肉の策の連続
  天皇はどうして続いてきたか。「偶然」と「必然」の両方を認めなければならない。万策尽きた後の一策。女性天皇もその一つである。その恃みとする最後の一策がまたつけ込まれる。例外的継承の失敗(道鏡事件)を学んで、「幼帝」という一策を立てる。柔軟構造にする。さらに(天皇が)世を乱すということがあっても出家すればセーフという収め方まで認める。泣き叫ぶ赤ちゃんにお菓子(干し柿など)を与えての「即位の礼」のお話を初めてうかがう。これほどの綱渡りなのか。とても意味深く興味深い。

文責:伊藤 悠可

つづく

第17回坦々塾勉強会講演要旨(五)

平成22年3月6日(土) 第17回坦々塾勉強会 報告文

講師 西尾幹二先生
演題 「『鎖国』の流れと『国体』論の出現」
浅野正美文責

 講義の冒頭、続漢書に描写されている九世紀唐の元会儀礼(新年元旦の宮中儀礼)の部分が西尾先生によって読み上げられた。続けて「日本古代朝政の研究」(井上亘著)から、我が国の同様の祭祀である、平安宮大内裏における元旦儀礼について書かれた部分が朗読された。当時の日本は中国に対抗して礼の競争をしていた。政治は形式化し、律令国家にあっては形式が政治そのものであった。礼は政治であるとともに戦いでもあり、諸国から使者を宴に招待する国家意思の表明であった。この時代の両国政治が、パノラマ化、劇場化していたことを表している。

 この時代の古代日本と東アジアを振り返ると、4世紀に朝鮮出兵しミナマに日本府が置かれる。百済と新羅を助けて高句麗と戦った。5世紀、倭の王が宋に使者を送り、世紀を通じてこれは10回におよぶ完全な朝貢国であった。6世紀589年、隋の統一がなり、7世紀大化の改新が成り、白村江の戦いでは唐・新羅連合軍に敗れ国内に大きな衝撃が走る。唐の攻撃を避けるために、都を近江に移すなど、国際社会との張り合いが必要な時代であった。

 天武天皇は中国皇帝にもっとも近い権力を掌握し、その存在は神そのものであった。壬申の乱を制して即位すると、中央豪族の政治干渉を廃し、大臣も置かず専制君主制を確立した。こうして唐に倣った立派な儀式を行う体制が整ったが、それは東アジアに我が国の国家意思を表明し、大国を標榜するためにも不可欠な行為であった。当時の日本は紛れもなく国際社会の一員であった。にもかかわらず、やがてこうした国家権力を目に見える形で表現する必要性を失っていく。

 894年、遣唐使を廃止、907年唐が崩壊する。これは東アジア社会にとって劇的な出来事であった。これ以降国家間の緊張を失い、大国たる威儀を誇る必要がなくなっていく。

 10世紀前半、我が国は事実上の半鎖国状態となり、王権は小さな世界に変化し、中国文明からも離脱する。これは中国文明からの離脱であり中国を中心とする東アジア世界を不要とする流れであった。これ以降、我が国は深く静かに国風文化を熟成させていくという見方もできるが、それは、この間の我が国が国家の体をなしていなかったということでもある。

 平安から明治維新にいたる10世紀前半から19世紀は、国際社会のない列島文化であった。日本の歴史、文化を考える上でこのことは非常に大きな意味を持っている。元寇、秀吉の朝鮮出兵も、国際社会がないゆえの事件ということもできるのではないか。国家間の緊張と軋轢のない、また必要としない時代であった。

 我が国の歴史において、平安末期から応仁の乱にいたる時間は、歴史のブラックホールであった。天皇家は武家と手をつなぎ、宗教的権威となっていった。

 我が国は大化の改新と明治維新において、外国から文明の原理を輸入した。古代中国と近代西洋はこの国を大きく揺さぶった。

 日本語には千年に近い沈黙の歴史があった。漢字が入ってきてから、それを受容するまで800年の時間を要している。これは我が国が無知蒙昧だったせいではない。新しく入ってくるものに対するためらいと、ひそかな抵抗がそうさせた。15世紀末から16世紀には西洋と触れ合うが、19世紀までためらい続け簡単には近づけなかった。長い沈黙とためらい、それが列島の文化であった。半鎖国状態のままに深呼吸している文明であった。二つの文化原理の輸入によって革命的な変動が起こったが、長い時間をかけて違うものに変えてしまった。

 こうした歴史を経験しながらも、天皇家という歴史の連続性だけはつながっている。なぜ天皇家は生き延びたのか。

 道鏡危機のとき女帝の危うさが刻印された。それ以降幼帝が即位するということが起きた。皇統断絶の危機に対しては、女帝よりも幼帝を立てた。幼帝が即位すると摂政の家柄が必要となり、後の藤原家の台頭を招く。幼帝が大嘗祭をお勤めになる際には、摂政が抱きかかえて殿中を回り、むずかるときには当時のお菓子であった干し柿をしゃぶらせたという記録がある。これはとりも直さず天皇が権力から離れて宗教的権威になっていったことをあらわしている。なぜ、そんなことが可能であったのか。

 武家と天皇家は持ちつ持たれつの関係にあった。この時代の権力構造を見ると天皇、武家、寺社、公家という四つの勢力があり、武家の権力だけでは国は治まらなかった。幼帝が成り立つということは権威と権力が分離していることを表す。国際社会の中で、東アジアの嵐の中で張り合っていた儀礼は国の威信をかけた戦争であった。唐が崩壊した10世紀以降、その必要がなくなった。幼帝の存在、権・権分離という二重構造が許されたのは、鎖国に関係があるのではないだろうか。

 西洋も大陸も戦乱につぐ戦乱の歴史であった。それは強力な国王が国家を統一し、強力な国王と国王が戦うものである。戦争に敗北するということは王権の消滅であるとともに、民族の消滅でもあった。仮に我が国がこうした国際社会の争いに巻き込まれていれば、幼帝を戴いて戦うことはできず、武家から王を出さざるを得なかっただろう。ところが我が国は鎖国状態にあったために、外国との戦争には巻き込まれなかった。国内では激しい内戦が続いたが、天皇家はそうした争いの外にあって、信仰と権威によって武家に対して官位を授けていた。武家はこの官位を後ろ盾に戦を戦った。天皇家に対する信仰、鎖国という必然があったために天皇家は残ったのであろう。

 また、足利義満による皇統簒奪の企みもあったが、彼が若くして病死するという偶然にも恵まれた。このように天皇家が残った所以には偶然と必然があったにせよ、この間わが国が半鎖国状態にあったということが何よりも幸いした。国際社会の軋轢に巻き込まれていれば、強い国王の下で外国の軍隊と戦わなければならなかったであろう。常に強い天皇が即位しているとは限らず、その場合武家の棟梁が王位について戦争をした可能性もある。 
 
 天壌無窮の神勅、天照大神から天孫降臨の御子孫としての天皇の御位を繋ぎたもうた、という日本人の神話への信仰へのためらいは、すでに大正、昭和の知識人も持っていた。戦後の歴史思想と同じ思想が、すでに戦前に出ていた。明治国家は支配の正統の根拠を、古代日本神話に置いた硬直史観で押し通した。戦前の日本は西洋思想との葛藤にあった。合理主義、開明主義、科学主義に基づく神話解釈はそうした明治国家の崩壊を意味する。神話に根拠をおいた歴史観に基づいて「国体の本義」は書かれたが、昭和になると国民が忠誠を尽くすに値する道徳観、倫理観を高める意識を強めない限り戦争は戦えないという考えの下、国体に関する激しい論争が沸き起こった。

 今日の講義は序論である。次回以降この国体論の出現を巡る論及を深めていきたい。

文責:浅野正美

第17回坦々塾勉強会講演要旨(四)

「ナホトカ日本人墓地墓参の余韻-抑留の思想戦と知識人の妄言」  (2)粕谷哲夫

 60万人の日本将兵を不法に拘束しシベリアの移送し、捕虜として自由を奪い過酷な強制労働を課し、さらに参謀、憲兵、通訳などは国際ブルジョワジー援助の罪など戦時刑事犯人に仕立て20~25年の重刑を課し囚人とした、シベリア抑留という大罪は、スターリンないしはスターリニズムの責任である。これは議論の余地はない。

 事実、スターリンの死によって、遅ればせながら抑留者は日本に帰還している。また、スターリンはソ連共産党にとって正式に否定されたし、赤の広場から遺骸も撤去されている。ゴルバチョフは、シベリア抑留を遺憾とし、エリツインは謝罪している。さらにペレストロイカ以後の情報公開で、シベリア抑留の悪夢の内情が、ソ連側資料で、徐々に知られるようになってきた。いかに弁護しようともシベリア抑留にソ連にいささかの正当性はない。むしろこのことは、この事件に心得のある日本人より、ロシア人自身が認めているところである。

 問題は、このような残虐非道、暴虐のスターリンと共産主義を賛美、崇拝したインテリ階層がいかに多かったかである。同調、理解する幅広い支持者が、日本の知識社会を支配したということである。スターリンの大粛清は、細部はともかく、子供の私でもある程度匂いは嗅いでいたし、共産主義とスターリンに心酔してソ連に行っていた日本共産党員すらも多数、スターリンの毒牙の犠牲となった。そんな事実は 当時の共産党員なら誰でも知っていたはずである。

アンドレ・ジイド 『ソヴィエト紀行』から

 アンドレ・ジイドは、1936年にソ連訪問した。僚友ゴーリキイの病篤しという報に接して、モスクワにジイドが到着した翌日ゴーリキイの生涯は終った。ジイドは「赤い広場」での葬儀に出席する。その後、二ヶ月間、ソ連各地を訪問し、観察を記録したのが、『ソヴィエト紀行』である。

 ジイドが書いた、革命後のソ連の実情の描写は、国内外に異常な反響を呼んだ。当時世界の知識社会をほぼ席巻していた、革命礼讃の政治家、学者、文化人、ジャーナリストの、あるものを当惑させ、あるものを震撼させた。そしてあるものは激しいジイドに批判の矢を向けた。

 『ソヴィエト紀行』を読むと、ジイドは決してソ連で行われている諸悪や誤謬を暴露するために行ったのではない。ジイド自身、ロシア革命が人類のユートピアに至るファイナルアンサーであると心から信じており、その成功をこころから祈っていたのである。今流にいえば、共産主義革命にコミットしていたのである。

 ジイド自身の言葉をいくつか引用しよう。

ソ連は一つの「人類の模範」であり、「先導者」であり、われわれのユートピアが現実のものになりつつある国がであった。

 「われわれのユートピアが現実のものとなりつつある国」としてソ連に憧れていた。ジイドにとって、彼らの大きな成功は、われわれの心の中にさらに多くの要求を注いだのである。

 

すでに最も難事とされていたことが成就していた。そして我々は、すべての悩める民衆の名においてソビエットとともに契った誓約の真っただ中に隠然として突き進んでいったのである。

 アンドレ・ジイドはロシア的なものをこよなく愛し、ロシアの文士たちと友好を温め、ロシア革命に大きな夢を膨らませていた。ところが、実際にソビエットに来てみるとどうも様子が違う。その違う様子を少し長いが、そのまま引用する。

あふれるような人間愛、少なくとも正義を欲する烈しい欲求が、人々の心を満たしてくれればと、そのことを私たちはどんなに希ったであろう。が、一度革命が成就し、勝利を得、さらに革命の業が固定してから、そうしたものが問題にならなくなった。そうした革命の先駆者たちの心を動かしはげましていた感情は、次第に五月蠅くなり、厄介者となってしまった。あたかも最早役に立たなくなったもののように。

(中略)

今日ソビエットで要求されるものは、すべてを受諾する精神であり、順応主義 (コンフォルミズム) である。そして人々に要求されているものは、ソビエットでなされているすべてのものに対する賛同である。のみならず、為政者たちが獲得しようとして努めているものは、この賛同が諦めによって得られた受動的なものではなく、自発的で真摯なものであり、さらにそれが熱狂的なもののように望まれているのである。そして、何よりも脅威に値することは、この要求が達せられていることである。

また他方、ほんのわずかな抗議や批判さへも最悪の懲罰を受けているし、それに、すぐに窒息させられているのである。

私は思う。今日いかなる国においても、たとえヒットラーのドイツにおいてすら、人間がこのようにまで圧迫され、恐怖におびえて、従属させられている国があるだろうか。

 スターリンおよびスターリニズムの人権侵害、人民抑圧は、悪名高きヒットラーのそれをしのぐ!とすら言っているのである。当時とすれば驚くべき発言であると見なければなるまい。

 ジイドは、万が一にもその共産主義の理想が幻想に終わるとすれば、それにコミットした自分たちの責任はきわめて大きい。しかし、ロシア革命の希望まだ捨てない。

 ソ連の現実に完全に絶望して、フランスに帰国したのなら、ジイドはこの『ソビエット旅行記』など書くことなく沈黙を守ったであろうとすら言う。希望があるから、ソ連に誤謬を改めてほしいという、祈るような気持ちで期待をつないだのである。

 この辺の事情は、訳者の小松清の、ジイドは誠実な人で、黒いものを白いということは言えない誠実な人である。いまのスターリンの誤りは誤りとして、いずれ改善するだろう。自分もジイドのようにロシア革命の完全成功を祈っている・…というホンネを披歴している。

 ロシア革命の完全成功とそこからのユートピア実現を祈った、フランス文学者はじめ、われわれの青春時代の文学全集に名を連ねる学者や知識人に共通のものであろう。桑原武夫などその最たるものである。それは後述する。

 ジイドの観察した内容は、ソ連時代のロシアから北朝鮮他共産国に、そのまま残り続けた。ジイド批判を得意げに書いた、宮本百合子はそれのンの崩壊をどう弁明するのか? シベリア抑留も彼らの信じたものの、典型的な被害例である。

ジョージ・オーウエル 『動物農園』の序文

 スターリンとスターリニズムの内情に警告を発したもう一人のジョージ・オーウエルを見てこう。

 彼が 『動物農園』の序文で述べた文章は、ジイドから遅れること約十年、1945年ごろのイギリスの、知的空間を支配していた共産主義幻想を的確に描写したものである。そのようなものは早晩、消滅するであろうと、鋭いメスを入れて渓谷としている。オーウエルはジイドのように共産主義への期待も希望も抱くことはまったくない。

Orwell’s Preface to Animal Farm の要点

 1945年、無批判なソ連賛美は、イギリス国民の常識になっている。
 ほとんどの国民はこの「常識」に基づいて、行動している。
 ソ連邦批判の文章や、ソ連の嫌がる真実の暴露本は、印刷してもらえない。
 ソ連批判は許されないのに、英国を批判するのは当たり前のこととして、自由なのである。
 このソ連に対する寛大さは、決して圧力団体によって強制されたものでなく、イギリス人の内発的なものである。
 1941年以来、イギリスの知識人が、無批判にソ連の政治宣伝受け入れるという、卑屈な態度は驚くばかりでありだ。
 現在のイギリスのソ連崇拝熱は、西欧自由主義の伝統が全般的に衰弱したことの一つの現れである。
 ソ連への無批判の忠誠こそが正しく、ソ連の利益になる事なら検閲はおろか、故意の歴史の歪曲も大目に見るしまつである。
 このような態度は、ロシア礼讃以上に重大なことである。
 ロシア礼讃の流行は長くは続くまい。
 おそらく動物農園が出版される頃には、私の見方は、広く社会に認められるのではないか。
 400年間のわれわれの文明は、思想と言論の自由のない体制を認めない。われわれの文明はこの考えの上に築かれたものである。
 わたしは、ソ連の体制は基本的に「悪」であると、この10年間信じてきた。
 たとえ戦争でソ連が同盟国であっても、わたしのこの信念は変わらない。
 ミルトンかいみじくも言った「古くからの自由の よく知られた 習わしによって」のように。「古くからの」を強調するのは、知的自由が深く伝統に根ざすものであるからである。これが否定されれば、西欧文明は存在さえ危うい。
 イギリスには、あれだけ雄弁な平和主義・非戦論者がいながら、ソ連の軍国主義賛美に対して抗議の声は聞かれない。
 イギリスの戦争は大罪であるが、ソ連には自衛権があるからソ連の戦争は問題ないと考えているらしい。そのような考えは、イギリスよりソビエット社会主義共和国連邦のほうに愛国心を抱いている大多数の知識人、その彼らの臆病な欲望のもたらすものである。
 イギリスの知識人が、かくも臆病で不正実を自己正当化する理由は、(よく聞くので)私の口からも簡単に言える。だが、そういう口実を言うのなら、少なくともナチのファシズムに対して自由を護るというなどというナンセンスは止めようではないか。
 いやしくも自由というものに意味があるとすれば、それは相手が聞きたがらないことをあえて相手に言う権利だからなのである。
 一般国民は、知識人とは違って、いまでも、漠然とではあるが、そのような考えで、行動しているのである。
 自由を恐れているのは自由主義者たちであり、知性にドロを塗りたがるのは、知識人自身である。というのがわが国の状況である。
 私がこの序文を書いたのは、このことをイギリス国民に注目してもらいたいからである。

 この文章の「1945年のイギリス」を「2010年の日本」に置き換え、「ソ連」の代わりに「◎◎」を入れ替えても、そのまま通用する。

 20世紀の歴史は、ジイドのソ連観察もオーウエルのソ連批判もまことに正しかったことを証明されている。この事実を受け入れたくない人は、想像よりはるかに多く、この歴史に目をつむって死んでいった著名人の1945年当時の考えで書かれた「名著」の多くは、現在でも聖書として、学界、思想界には脈々と生きている。共産主義の本山ではすでに廃棄されたカビだらけの思想も・・・・。

 ジイドもオーウエルの観察、警告はシベリア抑留と無関係ではない。それどころか、シベリア抑留の90%以上同じ文脈の中にある。

第17回坦々塾勉強会講演要旨(三)

 去る6月5日に第18回坦々塾が開かれたのに、いろいろな事情でいまだに第17回(3月6日)の坦々塾勉強会の報告が遅れがちに行われているのをお詫びしなければならない。

(1) 佐藤松男氏 福田恆存の思想と私
(2) 粕谷哲夫氏 ナホトカ日本人墓地墓参の余韻
         ――抑留の思想戦と知識人の妄言
(3) 西尾幹二 「鎖国」の流れと「国体」論の出現

 以上三つが報告された。(1)と(2)は各講演者のご自身による要約文が提出され、すでに(1)はここのブログに掲示され、修了した。今日から(2)が掲載される。

 (3)は浅野正美氏が上手にまとめて下さったもので、粕谷さんの掲載が終ったら、それにつづけて提出するようにしたい。

 第17回の報告についてはもうすこし時間をいたゞきたい。

「ナホトカ日本人墓地墓参の余韻-抑留の思想戦と知識人の妄言」  (1)

粕谷哲夫

 昨年(平成21年)8月、宮崎正弘さん、高山正之さん、鵜野幸一郎さんと極東ロシア(ウラジオストック、ナホトカ)の旅をした。 その余韻はなかなか消えないどころか、ますます膨れる。

■ナホトカの哀愁

 極東ロシア、沿岸部の中心はウラジオストックである。ウラジオはソ連の極東艦隊の基地で長く外国人の立ち入りは禁止されていた。その時期には、ナホトカは極東ロシアの入口として、そして商港として重要な役割を果たしていた。日本からの旅行者はナホトカのお世話になった。

 東西冷戦の終結で、1992年にウラジオストクが対外開放されると、ロシアの極東地域への投資や開発は、ウラジオストック地域に集中して行われるようになった。極東ロシアの最大のイベントAPEC2012もウラジオストックの先端にあるルースキー島で行われる。

 韓国の現代グループのやっているウラジオストックの<ホテル現代>はまずまずの賑いを見せていたが、ナホトカの<遠東大飯店(ユンドァン)>は、建物は立派で、ナホトカ港を一望する素晴らしい立地にもかかわらず、泊り客はほぼゼロで、営業しているのかいないのかもわからない。

 いまのナホトカにはほとんど見るべきものはほとんどない。うら寂しさだけが残されている。

 ナホトカは狭い町で展望台に登ると港湾全体が見下ろせる。港には、材木輸出船が接岸していた。ナホトカはこの湾を囲む約15kmの湾岸道路が走り、そこから内陸に向かう道路に沿って住宅が展開する構造である。

 湾岸道路から丘側にゴルヤナ通りを登っていくとナホトカの日本人墓地があるはずである。ガイドはこの辺に間違いないというが、墓地はなかなか確認できない。

 在ウラジオストック日本領事館のHPによると、ナホトカの日本人墓地について、「ナホトカ市の日本人墓地(同市ナゴルナヤ通り)では、2004年6月から8月まで4回に亘り厚生労働省が同地にて遺骨収集作業を実施し、524柱が収集された。2004年8月、谷畑厚生労働副大臣(当時)がナホトカ市を訪問し、厚生労働省による遺骨収集作業現場等を視察した。区画内には日本国政府により石碑が建立されている」とある。

 遺骨はすでに3年前に収拾を終わっていたためか、墓地は草ぼうぼうのまま放置され、しかもせっかく建てた石碑も台座も荒らされ、チェーンは切られ、信じられない荒廃ぶりだった。廃墟のようであった。これは一同にとって、大変なショックだった。このショックは長く尾を引いた。

 ナホトカは、シベリアに抑留されていた60数万人の日本将兵が日本へダモイ(帰還)する最終関門である。すべての生存者はここに集められた。ここから舞鶴に帰還した。ナホトカにきてもなお帰国の保証はないが、ナホトカに来られなければ、帰国は絶望的である。ナホトカはいわばダモイという漏斗の先端のような港である。

 岡崎渓子氏の 『シベリア決死行』 にはこうある。「・・・日本人捕虜たちが憧れ続けて果たせなかった夢、『ナホトカから船で日本に帰る!』。ナホトカは凍土に踏み込んだ日本人全員の希望の地であった。あのネーベルスカヤラ、ノボチェンカの墓場もなく草むらに無念の思いで眠る日本人の霊たちに私は約束したのだ。「私について来て! 必ずナホトカに行き、日本海を見せてあげる」と。死霊が相手でも約束は必ず守る・・・」。

 彼らにとってナホトカは、地獄の出口にして天国への入口であった。ナホトカは世界中で最も重要な港であり、もっとも重要な地名なのである。シベリア抑留記を読めば読むほど、単なるナホトカではない。ナホトカの意味は膨らんで哀愁は強まるばかりである。

 ナホトカの最終帰国審査で病気とされた兵士は強制的に入院させられる。ナホトカ日本人墓地はその病院で亡くなった兵士たちの墓地である。百里の道を九十九里まで来てあと一里が足りずに帰国が果たせなかった者たちの痛恨の墓である。目前に日本海を見ながら、船に乗れなかった無念の兵士たちの墓である。

■丸山国武氏のナホトカ590病院の追想

 そういう地獄を生き抜いて日本に帰ることが出来た、丸山国武という、大正15年生まれの小学校出の当時22歳の若者のナホトカでの体験記録を偶然ネットで見つけた。ナホトカの事情をよく書いているのでエッセンスを引用する。

* ナホトカには日本人捕虜を集団帰国させるための業務を扱う四分所あり、帰国審査の第一分所から、週国体木の第四分所に移される。第四分所までくれば帰国は保証される。

* 民主化されていないと判定されれば、ここには入れず、反動としてシベリア再送になる。

* この収容所の勤務員は、いわゆる日本人積極分子(アクチーブ)でソ連の虎の威を借りる狐で、威張り散らしていた。

* ナホトカに来る直前のウオロショフの零下20度以下の作業で両手両足が凍傷にかかった。シベリアでの凍傷は手足を切断しないと助からないケースもあった。それでも日本に帰りたい一心で凍傷そのものは恐れなかった。ソ連兵の監視を逃れるために戦友と戦友の間に肩を借りながら十一文半の大型編み上げ靴をはいて各分所をごまかして通過できた。

* 第一分所、第二分所と通過して第三分所に移されたとき、ソ連憲兵の調査が入った。「凍傷患者がここに紛れ込んでいる」「そんな患者を帰国させたら米国にいい口実を与えてしまう」「早く患者を探せ」「見つからなければ全員帰国取りやめだ」と拳銃をかざしながらわめきたてた。

*自分の問題で、隊全体の帰国が遅れてはいけないと思って、「凍傷患者は自分だ」と丸山は名乗った。戦友たち全員は乗船帰国が出来た。

* 自分は第一分所に逆送され、そこで診察の結果、即刻、市内の第五九〇病院に入院させられた。病院はナホトカ港から10キロ離れた丘陵地帯のふもとにある。病院といっても建物も古く、医療施設というより収容所の一種であった。

* 戦勝国である旧ソ連は何をするか、わかったものではない。国際条約を無視して殺されることもある。

* ここで死んではならない。 「死んではならない。何としても生きて祖国の土を踏まねばならない、何とか生きよう」

* 病院は人手不足で、病人にも使役が命じられた。足が痛く作業に出されたらたまらない。両足腐敗で切断の可能性もある。軍医の診察のたびに「イタイ イタイ」と大声をあげて使役や作業は回避することができた。

* その甲斐もあって、退院できた。退院後ハラを決めて、この病院で働くことを決心する。どんなに嫌な仕事でも積極的に先頭に立った。おもに死体運搬埋葬に従事した。

* 同病院では開院以来約500人の日本人捕虜が死亡したそうだが、ほとんどが栄養失調、赤痢、下痢、肺結核などで、作業中の転落事故死体もあった。

* 墓地は、病院から2キロの丘の中腹にあり、ナホトカ港がよく見えた。海が見えれば望郷の念が募るが、戦友の供養にもなると困難な埋葬作業にがんばった。

* 墓は、死んだ同僚が安らかに眠れるように、自分が実際に横になって苦しくないか試しながら、掘っていった。

* 病院で死者が出ると、かならず解剖が行われた。午前中の墓掘りを終わって、待機している自分に埋葬指示がくる。

* 死者は丸裸のまま埋葬するが、これはソ連という国の習慣なのか、捕虜だからなのか?病院長と交渉して、旧軍隊の軍衣袴を分けてもらって着せて埋葬することが出来るようになった。遺体を担架で墓地まで運ぶ途中で、よくソ連の市民と出逢ったが、われわれが泣きながら担架を担ぐのを不思議そうに見ていた。なぜ泣くのか?と聞かれた。こちらの説明には納得いかないふうだった。「死んでしまえば強制労働から解放されるので泣くことはないではないか、なにも君たちが泣くことはないではないか」ということだった。何事もなかったように彼らは知らぬ顔で通り過ぎて行くだけだった。

* 「たとえ肉体は滅びても、魂だけは日本に飛んで帰って肉親のもとに傍に行ってください」と祈るのである。

* ソ連兵にも信頼されるようになり、港まで生活物資の受け取りに行くこともできた。監視も緩んだ。「お前は若いのでソ連の女性と結婚してはどうか」と勧められたりもした。ナホトカ港には多数の日本人捕虜が岸壁や道路で作業をしていた。

* 平和なこの病院にも民主グループの一団が乗り込んできて共産主義の学習が始まったことにも嫌気がさし、許可を得て病院船・高砂丸で帰国した。昭和23年9月11日に舞鶴に到着した。

 ナホトカの哀しさは、ウラジオストックに「繁華」を奪われただけではない。60万人のあってはならない苦しみは凝結しているからである。

 丸山国武さんが遺体を運んだという日本人墓地は、われわれが墓参に訪れた、ナホトカ港を見下ろす丘の中腹にある、ナゴルナヤ通りのもののことであろう。

 ナホトカの日本人墓地はたとえ遺骨が回収された後でも、スターリンの暴虐と日本人の受けた史上最大級の不条理な恥辱を、そしてシベリアの極限状況で起きた日本人による日本人いじめを、そして日本海の身に危険のまったくない、安全な此岸で抑留者たちを当然の報いといって冷淡な視線を浴びせた、今は亡き学者や進歩的文化人の無知と誤謬を忘れてはならないのである。

 極東ロシアの旅から帰って、ナホトカを考えることは、いつの間にかシベリア抑留を考えることと同義になってしまっていた。

(つづく)
 

第17回坦々塾勉強会講演要旨(二)

第17回坦々塾勉強会講演要旨 平成22年3月6日(土)

講師 佐藤 松男
演題「福田恆存の思想と私」
(年号はすべて昭和で記載してゐます)

Ⅲ 国家を超える価値―T.S.エリオットとの出会ひ

 55年、清水幾太郎「日本よ国家たれ 核の選択」の国家論は、個人を超えるものとしての集団を認めるが、集団を超える個人を認めない単なる戦後の個人暴走の反動でしかないと清水氏を批判。

 エリオットは1939年に「クリスト教社会の理念」の中で、国家に対する忠誠と教会に対する忠誠は、後者がいつも優位にあるとしてゐる。また、「文化の定義に対する覚書」の中で展開した教育論を補充するため、エリオットは1950年にシカゴ大学で「教育の目的」と題する連続4回の講演を行ひ、「善き国民は、必ずしも善き個人(人間)ではない。善き個人(人間)は、必ずしも善き国民ではない。」と述べてゐる。かうしたエリオットの考へを援用し、国家を超える価値を我々読者に対してなんとか解らせようと訴へかけてゐる。我々は、軍人でなくても善き国民として個人を超えるもの、すなわち国家に忠誠心を持たなければならない。善き個人(人間)として、国家を超えるものすなわち良心、歴史、自然の源泉に忠誠心を持たなければならない。善き個人は、良心に賭けて国家に反抗する自由がある。たとへその自由が認められてゐない制度の下に於いても。このことを考へるにあたつては、ソポクレスの「アンティゴネ」が我々にヒントを与へてくれる。国家を超える価値の模索は、福田先生の終生のテーマであつたが、29年の「平和論の進め方についての疑問」をきつかけとした平和論争の際にも、既に明確に主張されてゐた。「個人が国家に反抗する制度ではなく、さういふ哲学が最も必要であると思ひます。私の平和論争の発想の全てはそこにあります。」(「個人と社会」)福田恆存が世の保守主義者、現実主義者とは明確に異なる所以である。

Ⅳ 文民統制といふこと

 福田先生にとつては、日本の近代化といふ問題が物を書き始めて以来、終始、心のうちに蟠り続けてきたのであり(全集第五巻の覚書)、38年「軍の独走」等を緒として、55年の「日本よ、汝自身を知れ< 軍事政権といふこと>」に至るまで、日本近代化達成における軍の役割と戦後最大のタブーである軍事政権について、執拗に論じ続けた。以下自説を交へつつ、その骨子を紹介する。

 駐日大使ライシャワーが、明治憲法下において、軍が文民政府から独立してゐなければ、日本は実際に歩んだ道と異なる道を歩んでゐたらう、つまり満州事変も大東亜戦争も起こらず、したがつてその敗北もなかつたであらうと言つてゐたことに対し、福田先生は、軍が文民政府から独立した、所謂軍事政権でなかつたら、ヨーロッパ列強の侵略にあひ、シナのやうに半植民地化されるか、ロシア革命が飛び火し、日本は共産化されてゐたかもしれないと批判した。軍が日本の近代化に果たした役割は極めて大であり、同時にその即物的生き方と過酷な訓練のため、軍こそが日本の近代化の代表選手でもあつた。

 54年の森嶋通夫との論争に於いても、わけの解らぬ西洋からの「借り物の言葉」の最たるものとして、「文民統制」を取り上げ詳述してゐる。戦後日本は文民統制ではなく、軍排除の文民独裁であり、その証拠に安全保障会議には、首相、副総理をはじめ主要各省大臣が構成メンバーであるが、制服組のトップである統合幕僚長がメンバーから除外されてをり、首相が必要と認めた時だけ出席し、意見が述べられるにすぎない。ヨーロッパでは、大統領または首相のもとに制服組のトップである統合幕僚長は国防大臣と対等で直属してをり、閣議や国防会議に出席する権限と責任があり、時には直接大統領(首相)に意見を具申し得る。アメリカに於いては、オバマ就任翌日に安保会議が開かれたが、メンバーは国防長官、統合参謀本部議長、中央軍司令官、駐イラク司令官等、ほとんどが制服組で占められてゐる。日本に於いては、制服組が排除されてゐるだけでなく更に、防衛省には制服組に対する目付役、監視役として、警察庁・財務省などの出向官吏でほとんど占められてゐる内局が存在してゐる。

 文民の容喙が軍政だけでなく軍令まで及べば、楠木正成の故事にもあるやうに、湊川の敗北に繋がることになる。

 福田先生は孤立を怖れず、空疎な言葉と観念の氾濫する時代風潮を常に批判し続けてきた。昭和55年、その時既に論壇の主流になつてゐた浮薄な保守的論調に対しても、「同じことが言へるやうな風向きになつたからそれに唱和するといふのが、私の嫌ふ戦後の風潮である。」(「近代日本知識人の典型清水幾太郎を論ず」)と斬り捨てた。

資料 西尾先生と福田先生の対談抜粋が過去の日録で読めます。

http://www.nishiokanji.jp/blog/?m=20041111

文責:佐藤松男

第17回坦々塾勉強会講演要旨(一)

 第17回坦々塾勉強会講演要旨 平成22年3月6日(土)

講師 佐藤 松男
演題「福田恆存の思想と私」
(年号はすべて昭和で記載してゐます)

Ⅰ 評論―D.H.ロレンスのアポカリプス論との出会ひ

 福田先生は「私に思想といふものがあるならば、それはこの本によつて形造られたといつてよからう。」(57年 中公版「黙示録論」訳者あとがき)と述べてをり、卒論もロレンス論であることから、先生にとつてロレンスは教祖であり、「アポカリプス論」はバイブルであつたと言つてよい。従つて、先生の考へをより深く識るためには、ロレンスの「アポカリプス論」を解剖する必要がある。
アポカリプス(新約聖書「黙示録」)は弱者の歪んだ自尊と復讐の書といはれる。世には二つのキリスト教があり、一つはイエスに中心を置くもので、互ひに愛せよと無我の同胞愛を説く愛他思想である。

 もう一つは、ヨハネの黙示録に中心を置くもので、強きものを打倒せよ、貧しきものをして栄光あらしめよとの教へであり、弱者の支配欲、権力欲等の我意(エゴイズム)である。

 権力欲は金銭やパンより人間にとつてアダム以来の根源的な欲求であり、決して消滅することはない。しかし、イエスはこのやうなエゴイズムを絶対に認めようとはしなかつた。だが、エゴイズムはいくら否定されても消滅することはないため、否定されれば地下に潜り、しかも、死に絶えることなく、大義名分といふ美名に覆はれ、地上に再び姿を現す。かうして、エゴイズムを大義名分に擦り替へる自己欺瞞が生まれることになる。

 福田先生の評論における自己欺瞞を衝く視点は、かうしたロレンスのアポカリプス論から学んだものと言へる。

 自己欺瞞の具体例と脱却について
(1) 「文学と戦争責任」(21年11月15日)
戦争を否定するイデオロギー(大義名分)と個人生活を破壊していく戦争への不平(エゴイズム)と、ぼくはぼくのうちのこの二つの要素にあくまで同席を許すまいとした(擦り替へ、混同)。

 他に、「一匹と九十九匹と」、「現代の悪魔」、「平和の理念」等で自己欺瞞の具体例を紹介

(2)福田先生は、自己欺瞞からの脱却方法として44年、「諸君」創刊号に「利己心のすすめ」を著し、「利己心に徹したらどうか、さうして初めて人は利己心だけでは生きられないといふ事実を痛切に感じるであらう。」と説いた。

Ⅱ 芸術論、人間の生き方―O・ワイルドとの出会ひ

 「芸術とは何か」の中で初めて論じた「演戯論」は「汝自身たれ」といふワイルドの言説に基づいて展開されてをり、更に、福田先生の最高傑作である「人間・この劇的なるもの」に於いても、「舞台ではハムレットがハムレット役を演じてゐるが、現実の人生では、ローゼンクランツやギルデンスターンがハムレット役を演じさせられてゐる。」とのワイルドの考へを基に、現実の人生は、ままならぬが故に、我々が欲してゐるのは、自己の自由ではなく、自己の宿命である。自分が居るべき所に居るといふ実感―宿命観とはさういふものであるとの福田人間観の集約が語られてゐる。

 「日米両国民に訴へる」に於いても、「結婚の第一の基盤は相互の誤解である。→結婚の最大の障害は理解である。」とのワイルドのエピグラムを引用し、日米関係といふ結婚においても、相手を理解したとは思はず、自己の貧弱な理解力の中に相手を閉じ込めず、相互に相手方を「敵」以上に始末に負へぬ「敵」と見做し、その実情に関する知識、情報の収集に努めなければならないとした。

 このやうに見てくると、福田恆存へのワイルドの影響は、決して小さくはない筈だが、ワイルドとの関連について言及した福田論を未だ寡聞にして知らない。

つづく

坦々塾(第十六回)報告

 12月12日に坦々塾が開かれ、最初に会員の柏原竜一さんの「日本のインテリジェンスの長所と弱点」と題する講演があった。以下に同会員の浅野正美さんによる要約文を掲げるが、その前にひとこと申し上げたい。

 浅野さんの聴き取り理解能力の高さに私は舌を巻いている。彼は録音機も用いず、メモはすると思うが、講演を耳で聴いてたちどころに理解し、記憶し、これだけの再現、復元を果たす能力は何処から来るのだろう、と私はかって私の講演のときにも感じた驚きを書き添えておきたい。私なんかは人の話を集中して聴く力がなく、注意力散漫でどうにもならないのが実態だから尚更感心するのである。 

第16回坦々塾

 12月12日(土)に第16回坦々塾が行われました。

 第一部は「インテリジェンスの長所と弱点」という演題で、柏原竜一さんにお話いただき、後半の第二部は西尾先生と平田文昭さんの対談集「保守の怒り」を読んでの討論会を会員全員で行いました。

 参加人数は46人です。

 今回は、第一部の報告文を浅野正美さんが書いてい下さいましたのでご紹介いたします。

       坦々塾事務局 大石 朋子

ゲストエッセイ 
浅野 正美 
坦々塾会員

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  坦々塾勉強会報告

第一部

「インテリジェンスの長所と弱点」 

    発表者 坦々塾会員 柏原 竜一

 「世紀の大スパイ 陰謀好きな男たち 洋泉社刊」は、デザイン、装丁が良くできており大変気に入っている本である。

 出版にあたり、「明日への選択」に掲載した原稿に変更を加えた。コミンテルンに関する記述を、あっさりしたものから大幅に増強した。

 ゾルゲ、GRU、赤軍情報部、といった防諜機関が活躍した1920年~30年代ロシアでは赤軍情報部が大本にあった。トロツキーが作った赤軍の、革命前後における活動を描いた。

 当時ニューヨークに滞在していたトロツキーは、祖国への帰国をアメリカ側に知られ、一時身柄を拘束される。そのときウィルソンの腹心であるカーネル・ハウスは、イギリス情報部員ワイズマンの工作により、トロツキーをロシアに帰す。帰国したトロツキーは、ロシアで革命を起こす。

 トロツキーはなぜニューヨークにいたのか。彼は当地でユダヤ人社会のネットワークを利用して資金集めを行っていた。

 当時イギリスのファビアン協会は「共産主義こそ明日の世界」という認識を持ち、イギリス国民の間にも、トップから大衆にいたるまで、そういった考えがかなり広く浸透していた。イギリスにおいてGRU研究が少ないのは、当時のそうした状況が露呈することを避けるためではないかと思われる。

 東京でゾルゲが拘束されることになった原因の一つに、無線の傍受があげられる。おかしな無線通信をキャッチした日本側は、その無線を追いかけることでゾルゲの居場所を捉えることに成功した。オランダも同様の手口でナチスを摘発していたが、イギリスにはそういう体制がなかった。イギリスはドイツに内部侵食されており、ドイツにとって不都合な書類の改竄が行われていた。

 「インテリジェンス入門 PHP刊行」は、時間的な制約もあり、各章立てがうまく繋がっていない。また、結論があいまいで、最後の数ページで展開しただけという不満があったが、その後、Willに掲載された加藤洋子氏の論文を読んで、自著にはある日本人のかつての理想がなく、私の本が良い本だということを、改めて感じた。

 フランスは、ドイツ(プロイセン)がビスマルクの時代に、普仏、仏墺という二つの戦争を戦い敗れた。フランスはこの反省に立って、プロイセンに対抗するためのフランスインテリジェンスを創設、本格的なスパイ養成が始まる。

 フランスの弱みは、歴史的に政治がしっかりしていないことにある。第三共和制以降、首相が頻繁に交代し、議会も不安定であった。その弱点を陸軍が支えたが、情報が陸軍に集中することで、ねじが外れて(軍の暴走)しまう。政治がしっかりしていれば防げたことである。フランスの暗号解読技術には一日の長がある。また、世界で始めて郵便制度を発明したフランスは、郵便局に世論調査、政敵のチェックの機能も持たせた。19世紀後半には通信傍受が盛んになる。

 イギリスは、情報大国というイメージがあるが、それは日本人の思い込みであり、19世紀後半から第一次世界大戦までは大したことはなかった。戦時のインテリジェンス能力は、フランス>日本>イギリスという状況であった。ただし、イギリスは政治がしっかりしていた。植民地であるインドの反乱がないことが前提条件であったが、情報の使い方は上手だった。イギリスは植民地に対する求心力が優れており、情報をいかに賢明に使うかということに関して非常に長けていた。

 わが国は第一次世界大戦を陸運中心に戦い、日清、日露までは立派な情報収集体制があった。その日本のことも本には書きたかった。インテリジェンスの問題は国際比較でやらないと意味がないのである。フランス、イギリス、日本はそれぞれに、インテリジェンスに対する取り組みが違う。特にわが国の特徴として、国龍会、玄洋社といった民間団体が活躍した例は珍しく、同様の組織はイギリスにもあったが、その規模、質において他国をはるかに凌駕するものであり、誇るべき内容である。

 そこに見られるのは、高邁な理想、天下の義に突き動かされる志である。地位も名誉も求めず、海を越えて大陸浪人となり、本気で中国を良くしようと行動した。自分の理想を中国革命で達成しようとした。これが当時の右翼であった。

 良しと考えたことを発言し、行動することが必要である。日本のために行動することが必要である。

 加藤陽子、半藤一利に共通して見られることは、国内事情だけをミクロに観察し、こいつが悪い、あいつが悪いと犯人探しをしていることである。驚くべきことに、彼らは三国干渉の内容を知らない。思考がドイツ外交のたちのわるさにまで敷衍しない。ドイツの政治哲学はマキャベリズムである。日本の近代史を、外国の事情を無視して語るという愚を冒している。

 日英同盟の崩壊は、中国を巡る問題だけが原因ではなかった。中村屋のボーズはインドで総督暗殺未遂事件を起こした反政府活動家であった。こともあろうにそうした男を同盟国である日本人はかくまった。当然イギリスは何事だと考える。このときすでに日英の対決は始まっていたといえる。当時の日本人は植民地を持つ西洋か、アジアかと悩んだ末にアジア(ボーズ)を取った。歴史に向かうときには、こうした観点から見つめることが必要である。また、人種偏見に対する視点がない。ルーズベルトはロシア嫌い、新中国とフランクリンは日本が嫌いであった。さらに蒋介石はキリスト教原理主義者であった。

 こうしたキリスト教原理主義+人種偏見というものが、世界史の流れにあり、1920年~30年のアメリカのおかしな行動も、こうした背景によって公式の意見となったと考えると理解しやすい。

 テロ対策で遅れをとっているイギリスの専門誌に、「インテリジェンスとはグローバリズムの犠牲だ」という記事が載った。過去の大きなテロ事件は、アメリカ、イギリス、スペインで発生しているが、インテリジェンスが確立したフランスでは起きていない。個人管理の徹底さは、この国にプライバシーというものがないといっていいほどである。人は簡単に逮捕される。

 今後の方向性として、21世紀はどの分野を重視すべきか。

① 経済インテリジェンス

② IT、暗号

③ 対テロリズム

 これらの命題をわが国は具体的に、どのように取り組んでいったらよいであろうか。

 経済インテリジェンスにおける日本の在り方。今後わが国は人口が減少し、経済は停滞することが予想される。ただし潤沢な資金がある。

 過去、19世紀末から1930年にかけてのフランスは、次第に台頭するドイツという問題を抱えながら、露仏同盟を結んでロシアに投資をした。当時のフランスは投資大国であった。

 同じように日本も投資立国を目指してはどうか。投資情報を収集、分析することは政治力、外交力を必要とする。

 世界の重要課題である環境問題では、植生の減少が挙げられる。現在わが国は国内に市場はない。第三世界の開発は、乱伐を引き起こしている。そこで、わが国は植林を行い底から利益を得る。満州の歴史とは、インフラを整備し、近代化を進め、教育を普及した。

 同じことを他国に対してもやってよいのである。他人を豊かにして、自分も豊かになるのである。アングロサクソンの海賊的強奪とは手法を変えるのである。

 日本に必要なものは、帝国主義的経営ではなかろうか。

 海外旅行をすると気がつくように、国によって発展の度合いはまちまちである。マレーシアはイスラム文化の国ではあるが、高速道路をはじめとしたインフラは日本とそっくりである。香港の近代化、東京以上の発展は大陸からの膨大な投資によって成った。

 ジャパン・インデックスは、日本に近い国に順位を付けて、その順番に従って投資をすれば良い。日本的なものを世界に広めないと世界は真っ黒になる。今こそ世界を日本にするときである。

 今までの日本は、おとなしくアメリカについていった。わが国の犠牲の上にアメリカの繁栄があり、日本国民は損をする方向にしか動かない。また、それに対して「No」といえない。あえて暴論を言えば、民主党はもっとアメリカに抵抗して、普天間も、もっともめたらいい。民主党が二、三年引っ掻き回してわが国が国際的に孤立したら、そのときこそ日本人が一人で立ち上がるチャンスである。今までがアメリカに頼りすぎていた。そういう意味では、今はいい状況ではないか。逆説的ではあるが、民主党に期待したい。

        文責:浅野 正美

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坦々塾(第十五回)報告(三)

ゲストエッセイ 
浅野 正美 
坦々塾会員

道元禅師『正法眼藏』と私        水島 総

「道元との出会いで人生を生きられた」。水島氏は今回の講義をこういって語り始めた。

 氏の多方面にわたる行動は、改めて紹介するまでもない。一日本人として、祖国の名誉回復を願い、歪んだ歴史観に果敢に挑み、心ある多くの国民を共に行動に駆り立てて来た。そんな、情念的な行動家ともいえる水島氏であればこそ、人間としての深い苦悩があったのであろう。学生時代はドイツ文学から学び、トーマス・マンに傾倒する。やがて日本に、そして道元禅師の正法眼藏にたどり着いたという。

 キリスト教、浄土真宗は空間的意識の宗教である。禅とは、鎌倉仏教とは何か。禅の本質は時間の宗教である。ここでいう時間の感覚はヨーロッパとは違う。キリスト教徒は、つねにより良い場所を求めてさまよう。ここではないどこかにいいところがあるという意識をつねに持ち、拡げようとする。その意識は宇宙にも向けられている。

 氏はカール・ブッセの有名な詩「山のあなた」がそれをよく表しているという。

山のあなたの空遠く
幸住むと人のいふ 
噫われ人ととめゆきて
涙さしぐみ、かへりきぬ
山のあなたになほ遠く 
幸い住むと人のいふ

 易姓革命もまた、空間の移動と拡大同様に、時間が断絶する。禅はまったく軸が違う。空間的な拡大や移動を求めない。氏は台湾の少数民族を訪ねて、そこに漂う感覚に禅に通じるものを見た。彼らは母系社会を形成し、山を隔ててそれぞれが違う文化を継承している。そこには、自然、時間、祖先を共有する生活があった。決して山を越えて領土を拡張しようという意志はない。あるいはより良い新天地を求めようとは考えない。

 般若心経における色即是空の色とは物質であり、空とは時間であり悟りである。自分が時間になりきることである。日本人が失った時間、日本の禅、空解釈を変えなくてはいけない。

 以下はテキストからの引用である。

「苦集滅道」 四諦(したい) これまでの仏教の教え。「苦」この世は苦しみ「集」欲望があるから「滅」それを滅すれば「道」悟りへの道が開く

禅の教え 「苦」頭で考えた思想・イデオロギー、理想・価値 「集」感覚でつかもうとするが、ものであり物質を基礎に考える(科学的見方・唯物論)価値の喪失 「滅」現実の物と心を双方認め、行為によってそれを示していく。(中道)正しい行いが人間生活の中心 座禅への道 この場所 現在の瞬間の行為 人間本来の姿に戻る 「道」宇宙全体の時空との関連・連動 悟りへの道が開く(時間軸に生きることへの移行)

「集」をヨーロッパでは唯物論や観念論からアプローチするも、未だに解決できない。

「滅」プラグマティズム(行為)、座禅につながる。

「道」行為に時間が入ってくる。物事すべてに時間を入れる。

となふれば 仏も我もなかりけり 南無阿弥陀仏の声ばかりして 一遍

 ここでは結句に「声ばかりして」とあるため、聞いている自分がそこにいて、「仏も我もなかり けり」が嘘になってしまう。未決。

 となふれば 仏も我もなかりけり 南無阿弥陀仏なむあみだぶつ

 これが悟り(空)である。

静かさや 岩にしみ入る 蝉の声  芭蕉

空間と時間を融合し、岩を擬人化している。ここに日本の非合理がある。

日本人の心に肉体化していた時間(もののあわれ)が減少していった。座禅はそれを再発見する道ではないか。

神道の禊ぎ、祓いも大乗の本覚に通じるものがある。本覚の悉有仏性(ことごとくに仏性はある)とは、あらゆる存在は仏性で、そのまま仏のいのちであり、仏のいのちでないものはない。道元の解釈では、過去、現在、未来という時間もまた同じである、というものである。

存在(物質)と時間は一緒である。存在が時間の上に乗っているのではない。これは近代合理主義では理解できない。

幕末における廃仏毀釈とは、近代合理主義に基づく、我が国が継承してきた時間制の喪失であった。

明治維新において我が国は空間を導入した。これは日本にとって、時間と空間による股割き状態であった。

明治の日本人は夕焼けを夜明けと勘違いした。やがてやってくる長い夜に気がつかなかった。日本人が失ったものは、自分と他者を差別しないという意識である。日本人が時間を取り戻すことができるか。できなければ、欧米キリスト教、中国の物質世界に圧倒されるであろう。

皇位の継承を水と皿(肉体)で捉える。皿は水を受け取った。この水こそ時間である。神武天皇から受け継いだ時間である。時間軸を失った国体論は、形としてとらえられた。

インディアンの特徴として、時間が自由であるということがあげられる。そこには死んだ人間も一緒にいる。日本でも、先祖霊がお盆に帰る、仏壇に仏様がいると考える。仏性は過去、現在、未来が一緒であり、いつも輝いて、瞬間瞬間を生きている。時間を取り戻すとは、大らかさを取り戻すことである。近代の流入によって失ったものがあるが、日本人には、DNA、基礎があることを思い出す必要がある。日本人がそれを世界に発信する必要がある。台湾のパイワン族も、インディアンもそういう時間を生きている。広がりを求めず、過剰を求めない。そこで自足している。一匹の猪をみんなで分け合い、次に食べる人のためにも、余分な狩りはしない。蕩尽は空間が産み出す。皇室が持っているのは時間。時間は自足している。

 ここから水島氏は、トーマス・マンを通して近代ヨーロッパについて語る。19世紀リアリズム小説である「ブッテンブローク家の人々」は、作者が鳥の目を持って俯瞰的に描いた小説である。ここでは、登場人物も物語も作者の掌中にある。その後第一次世界大戦が起き、兄のハインリッヒとの論争を行い、この戦争を文明と文化の戦いであると意識する。三島由紀夫の文化防衛論は、この論争に影響を受けているのではないかと指摘があった。

 「魔の山」「ヴェニスに死す」になると明らかに文体が変わる。登場人物と一緒に歩くようになるのだ。

 「ヴェニス」では、ヨーロッパ近代の終わりを感じた。ここに登場するギリシャの美少年とは、ギリシャ文明の象徴、外見は完璧な美を保ちながら、一点だけ歯に欠陥があった。内側は腐っている。そのことにより彼は、にせ者となる。内部に病を持つことが、近代ヨーロッパを象徴している。主人公の老作家は、少年に魅せられ、厚化粧をし、付きまとう。このさまよい歩く姿こそ、空間に呪縛されたキリスト教世界の比喩である。水島氏はこの様子を、みっともないヨーロッパの姿、と非情に辛辣に表現した。村上春樹が同じことをやっている。こっちが駄目ならあっちと、本質的にはまったく同じである。ただし、水島氏は村上春樹は民主主義者の中では現代最高の作家であるという。意識的なコスモポリタンではあるが、最高でありしかも限界でもあるという。

 冒頭触れたように水島氏は果敢な行為の人である。そんな氏を突き動かす座右の銘が最後に披露された。

典座教訓 生死事大 無常迅速 私がやらねばだれがやる。いまやらねばいつできる。

石はいつでも石。しかし、磨いて磨いてぶつけ合わせれば火花となり、遼火となって野を焼き尽くす。泥石では火花は出ない。自分を磨くことがすなわち行為である。

 講演後、西尾先生から「私も火花を散らす存在でありたい」、という感想があった。さらに、もう一度「時間」を取り戻そうとしたのが大東亜戦争ではなかったか、不合理そのものが日本の過去だった、ともいわれた。

 この言葉については、是非皆さんも一緒に考えていただければと思う。特に、散らした火花が遼火となって野を焼き尽くす、その炎を起こすために必要なことは、言葉(火花)を受けた私達が、それをどう受けとめるのかにかかっていると思うからだ。

 三人の先生方の講義は西尾先生の言葉通り「ずっしり重く坦々塾ならではの集中した時間」でした。私のつたない記録ではあの臨場感はとても伝え切れておりません。理解や表現に講師の真意と異なる点も多くあると思いますが、それらすべての責任は私にあります。特に宗教の問題に関しては基礎的な素養がなく、私にとっては困難な作業でしたが、このような機会を与えてくださった西尾先生に深く感謝申し上げます。

 なぜ御皇室は存続し続けたのか、日本にはなぜキリスト教が根付かなかったのか、ということが私の最近の関心事となっておりますが、今回の講義でその問いに対する一つの方向性を見出していただいたと思っております。本当にありがとうございました。

 今回の記録作成にあたって、過去の諸先輩方の文章を拝読し、その構成力、文章力、そして何よりも文章の土台となっている教養の深さに改めて圧倒された次第です。

文責:浅野 正美

坦々塾(第十五回)報告(二)

ゲストエッセイ 
浅野 正美 
坦々塾会員

 開会にあたり西尾先生から短いご挨拶があった。「自民党は滅びるだけ滅びよ。つぶれるだけつぶれよ」。

 世界金融資本の陰謀と日本の近現代史   福地 惇

 最初に新しい歴史教科書の採択率が前回の0.4%から今回は1.6%へと、四倍に大飛躍したことが報告された。

 現在世界の歴史で常識とされていることの多くは、作為を持って捏造されたものである。例えば、一般的な日本人の自国に対する歴史観をざっと書けばこうなる。明治日本は戦争好きで、総増上慢となり、朝鮮は36年間苦しめられた。東亜と中国を支配しようという野望に燃え、真珠湾をだまし討ちした卑怯な国家であった。そんな卑怯で極悪な日本人を懲罰するためにアメリカはやむなく戦った。原爆の投下は、双方で数百万人の命を結果的に救うこととなった。坦々塾の塾生は、自ら学び考えることができるので、こんなことは信じないが、大方の国民は、これがまさしく歴史の真実だと信じている。ただし、常識は真実に非ず。歴史は常に歪曲と偽装に満ちている。

 そもそも、現代の欧米の歴史認識が異常であり、それが日本にも反映している。公認の歴史、物語の本筋は国際金融資本が作成し、それにつながる御用学者が「正史」を書くという仕組みになっている。

 国際金融資本の陰謀、詐欺、策略は隠されており、都合の悪い資料は破棄され、決して表に出ることはない。

 第一級の資料は隠されるため、実証史観はできない。残されるのはきれい事ばかりで、そうして残された一次資料を都合よく使って、歴史が改竄される。コントロールセンターは国際金融資本の黒幕で、ロンドン、ニューヨークに本拠を置き、全世界の都市に拠点と支部を持つ。世界銀行、IMF、各国中央銀行、政府も支配下にある。組織はユダヤ人が中心となる。ユダヤ教の教えでは、非ユダヤ人は禽獣の類であり、ヒツジやラクダの方が、清い。全分野に支配力を発揮し、目的のためには手段を選ばない。そのために歴史を改竄する。日本も被害者である。

 第一次・第二次大戦は国際金融資本が作り出したはめられた戦争であった。国家を弱体化させる方法は、言語、儀礼、歴史の記憶を消すことである。文化的に破壊された跡には生きる屍としての肉体のみが残り、やがて国家は消滅する。地域、家族を形骸化することで、これらが常識を育てる場ではなくなり、学校、巨大メディアがそれに変わった。教育とメディアを掌握する者が真の権力者となる。こうして世間の常識と大衆社会の歴史認識を作っていく。

 力(パワー)は武器である。独裁権力(パワー)による政治的実験が共産党国家の建国であった。また、パワーの源泉はマネー、資源、金融である。日本人は、好意には好意で応えるが、ユダヤ人に恩返しの概念はない。ユダヤ人には、ユダヤ人を救った美談は通用しない。まさに人間にあるまじき民族である。ユダヤの秘典、聖典タルムードには、「非ユダヤ人の最良の部分を抹殺せよ」とある。また、目的のためには手段を選ばないため、異教徒は殺しても構わない。ヨーロッパの歴史は、ユダヤ対キリスト教徒の歴史であった。ユダヤは政権中枢や王家にまで寄生し、搾取を繰り返した。最初寛容であったものが、我慢の限界を超えてユダヤ人を迫害する。外国で文化や慣習になじもうとせず、中世のヨーロッパは、ユダヤへの抵抗記といってもよい。ユダヤ教の基本が、選ばれた民、世界を支配する民である。目的達成のためのスパンは、二世、三世、百世、と非情に長い。現在の日本はユダヤにとって、物を作る奴隷である。

 好況、不況といった経済の振幅は、コンドラチェフの波で説かれるように、経済の予定調和と思われがちだが、金融、財政をコントロールすることで作り出している。戦争、革命もまた然り。

 反歴史、反国家を他国、他民族においては画策するが、それらはユダヤの本意ではない。自分たちだけが最後の勝者として生き残るのが最終目的である。

 ユダヤ人は地球人口の一握りであり、コントロールしているのはわずかに数千人である。第一次大戦のベルサイユ条約で、ウイルソンのブレーンはユダヤ人であった。ドイツに天文学的な賠償金を課し、いじめの反動を読み込んでいた。支払い不能な賠償金にドイツは我慢できるはずもなく、第二次大戦のシナリオがここで書かれていたと考える方がわかりやすい。

 ロシア革命も、ロマノフ王朝の圧政があったとするのは嘘であり、事実は善政であった。首都の情報が入らない地方の農民を攪乱し、農奴解放、奴隷解放を説いて内乱状態を誘発した。

 安定した国家はつぶす、こうしてロシア、ドイツ、日本をつぶしてきた。政治の不安定化、弱体化が目的である。現在も、英米有名大学、財団に巨額の資金を提供して、まじめで愚鈍な英米人に対していいことをしていると見せかけて、捏造を繰り返している。

文責:浅野 正美